「対話」 シエナの聖カタリナ

■目次

魂が祈りによって神と一致することについてカタリナの霊魂が脱魂のなかで神に四つの願いをささげたことについて。

神の誉れと霊魂の救いとに対するきわめて大きな望みに悩まされている霊魂は、自分自身を乗りこえて、しばらく、通常の善徳の実行にはげみ、自分に対する神のいつくしみを理解するために、自分自身の認識の独房にこもる。なぜなら、愛は認識に従うものであり、霊魂は、愛しながら、真理に従い、真理をまとうよう努めるからである。自分自身と神との認識にもとずく謙遜で引きつづいた念祷ほど、霊魂にこの真理を味わわせ、光明をもたらすものはない。このように理解し実行した念祷は、霊魂を神と一致させる。霊魂は、望みにより、愛情により、愛の一致によって、十字架につけられたキリストのあとに従うとき、別の自分になる。キリストがつぎのように言われたとき、わたしたちに教えたいと思われたのは、このことではなかったであろうか。「わたしを愛し、わたしの『言葉』を守る者には、わたし自身を示すであろう。かれはわたしと一つのものになり、わたしはかれと一つのものになるであろう」。他の多くの個所にも、同じような言葉を見出すことかできる。この言葉は、霊魂が愛の情念によって別のキリストなることを立派に示している。このことをもっとはつきり示すものとして、思い出すのは、神の使い女の一心から、念祷のあいだ、精神の大きな恍惚状態におちいったとき、神が知性の目の帳を破つて、そのしもべたちに対して抱いておられる愛を観想させてくださつたことを聞いたことである。神は、とりわけ、つぎのように言われた。「あなたの知性の目を開いて、わたしを見つめるがよい。そうすれば、わたしの理性的な被造物の尊厳と美とを見ることができるであろう。わたしが霊魂をわたしの似姿として創造したとき、これに与えた美のほかに、婚礼の服、すなわち無数の真実な善徳に飾られた仁を、まとつた人々を観察するがよい。この人々は、愛によつてわたしと一つになっている。それで、あなたに言いたい。もし、あなたが、この人々はだれかとたずねるならば、わたしは愛の甘美な『言葉』と同じように答えよう。『かれらは別のわたしである。なぜなら、かれらは、自分の意志を脱ぎ棄てて、わたしの意志をまとい、わたしの意志に一致し、これと一つになっているからである』」。要するに、霊魂が愛の情念によって神と一致するということは、きわめて真実である。それゆえ、この霊魂は、もっと雄々しく真理を認識して、これに従いたいと望んだ。そして、人間は、まず自分自身にとつて有益でなければ、すなわち、自分自身のために善徳を所有し、獲得しなければ、その教えにより、その手本により、その祈りによって、隣人のために有益な者となることができないのを考えて、その望みを高め、至上かつ永遠な「父」に、四つの願いをささげた。
第一は、自分自身のためである。
第二は、聖なる教会の改革のためである。
第三は、全般的には、世界全体のため、個別的には、はなはだしい不敬と不義とによっ聖なる教会に反抗しているキリスト者の平和のためである。
第四は、世界の全般的な需要と発生した特殊な状況とのために、神の「摂理」のご配慮を 祈るためである。

この霊魂の望みは、神から世の悲惨を示されると意局まったことについて。

この望みは大きく、連続したものであった。しかし、第一の「真理」によって、世の需要 と、世が動乱と神に対する侮辱とのためにおちいっている危難を示されたとき、さらに高まつた。かの女は、その霊的父から一通の手紙を受け取つていた。そのなかに、神の尊厳に対する侮辱、霊魂の亡び、および聖なる教会に対する迫害による苦しみと堪えがたい悲しみとが述べてあった。以上のすべては、聖い望みの火を掻き立てた。この霊魂のなかには、神に加えられる侮辱について感じる悲しみとともに、神がこれほど大きい悪について配慮してくださるという希望から生まれる喜びがあった。その上、聖体拝領のとき、霊魂は、自分と神との縁をもっと心地よく強め、その真理をもっとよく認識することができるので、そのときは、魚が海のなかにあり、海が魚のなかにあるように、霊魂は神のなかにあり、神は霊魂のなかにあるのだからかの女は、ミサにあずかるために、早く朝になるのを待ちわびた。その日はマリアのであった。朝になったので、ミサの時間に、自分の席に着いたが、望みのためにすっかり苦悩し、自分の不完全さに赤面し、全世界に起きているすべての悪の原因は自分であると考え、聖い正義感によって、自分自身に対し、憎しみと侮蔑とを抱いていた。かの女は、この認識により、この憎しみにより、この正義感によって、自分の過失のために自分の霊魂のなかにあると思われる汚れを清めるのであった。かの女は祈つた。
ああ、永遠の父よ、わたしは、わたし自身をあなたに訴えます。この過ぎ去る時のあいだに、わたしの侮辱を罰してください。そして、わたしの隣人が負わなければならない苦罰は、わたしの罪が原因ですから、どうぞ、その代りにわたしを罰してください。

愛の内的で連続した感情がなければ、限リある業は罪を償うことも、功徳を積むことも、できないことについて。

すると、永遠の「真理」は、この霊魂の望みを捕えて、これをもっと強く、ご自分の方に 引き寄せられた。旧約において、神に犠牲をささげたときは、火が天から降つて、「いと高き者」によみせられたこの犠牲を焼きつくした。甘美な「真理」は、この霊魂に対して、同じようになされた。聖霊の寛仁の火を送り、霊魂が自分自身をささげた望みの犠牲を捕えて焼きつくされた。神は言われた―いとしいむすめよ、あなたは、霊魂がこの世で堪える苦しみ、あるいは堪えることのできる苦しみはみな、もっとも小さい過失さえも、十分に罰することができないのを知つているであろうか。無限の「善」であるわたしに加えられた侮辱は、無限の償いを要求する。それで、あなたに知つてほしいのは、この世のすべての苦しみは罰ではなく、むしろ矯正であるということである。それは、子供が過失を犯したとき、これをためなおすために加えられるのである。事実、霊魂は、その望みによって、すなわち、罪に対するまことの痛悔によつて償うのである。まことの痛悔が過失と罪とを償うのである。あなたが凌ぐ有限な苦しみによってではなく、無限の望みによって償うのである。なぜなら、神は無限であって、無限の愛と無限の悲しみとを欲するからである。わたしは、この無限の悲しみを二重に要求する。ひとつは、その「創造主」に対して犯した本人の侮辱についてである。そしてもうひとつは、隣人によって犯された侮辱についてである。愛の情念によってわたしに一致している者は、無限の望みを抱く。かれらは、自分たちがわたしを侮辱するときも、わたしが侮辱されるのを見るときも、嘆き悲しむ。それで、かれらの苦しみはみな、精神的なものも肉体的なものも、どこから来るものも、無限の功徳を積むし、無限の罰を加えられなければならない過失を償う。たしかに、それは限りある時間におこなわれた限りある業である。しかし、望みの徳がそのなかに働いているし、過失に対する無限の望みと痛悔と悲嘆とをもって堪えたのであるから、価値がある。パウロは、つぎの言葉によってこれを示している。「たといわたしが天使の言語を話しても、未来のことを知つても、わたしの財宝を貧しい人々に与えても、わたしの体を火刑にわたしても、仁愛がなければなんの役にも立たな。光栄ある使徒のこの言葉は、仁愛の情念という香味がなければ、限りある業は、罪を償うためにも、報いを受けるためにも、不十分であることを示している。

望みと心の痛悔とが、自分自身においても他者においても、過失と罰とを償うことについて。時として、過失は償うが罰は償わないことについて。

いとしいむすめよ、わたしはあなたに、過失は、この限りある時間においては、ただ罰という名目だけで凌いだどんな罰によっても、償われないことを示した。あなたに話したように、それは、望みと愛と心の痛悔とをもって、しかも、罰としてではなく、霊魂の望みとして、堪えた苦しみによって償われる。望みは、すべての善徳と同じように、わたしの「ひとり子」、十字架につけられたキリストによってしか、価値をもたないし、それ自体のなかに生命があるのではない。しかも、そのためには、霊魂はかれのなかに愛を汲み取り、善徳によつてかれの跡に従わなければならない。苦しみの価値はそこから生まれるのであって、他から生まれるのではない。つまり、苦しみは、わたしの「いつくしみ」に関する愛すべき認識のなかで獲得した甘美で一致的な愛により、そして、自分自身と自分の過失との認識によつて生ずる心の痛みと悔みとによって、過失を償うことができるのである。この認識は、罪と官能とに対する悔みと憎しみとを生む。それによって、甘美な「真理」が語つたように、霊魂は、自分が罰を受けるにふさわしく、報いを受ける価値がないことを認めるようになるのである。要するに、霊魂は、心の痛悔、まことの忍耐に対する愛、誠実な謙遜によって、自分が罰を受けるのにふさわしく、報いを受ける資格がまったくないことを認め、すでに話したように、謙遜に、忍耐して償いを果すのである。あなたはわたしに、わたしの被造がわたしに加えた侮辱を償わせるためにあなたに苦しみを送ること、そしてまた、至上の「真理」であるわたしを認識し、愛する意志をあなたに与えることを願つている。あなたが、永遠の「真理」であるわたしを完全に認識し、わたしを味わいたいと思うならば、その方法はつぎの通りである。決してあなた自身の認識から逸脱してはならない、謙遜の谷に降りたままでなければならない。あなたは、あなたのなかにいる「わたし」を認識している。この認識から、必要なすべてのものを引き出すがよい。どんな善徳も、仁愛によらなければ、そしてまた、仁愛の乳母である謙遜によらなければ、それ自体のなかに生命をもつことができない。あなた自身の認識は、あなたに謙遜を教えるで あろう。なぜなら、あなたはあなた自身で存在するのではないこと、あなたの存在は、あなたがたが存在する以前から、あなたがたを愛したわたしから授かったことを、あなたに示すからである。わたしがあなたがたに対して抱いたこの名状することのできない愛によってわたしはあなたがたを恩寵によって再創造したいと思い、あれほど偉大な愛の火によって流されたわたしの「ひとり子」の血のなかで、あなたがたを洗い、再生させたのである。この血こそ、自分自身の認識によって自愛心の雲を払つた者に、「真理」を教えるのであって、他にこれを認識する手段はない。霊魂は、このわたし自身の認識のなかで、名状することのできない愛に燃えさかる。この愛は霊魂に絶えることのない苦しみを与える。しかし、それは、霊魂を打ち倒したり、枯らしたりする刑苦ではなく、むしろ、霊魂を太らせる苦しみである。霊魂は、わたしの「真理」と同時に、自分自身の過失、忘恩、および隣人の盲目を認識し、そのために堪えがたい悲しみを感じる。霊魂が苦しむのは、わたしを愛するからである。もしも、わたしを愛さないならば、苦しむことはないであろう。あなたとわたしの他のしもべたちとが、このようにわたしの「真理」を認識するときは、すぐさま、言葉と行為とによるあらゆる苦難、不法、恥辱を、わたしの名の栄光と賛美とのために、死ぬまで堪え忍ぶ心構えを抱くようになり、苦しみを迎え、そして堪えるであろう。それゆえ、あなたとわたしの他のしもべたちとは、まことの忍耐によって、過失に対する悲しみによって、そして善徳に対する愛によって、わたしの名の栄光と賛美とのために苦しんでほしい。もし、あなたがたがそうするならば、わたしは、これをあなたの過失とわたしの他のしもべたちの過失との償いとして受け取るであろう。あなたがたが苦しみを堪え忍ぶときは、仁愛の効能により、あなたがたと他の人々とのために、償いをなし、功徳を積むことができるであろう。あなたがたは、生命の実を授かるであろう。あなたがたの無知の汚れは消されるであろう。そして、わたしは、あなたがたから侮辱されたことを忘れるであろう。他の人々は、あなたがたの仁愛のおかげで、わたしのたまものを、これを受け取る心構えに応じて、分配されるであろう。とくに、謙遜と尊敬とをもってわたしのしもべたちの教えを受ける人々は、過失と罰とを赦されるであろう。なぜなら、かれらは、これらの感情によって、自分自身のまことの認識とかれらの罪の痛悔とにみちびかれるにちがいないからである。つまり、かれらは、謙遜であるならば、わたしのしもべたちの祈りと望みとによって、恩寵の実を受けるであろう。この実は、与えられた恩寵を善徳によって利用するかれらの意志のいかんに応じて、あるいは多く、あるいは少ないにちがいない。一般的に言つて、かれらは、あなたがたの望みのおかげで、赦しを受けるであろう。ただし、かれらが、絶望して、わたしから棄てられることを固執するときは、そうではない。なぜなら、それは、あれほど優しくかれらをあがなった「血」を侮辱するからである。それでは、この人々は、どんな実を受けるであろうか。その実というのは、わたしが、わたしのしもべたちの祈りに応じて立ちどまり、かれらを待つことであり、かれらに光明を与えることであり、かれらのなかに良心の番犬を目覚めさせることであり、かれらに善徳の香りを吸いこませることであり、わたしのしもべたちとの交わりのなかに見出す喜びを味わわせることである。ときとして、わたしは、かれらに世俗の真相を示し、その情念の変わりやすく、移りやすいのを感じさせることがある。それは、かれらに、世俗の頼みがたさを体験させ、その望みをもっと高めて、かれらの永遠の生命の祖国を捜し求めさせるためである。これらの手段とその他の無数の手段とによって、わたしはかれらを連れ戻す。わたしが、かれらに恩寵を回復させ、わたしの真理をかれらのなかに成就させるために、もっばら愛によって用いる道と手段とは、目も見ることができず、口も語ることができず、心も思いうかべることができないであろう。私が彼らを創造したのも、彼らに対して以上のようなことをするのも、私のはかりしれない仁愛とともに、わたしの僕たちの祈りと望みと苦しみによってである。私は彼らの涙、彼らの汗、彼らの謙遜な祈りに無感覚ではなく、これを喜ぶ。彼らに霊魂たちの善を愛させ、その滅びに対する悲しみを抱かせるのは、わたしである。しかしこの人々に対しては、一般に、過失だけを赦して罰は赦さない。なぜなら、この人々は、完全な愛によって、わたしの愛とわたしのしもべたちの愛とに答えないからである。かれらが犯した過失に対して抱く悲しみは、完全な痛悔をともなっているのではなく、不完全な愛と痛悔とから発している。そのため、他の人々のように罰を赦されないで、失だけを赦されるのである。事実、双方に、すなわち、与える者と受ける者とに、善良な心構えが要求される。ところが、この人々は不完全であるために、苦しみと祈りとをかれらのためにわたしにささげる人々の完全な望みを、不完全に受けるのである。それでは、わたしが、かれらは過失の赦しと恩寵のたまものとを受けると言つたのは、どういうわけであろうか。それが真実だからである。かれらは、すでに話した方法で、すなわち、良心の光明とその他の手段とによって、過失を償う。なぜなら、自分を認識しはじめるとともに、その罪の汚物を吐き出し、それによって、恩寵のたまものを受けるからである。普通の愛にとどまる人々については以上の通りである。かれらが出合う難儀を矯正として受け、聖霊の寛仁に抵抗しないならば、過失を脱出して、恩寵の生命を授かるであろう。しかし、無知で、わたしを認識せず、わたしに対しても、わたしのしもべたちがかれらのために凌いだ辛苦に対しても、恩知らずであるならば、わたしのあわれみのすべてのたまものは、かれらの破滅と断罪とに変わるであろう。このような結果は、あわれみの不足にも、この忘恩者のためにあわれみを哀願した者にも、その責任を負わせてはならない。もっばら、その自由意志によって、その心を金剛石で閉ざした者の悪意と頑迷さとに負わせなければならない。しかも、この石は「血」によらなければ、他にこれをやわらかにする方法はない。繰りかえして言いたい。このような人も、その頑迷さにかかわらず、まだ時があるあいだに、その自由意志をつかって、わたしの「子」の血を哀願することができる。この同じ手を使い、その頑迷な心にこの「血」を塗つてこれを砕くがよい。そうすれば、かれのために流された「血」の効果にあずかるであろう。しかし、かれが絶えず延期して、時が過ぎ去るのを放置するならば、これにつける薬はない。なぜなら、わたしが、わたしの恩恵を想い起こさせるために記憶を、真理を見て認識させるために知性を、「永遠の真理」である「わたし」を愛させるために愛情を与えたとき、あずけた財産を、わたしに返さなかったからである。わたしはかれにたまものを与えた。かれはこれを「父」であるわたしに返さなければならない。もしも、これを悪魔に売りわたし、あるいは、質入れしたのであれば、悪魔は、これと引き換えに、自分がこの世のために買つたものを、かれに返すことになる。すなわち、悪魔は、かれの記憶を、肉感的な思い、みだらな追憶、傲慢、貪欲、自愛心、隣人に対する憎悪と反感で満たし、かれをわたしに仕える人々の迫害者に仕立てる。このようなみじめさのなかで、ふしだらな意志は知性を暗くする。そしてかれは、その恥ずべき行為によって、永遠の苦罰、無限の苦罰を受けることになる。それというのも、罪の痛悔によって、その過失を償わなかったからである。以上話したことによってわかるように、苦しみは、心の完全な痛悔によって過失を償うのであって、限りある苦しみそのものによって償うのではない。すでに話したように、痛悔が完全な人々の場合は、苦しみは過失だけではなく、その結果である罰も償う。苦しみは、大罪から清められて恩寵を受けるすべての人々の場合、過失を償う。しかし、罰を償うのに十分な痛悔と愛とをもたない人々は、「煉獄」に行き、そこで浄化を完成する。要するに、「無限の善」であるわたしに一致している霊魂の望みは、わたしに祈りをささげる人の完全な愛の程度に応じて、そしてまた、受ける人の望みに応じて、その償いに大小の差がある。わたしに与える人と受ける人との望みの深さ、これが、わたしの「いつくしみ」がそのたまものを定める基準である。それゆえ、あなたのなかに望みの火を燃えさからせ、隣人のために絶え間なく祈りをささげ、謙遜な声をもってわたしに叫ばないで一時でも過すことがないようにするがよい。わたしは、あなたとわたしが地上であなたに与えた霊父とに言いたい。雄々しく行動せよ。自分自身の官能に死に絶えよと。

のために苦しみたいという望みが神に愛されることについて

霊魂の救いのために、死ぬまで、あらゆる苦しみを堪え忍びたいという望みは、わたしにとつて、きわめて心地よいものである。苦しめば苦しむほど、わたしを愛していることを証すことができるし、わたしを愛することによって、わたしの真理をもってよく認識することができる。そして、これを認識すれば認識するほど、わたしが侮辱されるのを見て、悲しみと堪えがたい心痛とを感じる。あなたはわたしに苦しみを求め、他の人の過失の罰をあなたに加えるよう願た。その時、あなたは気がついていなかったが、実は、愛、光明、真理の認識を願たのである。すでに話したように、愛が大きくなればなるほど、悲しみはさらに深く、苦しみはさらに激しくなるものである。悲しみは愛に比例して増大するからである。だから、あなたに言いたい。願うがよい。そうすれば与えられるであろう。なぜなら、わたしは、真実に願う者に拒むようなことは決してしないからである。忘れてならないのは、神的な仁愛による愛は、霊魂のなかに、完全な忍耐と強く一致しているので、一方は他方が消え去らないかぎり、消え去ることはない、ということである。それゆえ、わたしを愛したいと望む霊魂は、それと同時に、わたしが送る苦しみを、どんな方法によるものであっても、どんなものであっても、わたしのために堪え忍びたいと望まなければならない。忍耐は苦しみのなかで証明されるし、すで に話したように、仁愛から分離することができない。だから、雄々しく堪えるがよい。あなたがたにとって、わたしの真理の「浄配」、わたしの忠実な子供であること、わたしの栄光と霊魂の救いとを愛していることを示す手段は、他にはないのである。

善徳も欠点も隣人を介して取得されることについて。

あなたに知つてほしいのは、どんな善徳も、そしてまた、どんな欠点も、隣人を介して取得されるということである。わたしを憎んでいる者は、隣人に、そしてまた、主な隣人である自分自身に、害を加える。しかも、この害は、全般的であるとともに個別的である。全般的である。なぜなら、あなたがたは、あなたがたの隣人を自分自身のように愛さなければならないからである。この愛は、祈りによって、言葉によって、助言によって隣人を助けること、その要求に応じて、霊的あるいは物質的助けをこれに与えることを義務づける。もしも、あなたがたに手段がないために、これを現実に実行することができないときは、せめてその望みを抱かなければならない。しかし、わたしを愛さない者は、隣人も愛さない。隣人を愛さないならば、これを助けない。その結果、自分自身に害を与える。なぜなら、隣人のためにわたしにささげなければならない祈りと敬虔な望みとをささげないならば、わたしの恩寵を失うと同時に、隣人の期待を裏切るからである。隣人に対する助けはみな、わたしに対する愛のためにかれに対して抱く愛から発するものでなければならない。同じように、隣人に害を加えない悪はないと言うことができる。なぜなら、わたしを愛さないならば、隣人に対して抱かなければならない仁愛に生きることができないからである。すべての悪は、霊魂がわたしと隣人とに対する仁愛を失つているところから生まれる。善をなすことができないから悪をおこなうのである。それでは、だれに対して悪をおこなうのであろうか。まず自分自身に対して、つぎに隣人に対して。わたしに害を加えるわけではない。なぜなら、わたしが、隣人に対してなされたことをわたし自身に対してなされたかのように受け取らないかぎり、悪がわたしに及ぶことはありえないからである。恩寵を失わせる過失を犯すならば、自分自身に害を加える。これほど大きな悪はない。隣人に与えなければならない仁愛と愛とをこれに与えず、また、この愛のゆえに、隣人のために祈りと聖い望みとをわたしにささげて、これを助けないならば、隣人に害を加える。以上が、理性を与えられた被造物に対しておこなわなければならない全般的な奉仕である。しかし、あなたがたのそばにいて、あなたがたの目の下で生活している人々に与えなければならない個別的な助けがある。このような条件のなかで、あなたがたは、言葉により、教えにより、善業の手本により、隣人が悩んでいるあらゆる機会に、無私無欲に、自分自身のことのように、自愛の欲情を去て、たがいに助け合わなければならない。隣人に対する愛をもたない者は、かれに対して、これを実行することがないであろう。しかし、これを実行しないことによって、個別的な害を加える。隣人が期待していた善を実行しないばかりでなく、そのうえ、絶えず悪と害とをこれに加える。どのようなしかたによってであろうか。つぎのようなしかたで。 罪には行為によるものと思いによるものとがある。思いの罪は、罪に対する喜びと善徳に対する反感とを抱くやいなや、すなわち、わたしと隣人とに対して抱かなければならない仁愛の情念を失わせる官能的な自己愛を抱くやいなや、犯される。この罪は、すでに話したように、一度宿されると、官能的で邪悪な意志の好みに応じて、隣人に対し、さまざまの方法で、つぎつぎに罪を産む。ときには、全般的にも、個別的にも、残酷行為を産む。全般的な残酷行為というのは、自分と他の被造物とが恩寵を失つて死と亡びとの危険におちいっているのを知りながら、善徳に対する愛と悪徳に対する憎しみとによって、自分あるいは他者を助けようとしないことである。しかも、罪人の残酷さは、かれ自身の行為によって、拡大される。かれは、善徳の手本を示さないばかりか、その悪徳にかられて、悪魔の役目を果たし、被造物を善徳から遠ざけ、これを悪徳に引きこむ。霊魂に対し、その生命を奪つて死を与える道具となるということは、いかにも残酷なことではないだろうか。罪人はまた、貪欲により、肉体に対して残酷行為をなす。隣人を助けないばかりか、かえつてかれらから奪い、貧しい人々の物を盗む。ときには権威を利用し、ときには策略をめぐらし、ときには不法行為によって、隣人の物を、そしてときには人身を、買収する。ああ、なんというみじめな残酷行為であろうか。もしも、罪人が改心して隣人に対する同情と親切とを抱かないかぎり、わたしはかれに対して、無慈悲になるであろう。この残酷さは、ときとして、侮辱的な言葉を生むであろう。そして、この言葉の結果、しばしば、殺人事件が起きるであろう。ときには、みだらな行為によって隣人の人格を腐敗させ、これを悪臭に満ちたおぞましい動物の状態に堕落させるであろう。しかも、毒を飲まされるのは、一人や二人ではないであろう。この人に愛をもって近づく者、かれとまじわる者は、だれかれの別なく、毒を飲まされるにちがいない。傲慢はどこで生まれるのであろうか。隣人のなかで、もっら隣人のなかで生まれるのである。傲慢な人は、自分の名声を高める必要上、他人を軽蔑し、自分は他人よりもすぐれていると思い、その結果、他人を侮辱する。権力の座にあるときは、どんな不法行為、どんな残酷行為もいとわない。人間の肉の売買きえも辞さない。ああ、いとしいむすめよ、わたしに加えられた侮辱を嘆くがよい。そして、これらの死者を悼むがよい。祈りによってかれらの死に勝利を占めてほしい。これまで話したことによってわかるように、罪は、どこから生まれるものも、どんな種類の人から生まれるものも、みな、隣人に向けられるし、隣人を介して犯される。それ意外には、ひそかな罪も、公けの罪も、決して犯されないであろう。ひそかな罪は、隣人に与えなければならないのに与えない とき犯され、公けの罪は、すでに話したように、悪徳を生むとき犯される。それゆえ、わたしに加えられたすべての侮辱は隣人を介して行われるというのは、きわめて真実である。

善徳は隣人を介して実行されることについて。被造物のなかに多種多様な善徳が存する理由について。

わたしはあなたに、すべての罪は、さきに説明した理由により、隣人を介して犯されることについて述べた。理由というのは、罪人が、すべての善徳に生命を与える仁愛の情念を失つていることである。それゆえ、隣人に対する仁愛といつくしみとを亡ぼす自愛心は、あらゆる悪の根源であり、土台である。すべての破兼恥、憎悪、残酷、あらゆる種類の壊乱は、この自愛心の根から生まれる。全世界に害悪を流し、聖なる教会の神秘とキリスト教の体全体とを病気にかからせているのは、この自愛心である。そえゆえ、わたしはあなたに、すべての善徳は、隣人のなかに、すなわち隣人に対する仁愛のなかに、土台をきずいていると言つたのである。そしてそれは真実である。すでに話したように、仁愛はすべての善徳に生命を与える。仁愛がなければ、どんな善徳も存在することができない。善徳は、わたしに対する純粋な愛によってしか、獲得することができないのである。事実、すでに話したように、霊魂は、自分自身を認識するやいなや、その肢体をしばっている邪悪な律法があって、いつも「霊」にさからつているのを認め、謙遜とその官能の情念に対する憎しみとを抱く。そこで、官能に対する憎悪の念をもって立ちあがり、これを理性の足で踏みにじることに熱意をかたむける。そのうえ、わたしから受けたすべてのたまものを自分のなかに認めて、わたしの「いつくしみ」の広大さをさとる。霊魂は、自分自身について得たこの認識を、わたしに帰する。なぜなら、この霊魂を暗黒から救い出して、まことの認識の光明に連れ戻したのは、わたしの恩寵であることをさとつたからである。霊魂は、ひとたびわたしの「いつくしみ」を認識すると、これを、あるいは 仲介を経ないで、あるいは仲介を経て、愛する。すなわち、自分自身あるいは自分自身の利 益を介しないでこれを愛するし、わたしに対する愛によって宿した善徳を介してこれを愛する。なぜなら、罪に対する憎しみと善徳に対する愛とを宿さないならば、わたしに心地よく思われないことをさとるからである。霊魂が愛の情念によって善徳を宿すやいなや、善徳は隣人のためになる実を産む。さもなければ、霊魂が自分自身のなかに、これを宿したというのは、真実ではないであろう。しかし、霊魂は真実にわたしを愛するのであるから、この愛の恩恵を真実に隣人に及ぼす。それ以外ではありえない。なぜなら、わたしと隣人とに対し て抱く愛は同じものだからである。霊魂は、わたしを愛すれば愛するほど隣人を愛する。な ぜなら、霊魂が隣人に対して抱く愛は、わたし自身から発するからである。あなたがたが、自分自身のなかに善徳を修めて実行することができるように、わたしが与える手段は、以上の通りである。わたしは、あなたがたの奉仕をわたし自身のために役立てることができない。それで、あなたがたは、これを隣人のために役立てなければならない。もし、あなたがたが、わたしの誉れと霊魂の救いとに対する優しく愛深い望みによって、数多くの聖い祈りの恩恵を隣人に施すならば、あなたがたが、恩寵によって、わたしをあなたがたのなかに所有している証しになるであろう。わたしの「真理」を愛する霊魂は、全般的にも個別的にも、あるいは少なくあるいは多く、受ける者の心構えに応じて、そしてまた与える者の熱烈を望みに応じて、すべての人の役に立つように努めることを、決して止めることがない。これは、わたしがさきに望みから分離した苦しみは、過失を償うのに十分ではないことを説明したとき、あなたに示した通りである。霊魂は自分をわたしに結びつけ、わたしのなかに自分自身を愛させるこの一致の愛を体験したのち、その愛情をすべての人に拡げて、その需要に応じる。すなわち、恩寵の生命のみなもととなった善徳を宿すことによって、自分自身に善をなしたのち、個々の隣人の需要に目を注ぐ。つまり、すでに話したように、理性をそなえた被造物に全般的に愛の情念を示したのち、わたしが他の人々に奉仕させるために与えたさまざまの恩寵を利用して、身近な人々に助けをもたらす。ある者は、教えによって、すなわち言葉によって、隣人に奉仕し、率直 に、はばかることなく、助言を与える。ある者は、その生活によって手本を示す。これはみ ながなすべきことである。なぜなら、各人は、善良で、聖く、誠実な生活によって、隣人に よい感化を与えなければならないからである。以上の善徳、そして数えきれないほどのその他の善徳は、隣人に対する愛から生まれる。ところで、このように種々様々の善徳があるのはなぜであろうか。なぜ、各人にすべての善徳を与えないで、ある者にはそのなかの一つを、他の者には別のものを与えるのであろうか。しかし、他のすべての善徳を所有しないで、そのなかの一つを所有することはできないというのは、に劣らず真実である。なぜなら、すべての善徳はたがいに結合しているからである。わたしは、いくつかの善徳を、ときにはある人に、ときには他の人に、それが他の善徳にくらべて主徳であるように見える方法で、分配する。ある人には仁徳を、他の人には正義を、この人には謙遜を、あの人には強い信仰を、ある人には賢明を、あるいは節制を、あるいは忍耐を、他の人には力を与える。わたしは、これらの善徳とその他の多くの善徳とを、多くの被造物の霊魂に、種々の段階に分けて、与える。そのなかの一つが、その対象から見て、主要であるのは事実である。それは、その霊魂が一つの善徳を他の善徳よりも実行する多くの機会に出会うからである。しかし、この善徳に対する愛は、他のすべての善徳を自分に引きつける。すでに話したように、善徳はみな、仁愛の情念によってたがいに結ばれているからである。善徳のいくつかのたまものと恩寵とについても、あるいはまた、他の精神的・肉体的たまものについても、これと同じである。肉体的な善について言うならば、わたしは、人間の生活に必要なものを分配するにあたって、きわめて大きな不平等にたよった。わたしは、各人が必要なすべてのものを所有するのを望まなかった。それは、人々が、必然的に、あいたがいに、仁愛を実行する機会をもつことができるようにするためである。わたしにとつて、体のためにも霊魂のためにも必要なすべてのものを人間に与えるのは、可能であった。しかし、わたしは、かれらがあいたがいに要求し合い、わたしから受けた恩寵と恩恵とを分配するわたしの代務者となのを望んだ人間は好むと好まざるとにかかわらず、仁愛を実行する必要からのがれることができない。もっとも、これらの行為は、わたしに対する愛のために実行されなければ、恩寵に関してはなんの価値もないのは真実である。以上によってわかるように、わたしはかれらに仁愛の徳を実行させるために、かれらをわたしの代務者に仕立てたのであり、ちがった状態とちがった段階においたのである。これは、わたしの家には部屋が多けれども、わたしはそこに愛以外のなにも望まないことを示す。わたしに向けられる愛は隣人に対する愛を含む。隣人を愛する者は、律法を完うする。それゆえ、この愛のきずなにつながっている者は、その状態に応じて、有益な者となることができるのである。

善徳は反対の悪徳によって試され強められることについて。

わたしはあなたに、人間はどのようにして隣人に奉仕するか、また、この事仕によって、どのようにわたしに対して抱いている愛を示すかについて語つた。これから、人間は、隣人から侮辱される機会に、自分が忍耐の徳を所有しているかいなかを試すことができることについて話したい。人間は、傲慢な者によって自分の謙遜を、信仰のない者によって自分の信仰を、絶望している者によって自分の希望を、不義な者によって自分の正義を、残酷な者によって自分の慈悲を、短気な者によって自分の寛容と柔和とをするのである。すべての善徳は、隣人によって、試され、出産されるし、悪人は隣人によってその悪徳を出産するのである。つぎのことをよく心にとどめてほしい。謙遜が傲慢によって証されるのは、謙遜が傲慢に勝利をしめるからである。傲慢な者は謙遜な者に害を加える力がない。わたしを愛せず、わたしに希望しない悪人の不忠実が、わたしに忠実な者の信仰を減少させることはできないし、わたしに対する愛によって自分のなかに宿しているその希望を減少させることはではない。かれは、隣人に示す愛のたのしみによってこれを強化し、これを証す。わたしに忠実な者は、わたしにも自分にも希望していない不忠実な者を見ても、―私を愛さない者は、信仰もわたしに対する希望も抱くことができないし、その愛する自分の官能しか信ぜず、これにしか希望しないこれを忠実に愛しつづけ、わたしのなかに、希望をもつて、その救いを求めつづける。このように、ある人々の不忠実とその希望の欠如とは、信仰者の善徳を証す。信仰の徳を証す必要のあるこのような機会とその他の機会に、信仰者は、自分自身と隣人とに対して、その証しを提供するのである。あなたの正義は、他人の不正義によって弱められないばかりか、受けた不正義は、あなたが忍耐の徳によって正義を保つていることを証す。これと同じように、温和と寛容とは、怒りに出合うとき、優しい忍耐をともなっていることを証す。嫉妬、反感、憎悪もまた、仁愛 の情念と霊魂の救いに対する飢えと望みとを証すのである。そのうえ、善徳は、悪に対して善を返す人々のなかに示されるばかりではない。あなたに言いたいのは、試練はしばしばかれらを灼熱した炭火となし、仁愛の火に燃えさからせるということである。しかも、その炎は、怒つている悪人の心と精神とのなかにおいても、憎しみと恨みとを挽きつくし、しばしば、敵意を好意に変える。悪人の怒りのまとになっていて、その攻撃をつぶやくことなく堪え忍ぶ人の仁愛と完全な忍耐との効力は以上述べた通りである。力と堅忍との徳について考えるとすれば、これらの善徳は、人々の侮辱と悪口とに対する長い忍耐によって証明される。かれらは、しばしば、あるときは暴力によって、あるときはへつらいによって、「真理」の道と教えとから遠ざけるように努める。しかし、力の徳がまことに内心に宿つているならば、強く、ゆるぐことがない。この徳は、すでに話したように、このようにして、隣人を介して、外的に証明される。もしも、この徳が、多くの困難になやまされているとき、立派な証しをなすことができないならば、「真理」の上にきずかれた善徳とは言えないであろう。

外面的な苦業ではなく善徳を重視すべきことについて。分別は謙遜の上にきずかれていて、各人に負つているものを返すことについて。

わたしがわたしのしもべたちに求める聖く心地よい業、すなわち、あなたに語つたような方法で試された霊魂の内的善徳については、以上の通りである。わたしが求めるのは、ただ肉体的な業、すなわち、外的な行為、無数のさまざまな苦業だけではない。それは善徳の道具であって、善徳ではない。もしも、このような外的業が、さきに述べた善徳から分離しているとしたら、わたしにとつて、あまり心地よいものではない。たとえば、もしも霊魂が、このような苦業を、主として、始めた苦業そのものに執着して実行するならば、その完徳のさまたげとなるにちがいない。まことの謙遜と完全な忍耐とをともなった自分自身に対する聖い憎しみをもって、愛に執着しなければならない。それと同時に、他の内的善徳にも、わたしの誉れと霊魂の救いとに対する飢えと望みとをもって、執着しなければならない。このような善徳は、官能的な意志が、善徳に対する愛の攻撃によって死滅したこと、あるいは絶えず死滅していることを示すのである。このような分別をもって、苦業を実行すべきであり、苦業よりも善徳を愛すべきである。そして、苦業はただ善徳を増し加える手段にすぎないと考え、必要に応じ、自分の力を考慮して実行すべきである。そうではなくて、苦業を土台とするときは、自分自身の完徳を妨害することになろう。なぜなら、自分自身の認識とわたしの「いつくしみ」とが与える分別の光明をもって行動しないからである。むしろ、わたしの真理に合致せず、無分別に行動することになろう。わたしがもっとも愛しているものを愛せず、もっとも憎んでいるものを憎まないからである。分別とは、霊魂が自分自身と「わたし」とに対して所有しなければならないまことの認識にほかならない。分別はこの認識のなかに根をおろすのである。分別は、仁愛に接ぎ木され、これと一つになったひこばえである。このひこばえが、一本の木が多くの枝をもつように、多くの他のひこばえを生ずるのは真実である。しかし、木と枝とに生命を与えるのは根である。そして、この根は謙遜の土のなかにおろさなければならない。謙遜は仁愛の乳母であって、分別のひこばえあるいは木は、この仁愛に接がれている。分別は、謙遜の徳のなかに植えられていないならば、善徳ではないし、生命の実を結ばないであろう。なぜなら、謙遜は霊魂が自分自身についてもつ認識から生まれるからである。そのうえ、すでに話したように、分別の根は、自分自身とわたしのいつくしみとの認識であって、霊魂はこれによって、自然に、すべての人に負つているものを返すのである。まず第一に、霊魂は、わたしに帰すべきものを、わたしに帰する。すなわち、わたしの名に栄光と賛美とを帰し、わたしから受けたと信じている恩寵とたまものとをわたしに帰する。霊魂は当然自分に帰すべきものだと意識するものを自分自身に帰し、自分は自分自身で存在するのではなく、その存在はわたしの恩寵によって与えられたものであることを認める。自分自身については多くの恩恵に対して忘恩者であったこと、受けた時間と恩寵とを利用しなかったことを告白する。それゆえ、自分は罰を受けるのが当然であると考え自分を、その過失のゆえに憎しみと嫌悪との対象と見なすのである。自分自身の認識とまことの謙遜との上にきずかれた分別の徳の効果は、以上の通りである。この謙遜がなければ、すでに話したように、霊魂は無分別におちいるであろう。分別の泉が謙遜であるように、無分別の泉は傲慢である。それゆえ、分別がないならば、泥棒のように、わたしに属する誉れを自分自身のものにし、これを誇る。当然自分自身に帰すべきものは、これをわたしの責任に帰し、わたしがこの霊魂と他の被造物とのなかに成就した神秘的な業については嘆きつぶやく。そして、わたしについても隣人についても、あらゆる面でつまずく。分別の徳を所有している人々の行いは、これと正反対である。すでに話したように、わたしと自分自身とに負つているものを返したのち、隣人に負つているものを返す。とくに、愛に発する情念と、みながたがいにささげなければならない謙遜で絶え間ない祈りとを、これに与える。ついで、さきに話したように、その教えによって、誠実で聖い生活の手本によつて、その意見によって、救いをまっとうするために必要な助けによって、隣人に負つているものを返す。 人間は、どんな身分におかれても、君主であっても、高位聖職者であっても、臣下であつても、この徳をもっているならば、隣人に対してなすことを、すべて、分別をもって、仁愛の情念によってなす。なぜなら、これらの善徳はいっしよに結合され、溶け合つていて、自分自身の認識から発生するまことの謙遜の土地に植えられているからである。

愛、謙遜、分別の三徳が一つに結ばれていることの比喩。霊魂はどのように この比喩にあやかるべきかについて。

この三つの善徳のあいだには、どのような関係があるか、知つているであろうか。地面に一つの輪がおかれていて、その中央に一本の木があり、その一部として、これに結合した脇芽があると想像してほしい。木はこの輪にかこまれた土地から養分を吸い取る。それで、木は土地から引き抜かれるならば枯れるであろうし、土地に植えられるまでは、実を結ばないにちがいない。ところで、霊魂は木のようなもので、愛するためにつくられ、愛がなければ生きることができないことを、思い浮かべてほしい。 事実、霊魂は、完全なまことの仁愛の神的愛をもたないならば、生命の実ではなく、死の実を生ずる。それで、この木の根、すなわち霊魂の愛情が、自分自身のまことの認識のなかに固定し、そこから養分を取る必要がある。自分自身の認識が、始めも終わりもないわたしに結びついているならば、まるい輪のように、その中をまわりめぐつても、どこで始まりどこで終わるか、決して見きわめることができないであろう。それでも、あなたがその中にいることに変わりはない。あなた自身と「わたし」とのこの認識は、まことの謙遜の徳に見出されるし、また立つている。この謙遜の大きさは、輪の広さと同じである。すなわち、自分自身の認識は、繰りかえして言うが、わたしの認識と一つになっている。さもなければ、この認識は、始めも終わりもない輪ではないであろう。自分自身の認識という始めはあるであろう。しかし、それは、わたしの認識と一つでないならば、虚空のなかに消え失せるであろう。 要するに、仁愛の木は謙遜のなかに養われる。この木は、すでに話したように、まことの分別という脇芽をつけている。この仁愛の木すなわち霊魂のなかにある愛の情念の髄は、忍耐である。忍耐は、霊魂にわたしが現存していること、および、この霊魂がわたしと一致していることを示すしるしである。 このように心地よく植えられた木は、多くの多彩なにおいをもつ花、善徳にかおる花をつけている。この木は、霊魂にとつて恩寵の実を生じ、隣人にとつて有益な実を生ずる。隣人は、わたしのしもべたちの実を受け取る熱誠のいかんに応じて、この実を利用する。この木は、わたしに対して、わたしの名の栄光と賛美との芳香を立ちのぼらせる。なぜなら、これを創造したのはわたしだからである。こうして、この木は、その最終目的、すなわち、その神であり、永遠の生命である「わたし」に到達する。そして、それは、霊魂が望まないかぎり、奪われることがない。この木の結ぶすべての実は、分別によって味付けされている。なぜなら、すでに話したように、この分別によって、すべてが結合されているからである。

苦業とその他の肉体的修行とは、善徳を修める手段として利用すべきであって、主要な目的であってはならないことについて。分別の光明と外的業との関係について。

これこそ、わたしが霊魂に要求する実と業である。この実こそ、必要のあるとき、善徳を証すのである。ずっと以前に、このことをあなたに話したことがある。覚えているであろうか。そのとき、あなたは、わたしのために大きな苦業をおこないたいと望んで、「あなたのためになにをしたらいいでしようか。なにを堪え忍んだらいいでしようか」とたずねた。それで、あなたの精神に答えた。「わたしは、わずかの言葉と多くの業とを喜ぶ『者』だ」と。それは、わたしに向かって、言葉のひびきで、「主よ、主よ、わたしはあなたのためになにかをしたい」と叫ぶだけで満足する者も、わたしのために多くの苦業をおこなって、体を苦しめたいと望みながら、我意を放棄しない者も、わたしに喜ばれると思うのは間違つていることを、理解させたいからであった。わたしが求めるのは、雄々しい忍苦の業と、忍耐と、あなたに説明したその他の善徳である。霊魂の内部にあるこれらの善徳は、活動的で、恩寵の実を結ぶ。それ以外のみなもとから流れ出る業はみな、単なるさわぎにすぎない。なぜなら、有限な業以外のなにものでもないからである。ところが、無限であるわたしは、無限の業、すなわち、愛の無限の情念を求める。つまり、苦業と他の肉体的修行とは、手段として利用し、愛のなかに主要な位置を占めさせないことを求める。もしも、これを主として愛するならば、わたしには有限な業しかないことになる。それは、言葉が、霊魂の内的愛情から発しないならば、口から出たとたんに、なんでもなくなるのと同じである。霊魂は、善徳を真理のなかに宿して産む。有限な業は、この内的善徳によって、仁愛の情念に一致する。それでこそ、わたしに受諾され、喜ばれるのである。なぜなら、単独ではなく、まことの分別につきそわれるからであり、霊魂は、この肉体的な行為を、主な目的としてではなく、手段として実行するからである。それゆえ、苦業あるいはその他の外的行為を、原理や目的にしてはならない。すでに話したように、それは有限な業だからである。有限な業は時間のなかで実行されるし、そのうえ、ときとして、被造物は、これを放棄すること、放棄せざるをえないことがある。霊魂は、ときには止むをえない事情のために、ときには長上の命にもとずき、従傾を実行するために、始めた行為を断念しなければならない。そのようなとき、これを実行しつづけるならば、功徳を積むかわりに、わたしに背くことになろう。要するに、それは有限な業である。それゆえ、手段と見なすべきで、原理と見なすべきではない。しばらくのあいだこれを断念する必要があるのに、原理としてこれに執着するならば、霊魂は空虚におちいるにちがいない。栄光にかがやく使徒パウロは、その手紙のなかで、肉体を苦しめ我意を殺せ、と言つたとき、これを示している。これは、肉が霊に反抗しようとするときは、肉体のたずなをしめ、肉を苦しめなければならないが、意志はこれを完全に殺し、これを放棄して、わたしの意志に従わせなければならない、という意味である。意志をこのように殺すのは分別の徳である。すでに話したように、分別の徳は、霊魂に自分自身を認識させて、これに罪と官能とに対する憎しみと軽蔑とを抱かせることによって、自分自身に返すべきものを返させるからである。これが我意の上にきずかれた自愛心を完全に殺し、これを切り裂く刀である。このように行動する者は、わたしに、言葉だけではなく、わたしが喜ぶ多くの業をささげる。わたしが、わずかの言葉と多くの行為とが欲しいと言つたのは、そのためである。わたしは、多くと言つて、その数を定めない。なぜなら、すべての善徳と善業とに生命を与える仁愛の上にきずかれた霊魂の情念は、無限に増大しなければならないからである。だからと言つて、わたしは言葉を排除しなかった。ただ、わずかの言葉が欲しいと言つただけである。それは、外的行為はみな有限であることを理解させるためである。そのため、「わずかの」と言つたのである。しかし、言葉は、善徳の原理としてではなく、手段として用いるならば、わたしを喜ばせることに変わりはない。それゆえ、大きな苦業によって肉体を苦しめることに情熱的に努力する者は、それほどではない者よりも完全であると判断するようなことがあってはならない。なぜなら、すでに話したように、善徳も功徳もそのようなことに成り立つのではないからである。もしもそうだとしたら、正当な理由によって、この苦業の業と行為とを実行することのできない者は、不幸であろう。しかし、善徳はまったく、まことの分別の光明に照らされた仁愛のなかに存する。仁愛がなければ無価値である。分別は、方法を定めず、際限なく、わたしに与える。なぜなら、わたしは至上かつ永遠の「真理」だからである。分別は、わたしを愛する愛には法則も限度も定めることがない。しかし、隣人に対しては、愛徳の秩序にしたがって、当然のことながら、愛に限度を定める。分別の光明が隣人に与えるのは、規律のある愛である。この光明は、すでに話したように仁愛から発する。隣人に奉仕するためだと言つて、罪によって自分自身をそこなうのは、愛の秩序に反する。全世界を地獄から救うため、あるいは大きな善徳の行為をなすために、ただ一つの罪で十分であるとしても、これを犯すのは、分別によって秩序立てられた仁愛ではない。このような仁愛は分別を完全に欠いている。なぜなら、たとい善徳の偉大な行為をなすためであっても、あるいは隣人に奉仕するためであっても、罪を犯すことは許されないからである。聖い分別が要求する秩序はつぎの通りである。霊魂は、すべての能力をあげて、雄々しく、あらゆる配慮をつくして、わたしに奉仕する。そして、隣人を愛の情念によって愛し、その霊魂の救いのためには、できれば千度も、肉体の生命をささげる心構えを抱いている。隣人に恩寵の生命を獲得させるためには、どんな苦しみも、責苦も堪え忍ぶ覚悟である。そのうえ、隣人の肉体に奉仕するために、物質的富を消費する。以上が、仁愛から発する分別の光明のはたらきである。恩寵を所有したいと願うすべての霊魂は、分別によって以上のことをなすのであり、またなさなければならない。要するに、「わたし」を、無限で無条件な愛によって、愛さなければならないし、隣人を、すでに話したように、適度に、秩序のある愛によって、しかもわたしに対する無限の愛によって、愛さなければならない。他人に奉仕するためにと言つて、罪を犯し、自分自身に害を加えてはならない。聖パウロは、仁愛はまず自分自身から始めなければならない、と言つたとき、あなたがたにこのことを注意したのであった。さもなければ、他人に対して完全な奉仕をおこなうことはできないであろう。なぜなら、完徳が霊魂のなかにないならば、自分自身のため、あるいは他人のためになすすべてのことは、不完全だからである。わたしによって創造された有限な被造物を救うためと言つて、無限の「善」であるわたしに背くのは、適当ではない。この過失は、それに期待する結果よりも重大であろう。それで、どんな理由によっても罪を犯してはならない。まことに仁愛を所有している者は、これを心得ている。聖い分別の光明を所有しているからである。分別は、すべての暗黒を払い、無知を滅し、あらゆる善徳に、そして善徳のあらゆる手段と行為とに、浸透する光明である。分別は非の打ちどころのない賢明、なにものも打ち勝つことのできない力、きわめて偉大な、終わりまで続く堅忍をそなえている。分別は天から地に広がる。すなわち、「わたし」の認識から自分自身の認識へ、わたしに対する愛から隣人に対する愛に及ぶ。分別は、まことの謙遜によって、世のすべてのわなを避け、その賢明によつて、悪魔と被造物とのすべての誘惑を逃げる。分別は、武器をもたない手によって、すなわち長い忍耐によって、悪魔と肉とに勝利をしめる。その心地よく栄光にかがやく光明によつて、肉の弱さを示し、それと同時に、肉に対して抱かなければならない憎しみを抱かせる。このようにして、世を打ち倒したのである。すなわち、これを軽蔑し、これをみにくいと思い、これをあざ笑つて、その愛の足で踏みにじつたのである。こうして、世の主人となり大名となったのである。それゆえ、この世の人々は、霊魂の善徳に向かって、なにもなすことができない。いかなる迫害も、この善徳を成長させ、堅固にするだけである。この善徳は、すでに話したように、最初愛の感情によって宿され、ついで、隣人との出合いによって試され、これに対して豊かな実を産む。あなたに示したように、この善徳が証されず、試練のとき人々の前に光りかがやかないとしたら、それは、実際に心の奥に宿されていなかったからである。なぜなら、すでに話したように、隣人の仲介によらないで、善徳が存在すること、完全になること、実を結ぶことは不可能だからである。霊魂はその母胎に子供を宿した女に似ている。もしもこれを出産して、人目に見せないならば、その夫は、子供ができたと言うことができない。霊魂の「夫」であるわたしは、霊魂が善徳という子供を、隣人に対する愛徳のなかで産み、これを必要に応じて、全般的にも個別的にも見せないならば、すでに話したけれども、繰りかえして言うが、実際に善徳を宿したとは認めない。悪徳についても同じことを言いたい。悪徳はみな、隣人との出合いによって、犯されるのである。

神は大きな苦しみを使つてそのしもべたちを慰め、教会を改革することについて。

「真理」である「わたし」は、あなたも知るとおり、あなたに偉大な完徳を獲得させ、保持させる真理と教えとを述べた。わたしはまた同じように、過失と罪とを自分と隣人とのために償うにはどうすればよいかについて説明した。そのとき話したように、被造物が死すべき体のなかに生きているあいだに堪え忍ぶ苦しみは、もしも仁愛の感情、まことの痛悔、および罪に対する嫌悪と結びついていないならば、単独では、過失と罰とを十分に償うことができない。しかし、仁愛と結びつくならば、償うことができる。それは、あなたがたがなすことのできるなんらかの苦業の功徳によるのではなく、仁愛と犯した過失の痛悔との功徳による。この仁愛は、知性の光明と、「仁愛」そのものである「わたし」以外に対象をもたない純潔で惜しみない心とによって、獲得される。以上のことはみな、あなたがわたしに苦しみたいと願つたとき、説明したことである。わたしがこれをあなたに説明したのは、あなたとわたしの他のしもべたちとが、どの程度に、またどのような方法で、あなたがた自身を犠牲にささげなければならないかと知つてほしいからである。犠牲と言うのは、ちょうど主人に差し上げるコップと水のように、外的な犠牲と内的な犠牲とが一つになった犠牲のことである。コップがなければ水を差し上げることはできないし、主人は水のはいっていないコップを差し出されて喜ぶことはないであろう。あなたがたに言うが、あなたがたも、このように、あなたがたの多くの外的苦しみのコップを、どんな方法で送られようが、あなたがたに都合のよい時も、場所も、苦しみも選ばないで、わたしが送る通りに受諾して、わたしに差し上げなければならない。このコップは満たされていなければならない。もしもあなたがたが、すべての試練を愛の感情をもって受けるならば、そしてまた、罪に対する憎悪をともなったまことの忍耐をもって、あなたがたの隣人のすべての欠点を堪え忍ぶならば、このコップは満たされるであろう。これらの苦しみは、このようにして、霊魂に生命を与えるわたしの恩寵の水で満たされたコップになる。そうなれば、わたしは、わたしの親愛な妻、すなわちわたしによく仕えるすべての霊魂のこの贈り物、すなわち、その苦難、その願望、その涙、その溜め息、その謙遜、その絶え間ない祈りを、喜んで受ける。これらすべては、わたしにはなはだしい侮辱を加える敵と世の悪人とに対する怒りを、かれらに対して抱いている愛によって、やわらげるように取りなす手段である。それゆえ、雄々しく、死ぬまで、苦しみを堪えてほしい。それは、わたしにとつて、あなたがたがわたしを愛しているしるしになるであろう。被造物や艱難を恐れて、すきに背を向け、うしろを振り返つてはならない。あなたがたは、艱難のなかで喜ばなければならない。世はあなたがたに数多くの不義をおこなって喜んでいる。あなたがたは、世がわたしに加える不義を見て、悲しまなければならない。なぜなら、この不義はわたしを侮辱することによってあなたがたを侮辱するし、あなたがたを侮辱することによって、あなたがたと一つになっているわたしを侮辱するからである。あなたも熟知しているように、わたしはあなたがたにわたしの似姿を与えた。しかし、あなたがたは罪によって恩寵を失た。この恩寵の生命をあなたがたに取り戻させるために、わたしは、わたしの本性を、あなたがたの人性の被布でおおって、あなたがたに一致させた。このようにして、わたしの似姿であるあなたがたから、あなたがたの似姿を借りて、人間の形を取つた。霊魂が大罪によってわたしから離れないかぎり、わたしはあなたがたと一つである。なぜなら、わたしを愛する者はわたしのなかにとどまり、わたしはかれのなかにとどまるからである。しかし、このような人は、世から迫害されるであろう。なぜなら、世はわたしと同一化していないからである。そのため、世はわたしの「ひとり子」を、十字架の屈辱的な死に追い込んだのである。あなたがたに対しても同じである。世はあなたがたを迫害する。そして、死ぬまで迫害するであろう。なぜなら、世はわたしを愛さないからである。世がわたしを愛するならば、あなたがたも愛するであろう。しかし、喜ぶがよい。なぜなら、あなたがたの喜びは、天において、まったきものとなるからである。そのうえ、あなたに言いたい。聖なる教会の神秘体のなかに艱難が多くなれば多くなるほど、喜びと慰めとも多くなるであろう。喜びとは、栄光の花である聖人と善牧者との改革である。わたしの名に栄光と賛美とを帰し、真理のなかにきずいた善徳の芳香をわたしの方に立ちのぼらせるのは、かれらである。改革されるのは、芳り高い花であるべきわたしの司祭たちであり、牧者たちであろう。しかし、わたしの妻である「教会」の実は改革される必要はない。司祭たちの過失によって腐敗させられたり、衰微させられたりすることはないからである。だから、哀しみのなかにあっても、あなたの霊魂の父やわたしの他のしもべたちといっしよに喜ぶがよい。なぜなら、永遠の「真理」であるわたしが、あなたがたになぐさめを与えることを約束したからである。あなたがたが苦しんだのち、わたしは、聖なる教会の改革によって、あなたがたの辛い試練に、なぐさめをまじえるであろう。

神の答えによって、この霊魂の苦しみは、一方においてはやわらげられるが、他方においてはさらに増すことについて。聖なる教会と神の民とのために祈らなければならないことについて。

すると、自分自身のなかに抱いている果てしない望みに悩まされ、燃え立たされているこの霊魂は、神の大いなるいつくしみに対して、言い知れない愛を感じた。そして、これほど甘美に答えて下さり、願いを満たして下さつた神の仁愛の広大さを観想するのであった。神は、ご自分に加えられる侮辱、聖なる教会の悪、霊魂が自分自身の認識によって示された自分のみじめさに対して抱いていた悲しみに、希望を開いて下さつたではないか。この希望は苦しみをやわらげたが、しかしまたこれを増加させた。いと高く永遠な「父」は、完徳の道を示して下さったのち、さらに、あらためて、もっとくわしく説明されるが、分に対する侮辱と霊魂の亡びとについて話して下さったからである。霊魂は、自分自身の認識のなかで、もっとよく神を認識する。それは、自分自身に対する神のいつくしみを体験するからである。そのうえ、霊魂は、神のこの心地よい鏡のなかで、その尊厳と卑賎とを同時に認識する。霊魂は、その尊厳を創造によって与えられた。霊魂は、自分の側からはなんの功績もないのに、神の似姿としてつくられ、このたまものを、純然たる恩寵によってさずけられたことをさとる。霊魂はまた、神のいつくしみのこの鏡のなかで、自分自身の過失によって招いたそのみじめさを認識する。人間が鏡を見て、自分の顔のよごれをもっともよく認めるように霊魂は、自分自身のまことの認識をもつようになると、望みにより、知性の目で神の甘美な鏡を見るまでに上昇する。そして、神のなかに発見する清さによって、自分の顔のよごれをもっとよく認識する。ついで、この霊魂は、そのなかに、すでに話した方法で、光明と認識とが増したので、内心に、心地よい心痛が、第一の「真理」によって与えられた希望によって穏和された心痛が、増してゆくのを感じた。火はこれに薪を投げ入れると勢いを増すように、この霊魂の情熱は燃えさかり、その人間的体は、霊魂が離晩しないかぎり、これを堪えることができないほどになった。もしも、至上の力である「かた」が、力によって守つて下さらなかったら、死をまぬかれることができなかったにちがいない。このように、霊魂は、自分自身と神との認識のなかで発見した神的仁愛の火によって清められ、その望みは全世界の救いと聖なる教会の改革との希望によって高まった。そこで、いと高き「父」のみまえに、安心してのぼり、聖なる教会の癩と世のみじめさとを示したのち、モーとほとんど同じ言葉を使って申し上げた。わたしの主よ、おんあわれみの眼を、あなたの民であるこの民と聖なる教会の神秘体との上に注いでください。多くの被造物を赦し、これに認識の光明を与えてください。そうすれば、かれらは、あなたの無限のいつくしみによって、大罪の暗黒と永遠の亡びとから救われたのを見て、あなたを賛美するでしよう。そして、あなたは、あなたをはなはだしく侮辱したわたしからよりも、あらゆる悪の機会であり道具であるみじめなわたしからよりも、栄光を受けるでしよう。それゆえ、永遠の神的仁愛よ、わたしはあなたに祈ります。あなたの復讐をわたしの上に加え、あなたの民をあわれんで下さい。わたしは、あなたがこれをあわれんで下さらないかぎり、決してみ前を立ち去りません。それに、たといわたしが永遠の生命を有しているとしても、あなたの民が死のなかにいるとしたら、光明であるべきあなたの浄配が暗黒におおわれているとしたら、なんの役に立つでしようか。しかもそれは、主としてわたしの罪のため、他の被造物の罪のためではなく、わたしの罪のためではないでしようか。それゆえ、わたしはあなたに、あなたの民をあわれんでくださるよう、切にお願いします。これに慈悲を注いでください。あなたに人間をあなたの似姿として造らせたあの造られざる仁愛にかけて、お願いします。そのとき、あなたは、「人間をわたしたちの似姿に作ろう」と言われました。そして、ああ、永遠の三位一体よ、あなたは、人間がいと高く永遠な三位一体であるあなたとすべてを分かちあうように望まれて、そのとおり実行されました。あなたは、人間があなたの恩恵を保つて、「父」の力を分かつことができるように、記憶を与えられました。あなたのいつくしみを見てこれを認識し、あなたの「ひとり子」の英知を分かつことができるように、知性を与えられました。最後に、知性があなたの「真理」について見たもの、認識したものを愛し、それによって、聖霊の寛仁を分かつことができるように、意志を与えられました。あなたは、どのような理由で、人間にこれほどの尊厳を与えられたのでしようか。あなたは、はかり知れない愛によって、あなたの被造物をあなた自身のなかに眺め、これに夢中になられたのです。あなたは、これを愛によって造り、愛によって、あなたの至高かつ永遠な「善」を味わうことのできる存在を、これに与えられたのです。わたしは、人間が罪を犯して、あなたがかれに与えられた尊厳を失つたことを、よく分かります。人間は、その反抗によって、あなたの寛仁に対して、戦いを開きました。あなたの敵になりました。しかし、あなたは、あなたにかれを造らせたおなじ愛の火によって、大きな戦いに引きこまれた霊魂に和解の手段を与えようと望まれました。大きな戦いののちに大きな平和がおとずれるようにするためでした。そこで、あなたは、あなたとわたしたちとの「仲介者」であるあなたの「ひとり子」、「み言葉」をお与えになりました。かれはわたしたちの義となられました。なぜなら、わたしたちの不義を負われ、そして、ああ、永遠の「父」よ、あなたがかれに命じた従順を実行して、わたしたちの人性をまとわれ、わたしたちの姿と本性とを取られたからです。ああ、仁愛の深き淵よ、偉大そのものであるあなたが、これほどの卑賎まで、わたしたち人性まで、お降りになられたのを観想して、張り裂けない心があるでしようか。わたしたちはあなたの似姿です。そしてあなたは、永遠の「神性」をアダムの腐敗した肉のみじめな雲の下にかくし、人間と結ばれた一致によって、わたしたちの似姿になられたのです。その理由はなにだったのでしようか。「愛」だったのです。このようにして、神であるあなたは人間となり、人間は神となったのです。このくすしき愛によって、わたしはあなたに、あなたの被造物をあわれんでくださるよう要請し、哀願いたします。

神はキリスト教民とくにその聖職者の状態を嘆かれることについて。聖体の秘跡とご託身の恩恵とについて。

すると、神は、そのあわれみのまなこを、この霊魂に向けられた。そして、その涙に負け、その聖い望みのにしばられて、つぎのように嘆かれた。いとしいむすめよ、わたしはあなたの涙に負けた。なぜなら、この涙は、わたしの仁愛に一致しており、また、あなたがわたしに対して抱いている愛によって流されたからである。見るがよい。わたしの「浄配」の顔がどんなによごれているか、不浄と自愛心とによって、どんなに癩にかかっているか、どんなに貪欲と傲慢とにふくれあがっているかを。普遍的な「体」すなわちキリスト教と、聖なる教会の神秘的体すなわちわたしの聖職者たちとは、罪によって肥満している。わたしの聖職者たちは、自分自身に食べさせ、自分自身に乳房を吸わせている。しかし、かれらは、自分たちだけに食べさせるべきではなく、キリスト教民の普遍的体と、無信仰の暗黒から脱け出てわたしの教会の成員に加わりたいと望むすべての人々とに食べさせ、これに乳房を吸わせなければならないのである。わたしの「浄配」の光栄ある乳と血とが、どれほどの無知、どれほどの暗黒、どれほどの忘恩、どれほどのよごれた手によって分配されているかを見るがよい。かれらは、どれほど図々しく、どれほど不敬に、これをさずかったことであろうか。生命を与える「血」が、かれらの過失によって、しばしば死を与えるのである。しかも、それは、死を滅ぼし、暗黒を払い、真理と光明とを放ち、欺瞞を恥じ入らせるわたしの「ひとり子」の貴い「血」である。この「血」は、これを受ける心構えのある人間の救いと完徳とのために、あらゆるものを与え、有効にはたらく。この「血」は、これをさずかる者の心構えと情念とに応じて、あるいは多くあるいは少なく、霊魂に生命を与え、あらゆる恩寵によってこれを飾る。しかし、悪のなかに生き、大罪の暗黒のなかで卑劣にこれを飲む者には死を与えて、生命は与えない。それは、「血」の欠陥によるのではなく、また、悪の状態、あるいは大きな悪の状態におちいつている聖職者の欠陥によるのでもない。なぜなら、聖職者の悪は、「血」を腐敗させたり、汚したりすることも、その恩寵と功徳とを減らしたりすることもないし、まして、かれから「血」をさずかる者に害を与えることがないからである。しかし、この聖職者は、過失を犯して自分自身に害を加えるし、罰を受ける者となる。しかも、この罰は、その過失に対するまことの痛悔と悔恨とによらなければ、まぬかれることができない。それで、わたしが言いたいのは、この「血」は、これを卑劣に受ける者に害を与えるということである。すでに話したように、それは「血」の欠陥によるのでも、聖職者の欠陥によるのでもない。きわめて不幸なことであるが、自分の精神と体とを汚し、自分と隣人とにきわめて残酷な結果を招く自分自身の過失によって、邪悪な状態におちいっていることによるのである。たしかに、罪人は、その霊魂のなかで恩寵をほろぼし、その心のなかで「血」の実を足で踏みにじつて、自分自身に対し、残酷にふるまった。この「血」は、聖い洗礼において、かれに与えられたものである。そのとき、かれは、その父母によって宿されたとき背負わされた原罪の汚れを、この「血」によって取り除かれたのであった。全人類の集団は、第一の人アダムの罪によって腐敗させられた。そして、この集団から引き出されたあなたがたはみな、腐敗させられて、永遠の生命を所有することができなくなった。それゆえ、わたしは、わたしの「言葉」、わたしの「ひとり子」を、たまものとしてあなたがたに与えた。わたしは、わたしの偉大さをあなたがたの人性の卑賎さに一致させ、罪によって失つた恩寵を回復させた。わたしは、苦痛を感じないから、苦しみを堪え忍ぶことができなかった。しかし、わたしの神的「正義」は、過失に対して罰を下すことを求めた。他方、人間はその償いを果す十分な能力をもっていなかった。なんらかの償いを果たしたとは言、それは自分自身のためであって、理性をめぐまれた他の被造物のためではなかった。実のところ、人間は、自分のためにも他人のためにも、恩寵を受けるに足る償いを果たすことができなかった。なぜなら、過失は無限の「いつくしみ」である「わたし」に対して犯されたものだからである。それで、わたしは、堕落していて、さきに話した理由のために、そしてまた、その弱さのために、自分で償いを果たすことのできない人間を回復させたいと考え、わたしの「子」、「言葉」をつかわし、あなたがたと同じく、アダムの腐敗した集団から引き出された人性をまとわせた。それは、かれに、人間が罪を犯した同じ人性のなかで苦しみを受けさせ、その体のなかで、十字架の恥ずべき死にいたるまで、罰に服させ、わたしの怒りをなだめさせるためであった。このようにして、かれは、わたしの正義に償いをささげると同時に、人間の造られた目的である善に達することができるように、その過失をあがなうことを求めるわたしの神的あわれみを、満足させたのであった。このようにして、神の本性に一致した人間の本性は、全人類のために償いを果たすことができた。それも、実のところ、アダムの集団から出た有限な本性のなかで堪え忍んだ苦しみだけによるのではなく、永遠の「神性」、無限の神の本性の功徳によるのである。この二つの本性の一致のゆえに、わたしは、わたしの「ひとり子」の血のいけにえを喜んで受けいれた。このいけにえは、かれを十字架にしばりつけ釘つけるであった神的仁愛の火によって、神の本性と練り合わされ混ぜ合わされたものであった。このようにして、人間の本性は、もっばら神の本性の功徳によって、過失を償うことができた。アダムの罪のけがれは、このようにして消された。しかし、傷がなおったのちも傷あとが残るように、罪への傾きとあらゆる肉体的弱さとが、しるしとして残つた。アダムの過失はあなたがたに致命傷を負わせた。しかし、偉大な「医師」、わたしの「ひとり子」が降り、人間があまりに衰弱していたために飲むことができなかった苦いくすりを飲んで、病人をいやした。かれは、乳母のように、子供のためにくすりを飲んだ。なぜなら、かの女は大きく強いが、子供は苦味を我慢することができないからである。かれもまた乳母であった。あなたがたの本性と一致した「神性」の偉大さと力とをもって、過失のためにすかり衰弱した子供であるあなたがたをいやし、生き返らせるために、十字架の残酷な死という苦いくすりを飲んだのである。すでに話したように、あなたがたが宿されたときは、父母から背負つた原罪の傷あとしか残つていなかった。この傷あとさえも、この光栄ある貴い「血」の功徳により、恩寵の生命を与える効力のある聖い洗礼によって、不完全にではあるが、消された。霊魂が聖い洗礼を受けるやいなや、原罪は除かれ、恩寵が注賦された。悪への傾きは、すでに話したように、原罪の残した傷あとであるが、はるかに弱められ、霊魂は、望むならば、これをおさえることができるようになった。このようにして、霊魂は、わたしを愛し、わたしに奉仕する心状と望みとによって、自分自身準備する心構えのいかんに応じて、恩寵を、あるいは少なくあるいは多く受け、増加させることができるのである。しかし、霊魂は、聖い洗礼によって恩寵を受けているにもかかわらず、悪に対する傾きも善に対する傾きも、同じようにもつことができる。分別の年齢に達すると、霊魂は、自由意志により、その意志の好むところにしたがって、善あるいは悪を選ぶことができる。人間の自由はきわめて大きく、光栄ある「血」の功徳によって受けた力はきわめて強いので、自分が望まないかぎり、悪魔も被造物も、これにどんなに小さい罪でさえ、強制することができない。人間は、自分自身の官能を統御し、自分が創造された目的を達成するために、奴隷状態から解放されて、自由になったのである。ああ、みじめな人間よ、わたしから受けたはてしない恩恵を無視して、動物のように汚泥をたのしみにするとは。これほどの無知に満ちたみじめな被造物に、これ以上大きな恩恵を与えることができるであろうか。

キリストのご受難以後、過失は以前よりも重く罰せられることについて。はそのしもべたちの祈りと苦しみとを介して世と聖なる教会とにあわれみを注ぐことについて。

いとしいむすめよ、あなたに知つてほしいのは、人間は、さきに話したように、わたしの「ひとり子」の血のなかで再生させられ、人類を回復させる恩寵を受けたのちも、以前に劣らず、わたしが示した寵愛を無視しているということである。かれらは、相変わらず、悪から悪へ、過失から過失へと渡り歩き、わたしがかれらに与えたたまもの、与えつづけているたまものを少しも考えないで、絶えずわたしを侮辱しつづけている。かれらは、このたまものを恩寵とみなさないばかりか、ときには、これを不正義以外のなにものでもないと考えて、わたしがかれらの成聖以外のものを望んでいるかのように思つている。そこで、わたしは言いたい。かれらはもっとかたくなになり、もっと大きな罰を受けるにふさわしい者となる。なぜなら、贖い以前には、アダムの罪の汚れは消せなかったのに、今は、わたしの「子」の血の贖いを受けているからである。より多く受けた者がより多く返し、より多く与えてくれた者に対しては、より多くの負い目をもつというのが、道理である。わたしは、人間をわたしの似姿に造つて、これに存在を与えた。それゆえ、人間はわたしに対して多くの負い目をもっていた。だから、わたしに光栄を帰すべきであった。ところが、この光栄をわたしから盗んで自分自身に与えた。わたしが服従を命ずると、これに反抗して、わたしの敵となった。しかし「わたし」は、みずから卑下して、あなたがたの人性をとり、謙遜によって、かれの傲慢を砕いたし、あなたがたを悪魔の束縛から解放して、自由にした。しかも、わたしは、あなたがたに自由以上のものを与えた。よく見てほしい。神の本性と人間の本性との一致によって、人間は神になり、神は人間になったではないか。人間は、かれらを恩寵のなかで再生させた「血」の宝を与えられていて、わたしに対しなんの負い目もないと言えるであろうか。あなたは、贖い以後、人間がわたしに対して、贖い以前よりも大きな負い目をもっていることを、わかると思う。だから、人間は、肉となった「ことば」、わたしの「ひとり子」の跡にしたがって、わたしに栄光と賛美とをささげなければならない。ところが、人間は、このわたしに対する愛と隣人に対するいつくしみとの負い目を、さきに話したように、真実な善徳をもって返すことをしない。かれらはわたしに多くの愛を負つているのであるから、それを返さないならば、もっと大きな罪におちいる。それで、わたしは、神的正義によって、もっと重い罰を課し、永遠の亡びに処するのである。にせのリスト教徒は、異教徒よりも、きびしい罰を受けなければならない。神的正義により、決して焼きつくすことのない火によって、もっと焼かれなければならない。すなわち、もっと拷問を受けなければならない。そして、この拷問のなかで、良心のうじ虫に喰われるのを感じなければならない。しかしながら、この火は焼きつくすことがない。なぜなら、亡びた者は、その受ける拷問がどんなものであっても、決してその存在を失うことがないからである。それで、あなたに言うが、かれらは死を願う。しかし、与えられない。なぜなら、その存在を失うことができないからである。かれらは、その罪によって恩寵の存在を失う。けれども、自然の存在は失うことがない。それゆえ、「血」による贖い以後、罪は、以前よりも、はるかに重く罰せられる。なぜなら、もっと多く受けたからである。ところが、かれらは、その悪を認めず、これを意識していないかのようである。かれらは、わたしの「子」の血によって、かれらを和解させた「わたし」の敵となっているのである。しかし、わたしの怒りをなだめるくすりがある。それは、わたしのしもべたちである。かれらが十分な熱誠をもち、その涙によってわたしに強要し、その望みのくさりによってわたしをしばることである。あなたがどのようなくさりによってわたしをしばつたかは、あなたの知る通りである。しかし、このくさりをあなたに与えたのはわたし自身である。わたしは世にあわれみをかけたかったのである。たしかに、わたしの誉れと霊魂の救いとに対するこの飢えと望みとをわたしのしもべたちに起こせたのは、わたしである。それは、かれらの涙に負けて、わたしの神的正義の怒りをやわらげるためであった。あなたの涙と汗とを取るがよい。これをわたしの神的仁愛の泉から汲み取るがよい。そして、わたしの他のしもべたちといっしよに、わたしの浄配の顔を洗うがよい。このくすりは、たしかに、かの女の美を取り戻させるであろう。その美を取り戻させるのは、剣でも、戦争でも、暴力でもない。むしろ、平和であり、謙遜で絶え間ない祈りであり、わたしのしもべたちが熱烈な望みによって流す汗と涙である。多く苦しみたいというあなたの願いは、このようにして成就するであろう。あなたがたは、忍耐の光明をこの世の邪悪な人々の暗黒の上に注ぐであろう。だから、恐れてはならない。もしも世があなたがたを迫害するならば、わたしはあなたがたに味方するであろう。なにごとにつけても、わたしの「摂理」があなたがたに欠けることはないであろう。

この霊魂は、神のいつくしみを知つて、キリスト教徒のためだけではなく、全世界のために祈ることについて。

そこで、この霊魂は、その知識が増大するのを感じ、果てしない喜びに力づけられた。そして、神のあわれみに対して抱いていた希望と、味わっていた言い知れぬ愛とによって、押し上げられるようになって、神の「威光」の前に立つた。この霊魂は、神が、人間にあわれみを注ぎたいと願うその愛と望みとにより、人間の敵意にかかわらず、そのしもべたちに、ご自分のいつくしみを強要し、怒りをなだめる方法と道とを与えることを悟った。これによって、この霊魂は喜びに満たされ、世の迫害に対する恐れをことごとく除かれ、神は自分の味方であると確信するようになった。これによって、この霊魂は喜びに満たされ、世の迫害に対する恐れをことごとく除かれ、神は自分の味方であると確信するようになった。の聖い望みの火はますます燃えさかり、神からさずかったもので満足することができなくなった。それで、聖い信頼を抱いて、全世界のためにあわれみを哀願した。たしかに、聖なる教会の改革に関する第二の願いには、すでにキリスト教徒と異教徒との善と利益とが含まれていた。しかし、この霊魂は、神ご自身に鼓吹され、飢えた者のように、その祈りを全世界に広げ、つぎのように叫んだ。-永遠の神よ、あなたは善牧者です。どうぞ、あなたの羊たちをあわれんでください。そいで世をあわれんでください。このままでは、どうにもならないように思われます。なぜなら、みな、あなたとの間にも、あいたがいの間にも、仁愛による一致を失つているように思われるからです。永遠の「真理」よ、かれらは、もはや、あなたの上にきずかれた愛によって愛し合えなくなっているのです。

神は人間の悪とくに自愛心をいきどおり、この霊魂に祈りと涙とを求めることについて。

そこで、神は、わたしたちの救いに対する愛に燃えさかり、この霊魂のなかに、愛と悲しみとの火をますます掻き立てるよう努力された。そして、ご自分がどれほど大きな愛によつて人間を創造したかをあらためて示し、つぎのように言われた。ところで、あなたは、すぺての人がわたしに敵対しているのが見えるであろうか。わたしは、熱烈な愛の火をもってかれらを創造し、かれらに恩寵とほとんど無限な多くのたまものとを賦与したではないか。しかも、それを、かれらの側からはなんの功徳もないのに、純然たる恩寵によって実行したではないか。ところが、いとしいむすめよ、見るがよい。かれらは、いかにも重い多様な罪によって、とくに、すべての悪のみなもとであるあのみじめで憎むべき自愛心、かれら自身に対する愛によって、わたしに敵対しているではないか。全世界を毒したのはこの自愛心である。それというのも、わたしの愛はそのなかに隣人に関するあらゆる徳を含んでいるが、感覚的な自愛心は、すでに示したように、わたしの愛が仁愛から発するのとはちがい、傲慢から発するのであって、そのなかにあらゆる悪を含んでいるからである。れらは、隣人に対する仁愛から分離され切断されているので、この悪を被造物を介して犯す。かれらはわたしを愛さないから、隣人を愛さない。なぜなら、この二つの愛は、解くことができないほど一つに結びついているからである。それゆえ、わたしはあなたに、すべての善と悪とは隣人を介しておこなわれると言つたのである。これは前に説明した通りである。人間は、わたしから善しか受けていないのに、憎しみを返し、あらんかぎりの悪をおこなつているのであるから、わたしは人間に対していきどおりを抱かざるをえない。それゆえ、すでに話したように、わたしの怒りをなだめるためには、わたしのしもべたちの涙が必要である。それで、あらためて言いたい。わたしのしもべであるあなたがたは準備してほしい。そして、あなたがたがその多くの祈り、苦難、願望、わたしに加えられる侮辱とかれらの亡びとに対する悲しみをもって、わたしの前に進み出て、わたしの神的正義の怒りをなだめてほしい。

神はすべての人をあわれみあるいは正義によって捕えているから、だれも神の手をのがれることができないことについて。

だれもわたしの手をのがれることができないことを知つてほしい。なぜなら、わたしは「存在者」であるが、あなたがたは、あなたがた自身で存在するのではないからである。あなたがたは、わたしによって造られた程度にしか存在しない。わたしはすべてのものの創造主であって、これに存在を分かつ。しかし、罪の創造主ではない。なぜなら、罪は存在ではないからである。したがって、罪は「わたし」によって創造されたものではない。罪は「わたし」のなかにはないから、愛される価値がない。被造物は、「わたし」を愛する義理と義務とがある。なぜなら、わたしは至高の善であり、しかも、きわめて熱烈な愛をもって、被造物に存在を与えたからである。ところが、被造物はわたしを侮辱する。なぜなら、愛してはならないもの、すなわち罪を、愛するからである。しかし、人間は、わたしからのがれることができない。あるいは、かれらの過失を罰するわたしの正義に捕えられて、わたしのなかにいるか、あるいは、わたしの慈悲に守られて、わたしのなかにいるか、どちらかである。だから、知性の目を開いて、わたしの手を眺めるがよい。わたしが言つていることが真理であることが分かるであろうそこで、この霊魂はこの偉大な「父」に従うために、精神の目を開いた。すると、この神の手のなかに、宇宙全体がこもっているのが見えた。神は言われた。いとしいむすめよ、だれもわたしをのがれることができないことを見て知るがよい。すでに話したように、みながここに正義あるいは慈悲によって捕らえられている。なぜならなが「わたし」によって造られ、「わたし」に属しているし、わたしはみなを言葉に言いつくせないほど愛しているからである。それゆえ、わたしは、かれらの邪悪さにかかわらず、わたしのしもべたちに免じて、かれらに慈悲を注ぐし、あなたがあれほどの愛と悲しみとをもってわたしにおこなった願いを聞きとどけるであろう。

この霊魂はますます愛に燃え、血の汗を流したいと望んだことについて。その霊的父のために、神に特別な祈りをささげたことについて。

すると、この霊魂は、ますます燃えさかるその望みの火のなかで、酔いしれ、われを忘れたようになって、至福と悲しみとを同時に感じるのであった。神のなかでおこなった一致によって、その喜びといつくしみとを味わい、その慈悲に完全に沈められたようになっていたので、至福であった。しかし、それと同時に、これほど偉大ないつくしみが侮辱されるを見て、悲しみに閉ざされていた。そして、神の「威光」に対して感謝をささげた。なぜなら、神が被造物のみじめさを示されたのは、この霊魂の熱誠をもっと高め、その望みをもっと広げざるを得ないように仕向けるためであることをさとつたからである。この霊魂は、その感情が永遠の「神性」のなかであらたにされるのを感じ、この愛の聖火がきわめてはげしくなったので、霊魂が肉体に加えた暴力のもとで、水の汗が流れた。なぜなら、この霊魂が神と結んだ一致は霊魂と肉体とのあいだにある一致よりも密接だったからである。この霊魂が感じていた愛の熱情と肉体に加えた暴力とは、肉体に汗を流させた。けれども、霊魂はこの水の汗を軽蔑した。なぜなら、その体から血の汗が流れるのを熱望していたからである。霊魂は自分自身に言つた。ああ、わたしの霊魂よ、おまえはおまえの生命の全期間を浪費した。そのために、おびただしい悪と災いとが、世界と聖なる教会との上に、全体的にも個別的にも襲いかかった。だから、おまえは、血の汗によって、これほどの悲惨をいやすがよい。まことに、この霊魂は、「真理」が述べた教えを立派に心にとどめていた。それは、自分自身に対する神のいつくしみをいつも認識すること、そしてまた、神の怒りと正義とをなだめて、全世界に救いをもたらすために必要なくなり、すなわち謙遜で、絶え間ない聖い祈りをささげなければならないこと、これである。すると、この霊魂は、聖い望みにかられて、はるかに高くのぼり、知性の目を開いて、神の仁愛のなかで自分を熟視した。そして、そこで、わたしたちが、霊魂の救いによって、神のみ名の栄光と賛美とをどれほど愛し、求めなければならないかを見、かつ味わった。霊魂は、神のしもべたちはそのために召されていること、および永遠の「真理」は、その霊魂の「父」を召し、選定されたことをさとつた。霊魂は、この「父」をいつも神の「いつくしみ」の前に運び、かれがまことにこの「真理」に従うことができるように、かれに恩寵の光明を注いでくださることを祈り求めるのであった。

忍耐ぶかく患難を堪え忍ばなければ、神意に添うことができないことについて。神はなぜ、この霊魂とその霊的父とに、まことの忍耐をもって患難を堪え忍ぶようはげますかについて。

すると、神は、霊魂がその霊的「父」の救いに対する渇望にかられてささげた第三の願いに答えて、つぎのように言われた。いとしいむすめよ、わたしは、かれ自身、霊魂の救いに対する飢えとこれに献身する熱誠とによって、「真理」であるわたしを喜ばせるよう努力することを望んでいる。しかし、かれも、他のだれも、すでに話したように、わたしがあなたがたに許す数多くの迫害を堪え忍ばなければ、これを成しとげることができない。それゆえ、あなたがたが、聖なる教会のなかで、わたしに誉れがささげられるのを見たいと願うならば、苦しみに対する愛とこれをまことの忍耐をもって堪え忍ぶ意志とを抱かなければならない。わたしは、これによって、かれと、あなたと、わたしの他のしもべたちとが、わたしの誉れを真実に求めていることを認めるであろう。そうすれば、かれはわたしの至愛な息子になるであろう。そして、かれと他の人々は、わたしの「ひとり子」の胸にいこうことができるであろう。わたしの「ひとり子」はわたしが架けた橋である。あなたがたはみな、その橋を渡つて、あなたがたの目的に達し、あなたがたがわたしに対する愛のために凌いだすべての苦しみの実を受け取るであろう。だから、雄々しくこれを堪え忍んでほしい。

アダムの不従順によって天に通じる道が破壊されたので、神はその「ひとり子」を橋となし、天への道を再開されたことについて。

わたしはあなたに、わたしの「ひとり子」、「言葉」を橋に仕立てたことについて語つた。これは真理である。いとしい子供たちよ、つぎのことを知つてほしい。アダムの罪と不従順とによって道が破壊され、だれも恒久的な生命に達することができなくなった。それで、人間は、わたしにささげなければならない栄光を、しかるべき方法でささげることができなくなった。なぜなら、わたしがかれらを創造した目的である善を分かつことができなくなったからである。そして、そのため、わたしの「真理」はまっとうされなかった。真理とはつぎの通りである。わたしは、人間が不滅の生命を所有し、わたしと分かち合い、わたしの「いつくしみ」の至高かつ永遠のたのしさを味わうことができるように、これをわたしの似姿として創造した。しかし、過失が天とわたしの「あわれみ」の門戸とを閉ざしたために、この目的を達することができなくなり、わたしの「真理」はまっとうされなくなつた。罪はいばらを生じ、さまざまの穀難と葛藤とを生んだ。被造物は、自分自身のなかに、謀叛が起きているのをさとつた。なぜなら、被造物はわたしに謀叛するやいなや、自分自身に謀叛したからである。肉は、ただちに、霊に対して戦いを起こし、人間は、無垢の状態を失つて、けがらわしい動物になった。そして、わたしが与えた状態にとどまっていたら、かれに従つたにちがいないあらゆる被造物と、戦わなければならなくなった。人間は、この状態を放棄したために、わたしの掟に背き、霊魂も肉体も永遠の死におちいる羽目になった。人間は、罪を犯すやいなや、激流におそわれ、絶えずその水に悩まされるようになった。人間は、苦労と責苦、自分自身からの責苦、悪魔からの責苦、世俗からの責苦を、堪え忍ばなければならなくなった。みながこの激流におぼれ、だれひとり、そのすべての義をもってしても、永遠の生命に達することができなくなかった。 それゆえ、わたしは、あなたがたのこれほど大きな不幸をいやしたいと考え、わたしの「子」を橋として与えた。あなたがたが、それを通つて、おぼれないで河を渡ることができるようにするためである。この河は、暗い生命のあらしに満ちた海である。 だから、被造物はわたしに対してどれほどの負い目があるか、このうえ溺れて、しかも、わたしが与えた助けを受けつけようとしないというのは、どれほどおろかなことであるかを、わかってほしい。

神はこの橋の偉大さを観想するようすすめることについて。この橋は地上から天上に及ぶことについて。

あなたの知性の目を開いて、盲目な人々と無知な人々、不完全な人々とまことにわたしに従う完全な人々とを見るがよい。そうすれば、あなたは、無知な人々の亡びに対する悲しみとわたしのいとしい子供たちの完全性に対する喜びとを感じるであろう。あなたはまた、わたしの光明のもとに歩む者と暗黒のなかを歩む者とが、どのように行動するかを見るであろう。しかし、その前に、わたしの「ひとり子」の「橋」を眺め、天上から地上に及ぶその偉容を見てほしい。それというのも、偉大な「神性」があなたがたの人性の地と一致しているからである。それゆえ、この橋は、人間と一致することによって、天上から地上に及ぶと言つたのである。これは、すでに話したように、破壊された道を修復し、世の苦難を通つて生命に達することができるようにするために必要であった。ただ地だけによっては、河を渡つて永遠の生命に達するために十分な偉大さをきずくことができなかった。なぜなら、人性の地は、それだけでは、すでに語つたように、過失を償い、全人類を腐敗させ毒したアダムの罪のけがれを除去することができなかったからである。それゆえ、これを永遠の「神性」であるわたしの偉大な本性に結合させ、全人類のために償いを果たすことができるようにする必要があった。すなわち、人性が苦しみを凌ぎ、この人性と一致した神性が、わたしの「子」がわたしにささげたあの犠牲を受諾して、死をほろぼし、生命を取り戻す必要があった。このようにして、「いと高き者」はあなたがたの人性の地までくだり、これと一致することによって、橋をきずき、道を再開したのである。なんのための道であろうか。それは、人間が真実に天使たちとともに喜ぶことができるようになるための道である。しかし、生命を獲得するためには、わたしの「子」が橋となるだけでは足りない。あなたがたが、この橋を渡らなければならない。

わたしたちはみな、聖なる教会のぶどう畑に働く神の労働者であることについて。各人は自分自身というぶどう畑をもっていることについて。皆が御子のぶどう畑と一つにならなければならないことについて。

ここで、永遠の「真理」は、この霊魂に、神はわたしたちの同意を待たないでわたしたちを創造したが、わたしたちの同意を待たないでわたしたちを救うことがないことを示された。そして、わたしたちが、与えられた時を、わたしたちの自由意志と自由な意欲とによって、まことの善徳の実行に用いるよう望んでいると話されたのち、つづけて次のように語られた。あなたがたはみな、霊魂の救いのなかにわたしの名の栄光と賛美とを求め、数多くの労苦をつぐいとして堪え忍び、愛の甘美な「言葉」のあとに従つて、この橋を渡らなければならない。あなたがたにとつて、わたしのもとに来るには、他に方法はない。あなたがたは、わたしが聖なる教会のぶどう畑に働かせるために配置し送つたわたしの耕作者である。あなたがたはキリスト教の普遍的体のなかに働いている。わたしは、あなたがたが聖なる教会の神秘的体から受けた聖い洗礼の光明を、あなたがたといっしよに働かせるために送つた聖職者の手によって与えたのち、あなたがたをそこに配置したのである。あなたがたは普遍的体のなかにいる。かれは、神秘的体のなかにいて、あなたがたに授ける秘跡によって「血」をあなたがたに分かち、あなたがたの大罪のとげを抜き取り、あなたがたのなかに恩寵を蒔く。かれらは、聖なる教会のぶどう畑と一つになったあなたがたのぶどう畑に働くわたしの耕作者である。理性を与えられた被造物はみな、自分自身のなかにひとつのぶどう畑、すなわちその霊魂のぶどう畑を所有している。あなたがたは、生きているあいだ、意欲と自由意志とによって、このぶどう畑に働く。この期間をすぎると、善い働きも悪い働きも、なすことができないが、生きているあいだは、わたしに指定された自分のぶどう畑をたがやすことができる。この霊魂の耕作のためにわたしが与えた力はきわめて大きく、自分が同意しなければ、悪魔からも、他の被造物からも奪われることがない。この力は聖い洗礼によってさずかったのであるが、それと同時に、あなたがたは、善徳に対する愛と悪徳に対する憎しみとのつるぎをさずけられた。わたしの「ひとり子」は、この愛と憎しみとのために、すなわち、あなたがたに対する愛と罪に対する憎しみとのために、死去し、あなたがたの上にその血を注いだ。そして、あなたがたは、その血の功徳によってあなたがたに生命を取り戻して与える聖い洗礼のなかで、この愛と憎しみとを見出すのである。それゆえ、あなたがたは、武器を手にしている。この武器を、時があるあいだに、大罪のとげを抜き取り、善徳を蒔くために、自由意志によって用いなければならない。さもければ、あなたがたは、「血」の効果にあずかることができないであろう。この「血」は、わたしが聖なる教会に配置した耕作者たちによって分配される。かれらは、すでに話したように、この「血」をたたえている秘跡、聖なる教会によって執行される秘跡によって、霊魂のぶどう畑から大罪を除き、これに恩寵を与える役目を果たすのである。だから、あなたがたは、「血」のあたいを受ける前に先ず第一に、心の痛悔と罪に対する嫌悪とにより、そしてまた善徳に対する愛によって、身を清めなければならない。あなたがたは、あなたがたの側から、わたしの「ひとり子」であるぶどうの木に結合した良い枝になる心構えを抱かなければ、これを受けることができないであろう。わたしの「ひとり子」は、「わたしは『ぶどうの木』であって、わたしの『父』は耕作者である。あなたがたはその枝である」と言つたではないか。これが真理である。わたしこそ耕作者である。なぜなら、存在を有するものはみな、「わたし」から発したし、また発するからである。わたしの力は測り知れない。わたしは、わたしの力と徳とによって全宇宙を統治する。したがって、わたしなくしては、なにものも造られないし、統治されない。たしかに、わたしは耕作者である。わたしの「ひとり子」のまことのぶどうの木を、あなたがたの人性の土地に植えたのはわたしである。そしてそれは、枝であるあなたがたが、このぶどうの木に接合されて、実を結ぶためである。聖い善業の実を結ばない者は、「ぶどうの木」から切り取られて枯れるであろう。なぜなら、実を結ばない枝は、もうなんの役にも立たないから、切り取られて火に投げ入れられるように、「ぶどうの木」から切り離された者は、恩寵の生命を失い、永遠の火に投げ入れられるからである」。この人たちも同じである。自分自身の過失によって、「ぶどうの木」から切り取られたかれらは、大罪の過失のなかに死んだままであるならば、神的「正義」によって、永遠に燃える火に投げ入れられるほかはない。なんの役にも立たないからである。かれらは、自分のぶどう畑をたがやさなかった。それどころか、これを荒らしてしまった。自分たちのぶどう畑だけではなく、他の人のぶどう畑も。そこに善徳の良い木を育てるかわりに、そこから恩寵の種子を取り除いた。この種子は、聖い洗礼の光明のなかで、まことの「ぶどうの木」があなたがたのためにこしらえたぶどう酒であるわたしの「子」の血を分かつことによって、さずかったものであった。かれらは、この種子を取り上げて、動物に、すなわち多様な、おびただしい罪に、飼料として投げ与えたのである。かれらは、みだらな愛情の足によってこれを踏みにじり、わたしを侮辱し、自分と隣人とに不幸をもたらした。しかし、わたしのしもべたちは、そのようにはしない。あなたがたも、かれらにならつて、このぶどうの木と結びつき、これに接ぎ木されていなければならない。そうすれば、あなたがたは、ゆたかな実を結ぶであろう。なぜなら、このぶどうの木の樹液を分かつことができるからである。あなたがたは、わたしの「子」、「言葉」にとどまることによって、わたしにとどまるであろう。なぜなら、わたしはかれと、かれはわたしと一つだからである。あなたがたは、かれにとどまることによって、かれの教えに従うであろう。かれの教えに従うことによって、この「言葉」の本体を分かつであろう。すなわち、あなたがたは、人性と一致した永遠の「神性」を分かち合うものとなり、そのなかに、霊魂を酔わす神の愛を汲み取るであろう。それゆえ、あなたがたは「ぶどうの木」の本体を分かつと言つたのである。

神はぶどうの木と一つになっている枝を手入れすることについて。-各人のぶどう畑は隣人のぶどう畑と密接に結びついていることについて。一方をたがやすか荒らすかすれば、必ず他方をたがやすか荒らすかすることになることについて。

わたしのしもべたちが、愛の甘美な「言葉」の教えに柔順に従うとき、わたしがどのようにかれらに対応するか、あなたは知つているであろうか。わたしはかれらに手入れして、野性的な実ではなく、豊かで美味な実を結ばせる。耕作者は、ぶどうの木に残した良い枝に手入れして、良質のぶどう酒を多量につくり、実を結ばない枝は切つて火に投げこむ。まことのぶどう耕作者であるわたしも同じである。わたしは、わたしにとどまっているしもべたちを、多くの苦難によって育て、良質の実をたくさん結ばせ、それによって、かれらのなかにある善徳を証明させる。実を結ばない枝は、すでに話したように、切り取つて火に投げ入れる。作者は、その霊魂をよくたがやし、そこから自愛心をことごとく引き抜き、その愛情の土をわたしのなかで掘り返す。かれらは、このようにして、聖い洗礼によってさずかった恩寵をつちかい、成長させる。かれらは、自分たちの霊魂をたがやすと同時に、隣人の霊魂もたがやす。他方をおいて一方をたがやすことはできない。わたしが、すべての悪もすべての善も、隣人を介しておこなわれると話したことを、思い出してほしい。あなたがたは、至高かつ永遠の耕作者であるわたしが送つた耕作者である。わたしは、あなたがたと一致することによって、あなたがたを「ぶどうの木」に接ぎ木したのである。理性的被造物は、めいめい、隣人のぶどう畑に直接につながっているぶどう畑をもっていることを、よく心得ていてほしい。両者はきわめて密接につながっていて、自分自身に善をなすか害を加えるかするときは、必ず隣人に善をなすか害を加えるかするのである。あなたがたはいっしよに、ただ一つの普遍的なぶどう畑を、すなわち、聖なる教会の神秘的体のぶどう畑と一つになっていてそこから生命を汲み取るキリスト者の社会を、形づくつている。このぶどう畑には、ひとつの「ぶどうの木」、わたしの「ひとり子」が植えられている。そして、あなたがたはこれに接ぎ木されなければならない。もしも、あなたがたがこれに接ぎ木されていないならば、ただちに、聖なる教会に反逆する者となる。体から切り離された肢体のようになり、すぐさま、腐敗しはじめる。たしかに、あなたがたは、まだ時があるあいだに、まず、まことの痛悔によって、この罪の腐敗からのがれ、わたしの聖職者たちに依り頼むことができる。かれらはわたしの耕作者であって、このぶどうの木から取れたぶどう酒、すなわち、「血」の鍵を保管している。この血は、きわめて完全であるから、聖職者のいかなる過失によっても、その実を失うことがない。技をぶどうの木に結ぶのは仁愛である。仁愛は、自分自身と「わたし」とのまことの認識のなかで獲得したまことの謙遜によって、これを結ぶのである。これによってわかるように、あなたがたはみな、わたしのぶどう畑に、わたしが送つた耕作者である。わたしは、いま、あらためて、あなたがたをそこに招きたい。なぜなら、世はますます悪化しているからである。いばらが生いしげって、種子をおおいふさぎ、恩寵の実をなにひとつ結ばせないほどになっているからである。それゆえ、あなたがたは、まことの耕作者となり、聖なる教会の神秘的体のなかに、大きな熱誠をもって、霊魂を栽培してほしい。わたしがこう言うのは、あなたの切なる望みに答えて、世にあわれみを注ぎたいからである。

霊魂は、橋を渡る者と渡らない者とについて話して下さるよう神に祈ることについて。

すると、この霊魂は、愛の苦悩のなかで、つぎのように申し上げた。ああ、いとも甘美で名状しがたい仁愛よ、これほどの愛に対して、だれが燃え立たないでいられましようか。どんな心が、燃えつくされるのを、防ぐことができるでしようか。ああ、仁愛の深き淵よ、あなたは、あなたの被造物に夢中になっておられ、被造物なくしては生きていられないかのように思われます。けれども、あなたはわたしたちの神です。あなたにとつてわたしたちは少しも必要ではありません。わたしたちの善はあなたの偉大さになにも加えることができません。あなたは不動だからです。至高かつ永遠の「善性」であるあなたに対して、わたしたちの悪はなんの害も加えることができません。それではなにが、あなたをこれほどのあわれみに駆り立てるのでしようか。愛です。あなたがわたしたちに対して負つている義務ではありません。あなたにとつて、わたしたちが必要なのではありません。わたしたちこそ、あなたに対して、義務と負債とがあるのです。わたしの理解が正しいとすれば、至高かつ永遠の「真理」よ、盗賊はわたしです。ところが、あなたがわたしの代わりに罰せられるのです。「みことば」、あなたの「おん子」が十字架にしばりつけられ、釘づけにされているのが見えます。あなたは、あなたのみじめな使い女であるわたしに示してくださったように、この十字架を橋にしてくださいました。これを思うと、わたしの心は張り裂けます。あなたに対する飢えと望みとによっても張り裂けないのに。あなたが、この橋を渡る者とはどういう人々であるか、また、これから遠ざかる者とはどういう人々であるかを、わたしに示したいと望んでおられたことを、思い起こしてください。あなたの「いつくしみ」が、これを示してくださるおぼしめしでしたら、わたしにとつて、それを見、それをあなたからうかがうのは、どんなにせなことでしよう。 

この橋には霊魂の三つの状態を示す三つの階段があることについて。この橋は、高いけれども地に着いていることについて。-キリストの「わたしが天にあげられたら、すべてをわたしに引き寄せる」という言葉の意味について。

すると、永遠の神は、この霊魂の人々の救いに対する愛をますます燃え立たせ、はげますために、これに答えて言われた。あなたがわたしに願つているもの、わたしがあなたに示したいと望んでいるものを、あなたに見せる前に、この橋がどのようにできているかについて説明したい。すでに話したように、この橋は天と地とを結んでいる。それは、「わたし」が、黄土で造つた人間と結んだ一致による。わたしの「ひとり子」であるこの橋には三つの階段があることを知つてほしい。二つは至聖なる十字架の木の上で造られ、三つ目は、酢と胆汁とを飲まされて大きな苦悩を感じたとき、造られた。この三つの階段は、すでに説明したように、霊魂の三つの状態を認識させる。第一の階段は足であって、愛情を意味する。そのわけは、足が体を支えているように、愛情は霊魂を支えているからである。足は、心の秘密があなたに示される脇腹に達することができるように、大きな階段を形づくつている。このように、霊魂は、愛情の足でのぼりながら、心の愛を味わいはじめ、わたしの「子」の開かれた心を、知性の目をもって見つめる。そして、そこで、無我で名状することのできない愛を見出す。わたしが「無我で」と言うのは、自分自身の利益のために愛さないという意味である。わたしと同一であるわたしの「子」が、あなたがたから自分自身の利益を手にすることができるであろうか。それで、霊魂は、自分がこれほどまで愛されているのを見て、愛に満たされる。霊魂は、第二の階段を越えると、第三の階段、すなわち口に達する。そしてそこで、その過失が巻き起こした大きな戦いののち、平和を見出すのである。第二の階段では、その足を地上の束縛から解放し、悪徳を脱ぎ棄てる。第二の階段では、愛と善徳とに満たされる。第三の階段では、平和を味わう。要するに、橋には三つの階段がある。最後の階段に達するためには、第一と第二の階段を越えなければならない。この橋は、河の流れがとどかないように、高く築かれている。罪の毒は決してこれを汚したことがない。このように高く築かれたこの橋ではあるが、それでいて地に達している。いつこのように高くあげられたか、あなたは知つているであろうか。至聖なる十字架の木の上にあげられたときである。そのとき、「神性」は、地上の谷間のようなあなたがたの人性から離れなかった。それゆえ、わたしはあたに、かれは高くあげられたけれども地から離れなかった、と言つたのである。なぜなら、二つの本性はたがいに一致結合しているからである。この橋が高く築かれないうちは、だれもそれを渡ることができなかった。そのため、かれは、「わたしが地からあげられたとき、すべてをわたしに引き寄せるであろう」と言つたのである。 わたしの「いつくしみ」は、他の方法ではあなたがたを引き寄せることができないのを見て、かれを送つて、十字架の木の上にあげた。わたしは、これを鉄床となし、その上で人類の子らを鍛煉し、これを死から救い出し、そのなかに恩寵の生命を回復させた。このようにして、かれは、すべてをかれに引き寄せ、わたしがあなたがたに対して抱いている名状しがたい愛を示したのでしる。それというのも、人の心はいつも愛に引かれているからである。かれは、あなたがたのためにその生命を棄てること以上に、大きな愛の証しを示すことができたであろうそれゆえ、人間は、この愛の引力に抵抗するほど盲目でないかぎり、これに引かれざるをえない。わたしの「子」が、高くあげられたときすべてを引き寄せると言つたのは、そのためである。そして、それは真理である。これを理解するには、二つの方法がある。一つは、人間の心が、愛の情念に駆られて、霊魂のすべての能力、すなわち、記憶、知性、意志をもって、これを体験することである。この三つの能力が、わたしの名において協調し集合するならば、人間のほかのすべての働きは、外的なものも内的なものも、共感的にわたしの方に引かれ、愛の情念によって、わたしのなかで一致する。人間はこのようにして、十字架にかけられた愛に従い、高いところを目ざして登るのである。だから、わたしの「真理」が、「わたしが高くあげられるとき、すべてをわたしに引き寄せる」と言つたのは、もっともであった。なぜなら、心と霊魂の諸能力とをとらえたのち、そのすべての働きを、自分に引き寄せるからである。もう一つの方法は、万物は人間が使用するために造られているのであるから、すべては、理性的な被造物の役に立ち、その需要に答えるようにできているけれども、理性を与えられた被造物は、これらの物のために造られたのではなく、その心をつくし、その愛情をつくして、わたしに仕えるために、造られていることを、理解することである。そうすれば、人間はわたしの「子」の方に引かれている以上、すぺては「かれ」の方に引かれている、なぜなら、他のすべては人間のために造られているからである、ということを理解することができるのである。要するに、橋は高く築かれていて、しかも階段がついている必要があった。もっとたやすく登ることができるためである。

この橋は石すなわち善徳でできていることについて。-橋の上には旅人に食物を与える宿泊所があることについて。橋の上を通る者は生命に達し、下を通る者は亡びと死とにおちいることについて。

この橋は石で築かれている。それは、雨が降つても、旅人が邪魔されないためである。この石はどういう石か知つているであろうか。それは、まことの堅固な善徳である。この石は、わたしの「子」の受難前には、築かれていなかった。それゆえ、だれも、どんなに忠実に善徳の道を歩んでも、目的に達することができなかった。なぜなら、天はまだ「血」の鍵によって開かれていなかったので、正義の雨が、通行を阻止していたからである。しかし、石が切られて、すでに話したように、橋である「言葉」、わたしの優しい「子」の体のうえに置かれた。すると、かれは、自分の「血」と石灰とを練り合わせて、石を接合した。すなわち、仁愛の力と火とによって、血と「神性」の石灰とが練り合わされた。この善徳の石は、かれ自身の上に、わたしの力によって据えられた。かれの上に土台をもたない善徳は一つもないし、すべてがかれにおいて試され、かれによって生命を保つのである。それゆえ、かれによらなければ、かれの跡に、そしてその教えに、従わなければ、だれも、恩寵の生命を通じ与える善徳を保つことができないのである。善徳を成熟させ、これを生きた石として、その血によって接合させて、据えたのはかれである。それは、すべての信徒が、神的正義の雨に阻止されるという奴隷的な恐れを少しも抱かないで、安心して渡ることができるためである。それというのも、信徒はみな、あわれみに守られているからである。このあわれみは、わたしの「子」の受肉によって、天から降つたのである。それでは、天はどうして開かれたのであろうか。かれの血の鍵によって。以上話したことで、あなたは、橋がどのように築かれているか、あわれみによってどのように守られているかを、理解したと思う。この橋の上には、聖なる教会の庭園のなかに、宿泊所があり、生命の「パン」を保有していて、これを分配し、「血」を飲ませる。それは、わたしの被造物である旅人たちが、その旅のあいだに、疲労によってたおれないためである。このような考えで、わたしの「ひとり子」の血と体とを、あなたがたに分け与えるよう定めたのである。橋を渡ると、これと一体をなしている「門」に達する。みな、この門から入らなければならない。かれは、「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを通る者は、くらやみのなかではなく、光のなかを歩む」と言つたではないか。わたしの「真理」は、別のところで、だれも「かれ」によらないでは「わたし」に来ることができないとも言つている。まつたく、そのとおりである。よくおぼえていると思うが、わたしが道をあなたに示したいと思つたとき、あなたに話し、あなたに説明したのは、このことであった。だから、かれがわたしは「道」であると言うのは、真理以外のなにものでもない。すでにあなたに示したように、この道は橋の形を取つている。かれはまた、わたしは「真理」であるとも言つた。そのとおりである。なぜなら、かれは至高の「真理」である「わたし」と一体だからである。それで、かれに従う者は、真理と生命との道を歩むのである。この「真理」に従う者は、恩寵の生命を受けるし、飢えにたおれることがない。なぜなら、「真理」がその食物となるからである。そのうえ、くらやみに落ちることがない。なぜなら、かれはいつわりのない光明だからである。それどころか、悪魔がエヴアを誘惑するために使たいつわりを恥じ入らせ、打ち砕いたのは、かれである。このいつわりによって、天の道は切断された。しかし、「真理」はこの道を再築し、「血」によって固めた。それで、この道を歩く者は、「真理」の子である。なぜなら、「真理」に従うからであり、「真理」の門を通るからであり、そしてまた、わたしのなかで、道であり門であるわたしの「子」、永遠の「真理」、「平和の大洋」と一致するからである。しかし、この道から離れる者は、下を、河を通る。この道は石でできているのではなく、水でできている。水には安定性がないから、そこを歩く者は、みな溺れる。この水は、世の快楽と名誉でできている。その愛を石の上に築かず、これをみだらな執着によって被造物のなかに置き、わたしの外で被造物を愛し、これを所有する者にとつて、被遣物は絶えず流れる水である。人間もまた河のように流れる。人間は、かれが愛する造られたものが流れていると思ている。しかし、かれもまた、死の終末に向かって、絶えず流れている。かれは停止し、その生命と自分の愛する事物とが流れ去るのを防ぐために、固定させたいと切に望んでいる。それは空しい努力である。あるいは死がおとずれて、かれが愛しているものを残させるか、あるいはわたしの裁定によって、造られた物がかれから奪い去られるか、どちらかである。このような人々は、いつわりに従うし、いつわりの道を歩む。かれらは、いつわりの父である悪魔の子供である。そして、いつわりの門を通るから、永遠の断罪を受けるのである。わかってもらえたと思うが、わたしはあなたに、真理といつわり、すなわち、真理であるわたしの道と、いつわりである悪魔の道とを、示したのである。

この二つの道、すなわち橋の道と河の道とを歩む者は、どちらの場合も、苦労しなければならないことについて。

以上が二つの道である。そのどちらを通るにも、苦労が必要である。ところで、ひとつの通がつくられていて、これを通る者に多くの喜びを与え、すぺての苦痛を甘美に変え、すべての重荷を軽くするというのに、水の道を通りたいと思う人間の心の無知と盲目とは、なんと評したらよいであろうか。この道では、体の暗黒のなかにありながら、光明を見出し、死ぬべき者でありながら、不滅の生命を見出し、わたしのために献身的に働く者に休息を約束する永遠の「真理」の光明を愛の心情によって味わうことができる。なぜなら、わたしは、忘恩者ではなく、自分に奉仕する者を知つているし、正義であって、各人をその功罪によって処遇し、すべての善業には報いを与え、すべての過失には罰を加えるからである。 この道を歩む者が味わう喜びは、いかなる舌もこれを語ることができず、いかなる耳もこれを開くことができず、いかなる目もこれを見ることができない。このような人は、すでにこの世から、永遠の生命のなかに準備されている善を味わい、所有することができるのである。これほど大きな善を軽蔑し、多くの苦しみに出合う下の道、なぐさめも善もまったくない下の道を通つて、この世から、地獄の前味わいを得たいと望む者は、いかにもおろかである。なぜなら、かれらは、その罪によって、至高かつ永遠の「善」である「わたし」を失うからである。だから、あなたが嘆くのはもっともである。わたしは、あなたとわたしの他のしもべたちとが、わたしに加えられる侮辱に対して絶え間ない悲しみを抱き、これほど平気でわたしに背く人々の無知と不幸とをあわれんでほしいと思う。これで、あなたは、この橋がどのように出来ているか、この橋が、すでに話したように、まことにわたしの「ひとり子」であって、あなたに説明したように、どのように、偉大と卑賎とを一致させているかを見、そして聞いたのである。

この橋は、キリストのご昇天の日に、天まで達したけれども、地を離れなかったことについて

わたしの「ひとり子」が、復活後四十日目にわたしのもとに帰つたとき、この橋は地から、すなわち人間の社会から上昇し、その永遠の「父」であるわたしの右に坐を占めるために、わたしの神的本性の力によって天にあげられた。これは、昇天の日に、天使が、わたしの「子」の「英知」の跡に従つて天にのぼるために心は地を去つていた弟子たちに、告げたところで ある。天使はかれらに言つた。「これ以上そこにとどまっていてはならない。なぜなら、かれはもはや『父』の右に坐してるからであ。かれが天にのぼり、その「父」であるわたしのもとに帰る」と、わたしは、「師」すなわち聖霊を送つた。聖霊は、わたしの「力」、わたしの「子」の「英知」、そして聖霊自身の「寛仁」をもって降つた。聖霊は、「父」であるわたしとわたしの「子」と一体である。聖霊は、わたしの「真理」が世に残した教えの道を固めた。わたしの「子」は、人間のあいだに現存しなくなったけれども、教えとこの教えの上にきずかれた諸善徳とを、かれらに残した。これこそ、この心地よく栄光にかがやく「橋」が、あなたがたのために造つた道である。かれは、まず第一に、そして自分自身の所業によって、言葉よりは手本をもって、あなたがたに教えを授け、道を造つた。かれは、語る前には実行した。聖霊の寛仁は、この教えを確認した。すなわち、弟子たちの霊魂を強めて、「真理」を信奉させ、十字架につけられたキリストの教えであるこの「道」を告げさせた。そして、かれらによって、不義と誤断との世を征服した。この不義と誤断とについては、のちに、もっとくわしく説明したい。これまで話したことは、わたしの言葉を聞く人々の精神をまどわす恐れのある暗黒を、ことごとく払うためである。かれらは言うかも知れない。「キリストのこの体をもって、ひとつの橋が、神の本性と人間の本性との一致によって、築かれたことはたしかである。しかし、この橋は、わたしたちを去つて、天にのぼられた。この橋は、たしかに、ひとつの道であって、わたしたちに、その手本と所業とによって、真理を教えた。しかし、こののち、わたしたちにはなにが残るであろうか。どこに道を見つけたらよいであろうか」と。わたしはあなたに言いたい。いなむしろ、このような無知におちいっているすべての人に言いたい。道とは、すでに話した通り、かれの教えそのものである。使徒たちはこれを確認し、殉教者たちは血によってこれを証明し、博士たちはその光明によってこれをかがやかせ、福音著者たちは、愛をこめてこれを書きしるした。みながそろって同じ証しをおこない、聖なる教会の神秘的体のなかで真理を公表した。かれらは、燭台の上におかれた燈明となって、すでに話したように、完全な光明のなかで、生命にみちびく真理の道を示した。どのように示したであろうか。自分自身の体験によって証明したのである。それゆえ、すべての人は、望むならば、すなわち、みだらな利己的愛によって理性の光明を消そうとしないならば、真理を認識するために必要な光明を所有することができるのである。かれの教えがまことであることはたしかである。それはあなたがたにとつて舟であって、霊魂を、航海を乗り越えて、救いの港にみちびくのである。とにかく、わたしは、まず第一に、わたしの「子」を人間のあいだに生活させるために送り、かれを見える橋として、あなたがたに与えた。ついで、この見える橋が天にのぼったときも、教えの橋と道とがあなたがたのなかに残つた。そしてそれは、すでに話したように、わたしの「力」、わたしの「子」の「英知」、および聖霊の「寛仁」と永久に一つになっている。この「力」はこの道を歩む者に活動する力を与え、「英知」は真理を認識させるために光明を与え、聖霊は、霊魂のなかに善徳に対する愛しか残さないように、官能的な愛をことごとく焼き滅ぼす愛を与える。いずれにせよ、その見える現存によっても、その教えによっても、かれは「道」であり、「真理」であり、「生命」である。そして、この道は天の高きにみちびく橋である。かれがつぎのように言つたのは、このことを理解させるためであった。「わたしは父のもとから来て、父のもとに帰る。しかし、あなたがたのところに戻るであろうこれは、わたしの「父」はわたしをあなたがたのもとに送り、あなたがたが河を脱出して生命に達することができるように、わたしをあなたがたの橋に仕立てた、という意味である。ついで、付言する。「わたしはあなたがたのもとに戻る。あなたがたをみなし子として残しはしない。あなたがたに『弁護者』を送るであろう」。これは、わたしの「真理」を送るであろうと言うのと同じである。「わたしはわたしの『父』のもとへ去る。しかし戻て来るであろう」。これはどういうことであろうか。「弁護者」と呼ばれる聖霊が降り、わたしがあなたがたに与えた教えによって、わたしが「真理」の「道」であることをあきらかに示し、確認する、ということである。かれは、戻つて来るであろうと言つた。そして、実際に戻つて来た。なぜなら、聖霊は単独で降るのではなく、「父」であるわたしの「力」と、「子」の「英知」と、聖霊自身の「寛仁」とともに降るからである。だから、あなたもよくわかるように、かれは、見える現存によってではないけれども、すでに話したように、その徳力をもって教えの道を固めることによって、戻つたのである。この道は破損することがないし、これを歩もうと思う者に閉ざされることがないし、堅固で、破壊されることがない。なぜなら、「不動者」であるわたしから発するからである。だから、あなたがたは、この道を、勇気をもって、なんのためらいもなく、あなたがたが聖い洗礼のなかで主としてまとつた信仰の光明に照らされて、歩まなければならない。以上で、わたしはあなたに、この見える橋とこの橋と一体をなしている教えとを、十分に明白に示した。わたしはまた、これを知らない人々にこの道を示したのは、真理そのものであることを説明した。わたしは、かれらに、これを教える人々はだれであるかを知らせた。それは、すでに話したように、聖なる教会のなかに燈明として立てられた使徒たち、福音著者たち、殉教者たち、公奉者たち、そして聖博士たちである。わたしは、かれが、わたしのもとに帰つたけれども、またあなたがたのもとに、聖霊が見える現存によってではなく、その徳力によって、弟子たちの上に降つたとき、戻つたことを説明した。かれは見える現存に よって戻ることはないであろう。ただし、審判の日には、わたしの威光と神的権力とをもって降り、世を審判して、善人には善を返してその霊肉の労苦に報い、現世で悪のなかに生きた人々には永遠の苦罰という悪を返すであろう。これから、「真理」である「わたし」が、あなたに約束したことを話したい。すなわち、この道を不完全に歩む者とはだれか、完全に歩む者とはだれか、偉大な完全性に達する者とはだれかを示したい。また、その悪業のために河に溺れ、堪えがたい苦罰におちいる悪人がどのように歩むかについても話したい。いとしい子供たちよ、わたしはあなたがたに言いたい。橋の上を歩くがよい。下を歩いてはならない。それは真理の道ではない。それは、わたしがこれから話す邪悪な罪人が歩むいつわりの道である。わたしは、この罪人のためにわたしに祈るようあなたがたに願いたい。かれらのためにあなたがたの涙と汗とを要求したい。かれらがわたしからあわれみを受けるためである。

この霊魂が、神のあわれみを嘆美し、人類に与えられた恩恵と恩寵とについて語ることについて。

すると、この霊魂は、酔いしれたようになり、自分をおさえることができず、神のみまえに立つて、つぎのように申し上げた。ああ、あなたの被造物の過失をおおいかくして下さる永遠のあわれみよ、あなたが、大罪を去つてあなたのもとに帰る人々について、「わたしは、あなたがたがわたしを侮辱したことを、もう覚えていない」と言われたのを、驚きません。ああ、名状しがたいあわれみよ、あなたが、あなたを迫害する人々について、「わたしは、かれらにわれみを注ぐことができるように、かれらのために、わたしに祈ることを望む」と言われたのを聞いてからは、あなたが罪を去る人々について言われたことを、驚かなくなりました。ああ、永遠の「父」であるあなたの「神性」から発し、全世界をあなたの権力によって治めるあわれみよ、あなたは、あなたのあわれみによってわたしたちを創造されました。あなたのあわれみによってわたしたちを、あなたの「おん子」の血のなかで、再創造されました。わたしたちを保存してくださるのは、あなたのあわれみです。あなたの「おん子」を苦闘させ、生命に対する死の戦いと死に対する生命の戦いとのなかで、十字架の木の上に遺棄されたのは、あなたのあわれみです。そのとき、「生命」は罪の死に勝ち、罪の死は、けがれなき「子羊」の肉体の生命を奪つたのでした。だれが負けたのでしようか。死です。その原因はなにだったのでしようか。あなたのあわれみです。あなたのあわれみは生命を与えます。そして、義人と罪人とを問わず、すべての被造物に対するあなたの寛仁を、わたしたちに認識させる光明を与えます。天のいと高きところにおいて、あなたのあわれみは、あなたの聖人たちのなかにかがやいています。地を眺めますと、あなたのあわれみはそこにあふれています。地獄の暗黒のなかでも、あなたのあわれみは光つています。亡びた人たちは、その過失ほど重い苦罰を受けていないからです。あなたは、あわれみによって、あなたの正義をもっとやさしくしてくださいます。あわれみによって、わたしたちを血のなかで洗つてくださいます。あわれみによって、わたしたちをあなたの被造物といっしよに保存してくださいます。ああ、愛に狂えるかたよ、受肉されるだけでは足りなかったのでしようか。その上、死ぬ ことを望まれたではありませんか。死ぬだけでは足りなかったのでしようか。その上、冥府にくだって聖なる太祖たちを解放され、あなたの真理とあわれみとを、かれらにおいて成就されたではありませんか。実際、あなたの「いつくしみ」は、真理においてあなたに仕える人々に幸福を約束されました。そして、冥府にくだって、あなたに仕えた人々を苦しみから救い出し、かれらにその所業の実を返されました。あなたのあわれみは、あなたを駆つて、人間のためにもっと多くのことを実行させました。あなたは、わたしたちの弱さを強め、わたしたちの無知が、健忘症におちいって、あなたの恩恵の記憶を失うことがないように、ご自分を食物として残されました。そのため、あなたは、聖なる教会の神秘的体のなかで、祭壇の秘跡において、ご自分を人間に与え、これにご自分を示されるのです。だれがこれをなされたのでしようか。あなたのあわれみです。ああ、あわれみよ。わたしの心は、あなたを思うと、燃えさかります。わたしの精神は、どちらを向いても、振り向いても、あわれみしか見出しません。ああ、永遠の「父」よ、あなたのみまえで口をきくほど思いあがっているわたしの無知をお許しください。せめて、あなたのあわれみに対する愛が、あなたの「いつくしみ」のみまえに、お詫びになりますように。

 橋の下の河を通る人々のみじめさについて。この道を通る霊魂は四つの悪徳に根を下ろしていて、死の木と呼ばれることについて。

この霊魂は、以上のように申し上げて、神のあわれみのなかで、その心をいくらかなごめたのち、いただいていた約束が実行されるのを謙遜にお待ち申し上げた。すると、神は、お言葉をつづけて、次のように話された。 
いとしいむすめよ、あなたは、わたしの前で、わたしのあわれみについて語た。それは、わたしが、これをあなたに味わわせたからであり、また、わたしがあなたに言つた「この罪人たちのために、わたしに祈るよう切に望む」という言葉のなかで、これを示したからである。しかし、あなたがたに対するわたしのあわれみは、あなたが見ているよりも、比べることができないほど、はるかに大きいことを、知ってほしい。あなたの見る目は不完全であるが、わたしのあわれみは完全で無限である。それゆえ、双方のあいだには、比較は全く成り立たない。ただ、有限と無限との比較が成り立つだけである。しかし、わたしは、このあわれみを、そしてまた、さきに説明したような人間の尊厳を、あなたに味わわせたいと望んだ。それは、下の道を通る邪悪な人々の残酷さと卑劣さとを、あなたにもっとよく理解させるためである。それで、あなたの知性の目を開いてほしい。そして、自分たちの意志で溺れる人々を注視してほしい。かれらがその過失によってどのようなみじめさに落ちこんでいるかを注視してほしい。第一に、かれらはその精神のなかに大罪を宿すことによって、病弱になった。ついで、これを出産して、恩寵の生命を失つた。死者はなんの感情ももつことができないし、他の人によって抱き起こされ運ばれないかぎり、自分自身では動くことができない。そのように、世のみだらな愛の河に溺れた人々は、恩寵に死に絶えている。死に絶えているから、かれらの記憶は、わたしのあわれみの追憶を思い浮かべることができない。かれらの知性の目は、もはや、わたしの真理を見ることができないし、認識することができない。なぜなら、感情が死んでいるからである。すなわち、知性は、自分自身しか、そして自分の官能の死んだ愛しか、眼中にないからである。かれらの意志もまた、わたしの意志に死に絶えている。死んだ事物しか愛さないからである。この三つの能力が死んでいるので、恩寵に関しては、そのすべての活動は、外的なものも内的なものも、死んでいる。その結果、かれらは、わたし自身かれらを助けないかぎり、敵に対して自分自身を防衛することも、自分自身を助けることもできない。この死者がまだ自由意志を保存しているのは事実である。そして、死ぬべき体のなかにとどまっているかぎり、わたしの助けを願うたびごとに、これを与えられることも事実である。しかし、自分自身ではなにもすることができない。かれらは自分自身にとて堪えがたいものとなった。そして、世を支配しようとして、この存在でないものに、すなわち罪に、支配された。罪は非存在である。ところが、かれらは罪のしもべ、その奴隷となった。わたしは、かれらを、聖い洗礼において受けた恩寵の生命によって、愛の木にしたのであるが、かれらは死の木になった。なぜなら、さきに話したように、かれらは死んだからである。あなたはこの木がどこに根を下ろしているか知つているであろうか。その官能の利己的な愛に養われている傲慢の高地に根を下ろしている。その髄は不忍耐であり、あらゆる苦しみからの逃亡である。そして、そのひこばえは無分別である。わたしが死んだ木と呼んだ者の霊魂を殺すのは、この四つの悪徳である。それというのも、恩寵のなかに生命を汲み取らないからである。木の内部に良心の虫が巣喰ている。しかし、人間は大罪のなかにいるかぎり、自愛心によって盲目になっているので、これをあまり感じない。この木の実は死の実である。なぜなら、傲慢の根からその果汁を吸い上げたからである。かわいそうなこの霊魂は、忘恩に満ちあふれている。そこから、あらゆる悪が生まれるのである。もしもわたしから受けた恩恵に対する感謝を少しでも抱いていたら、わたしを認識するであろう。わたしを認識することによって、自分自身を認識するであろう。そうすれば、わたしの愛にとどまるであろう。しかし、この霊魂は盲目であるために、下におりて、手さぐりしながら、河を通つて行き、水が流れ去つて、待つてはくれないことに気がつかないのである。

この木の実は罪と同じようにさまざまであるが、まず肉の罪について。

死をもたらすこの木の実は、罪と同じようにさまざまである。あるものは動物のえさにしかならない。豚のように、肉的な快楽の泥沼のなかを、精神と体とをあげて、ころげまわる人々の犯す罪がこれである。ああ、動物的な霊魂よ、おまえの尊厳はどこにあるのか。おまえは、天使の妹として造られたのに、野卑な動物になっているではないか。この罪人たちのみじめさはいかにも大きく、純潔そのものである「わたし」がこれに堪えられないばかりか、かれらの友となり、しもべとなった悪魔でさえ、これほどの淫行が犯されるのを見ることができないほどである。これほどいまわしい罪はないし、これほど知性の光明を消すものはない。哲学者たちも、かれらが所有していなかった恩寵の光明によってではなく、本性によって与えられた光明によって、この罪が知性を暗くすることを認め、もっとよい研究をおこなうために、貞潔と禁欲とを守つたのである。かれらは、同じように、富を放棄した。心が富に占領されるのを避けるためであった。自分の過失によって恩寵を失つた無知で、にせのキリスト者はそのようにはしないのである。

貪欲とそれから生まれる悪について。

他のある者は、土の実を生ずる。貪欲な吝嗇家がこれである。かれらは、もぐらのようにいつも、死ぬまで、土を食べている。死がおとずれるとき、かれらはこれに対して薬を見つけることができない。この人々は、貪欲にも、時間を隣人に売り、わたしが惜しみなく与えるものを下落させる。かれらは高利貸となって隣人を搾取し、これから盗む。それというのも、記憶のなかにわたしのあわれみの追憶を保つていないからである。もしも、これを忘れていなかったなら、自分自身に対しても、隣人に対しても、これほど残酷にはならないであろう。自分自身に対しては、善徳を実行して、同情とあわれみとを行使するであろうし、隣人に対しては、愛深く、これに奉仕するであろう。ああ、この呪うべき罪から生まれる悪は、どんなに大きいことであろうか。どれほどの殺人、窃盗、掠奪、不当な利得、心による残忍行為、隣人に対する不正義がおこなわれることであろうか。この罪は霊魂を殺し、これを富の奴隷となす。そののちは、神の掟を守ることなど、気にかけない。吝嗇家は、利得がなければ、だれも愛さない。この悪徳は傲慢から生まれる。そして、傲慢は貪欲に養われる。貪欲は個人的な名声欲を満足させるからである。この二つの悪徳は、このようにして、たがいに助け合う。そして、これにおちいっている人は、人目に立つことを欲しがるこのみじめな傲慢のおかげで、悪から悪へと進むのである。傲慢は、いつも名声と心の虚栄との煙をあげる火であって、傲慢家は、自分には属さないものを誇りにしている。それと同時に、傲慢はひとつの株であって、多くの枝を生ずる。しかし、そのなかで主なものは、個人的な名声欲で、他の人よりは偉くなりたいという望みを掻き立てる。その結果、心は誠実高邁ではなくなり、二心を抱くようになる。口では一つのことを言ていても、心は別のことを考えている。自分の利益になりさえすれば、真実をかくして、うそをつく。この悪徳はねたみを生む。ねたみは絶えず心を喰い荒す虫であって、自分自分の善も他人の善もたのしむ余裕を与えない。このようにみじめな状態におちいっている悪人が、どうして、貧しい人々の需要を満たすために、その財産の一部を分け与えるであろうか。他の人々の財産は盗むけれども。どうして、その汚れた霊魂を汚物のなかから引き出すことができよう。自分自身そのなかにはまり込むのだから。ときどき、かれらは、いかにも非人間的になり、自分の子供や自分の親さえも見ようとはしない。かれらを貧困に追い込むこともやりかねない。それにもかかわらず、わたしのあわれみはかれらを忍耐深く見守る。地に向かってかれらを飲み込めとは命じない。それというのも、かれらにその過失を認めさせたいからである。かれらが、霊魂の救いのためにその生命を与えることがありえようか。その金を与えることさえ拒むではないか。かれらが、愛を施すことがありうるであろうか。かれら自身ねたみに喰われているではないか。ああ、いかにもみじめな悪徳ではないか。霊魂の天を地に下落させるとは。わたしは霊魂を「天」と呼ぶ。なぜなら、これを天として造つたからである。わたしはこの天に住んでいた。まず、わたしの恩寵により、その内面にかくれて。そして、愛の感情によって、これをわたしの住居となすことによって。ところが、かれらは、姦婦のように、わたしよりも自分自身と被造物と造られたものと愛して、わたしを去つてしまった。そのうえ自分自身を神となし、多種多様な罪によって、わたしを苦しめて止まない。それというのも、燃えさかる愛の火によって流された「血」の恩恵を忘れているからである。 

権力とその実である不義とについて。

このほかに、権力者であるために、これを笠に着る者がある。しかし、かれらは、その権力を行使するにあたって、不義の旗手、すなわちかれらの神であるわたしに対する不義、隣人に対する不義、かれら自身に対する不義の旗手でしかない。自分自身に対して不義である。なぜなら、自分自身を有徳な者にしなければならないという義務を果たさないからである。わたしに対して不義である。わたしの名に栄光と賛美とをささげなければならないのに、この義務を拒むからである。かれらは、泥棒のように、わたしに属するものを盗み、これをかれらの召し使いである自分の官能にささげる。このようにして、かれらは、わたしに対しても、自分自身に対しても、不義を犯す。かれらは、盲目無知で、わたしがかれらのなかにいることを認めない。それほど、自分自身に対する愛に溺れているのである。ユダヤ人と律法の役務者たちは、このように振舞つた。かれらは、ねたみと自愛心とに目がくらみ、「真理」であるわたしの「ひ とり子」を認めなかった。その結果、わたしの「真理」が、「神の国はあなたがたのうちにある」と言つて確認したように、かれらのなかにあった永遠の「生命」を、受けいれる義務をおこたった。かれらはこれを認めなかった。なぜであろうか。わたしが説明したように、理性の光明を失つていたからである。そのため「わたし」に対し、そしてまた、「わたし」と同一である「かれ」に対し、誉れと栄光とをささげる義務を果たすことができなかった。かれらは、盲目のあまり、十字架の死にいたるまで、「かれ」を迫害し、汚辱をあびせる不義を犯したのである。さきの権力者たちも、「わたし」に対し、かれら自身に対して、同じ不義を犯す。そのうえ、その臣下とだれによらずかれらの手中におちいる者との肉を売つて、隣人に対し、同じ不義を犯すのである。 

これらの悪徳によって誤断におちいることについて。みじめな状態について。

のちに説明するように、かれらは、これらの悪徳とその他の悪徳とによって、誤断におちいる。わたしの業はすべて義であり、事実、すて愛とあわれみとに鼓吹されているのに、かれらはいつもこれを中傷する。わたしの「子」の業は、この誤断によって、そしてまた、ねたみと傲慢との毒によって、悪口され、不当に評価された。「この人はゼルゼブルの力でそのようなことをするのだ」と言わせたのは、誤りとである。これと同じように、自愛心、不浄、傲慢、貪欲、およびねたみに支配され、邪悪な判断に迷わされ、不忍耐におちいり、犯した他のすべての悪によって盲目になった悪人どもは、いつも、わたしとわたしのしもべたちとを中傷し、かれらの徳行は偽善だと断定する。かれらの心は腐敗しその好みは悪化しているので、善も悪に見え、乱れた生活も正しく見えるのである。ああ、盲目な人間よ、おまえは自分の尊厳がそれほど見えないのか。おまえはあれほど偉大であったのに、これほど卑小になっているではないか。おまえは支配者であったのに、奴隷に、しかも、これ以上考えられないほど醜悪な支配者の奴隷になっているではないか。なぜなら、おまえは、罪のしもべ、罪の奴隷になり、おまえが奉仕するこの罪と同じようなものになっているからである。罪はつまらないものでさえない。だから、おまえはつまらないもの以下になり下がっている。おまえは自分から生命を除き去り、自分に死を与えたのだ。この生命と支配権とは、栄光の橋であり、わたしの「ひとり子」である「言葉」によって、あなたがたに与えられたのである。あなたがたは悪魔の奴隷であったが、かれはあなたがたをその隷属から解放した。かれは、あなたがたを奴隷状態から解放するために、自分自身奴隷となった。かれは、アダムの不従順をほろぼすために、自分に従順を課した。かれは、傲慢を恥じ入らせるために、十字架の屈辱的な死にいたるまで、自分をはずかしめた。かれは、その死によって、すべての悪徳を例外なくほろぼした。それゆえ、だれも、「しかじかの悪徳は罰されなかった。苦罰を加えられなかった」と言うことはできない。なぜなら、すでに話したように、わたしはかれの体を鉄床となしたからである。人間が永遠の死からのがれることができるように、あらゆる助けが与えられた。しかし、かれらは、「血」を軽蔑し、みだらな愛の足でこれを踏みにじつた。これが不義であり、誤断である。世はそのために断罪された。そして、最後の審判の日に断罪されるであろう。わたしの「真理」が、「わたしは世の不義と誤断とを告発する『弁護者』を送るであ否ごと言つたのは、これを理解させたかったからである。事実、わたしが使徒たちの上に聖霊を送つたとき、世は断罪されたのである。 

キリストの「わたしは世の不義と誤断とを告発する『弁護者』を送るであろう」という言葉について。告発の一つは継続することについて。

世に対する告発に三つある。第一は、聖霊が弟子たちの上に降つたときおこなわれた。すでに話したように、かれらは、わたしの力によって強められ、わたしの最愛の「子」の英知によって照らされ、すべてを聖霊の充ち満てるなかで授かった。そのとき、わたしと「子」 と「一つ」である聖霊は、使徒たちの口により、わたしの「真理」の教えをもつて、世を告発した。世を告発するのはかれらであり、かれらから発するすべての人々、すなわら、かれらの教えによって受けた真理に従う人々であるこれが、聖書とわたしのしもべたちとによって、わたしが絶え間なくおこなう告発である。わたしは、かれらがわたしの「真理」を告げ知らせるとき、かれらの舌の上に聖霊を置く。ちょうど、悪魔が、そのしもべたち、すなわち、悪の河を通る人々の舌の上に座るように。この告発は、絶え間なくおこなわれるが、優しい。わたしが霊魂の救いに対して抱いているきわめて大きい愛のためである。だれも、「わたしをとがめる者は一人もいない」と言うことができない。なぜなら、わたしはすべての人に「真理」を示し、すべての人に、どこに悪徳があり、どこに善徳があるかを教えたからである。わたしは、かれらに善悪の実と悪徳の有害な結果とをしめした。それは、かれらに、聖なる愛、聖なる恐れ、悪徳に対する憎しみと善徳に対する愛を、鼓吹するためであった。この「真理」の教えを、天使によってかれらに授けたのではなかった。それゆえ、かれらはつぎのように言うことはできない。「天使は至福な精神だ。罪を犯すことができないし、わたしたちのように肉の欲望を感じない。わたしたちの肉体の重荷を負つてはいない」。わたしはかれらにこのような言いわけの余地を与えなかった。なぜなら、この教えを、わたしの「真理」によって、あなたがたの死すべき肉のなかに託身したわたしの「言葉」によって、与えたからである。それに、この「言葉」に従つた他の人々は、どういう人々であろうか。あなたがたのように死すべき被造物、あなたがたのように苦しむことができ、あなたがたのように肉と霊との戦いを身をもって体験する被造物である。それはわたしの先ぶれである栄光にかがやくパウ口であり、他のおびただしい聖者である。かれらはみなそれぞれの道で、受難者だったのである。わたしは、この受難を許したし、また、許しつづける。それは、霊魂における恩寵の成長と善徳の進歩とのためである。聖人たちは、あなたがたのように罪から生まれたのである。あなたがたと同じ食物によって養われたのである。それに、「わたし」は、今も昔と同じ神ではないだろうか。わたしの力は衰えなかったし、衰えることはないであろう。わたしはいつも、わたしに助けを求める者を助けることができ、助けたいと望み、助ける方法を知っている。ところで、人間は、わたしの「真理」の教えに従つて、河を去り、橋を渡るとき、わたしの助けを求めるのである。だから、人間は弁解することができない。なぜなら、わたしの告発は止むことがないし、わたしは絶えず真理を示しているからである。まだ時がある間に改悛しないならば、死の最後の瞬間に、わたしがかれらに向かって放つ第二の告発において、断罪されるであろう。そのとき、わたしの正義は叫ぶであろう。「死者よ、起きよ、審判を受けよ」と。これは次のような意味である。恩寵の生命に死に、肉体の生命に死のうとする者よ、起きて、至高の「審判者」の前に、おまえの不義、誤断、信仰の消えた光明をもって、出頭せよ。おまえは、聖い洗礼において、この点火された光明を授かったのに、傲慢と心の虚栄との風によって、これを吹き消したのだ。おまえは、心を帆のように張つて、おまえの救いに反対するあらゆる風を受けたのだ。おまえは、自愛心の帆を名声欲の風に大きく広げ、我意とともに快楽と世の栄誉との河を下り、はかない肉に、そしてまた悪魔のわなと誘惑とに、進んで身を委ねたのだ。悪魔は、おまえの我意の帆を利用し、下の道を通つて、おまえを止まることのない急流にみちびき、自分といっしよに永遠の亡びに引きずり込んだのだ。

人間が、一般的にも個別的にも、不義と誤断とを認める第二の告発について。

いとしいむすめよ、この第二の告発は、もはやくすりがなくなった最後の瞬間におこなわれる。人間は死の瀬戸際に立たきれる。そして、そこで、良心の虫に再会する。かれは、すでに話したように、自愛心のために盲目になり、その存在を感じていなかった。ところが、死の瞬間、人間が、わたしの手からのがれることができないのを認めるとき、この虫はを覚ましはじめ、かれが、その過失のためにこれほどの不幸に追い込まれたのを見て、自分をとがめるとき、良心をむしばみはじめる。もしも、そのとき、この霊魂が、自分の罪を認めるために必要な光明をもち、その結果である地獄の苦罰のためではなく、至高かつ永遠の「いつくしみ」であるわたしに背いたことのために、痛悔を抱くならば、まだ、あわれみを見出すことができるであろう。しかし、この霊魂は、死の瞬間を、光明をもたず、ただ良心の虫にさいなまれ、「血」における希望もなく、自分自身の苦しみしか考えず、わたしに背いたことを悔やむかわりに、自分の亡びを嘆きながら、絶える。こうして、永遠の亡びにおちいる。そのとき、わたしの正義はその不義と誤断とをきびしく告発する。しかも、この告発は、霊魂が在世中すべての行為のなかで犯した全般的な不義と誤断だけではなく、そのうえ、とくに、この最後の瞬間に犯した特別な不義と誤断、すなわち、自分のみじめさはわたしのあわれみよりも大きいと判断したことに対して、おこなわれる。これこそ、この世においてもあの世においても赦されない罪である。この霊魂はわたしのあわれみを拒否し、軽蔑した。この罪は、わたしにとつて、この霊魂が犯した他のすべての罪より重い。それゆえ、ユダの絶望は、その裏切りよりも、わたしにとつてはもっと不快であったし、わたしの「子」にとつてはもっと重大だったのである。自分の罪はわたしのあわれみよりも重いと思う誤断が告発されるのはそのためである。また、そのため、この霊魂は悪魔といっしよに罰せられ、いっしよに永遠の苦しみに服するのである。この霊魂はまた、わたしに対する侮辱よりも自分の亡びを悲しむことによって犯した不義を告発される。これはたしかに不義である。なぜなら、わたしに返すべきものをわたしに返 えさず、自分に返すべきものを自分に返さないからである。わたしには愛を返す義務があり、自分のためには苦痛と心の痛悔しか要求することができない。しかも、これを、わたしに対する侮辱のために、わたしの前にささげなければならない。ところが、まったく反対である。自分に対してしか愛と同情とを抱かず、自分の過失が呼び込んだ苦しみしか悲しまないので ある。この霊魂が不義を犯していることは、あなたもわかるであろう。そのために、両方の不義が同時に罰せられるのである。この霊魂はわたしのあわれみを軽蔑した。それで、「わたし」は、わたしの正義によって、これを断罪する。その残酷な召し使いである官能といっしよに。そしてまた、なさけ容赦もない暴君である悪魔といっしよに。霊魂はこの悪魔の奴隷になり、その官能をその奉仕にささげたのである。わたしは、これをいっしよに罰し、苦しみに委ねる。いっしよにわたしに背いたからである。霊魂は、悪をおこなった者を罰する役目をわたしの正義によって与えられたわたしの代理者である悪魔によって、拷問を受けるのである。

地獄におちた者が受ける四つの責苦についてとくに悪魔のみにくさについ

いとしいむすめよ。このみじめな霊魂の苦しみは、言葉では語ることができない。おもな悪徳に三つある。それは第一に自愛心で、それから第二の悪徳、自尊心が生まれ、自尊心から第三の悪徳、傲慢が生まれ、それとともに、不義、残酷、その他すべての邪悪で卑劣な罪 が生まれる。あなたに言うが、地獄にも四つのおもな責苦があって、それから他のすべての責苦が生まれるのである。その第一は、地獄におちた者がわたしを見ることができなくなることである。これは、かれらにとつてきわめて大きな苦しみである。かれらは、できるならば、わたしを見ないで苦しみから解放されるよりは、わたしを見ながら火と拷問とを堪えることを選ぶにちがいない。この苦しみは、良心の虫による第二の苦しみによって、さらに増大する。この虫は、絶えずかれらをむしばみ、かれらがわたしを見ることができなくなり、天使たちとの交りを奪われ、悪魔の仲間になって、これを見なければならなくなったのは、かれらの過失によることを、絶えず思い知らせる。この悪魔を見るという第三の苦しみは、すべての苦しみを倍加する。聖人たちは、わたしを見ることによって絶えず随喜し、その歓喜によって、あふれる愛と自分自身に対する大きな侮辱とをもってわたしのために堪えたその労苦のむくいを、絶えずあらたにする。これとはまったく反対に、この不幸な人々は、その責苦を悪魔を見ることによって絶えずあらたにする。それというのも、悪魔を見ることによって、自分自身をもっとよく認識するし、自分の過失によって罰を招いたことを、もっとよく理解するからである。そうなると、良心の虫にますますむしばまれ、決して消えることのない火に焼かれる。かれらの苦しみをさらに大きくするのは悪魔自身の顔を見ることである。それは、人間の 心では想像することができないほど醜悪なものである。あなたは、わたしがあなたに、ごく短いあいだほんの一瞬間悪魔の姿を見せたことを、おぼえているにちがいない。われにかえったあなたは、もう一度これを見るよりは、審判の最後の曰まで火の道を歩くのを選んだにちがいない。それにもかかわらず、あなたは悪魔がどれほどみにくいかを十分に分かってはいない。なぜなら、悪魔は、神的正義によって、わたしから離れた霊魂に、各自の過失の重さに応じて、その姿をもっと恐ろしく見せるからである。第四の責苦は火である。この火は燃えるが消えることがない。霊魂の存在は燃えつきることがない。物資的なものではなく、霊的なものであるから、火によって滅ぼされることができないのである。しかし、わたしは、神的正義によって、この火が霊魂を痛ましく焼き、滅ぼすことなく苦しめ、その罪の種類によりちがった方法で、また、過失の重さに応じて、あるいは多くあるいは少なく、きわめて大きな責苦によって罰するのを許すのである。この四つの責苦に、寒さ、暑さ、歯ぎしり、その他すべての責苦が加わる。生涯のあいだに、その不義と誤断とを最初に告発されたとき、改心せず、死のとき第二の告発を受けても、わたしに希望したいと思わず、わたしに対する侮辱を痛悔しようと考えず、ただ自分が受ける苦しみしか後悔しないすべての人々は、このようにみじめに罰せられ、永遠の死に処せられるのである。 

審判の日に下される第三の告発について。

これから、審判の最後の日におこなわれる第三の告発について話さなければならない。すでに、はじめの二つの告発について話したが、人間がどれほど間違つているかをよく示すために、これから、第三の告発について説明したい。公審判がこれである。このとき、あわれな霊魂は、その肉体と一致する。そのため苦しみがあらたにされ、増大する。しかも、堪えがたい断罪が下されて、恥辱に圧倒される。わたしの「子」、「言葉」が、神的な権力をもって世を告発するために、神的な尊厳を帯びて来臨するときは、家畜小屋のなかで、動物のあいだに、「乙女」の胎内から生まれたとき、あるいは、二人の盗賊のあいだに死去したときのように、みじめな貧者として出現することはないことを知つてほしい。そのとき、「わたし」は、かれのなかにあったわたしの力をかくし、かれが人間として苦しみと責苦とを堪え忍ぶのを放置した。わたしの神としての本性が人間の本性から分離されたわけではない。しかし、かれが、あなたがたの過失を償うために、人間として苦しむのを放置したのである。この最後の瞬間、かれはこのような姿で出現することはない。世を裁くために、かれ自身の位格において、権力を帯びて、来臨するであろう。恐怖におののかない者はないであろう。そして、各人は当然受けるべきものを受けるであろう。断罪されたみじめな人々は、かれを見ただけで、言葉で表現できないほどの苦悶と恐怖とにおそわれるであろう。義人たちは畏敬と大きな喜びとを抱くであろう。かれの顔は変わらないであろう。なぜなら、かれは不変だからである。その神性によってわたしと同一であるから不変である。また、復活の栄光を帯びてからは、その人性においても不変である。しかし、断罪された者の目には恐るべきものに見えるであろう。なぜなら、かれらは自分自身のなかに抱いている恐怖と暗黒との目をもって、かれを見るからである。病気の目には、かがやかしい太陽も暗くしか見えない。これに反して、健康な目には明るく見える。光に欠陥があるから、太陽が変わるから、見えない者と見える者とのちがいがあるのではない。目自体が病気だから、光が欠けるのである。このように、断罪された人々は、わたしの「子」を暗黒のなかで、恥辱のなかで、憎しみのなかで見るにちがいない。それは、かれが世を裁くために出現するとき帯びるわたしの神的「尊厳」の欠陥によるのではなく、かれら自身の欠陥によるのである。 

地獄に落ちた者はいかなる善も望めないことについて。

かれらを捕えている憎しみはきわめて大きいので、かれらはいかなる善も望むことができない。絶えずわたしを冒涜する。かれらがなぜ善を望むことができないか、あなたは知っているであろうか。それは人間の生命が終わると、自由意志もしばられるからである。かれらは、功徳を積むために与えられた時間を失つた。だから、もはや功徳を積むことができない。憎しみのなかに大罪をもって死んだ者は、神的正義によって、いつまでも霊魂を憎しみによってしばられ、いつまでも、自分のなかに抱いている悪に執着し、自分自身をむしばむ。そのため、その苦しみ、とくに、自分が原因となって地獄に落ちた人々から来る苦しみは、いつまでも増大する。ラザロに向かい、世に残つている兄弟たちのもとに行つて、自分の苦しみがどんなであるかを知らせるように願つた地獄におちた富者のことを、あなたはおぼえているであろう。かれは、仁愛によって、あるいは兄弟たちに対する同情によって、そうしたのではない。なぜなら、仁愛を失つているので、善を望むことができないし、わたしの誉れもかれらの救いも望むことができないからである。すでに話したように、かれらは隣人のためにいかなる善も望むことができないし、わたしを冒涜する。かれらの生命は、わたしと善徳とに対する憎しみのなかに終わったのである。それでは、どういうわけで、あのようなことをしたのであろうか。それは、自分が、兄弟たちのなかで、もっとも偉く、自分が生活した悪のなかでかれらを育てたからである。かれは兄弟たちの断罪の原因となった。そのため、兄弟たちが自分といっしよに責苦を受けに来るとき、その罰がもっと重くなるのを予見したのである。かれらは、そこで、憎しみのなかで、永遠に自分自身をむしばむことになる。憎しみのなかで生命を終わったからである。

至福者たちの栄光について。

仁愛の情念のなかで生命を終える義人の霊魂についても、これと同じことを言うことができる。この霊魂は愛のなかにつながれている。善徳に成長することはできない。時間は終わたからである。しかし、わたしのもとに来たとき抱いていた愛情をもって、いつも愛することができる。これがその愛をはかるはかりである。この霊魂はいつもわたしを望み、いつもわたしを所有する。そして、その愛は決して裏切られることはない。この霊魂は飢えて満 たされる。満たされてまた飢える。このようにして、満足の倦怠からも飢えの苦しみからものがれる。選ばれた人々は、愛のなかで、永遠にわたしを見て楽しむ。そして、わたしがわたし自身のなかに所有する善、わたしが、各自のはかりに応じて通じ与える善にあずかる。はかりとは、かれらがわたしのもとに来たとき、抱いていた愛の程度のことである。かれらは、わたしに対する仁愛と隣人に対する仁愛とのなかにとどまり、ただ一つの同じ愛から発する全体的な愛と個別的な愛とによって結合している。それで、かれらがみないっしよに所有している普遍的な「善」のほかに、他人の幸福も楽しみ喜ぶし、仁愛の情念によって、相互の個別的な善を分かち合うのである。聖人たちは、天使たちのあいだに座を占める。そして、かれらが現世で特別に実行した善徳の程度と性格とに応じて、天使たちの楽しみと喜びとを分かつ。かれらはまた、地上で仁愛の縁によって結ばれ、もっと親密に、特別な愛情によって愛して来た人々の幸福に特別にあずかる。かれらは、この愛によって、恩寵と善徳とに成長し、たがいに励まし合つて、かれら自身においても隣人においても、わたしの栄光をあらわし、わたしの名を賛美した。かれらは、永遠の生命において、この愛を失うことがなく、いつまでも保つ。そして、普遍的な至福に加えて、この幸福を親密に、もっとゆたかに、分かち合うのである。しかし、この特別な幸福は、かれらだけがたがいに分け合うのだと、考えてはならない。天の福楽にあずかるすべての市民たち、わたしの至愛なるすべての子供たち、すべての天使たちが、これを分かち合うのである。ある霊魂が永遠の生命に到達するやいなや、みながこの霊魂の幸福を分かつし、この霊魂はみなの幸福を分かつ。かれらの福楽の杯が大きくなることができるとか、満たされる必要があるとかいうわけではない。それは満たされているし、これ以上大きくなることができない。しかし、この霊魂を見知ることによって、かれらのなかに、随喜、満足、喜悦、歓喜があらたにされるのを感じるのである。かれらは、この霊魂が、わたしのあわれみによって、恩寵の充満のなかで、地から上げられたのを見て、わたしのいつくしみによって与えられたこの霊魂の幸福を、わたしのなかで喜ぶ。この霊魂もまた、わたしのなかで、霊魂たちのなかで、至福な霊たちのなかで、わたしの仁愛の美しさと心地よさとを観想し、味わいながら、喜ぶ。そして、みながいっしよに、その望みをわたしに上げ、わたしの前で、全世界の救いのために叫ぶ。かれらの生命は隣人に対する愛のなかで終わった。かれらはこの愛を失ていない。かれらは、この愛を抱いて、わたしの「ひとり子」の門を通たのである。これについては、のちに話したい。かれらは、愛のきずなにしばられている。この状態で生命を去つたし、永遠にこの状態を続ける。かれらは、わたしの意志に立派に適合しているので、わたしが望むことしか望むことができない。かれらの自由意志は仁愛のきずなによってしばられている。それで、時間が終わりを告げるとき、恩寵の状態で死ぬ理性的被造物は、もはや罪を犯すことができない。かれらの意志はわたしの意志に立派に一致しているので、父親や母親が自分の息子が地獄にいるのを見ても、息子が父親や母親が地獄にいるのを見ても、少しも心配しない。むしろ、かれらが罰せられているのを見て喜ぶ。なぜなら、かれらはわたしの敵だからである。こののち、わたしとのあいだに不一致をもたらすものはなにもない。かれらの望みはすべて満たされる。至福者たちの望みは、絶えず死という終末に向かって走つている遍歴者であり旅人であるあなたがたのなかに、わたしの誉れが実現するのを見ることである。したがって、かれらは、わたしの誉れと同時にあなたがたの救いを望む。そのため、あなたがたのために絶えずわたしに祈る。わたしはできるかぎりかれらの望みを聞きとどける。あなたがたが、無知のために、わたしのあわれみを拒んでも。かれらはまた、その肉体をふたたび与えられるのを望む。現在はそれを所有していないのを少しも嘆かない。いつかこれを所有することができると確信しているので、前もって、れを喜ぶ。現在これを所有していないのを悲しんだり、それによって至福が減少したり、苦しみを感じたりするようなことがない。肉体がその復活後至福を与えられることによって、霊魂の至福が増加すると思つてはならない。もしそうだとしたら、霊魂は肉体から離れているかぎり、不完全な至福しか楽しむことができないことになるであろう。ところが、そのようなことはありえない。なぜなら、その完全性に欠けるところはないからである。肉体が霊魂を至福にするのではない。霊魂が肉体にその至福を分かつのである。霊魂は、終わりの曰に、遺骸として残した自分自身の肉をふたたび着けるとき、自分のゆたけさをこれに与えるのである。霊魂は不滅であり、わたしのなかに確立され、固定されているので、肉体はこの霊魂との一致によって不滅になり、その重力を失つて、微妙軽快になる。栄光を帯びた肉体はひとつの壁を通ることを知てほしい。火も水もこれに害を加えることができない。これは、肉体特有の力ではなく、霊魂の力であり、これをわたしの似姿として創造した名状しがたい愛によって与えられたものであり、恩寵による特権である。あなたの知性の目は至福者たちの幸福を見ることができず、耳はこれを聞くことができず、舌はこれを語ることができず、心はこれを思いうかべることができない。ああ、かれらにとつて、絶対的善であるわたしを見るのは、どんなに楽しいことであろうか。栄光を与えられたその肉体を所有することは、どんなに喜ばしいことであろうか。この幸福は公審判においてしか所有することができない。しかし、そのため苦しみを感じることがない。かれらの至福には欠けるところがない。なぜなら、霊魂自身満たされているからであり、肉体は、すでに話したように、この充満を分かつにすぎないからである。あなたがたに復活の確証を与えるわたしの「ひとり子」の栄光をおびた人性から栄光を帯びた肉体が受ける幸福については、すでに話した通りである。いつもなまなましいその傷、肉のなかにいつも開かれていて、至高かつ永遠の「父」である「わたし」に、あなたがたのために絶えずあわれみを呼び求めているその傷を見るとき、喜び踊るであろう。みなが、かれと同じであるのを喜び合うであろう。かれらの目はかれの目と、かれらの手はかれの手と、かれらの体全体はわたしの「子」、甘美な「言葉」の体と同じであろう。かれらはわたしのなかにいるのであるから、かれのなかにいるであろう。かれと「わたし」とは同一だからである。しかし、すでに話したように、かれらの肉体の目は、わたしの「ひとり子」、「言葉」の栄光を帯びた人性を眺めて随喜するであろう。なぜであろうか。かれらの生命はわたしの仁愛の喜びのなかで終わったのであるから、この喜びは永遠に続くからである。かれらがいまでもなにかの善を成し遂げることができると言のではない。かれらが持参した善を喜ぶのである。つまり、報いを期待することのできる功徳のある行為はなにひとつなすことができない。各自は、ただこの世において、その意志の好むところに従い、自由意志を使て、功徳を積むか、罪を犯すかすることができるだけである。この人々は恐れのなかではなく、喜びのなかで、神の審判を待つている。わたしの「子」の顔は、かれらにとつて、恐ろしくもなければ、憎しみに満ちてもいない。なぜなら、かれらは、仁愛のなかで、わたしに対する愛と隣人に対する思いやりとに満ちて、世を終わったからである。これによって分かるように、かれがわたしの「威光」を帯びて、審判のために来臨するとき、その顔は少しも変わることがないであろう。ただ、かれから審判される人たちは、ちがた見方をするであろう。断罪された人たちには、憎しみと正義とに満ちているように見えるであろう。しかし、救われた人たちには、愛とあわれみとに満ちているように見えるであろう 

公審判後、地獄に落ちた者たちの苦しみは増大することについて。

わたしが義人たちの栄福について語つたのは、地獄に落ちた者たちのみじめさを、もっとよく知つてほしいからである。かれらにとつて、義人たちの至福を見るのは、別の苦しみである。かれらの苦しみは、これを見ることによって増大する。善人たちがわたしのいつくしみについて抱く喜びが、地獄に落ちた者たちの罰によって増し加わるのと同じである。光明 は暗黒によってもっとよく知ることができるし、暗黒は光明によってもっとよく知ることができる。地獄に落ちた者たちにとつて、至福者たちを見るのは、苦しみである。かれらは、審判の最後の日を、苦しみのなかで待つている。なぜなら、その結果、苦しみが増大するのを知つているからである。事実、「死者よ、起きよ、審判に来たれ」という恐るべき声が聞こえるとき、霊魂はふたたび肉体といっしよになるであろう。義人たちの場合は、これに栄光を与えるために。地獄に落ちた者たちの場合は、これに永遠の責苦を受けさせるために。そして、後者の場合、わたしの「真理」とすべての至福者とを見るとき、大きな恥辱と苛責とを感じるであろう。そのとき、良心の虫が、木の髄すなわち霊魂とその外皮すなわち肉体とを、喰い荒らすであろう。かれらのために流された「血」、わたしの「子」によってかれらのために成し遂げられたわたしの霊的・地上的あわれみの業、聖福音にしるされている隣人に対するかれら自身の義務が、かれらを告発するであろう。わたしからあわれみを受けていながら、隣人に対して残酷であったことを認めるであろうし、傲慢、自愛心、淫乱、貪欲であったことを認めるであろう。これらすべては、かれらを絶えずあらたに問責するであろう。死の瞬間においては、霊魂はひとりでこれを受けた。しかし、公審判においては、霊魂と肉体とがいっしよにこれを受けるであろう。なぜなら、肉体は霊魂の伴侶であり、道具であつて、各人の意志の好むところにしたがって、善も悪もいっしよにおこなったからである。善業も悪業もみな、肉体を介しておこなわれたのである。いとしいむすめよ、選ばれた人々が、栄光と終わることのない幸福とを、栄光を帯びた肉体といっしよに受けるのは、両者がいっしよにわたしのために堪え忍んだ労苦にむくいるためであって、正しいことである。同じように、悪人の肉体はその永遠の苦しみを分かつであろう。悪の道具であったからである。それゆえ、わたしの「子」のまえに、その肉体といっしよに出るとき、かれらの苦しみはあらたにされ、増大するのである。かれらのみじめな官能と淫乱とは、その人性をわたしの清浄な神性と一致したキリストの人性のなかに見るとき、どれほど問責されることであろうか。かれらは、このアダムのかたまり、すなわちあなたがたの本性が、天使たちのすべての歌隊の上にあげられているのを見るであろう。これに反して、かれらはその過失によって、地獄の底に落とされているのである。かれらは、至福者たちが「子羊」の血の実を受けるとき、寛仁と慈愛とがかれらのなかに輝いているのを見るであろう。かれらは、至福者たちが堪え忍ばなければならなかったすべての労苦が、衣服にほどこされた刺繍のように、肉体の飾りになっているのを見るであろう。それは肉体固有の徳によるものではなく、霊魂がその充満を肉体に通じ与えて、その労苦のむくいをこれに反映させているのである。なぜなら、肉体は善徳の実行において、その伴侶だったからである。人間の顔が外面に反射し、鏡にうつるように、労苦の実が、すでに話した方法で、体に反射しているのである。暗黒な存在たちは、かれらが失つたこれほどの栄福を見、それと同時に、罰によって拷問を受けたその体に、かれらが犯した悪業のしるしがあらわれるのを見るとき、その苦しみと恥辱とが増大するのを感じるであろう。そして、「呪われた者どもよ、永遠の火に入れ」という恐ろしい言葉を聞くと、霊魂は肉体といっしよに立ち去り、希望のなぐさめを完全に失つて、悪魔の仲間になるのである。かれらは、犯した悪業の種類と程度とに応じて、各自それぞれの方法で、地のあらゆる悪臭に包まれるであろう。食欲な者は、その貪欲の悪臭に包まれ、みだりに愛したこの世の事物といっしよに、火で焼かれるであろう。残酷な者は残酷さといっしよに、淫乱な者はそのけがらわしく恥ずかしい邪欲といっしよに、不義な者はその不義といっしよに、ねたみ深い者はそのねたみといっしよに、隣人に対して憎しみや恨みを抱いている者は憎しみといっしよに、火で焼かれるであろう。かれらのすべての悪を生んだみだらな自愛心は焼かれ、堪えがたい苦しみをもたらすであろう。これこそ、傲慢とともにすべての悪のかしらであり、みなもとだからである。このようにして、みなが霊肉ともに、それぞれの方法で、罰せられるであろう。河を通り、下の道を歩き、自分たちの過失を認めてあわれみを哀願するために引きかえそうとしない人々のみじめな終末は、以上述べたとおりである。こうして、かれらはいつわりの門に達する。なぜなら、いつわりの父である悪魔の教えに従うからである。すでに話したように、悪魔自身、門であって、かれらはこれを通つて永遠の亡びに入るのである。これに反して、わたしの子供である選ばれた人々は、上の道、橋の道を通る。かれらは「真理」の道を歩く。この「真理」自体、「門」である。それゆえ、わたしの「真理」は、「だれも、わたしによらないでは、わたしの『父』のもとに行くことができない」と言たのである。かれは門であり、道である。平和の大洋であるわたしのなかに入るには、これを通らなければならない。 これに反して、いつわりに従つた人々には、死の水が与えられる。悪魔はかれらをそれに呼び招く。ところが、盲目でおろかなかれらはそれに気付かない。信仰の光明を失つているからである。悪魔はかれらにつぎのように言つているように思われる。「死の水に渇いている者はわたしのもとに来るがよい。飲ませてやろう」 

誘惑が有益であることについて。霊魂は最後の瞬間自分に予定された栄光あるいは苦罰を見ることについて。

いとしいむすめよ、悪魔は、みじめにもわたしを侮辱した霊魂たちを拷問するために、わたしの正義の執行人となった。この世において、わたしは、悪魔を、わたしの被造物を誘惑し、挑発する立場に立たせた。それは、わたしの被造物を敗北させるためではなく、むしろ、これに勝利を占めさせ、善徳の証しを立てさせたのち、勝利の栄光を与えるためである。だれも、いかなる戦いも、起こりうる悪魔のいかなる誘惑も、恐れてはならない。なぜならわたしはみなを強者となし、かれらに勇敢な意志を与え、これをわたしの「子」の血のなかで強めたからである。この意志は、悪魔も、被造物も、ゆるがすことができない。それはあなたがたのものである。わたしはこれを自由意志といっしよにあなたがたに与えたのである。それゆえ、あなたがたは、自由意志によって、これを引き止めるか、放すか、望み通りにすることができる。意志は、あなたがたが悪魔の手にわたす武器となり、悪魔がこれを使つてあなたがたを打ち、あなたがたを殺す刀となる。しかし、人間がこの意志の刀を悪魔にわたさないならば、すなわち、その誘惑と挑発とに同意しないならば、いかなる誘惑もこれを傷つけ、これに罪を犯させることはできない。むしろこれを強める。なぜなら、その知性の目を開いてわたしの仁愛を見つめさせ、わたしがあなたがたが誘惑されるのを許すのは、仁愛によるのであり、あなたがたに善徳を愛させ、これを証明させるためであることを、理解させるからである。自分自身を認識し、わたしを認識してはじめて、善徳を愛するようになるものである。ところで、この認識は、とくに誘惑のとき、もっと完全に獲得することができる。そのとき人間は自分が存在そのものでないために、避けたいと願つている苦しみや困惑を払い去ることができないことを認識する。そのうえ、自分の意志のなかで、「わたし」を認識する。なぜなら、わたしのいつくしみがかれの意志を強めて、このような考えに同意させないことをさとるし、このようにはからうのは、わたしの仁愛であることをさとるからである。悪魔は弱く、自分自身ではなにもすることができない。わたしの許すことをするだけである。ところで、あなたがたが誘惑されるのをわたしが許すのは、愛によるのであって、憎しみによるのでなく、あなたがたの勝利のためであって、あなたがたの敗北のためではない。それは、あなたがたを自分自身とわたしとの完全な認識に到達させるためであり、あなたがたの善徳が証明されるためである。しかし、この善徳は、その反対によってしか証明されない。以上話したことによって分かるように、悪魔は、地獄に落とされた者を拷問することにより、現世では霊魂に善徳を修業させ、証明させることによって、わたしに奉仕する。悪魔の意向があなたがたに善徳を証明させることにあると言うのではない。なぜなら、悪魔は仁愛をもたないし、あなたがたにこれを失わせることしか望まないからである。しかし、あなたがたがこれを望まないならば、悪魔はこれをなすことができない。人間はいかにもおろかではないだろうか。「わたし」はかれを強い者にしたのに、自分から悪魔の手に身をゆだねるのである。それゆえ、生涯のあいだ悪魔の支配下にはいっていた人々が、死の瞬間にどういうことになるかを、知てほしい。すでに話したように、かれらが悪魔の手に身をゆだね、死が近づくまで、この奴隷状態の恥ずべきくびきを負つたのは、自分たちの意志によるのであって、強制によるのではない。なぜなら、すでに話したように、だれもこれを強制することができないからである。この死の瞬間には、他からの裁きを待つ必要はない。かれらの良心がかれら自身の裁判官である。かれらは絶望者として、永遠の苦罰に身を投ずる。死の門口で、地獄にはいる前に、憎しみによってこれにしがみつく。そして、地獄を所有する前に、この報いを、その主人である悪魔いっしよに、手にするのである。仁愛のなかに生き、愛のなかで死ぬ義人についても、同じことを言うことができる。もしも、かれらが信仰の光明に照らされ、信仰の目をもち、「子羊」の血のなかで絶対的希望に支えられ、善徳のなかで生きたのであれば、生命の終わりに達するとき、かれらのために準備された幸福を見、これを愛の腕に抱くであろう。この死の最後のとき、至高かつ永遠の「善」である「わたし」を、しっかりとその愛の腕に抱きしめるであろう。こうしてかれちは、その死体を残す前に、霊魂が肉体から離れる前に、永遠の生命を味わうのである。高い完徳に達することができず、普通の仁愛をもって生活し、最後の瞬間に達するその他の人々は、完全な人々と同じように しかしもっと不完全な程度に、信仰と希望との光明をもって、わたしのあわれみの腕に身をゆだねる。かれらは、不完全であるために、わたしのあわれみはかれらの過失よりも大きいと考えて、これに身をゆだねるのである。邪悪な罪人たちは、これとはまったく反対である。かれらに予定されている場所を見ると、すでに話したように、絶望に満たされ、憎しみをもってこれを抱きしめる。要するに、どちらも、審判を待たない。それぞれ、この世を終わるとき、これまで話したように、その場所を与えられる。死の瞬間、肉体を離れる前に、その運命を味わい、これを所有する。地獄に落ちる者は憎しみと絶望とによって。完全な者は愛と信仰の光明と「血」における希望とによって。そして、不完全な者は、あわれみにより、同じ信仰を抱いて、煉獄にはいるのである。 

悪魔は見せかけの善によって霊魂を引きつけることについて。-橋を通らないで河を通る霊魂は、だまされ、苦しみを逃げようとして、これにおちいることにいて。-木の示現について。

いとしいむすめよ、すでに話したように、悪魔は人間をさそって、自分がもっている唯一のものである死の水を飲ませようとしている。悪魔は、世の快楽と名誉とをもって人間の目をくらまし、見せかけの善である快楽のえさによって、釣ろうとしている。ほかの方法では釣ることができないにちがいない。なぜなら、人間はなにかの個人的な善、あるいは、なにかの快楽がなければ、さそいに応じないからである。霊魂は、その本性からして、いつも善を欲しがるのである。事実、人間は自愛心によって盲目になり、なにがまことの善であるか、なにが霊魂と肉体とに有益であるかを知ること、識別することができない。それで、奸悪な悪魔は、人間が利己的で官能的な愛によって盲目になっているのを見て、なんらかの利得や善の彩色をほどこしたさまざまの過失を、提示する。各人の状態に応じ、どんな主要悪徳にもっとも強い傾きをもっているかを見定めた上で、これを提示する。俗人に提示する過失と修道者に提示する過失はちがっているし、高位聖職者に提示する過失と権力者に提示する過失はちがっている。それぞれの状態に順応するのである。このような話をしたのは、現在、河を通つて溺れる人々について話しているからである。この人々は自分のことしか考えないし、自分しか愛さない。そうすることによって、わたしを侮辱する。かれらの最後については、のちに話したい。ただいまは、かれらが、どのようにだまされたか、どのように、苦しみを逃げようとして、かえって苦しみにおちいるかを、示したい。かれらは、わたしのあとに従うこと、すなわち、わたしの「子」である「言葉」の橋の道を通ることは、大きな苦労であると考えた。そして、とげを恐れて、うしろに引き返す。盲目だからである。かれらは、あなたの生涯のはじめに、あなたがわたしに、世をあわれみ、これを大罪の暗黒から救い出すように祈たとき、わたしが示した真理を見ないし、知らないのである。あなたも知つているように、そのとき、「わたし」は、あなたに、その根もいただきも見ることのできない一本の本にたとえて、「わたし」を示した。あなたは、ただ、その木の根が地と一つになっているのを見ただけである。それは、あなたがたの人性の地と一致した神性を示していた。あなたもおぼえていると思うが、木の根元はいばらの垣根にかこまれているために、自分の官能を愛する人々はみな、これを避けて、世のすべての快楽のかたどりであるもみがらの山に走た。このもみがらは、麦粒に見えた。しかし、からであった。そのため、あなたも見たように、多くの霊魂は餓死した。多くの人は、これを見て、世の欺瞞に気付き、木に戻り、いばらの垣根すなわち意志の熟慮を通り抜けた。この熟慮は、終わるまえは、真理の道をふさぐいばらのしげみに見えた。それは、一方の良心と他方の官能とのあいだの絶えまない戦いである。しかし、自分自身に対する憎しみと軽蔑とによって、勇敢に決意し、「十字架につけられたキリストに従いたい」と言い切るやいなや、測りしれないたのしみを感じる。このたのしみは、あのとき示したように、各人の心構えと惜しみなき心とに応じて、あるいは多く、あるいは少ない。あなたも知る通り、あのときわたしは言た。「わたしはあなたがたの不動不変の神である。わたしは、わたしのもとに来たいと望むいかなる被造物からも、逃げかくれることはない。目に見えないわたしは、自分を見えるようにして、真理をかれらに示した。わたしはかれらに、わたしを除外して愛するとはどういうことであるかを示した。しかし、みだらな愛の雲のために盲目になっているかれらは、わたしを認識しないし、自分自身も認識しない。れらの迷いを見るがよい。かれらは、少しばかりのいばらを通るよりは、餓死することを選ぶのである。しかしながら、あらゆる苦しみを避けることはできない。現在においては、十字架を負ていない者はない。いるとすれば、上の道を通る者だけである。かれらも苦しみに出合わないわけではない。しかし、かれらにとて、苦しみはなぐさめである。前に話したように、罪のゆえに、世にいばらと艱難とが生まれるのである。罪こそ、この激流、この荒海のみなもとである。わたしが「橋」をあなたがたに与えたのは、あなたがたが河に溺れないようにするためである。「わたし」は、みだりな恐れに捕われる人々がどんなに間違つているかを示した。「わたし」は、自分が不変なあなたがたの神であって、あなたがたの聖い望みを見て、被造物性を見ないことを説明した。そして、これを木のかたどりによって理解させたのである。 

いばらによって傷つくことのない人々について。

これから、罪によってこの地上に生ずるいばらや艱難に傷つく人々と、これに傷つくことのない人々とを示したい。これまで、わたしの「いつくしみ」と悪人の亡びとについて語り、かれらがその官能によってどのようにだまされているかを示した。これから、かれらだけがいばらに傷つくことについて話したい。この世に生まれる者はみな、肉体的な苦労、あるいは精神的な苦労をまぬがれることができない。わたしのしもべたちは、肉体的苦労を負つている。しかし、かれらの精神は自由である。すなわち、その苦労を苦労と思わない。なぜなら、かれらの意志はわたしの意志と一致しているからであり、人間はその意志において苦しむものだからである。これに反して、さきに話した人々は、肉体においても精神においても苦しむ。かれらは、わたしのしもべたちが永遠の生命の前味わいをおこなっているのに対して、地獄の前味わいをおこなっているのである。あなたは、至福者たちの福楽は、主としてなにに成り立つかを知ているであろうか。それは、かれらの意志が、望むものによって満たされていることである。かれらは「わたし」を望んでいる。しかし、わたしを望むと同時にわたしを所有している。かれらは、なんのさまたげもなく、わたしを味わっている。なぜなら、精神に反抗するのを建て前としている肉体の重力を脱しているからである。肉体は仲介者として真理を完全に認識させてはくれなかた。かれらは、肉体のとりことなっているので、わたしをまともに見ることができなかった。しかし、霊魂が肉体の重荷に邪魔されなくなると、その意志は満たされる。わたしを見たいと望み、わたしを見る。わたしを見ることが、あなたがたの至福である。霊魂は、見ることによって認識する。認識することによって愛する。愛することによって、至高かつ永遠の神である「わたし」を味わう。わたしを味わうことによって、その意志、すなわち、わたしを見、わたしを認識したいという望みが、満たされ、成就する。つまり、望むとともに所有し、所有するとともに望む。そのため、さきに話したように、この望みには苦しみはなく、この満足には倦怠がない。要するに、わたしのしもべたちの至福は、主として、わたしを注視し、わたしを認識することにある。この注視と認識とによって、意志は満たされる。霊魂は見たいと望んでいた者を見る。それで、満たされる。すでに話したように、永遠の生命を味わうとは、なによりも先ず、意志の望むものを所有することである。しかし、永遠の生命とは、「わたし」を見ること、「わたし」を認識することであることを、知らなければならない。それはすでに話したとおりである。それゆえ、かれらは、もしも他日満喫する幸福を現世から味わうならば、永遠の生命の前味わいをおこなうことになるのである。しかし、現世において、この前味わいはなにに成り立つであろうか。つぎのように答えたい。それは、かれらに対するわたしの「いつくしみ」を見ること、わたしの「真理」を認識することに成り立つ。そして、この認識は、わたしによって照らされた霊魂の目である知性による認識である。この目のひとみは、至聖なる「信仰」である。その光明は、受肉した「言葉」、わたしの「真理」の道と教えとを識別させ、認識させ、これに従わせる。この「信仰」のひとみがなければ、霊魂は見ることができないであろう。目はもっているけれども、その目が見るために必要なひとみが、膜におおわれている人に似ている。知性は霊魂の目であり、この目のひとみは「信仰」である。利己的な愛が不忠実の膜でこれをおおうならば、見ることができない。目の形はしている。しかし、光明をもたない。自分でこれを取り去たからである。わたしのしもべたちは、わたしを見ることによってわたしを認識し、わたしを認識することによってわたしを愛し、わたしを愛することによってかれらの我意を滅ばし、放棄する。かれらは、その意志を脱ぎ棄てることによって、わたしの意志を着ける。ところで、わたしはあなたがたの成聖しか望まない。それゆえ、かれらはただちに下の道から引き返して橋をのぼりはじめ、いばらを踏み越えて行く。なぜなら、かれらの足はわたしの意志に対する愛によって支えられているので、痛みを感じないからである。すでに話したように、かれらが苦しむのは肉体によるのであって精神によるのではない。なぜなら、被造物の精神を苦しみ悩ますのは感性的な意志であるが、かれらにおいては、これが死滅しているからである。この意志が除かれているので、苦しみもまた除かれている。それで、かれらは、なにごとが起こつても、敬意をもって、わたしから試されるのを恩寵と考えて、これを堪えしのび、わたしが欲すること以外にはなにも望まない。わたしが悪魔に、誘惑によってかれらの善徳を試すことを許し、悪魔がかれらを悩ます場合、かれらは、すでに話したように、わたしのなかに確立している意志によって、この攻撃に対抗する。そして、謙遜して、自分を精神の平和と休息とを所有する資格がない者と見なし、この悩みはみずから招いたものであると考えて、自分自身について抱いている認識を生かし、悲嘆を感じることなく、喜びをもってこれを乗り越えて行く。人間的な試練についてはどうであろうか。あるいは病気、あるいは貧困、あるいは世間でついていた地位の喪失、あるいは、特別に愛していた子供や他の被造物との別離、これらすべては、罪以来、地が生ずるいばらであるが、かれらは、これを理性と聖なる信仰との光明をもって、受諾する。かれらは、至高の「善」であり、「善」以外にはなにも欲しない「わたし」だけを注視する。それゆえ、わたしがこれらの試練をかれらに送るのは、かれらのためであり、愛によるのであって、憎しみによるのではないことを知つている。このように、わたしの愛を意識したのち、自分自身を注視して、自分の過失を認め、「信仰」の光明に照らして、善は報いられ、罪は罰せられなければならないことをさとる。どんなに小さい罪も、無限な神であるわたしに対して犯されたのであるから、無限の苦罰を受けるべきであることを理解する。わたしが、この世で、限りある時間において、かれらを罰したいと思うのは、ひとつの恩寵であると考える。このようにして心の痛悔によってその罪から清められると同時に、その完全な忍耐によって功徳を獲得するし、その労苦は無限の「善」によって報いられるのである。 かれらはまた、この世のあらゆる苦しみは、時間と同じように、短いことを知つている。時間は竿秤の一つの目盛りであって、それ以上のものではない。時間が過ぎれば労苦も終わる。それがわずかのものであることは、理解できるであろう。わたしのしもべたちは、現在のいばらを忍耐して受諾し、これを踏み越える。いばらによって心を傷つけられることがない。かれらの心は、感性的な愛といっしよにわたしのなかに移され、愛の情念によってわたしと一致している。それゆえ、かれらがこの世からすでに永遠の生命の前味わいにあずかっているというのはきわめて真実である。かれらは、すでに話したように、水の中をこれにぬれないで通り、いばらの上をこれに傷つけられないで越えて行く。そのわけは、わたしを至高の「善」と認めたからであり、これをその存在するところ、すなわち、わたしの「ひとり子」、「言葉」のなかに探し求めたからである。

知性の失明から生ずる悪について。善は恩寵の状態で実行しなければ永遠生命にとって無益であることについて

これまで話したことは、悪人が地獄の前味わいをおこなっていること、その錯誤がいかにも大きいことを、もっとよく理解させるためであった。これから、かれらの迷いはどこから生まれるか、地獄の前味わいはどのようにおこなわれるかについて話したい。それは、かれらの知性の目が、自愛心のむすめである不忠実によって盲目になっているからである。すべての真理が信仰の光明によって獲得されるように、虚偽と錯誤とは不忠実によって獲得される。わたしが言つているのは、聖なる洗礼を授かった人々の不忠実のことである。この洗礼 において、知性の目に信仰のひとみが与えられた。分別の年齢に達したとき、善徳を修業するならば、信仰の光明を保ち、生き生きとした善徳を産み、その実を隣人に施すことができる。元気な子供を産んだ妻が、この子供を元気なまま夫に与えるように、かれらも、その生 き生きとした善徳を、霊魂の夫である「わたし」に与えるのである。ところが、このみじめな人々は、反対のことをなすのである。かれらは、理性の年齢に達したとき、信仰の光明を活用し、恩寵の生命によって善徳を産まなければならないのに、かえって死を産む。死を産むというのは、かれらの業はみな、大罪のなかで、信仰の光明がないままに、おこなわれるので死んでいるからである。かれらは聖なる洗礼の形は保つている。しかし、その光明を失つている。自愛心によって犯した罪の雲によってこれを奪われている。自愛心がひとみを覆つて見えなくしているのである。信仰は保つているが業をもたない人々について、その信仰は死んでいと言うのはそのためである。死者は見ることができない。これと同じく、さきに言たように、ひとみが覆われている知性の目は、もう見ることができない。自分自身を認識することができず、犯した過失を認識することができず、かれのなかにあるわたしの「いつくしみ」、かれに存在を与えた「いつくしみ」を認識することができず、わたしが潤沢に与えた恩寵を認識することができない。わたしを認識せず、自分自身を認識しないから、自分のなかにある利己的な官能を憎まず、かえってこれを愛し、その欲望を満たすよう努力し、大罪という死産児を産む。わたしに対しては、わたしを愛さない。わたしを愛さないから、わたしが愛する者、すなわち隣人を愛さない。そして、わたしの好むことを実行して喜ぶということがない。わたしがあなたがたのなかに見るのを喜ぶまことの現実な善徳は以上の通りである。それはわたし自身の利益のためではない。なぜなら、わたしの役に立つものはないからである。わたしは存在そのものである。わたしなくしては、なにものも造られなかった。罪を除いては。罪はなにのでもないが、霊魂から恩寵を奪うことによって、絶対の善であるわたしを奪う。それで、善業がわたしにとて心地よいのは、あなたがたの利益のためである。なぜなら、これによって、終わりなき生命である「わたし」のなかに、報いを受けることができるからである。 これに反して、かれらの場合、業がないのであるから、信仰が死滅していることは、あきらかである。かれらがおこなう業は、永遠の生命のためには価値がない。なぜなら、かれらは恩寵の生命を所有していないからである。しかしながら、恩寵を所有していても、恩寵を所有していなくても、業をなすのを止めてはならない。なぜなら、すべての善は報いられ、すべての悪は罰せられるからである。恩寵のなかで、大罪をもたないでおこなった善には、永遠の生命が与えられる。しかし、大罪をもっておこなった善には、永遠の生命は与えられない。それにもかかわらず、すでに話したように、種々の方法で報いが与えられる。あるときは、かれらに自分自身を認識する時間を与える。あるいは、かれらのために、わたしのしもべたちに、かれらを罪から引き出し、かれらのみじめさから救い出すよう、絶え間なく祈らせる。あるときは、かれらに時間を与えたり、わたしのしもべたちに恩寵にみちびく祈りをおこなわせたりすることはないが、現世的善によって報い、屠殺場に連れて行くためにふとらせる動物のようにあしらう。この人々は、いつも、さまざまの方法で、わたしの「いつくしみ」に抵抗したけれども、また、恩寵の状態にではなく、罪の状態にありながらも、なにかの善をおこなう。かれらは、この業のために、時間も祈りも、わたしがかれらを呼ぶために用いた手段も、利用しようとはしなかった。しかしながら、わたしはかれらをその過失のために見放したけれども、わたしの「いつくしみ」は、この業に報いを与えないで放置しようとは思わない。かれらがおこなったこのわずかの奉仕を地上の善によって報いる。かれらは、それによって自分の身をふとらせ、悔い改めることなく、永遠の苦罰におもむくのである。かれらが錯誤におちいっていることが、わかるであろう。それでは、だれがかれらを錯誤におちいらせたのであろうか。かれら自身である。生ける信仰の光明を棄てたのはかれらだからである。そののち、かれらは、盲人のように、手にふれるものを撫でまわし、これに執着しながら歩いて行く。しかし、失明した目しかもたないから、その愛情を過ぎ去るものに向ける。これがかれらの錯誤である。かれらは黄金だけを見て毒を見ないおろかな人のように行動する。つまり、かれらは、この世のすべてのたから、その喜び、その楽しみを、わたしの外で、利己的でみだらな愛によって、補え、獲得し、所有したのである。わたしが、あなたの初期に、木のたとえののち、あなたに語つたさそりの逓にそっくりである。そのとき、わたしは、さそりは黄金を前に毒をうしろにもっていると言た。そのなかには、黄金をともなわない毒はなく、毒をともなわない黄金はない。しかし、最初に見えるのは黄金である。信仰の光明に照らされている者を除き、毒を防ごうと思う者はいない。 

勧めを守らなければ掟を守ることができないことについて。どんな身分を選んでも、その意志が善かつ聖であれば、いつも神によみせられることについて。

わたしは、悪徳に対する憎しみと善徳に対する愛との両刃のつるぎをもって、わたしに対 する愛のために、利己的な官能の毒を断つた人々について話した。このような人々は、もし望むならば、理性の光明にしたがって、この世の事物の黄金を保有し、所有し、獲得することができる。しかし、大いなる完徳に達したいと望む人々は、これを現実的にも霊的にも軽蔑した。それは、わたしの「真理」によって与えられ、遺された勧めを現実に守る人々である。財産を所有する人々は掟を守る。そして勧めは霊的には守るけれども、現実には守らない。しかし、勧めは掟と結びついているので、だれも、少なくとも霊的に勧めを守らなければ、掟を守ることができない。世の富を所有するときは、これを謙遜に所有すべきで傲慢に所有すべきではない。借りたものとして所有すべきで自分のものとして所有すべきではない。わたしの「いつくしみ」が、あなたがたの利益のために、あなたがたに利用させるものとして、所有しなければならない。あなたがたは、わたしがこれを与える程度に応じて所有する。あなたがたはわたしがこれを残す程度に応じて保存する。わたしは、それがあなたがたの救いに役立つと判断する程度に応じて、これを残し、これを与える。それで、あなたがたは、そのようにこれを利用しなければならない。人間は、財産をこのように利用することによって掟を守り、わたしを万物に越えて愛し、隣人を自分自身のように愛するし、欲望を解脱した心をもって生きる。すなわち、これらの善をもっぱらわたしの意志に従つて愛し、保存する。これを現実に所有するとしても、その望みによって勧めを守る。なぜなら、すでに話したように、みだらな愛の毒を断ているからである。このような人は、普通の仁愛にとどまる。しかし、掟と勧めとを、ただ霊的にではなく、現実的にも守る者は、完全な仁愛に生きる。わたしの「真理」、「受肉せる言葉が、「師よ、永遠の生命を獲得するために、なにをしたらよいでしようか」とたずねた青年に与えた勧めを、単純に守る。わたしの「真理」はかれに言つた。「律法の掟を守りなさい」。かれは答えた。「わたしはこれを守つています」。そこで、かれに言つた。「よろしい。完全になりたいならば、行て、所有しているものを売り、これを貧しい人々に施しなさ言。すると、青年は悲しんだ。富に対する執着がまだあまりにも大きかったので悲しんだので あった。しかし、完全な人々は勧めを守る。この世のたからとそのすべての楽しみとを放棄 し、徹夜により、苦業により、謙遜で絶え間ない祈りによって、その体を苦しめる。普通の仁愛にとどまっている他の人々は、富の現実な所有を放棄しないけれども、永遠の生命は失わない。これを放棄する義務があるわけではないからである。しかし、地上のたからを所有したいならば、わたしが教えた方法で所有しなければならない。これを保存したとしても、罪を犯すわけではない。なぜなら、すべてのものは、至高の「いつくしみ」であるわたしが創造したものであり、わたしの理性的被造物の役に立つように造つたものであって、善いもの、すぐれたものだからである。しかし、それは、わたしの被造物を世の楽しみの下僕や奴隷にするためではない。大いなる完徳に達したいと思わず、この世のたからを保存するのを好む者は、奴隷としてではなく、大名としてこれを所有しなければならない。かれらの望みは、「わたし」に向けられなければならない。その他のものは、自分の所有物としてではなく、借りたものとして愛し、保有しなければならない。これはさきに話したとおりである。わたしは人物も、その占める身分も問題にしない。ただ、聖なる望みに注目するだけである。したがって、人間がさまざまの身分を選んで生きるにあたって、大切なことは、善良で、聖い意志をもつことである。そうすれば、わたしの気に入るであろう。しかし、だれがこのように生きることができるであろうか。利己的な官能に対する憎しみと善徳に対する愛とによって、毒を断つた人である。人間は、みだらな意志の毒を断ち、聖なる愛とわたしに対する恐れとによってその意志を規正したのち、好む身分を選び保持することができる。そうすれば、いかなる身分においても、永遠の生命を獲得するように行動するであろう。たしかに、この世のすての善を霊的に放棄するだけではなく、現実的にも放棄するのは、もっと完全であり、わたしを喜ばせる。しかし、このような完徳に達する勇気を感ぜず、弱さのためにこれを堪えることができないときは、その身分に応じて、普通の状態にとどまることができる。わたしの「いつくしみ」は、だれもその身分を罪の言いわけにすることができないように、このようにはからたのである。実際、だれも言いわけすることができない。わたしは、かれらの情念も、かれらの喜びも心地よく承認する。世俗にとどまりたいと思う者は、富を所有し、位階につき、結婚生活をいとなみ、子供を養育し、その立身をはかることができるし、どんな身分にも、望みどおりにつくことができる。ただし、永遠の死をもたらす利己的な官能の毒を断たなければならない。それはたしかに毒である。毒はこれを努力して吐き出し、くすりを飲まないならば、体を苦しませ、ついには殺す。世の楽しみというさそりもこれと同じである。すでに話したように、地上のものごとは、それ自体は善いものである。至高の「いつくしみ」であるわたしがこれを造たのである。それで、あなたがたは、聖なる愛とまことの恐れとをもって、望むようにこれを利用することができる。しかし、人間の邪悪な意志は毒を分泌する。もしも心をこの愛着から解放する聖なる告白によって、この毒を吐き出さないならば、霊魂は中毒症を起こし、死ぬにちがいない。これは、利己的な官能には苦いと思われるけれども、毒を消すくすりである。以上によって分かるように、錯誤にもてあそばれている者がどんなに多いことであろうか。かれらは、わたしを所有し、自分のものにすることができ、悲しみをのがれ、喜びとなぐさめとを抱くことができる。ところが、かれらは、善の外観にあざむかれて悪を選び、みだらな愛によって黄金に執着して亡びる。かれらは、多くの不忠実によって盲目となり、毒を見分けることができない。中毒にかかっていることを認めても、くすりを飲まない。この人々は、悪魔の十字架を背負い、地獄の前味わいをおこなっているのである。

世俗的な人は満たされないことについて。邪悪な意志は現世で罰を受けることについて。

わたしは、さきに、人間のすべての苦しみは、ただ意志によって生まれる、と言つた。わたしのしもべたちは、かれらの意志を脱ぎ去つてわたしの意志をまとつているので、苦しみを感じても、これに苛責されることがない。かれらは、わたしが恩寵によってかれらの霊魂のなかに現存していることを感じているので、満たされている。しかし、わたしを所有していない者は、たとえ全世界を所有していても、満たされることがない。なぜなら、被造物は、人間のために造られたのであって、人間が被造物のために造られたのではないから、人間以下のものだからである。それゆえ、人間はこれによって満たされることができない。わたしだけが、これを満たすことができる。それゆえ、すっかり盲目になっているみじめな人々は、いつも飢えている。しかし、満たされることがない。望んでいるものを所有することができない。なぜなら、ただひとりこれを与えることのできる「わたし」に願わないからである。あなたは、かれらがどういうわけで苦しんでいるかを知りたいと思うであろう。被造物が同一化していたものを失うときは、愛は苦しみを生むことを、あなたは知っているにちがいない。この人々は、愛によって、種々の方法で、地と同一化している。地になっている。ある者は富と同一化し、ある者は名誉と同一化し、ある者はその子供と同一化している。ある者は被造物に仕えるためにわたしを失い、ある者は多くの汚れたおこないによってその 体を野卑な動物に下落させている。とにかく、さまざまの状態で、地を欲しがり、地を食べ ている。かれらは、これらのものが恒久的であってほしいと願っている。しかし、恒久的な ものはない。風のように吹き過ぎる。あるいは、かれらが死によって愛するものから奪われ、あるいは、わたしの摂理によって、かれらからその愛するものが奪われる。この喪失はかれ らにとって堪えがたい苦しみである。所有に対するみだらな愛が大きかっただけに、これを失った悲しみも大きいのである。自分のものではなく、借りたものとして所有していたのであればこれを失つても苦しむことはないであろう。かれらの苦しみは、望むものを所有して いないところから生まれる。すでに話したように、世はかれらを満たすことができない。満たされないから苦しむのである。この人々の良心の苛責はどんなに大きな苦しみであろうか。この人々の復讐への渇きはどれほど大きな拷問であろうか。絶え間なく内心を虫ばみ、敵をたおすまえに自分の霊魂を殺している。かれらは憎しみのつるぎで自分自身を殺し、最初に死ぬのである。貪欲な人々の苦しみはどんなに堪えがたいものであろうか。かれらは貪欲のあまり自分の需要を極度に切りつめるのである。ねたみ深い人々の悩みはどんなに大きいものであろうか。その心は絶えず虫ばまれているし、隣人の幸福を喜ぶことができない。かれらがこのように官能的な愛によって愛するものはみな、かれらに、苦しみといわれのない不安とを与える。かれらは悪魔の十字架を背負つているし、この世から地獄の前味わいをおこなっている。さまぎまの病気になやまされて生きている。これをなおさないならば、最後には永遠の死を迎えるのである。ところで、この人々は、多くの艱難のいばらで引き裂かれるだけで満足せず、その上、そのよこしまな我意によって、自分自身を苛責している。かれらは、体にも心にも十字架を背負ている。霊魂と肉体とはいっしよに、悩みと苦しみとを凌ぐが、それによって少しも功徳を積むことがない。なぜなら、その苦しみを忍耐をもってではなく、怒りをもって凌ぐからである。かれらは、みだらな愛によって黄金と世の快楽とを獲得し、所有した。そのため、恩寵の生命と仁愛の情念とを失い、死の木となった。したがって、かれらのすべての業は死 んでいる。かれらは、その悩みを抱いて河の道を通り、そこに溺れる。そして、死の水に達し、憎しみを抱いて悪魔の門をくぐり、永遠の断罪を受ける。このように考えるならば、かれらの迷いがどんなに大きいか、どんなに大きい苦しみて、悪魔のなぶりものとなり、地獄に落ちて行くかが、わかるであろう。あなたは、かれらの盲目の原因が、信仰の光明というひとみを覆つた自愛心の暗黒であることを理解したにちがいない。そのうえ、この世の艱難は、どの方面から来るものも、世から迫害されているわたしのしもべたちを肉体的に襲うけれども、その精神を乱すことがないことが分かったにちがいない。それというのも、かれらはわたしの意志に一致しているので、わたしのために苦しむのを喜ぶからである。しかしながら、世のしもべたちは、内面的にも外面的にも打ちのめされる。とくに内面的に、その所有しているものを失うおそれによって。そしてまた、獲得することのできないものを望ませる愛によって。この主な二つの苦しみから、他のすべての苦しみが生まれる。それは言葉で言い表わすことができないほどである。要するに、あなたも分かるように、この世においても、義人たちの分け前は罪人の分け前よりもすぐれている。これで、あなたは両者が歩く道とその落ちつく先とを十分に見極めることができたにちがいない。

奴隷的な恐れによっては永遠の生命を獲得することができないことについて。この恐れから善徳に対する愛に達するにはどうすればよいかについて。

これからあなたに話したいのは、つぎのことである。わたしがこの世の艱難を送るのは、霊魂に、その目的はこの世にはないこと、地上の事物は不完全で流転すること、「わたし」だけがその目的であること、それゆえ、わたしを自分の目的として望み、選択しなければならないことを、認識させるためである。ある者は、この世の艱難の刺激を感じて、その凌いでいる苦しみにより、そしてまた、その罪の結果として加えられる苦しみを思いうかべることによって、その雲を払いはじめる。かれらは、この奴隷的な恐れによって、河を脱出しはじめ、黄金の顔をしたさそりが注入した毒を吐きはじめる。かれらは、節度をもってこれを愛したのではなく、節度を失つて愛したために、その毒を注入されたのである。かれらはこれを意識し、立ちあがって河岸に向かい、橋に達しようと努力する。しかし、奴隷的な恐れだけによっては、そこにたどりつくことができない。事実、その住居から大罪を掃き出しても、これを、恐れの上にではなく愛の上にきずいた善徳によって、飾らないならば、永遠の生命を獲得するには十分ではない。橋の第一段に、両足で、すなわち、愛情と望みとによって、立たなければならない。この両足こそ、あなたがたのために橋を造たわたしの「真理」に対する愛に、霊魂を運ぶのである。これは第一の階段である。「わたし」は、わたしの「子」がその体をもって階段を造たことを説明したとき、これに昇るにはどうしたらよいかについて述べた。一般的な原則として、世俗のしもべたちが最初に立ちあがるのは、通常、罰を恐れるからである。これはいかにも真実である。この世の艱難は、しばしば、かれら自身にとつて重荷である。そのため、かれらは世から脱出しはじめる。もしも、この恐れを信仰の光明に従わせるならば、善徳に対する愛にみちびかれるにちがいない。しかし、いかにものろのろ歩き、しばしば河に戻る者がある。かれらは河岸にたどりついたかと思うと、逆風が吹きはじめ、この暗い生命の嵐の海にもてあそばれる。あるときは、その怠慢のために、第一の階段を善徳に対する感情と愛とによって昇るまえに、繁栄の風が吹くことがある。そうなると、かれらはうしろを振り返り、この世の快楽に対するみだらな愛にとらえられる。またあるときは、艱難の嵐が吹くことがある。そうなると、不忍耐によって河岸から遠ざかる。それというのも、かれらが嫌て、避けたいと思ているのは、犯した罪でも、わたしに加えた侮辱でもなく、罪の結果受ける罰に対する恐れであって、この恐れがかれらを嘔吐から立ちあがらせたにすぎないからである。しかし、善徳に関しては、なにごとにおいても必要なのは、堅忍である。堅忍がなければ望みを達成することができないし、追究しはじめた目的に到達することができない。それゆえ、望みを実現したいと思うならば、堅忍が必要である。すでに話したように、この人々は、さまざまの刺激を受けて、それにもてあそばれる。あるときは、かれら自身のなかで、利己的な官能が精神に反抗する。あるときは、被造物の魅力に引きずられ、みだらな愛によって、わたしから遠ざかる。あるときは、被造物から侮辱されて忍耐を失う。あるときは、悪魔が多種多様な戦いをいどむ。悪魔は、あるときは失望によってかれらを混乱させようとして、「おまえの罪、おまえの過失にくらべるならば、おまえが企てた善なんか、なんの価値があろうか」と話しかける。悪魔がそのようなことをするのは、これを連れもどし、実行しはじめたわずかの善を放棄させるためである。またあるときは、悪魔は、かれらがわたしのあわれみのなかに見出した希望に、安心して身を委ねさせようとして、「なんだってそんなに苦労するのか。この世の生活をたのしむがよい。最後のとき、過失を認めてあわれみを求めればよいではないか」とささやく。悪魔は、このような方法で、かれらが抱きはじめた恐れを失わせるのである。かれらは、このような理由により、またその他の多くの理由によって、逆戻りする。恒常心を欠き、堅忍することができない。それというのも、自愛心の根が完全に取り除かれていないからである。そのため堅忍することができないのである。かれらは、潜越にもわたしのあわれみに身をまかせ、これに希望する。しかし、それはいわれのないことであり、無知の結果である。かれらは、わたしのあわれみに対する僣越な希望を抱きながら、わたしを侮辱しつづける。わたしは、わたしのあわれみを、わたしを侮辱させるために与えたことはなく、また与えることはない。それによって、悪魔の好計と精神のみだらな迷いとを防がせるために与えるのである。しかし、かれらは、まったく反対なことをおこなう。かれらはわたしのあわれみを武器にしてわたしに背く。それというのも、かれらがおこなった最初の一歩を押し進め、罰に対する恐れと多くの艱難のいばらの刺激とによって、大罪の悲惨からのがれるよう努力しなかったからである。第一歩で満足したために、善徳に対する愛を抱くことができず、堅忍することができなかったのである。霊魂はこのように立ちどまってはならない。前に進まなければ、うしろに戻る。さきの人々は、善徳を押し進め、恐れの不完全さを乗り越えて愛に達しようとしなかった。それで、逆戻りせざるをえなかったのである。 

この霊魂は、河に溺れる人々の盲目を前にして、大きな苦痛を感じることについて。

そこで、この霊魂は、その望みに悩まされて、自分の不完全と他の人々の不完全とについて考えた。そして、被造物のなかにこれほどの盲目があるのを聞いたり、見たりして、大きな悲しみを覚えた。神の「いつくしみ」がきわめて大きく、この世に、どんな身分におかれている者に対しても、救いの妨げになるものはなにも置いていないことを、知ていたからである。それどころか、すべては善徳の実行のためであり、勧誘のためである。それにもかかわらず、どれほど多くの人が、自愛心とみだらな執着とによって、河を通り、下を歩いていることであろうか。この人々が、改心しないならば、永遠の亡びにおちいるのはあきらかである。そのうえ、河から這いあがり、立派に歩きはじめた人々のうち、多くの者は逆戻りして行た。それは、この霊魂にご自分を示された神の「いつくしみ」が教えて下さつた理由によるのである。これを見て、この霊魂は、悲しみに沈んだ。そこで、その知性の目を永遠の「父」に注ぎ、つぎのように申し上げた。

ああ、はかりがたき愛よ、おんみの被造物の迷いはどんなに大きいことでしよう。おんみの「いつくしみ」におんみの「ひとり子」のおん体によって象徴される三つの階段について荒波を完全に脱出しておんみの真理の道を歩くにはどうしたらよいかについて、階段を昇る人々について、もっとはつきりご教示下さいますようお願い申し上げます。

橋すなわち神の「子」のなかにある三つの階段は霊魂の三つの能力を象徴することについて。

すると、神の「いつくしみ」は、この霊魂の望みと飢えとの上にあわれみのまなこを注ぎ、つぎのように言われた。
いとしいむすめよ、わたしはあなたの望みをさげすむことはしない。むしろ、あなたの聖なる望みをかなえてやりたいと思う。それで、あなたの願つたことについて説明したい。あなたは、三つの階段の隠喩について、そしてまた、どのように河を脱出して橋に昇ることができるかについて、説明するよう求めた。わたしはさきに、この世から地獄の前味わいをおこない、悪魔のなぶりものとなり、最後は永遠の亡びにおちいる人々のあやまりと盲目とを描写した。かれらがその悪業からどのような実を獲得するかについても述べた。これらの話のなかで、わたしは、このような不幸を避けるためには、どのように対処しなければならないかを示した。しかし、あなたの望みを満足させるために、あらためて、くわしく、これを説明したいあなたも知るように、すべての悪の土台は、自分自身に対する利己的な愛である。この愛は雲のように理性の光明をおおいかくし、理性のなかにある信仰の光明を消し去る。しかも、一方を消し去るときは必ず他方も消し去る。わたしは、霊魂をわたしの似姿として創造し、これに記憶、知性、意志を与えた。知性は霊魂のもっとも気高い部分である。知性は情念によって動かされる。しかし、情念は知性によってやしなわれる。そして、愛の手、すなわち情念は、「わたし」の追憶とわたしの恩恵とによって、記憶を満たす。この追憶は注意を促し、なおざりを避けさせるし、感謝を抱かせ、忘恩におちいらせない。このように、一つの能力は他の能力を助けて、霊魂を恩寵の生命のなかに育てる。霊魂は愛なくして生きることができない。いつもなにかを愛したいと望んでいる。なぜなら、霊魂は愛でできており、わたしはこれを愛によって造たからである。それゆえ、わたしはあなたに、意志は知性を動かすと言たのである。情念は知性に「わたしは愛したい。わたしの食物は愛だから」と言ているようである。すると、情念によって目を覚まされた知性は立ちあがり、「愛したいと言うのか。それでは愛することのできるものを与えよう」と答えているようである。そして、時を移さず、活動をはじめ、霊魂の尊厳と罪のために落ちこんだみじめさとについて考える。その存在の尊厳を考えて、わたしのはかり知れない「いつくしみ」と霊魂を創造したつくられざる「仁愛」とを味わい、自分のみじめさを考えてわたしのあわれみを見出し、味わうのである。事実、霊魂に時を与え、これを暗黒から救い出したのは、わたしのあわれみではないだろうか。そうなると、情念は愛にやしなわれる。聖なる望みの口を開き、利己的な官能に対する憎しみと悔みとを、この聖なる憎しみの実であるまことの謙遜と完全な忍耐との油によって調理して食べる。霊魂は善徳を宿し、のちに話すように、完徳を修めた程度に応じて、あるいは完全に、あるいは不完全に、善業を出産する。これに反して、感覚的な情念が感覚的なものごとにひかれてこれを愛したくなると、知性の目はこれにひかれて朽ち去るものごとを対象となし、自愛心をつのらせ、善徳を憎み、悪徳を好むようになる。その結果生まれるのは、傲慢と不忍耐である。記憶は情念が提供するものによってしか満たされない。愛は目をくらます。そのため、目はものごとをおぼろげにしか見分けること、見ることができない。そして、知性はすべてのものごとをおぼろげに見、情念は善と快楽とをおぼろげにしか愛さないのである。このおぼろげな外見にあざむかれないならば、害を受けることはないであろう。なぜなら、人間はその本性からして善以外のものを望むことができないからである。ところが、悪徳は個人的な善の色で色どられている。そして、この外見を霊魂に示す。目は失明しているので、見分けることができず、真理を認識することができず、あやまって、善とたのしみとを、存在しないところに探す。すでに話したように、わたしを除外した世俗のたのしみは、有毒ないばらでしかない。要するに、知性はその見るところにおいてあざむかれ、意志はその愛することろにおいてあざむかれて愛してならないものを愛し、記憶はその保存するものにおいてあざむかれる。知性は他人のものを奪い取る盗人に似ている。記憶は、わたしの外にあるものごとの追憶を絶えず保存する。このようにして、霊魂は恩寵を失うのである。霊魂の三つの能力は、このように一体をなしている。わたしがその一つによって侮辱されるときは、必ず三つ全体によって侮辱される。なぜなら、すでに話したように、この三つは、自由意志の好むままに、善についても悪についても、助け合うからである。この自由意志は情念と結びついて、思うままに、あるいは理性の光明とともに、あるいは理性をぬきにして、これを動かす。あなたがたは、自由意志がみだらな愛によって断ち切らないかぎり、「私」と結合した理性をもっている。しかしまた、絶えず霊と戦う邪悪な律法ももっている。それゆえ、あなたがたには二つの部分がある。官能と理性とがこれである。官能はしもべである。霊魂に仕え、肉体の道具をつかって善徳を証明し、実行する役目を与えられている。霊魂は自由である。わたしの「子」の血によって解放されている。自分が同意しないかぎり、自由意志と結合している意志によって屈従させられることはなく、自由意志は意志と同調して、これと一つになる。自由意志は官能と理性とのあいだに位置していて、好むままに、そのどちらかに向かうことができる。すでに話したように、霊魂が、自由意志の手によってすべての能力をわたしの名のもとに結集するならば、被造物のすべての業は、霊的なものも地上的なものも、立派に調整される。自由意志は利己的な官能から解放されて理性と結合する。そうなると、「わたし」は恩寵によてそのなかに休息する。わたしの「真理」、「肉となれる言葉」が、「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる」と言つたのはこのことである。そして、これは真理である。すでに話したように、かれによらないでは、だれもわたしのもとに来ることができない。そのため、わたしはかれを三つの階段のある橋に仕立てたのである。この三つの階段は、追て説明するように、霊魂の三つの状態をかたどつている。 

霊魂の三つの能力が一致協力しなければ堅忍は不可能であり、堅忍がなければ目的に達することができないことについて。

わたしはあなたに、三つの階段のかたどりを、霊魂の三つの能力によって、一般的に説明した。この階段は三つであるが、わたしの「真理」の教えと橋とを通りたいならば、他をさしおいて一つをのぼるということはできない。この三つの能力がたがいに一致協力しないならば、霊魂は堅忍することができない。この堅忍についてはさきに、あなたがわたしに、旅人が河から脱出するにはどうしなければならないかについて、そしてまた、この三つの階段の意味はなにかについて、もっとはっきり説明するよう願つたとき、話したが、そのとき言ったように、堅忍がなければ、だれも目的に達することができない。二つの目的がある。二つとも堅忍を要求する。それはすなわち、悪徳と善徳である。あなたが生命に達したいと思うならば、善徳に堅忍しなければならないし、永遠の死に達したいと思うならば、悪徳に堅忍しなければならない。要するに、堅忍によって、「生命」であるわたしのもとに来るか、あるいは死の水を飲ませる悪魔のもとに行くか、どちらかである。 

「のどが渇いている者は、わたしのもとに来なさい」というキリストの言葉の説明

あなたがたはみな、わたしの「真理」が神殿で、望みと不安とにかられて、「のどが渇いている者は、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしは生ける水の泉です」と叫んだとき、全体的にも個別的にも、招きを受けた。かれは、「父のもとに行つて飲みなさい」とは言わないで、「わたしのもとに来なさい」と言った。それは、苦しみは「父」であるわたしに降りかかることはないが、わたしの「子」には降りかかるからである。あなたがたも、この死すべき生命において、遍歴し旅するあいだ、苦しみなくしては歩くことができない。なぜなら、すでに話したように、罪によって地上にいばらが生じたからである。それゆえ、「わたしのもとに来て飲みなさい」と言ったのである。なぜなら、あなたがたは、掟を守り勧めを精神的に受けいれることにより、あるいは、掟と勧めとを現実に実行することによって、かれの教えに従うならば、すなわち、どの道をたどり歩くにしても、完全な仁愛あるいは普通の仁愛によって、かれの教えに従うならば、飲むものを見出すことができ、神性と人性との一致による「血」の実を見出して味わうことができるからである。あなたがたは、かれのなかにいるならば、平和の大洋であるわたしのなかにいる。なぜなら、わたしはかれと一つであり、かれはわたしと一つだからである。このように、あなたがたは恩寵の生ける水の泉に招かれているのである。それゆえ、あなたがたの橋になったかれを通らなければならない。そして、堅忍をもって歩かなければならない。いばらも、逆風も、繁栄も、歎難も、その他どのような苦しみも、あなたがたに、うしろを振り返らせてはならない。あなたがたは、生ける水を与える「わたし」を見出すまで、堅忍しなければならない。わたしは、この生ける水を、愛の甘美な「言葉」、わたしの「ひとり子」のなかだちによって、あなたがたに与えるのである。ところで、かれはなぜ、「わたしは生ける水の泉である」と言つたのであろうか。そのわけは、かれは、神性と人性との一致によって、生ける水を与える「わたし」を満たしているからである。そのうえ、かれはなぜ、「わたしのもとに来て飲みなさい」と言ったのであろうか。それは、あなたがたは苦しまないで通ることができないし、苦しみはわたしには降りかかることができないが、かれには降りかかることができるからである。そのうえ、わたしは、わたしの「ひとり子」を、あなたがたの橋にしたのであるから、だれも「かれ」を通らないで「わたし」のもとに来ることができない。これはわたしの「真理」が言ったとおりである。「わたしを通らなければだれも父に行くことができない」。以上話したことによって、あなたは、どの道を取らなければならないか、これをどのように歩かなければならないか、なぜ堅忍をもって歩かなければならないかを悟つたにちがいない。堅忍がなければ、生ける水を飲むことができないであろう。なぜなら、堅忍の徳によってこそ、永遠の「生命」であるわたしのなかで、栄光と勝利の冠とを受けることができるからである。

すべての理性的被造物が世の荒波を抜け出て橋を渡るためには、どのような方法にたよるべきかについて。

これから、三つの階段について、あらためて話したい。あなたがたが、河におぼれないでこれを脱出し、招かれている生ける水に到達したいと思うならば、そしてまた、わたしがあなたがたのなかにいるのを望むならば、この三つの階段をのぼって行かなければならない。そうするならば、わたしは、あなたがたの旅のあいだ、あなたがたのなかにいるし、恩寵によって、あなたがたの霊魂のなかに住むのである。ところで、あなたがたが旅したいと思うならば、渇いていなければならない。なぜなら、渇いている者だけが招かれているからである。「渇いている者は来て飲みなさい」。渇いていない者は旅に堅忍することができない。あるいは疲労のために立ちどまり、あるいは快楽にひかれて立ちどまるからである。かれらは、水を汲み上げるために必要な器をたずさえるよう心がけないし、ひとりでは旅することができないのに仲間をさがそうとはしない。ちょつとした迫害に出会うと、敵があらわれたと思て、引き返す。ひとりだから、こわいのである。仲間がいたら、こわがることはないであろう。三つの階段をのぼっていたら、安全であろう。ひとりではないからである。だから、渇いていなければならないし、いっしよに集まっていなければならない。「あるいは二人、あるいは三人、あるいはもっと多く」と言われているとおりである。なぜ、「二人あるいは三人」と言われるのであろうか。なぜなら、三がなければ二はなく、二がなければ三はなく、もっと多数がなければ三も二もないからである。ある人が孤独ならば、わたしはかれのなかにいることができない。なぜなら、仲間をもたないから、わたしはそのなかにいることができないからである。そのような人は無きにひとしい。なぜなら、自分自身に対する利己的な愛のなかに閉じこもっているからであり、わたしの恩寵と隣人に対する仁愛から切り離されているからである。自分の過失によってわたしから切り離された者は、無におちいる。なぜなら、「わたし」だけが、「存在者」だからである。それゆえ、孤独な者、すなわち、自分自身の愛に閉じこもっている者はわたしの「真理」から見て数のなかにはいらないし、わたしによって受け容れられない。だから、「二人または三人またはそれ以上の人が、わたしの名によって集まっているところには、わたしもそのなかにいる」と言われているのである。わたしは、三がなければ二はないし、二がなければ三はない、と言たが、それは真実である。あなたも知るとおり、「律法」の掟はただ二つに要約される。そして、この二つの掟を守らなければ、他の掟は一つも守られない。わたしを万事に越えて愛し、隣人を自分自身のように愛さなければならない。これが「律法」の始めであり、中心であり、終わりである。この二つの掟は、霊魂の三つの能力、すなわち記憶、知性、意志が集結しなければ、わたしの名によって集結することができない。記憶は、わたしの恩恵とわたしの「いつくしみ」とをそのなかに保たなければならない。知性は、わたしがわたしの「ひとり子」の仲介によてあなたがたに示した名状することのできない愛を注視しなければならない。わたしはかれをあなたがたの知性の目の対象として提示し、かれのなかにわたしの仁愛の火を観想させるのである。意志は記憶や知性と結びついて、わたしを愛し、わたしを望まなければならない。わたしこそ、その目的だからである。霊魂のこの三つの善徳と能力とが集合するならば、「わたし」は恩寵によってそのなかにいる。そうなると、人間はわたしに対する仁愛と隣人に対する愛とに満たされるから、すぐさま、多くの現実な善徳の仲間を見出す。すると、霊魂の欲求は、渇き、すなわち、善徳への渇き、わたしの誉れへの渇き、霊魂の救いへの渇きを覚える。他の渇きはみな、消え、死んでいる。奴隷的な恐れは少しも抱かず、 情念の第一の階段を踏み越えて、安心して歩く。なぜなら、その情念は自愛心を脱却して、自分と朽ち去るものごととの上にのぼり、これを愛せず、保存せず、保存するとしても、それはわたしのためであって、わたしの外でではなく、まことに聖なる恐れにより、善徳に対する愛によって、保存するからである。このようにして、霊魂は第二の階段をのぼる。そこで、知性の光明によって、わたしが十字架につけられたキリストのなかに示した深い愛を観想する。そして、そこで、平和と休息とを見出す。なぜなら、記憶はわたしの仁愛によって満たされ、空ではなくなるからである。あなたも知るとおり、空の器は、これを叩けばうつろなひびきを立てる。ところが、満たされるとそうではない。記憶も、知性の光明と愛の情念とにみたされるならば、艱難あるいは世の快楽に動かされても、みだらな喜びや不忍耐のひびきを立てることがない。なぜなら、「全善」であるわたしによって満たされているからである。この階投をのぼり終えると、集結が行われたのに気がつく。さきに話したように、この三つの階段、霊魂の三つの能力を、理性が、わたしの名によって集結させたのである。二つを、すなわち神に対する愛と隣人に対する愛とを集結し、ついで、三つを、すなわち、保存する記憶、見る知性、愛する意志を集結した霊魂は、その力であり、平安である「わたし」の友となり、諸善徳の友となったのに気がつく。そして、安心して歩きつづける。なぜなら、わたしがそのなかにいるからである。このようにして、霊魂は、望みにかられ、生ける水の泉にみちびく「真理」の道に従いたいという渇きを覚える。わたしの誉れと自分自身の救いと隣人の救いとに対する渇きが、この道を望ませたのである。これによらなければ、目的を達成することができないからである。そこで、霊魂は、世に対するみだらな情念と愛とを棄てて空になった心の器をたずさえて、歩く。しかし、この器は空になるとすぐ満たされる。なにものも空のままであることはできない。物質的なものを棄てて空になると空気によって満たされる。心も器であって、空のままであることができない。過ぎ去るものごととみだらな愛とを棄てて空になると、空気すなわち恩寵の水に到達させる神の天上的で甘美な愛によって満たされる。すると、霊魂は十字架につけられたリストの門を通り、平和の大洋である「わたし」のなかで、生ける水を見出し、これを味わうのである。 

これまで話したいくつかのことがらの要約

これまで、わたしは、一般的に、理性を与えられた被造物が、世の荒海を抜け出し、これにおぼれること、永遠の亡びにおちいることをまぬかれるためには、どうしなければならないかを示した。また、三つの一般的な階段、すなわち、霊魂の三つの能力があること、だれもその全部をのぼらないで一つだけをのぼることができないことを示した。つぎに、わたしの「真理」の「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには……」という言葉を引用し、これにちなんで、三つの階段すなわち霊魂の三つの能力の集結について説明した。そして、この三つの能力が、律法の主な二つの掟、すなわち、わたしに対する仁愛と隣人に対する仁愛、万事にこえてわたしを愛する義務と隣人を自分自身のように愛する義務とに合致することを示した。あなたがたは、階段をのぼり、わたしの名によって諸能力を結集すると、生ける水に渇くようになる。すると、動きはじめ、橋であるわたしの「真理」に従つて、橋を渡る。そして、あなたがたに叫ぶかれの声にひかれて走る。かれが、神殿で大声をあげ、「のどが渇いている人は、わたしのところに来て飲みなさい。わたしは生ける水の泉です」と言てあなたがたを招いたことは、すでに話したとおりである。わたしは、この言葉にはどのような意味があるか、これをどのように理解しなければならないかについて、あなたに説明した。それは、わたしの仁愛のゆたけさと、死の水に招く悪魔の道をよろこんで走る人々の錯乱とを、もっとよく認識させるためであった。あなたは、おぼれないためには、どのような方法を取らなければならないかとたずねたが、わたしはそれを示し、それについて述べた。方法とは橋をのぼることである。これをのぼるにあたっては、隣人に対する愛によってたがいに一致結束し、心と情念との器をわたしに持参して、わたしが願う者に飲ませることができるようにし、十字架につけられたキリストの道を死ぬまで堅忍して歩まなければならない。これがあなたに話したことである。この方法は、すべての人が、どんな状態に置かれていても、取らなければならない方法である。どんな状態も、可能性から見ても、義務から見ても、これを免除することができない。理性的被造物はみなそうすることができるし、また、そうしなければならない。だれも、「わたしの身分、子供たち、世のわずらいのために、この道を歩くことができない」と言つて止めることができない。出会う困難も口実にしてはならない。なぜなら、すでに話したようにわたしは、どんな状態もこれを聖なる善意をもって生きるならば、よろこんで受け入れるからである。すべては、至高の「いつくしみ」であるわたしによって造られたのである。それゆえ、善であり完全である。それに、わたしがこれを創造して与えたのは、死を捕えさせるためではなく、生命を獲得させるためである。これはたやすいことである。愛ほどたやすく楽しいことはない。そして、わたしがあなたがたに求めるのは、「わたし」と隣人とに対する愛といつくしみ以外にはない。人間は、いつも、いかなる場所でも、いかなる状態においても、すべてのものを、わたしの名の賛美と栄光とのために、愛し、保有することによって、これを実行することができる。わたしが、この光明にみちびかれて歩まず、利己的な愛のなかに閉じこもっている人々の錯誤について話したことは、あなたの知るとおりである。かれらは、被造物と造られた事物とをわたしの外で愛して所有し、悩みのなかに生活を送り、自分自身に対してさえ堪えがたい者となる。もしも、さきに話した方法によって立ち直らないならば、永遠の亡びにおちいるにちがいない。すべての人は例外なく、以上述べたように生きなければならない。 

橋の三つの階段はどのように霊魂の三つの状態を意味するかについて。神はこの霊魂に、真理を観想するために自分自身を乗り越えるよう求めることについ

わたしはさきに、普通の仁愛に生きている人々、すなわち掟を実行し、勧めを精神的に守ている人々は、どのように歩かなければならないかについて述べた。これから、階段をのぼりはじめ、掟だけではなく勧めも現実に実行し、のちに示す三つの状態に従て、完全な道をたどりはじめようとする人々について話したい。そして、霊魂の三つの段階と状態、および、さきに、霊魂の三つの能力のかたどりとして全般的に示した三つの階段について、個別的に説明したい。この状態のうち、第一は不完全であり、第二はもっと完全であり、第三はきわめて完全である。第一の状態にある人はわたしにとてやとわれ人であり、第二の状態にある人はわたしにとつて忠実なしもべであり、第三の状態にある人はわたしにとて子供であって、自分のことは考えないでわたしを愛する。この三つの状態は、多くの被造物のなかに別々に見出すことができる。しかし、ときとして、同一の被造物のなかに三ついっしよに見出すことができる。すなわち、その時間をよく利用し、完全な心がけをもって道を走り、やとわれ人の状態から自由な人の状態に移り、自由な人の状態から子供の状態に移る人の場合がこれである。あなた自身を乗り越え、あなたの知性の目を開いて、この旅人たちの遍歴を眺めるがよい。ある者は掟の道を不完全に歩き、ある者は完全に歩く。そして、ある者は勧めの道を守り実行して、きわめて完全に歩く。あなたは、不完全がどこから生まれ、完全がどこから生まれるかがわかるであろう。そして、霊魂が、自愛心の根を引き抜いていないためにおちいる錯誤がどれほど大きいかを理解することができるであろう。人間は、いかなる状態にあっても、この自愛心を自分のなかで殺さなければならない。 

この霊魂が神の鏡のなかで被造物がさまざまの方法でのぼるのを見たことについ

そこで、この霊魂は、燃えるような望みにかられて、神の真理の心地よい鏡に見入つた。 すると、被造物がさまざまのしかたで、さまざまの思いを抱いて、その目的を目ざして歩いているのが見えた。多くの者は、奴隷的な恐れに刺激されて、すなわち、自分に加えられる罰を恐れて、階段をのぼりはじめていた。そして、多くの者は、この最初の招きに答えることによって、第二の階段に移つていた。しかし、きわめて偉大な完徳に達する者は、ごく少数であった。 

奴隷的な恐れは永遠の生命に達するのに十分ではないことについて。律法と愛の律法とはたがいに結合していることについて。

すると、神の「いつくしみ」は、この霊魂の望みをみたしたいと思われて、つぎのように語られた。奴隷的な恐れによって大罪の泥沼から立ちあがる人々を見るがよい。もし、かれらが、善徳に対する愛によって立ちあがらないならば、奴隷的な恐れだけでは、永遠の生命を獲得するのに十分ではない。しかし、愛と聖なる恐れとがいっしよであれば十分である。なぜなら、律法は愛と聖なる恐れとの上にきずかれているからである。恐れの律法は、わたしがモーに授けた古い律法であって、もっぱら恐れの上にきずかれていた。なぜなら、罪を犯した者は、罰を受けなければならなかったからである。愛の律法は新しい律法であって、わたしの「ひとり子」、「言葉」が授けたものであり、愛の上にきずかれている。しかし、新しい律法は古い律法を廃止するわけではなく、かえって、これを完成する。わたしの「真理」は、これについて、「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、これを完成するためである」と言ったそして、恐れの律法を愛の律法に結びつけた。愛は恐れからその不完全さを、すなわち、罰に対する恐れを取り除いた。その結果、完全な恐れ、聖なる恐れしか残らなくなった。この恐れは罪を犯すことに対する恐れであり、自分の利益をそこなうことに対する恐れではなく、至高の「いつくしみ」であるわたしに背くことに対する恐れである。このようにして、不完全な律法は、愛の律法によって、完全なものになったのである。わたしの「ひとり子」が火の車のように来臨し、あなたがたの人性にわたしの仁愛の炎、わたしのゆたかなあわれみを注いでからは、過失を罰する苦しみは廃止きれた。すなわち現世においては、過失を犯すとすぐ罰されるということはなくなった。そのむかし、モーセの律法においては、過失はただちに罰するように、定められていた。しかし、いまはそうではない。だから、奴隷的な恐れの必要はなくなった。罪は決して罰せられないというわけではない。ただ、罰がのちの世まで、霊魂が肉体をはなれるときまで、延期されるだけである。完全な痛悔によって、つぐのいを果たした罪人は例外である。現世はあわれみの時であるが、死後は正義の時である。それゆえ、奴隷的な恐れから立ちあがって、「わたし」に対する愛と聖なる恐れとに到達しなければならない。さもなければ、ふたたび河に落ち、艱難の波と快楽のいばらとにもてあそばれるほかはない。快楽のいばらはみな、これをみだらなしかたで愛し、所有する霊魂を傷つけるのである。

 

橋の第一の階段によって象徴される奴隷的な恐れから第二の階段にのぼることについて。

すでに話したように、だれも、三つの階段をのぼらなければ、橋を渡ることも、河から脱け出ることもできない。ところで、ある者は不完全にこれを渡り、ある者は完全にこれを渡り、ある者はきわめて完全にこれを渡る。これが真実である。奴隷的な恐れによって動く者は、不完全にこれを渡り、不完全にその諸能力を結集する。すなわち、霊魂は過失のあとに続く苦罰を見て、立ちあがり、その諸能力を結集する。その悪徳を思い起こすために記憶を。自分に加えられることが予想される罰を注視するために知性を。罰を嫌つて逃げるために意志を。これは第一の渡橋であり、諸能力の第一の結集であるが、これを、知性の光明に照らし、至聖なる信仰の内的な目をもって、実行する必要がある。奴隷的な恐れを脱却して、この渡橋を、愛をもって、情念の足によって実行するためには、罰だけを眺めることなく、善徳の報いとわたしの愛とを眺めなければならない。 このように行動するならば、不忠実なしもべでなく、忠実なしもべとなり、恐れによってではなく、愛によって仕えるようになる。もしも、自愛心の根を憎しみをもって引き抜き、賢明と恒常心と堅忍とをもってこれにあたるならば、成功するにちがいない。しかし、いかにものろのろと渡橋をはじめ、わたしに対して果たすべき債務を、いかにも不完全に、いかにも怠慢に、いかにもおろかに果たし、突然逆戻りする者が多い。かれらはわずかの逆風がその帆にあたっても、引き返す。十字架につけられたキリストの第一の階段をいかにも不完全にのぼったために、その心である第二の階段に達することができないのである 。

自分自身の利益、楽しみ、慰めのために神を愛し、神に仕える人々の不完全さについて

ある人々は、わたしの忠実なしもべになって、忠実に、すなわち、ただ罰に対する恐れによってではなく、愛によって、わたしに仕える。しかし、この愛は不完全でありうる。あるいは自分自身の利害のため、あるいは「わたし」のなかに見出す楽しみや慰めのために愛する場合がこれである。かれらの愛が不完全であることは、どのような証拠によって知ることができるであろうか。わたしのなかに慰めを見出せなくなった場合に、どのように行動するかを見ればよい。そのうえ、かれらは、このような不完全で利己的な愛によってその隣人を愛する。このような愛は不十分で、長くつづかないし、だんだん衰え、冷えて行く。わたしがかれらに善徳を修練させ、かれらを不完全から抜け出させるために、霊的慰めを取り上げ、戦いと困難とを送ると、「わたし」に対してひややかになる。しかし、わたしがこのようにするのは、かれらに自分自身を完全に認識させ、自分はなにものでもなく、自分からはなんの恩寵ももたないことを意識させて、かれらを完徳にみちびくためである。戦いのときはわたしによりたのみ、わたしを恩者と思い、まことの謙遜によって、「わたし」だけにたよらなければならない。そのため、わたしはかれらから慰めを取り上げるけれども、恩寵を取り上げるわけではない。ところが、かれらは、そのような場合、霊的な忍耐を失つて、微温になり、後退するし、ときには、さまざまの方法で修業を放棄する。そして、しばしば霊的な慰めが取り上げられたのを感じると、「この修業はおまえの役に立たない」と自分自身に言い聞かせ、善徳にことよせて、これを放棄する。不完全な人々がこのように行動するのは、聖なる信仰の目のひとみをかくしている霊的な自愛心のおおいをまだ完全に取り除いていないからである。もしもこのおおいを実際に取り除いていたら、すべては「わたし」から発するのであり、わたしの摂理の命令がなければ一枚の木の葉も落ちないことを認めるであろうし、わたしがかれらに与え、かれらに約束するものは、もっぱらその成聖のためであり、わたしがあなたがたを創造した理由である善と目的とを獲得させるためであることをさとるであろう。わたしが、わたしの「ひとり子」の血によって求めているのは、かれらの善であること、この血によってかれらの罪悪を洗つたことを見なければならないし、認識しなければならない。この血のなかでこそ、かれらはわたしの真理を認識することができるのである。わたしの真理とは、わたしが、永遠の生命を与えるために、かれらをわたしの似姿として創造したこと、そして、わたしの「子」の血のなかでかれらを再創造して、わたしの養子にしたこと、これである。しかし、かれらは不完全であるために、わたしに対する奉仕のなかに自分自身の利益を求め、隣人に対する愛においても、なまぬるいのである。そのなかでも、第一の部類の人々は、苦しみを凌がなければならないのを恐れて失望する。また、第二の部類の人々は、隣人に対する奉仕において、なまぬるく、怠慢で、その仁愛は後退する。それは、かれらのなかに見出していた自分自身の利益または慰めが得られないからである。かれらの愛は純粋ではなく、わたしを愛する不完全な愛によって隣人を愛する。すなわち、愛のなかに自分自身の利益を求めるのである。もしも、自分の不完全さを認め、完全になろうと望まないならば、逆戻りするのは避けられない。永遠の生命を望むならば、打算を棄てて愛さなければならない。罰を恐れて罪を避け、自分の利益をあてこんで善徳を修めるのは、永遠の生命を獲得するのに十分ではない。「わたし」が嫌うから罪を避け、「わたし」に対する愛のゆえに善徳を愛さなければならない。事実、これはすべての人にとつて、第一の全般的な招きである。なぜなら、霊魂は最初は完全ではなく、不完全だからである。しかし、この不完全を脱け出て完全にならなければならない。あるいは、生涯のあいだ、善徳のなかで、清い心を抱き、自己にかまけることなく自由にわたしを愛して生きるか、あるいは、臨終のとき、自分の不完全さを認め、まだ時があるならば、自分を顧みないでわたしに仕える決心を立てるかしなければならない。聖ペトロは、わたしの「ひとり子」、優しくいつくしみ深いイエスとの親睦の甘美さを味わっていたときは、この不完全な愛によってかれを愛していた。しかし、艱難の時がおとずれると、すっかり落胆し、かれのために苦しむ勇気がないばかりか、最初の脅しに合うと、苦しみを恐れ、かれを知らないと言つて否認した。このように、ただ奴隷的な恐れによって、あるいは欲得づくの愛によって、階段をのぼる霊魂は、多くの危険に出合うのである。それゆえ、このような状態から脱け出て、わたしの子供となり、自分の利益を顧みないで、わたしに仕えなければならない。わたしはすべての労苦に報いるし、各人にその状態と業とに応じて返却する。もしも、かれらが聖なる祈りの勤行とその他の善行とを放棄せず、いつも堅忍して歩み、善徳に進歩するならば、この子供の愛に達するであろう。そして「わたし」は、かれらを子供を愛するように愛するであろう。なぜなら、わたしはいつも、わたしに示される愛に、同じ愛をもって答えるからである。もしもあなたが、しもべがその主人を愛するように愛するならば、わたしは主人としてあなたを愛するであろうし、あなたがたの功績に応じて負い目を返すであろう。しかしわたし自身をあなたに示すことはないであろう。友人には内心の秘密をあかす。なぜなら、友人同士は一体だからである。事実、しもべは、その善徳においても、主人に対して抱く愛においても成長し、きわめて親密な友人となることができる。わたしのしもべについても同じである。かれらが欲得づくの愛にとどまっているかぎり、わたしはかれらに自分自身を示すことはない。もしも、かれらがその不完全さを恥じ、善徳を愛しはじめ、憎しみをもって自分自身のなかから霊的自愛心の根を引き抜き、良心の裁判席に座り、理性に訴えて、かれらの心に、至聖なる信仰の光明によって是正されない奴隷的な恐れと欲得づくの愛とを許さないならば、わたしに大きな喜びを与え、友人同士の愛に達するであろう。そうなると、わたしはかれらにわたし自身を示すであろう。わたしの「真理」が「わたしを愛する者はわたしと一つであり、わたしはかれと一つである。わたしはわたし自身をかれに示し、わたしたちはいっしよに住む」と言ったのはこのことである。これが親密な二人の友人のあいだに必要な条件である。肉体は二つであるが霊魂は愛情によって一つになる。なぜなら、愛は、愛する者を愛される者に同化させるからである。かれらが一つの霊魂になるならば、かれらのあいだには、なにものも秘密ではありえない。それゆえ、わたしの「真理」は、「わたしは来るであろう。そして、わたしたちはいっしよに住むであろう」と言つたのである。そしてそれは真理である。 

神は愛する霊魂にご自分を示されることについて。

あなたは、甘美な愛の「言葉」の教えに従つて、真理においてわたしを愛する霊魂に、わたしがどのように自分自身を示すかを知つているであろうか。わたしは霊魂に、その望みに応じて、さまざまの方法で、わたしの善徳を示す。しかし、三つの主な方法がある。第一は、わたしの「子」である言葉」の仲介によって。わたしの愛情と仁愛とを霊魂に示すことである。この愛情と仁愛とは、あれほど熱烈な愛の火によって流された「血」のなかに示されている。この仁愛は二つの方法で示される。一つは、普通の人々、すなわち普通の仁愛にとどまる人々に対する一般的な方法である。この人々に対しては、数多くのさまざまな恩恵を与えることによってわたしの仁愛を証明して、わたしを示す。もう一つは、特別な方法で、わたしの友となった人々に用いる方法である。この人々は、普通の仁愛を示されるばかりでなく、その霊魂のなかに、意識によってわたしの仁愛を味わい、認識し、体験し、感じる。仁愛の第二の発顕も、霊魂自身のなかで、愛の感情によっておこなわれる。わたしは、被造物に対して、分けへだてをすることはない。わたしはその聖なる望みを見る。霊魂がわたしを探す完全性のいかんに応じて、これに自分を示す。ときどき、これは第二の方法であるが、-霊魂に預言の精神を与え、未来のことを示すことによって、これに自分を示す。そして、それは、数多くのさまざまな方法で、この霊魂自身あるいは他の被造物の要求に合致するかいなかを判断した上で、おこなう。あるときは、これは第三の方法であるが、わたしの「真理」、わたしの「ひとり子」の現存を、さまざまの方法で、霊魂の欲求と意志とに応じて、これに意識させる。霊魂は、ときには、わたしの力を知りたいと望み、祈りのなかでわたしを探す。それで、わたしは、わたしの善徳を感じさせ、味わわせて、これを満足させる。霊魂はまた、ときとして、わたの「子」の英知のなかにわたしを探す。それで、わたしは、その知性の目にかれを対象として示すことによって、その願いに答える。また、あるときは、聖霊の寛仁のなかにわたしを探す。すると、わたしの「いつくしみ」は、隣人に対する純粋な仁愛の上にきずかれたまことの現実な善徳をこれに宿させることによって、わたしの神的な仁愛の火を味わわせるのである。 

キリストはなぜ「わたしは父を示すであろう」と言わないで、「わたしを示すであろう」と言たかについて。

ところで、わたしの「真理」が、「わたしを愛する者はわたしと同一の者となる」と語たとき、真理を述べたことをわかってほしい。なぜなら、かれの教えに従うならば、愛の感情によってかれと一致するからである。かれと一致するならばわたしと一致する。なぜなら、わたしたちは一つだからである。その結果、わたしはわたし自身をあなたがたに示す。なぜなら、わたしたちは、一つだからである。それゆえ、わたしの「真理」は、「わたしはわたし自身をあなたがたに示すであろう」と語たとき、真理を述べたのである。なぜなら、自分自身を示すことによってわたしを示すし、わたしを示すことによって自分自身を示すからである。それでは、わたしの「子」は、なぜ、「わたしは『父』をあなたがたに示すであろう」と言わなかったのであろうか。それは三つの特殊な理由による。第一は、わたしはかれから離れていないし、かれはわたしから離れていないことを示したかったからである。それゆえ、聖フィリッポが「『父』をお示しください。それで満足です」と言たとき、「わたしを見る人は『父』を見るし、『父』を見る人はわたしを見る」と言たのである。かれがこう言たのは、かれはわたしと一つだからである。しかし、かれがもているものはわたしから受けたのであるが、わたしはかれから受けてはいない。だから、かれは、ユデヤ人にむかって、「わたしの教えはわたしの教えではなく、わたしをつかわした『父』の教えである」と言つたのである。「子」はわたしから発したのであり、わたしはかれから発したのではない。しかし、わたしがかれと一つであり、かれがわたしと一つであることにかわりはない。だから、「わたしは『父』を示すであろう」と言わないで、「わたしを示すであろう」と言たのである。それは、「わたしは『父』と一つであるから」という意味である。第二は、かれは自分をあなたがたに示すことによって、「父」であるわたしから受けたもの以外はなにも示さないからである。それは、「『父』は自分をわたしに示した。わたしは『父』と一つだから、わたしがわたしのなかにあなたがたに示すのは、わたしであるとともに『父』でもあるからである」と言うのと同じである。第三は、「わたし」は目に見えないから、目に見えるあなたがたは、肉体から離れないかぎり、わたしを見ることができないからである。しかし、そのときは、神である「わたし」を顔と顔とを相対して見るであろうし、わたしの「ひとり子」を知的に見るであろう。それも、さきに「復活」について述べたとき説明したように、あなたがたの人性が「言葉」の人性にあやかるものとなり、これと一致する肉身の復活のときまでであろう。要するに、あなたがたは、あるがままのわたしを、現在見ることができない。それゆえ、神性をあなたがたの人性のおおいの下にかくして、あなたがたがわたしを見ることができるようにしたのである。見えない「わたし」は、あなたがたの人性のおおいの下にかくされたわたしの「子」、「言葉」をあなたがたに与えることによって、見えるようになったのである。かれは、この人性によってわたしをあなたがたに示すのである。それゆえ、「わたしは『父』を示すであろう」と言わないで、「わたしをあなたがたに示すであろう」と言たのである。それは、「『父』がわたしに与えたとおりに、わたしをあなたがたに示すであろう」と言うのと同じである。それで、あなたは、この啓示において、かれは自分を示すことによってわたしを示すということを、わかるにちがいない。そのうえ、かれがなぜ「わたしは『父』をあなたがたに示すであろう」と言わなかったかを知ることができるにちがいない。それは、すでに話したように、あなたがたは死すべき体のなかにあるかぎり、わたしを見ることができないからであり、かれはわたしと一つだからである。 

霊魂は橋の第一の階段をのぼったのち、どのように第二の階段をのぼるかについ

あなたは、友の愛に達した人がどんなにすぐれているかをわかったと思う。このような人は、愛情の足によってのぼり、心の秘密に、すなわちわたしの「子」の体によって象徴される三つの階段の第二に、達したのである。すでに話したように、この三つの階投は、霊魂の三つの能力を意味する。これから、これを霊魂の三つの状態に当てはめて、その意味を示したい。しかし、第三の状態にあなたをみちびく前に、どのようにして友になるか、友となったらどのようにして子となり、子心の愛に達するか、友となった人はなにをするか、友となったことはなにによって知ることができるかを示したい。まず、どのようにして友になるかについて話したい。霊魂は最初奴隷的な恐れに支配されていて、不完全であるが、修業と堅忍とによって、わたしのなかに喜びと利得とを見出し、楽しみと個人的な利得との愛に達する。これが、完全な愛、すなわち友の愛、子の愛に達したいと望む人のたどる道である。この愛は完全であると言うのは、この子の愛に、永遠の「父」であるわたしの遺産が与えられるからである。また、子の愛には友の愛が含まれていなければならないから、友が子になると言たのである。それでは、この移行はどのようにおこなわれるであろうか。それについて話したい。すべての完全性とすべての善徳とは、仁愛から生まれ、仁愛は謙遜にやしなわれる。そして謙遜は自分自身の認識と自分自身あるいは自分自身の官能に対する聖なる憎しみとから生まれる。そこに達したならば、堅忍して、自分自身の認識の独房にこもらなければならない。そして、この認識のなかで、わたしの「ひとり子」の血によって、わたしのあわれみを認識し、その愛によって、わたしの神的な仁愛を自分の上に引き寄せ、よこしまな霊的あるいは地上的意志を引き抜くよう努力し、ペトロと他の弟子たちがわたしの「子」を否認する過失を犯したのちなしたように、自分の家にかくれて泣かなければならない。しかし、ペトロの涙はまだ不完全であった。そして、それは四十日間、すなわち「昇天」ののちまでつづいた。わたしの「真理」がその人性によってわたしのもとに返たとき、ペトロと他の弟子たちは、かれらの家にかくれ、わたしの「真理」がかれらに約束した聖霊の降臨を待た。かれらはそこに恐れのあまり閉じこもっていた。なぜなら、霊魂は、まことの愛に達しないあいだは、恐れるからである。しかし、かれらは、堅忍して徹夜をつづけ、謙遜で絶えまない祈りのなかで、聖霊をゆたかに授かると、恐れから解放されて、十字架につけられたキリストのあとに従い、これを説いたのであったこれと同じように、完徳に達した霊魂あるいは達したいと思う霊魂は、大罪から脱け出し、自分自身を認識したのち、罪を恐れて泣きはじめる。ついで、わたしのあわれみの考察へと上昇し、そこで満足と利得とを見出す。しかし、この霊魂はまだ不完全である。それで、わたしは、これを完徳にみちびくために、四十日ののち、すなわち二つの状態ののち、ときど き、恩寵ではなく現存の意識を取り上げることによって、この霊魂からかくれる。これは、わたしの「真理」が弟子たちに、「わたしは去て行くが、またあなたがたのところへ戻つて来る」と言たとき、あなたがたに示したことである。かれが言たことはみんな、個別的には弟子たちのためであったが、しかしまた、全般的に、共通的に、現在生存しているすべての人と未来に生まれて来るすべての人とのためであった。かれは、「わたしは去て行くが、またあなたがたのところに戻て来る」と言たが、そのとおりになった。なぜなら、聖霊が弟子たちの上に降臨したとき、かれも戻て来たからである。すでに話したように、聖霊は単独に降臨することはない。「わたし」の力と「子」の英知とともに降臨する。「子」はわたしと一つであり、また、「父」である「わたし」と「子」とから発する聖霊の寛仁とも一つである。ところで、あなたに言いたいのは、わたしは、霊魂をその不完全な状態から引き出すために、以前に感じていた慰めを取り上げて、わたしの現存を感じさせないようにするということである。霊魂は、大罪の状態にあったときは、わたしから離れていた。そして、その過失のゆえにわたしの恩寵を失つていた。それというのも、わたしに対して望みの戸を閉ざしていたからである。恩寵の太陽はこの霊魂からかくれた。それは太陽のあやまちによるのではなく、これに対して望みの戸を閉ざした被造物のあやまちによるのである。しかし、霊魂が、自分自身と自分の暗黒とを認識して、窓を開け、聖なる告白によって腐敗物を吐き出すと、わたしは恩寵によって霊魂のなかに戻る。そののちは、すでに話したように、わたしの現存の意識を取り上げることはあっても、恩寵を取り上げることはない。わたしがそうするとしたら、それは霊魂を謙遜にするためであり、真理においてわたしを探し求めるよう努力させるためであり、信仰の光明のなかで試して賢明にするためである。もしも、霊魂が自分の利益を考えず、生ける信仰と自分自身に対する憎しみとをもって愛するならば、労苦のなかにあっても喜ぶであろう。なぜなら、自分は霊的な平和と静安とを楽しむ資格がないと考えるからである。以上で、完徳に達する三つの方法の第二について説明した。それでは、そこに達した人はなにをするであろうか。つぎのことをするのである。そのような人は、わたしがかくれたことを感じて逆戻りすることがない。その反対に、善徳の修業に謙遜に堅忍する。そして、自分自身の認識の家に閉じこもる。そこで、生ける信仰を抱いて、聖霊の降臨、すなわち、仁愛の火そのものであるわたし自身の来臨を待つ。どのように待つであろうか。無為のなかにではなく、夜を徹して、絶え間ない聖なる祈りのなかで待つのである。単に肉体による徹夜ではなく、精神の徹夜によって。すなわち、その知性の目を閉じることなく、信仰の光明に照らされて徹夜をおこない、心の空しい思いを憎しみをもって引き抜き、わたしの愛徳の情愛のなかに目をさまして、わたしが望むのはその聖性以外にはないことをさとる。それはわたしの「子」の血によって確証されているからである。知性の目がこのようにわたしと自分自身との認識のなかに目覚めているあいだ、霊魂は絶えず祈ている。それは聖なる善意による念祷であり、絶えざる念祷である。しかし、この念祷は、聖なる教会によって定められた時間、外的な祈りに従事することを妨げるものではない。不完全な状態を抜け出て完徳に達した霊魂の実行することは以上の通りである。霊魂をそこに到達させるために、わたしは、恩寵によってではなく、現存の意識によって、これを離れたのである。わたしはまた、霊魂がその空しさを認識することができるように、これを去たのである。事実、霊魂は慰めが取り上げられたのを感じると苦悩する。自分が弱く、不安定で、絶望にさらされているのを感じる。そして、それによって、自分のなかに霊的自愛心の根があるのを発見する。これは、霊魂にとて、自分を認識して、自分を乗り越え、自分の良心の法廷にすわって、どんな感情も、是正せず処罰しないで通すことがないようにする機会である。このようにして、霊魂は、自愛心の根を、この自愛心に対する憎しみと善徳に対する愛との力をもって除き去るのである。 

神を不完全に愛する霊魂は隣人も不完全に愛することについて。この不完全な愛のしるしについて

すべての不完全とすべての完全とは、わたしに対して示され、獲得されること、そしてまた、隣人を介して獲得され、示されることを知ほしい。被造物をしばしば霊的愛によて愛する単純な霊魂は、これをよく心得ている。もしも、このような霊魂がわたしの愛を純粋無我に受けるならば、隣人の愛もまた純粋に飲むであろう。それは泉で満たす器のようなものである。もしも、これを泉の外に出して飲むならば、空になるであろう。しかし、これを泉のなかに入れたまま飲むならば、空になることはなく、いつも満たされているであろう。隣人に対する愛も、霊的なものと地上的なものとを問わず、わたしのなかで、利害を考えないで、飲まなければならない。わたしがあなたがたを愛する愛によって、わたしを愛してほしい。しかし、わたしに対してはこれを実行することができない。なぜなら、わたしはあなたがたから愛される前にあなたがたを愛したからである。それで、あなたがたがわたしに対して抱く愛はみな、負債を返すための愛であって、恩恵としての愛ではない。ところが、わたしのあなたがたに対する愛は恩恵であって負債ではない。それで、あなたがたは、「わたし」に、わたしが要求する愛を返すことができない。そのため、わたしはあなたがたを隣人のあいだに置いたのである。そうすれば、わたしのためになすべきことを、かれらのためになすことができるからである。すなわち、なんの恩恵も利得も期待しないで、かれらを愛することができるからである。そのうえ、わたしは、あなたがたが隣人のためになしたことを、わたしのためになしたことと見なすのであるわたしの「真理」が、わたしを迫害していたパウロに、「サウル、サウル、あなたはなぜわたしを迫害するのか」と言とき示したのは、このことであった。パウロはわたしの信徒を迫害することによって、わたしを迫害している、と考えたのである。それで、この愛は純粋でなければならない。あなたがたがわたしを愛する愛によって、あなたがたの隣人を愛さなければならない。あなたは、霊的な愛によって愛する人がまだ完全でないのは、なにによってわかるかを知つているであろうか。愛される側の被造物が、自分の愛に答えてくれないように思われるとき、あるいは、自分が愛していると思う程度に愛してくれないように思われるとき、あるいはまた、その人との親睦と慰めとを得られないとき、その人が他の人を自分よりも愛しているように感じるとき、苦しみ悩むのをみればわかる。このようなしるしや他の多くのしるしによって、この人のわたしに対する愛と隣人に対する愛がまだ不完全であることを認めることができる。この人は、この愛をわたしのなかで汲んだのであるが、この愛のはいった器を泉の外で飲んだのである。この人がわたしに対して抱いていた愛はまだ不完全であった。そのため、かれが霊的な愛によって愛する人に示す愛も不完全である。それというのも、霊的な自愛心の根を十分に抜き去つていないからである。そのうえ、わたしはしばしばこの愛の試練をかれに許す。それによって自分の不完全を、さきに話した方法で、認識することができるからである。わたしはわたしの現存の実感をかれから取り上げ る。そうすれば、自分自身の認識の家にこもり、そこであらゆる完全性を獲得することができるからである。そののち、わたしはかれのもとに戻り、もっと多くの光明を与え、わたしの「真理」をも深く認識させる。その結果、わたしのために我意を殺すことを、恩寵と見なすようになる。そうなると、その霊魂のぶどうの木を剪定し、その思いのいばらを除去し、キリストの血のなかにきずいた善徳の石を配置すればよい。この石は、わたしの「ひとり子」、十字架につけられたキリストである「橋」を渡るあいだに拾のである。橋の上には、すなわち、わたしの「真理」の教えには、かれの血の功徳の上にきずかれた石があると、あなたに話したことを記憶していると思う。善徳はかれの血の功徳によらなければ、あなたがたに生命を与えることができないのである。 

霊魂が純粋で惜しみなき愛に到達するために用いなければならない手段について

自分自身のなかに戻つた霊魂は、十字架につけられたキリストの教えに従い、善徳に対するまことの愛と悪徳に対する憎しみとにより、そしてまた、完全な堅忍によって、自分自身の認識の独房にこもり、そこで、徹夜と絶えざる祈りとのなかで、世とのまじわりを完全に断つのである。なぜこのように閉じこもるのであろうか。それは、自分が不完全であることを知って恐れるからであり、また、純粋で惜しみなき愛に達したいと望むからである。そのうえ、これに 達する手段はほかにないのをよく認識しているので、生ける信仰によって、わたしが恩寵の増加をともなって来臨するのを待つのである。それでは、生ける信仰はどのようなしるしで見分けることができるであろうか。善徳における堅忍によってどんなことがあっても、うしろを振り返らないことによってどんな理由によっても、聖なる祈りを放棄しないことによって。なぜなら、服従のため、あるいは愛徳のためにやむをえない場合を除き、祈りを去てはならないからである。事実、悪魔はしばしば、霊魂が祈ていないときよりも、祈りのために定められた時間を利用して、これを攻撃し、これを悩まし、聖なる祈りに対して嫌悪の情をそそろうとする。そして、しばしば、「この祈りはおまえになんの役にも立たない。なぜなら、祈りのあいだ、おまえはおまえが言うこと以外にはなにも考えてはならないし、なにも心にとどめてはならないからだ」とささやく。悪魔がこのような考えを起こさせるのは、霊魂に嫌気を起こさせ、その精神を混乱させて、祈りの勤行を放棄させるためである。それというのも、祈りは武器であって、霊魂は、これを愛の手と自由意志の腕とで握りもち、至聖なる信仰の光明にみちびかれて立ち向かうならば、すべての敵を払うことができるからである。

聖体の秘蹟にちなんで、口祷から念祷に移る方法が示されたことについて。霊魂が受けた一つの示現について

いとしいむすめよ、霊魂は、謙遜で、忠実で、絶え間ない祈りに堅忍することによって、あらゆる善徳を獲得することができるのである。それゆえ、堅忍しなければならない。悪魔の欺瞞によっても、自分自身の弱さによっても、すなわち、自分の肉のなかに起きる思いや衝動によっても、悪魔が霊魂に祈りを止めさせるために、しばしば被造物の口に語らせる言いがかりによっても、決してこれを止めることがあってはならない。これらすべてを、堅忍の徳によって克服しなければならない。ああ、自分自身の認識とわたしの認識との独房のなかでおこなった聖なる祈りは、この霊魂にとつてどんなにたのしく、わたしにとつてどんなに心地よいことであろうか。そのあいだ、知性は信仰の光明に照らされてその目を大きく開き、情念はわたしの仁愛のゆたけさのなかにひたるのである。この仁愛は、その「血」によってこれを示したわたしの見える「子」によって、あなたがたに見えるものとなった。この「血」は、霊魂を酔わせ、これを神的な仁愛の火に燃えさからせる。霊魂は、わたしがあなたがたのために、聖なる教会の神秘体の宿舎に委託した秘蹟を、食物として与えられる。この秘蹟とは、まことの神であるとともにまことの人であるわたしの「子」の「体」と「血」である。わたしは、この「血」の鍵をもつわたしの代理者の手に、その管理を委ねた。この宿舎は、すでに話したように、「橋」のうえに、わたしの「真理」の教えに従う旅人と巡礼者とに食物を与え、力をつけさせて、中途でたおれることがないようにするために、設けたものである。この食物は、これを食べる者の望みに応じて差はあるけれども、また、どのような方法でこれを食べるにしても、すなわち、秘蹟的に食べるにしても、実効的に食べるにしても、力を与える。秘蹟的にというのは、聖なる秘蹟を現実にさずかることである。実効的にというのは、聖なる望みによって、すなわち、あるいはこれをさずかることを望むことによって、あるいは十字架につけられたリストの「血」を観想することによって、これをさずかることである。別の言葉で言ならば、わたしの「仁愛」の情念をさずかることであり、愛によて流された「血」を見出し、味わうことである。聖なる望みによって酔わされ、燃え立たされ、飽かされ、わたしに対する仁愛と隣人に対する仁愛とに満たされることである。霊魂はこれをどこで獲得するのであろうか。自分自身の認識の独房のなかで聖なる祈りによって弟子たちとペトロとが、家の中にこもり、徹夜の祈りのなかで、その不完全を棄てて完全を獲得したように、霊魂はそこでその不完全な状態を去るのである。どのような方法で聖なる信仰と一つになった堅忍によって。しかしながら、祈りによって受ける情熱と栄養は、多くの霊魂のように、口祷だけの効果と見なしてはならない。かれらの祈りは、愛によるよりは言葉によるものであり、かれらの関心は、できるだけ多くの詩編を唱え、できるだけ多くの「主の祈り」を唱えることにあるように見える。目ざしていた数を満たしたならば、その他のことは気にしないかのようである。かれらは、祈りの目的をただ唱える言葉だけに置いているようである。そうであってはならない。なぜなら、その祈りからわずかの効果しか引き出すことができないし、わたしをそれほど喜ばせることができないからである。しかし、あなたは言うかもしれない。「それでは口祷を放棄しなければならないのでしようか。みなが念祷に適しているようには見えませんが」と。そうではない。各人はそれぞれ適度を守らなければならない。わたしは、霊魂が完全になる前に不完全であることをよく承知している。その祈りも同じように不完全である。それで、怠慢におちいらないために、まだ不完全であるあいだは、口祷にたよらなければならない。しかし、口祷を念祷から切り離してはならない。すなわち、言葉を唱えるあいだ、その精神を高く上げて、これをわたしの愛に向かわせるよう努力するとともに、自分の過失とわたしの「ひとり子」の血とを一般的に思い浮かべ、わたしの仁愛の広大さと自分の罪の赦しとを見出さなければならない。そのとおりにするならば、自分自身の認識と自分の過失の追想とによって、自分に対するわたしの「いつくしみ」を認識するであろうし、その祈りの勤行をまことの謙遜をもって続けることができるであろう。わたしは、霊魂がその過失を一般的に思い浮かべないで、個別的に思い浮かべることを望 まない。そのわけは、その精神がある恥ずかしい罪を個別的に思い起こすことによって汚れる恐れがあるからである。霊魂はまた、「血」とわたしのあわれみの広大さとを思い浮かべないで、ただ罪だけを、個別的にも一般的にも、思い浮かべてはならない。混乱におちいらないためである。もしも、自分自身の認識と自分の罪の思いとが、「血」の追憶とあわれみの希望とをともなわないならば、霊魂は混乱におちいるであろう。この混乱は、悪魔といっしよに、霊魂を永遠の亡びにひきずり込むであろう。それというのも、悪魔は、過失に対する痛悔と罪に対する悔恨との口実のもとに、霊魂をこの混乱におとしいれるからである。霊魂は、わたしのあわれみの腕に支えられなければ、絶望におちいるにちがいないのである。これは、悪魔がわたしのしもべたちを欺こうとして用いるもっとも念の人つた策略の一つである。それゆえ、あなたがたの利益のためにも、悪魔のわるだくみを避けるためにも、わたしを喜ばせたるためにも、いつも、あなたがたの心と愛情とを、まことの謙遜によって、わたしの果てしないあわれみに、心おきなく委ねなければならない。あなたも知るとおり、傲慢な悪魔にとつて、謙遜な精神を見るのは堪えがたいことであり、絶望している悪魔にとて、霊魂がまことの希望を託しているわたしの「いつくしみ」と「あわれみ」との偉大さを見るのは我慢のできないことである。それゆえ、あなたもよくおぼえていると思うが、悪魔は、あなたの生活はいつわりにすぎず、決してわたしの意志に従つたのでも、これを実行したのでもなかったと言い聞かせて、あなたを絶望におとしいれようとしたのであった。そのとき、あなたは、あなたがなすべきことを、わたしの「いつくしみ」に助けられて、実行した。わたしの「いつくしみ」は、助けを求める者にこれを拒むことがないからである。あなたは、謙遜にわたしのあわれみによりすがり、立ちあがって言た。「わたしの『創造主』に告白します。わたしは、生涯を暗黒のなかでしか過ごしませんでした。しかし、わたしは十字架につけられたキリストのおん傷のなかにかくれたいと思います。そのおん血に浴して、わたしの罪悪を消し去りたいと思います。そして、わたしの『創造主』のなかで、希望をもって喜びたいと思います」。すると、あなたも知るとおり、悪魔は逃げ去つたのであった。つぎに、悪魔は戻つて来て、あなたに別の戦いをいどんだ。すなわち、傲慢によって高ぶらせようと試みた。「おまえは完全だ。神の気に人つている。これ以上悲しんだり、自分の過失を泣いたりすることはないではないか」とささやいた。そのとき、わたしはあなたに光明を与えて、取るべき道を示した。あなたは謙遜して、悪魔に答えた。「ああ、わたしはなんてみじめでしよう。洗礼者ヨハネは決して罪を犯しませんでした。母の胎内で聖化されていました。それなのに、あれほどの苦業をおこないました。わたしは多くの過失を犯かしていながら、これを認めて悲しみ、まことの痛悔をいだき始めることさえしているでしようか。わたしが背いた神がどういうかたであるか、背いたわたしがどういう者であるかをわかっているでしようか」。すると、悪魔はあなたの精神の謙遜も、わたしのいつくしみに対する希望も、我慢することができず、あなたに言た。「おまえは呪うべき女だ。おまえにはなにもすることができない。おまえを混乱におとしいれようとすれば、あわれみまで昇るし、高ぶらせようとすれば、身をへりくだし、謙遜して地獄にくだり、地獄の中までわたしを追及する。おまえのところには、もう戻るつもりはない。おまえはいつも仁愛のむちでわたしを打ちたたくからだ」。それゆえ、霊魂は、わたしのいつくしみの認識を自分自身の認識に、また、自分自身の認識をわたしの認識に加味しなければならない。そうすれば、口祷はこれを唱える霊魂に有益であるし、わたしを喜ばせる。この勤行を堅忍しておこなうならば、不完全な口祷から完全な念祷に到達するであろう。しかし、決めた祈りの数を満たすことしか考えないならば、あるいは、口祷のために念祷をゆるがせにするならば、決してこれに到達することができないであろう。霊魂は、ときどき、いかにも無知で、ある数の祈りを口で唱えることをきめると、わたしに注意しなくなる。わたしは、なんらかの方法で、その精神をおとずれる。あるときは、この霊魂に自分自身をもっとよく認識させ、その過失に対するまことの痛悔を抱かせるために光明を与える。あるときは、わたしの仁愛の広大さを示す。あるときは、わたしの好むままに、あるいは霊魂の望むままに、さまざまのしかたで、わたしの「真理」の現存をその精神に感じさせる。しかし、霊魂は、その祈りの数を満たすために、その精神に感じているわたしの訪問を気にかけない。かえって、はじめた祈りを中断するのを心配する。もしも悪魔のわなにかかりたくないならば、そのようにしてはならない。さきに話したようなさまざまの方法で、わたしがおとずれるのを精神が気付いたならば、ただちに口祷を止めなければならない。そののち、念祷が終わって、まだ時間があるならば、唱えようと思ていた祈りを続けることができるであろう。もしも時間がないならば、心配してはならないし、精神の倦怠や混乱におちいってはならない。しかし、聖務者や修道者が唱える義務のある聖務日課は例外であることに注意しなければならない。もしそれを唱えないならばわたしに背く。なぜなら、かれらは死ぬまでこの聖務日課を唱える義務があるからである。もしも、この聖務日課を唱えなければならない時間に、その精神か望みに引かれ、高められるならば、その前または後にこれを唱えるよう配慮しなければならない。決してこの聖務曰課の義務をおこたってはならない。その他のすべての祈りについては、霊魂はまずこれを口祷として唱えはじめ、念祷に到達しなければならない。そして、精神が念祷に移る心構えができたならば、前に話した理由によって、口祷を止めなければならない。この口祷は、わたしが話したようにおこなうならば、完全な状態にみちびく。それゆえ、その方法のいかんにかかわらず、これを止めてはならない。しかし、わたしが示した方法でおこなわなければならない。そうすれば、霊魂は勤行と堅忍とによって、まことの祈りを味わい、わたしの「ひとり子」の血にやしなわれるであろう。それゆえ、すでに話したように、ある者はこのようにして、秘蹟的にではなく、実効的に、キリストの体と血とを拝領するのである。なぜなら、聖なる祈りによって、祈る人の情愛のいかんによって差はあるけれども、神的仁愛の情念を味わい、これを分かつからである。思慮が浅く、方法を守らない者は、わずかしか見出さないであろう。多くを用意する者は多くを見出すであろう。霊魂は、その愛情を自由にするように努力し、知性の光明によってこれをわたしに一致させるよう努力すれば、もっとよく認識する。もっとよく認識すれば、もっと深く愛する。もっと深く愛すれば、もっと深く味わうのである。以上述べたことによってわかるように、多くの言葉によって完全な祈りに達するのではなく、望みの熱情により、自分自身の認識をわたしまで高め、この二つの認識を一つに結合させることによって、これに達するのである。このようにして、霊魂は口祷と念祷とをいっしよに所有する。なぜなら、この二つは、活動生活と観想生活とのように、いっしよに結合することができるからである。もっとも、口祷と念祷との理解のしかたはさまざまである。さきに話したように、聖なる望みは絶えざる祈りである。なぜなら、それは善良で聖なる意志に成り立つからである。この意志と望みとは、祈りのために定められた所と時にはたらく。そして、このはたらきを聖なる望みによる絶えざる祈りに加える。それで、霊魂は、聖なる望みと意志とを抱きながら、あるときは定められた時間に、あるときは定められた時間以外に、口祷をおこなうがよい。定められた時間以外におこなうときは、隣人の救いに対する仁愛の要求するところに従い、わたしによって与えられた状態に応じて、これを中断することなく、つづけるがよい。事実、各人は、その状態に応じ、この聖なる意志の原則にしたがって、魂の救いに協力しなければらない。言葉あるいは行為によって隣人の救いのために、外的になすことはみな、実効的な祈りである。それは、定められた時におこなった口祷については明白である。しかし、この定められた祈りのほかに、隣人に対する仁愛によってなすこと、あるいは自分のための勤行としてなすことは、どんなことであっても、祈りである。それは、わたしの光栄ある使徒パウロが言たとおりである。「絶えず善をなす者は、絶えず祈ているそれゆえ、わたしは祈りの方法はいろいろあると言たのである。外的な祈りと念祷とを一致させることができるからである。このように念祷と一致した外的な祈りは仁愛の心情のなかでおこなわれる。ところが、仁愛の心情は絶えざる祈りなのである。 わたしは、勤行と堅忍とによって念祷に達することができること、わたしが霊魂をおとずれるときは、口祷を止めて念祷に移らなければならないことについて語た。また、共通の祈りについて、所定の時間外におこなう口祷について、善良かつ聖なる意志による祈りについて述べた。そして、霊魂が、この善良な意志によって、所定の時間外に、自分のためあるいは隣人のために行た勤行はみな祈りであることを説明した。それゆえ、霊魂は、諸善徳の母であるこの祈りの実行を、勇気をふるって、はげまなければならない。自分自身の独房にこもり、友の愛、子の愛に達した霊魂はそのとおりに実行する。しかし、霊魂は、わたしが示した手段をなおざりにするならば、微温と不完全とから決して脱け出ることができないであろう。わたしのなかに、あるいは隣人のなかに、利得とたのしみとを見出さないかぎり、愛することはないであろう。 

自分自身の慰めのために神に仕えることを愛する世俗的な人々の迷いについて

この不完全な愛に関して、見すごすことのできないひとつの誤り、すなわち、自分自身の慰めを見出すことができるという理由でわたしを愛したいと望む人々のおちいる誤りについて話したい。あなたに知てほしいのは、わたしのしもべがこのように不完全に愛するときは、わたしよりは、わたしを愛することによって受ける慰めを愛しているということである。霊的あるいは現世的慰めがなくなると、混乱におちいるのを見れば、これをたしかめることができる。これはとくに世俗の人々にありがちなことである。かれらは、繁栄しているあいだは、なんらかの徳行をおこなって生活している。しかし、わたしがかれらの善のために送る不幸に見舞われると、それまでおこなっていたわずかの善の実行さえも混乱におちいる。「なぜそんなに混乱するのか」とたずねるならば、つぎのように答えるであろう。「不幸におちいったからだ。わたしが実行していたわずかの善も無駄に見える。なぜなら、以前に抱いていた心とたましいとをもってこれを実行しなくなったように思うからだ。その原因は、わたしを見舞た不幸だ。なぜなら、以前は、今と違つて、心の平安を抱いて、もっと落ちついて、もっと努力して、善を実行していたからだ」。この人々は、そのたのしみに迷わされている。不幸が原因でわたしに対する愛がおとろえ善の実行がおとろえたというのは真実ではない。不幸のときにおこなう善業は、慰めのときにおこなう善業と同じ価値をもつ。もしもこれを忍耐をもっておこなうならば、もっと大きな価値をもつことができるであろう。事実、かれらがたのしみにしていたのは、繁栄である。外的な徳行によって、わたしを愛していたにすぎない。かれらの心が平安であったのは、このわずかの善業で満足していたからである。この平安を与えていたものを奪われると、善徳の実行のなかに見出していた平安を失たかのように思うのである。しかし、それは誤りで ある。この人々は、庭園をもっている人と同じである。この人にとつて、庭園がたのしみを与えるために、そこで働くのが休みになるのである。自分では、庭仕事をすることが休みになると思ているけれども、実際は、庭園のなかで味わうたのしみによって休むのである。これは真実であって、庭園をとりあげられると、庭仕事を好まなくなるのはその証拠である。もしも、その主要なたのしみを庭仕事のなかに味わっていたのであれば、その庭園が自分のものでなくなっても、そのたのしみを失うことなく、いつまでも保ちつづけるであろう。善業の実行のたのしみも、もし望むならば、たとい繁栄のたのしみが奪われても、庭園を失た人のように奪われることはないであろう。要するに、この人々は、利己的な情念のために、自分のなすことについて、あやまりにおちいっているのである。そのため、きまってつぎのように言うのである。「この不幸に見舞われる前は、今よりはもっと立派にやっていた。慰めももっと多かった。わたしにとつて、善業をなすのはたのしみであった。しかし、今は、なんの取り得もないし、なんのたのしみもない」。かれらの考えかたも、かれらの言い分も間違つている。もしも、かれらが善徳の善に対する愛のために、善業のなかにたのしみを求めていたのであれば、このたのしみを失うことはなかったであろうし、これに不足することはなかったであろう。かえって、これを増大させることができたであろう。しかし、かれらの善業は、その感覚的たのしみの追求にもとずいているために、実行されなくなるのである。以上が、普通の人々がそのわずかの善業についておちいる迷いである。かれらは、感覚的 で利己的なたのしみを求めているために、迷いにおちいるのである。 

不完全な愛によって愛している神のしもべたちの誤りについて

いまだに不完全な愛によってわたしを愛しているわたしのしもべたちは、わたしのなかに見出す慰めと喜びとに対する愛によって、わたしを探し求め、わたしを愛する。わたしは、実行したすべての善に報いを与える。この報いはこれを受ける者の愛の程度に応じて、あるいは多く、あるいは少ない。それで、祈る人に対しては、祈りのあいだに、霊的慰めを、あるときはこの方法で、あるときは他の方法で、与える。そうするのは、霊魂が慰めを無知に受けること、すなわち、わたしによりはわたしが与える慰めに注目して受けることを承認するからではない。これを与えるわたしの仁愛の情とこれを受ける自分の卑賎とを、自分自身の慰めから生まれるたのしみよりも、注視させたいからである。しかし、無知な霊魂は、自分に対するわたしの愛情を思わないで、自分のたのしみに執着し、これから述るような不幸と迷いとにおちいるのである。その一つは、自分のなぐさめに迷わされて、これを探し求め、そのなかにたのしみを見出すことである。そのうえ、自分の内心に、なんらかの方法で、わたしの慰めとわたしのおとずれとを何度か感じたならば、同じものを見出すために、それを見出したときたどていた道へと戻て行く。しかし、わたしは、ただ一つの方法で与えるわけではない。ほかに与える方法をもっていないかのように思われる恐れがあるからである。わたしは、わたしの「いつくしみ」の好みにより、霊魂の需要に応じて、さまざまの方法を用いる。ところが、霊魂は、無知のために、ただ一つの方法で探し求める。それは、聖霊を規則でしばろうとするようなものである。そのようにしてはならない。十字架につけられたキリストの教えの橋を、勇気をふるって渡らなければならない。そして、わたしの「いつくしみ」が好む方法で、好む時に、好む所で、わたしのたまものを受けなければならない。わたしがこれを与えない場合でも、愛によてそうするのであって、憎しみによるのではない。それは、わたしを真実に探し求めさせるためである。ただ自分のたのしみのためにわたしを愛してはならない。わたしの「仁愛」を、そこに見出すたのしみよりも重んじて、謙遜に受けなければならない。そうしないでわたしが望む方法ではなく自分の好む方法で、たのしみを求めるならば、知性の目の前に置かれているたのしみの対象を奪われるときは、堪えがたい苦しみと混乱とにおちいるにちがいない。自分の好みに従て慰めを選ぶ人々については、以上のとおりである。かれらは、わたしのたのしみを、なんらかの方法で、精神で味わうと、これに執着する。ときにはきわめて無知で、わたしが別の方法でおとずれると、これに抵抗して、受けようとはせず、いつまでも、自分が思い浮かべた方法だけを待ている。これは、利己的な情念とわたしのなかに見出す霊的たのしみとに対する執着によるのであて、間違いである。それは錯誤である。霊魂が同じ状態をつづけることは不可能だからである。霊魂はじと動かないでいることはできない。善徳の道においては、進むか退くか、どちらかしかない。精神は、わたしのなかに、ただ一つのたのしみを味わいながら定着していることができない。それでは、わたしの「いつくしみ」は、それ以上のものを与えることができないことになる。わたしは、さまざまの方法で、これを与える。あるときは、霊的喜びを与え、あるときは、その精神を内面的にゆりうごかすかに見えるほどに、罪に対する痛みと悔みとを与える。あるときは、霊魂のなかにいても、それを霊魂に気付かれないようにすることがある。あるときは、わたしの「真理」、受肉せる「言葉」の姿を、種々の方法で、その知性の目に示す。それでも、霊魂は、この示現のなかに感じるにちがいないと思われる情熱と喜びとを体験しないように見えることがある。しかし、あるときは、なにも見えなくとも、きわめて大きい喜びを味わうことがある。これらすべては、霊魂に謙遜と堅忍との徳を保たせ、成長させるために、そしてまた、わたしを規則でしばろうとするのを止めさせ、慰めよりはわたしの上にきずいた善徳を目ざさせ、わたしが選ぶあの時この時を、謙遜に受け入れさせるために、愛によっておこなわれるのである。わたしは、霊魂が、わたしの愛を、わたしが与えるままに、愛をもって受けるのを望んでいるし、わたしが、霊魂の救いに必要なもの、そのより高い完徳のために必要なものを考慮して与えることを、生ける信仰によって信じるのを願ている。それゆえ、霊魂は謙遜を保たなければならない。そして、わたしの仁愛を原理とも目的ともなし、この仁愛のなかに、自分の意志によってではなく、わたしの意志によって、たのしみも不快も受けなければならない。わたしのしもべたちにとつて、あらゆる錯誤からのがれる方法は、その目的である「わたし」に対する愛のために、わたしの甘美な意志にもとづいて、すべてを受けることである。 

自分の平安と慰めとを失わないために、隣人の需要にこたえるのをおこたる人々について。

これまで、自分の方法でわたしを味わい、自分が望むとおりに、その精神にわたしを迎えようとする人々のおちいる錯誤について述べた。これから、第二の錯誤、すなわち、そのたのしみ全体を内心の慰めを探し求めることに置いている人々の錯誤について話したい。この錯誤ははなはだしく、しばしば、隣人が霊的にあるいは現世的に必要にせまられているのを見ても、善徳の外見のもとに、これを助けるのをおこたり、「わたしは精神の平和と静安とを失いたくない」と言うのである。慰めを失うのはわたしに背くことだと考えているようである。かれらは、その精神の利己的な霊的たのしみに迷わされている。かれらは、そのすべての慰めを放棄することによってよりも、必要にせまられている隣人を助けないことによって、はるかにわたしに背く。なぜなら、すべての勤行、すべての口祷あるいは念祷は、「わたし」によって、霊魂をわたしと隣人とに対する完全な仁愛にみちびくために、そしてまた、これにこの仁愛を保たせるために、定められたものだからである。それゆえ、外的な勤行のため、あるいは精神の平安のために隣人に対する仁愛をおこたることは、隣人のためにこれらの勤行を放棄するよりも、はるかにわたしに背くのである。隣人に対する仁愛のなかにはわたしを見出すことができる。しかし、霊的喜びのなかにわたしを求めても、わたしを失うことがある。隣人を助けるのをおこたるならば、これに対する仁愛を減らす。隣人に対する仁愛を減らすならば、本人に対するわたしの愛も減ることになる。わたしの愛が減るならば慰めも減るのである。それで、もうけようと思て損するし、損したいと思てもうける。すなわち、隣人の救いのために自分自身の慰めを損する者は隣人を愛深く助け、これに奉仕することによって、わたしと隣人とを受け、もうけるのである。そうなると、わたしの「仁愛」のたのしさを、いかなる時も、味わうことができる。ところが、この慰めを放棄しようと思わない者は、苦しみのなかに取り残される。なぜなら、ときどき、あるいは必要にせまられ、あるいは愛の職務として、他人の肉体的あるいは精神的病弱を看護しなければならないのであるが、そのとき、苦しみなから、うんざりしながら、良心のとがめを感じながら、これをなさなければならないから、自分自身にとつても他人にとつても、我慢できない者となるからである。そのような人々に、「なぜそんなに苦しむのか」とたずねるがよい。すると、つぎのように答えるであろう。「精神の平和と静安とを失たように思うからだ。わたしは、これまで習慣になっていた多くのことをやめた。そのため、神に背いたと思ている」。しかし、そういうことはない。自分自身のたのしみしか眼中にないから、自分の過失が実際にどこにあるかを見分けることも、知ることもできないのである。精神的慰めをもたないから、あるいは隣人を助ける必要にせまられて祈りの勤行を放棄したから、わたしに背くのではなく、むしろ、わたしに対する愛のために愛し、奉仕しなければならない隣人に対する仁愛を欠いたから、わたしに背くということを、認めなければならない。これまで話したことによって、この人々が、自分自身に対する霊的自愛心によって、どのような錯誤におちいっているかがわかったと思う。 

霊的慰めと示現とに愛着している人々の錯誤について。

このような愛は、ときどき、霊魂にもっと大きな害を与える。わたしがしばしばわたしのしもべたちに与える慰めと示現とを求めることに、その情熱をかたむける場合がこれである。霊魂は、それが取りあげられたのを見ると、精神の悲嘆と倦怠とにおちいる。わたしがときどきその精神からかくれると、恩寵を失たかのように思う。すでに話したように、わたしは霊魂を去るけれども、また戻る。去ることによって恩寵を取りあげるのではなく、その意識を取りあげるだけである。しかも、それは、霊魂を完徳にみちびくためである。ところが、霊魂は悲嘆にくれる。それまで味わっていた喜びに見放され、多くの誘惑の攻撃にさらされているのを感じて、地獄に落とされたように思う。真理を認識することができないほど、無知であってはならないし、霊的自愛心に迷わされてはならない。「わたし」が霊魂のなかに現存すること、わたしこそ至高の「善」であること、わたしこそ、戦いのとき、霊魂の善意を守り、霊魂がたのしみを求めて引き返すのを防止することを、認識しなければならない。それゆえ、謙遜して、自分は精神の平和と静安とを味わう資格がないと思わなければならない。わたしが霊魂からかくれるのは、そうさせたいからである。霊魂が、戦いのとき善意を失わないようにこれを守るのは、この善意によって謙遜し、霊魂に対するわたしの仁愛を認識することを願て、そうするのである。霊魂は、わたしがその顔に振りかけるたのしみの乳で満足してはならない。わたしの「真理」の乳房にすがりつき、そこから乳と同時に肉を吸い取らなければならない。すなわちそこから、わたしの仁愛の乳を、十字架につけられたキリストの肉によって、わたしがあなたがたをわたしに到着させるために橋に仕立てたかれの教えによって、吸い取らなければならない。そのため、わたしはかれらからかくれるのである。もしも、かれらが賢明に歩くならば、そして、ただ乳だけしか求めないほど無知でないならば、わたしは、もっと多くのたのしみ、もっと多くの力、もっと多くの光明、もっと熱烈な仁愛をもって、かれらのもとに帰るであろう。しかし、精神のたのしみを感じなくなると、精神の倦怠、悲嘆、混乱におちいるようでは、得ることろが少ないし、微温な状態をつづけるにちがいない。 

霊的な慰めと示現とに執着する人々は光明に変形した悪魔にだまされることについて示現が神よりのものであるか、悪魔よりのものであるかを見分けるしるしについて

そのうえ、しばしば、光明に変形した悪魔のわなにさらされるにちがいない。事実、悪魔は、精神がなにを受けたいと思ているか、なにを望んでいるかを見て、これを与える。それで、ある精神が貪欲で、霊的慰めと示現との望みだけに捕えられているのを見ると(霊魂はそのようなものを望まないで、善徳だけを望まなければならないし、謙遜して、自分はそのような恩恵にふさわしくないと思い、これを与えるわたしの愛しか考えてはならないのであるが)、悪魔は、この精神のなかで、さまざまの方法で光明に変形する。あるときは天使の形をとり、あるときはわたしの「真理」の形をとり、あるときはある聖人の形をとる。そして、この霊魂が示現と精神のたのしみとのなかに探す霊的よろこびの釣り針によって、これを捕える。もしも、霊魂がまことの謙遜によって立ちあがり、すべてのたのしみを軽蔑しないならば、この釣り針にかかり、悪魔の手に落ちるにちがいない。その反対に、このたのしみを謙遜に軽蔑し、たまものではなく、与え主である「わたし」の愛情を、愛深く抱きしめるならば、悪魔は堪えることができないであろう。なぜなら、傲慢な悪魔は謙遜な精神に対抗することができないからである。あなたはわたしに、「このおとずれがあなたのものではなくて悪魔のものであることは、どのようにして見分けることができるでしようか」とたずねるかもしれない。わたしはあなたに答えたい。しるしはつぎのとおりである。もしも悪魔が、すでに話したように、光明の形で精神をおとずれたのであれば、霊魂はそのおとずれによって、突然強い喜びを受ける。しかし、この喜びは、時がたてばたつほど弱くなる。そして、精神には倦怠、暗黒、刺激が残り、内面は雲がかかったようになる。しかし、実際に永遠の「真理」である「わたし」がおとずれたのであれば、霊魂は最初聖なる恐れを感じる。しかし、この恐れには、喜び、安心、心地よい用心がともなう。それで、疑いながらも疑わない。自分自身を認識して、自分は、この恩寵を受ける資格がないと思う。それで、「わたしはあなたのおとずれをうける資格はありません。資格がないのにどうしておとずれてくださるのですか」とたずねるであろう。そう言いながらも、わたしの広大な「仁愛」によりすがるであろう。「わたし」には与える力があることを知り、認めるであろう。自分の卑しさを眺めないで、自分を恩寵をうけるにふさわしいもの、わたしの現存を感じるにふさわしいものとなすわたしの尊厳を眺めるであろう。なぜなら、わたしは、霊魂にわたしを呼び招かせ、わたしを受ける準備をおこなわせるその望みを、無視することができないからである。そこで、霊魂は謙遜して「わたしは主の使い女です。おぼしめしのようになりますように」と言うであろう。そして、わたしのおとずれが終わり、念祷を止めても、精神のなかに、喜びと大きなたのしみを保ちつづけるであろう。その謙遜によって自分の卑しさを 理解し、すべてをわたしの「仁愛」によって授かったことを認めるであろう。このしるしによって、霊魂がわたしのおとずれを受けたのか、悪魔のおとずれを受けたのかを、判断することができる。わたしがおとずれる場合は、霊魂は最初恐れを抱くけれども、なかほどと終わりには、喜びと善徳に対する望みを感じるであろう。悪魔がおとずれる場合は、最初喜びを感じるけれども、最後には精神のなかに混乱と暗黒とが残るであろう。わたしがこのようなしるしを示したのは、霊魂が、謙遜に用心深く歩いて、あざむかれないようにしてほしいからである。しかし、霊魂が、すでに話したように、わたしに対する愛よりも、自分自身の慰めに対する不完全な愛を抱いて航海するならば、わなにおちいるにちがいない。 

真実に自分を知ている霊魂は、これらすべてのわなを賢明に避けることについて

わたしは、わずかの善業をおこないながら、すなわち、慰めのときわずかの善徳を実行しながら、感覚的自愛心におちいっている一般の人々の迷いについて、あなたに話さずにはいられなかった。わたしはまた、わたしのしもべたちの自分の慰めに対する霊的自愛心についても沈黙することができなかった。わたしは、かれらが、たのしみを求める自愛心によって、どのように迷わされているか、どのようにわたしの愛の真実性を認識すること、過失がどこにあるかを識別することを、妨げられているか、を示した。そして、悪魔が、かれらの過失をつかっておとしいれるわなについて、かれらがこれにおちいるのは、わたしが話した方法を用いていないからであることについて、述べた。これらのことを語たのは、あなたとわたしの他のしもべたちとを、わたしに対する愛によって善徳を目ざしてまっしぐらに進ませ、他のことを気にかけさせないためである。不完全な愛しか抱かない人々、たまもののためにわたしを愛して、これを与えるわたしを愛さない人々は、これらすべてのわなにおちいる危険があるし、しばしばこれにおちいる。しかし、真実に自分自身の認識の独房にこもって、完全な祈りに従事する霊魂は、わたしが念祷について話したとき説明したように、不完全な愛と不完全な祈りとを去り、わたしを愛情をもって迎え、十字架につけられたキリストの教えの乳房から、甘美な慰めの乳を吸い取るように努める。こうして、第三の状態、すなわち、友の愛、子の愛に達する。もはや、やとわれびとの愛を抱くことがない。きわめて親密な友人になり、わたしに対して、友人同士のように振る舞う。すなわち、相手から贈りものを受けると、その贈りものだけを見ないで、与える友の心、その愛情を見るし、その贈りものをその友の愛情によって評価する。完全な愛の状態である第三の状態に達した霊魂は、これと同じように、わたしのたまものと恩寵とを受けると、ただたまものだけに注目しないで、知性の目によって、贈り主であるわたしの仁愛の情愛も見る。そのうえ、わたしは、霊魂がこのように行動しない言いわけを見出すことができないように、すなわち、わたしの愛情を見ない言いわけを見出すことができないように、あらかじめ、神性を人性に結合して、たまものをその与え主に結合させた。そのときわたしがあなたがたに与えた「たまもの」は、わたしの「ひとり子」、「言葉」である。かれは、わたしがかれと一つであるように、わたしと一つである。この一致の結果、あなたがたは、与え主である「わたし」を見ないでは、たまものを見ることができない。それゆえ、どれほど大きな愛をもって、たまものとその与え主とを、愛し、望まなければならないかを理解してほしい。そうするならば、あなたがたの愛は、もはややとわれびとの愛ではなく、純粋な愛、無垢な愛となるであろう。絶えず自分自身の認識の独房にこもっている人々は、このように実行するであろう。 

霊魂はどのようにして不完全な愛を去って完全な愛に達するかについて。

これまで、いろいろなしかたで、霊魂がどのようにして不完全から立ちあがって完全な愛に達するか、そして、友の愛、子の愛に達したのちは、なにをするかを示した。すでに話したことを繰りかえすが、霊魂は、堅忍して、自分自身の認識の独房にこもることによって、そこに達する。この自分自身の認識が、混乱におちいらないためには、「わたし」の認識をともなわなければならない。自分自身の認識は、霊魂の自分に対する感覚的な情念と利己的な慰めのなかに味わうたのしみとを憎ませる。謙遜にもとづいたこの憎しみから忍耐が生まれる。霊魂は、この忍耐によって、悪魔の攻撃に対しても、人々から受ける迫害に対しても強くなる。そのうえ、「わたし」に対しても強くなり、わたしが、その利益のために、霊的喜びを取りあげても、弱音を吐かない。この善徳によって、すべてを堪える。もしも、なんらかの試練によって、利己的な官能が頭をもたげ、理性に反抗するときは、裁判官である良心は立ちあがり、官能に対する憎しみをもって理性を守り、すべてのみだらな衝動を是正しなければならない。官能に対して憎しみを抱く良心は、絶えず自分を是正し、理性に反する衝動だけではなく、しばしば、「わたし」が与える衝動きえも抑える。わたしの善良なしもべ、グレゴリウスが、「聖く清い良心は罪のないところでも罪を犯す」と言つたのは、このことである。それは、純潔な良心は、過失でないものまでも、過失と見なすという意味である。不完全から立ちあがろうとする霊魂も、このようにしなければならないし、事実そうするのである。自分自身の認識の独房にこもり、信仰の光明に照らされて、わたしの「摂理」を待つ。弟子たちは、家にとどまって、決して動かなかった。堅忍して徹夜をおこない、謙遜して忍耐深く祈りながら、聖霊の降臨を待つた。すでに話したように、霊魂は、不完全から立ちあがって完全に達するために、独房にこもるとき、これを模倣する。そこで、知性の目をわたしの「真理」の教えに注ぎ、絶えざる祈りのなかで、すなわち、聖く清い望みのなかで、自分自身を認識し、自分のなかにわたしの「仁愛」の情愛を認識して、謙遜し、夜を徹して待つのである。 

霊魂が完全な愛に達したことを示すしるしについて

最後に、霊魂が完全な愛に達したことを示すしるしについて話したい。このしるしは、聖なる弟子たちが、聖霊をさずかったのち示したしるしと同じである。かれらは集合室を出ると、恐れから解放されて、わたしの「言葉」を宣べ、わたしの「ひとり子」である「言葉」の教えを説いた。そして、苦しみを恐れるどころか、かえって、この苦しみを誇りにしていた。かれらは、世界の暴君たちの前に出て、わたしの名の栄光と賛美とのために、「真理」を告げ知らせるのを恐れなかった。自分自身の認識のなかで、さきに話した方法で、私のおとずれを待つ霊魂も、これと同じである。わたしは、わたしの「仁愛」の火とともに、そのもとに帰た。霊魂は、その住み家にこもって、堅忍しているあいだに、愛情によってわたしの力を分かち、「仁愛」によって善徳を宿した。そして、この力と善徳とによって、その感覚的自己愛を支配し、征服した。この「仁愛」によって、霊魂は、わたしの「子」の英知を分かつ者となった。そして、すでに話したように、この英知によって、その知性の目は、わたしの真理」を見て認識するとともに、霊的な自愛心、すなわち、利己的な慰めに対する不完全な愛が錯誤であることをさとた。霊魂はまた、まだこの不完全な愛のくさりにつながれている霊魂に対する悪魔の欺隔と悪意とをさとり、この不完全に対する憎しみと完徳に対する愛とが湧きあがるのを感じた。この仁愛は聖霊自身であるが、霊魂はこれによってその意志を分かち、そのなかで苦しみを堪える意志を強め、わたしの名によって家の外に出て、隣人に対する善徳を産む。自分自身の認識の独房を実際に出るわけではない。しかし、愛の情念によって宿した善徳を出産し、隣人が要求するとき、多種多様な方法で、これに与える。それというのも、先に話したように、以前には、自分自身の慰めを失う恐れにしばられて、姿を見せようとしなかったのであるが、この恐れから解放されたからである。ひとたび完全で自由な愛に達すると、霊魂は、すでに話した方法で外に出て、自分自身を隣人に委ね与える。このようにして、霊魂は第四の状態に達する。この状態は、第三の状態の一部分で、完全な状態である。この状態において、霊魂は隣人のなかに愛を味わい、これを産む。そして、そこで、わたしとの完全な一致の最後の状態をさずかる。この二つの状態はたがいに結合している。一方は他方なくしては成り立たない。なぜなら、わたしに対する仁愛は隣人に対する愛から分離することができないし、隣人に対する仁愛はわたしに対する仁愛から分離することができないからである。一方は他方から分離することができないのである。これは先の二つの状態についても同じである。一方は他方なくしては存在しない。これについては、この第三の状態について話すとき説明し、示したい。 

不完全な人々は「父」だけに従いたいと思うが、完全な人々は「子」に従うことについて。この霊魂が受けた示現のなかで、種々の洗礼とその他の美しいこと、有益なことを見たことについて

私はあなたに、かれらが外に出たことについて、かれらが不完全を去て完全に達したことを見分けるしるしについて語た。知性の目を開いて、かれらが十字架につけられたキリストの教えの橋を走て渡るのを見てほしい。これがあなたがたの規則、道、教理である。かれらがその知性の目の前においているのは、「父」であるわたしではない。ところが、不完全な愛にとどまる人々は、その知性の目の前に「父」をおいている。かれらは苦しみを堪えるのを好まない。わたしには苦しみはない。それで、かれらは、わたしのなかに、たのしみだけを追求しようとして、わたしに従う。かれらがわたしに求めているのは「わたし」ではなく、わたしのなかに見出すたのしみである。完全な人々はそのようにはしない。かれらは、愛に酔わされ、燃え立たされて、霊魂の三つの能力を全般的に象徴する橋の三つの階段を一つにしてこれをのぼる。この三つの階段はまた、わたしの「ひとり子」、十字架につけられたキリストの体を現実に象徴する。霊魂は、その愛情の足によって第一の階段をのぼり、キリストの足に達したのち、その脇腹に達する。そこで、心の秘密を見出し、「血」の功徳をもつ水の洗礼を知る。そのうえ、そこで、「血」と一つにまじり合た恩寵を受ける器を準備したのち、聖なる洗礼の恩寵をさずかる。霊魂は「血」の功徳によって洗礼をさずかり、「小羊」の「血」と一つにまじり合ているというその尊厳を、どこで認識するであろうか。神的「仁愛」の火を感じる「脇腹」においてである。あなたもおぼえていると思うが、わたしの「真理」は、あなたが、「優しくもけがれなき『子羊』よ、あなたは、脇腹が開かれたときは、死亡していました。それなのに、なぜ、あなたの心が傷つけられ、開かれるのを望まれたのですか」とたずねたとき、これを示した。そのとき、かれは、あなたもよく憶えているとおり、つぎのように答えた。「多くの理由があるが、その主なものについて話したい。わたしの人類に対する望みは無限であった。ところが、苦しみと拷問とを凌ぐという現在の行為は有限であった。この苦しみによっては、わたしがどんなにあなたがたを愛しているかを示すことができなかった。わたしの愛は無限であったからである。それで、わたしは、わたしの開かれた心を示して、その秘密を見せたいと望んだ。有限な苦しみによって示すことのできなかったわたしの愛を見せたかったからである。流れ出た血と水とは、あなたがたが『血』の功徳によってさずかる聖い水の洗礼を象徴していた。「それはまた、血の洗礼をさずかるのに二つの方法があることを示していた。一つは、わたしのために流した自分自分の血のなかで洗礼をさずかった人々の方法である。他の人々は、愛によって、洗礼をさずかりたいと望んでも、これをさずかることができない。そのような人々は火によって洗礼をさずかる。『血』によらない火の洗礼はない。『血』は、神的に愛の火と一つにまじり合ている。なぜなら、この『血』は愛によって流されたからである。「血の洗礼をさずかるもう一つの、象徽的な方法がある。これは、わたしの神的『仁愛』の特別な配慮によるものである。わたしは、人間がわたしに背くのは、その弱さともろさとのためであることを知ていた。その弱さあるいはその他の原因が、望みもしないのに、いやおうなしに、わたしに対して過失を犯させるわけではない。しかし、人間は弱いから大罪に落ちるのである。人間はまた、血の功徳によって聖い洗礼のなかでさずかった恩寵を失う。れで、神的『仁愛』によって、絶え間なく、血の洗礼を定め、心の痛悔と聖なる告白とによって、これをさずかることができるようにする必要があった。この告白は、できるならば、『血』の鍵を委託されたわたしの司祭におこなうものであり、司祭は、この『血』を、赦しを与えることによって、霊魂の顔に注ぐのである。「もしも、告白が不可能ならば、心の痛悔で十分である。たしの『寛仁』の手は、そのとき、この貴い血の実をあなたがたに与える。しかし、告白することができる者は、これをおこなわなければならない。できるのにおこなわない者は、『血』の実をさずかることができない。臨終のとき、告白したいと望んでもできない人が、『血』の実をさずかることは、事実 である。しかし、だれも、この希望に支えられて、問題の処理を最後のときまで延ばすほどおろかであってはならない。なぜなら、その頑迷さのゆえに、わたしの神的な正義によって、つぎのように宣告されないという保証はないからである。『あなたは、生涯のあいだ、可能であったのに、わたしを思い起こさなかった。わたしもまた、あなたの死のとき、あなたを思い起こさない。だから、だれも、延期してはならない。しかし、自分の過失によってそうした人も、最後まで、『血』のなかで洗礼をさずかる希望を放棄してはならない。「あなたもわかるように、この洗礼は継続している。霊魂は、すでに話した方法で、最後まで、受洗しなければならない。この洗礼におけるわたしの業、すなわち、あなたが洗礼においてわたしからさずかったわたしの苦しみの実は無限である。それは、有限な人間性と一致した無限の神性の功徳による。この人間性は、あなたがたの人間性をまとた『言葉』であるわたしのなかで苦しみを凌いだ。この二つの本性は、たがいに一致結合しているので、永遠の『神性』は、わたしがあれほどの愛の火によって凌いだ苦しみを引きよせて、これを自分のものにしたのである。「わたしの業は無限であると言うことができる。わたしの肉体が堪え忍んだ苦しみは無限ではなかったし、あなたがたのあがないを成しとげたいというわたしの望みによる苦しみも無限ではなかった。この苦しみは十字架上で、わたしの霊魂が肉体をはなれたとき、終わった。しかし、わたしの苦しみとあなたがたの救いに対する望みとから生まれた実は、無限である。それで、あなたがたは、無限にこれをさずかることができる。もしも、無限でなかったなら、全人類、すなわち、現在、過去、未来の人間の復興はできないであろう。この『血』の洗礼が無限に与えられなかったら、すなわち、『血』の実が無限でなかったら、わたしに背く人間は、罪を犯したのち、立ちあがることはできないにちがいない。「わたしの開かれた脇腹は、以上のことを示しているし、心の秘密をあかしている。そこで、あなたがたは、わたしが、有限な苦しみによって証した愛よりもはるかに大きな愛をもつて、あなたがたを愛していることを認めることができる。わたしは、この愛が無限であることを、あなたがたに示した。なにによってであろうか。わたしの『仁愛』と一つになった『血』の洗礼によってである。なぜなら、『血』はこの愛によって流されたからである。キリスト者に与えられた一般的洗礼、望む者はだれでもさずかることができる洗礼は、血と火とに合一した水の洗礼である。そこで、霊魂はわたしの血と合一する。このことをあなたがたに示すために、開かれた脇腹から、血と水とが流れ出るのを望んだのである。「以上があなたの問いに対する答えである」。 

橋の第三の階段にのばった霊魂、すなわち口に達した霊魂は、すぐさま、口の役目を果たすことについて。-霊魂がそこに達したしるしは、その意志の死であることについて

わたしがこれまで話したことはみな、わたしの「真理」があなたに説明したことである。わたしは、この第二の階段をのばった霊魂がどんなにすぐれているかをあなたに理解させるために、かれに代わって、これを繰りかえし述べた。霊魂は、そこで燃えさかる愛の火を知り、これを獲得して、一気に第三の階段、すなわち口に駆けのぼった。これは、完全な状態に達したことを示すのである。どこを通たのであろうか。心を通たのである。すなわち、「血」の追憶によってあらためて洗礼をさずかり、不完全な愛を去り、心のまことの愛を認識し、わたしの「仁愛」の火を見、味わい、体験したのである。こうして霊魂は口に達した。そして、口の役目を果たすことによって、これを証明する。口はそのなかにある舌をもって話し、味覚をもって味わい、食物を食べて胃に送るし、これを呑みこむことができるように歯でかみくだく。霊魂もこれと同じである。まず、聖い望みの口のなかにある舌をもって、すなわち、聖く絶え間ない祈りによって、わたしに話す。この舌は外的にも精神的にも話す。その心地よく愛深い望みを、霊魂の救いのためにわたしにささげるとき、精神的に話す。そして、わたしの「真理」の教えを宣べるとき、世俗から受ける苦しみを恐れることなく、注告し、意見を述べ、証しをおこなうとき、外的に話す。しかも、すべての被造物に対し、種々の方法を用い、それぞれの状態に応じて、大胆に証しをおこなう。わたしは霊魂が食べると言た。霊魂は人々の霊魂を、わたしの誉れのために、至聖なる十字架の食卓の上で食べる。他のどんな方法によっても、どんな食卓の上でも、まことに、完全に食べることができない。わたしは歯でかみくだくと言た。そうしないと呑みこむことができないからである。憎しみと愛とは、聖なる望みの口のなかにある二列の歯である。霊魂は、そこに食物を入れて、自分自身に対する憎しみと善徳に対する愛とによって、これをかみくだく。自分においても、隣人においても、すべての侮辱、軽蔑、無礼、嘲笑、叱責迫害、飢え、渇き、寒さ、暑さ、かずかずの迫害、涙、汗を、霊魂の救いのためにかみくだく。これらすべてをわたしの誉れのためにかみくだき、隣人を支え、これを堪える。歯でかみくだいたならば、今度は味覚で味わう。霊魂はその労苦の実を味わい、わたしと隣人とに対する仁愛の火のなかで、霊魂という食物を賞味する。つぎに、この食物は、霊魂に対する望みと飢えとによって受け入れる準備がととのえられている胃に達する。胃とは、親愛と隣人に対する仁愛とをそなえた心である。霊魂は、この食物がたいへん気に入り、これを十字架と十字架につけられたキリストの教えとの食卓の上で食べることができるように肉体の生命に関する心配を忘れた上で、これをむさぼるように食べる。そうなると、霊魂は真実で堅固な善徳によってふとる。この食物を多量に取るのでふくらみを増し、つけていた利己的な官能、すなわち霊魂をおおっていた体の感覚的欲望が破裂する。破裂すれば死亡する。このように規正された霊魂の意志は、「わたし」のなかに生き、わたしの永遠の意志をまとうから、感覚的意志は存続することができないのである。まことに第三の階投に達した霊魂、すなわち口に達した霊魂は、このようになる。霊魂がそこに達したしるしは、自分自身の意志を棄てて、わたしの「仁愛」の心地よさを味わい、そうすることによって、口のなかで、平和と安息とを見出すことである。あなたも知ているように、平和は口に宿る。それで、霊魂は、この第三の状態で、なにものも乱すことのできない平和を見出す。霊魂は自分自身の意志を棄て、これを否定したために安息する。この意志が死亡したために、平和と静安とが与えられる。この状態に達した人々は、隣人に対する諸善徳を、苦しむことなく出産する。かれらの苦しみが苦しみでなくなるわけではない。しかし、感覚的意志が死滅しているので、もはやそれを感じない。それで、わたしの名のために、喜んでこれを堪えしのぶのである。このような人々は、十字架につけられたキリストの教えの道を、速度をゆるめることなく走りつづける。加えられる侮辱によっても、その他の迫害によっても、あるいはまた、世俗が与えようとするたのしみに出会ても、速度をゆるめることがない。すべてをまことの力と堅忍とによって乗り越え、わたしの仁愛の情愛によってその愛情をおおい、霊魂の救いという食物を、真実で完全な忍耐をもって味わう。この忍耐は、霊魂が、自分の利得を考えないで、完全に愛していることを示すしるしである。もしもかれらが、自分の利益のためにしかわたしと隣人とを愛さないならば、このように忍耐することができないであろうし、その 速度をゆるめるにちがいない。しかし、かれらは、「わたし」をわたし自身のために愛する。わたしは至高の「いつくしみ」であり、愛するにふさわしいからである。かれらが自分自身を愛するのは「わたし」のためである。かれらが隣人を愛するのも「わたし」のためであり、わたしの名に栄光と賛美とを帰するためである。それゆえ、かれらは、苦しみを堪えるにあたって、忍耐深く、強く、堅忍不抜である。

第三の段階に達した霊魂の業について

まことの仁愛の上にきずかれ、この仁愛の木のいただきに位置する光栄ある三つの善徳は、忍耐、力、堅忍である。これらの善徳は至聖なる信仰の光明のかんむりをかぶっている。かれらは、この光明によって、「真理」の道を、暗黒におそわれることなく、走て行く。聖なる望みによって高くあげられているので、障害に出会うことがない。悪魔の誘惑も、これを邪魔することができない。なぜなら、悪魔は、愛徳のかまどのなかで燃えさかっている霊魂を恐れるからである。人々の中傷も、侮辱も、どうすることもできない。世俗はかれらを迫害しながら、かえって、かれらを恐れるのである。わたしの「いつくしみ」がこれらのことを許すのは、かれらを強め、「わたし」と世俗との前に偉大な者となすためである。それも、かれらがまことの謙遜によって小さくなったからである。わたしの聖者たちを見ればあきらかである。かれらはわたしのために小さくなった。それで、わたしはかれらを永遠の「生命」である「わたし」のなかに、そしてまた、聖なる「教会」の神秘体のなかに、偉大な者となしたのである。教会はいつもその記念をおこなう。かれらの名は、生命の書であるわたしのなかに書きしるされているからである。世俗はかれらをあがめる。世俗をあなどたからである。かれらが善徳をかくすのは、恐れによるのではなく、謙遜による。隣人がかれらの奉仕を必要とするときは、苦しみを恐れて、あるいは、自分の慰めを失うのを恐れて、その善徳をかくすようなことをしない。勇敢にこれに奉仕し、自分を棄て、自分を無視する。「わたし」の誉れのためであれば、その生命と時間とをどのように使ても、喜ぶし、精神の平和と静安とを味わう。なぜであろうか。わたしに奉仕するにあたって、自分の方法を選ぶ代わりに、わたしの方法を選ぶからである。かれらにとて、慰めの時も艱難の時も、繁栄の時も苦難の時も、大事である。一方は他方と同じように価値がある。かれらは、なにごとにおいても、わたしの意志を見出すし、わたしの意志をどこに見出しても、これと一致すること以外には考えない。かれらは、「わたし」によらないで造られたものはなく、すべては非存在である罪をのぞき、わたしの神的な「摂理」によって、神秘的に定められたものであることをさとている。それゆえ、罪を憎むとともに、存在するすべてのものに対して、敬意を抱く。この考えによて、その意志はきわめて堅固で不動なものとなり、「真理」の道を、決して速度をゆるめることなく、歩きつづける。かれらは、隣人に忠実に奉仕し、その無知と忘恩とを気にすることがない。時として、邪悪な人々からその善業を侮辱され非難されることがある。そのような時は、わたしにむかって叫びつづけて、その人のために聖なる祈りをささげ、わたしに加えられた侮辱とその人の霊魂に及ぶ害悪とを悲しみ、自分が受けた侮辱は気にかけない。かれらは、わたしの先触れである光栄ある使徒パウロのように、「世はわたしたちを呪いますが、わたしたちは祝福します。世はわたしたちを迫害しますが、わたしたちは感謝します。人々はわたしたちを世の汚物や屑のように投げ出しますが、わたしたちは忍耐深く堪え忍びます」と言うのである。いとしいむすめよ、以上は、あなたもわかるように、霊魂が不完全な愛を去て、完全な愛に達したことを示す甘美なしるしである。これらすべてのしるしのなかで、特別にすぐれているのは、忍耐の徳である。これによって、霊魂は、優しくけがれのない「子羊」であるわたしの「ひとり子」の跡に従うのである。かれは、愛の釘によってつけられていた十字架の上で、ユダヤ人たちが、「十字架からおりるがよい。そうすれば信じよう」と言つたとき、引き返すことがなかった。あなたがたの忘恩も、わたしが命じた服従に堅忍することを妨げることができなかった。かれの忍耐はいかにも偉大で、叫びも、わずかのつぶやきも聞こえなかった。わたしのいとしい子供たちと忠実なしもべたちは、わたしの「真理」のこの教えと手本とに従う。世は、へつらいあるいはおどしを使て、かれらをこの道から連れ出そうとする。しかし、かれらは、すきでたがやしたうねを見ようとして、うしろを振り返ることがない。わたしの「真理」を目的として、それだけしか眺めない。戦場から逃亡して家に帰り、脱いでおいた服をつけようとはしない。すなわち、自愛心をまとて、「創造主」であるわたしの気に入るよりは被造物の気に入るように努め、わたしに嫌われるよりは被造物に嫌われるのを恐れるようなことをしない。その反対に、喜んで戦場に踏みとどまり、十字架にかけられたキリストの「血」に満たされ、酔わされる。わたしは、この「血」を、わたしの「仁愛」の聖なる教会の神秘体に委託して、利己的な官能と弱い肉とに対する戦いにおいて、そしてまた、世俗と悪魔とに対する戦いにおいて、まことの戦士となり、敵に対する憎しみのつるぎと善徳に対する愛とをもって戦う人々の勇気を固めるのである。この愛は、どんな打撃も防ぐことのできる武具であって、手にもったつるぎを敵の手にわたさないかぎり、すなわち、自由意志の手によって、自発的に武具を敵にわたさないかぎり、傷つけられることがない。「血」に酔わされた者は、決してそのような振る舞いをすることがない。勇敢に死ぬまで戦いぬき、すべての敵を敗走させる。ああ、栄光ある善徳よ、おまえはわたしにとてどんなに心地よいことか。この世において、無知な人々の暗黒に閉ざされた目に、どんなにかがやくことか。かれらは、わたしのしもべたちの光明を分かたずにはいられない。わたしのしもべたちの隣人に対する寛仁は、かれらの憎しみのなかにもかがやいているし、その広大な仁愛は、かれらのねたみのなかにもかがやいている。そのあわれみは、かれらの残酷のなかにもかがやく。なぜなら、世がわたしのしもべたちに対して残酷であるのに、かれらはあわれみ深いからである。かれらの忍耐は、侮辱のなかにもかがやいている。忍耐はすべての善徳の女王であって、これを支配する。なぜなら、忍耐は仁愛の真髄だからである。忍耐はまた、霊魂の諸徳を証明するし、諸善徳が永遠の「真理」であるわたしの上にきずかれているかいなかを識別させる。忍耐は勝利を占めこそすれ、敗北することがない。忍耐は、すでに話したように、力と堅忍とをその伴侶としている。そして、家に凱旋する。忍耐が戦場を去るのは、永遠の「父」である「わたし」のもとに帰るためである。わたしはそのすべての労苦にむくい、栄光のかんむりをこれに与えるのである。 

第三の状態と分離することのできない第四の状態について。この状態に達した霊魂の業について。この霊魂は神との一致を絶えず自覚することについて

わたしはあなたに、霊魂が完全な友の愛、子の愛に達したことは、どのようなしるしによて認めることができるかについて、説明した。これから、霊魂が、その死すべき体のなかにあって、わたしのうちに、どのようなたのしみを味わうかを示したい。霊魂は、第三の状態に達するやいなや、前に話したように、この同じ状態で、第四の状態に達する。この状態は第三の状態から分離したものではなく、両者は引き離すことができないほどたがいに結びついている。ちょうど、わたしに対して抱く仁愛が隣人に対する仁愛がなければ存在できないのと同じである。それは、霊魂がわたしと結んだ完全な一致の第三の状態によって生まれた実であって、霊魂はそこで「力」の上に「力」を受ける。そののち、霊魂は忍耐しながら苦しむことはない。なぜなら、わたしの名の栄光と賛美とのために、苦しみを堪え忍びたいという熱い望みにかられるからである。そうなれは、霊魂はわたしの「ひとり子」の恥辱を誇るようになる。わたしの先触れであるパウロは、「わたしは十字架につけられたキリストの患難と恥辱とにおいて誇る」と言い他のところでは、「十字架につけられたキリストのほかに、どこに誇りを求めようか」と言ている。そしてまた、「わたしは、わたしの体にイエスの傷痕を受けている」とも語ている。このように、わたしの誉れを熱望する人々、霊魂という食物に飢えている人々は、いとも聖なる十字架の食卓へと駆けて行く。かれらは、隣人に奉仕するため、善徳を保ち、これを獲得するために、キリストの傷痕を身におびて、苦しむこと、あらゆる労苦に立ち向かうことしか望まない。なぜなら、かれらを燃やしている十字架にかけられた愛は、かれらの体のなかに燃えているからである。この愛は、かれらが自分自身に対して抱く侮蔑と恥辱のなかで味わう喜びとのなかに、また、わたしがかれらに与える艱難辛苦を受諾することのなかにはきりと示される。そして、それがどこから来るか、わたしがそれをどのように送るかを問うことがない。このような最愛の子らにとて、苦しみはたのしみである。かれらの苦しみは、世俗からときどき受けるなぐさめと喜びである。かれらは、わたしの「摂理」の特別な配慮によって世俗がかれらに対して示す心づかいを見て、悲しむ。その場合、世俗にいるしもべたちは、わたしの「いつくしみ」に余儀なくされて、かれらを尊敬し、かれらを助けるのであるが、かれらはこれを見て悲しむ。そればかりではない。かれらは、永遠の「父」であるわたしから受ける霊的なぐさめさえも、自分自身に対する謙遜と憎しみとによって、軽蔑する。その場合、かれらがなぐきめを軽蔑するのは、わたしの恩寵のたまもの、おくりものを軽蔑するからではなく、霊魂の望みがこれによって味わう満足を軽蔑するのである。この心情をかれらに鼓吹するのは、謙遜の徳である。この謙遜は、聖なる憎しみによって生まれるものであって、自分自身と「わたし」とのまことの認識によって与えられる仁愛の保護者であり、乳母である。このようにして、十字架にかけられたキリストの功徳と傷痕とが、かれらの体と精神とのなかに輝くのである。わたしは、このような人々に、わたしが決してかれらから離れることはないという自覚を与える。これに反して、すでに話したように、他の人々に対しては、去ては戻る。わたしの恩寵をかれらから取りあげるわけではない。わたしの現存の実感を取りあげるのである。しかし、偉大な完徳に達し、自分自身の意志全体に完全に死んだこのきわめて完全な人々に対しては、そのようにはしない。わたしは、わたしの恩寵とわたしがかれらに与えるわたしの現存の体験とによって、絶え間なくかれらの霊魂のうちに安住する。かれらは、愛の心情によってその精神をわたしに一致させたいと望むやいなや、これをおこなうことができる。なぜなら、かれらの望みは、愛の情念によって、わたしとのきわめて大きな一致に達しているので、これを引き離すことのできるものはなにもないからである。かれらにとつて、どんな時、どんな所も、祈りに適している。なぜなら、かれらのまじわりは地上を去て、天にのぼっているからである。かれらは、あらゆる地上的な愛、あらゆる利己的で感覚的な愛を、自分自身から除き去ているので、善徳の梯子によって、わたしが、わたしの「ひとり子」の体のなかに示した三つの階段をのぼり、かれら自身を乗り越えて、天の高いところに達することができるのである。第一階段では、悪習に対する愛の執着の足を取り除く。第二の階段では、心の愛情と秘密とを味わい、善徳に対する愛を宿す。第三の階段ではこの階段は霊魂の平和と静寂との階段であるが自分自身のなかに善徳を経験する。そして、不完全な愛を乗り越えて、偉大な完徳に達する。そこで、わたしの「真理」の教えのなかに、安住することになる。そこで、食卓と食物としもべとを見出し、わたしの「ひとり子」、十字架にかけられたキリストの教えによって、この食物を味わう。かれらの床と食卓は、わたしである。食物はわたしの甘美な愛の「真理」である。事実、かれらは、この栄光の「言葉」のなかで、霊魂をまことに味わうし、霊魂がかれらの食物になるのである。それに、わたしは、まことの神、まことの人であるかれの肉とかれの血とを、食物としてあなたがたに与えた。あなたがたは、この食物を祭壇の「秘蹟」で拝領する。この秘蹟は、わたしが制定したものであり、わたしの「いつくしみ」が、あなたがたが巡礼し旅する期間のために与えたものである。わたしは、それによって、あなたがたが途中で衰弱のためにたおれることがなく、また、あれほど熱烈な愛によってあなたがたのために流した「血」の追憶を失うことがなく、いつも力づけられ、喜びに満ちて旅するのを望んだのである。聖霊、すなわちわたしの神的仁愛は、しもべであって、かれらにたまものと恩寵とを給仕する。この優しいしもべは、もって来るとともにもって帰る。かれらの心地よく愛に満ちた望みをもって来てわたしにささげ、神的な「仁愛」によって与えられるかれらの労苦の報いをかれらにもち帰り、わたしの愛徳の甘美さを味わわせ、満喫させる。これで、「わたし」は食卓であり、わたしの「子」は食物であって、給仕は、「父」と「子」から発する「聖霊」であることがわかったと思う。このように、完全な人々は、その精神のなかに、わたしの現存の意識を抱いている。かれらは、たのしみを軽蔑し、苦しみを望めば望むほど、苦しみをまぬがれて、たのしみを獲得する。なぜであろうか。わたしの仁愛によって燃えさかり、そのなかで、自分自身の意志を焼きつくすからである。それゆえ、悪魔は、かれらの仁愛の笞を恐れて、かれらに近づく勇気がなく、遠くから矢を放つ。世俗は、かれらの体の皮膚を射貫いて傷を負わせたと思ているが、かえって自分自身を傷つけているにすぎない。的を突き差すことのできない矢は、これを放つた者にはねかえるからである。世俗は、その侮辱、迫害、かげ口の矢を、きわめて完全なわたしのしもべたちに放つ。しかし、突き差すところを見つけることができない。かれらの霊魂の庭は閉ざされているので、矢は、これを放つた者に、しかも、その過失の毒によって有毒なものとなって、はねかえるからである。かれらは、あらゆる面から見て、傷つけられることができない。かれらの体を傷つけることはできるが、霊魂を傷つけることはできないからである。霊魂は至福を味わうと同時に苦しんでいる。隣人の罪のために苦しむ。しかし、自分自身に与えられた仁愛の一致と愛情とによって至福を味わっている。かれらは、このようにして、十字架上で至福であると同時に苦しんだわたしの「ひとり子」、けがれなき「子羊」にあやかるものとなる。かれは、拷問を堪え忍びながら肉体の十字架を負い、人類のあやまちを償うために望みの十字架を負つて苦んだ。しかし、かれは至福であった。なぜなら、人性に一致した神性は、苦しみを感じないし、その霊魂に自分をはきり示して、これをいつも至福にしていたからである。それゆえ、かれは至福であると同時に苦しんだ。肉において苦しんだ。しかし、かれのなかにあった「神性」は苦しむことができなかった。その霊魂も、知性の高等な部分ではそうであった。第三と第四の状態に達した、いとしい子らについても同じである。かれらは、その外的十字架と内的十字架とを負うことによって苦しむ。わたしがかれらに許す体の苦痛を堪えることによって、外的十字架を負うし、わたしが受ける侮辱と隣人に及ぶ害悪とを悲しむことによて、望みの十字架を負うのである。しかし、それと同時に至福である。なぜなら、かれらを至福にしている仁愛のたのしみは、奪われることがなく、これによって、喜悦と至福とが与えられるからである。それゆえ、この苦しみは、霊魂を枯らす「刑苦」ではなく、霊魂を仁愛の情念のなかでふとらせる「栄養的苦しみ」である。なぜなら、この苦しみは、善徳を増し、強め、生長させ、証明するからである。したがって、この苦しみは刑罰的ではなく、栄養的である。どんな悲しみも苦しみも、この霊魂を火から取り出すことができない。燃えさかる薪と同じである。かまどのなかですつかり火になっているから、だれもこれを取り出すことができない。この霊魂もこれと同じである。わたしの仁愛のかまどのなかに投げ入れられ、わたしのほかにはなにも残ていない。すなわち、自分の意志はまったくなく、わたしのなかにすっかり燃えつきている。それゆえ、だれも、かれらをわたしから、わたしの恩寵から、引き離すことができない。かれらはわたしと一つになり、「わたし」はかれらと一つになっているからである。かれらは、自分自身のなかに、いつもわたしを自覚している。わたしは、決して、わたしの現存の自覚をかれらから取りあげることはない。すでに話したように、他の人々には、去て戻るとき、そのようなことをする。それも、恩寵を取りあげるのでない。ただ、かれらを完徳にみちびくために、わたしの現存の自覚を取りあげるのである。しかし、かれらがひとたび完徳に達したならば、去たり戻たりする愛のたわむれを止める。これを「愛のたわむれ」と呼ぶのは、愛によて去り、愛によって戻るからである。実際は、「わたし」がそうするのではない。わたしはあなたがたの不動の神である。わたしは動かない。ただ、わたしの仁愛が霊魂に与えるわたしの現存の自覚が、去てまた戻るのである。 

神は、完全な者からその恩寵あるいはその現存の自覚を取りあげることによって離れることはないが、ときどき一致を中断することについて

すでに話したように、このきわめて完全な霊魂たちは、自分のなかにわたしが現存するという自覚を失うことは決してない。しかし、わたしは他の方法でかれらを離れる。そのわけは、霊魂は、肉体と結びついているかぎり、わたしが霊魂に自分を示してこれと結ぶ一致を、引きつづき堪えることができないからである。わたしが離れるのは霊魂の力を考えてのことである。わたしは、霊魂からわたしの恩寵もわたしの現存の自覚も取りあげることはない。ただ霊魂とわたしとの一致を中断するだけである霊魂は、望みから生ずる苦悩にかられて立ちあがり、十字架にかけられたキリストの教えの橋を雄々しく走る。門につくと、その精神はわたしにむかって飛躍する。霊魂は、「血」に養われ、酔わされ、愛の火に燃えて、わたしのなかに永遠の「神性」を味わう。霊魂はこの平和の「大洋」のなかに沈む。そして、その精神は「わたし」のなかにしか動くことがない。霊魂は、まだ死ぬべきものであるけれども、不滅な者たちの幸福をたのしむ。そして、その肉体の重量を感じながらも、精神の軽快さを授かる。それで、肉体はしばしば地面から浮上する。それは、霊魂がわたしと結んだ一致により、肉体がその重量を失て軽くなったためである。しかし、その重力を失つたわけではない。ただ、霊魂のわたしとの一致が肉体と霊魂との一致よりも完全であるために、わたしのなかに集中した精神の力が肉体の重量を地面から浮上させるのである。肉体は、霊魂の愛によって、すっかり打ちひしがれ、じとして動かない。それは、あなたがわたしの被造物のあるものについて言われているのを耳にしたようにわたしの「いつくしみ」が、その「力」によってしかりと支えなければ、生きつづけることができないほどである。 のわたしとの一致の状態においても、霊魂は肉体を離れない。それは、知ておいてほしいが、何人かの死体が復活するのを見るよりも大きな奇跡である。それで、わたしは、しばらくのあいだ、この一致を中断して、霊魂がその肉体の器に戻ることができるようにするのである。つまり、霊魂の内的感情によって中断させられていたその肉体の感覚が、ふたたび戻されるのである。事実、霊魂はその肉体を離れたわけではない。死によってしか、実際に離れることはない。しかし、霊魂の諸能力と感情とは、愛によってわたしのなかに吸収されているので、肉体の意識をもたなくなったのである。この状態においては、記憶はわたしによってしか満たされていない。高くあげられている知性は、わたしの「真理」しか見つめない。知性に従う意志は、知性が観想するものを愛し、これと一致する。これらの能力は、わたしのなかに統合され、わたしのなかに沈められ、わたしのなかに焼きつくされているので、肉体は感覚をまったく失うのである。目は見ても見えず、耳は聞いても聞こえず、舌は話しても話さない。ただ、舌は、わたしの許可によって、わたしの名の栄光と賛美とのために、心に満ちあふれているものを吐露することがある。しかし、このような例外を除くならば、舌は話しても話さず、手はさわってもさわらず、足は歩いても歩かない。すべての肢体は愛のくさりと感情とにしばられ、捕えられている。このくさりは、肢体をすっかり理性に従わせ、霊魂の感情にしつかりと一致させているので、肢体はひとつの声となり、その固有の本性に反して、永遠の「父」であるわたしにむかって叫び、肉体を霊魂から、霊魂を肉体から引き離すように願う。栄光にかがやくパウロとともに、わたしにむかって、「わたしはなんとみじめであろう。だれがわたしの体からわたしを離してくれるのか。なぜなら、そのなかに邪悪な法則があって精神に反抗しているからだ」と叫ぶのである。パウロは、ただ、感覚的欲求の精神に対する反抗について話したのではない。なぜなら、わたしがかれに、「パウロよ、あなたにはわたしの恩寵で十分だ」と言たとき、わたしの言葉がこの点についてかれを安心させたからである。それではなぜ、あのように言たのであろうか。肉体の器にしばられているために、もっと長いあいだ、わたしを見ることができないからである。かれの目は、死ぬまでさえぎられていて、永遠の三位一体であるわたしを、わたしの名に絶えず栄光と賛美をささげている不滅な至福者たちのように、見神のなかで、熟視することができなかった。つまり、かれは、わたしを見ること、わたしをわたしの「本質」のなかで見ることができないために、いつもわたしに背いている死ぬべき人々のなかにいるのを嘆いたのである。パウロ自身も、わたしの他のしもべたちも、わたしを見ないとか、わたしを味わわないとかいうのではない。しかし、かれらは、わたしの「本質」のなかでわたしを見、わたしを味わうのではなく、ただ、わたしの「仁愛」の情愛のなかでそうするのである。この情愛は、わたしの「いつくしみ」が自分自身をかれらに示したいと思うとき、さまざまの方法で示される。しかし、霊魂が死ぬべき肉体のなかにあるあいだに授かる見神は、みな、肉体から離れた霊魂がたのしむ見神にくらべて、暗いことに変わりがない。それで、パウロには、感覚的な印象が精神の目を妨害し、肉体のまったく人間的で粗野な感覚が、知性の目をさまたげて、わたしをまともに熟視することができないと思われたし、かれの意志はしばられていて、望みどおりにわたしを愛することができないように見えたのである。それというのも、この世においては、どんな愛も、その完成に達するまでは不完全だからである。だからと言て、パウロの愛は、わたしの他のしもべたちの愛と同じように、恩寵あるいは仁愛から見て不完全であったわけではない。かれの仁愛は完全であったが、満たされていなかったという意味で不完全であった。かれの苦しみはそこから生まれた。望みが愛するものを所有することによって完全に満たされるときは、苦しみはなくなる。しかし、愛は、死ぬべき肉体のなかにあるかぎり、愛する「者」を完全に所有していないので、苦しむのである。霊魂が肉体から離れると、その望みは満たされる。そして、苦しむことなく愛する。そうなると、霊魂は満たされ、しかも、飽きることがない。なぜなら、満ち足りていても、いつも飢えているし、しかも、飢えに苦しむことがないからである。霊魂が肉体から離れると、その器は、わたしのなかで、真実に満たされる。しかも、霊魂は確固不変であるから、なにを望んでも、かなえられないことはない。霊魂はわたしを見たいと望む。そして、わたしをまともに熟視する。わたしの聖者たちのなかに、わたしの名の栄光と賛美とを見たいと望む。そして、あるいは天使の本性のなかに、あるいは人間の本性のなかに、これを見るのである。 

世の人は、望むと望まざるとにかかわらず、神に栄光をささげることについて

至福な霊魂の見神はいかにも完全で、わたしの名の栄光と賛美とを、永遠の生命に生きている人々のなかだけでなく、死ぬべき被造物のなかにも、観想する。なぜなら、世は望むと望まざるとにかかわらず、わたしに栄光をささげるからである。たしかに、わたしが世から受ける栄光は、世がわたしにささげなければならない栄光ではない。なぜなら、万事にこえてわたしを愛しているわけではないからである。しかし、わたしの名に対する栄光と賛美とが、世から立ちのぼっていることにかわりはない。事実、世の人々のなかには、わたしの慈悲とわたしの潤沢な仁愛とが輝いていて、かれらに時を貸している。わたしは、かれらの過失を罰するために、地にかれらを呑みこむよう命ずる代わりに、かれらの立ち帰りを待ている。わたしは、地にはそのみのりをかれらに与えるよう命じ、太陽にはかれらに光と熱とを放つよう命じ、天には動くよう命ずる。それは、わたしがかれらのために創造したすべてのものが生きつづけることができるようにするためである。わたしは、かれらに慈悲と仁愛とを注ぐ。かれらから、あやまちを理由にこれらのたまものを取りあげないだけではなく、そのうえ、罪人にも義人にも、むしろしばしば義人によりは罪人に、これを与えている。なぜなら、義人は苦しむ覚悟ができているので、わたしはかれらに天上の宝をゆたかに与えるために、地上の宝をうばうからである。かれらに対しては、このように、わたしの仁愛と慈悲とがかがやきを放つのである。あるときはまた、世のしもべたちが、わたしのしもべたちに迫害を堪え忍ばせることがある。これによって、かれらの忍耐と仁愛との善徳をはっきり示させ、苦しみを堪え忍ばせ、謙遜で絶え間ない祈りをささげさせる。それは、わたしに対する栄光と賛美とになるのである。要するに、悪人は、望むと望まざるとにかかわらず、わたしを侮辱しようと考えているときでさえ、いつも、わたしに栄光をささげるのである。 

悪魔はどのように栄光と賛美とを神にささげるかについて。

の世で、悪人がわたしのしもべたちの善徳を増強する役目を果たすように、悪魔も、地獄で、わたしの刑吏の役目、増強者の役目を果たす。悪魔は、亡びた人々に罰を加えるし、この世で、最終目的である「わたし」に到達するために遍歴しているわたしの被造物の善徳を増強する。悪魔は、多くのいやがらせやさまざまの誘惑を使つて、かれらの善徳を練りきたわせるし、ある人々にかれらを侮辱させ、あるいはまた、かれらから盗み取らせる。それは侮辱または盗みによる害だけをめざしているのではなく、かれらから仁愛を奪うことをめざしているのである。悪魔は、これによって、わたしのしもべたちから奪おうと考えているが、実は、かれらの忍耐と力と堅忍との徳を強化し、証明している。したがって、悪魔は、わたしの名に栄光と賛美とをささげるし、かれらにおいて、わたしの真理が成就する。わたしは、永遠の「父」であるわたしの栄光と賛美とのため、そしてまた、かれらにわたしの美を分け与えるために、かれらを創造した。しかし、かれらは、傲慢によってわたしに謀叛して、わたしを見ることができなくなった。しかし、永遠の「真理」であるわたしは、かれらを、わたしのしもべたちの善徳を練りきたえる道具となすとともに、自分自身のあやまちによって永遠の亡びに落ちる人々、または、煉獄の苦しみを通る人々に対する刑吏となしたのである。あなたもわかるように、わたしの真理は、かれらにおいて、真実に成就する。かれらは、永遠の生命の市民としてではなく、なぜなら、そのあやまちによってこれを失たからしかし、わたしの刑吏として、わたしに栄光をささげる。わたしは、かれらによって、わたしの正義を、亡びた人々と煉獄の霊魂とに対して示すのである。 

霊魂は、この世を去たのち、神の名の栄光を、あらゆる被造物のなかに、完全に見ることについて。この霊魂は、望みの苦痛を感じることがなく、ただ望みしかもたなくなることについて

ところで、あらゆる被造物のなかに、悪魔のなかに、そして理性をそなえた被造物のなかに、わたしの名の栄光と賛美とがかがやいているのを、だれが見、玩味するであろうか。肉体を離れて、その最終目的であるわたしに到達している霊魂は、それをはっきりと見る。そして、これを見ることによって、真理を知る。この霊魂は、永遠の「父」であるわたしを見ることによって、わたしを愛する。わたしを愛することによって、満たされる。満たされて真理を知る。真理を知ることによって、その意志はわたしの意志のなかに安定し、そこを住み家と定める。その結果、こののち、なにものも、この霊魂に苦しみを与えることができない。なぜなら、わたしのなかに、所有したいと望んでいたすべてのものを所有するからである。この霊魂は、まず第一に、わたしを見ること、わたしの名の栄光と賛美とを見ることを望んでいた。ところで、この栄光が、さきに話したように、わたしの聖者たちのなかに、至福な霊たちのなかに、他の被造物のなかに、悪魔のなかに、完全に実現しているのを見る。わたしに加えられる侮辱を見ても、以前にはそれについて大きな悲しみを感じていたのに、今は悲しみを抱くことがない。ただ、苦しみをともなわない同情を抱くだけである。この霊魂は、罪人を愛する。そして、わたしに、世にあわれみを注ぐよう、愛徳の情念によって祈る。この霊魂にとつて、苦しみは終わった。けれども仁愛は終わらない。わたしの「ひとり子」である「言葉」にとてもまた、十字架の上で、その生命といっしよに、いたましい望みの苦しみが終わった。「言葉」は、この苦しみを、わたしが世に送つた最初の瞬間から、あなたがたの救いのために死去した最後の瞬間まで、感じ、堪え忍んだのであった。「言葉」においては、あなたがたを救いたいという望みはいつもつづいている。しかし、苦しみはそうではない。もしも、わたしがかれによってあなたがたに示した仁愛の感情が、そのときあなたがたに対して終止したとしたら、あなたがたは存在しないであろう。なぜなら、あなたがたは、わたしの愛によって造られたからである。それでもし、わたしがわたしの愛をわたしの方に引き取り、あなたがたの存在を愛さなかったならば、あなたがたは存在しないであろう。しかし、わたしの愛は、あなたがたを創造し、あなたがたを保ち守る。そして、肉となった「言葉」がわたしと一つであるように、わたしはわたしの「真理」と一つであるから、望みの苦痛は終わったけれども、望みの愛は終わらない。これでわかってほしい。聖人たちと永遠の生命を所有するすべての霊魂は、霊魂の救いに対する望みを抱いているけれども、その苦痛を感じることができない。かれらの苦痛は死のとき終わったけれども、仁愛の感情は終わらない。かれらは、けがれなき「子羊」の血に酔い、隣人に対する仁愛をまとい、十字架につけられたキリストの血にすっかりぬれて、狭い門を通る。そして、平和の「大洋」であるわたしのなかで、不完全すなわち不満から解放されて、完全に到達し、そこで、あらゆる善に満たされるのである。

聖パウロが至福者たちの栄光に魂を奪われたのち、肉体から解放されるのを望んだことについて。-第三と第四の状態に達した者は同じように望むことについて。

パウロは、わたしがかれを第三の天、すなわち三位一体の高嶺にあげたとき、この幸福を見、味わった。そこで、わたしの「真理」を味わい、認識し、聖霊を完全に授かった。そこで、わたしの「真理」、肉となった「言葉」に関する教えを学んだ。そこで、パウロの霊魂は、実感と一致とによって、永遠の「父」であるわたしをまとた。至福者たちが永続する生命をまとうように。かれの霊魂は肉体をはなれたわけではなかった。しかし、わたしの「いつくしみ」は、かれを、永遠の三位一体であるわたしの深淵のなかで、選ばれた器にしたいと望み、かれにわたしを脱がせた。なぜなら、わたしの名のために苦しませたかったのに、わたしのなかでは苦しむことができないからである。それゆえ、わたしは、こののち、十字架につけられたキリストをその知性の対象となすように勧め、かれにその教えをまとわせ、仁愛の火である聖霊の寛仁によってかれをしばり、つないだ。すると、かれは、わたしの「いつくしみ」によって改造され、準備された器のように、わたしのなすことに少しも抵抗せずつぎのように言うだけであった。「主よ、わたしになにをしてほしいのですか。わたしにしてほしいことを教えてください。その通りにいたします」。そこで、わたしはかれの目に十字架につけられたキリストを示し、かれにわたしの「真理」の教えをまとわせた。わたしは、まことの痛悔の光明によってかれを完全に照らした。この痛悔はわたしの仁愛の上にきずかれたものであり、これによって、かれの過失は消された。そして、かれは十字架につけられたキリストをまとた。かれはこれにきわめて強く愛着し、なにものもこれを脱がせることができなかった。悪魔の誘惑も、しはしばかれに反抗しかれを苦しめた肉も。わたしは、「いつくしみ」によって、かれがこの肉に苦しめられるのを許した。これによって、功徳においても恩寵においても成長させ、三位一体の崇高を味わわせて、謙遜を守らせたかったからである。かれは、この十字架にかけられたキリストというを、すなわち、その教えを、どんなことがあっても脱ぐことがなかった。かえって、そのため、出会つた艱難をことごとく堪え忍び、これに深く託身した。そして、これを脱ぐ代わりにその生命を犠牲にし、この衣をつけたまま、永遠の神であるわたしのもとに帰た。このようにして、パウロは、肉体の重荷に圧倒されないでわたしをたのしむことが、どういうことであるかを味わった。なぜなら、わたしは、かれをその肉体から離さないで、一致の実感によって、これを味わわせたからである。それで、十字架につけられたリストの服をまとつて、われに返つたとき、かれがわたしのなかで味わい、見た完全な愛、肉体を離れた聖者たちが味わっている完全な愛にくらべて、自分の愛はいかにも不完全であるように思わざるをえなかった。肉体の重荷が自分に反抗していて、霊魂が死後に与えられる望みの満足という大いなる完全性を妨害しているように思われた。かれの記憶は不完全で弱いものに思われた。なぜなら、聖人たちのようにわたしを真実に保有し、抱擁し、味わうのを妨げているからである。そのうえ、この死すべき肉体のなかに生きているかぎり、すべてが精神と対立し、これに反抗する悪い律法のように思われるのであった。この反抗は罪によるものではなかった。わたしがかれに、「パウロ、おまえはわたしの恩寵で十分だ」と言て、安心させたとおりである。それは、むしろ、わたしの 本質を見ることができる精神の完全性に対する妨害である。肉体の律法と重荷とがこの見神をさまたげるので、パウロは叫んだのである。「わたしはなんて不幸な人間であろう。この体からだれがわたしを救てくれるであろう。邪悪な律法があってわたしの五体をしばり、わたしの精神に反抗しているからだ」。これは真理である。事実、記憶は肉体の不完全さによって妨害される。知性はその重みに阻害され、しばられて、わたしの本質のなかにあるとおりの「わたし」を見ることができない。意志は、しばられていて、さきに話したように、肉体の重荷にさまたげられて、永遠の神であるわたしを、苦しまないで味わうことができない。それゆえ、パウロが、その体のなかに一つの律法があって精神に反抗していると言つたのは、もっともである。わたしがあなたに話した第三と第四の状態に達して、わたしと完全な一致を結んでいるわたしのしもべたちも同じである。かれらもまた、パウロとともに、肉体から解放されること、離れることを叫び求めているのである。 

霊魂はいくつかの理由によって肉体を離れたいと望むことについて。それができなくとも、神の意志から離れることがなく、これとその他の苦しみとを、神の誉れのために堪え忍ぶことを誇りに思うことについて。

この人々は、死を苦にしない。かえって、これを望んでいる。かれらは、完全な憎しみをもって、その肉体と戦て来た。それで、霊魂と肉体とを自然に結ぶ情愛を失ている。自分の肉体の生命に対する憎しみとわたしに対する愛とによって、自然の愛を打倒している。かれらは死を望んでいる。それで、言うのである。「だれがわたしをこの体から解放してくれるであろうか。わたしはこの体から解放されて、キリストといっしよになるのを望む」と。そして、パウロとともに、「死ぬのは望むところであるが、生きるのは忍耐しなければならない」と言うのである。このように完全な一致に高められた霊魂は、わたしを見たいと望むし、わたしに栄光と賛美とがささげられるのを見たいと望む。それでも、その肉体の雲に戻らなければならない。別の貢某で言うならば、その肉体をあらためて意識しなければならない。この意識は、その愛の望みによってわたしのなかに引き込まれていた。すなわち、その肉体の感覚は、肉体によりも完全にわたしに一致した霊魂の意志の力によって、引き込まれていた。ところが、肉体はこのような一致をいつまでも堪えることができない。それで、霊魂はこの一致を断たなければならないし、わたしはこの霊魂から離れなければならない。しかし、それによって、わたしは恩寵と現存とを取りあげるわけではない。これは第二の状態についてあなたに話したとき説明したとおりである。しかしながら、わたしは、もっと完全な一致を結ぶために、もっとゆたかな恩寵をたずさえて、この霊魂のもとに戻る。この霊魂に、わたしの真理をもと深く、もっと高く認識させて、わたし自身を示すために、そのもとに戻るのである。わたしはこれまで話した方法で身を引き、肉体はあらためて自分を意識するのであるが、この霊魂は、わたしがこれとおこなった一致、この霊魂がわたしとおこなった一致が終わって、その肉体に戻たとき、わたしとの一致を失い、わたしに栄光をささげる不滅者たちのまじわりを離れて、いかにもみじめにわたしを侮辱する人々のなかに戻り、被造物がわたしに背くのを見ると、生きることがいかにも辛く感じる。これこそ、この霊魂が堪え忍ばなければならない望みの十字架である。この苦しみが、わたしを見たいという望みに加わるために、生きることが堪えがたく思われるのである。しかしながら、この霊魂の意志は自分自身のものではなくなっているし、愛の情念によってわたしと一つになっているので、わたしが欲するもの以外はなにも欲しないし、望まない。わたしのもとに来たいと望みながら、苦しみのなかに残り、とどまることがわたしの意志であるならば、これを喜ぶ。それは、わたしの名にもっと大きな栄光と賛美とをささげるためであり、霊魂の救いにもっとよく協力するためである。この霊魂は、なにごとにおいても、わたしの意志に反することがない。むしろ、熱い望みにかられ、十字架につけられたキリストをまとて、その教えの橋を渡り、屈辱と苦しみとを誇りながら、駆けて行く。この霊魂は苦しめば苦しむほど喜ぶ。苦難によって試されれば試されるほど、これによって、死にたいという望みが静められる。そして、苦しみたいという望みと意志とは、しばしば、肉体を離れたいという望みから生ずる苦痛をやわらげるのである。それゆえ、わたしのしもべたちは、第三の状態について述べたとき話したように、我慢して苦しみをむかえるだけではない。わたしの名のために、多くの苦難を堪え忍ぶのを誇りに思う。このしもべたちにとつて、苦しむのはたのしみである。苦しまないことこそ苦しみである。かれらは一つの恐れしか抱かない。それは、わたしがこの世でかれらの善業に報いを与えはしないかということであり、わたしがかれらの望みの犠牲を喜ばないのではないかということである。かれらの霊魂は、苦しみにおちいるやいなや、そして、わたしから苦難を授かるやいなや、自分が苦しみと十字架にかけられたキリストの恥辱とをまとているのを見て、喜びを取り戻す。たとえ苦しまないで善徳を実行することができるとしても、それを望まないであろう。十字架上で、キリストといっしよに、喜びを見出したいのである。苦しみによって善徳を獲得し、永遠の生命に入りたいのである。なぜであろうか。「血」のなかに沈められて燃え立たされ、そこで、わたしの「仁愛」の火を見出したからである。しかも、この仁愛は「わたし」から発する火であって、その精神と心とを奪い、かれらの望みの犠牲を焼きつくすのである。そうなると、かれらの知性の目は高くあげられ、わたしの「神性」を観想して、意志をやしない、これを引きつれて、わたしと一致させる。この見神は、わたしを愛し、真実にわたしに仕える霊魂にわたしが授ける注賦恩寵である。 

この一致の状態に達した者は、注賦された超自然的光明により、神の特別な恩寵によって知性が照らされうることについて―霊魂の救いのためには傲慢な学者の意見に従うよりは、聖なる良心をもつ謙遜な人の意見に従うほうが、もっと有益であることについて

トマスは、その知性の目を照らしたこの光明によってわたしを見、かずかずの学識の光明を獲得した。アウグスティヌスも、ヒエロニムスも、他の博士たちも、わたしの聖人たちも同じであった。かれらは、わたしの「真理」に照らされ、暗黒のなかで、わたしの「真理」を理解し、認識した。かれらは聖書をあきらかに理解した。聖書は、これを理解することのできない者には暗く見えるが、それは聖書の欠陥によるのではなく、これを理解すべき人々の欠陥による。それゆえ、わたしは、すでに話したとおり、以上のような燈明を送つて、盲目で粗野な精神を照らし、かれらの知性の目を高めて、暗黒のなかで「真理」を認識させたのである。かれらの犠牲を焼きつくした火であるわたしは、かれらをわたしのなかに抱き取て、かれらに、自然的光明ではなく、超自然的光明を与えた。かれらは、この光明を暗黒のなかで授かり、それによって、わたしの「真理」を認識した。この「真理」は、以前には暗く思われていたが、いまは、きわめて完全な光明によって、粗野な精神にも、明敏な精神にも、また、どんな人にも、明白に示される。そして、各人はその能力に応じて、また、わたしを知ろうとする心構えに応じて、これを授かる。なぜなら、わたしは心構えを考慮するからである。要するに、知性の目は、恩寵によって注賦された光明を授かった。この光明は自然の光明よりも高等なもので、これによって、博士たちと他の聖人たちは、暗黒のなかに光明を認めた。このようにして、暗黒から光明があらわれた。それというのも、知性は聖書が出来る前に存在したのであって、このようにして照らされた知性から学問が生まれたからである。知性は見ることによって真理を識別するのである。この光明によって、聖なる族長たちは識別し、理解したし、預言者たちは、わたしの「子」の誕生と死とを預言した。使徒たちは、聖霊降臨のとき、自然の光明の上に授かったこの光明によって照らされた。福音著者、博士、公奉者、乙女、殉教者もみな、この完全な光明によって照らされたのであった。しかし、各人はちがった方法でこれを授かった。すなわち、各人の救いの要求、あるいは他の被造物の救いの要求、あるいはまた聖書を説明する要求に応じて、この光明を与えられた。聖博士たちは、この光明に照らされ、その学識によって、わたしの「真理」の教え、使徒たちの説教、福音の教えを解説した。殉教者たちは、この光明に照らされ、その血によって至聖なる信仰、「子羊」の「血」の実と宝とを証した。乙女たちは、この光明によって、仁愛の情念と純潔とを守た。服従者たちは、この光明に照らされて、「言葉」の服従を証す。すなわち、服従の完全性を示す。この服従の完全性は、わたしの「真理」が、わたしの命令を実行するために、十字架の屈辱的な死におもむいたとき、かがやかしく示されたのであった。この光明は、旧約と新約とのなかにかがやいている。旧約においては、聖なる預言者たちの預言がこれを示している。かれらは、すでに話したように、自然的光明の上にわたしの恩寵によって注賦された光明に照らされた知性の目でこれを見、これを知たのである。新約においては、福音的生活はなにによってキリスト教徒に教示されたであろうか。この同じ光明によってである。新しい律法は古い律法を破壊しなかった。両者はたがいに結合している。全く同一の光明から発しているからである。ただ、恐れだけの上にきずかれた古い律法の欠点を除いただけである。わたしの「ひとり子」、「言葉」が愛の律法をたずさえて来たとき、古い律法に愛を与えてこれを完成した。かれは罰に対する恐れを除いて、聖なる恐れだけを残した。それゆえ、わたしの「真理」は、律法を廃止しないことを弟子たちに示すために、「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためであちと語った。わたしの「真理」のこの言葉は、つぎのように言いかえることができる。「いまや律法は不完全である。しかし、わたしは、わたしの『血』によってこれを完成するであろう。律法から罰に対する恐れを除き、これを愛と聖なる恐れとの上にきずいて、その欠陥を補い、これを完成するであろう」。それが真理であることは、なにが証明するであろうか。恩寵によって与えられる光明である。この光明は、自然の光明の上にこれを受けたいと望む者には与えられたし、こののちも与えられる。聖書から発する光明はすべてこの光明から発したし、こののちも発する。無知な者と傲慢な学者とは、これを見ることができない。なぜなら、かれらの傲慢と自愛心の雲とがこの光明をおおい、かくすからである。かれらは聖書の意味を理解しないで、その文面だけを理解する。かれらは書物を読みあさる結果、文面しか味わわない。したがって聖書の真髄を味わうことができない。なぜなら、聖書を著作した光明、その意味をあきらかにする光明をもたないからである。かれらは、教養がなく聖書について知識のない多くの人々が、長いあいだ研究したかのように、真理の知識にあかるいのを見ると、驚きあやしむ。しかし、それは少しも不思議ではない。かれらは学問の生まれる光明の主要なみなもとを所有しているからである。ところが、傲慢な人々はこの光明を失ているので、わたしの「いつくしみ」も、わたしのしもべたちに恩寵によって注賦されたこの光明も、見ること認識することができない。それゆえ、霊魂の救いについて意見を求めるには、その多くの学識によって傲慢になっている博学者よりは、まっすぐで聖なる良心をもつ謙遜な一人の無学者に依頼するのがはるかに適当であると言いたい。前者は自分のもっているものしか与えることができないし、多くの場合、暗黒のなかに生きているために、この暗黒のなかでしか、聖書の光明を分かち与えることができない。これに反し、わたしのしもべたちは、霊魂の救いを望み、これに飢えているので、自分自身のなかに所有している光明を与えるにちがいない。いとしいむすめよ、以上のことを語たのは、この一致の状態が完全であることをあなたに認識させるためである。この状態においては、知性の目は超自然的光明を与えるわたしの「仁愛」の火に奪われているし、この光明によってわたしを愛する。なぜなら、愛は知性のあとに従うからである。知れば知るほど愛するし、愛すれば愛するほど知る。愛と知識とはたがいに養い合うのである。肉体を離れた霊魂は、この光明をもて、永遠の見神に到達し、そこでまことにわたしを見、わたしを味わう。これは、霊魂がわたしのなかで受ける至福について述べたとき、話したとおりである。人間が、死ぬべき者でありながら、不滅者の喜びを分かつきわめてすぐれた状態は以上のとおりである。霊魂は、ときどき、「わたし」とのきわめて密接な一致に達し、まだ肉体のなかにいるのか、これを去たのかを知るのに、苦しむ。わたしとの一致は、この霊魂に永遠の生命の前味わいを与える。この霊魂は自分の意志を死滅させることによって、わたしとの一致を達成した。わたしと完全に一致するには他に方法がないからである。それゆえ、霊魂はその我意の地獄から解放されたとき、永遠の生命を味わうことができる。しかし、感覚的意志によって生きる者は、地獄の前味わいをおこなうのである。 

いくつかの真理の要約―神がこの霊魂に、あらゆる被造物と聖なる教会のために祈るよう求めることについて

あなたは、どのような方法で、あなた自身教えを利用することができるか、また隣人にこれを利用させることができるか、そしてまた、わたしの「真理」の認識に到達することができるかを、永遠の「真理」である「わたし」によって、知性の目で見、心の耳で聞くことができた。はじめから話しているように、あなたは、あなた自身の認識によって、「真理」の認識に到達する。もっとも、それは、あなた自身の単独の認識によってではなく、あなたのなかにおけるわたし自身の認識に加えられ、これとひとつになった自己認識によってである。その結果、あなたは、謙遜と自分に対する憎しみと侮りとを見出し、また、あなたのなかにわたし自身を認識することによって、わたしの「仁愛」の火を発見した。それによって、あなたは隣人を愛し、いつくしむようになり、教えによって、そして誠実で聖なる生活の手本によって、これに奉仕するようになった。わたしはまたあなたに、「橋」を示した。すなわち、それがどのように架けられたかについて、霊魂の三つの能力を象徴する全般的な三つの階段を昇らなければならないことについて、もしも霊魂が三つの階段を昇り、三つの能力がわたしの名において集約されないならば、だれも自分のなかに恩寵の生命を保つことができないことについて、説明した。ついで、わたしはあなたに、この三つの階段を、わたしの「ひとり子」の体に象徴される霊魂の三つの状態として、もっと特殊な説明をおこなった。そのとき話したように、わたしの「ひとり子」は、その体を梯子に仕立てた。わたしは、その階段として、貫かれた足、開かれた脇腹、そして口を示した。この口のなかで、霊魂は、わたしがあなたに説明した方法で、平和と静安とを味わうのである。わたしはあなたに、わたしの愛のなかに見出すたのしみのためにわたしを愛する人々が、不完全な奴隷的恐れや不完全な愛におちいっていることを示した。最後に、わたしは、口の平和に達した人々について述べ、この第三の状態の完全性について説明した。かれらがそこに達したのは、熱烈な望みをもって、十字架につけられたキリストの橋を渡ったからである。すなわち、霊魂の三つの能力を結集し、そのすべての活動をわたしの名のなかに統一することによって、全般的な三つの階段を昇り、その上、三つの個別的な階段を、不完全な状態から完全な状態へと昇ったからである。これは、さきにもっと詳しく説明したとおりである。わたしはあなたに、そのときかれらがどのように真理のなかを走つたかを示した。そして、あなたに、霊魂の完全性を味わわせ、諸善徳の香りを嗅がせた。それと同時に、霊魂が、自分を知りわたしを知るためにその時間を用いないならば、完全になる前におちいる危険のある錯誤について、警戒をうながした。わたしはまた、わたしの「真理」の教えの橋を渡ろうとしないために、河におぼれる人々の悲惨について述べた。わたしがこの橋を架けたのは、あなたがたがおぼれるのを防ぎたいからである。ところが、かれらは、狂人のように、世俗の悲惨と汚物とのなかにおぼれるのを選ぶのである。このようなことをあなたに説明したのは、あなたのなかに、聖なる望みの火を、そして、霊魂の亡びに対する同情と悲しみとを、かき起こすためである。そうすれば、あなたは、悲しみと愛とにかられ、あなたの涙と汗とによって、すなわち、熱烈な望みの火とともにささげる謙遜で絶え間ない祈りの涙によって、わたしに強要するであろう。わたしは、ただあなたのためではなく、他の多くの被造物とわたしのしもべたちとのために、これを語た。あなたと他のしもべたちとは、みないっしよに、わたしの仁愛にかられて、世とあなたの切なる祈りの対象である聖なる教会の神秘体とにあわれみを注ぐようにわたしに祈り、強要せざるをえないからである。あなたも記憶していると思うが、そのとき話したように、わたしはあなたの労苦をねぎらて、あなたの望みをかなえるであろう。すなわち、聖なる教会の改革のために、善良で聖なる牧者を与えて、あなたの痛ましい望みにこたえるであろう。それも、すでに話したように、戦争や、剣や、残虐行為によってではなく、平和と静安とのなかで、わたしのしもべたちの涙と汗とによって、そうするであろう。事実、わたしはあなたがたを、聖なる教会の神秘体のなかで、あなたがたの霊魂と隣人の霊魂とのために働かせるために送たのである。あなたがたにおいては、善徳をたがやすがよい。隣人と聖なる教会においては、手本と教えによって、そして、この教会とすべての被造物とのために「わたし」にささげる絶え間ない祈りによって、わたしが説明した方法で、隣人に対する徳行をはげむがよい。すでに話したように、隣人との関係においてこそ、あらゆる徳行と過失とが生まれ、増大するからである。それゆえ、わたしは、あなたがたが隣人に有益であることを望んでいる。これによって、あなたがたのぶどう畑に実を結ばせることができるのである。霊魂の救いのために、かおり高い祈りの香気をわたしの方に立ちのぼらせてほしい。なぜなら、わたしは世にあわれみを注ぎたいからである。わたしは、この祈り、この汗、この涙によって、「浄配」である聖なる教会の顔を洗いたい。わたしは、さきに、この教会を、顔がよごれ、癩者のようになった婦人にたとえた。これは、この浄配のなかに養われている聖職者とすべてのキリスト教徒との過失によって生じたものである。この過失については、別のところで話したい。 

 この霊魂は涙の種類とその実とについて教えて下さるよう神に願うことについて

そのとき、果てしない望みに苦悩していたこの霊魂は、神との一致によって、また、甘美な第一の「真理」について聞いたこと、味わったことによって、酔わされて立ちあがっていた。自分たちの恩者と神の「仁愛」の情愛とを知らない被造物の盲目を見て、悲しみに打ちひしがれていたけれども、ひとつの望みによって、喜びに満たされていた。もしも神が世にあわれみを注ぐことを望むならば、他のしもべたちといっしよになにをしなければならないかを、神がこの霊魂に教えたとき、神の「真理」からひとつの約束を受けていたのである。それで、この霊魂が一致を保っていた甘美な「真理」にその知性の目をあげ、神がこの霊魂に語た霊魂の諸状態について説明をうかがいたいと願っていた。この霊魂は、涙によってこれらの状態に達することができるとさとつていた。それで、「真理」から、涙の種類について、それがなんであるかについて、どこから発するかについて、教えを受けたいと望んでいた。真理は「真理」そのもののなかでしか認識することができないのであるから、この霊魂は 「真理」にたずねるのであった。しかし、知性の目によってしか、「真理」のなかになにかを認識することができない。それで、教えを求める者は、知りたいという望みと信仰の光明とによって、「真理」をめざしてのぼり、知性の目と信仰の瞳とによって、真理の対象を見つめなければならない。 霊魂は、神的「真理」すなわち神から授かった教えが自分の精神に存することを知り、霊魂の諸状態と涙の実とについて認識したいと願ていたものごとを知る手段は、この神の「真理」以外にないことを知てからは、果てしなく大きな望みによって、自分自身を乗り越えていた。生きた信仰の光明に照らされたその知性の目は、永遠の「真理」の上に大きく開かれ、そのなかに、願ていたことに関する真理を見、そして認識した。神はこの霊魂にご自分を示された。神の「いつくしみ」は、この霊魂の熱烈な望みに応じられ、その願いに答えられた。 

霊魂が祈りによって神と一致することについて。カタリナの霊魂が脱魂のなかで神に四つの願いをささげたことについて。

すると、甘美な第一の「真理」は語られた。ーいとしいむすめよ、あなたは涙のいろいろな種類とその実とについて教えを受けたいと願た。わたしはあなたの望みを軽んじなかった。あなたの知性の目をよく開くがよい。そうすれば、あなたに説明した霊魂の種々の状態を通して、恐れから生まれる不完全な涙のあることを示そう。最初に、邪悪な人々の涙について話したい。それは亡びの涙である。第二は、恐れの涙である。この涙は、罪に課せられる罰に対する恐れによってしか行動せず、恐れのあまり泣く人々によって流される。第三は、罪から脱け出てわたしを味わいはじめ、優しく泣き、わたしに仕えはじめる人々の涙である。すでに話したように、かれらの愛は不完全であるために、その涙もまた不完全である。第四は、隣人に対する完全な愛に達し、自分の利益を少しも考えないでわたしを愛する人々の涙である。この人々も泣くけれども、その涙は完全である。第五は、第四と結びついている。それは、きわめて優雅に流される甘美な涙である。これについては、もっとくわしく説明したい。そのうえ、目からあふれ出ない涙、火の涙について話したい。それは、たまたま、泣きたいと望んでも、それができない人々を満足させるためである。それから、あなたに知てほしいのは、同じ霊魂が、この種々の状態を経験することができるということである。それというのも、霊魂は、恐れと不完全な愛とから立ちあがって、最後の状態の完全な愛、一致の愛に達することができるからである。それでは、これから、これらの涙について、説明をはじめたい。

霊魂の種々の状態に対応する涙の種類について

ところで、涙はみな心から発することを知ってほしい。なぜなら、体の器官のなかで、目 ほど心を満足させるものはないからである。心が苦しむときは、目はこれを表現する。その悲しみが官能的であるならば、心は目に死を生む涙を流させる。なぜなら、この涙は、みだらな愛を抱く心から、しかも「わたし」の外で、発するからである。ところで、みだらな愛はわたしに背くし、それから発する悲しみも涙も死にいたるものである。もっとも、過失と涙との重さは、愛のみだれの程度によって、大小の差がありうる。しかし、これまで話したこと、のちに話すことは、死にいたる涙、すなわち第一の涙についてである。つぎに、生命を与えはじめる涙、すなわち、自分の過失を知って、罰を恐れるあまり、泣 き始める人々の涙に注目してほしい。このような心の涙は、感性から発する。霊魂は、その過失によってわたしに加えた侮辱を思って、この過失に対する完全な憎しみを抱いているのではなく、罪を犯したのち加えられる罰による心の悲しみに動かされているだけである。そして、目は涙を流すとき、この心の悲しみをいやそうとしているにすぎない。しかし、霊魂は、善徳を修めるにつれて、徐々に恐れから解放される。なぜなら、恐れだけでは永遠の生命を与えるのに十分でないことを知るからである。これは、霊魂の第二の状 態と関連して、あなたに説明したとおりである。要するに、霊魂は、愛によって、自分自身 の認識と自分のなかにあるわたしの「いつくしみ」との認識に上昇し、わたしのあわれみに 希望を抱く。この希望は心に喜びを与える。わたしの神的あわれみに対する希望から生まれるこの喜びに、過失に対する痛悔がまじる。すると、目は涙を流しはじめる。この涙は心の泉から湧き出る。しかし、霊魂は高い完全性に達していないために、その流す涙にしばしば 感性的なものがまじっている。あなたは、「どういうわけで」とたずねるかもしれない。わたしは答えたい。それは、自愛心の根が抜き去られていないからである。わたしは、感覚的愛について言っているのではない。なぜなら、それはわたしが話した方法で克服されているからである。しかし、霊的な自愛心が残っている。そのため、霊魂はなぐさめを利己的に要求する。それが不完全であることは、くわしく説明したとおりである。霊魂は、また、霊的な愛によって愛している被造物から与えられるなぐさめを要求する。それで、霊魂が、愛するもの、すなわち内外のなぐさめ──「わたし」から来る内的ななぐさめ、あるいは被造物から来る外的ななぐさめ──を奪われ、誘惑あるいは人々の迫害の的となっているときは、その心は苦しむ。するとたちまち、目は心の苦しみと悲しみとに共感して泣きはじめる。それは霊魂が自分自身に対する愛と同情とによって流す涙である。霊的な同情によるものであることはたしかであるが、自愛心と結びついていることに変わりはない。霊魂はまだその我意を完全に踏みにじり、拒否していない。そのため、この官能的涙、すなわち霊的情欲の涙を流すのである。しかし、霊魂は、自分自身の認識の光明を高め、修練を積むにつれて、自分自身に対して侮蔑の念を抱くようになる。それと同時に、わたしの「いつくしみ」の認識に達し、その愛は燃えさかる。そうなると、その意志をわたしの意志に一致させ、適合させはじめる。そして、喜びと同情とを感じはじめる。そのとき霊魂が感じる喜びはわたしを愛する喜びであり、 同情は隣人に対する同情である。これは第三の状態と関連して説明したとおりである。そうなると、目は、心を満足させるために、「わたし」とその隣人とに対して抱く仁愛のなかで泣き、わたしに加えた侮辱と隣人の亡びとを、真心の愛によって悲しむ。霊魂は、自分自身の苦しみや損失を悔やまない。自分のことを考えず、ただ、わたしの名に栄光と賛美とをささげることしか考えない。そして、その望みによる苦悩のなかで、わたしの「ひとり子」、汚れなく、謙遜で、忍耐深い「子羊」にあやかるために、至聖なる十字架の食卓で飢えを満たすことが許されるのを喜ぶ。すでに話したように、この「子羊」こそわたしが架けた橋である。霊魂は、この橋を、わたしの甘美な「真理」の教えにしたがって、きわめて心地よく歩いたのち、わたしがその救いのために送ったすべての苦しみ、すべての悩みを、まことの心地 よい忍耐をもって堪えながら、この「言葉」を通ったのである。こののちは、これらの苦しみや悩みを雄々しく受諾し、選り好みをしない。すでに話したように、これを忍耐をもって甘受するだけではなく、喜び勇んでむかえる。そして、わたしの名のために迫害されるのを光栄に思い、なにか苦しむことがありさえすればしあわせである。そうなれば、霊魂は、どんな言葉も言いあらわすことのできないほど大きな喜びと静安とに満たされる。霊魂は、私の「ひとり子」の教えによって、この「言葉」を通り、その知性の目をもって第一の甘美な「真理」であるわたしを注視すると、自分が見たものを認識するようになる。これを認識することによってこれを愛する。その愛は知性のあとに従い、あなたがその人性に一致しているわたしの永遠の「神性」を味わう。そうなると、霊魂は、平和の「大洋」であるわたしのなかにいこい、その心は愛の情念によってわたしに一致する。これは第四の一致の状態について話したとき述べたとおりである。永遠の「神性」であるわたしの現存の実感のなかで、目は心地よい涙を流しはじめる。この涙はまことに乳であって、霊魂はまことの忍耐のなかでこれを飲む。この涙は香り高い香油のように、きわめて心地よい芳香を放つ。ああ、いとしいむすめよ、実際に嵐の海を渡って、平和の「大洋」であるわたしに達し、わたしの至高かつ永遠の「神性」の海のなかで、心の器を満たすことのできるこの霊魂は、どんなに栄光にかがやくことであろうか。それゆえ、心が流れ入る目は、たくみに心を満足させ、涙を流すのである。これが最後の状態である。そこで、霊魂は至福であると同時に悲歎にくれる。至福である のは、わたしとの一致を成しとげ、わたしの現存を実感し、神の愛を味わっているからであ る。悲歎にくれるのは、自分自身とわたしとの認識のなかで観想し、玩味し、それによって この最後の状態に達したわたしの「いつくしみ」と「偉大さ」とに対して加えられる侮辱の ためである。きわめて心地よい涙を流させるこの一致の状態は、自分自身の認識と隣人に対する仁愛との障害にはならない。霊魂は、神のあわれみに対する愛に泣くと同時に、隣人の罪に対する悲しみに泣く。泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶ。このような人々は仁愛に生きる人々である。霊魂は、わたしのしもべたちが、わたしの名に栄光と賛美とをささげるのを見て、かれらとともに喜ぶ。第二の涙、すなわち第三の状態の涙は、最後の涙、すなわち第四の涙(一致の状態の第二段階の涙)の障害にはならない。むしろ、その香味である。もしも、霊魂が、わたしとの一致のなかで見出した最後の涙が、第二の涙、すなわち隣人に対する仁愛のために流す第三の状態の涙から生まれていないならば、完全ではないであろう。両者はたがいにまじり合っていなければならない。さもなければ、霊魂は思いあがりにおちいるにちがいないし、虚栄の微妙な息吹きが、霊魂を高い所から、最初に罪を吐き出した下賎な状態に転落させるにちがいない。それゆえ、霊魂は、隣人に対する仁愛と自分自身のまことの認識とを保ちつづけなければ ならない。そして、これによって、わたしの仁愛の火を自分自身のうちに養わなければならない。事実、隣人に対して抱く仁愛は、「わたし」に対して抱く仁愛から生まれる。すなわち、霊魂が自分を認識し、自分のなかにわたしの「いつくしみ」を認識するあの認識から生まれる。この認識によって、霊魂は、わたしがこの霊魂を言葉につくせないほど愛していることをさとる。そして、自分が愛されているこの愛によって、すべての理性的被造物を愛する。このような理由によって、霊魂はわたしを認識するやいなや、その愛をひろげて、隣人を愛する。霊魂はこれを見るやいなや、言葉につくせないほどこれを愛する。わたしがこれをますます愛するのを見て、これを愛するのである。つぎに、霊魂は、自分がわたしになんの利益ももたらすことができないこと、自分に対するわたしのこの純粋な愛を、わたしに返すことができないことを知る。そこで、わたしが与 えた手段によって、すなわち、あなたがたが奉仕しなければならない隣人に対して、愛を返すよう努める。すでに話したように、善徳は、隣人を介して実行される。しかも、すべての 人に対して、一般的にも個別的にも、そしてまた、わたしから受け、その分配を委託された種々の恩寵に応じて、実行される。あなたがたは、わたしがあなたがたを愛した純粋な愛によって愛さなければならない。しかし、それをわたしに対して実行することができない。なぜなら、わたしは、あなたがたから愛されることなく、また、利得を考えることなくあなたがたを愛したからである。わたしは、あなたがたが生まれる前にあなたがたを愛し、愛に動かされて、あなたがたをわたしの似姿として創造した。ところで、あなたがたは、この愛をわたしに返すことができない。それで、理性をそなえた被造物によってこれを返さなければならない。かれらを、愛されなくとも愛し、地上的あるいは霊的な個人の利益を一切あてにしないで、もっぱら、わたしの名の栄光と賛美とのために、愛さなければならない。わたしがかれらを愛するからである。このようにして、万事に越えてわたしを愛し、隣人をあなたがた自身のように愛せよという律法の掟を実行することができるのである。事実、霊魂は、この第二の状態、すなわち、第三の状態の第二の一致に達しないならば、この高い境地に達することができない。しかしまた、そこに達しても、第二の涙を生ずる愛から遠ざかるならば、これを持続することができない。隣人に関する掟を守らなければ、永遠の神であるわたしに関する掟を実行することは不可能である。これは愛の二本の足であって、これによってすでに話したように、わたしの「真理」、十字架につけられたキリストがあなたがたに与えた掟と勧めとの道を歩むのである。この二つの状態は一つになって、霊魂を善徳のなかにやしない、その完全性を高め、霊魂 と「わたし」との一致をますます親密なものとなす。この地点に達すると、霊魂は状態を変えることがない。同じ状態のなかで、恩寵の宝が、新しい多様なたまものにより、感嘆すべき高揚によって、増大するのを見る。これによって、霊魂は、すでに話したように、死すべき者によりは不滅な者にふさわしいように思われる「真理」の認識を与えられる。なぜなら、わたしと結んだ一致によって、利己的な官能は亡び、意志は死滅しているからである。ああ、この一致は、これをたのしむ霊魂にとって、どんなに心地よいものであろうか。な ぜなら、これをたのしみながら、わたしの秘密をさとるからである。この霊魂は、しばしば、未来のものごとを知ることのできる預言の精神を授かる。これはわたしの「いつくしみ」の 恩恵である。しかし、謙遜な霊魂はいつもこれを軽視しなければならない。わたしの仁愛に よって与えられるたまものではなく、利己的ななぐさめに対する欲求を軽視しなければならない。それは、内的な善徳にもっと成長するために、自分を精神の平和と安息とにふさわしくない者と見なさなければならないからである。それはまた、この第二の状態に安住しないで、自分自身の認識の谷間にくだらなければならないからである。以上の特殊な光明は、霊魂が絶えず成長することができるように、わたしが与える恩寵である。なぜなら、霊魂は、この世では、愛のもっとも高い完全性に上昇する余地がないほど完全ではないからである。これ以上完全になることができない者は、あなたがたのかしら、わたしのいとも親愛な「ひとり子」だけである。なぜなら、かれはわたしと一つであり、わたしはかれと一つだからである。それゆえ、かれの霊魂はわたしの神性との一致によって至福化されていた。しかし、その肢体であるあなたがた、旅人であるあなたがたは、絶えず高い完全性に達することができる。すでに話したように、それによって別の状態に上昇するのではない。この状態こそ達することのできる最高の状態だからである。しかし、あなたがたは、望むならば、わたしの恩寵の助けによって、この状態の完全性を絶えず発展させることができるのである。

前章の要約。──悪魔は第五の涙に達した者を恐れることについて。──悪魔の攻撃はこの状態にみちびく道であることについて。

あなたは、わたしの「真理」があなたの望みを満たした結果、おのおのの状態に特有な涙 がどのようなものであるか、そのちがいはなにか、について知ることができた。第一は、大罪によって死の状態にある人々の涙である。かれらの涙は、一般的に、心から発する。しかし、涙の流れ出る情愛のみなもとが腐敗しているので、腐敗した、みじめな涙しか流すことができない。この情愛から生まれるすべての業についても同じである。第二は、その過失に課せられる個人的罰によって、その悪を意識しはじめる人々の涙である。これは、わたしが弱い人をあわれんで、与える一般的な最初の動きである。この人々は、盲目になっているので、わたしの「真理」の教えをあなどり、下の道を通って、河におぼれる。しかし、自分が受けなければならない罰に対する奴隷的な恐れを感じなくとも、自分自身を認識し、突然、自分自身に対して大きな憎しみを抱き、自分は罰を受けるにふさわしいと考えて、罪から脱け出る人々が多い。そののち、ある者は、その創造主であるわたしに奉仕し、わたしに加えた侮辱を悲しむ。このように大きな憎しみを抱く人々は、他の人々より も、完全性に達するにふさわしい。しかし、両者とも、善徳を修めることによって、そこに達することができる。もっとも、後者は奴隷的な恐れのなかに、前者は微温のなかにとどまることのないように、注意しなければならない。もしも、最初の単純な状態にとどまって、 善徳の実行をおこたるならば、冷めて行く恐れがあるからである。これは共通の召命である。 第三と第四は、恐れから解放されて、愛と希望とに到達し、わたしの神的なあわれみを味わい、わたしから多くのたまものと慰めとを受ける人々の涙である。かれらが心のなかに感じる感情は、目から流れる涙によって表現される。しかし、この涙はまだ不完全である。すでに話したように、感覚的涙と霊的涙とがまじっているからである。霊魂は、善徳を実行しているうちに、第四の状態に達し、その望みは増大し、その意志はわたしの意志と一致し、同一化する。そののちは、「わたし」が欲することしか、望むことができないようになる。そして、隣人に対する仁愛を身にまとい、自分自身のなかに感じる愛の涙と、わたしに対する侮辱と隣人の亡びとに対する悲しみの涙とを、流すのである。 この状態は、最後の完全な状態である第五の状態と結びついている。そこで霊魂は真実に わたしと一致し、聖なる望みの火が燃えさかるのを感じる。この望みは悪魔を遁走させる。 悪魔は霊魂に害を加えることができない。侮辱によっても。なぜなら、霊魂は隣人に対する仁愛によって忍耐深くなっているからである。霊的な、あるいは現世的な慰めによっても。なぜなら、これに対する憎しみとまことの謙遜とによって、これを軽んじているからである。他方、悪魔の側も、決して眠っていない。その手本は、多くの利得を引き出すことのできる時間を濫用し、眠ってすごす怠慢な人々の教訓になる。しかし、さきの完全な霊魂に対しては、悪魔がいかに目覚めていても、害を加えることができない。悪魔は、この霊魂の仁愛の熱情も、この霊魂が平和の「大洋」であるわたしと保っている一致の香りも、我慢するこ とができない。霊魂は、このようにわたしと一致しているかぎり、だまされることがない。はえが、火の上でたぎつている鍋を、焼かれるのを恐れて逃げるように、悪魔もこの霊魂から逃げる。しかし、鍋がなまぬるければ、はえは恐れずそのなかにはいるであろう。しかし、しばしば、あわてて飛び出す。思っていたよりも熱いと思うからである。まだ完全な状態に達していない霊魂についても、これと同じことを言うことができる。悪魔は、この霊魂がなまぬるいと思い、さまざまの誘惑によって、そのなかにはいりこむ。しかし、この霊魂が自 分自身を認識し、熱していて、自分の過失を悲しみ悔んでいるのを目撃する。しかも、攻撃に抵抗する。そして、意志が承諾しないように、罪に対する憎しみと善徳に対する愛との綱で、これをしばっている。多くの攻撃にさらされている霊魂は喜ぶがよい。それは、心地よく光栄ある状態にいたる道だからである。すでに話したように、あなたがたは、自分自身の認識と自分自身に対する憎しみとにより、そしてまた、わたしの「いつくしみ」の認識によって、完全性に達するのである。それで、霊魂は、この戦いの時ほど、わたしが自分のなかにいるかいないかを知りうることは決してないのである。どうしてであろうか。話してあげよう。もしも、霊魂が、このような戦いのさなかにあって、これからのがれることも、これが起こらないようにする こともできないときは、自分自身をよく認識することができる。たしかに、その意志はこれに同意することを拒否することができる。しかし、それ以外のことはできない。そのとき、霊魂は、自分が何者でもないことを知るようになる。もしも、なにものかであるとしたら、自分が望まないものを取り除くことができるにちがいないからである。このようにして、霊魂は、自分自身のまことの認識のなかで、身をへりくだ。そして、至聖なる信仰の光明に 照らされて、永遠の神である「わたし」に駆け寄る。わたしは、「いつくしみ」によって、霊魂の意志を正しく聖く保たせ、多くの戦いのさなかにあっても、これを悩ます悲惨に譲歩し 同意するのをさまたげる。それゆえ、あなたがたが、かずかずの悩み、苦しみ、艱難のとき、あるいは、人間と悪魔との誘惑を受けるとき、わたしの「ひとり子」、わたしの甘美な愛深い「言葉」の教えによっ て力を回復するのは、きわめて当をえたことである。なぜなら、そうすることによって、あなたがたの善徳を成長させ、大いなる完全性へ達するからである。 

目の涙を望んで得られない人々も、火の涙を抱くことができることについて。 ──神はなぜ肉体的涙を取りあげるかについて。

わたしはあなたに、完全な涙と不安全な涙とについて語った。そして、涙はすべて心から 発することについて述べた。涙はすべて、どんな理由によるものであっても、この器から発する。したがって、涙はすべて心の涙と呼ぶことができる。ただ、それを発生させる愛情に よってちがいがあるだけである。涙が規律のある愛あるいは不規律な愛、完全な愛あるいは 不完全な愛によってちがうことは、すでに話したとおりである。 これから、あなたの望みに、そして、涙の完全性を願っても得られないように思っている 一部の人々の望みに、答えなければならない。さて、目から流れる涙とはちがった種類の涙 があるであろうか。たしかにある。火の涙がこれである。すなわち、かれらを愛で焼きつくすまことの聖なる望みがこれである。かれらは、自分自身に対する憎しみと霊魂の救いに対する熱望とによって、その生命を溶かして涙にかえたいと願うけれども、成功することができないように思う。このような人々は、たしかに、聖霊が「わたし」の前で、かれらのために、またかれらの 隣人のために泣いて流す火の涙を抱いている。すなわち、わたしの神的「仁愛」は、目に涙 をためなくとも、わたしの前に、熱烈な望みをささげる霊魂を燃えさからせる。それが火の涙である。そして、繰りかえして言うが、聖霊がそれを流すのである。このような人々は、 目から涙を流すことができないので、意志がわたしに対する愛のために起こした望みを、わたしにささげる。もし、かれらが知性の目を開くならば、わたしのしもべたちが、その謙遜で絶え間ない祈りのなかで、聖なる望みの芳香を、わたしの前で放つときは、かれらによって聖霊が涙を流しているのを見ることができるであろう。これは、光栄ある使徒パウロが、 聖霊は、「父」であるわたしに、あなたがたのために、「言い知れぬ嘆きによって」、哀願して い ると言ったとき、理解させたかったことではないだろうか。 よくわかったと思うが、火の涙の実は、水の涙の実に劣るものではない。愛の程度によっては、しばしば、もっと偉大でさえありうる。それゆえ、霊魂は、精神を乱したり、わたしの現存を失っているのではないかと心配したりしてはならない。なぜなら、霊魂は、その望 む涙を、思いどおりに流すことができないからである。霊魂は、わたしの意志と一致した意 志をもって、「諾」と「否」とに服し、わたしの神的な「いつくしみ」の好むところに従って、これを願わなければならない。時として、わたしは、霊魂が、謙遜に、また、継続した祈りのなかで、わたしを味わいたいという望みをもって、絶えずわたしの前にいることがで きるように、この肉体的な涙を与えることを拒む。霊魂にとって、願っているものを獲得するのは、思っているほど大きな役に立たない。望んだものを所有したのを満足に思い、これを願わせた情愛と望みとに弛みが生ずる恐れがある。霊魂は、これを所有しないからと言って、貧困にはならない。目が流したいと思うこの外的な涙を与えないのは、その進歩のためであって、これを貧困にするためではなく、そのため、わたし自身自制しているのである。 また、そのため、わたしの神的仁愛の火に燃えさかる心が流す内的涙しか与えないのである。 この涙は、信仰の光に照らされた知性の目が、愛の情念をもって、わたしの永遠の「真理」 を見つめているかぎり、どんな状態においても、どんな時にも、わたしを喜ばせる。わたし は医師であって、あなたがたは病人である。あなたがたの必要と要求とに応じて、あなたが たの救いとあなたがたの霊魂の完全性の成長とに必要なものを与えるのは、わたしの務めで ある。 以上が真理である。以上が、永遠の「真理」であるわたしが、いとしいむすめであるあな たにおこなった涙の五つの状態に関する説明である。どうか、十字架につけられたキリスト、 きわめて謙遜で、汚れのない「子羊」の血に浸ってほしい。そして、絶えず善徳に進歩して、わたしの神的仁愛の火を、あなたのなかに燃えさからせてほしい

この五種類の涙のうち、四つは限りなく多様であることについて。──神は無限 の「存在」として奉仕されたいと望むことについて。

これまで話した五種類の涙は、五つの主な運河のようなものである。そのなかの四つは、 豊富で無限な多様性をふくんでいる。そして、すでに話したように、善徳にかなって流されるときは、みな生命を与える。無限というのはどういうことであろうか。無限というのは、あなたがたが流す涙が、それ自体無限であるという意味ではない。わたしがこれを無限というのは、これを流させる霊魂の望みが無限だからである。さきに、涙は心から発すること、心は、熟い望みのなかにこれを溜めたのち、目に伝達することを説明した。生木を火に投げ入れるときは、火の熱によって涙を流す。生木だからである。枯れた木であれば、嘆きを発することはないであろう。心は、霊魂を乾燥させる自愛心の不毛な状態から脱げ出させる恩寵のはたらきのもとで、ふたたび若がえる。火と涙とは、燃えるような望みによって、一つになる。この望みは決して終わることがないからこの世では満たされることがない。しかし、霊魂は、愛すれば愛するほど、愛が足りないように思う。それで、仁愛にもとづくこの聖なる望みを起こす。この望みによって、目は涙を流すのである。  霊魂は、肉体から離れて、その目的である「わたし」に達したのちも、わたしを望むことを止めるわけではない。わたしに対する望みも、隣人に対する愛も放棄したわけではない。 仁愛は、「女王」のように、他のすべての善徳の実をたずさえて、天に入ったのである。たしかに、苦しみは終わった。なぜなら、すでに話したように、霊魂はわたしを望むけれども、わたしを疑いなく所有していて、あれほど長いあいだ望んでいたものを失う恐れは少しもないからである。それでも、その餓えはいつも燃えさかる。餓えるけれども満たされる。そして、満たされながらいつも餓える。しかし、霊魂は、満足の倦怠も、餓えの苦痛も感じない。 なぜなら、どんな完全性も欠けることがないからである。 要するに、あなたがたの望みは無限である。もし、あなたがたが、わたしに仕えるのに、 限られたものしかもたないとしたら、どんな善徳も、永遠の生命にとって、価値がないであ ろう。わたしは無限の神であって、無限なものをもって仕えられたいのであるが、あなたが たは、霊魂の愛と望み以外に無限なものをもたないのである。このような意味で、わたしは、涙には無限の多様性があると言ったのである。これ以上真実なことはない。それというのも、 すでに話したように、この涙と一体をなす望みが無限だからである。霊魂が肉体を去ったのち、涙は外に残る。しかし、神的仁愛の情愛は涙の実を吸収して、 これをそのなかに焼きつくしている。ちょうど、かまどの中にある水が火に焼きつくされ、 熱火のなかに吸収されるのと同じである。これと同じょうに、霊魂は、神的仁愛の火を感じるまでになり、「わたし」と隣人とに対する仁愛、涙を流させていたこの一致の愛を抱いてこ の世を去っても、至福なる望みと苦しみをともなわない涙とをささげる。その涙は目の涙ではない。それは、すでに話したように、熱火のなかに焼きつくされたからである。しかし、それは聖霊の火の涙である。以上話したことによって、この涙が無限であることをわかったと思う。現世では、この状態で流す多様な涙を言葉で語りつくすことができない。しかし、この四つの状態の涙の多様 性がどのようなものであるかについて、あなたに話したかったのである。 

世俗的な人々の涙の実について。

これから、望みによって流される涙の実について、そしてまた、それが霊魂にどのような 影響をおよばすかについて、話さなければならない。最初に、はじめに挙げた五つの涙のうちの第一の涙、すなわち、世俗でみじめな生活を送り、人と物と自分自身の官能とを神となし、その霊魂と肉体とに大きな害を与えている人々の涙について話したい。すでに話したように、涙はすべて心から発する。これは真実である。心は愛するからこそ苦しむのである。それゆえ、世俗的な人々は、その心が苦しむとき、すなわち、その愛するものを奪われるとき、涙を流す。しかし、その涙は多様である。どれほどであろうか。愛と同じように多様である。そのうえ、根がその官能的な自愛心によって腐敗させられているので、それから生まれるものはみな、腐敗している。それは、死の実、悪臭を放つ花、よごれた葉、あらゆる風に吹きまくられて地に這っている技しかもたない木である。これがかれらの霊魂の木である。わたしは愛によってあなたがたを造ったのであるから、あなたがたはみな愛の木である。それで、あなたがたは愛なくしては生きることができない。善徳によって生きる霊魂は、その木の根を謙遜の谷間におろす。しかし、みじめな生活を送る人々は、これを傲慢の山の上におろしている。この木はまちがって植えられているので、生命の実ではなく、死の実を生ずる。その業であるこの実は、さまざまの罪に毒されている。ときどき、なにかの善業をなすことがあっても、根がいたんでいるので、そこから出るものはみな、いたんでいる。大罪の状態にある霊魂は、永遠の生命にとって功徳のある善業を生むことができない。なぜなら、恩寵の状態でなされたものではないからである。  しかしながら、だれも善業を断念してはならない。なぜなら、善はみな報いられ、悪はみ な罰せられるからである。恩寵の外で実行された善は、永遠の生命を得るには不十分である。しかし、わたしの神的「いつくしみ」と正義とは、わたしにささげられた不完全な業にも、不完全な報いを与える。ときには、地上的な善によって報いるし、ときには、別のところで この問題について説明したとおり、霊魂が自分を矯正するのに必要な時間を与える。またときには、わたしの気に入ったしもべたちに愛めでて、かれらの願いを容れ、この霊魂に恩寵の生命を通じ与える。わたしは、光栄ある使徒パウロに対して、このようになしたのであった。かれがキリスト教徒に対する不実と迫害とを放棄したのは、聖ステファノの祈りのおかげであった。これによってよくわかるように、霊魂は、どんな状態にあっても、決して善業を止めてはならない。さきに、この木の花は悪臭を放つと言ったが、これ以上真実なことはない。この花は心の 有毒な思いであって、「わたし」にとっては侮辱であり、隣人にとっては憎むべきもの、不快なものである。世俗的な人々は、その「創造主」であるわたしの栄誉を盗み、これを自分のものにするのである。ところで、この花は、まちがった、みじめな裁きの悪臭、二重の裁きの悪臭を放つ。先ず第一に「わたし」を裁く。わたしのひそかな裁きを裁き、わたしのすべての秘義を裁く。しかも、邪悪なしかたで。わたしが愛によってなしたことを憎しみによると見なし、わたしが真理によってなしたことを虚偽と非難し、わたしが与えた生命を死と見なす。かれらは、その知性の目を盲目にし、その官能的な自愛心が至聖なる信仰のひとみのとばりとなっているので、真理を見ることも、認識することもできない。つぎに、隣人を裁きにかかる。その結果、しばしば多くの悪があふれ出る。このみじめな人々は、自分を知らない。それでいて、理性的被造物の心と情愛とを知っていると自負して いる。一つの行為を見、一つの言葉を聞くと、心の情愛を裁きたくなる。わたしのしもべたちは、いつも善い方に裁く。なぜなら、至高の「善」であるわたしの上に立っているからである。これに反し、俗的な人々は、いつも悪い方に裁くなぜなら、みじめな悪の上に立っているからである。このような誤った裁きは、どれほどしばしば、隣人に対する憎しみ、殺害、嫉妬、わたしのしもべたちの善徳に対する反感を生むことであろうか。同じように、つぎつぎに葉が生ずる。すなわち、口から、わたしとわたしの「ひとり子」 の血とを軽蔑し、隣人を傷つける言葉が生まれる。その気まぐれな判断にまかせてわたしの 業をののしり、非難し、あらゆる理性的被造物を呪い悪口すること以外に、なんの配慮もない。なんと不幸な人々であろうか。かれらは、舌は、もっぱらわたしに栄誉をささげ、自分の過失を告白し、愛によって善徳と隣人の救いとに尽くすために、与えられていることを忘れている。みじめな過失によごれた葉はこのようなものである。それというのも、これを生ずる心が清浄ではなく、二心と他の無数のみじめさとによって、腐敗しているからである。恩寵の喪失によって霊魂に生ずる霊的被害のほかに、この間違った裁きによって、どれほど の地上的不幸が生まれることであろうか。運命の変動、市民間の憎悪、殺人、その他の悪が どれほど起きることであろうか。それも、言葉はこれを聞いた人の心の奥まではいり、短刀のとどかないところまで達するからである。ところで、この木は地に垂れさがった七つの技をもっている。この枝から、すでに話した ように、花と葉が生まれる。この枝は、他の多くの罪を生む七つの大罪であって、自愛心と 傲慢とからなる共通の根と幹とに結びついている。この根から、枝と多くの思いの花と言葉 の葉と罪業の実とが生まれる。枝は地に垂れさがっている。大罪の枝は別の方向を向くこと ができない。地を這っている。すなわち、世俗のはかない、よこしまなものを追い求めてい る。貪欲に地をむさぼることしかめざさない。それでいて、決して満足することができない。 自分自身に対しても満足することがなく、自分自身を我慢することができない。いつも不安を抱いている。それは当然である。さきに話したように、満足を与えることのできないものしか望まないし、欲しないからである。かれらが満足することができないのはどういうわけであろうか。朽ち去るものしか探さないからである。ところが、かれらの存在は無限である。かれらのなかにある恩寵は大罪によ って死滅するけれども、かれらの存在は決して終わることがない。人間はすべての造られた ものの上にある。造られたものが人間の上にあるのではない。それゆえ、人間は自分より偉 大なもののなかでしか、満足することができないし、安心することができない。かれの上に は、永遠の「神」であるわたし以外にはなにもない。したがって、わたしだけがかれを満足 させることができるのである。ところが、かれはその犯した過失によってわたしから離れた。そのため、絶え間ない悩みと苦しみとを抱いている。苦しみは涙を誘う。ついで、逆風が吹き出す。そして、かれが全生活の唯一の原理にしている官能的な自愛心の木に吹きつけるのである。

世俗的な人々は、四つのちがった風にあおられて涙を流すことについて。

四つの風がある。繁栄の風、艱難の風、恐れの風、良心の風がこれである。繁栄の風は、傲慢と大それた思いあがり、自尊心と隣人に対する侮蔑とをやしなう。もし も、世俗的な人が権力者であるならば、多くの不義、心の空しいおごり、肉体と精神との不 浄、自分の名声の追求、および、その結果犯される言葉で語りつくせないほどのその他の過 失によって、支配するであろう。この繁栄の風はそれ自体腐敗しているのであろうか。決してそうではない。木の主な根が腐敗していて、すべてのものを腐敗させるのである。なにか をあなたがたに送るのも与えるのも、至善な「存在」であるわたしである。それで、繁栄の 風はよいものである。この風が、世俗的な人々にとって涙のもとであるとしたら、その心が 満たされていないからである。心が満たされていないのは、得られないものを望むからであ る。そして、得られないから悲しむのである。この悲しみは涙をさそう。なぜなら、すでに 話したように、目は心を満足させたいと思うからである。つぎに、奴隷的な恐れの風が吹く。世俗的な人々は、この風の影響によって、自分の影におびえる。それほど、愛するものを失うのを恐れるのである。自分の生命を失うのを恐れ、 子供あるいは他の人を失うのを恐れ、自分の地位を失うのを恐れ、自愛心を満足させるその 他のものを失うのを恐れ、名誉と富とを失うのを恐れる。この恐れのために喜びを安心して 抱くことができない。このような奴隷的な恐れが生まれ、この恐慌が生まれるのは、これら の善をわたしの意志に対する承服のなかで所有していないからである。かれらはみじめにも 奴隷になっている。自分を奴隷にしている罪と同じものになっていると見なすことができる。ところが、罪は無である。だから、かれらは無に帰しているのである。恐れの風がかれらをゆさぶっているあいだに、今度は、かれらが恐れていた艱難と不幸と の風が吹いて、所有していたものを、あるときは一部、あるときは全部奪い去る。全部というのは、生命を奪われることであり、死の力によってすべてのものを奪われることである。一部というのは、あるときは一つのもの、あるときは他のものを失うことである。あるいは 健康、あるいは子供、あるいは富、あるいは地位、あるいは名誉を失うことである。優しい 医師であるわたしは、あなたがたの救いに必要であると判断して、これを送る。しかし、あ なたがたの病弱はすっかり悪化していて、自分自身についても、「わたし」についても、なん の認識ももたなくなっているし、忍耐の実を腐敗させている。それで、不忍耐、つまずき、 不幸、「わたし」とわたしの被造物とに対する反感しか生むことができない。「わたし」が生 命のために与えるものを、死のために受け取る。ところで、喪失の悲しみは、奪われた善に 対して抱いていた愛に比例するのである。こうして、不忍耐と苦悩との涙を流す羽目になるのであるが、この涙は、霊魂を枯渇させ、 恩寵の生命を奪ってこれを殺し、肉体も枯渇消耗させ、精神も肉体も盲目にする。その結果、 かれらは、すべての喜びを奪われ、希望を失う。なぜなら、かれらに喜びを与えていたもの、 かれらが愛と希望と信仰とを託していたものを失うからである。そのため、泣くのである。 たしかに、このような悲しむべき結果を招いたのは、涙だけではない。涙は、みだらな愛と心の悲しみとから流れ出るのである。目から落ちる涙は、それ自体死も苦罰も与えることは ない。むしろ、この涙が流れ出る根源、すなわち、心のみだらな自愛心が、死と苦罰とを与 えるのである。もしも、心が立派に規正されていて、恩寵の生命をもっているならば、涙も 正しく、永遠の神であるわたしに、あわれみを施さざるをえないように仕向けるにちがいな い。それでは、わたしはなぜ、世俗的な人々の涙は死を与える涙であると言ったのであろう か。それは、涙は、心のなかに死があるか生命があるかを知らせる使者だからである。わたしは、良心の風が吹くと言った。これは、わたしの神的「いつくしみ」が起こす風で ある。わたしは、繁栄を通じ、愛によって、かれらをわたしに引き寄せようと試みた。かれ らを、心の動揺と不安とによって、みだらな愛を去って、善徳によって愛するようにみちび くために、恐れによって試みた。わたしはまた、かれらに世のはかなさと頼りなさとをさと らせるために、艱難によって試みた。しかし、ある人々にとって、このようなものは役に立 たない。それで、あなたがたを言葉に言い表わせないほど愛するわたしは、他の人々に、良 心の苛責を送る。それは、かれらに口を開かせ、聖なる告白によって、罪の汚物を吐き出さ せるためである。ところが、かれらは、頑迷で、その悪業のゆえにわたしから完全に見放さ れているかのように、わたしの恩寵を受け入れることを、絶対に拒絶する。そして、良心の 苛責をのがれるために、みじめな快楽によってこれを窒息させるよう努め、わたしとかれら の隣人とを侮蔑する。それというのも、木の根が腐っていて、木全体も同じであるために、かれらにとって、すべてが死因になるのである。それゆえ、すでに話したように、絶えず悲 しみ、泣き、嘆くのである。もしも、自由意志を使うことができるあいだに、改心しないならば、この一時的な涙から のがれても、終わりのない涙を流すことになるにちがいない。こうして、終わりのあるもの が、終わりのないものとなる。なぜなら、この涙は、善徳に対する限りない憎しみによって、 すなわち、限りない憎しみから発する望みによって、流されたものだからである。この無限の憎しみにかかわらず、まだ自由であるあいだに、もし望んだならば、わたしの 恩寵の助けによって、この永遠の涙をまぬかれることができたにちがいない。事実、望みは、 霊魂の愛と存在とのいかんによって、無限でありうる。しかし、霊魂のなかにある憎しみと 愛とは、そうではない。なぜなら、この世にあるあいだは、望みどおり憎んだり愛したりす ることができるからである。 しかし、善徳に対する愛のなかで死ぬならば、終わることのない幸福を授かるし、憎しみ のなかで死ぬならば、終わることのない憎しみにとどまり、永遠の亡びを宣告されるであろ う。これは、河におぼれる人々について話したとき、説明したとおりである。そののち、かれらは善を望むことができない。なぜなら、わたしの聖者たちがたがいに味わうわたしのあ われみと兄弟愛とを失っているからであり、この世で巡礼者であり旅人であるあなたがたが、 目的すなわち永遠の「生命」であるわたしに達することができるように、わたしがあなたがたに与えた仁愛を失っているからである。  それゆえ、祈りも、施しも、善業も、かれらに助けをもたらすことができない。かれらは、わたしの神的仁愛の体から切り離された肢体である。それというのも、生きているあいだに、聖なる「教会」の神秘体のなかで、わたしの「ひとり子」、けがれなき「子羊」の「血」を分 け与える心地よい権威のもとで、わたしの聖なる掟に服従することを望まなかったからであ る。それゆえ、永遠の亡びの実を、涙と歯ぎしりとのなかで、受けるのである。かれらは、悪魔のなぶり者である。悪魔は、自分が受けた実をかれらに与える。これでわかるように、世俗的な人々の涙は、過ぎ去る時のあいだは、苦しみの実をかれらにもたらすし、死ぬときは、永久に悪魔の仲間にはいらせるのである。 

第二の涙と第三の涙との実について。

これから、罰を恐れて罪を去りはじめ、恩寵を獲得する人々が収める実について、話さなければならない。ところで、罰を恐れて、大罪による死から脱出する者がある。しかも、それは、みながなすべきことである。この人々は、どのような実を収めるであろうか。まず、その自由意志を奴隷的な恐れから 脱却させる程度に応じて、その霊魂の家を罪のよごれから清める。霊魂は、過失を洗い流すと、良心の平和を取り戻し、その愛情を規制し、その知性の目を開いて、自分のあるがまま の姿を見定める。この浄化の第一段階では、自分自身のなかに、いろいろの罪しか認めることができなかった。ところが、いまは、良心のうじ虫がしずかになり、霊魂は善徳を食べることができるので、慰めを感じはじめる。  人間は、その胃から体液を取り除くと、食欲が出て、多少食物を摂取することができるよ うになる。霊魂も、これと同じように、その自由意志のなかに、食物である善徳に対する愛があらわれるのを待っている。そして、それがあらわれると、すぐ食べたくなる。事実、霊魂は、最初の恐れを利用して、愛情を罪から清め、その実を収めるようになる。これが第二の涙、すなわち第二の状態の涙である。そこで、霊魂は、愛の情念によって、まだ不完全ではあるが、善徳の家を建てはじめる。恐れから脱出した霊魂は、慰めと喜びとを 感じる。なぜなら、霊魂の愛は、愛そのものであるわたしの「真理」のなかで、喜びに浸る からである。霊魂は、わたしのなかに感じるこの平和と慰めとをきわめて心地よく愛するようになり、わたしから与えられるこの喜び、あるいは、わたしが被造物を介して与えるこの喜びが、いかにも心地よいことをさとる。恐れから清められた霊魂は、その内的住居に入って、愛を実行しながら、わたしの神的「いつくしみ」の実を収めはじめ、この内的住居に定住する。そして、愛によってこれを実際に 所有すると、きわめて多様な慰めの実を受けて、これを味わう。最後に、霊魂は、忍耐深く 実を収め、食卓をととのえる。つまり、霊魂は、恐れを通りすぎて善徳に対する愛に達する と、食卓につくのである。第三の涙に到達したのである。そこで、霊魂は、その心のなかに、至聖なる十字架の食卓 を設ける。その上には、甘美な愛の「言葉」の食物が供えられている。「父」であるわたしの誉れとあなたがたの救いとがこれである。なぜなら、わたしの「ひとり子」の体は、わたしの誉れとあなたがたの救いとのために開かれ、あなたがたの食物として与えられたからである。そこで、霊魂は、わたしの誉れと霊魂の救いとを食べはじめる。罪に対する憎しみと嫌悪とを香味料として。霊魂は、この第三の状態の涙から、どのような実を収めるであろうか。それについて話したい。それはまず、自分の官能に対する聖なる憎しみにもとづく力であり、まことの謙遜の 心地よい実であり、あらゆるつまずきを除き、霊魂をあらゆる苦しみから解放する忍耐である。それというのも、すべての罪の根源である我意を、聖なる憎しみの剣によって刺し殺したからである。官能的な意志は、前に話したように、侮辱、迫害、霊的あるいは地上的慰めの喪失につまずき、それを機会として、不忍耐におちいる。しかし、意志の死後、霊魂は、悲しくも心地よい望みのなかで、甘美な忍耐の涙の実を味わいはじめるのである。ああ、いとも甘美なる実よ、おまえは、おまえを味わう人々にとって、どんなに心地よく、「わたし」にとって、どんなに快いことであろうか。おまえは、苦悩のなかに喜びを、侮辱のなかに平和を見出させる。おまえのおかげで、あらしの海で激しい風にもてあそばれている霊魂の小舟は、平静安全で、なんの損害も受けないし、まことの熱烈な仁愛をこれにまとわせた神の優しくも永遠な「意志」のかげに守られているので、波浪に呑みこまれることもない。  ああ、いとしいむすめよ、「忍耐」は女王である。城砦の岩の上に陣取っていて、いつも勝利を占め、決して敗北することがない。忍耐はひとりではない。堅忍という伴侶を連れている。忍耐は仁愛の髄である。霊魂がまとっている仁愛が、婚礼の服であることを証明するのは、この忍耐である。この服に、不完全によって、裂け目が生じたときは、すぐさま、忍耐 の不足がこれを示す。他のすべての善徳については、ときどき、まちがうことがある。これらの善徳は、完全でないのに、完全であるように思われることがある。しかし、この優しい忍耐が、霊魂にやどっている仁愛の髄であるならば、それによって、すべての善徳が完全で、生き生きとしていることが示される。もしも、善徳がこの証拠を示すことができないとしたら、まだ不完全な状態にあるからであり、まだ至聖なる「十字架」の食卓に着いていないからである。忍耐は、この食卓で、自分自身の認識とわたしの「いつくしみ」の認識とのなかで宿され、聖なる憎しみによって出産されていて、まことの謙遜の油にぬれている。忍耐は、この食卓の上に供えられている食料、すなわち、「わたし」の誉れと霊魂の救いとを、決して拒むことがなく、絶えず食べる。これは真実である。いとしいむすめよ、優しく栄光にかがやく殉教者たちを眺めるがよい。かれらは、どんなに忍耐して、この食物を食べ たことであろうか。どんなに霊魂を食べたことであろうか。かれらの死は生命を与えた。かれらは死者を復活させ、大罪の暗黒を払った。世とその栄誉も、君主とその権力も、かれらに対して自己を防衛することができなかった。かれらは、この女王である善徳、すなわち優 しい忍耐によって、すべてに勝利を占めた。この善徳こそ、燭台の上の燈明である。以上が、隣人に対する仁愛と一つになった涙の生ずる実である。霊魂は、至聖なる「十字 架」の食卓で、わたしの「ひとり子」、けがれなき「子羊」といっしょに、激しく痛ましい望みのなかで、そしてまた、その創造主であるわたしに加えられる侮辱を思う堪えがたい悲しみのなかで、この食物を食べる。しかしながら、この苦しみは刑苦ではない。なぜなら、愛が、まことの忍耐によって、恐れと自己の苦しみに影響されやすい自愛心とを、ことごとく 滅したからである。むしろ、この苦しみは慰めに満ちている。その対象は、わたしに加えられる侮辱と隣人の亡びだけであって、その泉は仁愛である。それゆえ、この苦しみは霊魂をふとらせる。それと同時に、霊魂にとって喜びの源である。なぜなら、「わたし」が恩寵によ って霊魂に現存することの疑うことのできない証拠を示すからである。 

第四の涙の実、一致の涙について。

わたしはあなたに、第三の涙について語った。これから、第四の状態の涙、最後の状態の 涙について話さなければならない。一致の涙がこれである。すでに話したように、この状態は、第三の状態から分離したものではない。この二つは、わたしに対する仁愛が隣人に対する仁愛と一つであるように、たがいに一つに結ばれている。一方は他方の条件である。しかし、第四の状態に達すると、霊魂は大きな進歩をとげ、苦しみを忍耐をもって堪え忍ぶばかりではなく、すでに話したように、喜びいさんでこれを呼び招く。そののちは、あらゆる喜びを、それがどこから生まれるものであっても、軽蔑する。そして、十字架につけられたキリスト、わたしの「真理」に、ますますあやかりたいという望みしか抱かない。霊魂がこれによって収める実は、精神の休息であり、わたしの甘美な神的「本性」との自 覚のある一致である。霊魂は、そこで、乳を味わう。子供は母親の偶に抱かれるとき泣き止み、その口は母親の乳房を含んで、その肉から乳を吸い取る。最後の状態に達した霊魂も、同じように、わたしの神的仁愛の胸に抱かれ、聖なる望みの口を、十字架につけられたキリストの肉に当てがう。すなわち、その手本と教えとに従う。それというのも、第三の状態で、永遠の「父」であるわたしを道とすべきでないことを、よく理解したからである。なぜなら、永遠の「父」であるわたしのなかには、どんな苦しみも見出すことができないが、愛の「言葉」であるわたしの愛する優しい「子」のなかには、これを見出すからである。  あなたがたも、苦しみなくしては、旅することができない。多くの艱難を堪えてこそ、堅 固な善徳に達することができるのである。それゆえ、「仁愛」そのものである十字架につけられたキリストの胸にすがりついて、あなたがたに恩寵の生命を与える善徳の乳を吸い、かれのなかで、善徳を甘美なものとなすわたしの神的本性を味わうがよい。事実、善徳は、それ自体によっては、甘美さをそなえていない。しかし、善徳をわたしのなかで獲得し、神的愛であるわたしと一致しているときは、すなわち、霊魂が自分自身の利益を少しも心にかけず、ひたすらわたしの誉れと霊魂の救いとを念願するときは、善徳は甘美なものとなる。いとしいむすめよ、この状態がどんなに心地よく、光栄あるものであるかに注目してほしい。この状態においては、霊魂は仁愛の胸にきわめて密接に一致し、口は絶えずその乳を吸い取る。胸なくしては口はなく、乳なくしては胸はない。霊魂は、決して、十字架につけられたキリストからも、永遠の「父」であるわたしからも離れることがなく、これをいつも見出し、至高かつ永遠の「神性」を味わう。ああ、霊魂の諸能力が、それによってどのように満たされるかを、だれが理解することができようか。記憶は、わたしに関する思いに絶えず満たされている。その思いは、わたしの恩恵に対する愛から生まれる。しかも、その愛は、 霊魂が受けた恩恵によりは、霊魂にこれを与えたわたしの「仁愛」に執着する。とくに、霊魂は、わたしがこれをわたしの似姿としてつくつた創造の恩恵について考える。この恩恵に関する考察は、すでに説明した第一の状態においては、忘恩に課せられる罰を認 識させ、キリストの「血」の恩恵によって、そのみじめさから脱出させたのであった。この第二の恩恵によって、わたしは霊魂の顔を罪の癩から清め、これを恩寵においてあらたに創造した。こうして、霊魂は、第二の状態に置かれる。この状態において、わたしのなかで、愛の甘美さを味わうと同時に、その過失を悲しむ。そして、わたしがわたしの「ひとり子」の体に加えた罰を見て、わたしに加えた侮辱の重さを理解する。ついで、霊魂は、人々の霊魂を真理において照らした聖霊、いつも照らす聖霊の降臨を想い起こす。いつこの光明を授かるのであろうか。第一と第二の状態によって、自分のなかに あるわたしの恩恵を認識したのちである。そのとき、わたしは霊魂に完全な光明を授け、永遠の「父」であるわたしに関する真理を啓示し、わたしが、この霊魂に永遠の生命を与えるために、愛によってこれを創造したことを認識させる。わたしが、十字架につけられたキリストの「血」によって、あなたがたに示した真理は以上のとおりである。霊魂は、これを認識するやいなや、これを愛する。そして、これを愛するやいなや、わたしが愛するものを愛 し、わたしが憎むものを憎むことによって、その愛を証明する。このようにして、隣人に対する仁愛の第三の状態を生きるのである。記憶は、わたしの「仁愛」のふところで、そこに満ち満ちているものを汲み取った。霊魂 は、わたしの恩恵の思いと絶え間ない追憶とによって、不完全から解放された。知性は光明を授かった。霊魂は、記憶によって注視しながら、真理を認識し、自愛心の盲目から脱出して、その観想の対象である「太陽」、十字架につけられたキリストの前に生き、そこで、神と 人間とを認識する。この認識のほかに、霊魂は、わたしと結んだ一致によって、ひとつの光明へと上昇する。この光明は、すでに話したように、その本性から生まれるものではなく、その善徳の実行によって獲得したものでもない。それは、熱烈な望みも、わたしにささげた犠牲も侮らないわたしの甘美な「真理」の恩寵である。すると、いつも知性のあとに従う意志は、この上もな く完全で熱烈な愛と一致する。この霊魂をどのように評したらよいであろうかとたずねる者 に、わたしは答えたい。それは、愛の一致によって生まれた、もう一人の「わたし」であると。この一致の状態の卓越性と、霊魂が、そこで、その三つの能力の充実のなかで授かる無数の多様な実とについては、どのような言語が語ることができるであろうか。これこそ、わたしが、わたしの「真理」の言葉について、橋の三つの階段の全般的な意味を述べたとき、あなたに語った諸能力の心地よい連帯であるいかなる言語もこれを語ることができないであろう。しかし、聖博士たちは、この栄光の光明に照らされて、聖書を解釈し、これを示した。光栄あるアキノのトマスは、かれの学問は、人間的な研究によるよりは、祈りと、精神の 高揚と、知性を照らす光明とのなかで、汲み取ったものであると、語っている。それゆえ、わたしは、かれを、誤謬の暗黒を払うために、聖なる教会の神秘体の光明となしたのである。つぎに、栄光に輝く福音著者ヨハネはどうであろうか。わたしの「真理」であるキリストの貴重な胸の上で、あれほどの光明を見出したではないか。かれは、そこで汲み取った光明によって、福音をこれほど長いあいだ、世にもたらしたのである。みなが、なんらかの方法で、この光明をかかげた。かれらが感じた内的心情、かれらが味わった名状することのできない心地よさ、かれらが保ったわたしとの完全な一致は、言葉で は言い表すことができない。なぜなら、それは無限なことだからである。パウロは、つぎの ように語ったとき、このことを言いたかったのではないだろうか。「神が真実にご自分を愛する人々のために準備し、最後の日に与える幸福は、目も見ることができず、耳も聞くことができず、心も思いうかべることができない」 ああ、霊魂が、わたしとの完全な一致によって、わたしのなかに建てた住居は、どんなに心地よいことであろうか。あらゆる心地よさを絶する心地よさではないだろうか。この一致においては、霊魂の意志は、仲介者であるとは言えない。なぜなら、意志はわたしと一つのものとなっているからである。全世界にわたって、いたるところに、その謙遜で絶え間ない祈りの実が、芳香のように、広がって行く。その望みの芳香は、霊魂の救いのために叫ぶ。それは、わたしの神的「威光」の前に立ちのぼる、人間の声でない声の叫びである。以上が、霊魂がこの世で食べる一致の実である。そしてそれは、多くの労苦、汗、涙の代償によって獲得したものである。霊魂は、この一致から、すなわち、恩寵としては完全であるが、一致としては不完全なこの一致から、まことの堅忍によって、永遠の一致に移る。しかし、この世においては、霊魂は、肉体につながれているかぎり、その望むものによって満 たされることができないし、また、善徳に対する愛によって眠らされているにすぎない邪悪 な律法にしばられている。この律法はまだ死んでいない。もしも、これを眠らせている善徳 の道具が取り除かれるならば、目を覚ますことができる。それで、これを「不完全な一致」 と呼んだのである。しかし、この一致は、不完全であるとは言え、霊魂をなにものも奪うこ とのできない恒久的な完全性の獲得にみちびく。これは至福者たちについて述べたとき、話 したとおりである。そうなると、霊魂は、このまことに満たされた者たちといっしょに、永遠の生命であるわたしのなかに、決して終わることのない至高かつ永遠の善を味わうのである。他の人々がその涙から永遠の死以外に実を収めることができなかったのに、この人々は、 永遠の生命を授かったのである。かれらは、涙から歓喜に移った。かれらは、永遠の生命を、その涙の実と燃える仁愛とともに与えられた。そして、わたしにむかって叫び、すでに話したように、火の涙を、あなたがたのために、わたしにささげるのである。これで、涙の種々の段階、その完全性、および、霊魂が涙によって収める実について話し 終わった。完全な者は永遠の生命を授かり、悪人は永遠の亡びにおちいるのである。

 この霊魂が感謝と三つの願いとをささげることについて。

すると、この霊魂は、涙の諸状態に関して授かった説明と満足とのゆえに、果てしない望 みに悩まされ、愛に満ちて、申し上げた。──ありがとうございます。ありがとうございます。永遠にしていと高き「父」よ。あなたは聖なる望みを聞きいれてくださり、わたしたちの救いを熱望してくださいます。あなたは、わたしたちがあなたに反抗していたとき、愛によって、「愛」を与えてくださり、あなたの「ひとり子」を、わたしたちにつかわしてくださいました。あなたの熱烈な仁愛の淵にかけて、恩寵とあわれみとをお願い申し上げます。清浄と光明とのなかで、みもとに参りとうございます。暗黒のなかをさまよわないように、あなたの「真理」の教えの道を走らせてください。あなたは、この教えこそ真理であることを、はっきりと示してくださいました。しかし、わたしは、おちいる恐れのある二つの迷いについて心配しています。永遠の「父」よ、種々の状態に関するお話を終わる前に、これについて説明していただきとうございます。第一は次のことでございます。ときどき、だれかが、わたしあるいはあなたの他のしもべに、あなたに奉仕する方法についてたずねることがあります。そのとき、どのような教えを示したらよろしいでしょうか。たしかに、おやさしい永遠の神よ、あなたは、「わたしはわずかの言葉と多くの行為とを好む」とおっしゃって、これについて説明してくださいました。 しかし、あなたの「いつくしみ」によって、もう少し説明していただければ、まことにしあわせでございます。事実、わたし自身、あなたの被造物のため、とくにあなたのしもべたちのために祈るとき、この祈りのあいだに、ある者は立派な心構えをそなえた精神をもち、あなたをたのしんでいるように思われ、他の者は、暗黒にとざされた精神をもっているように思われます。その場合、永遠の「父」よ、一方は光明のなかにあって、他方は暗黒のなかにいると判断することができるでしょうか。あるときはまた、大きな苦業をおこなっている者とそうでない者とを見ることがありますが、大きな苦業をおこなっている者は、これをおこなわない者よりも、高い完全性に達していると判断すべきでしょうか。わたしが自分の考えにまどわされないた めに、あなたが全般的にお話しくださったことを、もっとくわしく説明してくださるようお 願い申し上げます。ご説明をお願いしたい第二の点は、永遠の神よ、あなたが霊魂をおとずれるとき、それが まことにあなたのおとずれであることは、どのようなしるしで認識することができるかということであります。わたしの記憶にあやまりがないとしたら、永遠の「真理」よ、あなたは、そのようなとき、精神は喜びを保ち、善徳に対するはげみを与えられると言われました。わたしが知りたいのは、この喜びは霊的自愛心の錯覚ではないかということでございます。そうだとしたら、善徳のしるしだけに愛着したいと思います。これがお願いしたいことでございます。それは、真理において、あなたと隣人とに奉仕し、あなたの被造物とあなたのしもべたちとに対して、誤断におちいらないようにするためであります。なぜなら、このような判断は霊魂をあなたから遠ざけるように思われるからであります。わたしはそのような不幸におちいりたくはありません。