■目次
- 信心生活に対する憧れよりこれを実行するための完全な決心に霊魂を導く教訓と勤め
- 真の信心
- 信心の優れていること
- 信心はすべての境遇、ならびに、職業に適していること
- 信心の生活に入り、また進歩するには指導者が必要なこと
- 霊魂の浄化をもって始めるべきである
- 第一の浄化、すなわち、大罪から去るべきこと
- 第2の浄化、すなわち、罪の傾向を去るべきこと
- いかにして第2の浄化をなすべきか
- 黙想㈠創造について
- 黙想㈡私たちのつくられた目的について
- 黙想㈢天主の恩恵について
- 黙想㈣罪について
- 黙想㈤死について
- 黙想㈥審判について
- 黙想㈦地獄について
- 黙想㈧天国について
- 黙想㈨天国の選択
- 黙想㈩信心生活の選択、および、決定
- いかにして総告白をなすべきか
- 天主に仕える決心を霊魂に銘じ、痛悔の結末となるべき宣誓
- 第一の浄化の結末
- 小罪に対する愛着の念から霊魂を清めるべきこと
- 無用にして、かつ、危険な事物の愛着から霊魂を清めるべきこと
- 悪しき傾向より霊魂を清めるべきこと
- 祈りと秘蹟によって、霊魂を天主にあげるために、必要な種々の教訓
- 祈りについて
- 簡単な黙想の方法 (準備の第一弾)天主の御前にあることを思うこと
- (準備2段階)天主の助力を請うこと
- (準備の第3段)玄義の上程について
- (黙想第2部)省察について
- (黙想の第3部)感激と決心について
- 結末と精神的花束について
- 黙想に関する二、三の注意
- 黙想中の心の乾燥について
- 朝の勤め
- 夜の勤めと良心の糾明
- 霊的孤独の勤めについて
- 思いを寄せること・念祷およびよき思いについて
- ミサ聖祭にあずかるときの心得
- その他の共同的な信心について
- 聖人を敬い、その助けをもとめるべきこと
- いかにして天主の御言葉を聞き、または、読むべきか
- いかにして霊示をうけるべきか
- 悔悛の秘蹟について
- しばしば聖体を拝領すべきこと
- 聖体拝領の方法
- 修徳に関する種々の教訓
- 徳行の選択について
- 徳行の選択について(つづき)
- 忍耐について
- 外面的の謙遜について
- 内面的の謙遜について
- 謙遜は、私たちに卑賤を愛させること
- 謙遜を実行しつつ、いかにしてよき名を保つべきか
- 隣人に対する柔和について、および憤怒に対する心得
- 自己に対する柔和について
- 熱心にことをなして、しかも焦慮せず、思い煩わないこと
- 服従について
- 貞潔の必要について
- 貞潔を守るための心得
- 富のうちにあっても、精神の貧しさを守るべきこと
- 実際の富んでいて、しかも清貧を守る方法
- 真実の貧窮の中における精神の富
- 友情について、悪くむなしき友情について
- 遊戯的恋愛について
- 真の友情について
- 真の友情と虚偽の友情との相違について
- いかにして邪悪な友情より逃れるべきか
- 友情に関するその他の教訓
- 外面的苦行について
- 談話と沈黙について
- 服装に関する注意
- 談話について、いかに天主のことを語るべきか
- 会話において慎みを失わないこと、および他人に対する尊敬について
- 秩序のない軽率な判断について
- 誹謗について
- 談話に関するその他の注意
- 娯楽について、善良なる娯楽について
- 娯楽について、善良なる娯楽について
- 禁止される娯楽について
- ダンス、その他の正当であるが危険な遊戯について
- 遊戯、または、ダンスをしてよいのはいつか
- 大事にも、小事にも、忠実であるべきこと
- 正しく、道理あるべきこと
- 希望について
- 結婚している人々への教訓
- 神聖なる婚姻を汚さないこと
- 寡婦にたいする教訓
- 少女に与える教訓
- 最も普通の誘惑に対して、必要な教訓
- 霊魂を更新し、これを信心の中に堅固にさせるために、必要な勤めと教訓
- 以下の勤行によって、毎年、よい決心を新たにさせること
- 天主が奉仕・献身の生活にあなたを召される時、あなたにくださった恩寵の省察
- 天主が奉仕・献身の生活にあなたを召される時、あなたにくださった恩寵の省察
- 信心の生活に進歩したかどうかについて霊魂を検査すべきこと
- 天主に対する私たちの検査
- 私たち自身に対する態度の検査
- 隣人に対する私たちの態度の検査
- 隣人に対する私たちの態度の検査
- 以上の糾明後に有すべき感激
- 私たちの決心を更新するために必要な省察
- 第一の省察 私たちの霊魂の価値について
- 第二の省察 徳行のすぐれたること
- 第三の省察 諸聖人の模範について
- 私たちに対するイエス・キリストの御慈愛について
- 第五の省察 私たちに対する天主の永遠の愛について
- 上記の省察に基づく概括的の感激、ならびに勤めの結末
- 以上の勤めの後に保つべき感情
- この「入門」の書に関して生ずべき二つの疑惑に対する応答
- この「入門」に関する三つの重要な最後の教訓
信心生活に対する憧れよりこれを実行するための完全な決心に霊魂を導く教訓と勤め
真の信心
信心の優れていること
信心はすべての境遇、ならびに、職業に適していること
信心の生活に入り、また進歩するには指導者が必要なこと
霊魂の浄化をもって始めるべきである
第一の浄化、すなわち、大罪から去るべきこと
第2の浄化、すなわち、罪の傾向を去るべきこと
いかにして第2の浄化をなすべきか
黙想㈠創造について
黙想㈡私たちのつくられた目的について
黙想㈢天主の恩恵について
黙想㈣罪について
㈡これらを実行するために、あなたの心を天主に捧げなさい。
㈢天主の御助けを願いなさい。云々。
黙想㈤死について
主祷文・天使祝詞
信心の花束をつくりなさい。
黙想㈥審判について
結末
㈠その日に、あなたを安全にすることができる方法と贖罪の時間を与えてくださっている、天主に感謝しなさい。
㈡そのために、あなたの心を、天主に捧げなさい。
㈢これを実行するために必要な聖寵をくださることを祈りなさい。
主祷文
天使祝詞
霊的花束を作りなさい。
黙想㈦地獄について
黙想㈧天国について
黙想㈨天国の選択
黙想㈩信心生活の選択、および、決定
いかにして総告白をなすべきか
天主に仕える決心を霊魂に銘じ、痛悔の結末となるべき宣誓
主よ、あなたは私を虚無から創ってくれました。そして、私が、主の恩恵に値しない、卑しい被造物であるにもかかわらず、私を生かし、多くの危険から救い、多くの恩恵をくださるあなたの無限の慈しみと憐れみを感じます。特に、この慈しみ深い天主が、私の不義を憐れみ、これを許し、私に贖罪を勧め、また、しばしば、善い決心をくださります。あなたの限りない憐れみと慈しみを思い、特に、私は、あなたの聖寵を軽く見て改心をのばし、浅い心で主に背いてきた私の忘恩・不義・不信にもかかわらず、今日に至るまで、私の痛悔を待ってくださった、あなたの無限の慈しみと憐れみを思います。また、私の洗礼の日に、幸福に満ちつつ、主の子になることを誓い、自分を主に捧げたのにもかかわらず、この時の誓いに反して、あなたに背いて、私の霊魂の能力を使用し、不幸にも、私の霊を汚したことを憎みます。私は、今、本心に立ち帰り、心から天主の正義の玉座のまえにひざまずきます。私は御稜威を犯した罪人であり、私の罪のために、イエス・キリストは十字架上で御苦難と御死去をお忍びになりました。私は、当然、永遠に捨てられ、滅亡の淵に入るべきものあり、主の御受難と御死去の原因となったことを告白します。私は、再び、同じ天主の限りない慈しみの玉座に向かい、あらゆる限りの心を尽くして私の過去の生涯の不義を憎み、私の霊魂の主なる救い主の御受難と、御死去との功徳によって、私の罪過の全部の赦しとともに、主の聖寵と慈しみを、うやうやしくこい願います。また、さらに、私の希望の唯一のよりどころである主の功徳によって、私は洗礼の日に、天主に向かい誓った忠信の聖なる約束を、ここに繰り返します。私は、悪魔と世間の肉を捨て、その不幸な勧めと、誇りと、快楽とを、この世に生きている限り、また、永遠に至るまで決して顧みることがないことを再び誓います。私は慈しみと憐れみに満ちておられる天主に従い、今日も、世々に至るまで、主に仕え、主を愛することを切望して、変わらぬ決心をし、私の霊魂とその能力、私の心とその愛情、私の体とその官能を、ことごとく主に捧げます。ですから、私は、この後、私の存在の一部たりとも、これを主のみ旨と、主の御稜威に背いて悪用しないことを誓い、いつも主の誠実・従順なる被造物であるために、犠牲として自分を主に捧げて、この約束を否定し、または、後悔することをしないことを決心します。しかし、もし悪魔の誘惑、または人性の弱さによって、いかなる事柄に欠けているとしても、私がこの決心に背くならば、これを発見したらすぐに、聖霊の恩寵にて、再び回心し、遅れることなく、ちゅうちょすることなく、主の憐れみにより頼むことを、あらかじめ今約束します。以上は、私の意志、すなわち変わらぬ決心として、これを、天主と、私の聴罪霊父の代表する母なる戦闘の教会との前に約束し、なにも除外することなく誓います。願わくは、主、永遠・全能・全善である天主、父・子・聖霊、私のこの決心を強め、私の心の犠牲を、主の御前に立ち上る快い香りとして受け入れてください。また、私にこれを果そうとする希望と意志をくださったように、私にこれを成し遂げる力と助けをお与えください。ああ、天主、主は私の心、私の霊魂、私の精神の天主でいらっしゃいます。私は、このように主を認め、今も、いつも、世々に至るまで礼拝します。イエス万歳!と。
第一の浄化の結末
小罪に対する愛着の念から霊魂を清めるべきこと
無用にして、かつ、危険な事物の愛着から霊魂を清めるべきこと
悪しき傾向より霊魂を清めるべきこと
祈りと秘蹟によって、霊魂を天主にあげるために、必要な種々の教訓
祈りについて
簡単な黙想の方法 (準備の第一弾)天主の御前にあることを思うこと
(準備2段階)天主の助力を請うこと
(準備の第3段)玄義の上程について
(黙想第2部)省察について
(黙想の第3部)感激と決心について
結末と精神的花束について
黙想に関する二、三の注意
黙想中の心の乾燥について
朝の勤め
夜の勤めと良心の糾明
霊的孤独の勤めについて
思いを寄せること・念祷およびよき思いについて
ミサ聖祭にあずかるときの心得
その他の共同的な信心について
聖人を敬い、その助けをもとめるべきこと
いかにして天主の御言葉を聞き、または、読むべきか
いかにして霊示をうけるべきか
悔悛の秘蹟について
しばしば聖体を拝領すべきこと
聖体拝領の方法
修徳に関する種々の教訓
徳行の選択について
徳行の選択について(つづき)
忍耐について
外面的の謙遜について
内面的の謙遜について
謙遜は、私たちに卑賤を愛させること
謙遜を実行しつつ、いかにしてよき名を保つべきか
隣人に対する柔和について、および憤怒に対する心得
自己に対する柔和について
熱心にことをなして、しかも焦慮せず、思い煩わないこと
服従について
貞潔の必要について
貞潔を守るための心得
富のうちにあっても、精神の貧しさを守るべきこと
実際の富んでいて、しかも清貧を守る方法
真実の貧窮の中における精神の富
友情について、悪くむなしき友情について
遊戯的恋愛について
真の友情について
真の友情と虚偽の友情との相違について
いかにして邪悪な友情より逃れるべきか
友情に関するその他の教訓
外面的苦行について
談話と沈黙について
服装に関する注意
談話について、いかに天主のことを語るべきか
会話において慎みを失わないこと、および他人に対する尊敬について
秩序のない軽率な判断について
誹謗について
談話に関するその他の注意
娯楽について、善良なる娯楽について
娯楽について、善良なる娯楽について
禁止される娯楽について
ダンス、その他の正当であるが危険な遊戯について
遊戯、または、ダンスをしてよいのはいつか
大事にも、小事にも、忠実であるべきこと
正しく、道理あるべきこと
希望について
結婚している人々への教訓
神聖なる婚姻を汚さないこと
寡婦にたいする教訓
少女に与える教訓
最も普通の誘惑に対して、必要な教訓
世俗の批評を気にしないこと
勇気を持つべきこと
誘惑の性質、ならびに、誘惑を感じること、これに同意することの違いについて
誘惑と同意とに関する二好例
誘惑の中にある霊魂の慰藉
誘惑、および、快楽が罪を構成する場合
大きな誘惑に処する方法
小さな誘惑にも抵抗すべきこと
小さな誘惑に対処する方法
誘惑に対して霊魂を強める方法
精神の不安について
悲哀について
霊的感覚的の慰め、および、これに処する方法
①まず天主のみ前に深くへりくだりなさい。この理由をもって、「私は善人であります」と言わないように気をつけなさい。フィロティアよ、すでに説明したように、敬虔とはこの快感でありません。故に、この幸福は、人間の真価を増加するものではありません。むしろ、「ああ、主は主を望み 、主を求めるものに、憐れみ深いことか」と言わなければなりません。砂糖を舐めて甘いのは、口が甘いからではなく、砂糖が甘いからです。そのように、この霊的慰めはよく、これを与えてくださる天主もよいのでありますが、直ちにこれをもって、受ける人が良いとは言えません。
②私たちは、まだ乳を飲まねばならない幼児であることを忘れてはいけません。天主が、これらのボンボン菓子をくださったのは、私たちの精神が、まだ、幼稚であって、天主の愛に答えるために、おやつを必要とする証拠であります。
③しかる後に、普通の場合には、私たちは謙遜して、主の恩恵を大切に受けないといけません。そのこと自身が尊いからではありません。天主がこれを私たちの心にくださることであります。母親が、その子を可愛がって 、ボンボン菓子を一粒ずつ、手で子供の口に入れてやるようなものです。このように、フィロティアよ、慰めは甘美であるが、それを私たちの口・心・霊魂・精神に入れてくださるのは、慈母のように愛に溢れた天主の御手であることを思うことが、すなわち、この甘味を数層倍にする理由であります。
④このように、謙遜にこれを受け、次には、与えてくださった天主のみ旨に沿うように、これを善用することに、心を用いなければいけません。天主が、私たちに、この甘味を与えてくださったのは、どうしてであろうか。それは、結局、他人に対して優しく、主に大きな愛に溢れさせるためであります。母は、幼児の接吻を求めるために、お菓子をやるのではありませんか。ですから、私たちもこのようにたくさんの甘味を与えてくださる救い主を、接吻しに行きましょう。しかし、主を接吻するとは、主に従い、主の掟を守り、み旨を行い、御勧めを聞くことであります。すなわち、従順と忠信とをもって、優しく接吻しにいくことです。故に、もし、霊的慰めを受けたならば、私たちは、その日には、一層善行を行い、謙遜になるように心がけねばなりません。
⑤その他、私たちの心をこのような甘味・幸福・慰めに執着させないために、時として、故意にこれから離れないといけません。そして、私たちは、たとえ、これらを謙遜に受け、またこれを愛するものが(これをくださるのは天主であり、また、これによって天主の愛を増やすために)、私たちが本当に求めるのはこれらでなく、天主ご自身、並びに、天主に対する愛であります。慰めではなく、慰める者であります。甘味それ自身ではなく、とても甘味な救い主であります。幸福ではなく、天地の喜びであるお方であると申し上げねばなりません。そして、また、たとえ、私たちの一生涯に、一度も慰めを味わうことがなくても、天主の聖愛に止まって、変わることのないことを覚悟し、カルワリオ山においても、ダボル山の頂におけるように、「主よ、十字架に上らせても、または、光栄の中にあっても、主と共にいることは本当にいいことです」と言うことを決心しなければなりません。
⑥なお 最後に一言するのは、このような慰め・感激・涙。幸福が特に多い時、または、これに関して異常なことが起こったならば、その時に取るべき態度、これを抑制する方法について、あなたの指導者に謹んで教えを請うべきことであります。たしかに、「 蜜を見つけたら思う存分食べなさい、だが胸をつかえるほどは食べるな、吐いてしまうだろう」(箴言25・16)と記してあるからであります。
精神の乾燥時における心得
5・あなたがこの世の楽しみに十分に満足しているならば、霊的の幸福を必ず嫌悪するようになります。昔の諺に、「満腹となった鳩にはサクランボも苦い」と言います。聖母も「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカ1・52)と仰せられました。世間の楽しみに富んでいるものは、霊的の富をもつことはできないのであります。6・もし、あなたが、天主よりいただいた慰めの効果を、よく持ち続けるならば、さらに、新しい慰めを受けます。「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、与えられたものを保つ手段を知ろうとしないで、これを自分の過失によって失った人は、持っているものまでも取り上げられ、与えようと準備された聖寵でさえ、奪われるのに至るであろう」。雨は、青々と繁茂する草木に活力を与えるけれども、生命のない草木には、その持っていない生命をも奪ってしまう。すなわち、後者は、雨によって、まったく腐敗してしまいます。このように種々の原因によって、私たちは信心の慰めを失い、精神の乾燥不毛の状態に陥ることがあります。ですから、私たちは、このような過失を犯したのではないかと、注意して、私たちの良心を調べる必要があります。しかし、フィロテアよ、この検査に際しては、不安と過度の好奇心は禁物です。私たちは、これらの点について、私たちの所業を忠実に検査して、もし、この不幸の原因を、私たち自身の中に発見したならば、天主に感謝しないといけません。その原因が見つかれば、不幸は半ば回復したのと同じであるからです。
また、もし、この乾燥の特殊の原因を発見することができない場合には、さらに興味をもって探索を続ける必要はありません。特殊の事項を探し求めないで、きわめて単純に、以下のことがらをするといいでしょう。
1・天主の前に深くへりくだり、あなたの虚無・無価値を認めなさい。「私一人になるとき、私はなにものなのか。主よ、私は乾いた地に過ぎません。この地がひび割れているのは、天から来る恵みの雨を待てるのに、風が吹いてきて、塵埃となって乱れ散っているからです」。
2・天主を呼び、その御慰めを求めなさい。「主よ、あなたの救いの幸福を私に与えて下さい。私の父よ、できることならば、この杯を私から取り去ってください。止みなさい、私の霊魂を乾燥させる熱風よ。快い慰めの微風よ、来て私の園に吹いて、その香りをあげてください」。
3・聴罪司祭を訪れ、あなたの心を開き、霊魂を隅々まで彼に示しなさい。彼の与える教訓を、大きな単純と謙遜とをもって受けなさい。服従を最も愛する天主は、他人より、とくに霊魂の指導者から受ける、外的な普通の教訓を、たいへん有益なものとしてくださります。それは、ちょうど、特に人間的な理由がないエリゼアの命令に従い、ナアマンがヨルダンの河水に浴して、その病を癒したのと同様であります(列王記4、5)。
4、しかしながら、このような乾燥・不毛の状態に陥ったならば、これを逃れようと焦慮・煩悶することを止めるのが第一の良薬であります。私は、救いを切望することを非難するのではありません。焦慮がいけないことを説くのであります。当然、すべてを天主の純粋な憐れみと、特殊の摂理とにまかせ、思召しのままに、この茨の荒野において私たちに仕事をさせることを甘受すべきであります。ですから、このような時には、天主に、「父よ、もしできるならば私よりこの杯を取り除いてください」と祈ると共に、直ちに「しかし私の思いではなく、あなたのみ旨が行われますように」と付け加え、あらん限りの平和をもって、この中に身を置かないといけません。そうすれば、天主は、私たちのこの聖なる無関心をながめ、再び、たくさんの聖寵と恩恵とを授けて私たちを慰めるでしょう。まるで昔、アブラハムが、わが子イザヤをも、主のためにあえて惜しまないと決心したのをご覧になり、この尊い忍従の無関心をお喜びになり、たいへん快い不思議と、とても甘美な祝福をもって、彼を慰めなさったのと同様であります。私たちは肉体的・精神的のありとあらゆる困難の中に、絶えず以上の言葉を繰り返した、ヨブに対してなさったように(ヨブ1・21)、主は私たちにも、その最も甘美な恩寵をたれてくださるに至るでしょう。
5・フィロテアよ、私たちはいかなる乾燥・不毛の間にあっても、決して勇気を失ってはいけません。忍耐して慰めが来ることを待ちながらも、私たちの日々の務めを尽くして、そのために信心の業をおろそかにしないで、かえって、できるならば、善行の数を増すことが肝要であります。そうして、私たちの最愛の天配に、新鮮な果物を捧げることができなければ、せめて乾いたものを捧げましょう。なぜならば、果物が新鮮であるかないとかは、主にとって同一であるから、主にこれを捧げる人の心が、聖愛の堅い決心を持ってさえいればいいからです。晴天が続く春には、ミツバチは蜜をたくさん作るが、子を生むことは少ない。天気がよいので、花に飛び回り蜜を吸うのに忙しく、子を育てることを忘れるからです。これに反して、寒く曇りがちな春には、子を多く生み、蜜を少なく作ります。なぜならば、蜜を集めに出ることができないので、種族の繁殖に尽くすからです。フィロテアよ、霊的慰めの美しい春には、霊魂は、蜜を吸い集めるために、心を奪われて、甘美な楽しみの中に、善行が少ないことがまれではありません。また、これに反して、霊魂の冬枯れの乾燥のうちにあっては、快い感傷的な信心を失うにつれて、堅固な善業を増加することに努め、忍耐・謙遜・卑下・忍従・自我の否定など、真の善徳を豊かに生み出すのです。多くの人々、とくに婦人たちは、私たちが興味もなく、心の潤いも、感情もなく、天主に尽くす務めは、誉められることではないと信じていますが、これは大変な間違いであります。私たちの行為は、バラであります。新鮮なるバラは見る目には美しいが、渇いた花は香りが高い。そのように、心の潤いをもってなされた行為は、私たちには、すなわち、自己の喜びのみに注意する私たちには、より快いが、乾燥・不毛の中になされた行為は、天主のみ前によりかんばしく、より尊いのであります。愛するフィロテアよ、乾燥に当たって、強いて私たちを天主に対する務めに服従させるのは、私たちの意志の力です。潤いの時よりも、なお、私たちが強く忠実でなければ、これは不可能であります。平和に際して、宮廷の歓楽中に、王に仕えるのは困難ではありません。しかし、戦争の苦をしのぎ、困厄と迫害を冒して王に仕えるのは、真の忠信の徴であります。福者フォリニョのアンジェラは、天主の最も喜ぶ祈りは、自己を強いてする祈りであると言いました、すなわち、祈りに対する興味、あるいは、心の傾きによって祈るものではなく、単に天主のみ旨を果す意志でもって、祈りより私たちを遠ざける乾燥・嫌悪の情を抑えて、無理に、私たちの意志を行うところの祈りであります、との意味です。私たちは、あらゆる善行において同じ様に言いましょう。これを実現するのに外面的、内面的な障害があればあるほど、善行は天主のみ前において、尊く価値があります。徳行を追求するに際しては、自己の利益を度外視するほど、純粋な天主の愛がそこに現れます。砂糖を与えれば、どの子供でも、すぐ母を接吻するが、苦い薬を与えても、母を接吻するのは、深く母を愛する幼児に限るのであります。
以上のことがらを立証し、説明するのに適切なある実話
2・また、天主は賢明な摂理によって、時として、私たちより慰めの蜜を奪います。これは私たちを乳房から離して困難と誘惑の試練のなかで、力強い信心の堅い乾いたパンを食べさせるためであります。
3・しばしば、激しい暴風が、乾燥・不毛の間に起こることがあります。この時には、全力を尽くして誘惑と戦わないといけません。おおよそ誘惑は天主より来るものではないからです。しかし、乾燥は天主が私たちの修徳の進歩のために、送ってくださるのであるから、これを忍従しないといけません。
4・精神の困難の中においても、落胆したり、またはジェオフロアのように「私は決して幸福なることはないだろう」などと言ってはいけません。夜の暗闇にいる時にも、光明を希望しなさい。また反対にこれ以上の幸福はないと思えるほどに慰めに満ちた日においても「私は決して悲しむことはないだろう」と言ってはいけません。まさしく、知者が「幸福な日にも不幸を思うべきです」(集会11・27)とのことばの通りです。働く間に希望して、栄華の間に恐れ、そのいずれにおいても、へりくだらねばいけません。
5・私たちを慰めることができる、霊魂上の友に、悩みを打ち明けるのは、最善の療法であります。この重要な教訓の結論として、注意したいのは、天主と悪魔とは、すべて他の場合におけるように、この場合にも、正反対の目的を有することであります。天主がこの試練を送ってくださるのは、これによって、その人の心を清め、あらゆる利己心を去らせ、完全に自分を捨てて、純粋に天主に仕えさせるためでありますが、悪魔は、これによって、その人を落胆させ、肉体的快楽に招き、清い信心の名誉を傷つけるために、私たち自身および他人に対しても耐えがたくします。しかし、上に述べた教訓を守れば、あなたは、これらの精神的困難の間に実行する善徳によって、あなたの完徳の成就の助けにできることが少なくないでしょう。
この章を終わるに当たって、なお一言したいことがあります。時として、このひどい不毛乾燥の状態は、身体の違和が原因であることがあります。すなわち、たとえば、睡眠の不足、過度の労働、または大斎により、疲労・眠気・倦怠などが生じ、これが元来、肉体の違和になるにもかかわらず、心身両者間に存在する密接な関係のために、精神に悪影響をおよぼす場合であります。このような場合でも、私たちはやはり私たちの精神の尖端、すなわち意志の上部の能力をもって、多くの善業を行うことを忘れてはいけません。なぜならば、たとえ、私たちの霊魂が、まったく睡眠し、あるいは、疲労しきっているように見えても、私たちの精神の行いは、天主のみ前に尊いからです。このような時こそ、私たちは雅歌の乙女と共に、「私は眠っていますが、心は覚めています」(雅歌5・2)と言うことができるでしょう。すでに述べたように、このような努力はたとえ興味に乏しくても、功徳と善徳の価値とにおいてすぐれているのです。しかし、このような時には、また、身体に正しい休息を与え、これを力づけて、乾燥・不毛を癒さないといけません。聖フランシスコもかつて、弟子たちに、精神の情熱を冷やさないように、ほどよく彼らの労働を緩和すべきであると戒めました。この偉大な師父自身についても、下のような物語があります。彼は、ある時、精神の激しい憂鬱に襲われて、なにをしても、それから免れることができませんでした。弟子たちと話をしようとしても、それもできず、孤独になれば、苦悩はさらに深く、大小斎も肉体の苦行も、ただ苦悩をますばかりであり、祈りも少しも楽しくなく、この状態が二年にわたり続き、その間、全く天主より見離されたようでありました。しかし、この苦しい試練を、謙遜に忍従したために、ついに救い主は、一瞬のうちに、彼に無上の幸福と平和を与えたのです。私が、この物語を書くのは、天主の最大の僕といえども、この種の変化を味わうのであるから、まして初歩のものが、時としてこのような状態に陥っても、あえて深く怪しむ必要はないことを証明するためです。
霊魂を更新し、これを信心の中に堅固にさせるために、必要な勤めと教訓
以下の勤行によって、毎年、よい決心を新たにさせること
天主が奉仕・献身の生活にあなたを召される時、あなたにくださった恩寵の省察
4・どのように、あなたは、この宣誓をしたか。ああ、どれほど、天主は、その日、あなたに慈しみ深かったことか。あなたは、聖霊の甘美な御招きによって、呼ばれたのではなかったか。天主が、あなたの小舟を、この救いの港に引き寄せてくださった二筋の綱は、愛と恵みではなかったか。天主は秘蹟・読書・祈りのうちに、神の愛が甘美であることを示して、あなたを養ってくれたのではないか。ああ、愛するフィロテアよ、あなたが眠っている間に、天主はあなたの心の上に平和を願って、あなたのために愛の配慮を思いめぐらしてくださったのです。
5・天主が、あなたを、この一大決心に導いてくださったのは、いつであったか。それはあなたの生涯の花の時期であったのです。いくら早く悟っても、早すぎるということができないことを、早く知ることができたのは、なんと幸福なことであろう。聖アウグスチノが天主のみ声を聞いたのは、彼が三十歳のときであった。このとき彼は叫んで言いました。「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを知ることが遅かったのか。常にあなたを見ていましたが、あなたを思うことはなかった」と。あなたもまた「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを味わうことが早くなかったのか」と言わねばなりません。しかも、そのときでさえ、あなたはそれに値しなかったのです。ですから、あなたが若いとき、あなたを招いてくださった天主の限りない恩寵を思って、ダビデと共に、「神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました」(詩編71・17)と言うといいでしょう。また、主があなたを召し出してくださったのが、あなたの老年においてであったとします。フィロテアよ、生涯の大半を浪費してしまった後に、これにもかかわらず、天主があなたを死の前に召し出して、あなたの罪の生活を止めてくださったのは、どんなに御慈しみ深いことであるか。もしも、そのままにいたならば、あなたは永遠の不幸を見るはずであったのに。
6・この天主の召し出しの効果を省察しなさい。おそらく、あなたの現在と過去を比較するならば、よい変化を発見するでしょう。祈りによって天主に語る方法を覚え、天主を愛する意志を生じ、あなたを不安にさせた多くの欲望の力を減らし、多くの罪と良心の煩悶を避けることができ、これまでよりも、しばしば聖体の秘蹟に近づき、永遠の聖寵の源泉に一致するようになったのは、真の幸福であります。どれほど、これらの聖寵は大きいことか。フィロテアよ、あなたはこれを至聖所の秤にかけて計らないといけません。この一切の行ってくださったのは、天主の右手でありました。「主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて、…心と、口と、行いをもって…主の御業を語り伝えよう」(詩編117・16、17)とダビデ王は歌いました。これらの省察の最後に(それはあなたによい感情を豊かに与えるはずであるから)、天主に感謝を捧げ、これを十分に利用しようとの熱烈な祈りをして、謙遜と天主に対する大きな信頼の感情に満たされて、この省察を終えるといいでしょう。新たに堅実な決心を作ることは、この勤めの第二段に譲ります。
天主が奉仕・献身の生活にあなたを召される時、あなたにくださった恩寵の省察
4・どのように、あなたは、この宣誓をしたか。ああ、どれほど、天主は、その日、あなたに慈しみ深かったことか。あなたは、聖霊の甘美な御招きによって、呼ばれたのではなかったか。天主が、あなたの小舟を、この救いの港に引き寄せてくださった二筋の綱は、愛と恵みではなかったか。天主は秘蹟・読書・祈りのうちに、神の愛が甘美であることを示して、あなたを養ってくれたのではないか。ああ、愛するフィロテアよ、あなたが眠っている間に、天主はあなたの心の上に平和を願って、あなたのために愛の配慮を思いめぐらしてくださったのです。
5・天主が、あなたを、この一大決心に導いてくださったのは、いつであったか。それはあなたの生涯の花の時期であったのです。いくら早く悟っても、早すぎるということができないことを、早く知ることができたのは、なんと幸福なことであろう。聖アウグスチノが天主のみ声を聞いたのは、彼が三十歳のときであった。このとき彼は叫んで言いました。「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを知ることが遅かったのか。常にあなたを見ていましたが、あなたを思うことはなかった」と。あなたもまた「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを味わうことが早くなかったのか」と言わねばなりません。しかも、そのときでさえ、あなたはそれに値しなかったのです。ですから、あなたが若いとき、あなたを招いてくださった天主の限りない恩寵を思って、ダビデと共に、「神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました」(詩編71・17)と言うといいでしょう。また、主があなたを召し出してくださったのが、あなたの老年においてであったとします。フィロテアよ、生涯の大半を浪費してしまった後に、これにもかかわらず、天主があなたを死の前に召し出して、あなたの罪の生活を止めてくださったのは、どんなに御慈しみ深いことであるか。もしも、そのままにいたならば、あなたは永遠の不幸を見るはずであったのに。
6・この天主の召し出しの効果を省察しなさい。おそらく、あなたの現在と過去を比較するならば、よい変化を発見するでしょう。祈りによって天主に語る方法を覚え、天主を愛する意志を生じ、あなたを不安にさせた多くの欲望の力を減らし、多くの罪と良心の煩悶を避けることができ、これまでよりも、しばしば聖体の秘蹟に近づき、永遠の聖寵の源泉に一致するようになったのは、真の幸福であります。どれほど、これらの聖寵は大きいことか。フィロテアよ、あなたはこれを至聖所の秤にかけて計らないといけません。この一切の行ってくださったのは、天主の右手でありました。「主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて、…心と、口と、行いをもって…主の御業を語り伝えよう」(詩編117・16、17)とダビデ王は歌いました。これらの省察の最後に(それはあなたによい感情を豊かに与えるはずであるから)、天主に感謝を捧げ、これを十分に利用しようとの熱烈な祈りをして、謙遜と天主に対する大きな信頼の感情に満たされて、この省察を終えるといいでしょう。新たに堅実な決心を作ることは、この勤めの第二段に譲ります。
信心の生活に進歩したかどうかについて霊魂を検査すべきこと
2・聖霊に祈り、この光明の賜物を願いなさい。これは、謙遜の心をもって天主のみ前に、「ああ主よ、あなたを知り、また私を知ることができますように」と祈った聖アウグスチノ、および「あなたはどなたであり、私は誰でしょうか」と天主に尋ねた聖フランシスコにならって、あなたが自分をよく知ることができるためであります。あなたが自己の進歩を検査するのは、自ら誇るためではなく、自らの光栄を求めるためでなく、天主において喜び、天主に光栄を帰し、感謝するためであると言いなさい。
3・あなたが予想するように、この検査の結果、進歩したことが少なく、あるいは、むしろ退歩したと分かっても、そのために落胆・失望して、勇気をなくしてはいけません。かえって、さらに勇気を出し、一層謙遜になり、天主の聖寵の助けをもって自分の過失を償おうと、今より約束しなさい。その後に、静かに、今日まで、あなたが、どのように天主に対し、人々に対し、自分に対してふるまったかを検査しなさい。
天主に対する私たちの検査
4・霊的勤めに対するあなたの心の態度はどうであるか。それを愛し、その価値を認めているか。退屈したり、いやになったりしないか。その中でなにを好み、なにを好まないか。天主のみ言葉を聞き、これを読み、これについて考え、黙想し、天主に祈り、告白し、霊的勧告を受け、聖体拝領をよく準備し、聖体を拝領し、自分の欲望を制するなどの中で、心に面白くないと思うものがあるか。もしも、そうならば、この嫌悪の情はどこから生まれて、何に由来するのか。
5・天主自身に対してあなたの心の態度はどうであるか。あなたは天主を思うことを好むか。あるいは、すこしもこれに幸福を覚えないか。「主よ、私はあなたのことを思い出し、私は力づけられます」(詩編18・52)とダビデは歌った。あなたの心の中には天主を愛する一種の傾きがあるか、また、この愛を味わう特殊の喜びがあるか。あなたの心は、天主が無限であること、および、その慈しみ・甘美について、思いめぐらすことを愛するか。天主のことを、俗務に従事している間、またはむなしき遊戯の間に思い出したならば、この思いが果たして直ちにあなたの心を捕えその一部分を占めるか。この時、あなたの心はその方に向き直り、ある意味で、走って天主を迎えようとするか。このような人々は確かにいます。夫が遠国から帰って来れば、妻は夫の姿を見て、その声を聞くとすぐに、どんなに忙しく、どんなに大切なことを考えていても、その心は、余計な考えに捕らわれることなく、直ちにこれを捨てて、帰って来た夫を思うであろう。真実に天主を愛する霊魂も同じです。たとえ、どんあに忙しい時でも、天主の思いが起こったならば、この楽しい思いを迎える喜びにたえず、他のことがらはほとんど手につきません。そして、これは実によい徴であります。
6・真の天主であり、真の人であるイエス・キリストに対するあなたの心の態度はどうであるか。聖主を思うことはあなたの喜びであるか。ミツバチは好んで蜜の周囲に飛び、山バチは好んで腐敗物の周囲に集まります。そのように、善良な人々は、イエス・キリストにおいて、この幸福を求め、イエスに対して、甘美な愛を抱くけれども、悪人の楽しみは虚栄を追うことであります。
7・聖母・諸聖人・あなたの守護の天使をどのように思うのか。あなたは彼らを深く愛するか。彼らの保護に特別な信頼をもっているか、彼らの聖像・伝記・賛美はあなたの喜びであるか。
8・あなたの舌に関して。あなたは天主についてどのように語るか。あなたは、自分の境遇と能力に従い、天主を褒め称えるか。あなたは讃美歌を歌うことを好むか。
9・行為に関して、あなたは天主の外面的光栄を望みとし、その御稜威を増すためになにをしているか。天主を愛するものは、聖主と共に天主の家を飾ることを愛します。
10・あなたは天主のために、ある欲望、あることがらを犠牲にしたか。自分の愛するもののために、ある不自由を忍ぶのは、愛の確実な徴であるが、あなたは天主の愛のためになにを捧げたか。
私たち自身に対する態度の検査
4・天主のみ前において、あなたは自分の価値をどう見積もるのか。もちろん、虚無と信じるであろう。しかし、一匹のハエが、高い山に自分を比べて虚無と思い、一滴の水が、広大な海と自分を比べて虚無と思い、一閃の火花が、太陽の炎々たるに自分を比べて虚無と思うのは大きい謙遜ではありません。謙遜とは自分を他人と比べて高ぶらないで、また、他人の賞賛を求めないところにあります。この点に関して、あなたはどうであるか。
5・言語に関し。あなたは自ら誇り、あるいは、自分のことを語りつつ、人に気に入られようと語っていないか。
6・行為に関し。あなたは、自分の健康を損なうような娯楽にふけることはないか。無駄なつまらない娯楽、用もないのに夜ふかしをすることなど。
隣人に対する私たちの態度の検査
隣人に対する私たちの態度の検査
3、財産・快楽・名誉に対する私たちの希望。
4、罪を犯す危険の恐怖、ならびに現世的財産を喪失することに対する恐怖。私たちは後者を恐れずに、前者を無視しやすい。
5、私たちは、おそらく現世と被造物とに希望をかけ、これに反して、天主と天国の宝とに希望を有しているか。
6、私たちは、空虚なことに関して、過度の悲哀を抱かないか。
最期に、いかなる感情が私たちの精神の自由を妨げ、これを支配しているか。なんについて、主として失敗したか。霊魂の感情を吟味すれば、その状態をうかがうことができます。楽人が琴をかき鳴らす前に、すべての絃を調べて、調子の狂ったものは、あるいはこれを張り、あるいはこれをゆるめて、正すように、私たちも、私たちの霊魂の愛情、すなわち、憎悪・希望・恐怖・信頼・悲哀・喜びのおのおのを調べて、私たちが演奏しようとする曲、すなわち天主の栄光に調和しないところを発見したならば天主の聖寵と、指導霊父の教訓とによって、これを正さないといけません。
以上の糾明後に有すべき感激
3・あなたの天性の悪傾向よりも、ほんの少しのこの進歩に、あなたをお導きになった天主の聖寵を、永久に賛美することを約束しなさい。
4・あなたが主の聖寵に応じることに不忠実であったことに許しを願いなさい。
5・あなたの心を主に捧げて、これを完全に支配してもらうことを願いなさい。
6・あなたを忠実にさせてくださいと祈りなさい。
7・聖母・守護の天使・保護の聖人・聖ヨゼフ、その他、諸聖人の助力を願いなさい。