信心生活の入門 聖フランシスコ・サレジオ

■目次

信心生活に対する憧れよりこれを実行するための完全な決心に霊魂を導く教訓と勤め

真の信心

フィロテアよ、あなたは信者です。そしてあなたは、信心が特に天主がお好みになることを知ってこの徳を得ようと希望しています。しかし、最初におけるわずかな誤りの結果は、あとになるほど、次第に大きくなり、手に負えなくなるまでになるので、あなたも、まず、信心の徳とはなんであるかを、十分に知っておく必要があります。多くの誤ったもの、むなしいもののなかで、まことの信心は一つです。だから、まことの信心を知っていなければ、道を外れ、偽りの迷信的な信心に夢中になるおそれがあります。アレリウスという画家は、描かれている人物を、自分の愛する婦人たちの面影に似せて描いたそうです。誰でも、信心を、自分の好みと傾向に従って描くものです。たとえば、断食を愛する人は、その心が恨みに満ちていても、断食をすれば信心と思ったり、禁欲を重んじて、たとえ渇いても、ブドウ酒や水さえも飲まない人が、ののしり、讒言によって、その舌を隣人の血に浸すことを疑わなかったり、あるいは、毎日、多くの祈祷をすることが信心だと思っていて、同じ舌で、すぐに召し使いや知人に、怒りと、傲慢と、軽蔑との言葉をあびせたり、あるいは、貧しい人々のためには、喜んで財布から銭を出しても、敵を許すために、心からの柔和を出すことができなかったり、あるいは、敵を許すことは出来ても、債権者には、厳重な法律規定によらなければ、金を支払わない人もいます。これらの人は、世間から、信心の人として通っていても、実はそうではありません。サウル王の兵士が、ダビデを捕らえようとして、その家の中を探した時、妻のミコルは人形を寝床に入れて、ダビデの衣服を着せ、夫が病気で寝ていると兵士たちに信じ込ませた(1列王記1・9)。そのように、信心の徳のある外面的な行為を身にまとう人々を、世間は真に敬虔、精神的な人としばしば思いますが、ほんとうは、これは、その人形に過ぎません。フィロテアよ、真の生ける信心は、天主の愛に基づき、つまり、天主のまことの愛に他なりません。しかし、その愛が私たちの霊魂を飾る時、これを聖寵と言います。天主の愛が、善徳を行う力を私たちに与える時、これを愛徳と言います。完全な愛徳により、私たちが熱心に、かつ、しばしば、かつ、容易に、善を行うまでになる時、これを信心と呼びます。例えば、ダチョウは飛ぶことができず、鶏は飛べても、へたで、低く、まれですが、わし・はと・ツバメの類は、しばしば、高く、速やかに、かけることができます。このように、罪人は、決して天主に向かい飛揚することがなく、その走るのは常に地上であり、かつ、地のためです。まだ信心の域に至らない善人は、善業を行って、天主に向かい飛揚しても、それはまれで、緩慢で、かつ、重苦しいのです。信心の人は、しばしば、速やかに、高く天主にまで飛揚することができます。要するに、天主の愛が私たちに働きかけて、私たちがこの愛によって、熱心に、かつ、容易に、善業を行うようになる時、この精神の軽快な働きと活力とを、信心と言います。天主の戒めをことごとく守らせるのが、愛徳であるとすれば、これを容易に、かつ、愉快に守らせるのが信心です。だから、天主の戒律をことごとく守らない人は、善人でも、また、信心の人でもありません。信心の人と呼ばれるには、愛徳の他に、善業を行う際の活力と軽快さが必要です。また、信心は、ある意味において、完全な愛の義であるので、単に自分自身を、天主の戒律を容易に、かつ、熱心に守らせるばかりではなく、なるべく多くの善業、すなわち、義務的戒律に止まらず、さらに、福音的勧告、または霊示にすぎないものも、即時に愛をもって行うようにさせます。病気から回復したばかりの人が、ただ必要な道を、緩慢に、喘ぎ喘ぎ歩くように、罪から癒されたばかりの痛悔者は、天主に命じられただけの道を、信心の域に至り着くまでは、喘ぎ喘ぎ緩慢に歩んでいます。しかし、信心の域に至ると、その人は、まるで健康の人のように、ただに歩行するだけではなく、天主の戒律の道を疾走し、さらに、天の勧告と霊示との小道に分け入って急ぎます。つまり、愛と信心とは、炎のなかにある火のように、両者の間に本質的な差異はありません。愛は霊魂の火であって、その燃え立つ炎を信心と言い、愛徳を火とするならば、信心は天主の戒律を守り、さらになお、天よりの勧告と霊示とを実践するに際し、これを喜び奮い立たせ、熱心にさせる、その炎に過ぎません。

信心の優れていること

イスラエル人が、約束の地に入ることを、妨げようとした人々は、彼らに、その国は住民を滅ぼす土地であると告げた。空気は病に満ち、そこで生活しているのは、人間をいなごのように取って食べる、奇怪な巨人であると言った(民数記略13)。愛するフィロテアよ、このように世間では、尊い信心を、できるだけ辱めようとして、敬虔な人を、嫌で、暗い、悲しそうな人として、信心は憂鬱で、他人に非常に迷惑なものと言いふらします。しかし、ヨズエとカレブの二人が、約束の地は、よく、美しく、この国を所有することは、楽しく、快いことを主張したように、聖霊は諸聖人の口を借りて、また、主の御口から、信心の生活は、楽しく、幸せで、愛すべき理由を、私たちに証明しています。世間は、信心の人が、断食し、祈り、敵を許し、病人を見舞い、貧しい者に施し、夜寝ることが少なく、怒りに耐え、欲情を抑え、官能の快楽を捨て、その他、もともと、私たちにとって辛く苦しいことを実行するのを知っています。しかし、世間は、これら全てを、愉快に、楽しく、容易なものに変える信心を知らないのです。香草に集まるミツバチは、その苦い汁を吸って蜜に変えます。これがミツバチの性質だからです。信心者は、その克己、制欲の業に、多くの苦みを覚えますが、これを実行しつつ、これらを快楽に変え、甘味とします。身を焦がす火炎も、身を砕く車輪も、身を裂く刀も、敬虔な殉教者にとっては、麗しい花とも、快い香りともなります。すなわち、信心は、苛酷な刑罰、死でさえも快楽に変えるのです。これに比べれば、有徳な生活をすすんで実践するときの苦しみは、ほんとうにわずかなことです。砂糖は、熟していない果物を甘くし、また、よく熟した果物の酸味をなくします。同じように信心は、制欲の苦痛をなくし、慰めの危険を除く精神の砂糖であります。また信心は、貧しい者の不幸、富める者のおごり、逆境のなかでの失望、順境のなかでの誇り、孤独の人のさびしさ、沢山の人と住むものの心の乱れを防ぎます。信心は、冬には火となり、夏には露となり、富をどのように用い、貧しさをどのように耐えるべきかを教えます。信心は、名誉も恥辱も、私たちの利益とし、快楽も、苦痛も、常にほとんど同じ心で受け入れさせ、私たちを不思議な歓喜で満たします。ヤコブの梯子を見なさい(創世記28)。これは信心生活の象徴です。縦の2本の木は、天主の愛を求める祈りと、天主の愛を与える秘蹟です。これに連なる階段は、徳から徳に移る愛の階級です。あるいは「観想」によって、天主と愛の結合に至るために階段をのぼります。また、階段を昇る人を見なさい。彼らは天使の心をもつ人、あるいは、体をもつ天使です。彼らは、青年ではありませんが、その内部にはたくさんの活力と、軽快さとで若々しい。彼らは飛ぶ立つための翼を持っていて、尊い祈りによって、天主のもとに昇ります。けれども、また両脚を持っていて、人々とともに歩みつつ、愛すべき尊い言葉を交わします。すべてを柔和、甘味をもって受けるために、その顔は美しく楽しい。その人の足、腕、頭の表に出ているもの、その思いも、感情も、また行為も、天主に好まれ、不純な理由も、動機もないので美しく楽しい。彼らの体は軽く美しい衣に覆われています。それは彼らが、この世と、この世に属するものを、その境遇に必要なだけしかとらないからです。そのような者が、ほんとうの信心の人々です。愛するフィロテアよ、信心は愛徳の極みであるので、甘さのなかで最も甘いものであり、もろもろの徳行の女王です。愛徳が乳ならば、信心は乳酪です。愛徳が草であれば、信心は花です。愛徳が宝石ならば、信心はその輝きです。また、愛徳が尊い香料ならば、信心は人々に力を与え、天使を喜ばせる甘い匂いです。

信心はすべての境遇、ならびに、職業に適していること

天主は、万物の創造の際に、その種類に応じて、実を結ぶことを、草木に命じました。同じように天主は、その教会の生ける草木であるキリスト信者に、その境遇と天分に応じて、それぞれ信心の実を結ぶことを命じています。貴族と職人、王と下僕、寡婦と主婦・少女とによって信心は各々異なるべきです。さらに、それぞれの信心を特殊の個人の能力、仕事、職務に適合させなければなりません。フィロテアよ、司教がシャトルー会の行者のように、観想的独修士となろうとしたならば、どうであろう。もし、家庭のある人たちが、カプチン会の修道士のように、金銭を遠ざけ、または職人が修道士のように、終日、聖堂に入りびたり、または、修道士が司教のように、いつも他人のために奔走するならば、このような信心は、笑われるべき、重要なことを取り違えていて、かつ耐えがたいものと言わなければいけません。しかし、これらの誤りは非常に多いのです。その結果、世間は、まことの信心と、誤った信心を区別しないで、または区別しようとしないで、信心を退け、これを非難します。しかしこの避難・排斥は、上の誤った信心に対してのみにすべきです。フィロテアよ、まことの信心は、なにものも損なうことなく、かえってすべてを完成します。自分に正当の職務に背くような人の信心は、確かに誤った信心です。アリストテレスのいうところによれば、ミツバチは、蜜を吸うときは、花を少しも痛めないで、花は以前の新しさを少しも失うことがないと言います。まことの信心は、さらにこれにも増して、いかなる職務も、境遇も、損なうことがないだけではなく、かえってこれを美しく飾ることになります。このように、どんな人も、その境遇を信心に合わせれば、その境遇は、さらに美しくなります。家庭の平和は増え、夫妻の愛情は細やかに、皇帝の忠誠は厚く、すべての任務がこころよく楽しくなります。信心の生活が、兵士の営舎、職人の工場、帝王の宮廷、結婚した人々の家庭に存在しないというのは、間違った考えであり、異端の教えです。フィロテアよ、全く観想的で、修道院風で、修道士的な信心が、このような人々にふさわしくないことは言うまでもありません。しかし、以上の三種の信心の他に、世俗のなかに生活する人を完徳に導く、信心の仕方が他に多くあります。旧約聖書では、アブラハム、イザヤ、ヤコブ、ダビデ王、ヨブ、トビア、サラ、レベッカおよびユディトなどがいます。新約時代以降は、聖ヨゼフ、リジア、聖クリスピノは工場の中できわめて経験でありました。聖アンナ、聖マルタ、聖モニカ、アクイルラ、プリスチラは家庭にいてきわめて敬虔でした。コルネイオ、聖セバスチアノ、聖マウロは軍隊にいて敬虔でした。また、コンスタンチン、聖ヘレナ、聖ルイ、福者アメ―、聖エドワルドは王宮の奥できわめて敬虔でありました。あるものは、完徳にすすむために適切な無人境において、完徳を失い、かえって、不適当である、群衆のなかで、これを保ちました。町に住んでいた時には純潔なロトが、無人境に行き罪を犯してしまったと、聖グレゴリオも戒めています。私たちは、いかなる境遇にあっても、完徳な生活を求めることができ、また、求めなければいけません。

信心の生活に入り、また進歩するには指導者が必要なこと

トビアが、父に、ラゲスの行くことを命じられて、「私は少しも道を知りません」と答えた時に、父は、「それならば、誰かあなたを連れて行ってくれる人を探しなさい」と言いました(トビア書4)。フィロテアよ、私も、あなたに同じことを言います。もし、あなたが信心の生活に入ろうと真面目に望むならば、誰か、あなたを指導する立派な人を探さなければなりません。これは最も大切なことであります。敬虔なアヴィラが言ったように、天主の御旨は、あらゆる昔から聖人たちが、指導する人に従うことを勧め、また自らも実行してきました。この謙遜な服従の道を通らないで、決して、確実に信心生活を知ることはできません。聖テレジアがかつて、カテリン・ド・コルドア夫人の激しい苦行を見て、指導霊父の戒めに背いて、これにならおうと望み、霊父の命令に従わないとの誘惑を感じたことがありました。この時、天主がおっしゃるには、「娘よ、あなたは安全な良い道を歩んでいます。あなたは彼女の苦行を重んじるが、私はあなたの服従の方を嬉しく思います」と。聖女は、この後、服従の徳を極めて大切にして、自分の目上に対する服従の他に、一人の指導者に対する特殊の服従を誓い、その命令、指導に忠実に従い、これによって大きな慰めを受けました。聖女の以前にも、また以後にも、同じように天主のみ旨に従うために、自分の意志を天主の僕の意志に服従させた多くの敬虔な人がいます。シエナの聖女カタリナまたこれをその「問答」 の本の中で称えています。また、聖エリザベト皇后も、その師コンラードに対して、極めて従順であり、偉大な聖王ルイは、死ぬ前に、王子に「しばしば告解しなさい。そして賢く、救霊に関する事柄を確実に教えてくれる適切な指導霊父を選びなさい」と言い残しました。聖書に、「誠実な友人は強力な支えであるから、それを見つける人は、宝を見つけたのと同じだ。 誠実な友は友人では計れない。彼に値をつけるのは不可能だ。誠実な友人は人生の香油で、主を恐れる人だけが、それを発見する」(集会書6・14~16)。すでに明らかなように、以上の聖なる言葉は、不朽の生命に関するもので、この生命を得るために、まず、私たちの相談相手となり、私たちを指導し、私たちを悪魔の罠と偽りから守る、誠実な友を必要とする意味であります。彼は、私たちの苦痛と悲哀と失敗に際して知識の宝となるであろう。また、私たちの霊魂が病んでいる時、それを癒す霊の薬となるであろう。私たちを悪から守り、私たちを善に導き、私たち病を癒して、死の淵より私たちを救うであろう。しかし、はたして、誰がこの友を発見することができるであろうか。「知者」は、「主を恐れる人」と言いました。すなわち、修徳の進歩を熱望する謙遜な人々です。フィロテアよ、信心の聖なる旅を、よい案内者に導かれることは、非常に大切です。だから、あなたは、天主のみ心にかなう人を送ってくださることを熱心に求め祈り、指導者が与えられないことを少しも疑ってはいけません。天主は、かつて、トビアに送られたように、善良で忠実な指導者を、天から遣わすでしょう。そうです、このものは、あなたにとって、天からの使者です。もし、その人を見つけたならば、あなたは、彼を、ただの人と考えてはいけません。また、彼の人間的な知識に頼ってもいけません。他には心を向けず、天主に頼りなさい。天主はあなたを愛して、あなたの幸福のために必要な事柄を、彼の心と口に託し、彼を仲介として、あなたに告げるであろう。だから、あなたは、天国の道を示すために降りてきた天使として、彼の言葉を聞き、少しの飾りも偽りもなく、善悪をともに、明らかに彼に告げ、真面目に、隠すところなく、心を開いて、彼に向き合わないといけません。このようにすれば、彼は、あなたの長所は、これを研究して 、ますます、その長を発揮させ、あなたの欠点はこれを正し、これを癒すであろう。また、困難に際しては、あなたの心を慰め励まし、誇らしげにしているときは、適切な注意を与えるであろう。あなたは、絶対的な信頼と共に、神聖なる尊敬を持って彼と向かい合い、信頼を失うことなく尊敬し、また尊敬を減らすことなく信頼しないように努めないといけません。まるで父に対する娘のように尊敬を持って信頼し、母に対する男児のように信頼を持って尊敬すべきです。すなわち、この友情は、強く、楽しく、神聖で、かつ 、霊的であることを要します。アヴィラは、このためには、千人のうちに1人を選べと言いました。しかし私は、あえて、1万人の中から1人を選びなさいと言います。適切な人は極めて少ない。彼は、愛と知恵と思慮とに富んでいないといけません。この三者中、一つでも欠けているならば危険です。だから私はさらに言います。まず、天主に祈りを求めなさい。天主がこの人をあなたに与えてくださったならば、天主をほめ称えなさい。そうして心を移すことなく、単純と謙遜と、信頼を持って歩みなさい。そうすれば、あなたの旅路は幸福なものになるでしょう。

霊魂の浄化をもって始めるべきである

聖書の中で、尊い妻は、「もろもろの花は地に現れました。枝を摘む時が来ました」(雅歌2・2)とうたいます。フィロテアよ、私たちの心の花とは良い願いてなくて、そもそも、何であろう。だから、このよい願いが現れ出たならば、全て死ぬ運命にある業を私たちの良心から摘み取るために、ハサミを手にしないといけません。イスラエル人の妻に選ばれたフォレオである異邦人の娘は、まず、その囚人の衣を脱ぎ、爪を切り、髪を切らなければいけませんでした(申命記2・12)。 このように、天主の御子の妻となる光栄を得ようとする霊魂は、罪から離れ、「古い人を脱いで、新しい人を着て」(コロサイ書3・9)、自分を天主の愛から遠ざける、全ての妨げを摘み取らないといけません。病のもとになる原因を取り除くことは、健康の第一歩です。聖パウロ、ジェノアの聖カタリナ、聖マリア・マグダレナ、聖ペラジアなどは、完全な浄化によって、一瞬の間で清められたけれども、この種の浄化は、まるで自然界における死者の復活と等しく、聖寵の世界において、極めて特殊で、奇跡的な現象であるので、私たちはこれを期待してはいけません。普通、肉体の病の治癒も、霊魂の浄化も、少しづつ進歩し、労力と時間とを費やして成就するものです。ヤコブの見た階段にいる天使たちは、翼を持っていたけれども、彼らは飛ばないで、1段、1段、順序を守って上下しました。罪から信人に進む霊魂は、あけぼのに似ています。あけぼのは、その来る時、暗闇を一瞬で失くすことなく、次第に明るくなっていきます。ことわざにも、徐々に回復した健康は、一番確かだと言います。霊魂の病も、来る時には、馬に乗って駆け回りますが、帰るときは、ゆっくりと歩むのが常であります。そうであるなら、フィロテアよ、あなたは勇気と忍耐を持たなければいけません。一度、信人の生活に精進した霊魂が、自分になお不足するところの多いのを見て、全ての事を放棄し、信心生活から退くようにと誘惑に負けようとし、恐れ、憂い、失望し始めることを見るのは、とても残念なことです。しかし、また、これと反対の誘惑によって、仕事に着手したばかりで、すでに完成したと信じ、翼のない状態で飛び立とうとのぞみ、浄化に従事する1日目において、もう色々な欠点をなくしたと思い上がるのは、その霊魂にとって、さらに危険なことであります。フィロテアよ、病気の再発は、医師の手を早く離れすぎたことによるのが多い。預言者も、「朝、まだ朝日が来ないのに立ってはいけません、座ってから明るくなってから立ちなさい」(詩編126・2)と言っています。彼も、また、自らこの戒めに従い、まず洗い清められた後に、さらに一段の浄化を祈りました。霊魂の浄化の務めは、一生涯の仕事であります。だから、私たちは自分の欠点を見ても、落胆してはいけません。完徳とは、自分の欠点と戦うことでありますが、自らその欠点を知らないならば、戦うことはできません。ましてこれに勝つことはできません。私たちの勝利は、誘惑を覚えないのではなく、これに同意しないことにあります。誘惑に悩まされるのは、これに同意したことではありません。私たちの謙遜の修行のためには、この霊魂の戦いに 、時として手傷を負うのも悪くはありません。生命か、勇気を失わない限り、戦闘に敗れたとは言えません。霊魂の生命は、ただ大罪によってのみ失われるもので、小罪や、欠点によって奪われるものではありません。だから、私たちは勇気を失わなければさえすれば良いのです。「主よ、臆病と絶望とから、私たちを救ってください」とダビデは祈りました。戦おうとする意志を持っている限り、私たちが常に勝利者になることは、この戦闘にあたり、大変有利である事実であります。

第一の浄化、すなわち、大罪から去るべきこと

最初に行わないといけない浄化は大罪から離れることです。そのためには、あなたは悔悛の秘蹟を受けなければいけません。あなたは、できるだけよい聴罪司祭を選び、良い告白をするために書かれた、適切な本を熟読し、物心がついて、理性の働きを始めてから、今日に至るまで、どのような点で、天主に背いたのかをひとつひとつ糾明して、もしあなたの記憶が不確実ならば紙に書いて、このように準備して、あなたの良心の病を知ったならば、㈠罪を持って天主の聖寵を失い、㈡天国の幸福を捨て、㈢地獄の永遠の罰を受け、㈣天主の永遠の愛に背いたことを反省し、罪を悲しみ、憎み、あなたの心にできるだけの深い痛悔の情を起こした後に、告解をして、罪を捨てさらないといけません。フィロテアよ、これが、すなわち、過去の生涯の総告白です。これが、いつも、必ずしも必要ではないことは、私も知っていますが、浄化の第一歩にあたって、あなたにとても有益であるので勧めます。普通一般の生涯をおくる信者の通常の告白には、しばしば、多くの重大な欠点があります。例えば、告白の準備としての糾明が不完全であったり、あるいは必要である、十分な痛悔を起こしていなかったりします。また、時どき、再び罪に戻ろうと密かな意志をいだいて告白することがあります。すなわち、罪を犯す機会を避けようとしなかったり、または、生活を改善するために、欠かすことのできない方法をとらなかったりします。このような人々にとっては、総告白は、救霊を確かめるために必要であります。その他、総告白は、自分を知る手がかりとなり、過去の生活に関して、救霊のために大切な痛悔の思いを生じさせます。それを行うことで、私たちは、私たちに対して忍耐して改心をお待ちになっている、天主の慈悲を称えることができます。また、総告白は、私たちの心を和らげ、精神を慰め、良い願いを呼び起こします。また指導霊父は、総告白によって、私たちの状態に適切な指導を与えることができ、私たちは、後々、安心して彼に自分の心を開くことができるようになります。だから、信心の生活を計画し、自分の心を変え、全霊魂を上げて、天主を信じ従うために最初に行うこととして、この総告白をあなたに勧めるのは、とても適切なことであります。

第2の浄化、すなわち、罪の傾向を去るべきこと

イスラエル人たちが、モーゼの指揮のもとに、エジプトの地を出るにあたり、全ての人が、心から、この地を去ったのではない。彼らの中には、砂漠をさまよいつつ、エジプトの美味しい肉、新鮮な野菜を恋しがるものがあった(民数記略11)。このように、痛悔者の中にも、罪を捨ててしまっても、罪に対する執着から離れないものがいます。彼らは、罪を犯すまいと決心をしても、罪のもたらす不幸な快楽を捨てるのに、多少の残り惜しさを感じています。彼らの心は、罪を離れても、まるでロトの妻が、ソドムの街を振り返って眺めたように、罪の魅惑で、その方向に振り向くのを禁じることができません(創世記19)。彼らが罪を捨てたのは、ちょうど、病人が医師に禁じられて、ごちそうを食べないのと同じです。病人には、いかにもそれが残念でなりません。まず、食物の話を聞きます。もしかしたら食べられるのではないか、せめて味だけでも試したいと思い、ご馳走が食べられる人を羨ましく思います。そのように、卑劣で、弱い痛悔者は、しばらく、罪を離れても、それが名残惜しく、罰を受けずに罪を犯したいと願い、罪の感覚を思い起こし、これを楽しみつつ、そのことを話し合い、罪を犯すことができる人は、きっと楽しいであろうと考えます。例えば、他人と争って、復讐を計画した人が、告白の時に、その意志を急に変えたとします。しかしまもなく、この争いを面白がる友人と共に、もし天主を恐れるのではなかったならば、こうして復讐するはずであった。天主の戒めの中でも、敵を許せということは実行しにくい戒めである。もし復讐してもよいということであったなら、さぞかし愉快であろうなどと、話し合う類であります。このような哀れな人は、罪から離れても、すなわち、エジプトの土地の外に逃れ出ても、なお、エジプトの地でたくさん食べた美味しい野菜を思い出しているように、欲望では、まだエジプトの地にいるのものたちと同じです。不正の愛欲を断った夫人が、姿を飾って人々に媚びられることを喜ぶのも、またこの類です。このような人々は、本当に大きな危険の淵に立っています。フィロテアよ、あなたが信人の生活を始めようと計画した以上は、ただ罪を捨てるばかりではなく、さらに一歩進めて、罪に対するすべての執着・傾向をあなたの心から全て捨てなければいけません。再び罪に陥る危険の他に、あなたの心はこの不正な傾向によって、疲れ、鈍くなり、善行を容易に、愉快に、かつしばしば行うことができなくなります。ところが、信心の本質は、まさにここにあります。罪の状態から抜け出たばかりの霊魂は、まだ罪に対する病的な傾向を持っていて、まるで病後に顔がやつれた少女のようです。彼女はもう病気ではありませんが、衰えています。食欲がなく、睡眠に休息がなく、笑っていても心は楽しまず、歩むというより、むしろ、体を引きずって動いています。このような霊魂は、過去の罪に疲れていますので、たとえ、善行を行っても、愉快を感じないで、善行も少なく、その効果も少ないのです。

いかにして第2の浄化をなすべきか

上述の第2の霊魂の浄化を成就するために、私たちに最初の奮発力を与えるものは、実に、罪をもたらす大いなる害毒を、明瞭かつ痛切に感じ取ることで、私たちは、これによって、初めて、深く激しい痛悔を起こすことができます。心からの痛悔は、たとえ弱かったとしても、秘跡の効力と合わさるならば、私たちを罪の汚れから清めることができます。しかし、深く激しい痛悔は、さらに、私たちも、罪に対する執着・傾きから癒すことができます。例えば、ある人を憎む場合に、憎み方が少なければ、憎しみは単にその人一人に及ぶのみで、彼一人を避けるに止まりますが、憎しみが強く 激しい時は、さらに、その親戚、友人達と言葉を交わすことも、その姿を見ることも、いやであり、彼に属する事物は、みな、ことごとく、憎らしく許すことができなくなります。このように罪人が、微弱な(たとえ本当でも)痛悔をもって罪を憎めば、罪を犯すまいと決心するだけであるが、しかし、もし、切に激しい痛悔を抱けば、彼は、ただ罪のみならず、罪に対するあらゆる執着・傾き・その他、罪より出るもの、罪に導くものまでも、一切、これを捨てることに至るようになります。フィロテアよ、そうであるならば、私たちは、可能な限り、痛悔と悔悛をおしひろめて、罪に関する最も軽い点にまで至らなければなりません。マリア・マグダレナが、一度改心した後には、罪の愛着と、その快楽の感覚は、全く消え失せ、二度とその念頭には浮かばぬまでになりました。またダビデ王は、自分が犯した罪を痛悔して、ただ罪のみならず、さらに、罪に導く全ての道、全ての細かいところまで避けようと誓いました(詩編118・104)。王であり預言者である彼が、「ワシの若ヤギ」に例えた、その霊魂の若ヤギは、すなわち、ここに存在します(詩編102・5)。そうであるなら、あなたも、罪の害毒を明らかに認識し、これを痛悔することができるために、心を込めて、次の黙想を試みなさい。私は、天主の聖寵によって、罪、及び罪に対する執着・傾きが、やがてあなたの心より消えなくなることを願います。私は、そのつもりで、次から上げるの目標を配列したので、あなたは、毎日、一編ずつ、順番にこれを黙想しなさい。黙想は、なるべく、あらゆる 聖心の活動に最も適する朝に行い、その後も、一日の間、反復してその要点を思い出しなさい。もしあなたが黙想の方法を知らなければ、 第2篇におけるその説明を参照しなさい。

黙想㈠創造について

準備 ㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってくださるように願いなさい。省察㈠あなたが、まだ世に生まれなかった前に 、宇宙はすでに幾千万年を経過していますが、その間、あなたは、全くの1つの虚無にすぎませんでした。ああ、私の霊魂よ、その間、あなたはどこにいましたか、宇宙は既に長く続いていたました。しかしあなたを知るものはいませんでした。㈡天主は、あなたを、この虚無からつくり、今日、あなたがあるようにしてくださいました。これは、あなたが天主に必要であったからではなく、ただその純粋な慈しみの賜物でありました。㈢天主が、あなたにくださった存在について思いなさい。あなたは、形ある世界のなかで主位を占めるもの、永遠の生命を受けて、天主と完全に一致することができるものであります。感激と決心㈠天主の御前に深くへりくだり、心の底から聖詩人とともに言いなさい。「ああ主よ、私はあなたの前にあっては本当に虚無であります(詩編38・6)。なぜ、私を思って、私をお創りになったのですか」と。私の霊魂よ、あなたはこの虚無の淵にいました。もし、天主によって、その中から、あなたを存在の世界に引き出してもらわなかったならば、あなたは、今も、そのままに、その中にあったであろう。そして、この虚無の中において、あなたは何をすることができたのであろうか㈡天主に感謝しなさい。偉大で、慈しみ深い創造主よ、私が主のおかげであるのは、いったいどれだけでしょうか。主は虚無の淵に 私を求め、その慈愛によって、今日あるように、私をお創りになりました。主の御名をふさわしく称え、主の大きな慈愛を感謝するために、私は何をすべきでしょうか。㈢深く痛悔しなさい。私の創造主よ、私は主を愛し、主に仕えて、主と一致しようと思います。かえって、私の欲情をほしいままにして、主に背き、主を離れて罪を犯し、主の慈しみを敬わず、主が私を創造していなかったかのように、振る舞ったのであります。㈣主のみ前にあって謙遜になりなさい。ああ、私の霊魂よ、主があなたの神でいらっしゃるのを知りなさい。あなたをお創りになったかたは主であります。あなたは自ら存在したのではない。ああ、天主よ、私は主の御手の業であります。㈤虚無である私は、この後に、傲慢な心を起こしません。ああ、塵よ、灰よ、どうして、あなたは自分を尊いと思うのか。全くの虚無よ、どうして自らおごるのか。私は、へりくだるために、これこれのことをなし、これこれの侮辱を忍びたいと思います。私は、過去の生涯を一変し、これから後は、私の創造主に従い、主から与えてもらった人の存在を尊重し、私に教えられた方法、及び、私の指導霊父に聴いて学んだ方法により、主のみ旨に従って、この存在を用いたいと思います。結末㈠天主に感謝しなさい。天主の愛は私を虚無から呼び出し、その憐れみは私をお創りになりました。 ああ、私の霊魂よ、あなたの天主を讃えなさい。私は、心の底からその尊い御名を褒め称えるべきであります。㈡主に捧げなさい。ああ、天主、私は、主の賜いし私の存在を 、心の底から主に捧げます。㈢祈りなさい。ああ、天主、願わくは、これらの感激と決心とをもって、私を強めてください。ああ、聖母よ、私が祈るべきすべての人々とともに、このことを御子の御慈悲から取り次いでください。などなど…。主祷文。天使祝詞。黙想を終えたならば、その要点をもって、信心の小さな花束を作り、一日中、時々これを眺めなさい。

黙想㈡私たちのつくられた目的について

準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい省察㈠天主があなたをお創りになったのは、役立たずのあなたが必要であったからではありません。ただ、あなたに、その聖寵と光栄を授け、その慈愛を示すためでした。だから、あなたに理性をお与えになったのは、天主を知るため、記憶力をお与えになったのは、天主を覚えるため、意志をお与えになったのは、天主を愛するため、想像力をお与えになったのは、天主の御恵みを悟るため、眼をお与えになったのは、天主の御業の有様を見るため、舌をお与えになったのは、天主を賛美するためです。あなたの他の能力についても、また、同様です。㈡あなたは、以上のお考えによってつくられ、この世の中に置かれたので、このお考えに背くすべての行いを、捨て、避けなければいけません。また、この目的に役に立たない行為は、空しいもの、無用なものであります。㈢それなのに、このことを少しも考えないで、無駄に家を建てたり、樹木を植えたり、財産を集めたり、遊ぶためにつくられたと思いながら生活している世の人の不幸を考えなさい。感激と決心㈠あなたの霊魂の醜さを責めなさい。あなたは、今まで、これらのことに全く気にかけていませんでした。ああ、天主よ、私が主を思わないとき、私の心は何を思っていたのでしょうか。また、主を愛していないとき、何を愛していたのでしょうか。私は真理に従い生きるはずであったのに、空しく私の腹を満たし、私のためにつくられた世間に、私が仕えていました。㈡過去の生き方を憎みなさい。空しい思い、無益な考え、私はこれらを捨てます。憎むべき、浅はかな記憶、私はこれらを呪います。偽りで忠誠のない友情、卑しく無益な行い、無駄な恩恵、恥ずべき快楽よ、私はこれらを捨てます。㈢天主に回心しなさい。ああ、私の天主、私の救い主よ、私は、これから後は、主のことだけを思います。主が好まない思いに、私の心をゆだねることなく、生涯、私の記憶は、私に対して慈しみに満ち溢れている主のことだけをたくさん考え、主を私の心の喜び、私の愛情の宝とします。ですから、私は、今までしてきたこれこれの遊び、多くの時間を使って行ったこれこれの無駄なこと、私の心を捉えていたこれこれの執着を、このから後は、嫌悪し、これを捨てるために、これこれの手段を考えます。結末㈠このような尊い目的のために、あなたをお創りになった天主に感謝しなさい。ああ、主よ、主は、私が永遠に主の大いなる光栄を楽しむために、私をお創りになりました。私がこの恩寵にふさわしくなるのは、いつでしょうか。また、私の義務に従って、主を称える日は、いつでしょうか。㈡主に、自分を捧げなさい。ああ、愛すべき私の創造主よ、私は霊魂を尽くし、心を尽くして、以上の感激と決心とを主に捧げます。㈢祈りなさい。ああ、天主、願わくは、私のこい願うことを、快く聞き入れて、私の霊魂に主の尊い祝福を与え、十字架上にてお流しになった御子の御血の功徳によって、すべて、これらを成就させてください。云々。信心の小さな花束をつくりなさい。

黙想㈢天主の恩恵について

準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい省察㈠天主が、あなたの肉体に与えた下さった御恵みを考えなさい。天主が、あなたに与えたのは、どのような体であったか。これを支えるために、何をお与えになさったのか。その上、天主の賜物である健康、正しい幸福、友人、その他の与えられたことを振り返りなさい。あなたよりも多く、これらの賜物に値していたにもかかわらず、これを受けなかった他の人々と自分とを比較しなさい。彼らの中には、体の虚弱な人、障がいのある人もいる。あるいは、恥辱を受け、名誉を失い、人に軽蔑される人、貧乏に悩む人もいる。しかし、天主は、あなたがこのような悲惨な境遇におちいることをお望みになりませんでした。㈡天主が、あなたの精神に与えてくださった御恵みを考えなさい。世の中には、思慮が足りず、愚かで、狂気のものも少なくありません。あなたは、どうしてその一人ではなかったのか。これは天主のお恵みであります。また、全くの無知、文盲なものが多いのに、あなたは天主のお恵みによって、学問をして、教育あるものとして成長しました。㈢天主が、あなたの霊魂にお与えくださった御恵みを考えなさい。ああ、フィロテアよ、あなたは教会の子の一人であって、天主は、あなたが幼い時から、すでに主を知ることを教えて下さった。天主が、あなたに秘蹟をお与えになったのは、いったい何回であったであろうか。あなたの霊示、内的光明を与え、または、あなたを矯正するために叱責したのは、いったい何回であったか。あなたの罪を赦し、また、あなたを滅びの淵よりお救いになったのは、いったい何回あったであろうか。あなたの過去の生涯は、あなたの霊魂の向上のために、天主が与えて下さった歳月であり、利益となることではなかったか。天主が、あなたに対して、いかに慈しみに満ち、恩寵に溢れていたかを、細かく省みなさい。感激と決心㈠天主の慈しみを称えなさい。天主は、私に対して、どんなに慈悲深く、慈しみに満ちていたのか。主よ、あなたの聖心は、どれほど憐れみに満ち、慈しみに富んでいることか。私の霊魂よ、主が与えて下さった御恵みの数々を話し合いなさい。㈡あなたの忘恩に驚きなさい。しかし、そもそも、私がどういう人であったから、主は、このように、私のことをお思いになったのか。私が、主の御恵みに値しないことはまったく明らかです。私は、主の御恵みをふみにじり、主の聖寵を無駄にし、主の限りない地合いを無視し、主の聖寵と恩恵とに、私の忘恩をもって報いてきたからです。㈢感謝の念を起こしなさい。ああ、私の心よ、あなたは、この大恩人に対して、不忠実、忘恩であってはいけません。私に、また、私のために、このような神秘的な聖寵を与えてくださった天主に、私の霊魂は、これから、どうして従わないことがあろうか。㈣だから、フィロテアよ、あなたの肉体から、これこれの官能的快楽を捨て、これほどまでに大きな御恵みを与えてくださった天主のために働きなさい。あなたの霊魂が、天主をますます深く知り、これに必要なこれこれの勤めに励みなさい。救霊を手に入れ、天主を愛するために、教会の与える方法、手段を、注意して利用しなさい。そうだ、私は、熱心に祈り、しばしば、秘蹟に近づき、説教を聞き、主のお与えになった霊示と、福音的勧告とを実行するように努めます。結末㈠この時間に、あなたに、あなたの義務を教えてくださったこと、ならびに、過去において、主から受けた、すべての恩恵を天主に感謝しなさい。㈡あなたの心を、その全ての決心と共に、主に捧げなさい。㈢天主の御子の御死去の功徳によって、この決心を、すべて、忠実に実行することができるために、あなたに必要な力を与えて下さることを祈り、このために、聖母、および、諸聖人の取り次ぎを願いなさい。主祷文など。信心の小さな花束をつくりなさい。

黙想㈣罪について

準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい省察㈠あなたが罪を犯し始めてから、今まで、どの位の歳月がたったのであろうか。その最初の日から、あなたの心に、どれほどの罪が増えたのであろうか。あなたは、日々、行い、言葉、望み、思いによって、天主に対し、自分に対し、また、他人に対して、罪を犯してきました。㈡あなたの心の悪い傾向と、また、どのように、あなたがこの傾向に従ってきたかを考えなさい。以上の二点を振り返り、あなたの罪は、頭の毛髪の数よりも、海辺の砂の数よりも、多いことがわかるだろう。㈢特に、天主に対する忘恩の罪を考えなさい。この罪は、他のあらゆる罪に伴い、かつ、その罪と過ちを限りなく重大にします。天主は、どれだけの恩寵をあなたに与えてくださり、そのなか、あなたがこの大恩人に対してどれだけ背いて悪用したか。そのうえ、どれほどの霊示を軽視し、どれほどの良心の勧めを退けたか。多くの天主の恩寵のなかにも、とりわけ、何度も、秘蹟を受ける幸福を得たのか。その秘蹟がもたらした効果は、今、どこにあるのか。あなたの霊魂の配偶者である天主が、あなたにお与えになったあの宝石の飾りはどうなってしまったのか。みな、すべて、あなたの悪い行いのために覆われてしまったのではないか。あなたは秘蹟を受けるのにどのような準備をしたのか。天主は、あなたの救霊のために、これほどまでにも力をお尽くしになっているのに、あなたは、自分の滅びを求めて、常に、天主を避けた、その忘恩について振り返りなさい。感激と決心㈠あなたの醜さを恥じなさい。ああ、天主、私は、なぜ、まったく主の前にでないのか。私は、忘恩と悪行とに満ち満ちています。あらゆる汚れの集まりであります。私の官能、私の精神の能力のうちに、何一つとして、私が汚し、悪用しなかったものはなく、また、私の生活の一日として、罪を犯さなかった日はありませんでした。私が、こんなにまでも、主に背くことは、はたして可能であろうか。私の創り主の恩恵、私の救い主の御血は、このようにして、受けるべきものであろうか。㈡罪の赦しを願いなさい。放蕩息子のように、マリア・マグダレナのように、罪を犯して夫に背いた妻のように、主の御足もとに身を投げなさい。ああ、主よ、この罪人を憐れんでください。同情の生ける泉よ、この醜いものを憐れんでください。㈢行いを改める決心をしなさい。ああ、主よ、私は、主の聖寵の御助けによって、再び、罪に私の身をゆだねません。私は罪をあまりにも愛しすぎました。ああ、慈しみ深い天の父よ、私は罪を避け、主を愛します。私は主において生活し、主において死のうと決心します。㈣過去の罪を滅ぼすために、私は、勇ましくこれを告白し、ことごとくこれを捨てます。㈤私の心より、罪の根源をことごとく捨て去るため、特に、私の最大の欠点である、これこれの罪を捨てるために、私はできるだけの努力をします。㈥これを実行するために、私は、常に、指導霊父の勧めを守り、また、私の大きな罪と過ちを償うために、いかなる努力も惜しみません。結末㈠今日まで、あなたをお待ちになり、かつ、これらのよい感激を下さった天主に感謝しなさい。

㈡これらを実行するために、あなたの心を天主に捧げなさい。

㈢天主の御助けを願いなさい。云々。

黙想㈤死について

準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい㈢重病で倒れ、臨終の床に横たわり、治癒する望みがないことを想像しなさい。省察㈠あなたの死について、確実なことは、何一つないことを考えなさい。ああ、私の霊魂よ。あなたは、一日、この体を逃れ出なければなりません。冬であろうか、夏であろうか、いつであろうか。街の中か、田舎であろうか。昼の間か、夜の間であろうか。突然であろうか、または、なにかの予告があるだろうか。病気で死ぬだろうか。または、怪我で死ぬだろうか。告白の暇はあるだろうか、ないか。あなたの指導霊父は、その時、あなたを助けてくれるであろうか。私たちは、すべて、これらについて、なに一つ知りません。確実なことは、ただ、私たちは死ななければならないこと、死は私たちの予定よりも、いつも、早く来るということだけです。㈡この時、あなたにとって、この世界は終わり、もはや、存在しません。あなたの目の前で、全てのものが倒れます。その時には歓楽も、世間の与える喜びも、空虚な愛情も、私たちにとっては、幻のように、また、雲と煙にすぎません。わざわいなるかな、私はいかにくだらない、影のような事柄のために、天主に背いたのであろうか。そうして、この時、始めて、私たちが、虚無のために、天主を捨てたことを悟るでしょう。信心と善行とは、これに反して、望ましく、快いものとして、あなたの眼に映るでしょう。どうして私は、この美しく、快い道をたどらなかったか。この際には、以前、小さく思われた罪も、大きな山のように見え、あなたの信心は、すごく小さく見えるでしょう。㈢あなたの霊魂が、地上の世界に告げないといけない。大きな、かつ、痛ましい決別を想像しなさい。霊魂は、財宝・虚栄・空虚な伴侶・快楽・遊戯・友人・知人・父母・子孫・夫妻、すなわち、すべての被造物に別離を告げます。そうして、最後に、あまたの肉体と別れてしまえば、残るのは、青白く、やつれた、醜い、腐敗しかかった死体であります。㈣人々は、忙しげに、この死体を担ぎ出して、地に葬ります。その後には、かつてあなたも他人にしたように、世の人々は、あなたを思い出すことなく、あなたを記憶することもないのです。「天主よ、願わくは、彼の霊魂をあなたの国に受け入れてください」と祈って、すべてはそれで終わります。ああ、死よ、なぜ、冷酷であり、見逃さないのか。㈤肉身を去れば、霊魂は、右か、左か、その道を選ばないといけません。あなたの霊魂はどの方向に行き、どの道を選ぶだろうか。それは、結局、この世で歩み始めた道を、歩み続けるにすぎません。感激と決心㈠天主に祈り、御手のなかにあなたの身を託しなさい。主よ、その恐るべき日に、主の御保護のもとに私を置いてください。たとえ、私の全生涯が、悲しみと苦悩とに満ちていたとしても、その日は、とても幸福で、主の祝福を受ける日にしてくださることを願います。㈡世間を軽蔑しなさい。世間よ、私は、いつ、あなたと別れなければならないかを知らないので、あなたに執着しません。愛する友よ、親しい伴侶よ、ただ、永遠に続けることのできるような聖なる友情によって、あなたたちを愛することを認めてください。どうして、私は、ある日、別離をもたらし、結びつきをこわすような友情をもって、あなたたちと付き合うことができようか。㈢私は、この日のために用意し、幸福に、この来世への旅立ちをするのに、必要な準備をしようと思います。私は、全力を尽くして、私の良心を安らかにし、これこれの欠点を治そうと決心します。結末天主があなたにくださった、以上の決心について感謝し、これを天主に捧げ、御子のご死去の功徳によって、あなたに死を、幸いなものとしてくださるように祈りなさい。聖母と、諸聖人との御助けを願いなさい。

主祷文・天使祝詞

信心の花束をつくりなさい。

黙想㈥審判について

準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい省察㈠最後に、天主が定めた、この世の終末が来たあと、また、たくさんのしるしと、恐ろしい前兆とのために、人々が驚きと恐怖によって、言葉を失ったあとに、洪水のような火炎は、地の表を灰に変え、今、その上に見る何一つとして逃れられないだろう。㈡この火炎と、雷との洪水のあとに、すべての民は、地から起きて、大天使の声に従い、ヨザファトの谷に集うであろう。しかし、なんという違いか。ある者は、栄誉と、光明との体を持ち、あるものは醜く、気味悪い体を、皆にさらすのであります。㈢いと高き審判者が来るとき、すべての天使、聖人たちは、主の周りを囲って、前には、善人には恩寵のしるし、悪人には正義のしるしとなる、日よりも輝く十字架が立ちます。㈣このいと高い審判者の、恐るべき宣告は、即座に実行されて、善人と悪人とを、右と左に分けます。これは、この二郡が、再び混ざることのない、永遠の分離であります。㈤分離が行われて、良心の書巻が開かれるとすぐに、悪人のよこしまな考えと、彼らの天主に抱いていた軽蔑、また、他方に善人の苦業と、彼らが天主から受けた聖寵の功徳とは、隠すことなく知れわたるであろう。ああ、天主よ、悪人にはどのような悔やみ、善人にはどのような慰めか。㈥悪人に対する最後の宣告を黙想しなさい。「呪われたものよ、悪魔とその伴侶のために準備されている永遠の火に行け」恐るべきこの御言葉の意味の重さを見なさい。「行け」という言葉は、天主が罪人を、永遠にその御前から追い出し、捨て去る御言葉であります。天主は、彼らを「呪われたものよ」と呼びます。ああ、私の霊魂よ、どのような呪いか、これこそ、あらゆる悪を含むすべての呪いであり、すべての時間と、永遠にわたる呪いであります。「永遠の火に」と。ああ、私の心、この大いなる永遠を思いなさい。刑罰の尽きない永遠は、どんなに恐ろしいものか!㈦善人に対する宣告を黙想しなさい。「来なさい」と審判者は言います。ああ、これこそ、天主が私たちを招き、慈しみと愛の御懐に迎える救霊の至福な御言葉であります。「私の父に祝されたものよ」。ああ、あらゆる祝福を含む、愛すべき祝福よ、「世界が始まってからあなたたちに備えられた国を得なさい」。ああ、どんな恩寵か!この国は尽きるときはないのであります。感激と決心㈠私の霊魂よ、この思いに戦慄しなさい。ああ天主、天の柱、地の軸も、恐怖に震えるこの日に、だれが私を安心させることができるのか。㈡恐るべきこの日にあたって、自然とあなたを滅亡に導くあなたの罪を捨てなさい。㈢その日に裁かれないために、私は、今日自らを裁こう。その恐るべき日に、審判者の宣告を避けるために、私は、あらかじめ、自分の良心を検査して、私を罰し、私を訴え、私を矯正しよう。私は告白して、必要な訓戒を聞くだろう。などなど…。

結末

㈠その日に、あなたを安全にすることができる方法と贖罪の時間を与えてくださっている、天主に感謝しなさい。

㈡そのために、あなたの心を、天主に捧げなさい。

㈢これを実行するために必要な聖寵をくださることを祈りなさい。

主祷文

天使祝詞

霊的花束を作りなさい。

黙想㈦地獄について

準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい㈢硫黄と悪臭の歴青とで燃えて、脱け出すことができない市民で満ちている暗黒の城市を想像しなさい省察㈠堕落した連中は、地獄の深淵の中において、まるでこの呪うべき城市のなかにあるものと同じように、彼らは、その官能・身体に、筆舌に尽くしがたい、言い表すことができない呵責を受けます。すなわち彼らは、その官能・身体を罪のために悪用したために、罪の罰を、その官能と身体とに受けるのである。眼は、視覚をもって犯した罪のために、悪魔と地獄との恐ろしい光景を見て苦しみ、耳は、よこしまな談話を喜んだために、今聞くものは、涙と、嘆息と、絶望の声のみです。その他も、またこれに準じます。㈡これらの呵責の他に、もっと大きな苦しみがあります。すなわち、天主の栄光を失って、再びこれを見ることができないことです。アブサロムは、父王、ダビデのやさしい顔を見ることができないことを、そのさすらいよりも、なお一層苦痛に感じたと言います。ですから、ああ主よ、主の甘く、やさしい御顔を、永遠に失うのは、どんなに口惜しいことか。㈢とりわけ、この刑罰が絶え間なく続くことを思いなさい。これが、地獄を耐えがたくする理由です。はたして、そうであるなら、このたくさんの呵責を蓄えている永遠の夜は、いかに恐れるべきか。この永遠から永遠の絶望、尽きない呪いと狂暴とが、生まれるのであります。感激と決心㈠ヨブの言葉をもって、あなたの霊魂を脅しなさい。「ああ、私の霊魂よ、この尽きない炎熱と、万物を焼き滅ぼす火炎のなかに、あなたは永遠に生きることができるのか。それでも、あなたは、あなたの天主から永遠に離れ去ろうと思うのか」。㈡あなたが、この刑罰に値することを懺悔しなさい。ああ、本当は、何回も刑罰を受けなければいけなかった。だから、この深遠に落ちないために、今後、異なる道を歩もう。㈢この永遠の死を私に与える唯一の原因である罪を避けるために、なになにの努力をしよう。そして神に感謝し、捧げ、祈れ。

黙想㈧天国について

黙想㈧天国について準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい省察㈠静かで朗らかな一夜を想像しなさい。天空に輝く、多種多様の、無数の星たちを仰ぐのは、どんなに快いであろうか。いま、これに、晴れ渡った日の美しさを合わせ、太陽の輝きも、月と星の姿も隠さない景色を想像しなさい。これらすべてを合わせた全ての美しさよりも、天国の美しさに比べれば、虚無に等しいことを知りなさい。ああ、天国の地は望ましく、心惹かれることか。ああ、この城市はなんとすばらしいことか。㈡この幸福の国の住民の高貴さ、美しさ、群衆を想像しなさい。数千億の天使・ケルビム・セフィラム・使徒・殉教者・諸聖者・童貞女・聖女たちの大群衆。ああ、彼らと共に住むことはなんと幸せなことか。そのなかの、最も小さいものも、この全世界より美しいのである。全体の素晴らしい光景は言い尽くすことができません。それにしても、なんという幸せなことか。彼らは、絶えず、永遠の愛の甘い讃美歌を歌い、普遍の至福を楽しみます。彼らはお互いに、無上の満足を与え、幸福で、離れることのない友情の慰めのなかに生きています。㈢その上、天主が、愛に溢れる眼差しをもって、彼らを眺めて、彼らの心に大きな幸福をお注ぎになるとき、彼らはいかに楽しいであろうか。永遠に、幸福の本源である方から、それを配られることは、どんなに幸福であろうか。彼らは喜び楽しむ小鳥のように、至上の幸福をもって周囲を回ります。「神性」の大気のなかで、歌ったり踊ったりするのです。各々、妬むことなく、しかも、競って創り主を賛美し歌います。「永遠に祝せられますように、いと高き甘美な創り主・救い主よ。主は慈しみ深く、あなたの光栄を、私たちに豊かに与えてくださいます」と。この時、天主は、また、これに答えて、諸聖人を永久に祝され、おっしゃいます。「大いなる愛と、勇気をもって、私に仕えて、永遠に私を賛美する、私の愛する被造物よ、あなたたちにまた永遠の祝福があるように」と。感激と決心㈠天なる故郷を褒め称えなさい。私の愛するエルサレムよ、あなたの美しく、あなたの住民は、なんと幸せなことか。㈡この光栄の国に導く道を、このように踏み違えた、今までの卑劣さを責めなさい。どうして、私は、私の無上の幸福からこのように離れてしまったのだろう。哀れな私よ、私は、あのような、つまらない、不愉快な快楽のために、幾千回も、この永遠にして尽きない幸福を捨てました。むなしく卑しい欲望のために、これほどにも望ましい富を軽く見ていたとは、なんとまあ、どんなつもりでいたのだろうか。㈢いま、熱意をもって、この幸福の国を慕いなさい。いと高く慈しみ深い主よ、あなたが、私の歩みを、あなたの道に連れ戻してくださったからには、私は、決して再び後ろに退きません。私の愛する霊魂よ、そうであるなら、この終わりなき休息に行こう。私たちに約束された祝福の地に進もう。かのエジプトの国よ、私たちはお前に何の用事があろうか。㈣それゆえ、この道から私を迷わせ、私に道草を食わせる、これこれの事柄を避けよう。㈤この道に私を進ませる、これこれのことをしよう。感謝し、捧げ、祈れ。

黙想㈨天国の選択

準備㈠天主の御前に出て㈡天主があなたに語ってもらうことを願いなさい省察ラゲスの途上のトビアのように、広い大野原のなかに、あなたの親切な守護の天使とともにいると想像しなさい。天使は、上の方には、開かれた天国と、あなたがした天国の黙想の中で示された喜びと楽しみとをあなたに見せ、下の方には、開かれた地獄と、黙想で描かれた刑罰を示します。そのとき、親切な天使の前に跪いて、次の省察をしなさい。㈠あなたは、いま、本当に、天国と、地獄との中間にいます。あなたが選ぶままに、天国も、地獄も、あなたを迎えるために開かれています。㈡この世で、そのいずれかを選ぶとき、この選択は、来世において永遠に続きます。㈢両方とも、あなたが選ぶままに、あなたを迎えるために開かれているとはいえ、その一つを正義により、もう一方を憐れみによって、あなたに用意している天主は、あなたが天国を選ぶことを切望しています。また、あなたの親切な天使も、あなたの上り道を助けるために、天主よりたくさんの聖寵と助けをもらい受け、あなたを天の方に招いています。㈣イエス・キリストは、類ない慈しみをもって天からあなたを眺め、「私の愛する霊魂よ、大いなる愛をもって、あなたに尽きない幸福を備えておいた私の慈しみの腕に抱かれて、永遠の休みに入りなさい」と、やさしくあなたに勧めています。また、心の眼を開き、聖母が、慈母のように、「娘よ、勇気を出しなさい。私の子と私は、とともに、あなたの救霊を切望します。この願いを仇にしてはいけません」とお招きになっているのを眺めなさい。あなたを励ます聖人たちや、また、あなたの霊魂も、いつか彼らと共に、永久に、天主を称えることを切望し、昇天の道は、世間で考えているほど、難しいものではないと、あなたに示してくれる無数の尊い霊魂たちは、「さあ、しっかり、愛する友よ。私たちが通って来た信心の道を気をつけて見れば、世間の快楽とは比べることができないほどの、快い喜びをたどって、私たちがこの幸福の国に到着したのがわかるでしょう」と言っています。選択㈠地獄よ、私は、今も、いつまでも、お前を憎む。私は、お前の刑罰と苦痛を憎む。お前の、不幸の永遠を憎む。とくに、お前が、私の天主にたいして、不断に吐く、永遠の冒涜と呪いとを憎む。いま、私は、私の心と霊魂とを、天国の方に振り向けて言います。ああ、美しい天国よ、永遠の光栄、無限の歓喜、私は、私の家、私の住み家を、あなたの美しく、尊い家々、あなたの尊く、愛すべき幕屋の間に、いつまでも永遠に定めます。ああ天主、私は主の慈しみを祝し、恐れ多くも、私に与えくださった賜物を受けとります。ああ、私の救い主なるイエスよ、私は主の永遠の愛を受け取ります。また、私が主を愛し、永遠に祝福するために、この幸いなるエルサレムに、私の住み家を設けてくださったことに感謝します。㈡聖母と諸聖人がとが、あなたに授ける恩恵を受け、あなたもまたそのもとに至ることを彼らに約束し、あなたの親切な守護の天使に案内を乞い、自らの心を励まし、この選択をくだしなさい。

黙想㈩信心生活の選択、および、決定

準備㈠天主の御前に出て㈡御前にひれ伏し、御助けを求めなさい。省察㈠再び、広々とした大野原に、あなたの親切な守護の天使と共にいることを想像しなさい。左手には、高く大きな玉座があって、魔王がそこに座っています。魔王の周りにいるは、無数の地獄の悪霊と、「世間的な」人々です。この人々は、頭を下げ、悪魔を王と崇め、各々、罪を犯して王を讃えています。この恐るべき大王のもとで生活している、不幸なる近臣たちの様子を見なさい。あるいは、財産を蓄えることに一生懸命に心身を消耗し、あるいは、空しいものに心を止めて、ありとあらゆる快楽を追い、あるいは、動物的な情欲に溺れて、腐敗の中に住んでいます。彼らには、休息がなく、規律もなく、恥もありません。彼らは互いを軽蔑しています。お互いが愛していると見えるのは表面だけです。呪われた大王の圧政のもとにいる暗黒の国は、あなたにあわれみの情を起こさせるであろう。㈡見なさい。右手には、十字架上に、イエス・キリストが、体じゅうの愛をもって、人々が悪魔の圧政に逃れられるようにと祈りながら、彼らを招いています。主の周りには、敬虔なる人々の群れと、天使らとがいます。信心の中で暮らしている人々の美しさを見なさい。なんと愛すべきことか!百合よりも清い男女の童貞、苦行を営む謙遜な寡婦の集団よ!また一方には、お互い大きな愛を持ち、家庭生活をおくる多くの人々が互いに尊敬し、快く、楽しく、共に暮らしています。これらの敬虔な人々は、外面的な家庭の仕事と共に、内面的のことを思い、夫妻の愛とともに天にいる霊魂の配偶者の愛も考えます。だれを見ても、主の言葉に耳を傾けつつ、その顔は清く、温かく、愛すべくして、みな、自分の心にイエスを大切にしています。彼らは喜びにあふれています。そして、その喜びは、平静で、愛に満ち、かつ理性的です。彼らのお互いの愛は、聖であり、きわめて、純粋です。敬虔な人々の群れのなかにあっては、嘆くものも無駄に怒ることなく、自分を失うこともありません。救い主の御眼差しは万人を慰め、人々は主を仰いで真実の幸福を得ています。㈢あなたは、すでに、善良な決心を作ることができ、悪魔と、その悲しく、不幸な群れから去ったのであります。しかし、まだ、あなたの心の王なるイエスに行き着いているのではありません。また、敬虔な人々の、幸福で聖なる伴侶に加わったのでもありません。あなたは、いま、双方の中間にいます。㈣聖母は、聖ヨゼフ、聖ルイ王、聖女モニカ、および、その他、世間に住んで、天国に入った無数の聖人の群れと共に、あなたを招き、あなたを励ましています。㈤十字架上の王は、あなたの名前を呼びながら「愛する者よ、来て、あなたの光栄の宝冠を手に入れなさい」と、あなたを招いています。選択㈠世間よ、恐ろしい群れよ、私は、決してお前の群れに留まりません。私は、偽りと、虚栄を、永遠に捨てます。傲慢の王、不幸の君、地獄の霊よ、私は、お前と、お前が与える財宝とをことごとく捨てます。私は、お前と、お前の所業を憎みます。㈡私の甘美なるイエスよ、幸福と、永遠の光栄との王よ、私は、主に向かい、私の霊魂を尽くして主を愛します。私は、心の底より主を礼拝し、今も、いつまでも、主を私の主人と選び、忠心を尽くして賛美します。主の聖なる戒律と命令にすべて従います。㈢ああ、聖母、私の母よ、私は、あなたを私の案内者として、あなたの教えに従い、特別な尊敬を捧げます。ああ、聖なる私の守護の天使よ、私を天国の聖なる群れに導き、彼らのもとに至るまで、私を見捨てないでください。私は、彼らと共に、主イエスを選んだしるしとして、「イエスばんざい、イエスばんざい」と、今も、世々に至るまで繰り返し唱えます。

いかにして総告白をなすべきか

愛するフィロテアよ、以上が、私たちの目的に必要な黙想であります。それが済んだならば、勇気をもって、同時に、謙遜な心で、総告白しなさい。告白を恐れて、そのために心の平和を失ってはいけません。さそりには猛毒がありますが、これを油にねりまぜると、さそりに刺された時の妙薬となるとのことです。同じように、罪は、これを犯すのは恥ずかしいことですが、いったん、告白と苦行との形に変化すれば、尊いものとなり、救霊の業となります。なぜなら、痛悔と告白は、その美しさによって罪の醜さを覆い、天主の御前に快い香りによって罪の腐臭を消すからです。らい者シモンは、マグダレナを罪深い女と呼びましたが、聖主は、彼女の罪を忘れて、ただ、彼女がその大きな愛によって、主の足元に流した、尊い香料のことを、彼にお語りになりました。フィロテアよ、もし、私たちが、ほんとうに謙遜であるならば、私たちの犯した罪は、天主に対する忘恩・無礼として、なによりも、これを憎むとともに、罪の告白は、天主の光栄として、快く、嬉しく思うはずです。医者に病気の苦痛を訴えると、自然に苦しみが軽くなります。霊父の前を出たならば、カルワリオ山で、あなたを罪から清めるために御血をお流しになった十字架上のイエス・キリストの御足もとにいるかのように想像しなさい。告白状にひざまずく痛悔者のうえに豊かに注ぐのは、救い主の御血の功徳です。したがって、あなたが心を開き告白して罪を捨てるならば、罪の去り行くと共に、天主の御受難の尊い功徳は、祝福をもって痛悔者を満たすために、入り来るでしょう。告白にあたっては、隠すことなく、単純に、飾りなく、すべてを言明して、あなたの良心に本当の安心を与えないといけません。その後、天主の僕の勧告と命令とに耳を傾けながら、「主よ、語ってください。主のはしためは御言葉を聞きます」と、心の中で祈りなさい。実際、この時、あなたが聞くのは、天主の御言葉である。フィロテアよ、イエスは、「あなたを聞くものは、私を聞くものであります」と、その代理者に仰せになりました。悔悛の秘蹟を受けたならば、次の宣誓文を手にして、注意しつつ、また、全力で心をこめてこれを読みなさい。この宣誓は痛悔の結末であるから、読むまえに、まず、これを黙想する必要があります。

天主に仕える決心を霊魂に銘じ、痛悔の結末となるべき宣誓

下に記名した私は、永遠の天主、ならびに天にいる諸聖人の前に出て、
主よ、あなたは私を虚無から創ってくれました。そして、私が、主の恩恵に値しない、卑しい被造物であるにもかかわらず、私を生かし、多くの危険から救い、多くの恩恵をくださるあなたの無限の慈しみと憐れみを感じます。特に、この慈しみ深い天主が、私の不義を憐れみ、これを許し、私に贖罪を勧め、また、しばしば、善い決心をくださります。あなたの限りない憐れみと慈しみを思い、特に、私は、あなたの聖寵を軽く見て改心をのばし、浅い心で主に背いてきた私の忘恩・不義・不信にもかかわらず、今日に至るまで、私の痛悔を待ってくださった、あなたの無限の慈しみと憐れみを思います。また、私の洗礼の日に、幸福に満ちつつ、主の子になることを誓い、自分を主に捧げたのにもかかわらず、この時の誓いに反して、あなたに背いて、私の霊魂の能力を使用し、不幸にも、私の霊を汚したことを憎みます。私は、今、本心に立ち帰り、心から天主の正義の玉座のまえにひざまずきます。私は御稜威を犯した罪人であり、私の罪のために、イエス・キリストは十字架上で御苦難と御死去をお忍びになりました。私は、当然、永遠に捨てられ、滅亡の淵に入るべきものあり、主の御受難と御死去の原因となったことを告白します。私は、再び、同じ天主の限りない慈しみの玉座に向かい、あらゆる限りの心を尽くして私の過去の生涯の不義を憎み、私の霊魂の主なる救い主の御受難と、御死去との功徳によって、私の罪過の全部の赦しとともに、主の聖寵と慈しみを、うやうやしくこい願います。また、さらに、私の希望の唯一のよりどころである主の功徳によって、私は洗礼の日に、天主に向かい誓った忠信の聖なる約束を、ここに繰り返します。私は、悪魔と世間の肉を捨て、その不幸な勧めと、誇りと、快楽とを、この世に生きている限り、また、永遠に至るまで決して顧みることがないことを再び誓います。私は慈しみと憐れみに満ちておられる天主に従い、今日も、世々に至るまで、主に仕え、主を愛することを切望して、変わらぬ決心をし、私の霊魂とその能力、私の心とその愛情、私の体とその官能を、ことごとく主に捧げます。ですから、私は、この後、私の存在の一部たりとも、これを主のみ旨と、主の御稜威に背いて悪用しないことを誓い、いつも主の誠実・従順なる被造物であるために、犠牲として自分を主に捧げて、この約束を否定し、または、後悔することをしないことを決心します。しかし、もし悪魔の誘惑、または人性の弱さによって、いかなる事柄に欠けているとしても、私がこの決心に背くならば、これを発見したらすぐに、聖霊の恩寵にて、再び回心し、遅れることなく、ちゅうちょすることなく、主の憐れみにより頼むことを、あらかじめ今約束します。以上は、私の意志、すなわち変わらぬ決心として、これを、天主と、私の聴罪霊父の代表する母なる戦闘の教会との前に約束し、なにも除外することなく誓います。願わくは、主、永遠・全能・全善である天主、父・子・聖霊、私のこの決心を強め、私の心の犠牲を、主の御前に立ち上る快い香りとして受け入れてください。また、私にこれを果そうとする希望と意志をくださったように、私にこれを成し遂げる力と助けをお与えください。ああ、天主、主は私の心、私の霊魂、私の精神の天主でいらっしゃいます。私は、このように主を認め、今も、いつも、世々に至るまで礼拝します。イエス万歳!と。

第一の浄化の結末

以上の宣誓を終えたならば、注意してあなたの心の耳を開いて、今地上において、司祭が天主の御名によって、あなたの罪の赦しを与えるとき、天上において、あなたの救い主が、諸天使・諸聖人の列座の前にくだりになる、あなたの罪を赦すことばを聞きなさい。この時、天にいるすべての霊は、あなたの幸福を祝い、類ない歓喜をもって、天主の賛美を歌い、聖寵のなかに立ち返って清められたあなたの心に、平和と友情の接吻を送るでしょう。ああ、フィロテアよ、あなたは、天主と至福なる約束を結びました。なんと驚くべき約束でしょうか。あなたは自分を天主に捧げて、このようにして、天主と、永遠の生命をかち得たのです。今はただ筆をとり、あなたの宣誓書に署名し、祭壇に進み、聖体を拝領し、あなたの更新された心の上に、あなたの罪の赦しと天国の約束の証印を受けるのみです。フィロテアよ、あなたの霊魂は、こうして、罪と、罪の傾きより清められました。しかし、これら、罪の傾向は、私たちの弱さにより、および、地上にいる間、いくら抑えても滅ぼしつくすことは不可能で、肉の誘惑によって容易に、再び、私たちの心の中に生じます。後編に述べていることを、忠実に実行することで、あなたの心が大罪と、その傾向より逃れて、再びこれに煩わされることがなくなることを願います。あなたの心は、これによって、一層、安全なる浄化に至ります。しかし、この完全な浄化とはなんであるのか、まず、この点について説明します。

小罪に対する愛着の念から霊魂を清めるべきこと

夜が明けていくにつれて、鏡のなかに、私の顔のしみや汚れがはっきりと見えるように、心の中の聖霊の光明が、良心を明るく照らすにしたがって、真の信心を妨げる罪や、罪の傾きや、欠点などが、次第にはっきりと見えるようになります。そして、汚れや、欠点を私たちに示すその光明が、これをぬぐい清める希望を与えます。愛するフィロテアよ、あなたは、前章に記述した勤めで、すでに、大罪と、その愛着の念とにより清められましたが、その他にも、あなたの霊魂に、なお小罪に対する多くの傾きや、愛着を発見するに違いありません。そうして、これは、全く異なる二つの事柄です。私たちは、絶対の清浄に至ることはできません。少なくとも、この清浄境に長く止まることは不可能です。しかし私たちは、小罪にたいして、なんらの愛着を有しない境地には、至ることができます。一度、二度、不注意によって、ささいな事柄に虚言を吐くのと、虚言を愛し、わざと偽りを言うのとの間に、大きな差異があるのは明らかです。従って、私の述べるのは、小罪に対する愛着より、霊魂を清めないといけません。すなわち、引き続いて自覚しつつ(いかに軽い罪でも)罪の状態にいようという意志を養ってはならないということです。これは、取りも直さず、天主の御稜威に背こうとの意図を抱くことです。このように、天主の御意にそむく欲望を、知りつつ、私たちの心に持とうと欲するのは、あまりに、恐ろしいことではありませんか。小罪は、天主が私たちを滅亡の淵に投げ込みなさるほど、その御怒りを招くものではありませんが、どんなに小さな小罪でも、それは天主の御意志に背くことであります。ゆえに、私たちが小罪に対して抱く意志・愛着は、すなわち、主の御稜威に背こうとする決心に他なりません。誤って天主に背くのでは足らず、なお進んで、背くことを望むようなことは、善良の霊魂にとって、はたしてあり得ることでしょうか。フィロテアよ、このような小罪に対する愛着が、信心を損なうことは、まるで、大罪に対する愛着が、天主の愛を損なうのと同じです。この愛着は、精神の能力を鈍麻し、天主の慰安を妨げ、誘惑に扉を開いて、たとえ、霊魂を殺すまでには至らないにしても、霊魂をひどい病気にします。知者の言葉にも、「死んだハエは、香油を臭くし、これを腐敗させる」(伝道書10・1)とあります。ハエが香油の上に長くいないで、ただ少しの間、これをなめるだけであるなら、その部分のみ悪くなって、残りはそのままですが、もし、そのなかで死ねば、香油は、全くその価値を失い、厭うべきものとなります。このように、小罪が、敬虔なる霊魂が宿っても、長くそこに止まらないかぎり、それほど、信心を損なうものではありません。しかし、もし、これに対する愛着の念によって、長く霊魂に止まれば、香油の甘い香り、すなわち、聖なる信心を、滅ぼすに至ることは、疑いもないことです。クモは、ミツバチを殺さないが、その蜜を腐らせ、また、ハチの巣の前に巣をかまえれば、ここに網を張りつめて、ミツバチの活動を妨げます。小罪も、私たちの霊魂を殺さないが、私たちが、これに抱く愛着の念によって、良心のうちに巣を作れば、信心を損ない、悪習慣と悪傾向とにより、霊魂の能力を小さくし、天主の愛の神速(すなわち信心)を行うことを妨げます。フィロテアよ、ささいな偽りを言い、あるいは、言葉・行動・表情・衣服・冗談、その他において、少しもまじめを欠くようなことがあっても、これらの精神のクモが、私たちの良心に入るや否や、ミツバチがクモを追うように、ただちにこれを退けるならば、なにも憂慮するに足りません。しかし、もしこれを黙視して私たちの心の中に止まることを許し、あるいは、さらに愛着によって、これを心中に引止め、あるいは増やすならば、まもなく、私たちの心の蜜は失われ、良心のハチの巣は破滅するに至るでしょう。しかし、私はもう一度、繰り返して問います。誠実な人が、天主に背くことを楽しみ、天主に憎まれることを喜び、天主の禁じていることと知りつつ、これを愛する人がいるだろうか、と。

無用にして、かつ、危険な事物の愛着から霊魂を清めるべきこと

賭け・舞踏会・華美・観劇のごときは、がんらい、決して悪いことでなく、善悪以外にあって、場合により、善ともなれば、悪ともなるものですが、しかし、危険を含む事柄で、これに対する愛着は、なお一層、危険なものになります。フィロテアよ、それゆえ賭けをし、舞踏し、華美を装い、高尚な演劇を見、饗宴を開くのは、さしつかえない事柄ですが、これに愛着を持つのは、信心に反し、はなはだ有害で、かつ、危険です。それ自身は、悪くありませんが、これを好むのは、悪いことです。私たちの心の土に、このような空虚な、かつ、愚かな愛着の種をまくのは、本当に残念です。これらは、よい思いの生じる場所をふさぎ、良心の養液が、よい傾向のために用いられることを妨げるからです。だから、古のユダヤ教の厳格な誓願者は、酔いを起こすような全ての飲料を禁じるのみならず、ぶどうの実、ぶどうの酢も、用いたり摂ったりしませんでした。ぶどうの実、あるいは酢が、酔いを発するためではありません。ぶどうの酢を用いれば、ぶどうの実が食べたくなり、ぶどうの実を食べると、その汁、ぶどう酒を飲みたくなる恐れがあるからでした。私は、上述の危険なことをしてはいけないというのではありません。ただ、それに愛着を生じれば、その結果は、必ず信心を損なうということです。牡鹿は、肥満になると、群れから離れ茂みの中に隠れます。体重が重くなって敵の獣に襲われるとき、奔地することができないことを知っているからです。人間の心も、無益無用で、危険なる愛着に捉われるならば、天主のもとに、迅速に、かつ、容易く走ることができなくなります。幼い子供は、蝶が好きで、それに夢中になっても、誰もそれをとがめません。彼らが幼児であるからです。しかし思慮ある人が、私が上にあげたような価値のなくつまらないもの、無益で、かつ、それを求めるにあたり、間違いを起こしやすいものを愛して、それに夢中になるのは、いかにも笑うべく、むしろ悲しむべきことではないだろうか。愛するフィロテアよ、それゆえに、あなたは、その愛着より、心を清めなければなりません。単独の行為は、必ずしも信心に背きませんが、その愛着は、必ず信心を害するからです。

悪しき傾向より霊魂を清めるべきこと

フィロテアよ、以上述べた事柄の他に、私たちには、個々の罪から生じないで、従って、罪でない(大罪でも、小罪でもない)自然の傾きがあります。これを不完全と言い、これより出た行為を、欠点、あるいは不足と称します。たとえば、聖イエロニモの伝えるところによれば、聖女パウラは、悲しみの傾きに強い傾向を持っていて、その夫や子供の死に際して、悲しみのあまり死ぬかもしれないほどであったといいますが、これはすなわち、不完全であって、罪ではありません。なぜならば、彼女の意志にかかわらず起こったからです。人々のうちには、その性質として軽薄なものもいるし、気難しい人もいるし、あるものは愛に溺れやすい人もいます。要するに何の欠点のない人は、きわめてまれです。この欠点は、各人にとり、生来、自然なものですが、私たちは、努力と、反対の徳への愛着とにより、これを正し、変じ、進んで、これを失くし、自己を欠点から清めることも出来ます。本当に、フィロテアよ、あなたはこれをしなければなりません。人は苦扁桃を踏んで、苦い汁を搾り、甘い扁桃と変える方法を発見しました。それならば、私たちは、どうして、悪しき傾向を去って、善良となることができないのであろうか。世の中には、悪感化によっても悪化されないほどに、よい天性はなく、また、天主の御寵により、努力と熱心とによって、制御され、打ち勝てないほどの、執拗な悪い天性もないのである。私は、以下、あなたに種々の教訓を与え、また、種々の勤行を述べます。これにより、あなたは、危険な愛着・欠点、および、小罪に対するすべての傾きより、あなたの霊魂を清めることを得て、あなたの良心を、確実に、大罪より守ることができるであろう。願わくは、これをよく行うための恩寵を、主があなたにくださるように。

祈りと秘蹟によって、霊魂を天主にあげるために、必要な種々の教訓

祈りについて

㈠祈りは、天主の光明により、私たちの理性を照らし、超自然的な炎により、私たちの意志を清めます。だから、私たちの理性を無知から救い、私たちの意志を堕落した執着から清めること、これに及ぶものはありません。祈りは天主の祝福の水です。これに注がれて、私たちのよい願いの草木は芽を出し、花を開き、私たちの霊魂はその欠点を去り、心の情熱は渇きを癒されます。㈡特に、私があなたに勧めるのは、心中の祈り、すなわち、黙祷、とくに、聖主の御生涯と御受難との黙想です。黙想の中に、しばしば、聖主を見るならば、あなたの霊魂は主に満たされ、また、主がしてくださったことを覚え、自ら主に倣って行動するようになります。主は、世の光でいらっしゃる、私たちは、主において、主によって、また、主のために照らされ、輝かねばいけません。黙想はその木陰から私たちが憩う希望の樹であり、私たちの罪を洗うヤコブの生ける泉でもあります。子供たちは母の言葉を聞き、それをまねて、やがて自ら話すことを覚えます。私たちもこのように、主のそばで、主の御言葉・御業・ご愛情に親しみ、ついに聖寵の助けを受けて、主のように祈り、主のように行い、主のように望むことを覚えるのです。この点を、まだ詳説する必要があります。フィロテアよ、私たちが、父である天主に至ることができる唯一の門は、ただキリストのみです。まるで鏡のガラスが、その背面に薄くのばした鈴か鉛がなければ、私たちの視線をさえぎることができないように、この世において、天主をよく見ることができるためには、神性が、救い主の尊い人性と結合することが必要であります。そして、その御生涯と御死去とは、私たちの毎日の黙想に最もふさわしく、甘美にしてかつ快く、また、最も有益な題目であります。救い主が、自ら天より降りたるパンであると称せられたのは、決して無意味ではありません。パンは種々の副食物と共に食べられるように、聖主も、また、私たちのすべての祈祷と、行為の中に黙想でき、求められなければならないのです。主の御生涯と御死去とは、多くの著者によって、黙想に適するように簡単にまとめられています。聖ボナヴェツーラ、ベリンタニ、ブリュノ、カピリア、グルナダ、ジュポンなどの黙想書を推奨します。㈢そのために、毎日食前の一時間、なるべく朝の最初の一時間を当てるとよい。朝は、夜の休息の後で、精神が最も落ち着いて、かつ静かなときであります。しかし、特に指導霊父の許可がなければ、一時間以上にわたってはいけません。㈣もし、この勤めを静かな教会の内部ですることができるならば、たいへん都合がよく、かつ、便利です。なぜなら、あなたの父母も、配偶者も、また、その他の誰でも、まじめな人は、あなたが教会に一時間いることを、あえて非難することができないからです。また、おそらく、家にいては、いろいろな障害のために、自由に一時間をとることが困難だからです。㈤黙祷、あるいは、口祷にかかわらず、いっさいの祈祷を、常に天主の御前にいることをハッキリと意識してから、始める習慣をつくり、この規則をかたく守らなければいけません。すぐに、これがあなたにいかに有益であるかは明らかになるでしょう。㈥主祷文、天使祝詞、使徒信経は、できればラテン語で唱えるといいでしょう。しかし、その意味をよく理解しないといけません。たしかに、教会の共通語でこれを唱えて、しかも、これら、聖なる祈祷の驚異すべき、甘美なる意味を味わうためであります。あなたは、これらの祈祷に心を止め、その内容と自分の感情と一致させ、いそいで多くを唱えようとはせず、言葉の意味をかみしめながら、心からこれを唱えねばなりません。心を込めて唱えた一つの主祷文は、無造作にすらすらと唱えた多数に勝ります。㈦ロザリオは、それを正しく唱える方法を知っていれば、本当に有益な祈祷の方法です。これには、ロザリオの唱え方が記述してある小冊子を読めばよいです。また聖主の連祷、聖母・諸聖人の連祷、その他、教会の認可がある祈祷書の祈祷文を唱えるのも良いです。ただ、もし、天主が、あなたに念祷を行う能力を与えて下さったならば、常にこれをまず尊重しないといけません。念祷の後に、忙しく、その他なんらかの理由で、祈祷文を唱えることができない場合も、すこしも気づかうことはありません。単に念祷の前、または、後に、主祷文・天使祝詞・使徒信経を唱えればそれで十分です。㈧もし、祈祷文を唱えている間、あなたの精神が、内心の祈り、すなわち、念祷に招かれていることを感じたならば、これを拒まず、静かにこれをその方に転じるといいでしょう。そうして、予定した祈祷文を終わらなくても、心配する必要はありません。その代償の念祷は、なお一層、天主がお好みになるので、あなたの霊魂に、さらに利益となるからです。ただ、もし、聖務日課を唱える義務があれば、これは例外であります。この時は、まずその義務を果たさないといけません。㈨もし、多忙のため、あるいはその他の理由で、朝の間に黙想のつとめができないならば、(このようなことがないように、あらかじめ最善の注意を払わないといけないが)、この損失を、午後、食事に最も遠い時間に償うのがいいでしょう。食事のすぐ後、消化が十分でないときに試みると、眠気がさし、また、あなたの健康を害する恐れもあります。もし、また、一日の中に、黙想をする時間がなかったならば、射祷を増やし、あるいは、信心の書を読み、また、朝の黙想の勤めができないことが習慣とならないように、自分にすこしだけ償いを命じて、その損失を取り返し、同時に、翌日は再び黙想の規則を守ろうとの、堅い決心をつくらないといけません。

簡単な黙想の方法 (準備の第一弾)天主の御前にあることを思うこと

フィロテアよ、もしかすると、あなたがまだ黙想の方法を知らないかもしれません。これを知る人は、不幸にして現代には少ないのです。ですから、今、私は、そのごく短い、簡単な方法を示します。やがて、あなたも黙想に関して書かれた、種々の立派な書籍を読み、特に、あなた自身の練習によって、詳しくこれを覚えるでしょう。黙想の最初の行為は、準備であります。これを二段に分けることができます。第一段は、自分が天主の御前にいると、強くはっきりと思うこと、第二段は、天主の助力を願うことであります。明白に天主の御前に出るために、私は四つの主要な方法を示すので、最初のうちはこのようにするといいでしょう。第一の方法は、天主がすべてにわたって存在することを注意深く、はっきりと認識することです。すなわち、天主は万物において、また、どこにでもいらっしゃるので、この宇宙のどんな所でも、どんな物にでも、天主がその真の存在をお示しにならないものはない、と意識することです。鳥がどこかに飛び立ち、常に空中から自由に、私たちはどこに行き、どこにいても、どこにでも、天主がいらっしゃるのを見ます。この真理はどんな人でも知っていることですが、ただ身にしみてこれを思っていません。眼が見えないものは自分の前に王様がいても、その姿が見えないために、近くにいる人の注意を受けなければ、敬意を表しません。なお正確にいえば、彼は、王様が眼に見えないので、たとえ注意を受けても、その前にいることを間もなく忘れてしまいます。そして忘れてしまえば、一層、王様に対する尊敬を失いやすいのです。フィロテアよ、私たちの眼にも、同じように、私たちの前の天主が見えません。私たちは、たとえ信仰によって天主の実在を知っていても、眼に見えないために、しばしば天主がどこにでもいらっしゃることを忘れて、天主があなたたちより遠ざかっているように振る舞っています。天主はどこにでもいらっしゃることを知りつつ、しかもこのことを思わないならば、天主がどこにでもいらっしゃることを知らないのと変わらないことです。それゆえに、常に黙想の始めに、あるいは、「ああ天主、私は、天に上っても、地底に下っても、主はそこにいらっしゃいます」(詩編138・8)と叫んだダビデ王の注意深い思いに倣い、あるいは、聖なる梯子を眺めた時にヤコブが発した「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世28・16)との言葉を用いないといけません。天主のみ前に出る第二の方法は、天主が、今、あなたがいる場所にいらっしゃるばかりではなく、特にあなたの心の中、あなたの霊魂の奥底にいらっしゃることを思うことです。天主は、あなたの心の心、霊魂の霊魂として、その中にいらっしゃって、私たちを生かしてくださっています。ちょうど、霊魂は人の体のいずこにも溢れ、そのすべての部分にも存在するといえども、特別に心の中に存するように、天主も、万事の中に内在していらっしゃるといえども、格別に私たちの霊魂に御宿りになっています。ダビデ王が、天主を「私の心の天主」(詩編72・26)と呼び、聖パウロが、「私たちが生きるのも、動くのも、存在する天主においてです」(使徒17・28)といったのも、そのためです。だから、この真理を思えば、このように親密に一致してくださる天主に対して、心の中で、深い尊敬を感じるようになるでしょう。第三の方法は、救い主はその人性の中において、天の玉座より、世界中のすべての人々、特に愛する子である信者たち、さらに格別に、祈祷に従事しているものを眺めて、その行為・挙動に注意していらっしゃることを思うことです。これは単純な想像ではなく実際の事実です。たとえ私たちが主のみ姿を仰ぎ見ることはできなくても、主は天より、私たちを見ていらっしゃいます。聖ステファノは殉教に際して、主の御姿を認めたではありませんか。そうなので、私たちは雅歌の少女と共に、「ごらんなさい、新郎は、もう家の外に立って、窓からうかがい、格子の外からのぞいています。」(雅歌2・9)と本当に言うことができます。第四の方法、単に想像力を使って、救い主の聖なる人性を私たちのそばに描くことができます。私たちはよく友人を思い浮かべ「なにがしさんが、なになにをしている様子が、まるで眼の前に見えるようだ」とか、その他これに類することをいうことがあります。その通りにするのです。しかし、もし聖体の前で黙想するときには、これはもはや想像ではなく事実であります。なぜならばパンの形態は、御すだれのようなもので、私たちの眼には御姿をさえぎっていますが、主はその後ろに実際に隠れていて、私たちを見ていらっしゃるからです。あなたの黙想の前に、この四つの方法の一つを用いて、天主の御前に出なさい。ただし、この四つの方法の全部を一時に用いようとはしないで、一時に一つ、しかも、短く簡単にしないといけません。

(準備2段階)天主の助力を請うこと

天主の助力を請うには、次のようにすればよい。あなたの霊魂が、天主の御前にあることを感じたならば、このような尊い御稜威の御前に出るのにふさわしくないことを思って、深く謙遜になり、ついで、あなたが天主の助力を請うことが慈しみ深い主の御旨であることを思い、そこで、この黙想において、主によく仕え、主をよくよく礼拝するために、必要である聖寵を乞い求めなさい。そのために、次のダビデ王の言葉のような、短い、熱烈な祈りを用いなさい。「ああ、私の天主よ、あなたの前から私を捨てないでください。主の聖霊の御恵みを奪わないでください」(詩編50および118)。あるいは、その他の、類似の祈祷をしてもよいです。たとえば、主の御死去の黙想には聖母、聖ヨハネ、聖マリア・マグダレナ、よき盗賊の助力を願い、彼らが、その時受けた、心中の感情と決心とを、あなたに分けてくださるように願い、また、あなたの臨終の黙想には、そこに立ち会うあなたの守護の天使を呼び頼んで、有益な省察を示すように願うなどです。その他の黙想においてもまたこれに準じます。

(準備の第3段)玄義の上程について

以上の二段は、各黙想に共通でありますが、第三段階はそうではありません。この第三段を、あるいは「場面の製作」、あるいは「内的教訓」とも言います。これは、要するに、黙想しようと欲する玄義が、実際、私たちの眼の前で行われているように想像することです。たとえば、主の御生涯を黙想するときには、福音書の記載通りに黙想します。その他、死や地獄を黙想するときでも、私が第一編に記述したとうりに黙想します。すべての具体的、感覚的の黙想は、みな、同様に取り扱ってよいです。しかし、これに反し、「天主の偉大なること」とか、「徳行の優れていること」とか「私たちが創られた目的について」とか抽象的な真理を黙想するには、このように想像力を使うことは不可能です。もともと、省察を助けるために比喩を用い、類推法は利用することはできますが、一般にそれは容易ではありません。私は、あなたには簡単な方法(第1篇で黙想したようにする)を教えます。あなたの精神が、これを発見するために、過分の努力を費やすのは、私の望むところではないからです。この想像力を用いる方法によると、私たちは私たちの精神を、黙想しようと望む玄義に、集中することができるようになり、あちこちとほしいままに気が散るのを防ぐのに利益があります。それは、丁度、小鳥をかごに入れて、または、こぶしを離れないように鷹をつないでおくようなものです。しかし、この方法を退け、それよりも、むしろ、単純な信仰によって、これらの玄義を、純粋に、霊的に認識して物質的の形状を想像するな、あるいは、あなた自身の心の中で事件が進行するかのように思え、とあなたに勧める人々がいるかもしれません。しかし、このやり方は、初心者にはあまりに高尚すぎます。フィロテアよ、天主があなたを高くお導きになるまで、あなたは私が示した谷底の低い道からたどりなさい。

(黙想第2部)省察について

想像の次は、黙想と呼ぶ理性の働きです。これは、私たちの情操を、天主、および、霊的事物について感動させるために、一つ、あるいは、数個の省察のいいのです。黙想が、研究、あるいは思索と異なるは、まさにこの点であります。すなわち、黙想の目的が徳行、または天主の愛の獲得することに反し、後者は、学者になるとか、著述するとか、討論するかなどを目的とします。黙想に際しては、前章で説いたように、具体的な事柄には想像を用い、抽象的な事柄には単純な認識を用いて、あなたの精神を、黙想しようとする題目にひそめ、しかる後に、これに省察を加えます。第1篇の中にある各種の黙想に、その実例を示してあります。そうして、もしも、省察の一つに興味を覚え、あるいは光明を感じ、利益を得るならば、あえて他に移る必要がなりません。吸うべき蜜がある限り、他の花に移らないミツバチのように。しかし、期待に反して、しばらく試みたのちに、なお一つの省察に興味を覚えなければ、次のように省察すべきであります。ただし、この際、心を乱さないように、ゆっくりと、なにげなく移らないといけません。

(黙想の第3部)感激と決心について

黙想は、私たちの意志に、善良な感激を生みます。たとえば、天主、および、隣人に対する愛、天国とその光栄との希望、救霊に対する奮発、主イエスの御生涯の模倣・同情・感嘆・悦楽、さては、天主の怒り、ならびに、審判・地獄の恐怖・罪の憎悪・天主の御慈しみに対する信頼・私たちの過去の罪悪の羞恥などです、これらの感激に際して、私たちは当然できるだけ私たちの感情を激励しなければいけません。もしも、そのために、なんらかの助けが欲しければ、ドン・アレドレー・カピリアの「黙想」の第1巻をとり、その序言を読めば、感激を大きくする方法が記されています。なお詳細を知ろうと欲する人は、霊父アリスの「念祷論」を参照にするとよいでしょう。フィロテアよ、しかし、無駄に、これらの一般的な感激に止まって、あなた自身の矯正、ならびに進歩を目的とする、特殊の決心することを怠ったとしたら、それは不十分であります。たとえば、聖主が十字架上で発せられた最初の御言葉は、必ずや讐敵を赦し、彼らを愛そうという、主の模倣のよい感激をあなたの霊魂の中に満たしますが、しかし、あなたがもしこれに、下のように特殊の決心を加えることがないならば、利益となることは少ないでしょう。例えば、「私の隣人、もしくは召し使いの何某が、私に言った何々のぶしつけな言葉、もしくは、私に対してなした何々の失礼について感情を害すまい。私は何々と答え、何々のことをして、その心をやわらげよう」等。フィロテアよ、こういうふうにすれば、ただ漠然と感激をもってしてできなかったことや、容易になおすことができなしあなたの欠点をも、短時日の中に正すことができるでしょう。

結末と精神的花束について

さて、黙想の終わりには、できるだけの謙遜をもって行うべき三つの事柄があります。第一は、感謝で、私たちにくださった感激、および決心を感謝し、なお、黙想したなかに発見したその御慈しみについて、天主に御礼を言わなければなりません。第二は奉献で、天主に、第一にその御慈しみ、御子の御死去、御血、御善徳を捧げ、なお、これに私たちの感激と決心とを添えないといけません。第三は祈願で、私に聖寵と、御子の御徳行を与えて下さるように祈り、また、教会のため、霊魂を牧する人々のため、親族・朋友、その他のために祈り、聖母・もろもろの天使・聖人たちの取り次ぎを乞わないといけません。なお、あらゆる信者にとり、万人に必要な祈祷として、主祷文、および天使祝詞を加えることは既述のとおりです。最後に、信心の小さい花束をつくることは、これもすでに注意しておいた通りです。私が言いたいのは、だれでも、花咲き匂う美しい庭園を散歩すれば、去る際に、数輪の花をつみ、その芳香を楽しみ、一日の記念とします、あたかもそのように、ある玄義について黙想したならば、特に感動した省察、あるいは、特に私たちの進歩に有益な省察の二三の点を選んで、夕方まで、その霊的な芳香を楽しみ、本日の黙想を忘れないようにしなさい、ということです。黙想を楽しむことは直ちに黙想をしたその場でするか、あるいは、しばらくしてから、静かなところで題目を回顧して、適当なものを選んで行うこともできます。

黙想に関する二、三の注意

フィロテアよ、殊に心すべきは、黙想がすんだならば、あなたの決心を忘れずに、それをその日のうちに、注意して実行する事であります。これが、黙想の一番大切な効果です。これがなければ、黙想も、しばしば、無用になるばかりではなく、有害になることさえあります。なぜならば、単に黙想しただけで、実行しなかった徳行は、場合によっては、私たちの精神を高ぶらせることがあるからです。私たちは、時々、決心した通りの善徳を、すでに獲得したと誤認してします。もちろん、はつらつとして堅固な決心ならば、その通りですが、実行が伴わない決心は、とにかく空しく、かつ、危険なので、ぜひともこれを実行する手段を考え、大小の機会を逃してはいけません。たとえば、柔和の徳を修め、私に無礼を加えた某たちと仲直りしようと決心したとします。そうすれば、私は、彼らに出会って、快く挨拶するように計画します。もし、彼らに行き会う機会がなければ、少なくても、彼らのよいうわさをし、また、彼らのために天主に祈ることを忘れません。また、黙想を終えた後にも、あなたの心を乱さないように注意しないといけません。そうでないならば、せっかく、黙想して得られた香油を、地にこぼしてしまうように失うからです。もしできるならば、少しの間、沈黙を守り、それから、静かに黙想より日々の務めに心を転じるようにして、少しでも長く、感じ悟った感激を保っておかねばなりません。美しい器に尊い酒を満たして家に帰る人は、わき目をしません。石につまずいたり、転んだりしないように、一心に道を見つめ、あるいは、こぼさないように器に注意して、少しずつ歩むでしょう。このように、あなたも黙想がすんだのならば、すぐに心を散らさず、まっすぐにあなたの行く手を見なさい。どうしても、会って話をしないといけない人がいるなら、それは仕方ありません、しかし、黙想の尊い酒をできるだけ失わないように、あなたの心に注意することが肝要です。あなたの職務上の正当な仕事は、たとえ、それが、黙想に受ける感激と、全然異なる種類のものでも、黙想からそれに移って行く習慣をつけないといけません。たとえば、弁護士は黙想から弁論に移り、証人は商売に移り、主婦は妻としての務めと家政の配慮とへ、静かに移っていって、この移行のために心の平和を乱してはいけません。黙想も、職務も、共に天主の思し召しである以上、謙遜と敬虔との念をもって、その一つより他に移るべきは当然であります。時として、準備もまだ十分にしないうちに、あなたの心が、天主の思いに、非常な感動をもって満たされることがあるでしょう。フィロテアよ、その時は、私が示した方法などに従おうとしないで、心の手綱を放すがよいでしょう。通則としては、省察が感激と決心との前に来なければいけませんが、もしも、聖霊が、あなたに省察に先立って感激をくださるならば、わざわざ省察を試みる必要はありません。省察は感激に至る手段に過ぎないのです。ゆえに、もし、感激を感じることができるならば、省察の前でも後でも、万事から離れ、これを受けなければいけません。私が黙想の方法を説くにあたって、感激を全部の省察の後にしたのは、単に黙想に、部分を区別するためで、実際には、感激が起こったならば、これを阻止することなく、常にそれに赴くのが黙想の規則であります。なお、これは、感激ばかりではありません。感謝も、奉献も、祈祷も、省察の間に行って差し支えありません。ただし、これらの黙想の最後に、もう一度繰り返さねばなりません。決心だけは、感激の後、すなわち、黙想の最後につくらないといけません。その理由は、具体的な決心を作るには、日常生活の特殊の事柄を考えなければいけないので、感激の間にこれを挿入しては、心を乱す恐れがあるからです。感激や決心には会話法を用いて、あるいは聖主、あるいは天使、または玄義にあずかる人物、諸聖人、自分自身、自分の心、罪人、さては無情の被造物にまで言葉をかけること、詩編におけるダビデ王のように、あるいは、黙想の間にこの方法を用いた諸聖人のようにしなさい。

黙想中の心の乾燥について

フィロテアよ、たとえ、もし黙想になんらの興味も、慰めも感じないことがあっても、決して、決して、心配をしてはいけません。あるいは、声を出して聖主に嘆き、あなたのこれに値しないことを告白し、御助けを願い、もしあるならば、その御姿に接吻し、「主よ、主よ、私を祝福してくださるまでは離しません」 (創世記32・27)と、ヤコブのことばを繰り返し、あるいは、カナンの女にならって、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(マタイ15・27)と申し上げるといいでしょう。あるいは、敬虔の書を手にして、あなたの精神がさめて、平常の状態に戻るまでは、心をこめてこれを読みなさい。あるいは、もし、他人に見られない片隅にいるときには、たとえば、地にひれ伏すかとか、合掌するとか、十字架に接吻するとか、ある外面的の敬虔な態度をとって、あなたの心を刺激するといいでしょう。これらのことを試みて、なお慰めが来なくても、また、乾燥が、たとえ、どのように激しくても、このためにあなたは少しも失望せず、天主の御前に慎みのある態度を続けなければいけません。神に試されていると思いなさい。一年に百度、王の御前に出る機会があっても、王にものを申し上げる望みはなく、単にその御目に止まり、自分に義務を尽くすだけの家臣が、どのくらい大勢いるであろうか。親しきフィロテアよ、私たちにも彼らに倣って、単に義務を尽くし、忠誠を証明することを唯一の目的として、黙想をしなければいけません。もしも、天主が、あるいは尊い霊示をくださり、あるいは、内心の慰めをくださって、み言葉をかけてくださるのであれば、言うまでもなく、私たちにとって、最大の栄誉、無上の幸福です。しかし、これに反して、この恩寵をくださらず、あたかも、私たちが御前にいらっしゃることを、ご存じでないかのように思えても、御前から去ることなく、慈しみ深い天主の御前に、いつまでも、敬虔に、平静を持っていたならば、必ず、聖主は私たちの忍耐をお誉めになり、私たちの熱心と忠誠とを顧みてくださり、次回に天主の御前に出るときに、恩恵をくださって、私たちを慰めてくださり、尊い黙想の楽しさを示してくださるでしょう。しかし、たとえ、そうなさらなくても、、フィロテアよ、天主のお側近くにいて、御目のもとにいるということだけで、私たちの最大の名誉であると信じて、満足しなければいけません。

朝の勤め

前数章に述べた正式の長い黙想と、一日に一回の祈祷文の読誦の他に、なお5種の簡単な念祷があります。これは、みな、主要なる黙想の準備、あるいは、継続ともいうべき、その中の一つは早朝、一日の仕事の総準備として行うものです。次にその方法を示します。㈠前の夜の間、あなたを守ってくださった恩恵を、深く天主に感謝し、拝みなさい。もしも、その間に、なにか罪悪を犯したならば、謹んで赦しを乞いなさい。㈡今日の一日は、永遠を手に入れるためのものになることを思い、今日一日を善く用いるという固い決心をしなさい。㈢今日、天主に、お仕えするために、どのような業務をして、どのような人と会い、どのような事件に遭遇するだろうか、また、どのような誘惑(たとえば憤怒、虚栄、その他)によって、聖主に背く恐れがあるであろうかと予測して、天主に仕え、信心に進歩する機会は、これをよく利用することができるように、これに反して、あなたの救霊、天主の栄光を妨げるものは、これを避け、これと戦い、これに勝つように、あらかじめ堅固な決心を作っておかなければいけません。それもただ単に決心するのではなく、これを実行する手段にまで考えが及ばないといけません。たとえば、短気で怒りやすい人と交渉をしなければいけないと思えば、単にその人を怒らせるまいと決心するばかりではなく、それを防ぐに十分な柔和なことばを考え、あるいは、その人の怒りを抑えることのできる誰かの助けをお願いすることなども決めたり、また、たとえば、病人を訪問しないといけないと思うときには、その時間を決め、どのような慰め、援助を与えようかあらかじめ考えておく等であります。㈣それがすんだら、天主の御前にへりくだり、悪を避けるのも、善を行うにも、あなた自身の力では、なに一つ遂行することができないことを告白して、あなたの心をよい決心とともに天主に捧げ、主がこれを保護し、強めてくださることを願いなさい。これは、例えば、次のような言葉を用います。「ああ、主よ、ここに主の御慈しみによって、いくらかのよい決心を作った貧しい心があります。主がこの決心に天の祝福をくださらないならば、それを望み続けることも、これを行う力もありません。憐れみ深い天の父よ、御子のご受難の御功徳によって、この決心を祝福してください。私は主の栄光のために、今日もまた、私のすべてを捧げます」と。さらに、聖母、守護の天使、聖人にあなたを助けてもらえるように祈りなさい。この勤めは、短く、生き生きと、もしできるならば、寝室をでないうちにしないといけません。これによって、あなたの一日の仕事が、天主の祝福に潤わされるでしょう。フィロテアよ、決して、これをおろそかにしてはいけません。

夜の勤めと良心の糾明

昼食の前に黙想という霊的な食事をするように、夕食の前にも、少なくとも、簡単な、信心深い霊的な食事をとる必要があります。それゆえ、夕食前に短い時間を見つけて、天主の御前にひざまずき、十字架にかけられた主イエス・キリストをしのび(簡単な省察、あるいは、精神的ことを短い時間で見ることで)いくつかの祈願・謙遜・思慕の思いを救い主に捧げて、もって、心に、朝の黙想の火を、再び点じなければいけません。このためには、あるいは朝の黙想の間に、特別に深く感じた真理を思い浮かべ、あるいは、欲するがままに、新しい題目を選んでよい。㈠一日中、私たちを守ってくださる恩恵を、天主に感謝する。㈡一日の行為について糾明する。これを容易にするためには、どこにいたか、誰と暮らしたか、何をしたかを、順次に思い浮かべる。㈢もしも善行があったならば、天主に感謝し、これに反して、思い・ことば・行いをもって罪を犯したならば、その赦しを願い、早い機会に悔悛の秘蹟を受けること、および、注意してこれを償うことを決心する。㈣その次に、自分の肉体・霊魂・全教会・親族・朋友を神の摂理にゆだね。聖母・守護の天使・聖人に私を守ってくださることを願い、天主の祝福のもとに、与えてくださる睡眠につきます。この勤めは、朝の勤めに等しく、決して忘れてはいけないものです。朝の勤めは、あなたの霊魂の窓を正義の光明に開き、夜の務めは、これを地獄の暗闇に閉ざします。

霊的孤独の勤めについて

愛するフィロテアよ、私は、次に述べるところをあなたが、特に忠実に守ることを切望します。なぜならば、これが、あなたの霊的進歩に、最も重要な方法の一つだからです。私が教えた四つの手段の一つを利用して、一日のうちに、なるべくしばしば、天主の御前にいることを思い起こし、現在、天主がしてくださっていること、あなた自身がしていることを考えなさい。天主の御目は、絶えずあなたの上に注がれていて、言いつくしがたい慈しみをもって、あなたを見守りくださっています。ああ主よ、主は常に私を見てくださるのに、どうして私は主を仰ぎみないのでしょうか。主は常に私を思ってくださるのに、どうして私は主のことを考えないのでしょうか。ああ私の霊魂よ、どこにあるのでしょうか。私たちの真の住居は、天主のお側にあるのに、いま私たちはどこにいるのでしょうか。小鳥は木の枝に巣をかけて、そこに隠れ、鹿は森の陰や、ほら穴に退いて夏の暑さを避けます。フィロテアよ、私たちの心にも、また、どこか一つの隠れ家が必要です。私たちも、あるいは、カルワリオ山の頂、あるいは、聖主の御傷の中、あるいは、聖主のそば近く、そのいずれかに機会あるごとに隠れ退き、あわただしい外面的の俗務の間に休息し、あるいは、これを誘惑に対する砦としなければいけません。真にその心の底から、聖なる主に向かい、「主は私の隠れ家、私の砦、雨をしのぐ屋根、暑さを防ぐ木陰」と言うことができる霊魂は幸いです。フィロテアよ、たとえ、あなたの体は世間にあって、俗事に従事していても、あなたの心は常にそのような隠れ家を持っていなければいけません。この心の孤独は、あなたの周囲にいる人々によって、妨げられることはありません。彼らはあなたの肉体の周囲でうるさく騒いだとしても、決してあなたの心を乱すことはできません。そうすることで、あなたの心はただ独りで天主の御前に出ることができます。ダビデ王は、その最も忙しい生活の中で、この勤めを行っていました。そのことは、彼の詩編に散見する多くのことば、たとえば、「ああ主よ、私は常にあなたとともにあります。私は私の神をいつも見ています。天にまします私の神よ、私は、あなたに私の眼を注ぎます。私の眼は常に天主に向かっています」などから分かります。私たちは忙しい日常、仕事に従事していたとしても、ダビデように、ときどき、自分の心を天に向けることが許されないほど、絶えず緊張しているものではありません。シエナの聖女カタリナの父母は、祈ったり黙想したりする余暇と場所とを、娘より、全く奪いましたが、その時、聖なる主は、カタリナに、心のなかに聖堂を設けて、精神的にそこに隠れ、外面的な俗務の間に、心の尊い孤独の勤めをすることを教えてくださいました。それからは、たとえ、他人が聖女を妨げても、もはや、少しの苦痛も与えることができませんでした。彼女は、心の小部屋に隠れて、そこで天の与える慰めを受けることができたからです。後に、聖女は、その教えを請うものに心の中に一つの小部屋を設けてその中に住むように勧めました。ですから、あなたも、時々、自分の心の中に退き、あらゆる人間を離れ、天主にあなたの霊魂を向け、心より心へ語りなさい。そして、ダビデとともに、「私は目をさまし、私は荒れ野のペリカンのようになり、廃墟のフクロウのようになっています。私は友を失くして屋根の上いるスズメのようになりました」(詩編102・6,7)と言いなさい。その言葉は、その文字通りの意味の他には(すなわち、この言葉は、偉大なダビデ王が、天の事柄を黙想するために、孤独の場所に退いたことを証明するものであるが)、神秘的な三つの優れた隠れ家を示しています。その意味は次の三つです。1、救い主は、カルワリオ山においては、その血潮をもって、死んだひな鳥をよみがえらせる荒れ野のペリカンのようであられます。2、誕生にあっては、町はずれの馬小屋において私たちの罪悪のために泣く廃墟のフクロウのようであられ、3、ご昇天の日においては、群れを離れて世界の屋根である大空を駆け巡るすずめのようであられます。私たちもまた、救い主にならい、この3つの隠れ家を作って、世間の煩いのなかで、そこに隠れることができます。ブロヴェンスのアリアン伯、福者エルゼアルが、あるとき、貞淑敬虔な夫人、デルフィンと長く別れて暮らしたことがありました。その時に、夫人は、人を遣わし、伯の健康を尋ねさせましたが、伯爵の返事は次のようでありました。「いとしい妻よ、私は大丈夫です。しかし、もし、私に会いたければ、聖主の胸の御傷においでください。私はそこにいます。他のところで、私を探しても無駄でしょう」と。本当に、こういう人こそ真の信者である武士というべきです。

思いを寄せること・念祷およびよき思いについて

天主のそばに退くのは、天主に思いを寄せるからです。また、天主に思いを寄せるのは、主のそばに隠れるためでもあります。天主へ思いを寄せること、および、霊的孤独は、このようにお互いが影響しあいます。その上、両者とも、よい思いから生まれるのです。フィロテアよ、ですから、心の底から、短い、しかし熱烈な祈祷(短い祈り)をもってしばしば、天主に思いを寄せなさい。天主の美しさを讃え、御助けを願い、心の中で十字架のもとにひれ伏し、主の慈しみを礼拝し、あなたの救霊を切望し、繰り返し、繰り返してあなたの心を主に捧げ、あなたの内心の眼を主の甘美に注ぎ、幼子のように、手を伸ばし御導きを願い、よい香りがする花束のように、主をあなたの胸に抱き、堂々とした旗印のように、主をあなたの霊魂の真ん中にたて、その他、天主の愛を増し、愛情を深くするために、種々様々のことをしなさい。これが、すなわち、かの偉大なる聖アウグスチノが、敬虔なる貴婦人プロパに勧めた射祷であります。フィロテアよ、このようにして、私たちの心は、天主と仲良くなり、馴れ親しんで、天主の完徳の芳香に向かうようになります。この勤めは、少しも不便ではありません。私たちの俗務の中に織り込まれていても、何の妨げにはなりません。なぜならば、これらの短い祈祷は、むしろ、私たちの仕事や俗務の成功と助けとなるくらいだからです。心を休め、唇をうるおすために、少量のブドウ酒を飲む旅人は、たとえ、そのためにしばしば立ち止まっても、それで旅を中断するとは言えません。止まるのは、さらに早く歩くため、旅行に必要な元気を回復するためではありませんか!世に、多くの射祷を集めた書物も少なくありません。みな、有益なものです。しかし、私の考えでは、一定のことばを用いることなく、あなたの愛する心が思いついた祈祷を、心でなり、口でなり、唱えるのが一番いいと思います。あなたは、必要なだけ、いくらでも射祷を作って差し支えありません。もっとも、特別に私たちの心を満たす能力を有するあることばはあります。たとえば、ダビデ王の詩編のなかにある多くのことば、イエスの御名を唱え、雅歌に現れた愛のささやき等です。讃美歌も、気をつけて歌えば、同じ目的を達する手段となります。人間世界の恋愛する人々は、常に愛する人を思い、その心は恋愛の情にたえず、その口は愛する人を休むことなく称え、離れているときは手紙を交わして忠誠を訴え、森に遊ぶや、愛する人の名前を樹に刻みます。このように、天主を愛する人も、常に主を思い、主のために生き、主を慕い、主をうわさし、できることならば世界のあらゆる人々の胸にイエスの尊い御名を記そうとこい願います。愛する人は、見るものにつけ、聞くものにつけて、その愛する人を想い出します。愛する人を讃えない人はこの世にはいません。聖アントニオにならい聖アウグスチノがいった言葉があります。「世のすべてのものは、愛するもののために、沈黙のうちに、明らかに語ります。天主にたいするたくさんの思慕の祈りはこれから生まれます」と。以下にその例を挙げます。ナジアンズの司教、聖グレゴリオが、自ら信者に語った話があります。ある日、聖人は浜辺を散歩していました。見ると波打ち際には小貝や海藻や小さな貝殻や、またその他のゴミくずが海から吐き出されたように打ち上げられていました。次の大波が来ると、その一部分は波にさらわれて、どことも知れずなくなっています。かなたにそびえ立つ岩礁は、激しく波立つ大波に微動だにしません。これを見た聖人の胸には、次のような思いが浮かびました。「小貝や海藻や小さな貝殻のようにか弱いものは運命の波に寄せるがままに、かわるがわる、あるいときは悲しみ、あるときは喜びと、本当に頼りないものであります。これに反して、勇敢な人は、暴風雨のなかにも、確固不抜の信念を有しています」と。この思いより、さらに聖人は、ダビデの祈祷を思い出します。「ああ主よ、私を救ってください。洪水が私の霊魂に迫っています。主よ、水底より私を救ってください。私は深海の底にいます。暴風は私を沈めました」と。ちょうど、このとき、聖グレゴリオはマクシモにその司教を奪われて、苦しみ悩んでおられたのでありました。ルスパの司教、聖フルジェンシオは、ある時、ローマ貴族の集会において、ゴード王テオドリックが演説をしたその席に連なり、位階を正して居並ぶ美しい服装の貴人を見て、心の中で叫びました、「ああ天主よ、地上のローマにして、すでにこのように美しいならば、天上のエルサレムはどうでありましょう。虚栄を追う人々に、この世において、すでに、このような美しさが与えられるのであるならば、来世における真理の美しさを見ることは、どのような光栄が宿っているでしょうか」と。カンタベリーの大司教アルセルモは、このよき思いの勤めに秀でていました。ある時、聖人が馬に乗って行かれた時、一匹の子ウサギが、犬に追われて、突然、馬腹の下に飛び込んで、そこを唯一の逃れ場としました。犬は聖人の周囲を吠え回ったが、あえて獲物に近づけませんでした。この不思議な光景を見て、お供していた人々は面白く思い、大笑いしましたが、聖アルセルモは涙を流して激しく泣きました。「お前たちは笑っているが、かわいそうなこのウサギは笑うどころではありません。霊魂も一生の間、悪魔に追われ、罪悪の罠におびやかされ、臨終の際には、恐ろしい悪魔の手を逃れようと、最後の逃れ場を求めるものです。それでも、もしそれが見つからないと、彼の敵は、笑い、からかいます」。こう言って聖人は暗然としてその場を去られました。コンスタンチン大王が、聖アントニオにていねいな書簡を送ったことがありました。聖アントニオの弟子たちは、たいへんびっくりしましたが、聖人は静かに言いました。「王が、一個人に手紙を書いても、それほど驚くことではありません。それよりも、永遠の天主が、人類に律法をお与えになり、それだけではなく、御子の口をもって、直接にみ言葉をくださったことを驚きなさい」と。聖フランシスコは、ある日、ヤギの群れの中に、一匹の羊がいるのを見て、その一緒にいた人に言いました。「このヤギのうちにいる子羊はなんとかわいいではないか。ファリザイ人に囲まれている聖なる主の、柔和・謙遜のお姿通りであります」と言って泣いたそうです。現代の偉大な聖フランシスコ・ボルネオは(まだガンチア公であった頃に)、狩りに行っている間にも、少しも信心の思いを忘れませんでした。後日、人に語るには、「私は、タカがこぶしに舞い戻り、おとなしく目隠しをさせ、止まり木につながせるのを見るごとに、人々が天主の御声に強情ではないかと考えました」と。大聖バジリオは、『いばらの中のバラは、「この世の美しいものにも、悲しみが混じる。悔恨は、楽しみに伴わない、結婚の後にはやもめ暮らしが来る。繁盛にも骨折りがいる。名誉の裏には恥辱があり、高い位も入費がかかり、楽しんだ後には不快が起こり、健康の後には病気が来る」と人々に告げます。バラは美しい花でありますが、私には悲しみの種です。なぜならば、私は自分の罪悪と、そのために、大地がいばらを生やさなければならなくなった、原罪のことを思い出すからです』と言いました。ある敬虔な人が、一夜、小川の側に立って、水のなかに映る、晴れた空と星屑とを見ていった言葉があります。「ああ天主、主が、私を、天国の幕屋に住ませて下さる日には、この美しい星も私の足元になりましょう。また、これらの星が、こうしてここに映っているように、地に住む人々は、天において神の愛の生ける泉を宿しておりましょう」と。また、聖女フランシスカは、美しい小川の岸にひざまずいて祈ったときに、恍惚の状態に陥って、「天主の聖寵は、この小川のように、静かに快く流れます」と繰り返したと言います。またある人は、美しい花園で、「教会の花園の中で、なぜ、私一人、善徳の花が咲かないのであろう」と嘆きました。またある人は、雛が母鳥のもとに集まる様子を見て、「ああ主よ、主の御翼の陰に私を守ってください」と祈りました。またある人は、ヒマワリの花を見て、「ああ主よ、私の霊魂の、この花のように、主の慈愛にひかれるのはいつでしょうか」と言い、眼に美しいが香りのない三色のスミレを見て、「私の思いもこれに似ています。言葉は美しくても、なんの効果ももたらしません」と嘆きました。フィロテアよ、この世の中の種々の機会に、この思いを起こし、尊く思いを寄せるには、以上の例にならえばいいでしょう。被造物を創造主から引き離して、罪悪のために用いるものは災いであることか。被造物によって、創造主の栄光を讃えさせ、被造物の空虚を、真理の賛美に用いるものは幸いであることか。ナジアンズの聖グレゴリオは言います。「私は万物をして、私の霊的進歩をさせます」と。聖イエロニモが聖女パウラのために書いた敬虔なる碑銘を読みなさい。聖女があるゆる場合に抱いた尊い思慕を知ることは、私たちにとって、この上もない心の喜びです。以上に叙した霊的孤独の勤め、および射祷は、信心を進歩させるのに、もっとも必要な二大手段であります。この2者は、他の種類の祈祷に欠けているものを補うことができますが、この2者の欠乏は、他のいかなる方法をもってしても補償は難しいです。これなくしては、観想の生活をよく営むことは不可能であります。また、活動の生活も、無意味な生活となるばかりです。これなくしては、休息は怠惰と変わり、労働はいら立ちとなります。ですから、あなたは心の底からこの二手段を愛して、これを忘れないように努めなければいけません。

ミサ聖祭にあずかるときの心得

㈠あらゆる霊的勤めの太陽と言うべきものは、犠牲にして、かつ、秘蹟である至聖なるミサ聖祭であります。これこそキリスト教の中心、信心の心臓、敬虔の霊魂、口では十分に説明できないほどの神の愛の深さを示す玄義。これによって天主は、ご自身を私たちに真実に与えてくださり、豊かに聖寵をお注ぎになります。㈡この至聖なるミサの犠牲と一致して黙想を行えば、その効果は計り知れません。フィロテアよ、これによって、あなたの霊魂は、天から来る聖寵を受け、最愛の天主に抱かれ、霊の甘美な芳香に満たされて、あたかも雅歌に言うように没薬・乳香・その他一切の香水より立ち上る香りの良い煙に似るようになります。㈢それゆえ、あなたは毎日、ミサ聖祭に与るために、最善の努力をして、あなたのために、および、全教会のために、救い主の尊い犠牲を、司祭と共に、御父であられる天主に捧げなければいけません。金口聖ヨハネも言う通り、無数の天使は、祭壇をめぐって、この尊い玄義を礼拝します。私たちも、天使たちと共に、同じ目的を抱いてこれに与る以上、このような友の中にあって、たくさんの善い影響を受けざるをえません。ミサ聖祭の間には、天国における凱旋の教会と、地上における戦闘の教会との唱歌隊が、主キリストに加わり、主と心を合わせ、「主と共に、主において、主によって」御父、天主の御心を喜ばせ、私たちのためにその御憐れみをこうのであります。このように尊く望ましい聖祭にあずかり、敬虔に祈ることができるのは、私たちにとって無上の幸福ではあります。㈣やむを得ない事情のために、どうしても、この至聖なる生贄に、親しく与ることができない場合には、少なくとも、霊的にこれに与る用意がなければなりません。毎朝、決まった時間に、やむを得ない場合には、精神的に聖堂を参拝しなさい。実際に、ある教会でミサ聖祭に与るときにするのと同じ所業を、あらゆる信者と心を合わせて、あなたの家で内心的に行いなさい。㈤実際に、あるいは内心的に、ミサ聖祭をふさわしく参加するには、(イ)聖祭の開始から祭壇に上がるまでは、司祭と共に聖祭の準備をします。すなわち、天主の御前に出て、あなたの罪の告白をして、その赦しを乞い願います。(ロ)司祭が祭壇に上がってより、福音書朗読までは、簡単な一般的な省察を用いて、聖なる主の御降生、および、ご生涯を思うといいでしょう。(ハ)福音より信経の終わりに至るまでは、救い主のご説教を思い、天主、公教会より離れることなく、聖なる主の御言葉に従い、信仰のためには生をも死をも捧げる決心を繰り返します。(ニ)信経より主祷文に至るまでは、特に救い主のご受難とご死去を思い、実際に、今、ここで行われている尊い犠牲を、司祭、および信者と共に、天主の栄光のために、あなた自身の救いのために、天父に捧げなければいけません。(ホ)主祷文から聖体拝領に至るまでは、永遠の愛によって、いつまでも救い主と一致結合していられるように熱望し、あなたの心に百千の祈願をつくりなさい。(ヘ)聖体拝領より聖祭の終わるまでは、天主にそのご託身・ご生涯。ご死去・ご受難、および、この聖祭において、私たちに示してくださった大きな御慈しみに感謝して、この聖祭の功徳によって、あなた自身・親族・朋友・全教会の祈りを聞き入れてくださるように願い、さて心の底からへりくだり、聖なる主が、司祭の手を通してくださる掩祝を、敬虔の心をもってお受けしなさい。もし、ミサ聖祭の間に、あなたの日課を黙想しようと思うならば、以上の特殊な行為はする必要はありません。ただ、最初に、あなたの黙想を用いて、この聖祭を礼拝し、これを主に捧げる意志を作れば、いかなる黙想にも、以上の行為は含まれているのであります。

その他の共同的な信心について

フィロテアよ、その他、祝日および主日には、都合の出来る限り、「聖務日祷」および「晩祷」にあずかるがよい(私たち日本においては、この「聖務日祷」は、まだ、公に教会のなかでは行われてはいません)。天主に特別に捧げられたこれらの日には、他の日よりも、天主の栄光のために、多くをするのは当然です。これによって、あなたは多くの慰めを受けるでしょう。聖アウグスチノも、その告白録に記して、彼の改心のはじめの頃に、「聖務日祷」に与って、心は甘美な思いに満ち、眼から敬虔な涙が自然に流れるのを止めることができなかった、と書いています。なお、天主が、人々の共同的の信心を、個人的な勤めよりも、一層、喜んで受け入れてくださる規定に従い、教会の公の信心は、私的の特殊の信心よりも、効果と慰めに富んでいます。あなたが住む信心の集まりには、喜んで参加しなさい。ことに有益にして、人々のよい模範となる信心を行う会に加わりなさい。これは、天主がお好みになる従順の行為であります。なぜならば、教会はあなたが信心の会に加わることを義務として命じていません。しかし、会員に、多くの贖宥、その他の多くの特権を与えて、なるべく多くの人々がこれに加わることを勧めているからです。まあ他方から言えば、多くの人々とよい目的のために共同で働くことは、大きな愛徳の行為であります。もとより、単独にも、会に加わって共同にすると同じよい勤めをすることができます。また時によれば、単独でした方が、自分にとって楽しいこともあります。しかし、私たちが、私たちの兄弟・隣人と協力一致して善いことにいそしむことは、天主のより大きな栄光となります。なお、この他の種々の公衆的の祈祷・信心についても同じことが言えます。すなわち、この一切に、私たちは、隣人のよい模範となるため、天主の光栄と衆人の協同とを愛するがために、できるかぎりは参加すべきです。

聖人を敬い、その助けをもとめるべきこと

天使は、天主が私たちに霊示を送ってくださるときに、しばしば、使者の役目をされるので、私たちも、また、天使を通じて、しばしば、天主に祈らなければいけません。天使と共にいる天国の聖人の霊魂は、聖なる主が仰せられた通り、天使に等しく(ルカ20・36)また天使のように霊示を伝え、その尊い祈祷をもって私たちに取り次ぎをされます。フィロテアよ、だから私たちも、また、天使・聖人たちと心を合わせないといけません。うぐいすの雛が親鳥について歌をならうように、私たちも至福の霊と交わって、よく祈り、天主の賛美を覚えるのであります。「天の使いの前で、私は歌います」(詩編137・1)とダビデ王は言っています。私たちは、至聖至福なる童貞聖マリアを、格別の愛情をもって敬い尊ばなければいけません。聖母は私たちの慈しみ深い主の御母であられます。それゆえ、私たちにとって御母でもあられます。されば、聖母によりすがり、子供がするように、安心してその御ひざもとに集まろう。いつ、いかなる場合にも、私たちはこの慈しみ深い聖母を呼び、母としての愛情により頼み、その御徳に倣い、心からの孝行を尽くしましょう。天使とも、また、親しく交わりなさい。眼には見えませんが、あなたの生涯に親しく関係している天使らのことを思いなさい。特にあなたの住む教区、あなたと一緒に暮らす人々、ことさらに、あなた自身の守護の天使を愛し敬いなさい。その助けを請い、彼らを賛美し、あなたの霊的、および、現世的あらゆる仕事に、その助力を頼まないといけません。イエズス会の最初の司祭、最初の説教者、最初の神学的教授にして、創立者の聖イグナシオの最初の友であった聖ペトロ・ファーブルが、ある年、主の光栄のために非常に苦しんで働いたドイツから、生まれ故郷のこの教区に帰って来た時に、ある場所での話しをしたことがあります。それは、彼が、プロテスタントの異端で荒らされた地方を旅行したときに、各村で、その村の守護の天使に迎えられて、非常な慰めを得て、また、天使は彼のために、あるいは、異端者の謀略を破り、あるいは、柔和従順な人々に救霊の真理を認めさせるなどして、彼に種々の便宜を与えたことでありました。聖人が、この話をされて、天使に依頼するべきことを勧められた、熱心な態度は、当時、若い娘であったある貴婦人が、親しくその口から聞いて、今から四年前に、すなわち、その当時をさること六十年の後に、大きな感動をもってこの話を繰り返されたほどでありました。そして、この聖人は、生まれた険阻なる山のはざまのヴィアレの小村に天主堂を建立する幸福を得たのであります。あなたの霊名の聖人は、すでに、あなたの洗礼のときから保護者でありますが、その他、特にその生涯を、あなたの模範とし、安心して取り次ぎを請いたいと思う特別な聖人に選んで、信心しなさい。

いかにして天主の御言葉を聞き、または、読むべきか

天主の御言葉は、敬虔をもって、これを受けなさい。あなたの霊魂上の友人の口から、うちとけた会話の際に聞くときにも、あるいは、説教のうちに聞くときにも、常に注意と尊敬とをもってこれを受けて、あなたの利益になるようにしなければいけません。あたかも、かつて、聖母が、御子を褒め称える言葉を、注意して、残らず、御胸に秘めなさったように(ルカ2・51)、あなたも天主の御言葉が、いたずらに地に捨てられないように、尊い香油のように、心の中にこれを受け取らないといけません。聖なる主は、私たちの説教の中の御言葉を注意して聞くのと同じ程度に、私たちの祈りの中で主に申し上げる言葉を憶えてくだあるでしょう。あなたは、よい敬虔書を座右に備えて、…例えば聖ボナヴェツーラ、ジェルソン、シャトル会の修道士ディオニジオ、ルイ・ブロジウス、グルナダ、ステスラ、アリアス、ピネルリ、ジュ・ボン、アヴィラ、「心戦」、聖アウグスチノの「告白録」、聖イエロニモの書簡等…これを毎日、敬虔をもって読むこと、あたかも、これらの聖人が、あなたに天に行く道を教え、あなたの勇気を励ますために、天から送ってくださった書簡に対するようにしなさい。また、聖人伝を愛読しなさい。聖人伝は、キリスト教的生活を映す鏡であります。あなたは自分の境遇に従って、聖人の言動にあやからないといけません。もとより、ある意味で、その一切を、世間に住む人々が、その通りにまねできるものではありません。しかし、ある意味で、その一切を、私たちの模範にすることはできます。たとえば、最初の隠修士聖パウロの隠遁は、すでに上述したあなたの霊的孤独の勤めにおいて模範とすることはできますし、また、聖フランシスコの絶対的清貧は、なお後に記す清貧の勤めで、まねすることができる等です。しかし、もとより、ある種の伝記は、特に、私たちの実際生活に、大きな光明を注ぎます。たとえば、特に讃嘆すべき聖女テレジア、最初のイエズス会修道士たち、ミラノの大司教カロロ・ボロメオ、聖ルイ王、聖ベルナルド、聖フランシスコ伝、などです。また、他の種類では、模範となるよりは、むしろ驚異すべき伝記であります。たとえば、エジプトの聖女マリア、柱行者聖シメオン、ジェノアおよびシエナの両聖女カタリナ、聖女アンジェの伝記等であります。しかし、この種のものといえども、天主に対する愛情を、私たちの胸に引き起こすのに、非常に不思議な力があります。

いかにして霊示をうけるべきか

ここで霊示と言うのは、天主が私たちに与えてくださる願望・意欲・非難・後悔・光明・および、知識をさし、天の父が御慈しみにより私たちを祝福し、私たちに聖徳を勧め、天国へのあこがれ、よい決心など、私たちを永遠の幸福に導く一切のものに対する望みを燃やしてくださることです。雅歌に、新郎が乙女の門をたたき、自分の気持ちを語り、眠っているのを覚まし、不在をたずね、自分の蜜を分け与え、自分の園にあるりんごと美しい花とをすすめ、乙女の耳に甘い歌を歌う、このたとえ話は、すなわちこの憩いのことです。婚姻を結ぶまでには、男女の間に三段の過程があります。第一、その話が始まります。第二に、少女がその話に好意を示し、第三に、これを承認する。そのように、天主が私たちを経て、また、私たちと共に、大きな愛の業をしようとお思いなさるときに、まず第一に、霊示をくださり、第二に、私たちはこれを喜び、第三に、これを承認する。罪を犯す時にも、誘惑・喜び・同意の三段階があるように、徳を進むためにも、「誘惑」と正反対の「霊示」、「誘惑に対する喜び」の正反対である「霊示に対する喜び」、「誘惑に対する同意」の正反対である「霊示に対する同意」の三段があります。たとえ、私たちが、一生涯の間、霊示を受け続けていたとしても、もしも、これに喜ばないならば、天主はお喜びなさりません。かつて、天主は、四十年の間、イスラエル人の改心を期待して、種々の手段を尽くされたが、頑ななイスラエル人が、そのみ声に耳を傾けなかったために、やがて御怒りのうちに、彼らは決して安息に入るまじとお誓いになった(詩編94)。前の婚礼の例にしても、青年が、長い間、少女を慕うにもかかわらず、少女の心が動かなかったら、青年は決して幸福に感じることはないでしょう。霊示を喜んで受けることは、天主のみ栄えの第一歩で、すでに、天主の御心にかなう初めであります。もとより、この喜びは承認ではありませんが、しかし承認に導く過程です。外面的霊示とも言うべき、天主の御言葉を聞くことは、すでによい印で、有益であります。内心的霊示を喜ぶのも、また、天主の御心にかなう善いことです。雅歌の乙女が、「私の愛するもの、話した時に、私の心は騒いでいます」と言うのは、この喜びです。前例の青年も、少女がその志を喜ぶのを知れば、非常な満足を覚えるに違いりません。しかし徳行が完成するのは承認であります。たとえ霊示を受けて、これを喜んでも、後にこれに同意しなければ、それは、なおさら、天主に対する大きな忘恩・無礼と言わなければいけません。雅歌の乙女は、この罪を犯しました。愛する者の声が、その喜びを彼女に満たしたのにもかかわらず、彼女は、つまらない口実をもとに、戸を開くのを拒みました。新郎が怒って通り過ぎたのに無理はありません。青年が、長い間、少女を慕い、少女も、それを憎らしくないと思っていたにもかかわらず、彼を退けてしまったならば、青年は、最初より拒絶されたのと比べて、はるかに心を痛めるでしょう。フィロテアよ、天主があなたに与えてくださる霊示を、ことごとく喜んで受け、それをくださるときには、天国の大王が、あなたと婚姻を取り結ぶためにお送りくださった使者として、これを歓迎しなさい。心の平和のうちに、その言葉を聞き、あなた霊示をくださる天主の愛情に感謝し、尊い霊示を喜んで愛しなさい。快く、大きな愛をもって。かつ永続的にこの霊示に同意しなさい。あなたが天主に恩を売ることは不可能ですが、そうすれば、天主はあなたの愛情をうれしくお思いになるでしょう。しかし、重大な事件、あるいは並外れた事柄についての霊示はそこに誤解が生じないように、あなたの霊的指導者の意見をたずね、はたして本当の霊示であるかどうかを、判断してもらう必要があります。悪魔は、ある霊魂が速やかに霊示に従うのを知る時に、これを欺くために、偽りの霊示を送ることが少なくないからです。しかし、自分の霊的指導者に、謙遜をもって服従していけば、決して悪魔に乗せられる恐れはありません。次に、一度、霊示に同意したならば、その効果を上げるように努力しないといけません。確かに、霊示の実行が徳行の完成であります。心中に同意しても、これを実行しなければ、ブドウを植えて、その果実を望まないのと同じであります。実際において、朝の祈祷、および黙想を、実行することが、このために最上の方法であります。なぜならば、私たちはこの方法により、単に漠然と善行を準備することに止まることなく、具体的に、かつ、正確にこれを準備することができるからです。

悔悛の秘蹟について

聖なる主が、教会に、悔悛の秘蹟をお定めになったのは、私たちが罪を犯すごとに、これによって清められるためであります。方法が手近にあって、かつ、とても容易です。フィロテアよ、長い間、あなたの心を罪で汚したままでいてはいけません。豹とたわむれた牝獅子は、牡獅子の怒りを買わないように、水浴して豹の臭気を洗い落とすと、言い伝えられています。罪を犯して霊魂は、自分を憎み、天主を怖れ、そしてその状態から抜け出すために、一時も早く、その汚れを清めないといけません。確実な救済の道があるにも関わらず、それを使用しないで自ら霊魂の死を招くとは、そもそも、どのような迷いでしょうか。たとえ、あなたの良心に、大罪の責を自覚しなくても、一週間ごと、または、聖体を受けるたびごとに、謙遜に敬虔に告白しなさい。この時には、悔悛の秘蹟は、あなたの告白する小罪を赦し、さらに、将来、これを犯すことがないための気力と、これをわきまえるための大きな光明と、あなたが与えた全ての損失を補うための豊かな聖寵をあなたに与えるでしょう。一回の告白を行うことで、あなたは、謙遜・従順・単純・愛徳など、他の一切の行いにまさる善徳を行うのであります。いかに小さい罪でも、これを告白するのに当たっては、真実の痛悔と、将来これを改める堅固な決心がないといけません。習慣的、あるいは、形式的に小罪を告白し、この際、善に移る決心は少しもなく、従って、多くの霊的利益を失う人が少なくありません。ゆえに、例えば、悪意のない嘘をついたとか、つつしみのない話をしたとか、あまり遊戯に夢中になっていたとか、などと告白する際にも、これを改めようとする意志を持っていないなら、それは秘蹟の濫用であります。悔悛の秘蹟の定められた目的は、罪を捨て去るということ以外にはありません。また、多くの人が習慣的にする。きわめて浅い告白をしてはいけません。たとえば、私は天主を十分に愛しませんでした、私は熱心に祈りませんでした、私は十分に隣人を愛しませんでした、私は聖体を十分な尊敬をもって受けませんでした、などという類であります。なぜならば、天国にいるどの聖人でも、この世に住むどんな人でも、だれでも、このような告白をすることができ、従って、このように告白しても、聴罪司祭は、あなた自身の良心の状態を、判断することが不可能であるからです。それゆえ、あなたがかかる告白をしようとするならば、それがどのような具体的事実に関連しているか、それを糾明して、具体的過失を、単純・率直に告白しなければいけません。たとえば、あなたが隣人を十分に愛さなかったとします。それは、あなたが慰めることのできた貧乏人を見ても、救うことができたのに救いませんでした、それは、あなたが助け慰めることのできた貧乏人を見ても、無関心であったと仮定します。この場合には、この具体的な事実を告白して、私は貧乏人を見て、救うことができたにもかかわらず、救いませんでした。それは、私の無頓着から、あるいは不親切から、あるいは軽蔑心からでしたと、自らの過失の動機を加えて、言明しないといけません。また例えば、十分な敬虔をもって天主に祈らなかったと、告白する際には、意識的に気を散らしたか、熱心に祈るために必要な時間・場所・態度について注意をすることに怠ったか、などとその具体的過失を言わなければいけません。概念的告白は、熱くも冷たくもない告白であります。小罪の告白は、事実を告げるのに止まらず、これを犯すに至った動機も言わないといけません。また、例えば、戯れで罪を犯したとすれば、それがおしゃべりを愛するためであったか、などと、その理由を言明しないといけません。また罪を犯した期間を言わなければいけません。一般に、罪を犯す期間の長さは、罪の重さを増すものであります。ただ十五分間、かりに私たちに宿った軽い虚栄は、私たちが一日、二日、三日間執着した虚栄よりも遥かに罪は少ないです。それゆえ、告白するにあたっては、罪の具体的な事実、その動機、ならびに、その期間を言明する必要があります。普通には、小罪を告白するに際しては、ここまで綿密でなくても差し支えなく、また、小罪は、絶対的に、これを告白する義務もありませんが、敬虔の聖徳に至るために、自分の霊魂を清めようと望む人々は、自分が治りたいと思う霊魂の病気を、些細なものと言っても、指導霊父に詳しく打ち明けないといけません。あなたの罪悪の性質を正しく判断するために必要な事情は、やはりこれを言わなければなりません。たとえば、憤怒については、憤怒の理由、他人の悪事を黙認したならば、その理由など。具体的な例をあげると平素から面白く思っていない人が、冗談に私に失礼なことを言ったとき、それを悪意に解して怒った、しかし、もし自分と仲の良い友達の言葉ならば、もっとひどいことでも善意に解釈したであろうとします。そうすれば、告白に際して、次のように言わないといけません。「私は、ある人が言った言葉を、悪意に解して怒りました。それは、その言ったことは自身のためでなく、その人が不愉快であったからです」と。もし、その言葉を示した方がよいと思ったならば、それも言うといいでしょう。このような単純、質朴な告白は、単に犯した罪を明白にさせるなかりではなく、悪い傾向・習慣その他の悪の根源を、あなたの指導霊父に知らせ、霊父は、これにより、指導下にあるあなたの心霊の状態を、細かいところまで知ることができ、それに応じた手段を与えることができます。あなたの罪悪に協力した第三者の名前は、できるだけ言明することを避けなければいけません。また、あなたの良心内に、知らずの間に来て、隠れている多くの罪悪があるから、注意してこれも告白し、霊魂を清めないといけません。そのためには、本書の第3篇、第6、27、28,29,35,36章、及び第4篇第7章を熟読しなさい。みだりに聴罪司祭を変えないで、一人を選んだならば、その人のもとに一定の日に行って告白し、犯した罪を単純に、質朴に打ち明けるといいでしょう。その上、ときどき、あるいは毎月一回、あるいは二月ごとに一回、たとえ罪とは無関係でも、あなたの霊魂の傾き、たとえば、苦しみに悲しんでいるとか、嬉しく楽しい気持ちでいるとか、金銭が欲しくてならないとか、そのようなことも打ち明けるといいでしょう。

しばしば聖体を拝領すべきこと

いにしえ、ポント国にミトリダテスという王がいました。この王は、ミトリダートという霊薬を発見して、始終、それを飲んでいたので、後年、ローマ人と戦って敗れたとき、毒薬を飲んで死のうとしたが、それもできなかったという話があります。救世主が、この尊い御血肉の至聖なる聖体の秘蹟をお定めになったのは、これを食する人が、永遠に生きるためであります。ゆえに、敬虔をもってこれを受けるものは、自分の霊魂の力を非常に増加させ、そのため罪悪の執着もこれを害することはできなくなります。この聖なる肉によって養われる人々は、生命の秘蹟の御功徳によって、霊的に死ぬことはありません。さくらんぼとか、あんずとか、いちごとかいうような腐敗しやすい果物も、砂糖と蜜とのなかに漬けておけば、一年中腐らないように、か弱く、愚かな私たちの心も、これを天主の御子の不朽の御血肉のなかに保存しておけば、罪悪の腐敗から逃れることができます。ああ、フィロテアよ、地獄に落ちた信者たちも、わざわざそのために、彼らに与えれれた聖体を食すれば、容易に丈夫でいられたのに、それを怠ったのに、霊的の死を招いたことを、正義の審判者がお示しになるとき、どういう顔で主に答えればいいのか。「のろわれた者よ、あなたの思いのままに、命の食物を受けることができたのに、どうして死にいたったのか」と主は仰せになるでしょう。「毎日、聖体を受けることは、私は、これを称えることも、非難することもしません。しかし、日曜日ごとに聖体拝領を受けることは、その人の心が罪悪に執着していない限り、私は、皆にこれを勧めます」とは、聖アウグスチノの言葉であって、私もこれにならい、毎日の聖体拝領はほめもせず、非難もしないで、これを各人の指導司祭に任せます。毎日の聖体拝領に必要な心の覚悟は、極めて完全でないといけないために、このことを一般に勧めるわけにはいきません。しかし、この完全な覚悟も、ある人々は、確かに所有しているので、毎日の聖体拝領を、まとめて反対するわけにもいきません。これは、各個人の良心の状態を調べた上で、解決すべき問題であります。万人に、無差別に、毎日の聖体拝領を勧めるのは不謹慎でありますが、また、これを実行する人(とくに相当な指導者の指図のもとに行っている人)を、ことごとく非難することも、間違ったことです。聖女シエナのカタリナが、毎日の聖体拝領について、ある人に上述の聖アウグスチノの言葉を用いて非難されたことがあります。そのとき聖女は実によく答えて、「聖アウグスチノも非難されなかった以上、あなたも非難しないでください。私にはそれでたくさんです」と言ったそうです。フィロテアよ、聖アウグスチノは日曜日ごとに聖体拝領することを、熱心に勧めているではないか。ですから、あなたも毎週聖体を拝領しなさい。なぜならば、あなたは大罪に対しても、小罪に対しても、少しのも愛着を有せず、従って、聖アウグスチノの要求以上のすぐれた覚悟を有しているからです。だから、もし、あなたの指導霊父の許可さえあれば、日曜ごとに以上に頻繁の聖体拝領をして差し支えありません。時として、あなたでなく、あなたの家族の人々の為に、色々の正当の妨害が生じて、これが、賢明な指導霊父をして、あまりしばしば聖体拝領をするなとの、注意を発せられとします。たとえば、あなたに服従の義務があるとき、尊敬をもって接しなければいけない長上者が、宗教上の勤めをよく了解せず、あなたがしばしば聖体を受けるのを見て、非常に不安を感じるような場合があるとします。このようなときには、すべての関係をよく考えて、二週間おきに、聖体に近づくがいいかもしれません。しかし、これは、もちろん、他に困難を避ける道がない場合であります。もとより、このことも、指導司祭の命令を待つべきで、一般の規則をつくることはできません。しかし、ほんとうに、天主に敬虔に仕えたいと、志す人々は、少なくても、毎月一回、聖体に近づく必要があることは確実です。もし、あなたさえ、ほんとうに注意深ければ、あなたの両親も、配偶者も、あなたがたびたび、聖体を受けることを妨げる理由はないはずです。なぜならば、聖体拝領の日には、あなたは、彼らに対して、普段より、なおもっと親切で、愛嬌に富み、いかなる勤めも避けず、できるだけの注意をはらうであろうから。彼らとしては、あなたのこの勤めによって、なんの迷惑に巻き込まれることなく、従って、彼らが特にわがまま・無理解でない限り、これを妨げることはないはずです。しかし、この最後の場合においては、あなたの指導霊父の命じるままに、多少の手加減を加える必要があります。以下、私は結婚生活を営む人々に一言します。旧約時代に、天主は、債権者が祭日に債務履行を迫ることをお禁じなりました。しかし、債務者のほうから、債権者に債務を履行することを、禁止されたことはありません。聖体拝領と結婚の務めについても同じことが言えます。それゆえ、結婚の務めのために、聖体拝領を遠慮する必要はありません。教会の原始時代には、信者は、毎日、聖体を拝領する習慣でした。しかも、彼らは家庭をつくり、子供らをもって祝福されました。ゆえに、私は、まじめな慎み深い人である限り、頻繁の聖体拝領も、両親、あるいは配偶者の迷惑にならないと言ったのであります。肉体の疾病は、しばしば、嘔吐をひきおこす病でない限り、聖体拝領の支障とはなりません。要するに、一週間に一度、聖体拝領するには、大罪がなく、小罪に対する愛着もなく、かつ、聖体拝領の熱望があればいいです。しかし、毎日、聖体拝領するには、それだけではなく、自分の悪い傾きの大部分を矯正した後にして、かつ、指導霊父の許可を要するのです。(注:頻繁、あるいは毎日の聖体拝領については、今日の霊的指導者の意見は、聖フランシスコ・サレジオの時代の意見と、多少異なるようになりました。これに要するに精神的資格に関しては、しばしば神学者間の論争がありましたが、教皇ピオ十世はこれを㈠大罪を有していないこと㈡正しく敬虔なる意志を有すること、の二条に限定して、なるべく多くの信者が、なるべく、しばしば、毎日でもキリストの御血肉に近づくことをお勧めになり、従ってこの勧告が一般の霊的指導の規範となったのです。ゆえに、聖アウグスチノの言として、本文に引用されている「その心が罪悪に執着しない限り」との条件は、頻繁の聖体拝領には必要ではありません。ただし、各信者が、できるだけ完全な精神的準備をもって、この至聖なる秘跡に近づくように努力するべきであることは言うまでもありません)

 聖体拝領の方法

すでに、聖体拝領の前の晩から、あなたは、天主に対する多くの愛を込めて思いを寄せ、聖体拝領に準備を始めないといけません。いつもより早く起きることができるように、早めに就寝します。もし夜中に目が覚めたならば、あなたの心と唇に、立派な愛の言葉を上らせなさい。このようにして、あなたの霊魂は芳香に満ち、天主を迎えることができるでしょう。天主は、あなたの眠る間にも、あなたを守ってください、あなたさえよく準備すれば、たくさんの聖寵を与えようと、待っていらっしゃいます。朝がきたら、自分の身に待つ幸福を思い、喜びに溢れ床から離れ、まず悔悛の秘蹟を受け、それから、大きな信頼と深い謙遜をもって、あなたを養って永遠の生命に導く、この天の食物を受けに進みなさい。「主よ、私は、あなたの御前に出ることに価値のないものです」と祈りをすましたならば、もはや、祈りのためにも、呼吸のためにも、あなたの頭も唇も動かさないで、半分ほど口を開いたまま、司祭によく見えるように、頭を上げ、信・望・愛の感動に満ちて、あなたが信じ、望み、愛するお方を受けなさい。フィロテアよ、ミツバチは花弁の上で、天の甘露と、地の産するもっとも甘美な汁を吸い、これを蜜に変えて自分の巣に運びますが、司祭は、今まさに、祭壇の上から、天からおりた甘露、天主の御独り子、私たちの地に住む人類から咲き出た美しい花である童貞母の御独り子、世の救い主をとりおろして、あなたの唇と心とに甘美な食物として分け与えるのであります。聖体を受けたならば、心を励まし、この救いの大王を讃え、あなたの心の希望を語り、あなたの幸福のためだけに、来てくださった主を拝み、一言でいえば、あなたにできる限りのおもてなしをしなさい。そうして、他の人々にも、天主があなたと共にいらっしゃることが、自然と分かるように動作しなさい。聖体拝領の目的は、第一に、天主に対する愛情の進歩、および慰藉でなければいけません。愛のみ、ひとりよくあなたに与えることができるものを、あなたもまた、愛を意識して受けないといけません。主は、この秘蹟において、御自らを虚無となし、食物となって、私たちの霊魂においでになります。信者の心身ともに一致してくださいます。本当に、救い主の愛情は、細やかな行いの極みと言わなければいけません。もし、心ない世の人が、どうして、しばしば、聖体を受けるのかとあなたに尋ねるならば、天主を愛することを習うため、自分の心を罪悪より清め、患難のなかに慰められ、か弱きなかに支えられるためです、と答えなさい。二種の人々が、しばしば、聖体拝領をする必要があります。完全な人は、よく覚悟ができているので、不完全な人は、完徳を得るために、共に完徳の源泉に近づかないといけません。強いものは弱くならないため、弱いものは強くなるために、病めるものは癒されるため、健やかなるものは病まないためであります。あなたは不完全で弱く、かつ、病めるために、完徳と力の源、霊魂の医師を、しばしば、迎えていますと答えなさい。世の中の俗務の少ない人は、聖体拝領を受けるのに都合をつけるのが富むので、これに反して、俗務に忙しい人は、さらに聖体拝領の必要を感じるがゆえに、この秘蹟にしばしば近づかないといけません。繁忙なる人、苦痛に悩む人はしばしば滋養物をとらねばならないといけないからと答えなさい。それだけではなく、あなたが聖体を拝領するのは、よくこれを拝領する方法を覚えるためであって、なにごとでも、たびたび練習しなければ上手くならない、と心なき人々の問いに答えるといいでしょう。フィロテアよ、あなたの指導霊父の指図のもとに、なるべくしばしば、聖体を拝領しなさい。私たちの国の山ウサギが、冬になると、純白になるのは、常に雪ばかりを見て、雪ばかり食べているからです。美しく、愛に満ち、最も清い、この至聖なる、聖体の秘蹟を、常に拝み、常に食してさえいれば、あなたも、また、美しく、愛に満ち、清くなるでしょう。

修徳に関する種々の教訓

徳行の選択について

女王バチが花園を出るときには、必ず多くの蜂を従えます。そのように、愛徳が、霊魂に入る時は、必ず他の諸徳を伴い、長官が兵卒を指揮するように、時宜に応じて善徳を実行するものであります。しかし、愛徳も、すべての徳行を、みな一時に、また、絶え間なく、あらゆる場所で働かせるのではありません。義人は、川のかたわらに植えられている木の、その季節に実をむすぶのに似ていると言われています。愛徳が霊魂を成長させるときは、時期に応じて善徳の業が生ずるのであります。集会書にも、「愉快な音楽も、喪中には禁物です」(22・6)と書いてあります。人々が、ある善徳を行おうと決心すると、それを、どのような場合にも実行しようと、かたくなに思いつめるのは、大きな誤りで、それでは、古代の哲学者中の、厭世論者は常に泣き、楽天論者は常に笑っていたというのと同じです。その上、自分と同じ善徳を行わないものをそしったり、けなしたりするに至っては、まったく言語道断であります。聖パウロも、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言い、「愛は堪忍し、情けあり」「度量が広く、慎み深く。他人のためを思う」と教えられました。そうはいうものの、善徳のなかに、その応用が非常に広く、独立の徳行としての他、全ての徳行に従って存在するものがあります。たとえば、勇気・大胆・威厳の諸徳を実行するものは、比較的まれでありますが、これに反して、柔和・節制・正直・謙遜のようなものは、私たちの生涯のあらゆる行為が、これに反映しておかなければならない善徳です。砂糖は塩よりも高価ですが、実用の範囲は塩の方が広い。これらの善徳は絶えず必要ですから、常に十分に準備しておく必要があります。次に、私たちは、私たちの嗜好に最も適する徳を排して、第一に、私たちの義務である徳を選ばないといけません。聖女パウラは霊的な慰めを受けるために、きびしい肉体的な苦行をすることを愛好しました。しかし、彼女の義務は、長上に対する服従です。それゆえ、聖イエロニモは、聖女が司教の指示に反して、過度の大斎を守ったことを非難しました。また、使徒たちは、福音を述べ、人々に主の聖体を分かつのが職務であったから、きわめて優れた愛徳の勤めである、貧者に施し物をすることのためにも、自分の本分を投げうってはいけないと判断したのであります(使徒6章)。各人は、自分の境遇に従って、個別的な徳を積まなければいけません。司教の徳行、貴族の徳行、兵卒の徳行、主婦の徳行、寡婦の徳行はみな、おのおの異なっています。もとより、すべての人は、皆すべての徳を修めないといけませんが、皆同じように修める必要はありません。当然、おのおの、自分の使命に応じたものを、特に獲得すべきであります。私たちの職務に関係のない善徳の中で、まず選ぶべきものは、最もすぐれた徳であって、最も人目につきやすい徳ではありません。彗星は普通の星よりも大きく見えて、私たちの注意を引きやすいものです。しかし、実際は、彗星は、質においても、大きさにおいても、普通の星に劣っていて、それが大きく見えるのは、私たちとの距離が近いからであり、また、星の品が下がるからであります。そのように、卑近な、感覚的な、あるいは物質的な美徳は、常に、俗人に大いに尊ばれやすい。たとえば、世間は、物質的の助けを、精神的な助けよりも高く評価し、毛肌着・断食・はだし・鞭打ちのような肉体的苦行を、柔和・親切・謹慎などの、これに比べれば、はるかにすぐれた心の苦行より愛好します。フィロテアよ、あなたは彼らと異なり、人目につきやすい、はでな、勇ましい善徳よりも、本質的にすぐれた高貴なる善徳を選ばないといけません。一定の善徳を、特に選定して、これを修めるのは、とても有益です。これは、とくに他の諸徳をないがしろにするためではなく、自分が精神に一定の目標を与えるためであります。アレキサンドリアの司教聖ヨハネの伝記に、かんらんの冠をかぶり、王女の衣服を身にまとった、太陽よりも光り輝く少女が、ある日司教に現れて、「私は王の長女です。もし私の友になるならば、王の御前に導いてあげましょう」と言いました。聖人は、これこそ、天主が彼にお求めになる、貧民の愛であると悟って、その後、この徳を修めて、ついに施与者聖ヨハネの名を得ました。また、同じくアレキサンドリアのユウロジオは、特に天主に仕えたいと思ったが、砂漠に退いて独修士となるにも、また、服従の祈願を立てて長上に仕えるにも、それだけの決心がつかなかったので、自分の家に醜いらい病人を迎えて、これに仕え、愛徳と苦行とを学ぶこととし、かつこれを完全に成しとげるために、らい病人を自分の主人として敬い尊ぶ誓願を立てました。ところがしばらくして、ユウロジオも、らい病人もそれに飽きて、互いに別れようではないかという誘惑が生じました。彼らは聖アントニオの意見を聞きました。すると、聖アントニオは彼らに答えて、「私の子らよ、あなた達は、別れてはいけません。二人とも、もう間もなく、天主の御前にでないといけません。その時、もし死の天使が、二人が離れているのを発見したならば、あなた達は天国の栄冠を失うでしょう」と言いました。フランスの聖ルイ王は、病院を訪れて、親しく病人を介抱することを、最上の幸福としました。聖フランシスコは、清貧を愛し、これを尊んで自分の愛人と呼びました。聖ドミニコは、天主の御言葉を説くことを愛したので、ドミニコ会は、また、説教会とも呼ばれるようになりました。大聖グレゴリオは、アブラハムにならって、巡礼者をもてなすことを喜び、アブラハムのように、主を巡礼の姿でお宿す光栄をえました。トビアは死者を葬る愛徳の務めを行い、聖女エリザベトは妃の身にして屈辱を愛し、ジェノアの聖女カタリナは夫を失ったのち、病院に勤務しました。霊父カシアノの伝えるところによれば、ある熱心な少女が、いかにして忍耐の徳を学ぶべきかを、聖アタジオに尋ねたところが、聖人は、少女に、始終不平をもらし、小言を言う、怒りっぽい老婆の世話をさせて、柔和・親切の徳を修める手がかりにさせました。このように、天主の僕のなかに、あるものは病人を看護し、あるものは貧民を助け、あるものは小児に宗教教育を授け、あるものには罪人を導き、あるものは教会を建て、祭壇を飾り、あるものは世人の論争を和め、平和のために尽力します。刺繍家は、種々の下地の上に、金糸・銀糸、および各種美しい絹糸をもって、きれいな花を縫い出しますが、そのように、特殊の信心の勤めを選ぶ人々も、これを霊的刺繍の下地として、それに他の種々の諸徳の行いを配し、統一的の全体をつくり、霊魂の衣を織りなすのであります。私たちが一定の罪悪をもって脅かされるときには、なるべくこれと反対の善徳を修め、すべての勤めをこの一点に集中させなければいけません。この方法により、私たちは悪魔に勝つことを得、同時に、すべての徳行に進むことができます。たとえば、私の主要なる誘惑が、傲慢、あるいは憤怒であるときは、あらゆる場合に謙遜・柔和の徳を修め、同時に、黙想及び秘蹟を、この誘惑と戦うために応用し、賢徳・忍耐・中庸などの諸徳の実行に付加しよう。イノシシは、牙を研ぐために、歯牙を噛み合わせて、互いに鋭くするといいます。徳に進もうと欲する人も、自己の防衛に最も必要な善徳を準備するために、他の諸々の徳を修めないといけません。そうすれば、この人は、一徳を修めるために、あらゆる徳に進むであろう。ヨブは、忍耐の徳を格別に修めたが、同時に、非常に多くの誘惑と戦ったために、あらゆる徳をきわめることができました。アジアンズの聖グレゴリオも、旅人の接待の徳を修めて、至上の光栄に浴したラハブの例をあげています。ある一つの善徳を注意して行えば、多くの徳を身に修めることができると言いましたが、これは、この善徳をきわめて完全に、すなわち、大きな熱心と愛徳をもって、実行した場合のことであります。

徳行の選択について(つづき)

信心の初歩にある人が犯すある種の過失は、完徳の規律から見れば、欠点ではありますが、これがその人の将来の進歩を暗示し、かつ、その下地になるという意味で、むしろ歓迎すべきであると、聖アウグスチノの言ったことは、本当にもっともなことです。新たに罪悪の生涯を捨てた人々が示す粗野な恐怖、および、これより発生する過度の良心の杞憂は、このような初心者にあっては、むしろ、推奨すべき善徳で、後日、潔白な良心をつくる前兆であります。しかし、この恐怖は、信心の道に進歩した人々にとっては欠点であります。このような人の胸は、愛徳を宿し、次第に、奴隷的の恐怖から去っているからです。聖ベルナルドは、最初のうちは、指導をこうた人々に対して、非常に厳格で、肉を捨てて霊魂のみになれと教え、彼らの告白を聞く際には、小さい過失といえども大目に見ることなく、あらゆる罪悪をきびしく責め、初心者に絶対的な完徳を要求しました。しかし、これは、かえって彼らの勇気をくじき、彼らを完徳に向かわせる代わりに、失望させ、すべてを放棄させる結果となりました。フィロテアよ、この大聖人が、このような方法をとるに至ったのは、聖徳に対する熱情のあまりでした。この熱情は貴重な徳です。しかしながら、そこに非難の余地があります。従って、天主は自ら彼にお現れになり、これを叱って、彼の霊魂に柔和・甘美な心をお与えになりました。その後、聖ベルナルドは、生まれ変わったように、今までと異なる人となり、常に自己の厳格すぎたことを恥じ、だれに対しても、親切・温情を尽くし、聖パウロのように、万人をかち得るために、万人に対して万事となるようになりました。聖イエロニモは、彼の霊的娘聖女パウラが、肉体的苦行を愛好することがはなはだしく、むしろ、これを変えようとはしないで、司教聖エピファニオの忠言も無視し、かつ、聖女はその愛する人々の死を嘆いて、自分の健康を損なうに至ったことを記し、次のようにこれを結んでいます。「私は、彼女の賛辞を書かないで、彼女の非難の言葉をならべていると考える人もいるでしょう。しかしながら、私は、彼女がお仕えし、私もまた仕えようと望んでいるイエスの御名によって、公平に、単純に、キリスト信者がキリスト信者の伝記を書くことに恥じることなく、ありのままを記しました。私が書くは、伝記であり褒め称える文章ではありません。しかしながら、彼女の欠点も、他の人々の美徳となることがあります」と。聖イエロノモがこのように言う意味は、聖女パウラの欠点は、初心者にとっては、美徳と考えられたであろうということです。完徳に近い人々の欠点も、不完全な人々にとっては美徳となることがあります。病気の回復期にある人の足が腫れるのは、体が丈夫になって不要の体液を退けるよい徴候であります。しかし、今まで健全な人の足が腫れるのは、体液を循環させるだけの体力がなくなった証拠で、悪い徴候であります。フィロテアよ、たとえ多少の欠点が混じっていたとしても、善徳に励む人々を見たならば、これを尊敬しないといけません。聖人たちも、やはり、そうだったからです。しかし、私たちの自身は、忠実に、慎重に、善徳を学べるように努め、聖書の教えを守り、「私たち自らの知恵に頼らず」天主が、指導者として、私たちに与えられた人々の指図に従わないといけません。多くの人々が善徳と考え、その実、少しもそうでないことがらがあります。私は、これについても一言しなければなりません。それは、ある種の書物に論じてあります。種々の神秘的状態(恍惚・忘我・無感覚・神化的一致・高揚・変容など)であります。神秘神学の目的は、霊魂を、純然たる知的観想にまで高め、ほとんど肉身を離れて、一種の最も高尚なる生活をおくることであります。しかし、フィロテアよ、かかる神秘的状態自身は、決して善徳ではありません。むしろ、天主が善徳を賞するためにお与えくださった報いであり、さらに適切に言えば、来世の福楽の見本であって、人々をして、天国において完全に与えられる幸福を、希望させるために、仮に示されるものであります。このような特別な聖寵は、私たちの唯一の目的、すなわち、天主に仕え、天主を愛するために、決して必要なものではありません。ですから、私たちは、このような聖寵を得ようとの野心を起こしてはいけません。なぜならば、このような神秘的な聖寵は、私たちの努力と、意志とによって、獲得するができるものではなくて、これに対しては、私たちは全然、受動的の状態にあり、神の純然たる賜物であるからです。私たちの目下の目的は、正しい人、敬虔にして、信心深い男女となることです。ですから、私たちは、まずこの目的を追って、努力しないといけません。そうすれば、万一天主が、私たちを天使的完徳(神秘的完徳)にお上げになるとき、また、よき天使であることができるでしょう。しかし、それまでは、忍耐・親切・克己・謙遜・服従・清貧・貞潔・柔和・堪忍・熱心など、聖なる主が私たちにその獲得を命じられた、近くにある徳行のために、単純に、謙遜に、また信心深く努力を続けて行きましょう。喜んで、高い位を、特殊のすぐれた人々に譲ろうではありませんか。私たちは、天主にお仕えしていますが、しかし高貴なる位置に値しません。王宮の台所に、穀倉に働き、または、奴隷であったり、役夫であったり、児童であることができれば、すでに最も幸せです。これから後に、もし、王がお気にめせば、私たちを秘書とし、相談役としてくださるでしょう。フィロテアよ、光栄の王である天主は、身分が高い低いでその僕を褒めることはなく、愛と謙遜とをご覧になります。サウルは、父のロバを求めて、イスラエルの王となりました。レベッカはアブラハムのらくだに水を飲ませて、その子の妻となり、ルトは、ボーズの下僕の足跡に落穂を拾い、ボーズの足元にふして、ついに彼のかたわらに引き上げられ、その妻となりました。神秘生活の特殊の聖寵にたいする、身の程を知らない願いは、しばしば誤り・混乱の基になります。自ら天使であると信じる人々にして、善良な人間にすらでなく、言うところは高尚でも、感情・行為がこれに伴っていないことがまれでではありません。しかし、あなたは決して、他人をあえて誹謗し、あるいは軽蔑してはいけません。当然なすべきこととして、他人の受けた大きな聖寵に対しては、天主を賛美し、同時に、私たち自身は、謙遜に、卑しく、卑しいけれども確実であり、無力な私たちにふさわしい道をたどりましょう。もし、この道に忠実・謙遜ならば、天主は、私たちも、ある日、遥かに高いところにお上げになるかもしれません。

忍耐について

「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(ヘブライ10・36)と使徒は教え、また、主も自ら「忍耐をもってその魂を保ちなさい」と仰せられました。フィロテアよ、自分の魂を保つことができるのは大きな幸福です。私たちの忍耐が完全となればなるほど、私たちはさらに完全に魂を保つことができます。主も、ご受難によって、私たちを救ってくださいました。ですから、私たちも、不正・困難・不快を、最大の柔和をもって忍耐し、このようにして、苦痛と悲哀とによって、自分の救霊を成就すべきことを忘れてはいけません。あなたは、忍耐を、一定の苦痛・不義に限らないで、天主があなたに送ってくださる、一切のことに及ぼさないといけません。名誉なる苦痛(例えば、戦場の負傷、戦争にて捕虜となること、信仰のために迫害をうけること、争論して自分を曲げないため貧困に陥ること、など)に限って、甘受する人がいますが、しかし、これは苦痛を甘受するのではなく、その実は、名誉を愛するのであります。本当に忍耐深い僕は、名誉・不名誉に関係なく、あらゆる苦痛を甘受します。悪人にののしられ、責められ、苦しめられるのは、勇気ある人にとってはむしろ愉快であります。しかし、善人に責められ、朋友・親族に迫害されることをしのぐこそ、真の徳行ではないのか。かつて、きわめて厳格な修道会に属するある大説教者が、説教祭壇から、公衆の前で、聖カロロ・ボロネオを激しく非難したことがあります。私は、この攻撃を、長時間忍耐してしのいだ聖カロロの柔和こそ、他のあらゆる攻撃を耐えたにも勝って尊いと思います。ミツバチの刺し傷は、アブの刺し傷より痛い。善人から受ける非難・攻撃は、他より受けるものに比べて耐えがたい。しかし、双方とも、善を尽くす意見の相違から、激しく相互に非難しあうことは少しもまれではないのです。あなたは、また、主要な苦痛のみならず、これに付随する小さな困難も甘受しないといけません。不便がなければ、不幸にあってもよいという人がいます。たとえば、「たとえ貧乏でも、友だちに義理を欠かないで、子供を教育し、あまり世間の目を損なわないで暮らせれば、貧乏してもいい」という人がいます。他人に誹謗されるときにも、世の人が誹謗者を信じない限り、これを忍耐してしのぐ人がいます。あるいは、不幸の全体を耐え忍ばないで、その苦痛の一部分だけを甘受する人がいます。たとえば、病気の苦痛は我慢するが、医者にかかる金がないのが耐えきれない、あるいは、病気はいいが、他人に迷惑させるのがいやだ、という類であります。しかし、フィロテアよ、本当は病気をしのぐばかりではなく、天主が送ってくださった病気を思し召しの場所で、思し召しの人々の間で、また思し召しになった不便と共に、しのぐのが、真の忍耐であります。他の不幸についても、同じであります。不幸に陥ったならば、天主が許してくださるあらゆる手段を講じて、これを退けるように努めなさい。そうしないならば、これは天主を試みることであります。しかし、最善の手段を尽くした後は、完全な忍耐をもって、天主の遣わしてくださる結果を待ちなさい。もし、これによって不幸が除かれたのならば、当然、謙遜な心をもって天主に感謝しなさい。しかし、不幸の方が大きいのが、主のみ旨ならば、また、忍耐して天主を賛美しなさい。私は聖グレゴリオと言います。あなたが真実に犯した過失のために、人に非難されるならば、へりくだって、あなたがこの非難に値することを告白しなさい。もし、誤っている非難ならば、これを否認し、静かに弁明しなさい。これは、真理のため、および、他人によい模範を与えるための義務です。しかし、あなたの正当な正直な弁解の後に、なお引き続き非難される時は、これをつぶやかず、また、あえて弁明しようとしないで、真理に対する義務を尽くした後は、謙遜に対する義務を尽くしなさい。これが、自分の名誉を保護し、同時に平和・柔和・謙遜を守る道であります。たとえ、他人より迷惑を受けても、できる限り、つぶやいてはいけません。一般に、私たちは、自分の自愛心によって、迷惑を誇張して感じるものであります。愚痴を言う人は、罪を犯すのが常であります。とくに怒りやすい人、あるいは、物事をすぐに悪意に解釈する習性のある第三者に向かって愚痴をこぼすな。もし、受けた損害を償うために、あるいは、自分の精神を慰めるために、第三者に自分の苦痛を訴えようと思うならば、温和にして天主を愛する人にしなさい。そうでないならば、あなたは精神を静めることなく、かえって、その動揺を激しくするばかりであろう。刺されたいばらを抜く代わりに、ますます深く、それを足の裏に差し込むようなものであります。病気にかかったり、困難に出会ったり、他人から損害を受けたりしても、つぶやかないで、辛抱している人の中で、近くの人より卑怯未練に見られることを恐れて、(実際は、その通りであるが)忍耐する人も少なくありません。このような人々は、心の中では、他人が彼らに同情し、彼らのために嘆き、苦痛の中における忍耐・勇気をほめることを切望し、時として、あれこれ小さい策略を用いて、これを求めることさえあります。これは、確かに忍耐です。しかし、誤った忍耐です。そうして、その真実は、巧妙な野心、あるいは虚栄心にすぎません。「彼らの光栄は神に対してではありません」と使徒が言う通りです。真に忍耐する者は苦痛をつぶやかず、また、他人の同情を求めず、これを人に語る時は、誠実・単純・素朴な言葉をもって行い、無駄に嘆き悲しむことなく、また、これを誇張することもありません。他人が彼らのためにつぶやくころを聞くときも、きわめて平静に、また、もしそのつぶやくところが事実に適合していないときには、謙遜にそうでないことを告げて、このようにして、事実を訴えても、無駄につぶやき嘆かないで、真理と忍耐を守って、平和を失わないのであります。信心の勤めを行う時に受ける迫害については、(この迫害は必ず来ます)主の御言葉を念頭におくといいです。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハネ16・21)と。あなたが霊魂に懐胎したのは、この世の最もすぐれた子供、イエス・キリストにほかならないのであります。イエスをお生みになるまでは、あなたは、陣痛の苦痛を味合わないといけません。しかし、この苦悩が過ぎ去るならば、世にこのような子供を生んだ喜びが、永遠に残るの、今、勇気を奮い起こしなさい。イエスの生涯の模倣によって、あなたの心・あなたの行いの中に完成されるのは、イエスご自身であります。病気の時には、病苦・疼痛・煩悶を、ことごとく、主に捧げ、これを、主があなたのために堪え忍ばれた、ご苦難に合わせてもらうことを願いなさい。医者の命令を聞き、天主の愛の為に、薬と栄養を摂取し、主が、あなたの愛のために、胆汁を味わったことを思いだしなさい。天主に仕えるために、回復を希望しなさい。しかし、み旨に服従するために、病苦を嫌うな。もし、み旨ならば、天主を賛美し、天国の栄光を受けるために、死ぬことさえあえて辞退するな。ミツバチが蜜を作る間は、非常に苦いものを、食べているということであります。私たちも、悲しみのパンを食し、苦悩の日を送る間に、大きな柔和・忍耐の業を行い、すぐれた善徳の蜜を蓄えるのです。「たちじゃこう草」という、小さな苦い草の花からとった蜜が一番甘いように、最も卑しく、恥ずかしい苦痛の悩みの中で、行われる善徳が最もすぐれたものなのであります。裸で十字架につけられ、ののしられ、あざけりを受け、人々に捨てられ、ありとあらゆる恥辱・悲嘆・苦痛を身に受けられたイエス・キリストを、精神の眼にて仰ぎ、あなたの苦しみは、その程度においても、分量においても、主のご苦難と比較にならないことを思い、あなたが主のために苦しむのは、主があなたのために苦しみ、主があなたのために耐え忍ばれたご苦難と比べるなら、全く小さいことを知りなさい。そして、かつて、殉教者が耐えた苦痛、および、現在、多数の人が、あなたと比べるならば、比べることができないほど、激しい患難を耐えている事実を思って、「救う人もなく、助ける人もなく、苦しみを軽くする手段もなく、激しい苦痛のなかで、絶え間ない死を味わっているその人々に比べれば、私の苦しみは慰め、私の患難はバラの花に過ぎないのだ」と悟らないといけません。

外面的の謙遜について

エリゼアは、一人の貧しい寡婦に、「大きい空の器を借りてきて、その中に油を満たしなさい」と命じた(列王記4 4・4)。天主の聖寵を、私たちの心に受けるためには、私たちの自分の誇りを取り除かないといけません。タカは、他の肉食の鳥の姿を見るならば、大きな叫び声を発し、同時に、不思議な威力をもって、彼らを威圧するので、ハトは安心して、タカとともに住み、そのそばで眠るといいます。それと同じように、謙遜はサタンを追い払い、私たちに、聖寵と聖霊の賜物を保たせます。あらゆる聖人たち、なかでも諸聖人の王、ならびに、その母后が、他の一切の諸徳に越えて、この尊い美徳を愛したのは、まったくこれによるのであります。虚栄とは、私にないもの、私にあっても私のものでないもの、あるいは、たとえ、私にあり私のものであっても、誇るのに足らないものについて、自らを誇ることであります。家柄、名声ある待遇、一般の人気のようなものは私にないもので、私の祖先のもの、あるいは他人の評価であります。駿馬にのり、帽子にきれいな羽毛をつけて、豪華な衣服を身にまとって、得意そうな様子で他を見下すものがいます。なんという愚かなことでしょう。誇るべきは、その馬であり、鳥であり、裁縫師であります。自分の輝きを一頭の馬、一羽の鳥、一枚の衣服から借りてくるとは、なんと情けないことでしょう。はねあげた口ひげ、くしを入れたあごひげ、ちぢれた髪の毛、しなやかな手指を誇り、踊りや、音楽や、声の良いことを自慢する人がいます。しかし、こんな愚かなことに自分の価値を置き、これによって名声を得ようと望むとは、卑怯未練なことではありませんか。少しばかりの学問を誇り、人々に尊敬され、皆、自分のところに来て教えを請うことを期待する人がいます。このような人たちは自分の学識をひけからす人です。また自分の美貌を誇り、誰でも自分にはこびへつらうものと信じる人がいます。以上のすべて、みな、非常にむなしく、愚かであり、恥知らずのはなはだしいものであり、このような薄っぺらい理由からうまれる誇りを、不真面目な、愚かな虚栄と呼ぶのであります。本当の徳は、真正の香油のようにして識別します。香油を水中で蒸留するとき、水底に沈んで下にあるのは高貴な香油であります。ある人が、真に賢者・学者・仁者・貴人であるかどうかを知ろうと思うならば、この人たちの善徳が、謙遜・屈辱・服従に向かうかそうでないかを調べるといいでしょう。もし、そうならば、真正の善徳であります。これに反し、表面に浮かび、人々に現れようと求めるときは、その程度に応じて、偽善の大きさを知ります。暴風と、雷鳴とのなかでできた真珠は、外形だけ真珠でも、中身がありません。傲慢・自負・虚栄のなかではぐくまれた徳や美質も、外観だけで、中味の生きた堅固さがありません。名誉や爵位は、人々に踏まれれば踏まれるほど、美しくはえているサフランの花のようなものであります。自賛する美しさは、美しくもなく、名誉でもありません。美しさは、それを顧みないところに、品があるのであります。学問も、高慢を生じ、知識をひけからすことに堕ちれば恥辱であります。爵位・格式・称号を、自分からうるさく言うのは、人々の反感と批評を招くのみだけではなく、これを卑しくする理由になります。クジャクが、自ら誇って、尾を広げると、美しい羽毛以外の羽まで逆立って、醜い体のところどころが現れます。地上の美しい草花も、摘み取って装飾に用いれば、しおれてしまします。遠くから、少し、香りのよいアサガオの香りをかげば、非常に快いが、近づいて長く留まれば、眠気がさし病気になります。そのように、名誉も、強いてこれを求めないで、楽しまず、遠くから、軽くこれをかぐものには、快い慰めでありますが、これに執着し、これによって生きようとするものには大きな害となります。善徳の追求と愛とは、私たちを有徳にしますが、名誉の追求と愛とは、私たちを卑しく、愚かにします。気高い人は、爵位・名誉・格式などに、少しも心を働かせることはありません。彼らには、なすべき他の仕事があります。このような事柄に心を煩わせるのは、怠けものの思い悩みであります。真珠の首飾りを持っている人は、貝殻の偽珠などを吊り下げません。徳を修めようとする人は、名誉にこだわりません。もともと、誰でも、無造作に格別の努力もなくすることならば、身分相応に振る舞って謙遜を傷つけません。ペルー国からの旅人は、金と銀を運んで来るほかに、珍しい猿やオウムをつれてきますが、これは、別に高価でもなく、船に邪魔にもならないからです。そのように、徳を志す人も、自分の爵位や名誉を意に介せず、ただ、それがあまりめんどうでもなく、心配や、不安や、争論の源にならない場合に限って、これを持たなければいけません。しかしながら、私は、公衆に対して威厳を保たなければならない人々、および、特殊の理由があって、重大な結果を予想する場合については、例外を設けます。このような場合にあっては、各人、愛と礼儀を失わず、しかも、謙虚に、そしてしっかり用意して、自分の威厳を保たないといけません。

内面的の謙遜について

フィロテアよ、あなたの希望は、なお深く謙遜の道に分け入ることであります。私が、今まで説いたことを実行するのは、謙遜よりも、むしろ聡明なわざでしょう。これから、私は、さらに一歩進めて論じます。多くの人々は、誇りと虚栄とに陥ることを恐れて、天主が特に自分に与えて下さった聖寵について思うことをあえてしません。しかし、それは間違いです。天使的博士聖トマが教えたように、天主の愛を悟る真の方法は、その賜物を思うことであります。主の賜物を深く知るほど、私たちは天主を熱く愛するようになります。そうして、特殊の個人的恩恵は、普遍的恩恵よりも、私たちの心を感動させるので、なおさら、これを思わないといけません、天主の御憐れみの前に、私たちを謙遜にさせること、その恩寵が絶え間ないことを思うのがよく、天主の正義の前に、私たちを卑下させること、私たちの罪深いことを思いめぐらせることもよいです。天主が、私たちのためにしてくださっていること、および、私たちが天主に対してしてきたことを思い起こしましょう。私たちの罪を、順番に省みるように、天主の聖寵を順番に思い出しましょう。私たちの中にある善は、私たちから来たものではありません、という真理さえ忘れなければ、天主の賜物を知ることが、私たちを高慢に導く心配はありません。王の尊い香りがする高い荷物を積んでいても、ら馬は、醜く臭い動物です。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(1コリント4・7)。本当はこれに反して、知識は感謝を生むはずですから、受けた聖寵の思い出は、私たちを謙遜にするはずです。しかし、もし天主が私たちに下さった聖寵を数えて、心に少しでも誇りの陰がさすならば、その時の最上の良薬は、私たちの忘恩・欠点・あさましさを反省することです。天主が私たちと共にいらっしゃらないとき、私たちの行うことを知れば、天主が私たちと共にいらっしゃるときに、私たちの行うところは、私たちの力でも、私たちのものでもないことが分かるでしょう。たとえ、これを持っているために、私たちは喜びを抑えることができなくても、光栄を帰すべきは、その本源である天主にのみであります。聖母も、天主が、その御身に、偉大なわざを行ってくださったことを告白しましたが、しかしそれは、まったく自分を卑下し、天主を賛美するためでした。「私の魂は、主を崇めます。なぜなら、私に偉大なことをしてくださったからです」(ルカ1・4、6から49)。私たちはしばしば、自分が虚無であり、罪人であり、世の塵であると口外します。しかし、もし、他人がそれを信用して、そのまま人々にいいふらしたならば、非常に憤るであろう、私たちが逃げ隠れるのは、実は、人々にもてはやされ、探し出されたいからです。食卓の末席につく真似をするのは、手際よく上座になおるためであります。真の謙遜は、謙遜の仮面をつけず、謙遜の言葉を発しません。謙遜な人は、他の善徳を隠すだけではなく、自分自ら隠れようと努めます。もしも、嘘を言ったり、知らぬふりをしたり、他人をつまずかせてもよいものだったら、傲慢無礼な振る舞いをして、その下に隠れ、他人に知られないようにするであろう。フィロテアよ、私の意見は次の通りであります。私たちは、謙遜の言葉を全然口外しないか、そうでないなら、口外するところに、相応する真の謙遜の感情をもって言葉を出すか、どちらかでないといけません。目を伏せる場合には、必ず、まず心を卑下しなさい。快く末席につこうと欲する場合のほか、遠慮のまねをしてはいけません。私の考えでは、以上の規則は普遍的なもので、除外例はありません。ただし、私は、下のことを付け加えます。時として、決して承諾しそうもない人に、礼儀上、上席を譲ることがあります。これは偽りの偽善ではありません。この場合における謙譲は、彼に対する尊敬の第一歩であります。この尊敬を全然、彼に与えることができないなら、せめて、その第一歩を与えるのであって、これは決して悪くありません。厳格に言えば、全然、そうであると言えない、ある種の敬語についても同じことが言えます。これを口にする人の心に、その人に敬意を表そうとする真の意志がある場合には、それでいいでしょう。たとえ、言葉は、私たちの言おうとするところを、多少誇大していても、習慣に従ってこれを用いるのは、少しも差し支えありません。そうは言うものの、絶えずどこにいても、単純質朴な心を持つために、私たちの用いる言葉が、できるだけ忠実に、私たちの感情を反映することが望ましいのであります。真に謙遜な人は、自分で言うよりも、他人に、彼はだめだ、役に立たない、と言われる方を好みます。少なくとも他人がそう言っても、弁解せず、快くそれを受け入れます。自分からそうであると信じるために、彼は他人と自己の評価との一致を喜ぶのであります。多くの人々は、念祷は高徳の人のもので、自分たちはそれをする価値がないと言い、あるいは自分たちは十分に清くないから、しばしば聖体を拝領する勇気がないと言い、あるいは、自分たちのような弱い罪人が信心の勤めに交われば信心を汚すことになると言い、あるいは、その才能を天主のため隣人のために用いるのを拒んで自分たちは弱いから、もし何かの善事の道具になろうものなら傲慢に陥る恐れがあるとか、他人の世話をして自分のことは留守になるなどと言います。これら全ては口実で、偽りの謙遜なばかりでなく、悪意のある謙遜であります。すなわちこれによって、彼は密かに、巧みに、天主の事物を誹謗し、あるいは、少なくとも謙遜の仮面をもって自己の私見・私情・怠惰を隠すのであります。預言者イザヤはアハズ王に、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」 (イザヤ7・11)と。ああ、なんという悪人であることか。彼は天主を深く尊敬するように見せ、謙遜の仮面の下に、慈しみ深い天主が与えて下さる聖寵を受けないのです。天主が私たちに恩寵をお与えになるとき、これを拒むのは、傲慢に異ならないのが分からないのか。私たちは天主の恩寵を受ける義務があります。これに服従して、できるだけみ旨に従うのが真の謙遜である理由が分からないのか。天主の思し召しは、私たちが完徳に達し、天主に一致し、できるだけ天主に倣うことであります。自分の力に信頼する傲慢者は、なにごとにもあえて企てない場合がありますが、謙遜なものは、自分の能力を知っているため、ますます、主により頼むからであります。それゆえ、私たちの指導者が私たちの進歩に有益であると判断したところは、謙遜に、敬虔に、これを行わないといけません。自分の知らないものを、知っていると思い込むより、愚かなことはありません。自分が知らないことを知りつつ学者ぶるのは、極めてみにくい虚栄であります。私は知っている事柄さえも、学者ぶりたくはありません。また、この反対に、わざと知らないふりもしたくありません。愛徳のためには、隣人に、その知らないといけない事柄のみならず、その心の慰めとなる事柄も、単純になにげなく教えなければいけません。謙遜は、諸徳を保有するために、これを隠しますが、愛徳の要求に応じて、これを養育し、完成するためには、あえてそれらを現すのであります。ティロスの島に生えるある木は、夜になるとその美しい花を閉じ、朝日とともにこれを開くので、島人たちはこの花は夜眠ると言っています。このように、謙遜も私たちの一切の諸徳、および能力を覆い隠して、愛徳のみのためにこれを示します。愛徳は、もはや人間界の徳ではなく天上の徳であり、倫理徳ではなく対神徳であり、いわば諸徳の太陽であるので、一切の徳に君臨すべきであります。だから、謙遜が愛徳を損なうときには、確実に、それは偽りの謙遜です。私は利口ぶらないと同時に、愚かな人を装うこともしません。利口ぶるのが謙遜を損なうとすれば、愚かを装うのは単純・率直を傷つけます。すなわち、虚栄が謙遜の敵とすれば、技巧・虚構は単純・率直の敵であります。天主の偉大なる僕のある人々が、世の人に卑しめられることを願って、愚かな人のまねをしたことは、ほめるべきことですが、決して模倣すべき模範ではありません。彼らがこの極端に走らせたのは、特殊の理由があったからで、誰でも彼らの行動を口実として、自分の業を律することはできません。ダビデ王が、契約の櫃の前で踊り狂って、少し普通の慎みの度を外したのは、(列王2、6)自ら愚人を装ったのではなく、心の喜びが、自然と外に溢れたのであります。だから、王妃ミコルが、彼の狂態をとがめたときも、彼は軽蔑されたことを怒らないで、その幸福の感情を、単純、正直に表現して、天主のために、いささかの恥辱を受けることを悔やみませんでした。そうであるなら、あなたも、真の素朴の信心の業のために、卑しい愚者として他人に評価されたならば、その理由はあなたにあるのではなく、そのように評価する人々であるので、安心して、謙遜のために、ダビデ王に倣って、この至福の軽蔑を喜ぶことができるでしょう。

謙遜は、私たちに卑賤を愛させること

フィロテアよ、私は、さらに進んで、あなたは絶えず、万事について、あなた自身の卑賤を愛さなければいけないことを告げます。自分の卑賎を愛するとは、なんのことかと、あるいは、あなたは質問するでしょう。ラテン語では卑賎とは謙遜、謙遜とは卑賎という意味であります。だから、聖母が讃美歌のなかにおいて、「主は、いやしいはしためを顧みられたので、いつの世の人も、私を幸いなものと言うでしょう」(ルカ1・48)と歌われたのは、主が、彼女の卑賎・謙遜を認めてくださったので、天の聖寵を溢れるまでに与えてくださったという意味です。しかし謙遜と卑賎との間には、多少の相違があります。卑賎は、もともと私たちの評価と無関係に存在する私たちの小ささ、卑しさであり、謙遜とは、真実に、かつ、快く、自分の卑賎を認めることであります。そうして、完全な謙遜とは、単に快く、自分の卑賎を認めるのみならず、されに、これを愛好することであります。これは、決して無気力、あるいは不熱心の結果ではなく、かえって天主の光栄を帰し、また、私たち自身と比べて、他人を尊敬するためであって、私があなたに勧めるのは実にこの域に至ることです。理解を助けるため例をあげると、私たちが耐える苦痛の中に、卑しいものと、名誉を伴うものがあります。後者は多くの人がこれを甘受しますが、前者のなかに適切に対処する人はほとんどいません。服がボロボロで、寒さにこごえる修道士がいます。世の人は、皆、彼の粗服を尊敬し、彼の苦痛に同情します。他方に、貧しい職人、貧しい紳士、貧しい娘も、同じく粗末な薄い衣服を身にまとっています。しかし、世の人は彼らを軽蔑し嘲笑します。これが、卑しい貧乏というものです。修道士が長上から厳しく叱責され、また子供が父に叱られて、これを敬虔な心で受け入れます。この場合には彼らは克己・従順・聡明などのよい評判を得ます。しかし、これに反して、軍人や、貴婦人が、同じく天主の愛のために、柔和な叱責を受け入れるならば、すぐに卑怯・無気力とあざけりを受けます。これも、卑しい苦痛の他の一例です。腕に腫れものとかある人と、顔にある人といます。前者は病気を耐えるばかりでありますが、後者は合わせて軽蔑と恥辱をしのがないといけません。以上の実例の後に、私が言いたいのは、私たちは忍耐の徳によって苦痛を愛好するばかりでなく、この恥辱・卑賎をも愛さないといけないことです。すなわち、これが謙遜の謙遜である理由であります。徳行にも、卑賎な徳と、名誉ある徳があります。忍耐・柔和・素朴・敬虔のようなものは、世俗の卑賎とするところであって、これに反し、深慮・勇気・寛大は高く評価されます。同一の善徳から生まれる業で、一つは賤しめられ、他は尊ばれることがあります。たとえば、施し物を分け、他人の軽蔑を許すことは、ともに愛徳の行為でありますが、前者は各人に尊敬され、後者は世間の目にさげすまされます。青年紳士や、令嬢たちは、陽気な遊び友達と共に、世間話をし、遊戯・舞踏の日を送り、ともに会食し、流行を追わないならば、他人の誹謗を受け、その慎みも、偽聖人とか、気取り屋とか呼ばれるだけでしょう。これを愛するのは、すなわち、卑賎を愛するのであります。他の実例は、私たちが病人を訪問する場合に、もし、貧乏人のところに行けと言われたならば、世俗的の意味で卑しいことであるから、私は甘んじてこれに従おう。もし、身分のある病人を訪問しなさいと命じられたならば、徳も積めず、功徳にもならず、精神的に卑しいことであるから、私はこの卑賎を愛そう。道でころべば、痛さの他に恥があります。私はこの卑賎を愛さないといけません。恥辱のほか、なんの悪い結果をもたらさない失策があります。このようなことを、わざわざするのは必要ではありませんが、失策の後に、あまり気にかけるのは謙遜に反しています。たとえばある種の不注意・無作法・失敗のようなものは、礼儀を守り、慎みを保つために、これを犯さない以前にこそ避けるように心掛けるべきでありますが、一度これを犯した後には、安んじて恥辱を受け、尊い謙虚のために、快く軽蔑を受けなければいけません。私は、さらに進んで、次のように言います。もし、私が怒りにかられ、または慎みを欠く言葉を使って、天主、ならびに、隣人に対して罪を犯したならば、私は心からこれを痛悔し、力の及ぶ限り損害を償うように努めますが、その結果である私の恥辱と受ける軽蔑を甘受して、もしも罪と恥辱とが切り離されるものならば、罪を心より憎み、侮辱には謙遜のままでいるだろう。このように、悪に伴う恥辱は、たとえこれを愛していても、その原因になった悪は、特に自他に害を及ぼす場合においては適切な正しい手段によって、これをなおさないといけません。例えば、顔面に恥ずかしい腫れ物が生じたならば、恥辱を厭うためではなく、病気として、その腫れ物をいやさなければいけません。もし、私が失策をしても、他人に害を及ぼさなければ、そのためにあえて弁解をしません。なぜならば、たとえ失策でも、何の悪結果を招かないからです。これに反して、不注意、または愚かさによって、他人に損害を与え、または、そのつまずきとなったならば、この際の悪結果は、愛徳のために拭い去る必要があるから、私は正直に弁解、及び、謝罪をして、これを償わなければいけません。また時として、私たちは、愛徳のため、すなわち、他人の利益と必要とのために、恥辱を注がねばならないことがあります。この場合には、他人のつまずきとなるのを恐れて、その目より私たちの恥辱を覗きますが、善徳の模範を示すために、私たちの心中に、いっそう、卑賎を愛する思いを深くしなければいけません。フィロテアよ、もしあなたが卑賎の中で、どのようなものが最も優れたものかと問うならば、私は明白に答えて言います。霊魂に最も有益にして 、天主の御意に最もかなう卑賎は偶然、あるいは、私たちの生活の環境より、自然に生ずるものであると。なぜならば、私たちはこれを選ばないで、天主が送ってくださったものを、 受け取るからです。天主の選択は、常に、必ず、私たちの選択に勝っています。また、もし、私たちに選択を許された場合には、最大の恥辱を、最善の恥辱として選ぶべきです。ただし、それが、私たちの境遇に適しておらねばなりません。実に、私たち自身の選択は、ほとんどあらゆる善徳の価値を低下させます。ああ誰が、私たちに、ダビデ王と共に、「 主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます」(詩編84・12)と言うことができるほどの聖寵を与えてくださるのか。愛するフィロテアよ、これを与えることができる唯一のお方は、私たちを高いところに導いてくださるために、「世にそしられ、民にいやしめられて」(詩編22・7)生き、かつ、死んでくださった主のみです。私が以上に述べたことがらの多くは、それを想像すれば、きわめて困難な、苦しいことに思えるに相違ありません。しかし、もし、あなたがこれを実行すれば、砂糖よりも、蜜よりも、甘味となるでしょう。

謙遜を実行しつつ、いかにしてよき名を保つべきか

賞賛・尊敬・光栄は、普通一般の徳行に与えられるものではなく、特にすぐれた高徳の人において、はじめて、これを受けるべきであります。考えてみると、私たちは、ある人のすぐれた価値を賞賛して、他人に推奨し、また、彼を尊敬して、彼がこの価値のあることを立証します。光栄とは、私の考えでは、多くの賞賛および尊敬の集合より自然に発する名誉の輝きです。尊敬や、賞賛を宝石とすれば、光栄はその集合のつやであります。私たちは謙遜の徳のために、自分の優越感、あるいは、他人と比べて、高く評価されるはずであるという思いを抱くことはできません。つまり単に自分の優越に基づく、賞賛・尊敬あるいは光栄を追求することは許されません。しかしながら、「よき名を求めなさい」(箴言22・1)との賢者の教訓に従うのは謙遜に反することではありません。その状態になれば、よき名(信用)とは、優越の評価ではなく、ありふれた普通一般の「正しい生涯」の評価であって、自己におけるその認知が謙遜に反していないように、よき名を希望することも、また、これに反しません。もし、愛徳にしてよき名を必要としないものならば、謙遜はこれを軽く見るであろう。しかし、よき名は社会成立の根底の一つであって、これがないならば、私たちは公衆に無益になるのみならず、つまずきとなって、他に害を及ぼす恐れがあるから、私たちがよき名を望み大切にすることを、愛徳は私たちに要求し、謙遜もまた容認するのであります。樹木の葉は、それ自身、あまり価値があるものではありませんが、しかし、有用なものであります。木の葉はただ樹木の美観をそえるのみではなく、果実がまだ小さい間、これを保護します。このようによき名も、それ自身においては、たいしして望ましいものではありませんが、私たちの生涯の飾りであり、また私たちの善徳、ことにか弱い初歩の善徳の保護、非常に有益であります。私たちのよき名を維持し、他人の信用にふさわしく行動する義務は、私たちの勇気を強力に、しかも穏やかに刺激します。愛するフィロテアよ、ただ天主のみ旨にかなうために、私の善徳を守りたい。ただ天主のみ、私たちの行動の至高、偉大な目的であります。しかし果実を貯蔵する人が、砂糖につけて、その上に、なおこれを保存に適切な器に入れるように、天主の愛が、私たちの善徳の主要な貯蔵材料でありますが、さらにこの目的にきわめて適切かつ、有益なよき名を利用して、少しも差し支えありません。しかし、よき名を保つあまり、熱心になりすぎ、これにしばられるのはよくありません。自分のよき名に対して神経過敏な人は、些細な不快に際して、すぐ医薬を用いる人のようであります。彼らは、自分の健康を計って、実際は、これを破壊します。そのように、あまり細心によき名を保とうとする人々も、全く正反対の結果に到達します。この神経過敏は、この人を、不安・こっけいにして、頑固で、耐えることのできない人間になってしまい、毒舌家の非難をまねくからであります。他人に悪口されたり、ざん言されたとき、関わり合いをもたないようにして、これに相手をしないでいることは、敏感であったり、反論したり、争論したりすることより、一般的に、遥かに有効であります。そしりは、これを無視すれば、次第に消滅します。あまり気をかけるのは、非難を認めたことになります。ワニが害するのは、怖がる人間ばかりですが、そしりもまたその通りであります。よき名を失うことを過度に恐怖するのは、よき名の基になる、自分の正しい生涯について自身がない証拠であります。大河に木橋がかけているなら、ちょっとした洪水にも、橋が落ちるとか心配しますが、しかし、石の橋をかけてあれば、よほどの大洪水でもなければ平気です。そのように、堅固なキリスト教的精神を備えた人は、毒舌の攻撃を恐れないのが常で、ただ自分のか弱さを感じる人のみが絶えず不安を覚えるのであります。フィロテアよ、多くの人に対して、よき名を得ようと欲している人が、多くの人よりこれを失い、破廉恥、不名誉の悪人から名声を得ようとするものが、自分のよき名を失うのも、また当然であると言わないといけません。よき名は、善徳の存在を示す標識にすぎません。それゆえ、全てにおいて、またどこにおいても、善徳のほうを重んじるべきです。だから、例えば、あなたが信心を行うのを見て、他人があなたを偽善家と評し、あるいは敵を許すのを見て、あなたを卑怯者と言ったとしても、あなたは一切を無視しないといけません。このような批評は、物事を理解しない愚かな人の言葉であるから、たとえよき名を失う場合に立ったとしても、そのために信心を辞め、徳行の道を捨てるべきではありません。果実が木の葉より尊いように、霊的、内的善は、一切の外的善に勝ります。私たちのよき名は大切にしないといけませんが、偶像のようにこれを礼拝するのは不可です。善人の眼に喜ばれるのはよいが、悪人の眼にこびることは非であります。男子のひげ、女子の頭髪は、男女の装飾で、今、もしこれを毛根から引き抜いてしまったならば、再生の希望は少ないでしょう。しかし、単に、これを刈り、あるいは剃っただけならば、以前よりもさらに濃く成長します。そのように、ダビデ王のいわゆる「かみそりのような鋭さ」(詩編51・4)毒舌者の舌の頭で、よき名が刈り取られ、剃り去られても、少しも心配するに足りません。なぜならば、そのよき名は以前のように美しく、以前にも増して堅固に再生するからです。これに反して、私たちの背徳・卑劣、あるいは悪行のために、これを失ったならば、その根が絶えたわけであるから、回復することはきわめて困難です。思うに、よき名の毛根とも言うべきは、親切、および正直で、これが残ってさえいれば、それに対する名声は必ず再生するものであります。よき名を害する恐れがある場合には、無益で愚かな交際・慣例・友誼・野心等を、全く捨てないといけません。よき名は、このような空しい楽しみより、はるかに貴重であるからです。しかし、これに反して、信心の勤め、善徳の進歩、永遠の幸福のための努力のゆえに、あるいはあざけり、あるいはそしり、あるいは悪声を放つ人々がいるならば、当然、このような犬たちは月に向かって勝手に吠えさせるといいでしょう。たとえ、このような輩が、多少私たちの信用に関して悪評を流し、私たちのよき名をそり落としてもやがてこれが再生して、毒舌のかみそりは、あたかもブドウを選定することが、その果実を豊かに結ばせると同様に、かえって、私たちの信用を増す基になるにすぎないからであります。絶えず、十字架上のイエス・キリストに目を注ぎ、信頼と単純をもって、しかも、聡明に用心深く、主に仕えるために努力をして行きましょう。主は、私たちのよき名の守護者となってくださるでしょう。もし、主がその失墜を許すならば、それは、あるいは、私たちにさらにすぐれたよき名をくださるためであるか、そうでないならば、その名誉より重んじるべき貴重な尊い謙遜の徳を分けてくださるためであります。理由なくして、他人にそしられたならば、まず、このざん言に対して、穏やかに真実を証明しましょう。それでも他人が言い続けるならば、私たちは謙遜をもってこれを忍び、私たちのよき名と霊魂とを、天主の御手の中に置きましょう。これにまさる委託所は、世の中にありません。私たちも聖パウロに倣い、「悪評と好評とをもって」(コリント後6・8)と言うことができるように至りたい。しかし、ここにわずかな例外があります。第一に、ある種の極めて不名誉な罪悪に対しては、侮辱を正当に免れることができるなら、できるだけこれを否認しないといけません。次に、人々の信頼を受けている特殊の人の名声が傷つけられて、多数の人のつまずきなる場合には、神学者の意見によれば、穏やかに、受けた不名誉を回復するように、努めなければなりません。

隣人に対する柔和について、および憤怒に対する心得

聖使徒より聖伝に基づき、天主の聖会において、堅信の秘蹟、ならびに、祝別に際して使用する聖香油は、オリーブ油とバルムとを混ぜたもので、種々の象徴のほかに、主の御身に輝いて、主がとりわけ愛しておられた、二つの大切な善徳を表しています。主は、あたかもこの二つの徳によって、私たちの心が主に捧げられ、主の模範に従うようになると考えられたように、特に私たちにこれをお勧めになりました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11・29)と。謙遜は、天主に対する完徳に私たちを導き、柔和は、隣人に対する完徳に私たちを導きます。バルムは、私がかつて述べたように、他の液体と混ぜるとき、下に沈んで謙遜を表し、オリーブ油は常に浮かんで、あらゆる行為をおおい、諸徳を飾る柔和・親切の象徴であります。この徳は、本当に愛の花と言うべく、聖ベルナルドも、完全な愛徳は、ただ忍耐のみならず、また、柔和・親切であると言いました。フィロテアよ、柔和と謙遜からなる神秘的バルムを、あなたの心に保つように努めなさい。悪魔は、ずるい策略をめぐらして人々に自分の内心を省みさせないで、単にこの二つの徳の外観・言語のみをもてあそばせるが、このような人は、自分は柔和・謙遜であると信じていても、実際は、決してそうではありません。その証拠には、このような人々は、誇張された柔和と謙遜にもかかわらず、少しでも他人に逆らわれ、または悪く言われると、激しい傲慢をもってこれに応じます。「聖パウロの神薬」と俗に言う予防薬を飲んでおけば、その薬が本物である限り、毒蛇にかまれても、傷口は腫れないそうであります。その通り、謙遜・柔和が本当のものならば、無礼を受けた時の精神の腫れと痛みとを予防します。それゆえ、もし、毒舌家、あるいは、仇敵の非難を受けて、私たちが傲慢になり、不平を起こし、怒りを感じたならば、これは私たちの謙遜、ならびに、柔和が本当ではなく、外観のみの偽物である証拠であります。かの太祖、聖ヨゼフは、兄弟たちを、エジプトから父の家に帰す時、「道で争ってはいけません」と唯一の戒めを与えました(創世45・24)。フィロテアよ、私も、あなたに同じことを告げます。この涙の世界には、至福なる生命に至る旅路です。道でお互い争わず、私たちの兄弟であり友である人々と仲良く平和に歩んで行こうではありませか。私は、あなたに例外を設けないではっきりと言います。もしできるならば、なにごとについても決して怒ってはなりません。あなたの心の扉を、怒りで開くような、いかなる口実も受け入れるな。聖ヤコブは、ただちに採決し、かつ例外を設けないで「人の怒りは、神の義をなしません」(ヤコブ1・20)と教えられました。私たちが監督する義務を有する人々の悪に逆らい、その過失を責めるには、勇気をもって行い、かつこれを怠ってはなりません。しかし、同時に、柔和と平静をもってなすべきです。怒った象を抑制するもの、子羊が最もよく、砲丸の勢いをそぐものは絨毯が最もよい。たとえ、理屈に合っていても激情から発した訓戒は、純粋に理性から出た忠言に比べて効果が少ないです。人間の霊魂は、自然に理性に服従すべきものでありますが、激情は暴力をもってこれを征服します。だから、理性と激情が混ざりあうときは、理性の正当な主権と言っても、暴力者と並存するため、こえに汚されて、憎むべきものとなります。帝王が、平和の行列を整えて、国内を巡遊すれば、国民はこれを光栄として、大きく喜びますが、これに反して、王が武装している軍隊を率いているときは、その目的が安寧・秩序にあるといえども、国民はこれを不快に感じ、かつ、損害を受けます。それは、いくら厳重に兵卒に軍規を守らせても、必ず、なんらかの騒動が起きて、良民に迷惑がおよぶからであります。そのように、理性が万事を支配し、平和のうちに、あるいは処罰、あるいは訓戒し、あるいは叱責する際にはいかにそれが厳格でも、几帳面でも、多くの人がこれを愛し、これを尊敬します。しかし、憤怒・憤満を伴う場合には(聖アウグスチノは、これを理性の率いる兵卒だと言った)理性は愛すべきではなく、むしろ恐るべき、自分の心さえも、そのために踏みにじられ、虐待されます。同じ聖アウグスチノが、かつてプロフゥロに書を贈って言うには「たとえ、正当な怒りといっても、また、その最小なるものといえども、私たちの心の中に入れてはいけません。一回入り込んだものを、追い出すには容易ではありません。しかも、小さいひこばえ(樹木の切り株や根元から生えてくる若芽)のように入って来て、それはすぐに成長して大樹となるでしょう」と。怒りのうちに日が暮れて夜になると(聖使徒もこれを禁じたが)、怒りは憎悪と変わり、ほとんどこれを除く方法はありません。だから、怒る人にとって、自己の怒りが正しくないことを信じことはなく、さらに、たくさんの誤った偏見をそこに加えるからです。ですから、適度に怒りを用いようとするよりも、全然、怒ることなく生活することを覚えなさい。私たちの悪い癖、あるいはか弱さによって、怒りの衝動を感じたならば、これをすみやかに撃退するほうが、これについてためらうよりも、はるかにすぐれています。ちょうど、ある隙間に、蛇が頭を差し込んだならば簡単に全身を通り抜けるように、怒りも、それに余裕を与えれば、たちまちその人を支配します。さて、これを撃退するために、フィロテアよ、衝動を感じた最初の瞬間にすみやかに(しかし、急激、あるいは粗暴でなく、かえって)もの静かに、あなたの全力を集めてこれに抵抗しなさい。ちょうど、議会などを傍聴しても分かる通り、「黙れ、黙れ」と叫ぶ声の方が、かえって黙らせようとするもの音よりも、議場の騒動を増すように、激しく私たちの怒りを抑えようとして、かえって、以前よりも、心の動揺を高めることがまれではありません。そうして、このように心が不安になれば、到底、自己を制していくことはできません。以上のもの静かな努力の後には、すでに白頭の聖アウグスチノが、青年司教アゥクシリオに与えた訓戒に従うといいでしょう。「あなたは当然、なすべき業をなしなさい。詩編の中に、ダビデ王が、私の眼は大きな怒りで動揺しています、といったような場合に出会ったのなら、同じく彼にならって、主よ、私を憐れんでくださいと祈り、主が右手を伸ばしてくださり、あなたの怒りを止めてもらうように祈りなさい」と。すなわち怒りに心が騒ぐときには、湖で暴風に出会った使徒たちのように、天主の御助けを乞わないといけません。主は、私たちの激情に静まれとお命じになり、そこには大きな平和が生じるでしょう。しかし、繰り返し言いますが、現在の怒りに対する祈りは、必ずしも静かに、平和を失わないで行い、決して荒々しく、激しくなってはいけません。これは、この罪悪に対する、あらゆる手段に共通の心得です。なお、これと共に、あなたが怒りをもらしたと気が付いたら、すぐに、柔和を実行して、その過失を償わないといけません。うそをついたならば、すぐにその場で取り消すのが、最上の策になるように、怒りも、即座に、これと反対の柔和の行為をもって償うのが最善の矯正法であります。諺にも、新しい傷は、癒しやすいと言っています。さらに、あなたは、なんら怒りの原因がない平和の間に、柔和と親切とを蓄えるために、他人と語ることも、また、なにごとをするにも、できるだけ柔和を用いるといいでしょう。雅歌の乙女は単に、口唇と、舌先とに蜜を有していたのではありません。舌の下、すなわち胸裏にこれを所有し、また蜜のみではなく乳をも持っていました。私たちも、隣人に対して、ただやさしい言葉を有するだけでは足りません。胸の中まで、すなわち、心の奥底から、柔和でないといけません。また芳香のかぐわしい蜜の甘さ、すなわち、未知の人に対して礼儀をつくし謙虚な態度を示す甘さのみならず、家人、および、親友に対する、乳の甘さをもっていないとなりません。だから、外にあっては天使のように、家にあっては悪魔のような人々の欠乏するところは、すなわち、これであります。

自己に対する柔和について

柔和に関する善行の一つは、自己に対する柔和、すなわち、自己あるいは自己の欠点に対して、決して癇癪を起さないことであります。私たちが過ちを犯したならば、これを不快に感じ、苦しく思うのは、もとより当然でありますが、そのために、激しい不愉快を起こし、あるいは、癇癪をつのらせてはいけません。怒った後で、怒ったことを怒り、悲しんだ後で、悲しんだことを悲しみ、不平を言った後で、不平を言ったことをつぶやくのは、すなわち、これに当たる大きな過失であります。これでは、自分の心を絶えず不安にし、怒りに浸しているようなもので、たとえ、第二の怒りが最初の怒りを追い払っても、次の機会にまた、新しい怒りを発するたよりとなります。その上、自己に対する上述の怒り、あるいは癇癪は、自分の不完全であることを恥じ苦しむ自愛心から生まれ、私たちを傲慢に導くものであります。ですから、自己の過失に対しては、平静・沈着なる、しかも確固たる不快感をもってないといけません。法官が悪人を罰するさいにも、怒りの情によらず、理性的に、平静に、これを処罰して、はじめて効果があります。激情にかられて裁くときは、判決に基づくところは、罪ではなく、反対に、法官の感情であります。私たちが自分の罪を悔やむに際しても、感情的な、激しい痛悔をもってしないで、平静にして、しかも堅固なる意識的の痛悔を起こさないといけません。前者は、私たちの罪の重さに比例しないで、私たちの生来の癖によるものであります。たとえば、貞潔の徳に執心する人は、これに対して犯した最も小さい過失をもひどく取り乱して悲しみ嘆き、これに反して、重大な非難、誹謗の罪を笑って問題にしません。また、反対に誹謗を嫌う人は、ちょっと、他人を批評したことに神経を悩まし、貞徳に反する重大の過失を気にかけないほどであります。このような現象は、ただ自分の良心の判断を下すのに、理性をもってしないで、感情によって行動するのに伴って生じる弊害であります。フィロテアよ、父親が子供を叱る際には、怒りよりも、おとなしくことをわけてする訓戒のほうが、はるかに効果があります。そのように、私たちの心が、ある罪を犯した際には、これを静かに優しく責め、怒りよりもむしろ同情を表し、その過失を償うようにすすめたならば、この時に生じる痛悔の念は、癇癪をおこして、激しく後悔するよりも、かえって心の中に、深くしみとおるものであります。たとえば、もし、私が虚栄の罪に決して陥るまいと、堅く決心していながら、大きな過失を犯してしまった時に、「あんなにも堅く決心したくせに、また虚栄の罪を犯すとは、なんといういくじなしだ。恥のうちに死んでしまえ。盲目め、恥知らずめ、天主様に対する不忠者、天の方を仰ぐのに絶えぬものめ」など、自ら自分の心をさいなむまい。それよりも、むしろ、同情しつつ、道理を分けて、「ああ、かわいそうな私の心よ、陥るまい、陥るまい、と決心していた、あの堀に、陥ってしまった。早く起き上がって、ここを出よう。天主様の御憐れみを呼び頼み、これによって今後はもっと堅固なものとなりましょう。深くへりくだろう。さあ、これからは、もっと気をつけよう。天主様は、私たちを守ってくださります。これからはうまくいくだろう」と、やさしく自分の心を叱っておいて、その上に、再び罪を犯すまいとの堅固な決心をつくり、なおこれを実行するための手段を講じ、指導霊父の意見にしたがうだろう。もしも、誰かが、このように優しい言葉では、自分の心を十分に感動させることができないと思ったならば、自ら強いざんぎの念を起こすために、激烈な言葉をもって自責してよい。しかし、自分の心を激しく、無惨に、責めさいなんだ後には、それをいたわり、天主に対する平和にして清い信頼をもって、ざんぎと怒りを結ばないといけません。あたかも、かの偉大なる痛悔者ダビデ王が、自分の霊魂のなえ砕けているのを見て、「ああ、私の魂よ、どうしてお前は悲しむのか。どうして思い乱れるのか。あなたは天主を仰ぎなさい。私は、私の顔の救い、私の真の天主をほめたたえます」(詩編42)と、これをいたわり、助けたように。もし、不幸にして、罪を犯して倒れたならば、静かにあなたの心をいたわり起こし、あなたの無力を悟って深く天主の御前にへりくだり、あなたの倒れたことをもあえて驚くな。病めるものが病み、弱いものが弱く、あわれなものが、あわれでいることは怪しむに足りません。しかしながら、あなたの全力を尽くして、天主に加えてきた辱めを憎み、大きな勇気を奮い起こして、天主の憐れみに信頼し、一度失った善徳の追求に、再び着手しないといけません。

熱心にことをなして、しかも焦慮せず、思い煩わないこと

仕事における注意、あるいは熱心とは、心遣い・苦労・あるいは焦慮(あせっていらだつこと)と、全く異なるものであります。天使たちは私たちの救いのために、注意深く熱心に働きますが、彼らにはそのための心遣い・苦労・焦慮というものがありません。注意、および熱心は、天使たちの愛徳の結果ですが、心遣いと、焦慮とは、天国における彼らの幸福に反するものであります。たしかに、注意および熱心は、精神の安和・平静と共存することができても、心遣いおよび苦労、特に焦慮は、とうていこれと両立することができません。フィロテアよ、天主があなたに職務を託したのは、これを完全に遂行するためですから、当然、熱心に、注意深く、一切の職務に従事しなければいけません。しかも、もしできるならば、心配し、苦労し、不安・煩悶に陥ってはいけません。特に、決して、焦慮してはいけません。なぜならば、焦慮は理性と判断力と曇らせ、せっかくの働きをまずくしてしまうからです。聖主が聖女マルタをお叱りになった時には、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10・41)と仰せられました。もし、マルタが、単に、熱心に仕事をしたのならば、心を騒がすようなことはなかったであろうが、心煩い、不安だった為に、落ち着きを失い、焦慮し、それゆえに、主のお叱りを受けたのです。平野を緩やかに流れる川は、大きな船を浮かべ、財貨を運びます。静かに土地に降る雨は、穀物と牧草とを養います。しかし、勢いよくあふれ出る激流は、堤防を決壊し、交通の便とはなりません。また、激しい暴風も、田畑と牧場を荒らすばかりです。慌てて急激にする仕事は、決してうまくできません。「ゆっくり急げ」といにしえの諺にもあります。また、ソロモン王の言うには、「橋にて急ぐものは道につまずく」(箴言19・2)と。たくみにした仕事は決して遅すぎることはありません。山蜂はミツバチに比べると、はるかに忙しく、飛び回ります。しかし山蜂はロウを作るだけで、蜜を作ることはできません。このように、イライラと焦慮して、慌てて飛び回る人の事業は、量においても質においても劣るのであります。ハエがうるさいのは、大きな害を成す為ではなく、単にそのたくさんの数によります。小さな用事も多くあれば重大な用事よりも、かえって煩わしい。ですから、できた用事は落ち着いて、順序良く、ひとつひとつ片付けるのがいいでしょう。一度に、無秩序に、全部を着手すると、せっかくの努力も、あなたの心身を疲労させるだけです。そして、仕事に圧倒されて、効果を上げることができないのが通例であります。仕事をするにも、天主のみ摂理に全く信頼しなさい。あなたの計画が成就するかどうかは、天主のみ摂理によります。しかし、あなた自身は、み摂理に協力するために、落ち着いて全力を尽くし、その上で、よく天主に信頼したならば、その結果は、あなたの個人的立場からみた成否いかんにかかわらず、実は、あなたのために、最も有益な成り行きであると確信しなければいけません。あなたは、小さい子供が、片手を伸ばして父親にすがり、他の片手で、生垣になっている草イチゴや桑の実を摘むように振る舞わないといけません。すなわち、この世の財宝を、片手で集めもてあそびつつも、あなたの他の片手は、天の父の御手にしっかりとすがり、なお、時々あなたの仕事が天の父がよしとしているかどうかを知るために、その御顔を仰がなければいけません。 最も戒めるべきことは、多くを得ようと望んで、あなたを守護してくださるその御手を離れることであります。もし、天の父があなたを離したならば、あなたはたちまち地に倒れて、一歩も動けないでしょう。フィロテアよ、あなたが世俗の業務に従う際に、もしも、それに全注意を傾倒する必要がない場合には、業務よりも、むしろ、天主のことを思うがいいでしょう。もし、また、非常に大切な業務に従事して、これに成功するために、あなたの全注意力を集中する必要がある場合には、航海者が希望の港に行くために、こぎゆく水の面よりも、かえって、高く大空を仰ぎ眺めるように、あなたも、御顔を仰がなければいけません。このようにして、天主はあなたと共に、あなたにおいて、また、あなたのために働き、あなたの努力は慰めをもって報いられるであろう。

服従について

私たちを完徳に至らせるのは、ただ愛徳の力でありますが、この愛徳を獲得するための三大手段といえば、すなわち服従・貞潔、および清貧であります。服従は私たちの心を、貞潔は私たちの体を、清貧は私たちの所有物を、天主に対する愛と奉仕のために捧げます。そして、この三徳は、霊的十字架の三つの枝であって、謙遜という第四の脚枝上に立っているのであります。私は、公式誓願としての、この三つの徳について説くつもりはありません。誓願は、常に、多くの聖寵、並びに功徳を、一切の徳行に付け加えるものですが、私たちが完徳に至るために必要なのは、誓願を立てることではなくて、徳行を実践することです。誓願、特に公式誓願は人間に完徳の状態を与えます。しかし完徳を得るためには、ただ、徳行を実践しさえすればいいです。「完徳の状態」と「完徳」とは全く異なるものです。あらゆる司教及び修道者は「完徳の状態」にありますが、悲しいかな、必ずしも「完徳」を有していないのが、日頃見るところです。(注:公教会の聖職者、修道者の公式誓願、及び単純誓願は二種に分かれます。また一般信者の私的誓願なるものもあります。また、別に無期限誓願、有期誓願に分けることもあります。「完徳の状態」および「完徳」の区別は、例を挙げて説明すれば明らかです。すなわち、卑怯な人も、軍隊にいる間は、「軍人の状態」にありますが、実際は、真の軍人精神を持っていません)。フィロテアよ、私たちは、 各々、境遇に応じて、この三つの徳を実行するよう努めましょう。たとえ、「完徳の状態」に私たちを導かないでも、この三つの徳の実践は、「完徳」を私たちに与えるでしょう。もとより、各人皆同一様に、この三つの徳を実行する必要はありませんが、各々異なる形式によって、これを実行する義務があります。服従には二種類があります。一つは必然的なもので、他は自発的なものです。必然的な服従とは、あなたが教会の長上者(教皇・司教・主任司祭、およびその代理者)に対し、国家の長上者(帝王・主権者、および国内におけるその代理者である役人)に対し、また、あなたの家庭的長上者(父・母・主人・主婦)に対する服従であります。これを必然的というのは、これらの長上者を、各一定の範囲内において、私たちに命令し、私たちを支配するために、権威者として立てられたのは天主であって、誰でも、彼らに対する服従の義務を、逃れることができないからです。彼らの命令に服従するのは、私たちの義務です。しかし、完全となるには、彼らの意向、あるいは希望・嗜好の末に至るまで、 愛と賢徳が許す限りにおいて、これに従わなければいけません。彼らがあなたに愉快なこと、例えば、食事・休息等を命じるとき。直ちにこれに服従しなさい。このような場合の服従は、大きな徳行ではないかもしれませんが、これに従わないのは、大きな過ちであるから、どうでもいいこと、例えば、どの服を着るか、どの道を通るか、歌うべきか、黙っておくべきかなどについても、彼らに服従しなさい。これは、すでに推奨するのに足りる美徳であります。さらに、自分が望まない、辛く苦しいことについても服従しなさい。これが完全な服従であります。服従にあたっては、つぶやかず、快く、怠けることなく、すぐに、嫌がらず、進んで、特に、聖主の愛のために、愛を持って従わないといけません。聖主は、私たちの愛のために、十字架上のご死去に至るまで天の父に従いました(フィリピ2・8)。そして聖ベルナルドの言葉のように、服従を捨てるよりは、御命を捨てることを選ばれました。あなたの長上者に簡単に服従することを習うために、あなたの同輩の意志をも尊重し、悪いことでない限りは議論もせず、わがままも言わないで、自分の意見を譲りなさい。また、道理の許す限り、あなたの目下の希望を叶え、その希望が悪くない限り、専制的権威の態度に出てはいけません。天主がおさだめになった、私たちの長上者に対する服従を、苦しく困難に感じる人が、修道生活に入ったならば、服従の徳を簡単に修めることができると考えるならば、大きな誤りです。自発的な服従というのは、他人に命じられたのではなく、私たちが、自分の自由意志によって、服従するものを言います 。国家・司教、私の父母、また、しばしば自分の夫も、自分で選んだものではありません。これに反して、自分の聴罪司祭、及び、自分の指導者は、自分で選ぶものであります。これを選ぶ際に、服従の誓願を立てると、(例えば、聖女テレジアは、自分の修道会の長上に服従の公式誓願を立てたほかに、グラシアン霊父に服従の私的誓願を立てたように)そうではなく、単に、その指導に服従したのにかかわらず、この種の服従は、その根底が自分の自由選択にあるために、これを自発的服従と呼びます。私たちは、各々、その権利を有する範囲内において、あらゆる権威者に服従しなければなりません。例えば、社会的秩序に関しては国家に服従し、教会内秩序に関しては司教に服従し、家庭内の事柄については、父あるいは主人、あるいは夫に服従し、自分の霊魂のとるべき行為に関しては、指導者、および聴罪司祭に服従する類であります。あなたはが遵守しようとする敬虔の業は、あなたの霊的指導者に定めてもらうのがいいでしょう。なぜならば、これにより、そのわざは価値を増やし、二重の美徳となるからです。すなわち敬虔のわざそれ自身の価値と、他はこれを規定し、かつ、その名において実践させられる服従の徳の価値であります。服従するものは幸いなるかな、天主が、彼らによって私たちを迷路に陥れさせることは決してないからです。

貞潔の必要について

貞潔は、諸徳のなかの百合の花であり、人間をほとんど天使と等しくします。全ての事物の美しさは、清さによります。人間の清さとは、すなわち、貞潔です。貞潔は、また、方正とも呼ばれ、貞潔な人は、名誉に傷のない人であります。貞潔の別名はまた純潔であって、その反対を腐敗と言います。貞潔は心身の純白の美徳で、独特の光栄を有しています。正当なる結婚生活以外に、私たちの体より、肉的快楽を享受することは絶対に許されません。結婚生活においては、この神聖な制度が、肉体におこる感覚の汚点を補償するのです。しかも、結婚生活においてさえも、私たちは、まっすぐな、美しい意志を持っていなければなりません。すなわち、その享楽するところに、多少の陰影があるにしても、これを支配する意志には、一点の汚れさえあってはいけません。貞潔なものの心は、真珠貝が、天から降りる水以外に、汚れた水は一滴も受け入れないのと同じように、天主より規定された結婚生活以外において、どんな快楽も受けません。結婚生活以外において、意識して、継続的な邪念を持って、それを考えることすら禁止されています。この徳の第一弾として、フィロテアよ、禁止された快楽、すなわち、結婚生活以外におけるもの、及び結婚生活においては、結婚の天則に背くものは、断じて享受してはいけません。第二弾として、たとえ許される事柄でも、無用で過剰なる快楽は、できるだけこれを遠ざけねばなりません。第三弾として、命じられた快楽にも、愛着してはいけません。私たちは、結婚の神聖なる制度の目的を達するために、必要な快楽を受けなければいけませんが、これに精神を執着させてはいけません。実に、全ての人が、この曲を大いに必要とします。夫、あるいは妻を失って、孤独となった人は、ただ現在および未来の誘惑に抵抗するばかりでなく、過去の結婚生活において、正当に享受した快楽が、自分の精神に忘れられない空想にも、抵抗することができる強い貞徳を所有しなければいけません。このような人々の心は、過去の結婚生活のために、汚れた快楽に対して一層感じやすいものであります。このことについて、聖アウグスチノは、若い時に経験したことがある肉の快楽を、全く忘れてしまったアリピオという人の潔徳を大そうほめています。果実でも、傷のないものは、わらや、砂や、木の葉の中に貯蔵しておくことができますが、一度傷んだものは、蜜と砂糖とを使用して、ジャムに作るより他には保存法がありません。そのように、まだ一度も傷のつかない貞潔は、これを守るために数手の方法がありますが、一度傷ついたのは、私が繰り返して言うように、精神の真の蜜と砂糖なるすぐれた敬虔によるほか、これを保護することができません。乙女は、至純鋭敏なる貞徳を有して、あらゆる不潔の快楽を絶対に憎み、その全ての好奇心を自分の心から遠ざけねばなりません。このような事柄はむしろ、動物の快楽で、人間がこれを要求する価値のないものであります。純潔な青年は、「貞潔は、これに反するあらゆる事物に、比較にならないほど優れて尊い」ことを決して疑ってはいけません。大聖イエロニモも言った通り、悪魔は、青年に、恋愛を実際よりもはるかに楽しいものと思わせて、彼らを激しく誘惑し、彼らは、また、未知なものを、いかに幸福であろうかと想像して、自分の心を乱します。蝶が火炎を見ると、美しいから楽しいであろうと考えて、好奇心に駆られてその周囲を飛びめぐり、ついにこの幻想のために火の中に入るように、若い人たちが、恋愛の炎に対して有する愚かにして誤った評価から、好奇心を持って色々に妄想を巡らし、その果てに、蝶と同じようにその中に身を滅ぼすこともまれではありません。彼らは、この蝶よりももっと愚かです。火炎の美しさより、その楽しさを推理する蝶は、多少の道理を有しますが、青年たちは、自分が要求するところの、恥ずべきものであることを知りながら、愚かな動物的享楽の誘惑に打ち勝つことができないからです。結婚生活を営む人々も、貞潔を大いに大切にしなければならないという真理は、世俗の解しにくいところです。このような人々にとっては、貞潔とは絶対的な肉欲を断つことでなくして、そこに一定の程度を守ることであるからです。私の考えでは、「怒ってもそのために罪を犯すな」という戒めが、単なる「怒ってはならない」との戒めより守りにくく、すなわち、怒りを抑えることは、最初から怒りを避けるよりも、困難のように思われます。もとより、婚姻の秘跡には、人間の情欲の火炎を消す不思議な力があります。しかし、私たちは人間のか弱さによって、すぐに許容より放縦に、利用より濫用にうつりやすい。富める人であって、貧しさのためではなく、貪欲のために盗みを働くものがまれでないように、結婚生活を営む多くの人々は、結婚の正当な目的、および、その範囲を脱して、ここそこに燃え広がる野火のような劣情に駆られて、肉欲のための肉欲を追うようになるのもまれではありません。劇薬を用いることは、常に危険であります。劇薬は極量を超え、あるいは、その他の注意をなおざりにすれば猛毒となるように、結婚は、一方に情欲を癒すものとして天主に祝福され、指定された良薬でありますが、劇薬であるために、これを用いるにあたり、注意を欠けば、大きな危険を招きます。長い期間の病気の他にも、世の中のいろいろの事情によって、夫婦が長く別居しなければならないことがまれではありません。だから、結婚生活を営む者には、二種の貞徳が必要であります。その一は上述の場合、すなわち、別居している間の絶対的貞潔、その二は、通常の場合、すなわち、一緒に住んでいる間の節制です。シエナの聖女カタリナは、神聖なるべき婚姻を汚したために、地獄において、ひどく苦しめられている多くの霊魂を見ました。聖書の言葉によれば、これは、彼らの罪が重いためではなく、殺人や冒涜の方が、はるかに大罪でありますが、しかし婚姻を汚すものは、良心が鈍麻して、いつまでも罪の状態にいるからである、と。このように、貞潔は一切の人に必要であります。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブライ12・14)。これは、聖イエロニモ、金口聖ヨハネによれば、貞潔のことであります。フィロテアよ、貞潔を持たないで天主を見ること、心が清くないで、その聖なる幕屋に住むことができる人は一人もいません。聖主自ら、「犬のような者‥‥みだらなことをする者、‥‥すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」(黙示録22・15)、また「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5・8)と仰せになりました。

貞潔を守るための心得

潔徳を損なう危険がある所よりは、すぐに早く逃れねばなりません。なぜならば、この罪は、知らず知らずの間に成長し、わずかな始まりが、次第に大きな過失となるからであり、また、最初から危険を逃れる方が、過失を直すより容易いからです。人間の体は、果物のようなもので、たとえ、よく熟した傷のないものでも、一緒に置くと損じてきます。器の中に入れて置いたままの水は、新鮮でありますが、動物がこれに口を触れるともはや新鮮でなくなります。フィロテアよ、戯れにせよ、また、愛情からにせよ、あなたの体に触れることを、どのような人にも決して許してはいけません。このような行為は、悪意があるわけでもなく、ただ軽々しいと言うに過ぎませんが、あなたの潔徳の花の新鮮さは、そのために痛められて、これを保全することが極めて困難になります。不正の心を持って触れられることを承諾したならば、それは潔徳の完全な破滅であります。貞潔の本源は心にありますが、その対象は体です。それゆえ、貞潔は、体のすべての官能、および心の思い・望みによって失われます。 心が、その行為を喜び楽しみながら、清くないものを見て、聞いて、語り、匂いを嗅ぎ、あるいは、触れるのは貞潔に背く行為であります。聖パウロは、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(エフェソ5・3)と言いました。ミツバチは、動物の腐った肉に決して触れないばかりか、その悪臭さえ甚だしく忌み嫌います。雅歌の中の乙女の手は、腐敗を防ぐ没薬の香り、その唇は、言葉の清さを象徴する真紅の飾りをつけ、その目は、清新であることは鳩の眼のように、その耳は、至純無垢の象徴である黄金の小金の耳飾りをかけ、その鼻は、朽ちないレバノンのにおい 柏の木のようでありました。敬虔な霊魂もこのように、その手も、唇も、耳も、その全身みな貞潔至純であることを要します。このことについて、大聖バジリオの言葉として、有名なヨハネ・カシアノ霊父が伝えたところを紹介しましょう。この大聖人は、ある日、自分のことを話しながら、「私は婦人というものを知らないが、しかし童貞ではない」と言われたそうです。その通り、貞徳はあらゆる不潔によって汚されます。すなわち、その大小・軽重により、あるものはこれを弱め、あるものはこれを傷つけ、あるものは全くこれを殺すに至ります。ある種の愚かな感能的な不純な思いは、貞潔を犯すまでには至らないが、これを弱め、衰えさせ、純白を汚します。また、他の種類の思いは、不純と名付けるよりも邪悪と言うべく、愚かというよりむしろ不正と言うべきで、官能的と呼ぶよりもむしろ肉欲的であって、このようなものにとっては、貞徳は少なくとも大変傷つけられます。ここに、少なくとも、と言ったのは、このような邪念が、肉に不潔な快楽の最後の結果を生む時は、貞徳は私通・姦通・親族相姦などによるよりも、さらに惨めな有様で死滅するからです。なぜならば、今、最後に列挙したような汚行は、要するに罪悪というだけであるか、前者は、テルチェリアノが「潔徳編」に書いた通り、不義と罪悪との化け物であるからです。聖バジリオが、自分は童貞ではないと言った意味は、決してこのようなことを指したのではありません、とはカシアノ霊父の意見であり、また、私の考えでもあります。おそらくは、その言葉は、頭のなかに勝手に浮かぶ邪念を指したのであろう。このような邪念は、体を汚さなくても、心を汚すものである。そうして、天主を愛する人々は、心の潔徳を守ることについて、極めて厳格であるからである。いかなる理由があったとしても、慎みを欠く人々と交わってはいけません。慎みを欠くような人は、ほとんど皆、卑猥な人間であるが、それならばなおさらです。ヤギが甘いくるみを舐めると苦くなるといいます。そのように、このような汚らわしい腐った人達の言葉を聞くと、(同性であれ、異性であれ)聞く人の潔徳が損なわれます。彼は毒蛇のように、目と息に毒があります。ですから、あなたはこれに反して、高徳にして純潔な人々と交わり、また、しばしば、天主のことを思い、あるいは、読まないといけません。天主の御言葉は清くて、これを喜ぶものを純潔にします。ゆえにダビデは、情欲の激しさを和らげるという黄玉にこれを例えました。 霊的には、黙想により、実際には、聖体拝領により、イエス・キリストの近くにいなければいけません。アイニュス・カスツゥス(貞潔なる子羊の義)という草の上に寝ると、貞潔を得ることができると伝えられていますが、真の汚れなき清い子羊なる聖主の近くにいるならば、まもなく、あなたの霊魂、あなたの心の、全ての不浄と汚れとは清められるであろう。

富のうちにあっても、精神の貧しさを守るべきこと

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)。それゆえ、災いなるかな、心の富める人、地獄の苦しみは彼らのものであります。心の貧しい人とは、心の中に富を持たず、また、富の中に心を持たない人であります。海ツバメは球形の巣を作って、上部にただ一つ小さな入り口を設けます。そうして、その巣を波打ち際にかけますが、この巣は極めて堅固で、たとえ波の飛沫を受けても水に浸らせることはなく、このようにして、この鳥は、海の上に住んで、海を我が物とするということであります。愛するフィロテアよ、あなたの心も、そのように、ただ天に向かって開いているだけで、富や、その他の空しい事柄が、これに侵入してくることを許してはいけません。たとえ、あなたが富んでいても、あなたの心は富に執着せず、常にこれを超越し、富の中にあって、富を持っていないように、その主人とならねばいけません。あなた、天上の生命のためにつくられたあなたの精神を、地上の事物の虜にしてはいけません。常にあなたの精神を、その上に置き、決して、その中に閉ざしてはいけません。毒薬を所持するのと、中毒になることは別であります。薬剤師は、みな、必要に際して使用するために、毒薬を所持しています。しかし、そのために毒に犯されないのは、毒薬が店の中にあっても、体の中にないからです。そのように、あなたも、また、毒に犯されることなく富を所有することができます。富を家の中、あるいは、財布の中に貯えても、あなたの心の中に貯えなければいいです。真に富を有し、しかも、精神的に貧しいキリスト信者は、大変な幸福です。なぜならば、そうすれば、この世において富の利益を持ちつつ、清貧の功徳を積むことができるからです。フィロテアよ、悲しむべきことは、自らを吝嗇(=ケチ)な人と信じる人はいません。したがって、誰でも、自分がこの心の卑しさを持っていることを承認しません。あるいは子女の多さを、あるいは、一定の資産を持っているのが賢明であることを口実とします。財産は、いくらあっても足らず、まだ多くを持っているのが必要であることを絶えず主張します。最も吝嗇な人も、単に自分が吝嗇であることを白状しないだけでなく、その良心において、自らがそうであるとしません。その理由は、吝嗇は一種の不思議な熱病であって、それが激しければ激しいほど、これにかかった人を無感覚にするからです。モーゼは、いばらの中に燃える聖なる火が、草を焼かないのを見ました、しかし、貪欲な執念は、これに反して、吝嗇な人を焼きつくして、少しも赤熱しないで、彼は、炎々たる猛火のなかにあっても、この世における最も快適な清涼感を有して、そのあくことなき枯渇を、自然の快い渇きと感じるのです。もしも、あなたが、持っていない財産を、長い間、熱心に、かつ、焦慮して欲求するならば、たとえ、そのために、不正の手段を講じないと弁解しても、あなたの欲心は明らかであります。誰でも、熱心に、長く、かつ、焦慮しつつ、飲み物を求めるならば、それは、その人か、単に渇いているだけではなく、高熱を煩わっている証拠であります。フィロテアよ、他人が正当に所有しているものを、正当の手段によって我が物としようとする望みは、果たして正当な望みであろうか。この望みは、つまり、他人の便益を奪って、自らのものにしたいと言うのではないだろうか。あるものを正当に所有しているものが、正当なる手段によって、これを持ち続けて行くことの方が、正当な手段によって、これを獲得しようとするよりも、さらに正当なことではないだろうか。それならば、私たちは、なぜ、他人の所有物に望みをかけて、これを横取りしようと欲するのか。仮に、この望みは、不正でないとしても、少なくとも愛徳に背いています。私たちにしても、自分が正当に保有しようとするものを、他人が(たとえ不正の手段によらないでも)奪おうとするのに会えば、決して快く思わないでしょう。これが、ナボトのブドウ畑を、正当な手段で獲得しようとしたアハブ王の罪でありました(三列王3・21)。ナボトが正当な所有主として、アハブ王よりも、これを妬んだために、ついに天主の御前に罪を犯したのです。愛するフィロテアよ、他人が、その持っているものを処分しようとする気が起こるまで、それを妬むことを待ちなさい。そうなれば、あなたの願いは、ただに正当となるのみならず、また、愛徳の行いとなります 。もちろん、私は、あなたの富裕をこい願うのでありますが、正しく、かつ、柔和と愛徳とを傷つけない方法によることを条件とします。あなたが所有する富に執着し、これにとても心と思いをかけて、これを失うことをとても恐れ憂い、このために精神を奪われるならば、やはり、あなたに多少の熱がある証拠です。発熱している人は、健康の人に見えないある種の慌てかたと、熱心と、快感をもって、与えられた水を飲みます。あるものを非常に大切にするのは、これに大変愛着している証拠です。財産を失って、そのために、あなたの心が激しく嘆き悲しんだならば、フィロテアよ、あなたは、それに執着していたからです。 思うに、損失を悲しむ悲嘆よりも、失ったものに対する執着を証明するものはありません。ですから、あなたのものでないものを、欲深く得ようと願わないで、自分のものに、著しく心を働かせないで、生じた損害も、過度に嘆かないとき、あなたは富ながらこれに執着しないで、心貧しく、天国の所有者にして真に幸福であると信じる、幾分の拠り所があるでしょう。

実際の富んでいて、しかも清貧を守る方法

画家のパラジウスは、アテネ人をたくみに描き、彼らの種々様々の姿・心境を表し、あるいは怒る、あるいは不正なる、あるいは移り気なる、あるいは敬虔なる、あるいは寛仁なる、あるいは 憐れみに富める、あるいは傲慢なる、あるいは富貴なる、あるいは卑賎なる、あるいは自慢する、あるいは卑怯な者たちを、一幅の画の中に収めたといいます。しかし、フィロテアよ、あなたの心の中に、富と清貧と、すなわち、世俗のことに対する深い配慮と大きな蔑視を、私は同時に入れることを勧めます。あなたは、世俗の人にも勝って、あなたの財産を有益に用いることを心がけねばなりません。王の庭師は、自分の家の庭よりも、王の庭園を、注意して手入れをして飾ります。なぜかと言えば、王の庭園であるから、よく働いて、王に気に入られようとするためです。フィロテアよ、私たちの所有するものは、実際のところ、私たちのものではありません。天主がそれらをくださったのは、私たちが働いて、有益にそれを用いるためです。ですから、世俗のことに熱心になるのは、天主のみ旨にかなうようにしないといけません。ですから、世俗の人が、自分の財産に対して抱く心遣いよりも、あなたは、さらに遥かに深い注意を払って、あなたの富を運用しなければいけません。 確かに、彼らは自分のために働きますが、私たちは、天主の愛のために働かねばなりません。利己的な愛は激しく、慌ただしく、不安であります。それから生まれる心遣いも、したがって、心配と不安とに満ちています。これに反して、天主の愛は、快く、平和にして、物静かであるために、それから出る心遣いも、世俗の財産に関してさえ、やはり愛すべく、楽しい気品があり、私たちの境遇がそれを必要としたならば、さらに進んで、これを増やすように勤めます。ですから、天主の愛のためにこのように勤めるのは、主の思し召しであるからでます。しかし、利己心に欺かれてはいけません。利己心は、時として天主の愛の仮面をかぶって、それと見誤れることがあります。この欺瞞を防ぎ、現世的財宝の心遣いか、貪欲となるのを妨げるためには、前の章で書いたことに注意する他、天主が私たちにくださった富と権勢の中に生活しながらも、しばしば、真実の清貧を行わないといけません。あなたの財産の一部を、常に、快く貧者に施して、これを捨てるといいでしょう。持っているものを分けるのは、それだけ貧しくなります。他に与えれば、与えるほど、あなたは貧しくなります。もとより、ただ来世においてのみならず、この世においても、天主は、それをあなたに返してくだいます。施しにまさって、あなたを現世的にも富ませるものはありません。しかし、天主がこれを返してくださるまでは、しばらくの間、あなたは、それだけ貧しくなったのです。ああ、施しによる貧しさは、なんと清く、豊かであることか!貧しい人々と貧しさを愛しなさい。この愛によって、あなたは真実に貧しくなります。なぜならば、聖書にもある通り、私たちは、私たちの愛するもののように、変わるからです。愛は、愛人をお互いに相等しくします。「 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか」(後コリント11・29)と聖パウロは言いました。 同じように「だれかが貧しいなら、わたしも貧しくならないでいられるでしょうか」とも言えます。本当に、あなたが貧しい民を愛するならば、あなたは、しばしば彼らと交わらねばなりません。あるいは、彼らをあなたの家に招き、あるいは、あなたが彼らを訪問するのを、楽しみとしなければいけません。喜んで彼らと言葉を交わし、教会や、街や、その他のところで、貧しい人があなたのそばに来る時に、快く彼らを迎えねばなりません。彼らと共にいる時には、彼らの友のように、単純な貧しい言葉でお互い語り、しかも、あなたの手は富めるもののように、豊かにあなたの財産を分け与えねばいけません。フィロテアよ、もし、あなたが、さらに一歩を、清貧の道に進もうと思うならば、 貧しいもののような貧しさに満足せず、貧しいものより、なお貧しくならねばなりません。それには、どうすればよいか。「下僕は主人に劣るものであります」。すなわち、貧しい人の下僕となりなさい。彼らが病める時には、その病床に仕えなさい。もとより、あなた自身で、また、その下女となり、食物をととのえ、その衣服を洗いなさい。ああ、フィロテアよ、この奉仕は、一国の国王となるよりも光栄です。私が今言ったことを、聖ルイ王が非常に熱心に実行されたことは、本当に感嘆に余りあるところです。聖ルイ王は、白日のもとにこの世に生まれ、最も偉大なる王の一人、あらゆる点において、真に偉大な王でありました。この王は、自分が養っていた貧民の食卓に、自らしばしば給仕し、ほとんど毎日、その中の3人を自分の食卓に招き、また、彼らのスープの余りを、大きな愛をもってすすることもまれではありませんでした。また、病院に患者を訪問する時には、(それも極めてしばしばであったが)、王はらい病とか、潰瘍とか、最も悲惨な病気にかかっている病人を介抱するのを常とし、帽子を脱ぎ、地にひざまずいて病人の姿の中における救世主を崇め、また慈母がその愛する子に対するような温かい愛情をもって、彼らを看護されました。ホンゴリア国王の王女、聖女エリザベットも、日頃から喜んで貧民の間に混ざって、また、近くの女官たちと共にいる時も、貧しい娘の衣を着ることを楽しみとして、「もし、私が貧しかったならば、このような恰好をすることもできたでしょう」と言われたとのことです。ああ、フィロテアよ、このような王、このような王女は、富貴の中にあって、しかも貧しく、清貧に富んだ方々と言わねばなりません。「このように、貧しいものは幸いなるかな、 確かに、天国は彼らのものであります。私が飢えた時にあなたたちは食べさせ、裸だった時に着せてくれました。世界が始まってからあなたたちのために備えられた国を得なさい」と、貧民と王侯の大王は、大いなる審判の日におっしゃるであろう。いかなる人でも、不便を感じ、欠乏を感じることが全くない人はいません。例えば、丁重によく絶対しなければいけない–あるいは、できるだけよく接待したいと思う客人が見えたのに、すぐにその準備ができないことがあります。あるいは、着て出ないといけない着物が、その場にない。あるいは、とっておいたブドウ酒が、全部悪くなって、未熟な酒、悪い酒しかない。あるいは、田舎に一泊して、寝心地の良い寝台もなく、部屋も不潔で、食事も待遇も悪いなどのことがあります。このように、いかに富める人でも、何かしら不足を感じることは、よくありがちで、このような場合には、必要なものがないという意味で、貧しいと言わなければなりませんが、フィロテアよ、このような時には、快くこの不足を忍び、愉快にそれをしのぐねばなりません。暴風雨とか、火事とか、洪水とか、凶年とか、盗賊とか、訴訟事件とかの災難により、大きな損害を受けることがあったならば、これこそ、清貧を実行する真の機会であります。すなわち、あなたは平静の心を持ってこの損失に耐え、忍耐をもってこの貧しさに処すべきである。エザワの手には、毛が密生していました。ヤコブが父のもとに行った時にも、その手は毛だらけでありました。しかし、ヤコブの毛は手袋の毛で、皮膚に生えている毛ではなかった(創世27)。それゆえ、ヤコブの手の毛を引き抜いても、別に痛むはずがありません。エザワの毛は自然の毛で、皮膚に生えていたのだから、もし、それを引きむしったなら、彼は痛みに耐えず大きな声で泣きわめいて、これを防いだことでしょう。もしも、私たちの富が、私たちの心に根ざしているならば、暴風雨や、盗賊や、保証人がその一部を奪い去る時、どのような不平・苦痛、どのような煩悶を感じることであろう。しかし、これに反して、天主のみ旨によって財産を管理するのであろうという精神で、富を守っていたのであれば、たとえ、他人がそれを奪い去っても、そのために、平静を失うようなことはあるまい。これが、人間と動物との衣服の違いであります。動物の毛皮は、肉についています。人間の衣服は、ただ着ているだけであります。ですから、人間は心のままに、衣服を着たり、脱いだりすることができるのです。

真実の貧窮の中における精神の富

愛するフィロテアよ、もし、あなたが真実に貧しいならば、なおさら、精神の貧しさを守り、あなたの置かれた境遇を一つの善徳に変え、この清貧の宝玉を、真の価値通りに活用しなければいけません。清貧の宝玉の輝きは現世では人の目を引きませんが、しかし本当のところは、言語に絶して美しく尊いものであります。あなたには良い友達がいます、失望するには及びません。聖主イエスも、聖母も、使徒たちも、また、その他の多数の聖人・聖女も、貧しく生活をなさり、あるいは、富裕なることを得ていたとしても、財産を軽んじられました。富貴の家に生まれ、たくさんの反対を受け、苦心を重ねて、修道院や病院の中に、清い清貧を求めた人も少なくありません。例えば、聖アレキシオ、聖女パウラ、聖女アンジェラ、その他の多数が清貧を得るために、どのように苦心したであろう。フィロテアよ、それなのに、今、淑女清貧は、あなたにさらに一層の好意を寄せて、自ら、あなたの方に歩み寄られたのではありませんか。あなたは、彼女を求めもしないで、また、苦心もしないで、彼女に会ったのです。ですから、貧しさの中で生まれ、貧しく生き、貧しく逝去されたイエス・キリストの愛する友にして、生涯の乳母であった淑女(清貧)を抱擁しなさい。フィロテアよ、あなたの清貧は、特にあなたの功徳となる二大特典を持っています。その一つは、あなたの選択によらないで、すなわち、あなた自身の意思に無関係に、天主がそのみ旨によって、あなたを貧しくされたことです。さて、私たちが愛を持って、喜び勇んで天主のみ旨を受け入れ、純粋に天主のみ旨を受諾することは、常に天主の最もお喜びになることです。私たち自身ための分け前が少ないほど、天主のための分け前が多くなります。すなわち、天主のみ旨をそのまま快く受けるのは、私たちの苦痛を至純にさせる理由であります。あなたの清貧の第二の特典は、それが本当の貧しい清貧であることです。他人にたたえられ、愛され、尊敬され、援助を受ける貧しさは、富める清貧であり、少なくとも純粋な清貧ではありません。これに反して、他人に軽蔑され、捨てられ、非難される清貧は、真実の清貧であります。俗人と修道者を比べれば、俗人の清貧は一般に第二種に属し、自己の選択によらないで、必要に迫られての貧しさである為に、他人の注意を引きません。このように、他人の注意を引かない事実が、彼らの清貧を修道者の清貧よりも、一層貧しくする理由であります。もっとも、他の見地より見れば、修道者の清貧にも、その誓願、並びにその意志のために、別種のきわめて尊く、かつ、推奨すべき理由があります。愛するフィロテアよ、あなたは、あなたの貧しさを嘆いてはいけません。嘆くのは、これを嫌がっている証拠です。もし、あなたが貧しさを嫌がるならば、既にあなたは清貧の精神を失い、欲望において富めるものと言わねばなりません。他より救済を必要とするにもかかわらず、その与えられることの足りないことを恨んではいけません。なぜならば、ここにこそ、貧しさの価値はあるから、清貧を希望して、しかも、不自由を嫌うのは、はなはだしい非道であります。それでは、清貧のほまれと、富貴の利便とを、一時に享楽しようとすることになりませんか?また、あなたの窮乏を恥じ、または愛徳による、施しものを請うことを怖がってはいけません。あなたは、与えられるものを謙遜をもって受け、拒まれるときは柔和をもって答えないといけません。聖母が御愛子を抱いてエジプトにさすらわれた御旅を想起するがいいでしょう。その時、聖母は、どれほどの軽蔑・貧苦・艱難をしのぎなさったことであろう。もし聖母に倣い、生活することができるなら、あなたは貧しさの中において、大変富めるのであります。

友情について、悪くむなしき友情について

愛は霊魂の感情の中で第一位を占め、あらゆる心の作用の主にして、自己を他の一切の中心として、私たちが愛する者のように私たちを変えます。フィロテアよ、十分に注意を払って悪しき愛情をなかに宿してはいけません。なぜなら、すぐに邪悪な人となるからです。さて、すべての愛情の中で、友情が最も危険であります。考えてみると他の愛情は、意思の伝達がなくても成立しますが、友情は、全然、意思の伝達を基礎とするために、ある人の友となって、しかも、その性格の感化をこうむらないことはほとんどありません。一切の愛が友情ではありません。第一、自分が愛されないで、人を愛することができます。このような場合には、愛はあっても友情ではありません。友情は相互的な愛であるから、相互的でなければ、友情ではありません。第二に単に相互的であるのみならず、互い愛し合う二人が、相互の愛を意識しておらねばなりません。そうでないならば、愛はあっても友情ではありません。第三に、それだけではなく、双方の間に、友情の基礎となるある種の意思の伝達がなくてはなりません。この意思の伝達するところのものの種類によって、友情もまた変化します。それから、意思の伝達は、友人が相互に共有するところよって差異を生じます。共有するものが誤ったもの、あるいは空しいものなる時は、友情もまた、誤った友情であり、空しい友情であります。共有するものが、真の宝である時は、友情も真の友情であります。この宝が貴重なほど、友情もまた、優れた友情となります。蜂蜜は、良い花弁から集めたものほど、上等であるように、優れた意思の共有の基礎の上に建てられた愛は尊いものです。ポント地方、ヘラクリアには、この地方に多いトリカブトからの蜜がありますが、猛毒を持っていてこれを食する人は狂気になるそうです。ちょうどそのように、誤った邪悪な事柄を共有する友情は、全く誤った邪悪な友情であります。共有するところが肉体的快樂であるときは、その交わりは、ロバや馬が連れ立つのと同じで、人間界では友情と呼ばれるのに値しない動物的な交際であります。もし、婚姻が、本能の満足以外に、なんら分かつところがなければ、夫婦間には友情が存在するとは言えません。しかし、実際には、夫婦の間には、なお生活、及び、勤労・財産・愛情、また、離すことができない忠信の交換が存在するために、夫婦間の友情は、真の清い友情であります。官能的快楽の交換の上に建てられた友情は、友情と言えるのに恥ずかしいほどの、劣等な交際であります。官能に基づく、ある種の下等なつまらない長所を分かつのも、また、そうであります。ここに、私が官能的快楽というのは、美に対する視覚の喜び、快い声に対する聴覚の喜び、また、触覚の喜びなどのように、主として、また、直接に、五感における快楽を指します。また、むなしい長所と称するのは、つまらない人々が褒め称える、ある種の巧妙さ、あるいは性質のいいことであります。大抵の若い男女が、話をしているのを聞くがいいでしょう。臆することなく、彼らはこんなことを言っています。「あの人は偉い、長所が多い。ダンスも上手だし、様々な遊びもうまく、着ている物もいいし、歌もうまい、話は面白く、見た目もいい」と。そうて、道楽仲間では、その中で一番のしゃれものが、一番褒められるのであります。さて、これらは、みな、官能に基づくがゆえに、このような事柄を基礎としている友情は、官能的にしてむなしい付き合い、友情というより、むしろ、たわごとと呼ばれるべきであります。これが、髭の形や、髪飾りや流し目や、衣装や、見た目や、楽しい話とかを大切にする青年男女の普通一般の交際であります。いずれも、愚かな無分別な時代の交際であるから、いつかは日に当たる雪のように、解けて跡がなくなってしまします。

遊戯的恋愛について

このようなつまらない友情が、別に将来結婚する意志もなく、 異性間に結ばれる時、これを遊戯的恋愛と言って、 たとえ方も空しさ、愚かさのために、友情とも、恋愛とも呼ぶことができないほどの、言うならば、でき損ね、その化け物であります。この時、男女の心は、私が前の章で述べたような、 愚かな意思の伝達、あるいは、その空しい快楽に基づいたつまらない愛情に捕らわれて、互いにからみ合ってしまいます。多くの場合に、このような愚かな愛は、最後には醜悪なる肉欲に落ちてしまうが、必ずしも、それが双方の最初の目的ではありません。いいえ、もしも、最初からそうであったならば、遊戯的恋愛でなくして、明らかな邪淫であります。もちろん、時として、この愚かな遊戯を楽しむ人々が、肉体的な清浄を直接に損なうことなく、ただ、色々な口実を作っては、愚かな、うつろな希望・愛欲に心を託しているだけで、数年を経過することもあります。ある人々は、単に、自分の愛情の欲求に従い、愛したり、愛されたりすることを喜ぶのみで、他を顧みません。彼らは愛する人を選ぶのに、自分の趣味、あるいは、本能を持ってするだけで、快い相手に出会えば、その人の性質や品行を調べもせずに、直ちに恋愛の遊戯を始めて、後になると、逃れ出ることが困難な、無残な罠の中に入り込んでしまいます。ある人々は、主として、虚栄心によって行動します。すなわち、他人の心を、愛を持って虜にすることを誇りとするために、名誉を標準として相手を選択し、特殊な高いところ、少数にして、有名な人々を狙って、落とし穴を作ります。また、ある人々は、恋愛の情と、虚栄心と、双方を交えて、たとえその心は恋慕に満たされても、同時に、いくらかの利得がなければ、動きません。 以上列挙したような、友情は残らず、よこしまにして、愚かであり、かつうつろであります。よこしまとは、 肉欲の罪に終わり、愛を盗み、天主、または、妻あるいは夫に属すべき心を奪うからであります。愚かとは、これに根底もなく、理性もないからであります。うつろとは、それより、利益も、名誉も満足も生じないからであります。また、それは、時間の浪費であり、名誉の毀損であります。そこには幸福もなく、自らその欲するところを知らない、虚しい希望の焦慮が存在するばかりであります。このような精神薄弱な人々は、相手の愛の証言に決して満足せず、しかも、何が不足であるかも知らず、漠然とした欲求は止まるところなく、絶えざる不信・嫉妬・不安に悩むのであります。ナジアンズの聖グレゴリオは、この問題に関して、軽薄な婦人たちに、大変巧みに教えました。次に、彼が、主として、婦人に与えた短い教訓を上げますが、これは、また、男子にも当てはまります。「あなたの生来の美貌は、あなたの夫のためのものであります。もし、これが、一郡の鳥に張られた網のように、多くの男たちを誘ったならば、何が起こるでしょうか。あなたの美貌を褒める人を、あなたも気に入るようになります。流し目に流し目を送り、目配せに目配せを返して、たちまちこれに次いで、微笑とあわれみの一言、二言が、最初には遠慮しがちにささやかれますが、まもなくこれに慣れて、大胆な痴話となります。おお、おしゃべりな舌よ、それから次に来るものを、言わないように気をつけなさい。けれども、私は、なおこの事実だけを言います。若い男女が、このような愚かな快楽のために、一緒に言ったり、したりすることに、太いイバラが隠れていないものはありません。磁石に吸われた鉄片が、他の鉄片を引くのと同じように、このような愚かな事柄は連続して起こるのであります」と。ああ、この偉大な司教の言葉の、いかに適切なことよ。一体、あなたは、なんのつもりなのか。愛したいのか。そうであろう。しかし、他人を愛すれば、どうしても、愛をもって報いられるのだ。そうして、他人の愛情を受け取るのは、この遊戯で罠にかかることなのです。アプロクシスという草を、火のそば近くに持っていけば、すぐに火が移ります。 私たちの心もそれと同じく、他人が自分に対して恋愛の火に燃えているのを見れば、 すぐその人に対して情欲の炎をあげるのです。なかには、ちょっと、この遊戯をしよう。しかし、深見には陥るまいという人もあろう。しかし、それは大きな間違いで、情欲の火は、思ったより激しく燃え広がるものです。あなたが、ほんの火花しか受けなかったと思ううちに、たちまちあなたの心を捉え、あなたの決心を灰にして、あなたの名誉を煙としてしまうことに驚くであろう。知者は、「蛇使いが蛇にかまれ、猛獣使いが獣にかまれたとしても、だれが同情するだろうか。」(集会書12・13)と叫んだが、私も彼にならって言います。「ああ、愚か者よ、狂った者よ、あなたは、恋愛を、好き勝手に使いこなせると思っているのか。あなたは面白がって遊んでいるつもりでも、恋愛の蛇は、ひどくあなたに噛みつくであろう。どのように他人が批評するのか、それを知っているか。あなたが恋愛を楽しいものにしようと、間違った安心から、懐の中に危険な蛇をいれたので、霊魂も名誉も失くしてしまったと、一同が、あなたを嘲り笑うであろう」。ああ、このような薄弱な保証に安心して、私たちの霊魂の一番大切なものを、失くしてしまうとは、なんという盲目だろう。フィロテアよ、天主が人を愛してくださるのは、その霊魂のため、霊魂を愛してくださるのは、その意志のため、意志を愛してくださるのは、その愛情のためです。ああ、私たちは必要なだけの愛させも持っていないではないか。天主を愛するためには、無限の愛が必要ではないか。ところが、愚かな私たちは、そうではないかのように、つまらない空しい愚かなことに、それを浪費しています。私たちを創り、保ち、贖ってくださった理由をもって、私たちの霊魂のただ一つの愛を占有してくださる天主は、その愚かな浪費に対して、いかに厳重な清算をお求めになることか。もし、無駄なおしゃべりに対してさえ、厳しい審判があるならば、むなしく、悪く、愚かな交際に対して、いかなる刑罰が加えられるのか。クルミは、そのブドウや野菜の害となります。クルミの大樹は、他の植物の分までも、地の養分を奪い取り、また、生い茂る木の葉は、広い影を作り、その果実は、行き来する人を招いて、そのために周囲が踏みにじられるからです。遊戯的恋愛も、霊魂に同じ害を与えます。第一に、恋愛は霊魂のあらゆる力を奪うため、他の善業のために、力の不足を生じ、その葉、すなわち、談話・快楽・遊戯は、あまりにたくさんで、ことごとく時間を空費して、また、誘惑・放心・猜疑・その他を招き寄せて、そのために心が踏み荒らされてしまいます。要するに、これらの遊戯的恋愛は、ただに天上の愛を亡ぼすだけでなく、天主の畏怖を失わせ、精神を弱くし、名誉を損ないます。これは、宮廷における戯れかもしれませんが、心にとっては死の病です。

真の友情について

ああ、フィロテアよ、あらゆる人を大きな愛徳をもって愛しなさい。しかしながら、友情を結ぶには、ひたすら、あなたと徳行を共有ことの出来る人だけを選びなさい。あなたたちの交換する徳行が優れていればいるほど、あなたの友情は完全です。もし、あなた達に共有するところが学問にあるなら、あなた達の友情はすでに立派な友情であります。修得を目的とし、たとえば、深慮・分別・勇気・正義等を共有するとき、あなた達の友情はさらにすぐれています。しかし、あなた達の目的が、愛徳・信心・キリスト教的完徳にあるならば、ああ、天主よ、この時、あなた達の友情は、どんなに貴重なものか。その優れているのは、天主から出ているため、また天主に向かうため、また天主によって連鎖するため、また永遠に天主において継続していくからです。ああ、天においてお互い慈しむように、地においてお互い愛することは、なんと素晴らしいことか。永遠無限に来世でするように、現世においてお互い親しむことを学ぶことはなんと素晴らしいことか。私がここで語ろうとするのは、単純な愛徳のことではありません。なぜならば、愛徳は、万人に対する私たちの義務だからです。私が言いたいのは、二・三人、あるいは、それ以上の人々が、彼らの信心、あるいは、霊的希望において、互いに心の底まで打ち明けて親しくつきい、肉体は違っても、心は一つに固く結ばれるようになる、その霊的友情についてであります。このような幸福な人々にとっては、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133・1)と歌うことも偽りではありません。信心のかおりたかいパルムは、一人の心より他の心へ絶えず流れて、「天主は世々に至るまで、この友情に祝福と生命とを与えてくださった」と、言うこともできるのです。この友情と比べれば、他の友情は影のようであり、信心が黄金の連鎖とするならば、その他のものははりか泥土のつながりであります。それゆえ、あなたが特に求める友情として、この信心の他の友情を作らないほうがいいでしょう。特に求めるところと言ったのは、そのほか、親戚・組合・恩人・隣人等の自然の関係、ならびに、従来の義務によって、あなたが続けていかなければならない友情を捨ててしまってはならないからです。私は、あなたが特に選ぶ友情についてのみ説明します。特別に親しい友人を作ることは、心を一方に奪い、精神を乱し、嫉妬の原因になるからよくないことである、と教える人がいるかもしれません。しかし、この考えは誤りです。このように説くものは、特殊の友情、過度の愛着は修道生活に大きな害をなすという、敬虔書の著者のことばを読んで、俗世間でも同じであろうと考えているからです。しかし、これには考えが足りないところがあります。規律正しい修道院では各人の目的が真の信心であるから、これらの特殊の親しい交わりをする必要はありません。普遍なるべきものを、特殊の人の間に求めれば、特殊の交際は堕して個人的な交際となるおそれがあります。しかし、俗世間にあって、真の徳行を修めようとするものにとっては、聖なる友情をもってお互い結び合うことは極めて必要で、これにより、彼らは、初めて、互いに励まし、お互い助け、共に善に進むことができるのです。平野を旅行する人は手を取り合う必要はありませんが、険しく苔で滑りやすい山道にさしかかると、互いに手を取り合って倒れないようにします。その通り、修道院内では、特殊な友情は無用でありますが、俗世間にあっては、各人は同一の目的も、また、同一の精神も持っていません。ですから、どうしても、私たちは私たちの目的に従って、一団となり、友人を選ばないといけません。この特殊な友情は、ある意味では分立であります。しかし、これは神聖な分立であり、善を悪より、羊をヤギより、ミツバチを山バチより分ける、必要な分立にすぎません。聖主が、聖ヨハネ、ラザロ、マルタ、マグダレナを、特に親しく愛したのは、聖書の証言するところで、だれも否定できない事実です。また、聖ペトロが聖マルコ、および聖女ペトロニアを愛し、聖パウロがテモテ、および聖女テクラを愛したのも人々の知る通りです。ナジアンズの聖グレゴリオは、かの偉大なる聖バジリオとの親交を大いに喜んで下のように記しました。「私たち二人、体は違っても、心はただ一つであるかのようであった。万物があらゆる各事物のなかに潜むと説く、哲学者の説は信じないが、私たち二人がその各々の一人の中にあり、一人は他の中に存在していたということは確実であります。私たち二人は同一の目的を抱いていました。すなわち徳行を修め、未来の希望の基礎の上に、私たちの生涯の計画を建設し、地上で死ぬ前に、すでにこの現世を超越していました」と。聖アウグスチノの証言によれば、聖アンブロジオは聖モニカを、彼女のまれなる高徳のために愛し、聖女は、また聖アンブロジオを、天主のみ使いのように敬愛していたとのことです。聖イエロニモも、聖アウグスチノも、聖グレゴリオも、聖ベルナルドも、また、その他の天主の偉大な僕たちも、きわめて特殊な友情を所有しながら、しかも、彼らの完徳を、少しも傷つけませんでした。聖パウロは、異邦人の不道徳をとがめて、彼らは愛情なき人々、すなわち友情を知らない輩と言いました(ローマ1・3)。また、聖トマも、他のよい哲学者と共に、友情は一つの善徳であると教えたが、その友情とは特殊の友情の意味であります。なぜならば、彼自らが言うように、完全な友情は、多くの人々に及ばないからであります。ですから、完徳は、友情を有しないことではなく、ただ善良にして神聖なる友情のみを有するのにあると言わないといけません。

真の友情と虚偽の友情との相違について

フィロテアよ、次に述べることは、大切な教訓です。非常に有害であるヘラクレアの蜜と、他の非常に薬効ある蜜とは、一見きわめて類似するから錯誤することがよくあり、あるいは、両者の混合物を食する非常に重大な危険もあります。この最後の場合において、一つの薬効は他の毒作用を消すわけではありません。友情についても、特に異性間の友情は、いかなる理由をもっても、そこに過失が起こらないように誰でも充分に注意しないといけません。悪魔は、相愛する人を欺くことが多い。最初は、正しい愛情を有していても、油断すれば、まず、軽々しい愛が混入して来て、次いで官能的の愛、最後に肉的な愛が入ってきます。霊的な友情でさえも、用心しなければ危険であります、もちろん、霊的な友情は、きわめて清浄潔白であるから、悪魔がこれに混ぜようとする汚点は、すぐに目立って、欺かれる危険は少ないものの、悪魔も、それだけ巧みに働き、これを試みる際には、人の注意を引かないように、知らず知らずの間に、邪念をくぐり込ませようとします。世俗的の友情と、有徳にして聖なる友情とを識別するには、ヘラクレアの蜜と他の蜜と判別するのと同じようにすればいいです。ヘラクレアの蜜は、鳥頭花が極端に甘いために、他の蜜と比べ、はるかに甘い感じがします。世俗的な友情には、一般に、過度の蜜のような言葉と、情熱的なささやきと、美貌・優雅、そのほかの官能的の性質に対するへつらいがあります。しかし神聖な友情は、もっと淡泊・単純にして、徳行およびその唯一の基礎である天主の聖寵を賛美する以外の談話はありません。ヘラクレアの蜜を食すれば、めまいを覚えます。誤った友情は、精神を迷わせ、貞潔および信心をあやふやにします。それが導くこびを含んだ節制のない目つき、官能的な愛撫、だらしのないため息、愛してくれないという愚痴、かすかな、けれども作為的誘惑的な顔つき、気前をつけること、接吻、その他の欲求は、潔徳が間もなく消え失せようとする確実な印であります。これに反して、聖なる友情においては、単純・潔白な眼差し、清浄にて淡々たる態度、天上界へのため息、霊的の親愛、天主が愛されていないことへの嘆きなど、いずれも潔徳の誤りのない証拠であります。ヘラクレアの蜜は視覚を狂わしますが、この世俗的な友情は、判断力を眩ませるため、迷い誤ったなかにいる人々は、悪事を善と見なし、彼らの薄弱な口実を、真実の道理と思い込み、光明を嫌って、暗闇を愛好します。これに反して、真の友情は、明らかな眼を有し、逃れ隠れることなく、正しい人々の前に出ることを好みます。最後に、ヘラクレアの蜜は、後に、口中において苦くなります。虚偽の友情も、ついには、醜い言行に変わり、あるいは、その目的を達しなかった時には、ざんそ・中傷・欺瞞・悲嘆・失望・嫉妬などを生み、しばしば愚痴・狂乱に終わります。ところが貞潔な友情は、終始、公明正大であり、礼儀正しく、仲たがいしないで、天における至福の友情の生ける姿、霊のより完全でより純潔な一致に進むのであります。ナジアンズの聖グレゴリオは、牡のクジャクが尾を広げて鳴くのは、牝鳥を色気で誘うためであると言いました。もし、だれがが、別段結婚する意志がなく、身を着飾って、少女のそばに近づき、言葉巧みにこびるならば、それは彼女を罪に誘うためであることは、一点の疑いの余地はありません。名誉を重んじる少女はこのクジャクの鳴き声を聞かないで、巧みに彼女を魅了しようするこの誘惑者の声に心を引かれないように、かたくその耳をふさがないといけません。もし、万が一、それを聞くようなことがあったならば、将来の心の破滅の前兆であります。父・母・夫・妻・聴罪霊父の眼を盗んで、種々のふるまいをし、あるいは、ひそひそ話をする人は、名誉、あるいは良心にそむく、なにごとかをたくらんでいるのであります。聖母は、人間の姿で現れた、天使にすら警戒された。それは、天使が天からの賛辞とはいえ、はなはだしい賞美の言葉を述べたからであります。ああ救い主よ、至純至潔の童貞は、人の姿をした天使をさえ恐れられたのに、不貞操なもの、官能的、人間的の賛美を捧げる人を、(たとえ天使の外観を有していても)恐れないのはなぜですか?

いかにして邪悪な友情より逃れるべきか

そうであるなら、これらの痴情・淫欲の群れに対して、対処する方法はどのようにすればいいのか。まず、その最初の誘惑を感じるやいなや、直ちに、精神の向きを変えて、この空しい思いをことごとく捨て、かつ、なお、子狐(コギツネ)たち(雅歌2・15)が寄ってこないように、急いで救い主の十字架の側に至り、いばらの冠をとって、あなたの心に被らせなければなりません。この敵に対しては、いかなる妥協もしてはいけません。「ひとつ聞いてみよう、しかし、何を言っても、決して受け入れまい。耳は貸してやるが、心は貸してやるまい」などと答えてはいけません。ああ、フィロテアよ、天主のみ名によって忠告します。このような場合には、あなたはきわめて厳格でなくてはいけません。心と耳とは続いています。山の中腹を落ちる急流を、せき止めるのは不可能であり、同じように、耳に入った愛の言葉が、たちまち心に通うことを妨げるのに困難であります。アルクメオンによれば、ヤギは鼻ではなく、耳で呼吸をすると言います。アリストテレスはそれを否定しています。私は、どちらが正しいか知りません。しかし、私たちの心は耳で息をするのは確実であります。すなわち、心は舌によって、自分の思想を吐露し、耳によって、他人の思想を吸収します。ゆえに、私たちは注意して、愚かな言葉より、私たちの耳を保護しないといけません。そうしないならば、私たちの心は、いつ毒気を受けるか分かりません。いかなる理由、いかなる提案も、すべて、これを聞いてはいけません。この場合に限り、無礼や無作法も遠慮してはいけません。あなたは、すでに、あなたの心を、天主に捧げたことを忘れてはいけません。あなたの愛は、犠牲として、天主のものでありますから、力強く振る舞うことは、毒を防ぐことなのです。しかしそうすることより、むしろたくさんの新しい決心、誓いを反復し、牝鹿が草むらに身を隠すように、この決心・誓いのなかに潜み隠れて、天主を呼び求めなさい。主はあなたを救ってくださいます。あなたの愛情の、ひとえに主のために、生きるために、主の愛は、これを保護してくださるに違いありません。もし、万が一、すでに、あなたが痴情の落とし穴にかかっているのであるならば、それこそ、そこから逃げ出すのは、非常に難しいことです。天主の御稜威の御前に出て、御目の下において、あなたの罪、弱さ、むなしさを懺悔し、さらに、あらん限りの心の努力をこめて、開始した恋愛を投げ捨て、あなたが交わした愚かな誓い、受け取ったあらゆる約束を廃棄し、強い意志をもって、動きかけたあなたの心を止め、二度と再び、これらの恋愛の遊戯に入らないように決心しなさい。もしも、相手を離れることができるならば、それに越すことはありません。毒蛇に噛まれた人は、かつて、同じ蛇に噛まれた人々のそばにいては治りが遅い。恋愛に傷ついた人は、やはり同じ痛手を負った相手の近くでは、その情欲を忘れることができません。場所の変化は、苦痛と愛欲との、激しさや不安を癒すのに、非常な有効であります。聖アンブロジオが「悔悛編」の第二巻に記述した青年は、長途の旅行で、既往の痴情を全く脱し、愚かな少女が、「もう私を忘れたの。私は昔の私ですのに」と言ったのに、「そうさ、けれども私は、もう私ではないぞ」と答えたと言うが、これはその別離がこの幸いなる変化をもたらしたのであります。聖アウグスチノも、親友の没後、大きい悲しみを忘れるために友の死んだタガステを去って、カルタゴに行ったと書いています。もし、相手との別離が不可能な人は、何をしたらいいだろうか。この人は、なすべきこととして、絶対的にあらゆる私語・密語・秋波・微笑など、この不潔な情欲をそそり得るすべての交際・誘惑を避けなければいけません。また、どうしても、二人で会わねばならないならば、それは、ただ、大胆な、簡単な、まじめな言葉で、先に、天主に誓った、永遠の手切れを告げるためでないといけません。不真面目の恋愛の落とし穴に陥った人に、私は大きい声で告げます。「切れ、破れ、断て」と。このような愚かな交際を理解していこうとしてはだめです。当然、引き裂くべきです。結び目を解くのではありません。引き切るのです。このような交際のきずなを惜しむ必要はありません。天主の聖愛に、ここまでも背く愛欲に対しては、なんの会釈もいりません。こうして、一旦この恥ずべき情欲の奴隷の鎖を断ち切っても、なお、多少の未練が残り、鉄鎖の痕跡が、私の足、すなわち、私の感情に覚えていないだろうか。フィロテアよ、もしも、あなたが完全に、あなたの犯した罪を憎悪するなら、このようなことはありません。この場合には、あなたの感情には、ただ過去の痴情、および、これに関する一切の事柄に対する激しい嫌悪の念が存するばかりで、天主に対する清い愛徳のほか、捨ててしまったものに対して、なんらの執着も残らないはずです。しかし、もし、あなたの痛悔が不徹底であり、あなたの心に、なお、いくぶん悪の傾きが残っているならば、私がかつて教示した方法に従って、霊魂の隠れ家をつくり、なるべくその中にこもり、反復して天主を思い、過去のすべての執着を断ち、全力を尽くして、これを否み、いつもに増して敬虔書を読み、かつ、しばしば告白し、聖体を受け、これに関して生じるあらゆる誘惑と暗示とについて、謙遜淡泊に、もしできるならば、あなたの指導霊父、少なくとも、何人か、忠実にして、思慮深い友人と相談しなさい。あなたさえ、忠実にこれの修行を続ければ、天主は、必ず、すべての情欲のきずなより、あなたを解放してくれることを少しも疑ってはいけません。あなたは言うかもしれません。容赦なく、親しい交際を断つとは、背徳の行為ではあるまいかと。ああ、天主に好まれるように導くこの背徳の幸いなることよ。フィロテアよ、これは不信ではありません。むしろ、あなたの愛人に対する大きな善業です。縛られている鉄鎖は、二人に共通なのです。あなたが鎖を断つのは、あなたの友の鎖を断つことになります。たとえ、あなたの友は、今日、その幸福を知らなくても、他日それを悟って、あなたと共に感謝の歌を歌うであろう。「主よ、主は私の戒めを立てて下さいました。私は感謝の生贄を主に捧げ、主のみ名を呼びましょう」(詩編15・16)と。

友情に関するその他の教訓

友情は、友情間における、きわめて親しい意思の伝達を要し、この意思の伝達なくして、友情が成立することもなく、また、存続することもありません。それゆえ、友人間においては、友情と同時に、相互の愛情・傾き・性質等の交換によって、知らず知らずの間に、他の種々の事柄が、心より心へと流れゆくものであります。このことは、特に、私たちが友人を非常に尊敬している時に著しい。この場合には、友情に全く心の扉を開放するために、友人の傾き・性質が、善悪を問わず、ことごとく、容易に、侵入してきます。ヘラクレアの蜜を集めるミツバチが、目的とするのは、蜜のみでありますが、知らない間に、蜜と共に、鳥頭花(トリカブト)の毒汁を吸うのであります。フィロテアよ、この点に関しては、私たちは、救い主の御言葉として古人が伝えた「賢い両替屋」になれとの金言を忘れてはいけません。私たちは本物とにせ物を混同し、粗金と精金を共に受け取ってはいけません。貴重なものと、無価値なものとを判別しなさい。確かに、どんな人でも、なんらかの欠点を持たないものは、まずいないと言ってよいので、友と交わるに際しては、彼の友情と共に、その欠点・傷をも、合わせて受ける理由があるのか。もともと、私たちは友の欠点にもかかわらず彼を愛さないといけません。しかしながら、友の欠点を愛し、あるいはこれを受領してはいけません。友情とは善の交換で、悪の交換ではありません。ターグスの河床にて、砂金を採集する人が、黄金と砂を分けて、黄金を持って帰り、砂粒は河床に残すように、善き友情の交換に際しても、欠点の砂粒はこれを分離すべきで、決してこれを自分の霊魂に入れてはいけません。ナジアンズの聖グレゴリオの伝えるところによれば、聖バジリオの心酔した者たちは、聖人の外面的欠点まで、すなわち「思いに気を奪われて、夢中になっているようなゆっくりした話し方から、ひげの形、その態度までも」まねたということであります。夫・妻・子供・友人が、妻・夫・両親・友人を尊敬するあまり、あるいは、その歓心を買うために、あるいは、これを模倣するために、愛情の交換と共に、種々のちょっとした悪癖までも分かつのは、日常私たちが見聞きするところであります。しかし、これはよくないことです。他人の欠点までも背負わなくても、私たちは、すでに、各々、多くの悪癖を持っています。そうして、友人の欠点を真似するのは、友情の要求するところではありません。むしろ、私たちが互いの欠点の除去に助けうこそ、友情の義務であります。欠点を有する友人に対しても、柔和親切であるべきなのは当然ですが、その欠点を褒めてはいけません。これを私たちの中に取り入れるに至っては論外であります。以上は、欠点に関する場合であります。罪に関しては、友人にこれを寛容し、あるいは、これを奨励するようなことは絶対にいけません。友人の破滅を見て、これを救わず、罪の腫瘍で、死のうとするのを見殺しにして、矯正の外科のメスを入れることをしないのは、きわめて無力な、あるいは邪悪な友情であります。真の生ける友情は、罪悪のうちに継続していることはできません。いもりが火の中に入れば、火は消えるといいます。罪が友情のうちに宿れば、友情は滅びてしまいます。もしも、一時的の罪悪ならば、友情は忠告を用いて、罪を追うことをできますが、これに反して、あなたが罪が状態となってしまえば、友情は死滅せざるを得ません。確かに、友情は真の徳行の基礎の上にのみ、存続するものであります。友情のために、罪悪を犯すようなことは、するべきことではありません。友が私たちを罪悪に誘えば、彼はもはや友でなくして、敵であります。私たちを滅ぼし殺そうとするとき、彼は友情を失うのに値します。だからそのいかなる罪悪を問わず、罪人に対して友情を抱くならば、これは、すでに、偽りの友情の最も確実なサインであります。もしも、私たちの愛する人が、悪人ならば私たちの友情も、また、邪悪であります。なぜならば、この場合において、友情は善徳を基礎としません。従って、その目的は、必ずや空虚な長所、あるいは、なんらかの官能的快楽であるからであります。商人間に、現世的の利益を目的として作られる組合は、真の友情の模造品であります。この交際は、相手の愛のためではなく、利潤のためであるから。最後に、下に示す二つの聖言は、キリスト教的生活を支える二大支柱であります。その一は「賢者」のことば、「主を畏れる者は、真の友情を保つ。友もまた、彼と同じようにふるまうから」(集会書6・17)で、その二は聖ヤコブのことば「世の友となることが、神の敵となることだ」(ヤコブ4・4)であります。

外面的苦行について

フィロテアよ、少なくても、私は、人間を新しく改めるのに際して、まず外面から行い、顔貌・衣服・頭髪から始めることを、よいとしたことは断じてありません。私は、これに反して、内部から始めねばならないと考えます。主は、「心の底より自分に帰れ」「私の子よ、私にあなたの心を与えなさい」とおっしゃいます。心は行為の源泉であり、行為は心の反映であります。天配は霊魂に、「私をあなたの心に封印しなさい。あなたの腕が封印しなさい」と仰せられます。本当にそうであり、イエス・キリストを自分の心に保有しているものは、まもなく、この事実を、自分の外面的行為に現すようになるであろう。愛するフィロテアよ、これゆえに、私はなによりも、まずあなたの心に、「イエスばんざい」という聖句を彫ろうとしたのです。そうすれば、あなたの生涯も、あなたの心から出発し、この同じ助かりの文句が、あなたの行為に自ら彫られていることでありましょう。愛するイエスは、あなたの心におけると同時に、あらゆるあなたの行為の中に生き、あなたの眼にも、口にも、手にも、あなたの頭髪の末に至るまでも現れくださります。あなたも聖パウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2・20)と言えるようになるであろう。人間の心を征服した人は、その人全体を征服したのであります。しかし、清い信心と共に、深い知恵と賢徳とを示すために、この出発点である心さえも、どのようにこれを外面的に表現するかということについて知っておく必要があります。以下、このために私は二三の注意を与えたい。もし、あなたが大斉をすることができるならば教会の規定の斉日以外にときどき大斉するがよい。普通の大斉の効果は、精神を天主に向け、肉を抑制し、徳を行い、天国において、大きな報酬を受け取ることであります。しかし、なおその他、貪食を虐げ、五感の欲と肉体とを、霊の律の下におく能力を有するのは、極めてよいことであって、こうすれば、たとえ、実際に大斉を守る日数が少なくても、悪魔は私たちに断食するだけの気力があることを知って私たちをますます恐れるようになります。水曜日、金曜日、土曜日は、古代の信者が、しばしば、苦行を行った日であるから、あなたもあなたの信心の熱望と、あなたの指導者の判定とに従って、これらの日に大斉をしたならばよいでしょう。聖イエロニモは、レータ夫人に書き贈って、「青年が、長期間の過度の大斉をするのは、まったく不賛成であります。経験によれば、子ロバは途中疲れて、わきに行こうとします」と言ったが、私も本当に同感であります。これは、青年たちが、過激の大斉で体を壊して、その反動として美食を選ぶようになる、との意味であります。鹿はあまり肥満しても、また、あまり痩せていても、早く駆けることができません。私たちも、あまりの美食を摂っている時、および、その反対に、あまり体が披露している時に、誘惑に陥りやすいものであります。一方に、安逸は体を怠惰とし、他方に、困憊は失望の源になります。体は、あまり太っていても、また、あまり痩せていても、私たちの意に従いません。大斉、むち、毛肌着などの苦行は中庸を失うことは(愛徳の務めに用いることができる)、多くの人々の貴重な歳月を失う理由であります。聖ベルナルドさえも、過度の苦行を後悔されました。最初に虐使すると、それだけ、後に体をいたわらねばならなくなります。それよりも、最初から自分の境遇、義務にふさわしい、平等の待遇をした方が賢明であります。大斉も、労役も、共に肉身を抑制し、これを責めます。ゆえに、もしも、あなたの労役が、あなたに必要な業であるか、あるいは、天主の光栄のためにはなはだ有益な業であるならば、私はあなたが大斉よりも、労役の苦を忍ぶ方がよいと考えます。これはまた、教会の意見でもあります。教会は、天主のため、あるいは、隣人の為に、必要な任務に服するものには、掟として規定した大斉さえも免除する。大斉して苦行する人と、病人を看護し、衆人を訪問し、告白を聞き、説教し、困窮の人を助け、祈るなどの苦をしのぐ人と比較すれば、後者の苦は前者の苦より貴重であります。なぜならば、同じく体を責める以外に、後者は、なお、いろいろの有益な仕事をするからであります。なお、一般に、必要以上の体力を貯えておくのは、必要以上にこれを損なうよりもよい。有してさえいれば、欲するときにこれを減じることができますが、一旦、失ったものを、欲する時に補うことは、必ずしも可能でないからです。私たちは、救い主イエス・キリストが弟子たちに仰せられた。「あなたたちに出される物を食べなさい」(ルカ10・8)との御言葉を、大切にしなければならないと思います。私は、常に最も粗悪なものを選ぶよりは、少しも選択することなく、好みの有無に関わらず、与えられたものを与えられた順序に食する方が、さらにすぐれた行いであると信じます。常に粗食するのは、より大きな苦行のように見えますが、第二の方法は、自分の好みと共に、さらにその選択権をも捨てるのであるから、もっと自己の意志をないがしろにすることとなります。また、自分の好みを偶然に与えられたものに全く従わせるのは、苦行としても決して軽視すべきではありません。かつ、この種の禁欲は、人目に立たないで、他人の迷惑とならず、なお、社交上の礼儀を少しも損じない利益があります。ある肉を退けて他の料理に代えたり、一皿ごとに改めて、小言を言ったり、もったいぶったりするのは、食いしん坊でぜいたくな人であります。聖ベルナルドは、水、または、ブドウ酒を誤って、油を飲んだと言うが、この方が、わざと苦草を混ぜた水を飲むよりも、心惹かれます。なぜならば、それは、聖者が、飲み物に気を留めていなかった印であるから。そうして、この飲食の無関心こそ、かの「あなたたちに出される物を食べなさい」との御言葉の完全な実行であります。ただし私は健康を害し、あるいは精神を鈍らせるある種の食物、非常に香料の強い辛い肉、腹にもたれる食物などにつき、また、天主の光栄のために働くために、体を養い、労わらなければならない場合などを除きます。継続的にして中庸を得た制欲は、時々怠惰を交える間欠的な過度の大斉にはるかにまさるのであります。鞭はこれを適度に用いれば、敬虔に対する熱心を覚醒するために、不思議な効果があります。毛肌着は体を苦しめる力が強いが、これは通常、結婚生活を営む人々、または、虚弱な人、または、その他の激しい労役に従事している人々には不適当であります。しかし、苦行・贖罪の特別に前もって定めた日には、慎重な聴罪霊父の指導のもとにこれを用いてもよい。各人、自分の体力に応じて、日中よく働くに必要なだけは、夜間に十分に睡眠をとるべきであります。聖書も、しばしば、早起きを勧めます。また、聖人たちの模範、および、世全の理性も、共に早朝を、一日中の最も貴重にして有益な時間であるとし、また、聖主を朝日と呼び、聖母をあけぼのに例えるからしても、朝早く目覚めて起き出すことができるために、晩に早く就寝に入るのは、修徳のために肝要であると思います。早朝は、最も快く、最も楽しく、かつ、最も静かな時であります。小鳥さえも、目覚めて天主を賛美しなさいと、私たちを促してくれます。早起きは、健康にもいいし修徳にも大切であります。バラアムが、ロバに乗って、バラアクのもとに行ったときに、ひそかに、不正の意志を抱いていたので、エホバの天使は、彼を殺そうと、剣を抜いて道に待ち構えていました。ロバは天使の姿を見ると、三度までも後ずさりしましたが、バラアムはそれを知らないで、杖を上げてロバを打ちました、三度目に、ロバはバラアムを乗せたまま、ひざを折り、大きな奇跡によって口を開きました。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは」と。この時、バラアムの眼は、すぐに天使の姿を見ました。天使が言うには、「なぜ、あなたのロバを打ったのか。もしロバが私を避けなければ、私は、今はもうあなたを殺して、ロバを生かしておいたことだろう」と。この時バラアムは答えて、「主よ、私は罪を犯しました。私は、あなたが私をとどめようと道にたちふさがっておられたのを知りませんでした」(民数記略22)と。フィロテアよ、バラアムは、自分が罪の源であったくせに、なんの関係のないロバを打つのであります。私たちにも、しばしば、このようなことがあります。たとえば、一夫人は自分の夫、あるいは、愛する子の病に際してダビデ王が、これと似た場合にしたように(列王記略2・12・16)、大斉をしたり、にわかに毛肌着をつけたり、鞭を用いたりします。しかし、友よ、あなたは哀れなロバを鞭打ちしているのです。あなたは、しきりに、あなたの体を責めているが、しかし、天主が、怒りの剣を抜いた原因であるあなたの罪は、体の知ったことではありません。あなたは、偶像に対するように、夫を大切にし、あるいは、子供の無数の悪癖を見過ごし、彼を、傲慢・虚栄・野心者にさせた、あなた自身の心を正さないといけないのであります。また、ある男子は、しばしば、邪淫の大罪に陥ります。自責の念が剣を抜いて、自分の良心に迫り、聖なる恐怖をもってこれを貫こうとします。突然、彼は、我に返って、「肉の悪魔よ、反逆者である体よ、あなたは私を裏切った」と叫んで、肉体に呵責を加え、これに激しい断食、猛烈な鞭打ち、無法な毛肌着を命令します。憐れむべき霊魂よ、もし、あなたの肉体が、バラアムのロバのように、口がきけたならば、次のように言うだろう。「愚か者よ、なぜ、あなたは私を打つのか。私の霊魂よ、天主がお怒りになっているのは、あなたに対してである。あなたこそ罪人であります。どうして、あなたは私を邪悪なる人々の集まりに導くのか。どうして、私の眼、私の手、私の唇を不義に用いたのか。どうして、悪しき空想を描いて私を苦しめるのか。よい思いを抱きなさい、そうすれば、私は悪事をしないでしょう。正しい人々と交われ、そうすれば、私に邪念は刻まれることはないでしょう。私を火中に投げたのはあなたなのに、あなたは、私が焼けないことを望み、あなたは私の眼を炎で満たして、こうして、なお、その燃えないことを願っています」とあなたに言うであろう。皮膚病を治療するのに、血液を清め、内臓を冷やせば、皮膚を洗浄するのは、さほど必要ではありません。私たちの罪悪を癒すために、肉体を苦しめるのもよいが、しかし、私たちの感情を浄化し、私たちの心を冷やすのが急務であります。なお、万事につけ、また、いつでも、身体の苦行は、私たちの指導者の許可の下にのみ行わないといけません。

 談話と沈黙について

他人との談話を求めること、および、これを避けることは、今、私があなたに説明をしている、在俗の信心においては、非難すべき両極端であります。談話を避けるのは、他人を軽蔑する理由であり、また、これを求めるのは、怠惰、無為の表れであります。私たちは、自分を愛するように、他人を愛さねばいけません、他人を愛することを証明するために、彼を避けてはいけません。同様に、自分を愛することを証明するためには、一人で居ることを嫌がってはいけません。聖ベルナルドが言うには、「まず自分のためを思い、それから、後に、他人に及ぼしなさい」と。それゆえ、談話は一人でいて、あなた自身の心と自ら語るといいでしょう。しかし、もし、他人があなたを訪ねて来たり、あるいは正当な用事で、他人を訪問しないといけない時には、フィロテアよ、天主のみ旨に従って快く行き、親切に他人と対談しなさい。邪悪な談話とは、邪悪な目的を有するもの、あるいは、これに加わる人が、邪悪にして慎みを欠くものであります。丁度、ミツバチがアブや山バチを避けるように、あなたは、このような談話を避けなければいけません。狂犬に噛まれた人は、汗や、息や、唾液に毒を交えて、とくに少年、または、虚弱な人には危険でありますが、邪悪な不品行な人との交際は、とくに、敬虔生活においてまだ幼く、か弱き人々にとって非常に危険であります。まじめな仕事の間の気晴らしになるというだけで、精神を休ませる以外に、全く無用な雑談があります。もとよりこれにふけってはいけませんが、休憩時間は差し支えありません。また、正しい談話があります。それは、相互の訪問、または、ある人に祝意を表するための会合などです。このようなものは、これに溺れてはいけませんが、全くこれを避けるのは失礼です。だから、粗野と軽薄との両極端を嫌い、私たちの義務を果たすために、適度にこれを実行しないといけません。最後に、敬虔にして有徳な人々の間でとり交わす有益な談話があります。ああ、フィロテアよ、このような談話をしばしば聞くことは、常に大きな利益であります。かんらんの樹の間に植え込まれたブドウは、オリーブの風味を有する気高い実を結びます。しばしば、有徳な人々と交われば、その美徳を分配せざるを得ません。大きなハチは、一人では蜜を作れませんが、ミツバチと共ならば、これができます。敬虔なる人々の談話を聞くのは、私たちが信心の道に進歩するために、非常にためになります。いかなる談話に際しても、単純・素朴・柔和・謙遜は常に守らないといけません。あらゆる表情・動作に際して、極端に人工的で、相手に不快の念を抱かせる人がいます。歩くにも、ものを言うにも、きざでたまらない人がいます。このような技巧家は、談話を不愉快にし、同時に、彼ら自身のうちの傲慢心・虚栄心を暴露するにすぎないのであります。また、私たちの談話には、常に適度の喜びが混じらないとなりません。聖ロムアルド、ならびに、聖アントニオは、厳格な苦行にもかかわらず、喜び・快活・親切が、顔色にも、言葉にも溢れていたので有名でありました。私は聖パウロにならって、喜ぶものと共に喜べと言います。確かに、使徒は言いました。「主において常に喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(フィリピ4・4,5)と。主において喜ぶためには、あなたの喜びの源は、正しく、かつ、遠慮しないことを要します。(私がこういうのは、正しくても、遠慮することがらがあるからです)。また、あなたの穏やかで、素直なことが知られるためには、非難すべき傲慢・無礼を避けないといけません。他人を陥れたり、讒言をしたり、その他、他人の感情を害するいたずらや皮肉を言うのは無礼であり、悪い趣味であります。人々と談話をしている際にも、心の一隅に隠れ家を作って、そこに逃れることができるのは、前編ですでにあなたに説明した通りでありますが(第2篇12章)、それだけではなく、あなたは、本当の孤独をも愛さねばなりません。それは、決して、エジプトの聖マリア、聖パウロ、聖アントニオ、アルセニオ、その他の修道士にならって、砂漠に隠遁することではありません。ただ、ある部室の中、あるいは、庭の中などにおいて、自分の望むままに、心静かに、よい思念、または聖なる黙想にふけり、あるいは、霊的読書をして、あなたの霊魂を休ませることであります。ナジアンズの偉大なる司教、聖グレゴリオは、「私は、太陽が沈むころになると、訪客を謝して、一人で海岸に時を過ごした。私は、こうして、私の心を休め、日常の苦労を忘れるのが常でありました」と言いました。そうして、私が、かつてあなたに話した、よい思いを作ったことを書き記しておられます(第2篇13章)。あなたも、そのようにすればいいでしょう。また、聖アンブロジオも、よい模範です。聖アウグスチノの記したところによれば、この聖人が、聖アンブロジオの部屋に入ってみると(誰でも入室を許されていたので)、しばしば、聖アンブロジオは、読書をしておられたので、このような場合、しばらくの後に、聖アウグスチノは、彼を煩わせるのを恐れて、一言も発せずに辞去するのが常でありましたが、それは激務の後に、この偉大なる司教(聖アンブロジオ)が、精神を強め、かつ慰められるために有せられる、短い自由時間を奪うのに忍びないためであったと。ある日、使徒たちが、彼らの説教と労役とを告げ申された時に、聖主も、「静かなところに来てしばらく休むがよい」と仰せられました。

服装に関する注意

聖パウロは、敬虔な婦人が、(男子もまたそうであるが)、相応の衣服をまとい、羞恥と節制をもって、身を飾ることを教えられた(テモテ前2・9)。適切な衣服・装飾とは、そのものの品質・形、および、その清潔さに関しています。私たちは、常に、衣服を清潔に保ち、できるだけシミをつけないようにしなければいけません。外の清潔は、内心の純潔の象徴であって、天主も、その祭壇に近づき、信心の主要なる任務をつかさどるものに、体の清浄をお求めになるのであります。衣服の品質、ならびに、形についは、時期・年齢・地位・話し相手・機会の異なるにつれて、相応ということも違うのであります。一般に、祝日には、祭式の大小に従って装飾します。四旬節のような悔悛の期間には、きわめて質素を守ります。結婚式や、葬式には、適切な礼服を着ます。貴人の前に出る時には礼儀を整え、家庭においてはゆったりとくつろぎます。妻は、夫と共にある時には、夫の好みに従って容姿を作らないといけません。しかし、夫の不在に身を飾れば、誰かに媚びるために尽力したと怪しまれるであろう。乙女たちにも、化粧を許してよい。もとより、ただ一人を清い結婚のために選ぶのが、その目的であるが、その手段として、多数の人に歓心を得ようとするのは差し支えないことであるので、再婚の意志がある未亡人が、適当に身を飾るのも悪くはありません。しかし、これらは、すでに一家の主婦であり、かつ、夫に死別した悲しみを経験したものとして、また、それゆえに、十分に鍛錬を経て、辛苦をなめてきた心の所有者として、他人に扱われるので、浮薄軽佻な身なりをしてはいけません。これに反して、心身ともに真の未亡人は、謙遜と、節制と、敬虔の他には、いかなる装飾もふさわしくありません。彼女が、いまだ、男子を愛する希望を有するならば、彼女は真実の寡婦とは言えません。もし、男子を顧みないつもりならば、男子にこびるための装飾品を、なぜ、所有するのか。宿屋を辞めたならば、看板を外さねばなりません。年寄りが着飾るのは、他人の嘲笑を招くのみであります。装飾は、若い日に限られる事であります。フィロテアよ、さっぱりしなさい。ふしだらな、怪しい服装をしてはいけません。不愉快な身なりで、他人を訪ねるのは、その人に対して失礼であります。しかし、また、凝りすぎたり、めかしすぎたり、または、見慣れない身なりをしてはいけません。常に、できるだけ、簡素に、控えめにしなさい。これが、すべての女性とっては最上の飾り、最善の装いであります。聖ペトロは、主として若い女に、髪を縮らせたり、金の飾環をつけたりすることを禁じました(ペトロ前3・3)。このように華美な虚飾を喜ぶ人は、男子ならば、他人から女々しいとあざけられ、婦人ならば、貞操を疑われます。たとえ、真に貞潔なる人でさえ、その貞徳は、虚栄と華美とのなかに埋没してしまします。あるいは、悪い気でするのではないと弁解しても、私に言わせれば(他のところでも言った通り)当人はともかく、悪魔は絶えず悪計をめぐらしているのであります。私は、自分の指導する敬虔な男女が、人々の中で、一番よく服装を整えていると同時に、華美を避けることについて、一番まじめであって、箴言にもある通り、聖寵と慎みと品格で、身を飾っていることを切望する次第であります。聖ルイ王は、このことについて、次のように言いました。「婦人は当然自分の地位、境遇に従って身を飾らないといけません。すなわち、賢明にして善良なる人々に、『あなたは身を飾りすぎる』とも批評されず、また、青年には、『あなたは大して気にならない』とも言われない程度の服装をしなさい。もし、青年らが慎み深い服装を喜ばない時は、単に賢明な人の勧めに従いさえすればよい」と。

談話について、いかに天主のことを語るべきか

医者は舌を見て、その人の健康の良否を知るが、私たちの談話も、また、私たちの霊魂の有様を示す良い指針であります。救い主も、「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ12・37)と仰せられました。疼痛の場所には、自然と手を送り、愛好することは自ら言葉に出るものであります。フィロテアよ、もし、あなたが真に天主を愛するならば、あなたは、家族や友人との話の間にも、しばしば天主について話すであろう。なぜならば、「義人の口に知恵を思い、その舌は正義を語る」(詩編36・30)からです。ミツバチが、その小さい口ばしで、蜜以外のものに触れないように、あなたの舌も絶えず天主のみ名を呼び、かつ、あなたの唇から、天主のみ名の賛美と、祝福とが流れ出ることを最大の幸福と感じるに至るであろう。聖フランシスコは、救い主の御名を唱えるごとに、世の中で最も甘味のものを味わうように、心がときめいたそうです。しかしながら、天主のことを語るには、天主をふさわしく語らなければなりません。すなわち、尊敬と信心を失わず、また、高慢にならず、説教口調を用いないで、かえって、柔和と、愛徳の念をもって(雅歌の乙女のように)天主の御事、および敬虔の言葉のかぐわしい蜜を、一滴ずつ、聞くものの耳に注ぎ、同時に、あなたに、霊魂のうちで、天主に、この天国の甘露を、彼の心の奥までに染み通らせてくださいと祈らねばなりません。天使にふさわしいこの務めは、柔和・慈しみをもって行うべきで、決して聞くものを叱責しないで、かえって、彼を導くようにするのが肝要です。よいことを、静かに、穏やかに、話すのが、人々の心を、これにひきつけるために、いかに有力であるか、驚くべきことを引き起こすことがあります。天主に関し、信心に関して、話をする時には、形式的、あるいは、ふまじめであってはいけません。必ず、熱心に、かつまじめに話をしなさい。また、敬虔をもって自負している人々のなかに、つねに、きまり文句のように、少しも注意せず、神聖な信心の言葉を口にし、かつ、言うだけで、(実際はそうでなくても)、もはや自分はその通りの人間だと自惚れている人がいますが、このようなとても愚かなことを倣わないように、私はあらかじめ注意をしておきます。

会話において慎みを失わないこと、および他人に対する尊敬について

聖ヤコブの言葉に、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(ヤコブ3・2)と。一言たりとも、慎みを欠く言葉は、決して言ってはなりません。たとえ、言っているあなたに邪念がなくても、聞く人はこれを悪く解することがあります。か弱い心に落ちた慎みを欠く言葉は、布の上の一滴の油のように、周囲に広がって、時として、全く、その人の心を捉え、無数の誘惑・邪念の源になることがあります。体の毒は口から出て、心の毒は耳から入ります。この心の毒を生じる舌は、真に人を殺す毒舌であります。たとえ時として、聞くものの心に毒消し薬の備えがあるために、その毒力を十分に発揮しないよう場合にも、人を傷つけなかったからとして、罪過を免れることはできません。そのつもりでなかった、との弁明も無駄であります。人の心の底を知っている聖主は、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ12・34)と仰せられました。また、仮に、私たちに、邪念がなかったとしても、悪魔は抜け目なく、これらの悪い言葉を使って、密かにだれかの心を貫くのであります。天使草という草を食べると、芳しい快い息がするように、天使的聖徳である慎み、または、潔徳を、心に宿す言葉は、常に明瞭・ていねい・純潔であります。不潔にして、愚かな事物は、その名すらも、これを口にするなと、使徒聖パウロは、邪悪な談話が、いかに善良なる風俗を乱すかを教えられました。悪い言葉が、巧みに密かにささやかれる時は、特にはなはだ有毒であります。あたかも、剣の先鋭になるほど、たやすく人を貫くように、悪い言葉も巧みなるほど、ただちに私たちの心に入るのです。話に際しては、この種の言葉を言うのが通人だと信じるものは、交際の目的を解さない徒であります。この交際は、快い善良な話によって、蜜をつくるミツバチの群れのようにして、腐敗物に群がる山バチの集まりであってはいけません。もし、愚か者があなたにぶしつけな言葉を言ったのならば、あるいは、これに答えないで、あるいは、他の適当な方法で、あなたがそれを不快に感じることを言葉に表す必要があります。皮肉を言い、他人を嘲弄するのは、最も憎むべき精神状態の一つであります。天主は、この罪を嫌いなことは、特にはなはだしく、かつて、これを不思議な方法で罰しました。他人の嘲弄・軽蔑ほど、愛徳に背き、また特に信心を傷つけるものはありません。嘲弄・皮肉は必ず、他人の軽蔑を伴うから、はなはだしい大罪であります。神学者の説によれば、嘲弄は、言葉で他人を傷つける罪の中で、最も憎むべき罪であります。なぜならば、他の罪は、相手を無視するために犯されるが、この罪だけは、かえって、相手の軽蔑・無視より発するからであります、と。人々が、無邪気に、しかも、愉快に、喜ばしく冗談を言い合うのは、ギリシア人が「ユゥトラベリー」と称した徳に属し、「陽気な会話」とでも訳すべきであろう。これは、人々の失敗や落ち度から生まれた滑稽を種にして、打ち解けた冗談を交わして、笑い興ずることであります。ただ、この愉快な冗談が、嘲弄・皮肉を堕さぬように注意しないといけません。嘲弄とは、他人を軽蔑して冷笑することでありますが、冗談とは、親密な人々が、無遠慮に軽妙な言葉で戯れることであります、聖ルイ王は、ある日、晩餐の後に、ある修道士の話しをさえぎり、周囲の貴族たちを顧みて、「今は議論をする時間ではなく、うちくつろいで戯れる時です。誰でも面白い話をするがいいでしょう」と言われたそうであります。しかし、フィロテアよ、今、うちとけてくつろいで楽しむのはいいが、敬虔を傷つけ、永遠を失わないように注意しようではないか。

秩序のない軽率な判断について

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」(ルカ6・37)とは、私たちの霊魂の救い主の御言葉であります。また、使徒聖パウロも、「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(1コリント4・5)と言いました。秩序のない軽率な判断が、天主の聖心に背くことは、どれほどであろうか。人は、互いに、他の裁判者ではありません。他を裁くとき、彼らは聖主の権を奪ったために、その判断は秩序なく軽率であります。罪の憎むべき理由である意志と目的は、私たちにとって隠れた秘密であるために、これにもかかわらず、あえて他を裁くとき、私たちの判断は秩序なく軽率であります。また、私たちは他を裁くよりも、むしろ自分を省みないといけないために、これにもかかわらず、あえて他を裁くとき、私たちの判断は秩序なく軽率であります。かつ、他人を裁かないことは、自己を裁くことと相まって、死後の審判を免れるための要件であります。聖主は、親しく前者を禁じ、使徒聖パウロは、「わたしたちは、自分から裁かないならば、裁かれはしません」(1コリント11・31)と、後者を命じています、ああ、天主よ、それにもかかわらず、私たちはその正反対のことを行い、禁じられたことを辞めず、自らを裁くべきとして命じられたところはかつて一度も実行しないのであります。秩序なく軽率な判断は、当然、その根本にさかのぼって、正さないといけません。たとえば、生来几帳面な人は、すべてをことごとく四角四面に見て、預言者アモスの言葉のように、正義を苦草と化し(アモス6・13)、常に厳格に他人を裁きますが、このような人は、その心の苦みが天性より出ているだけ、なおさらこれを癒すことが困難であって、特にすぐれた霊魂の指導者を得ることが必要です。このような人々の天性は、その自身において罪ではなく、むしろ欠点ですが、自分の霊魂に秩序なく軽率な判断、および誹謗の悪習慣を招き入れる危険があるので、真剣に自らを改めねばいけません。また、ある人々は、厳格な天性に基づくのではなく、傲慢心のために、秩序なく軽率な判断をくだすことがあります。すなわち他人の名誉を傷つけることを、自己の名誉をあげる理由と信じる傲慢・虚栄の人は、常に自己を賛美し、自己を誇り、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(ルカ18・11)と言った、あの愚かなファリサイ人のように、他人を、ことごとく低級卑賎のもののように見下します。さらに、ある人々は、この明白な傲慢心はありませんが、他人の欠陥を思うごとに、一種の密かな快感を抱きます。これは、自分に才能があり、またその反対の美徳を所有すると信じ、これを自ら快く味わい、他人にも味合わせようとすることに行き着きます。しかし、この快感は意識下に潜在しているためによく注意しないと自覚できません。そのために、この悪癖がある人は、他人に注意されて、初めてこれを悟るほどです。また、ある人々は、自己にへつらい、自己を弁護するために、あるいは、自分の良心の呵責を免れるために、好んで、他人も、自分と同じ、あるいは、同一程度の他の罪悪を有すると判断します。すなわち犯罪者を増やして、自分の罪悪を庇護しようと努めるのです。また、ある人々が、秩序なく軽率な判断をあえてするのは、人情の機微を通じて、人の心の表裏を察しようという、一種の心理解剖的な興味のためであります。不幸にして、彼らの判断が的中することがあれば、その興味・嗜好はますます高まって、中途にやめることがとても困難になります。また、あるものは、情欲のために、秩序ない軽率な判断をします。自分が愛する者は常に善良で、自分の嫌う人は常に悪人であります。ただし、時として、過度の愛のために、愛人を裁くときがあります。一見、不思議に思えますが、しかも真実な、この奇怪な結果は、不純不安なる病的愛欲より起こる嫉妬の現象であって、とるに足らないことから、不信呼ばわりをしたり、夫、あるいは、妻の貞操を疑ったりするものがあることは、誰にも周知なことであります。その他、恐怖・野心等、種々の精神の欠陥が、疑惑および秩序ない軽率な判断の原因となることもしばしばあります。そうならば、いかにして、これを癒すべきか。エチオピアに生えるオフィウサという草の液の毒にあたると、蛇、その他の恐ろしいものの幻影が見えます。この病を癒すには、しゆろ酒を飲むとよいそうです。そのように、傲慢・嫉妬・野心・憎悪等を飲み込んだ人は、見るもの聞くもの、ことごとく非難の材料になります。このような人は、必然的にできるだけ多く、愛徳の聖酒を飲まないといけません。そうすれば、この誤った判断の源である、あなたの邪念が癒えるでしょう。愛徳は、他人の悪を見ることすら避けます。わざわざそれを暴露するどころではありません。不幸にして、悪に会う場合には、脇を向いて知らないふりをします。悪に近づくと、よく見えないなかに目を塞ぎ、聖なる単純な心をもって、それは悪ではなく、その幻に過ぎなかったと信じます。どうしても、悪であると認めるのが仕方ないときも、すぐに顔を背けて、それを忘れるように努めます。愛徳は、一切の悪事の良い薬であるが、特にこの悪癖に対する最良の薬であります。黄疸を病んで黄色くなった人は、何を見ても黄色く見えます。この病を癒すには、足の裏にくさのそうという薬を張り付ければいいです。みだりな判断の罪は、精神的黄疸症で、これにかかった人には、全てが悪く見えます。そうして、これを癒すためには、薬を眼(すなわち理性)につけないで、霊魂の足(すなわち、感情)につければいいです。あなたの感情が柔和ならば、判断も柔和になり、それが愛徳に満ちたならば、あなたの判断も、また愛に溢れるであろう。私は、あなたに三つのすぐれた実例を示します。イザヤは、レベッカを自分の妹と称していた。ところが、アビメルクは、ある日、イザヤがレベッカと戯れ、彼女を愛撫する様子を疑って、直ちに夫婦であると認定した(創世記26)。邪悪の人が、このような光景を見たならば、必ず、両人が、恥ずべき罪を犯していると信じたであろう。しかし、アビメルクは、この事実に対して、最も好意ある解釈を下しました。フィロテアよ、私たちも、このように、他人を裁くのに、できるだけの好意をもって、事柄が百種の異なる姿を有すれば、その最も美しい姿によって、これを見ないといけません。次に、聖マリアが懐胎されたとき、聖ヨゼフは、この事実を明らかに認めたが、しかし、彼は一方に、聖童貞女の至聖・至純・至潔であることを熟知していたので、彼には、この懐胎が罪悪の結果であることを、信じることができませんでした。だから、ヨゼフは、そのままマリアを去って、天主のご審判にまかせようと決心しました。この童貞女に対して、疑いをはさむべき根拠は深かったにもかかわらず、彼は彼女を裁こうとしませんでした。なぜであるか、聖霊がいうところによれば、彼は義人であったからです(マタイ1・19)。義人は自分が信頼する人に対して、疑惑を生じて、その事実、およぼ、その意志について、弁解できない際にも、あえてこれを審判しないで、かえって天主に委ねます。最後に、十字架上における聖主は、主を磔に処した人々の罪を、広く行きわたらせざるを得なかったが、少なくともその罪過の軽減のために、彼らの無知をあげました(ルカ23・34)。私たちも、他人の罪を弁解できない時には、無知・か弱き等の、最も酌量しやすい理由を求めて、少なくても、これを憐れむようにしないといけません。そもそも、私たちは、決して、他人を裁いてはならないのであろうか。そうです、フィロテアよ、罪人を正義に従って裁くのは、独り、天主のみであります。しかし、法官は、要するに、単なる通訳、あるいは、説明者にすぎないので、天主の命じなさりところと、確信することのみを宣すべきであります。もし、そうでないならば、自分の感情に従って裁いたならば、すなわち、自分を裁判者となし、他日、天主に裁かれるもとになります。なぜならば、人間は他人を裁くことは厳禁されているからです。ある一事を見て、あるいは、認めるのは裁くのではありません。審判とは、少なくても聖書の語法では、そこに小なり、大なり、あるいは、真実なり、外面的なりの、判断の困難が存在する場合に限るのです。「信じないものは、すでに裁かれている」と聖書にあるのは、不信者の滅亡には疑問の余地がないからです。また、他人に疑惑をはさむのは必ずしも罪ではありません。禁じられていることは、裁くことで、疑うことではありません。しかしながら、正当な疑惑は、その根拠、あるいは、理由がある時に限るのであって、そうでないならば、その疑惑は、秩序ない軽率な疑惑と言わねばなりません。ヤコブがラケルを井戸の傍らで接吻したとき、(創世記29)あるいはレベッカが未知の外国人であるエリエゼルから、腕輪や耳飾りをもらったのを(創世記24)邪悪な人がうかがったならば、必ずや、なんの根拠も、理由もなく、貞操の権化と言ってもいいこの二人を疑ったであろう。それ自身において、善悪のいずれにも属しないとき、他になんらの疑うべき有力な理由が存在しないにもかかわらず、これを悪く解釈するのは、秩序ない軽率な疑惑です、また、このような行為から、直ちにその人を誹謗するのは、秩序ない軽率な判断であります。しかし、このことについては、私はもっと詳しく説明するつもりであります。なお、自分が良心を真によくはぐくむ人が、秩序ない軽率な判断の罪に陥ることは、きわめてまれであります。あたかもミツバチが、もやの深い日には、自分の巣に閉じこもって、蜜をこしらえているように、義人は、不明の事件あるいは、隣人の不可解な仕事に、好奇心の眼を見張らないで、かえって、自分の心中にこもり、自己の進歩のために必要なよい思いを練るからです。他人の生活を、かれこれと詮議して喜ぶのは、無用の怠け者のことであります。しかし、家庭なり、一国なりで、人々の監督の任に当たるものは例外であります。このような任務を有するものの義務は主として、他人の良心を監視するにあるからです。ただ、このような人々も、愛をもって、その任務に尽くすべきで、なお一層、自己を顧みて、慎まなければいけません。

誹謗について

秩序のない軽薄な判断は、自分の心の中の不安・隣人の軽蔑・傲慢・自己満足、等々、無数の悪結果を生じますが、その中でも、誹謗は、交際の真の悪性の流行病であり、あらゆる悪結果の首位を占めるものであります。預言者イザヤの唇を清めたセラフィンのように(イザヤ6・6,7)、私もまた、天主の祭壇の燃える炭火をとって、人々の唇に触れて、彼らの不義を焼き尽くし、彼らの罪を拭い去る術があるといいのに。世の中の誹謗を絶やすことができたならば、その罪悪と不義との非常に大きな部分を除くことになるだろう。他人の名誉を不正に傷つけた人は、犯した悪を償うほかに、誹謗の軽重に従って、その人の傷つけられた名誉を償わないといけません。たしかに、どんな人であっても、他人の所有物を自分のもののように扱い、そのまま天国に入ることはできません。そうして、人間の外面的所有物の中、名誉は、最も貴重なものであります。また、誹謗は、一種の殺人罪であります。私たちは、もともと、三種の生命を持っています。そのうち、霊的生命は天主の聖寵に存在し、肉体的生命は霊魂に存在し、社会的生命は名誉に存在しますが、罪は第一の生命を奪い、死は第二の生命を滅ぼし、誹謗は第三の生命を殺します。さらに、誹謗者は舌を用いて、同時に、三重の殺人罪を犯すのが普通です。すなわち、聞くものと自分の霊魂を殺して、二つの霊的殺人をし、同時に、そしられる人の社会的生命を殺すからです。聖ベルナルドのことばに、「誹謗するものも、これを聞くものも、共に、悪魔につかれている。ただし、一人はこれを舌に、他は耳に宿している」と。ダビデ王は誹謗者について、「彼らは蛇のようにその舌を鋭くし」(詩編140・4)と言いました。アリストテレスによれば、蛇の舌端は、二つに別れているそうでありますが、また誹謗者の舌もその通りで、一撃で同時に聞くものの耳を害し、かつそしられる者の名誉を損なうのであります。愛するフィロテアよ、ですから、あなたは、直接にも間接にも、他人を誹謗することをしてはいけません。あるいは、隣人に無実の罪を負わせたり、その隠された罪を暴いたり、また、一般に知れわたっている罪でも、これを誇張したり、また、善行を、悪い様子に解したり、あるいは、ある人が有する美徳を否定したり、これを悪意によって隠したり、または、言葉をもってけなしたりなどしては決していけません。このようなものは、偽りの証拠をたて、他人を傷つけるために、とても大きいものがあります。誹謗するために、まず、これを褒めそやし、あるいは、皮肉や冗談のようにして他人をそしるのは、最も巧みで、かつ、毒を含んだやりかたであります。たとえば、「私は、あの人を真に敬愛します。あの人は実によい人だ。しかし、真実は言わなければいけません。彼は、このような不信の行為をあえてした」「あの娘はまじめな娘だ。しかし、ちょっと油断があった」などの類であります。あなたはこの狡知に気づかないのか。射る人は、弓に矢をつがえて引きしぼるが、これは威勢よく射出すために他なりません。最初に褒めるのは、聞くものの心を貫くために、誹謗の矢を引き絞るのであります。皮肉は、あらゆる誹謗の中、最も残酷なものであります。ちん毒は、さほど激しい毒ではなく、その作用は緩やかにして、簡単にけすことができるが、これをブドウ酒に混ぜて飲めば、もはや施す術はありません。このように、耳から耳へ軽く抜けてしますような悪口も、軽妙な風刺となれば、いつでも、聞くものの記憶に宿ってしまします。ダビデ王は「その唇にマムシの毒を含んでいます」(詩編140・4)と言いました。マムシの噛み傷は、ほとんど気が付かないほどに小さく、また、その毒素も、むしろ、快いかゆみを起こすくらいであるが、やがて心臓をはじめ、その他の器官を弛緩して、中毒すると、一切の治療がなくなります。たとえ酔漢を見ても、「あれは大酒飲みだ」と言ってはいけません。また、たとえ姦淫の罪を犯していると知っても、「彼は姦淫者だ」と言ってはいけません。一回の行為は、その人に、このような名を与えるに足りないからです。太陽は、かつて、ヨズエのために止まったことがあります。また、聖主のために暗くなりました。しかし、太陽は動かないものだとか、暗いものだとかいう人はいません。ノアも、ロトも一度酒に酔ったことがあります。ロトは、その際に、邪淫の大罪さえ犯してしまいました。しかし、二人とも酒飲みではなく、ロトも邪淫の人ではありません。聖ペトロは、一度、剣で人を傷つけ、また、天主を冒涜しましたが、そのために、彼は血を好むとか、冒涜者だとか言うことはできません。罪でもあれ、徳でもあれ、それが習慣的になって、その傾向が増していく場合に、はじめて、その名をもって言うべきであります。一度怒ったり、盗んだりするところを見た人を短気者とか、盗賊と呼ぶのは、決して正しいことではありません。さらに、たとえ、ある人が長年月間、罪悪の生活を送っていたとしても、彼を悪人であると直ちに言うことは、必ずしも正しいことではありません。らい者ラモンは、マグダレナが、罪悪の生活に沈んでいたことを知っていたため、彼女を罪深い女と呼びましたが、しかし、それは真実を誤ったもので、マグダレナは、この時はもはや、罪の女ではなく、きわめて尊い痛悔女でありました。それゆえ、聖主は、彼女を弁護されたのです。また、あの愚かなファリサイ人は、神殿で祈る徴税人を、大罪人、おそらくは、不正漢・姦淫者・盗賊でもあろうかと考えました。しかしそれは誤りで、その徴税人は、この瞬間に、すでに義とされていたのです。ああ、天主の慈しみは測りがたく、聖寵をお与えくださるためには、ただ一瞬で足りると思えば、どうして、昨日の罪人を、今日もまたそうであると、言い切れるだろうか。昨日は、今日を判断するのに足りず、今日は、また昨日を裁くに足りません。人の一生を裁くのは、その最後の日ばかりであります。そうであるなら、私たちを悪人であると言う時、偽りを語る危険が常に存在します。もし、止むを得ないならば、私たちの言うことができるところは、彼は何々の悪事をした、いつごろ、不正の生活を営んでいた、現在も悪事をしている、とだけであって、決して、昨日をもとにして今日を判断し、あるいは、今日をもって昨日を推測してはいけません。ましてや、明日を想像することは不可能です。他人を誹謗するためには、きわめて細心であることを要しますが、その反対の極端に走って、誹謗を避けるために、悪事を賞賛してはいけません。もしも、真に誹謗の悪癖を持っている人があるならば、これを庇護するために、彼は淡泊でわだかまりがないと、言ってはいけません。また、明らかに虚栄の人がいるならば、彼を、気前がよいとか、行いが清らかだとか言ってはいけません。また、危険な馴れ馴れしさを単純・無邪気と呼んではいけません。不従順を熱心と称し、傲慢に正直の名を与え、卑猥を親愛の名で覆ってはいけません。いいえ、フィロテアよ、誹謗の罪を避けようとして、他人の罪悪を奨励し、あるいはこれに媚び、これを養うのは不可であります。当然、悪は悪であると正直に言い、非難すべきことは、非難しないといけません。これが、すなわち、天主の栄光をはかることになりますが、私は、これに、次の条件を加えます。他人の罪悪を非難して差し支えないのは、それが、非難される人の利益になる場合、あるいは、非難が多くの人々の利益になる場合であります。たとえば、少女の面前で、明白に危険になる甲の馴れ馴れしさ、あるいは、明白に淫らな乙の言葉・態度を非難するような場合であります。このとき、もし私が遠慮なくこれを誹謗しないで、かえって、その弁護をするならば、これを聞く若い人々に、類似の罪に陥る機会を与えることになります、それゆえに、このことを、もっと適当な時期に、あるいは、問題の人、甲・乙の恥辱とならないほかの機会に譲ることができなければ、即座にでも、少女たちの利益のために、はばからないでこれを非難する必要があります。なお、また、正当に誹謗するためには、私が責任ある地位にあり、たとえば、その一座の長者の一人であって、私が沈黙していることが、罪悪を黙認しているのに等しいというような場合に、始めて口を開くべきで、これに反して、もしも、私が末席にいるような時は、発言するべき筋合いではありません。とくに注意すべきことは、ある人を非難するのに当たっては、きわめて正確な言葉を用い、一語たりとも、言いすぎない様にすることです。たとえば、ある青年男女があまり馴れ馴れしすぎて、謹慎を欠き、危険であると信じて、これを非難するには、私は、きわめて細心な注意を払って、公平に処理をして、ほんの少しのことでも誤ってはいけません。たとえば、単に、それがそうと見えるというだけならば、私は、黙っていよう。単に、彼らの注意が足りないというだけでも、やはり、私は黙っていよう。また、注意の不足でもなく、悪の外観でもなく、ただ、単に、悪意の人の誹謗の種になるというだけで、あったならば、私は、全然黙っているが、そうでないならば、この事実を告げるであろう。他人を非難する時の私の舌は、あたかも、肉と神経を分ける、外科医の手の中にあるメスのように、その一言一句はきわめて正確で、事実にほんの少しも加えず、少しも減じないものでなければいけません。また、最後に、罪悪を非難する時と言っても、罪人自身は、できるだけ哀れまなければなりません。教会の宣告を受けた、公の明白な大罪人については、遠慮なく話していい。ただし、それも愛とあわれみの精神とから出るべきであり、冷笑・侮辱の態度、または、他人の罪悪を見て喜ぶという風であってはなりません。天主、および、教会の公然の敵、すなわち、異端・離教の頭目のようなものは、全くの例外で、このような輩は、極力、これを落とし辱めなければいけません。羊の群れに、オオカミが入ってきたならば、いいえ、オオカミの姿を見かけるやいなや、大声で叫びこれを追うのは羊に対する愛であります。よく人は、感情のほとばしるままに、他国民を誹謗し、または、他国の王を罵るものであります。フィロテアよ、あなたは、決してこの過失に陥ってはいけません。これは、天主のみ前に罪を犯すだけではなく、多数の争いの源になるからです。誹謗を聞くとき、もし、正当にそれができるならば、それに疑問を入れなさい。それができるならば、罪人を庇護しなさい。それさえも、不可能ならば、せめて私たちが罪を犯さないのは、全く、天主の恩寵の賜物であることを、あなた自身、ならびに、そこにいる人々に想起させて、柔和慈愛をもって、その罪人をあわれみ、また、もし、その人の美点を知っているならば、これを話すがいいでしょう。

談話に関するその他の注意

あなたの談話は、温和・率直・真率・明快・単純・正直にして、決して、曖昧・策略・偽りがあってはいけません。必ずしも、常に、一切の真を話すことは善ではありませんが、しかし、いかなる場合にも、真実に背くことは不可です。知りつつ他人を欺くことは、たとえ、それが弁解のためでも、また、そのほか、いかなる理由のためでも、これをしないように、習慣をつける必要があります。天主は、真理の天主でいらっしゃることを忘れてはいけません。心にもなく偽りを言った場合に、もし即座に、弁解、または、釈明をして、取り消すことができるならば、これをしないといけません。真実を語ることは、釈明するに当たって、虚言よりも、より美しく、より有力であります。ときとして、ある真実を、言葉の綾で隠し覆うことが、賢いほうもあります。しかし、これは、大事に関して、かつ、天主の光栄のために、または、天主に仕えるために、明白に必要な場合に限らなければいけません。それ以外では、巧みであることは危険であります。聖書に記されているように、天主の聖霊は、狡猾、偽りの精神に御宿りにならないため、いかにすぐれた愛すべき巧みと言っても、率直に勝るものはありません。世間的な賢明、肉的の計略は、この世の子たちのものでありますが、天主の子たちは、歩くのに曲がることのなく、真っすぐな心を持ちます。知者は言います。「真っすぐに歩く人は、心安らかに歩くものです」と。偽り・二心・仮装は、すべてか弱い賤しむべき精神の証拠であります。聖アウグスチノは、その「懺悔録」の第四編に、ある友人に関して、自分と彼とは唯一の霊魂であったため、友の死後は霊魂の半分を失ったように感じ、この世の生命は、寂しく・悲惨の極みであり、またもし自分が死ねば、友の生命をここに全く消滅するだろうと信じて、自分の死もはなはだしく恐れた、と書き記しました。しかし、後になって、彼は、これらの言葉がいかにも誇張であり、真実性に乏しいことを感じて、これをその「訂正書」の一巻のなかで戯れ言と呼んでいます。愛するフィロテアよ、ああ、聖にして美しいこの霊魂は、用語の誇張・虚飾に対して、どれほど敏感であったことであろう。本当に言葉の真実・明快・単純であることは、キリスト教的生活の大きな輝きでないといけません。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。・‥主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」(詩編39・2、141・3)とはダビデ王の祈りであります。「罪悪、もしくは、重大な害を黙認するようになる場合を除き、決して人と争ってはいけません」とは、あらゆる喧嘩・口論をさけるために聖ルイ王が与えられた教えの一つであります。どうしても、ひとに逆らいひとの意見を反駁しないといけない場合にも、相手の感情を損なわないように、大きな柔和とすぐれた知恵を用いることは大切であります。ことを荒立てるのは、なんの利益もないからです。昔の賢人たちが大いに推奨した「だいたいの言葉は少ないほうがよい」との教えは言葉数の少なさを命じるだけでなく、ひとえに、無用の話しを禁じたのです。言葉は、その量ではなく、その質を顧みないといけません。私の考えでは、そこに避けるべき両極端があります。堅苦しく厳格ばかりで、親しく受け答えしないのは、相手を信用していないか、あるいは、軽蔑しているかのように見えます。いつも一人で調子に乗って喋って、相手に、言いたいことを言う隙を与えないのは、考えが軽はずみで、浮ついているからであります。聖ルイ王は、他人の前で私語をし、とくに、食卓の列にしてヒソヒソと語るのは、陰口を言っているようでよくないと言いました。王の言葉に、「人々と共に食卓についている時に、なにか面白い話を持っている者は、衆人に聞こえるように話さないといけません。大切な用談は、話さずに黙っていなければなりません」と。

娯楽について、善良なる娯楽について

時として、私たちの心身を休ませるのは、とても必要です。カシアノ霊父の記すところによると、使徒聖ヨハネが、一日、小鳥を手にとまらせて、愛撫していたのを、ある猟師が発見したことがあります。猟師は、使徒が、尊い身を持って、どうして、そのようなつまらないことに、時間を費やしているかと疑わしく思いました。聖ヨハネは、「どうして、あなたは、始終、弓の絃を張っていることができますか?」と猟師に尋ねました。「始終弓をためておくと、いざと言う場合に、力が弱るからです」と猟師は答えました。「それと同じように、私が、時々、精神の緊張をゆるめて、少し休息するのも、後に更に新しい力を込めて、天主のことを思うためであるので、なにも怪しむことはありません」と使徒は話したそうであります。自分にも、他人にも、少しの休息をするのを許さないというのは、たしかに、厳格・野蛮な悪事であります。野外に出て、散歩し、友と愉快に語り合い、音楽を奏でて、歌を歌い、猟に出る等とは、少しも非難の余地がない娯楽で、程度を過ぎることなく、適当なときと、場所とを誤らずに、ほかの用事を疎かにしない限り、すなわち、普通の分別に従って楽しみさえすれば、差し支えありません。投球・打球・馬上遊戯・将棋のような、体、または、精神の働きで、優劣を争う勝負事は、それ自身において正当な娯楽であります。ただ、費やす時間、および、賞品の価値において、過度を避けなければいけません。これらは、あまり時間を費やしすぎれば、もはや、娯楽ではなくて、仕事となり、心身を休める代わりに、これを疲れさせます。五六時間も続けて将棋を指せば、精神は疲労の極致に陥り、長時間、投球戯をすれば、体はかえって困憊します。また賞品、あるいは、賭け物が多すぎれば、競争者の心が乱れます。それだけではありません。遊戯のうまい。へたというように、つまらない無用の技術に対して、高価の賞品を与えるのは不正なことと言わなければなりません。フィロテアよ、遊戯に心を奪われてはいけません。いかに正当な遊戯でも、それに執着すれば悪事であります、遊戯を楽しんではならないというわけではありません。そうでないなら娯楽にはなりません。ただ、これを愛し、これに溺れ、夢中になるほど、これに執着してはいけません。

娯楽について、善良なる娯楽について

時として、私たちの心身を休ませるのは、とても必要です。カシアノ霊父の記すところによると、使徒聖ヨハネが、一日、小鳥を手にとまらせて、愛撫していたのを、ある猟師が発見したことがあります。猟師は、使徒が、尊い身を持って、どうして、そのようなつまらないことに、時間を費やしているかと疑わしく思いました。聖ヨハネは、「どうして、あなたは、始終、弓の絃を張っていることができますか?」と猟師に尋ねました。「始終弓をためておくと、いざと言う場合に、力が弱るからです」と猟師は答えました。「それと同じように、私が、時々、精神の緊張をゆるめて、少し休息するのも、後に更に新しい力を込めて、天主のことを思うためであるので、なにも怪しむことはありません」と使徒は話したそうであります。自分にも、他人にも、少しの休息をするのを許さないというのは、たしかに、厳格・野蛮な悪事であります。野外に出て、散歩し、友と愉快に語り合い、音楽を奏でて、歌を歌い、猟に出る等とは、少しも非難の余地がない娯楽で、程度を過ぎることなく、適当なときと、場所とを誤らずに、ほかの用事を疎かにしない限り、すなわち、普通の分別に従って楽しみさえすれば、差し支えありません。投球・打球・馬上遊戯・将棋のような、体、または、精神の働きで、優劣を争う勝負事は、それ自身において正当な娯楽であります。ただ、費やす時間、および、賞品の価値において、過度を避けなければいけません。これらは、あまり時間を費やしすぎれば、もはや、娯楽ではなくて、仕事となり、心身を休める代わりに、これを疲れさせます。五六時間も続けて将棋を指せば、精神は疲労の極致に陥り、長時間、投球戯をすれば、体はかえって困憊します。また賞品、あるいは、賭け物が多すぎれば、競争者の心が乱れます。それだけではありません。遊戯のうまい。へたというように、つまらない無用の技術に対して、高価の賞品を与えるのは不正なことと言わなければなりません。フィロテアよ、遊戯に心を奪われてはいけません。いかに正当な遊戯でも、それに執着すれば悪事であります、遊戯を楽しんではならないというわけではありません。そうでないなら娯楽にはなりません。ただ、これを愛し、これに溺れ、夢中になるほど、これに執着してはいけません。

禁止される娯楽について

賭け・トランプなど、賭けるものが、主として、偶然に得る幸運によって得られる遊戯は、ダンスのような危険な遊戯というのに止まらず、その性質上、全く悪い遊戯であります。それゆえに、これらは、国家の法律によっても、また、教会の掟によっても、禁止されています。その理由は、この種の遊戯においては、利益は、 理性によらず、上手い・下手や勤勉・怠惰に関係なく、全くの偶然の賜物であり、理性に背くからであります。初めから相談した上で行っているではないか、と言うかもしれません。本当にその通りで、相談上で行っているから、勝った人も、負けた人に不正を加えたのではありません。しかし、この相談が不合理であり、したがって、遊戯も不合理であることを否定できません。利得は、勤勉の賜物であるべきにもかかわらず、ここでは、偶然の幸運の賜物となっています。そうであるから、偶然の幸運は、少しも、私たちの関知するところでないから、何らの賞品をもたらすべきではありません。なお、 この種の賭けは、娯楽と称せられ、そのつもりで行われるにもかかわらず、実は、激しい労役です。常に精神的に熱中し、緊張すること、絶えざる不安・恐怖・憂慮の連続が、労役でなくて何であろう。賭けをする人の心よりも、なお、悲惨にして陰気、憂鬱な精神の緊張が他にあるだろうか。かけの最中に、物を言ったり、笑ったり、咳をしたりしてはならないのは、このためで、これに背けば叱責せられるのであります。最後に、かけの愉快は、ただ、勝利の1点になります。ですから、友人の失敗・不愉快を必要なる条件とすることに思いが及ぶならば、賭けの愉快が、いかに不正にして、かつ、 卑劣なる快感なるか明らかです。以上の三つの理由で、かけは禁じられています。聖ルイ大王は、王弟アンジュウ伯がゴウチエ・ド・ヌムールと賭けを楽しんでいるときき知った時、病床に横たわる身であるにも関わらず、すぐに彼らの部屋に行き、卓子と采配子と金銭とを、窓越しに懐中に投げ捨てて、激怒されたと言います。また、聖にして、慎み深い処女サラは、自分の婿を天主に告げて、「ああ主よ、主は、私がかつて賭博者と交わらなかったことを、お知りになっています」(トビア第3章)と祈りました。

ダンス、その他の正当であるが危険な遊戯について

ダンスそれ自身は、本来、善でも悪でもありません。しかし、普通これを行う方法が、非難すべき方法であるために、非常に危険なものと見なされます。ダンス会は、夜、行われます。薄闇の中において、元来、悪に傾きやすいダンスに、簡単に、よこしまな出来事が混じます。また、夜更かしをするから、そのために、翌朝の時間が失われ、従って、天主に対する朝の勤めができなくなります。要するに、昼を夜に変え、光を暗黒に変え、善業をつまらない遊戯と変えるのは愚かなことです。ダンス会に行く人は、 皆、華美を競います。華美は、人を邪悪な愛情、危険な思いに導きやすい。これらは、皆、ダンス会で生まれやすい。フィロテアよ、ダンス会はキノコのようなものです。すごく上等なキノコでも、珍重する価値はないと医者は言います。私は、あなたに、最良のダンスも、良いことはないと告げます。もし、きのこを食べるならば、毒茸を食べないよう、料理によく注意しなければいけません。やむを得ない理由で、ダンス会に出席しなければならない場合には、そこに危険がないように注意し、慎みと、品位と、善意をもって警戒しなければいけません。きのこは、まれに、少量食べても良いが、たとえ、よく料理してあっても、 大量は毒になると医者は言います。フィロテアよ、ダンスも、まれに、少し、楽しむのは良い。しかし、度を過ごせば、これに執着する危険が生じます。プリヌスによれば、きのこ類は、海綿のように有孔性であるために、簡単に周囲の腐敗物を吸収し、もし、近くに蛇がいれば、その毒に染みると言います。ダンス会、及び、これに類似する危険な集会は、争論・嫉妬・嘲笑・情欲など、このような場所にありがちなあらゆる罪悪を惹きつけます。また、ダンスをすれば、体が熱くなって、毛穴が開くとともに、心の戸口も開かれて、この時、もし、これを利用して、一匹の蛇が入り、耳にみだらがましい言葉を持って、こびと誘惑とをささやくか、または、目に媚びを示し、ウィンクを送るならば、私たちの心は、簡単にこれに捕らえられ、中毒するのに至るのです。フィロテアよ、このような不真面目な娯楽は、総じて危険で、信心を滅ぼし 、精神力を弱め、 愛を冷却し、 霊魂 に無数の邪念を起こします。故に、注意を加えて、これを楽しまなければなりません。きのこを食べたならば、その後、良いぶどう酒を飲まねばならないと言います。ダンスをしたならば、この空しい娯楽が、私たちの精神に残すであろう危険な印象に対して、種々の清い思想を起こして、これを矯正しなければいけません。例えば、1、あなたがダンスをしていた、ちょうど、その時に、ダンスの間、あるいは、ダンスのために犯した罪悪の故に、地獄の火に焼かれていた多くの霊魂があります。2、また、ちょうど、その時、天主のみ前に出て、 天主を賛美し、天主を観想していた、多くの熱心な敬虔な人々もあった 。彼らは、あなたに比べて、同じ時間を、はるかに、幸福に過ごしていたと言わねばなりません。3、あなたが踊っていた間に、大勢の人が、苦悶して死んだ。また、幾十万の人々があるいは病床に伏し、あるいは、種々の苦しい病、高い熱を耐えて街上で、労働していました。彼らには、何の休息もありませんでした。あなたは、彼らを哀れに思わないのか。他日、人々が、今日のあなたのように、踊り狂う最中に、あなたが、病に苦しまねばならない時が、来ることを考えないのか。4、聖主も、聖母も、諸天使 ・諸聖人も、踊り狂うあなたを見て見損なわれていた。あなたが、このようなつまらないことを楽しみ、このようなことに夢中になっているのを見損ない、どんなに悲しんだであろう。5、あなたが、ダンス会にいる間に、時間は過ぎ去り、死は近寄ってきます。 死はあなたをあざけり、あなたをそのダンスに招いています。あなたの親族、家人の泣き声がこの音楽で、あなたは、生命から死への、踊りの歩みを踏み出さねばならないのだ。このダンスこそ本当の時間の無駄で、この一歩で、一瞬の間に、時間の世界から永遠の世界—-苦か、楽かの—に移っていくのです。私があなたに暗示するのは、このようなものでありますが、もし、あなたが天主の畏敬を持ってさえいれば、主は、これに似た多くの省察を、教えてくださるであろう。

遊戯、または、ダンスをしてよいのはいつか

遊戯、または、ダンスを、心身の休息のためにするのはよいが、愛着のためにしてはいけません。また少しの時間に限り、疲労困憊する程度に至らないこと、まれに楽しむことが、必要です。普段より、かつ、しばしば行うことは、娯楽ではなくて仕事であります。次に、どのような機会に、遊戯し、または、ダンスをしていいのか、と言いますが、不良性を帯びているダンス、または、遊戯の機会は多く、不良である遊戯は、危険率、あるいは、不良性の多いか少ないかに比例して、その機会が少ない。一言でいえば、上で述べた条件を守り、かつ、そこにいるすべての人とよい娯楽を分かち、興をそがないために、人々と共に戯れる方がよいと信じた場合に限りますが、これを判断するには、聡明にして健全な常識が必要です。人々と興を分かつのは、愛徳の行為であるために、これによって、もともと、悪くない遊戯は善良となり、危険な遊戯も許可され、悪い遊戯ですら不良性を失います。偶然に得る幸運によって勝敗を争う遊戯が、一般に有害ではあっても、時として、そこにいる全ての人の興を助けるためには、差し使えなくなるのもそのためです。聖カロロ・ボロネオの伝記に、彼が、平素はきわめて厳格であった一事について、ある時、スイス国人と共にうち興じたとの一挿話を読んで、私は深く感動しました。聖イグナチオ・ロヨラも、招きに応じて戯れました。ホンゴリアの聖女エリザベットも、種々の集会で、しばしば戯れたり、ダンスをしたりしましたが、その信心は、少しも揺るぎませんでした。ちょうど、波風に打たれる、リエット湖畔の岩のように、聖女の信心は、尊い王妃の位に切り離せない華麗なる生活のうちに、絶えず成長していたのです。しかし、風が吹いて燃え上がるのは大きな炎で、小さい灯火は、風が避けなければ、吹き消されることを忘れてはいけません。

大事にも、小事にも、忠実であるべきこと

雅歌の新郎は、乙女がただ一目みただけで、また、一本の髪の毛でもって、その心を奪われたと歌っています(雅歌4・11)。人体のあらゆる部分の中で、眼よりも、美しく、よく働くものはなく、また、一本の髪の毛よりも、わずかであり、卑しむべきものはありません。それゆえ、この言葉の意味は、霊魂の天配は、単に敬虔な人々が営む大事のみではなく、小事によっても、等しくみ心を喜ばせるとの意味であります。だから、天主に喜ばれようと願うならば、あなたは高尚なる大事においても、卑近なる小事においても、真心をこめて主に仕えなければいけません。なぜならば、仕事の大小にかかわらず、私たちは愛をもって、主のみ心を奪うことができるからであります。フィロテアよ、聖主のためには、いかなる艱難・辛苦をもしのぎ、殉教さえも恐れない覚悟をしなさい。また、思し召しとあるならば、父母・兄弟・親族に至るまで、また、あなたの持っているもの、いかなる貴重なものも主に捧げて、あなたの眼、あなたの生命さえも惜しまないで、一切の犠牲を、心の中に覚悟しないといけません。しかし、天主のみ摂理が、あなたにこのような苦痛・犠牲を求めにならないとき、すなわち、あなたの眼を求めないときには、少なくともあなたの髪の毛を捧げて、軽微なる迷惑、わずかな不便、日常生活にしばしば起こる些細な損失などを、柔和をもって忍耐しないといけません。このような小さい機会も、主を愛する思いをもって利用したならば、主のみ心を奪って、これをあなたのものとすることができます。日々のわずかな愛徳の務め、頭痛、歯の痛み、軽い発熱、夫または妻の不機嫌、大切な器物の毀損、他人の示す嘲弄・軽蔑の顔色、あなたの手袋・指輪・ハンカチの紛失、または聖堂に参詣し、聖体を拝領するために、早く寝て早く起きる等の、自ら求める不便、他人の前で、信心の行いをするときに感じる軽い羞恥心、もしも、あなたが、このような小さな苦痛を、愛をもって進んで受けるならば、一杯の冷水のために、無限の幸福を信者に約束した、慈愛深い天主のみ心を、限りなく喜ばせることができます。また、このような機会は、ほとんど常に存在するために、これを利用するのは、多くの霊的財宝を集める上の一大秘訣であります。シエナの聖女カタリナの伝記において、聖女が、無数の高尚神秘なる天主の観想に従事し、恍惚たる脱魂状態に陥り、神の知恵の言葉を語り、人々に教えられたのを読んだとき、私は、聖女が、この天主の観想の眼によって、天配のみ心を奪ったことについて、少しも疑問をはさみませんでした。しかし、また私は、聖女が、父の家の厨房で、天主に対する熱愛から生じる勇気に満ちて、火を起こし、肉をあぶり、料理をし、パン粉をこね、あらゆる日常の家事に従っていたことを読んで、非常に感動しました。私は、聖女が日常の家事の間に行った、身近な小さい黙想を、彼女がしばしば受けた脱魂状態に比べて、劣るものとは思いません。あるいは、この脱魂状態は、聖女の謙遜・忍従の酬いであったかもしれません。身近な黙想とは、次のようなものであります。たとえば、聖女は、父親のために料理をするのは、聖女マルタのように、聖主に給仕するのであると想像しました。母親は聖母であり、兄弟は使徒たちでありました。このように、聖女は、聖主、および、諸聖人に仕える心で、日常の家事を大きな愛をもって行い、これが天主の思し召しであると知っていたのです。フィロテアよ、私がこの実例を物語るのは、どのような日常の仕事をも、天主に仕える精神をもって、真心をもって果たすことの、きわめて重要であることをあなたに悟ってもらうためです。あなたは、そのために、あの偉大なソロモン王が口をきわめて褒め讃えた「強い女」にならわないといけません(箴言31)。彼女はその手を、高尚にして大きな「強きこと」のために差し出し、しかも、糸車を回し、紡錘を持つことに躊躇しません。「その手を強くし‥‥その指に紡錘をとる」と。あなたも、また、念祷し、黙想し、秘蹟を受け、人々に天主の愛を教え、人々の心によい思いを分かち、その他、あなたの地位・境遇に従って、重要な大事をしなさい。しかしあなたの紡錘と紡錘竿とを忘れてはいけません。すなわち、十字架の根元に咲く花である、小さな身近な徳行、たとえば、聖人への奉仕、病者の慰問、家事の務め、毎日の労働、怠けることのできない有益な仕事などを実行し、これら一切の仕事の間に、聖女カタリナがつくられた思想を混ぜるといいでしょう、天主に仕える重大な機会はまれでありますが、小さい機会は毎日あります。「小事に忠実な人は、大事にもまた忠実です」と、聖主は自ら仰せられました(ルカ16・10)。すべてを主のみ名のためにっしなさい、そうするならば万事がみなよくなるでしょう。あなたが、これをよく実行する方法を知るならば、飲食にも、睡眠にも、休息にも、また厨房における労働にも、天主のみ旨を行うことができて、天主のみ前に多くの功徳を積むことができます。

正しく、道理あるべきこと

私たちは、理性によって、始めて人であると言えます。しかしながら、本当に道理正しい人は、むしろまれです。常に、利己心が私たちの道理に反し、知らず知らずの間に、種々の小さいけれども、危険な不正・不義に導きます。これらは、あたかも、雅歌にいう、ブドウ畑を荒らす子ギツネのようで(雅歌2・15)、小さいために注意を引かれませんが、数が多いために大きな害を及ぼすのです。たとえば、次のような事柄は、不正不義と言うべきではないだろうか。私たちは、わずかな欠点のために、他人を非難して、多くの自分自身の、過失を弁解する。高く売り、安く買いたい。他人には正義をもって対するが、自分には慈悲・同情をもって取り扱われたい。自分の言葉は善意に解されたいが、他人の話しには敏感で、すぐにいらいらする。金銭を払えば、だれでも、その所有品を売ってくれるものと考えているが、売りたくない人は、金銭を拒んで、品物を所有している方が当然である。自分の要求を聞いてくれないと、いやな顔をするが、相手のうるさい要求に、腹が立つのはしょうがない。もし、私たちがある一事を好めば、他はないがしろにして、趣味に合わないことはことごとく反対する。目下のものが気に入らないのか、または、自分の感情を害したならば、彼の一挙一動、すべて面白くなく、いつも非難のもとにする。これに反して、寵愛する人のすることは、なんでも大目に見てやる。身体・容貌が醜いために、顔を見るのも嫌だというふうに、父母に、扱われるよい子もあれば、愛らしい姿のために、甘やかされている悪い子もいる。いかなる場合にも、私たちは金持ちを好むが、貧乏人は、たとえ賢くても、徳行がすぐれていても、これを軽蔑する。時として、きれいな服装をしているというだけで、ある人を選びます。自分は、自分の権利を厳重に主張して、他人が几帳面にするのを好まない。自分は地位を自慢し、他人には謙遜・礼儀正しいことを求める。他人の言葉にはすぐにつぶやき、自分は批評されることを望まないが、他人のためにすることは大げさに考え、他人の行為は取るに足らないと思う。これらの心には、要するに、パフラゴニアに住むという、二つの心臓を持っているシヤコのように、自分自身に対する親切、寛大な心と、他人に対する厳格、頑固な心を持っています。換言するなら、自分には都合よく、できるだけ利益となり、他人にはできるだけ不利益になるような、二重の秤を持っています。このような心を持つ人を、聖書は「偽りのくちびるは、二心をもってものを言う」(詩編11・3)と表現しています。二つの心、受けるのに重く、与えるのに軽いおもりの二つの秤を持っています。共に、天主の御前に憎むべき事柄です。フィロテアよ、行為は常に公平に、正しくありなさい。他人を自分の位置に、自分を他人の位置に置けば、物事を正しく判断できます。買うときは売る人の心となり、売る時には、買う人の心となれば、売買に不正はありません。もともと、これらは、いずれも、ほんの小さな不正であろう。たとえ自分の利益をはかっても、厳密な意味での正義を傷つけなければ、そのために弁償の義務は生じません。しかし、このようなことは、理性と愛徳とに背く大きな欠点で、かつ、要するに一種の詐欺であるから、どうしてもこれを正しく直す義務があります。公平な正しい心をもって、公明正大に、美しく生活するのは、決して損ではありません。フィロテアよ、あなたは、他人にして欲しいことを、他人に施しているか、あなたの心をしばしば省みなければなりません。これが真の道理の要点であります。トラヤノ帝は、帝王の威厳を失わないとするまでに、あまりに親しみやすいと、近侍の臣にいさめられた時に、「朕は、もし、自身が臣下であったならば、このような皇帝が欲しいと思うようにしているのだが、それが悪いと申すのか」と、答えられたそうです。

希望について

悪事をしたいと、望んではならないとは、誰でもよく知っています。悪事を望めば、悪人です。しかし、フィロテアよ、私は、さらに一歩進めて言います。ダンスとか、勝負事とか、その他の、類似の娯楽、すなわち、霊魂の危険をもたらす事柄を望んではいけません。高位・高官、人の上に立つこと、天主よりの特別の霊示、または、神秘的の脱魂などに対する希望も、危険と虚栄と欺瞞とに満ちています。遠い事柄、すなわち、じきに実現する可能性のないものを、望んでもいけません。よくこのような事柄を望む人がいますが、それは、いたずらに精神を疲れさせ、現在の仕事に対する注意力を散漫にして、不平・不安を感じる基となるだけであります。一青年が、高い地位に上りたいと熱望しても、時節が来るまでは、この希望も何の役に立ちません。人妻が、修道院に入りたいと願っても、何になるのか。隣家の所有物を、いくら買おうとしても、隣家で売る気にならなければ、私の希望は、時間の空費となるばかりです。病気のときに、私が説教したい、ミサ聖祭を捧げたい、病人を訪いたい、などと、健康な人の仕事をしたく思っても、現在、自分には、ことを実現する能力がないのだから、それは無駄な希望ではないだろうか。そうして、この時に、自分がもっていなければならない他の希望、すなわち病中に忍耐して、喜んで苦痛をしのぎ、従順・柔和でありたい等の、自分が修めることが、天主の思し召しである他の希望が、これらの無駄な希望のために妨げられています。それなのに、私たちは、妊婦が秋に新鮮なサクランボを欲しがり、春にブドウを食べたいと欲するような願望ばかり起こしているのです。一定の義務を有し、一定の境遇にいるものが、他の種類の生活を希望して、その義務をおろそかにし、または、現在の境遇では、実現ができない仕事に憧れることは、絶対にいけません。このような空虚な望みは、心を散らし、必要な実務を妨げるのみです。私がシャトルー会修道士の隠遁を、こい願っても、それは、時間の空費であり、現在の義務をまじめに尽くしたい、との希望を滅ぼすばかりです。それよりも、自分が持っていない手段を望まないで、自分の持っているところに忠実になるべきであります。もちろん、上述したのは、不正の源である焦慮・煩悶に関してであって、それが単なる軽い希望であり、四六時中、心を苦しめるほどのこともなければ、別段さしつかえありません。現在、あなたに与えられた十字架(苦痛)を、よくこらえて行くことをできないうちに、なお多くの十字架を願ってはいけません。他人よりの侮辱を忍耐する勇気がなくして、殉教をこい願うのは、順序を取り違えた話であります。悪魔は、小さくても、それをまじめに実行すれば、私たちに非常に有益な、現在の事柄を忘れさせるために、実現の機会すらないような、遠い事柄について、大きな野心を起こさせます、空想の中でアフリカの大怪物と戦う勇士も、不注意なために、小端の小ヘビに殺されます。誘惑を希望するのは無謀です。しかし、勇ましくこれを待ち構え、いよいよ、その機会が来たならば、よく防戦することができるようにあらかじめ修養に努めなさい。あまり種々のめったに食べられないごちそうは、(特に分量が多ければ、なおさら、)胃の毒で、胃の弱い人は、そのために病気になります。あなたの霊魂も、あまり多くの希望で、満たしてはいけません。世間的な野心が、心を痛めるのはもちろんですが、精神的な野心と言っても持ちすぎてもいけません。霊魂の大掃除ができて、不純の心がなくなれば、精神的の種々の事物に、非常な食欲を覚えるようになります。そうして、あたかも、飢えているように、手当たり次第に、制欲とか、苦行とか、謙遜とか、愛徳とか、祈祷とか、あらゆる信心の業を望むのであります。フィロテアよ、このような霊的食欲はよい徴であります。けれども、食べようとするものを、皆、消化できるだけの能力が、あなたにあるかを、考えてみなければいけません。あなたの霊的指導者の指導に従い、これらの種々の希望の中から、すぐに実行できるものを選び、やり遂げるといいでしょう。これができたならば、天主は、さらに他のものをお送りなさるだろうから、そのときになったならば、また、これを実行する。このようにすれば、無益な野心のために、時間を空費することはありません。よい希望の一つさえ、私は、これを捨てなさいというのではありません。順序を守って、実現しなさいということです。直ちに実現できないものは、心の一隅にこれをとっておき、時がくるのを待ち、現在時期が熟しているものに、着手しなさい。単に、霊的希望についてのみならず、また、世俗的希望についても同じです。そうでないなら、私たちの一生は、不安と杞憂の連続になってしまいます。

結婚している人々への教訓

婚姻は、「偉大な神秘です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5・32)。婚姻は、全ての人にとり、一切において、また、その各部について神聖です。全ての人にとってとは、童貞女さえも、謙遜の念をもって、これを敬うべきだからです。一切においてとは、貧しい人にも、富める人にも、等しく聖であるからです。各部についてとは、その起源も、目的も、利益も、形式も、方法も、皆、聖であるからです。これこそ、天における聖人の数を満たすために、地の信者を増加させるキリスト教の苗代であります。また、婚姻は、国を潤すべき水流の源であるために、これを正しく、汚れなきものとするのは、国にとっても、きわめて大切であります。かつて、カナにおけるように、天主の御子が、今日、あらゆる婚姻に招待されることは、私が切望することです。そうすれば、慰めと祝福の美酒は、その家のために、永遠に尽きる時がないでしょう。慰めと祝福の美酒が、最初に少量しかないのは、聖主のかわりに、アドニス神を、聖母のかわりに、ヴィーナス女神を、招くからです。ヤコブがしたように、美しいぶちの子羊を生ませたいならば、彼にならって、母羊に、あらかじめ、色彩とりどりの美しい枝を準備しておかないといけません(創世記30)。幸福なる婚姻生活を願うものは、この秘蹟にふさわしい神聖さを失ってはいけません。それなのに、実際において、この時、娯楽や、饗宴や、談話のうちに、無数の醜態が演じられます。ですから、その結果が乱れるのも、あえて怪しむ必要がありません。私は、最初に、夫婦の相互の愛を説きます。これは、聖書の中で、聖霊が御告げになるところです。ああ夫よ、妻よ、「自然の与えた愛をもって、お互い愛しなさい」との勧めは不足であります。山鳩のひとつがいも、またそのようにします。「人の心より出た愛をもって、お互い愛しなさい」でもまだ不足しています。異教徒でさえもこのように愛し合います。私が告げたいのは、かの大使徒、聖パウロの言葉であります。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」(エフェソ5・25、24)。 エヴァを、私たちの祖アダムに導き、妻となさったのは、天主です。同じように、私の友よ、あなたたちの婚姻の神聖なる縁を結んでくださり、夫とし、妻としてくださるのは、天主の見えない御手であります。そうならば、なぜ、あなたたちは、至聖・至妙の愛をもって、互いに愛さないのか。この愛の第一の効果は、あなたたちの心が結ばれて、離れないことです。もみの木の二片は、よい膠(にわか)を用いれば、きわめて堅固に密着して、その後、暴力をもってこれを裂こうとすれば、むしろ、ほかのところまで裂けてしまいます。天主が夫婦を一心同体となさった以上は、霊魂と体の分離(すなわち、死)が、夫妻の離別より簡単なはずです。そのうえ夫妻の結合は、単に体のみならず、霊魂と、心と、愛の一致でなくてはなりません。この愛の第二の効果は、お互いに変わらない忠心であります。むかしの聖書にもある通り、指輪には封印がほってありました。婚姻の儀式の本当の意味は、次のようであります。すなわち、教会は、司祭の手をもって指輪を祝して、まず、新郎に渡します。これは、彼に与えられた乙女が生きる間は、新しい女の名も、愛も、彼の心に入れるまいと、この秘蹟をもってこれに封印を施す意味であります。次に、新郎が新婦の手に指輪を与えるのは、聖主自ら授けてくださる男子が生きている限り、彼女の心が、ほかの男の愛を向かえないことを教えるためです。婚姻の第三の効果は、子女を生み、これを育てることであります。ああ、夫婦よ、永遠に主を祝し、主を賛美する霊魂を増やすために、天主が、この神聖な御仕業の協力者として、あなたをお選びになったのは、あなたたち以上の光栄ではないか。天主は、あなたたちのつくる幼児の体の中に、あたかも天の甘露の一滴のように、新しい霊魂を創造し、これを入れてくださり、入れつつこれを創造してくださったのです。夫よ、あなたたちの妻に対しては、温かく、やさしく、忠実な愛を注がないといけません。最初に男子の、心に近い肋骨より、最初の女子がつくられたのは、心のかぎりの優しき愛を受けるためであります。あなたたちの妻が、肉体的にも、精神的にも、か弱く劣っているのは、あなたたちが彼女を蔑視しないためではありません。むしろ、愛をもって哀れみいたわるためであります。また、天主が、女子をこのようにつくられたのは、妻は常に夫により頼み、それによって夫は名誉と尊敬を受け、妻の伴侶であると同時にまたその長であるためです。妻よ、天主の与えてくださったあなたたちの夫を、心から誠実に、また、同時に、尊敬をもって愛さないといけません。天主が男子を強くすぐれてお創りになったのは、そのためです。また、天主のみ旨は、妻が夫に従属し、彼の骨より出た骨、肉からでた肉となることです。エヴァをアダムの腕の下なる肋骨よりお創りになったのは、すなわち、男子の下にあって、その指揮を仰がないとならないことを示されたのにほかなりません。聖書があなたたちに命じるこの服従は、快い服従であります。それは、単に、愛をもって夫に従うべきと命じるからではありません。夫も、また愛と親切とをもって、妻を導くことを命じられるからであります。すなわち、聖ペトロが言うには、「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」(1ペトロ3・7)と。このように、あなたたちは、互いに負うところなる相互の愛に成長すべきですが、しかし、ここに注意すべきことは、この愛が嫉妬となってはならないことです。まるで最も熟し、最も甘味なるリンゴに、虫がつきやすいように、嫉妬も、夫婦間の愛情が、熱く、激しいところに発生して、次第に反目・不和・争論を生み、愛情の腐敗を招きます。互いの愛が真の徳行の上に存するときには、嫉妬は決して生じません。嫉妬は官能的にて、不完全、かつ、不安定にして信用に値しない徳行の上に存在する愛の確実な徴候であります。ですから、嫉妬を用いて愛を誇張しようとするのは、非常に愚かなことです。嫉妬は、愛の外観の大きさをはかる標準となるかも知れませんが、その純良さ、その品質を判断する根拠にはなりません。なぜならば、真の愛は、愛する人の正しさを信じるところから生じますが、嫉妬はこれに反して、その不信を予想するからです。夫よ、もし、あなたたちに対して、自分の妻が忠実であることを欲するならば、あなたたちの模範で示しなさい。サジアンズの聖グレゴリオの言葉で言うには、「あなたたちが不貞生活を営みつつ、どういう顔を持って、妻が貞淑であることを望むことができるのか。あなたたちが与えることができないものを、どうして妻から期待できるのか」と。妻の貞操を希望する者は、「神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです」(1テサロニケ4・5)との聖パウロのことばに従って、自分、まず、妻に対して、貞操を守らないといけません。もしも、これに反して、あなたたちが、妻に偽りを教えるならば、妻の不身持によって、自分の恥辱を招いても、それに疑いはありません。しかし、妻よ、あなたたちの名誉は、貞操と分けることができません。だから、適切に、全力を尽くして、自分の名誉を守り、婦女の慎みに背いて、純白な名を汚してはいけません。どのような小さい事といえども、これを恐れなさい。あなたたちに対する好意の言葉を許してはいけません。あなたたちの美貌・容姿を称える人があったならば、すぐに警戒しないといけません。買えない品物をほめる人には、それを盗もうとする誘惑が起こりやすい。だれかが、来てあなたにへつらい、同時にあなたたちの夫の悪口を言うならば、あなたたちにとって、これ以上の侮辱はありません。この人は、明らかに、あなたたちを破滅に導こうとするだけでなく、あなたたちを、すでになかば堕落したものと見ているのです。商売でも、第一の客人に、不快の思いを抱くならば、第二の客人と取引するのは、なかば既定の事実であります。昔も、今も、婦人たちは、真珠を耳飾りとしますが、プリヌスによれば、それは互いに相触れて、さやさやと鳴るのを愛好するからであると言います。しかし、私は、天主の偉大なる友、イザヤが貞淑なレベッカに、最初の愛の贈り物として、耳飾りを与えたことを知っています。私の考えでは、この神秘的な装飾品の意味は、夫が妻に期待して、妻が夫に忠実に守るべきは耳である、とのことであります。すなわち妻の耳は福音書にも記されている東洋の真珠、とりもなおさず、貞潔純真なることばの快い響きのほかは、いかなる騒音も、これを乱してはならないとの意味であります。体を毒するものは口より入り、心を毒するものは耳から入るということは、決して忘れてはならない戒めです。愛と忠実との二者の共にある時は、必ず、親交と信頼とを生みます。これが、聖人たちの結婚生活において、とても仲のよいことを見た理由で、彼らの親しい交わりに至っては、細やかで、しかも貞淑に、甘美にして、しかも誠実であったのです。このように、旧約時代における最も貞淑な夫妻、イザヤとレベッカとは、窓越しにアビメルクに見られた時に、そこになんらのふしだらの行為のなかったのにもかかわらず、直ちに夫婦と分かったほどに、お互い愛し合っていました。偉大なる聖ルイ王も、自分の肉体に対して非常に厳格であると共に、王妃に対しては、きわめて優しく、他人の非難を受けたほどでありました。しかし、むしろ、王が平素の雄々しい武士的精神にもかかわらず、普段から、王妃との愛情を細やかに行う術を知っていたのは、不思議であると称えて当然であります。純潔な愛の表現は、心と心をつなぐほどには役に立たないにしても、これを近づけ、やがて互いの交情をますます楽しくする手段であります。聖女モニカは、聖アウグスチノを懐胎している間に、数次、自分の子を、キリスト教のために、また、天主の光栄のために主に捧げました。このことは、聖アウグスチノが「私は母の胎内にいる間に、すでに、天主の塩を味わっていた」といって、自ら証言していますが、まだ、その生まれないのに先立ち、自分の子を天主に捧げるということは、信者である婦人にとって、本当によい教訓であります。考えてみると、謙遜で善意ある人々の、捧げ物を快くお受け入れなさる天主は、この時期における、母のよい決心を助けるのを常とする理由であります。これについては、さらにサムエル、アキノの聖トマ、フィエソルの聖アンドレア、その他の多くの模範をあげることができます。聖ベルナルドの母も、本当に、この子にふさわしい母でありました。彼女は、自分の子どもが生まれるとすぐに、両手に抱いて、イエス・キリストに奉献したのち、天主が彼女に委託された尊いものとして、わが子を敬愛しました。このようにして七人に子供は、皆、聖徳高い人となり、母の心づかいは立派に成功したのです。子供が、この世に生まれて、自分の理性を動かす年齢となれば、父母は、その子の心に天主の畏敬を刻みつけるために、最大の努力を払わないといけません、尊きプランシュ皇后は、御子聖ルイ王を育てるに際しては、非常に熱心にこれをつとめ、しばしば王子に向かい、「最愛の子よ、あなたがただ一つでも大罪を犯すのを見るよりは、私の眼の前であなたの死ぬのを見た方がいい」と言いました。この教訓は王子の心に深く刻まれて、王は、その生涯の一日として、この尊い教訓を忘れることなく、これを守ることに全力を尽くしました。これは、王自らの物語であります。私たちの国語では、血筋のことを「家」と言います。ヘブライ人は、子を産むことを「家を成す」と言いました。聖書に、(出エジプト記1・21)天主がエジプトの産婆のために「家を成してくださった」とあるのは、その意味であります。この用語法は、よい家をつくるためには、世間的の宝を積むのみでは足りず、その子を、天主の畏敬と善徳との中に、育てる義務を示しています。このためには、いかなる苦心、いかなる努力をも、惜しんではいけません。子供は、父母の栄冠であります。聖女モニカは、聖アウグスチノの悪い性癖を正すために、無限の熱心と忍耐とを用いて、海に、陸に、その子につき従い、ついに彼を悔悛させ、自分の涙の子としたのは、アウグスチノのからだを産んで、自分の血によってことしたことよりも、さらに尊敬すべきことです。聖パウロは、家事を婦人の任務であると言いました。そのゆえに、家にあっては、夫よりも、妻の敬虔がさらに有効であるとの、一般の観察は当を得ています。一般に、夫は家にあって召し使いとなる機会は少なく、従って、彼らを善徳に導いていくことは容易ではありません。この理由で、ソロモンは、その箴言のなかで、一家の幸福を、彼が描写した「強い女」の勤勉に頼ったのであります(第31章)。創世記に、イザヤが妻レベッカの石女であることを悲しんで、彼女のために天主に祈ったことが記してある(25・21)。ヘブライ人の伝説によれば、彼は礼拝室にて妻と相対して祈ったといいます。そうして、この夫の祈りは、天主のお聞きになりました。相互に励まし合い、熱心を競う、敬虔における夫妻の一致よりも、尊く、有益な一致はありません。果物のなかには、マルメロのように、砂糖漬けにしなければ、到底食するに耐えない渋い果物があります。またサクランボやアンズのように、やはり、砂糖漬けにしなければ、保存することができない、か弱く損じやすい果物があります。妻は、夫が信心の砂糖に漬かるように望まないといけません。なぜならば、信心のない男子は、厳格・粗暴であることを免れないからです。また、夫は、妻が敬虔であることを希望する理由があります。敬虔でない妻は、か弱くして徳行を失いやすいから、聖パウロが、「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」(1コリント7・14)と申されたのは、婚姻という深い契りで、一方はたやすく他方を感化することができるからです。そうして、夫婦の双方が、共に熱心な信者で、相共に、聖主の真の敬虔の道に精を出し、聖徳に進むことこそ、天主の無上の祝福の賜物です。夫妻は、万事について、互いに助け合い、いかなる場合にも、怒り、反目し、争論する等のことが、あってはいけません。人々の話し声がやかましい場所は、ミツバチは巣を作らないと言います。聖霊も、喧嘩・口論の絶えない家に、お住みになることはありません。ナジアンズの聖グレゴリオによれば、夫婦の結婚記念日に、祝宴を張るのが、当時の習慣であったそうであります。この習慣の復活は、私の大いに希望するところでありますが、ただ、それが、世間的の、あるいは、官能的の、単なる祝宴であってはいけません。当然のこととして、夫妻は、この日に告白し、聖体の秘蹟をうけて、平常よりもなお一層熱心に、その結婚生活のために祈り、相互の愛情と忠実とによって、結婚生活を聖なるものにするような、よい決心を繰り返し、相互の責務に耐えるに必要なことを、聖主に祈らなければいけません。

神聖なる婚姻を汚さないこと

「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」(ヘブライ13・4)との聖パウロの言葉は、夫婦の間においても、貞潔に背いてはならないとの意味です。聖なる婚姻は、最初、楽園において、人間にまだ邪念がなく、罪も存在しなかった間に、制定されたものでした。恥ずべき欲と食欲とは、共に肉体の欲で、お互い似たところがあります。ただ前者は後者と比べて、はなはだ激しいだけの相違があります。それゆえ、私は食欲に言いかえて、言いにくいことを説明します。1・食事は体力を維持するためであります。すなわち、体を養い、これを維持するのが善であり、神聖であり、天主の思し召しであるように、子女を生み、種族を増やすことは、婚姻の第一の目的であって神聖な善い事です。2・生命をつなぐためではなくても、友人との交誼をあたため、つなぐために、会食することは、正当な行為です。このように、夫婦間にも、聖パウロのいわゆる「負債」(1コリント7・3以下)があります。そして、これは、実に重大な負債で、たとえ信心のためであっても、他方の合意なくしては、一方が、拒むことができない趣旨が述べられています。それゆえ、私は聖体拝領に関する章において、一言、これに言及したのです。やはり、そうであるならば、その他の種々のわがままな偽善的な口実をもって、これを拒むことができないのは明らかであります。3・相互の交誼を保つ義務のために、会食する人々は、嫌がる様子を示すことなく、むしろ、進んで食卓に連なり、おいしそうにしないとならないのと同様に、夫婦間の負債も、忠実に快い義務として、果たさないといけません。また、たとえ、なんらかの理由によって、子供が生まれる希望がない場合にしても、あたかも、この希望を有するかのようにふるまう必要があります。4・前述の3つの理由以外に、単に食欲を満足させるためにのみ飲食することは、非難すべき程でなくても、ほめるべきではありません。なぜならば、このような官能的な食欲の享楽は、たとえ少しの間だけ行う理由とはなっても、それは推奨する価値に足りないからです。5・食欲を満たす以上の暴飲暴食は、その度を失う大小に従って、まさに非難すべきであります。6・また、飲食の過失は、単に、その量をあやまるばかりではありません。食事の仕方にも、大いに関係するのであります。愛するフィロテアよ、ミツバチにとって大切な蜜も、時とすれば、‥‥例えば陽春の季節、ミツバチがあまりにたくさん蜜を吸うころに、‥‥かえって、その害となることがあります。ミツバチが、頭から羽まで、蜜にまみれて死んでいることさえもあります。夫妻の義務は、元来、神聖にして、正しく、推奨すべき、かつ、国家の幸福の基礎となるものですが、ある場合には、当事者に危険となることがあります。すなわち、時としては、度を過ごし、小罪を重ねて、霊魂を病ませ、また、時としては‥‥たとえば、産児の目的を除外して、自然の法則に反するような場合には‥‥大罪となって、霊魂の生命を殺すことさえあります。このような場合には、自然の法則に反することの軽重に比べて、罪もまた憎むべきで、そして必ず大きいことになることを免れません。考えて見ると、産児は婚姻の第一の目的であるために、この際、これに必要なことを邪魔することは、絶対に許されないことであります。ただし、例えば、妻が石女である場合、あるいは、すでに妊娠中にして、新規に妊娠が不可能である場合のように、たまたま産児の目的に達せられないこともありますが、このような場合には、わざと産児の法則に背くのではないので、この際の行為は、同じく正当、かつ、神聖であります。そのような状態になるならば、このような偶発的の条件は、婚姻の主要目的の規定したところを傷つけることができない理由であります。創世記、第38章に銘記しているように、オナンが、その婚姻に際して行った、恥ずべき唾棄すべき業は、天主のみ前に憎むべき行為でありました。現在の異端者のなかに、この際、オナンが天主の御怒りを買ったのは、彼の邪悪な意志のためであると説明するものもありますが、聖書の明文によれば、そうなったことは明白で、彼の行った業そのものが天主のみ前に大罪であったのです。そうして、このような謬説を主張する異端者は、聖イエロニモが、エフェソ書の注解の中で非難した、犬儒哲学者より、さらにあわれむべき誤謬に陥っています。7・食事の時間にもならない前から、菜のことを考えるのは、さしくも、醜く、卑しい人柄の徴であります。それにも増して品のないことは、食事がすんだ後までも、ごちそうの味が忘れられず、それらが喉をすべり下ったときの愉快を思い出して、舌なめずりをする人々で、すなわち、俗に、「食前に焼く串を思い、食後に皿を忘れない」という輩、始終台所に付きっきり、聖パウロが言った、自分の腹を神とする人々であります。上品な人は、食卓に対して、始めて食事を思い、また、食事が済んだら、手と口を注ぎ清めて、味も香りも残らないようにします。婚姻の生活においても、またこのようにして、官能の生活に精神をとらわれ、霊魂の自由を失ってはいけません。聖パウロが、コリント人に手紙を送った、「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のようにすべきです」(1コリント7・29)とのすぐれた教訓の真髄が、すなわち、これであります。聖グレゴリオによれば、「妻のある人、ない人のように」とは、夫妻間の愛情のために、霊的生活の進歩を妨げられないことを指します。もちろん、夫のためのこの教訓を、そのまま妻に適用してもいいです。また同使徒は、「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」(同上・31)とも言います。だから、各人この世を利用するに際しては、これに心を捕らわれずに、あたかもこれを利用しないかのように、自由、すぐに天主に仕えないといけません。また、聖アウグスチノは、単に利用すべきものを楽しもうと欲し、楽しむべきものを利用しようと欲するのは、人間の大欠点であると言われた。私たちは霊的なものを楽しみ、肉的なものを利用すべきなのに、肉的なものの利用が変化して享楽となれば、私たちの高貴な霊魂は、動物的霊魂になります。以上によって、言うことをあえてしないところをはっきりと言外しないで説明しました。

寡婦にたいする教訓

聖パウロは、テモテに「身寄りのない、やもめを大事にしてあげなさい」(1テモテ5・3)と書き送って、これをすべての司教に命じました。ところが、以下のことがらが必要です。1・寡婦は、単に身体的に寡婦であることに止まらないで、精神的にそうでなければなりません。すなわち、二人目の夫にはお目にかからないという、犯すことがない決心をもっていなければいけません。再婚の機会を待つ寡婦は、身体的には男子と離れていても、心ではそうでありません。真の寡婦が、再婚しない決心を貫くために、天主に、自分の肉体、ならびに、貞操を捧げる誓願を立てることは、その貞操の飾りとなり、また、その決心を成就するための、有力な保証ともなります。誓願を立てたのちに、自分の貞操を失えば、それがただちに、天国を失うのであるから、きわめて注意して、再婚の考えに、少しも心をとめないようになります。すなわち、この誓願が、自分の決心を破壊しようとするあらゆる誘惑に対して、自分の心を防衛する、堅固な障壁となります。聖アウグスチノも、この誓願を、信者の寡婦に、しきりに勧めています。古代の有名な学者であるオリゲネスは、さらに一歩を進めて、すべての信者である妻が、万一自分の夫に先立たれた場合に、必ず再婚しないと、あらかじめ誓願を立てておけば、すでに結婚生活の快楽の中において、天主に対するこの予約の功によって、寡婦となったときに、貞操の功徳を積むことができるといいます。誓願は、これによってなされる善行を、天主がいっそう快く受け入れてくださり、同時に、これを実行する勇気を増し、かつ、私たちの意志の果実である善行のみならず、進んで善行の根幹ともいうべき、私たちの意志を、天主に捧げるのです。単に貞操と言えば、私たちの身体を天主に貸しても、ある時期に、また、再び、これを官能の欲に使用する自由を保留しておきます。しかし、貞潔の誓願は、他日これを取り消す権利さえも保留しないで、完全に絶対的に天主に捧げ、このようにして、自らキリストの奴隷となるのであります。そうして、この奴隷的服従こそは、いかなる王位より尊いものであります。前述したこの二大学者の言葉には、私は実に同感であります。ただ、私は、幸いにこの勧告を実行しようと思いついた人々が、まず自分の勇気を試し、天主の霊示をもとめ、賢明にして敬虔なる指導者の忠告を聞いた後に、始めて、慎重に、うやうやしく、堅い決心をもって、この誓願を立てることを勧めます。これは、すべてに豊かな効果を上げるためであります。2・なお、寡婦が再婚しない決心は、純粋な動機から出なければなりません。すなわち、自分の純潔な愛情を天主に捧げ、自分の心を全く主のみ心に一致するためでなければいけません、たとえば、子供に大きい遺産を残すため、または、その他の世俗的な動機によって、再婚しないのでは、たとえ、人間の称賛を博しても、天主のみ前においては全く無価値であります。天主のみ前においては、天主のために行われた行為意外に、価値を有するものはありません。3・なお寡婦にして、真の寡婦であるためには、世俗的な娯楽を自発的に捨てないといけません。「放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です」(1テモテ5・6)と聖パウロも言いました。寡婦生活を送ろうと決心して、しかも、人々にもてはやされることを欲し、または、ダンスや芝居や宴会に顔を出したがり、または、粉飾ばかりして、香水を香らせたがるのは、体は生きていても、精神的に死んだ寡婦であります。アドニス神と、みだらな愛との住み家のしるしは、ふさふさとした真っ白い鳥の羽飾りであろうとも、顔を覆う黒い絹のベールであろうとも、あまり大した違いはありません。黒いものは、時としては、白いものの色を引き立たせるために、虚栄によって使われるではないか。すでに、婦女として、男子の心をとらえる術を知っている未亡人は、男子の心に、最も危険な誘惑を投げかけるのであります。ですから、このような、愚かな快楽の中に生きている寡婦は、生きながらにして、死んでいます。むしろ、寡婦の愚か者といった方がいいでしょう。雅歌に「刈り込みの時が来ました、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる」(雅歌2・12)とあります。まことに信心生活を送ろうとするものは、だれでも、世俗に余れるものを刈り込まないといけません。しかし、これは雄鶏を失った、山鳩のように、夫の死を嘆き悲しんだすぐ後の、真の寡婦に、なお一層必要であります。ノエミが、モアブ人の地からベツレヘムに帰って来たときに、新嫁であった彼女を知っていた町の婦人たちは、「あなたはノエミではありませんか」と尋ねたが、彼女が答えるには、「どうか、私をノエミと呼ばないでください。(ノエミとは、やさしく美しいとの意味である)、私をマラとお呼びください、主は私の霊魂を苦痛で満たしてくださいましたから」と答えました(ルト記)。彼女がこのように答えたのは、夫が死別したからでありました。このように、敬虔な寡婦は、美しいとか優しいとか呼ばれることを好みません。彼女において天主の思し召しのそのままに、すなわち、天主の御眼の前に、卑しく価値のないことを欲するのであります。香り高い油に燃える灯火は、火を消した後に、一段とかぐわしい芳香を放ちます。純潔な愛情を婚姻の間にもっていた寡婦は、その光明、すなわち、その夫が、死の手によって消え失せた後に、さらに快い貞徳の芳香を放つのであります。夫が生きている間に、これを愛するのは、婦人にとって世の常であります。けれども、夫と死に別れた後に、二人の夫に見えないほどに、夫を愛する者が、真の寡婦であります。また、夫に支えられている間に、天主により頼むのは珍しいことではありません。けれども、この支持者を失って、しかも、天主に対する希望を失わないのが、尊いのであります。ですから、寡婦となった後に、始めて、その人の結婚生活における徳行のすぐれていたことがわかるのであります。いまだ世話をしなければいけない子供、特に、その霊魂につき、ならびに、処世の方針などに関して、母親の注意を要する子供をもっている寡婦は、どのようなことがあっても、それを見捨ててはいけません。聖パウロは、明らかにこの義務を教えました。すなわち「やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです」(1テモテ5・4)、また、「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」(同上5・8)と。しかし、子女にして、もはや、面倒をみてやるには及ばない年齢に達していたならば、寡婦は、当然に全心を傾けて、天主の愛の中に、純なる心をもって、進み入ることに努めるべきであります。訴訟事件のような外面的煩いは、それが良心の命令に出る、止むを得ない事柄の他、なるべくこれを避けて、たとえ、実益上、多少の不利を来しても、精神を乱さない平和の方法で、事件を処理して行けなければいけません。精神の聖なる平和に比べれば、煩いの生む利得は、よほど大きくなければ、勘定に合いません。訴訟、その他の煩いは、必ず心を騒がし、また、この場合、他人の好意を買う必要上、天主のみ心に背く不敬虔の容姿をつくり、しばしば、貞徳の敵に心の扉を開く危険があります。祈祷は、寡婦の平常の勤めでなくてはいけません。なぜならば、ただ天主のみを愛する人は、天主に対する以外に、他の言葉を要しないはずであるから。ダイヤモンドが側にあれば、磁石に吸われても座れても、動けない鉄片が、ダイヤモンドを取り去れば、すぐに磁石に飛びつくように、夫の生きている間は、聖主の愛の御招きに応じて、天主の方に進むことをできなかった妻の心も、夫の死後は、天上の芳香を慕って、天主の方へ走らないといけません。あたかも、雅歌の妻のように、「ああ、主よ、私は、今、はじめて自由の身です、全く主のものとして私を受け入れてください」「私を引いてください、私はあなたの香油を慕って走ります」(雅歌1・4)と。聖なる寡婦にふさわしい徳行は、完全なる謙遜・名誉・地位・尊称をさけること、宴会その他の浮華なる集会に連ならないこと、貧民・病人に仕えること、悩める人を慰めること、少女に敬虔を教え、若い妻にあらゆる徳行の模範となること等であります。寡婦の衣服の二つの装飾は、清潔と簡素とであります。その眼の飾りは、謹慎と純潔とであります。そうして、十字架上のイエス・キリストは、その心の唯一の愛でないといけません。すなわち、真の寡婦は、教会の花園において、早春を開くスミレであります。その敬虔の芳香は、たぐいなく甘美にして、常に謙虚の大きな葉陰に隠れ、花の色彩は華麗ではなく、苦行の象徴であります。また、耕されない森の木陰に咲くのは、世間との交際を避けて、財宝・名誉・恋愛の煩悩の炎熱に焼かれないで、自分の心を清新に保つためであります。「しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います」(1コリント7・40)と聖パウロも言いました。この題目は言うべきことが多い。しかし、自分の境遇の名誉を保持しようと欲する寡婦は、聖イエロニモがフリア、サルヴィア、および、その他の、このような偉大な父の霊的娘である幸福を持っていた貴婦人などに書き送った、美しい書簡の数々を注意して読むようにとすすめたならば、おそらくは、これで一切を言い尽くしたのであろう。聖イエロニモの勧告には、一言も付け加える必要がありません。ただ一つ注意したいのは、真の寡婦も、再婚し、あるいは三婚し、四婚する寡婦たちを決して誹謗してはいけないことであります。天主は、時として、その最上のご光栄のために、このようにお望みになることがあります。また、古人の言った、天国においては、寡婦も、童貞女も、その謙遜の大小によって、順位を得るものであるという教訓を、少しも忘れてはいけません。

少女に与える教訓

少女たちよ、もし、あなたたちが結婚生活を期待しているならば、あなたの最初の夫のために、あなたの最初の恋愛を大切に保存しておかなければなりません。純粋で傷つかない心の代わりに、恋愛に使い古した、不純な、破れた心を、彼に与えるのは大きな虚偽と思われます。しかしながら、もし、幸いにして、至純至潔の霊的婚姻を召命に受けて、あなたの童貞を天主に捧げようと思うならば、その時こそ、あなたは、あなたの愛情を、天配のために、できる限り純潔に保たないといけません。純潔そのものである天主が、清い心以上に、よしとされることは他にありません。また、一切のものの初穂は、天主のものでありますが、分けても、愛の初穂は天主に属すべきです。あなたたちに必要な勧告は、聖イエロニモの書簡にすべて尽くされています。また、あなたたちの進むべき道は、服従の義務の道であるために、あなたたちは一人の指導司祭を選び、その指導のもとに、あなたの心身を天主に奉献しないといけません。

最も普通の誘惑に対して、必要な教訓

世俗の批評を気にしないこと

世俗の人々は、あなたが信心の道に分け入ろうとするのを見ると、たちまち、あなたに数々の冷評、悪口を浴びせかけるであろう。もっとひどい人は、あなたの発心を偽善・狂言とし、あるいはまた、人前だけだと言う人もあろう。あなたが世間で成功しないで、失敗に陥ったために、信心三昧をするようになったのだと、考える人もいるだろう。あなたの友人たちは、熱心に、種々の慎重な、親切な(と彼らは考える)忠告を与えてくれるであろう。「それでは陰気になる。世の中で信用がなくなる。交際ができなくなる。早く老いこんでしまう。家庭の用事が留守になる。世間にいるならば、世間にいるようにして暮らさないならばうそだ。そんなに信心をしなくても、救霊は得られるだろう」等の、くだらないことを言うであろう。フィロテアよ、これらは、ことごとく、愚かな虚言にすぎません。そうして、このような人々は、決して、あなたの健康や、職務を、心配してくれるものでもありません。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15・18,19)と、救い主も仰せになりました。いわゆる、紳士・淑女にして、まだ暗いうちから、しかも、連夜、将棋をさし、カルタにふけるものがいます。彼らが勝敗を争う、その苦心にも増して、嘆かわしく、苦しい焦慮は、おそらくあるまい。ところが、これらに対しては、世の人は一言も費やさず、朋友も心を痛めません。それにもかかわらず、私たちが一時間の黙想をし、あるいは、聖体拝領に準備をするために、すこし朝早く起きたりすると、私たちの健康を心配します。一か月間、毎夜続けて踊りあかしても、苦しくない人が、クリスマスの夜、一晩の祈祷のために、次の日には風邪をひいたとか、腹が痛いとか言います。世間が、自分の子どもたちには寛大・親切にして、天主の子どもたちには厳格・無情なる不正の法官であるのは明らかであります。私たちは、世間と共に滅亡する覚悟がなければ、到底、それと、歩調を共にする訳にはいきません。世間は、きまぐれすぎるので、その気に入ることは、ほとんど不可能であります。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(ルカ7・33)と、救い主も仰せになりました。フィロテアよ、もし、我らにして、世間と妥協して、共に笑い、戯れ、踊るならば、世間は私たちにつまずき、これに反して、もし、これをしなければ、偽善と呼び、憂鬱とそしります。私たちが美しい衣服をまとえば、野心ありと評し、もし、これを脱げばケチと言います。私たちの快活はふしだらであり、私たちの苦業は無用の悲哀である。このように、世間はわたしたちを敵視するため、なにをしても気にいるはずがありません。私たちの欠点が誇張され、罪悪として宣伝され、小罪は大罪に考えられて、私たちがか弱さによって犯す罪は、悪意をもってする罪と解せられます。聖パウロは、「愛は情けあり」と言ったが、世間は始めから敵意を抱きます。「愛は、他人の悪を思わない」はずであるが、世間は、常に、悪を摘発するのに一生懸命であり、たとえ、私たちの行為に、非難の余地がない場合にも、私たちの意志を邪推します。オオカミが羊を襲うときに、羊の角の有無を問わないで、色の黒白を論じないで、これをむさぼり食べずにはいられないのと同じであります。私たちが何をしても、世間は必ず非難します。聴罪神父と長く談話をすれば、なんのためだろうと疑い、短い談話をすれば、すべてを打ち明けないであろうと言います。世間は、私たちの行動を監視します。もし、私たちが、一言たりとも、怒るならば、耐えがたい短気とののしり、熱心に職務に従事すれば、貪欲と評し、柔和であるならば無気力とそしります。しかし、世間の子たちの憤怒は勇気であり、貪婪は倹約であり、なれなれしさは正しい交際であります。クモはミツバチの仕事を必ず妨げるものであります。フィロテアよ、盲目者には相手にしてはいけません。昼の鳥を脅かすために、叫び立てるフクロウのように、望み通りに叫ばせて、打ち捨てておきましょう。そして、私たちは、決して動じない決心をもって精進しましょう。天主に身を捧げ、敬虔の生活に入ったことが、果たしてまじめであるか、そうでないかは、私たちの忍耐が証明するでしょう。彗星も、普通の星も、一見同じような光度を有しますが、彗星はただ一時で、数日後に消えてしまい、後者は何日までも変わらず確実であるために、両者の区別は容易であります。私たちの敬虔生活の最初に、反対を受け、誹謗を受けるのも、決して悪いことではありません。なぜならば、無情残酷のファラオの命令を受けて、イスラエル人の男児を、生まれるとすぐに、ことごとく殺したエジプトの産婆にも比べることのできる、虚栄心と傲慢との危険を、これによって免れることができるからです。私たちは、世間より十字架につけられた。ですから、私たちは、世間を十字につけなければいけません。世間が私たちを愚かとののしるならば、私たちは世間を狂っていると呼びましょう。

勇気を持つべきこと

光りは私たちの眼に、美しく快いが、長く暗黒の中にいた人は、これに幻惑します。また、他国人と交際すれば、彼らが、いかに礼儀正しく・丁寧であろうとも、慣れるまでは、奇妙な風俗に驚かないといけません。愛するフィロテアよ、新たに信心の生活を始めたあなたも、最初は、生活様式の変化の為に、心中に種々の動揺を覚え、また、世間の愚かな遊戯に告げた別離を惜しむ、一種の悲哀と失望とを感じるかもしれません。しかし、たとえ、このようなことが起こるとしても、少しの辛抱であります。それは、単に、慣れない事柄に対する、少しばかりの驚異にすぎません。その時期が去れば、無限の慰安が湧いてきます。最初は、世の愚かな人が、あなたの虚栄心を讃えたへつらいを、捨て去るのが惜しいかもしれませんが、しかし、あなたは、天主が真実にあなたに与えてくださろうとしている永遠の光栄を失うつもりなのか?過去の年月に愛好した遊戯や娯楽は、あなたを後方に引き戻すために、誘惑となって念頭に浮かぶこともあるだろう。しかし、あなたは、このような虚偽の享楽の為に、天国の永遠の幸福を捨て去る勇気がありますか?私を信じなさい、もしも、あなたが耐え忍ぶならば、まもなく、溢れるばかりの歓喜があなたに与えられるであろう。そうて、この幸福に比べれば、世間の楽しみは苦い胆汁であり、また、一日の信心は、千年の世俗生活にまさるというようになるであろう。また、あなたは、キリスト教の完徳の山頂がきわめて高いことを見て、「ああ天主よ、私は、どのようにして、これを登ることができるのだろうか?」との嘆声をもらすかもしれません。フィロテアよ、勇ましくありなさい。やっと、翼が生えたばかりの小蜂は、蜜を集めるために、花の間を飛ぶことができずに、近くの小山にも行くことができません。しかし、親蜂のつくる蜜を食べて少しずつ成長し、強くなれば、やがて自ら蜜を求めて、どこにでも行けるようになります。本当に、私たちは、まだ信心の道における小さな子蜂であります。私たちの理想通りに、キリスト教的完徳の頂上を極めるという、大きな望みを成就するだけの能力はありません。しかし、もしよい希望と決心をもって、霊魂の容姿を整えていったならば、そのうちに翼も生えて、ついに霊的な蜜蜂となって飛翔しようという願望も、空想でなくなるであろう。それまでは、昔の敬虔な人々が残していった、教訓の蜜で生きましょう。また、天主に祈り、単に、現世のうちに飛翔するのみならず、永遠の来世に憩うことができるために、鳩の翼をくださることを願おうではありませんか。

誘惑の性質、ならびに、誘惑を感じること、これに同意することの違いについて

フィロテアよ、ここに、例えば、ある若い王妃がいて、王にこの上なく寵愛されていたとします。そうして、ある悪人が、王妃をたぶらかそうとして、恥ずべき恋慕の使者を送って、邪悪な思いを告げたと仮定しましょう。そうすれば、第一に、この使者が、王妃に、自分の主人の邪念を打ち明け、第二に、王妃は、この使者の使命を喜び、あるいは憤り、第三に、同意し、あるいは拒む順序になります。このように悪魔と世と肉とは、天主の御子に配された霊魂を発見するとすぐに、これに種々の誘惑を送ります。この時、罪がまず提示され、第二に、霊魂はこれを喜び、あるいは憤り、第三に、これに同意し、または拒否する。すなわち誘惑、楽しみ、同意は、罪悪に堕ちる三段階であって、この三段は、たとえ、あるゆる罪について明らかでなくても、少なくとも重大な罪悪については明瞭であります。いかなる罪に関する誘惑も、また、それが、たとえ、私たちの一生涯の間、継続したところが、私たちがこれを愛さないで、これに同意をしない限り、天主のみ心を傷つけるものではありません。その理由は、誘惑を感じるのは、私たちの所業でなくして、私たちは、単に、これを凌いでいるのみであるので、また、私たちがこれを喜ばない以上、なんらの責任も、私たちにないからであります。聖パウロは、長年間、肉欲の誘惑に苦しみました。しかし、それは天主のみ心を傷つけないばかりでなく、かえって天主の栄光となった。フォリニョの福者アンジェラも、また、激しい肉欲の誘惑を受けました。彼女が自ら語るところ、読む人は、みな側善として彼女を哀れまなければいけません。聖フランシスコが、いばらの中に身を投じ、聖ベネジクトが雪中に転々した際の誘惑も、また恐るべきものでありました。しかし、両人とも、このために、天主の聖寵を失うことなく、かえって、ひとしおこれを増したのであります。フィロテアよ、されば、たとえ、誘惑にかこまれても、私たちは、ごうも勇気を阻喪する要はない。これに嫌悪を感じる間は、決して敗れたのではないと知らないといけません。また、誘惑を感じることと、同意することとの差異を忘れてはいけません。たとえ、誘惑を感じても、これを嫌悪することは可能であります。これに反して、同意する時には、必ずこれに楽しみを覚えます。このようにして楽しみは、一般に、同意に至る道程であります。されば、私たちの救霊の敵である悪魔が、いかほど、奇怪なる蠱惑を示しても、また、絶えず私たちの心の戸口にたたずんで、内部に入ろうとしても、またいかに多くの示唆を試みても、私たちがその一切を喜ばない決心をしている限り、天主を凌辱した憂いはありません。これは、あたかも、前の比喩の王妃が、使者のもたらす手紙に、なんの喜びも覚えない限り、それについて、王の寵愛を失わないのと同一であります。ただし、霊魂と王妃の間には、一つの差異があります。王妃は手紙を発見した後に、もしそのつもりならば、使者を追い返して、再びこれに耳を貸さないこともできますが、霊魂は、たとえその都度、誘惑に同意することができても、全然これを感じないのに至ることは不可能であります。しかし、上述した通り、誘惑は、私たちがこれを喜ばない限り、いかに長く続いても、私たちを害することはできません。さて、誘惑から生じる快感については、次の事実に注意しないといけません。私たちの霊魂は、上下の二部に分かれています。そうして、下部は必ずしも上部に服従しないで独立して行動します。それゆえ、誘惑に際して、下部が上部に同意なく、その反抗にもかかわらず、これに快感を覚えることがあります。聖パウロが「肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは肉に反します」(ガラテア5・17)といい、また「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ローマ7・23)などと記載した、内心との争闘はこれに他なりません。フィロテアよ、あなたは灰に埋もれたたき火を見たことがあるであろう。たき火をしてから数時間後に、灰をかき起こしてみれば、ほたるのような火が、わずかにその真ん中に消え残って、探すにも困難なほどでありますが、それにもかかわらず、そこにある以上、また残りの炭にことごとく点火することができるのであります。大きい、激しい誘惑に処する間の、私たちの霊的生命、すなわち、天主の愛は、これと異なることはありません。誘惑が、私たちの霊魂の下部に、快感を投じるとすぐに、私たちの霊魂はことごとく灰と化し、天主の愛はほたるの火のようにささやかとなり、心のまん中、精神の奥に隠れ、かろうじてこれを見出すほどの状態になってしまいます。しかし、それにもかかわらず、天主の愛は、厳然としてそこにあるのであります。なぜならば、私たちの霊魂と肉身の全部が、たとえ、いかに惑乱しようとも、私たちは、罪に(すなわち誘惑に)同意するまいとの堅い決心を有しているから、また、この際に、私たちの外なる人を喜ばせる快感も、内なる人を喜ばせず、意志の外部を包囲しても、内部に侵入して来ないから、すなわち、それは、私たちの意志に反する会館で、それゆえに罪悪ではないからであります。

誘惑と同意とに関する二好例

このことを十分に了解するのは、非常に大切であるから、私は、詳しく、これを説明します。ここに、聖イエロニモが伝えた、一青年の物語であります。彼は、美しい寝床に、絹の紐でやわらかく縛りつけられて、一人の娼婦がその傍に寄り添って、彼を堕落させようと、媚態の限りを尽くしていた。このときに、青年は、心のなかに、不思議なときめきを感じなかったであろうか。彼の五感は快感にひたされ、空想は、みだらなものの姿に、乱されていなかったであろうか。言うまでもなく、そうであっただろう。しかし、彼はこの混乱の中、この激しい誘惑の嵐、この官能の包囲の中にあって、なおどこまでも、誘惑に敗れず、快感に同意しませんでした。彼は、あらゆるものが自己に背き、全身のなかで舌のほか、自分の自由にならないために、自ら舌を噛み切って、憎むべき女の顔に吐きかけました。これは、暴虐な王が、拷問では彼を従わせることが不可能なことを悟って、肉欲によって、彼を誘おうとしたのです。そうして、青年は、獄卒が責め苦しめるよりも、この官能の快感のため遥かに苦しんだのです。シエナの聖女カタリナの、同じ誘惑に対する闘いの物語は、また私たちのよい模範であります。その大筋は次のようであります。あるとき、悪魔は、あらゆる限りの凶暴をつくして、この聖童貞女の潔徳を攻撃する許可を天主より得ました(彼女の体には、一指をも触れることを許さなかったが)。悪魔は、たちまち、聖女の心に、ありとあらゆる不潔な想像を満たし、なおも彼女を誘うために、その伴と共に、男女の態をして、その前に現れ、恥ずべきことばをかわし、またあらゆるみだらな光景を示しました。そうて、すべてこれらの出来事は、五感を通じて彼女の心の中に侵入して、(彼女が後に物語ったところによれば)、これを満たし、この肉欲の暴風の中で、動かされなかったのは、ただ一点の彼女の上部的意志だけでありました。この状態は長く続きました。しかし、ついに、ある日、聖主が彼女に出現なさって、誘惑は静まりました。「ああ、私の愛する主よ、私の心が暗黒と不潔とに満ちていた間、主はどこにおいででしたか」との聖女の問いに、主は答えて、「娘よ、あなたの心の中に」と仰せられた。聖女はさらに、「主よ、どのように、この不潔に満ちた私の心においででしたか。主は汚れた場所にお住みになるのですか」と問いました。主は「あなたの汚れた思いは、あなたに喜びを与えたか、悲しみを与えたか、苦しみであったか、楽しみであったか」と仰せになりました。彼女は「この上もない、苦しみと悲しみでした」と答えました。主が仰せになりました。「あなたの心にこの大きな苦しみと悲しみを与えたのは、あなたの霊魂のなかに隠れていた私でなくて、誰であろうか。娘よ、もし、私が、そこに居なかったらば、あなたの意志の周囲にあって、しかも、あなたを屈服させることができなかった邪念は、間違いなくあなたを破り、内部に入り、あなたの霊魂を殺していたであろう。ところが、私が内部にいたために、私は、あなたの心にこの不快感、および、抵抗力を与えて、あなたは、これでもって、全力を尽くして、誘惑と戦ったのです。そうして、あなたは誘惑を思いのままに退けることができなかったので、誘惑に対して、ならびに、自分に対して、ますます不快と憎悪を増したのです。こうして、あなたの苦しみは大きな功徳となり、また、あなたが徳を積み、精神の力を加える方法となったのです」と。フィロテアよ、すなわち、火は灰に、覆われていたのです。誘惑と快感が心の中に侵入して、意志を包囲したときに、自然に意志だけ救い主に助けられながら、苦痛・不快・憎悪をもって、暗示された罪悪に反抗して、自分を包囲する罪に絶えず同意を拒んでいたのです。ああ、天主、天主を愛する霊魂にとって、主が自分の内部に止まっているのかどうかを知らないで、また、自分は、ただ天主の愛のみ戦いつつあるのに、その天主の愛が、自分の中におられるのかいないのかを知らないのは、どのような苦痛でしょうか。ところが、そのために戦い、また、それによって戦う御者(天主)に対する愛を、持っているのかどうかを知らない状態にいる愛人を、愛のために苦しませ、戦わせる、そこに、天主の愛のとても絶えることのない花が存在するのです。

誘惑の中にある霊魂の慰藉

フィロテアよ、このような激しい悪魔の攻撃、猛烈な誘惑は、天主が、特に至純・至妙の愛の生活に導こうとお望みになる霊魂に限って、これをお許しになります。しかし、この闘いを経たからと言っても、必ずしも、至純・至妙の愛の心境に達することができると決まっていません。この種の激しい誘惑に対処して、天主に忠実だった人々が、後に、天主の聖寵にふさわしく行動しないで、ほんの小さな誘惑に敗れることもまれではないのです。私の言葉は、万一、あなたが、とても激しい誘惑に悩むような場合にも、これは、あなたが天主のみ前に成長させようとしてくださる特殊の恩寵であることをあなたに思い起こさせ、また、それにもかかわらず、常に謙遜で、天主を畏れ、天主に対する不断の忠誠を持っていなければ、大きな誘惑に打ち勝ったのち、小さな誘惑に敗れることがあることを、あなたに教えたいのです。いかなる誘惑を受けても、そのためにいかなる快楽を感じても、あなたの意志が、誘惑および快楽を承認しない限り、天主に背くことにならないので、特に不安を覚える必要はありません。意識がなく、声掛けに反応しない人がいる場合、その人の胸と腹部の動きを見て、このとき、正常な呼吸を確認できれば、それはその人に生命があるしるしです。そのように、時として、激しい誘惑のために、私たちの霊魂が全く気力を失い、ほとんど死んでいるかのように、身動きもしないことがあります。このような場合には、心の呼吸(動き)を確認しましょう。そして、この心、すなわち、意志が、誘惑と快楽とを承認することを、拒否する働きをしているかどうかを調べましょう。私たちの心に、この拒否の運動が存在する限り、私たちの霊魂の生命である愛徳は、まだ残っており、救い主イエス・キリストも、潜在的でありますが、確かに私たちの霊魂に御住みになっていることが分かります。そして私たちは、祈祷と、秘蹟と、天主における信頼との不断の勤めによって、やがて気力を回復し、完全な生命を楽しむことができるようになります。

誘惑、および、快楽が罪を構成する場合

3章の比喩の中で、王妃が誘惑に対して罪を負うことがないのは、自己の意志に反してこの誘惑がきたと、仮定したためです。しかし、もし、そうではなく、王妃の方に恋慕の心があって、暗にそのきっかけを作ったならば、王妃は、慕い寄られたということに対しても、罪を負わなければならず、その態度が、どれほど隠微であったとしても、決して、罪と罰を免れることはできません。この比喩のように、私たちが誘惑の原因となれば、単純な誘惑も、私たちにとって罪であります。一例をあげれば、賭けをして遊べば、私は、しばしば、憤怒・冒涜の言葉を出し、賭けがその誘惑の機会になることを知っている。それにもかかわらず、賭けをすれば、私はその間に湧いて来る、一切の誘惑の責任を負わなければなりません、あるいはまた、ある人と話をすれば、必ず誘惑を受けて罪を犯すことを知っていながら、その人を訪ねるならば、私が受けるあらゆる誘惑は罪となります。次に、誘惑時に生じる快楽を避けることができる場合に、これを避けなければ、快感、ならびに、それに対する承諾の程度、および、継続時間の長短に応じて、必ず罪を構成します。たとえば、3章の比喩の王妃が、みだらな不義の申し出を聞くことに止まらず、その後、なおこの問題に関して、種々の空想をめぐらして、その快感を楽しむとしたならば、王妃は確かに罪を犯しています。なぜならば、たとえ、その申し出の実行を承諾する意志はなくても、彼女は、その時に覚える満足の情をもって、空想のなかで、これを承認しているからです。邪淫とは、心、もしくは体を、不義に用いることです。しかし、この際、心がこれに関与しないで、体のみを用いたのでは、罪は構成されないほど、心の態度は重大であります。したがって、もし、あなたがある罪について、誘惑を感じたならば、故意に誘惑を受ける機会を作ったかどうかを調べるといいです。もし、そうならば、あなたが自ら冒した危険について、単なる誘惑も罪であります。あなたが容易く誘惑を避けることができた場合、もしくは、あなたが誘惑の来ることを予知して、あるいは、予知すべきはずなるにかかわらず、警戒を怠った場合も、これと同様であります。これに反して、あなた自身が誘惑の原因でなかったならば、いかなる誘惑といえども罪ではありません。あなたが誘惑に付随する快感を避けることができて、しかも、あえて、これを避けることをしなかったならば、その快感を楽しんだ時間の長短、ならびに、快感を楽しんだ動機のいかんによって、必ず多少の罪を犯したのであります。たとえば、ある女が、格別その機会を作らないで、他より不義の思いをかけられ、ある快感を享楽したとします。この時、この女がこれを楽しむ唯一の理由が、甘い誘惑を聞くことにあったとしたならば、彼女は罪を犯したのであります。これに反して、もし、懸想した男が、音楽を奏でて、彼女を惑わそうとしたと仮定して、彼女が楽しんだ快感は、不義に対してではなく、音楽の面白さ、美しさにあったとすれば、この享楽は罪ではありません。しかし、これより、不義の享楽に移る恐れがあるために、長くこれを続けることは不可であります。さらに他の例をあげます。ある人が、敵に復讐するための、巧妙・奇抜な計略を私に勧めてくれたとします。この時に、私が感じる快感が、敵に対する復讐ではなく、この巧みな計略に関する知的興味にあったとすれば、私は罪を犯していません。しかし、次第に、復讐の快感の享楽に移る恐れがあるために、長時間この楽しみにふけるのは不可であります。時として、誘惑とはほとんど同時にすなわち、これに対して警戒を発しない以前に、早くも快感に襲われることがありますが、このような快感は、きわめて軽微なる小罪以上になることはありません。しかし、この状態を発見したために、怠りにより、この快感を承認すべきかいなか、躊躇しつつ、そのままでいたならば、罪はやや大きい。これを発見しても、拒否しようとする意志がなく、真の放漫により拒否する意志を捨てておけば、罪はさらに大きい。最後に、熟慮を重ねて、全く故意に、この快感を楽しもうと決心したならば、その快感の目的が悪である限り、私は大罪を犯したのです。たとえ、真実に不義を犯そうと考えていなくても、ひそかに不義の思いを抱いているのは、妻であるものにとって、大きな罪悪であります。

大きな誘惑に処する方法

あなたは、ある誘惑を感じるとすぐに、山道でオオカミか熊に出会った時の、幼児のようにすがるといいでしょう。彼らは、すぐに父母の手にすがり、あるいは、少なくとも、声を上げて助けを求めます。そのように、あなたも直ちに、天主に寄りすがり、御慈悲と助力を求めなければいけません。これが「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と、聖主が教えられた戒めであります。これにもかかわらず、誘惑が去らないで、あるいは、ますます強く来たならば、あたかも、あなたの眼に前に、十字架に磔にされたイエス・キリストがいらっしゃるように、精神の中で、尊い十字架に走り寄り、これに接吻して、決して誘惑に同意しないことを誓い、そのうえ助力を願い求め、誘惑が続く間、絶えず反復して祈り続けないといけません。これらの誓言、同意の拒否を反復する間にも、あなたは誘惑に注意しないで、かえって、聖主を仰ぎ望まないといけません。なぜならば、あまり誘惑に気を奪われると、(特にそれが強烈なとき)、ついに、あなたの勇気を失わせるおそれがあるからです。また、有益な仕事によって、あなたの精神を転じるといいでしょう。これからの仕事があなたの心を占領すれば、誘惑と悪魔のささやきは、自ら退去します。大小のあらゆる誘惑に対する、最も有効な方法は、自分の心を明らかにして、受けた暗示で生じた感情・欲念を、私たちの指導司祭に打ち明けることであります。悪魔が、誘惑しようとする霊魂に、まず求めるのは沈黙であります。あたかも婦女を誘惑しようとする人々が、最初に禁じるのが、それを親なり、夫なりに告げることであるのと同じであります。これに反して、天主が私たちに霊示を与えてくださるときには、これを私たちの長上者、あるいは、指導者に明らかにすることをお望みになります。これらの一切の手段を尽くした後、なおもがんこな誘惑が私たちを悩ませる場合に、私たちのとるべき方法は一つしかありません。すなわち、私たちの方でも、この誘惑に同意しないことを頑固に言い張ることであります。娘が同意しない間は、無理に嫁がせることがありえないように、私たちの霊魂も、拒絶している間は、いくら苦しくても、無理に罪を強いられることはありません。あなたの敵である悪魔と争ってはいけません。また、ことばも交わしてもいけません。もし、悪魔に答えるならば、聖主が彼を追い退けになった一言、「サタン退け、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えなさい』と書いてある」(マタイ4・10)のみで十分であります。貞潔なる妻は、不義を言い寄る悪人に、一言も返事をしないで、その顔も見ず、すぐに彼を追いのけて、すぐに夫を思い、以前に誓った貞操の誓願を繰り返し、すこしもためらうことはありません。このように、敬虔な霊魂は、誘惑の襲撃を発見するとすぐに、これと論争し、応答するという愚かなことをしないで、すぐに、その天配であるイエス・キリストを思い、自分の忠誠を誓い、いつまでも主だけに属することができるように祈らないといけません。

小さな誘惑にも抵抗すべきこと

私たちは、大きい誘惑に対しても、強い意志をもって、くじけないという勇気をもって戦い、尊い勝利を得なければいけませんが、しかし、一般的には、小さい誘惑に対する勝利の方が、さらに貴重・有益であると言わなければいけません。大きい敵に対する勝利が、その程度においてすぐれているならば、小さい敵に対する勝利は、その数において、大きい敵と到底比較にならないほどの、多数となることができ、従って、勝利としての価値も、またお互い匹敵して、少しも優劣をつけることができません。オオカミやクマは、青バエに比べて危険なことはもちろんです。しかし、煩わしく、迷惑になり、私たちの忍耐力の試練となるのは、むしろ後者です。殺人を思い止まるのは簡単ですが、始終その機会ある小さい怒りを忍ぶのは困難です。男にしても、女にしても、姦通の罪を犯さないのは、比較的容易です。しかしながら、流し目を送ったり、偏愛を交わしたり、特殊の好意を示してわずかな贈り物をしたり、冗談を言い合うことをやめるのは、容易ではありません。肉体的に貞操を傷つけないのは困難ではありませんが、夫妻間の愛を傷つけるのは容易です。他人の所有物を盗まないことは容易ですが、これを妬まないで、あるいは、羨望しないのは、困難です。法廷に出て偽証しないのは簡単であっても、会話のなかで一度も虚言しないことは困難です。酒を飲んで、泥酔しないことは簡単でも、常に度を守ることは困難です。他人の死を願わないことは簡単ですが、時として、ことばの不幸・失敗を願わないのは困難です。このように、憤怒・邪推・嫉妬・羨望・恋愛・戯言・虚栄・虚偽・狡計・邪念などに関する小さい誘惑は、最も敬虔に、かつ、最も真面目に天主に仕えようと決心している人々にとっても、日常でいつものことです。愛するフィロテアよ、ですから、私たちは、最善の覚悟と用心とをもって、この戦闘に望まないといけません。私たちが、このような小さな誘惑に対して、獲得した勝利の数だけの宝玉が、天国において、天主が私たちのために準備してくださる王冠を飾ることを忘れてはいけません。ですから、大きな誘惑の日に勇ましく戦うその時を待ちながら、私たちは、いま、弱くて小さな敵に対して、完全に防御しようではありませんか。

小さな誘惑に対処する方法

このような小さな誘惑は(虚栄・猜疑・不平・嫉妬・羨望・恋愛などの小さいことの)ちょうど青バエが、私たちの眼の前にチラついたり、頬や鼻にとまったりするのと同じように、その煩わしさから、なかなか逃れることはできません。ですから、これに対する最善の方法は、全くそれを気にかけないことです。なぜならば、私たちが、天主にお仕えしようという確固たる決心があるならば、これらは、たとえ、私たちに煩わしくても、決して私たちに害を与えることはできないからです。ですから、あなたは、これらの小さい誘惑を無視し、そのささやきに耳を貸さず、体のまわりを唸りながら飛び回る青バエやアブと同じように、黙ってそれを放置するといいでしょう。そして刺しに来たり、あなたの心にとまりに来たならば、そのとき、それを打ち払えばそれでいいのです。それには、特に戦争も、応答も必要でありません。ただ誘惑と反対の行為、特に天主に対する愛徳を実行すれば十分です。あなたの感じた誘惑と反対の徳を、無理に修めて行こうとしてはいけません。それでは、誘惑と争うことになります。それよりも、もし誘惑の正体を見極める余裕があるならば、それと全く反対する徳の一行為を実行し、そのあとで、十字架上のイエス・キリストを心の中で見て、主に対する愛徳の行為をもって、その御足に接吻しに行くといいでしょう。これが、小であれ、大であれ、あらゆる誘惑に際して、敵に打ち勝つ最善の秘訣であります。天主に対する愛徳は、一切の完全な善徳をそのなかに包み持っていて、個々について、個々の徳より一層すぐれているために、あらゆる悪に対抗するために絶好の良薬であります。それだけではなく、あらゆる誘惑に対して、この避難所に急いで駆けつける習慣をつくれば、誘惑の種類に気をつける必要がなくなってきます。なにか心に不穏を感じたならば、すぐにこの最善の道をとればいいでしょう。そして、悪魔は、自分の誘惑が、ことごとく、天主に対する愛徳の動機となることを見れば、ついに、全く誘惑を中止することに至るでしょう。これが、日常の小さい誘惑に関して注意することです。いちいちこれに関わろうとするなら、無駄に苦しむだけで、おそらくは何の効果もあげることはできないでしょう。

誘惑に対して霊魂を強める方法

あなたは、時々内省して、あなたの霊魂を乱す主な欲情を検査して、ついで、思い・言葉・行為において、これらと正反対の生活スタイルを励まないといけません。たとえば、あなたの主な傾向が虚栄心であるならば、しばしば、「臨終の日に当たって、これらの虚栄は、どれほど良心の重荷になるであろうか。虚栄は、どれほど高貴な心にふさわしくないのか。虚栄は、幼子の遊戯に過ぎないではないか」などと自問し、人間世界のはかなさを考えなさい。また、しばしば、虚栄と反対の言葉を言いなさい。それが本心から出ていないと信じる場合でも、虚栄を、とても嫌うとたびたび言明するといいです。そうすれば、あなたは虚栄の嫌いな人だと評判されるようになり、またその宣言を反復するうちに、たとえ、最初はそれにひそかな執着をもっていても、やがて真実にこれを憎むようになってきます。また、心のなかで苦しく感じても、できるだけしばしば、謙遜・屈辱の行為を実行しなさい。こうすれば、謙遜が習慣となり、虚栄心は自然に衰えて、誘惑の際にも、誘惑を助ける悪傾向を減らしているので、あなたは簡単に、これを征服することができます。もし、あなたに吝嗇(=ケチ)の性癖があるならば、「吝嗇は、使うためにつくられたものの奴隷となることで愚の骨頂である。また、臨終に際しては、いかに残り惜しくても、財貨と別れて、それを浪費する誰か、あるいは、それがかえって、身の破滅の源になる誰かの手に残さないとならない」等の思いを発するとよい。また、言葉を尽くして吝嗇をののしり、世間の富を軽んじ、あえて、しばしば慈善を行い、また、時として、故意に財産を増やす機会をなくすといいです。もし、あなたが、他人を愛し、また、他人から愛されたい性質ならば、「このような遊戯的恋愛があなたにとっても、他人にとっても、どれほど危険であるか。私たちの霊魂の最も貴い感情を、遊戯のために遊ぶのが、いかにふさわしくないか。また、いかに、これが不真面目と非難するのに値するか」としばしば思い、また、機会あるごとに清浄・純潔を賛美し、さらに、できるだけたびたび、潔徳の行為を実行し、性的興味を刺激させるすべてを避けなければいけません。これをまとめると、平和のとき、すなわち、あなたの陥りやすい罪の誘惑が急迫しない間は、努力して、それと反対の徳を実行し、その機会がない場合には、むしろ、積極的に戦いをいどむといいでしょう。これが、あなたの将来の誘惑に対して、あらかじめ霊魂を強める方法であります。

精神の不安について

精神の不安は誘惑ではありません。しかし、多くの誘惑が生じる源泉であるから、これについて一言いう必要があります。悲哀とは、自分の意志に反して生じる悪に対する精神の苦悩であります。それには、貧窮・疾病・他人から受ける軽蔑などの外面的の悪もあり、また、無知・心の乾燥・憎悪・誘惑などの内面的の悪もあります。そして、霊魂がある悪を発見して、これを嘆く時、これが悲哀であって、次の瞬間に、急いでこの悪を去ろうとして、そのための手段を求めます。誰であっても、善を願い求め、悪と信じることを避けるので、ここまでは、きわめてもっともな振る舞いであります。しかし、もし霊魂が、天主を愛するために、自分の悪を去る手段を考え実施するなら、これによって忍耐・柔和・謙遜・平静を失うことなく、救済を、自分の苦心・努力・勤勉よりも、むしろ天主の憐れみと摂理とに待つはずです。これに反して、自愛心のために、自分の悪を去る手段を考え実施するならば、彼は、あたかも、天主の御助けよりも、むしろ、自己の努力で成功すると信じているかのように、夢中になってさまざまな計画をめぐらすのであります。その人が成功すると信じているのだ、というのではありません、信じるかのように焦慮しているのです。それで、もし、自分が求めているものを、すぐに発見しないと、そこに激しい不安と心配とが起こります。この二者は、先ほどの悪を退けることはできず、さらに一段とこれをつのらせるので、従って、霊魂は、過度の苦悩・悲嘆に沈み、ついで全く勇気を喪失し、自分の悪に、もはや救済の望みが絶えたと思うようになるのです。最初は正当であった悲哀が、不安を生むのに至る道程はこの通りであります。そして、不安はさらに一層の悲嘆を生み、これには非常な災いが宿っています。罪を除外すれば、不安は、霊魂にとって最も不幸な災いであります。ある国に内乱・反乱が起これば、その国は気力を失い、外敵の攻撃を防ぐことができなくなります。そのように、私たちの心も、内部に不安があれば、今まで獲得した徳行も支持することができず、また、諺にも「濁水を待って釣りに出かける」という通りに、機会に乗じて誘惑の手をのばす悪魔の攻撃を退けることが困難になります。不安は、自分が感じる悪から逃れたい、あるいは、自分の願い求める善を獲得したい、という過度の願望より生まれますが、その実、この不安・焦慮よりも、悪を増し、善を遠ざけるものはありません。小鳥が、網や罠にかかるのは、一旦その中に捕らえられると、無理に羽ばたきをして、逃れようともがき、ますます深くからむからであります。もし、ある悪を逃れ、または、ある善に至ろうと欲するならば、あなたは、最初に心を落ち着け、判断力と意志とに休息を与え、その後に、落ち着いてゆっくりと、あなたの希望の実現のために、順を追って適当な手段を講じないといけません。落ち着いてゆっくりとは、怠けながらに、との意味ではなく、急迫・不平・不満なく、との意味であります。そうでないなら、あなたの努力も無駄になり、すべてを失って、以前よりもひどい逆境に立つようになります。「私の霊魂は常に私の手中にあります。主よ、私は、あなたの律法を忘れません」(詩編)とダビデ王は常に言っていました。あなたも、日に一度以上、少なくとも朝夕一回ずつは、果たしてあなたの霊魂が手中にあるか、それとも、ある欲望、あるいは不安がこれを占領してなかったか、すなわち、あなたの心があなたの意志の命令下にあるか、それとも、あなたの手中を脱して、愛欲・憎悪・嫉妬・羨望・恐怖・倦怠・歓喜などの度を外れた感情にとらわれていないかを検査しなければいけません。そして、もしも、間違いに陥っていることを発見したならば、静かにあなたの心を天主のみ前に連れ戻し、あなたの感情、ならびに、希望を、天主のみ旨がお導きになるがままに、服従させないといけません。貴重なものを失うことを恐れるものは、かたくこれを握りしめます。このように、あなたも常に偉大なダビデ王にならい、「私の神よ、私の霊魂は悩み苦しんでいます。ですから、私の霊魂は常に私の手中にあり、私はあなたの律法を忘れません」と言わなければなりません。いかに小さな希望、どんな小事といっても、これがあなたの心を不安にさせてはいけません。そうでなければ、小事の後には大事が来ます。その時に、あなたの心は乱れるでしょう。不安の襲来を感じたならば、すぐに天主に祈り、また一刻を争うことでない限り、この不安の感情が全く沈静した後でなければ、自分がしたいことに着手しないと決心しなさい。どうしても、すぐに着手しなければならない事柄にしても、温和・甘美なる努力をもって自分の感情を抑え、なるべく落ち着かせてから始めて、道理に従って(あなたの欲するままではなく)、処理しないといけません。あなたの指導者、もしくは、あなたが信用する敬虔な友人に、不安を打ち明けることができるならば、これによっても、あなたは、平和を感じることができます。心の苦痛を他人に語ることは、病気で苦しむ人が、病院で治療を施して楽になるのと同様に、この際、これにまさる良法はありません。ですから、聖ルイ王は、王子に、「もし、あなたの心に悩みを感じたならば、すぐに聴罪司祭、あるいは、その他の友人に話すといい。そうすれば、その人の慰めによって、あなたの苦悩は軽くなるであろう」と遺言されたのです。

悲哀について

「神の意にかなう悲しみは、救いに至る悔いのない後悔を生み、世の悲しみは死を生む」(2コリント7・10)と、聖パウロは言いました。そうであるなら、悲哀は、その結果いかんによって、善にも悪にもなるのです。しかし、どちらかといえば、悪は善より多い。よい悲哀は、あわれみと悔悛との二種類のみですが、悪い悲哀には、苦悩・怠惰・憤怒・嫉妬・羨望・短慮の六種があります。この理由のため、知者が「悲しみは多くの人を滅ぼし、何の役にも立たない」(集会30・23)と説いたのです。悲哀の泉から流れ出る二筋のよい小川に、六筋の毒水が混じっているのです。悪魔は、善人を誘惑するために、悲哀を利用します。彼は罪悪に招くと共に、善行を不愉快にして、人間をこれより遠ざけます。また、悪魔が悲哀と憂鬱を愛するのは、自分が(しかも永遠に、)悲哀と憂鬱との運命をもっているからで、彼は、人間も、同じ運命に陥らせようとこい願うのです。悪い悲哀は霊魂を乱し、不安を生じ、過度の恐怖を与え、祈りを無趣味とし、頭脳を疲れさせ、霊魂より、思慮・決断・判別・勇気を奪い、無気力にさせます。悲哀は、地上のあらゆる美を枯らし、一切の動物を冬眠させる厳冬のように、霊魂の甘味を滅ぼし、その能力を麻痺させるのであります。フィロテアよ、もし、この悪い悲哀に襲われたならば、あなたは次に説く方法を講じなければいけません。聖ヤコブのことばに、「あなたがたの中で苦しんでいる人いるなら、その人は祈れ」(ヤコブ5・13)と。祈りは、本当に、最上の薬であります。祈りは、霊魂を、私たちの唯一の喜びにして慰める天主まで高く上げます。この時に、「ああ、あわれみの神、愛すべき神、慈しみ溢れる神、私の心の神、私の喜び、私の希望、いとしい天配、私の霊魂の愛する神よ」など、信頼と天主の愛とにあふれる感情・言語を使って祈りましょう。悲哀の傾きには、全力を尽くして逆らわないといけません。このような時間にする仕事がたとえ、気だるく、冷たく、悲しく感じられても、その理由でこれを止めてはいけません。悪魔は、悲哀をもって、私たちの善行を妨げようとするのですから、私たちがこれを中止しないで、不撓・不屈の精神をもってこれを継続し、したがってその善行の価値がさらに高まるのを見れば、やがて妨げをしなくなります。讃美歌を歌うのもいいことです。悪魔はしばしば、これによって邪魔することを止めました。その実例として、サウル王を苦しめた悪魔が、ダビデの歌で抑制された話をあげることができます(1列王記16・23)。そもそも、悲哀は、空虚で冷たい気分であります。ですから、精神を清め、暖め、悲しい物事を忘れるために、なるべく種類のことなる外面的の行為に従事するといいでしょう。たとえ感情が伴わなくても、外面的に熱心な行為をすることが必要であります。たとえば、十字架上のみ姿を抱きしめて、胸に押しつけて、御手・御足を接吻し、また、眼と腕とを、天に向かって高く上げて、下のような愛と信頼とのことばを繰り返すといいでしょう。「愛する者は私のもの、そして私は彼のもの」(雅歌2・16)。「私の愛する人は、私の胸に入れた、小さな没薬の袋のようです」(雅歌1・12)。「私の目はみことばを思い、『いつ私を慰められるのか』と言いつつ、仰せを待っております」(詩編118・82)「ああ、イエスよ、私のところに来てください、そして私のなかで生きて下さい、そうすれば、私の霊魂もまた生きるでしょう」「だれが、キリストの愛より、私たちを引き離すことができるのか」(ローマ8・35)などなど。適度のむちは悲哀の良薬です。自ら求める肉体の悩みは、内面的な慰めを与えます。この時、霊魂は外面の苦痛を感じて、内面の苦痛を忘れるのです。また、頻繁に聖体拝領するのも、とてもよい手段で、この天使のパンは、心を堅固にさせ、精神を幸福にさせます。あなたの悲哀に基づく、あらゆる感情・希望および思いを、謙遜に忠実に、あなたの指導司祭に打ち明けなさい。なるだけ、精神的な人々と交わり、心が悲哀に閉ざされるようなときには、特にしばしば彼らを訪問しなさい。そして、最後に、天主のみ摂理に自分を託し、この悲哀の悩みを、過去のむなしい歓楽の罰として忍耐すれば、試練の後に、天主が、この不幸からあなたを、お救いになることは、疑いの余地はありません。

霊的感覚的の慰め、および、これに処する方法

天主は、この大宇宙に、不断の変化をおつくりになりました。 昼は夜と相次ぎ、春は夏、夏は秋、冬は春と変わり、また、一日として他の日と同じものはありません。あるいは曇り、あるいは雨が降り、あるいは晴れて、あるいは風が吹く。実に、これらの変化が、この宇宙に美観を添えるのです。人間もその通りで、古人が人をさして、小宇宙と呼んだのも、いかにももっともであります。人間も、決して常に同一状態ではありません。人間の生涯は水のように地上を流れ、その変化はこの上なく、あるいは、高く希望し、あるいは、低く恐怖し、あるいは、慰めによって右曲し、あるいは、逆境によって、左折し、一日として、一時として、全く同じではありません。ですから、私たちに最も必要なものは、環境の変化にもかかわらず、心を絶えず不変不動に保つことであります。私たちの周囲において、たとえ、すべてが変化し、浮動するとしても、私たち皆は、常に天主を眺め、向上の一路をたどって、常に変わらないことが大切です。船は、何処の海に浮かんで東西南北の何処へ航路を定め、いかなる風に帆をはらませても、その羅針盤は美しい北極星を指しています。ただ単に、私たちの周囲のみならず、また私たちの内部のものさえ、上下転倒するような場合にも、すなわち、私たちの霊魂が、悲哀・歓喜・慰め・苦悩・平和・光明・暗黒・誘惑・休息・快・不快・観想・幸福の何の状態にあったとしても、すなわち、厳しい暑さの日にも、甘露でうるおす日にも、いつもいつまでも、羅針盤である私たちの心・精神、私たちの上部意志の先端は、絶えず常に、創造主・救い主、唯一至上の善である天主の愛に向かうべきであります。「私たちは生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」(ローマ14・8)。「誰がキリストの愛から私たちを離すことができようか」(ローマ8・35)。いいえ、私たちを主の愛より引き離すものは何もありません。受難も、心痛も、死も、生も、現在の困苦も、将来の悲運の怖れ、悪魔の謀略も、慰めの高さも、苦悩の深さも、甘美な幸福も、乾燥・寂しい不幸も、イエス・キリストにある神の愛より私たちを離すことができるものはありません。決して天主を捨てることなく、また、その甘美な愛を忘れることはないとの決心は、人生のきまりである様々な変化の真ん中において、私たちの霊魂を、清い平静状態に保つのに、必要なおもりであります。ミツバチは、野の面で烈風に襲われると、小さい砂を抱き、空中でバランスを取り、風に吹き飛ばされないように努めるといいます。このように、私たちの霊魂も、尊い天主の愛を決心の鉄腕を抱擁すれば、その内外たるを問わず、また、その霊的なると物的なるとを論じないで、あらゆる慰めと悩みとの変遷不定なる間に処して、完全に安定を保つことができるのです。以上の総論の他に、私たちには特殊の事項に関する注意が必要です。㈠信心とは、私たちを涙と嘆息とに導き、または、ある種の霊的勤めにおいて 、快感を伴う満足を与える、感傷的な心の甘美感・慰め感、あるいは感覚的の幸福感のことではありません。いいえ、愛するフィロテアよ、 信心とこれらとは決して同じではありません。このような喜びと慰めを感じて 、しかも非常な悪人であり、真の信心はおろか、天主に対する単純な真の愛徳すら持たないものが世間にたくさんいます。昔、サウル王はダビデを殺そうとして、彼を追跡し、エンガッディの荒野にて、ダビデとその部下の兵士とが潜伏していた岩窟に、それと知らず、単身入り込んだことがあります。ダビデが、この時、サウル王を殺すことは、極めて簡単なものでした。しかし、彼は、王になんらの危害を加えず、恐怖も与えず、望み通りに洞窟を去らせた後、後ろから王を呼び止めて、自分の無実を訴え、王の命が、自分の手中にあったことを示しました。このとき、王は、ダビデに、自分の心が解けたことを証明するために、ありとあらゆる言葉を尽くしました。王は、ダビデを私の子と呼び、声を放って泣き、彼を称えて、その慈しみを嘆じ、彼のために祈り、彼の未来の未来を予言し、自分の子孫を彼に託しました。この際のサウル王が示した柔和は、例えのないものであったが、それにもかかわらず、彼は真実に自分の心を改めることができなくて、しばらくして、以前と少しも変わらない、残酷な迫害を、ダビデに加えたのであります。このように、天主の御慈しみ、救い主のご受難のことを思って、心砕けるように思え、ため息をつき、涙を流して、感傷的に、かつ、祈り、かつ、感謝して、いかにも、大きな敬虔の念に満たされたように、見える人がいます。しかし、いよいよ、試練を受けてみると、ちょうど、真夏の日の夕立が、地に降り注いでも 、真にその内部に染み込まず、無駄に、何の価値もないキノコ類を生えるのに過ぎないように、感傷的な涙は、邪悪なある心を潤しても、その中にしみ通らないために、全く無益であったことがわかります。なぜならば、彼らは、そのために、不正に取得したお金の一銭も手放さず、ただ一つの邪念を捨てようとも欲しないで、また、彼らが涙を流した救い主に仕えるために、少しの犠牲さえ捧げようとしないからです。彼らの良い感情は、真の信心ではなくて、かえって、しばしば悪魔の邪悪な一種の精神的なキノコに過ぎません。悪魔は、人間に無価値な慰め送り、その中に麻痺陶酔させ、このように、真の堅固なる信心、すなわち、天主の御旨と信じるところを、喜んで直ちに実行する、堅忍不抜の意志を獲得することを妨げるのです。病める母を癒すために、医師が小手術をするのを見ても、すぐ泣き叫ぶ幼児に、母が、その手にするリンゴあるいは、ボンボン菓子の袋を離すように命じても、なかなか素直に命令を守れません。私たちの感傷的な信心の多くも、このようなものであります。十字架上において、イエス・キリストの御心がやりで貫かれる御胸を思って、私たちは感傷的な涙をこぼします。フィロテアよ、私たちは父にして、救い主であるイエスのご受難・ご死去のために泣くことはよいことに相違ありません。しかし、なぜ、私たちは、主の切望している私の手中のリンゴ、すなわち、最愛の聖主が私たちに求める、唯一の愛の果実である私たちの心を、主に捧げることを拒むのか、聖主が奪おうとする小さな愛着・好み・喜びなどを拒むのは、天主の聖寵よりも、むしろこれらのボンボン菓子を愛するからではないのか。このようなものは、結局、幼児の愛にすぎません。感傷的で優しくても、か弱く、空想的にして、実益がありません。真の信心は、このような感傷に基づく行為には存在しません。感傷的の信心は、あるいは、私たちをだまして惑わすために、悪魔が、私たちの空想を興奮させる結果であることもしばしばあります。㈡しかしながら、このような感傷的な甘美感も、時として有益なことがあります。なぜならば、これが霊的の食欲を刺激し、精神を強め、生き生きとした、抑えがたい一種の清い喜びを信人に与え、外観的にも私たちの行為を美しく、快くすることがあるからです。ダビデ王が、「御言葉は私の上あごに甘い、口に含む蜜よりも甘い」(詩篇118-103)と叫んだのもこの霊的事物に対する甘美感を言い表したのです。本当に、私たちが受ける最もかすかな信人の慰めも、世俗の無上の幸福とする心に十分に勝っています。天配の乳房の乳、すなわちその寵愛は、霊魂にとり、地上の娯楽の最上の美酒よりも、はるかに甘美であるために、一度これを味わった人は、他の一切を、耐え難い苦痛と感じざるを得なくなります。人が、もし、シティスス草の葉を口に含めば、非情な甘味を覚え 、飢えと渇きを感じません。そのように、天主より、霊魂の甘い慰め、天のマンナを賜った人は、もはや、地上の楽しみを受けることはできません。少なくとも、この楽しみの虜となって、これに愛着することはできません。これこそ、天主が永遠の歓楽の予感として、主を求める者に与えてくださる幸福です。いわば、幼児をなつけるためのボンボン菓子、人々を励ますための精神的飲料です。また、時としては、永遠の賞与の保証であります。昔の物語に、アレキサンドル大王が、かつて大洋を航海した時、吹くそよ風での香りによって、「幸福のアラビア」が近いことを知り、大王始め、一同非常な勇気を奮い起こしたと記されています。このように、私たちも、この浮世の大海のなかで、私たちの憧れ目指す天の故郷の楽しみを予覚させる幸福・甘美感を感じるのです。㈢上述の如く、ここに、天主の賜物である良い慰めと、無益、危険、時として 邪悪なる慰めがあって、後者は私たちの肉、あるいは、悪魔に由来するとすれば、いかにして、私たちは両者を認め、その善悪を区別することができるであろうか。最愛のフィロティアよ、一般に霊魂の感情は、その結果によって本性を調べるというのが古来の通則であります。私たちの心を樹木に例えれば 、感情は枝で、所業はその果実です。良い感情を有する心は、良い心です。また、良い結果、神聖な行為を産む感情は、良い感情です。すなわち、私たちが受ける幸福感、あるいは慰めによって、私たちが、さらに一層謙遜に、忍耐深く、柔和に、隣人に対しては親切と同情に富み、私たちの邪念、及び悪い傾向と戦うことはますます熱心に、信心の勤めを尽くすことは几帳面に、私たちの長上に対しては、ますます従順になり、また、私たちの生活はますます質素になるならば、フィロティアよ、それは確実に天主よりのものであります。しかし、慰めか、ただ私たち自身の甘美感にのみで、私たちが、他人に対して、かえって興味を持ち、かつ、怒りやすく、忍耐少なく、頑固に、傲慢に、尊大に、冷酷になり、早くも自分を小聖人であるとして、指導者の命令・指導に従わないようになるならば、この慰めは、虚偽にして邪悪なことであるのは疑う余地がありません。㈣ですから、もし私たちが、この甘美感、この慰めを受けたならば、

①まず天主のみ前に深くへりくだりなさい。この理由をもって、「私は善人であります」と言わないように気をつけなさい。フィロティアよ、すでに説明したように、敬虔とはこの快感でありません。故に、この幸福は、人間の真価を増加するものではありません。むしろ、「ああ、主は主を望み 、主を求めるものに、憐れみ深いことか」と言わなければなりません。砂糖を舐めて甘いのは、口が甘いからではなく、砂糖が甘いからです。そのように、この霊的慰めはよく、これを与えてくださる天主もよいのでありますが、直ちにこれをもって、受ける人が良いとは言えません。

②私たちは、まだ乳を飲まねばならない幼児であることを忘れてはいけません。天主が、これらのボンボン菓子をくださったのは、私たちの精神が、まだ、幼稚であって、天主の愛に答えるために、おやつを必要とする証拠であります。

③しかる後に、普通の場合には、私たちは謙遜して、主の恩恵を大切に受けないといけません。そのこと自身が尊いからではありません。天主がこれを私たちの心にくださることであります。母親が、その子を可愛がって 、ボンボン菓子を一粒ずつ、手で子供の口に入れてやるようなものです。このように、フィロティアよ、慰めは甘美であるが、それを私たちの口・心・霊魂・精神に入れてくださるのは、慈母のように愛に溢れた天主の御手であることを思うことが、すなわち、この甘味を数層倍にする理由であります。

④このように、謙遜にこれを受け、次には、与えてくださった天主のみ旨に沿うように、これを善用することに、心を用いなければいけません。天主が、私たちに、この甘味を与えてくださったのは、どうしてであろうか。それは、結局、他人に対して優しく、主に大きな愛に溢れさせるためであります。母は、幼児の接吻を求めるために、お菓子をやるのではありませんか。ですから、私たちもこのようにたくさんの甘味を与えてくださる救い主を、接吻しに行きましょう。しかし、主を接吻するとは、主に従い、主の掟を守り、み旨を行い、御勧めを聞くことであります。すなわち、従順と忠信とをもって、優しく接吻しにいくことです。故に、もし、霊的慰めを受けたならば、私たちは、その日には、一層善行を行い、謙遜になるように心がけねばなりません。

⑤その他、私たちの心をこのような甘味・幸福・慰めに執着させないために、時として、故意にこれから離れないといけません。そして、私たちは、たとえ、これらを謙遜に受け、またこれを愛するものが(これをくださるのは天主であり、また、これによって天主の愛を増やすために)、私たちが本当に求めるのはこれらでなく、天主ご自身、並びに、天主に対する愛であります。慰めではなく、慰める者であります。甘味それ自身ではなく、とても甘味な救い主であります。幸福ではなく、天地の喜びであるお方であると申し上げねばなりません。そして、また、たとえ、私たちの一生涯に、一度も慰めを味わうことがなくても、天主の聖愛に止まって、変わることのないことを覚悟し、カルワリオ山においても、ダボル山の頂におけるように、「主よ、十字架に上らせても、または、光栄の中にあっても、主と共にいることは本当にいいことです」と言うことを決心しなければなりません。

⑥なお 最後に一言するのは、このような慰め・感激・涙。幸福が特に多い時、または、これに関して異常なことが起こったならば、その時に取るべき態度、これを抑制する方法について、あなたの指導者に謹んで教えを請うべきことであります。たしかに、「 蜜を見つけたら思う存分食べなさい、だが胸をつかえるほどは食べるな、吐いてしまうだろう」(箴言25・16)と記してあるからであります。

精神の乾燥時における心得

愛するフィロテアよ、慰めを感じる時には、前章で述べたように行えばよいが、しかし、この快い晴天はいつまでも続きません。あなたがあらゆる信心の感激を奪われ、乾燥によって、あなたの霊魂がまったく荒れ果てた地と変わり、そこには天主を求めるための道路もなく、これに注ぐ聖寵の水流もなく、荒れ果て草木もない不毛の砂漠となったかのように感じる時もあるだろう。ああ、このような状態に陥った霊魂は、(とくにその試練の激しいとき)、なんと哀れむべきか。悪魔が彼をあざけり、落胆させるために「哀れなものよ、あなたの神はどこにいるのか、どのようにして、求めることができるのか、だれが神の恩寵の喜びをあなたに返し与えるのか」とささやく時に、ダビデ王のように、彼は、昼夜自ら流す涙を自分のパンとするのです。フィロテアよ、このような時、あなたは、もとより、どのようにすればいいのか。最初に、不幸の原因を調べなさい。この乾燥・寂しさの原因が、私たちの側に存在することはまれではありません。1・子供の腸に虫が寄生する時、母は砂糖を与えません。このように、私たちが慰めに空しい喜びを覚えて、傲慢の虫に取りつかれている時に、天主はこれを取り去ることがあります。「私の神よ、主が私に困難をくださるのは、私によいことであります。なぜなら、私は、私の困難の前に主に背いたからです」。2・慰めの時にあたって、天主の愛の甘美な幸福を受けることを怠れば、主は、私たちの怠慢を罰するために、これを取り去ることがあります。イスラエル人は朝早くマンナを集めたが、日が上がってからは、それがとけて消えるために、拾うことはできませんでした。3・私たちは、時として、雅歌の乙女のように、体の感じる感覚的な満足、むなしい慰めの寝床に伏していることがあります。私たちの霊魂の浄配は、私たちの心の扉を打ち叩き、霊的勤めを再び開始しなさいと勧めます。しかし、私たちは、いつまでもためらっています。たしかに、これらの誤った満足、空しい快楽と別れるのがつらいからであります。この時、主はみ姿を隠し、私たちをそのまま捨て置くために、今度は探し求めても、主を発見することが非常に困難になります。聖主の愛に対して不忠・不信であり、世間の楽しみを追い、主の愛に背いたのですから、こうなるのも自業自得と言わないといけません。あなたたちはエジプトの小麦粉を所有します。ゆえに、天からくだるマンナは得られません。ミツバチは、あらゆる人工的な香りを嫌います。甘美な聖霊の御慰めは、世間の人工的な楽しみと、到底両立することはできないのです。4・告白に際し、あるいは、指導者に対し、自己の精神状態を打ち明ける時の虚偽、または虚構は、霊魂の乾燥・不毛の状態の原因となります。あなたは聖霊を欺いたのですから、その御慰めが拒まれても不思議ではありません。あなたは、子供のように単純・無邪気ではないのだから、子供のボンボン菓子が与えられないのは当然であります。

5・あなたがこの世の楽しみに十分に満足しているならば、霊的の幸福を必ず嫌悪するようになります。昔の諺に、「満腹となった鳩にはサクランボも苦い」と言います。聖母も「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカ1・52)と仰せられました。世間の楽しみに富んでいるものは、霊的の富をもつことはできないのであります。6・もし、あなたが、天主よりいただいた慰めの効果を、よく持ち続けるならば、さらに、新しい慰めを受けます。「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、与えられたものを保つ手段を知ろうとしないで、これを自分の過失によって失った人は、持っているものまでも取り上げられ、与えようと準備された聖寵でさえ、奪われるのに至るであろう」。雨は、青々と繁茂する草木に活力を与えるけれども、生命のない草木には、その持っていない生命をも奪ってしまう。すなわち、後者は、雨によって、まったく腐敗してしまいます。このように種々の原因によって、私たちは信心の慰めを失い、精神の乾燥不毛の状態に陥ることがあります。ですから、私たちは、このような過失を犯したのではないかと、注意して、私たちの良心を調べる必要があります。しかし、フィロテアよ、この検査に際しては、不安と過度の好奇心は禁物です。私たちは、これらの点について、私たちの所業を忠実に検査して、もし、この不幸の原因を、私たち自身の中に発見したならば、天主に感謝しないといけません。その原因が見つかれば、不幸は半ば回復したのと同じであるからです。

また、もし、この乾燥の特殊の原因を発見することができない場合には、さらに興味をもって探索を続ける必要はありません。特殊の事項を探し求めないで、きわめて単純に、以下のことがらをするといいでしょう。

1・天主の前に深くへりくだり、あなたの虚無・無価値を認めなさい。「私一人になるとき、私はなにものなのか。主よ、私は乾いた地に過ぎません。この地がひび割れているのは、天から来る恵みの雨を待てるのに、風が吹いてきて、塵埃となって乱れ散っているからです」。

2・天主を呼び、その御慰めを求めなさい。「主よ、あなたの救いの幸福を私に与えて下さい。私の父よ、できることならば、この杯を私から取り去ってください。止みなさい、私の霊魂を乾燥させる熱風よ。快い慰めの微風よ、来て私の園に吹いて、その香りをあげてください」。

3・聴罪司祭を訪れ、あなたの心を開き、霊魂を隅々まで彼に示しなさい。彼の与える教訓を、大きな単純と謙遜とをもって受けなさい。服従を最も愛する天主は、他人より、とくに霊魂の指導者から受ける、外的な普通の教訓を、たいへん有益なものとしてくださります。それは、ちょうど、特に人間的な理由がないエリゼアの命令に従い、ナアマンがヨルダンの河水に浴して、その病を癒したのと同様であります(列王記4、5)。

4、しかしながら、このような乾燥・不毛の状態に陥ったならば、これを逃れようと焦慮・煩悶することを止めるのが第一の良薬であります。私は、救いを切望することを非難するのではありません。焦慮がいけないことを説くのであります。当然、すべてを天主の純粋な憐れみと、特殊の摂理とにまかせ、思召しのままに、この茨の荒野において私たちに仕事をさせることを甘受すべきであります。ですから、このような時には、天主に、「父よ、もしできるならば私よりこの杯を取り除いてください」と祈ると共に、直ちに「しかし私の思いではなく、あなたのみ旨が行われますように」と付け加え、あらん限りの平和をもって、この中に身を置かないといけません。そうすれば、天主は、私たちのこの聖なる無関心をながめ、再び、たくさんの聖寵と恩恵とを授けて私たちを慰めるでしょう。まるで昔、アブラハムが、わが子イザヤをも、主のためにあえて惜しまないと決心したのをご覧になり、この尊い忍従の無関心をお喜びになり、たいへん快い不思議と、とても甘美な祝福をもって、彼を慰めなさったのと同様であります。私たちは肉体的・精神的のありとあらゆる困難の中に、絶えず以上の言葉を繰り返した、ヨブに対してなさったように(ヨブ1・21)、主は私たちにも、その最も甘美な恩寵をたれてくださるに至るでしょう。

5・フィロテアよ、私たちはいかなる乾燥・不毛の間にあっても、決して勇気を失ってはいけません。忍耐して慰めが来ることを待ちながらも、私たちの日々の務めを尽くして、そのために信心の業をおろそかにしないで、かえって、できるならば、善行の数を増すことが肝要であります。そうして、私たちの最愛の天配に、新鮮な果物を捧げることができなければ、せめて乾いたものを捧げましょう。なぜならば、果物が新鮮であるかないとかは、主にとって同一であるから、主にこれを捧げる人の心が、聖愛の堅い決心を持ってさえいればいいからです。晴天が続く春には、ミツバチは蜜をたくさん作るが、子を生むことは少ない。天気がよいので、花に飛び回り蜜を吸うのに忙しく、子を育てることを忘れるからです。これに反して、寒く曇りがちな春には、子を多く生み、蜜を少なく作ります。なぜならば、蜜を集めに出ることができないので、種族の繁殖に尽くすからです。フィロテアよ、霊的慰めの美しい春には、霊魂は、蜜を吸い集めるために、心を奪われて、甘美な楽しみの中に、善行が少ないことがまれではありません。また、これに反して、霊魂の冬枯れの乾燥のうちにあっては、快い感傷的な信心を失うにつれて、堅固な善業を増加することに努め、忍耐・謙遜・卑下・忍従・自我の否定など、真の善徳を豊かに生み出すのです。多くの人々、とくに婦人たちは、私たちが興味もなく、心の潤いも、感情もなく、天主に尽くす務めは、誉められることではないと信じていますが、これは大変な間違いであります。私たちの行為は、バラであります。新鮮なるバラは見る目には美しいが、渇いた花は香りが高い。そのように、心の潤いをもってなされた行為は、私たちには、すなわち、自己の喜びのみに注意する私たちには、より快いが、乾燥・不毛の中になされた行為は、天主のみ前によりかんばしく、より尊いのであります。愛するフィロテアよ、乾燥に当たって、強いて私たちを天主に対する務めに服従させるのは、私たちの意志の力です。潤いの時よりも、なお、私たちが強く忠実でなければ、これは不可能であります。平和に際して、宮廷の歓楽中に、王に仕えるのは困難ではありません。しかし、戦争の苦をしのぎ、困厄と迫害を冒して王に仕えるのは、真の忠信の徴であります。福者フォリニョのアンジェラは、天主の最も喜ぶ祈りは、自己を強いてする祈りであると言いました、すなわち、祈りに対する興味、あるいは、心の傾きによって祈るものではなく、単に天主のみ旨を果す意志でもって、祈りより私たちを遠ざける乾燥・嫌悪の情を抑えて、無理に、私たちの意志を行うところの祈りであります、との意味です。私たちは、あらゆる善行において同じ様に言いましょう。これを実現するのに外面的、内面的な障害があればあるほど、善行は天主のみ前において、尊く価値があります。徳行を追求するに際しては、自己の利益を度外視するほど、純粋な天主の愛がそこに現れます。砂糖を与えれば、どの子供でも、すぐ母を接吻するが、苦い薬を与えても、母を接吻するのは、深く母を愛する幼児に限るのであります。

以上のことがらを立証し、説明するのに適切なある実話

以上の教訓を、一層明らかにするために、私は、ある学徳のすぐれた伝記者が書いた聖ベルナルド伝の一節をそのまま転写します。「天主にお仕えすることに、まだ日が浅く、聖寵の往来、霊的状態の変化を学ばないものは、この快い信心の感情、および、天主の道に努力するために与えられる快い光明が消え失せると、たちまち勇気を失い、失望・落胆に陥ることは常にあります。道理に通じたものは、これを、人間は、あるいは天上、あるいは地上の、いずれかの幸福なくして、長く飢えに苦しむことができない理由であると説明すべきである。天上の幸福を味わうことができて、自己以上に上げられる時、霊魂は、見える地上の事物に背を向けることは、たいへん簡単であるが、これに反して、天主の摂理によって、霊的幸福を奪われ、同時に地上の慰めを持っていない時は、忍耐して真の太陽の帰りを待つことに、まだ慣れていないがために、彼らは、天にもなく、地にもなく、ただ永遠の闇に埋もれたように思って、まるで離乳させられた幼児が、乳房を離れて泣き悲しみ、一人で怒ることにとても似ています」。『今述べる旅行の間に、このこと、一行のなかに、ジェオフロア・ド・ペロンヌという、新たに天主に仕え始めた人に起こりました。彼は、突然、心乾き、慰めを失い、精神の闇に閉ざされて、世俗の友人、自分の家族、さらに、捨ててきた財産などに思いを巡らしたならば、すぐに、激しい誘惑が生じるために、ついにこれを包み隠すことができなくなった。親しい友の一人はこの様子を見て、うまく甘い言葉で彼を慰めながらささやいた。「ジェオフロアよ、なにが起こったのですか。あなたが、いつもと違って、もの思いにふけり、本当に悲しそうにしているが、どうしてですか?」と。ジェオフロアは大きいため息と共に答えた、「兄弟よ、私の生涯のうちに、私は再び楽しむことはないでしょう」と。友はこの応答をたいへん哀れに思い、師父、聖ベルナルドに、すべてこれを告げたところ、聖者は、ジェオフロアに迫る危険を恐れて、ひとり、道端の聖堂に入り、彼の為に天主に祈りました。ジェオフロアはとうとう悲しみに疲れて、一塊の石を枕として、そのまま寝てしまいました。しばらくして、聖者は恩寵を得ることができて、祈りから身を起こしました。ジェオフロアは、笑い輝く顔にて眠りから覚めました。友はこの急激な大きな変化を驚いて、さきほどの言葉を、笑いながらジェオフロアを非難したところ、彼は答えました。「私は先ほど、この後、決して楽しむことはないと、あなたに告げましたが、今は、もはや悲しみに沈むことは、絶対にないだろうと断言します」と。』この修道士の誘惑はこのようにして退けられました。しかし、愛するフィロテアよ、あなたは、この物語の、次の諸点に注意しなくてはいけません。1・天主は、始めて献身の生活に入るものに、まずしばらく、天国の福楽を味わいさせるのが通例であります。これは彼を地上の快楽より離し、天主の愛を追わせるためで、あたかも母が幼児を乳房でなつけるために、乳首に蜜を塗ると同じであります。

2・また、天主は賢明な摂理によって、時として、私たちより慰めの蜜を奪います。これは私たちを乳房から離して困難と誘惑の試練のなかで、力強い信心の堅い乾いたパンを食べさせるためであります。

3・しばしば、激しい暴風が、乾燥・不毛の間に起こることがあります。この時には、全力を尽くして誘惑と戦わないといけません。おおよそ誘惑は天主より来るものではないからです。しかし、乾燥は天主が私たちの修徳の進歩のために、送ってくださるのであるから、これを忍従しないといけません。

4・精神の困難の中においても、落胆したり、またはジェオフロアのように「私は決して幸福なることはないだろう」などと言ってはいけません。夜の暗闇にいる時にも、光明を希望しなさい。また反対にこれ以上の幸福はないと思えるほどに慰めに満ちた日においても「私は決して悲しむことはないだろう」と言ってはいけません。まさしく、知者が「幸福な日にも不幸を思うべきです」(集会11・27)とのことばの通りです。働く間に希望して、栄華の間に恐れ、そのいずれにおいても、へりくだらねばいけません。

5・私たちを慰めることができる、霊魂上の友に、悩みを打ち明けるのは、最善の療法であります。この重要な教訓の結論として、注意したいのは、天主と悪魔とは、すべて他の場合におけるように、この場合にも、正反対の目的を有することであります。天主がこの試練を送ってくださるのは、これによって、その人の心を清め、あらゆる利己心を去らせ、完全に自分を捨てて、純粋に天主に仕えさせるためでありますが、悪魔は、これによって、その人を落胆させ、肉体的快楽に招き、清い信心の名誉を傷つけるために、私たち自身および他人に対しても耐えがたくします。しかし、上に述べた教訓を守れば、あなたは、これらの精神的困難の間に実行する善徳によって、あなたの完徳の成就の助けにできることが少なくないでしょう。

この章を終わるに当たって、なお一言したいことがあります。時として、このひどい不毛乾燥の状態は、身体の違和が原因であることがあります。すなわち、たとえば、睡眠の不足、過度の労働、または大斎により、疲労・眠気・倦怠などが生じ、これが元来、肉体の違和になるにもかかわらず、心身両者間に存在する密接な関係のために、精神に悪影響をおよぼす場合であります。このような場合でも、私たちはやはり私たちの精神の尖端、すなわち意志の上部の能力をもって、多くの善業を行うことを忘れてはいけません。なぜならば、たとえ、私たちの霊魂が、まったく睡眠し、あるいは、疲労しきっているように見えても、私たちの精神の行いは、天主のみ前に尊いからです。このような時こそ、私たちは雅歌の乙女と共に、「私は眠っていますが、心は覚めています」(雅歌5・2)と言うことができるでしょう。すでに述べたように、このような努力はたとえ興味に乏しくても、功徳と善徳の価値とにおいてすぐれているのです。しかし、このような時には、また、身体に正しい休息を与え、これを力づけて、乾燥・不毛を癒さないといけません。聖フランシスコもかつて、弟子たちに、精神の情熱を冷やさないように、ほどよく彼らの労働を緩和すべきであると戒めました。この偉大な師父自身についても、下のような物語があります。彼は、ある時、精神の激しい憂鬱に襲われて、なにをしても、それから免れることができませんでした。弟子たちと話をしようとしても、それもできず、孤独になれば、苦悩はさらに深く、大小斎も肉体の苦行も、ただ苦悩をますばかりであり、祈りも少しも楽しくなく、この状態が二年にわたり続き、その間、全く天主より見離されたようでありました。しかし、この苦しい試練を、謙遜に忍従したために、ついに救い主は、一瞬のうちに、彼に無上の幸福と平和を与えたのです。私が、この物語を書くのは、天主の最大の僕といえども、この種の変化を味わうのであるから、まして初歩のものが、時としてこのような状態に陥っても、あえて深く怪しむ必要はないことを証明するためです。

霊魂を更新し、これを信心の中に堅固にさせるために、必要な勤めと教訓

以下の勤行によって、毎年、よい決心を新たにさせること

以下の勤めに最も大切なのは、その必要な理由を真に悟ることであります。私たちは、人間本来の性質によって、善い決心を失いやすい。私たちの肉身の弱さ、あるいは、その悪い傾きは、霊魂がよい決心を繰り返して、高く飛揚することをしない限り、その重りとなって私たちを下方に引っぱります。ちょうど、鳥が翼をうたなければ、飛ぶことはできないで、地上に落ちるように。最愛のフィロテアよ、それゆえ、あなたも天主に仕えようとの最初の決心を、きわめてしばしば反復しなければ、昔の状態、あるいは、さらに悪い状態に堕落する危険があります。霊的堕落の特長は、私たちが信心に向かって上方に登り始めた最初の状態以下に落ちることであります。いかによい時計でも、一日に二回、朝晩にねじを巻きます。また、そのほか、少なくとも、一年に二回は機械をほぐして、一年の間に溜まったホコリを除去し、狂ったり摩滅したりした部分を治さないといけません。そのように自分の精神を大切にする人は、前編で述べた通り、朝夕、天主のみ前に出て、精神を高く上げ、しばしば自分の精神を省察、矯正、調節し、少なくとも、一年に一回は、これを分解し、その各部分、すなわち、感情、および気分を詳しく検査して、そこに存在する欠点を癒さないといけません。時計屋は、歯車・バネ、その他のあらゆる運動部分に、よい機械油をさして、動きをなめらかにし、さびを防ぎます。そのように、信心に志す人も、その心を内省してから、さらによく更新するために、悔悛と聖体の両秘蹟の油をささないといけません。この務めは、時間のために消耗したあなたの気力を補い、あなたの心を暖め、あなたのよい決心を若返らせ、あなたの精神の善徳の花を咲かすでしょう。ナジアンズの司教、聖グレゴリオによれば、古代の信者は、これを聖主の受洗記念日に実行していたと言います。彼らはこの玄義の日に、その信仰を宣言し、天主に忠誠を誓い、かつ、毎年これを反復したそうであります。愛するフィロテアよ、私たちも彼らに倣い、進んでこれを実行し、まじめにこのことに着手しようではありませんか。そうすれば、当然、あなたの指導司祭の勧告に従い、適当な期日を選び、平常よりも孤独の境に身をおいて、第二編において私が示した黙想の方法を用いて、次の諸点について、一、二回ないし三回の黙想を行うべきであります。

天主が奉仕・献身の生活にあなたを召される時、あなたにくださった恩寵の省察

1・あなたの宣言の各部分を省察しなさい。第一、あなたは一切の大罪を忌み嫌い、捨て去ったのです。第二、あなたは天主を愛し、天主に仕えるために、霊魂と、心と、身体と、それに属するあらゆるものを主に奉献したのです。第三、もし、罪に陥る不幸に会うならば、天主の聖寵のご助力によって直ちに起き上がるはずでありました。これらは、美しく、正しく、尊く、勇ましい決心ではないか。この宣言が、いかに神聖で、道理にかない、また望ましいものであるかを考えるといいでしょう。2・だれに向かって、あなたはこの宣言をしたのか。それは天主に対してです。人間に対して結んだ正しい約束すら、厳しい義務を生じることを思えば、天主に宣言した約束はどうであろう。「ああ主よ、私の心が告げたのは、あなたに向かってです。このよい言葉を出したのであれば、私はこの約束を忘れません」と、ダビデ王は祈りました。3・これを約束したときの証人は、だれだれであったか。それはあらゆる天国の住民の前に行われました。聖母も、聖ヨゼフも、あなたの守護の天使も、聖ルイ王も、そのほかの諸聖人も、あなたをながめて、あなたの約束に喜びと励ましのことばを添えて、天主の奉仕のために一身を捧げて、その御足もとにひれ伏すあなたの心に、限りない愛の眼を注いでおられました。天上のエルサレムにおいて、その日、大きな喜びがあったのです。もし、あなたが進んで、再び決心をするならば、その記念の祝いは、天においてもあるであろう。

4・どのように、あなたは、この宣誓をしたか。ああ、どれほど、天主は、その日、あなたに慈しみ深かったことか。あなたは、聖霊の甘美な御招きによって、呼ばれたのではなかったか。天主が、あなたの小舟を、この救いの港に引き寄せてくださった二筋の綱は、愛と恵みではなかったか。天主は秘蹟・読書・祈りのうちに、神の愛が甘美であることを示して、あなたを養ってくれたのではないか。ああ、愛するフィロテアよ、あなたが眠っている間に、天主はあなたの心の上に平和を願って、あなたのために愛の配慮を思いめぐらしてくださったのです。

5・天主が、あなたを、この一大決心に導いてくださったのは、いつであったか。それはあなたの生涯の花の時期であったのです。いくら早く悟っても、早すぎるということができないことを、早く知ることができたのは、なんと幸福なことであろう。聖アウグスチノが天主のみ声を聞いたのは、彼が三十歳のときであった。このとき彼は叫んで言いました。「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを知ることが遅かったのか。常にあなたを見ていましたが、あなたを思うことはなかった」と。あなたもまた「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを味わうことが早くなかったのか」と言わねばなりません。しかも、そのときでさえ、あなたはそれに値しなかったのです。ですから、あなたが若いとき、あなたを招いてくださった天主の限りない恩寵を思って、ダビデと共に、「神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました」(詩編71・17)と言うといいでしょう。また、主があなたを召し出してくださったのが、あなたの老年においてであったとします。フィロテアよ、生涯の大半を浪費してしまった後に、これにもかかわらず、天主があなたを死の前に召し出して、あなたの罪の生活を止めてくださったのは、どんなに御慈しみ深いことであるか。もしも、そのままにいたならば、あなたは永遠の不幸を見るはずであったのに。

6・この天主の召し出しの効果を省察しなさい。おそらく、あなたの現在と過去を比較するならば、よい変化を発見するでしょう。祈りによって天主に語る方法を覚え、天主を愛する意志を生じ、あなたを不安にさせた多くの欲望の力を減らし、多くの罪と良心の煩悶を避けることができ、これまでよりも、しばしば聖体の秘蹟に近づき、永遠の聖寵の源泉に一致するようになったのは、真の幸福であります。どれほど、これらの聖寵は大きいことか。フィロテアよ、あなたはこれを至聖所の秤にかけて計らないといけません。この一切の行ってくださったのは、天主の右手でありました。「主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて、…心と、口と、行いをもって…主の御業を語り伝えよう」(詩編117・16、17)とダビデ王は歌いました。これらの省察の最後に(それはあなたによい感情を豊かに与えるはずであるから)、天主に感謝を捧げ、これを十分に利用しようとの熱烈な祈りをして、謙遜と天主に対する大きな信頼の感情に満たされて、この省察を終えるといいでしょう。新たに堅実な決心を作ることは、この勤めの第二段に譲ります。

天主が奉仕・献身の生活にあなたを召される時、あなたにくださった恩寵の省察

1・あなたの宣言の各部分を省察しなさい。第一、あなたは一切の大罪を忌み嫌い、捨て去ったのです。第二、あなたは天主を愛し、天主に仕えるために、霊魂と、心と、身体と、それに属するあらゆるものを主に奉献したのです。第三、もし、罪に陥る不幸に会うならば、天主の聖寵のご助力によって直ちに起き上がるはずでありました。これらは、美しく、正しく、尊く、勇ましい決心ではないか。この宣言が、いかに神聖で、道理にかない、また望ましいものであるかを考えるといいでしょう。2・だれに向かって、あなたはこの宣言をしたのか。それは天主に対してです。人間に対して結んだ正しい約束すら、厳しい義務を生じることを思えば、天主に宣言した約束はどうであろう。「ああ主よ、私の心が告げたのは、あなたに向かってです。このよい言葉を出したのであれば、私はこの約束を忘れません」と、ダビデ王は祈りました。3・これを約束したときの証人は、だれだれであったか。それはあらゆる天国の住民の前に行われました。聖母も、聖ヨゼフも、あなたの守護の天使も、聖ルイ王も、そのほかの諸聖人も、あなたをながめて、あなたの約束に喜びと励ましのことばを添えて、天主の奉仕のために一身を捧げて、その御足もとにひれ伏すあなたの心に、限りない愛の眼を注いでおられました。天上のエルサレムにおいて、その日、大きな喜びがあったのです。もし、あなたが進んで、再び決心をするならば、その記念の祝いは、天においてもあるであろう。

4・どのように、あなたは、この宣誓をしたか。ああ、どれほど、天主は、その日、あなたに慈しみ深かったことか。あなたは、聖霊の甘美な御招きによって、呼ばれたのではなかったか。天主が、あなたの小舟を、この救いの港に引き寄せてくださった二筋の綱は、愛と恵みではなかったか。天主は秘蹟・読書・祈りのうちに、神の愛が甘美であることを示して、あなたを養ってくれたのではないか。ああ、愛するフィロテアよ、あなたが眠っている間に、天主はあなたの心の上に平和を願って、あなたのために愛の配慮を思いめぐらしてくださったのです。

5・天主が、あなたを、この一大決心に導いてくださったのは、いつであったか。それはあなたの生涯の花の時期であったのです。いくら早く悟っても、早すぎるということができないことを、早く知ることができたのは、なんと幸福なことであろう。聖アウグスチノが天主のみ声を聞いたのは、彼が三十歳のときであった。このとき彼は叫んで言いました。「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを知ることが遅かったのか。常にあなたを見ていましたが、あなたを思うことはなかった」と。あなたもまた「ああ、過ぎ去った甘美よ、なぜ、あなたを味わうことが早くなかったのか」と言わねばなりません。しかも、そのときでさえ、あなたはそれに値しなかったのです。ですから、あなたが若いとき、あなたを招いてくださった天主の限りない恩寵を思って、ダビデと共に、「神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました」(詩編71・17)と言うといいでしょう。また、主があなたを召し出してくださったのが、あなたの老年においてであったとします。フィロテアよ、生涯の大半を浪費してしまった後に、これにもかかわらず、天主があなたを死の前に召し出して、あなたの罪の生活を止めてくださったのは、どんなに御慈しみ深いことであるか。もしも、そのままにいたならば、あなたは永遠の不幸を見るはずであったのに。

6・この天主の召し出しの効果を省察しなさい。おそらく、あなたの現在と過去を比較するならば、よい変化を発見するでしょう。祈りによって天主に語る方法を覚え、天主を愛する意志を生じ、あなたを不安にさせた多くの欲望の力を減らし、多くの罪と良心の煩悶を避けることができ、これまでよりも、しばしば聖体の秘蹟に近づき、永遠の聖寵の源泉に一致するようになったのは、真の幸福であります。どれほど、これらの聖寵は大きいことか。フィロテアよ、あなたはこれを至聖所の秤にかけて計らないといけません。この一切の行ってくださったのは、天主の右手でありました。「主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて、…心と、口と、行いをもって…主の御業を語り伝えよう」(詩編117・16、17)とダビデ王は歌いました。これらの省察の最後に(それはあなたによい感情を豊かに与えるはずであるから)、天主に感謝を捧げ、これを十分に利用しようとの熱烈な祈りをして、謙遜と天主に対する大きな信頼の感情に満たされて、この省察を終えるといいでしょう。新たに堅実な決心を作ることは、この勤めの第二段に譲ります。

信心の生活に進歩したかどうかについて霊魂を検査すべきこと

次に述べる、第二の勤めはすこし長い。これを一度に行う必要はないから、天主に対し、あなた自身に対し、あなたの隣人に対しての、あなたの態度ならびに種々の欲望の反省、というように数回に分けて実行すべきであります。勤めの最初の部分と、感激を含む最後の部分とを除いては、ひざまずいてする必要はありません。勤めの他の部分は、散歩しながらしてもよく、また、眠くならず、意識をはっきりすることができるならば、床中に横たわりつつしてもいいです。そうするためには、あらかじめよく省察を読んでおかなければいけません。またこの第二段は、長くとも三日二夜の中に終えなければいけません。それで、毎日毎夜これに一定の便宜の時間をあてる必要があります。そうしないで、もしこの勤めを長い間隔をかけて試みたならば、気力を失い、単に鈍い印象を残すに過ぎなくなります。さて、この検査の各点については、いかなる点で過失を犯したか、あるいは不完全であったか、いかなる障害を感じたかを注意して、後に勧告を聞き、決心をつくり、精神の慰めを得る材料とします。これらの勤めを実行する日には、他人との交流、および話を全然断つ必要もありませんが、少し、いつもより俗事に関係しないで、とくに夕方は孤独の時間として、早くから寝室に入り、心身の休息を求めて省察に従事しなさい。昼の間に、しばしば、天主・聖母・諸天使・諸聖人に祈りを捧げ、天主を愛する熱い心、ならびに、あなた自身の完徳をこい願う意志をもって行わないといけません。この検査を始めるためには、1・天主のみ前に出て、

2・聖霊に祈り、この光明の賜物を願いなさい。これは、謙遜の心をもって天主のみ前に、「ああ主よ、あなたを知り、また私を知ることができますように」と祈った聖アウグスチノ、および「あなたはどなたであり、私は誰でしょうか」と天主に尋ねた聖フランシスコにならって、あなたが自分をよく知ることができるためであります。あなたが自己の進歩を検査するのは、自ら誇るためではなく、自らの光栄を求めるためでなく、天主において喜び、天主に光栄を帰し、感謝するためであると言いなさい。

3・あなたが予想するように、この検査の結果、進歩したことが少なく、あるいは、むしろ退歩したと分かっても、そのために落胆・失望して、勇気をなくしてはいけません。かえって、さらに勇気を出し、一層謙遜になり、天主の聖寵の助けをもって自分の過失を償おうと、今より約束しなさい。その後に、静かに、今日まで、あなたが、どのように天主に対し、人々に対し、自分に対してふるまったかを検査しなさい。

天主に対する私たちの検査

1・大罪に対するあなたの態度はどうであるか。どんなことが起ころうとも、決してこれを犯すまいとの堅い決心をもっているか。この決心は、あなたの宣誓より今日まで続いて来たか。*この決心が、霊的生活の基礎であります。2・天主の十戒に対するあなたの心の態度はどうであるか。あなたは、それを、よく、甘く、快く感じるか。私の娘よ、胃が健康で食欲がある人は、よい肉を好み、悪い肉を捨てるものであります。3・小罪に対するあなたの心の態度はどうであるか。時として小罪を犯すことは止むを得ないが、あなたが特にしばしば犯す小罪はないか。それよりも、もっと悪いのは、あなたがこれに愛着を感じている小罪はないか。

4・霊的勤めに対するあなたの心の態度はどうであるか。それを愛し、その価値を認めているか。退屈したり、いやになったりしないか。その中でなにを好み、なにを好まないか。天主のみ言葉を聞き、これを読み、これについて考え、黙想し、天主に祈り、告白し、霊的勧告を受け、聖体拝領をよく準備し、聖体を拝領し、自分の欲望を制するなどの中で、心に面白くないと思うものがあるか。もしも、そうならば、この嫌悪の情はどこから生まれて、何に由来するのか。

5・天主自身に対してあなたの心の態度はどうであるか。あなたは天主を思うことを好むか。あるいは、すこしもこれに幸福を覚えないか。「主よ、私はあなたのことを思い出し、私は力づけられます」(詩編18・52)とダビデは歌った。あなたの心の中には天主を愛する一種の傾きがあるか、また、この愛を味わう特殊の喜びがあるか。あなたの心は、天主が無限であること、および、その慈しみ・甘美について、思いめぐらすことを愛するか。天主のことを、俗務に従事している間、またはむなしき遊戯の間に思い出したならば、この思いが果たして直ちにあなたの心を捕えその一部分を占めるか。この時、あなたの心はその方に向き直り、ある意味で、走って天主を迎えようとするか。このような人々は確かにいます。夫が遠国から帰って来れば、妻は夫の姿を見て、その声を聞くとすぐに、どんなに忙しく、どんなに大切なことを考えていても、その心は、余計な考えに捕らわれることなく、直ちにこれを捨てて、帰って来た夫を思うであろう。真実に天主を愛する霊魂も同じです。たとえ、どんあに忙しい時でも、天主の思いが起こったならば、この楽しい思いを迎える喜びにたえず、他のことがらはほとんど手につきません。そして、これは実によい徴であります。

6・真の天主であり、真の人であるイエス・キリストに対するあなたの心の態度はどうであるか。聖主を思うことはあなたの喜びであるか。ミツバチは好んで蜜の周囲に飛び、山バチは好んで腐敗物の周囲に集まります。そのように、善良な人々は、イエス・キリストにおいて、この幸福を求め、イエスに対して、甘美な愛を抱くけれども、悪人の楽しみは虚栄を追うことであります。

7・聖母・諸聖人・あなたの守護の天使をどのように思うのか。あなたは彼らを深く愛するか。彼らの保護に特別な信頼をもっているか、彼らの聖像・伝記・賛美はあなたの喜びであるか。

8・あなたの舌に関して。あなたは天主についてどのように語るか。あなたは、自分の境遇と能力に従い、天主を褒め称えるか。あなたは讃美歌を歌うことを好むか。

9・行為に関して、あなたは天主の外面的光栄を望みとし、その御稜威を増すためになにをしているか。天主を愛するものは、聖主と共に天主の家を飾ることを愛します。

10・あなたは天主のために、ある欲望、あることがらを犠牲にしたか。自分の愛するもののために、ある不自由を忍ぶのは、愛の確実な徴であるが、あなたは天主の愛のためになにを捧げたか。

私たち自身に対する態度の検査

1・あなたは、どのように、あなた自身を愛しているのか。あなたが自分を愛するのは、この世のためではないか。もしそうならば、あなたはいつまでもここに止まり、この地上に生きながらえるために、あらゆる方法を尽くすであろう。しかし、もし、あなたが天国のために自分を愛するならば、聖主の思し召しに、この地を去るのに、なんの執着も持たないはずです。2・あなたは、あなた自身に対して、正しい愛を有しているか。私たちを滅ぼすものは、私たち自身に対する不正の愛のみです。正しい愛とは、体よりも霊魂を愛することであり、他の一切よりも善徳を獲得することを希望することであり、はかない地上の名誉よりも、天上の光栄を重んずることです。正しい規律を守る心は、「他人が何を評価するであろう」と考えないで、「私がこのように思うことを、天使たち何と言うであろう」と自ら反省するはずです。3・あなたの心に対して、あなたは、どのような愛を抱いているか。あなたの心が病んでいるのに際して、これを助けるのを避けていないか。心が情欲に乱れている時には、すべてを尽くして、これを助け救うのがあなたの義務であります。

4・天主のみ前において、あなたは自分の価値をどう見積もるのか。もちろん、虚無と信じるであろう。しかし、一匹のハエが、高い山に自分を比べて虚無と思い、一滴の水が、広大な海と自分を比べて虚無と思い、一閃の火花が、太陽の炎々たるに自分を比べて虚無と思うのは大きい謙遜ではありません。謙遜とは自分を他人と比べて高ぶらないで、また、他人の賞賛を求めないところにあります。この点に関して、あなたはどうであるか。

5・言語に関し。あなたは自ら誇り、あるいは、自分のことを語りつつ、人に気に入られようと語っていないか。

6・行為に関し。あなたは、自分の健康を損なうような娯楽にふけることはないか。無駄なつまらない娯楽、用もないのに夜ふかしをすることなど。

隣人に対する私たちの態度の検査

あなたは夫、あるいは妻を、甘美・平静・堅固・平等の愛をもって、愛さないといけません。次に、子供たち、親類の人々、友人を順序に従って愛さないといけません。しかし一般に、他人に対するあなたの気持ちはどうであるか。天主を愛するために、心から彼らを愛するか。これをよく見分けるために、心から彼らを愛するか。これをよく見分けるためには、あなたは、気難しい小言家に対する自己の態度を省察するといいでしょう。これこそ、他人に対する愛徳を実行すべき、大切な場面です。また、さらに愛徳が現れるのは、行為・言語をもって私たちに害を加える人々を愛する場合であります。あなたは平静に、わだかまりなく、彼らに対することができるか。彼らを愛することが大きな苦痛ではなかったか。他人、とくにあなたを愛さない人の悪口を言いたがらないか。直接、あるいは、間接に他人に害を加えたことはないか。いくら道理に暗くても、それを発見することはそれほど困難でないであろう。

隣人に対する私たちの態度の検査

私たちの営んだ霊的進歩を測り知るには、以上の検査が最も重要であります。それゆえ私は詳細にわたってこれを記述しました。犯した罪の糾明のようなものは、格別に進歩を考えていない人々の告白の準備にすぎないのであります。あなたは以上の数章の各項について、急がずに丁寧に糾明しなさい。あなたの最後の決心以来、それらについてどのような気持ちでいたか、いかなる大過失を犯したか。しかしながら、簡単にこれをするために、あなたの感情の究明に絞ってもいいです。すなわち、上述のように、詳細に検査することができない場合には、次の各点について、私たちがいかなる態度をとったかと調べれば十分であります。1、天主に対し、隣人に対し、自分に対する愛はどのようであるか。2、私たち自身の犯した罪、および他人の罪に対する嫌悪。いずれも、これを強く憎まないといけません。

3、財産・快楽・名誉に対する私たちの希望。

4、罪を犯す危険の恐怖、ならびに現世的財産を喪失することに対する恐怖。私たちは後者を恐れずに、前者を無視しやすい。

5、私たちは、おそらく現世と被造物とに希望をかけ、これに反して、天主と天国の宝とに希望を有しているか。

6、私たちは、空虚なことに関して、過度の悲哀を抱かないか。

最期に、いかなる感情が私たちの精神の自由を妨げ、これを支配しているか。なんについて、主として失敗したか。霊魂の感情を吟味すれば、その状態をうかがうことができます。楽人が琴をかき鳴らす前に、すべての絃を調べて、調子の狂ったものは、あるいはこれを張り、あるいはこれをゆるめて、正すように、私たちも、私たちの霊魂の愛情、すなわち、憎悪・希望・恐怖・信頼・悲哀・喜びのおのおのを調べて、私たちが演奏しようとする曲、すなわち天主の栄光に調和しないところを発見したならば天主の聖寵と、指導霊父の教訓とによって、これを正さないといけません。

以上の糾明後に有すべき感激

糾明の各条を静かに考え、あなたの状態を知ったあとに、次のように感激を作ります。1・あなたの決心以来、あなたの生活に発見した、ほんの少しの進歩について、天主に感謝して、これを持つのに至ったのは、天主の御憐れみによることを悟りなさい。2・天主のみ前に深くへりくだり、進歩が少なかったのは、あなたの過失であり、祈り、その他に際して、天主のくださった霊示・光明・勧告に、絶えず忠実勇敢に従わなかった結果であると申し上げなさい。

3・あなたの天性の悪傾向よりも、ほんの少しのこの進歩に、あなたをお導きになった天主の聖寵を、永久に賛美することを約束しなさい。

4・あなたが主の聖寵に応じることに不忠実であったことに許しを願いなさい。

5・あなたの心を主に捧げて、これを完全に支配してもらうことを願いなさい。

6・あなたを忠実にさせてくださいと祈りなさい。

7・聖母・守護の天使・保護の聖人・聖ヨゼフ、その他、諸聖人の助力を願いなさい。

私たちの決心を更新するために必要な省察

糾明をして、また、あなたの欠点、ならびに矯正の方法について、指導者の意見を求めたのちに、毎日一編ずつ黙想として、以下の省察を試みなさい。あなたの念祷の時間にこれにあて、第一編の黙想に用いたのと同じ方法によって、これを準備し、また、感激をつくりなさい。なによりも天主のみ前に出ることが必要であります。そして、主の聖なる愛にとどまり、主に仕えることができるために、聖寵の助けを願いなさい。

第一の省察 私たちの霊魂の価値について

まず、あなたの霊魂の尊さを思いなさい。あなたの霊魂が有する理性は、たんに現世の見える事物を知ることができるのみならず、天使と天国との存在を知ることができ、言語に尽くしがたい無上・至善の天主の存在を知ることができ、さらに、永遠の存在を知ることができます。それだけではなく、あなたの理性は、天国において、天使たちと共に、永遠の天主による幸福を享受するために、現世において、よく生きる方法を知っています。あなたの霊魂は、高貴な意志を有して、天主を愛し、天主を憎むことはできません。あなたの心は、ミツバチが花の上だけ止まって、汚れたものに止まらないように、天主においてのみ、始めてよく休息することができ、被造物はそれを満たすのに足らないのです。かつて、あなたの心を楽しませた、最大の幸福を振り返りなさい。これらは、実際のところ、苦しい不安、いらだたしい煩い、不快な心配に過ぎないで、あなたの心は、その中でひどく思い悩んでいなかったか、これを、ためしに判断しなさい。私たちの心が被造物を慕うとき、ここに自分の希望を満たすことができることを信じ、焦慮しつつ突進します。しかし、それを手に入れるとすぐに、今までの努力はみなむなしく、なにも自分に満足を与えないことを悟ります。まるで、ノアの箱舟から脱出した鳩のように、自分の出発したもとの天主に帰るのでなければ私たちの心はどこにも安住の地を求めることはできません。まさしく、これが天主のみ旨であります。私たちの心の天性は、このように美しい。それならば、なぜ、私たちは、わざわざ、霊魂を被造物に服従させるのか。あなたの霊魂に告げなさい。「ああ、私の美しい霊魂よ、あなたは天主を知り、天主を愛することができるのに、なぜ、それ以下のものに心奪われているのか。あなたは永遠の生命を願うことができるのに、なぜ過ぎ去る現世に遊ぶのか。あの放蕩息子の後悔の一つは、父の食卓につらなって楽しく暮らすことができたのに、卑しい豚の食物の残りを分けてもらうことであった。ああ、私の霊魂よ、あなたは天主を愛することができる。だから、もし、あなたが、天主以下のものに幸福を求めるならば、なんと不幸なことか」と。この省察に基づいて、勇ましく霊魂を高くあげなさい。永遠の運命と、永遠のものの価値を所有することを、あなたの霊魂に悟らせ、勇気を奮い起こしなさい。

第二の省察 徳行のすぐれたること

善徳・信心だけが、あなたの霊魂を、この世にて幸福にすることができることと、そのすぐれて美しいことを省察しなさい。善徳と、その正反対の罪悪を比べなさい。忍耐と復讐を比べ、柔和と憤怒・悲哀を比べ、謙遜と傲慢・野心とを比べ、慈善と貪欲を比べ、慈しみと嫉妬を比べ、規律と不規律を比べれば、前者は後者に比べ、とても甘美なものです。徳行は、これを実行した後に、言いつくしがたい快感を霊魂に満たしますが、罪悪は霊魂に疲労・苦痛を残すのみであります。私たちは、なぜ、この甘美の快感を勝ち得ようと試みないのか。罪悪は、少しであっても、その人の心の喜びを奪い、多くなれば、真の不愉快の源になります。これに反して、徳行は少しでも、その人に幸福を与え、それが多くなるに従って、ますます楽しさを加えます。信心の生活よ、どうして、あなたは美しく、快く、楽しいのか?あなたは苦痛を緩和し、慰めを増します。あなたのいない時には、善も悪となり、快楽も不平・不安・煩悶に満ちます。あなたを知るものは、サマリアの婦人と共に『主よ、この水を私に与えてください』(ヨハネ3・15)と言うことができます。さまざまな異なる場合に、聖テレジア、およびジェノアの聖カタリナが繰り返し祈ったように。

第三の省察 諸聖人の模範について

聖人たちのたくさんの模範を省察しなさい。天主を愛し、信心の生活を送るために、彼らは、どのような犠牲を惜しんだであろうか。殉教者は、その不撓不屈の決心を保護するために、どのような拷問をしのいだであろう。中には百合の花よりも白い純潔、ばらの花よりも紅い愛徳を有する美しい貴婦人が、か弱い身をもって、無数の拷問の苦痛をしのいだものがいます。そして、信仰を守るというばかりではなく、信心の誓いを果すために、その決心を貫いたものもいます。すなわち、あるものは貞潔を失うよりも、むしろ死を選び、あるものは貧しい人に仕え、困難の中にある人を慰め、死者を葬るために殉教の苦しみを忍耐しました。ああ、このような際に、か弱い女性が示した勇気と決心とは、実に驚くべきものでした。また、たくさんの証聖者の群れを見なさい。彼らが世間を軽蔑した気力、決心を貫いた勇気は、これもまた、筆紙のおよぶ限りではありません。いかなる困難も、彼らの決心を変えることができず、天主にまったく仕え、自分の身を捧げ、この決心を立派に守り通したのです。聖アウグスチノがその母モニカについて記しているところを読みなさい。彼女は、自分の結婚生活、および、寡婦生活において、天主に誓った奉仕の御約束を、きわめて完全に守りとげました。また、聖イエロニモが、愛する娘パウラについて記したところを読みなさい。彼女は、どれほどの障害、境遇の変化を冒して、天主に仕えたか。このような優れた保護者を有する以上、私たちに耐えられないことはないはずです。彼らもまた、現在の私たちと同じものがありました。彼らも私たちと同じ天主のために、同じ徳を修めたのです。ですから、私たちも、私たちの境遇と天分との範囲の中において、私たちの決心、清い宣誓を守って、なぜ、同じことができないのであろうか。

私たちに対するイエス・キリストの御慈愛について

聖主イエス・キリストがこの世において、とくにゲッセマニの園、ならびに、カルワリオ山において、ご苦難を耐え忍んでくださった愛を省察しなさい。聖主の愛の御眼はあなたに注がれて、ご自身のご受難によって、御父である天主より、あなたの霊魂のために、さきの決心、および、宣誓をこい求め、また同時に、この決心を支持し、養成し、強め、成就するに必要な一切が得られたのでありました。私の決心よ、あなたは救い主のご受難を母とする尊い娘であります。あなたは、イエスに、このように大事にされているので、私の霊魂はあなたを深く愛するのです。「ああ、私の霊魂の救い主よ、あなたは私の決心を勝ち得るために死んでくださった。ですから、私の決心を失うよりは、むしろ死ぬ恵みを与えてください」。フィロテアよ、私たちが愛しているイエスの聖心は、十字架よりあなたの心をながめ、これを愛してくださり、この愛によってあなたの心のために、一切の財宝、特に、あなたの決心を勝ち取ってくださいました。愛するフィロテアよ、私たちはみなエレミアのように、「主よ、私が存在する前に、主は私をながめ、私の名を呼んでくださった」(エレミア1・5参)ということができます。なぜならば、主の神妙なる愛は、測ることの出来ない御憐れみによって、私たちの救霊に必要な一切の方法、従って私たちの決心を、あらかじめ先に準備してくださったからです。母がまだ生まない子供のために、ゆりかご・衣服・おしめの一切から乳母までも用意しておくように、聖主は愛によってあなたを懐胎し、あなたを永遠の生命に生み、自分の子としてくださるために、十字架上において、あなたのためのあらゆる必要品、ならびに、あなたの幸福のために有益な一切のもの、すなわちあなたの霊魂を導いて、完徳に至らせる手段としての一切の方法・誘引・聖寵を準備してくださったのです。私たちは下のことがらを深く記憶に止めないといけません。すなわち救い主が私を深く愛してくださるために、種々の機会に、特に私を思い、私を導いてくださったとは、ああ、果たして真実であろうか。果たして、そうであるならば、私たちは、主が準備してくださったすべてをどれほど愛し、また、どれほど苦心して、私たちのために利用しないといけないか。ああ、幸いなるかな。天主の愛すべき聖心は、フィロテアを思い、彼を愛し、彼にあらゆる救いの方法を頂いて、あたかも、他に思うべき霊魂が、世界にないかのようであった。まるで、太陽が地上の一点を照らすとすぐに、他に照らすべき所がなく、ただここのみを照らしているかのようであります。ほんとうに、聖主は、そのすべての愛子の身の上を思い、しかも、必要なるものを与えてくださった時、他のすべてを忘れてくださったように、私たちの各個を慈しまれます。「主は私を愛して、私のために御自身を渡してくださった」(ガラテア2・20参)と、聖パウロは言いました。この言葉は、「私一人を思って、ほかの人々のためには、なにもしないように見えるほどです」というように聞こえます。フィロテアよ、あなたは救い主の御心にとって、このように貴重なあなたの決心を愛育するために、以上の言葉を深く心に銘じないといけません。

第五の省察 私たちに対する天主の永遠の愛について

あなたに対する天主の永遠の愛を省察しなさい。聖主イエス・キリストが人として十字架上で、あなたのために御苦難を耐え忍んでくださった以前において、すでに天主は無限の御憐れみをもって、深くあなたを愛してくださいました。天主は、いつあなたを愛し始められたのか。天主であることをお始めになった時、あなたを愛し始めらました。それならば、いつ、天主であることをお始めになったのか。しかし、いつという時の限りはありません。なぜならば、天主が天主であられるのは、始めもなく、終わりもなく、常にそうだからです。すなわち、天主は永遠より常にあなたを愛してくださり、従って、あなたにくださる聖寵と恩恵を準備してくださるのです。天主は預言者の口をかりて仰せになります。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」(エレミア31・3)と。このみ言葉はあらゆる人々に対する言葉であると共に、特にあなたに対するものであります。すなわち、天主は他のすべてを配慮してくださると同時に、献身・奉仕の決心をあなたに作らせようと思し召されたのです。ああ、永遠の昔から、天主がこれを思い計り、予定してくださった決心よ。あなたは、いかに愛すべき、また尊いものか。その一つの行為を捨てるよりは、私たちは、むしろいかなる苦痛をも(たとえ天地が崩れ落ちても)しのがないといけません。全世界を集めても、その価値は一つの霊魂に劣ります。そして霊魂の価値は、その決心にあるのです。

上記の省察に基づく概括的の感激、ならびに勤めの結末

私の愛する決心よ、あなたは、天主の御手によって、私の心のなかに植えられ、救い主が、これを実らせるために、親しく御血を注いでくださった生命の樹であります。私は、死んだとしても、私の決心よ、あなたを暴風で吹き倒させません。虚栄も、快楽も、財宝も、困難も私の決心をくつがえすのには足りません。ああ、救い主よ、主は私の園のために、この美しい木を、自ら植え、慈父なる主の御懐に守り育ててくださっています。このような主のご寵愛を受けることができなかった人々はたくさんいます。私は、どのように、主の御慈しみに対して、十分にへりくだって感謝することができよう。美しく、清い決心よ、もし、私があなたを大切にし続けるならば、あなたも、また私を支えてくれよう。もし、あなたが私の霊魂の中に生きていれば、私の霊魂も、あなたによって生きます。天主の慈しみによって、永遠のものである私の決心よ、永遠に私に止まりなさい。私は、決して、あなたを捨てません。これらの感激の後に、あなたはあらかじめこの愛する決心を保つために、特殊の名法を定め、その上、これを忠実に利用することを誓い、祈り・秘蹟・善行を増やし、第二段において発見したあなたの過失を矯正し、悪い機会を避け、このために指導霊父から与えられる戒めを聞くことを決心しないといけません。次に、さらに新しい勇気を振るって、あなたの決心を天主に誓いなさい。そうして、あたかも、天主の手中に、あなたの心・霊魂・意志をしっかりと持ってもらうかのように、天主に奉献して、犠牲とし、再びこれを取りもどすことなく天主の御手に託して、どこででも、また、なにごとに関しても、天主が命じてくださるところに従うことを約束しなさい。天主があなたを新しい人と化し、新たなあなたの宣誓を祝し、助けてくださることを祈り、聖母・守護の天使・聖ルイ王、および、その他の聖人たちにお取り次ぎを願いなさい。以上の感激に心を満たして、指導司祭の膝元にひざまずきなさい。あなたの最後の総告白以来、犯した主要なる罪を懺悔し、第一回と同じ気持ちで罪の赦しを聞き、霊父の前であなたの宣誓文を読み、これに署名し、しかる後に、新たなあなたの心を、至聖なる聖体の秘蹟のうちにその本源なる救い主に一致しくださる祭壇に近づきなさい。

以上の勤めの後に保つべき感情

あなたがこの更新をした当日、および、以後の数日間は、心の底から、次の聖パウロ、聖アウグスチノ、ジェノアの聖カタリナたちの言葉を唱えないといけません。「私は私のものではありません。生きるのも死ぬのも私は救い主のものであります。私はなく、私のものはありません。私の自我はイエス、私のものはイエスのものです。世間よ、あなたは常にあなたであって、私は常に私でありましたが、この後は、私はもはや、私ではありません」。いいえ、以後、私たちは私たち自身ではないでしょう。私たちの心はまったく変わりました。世間は今まで私たちを欺きましたが、今度は、私たちに欺かれる番であります。世間は私たちの変化をすぐに発見しないで、私たちをエザワだと信じても、私たちは、ほんとうは、ヤコブなのです。以上の勤行はこれを心の中に、大切に保存する必要があります。省察と、黙想をすませたならば、私たちは、徐々に、仕事と日常生活にもどらないといけませんが、この際、決心の尊い美酒をこぼさないようにしなさい。この美酒は、私たちの心身の格別の努力を要しないで、霊魂の各部分にしみわたることが重要であります。

この「入門」の書に関して生ずべき二つの疑惑に対する応答

フィロテアよ、以上の勤めと教訓は複雑すぎる、これを守ろうとしたならば、他のすべてのことがらを放棄しないといけない、と世間はあなたに言うであろう。愛するフィロテアよ、たとえ他の事ができなくてもそれで結構ではないか。私たちはこの世でなされないことをしているのだから。しかし、そのように言いますが、世間は狡計であります。もし、私たちが、以上の勤めの全部を、毎日しなければならないとすれば、なるほど、他に余暇はないでしょう。しかしながら、そうではありません。必要に応じて一定の時に、その各個をすればよいのです。法律の中には、守らないといけない規則がきわめてたくさんありますが、しかし、それは必要に応じて守る規則であって、毎日全部を要するのではありません。種々の重大なる要務を有していたダビデ王は、私があなたに示したより、もっと多くの勤めを実行していました。戦争に際しても、平和の日においても、偉大であった聖ルイ王は、政治を司り、裁判を聞き、同時に、毎日、二回のミサ聖祭にあずかり、宮廷付き司祭と共に、日課晩祷、ならびに終梼を唱え、黙想を行い、病院を訪問し、毎金曜日に告白し、自らむちを加え、しばしば説教を聴聞し、霊的談話に参会し、それでもって、国内の施設を計画し、かつ、実行するために、なに一つ機会を失うことなく、従って、王室の威勢は、前代未聞の繁盛をきわめました。ですから、あなたも、私が教えたとおりに、勇敢にこの勤めに着手しなさい。天主は、あなたの職務の全部をやりとげるだけの、時間と気力を与えてくださるでしょう。ヨズエのためになさってように、必要ならば太陽の運行をも止めてくださるでしょう。天主が私たちと共に働いてくださるならば、不可能なことはありません。次に、私は、常にフィロテアを、祈りの賜物を有するかのように接しています。しかし、この賜物は、各人のものではありません。ゆえに、この「入門」はすべての人に適当とは言えない、と世間は評価するかもしれません。私が、フィロテアを、祈りの能力を持っているかのように接したのも事実であります。しかしながら、たとえ、いかに無知・盲目の人でも、もし、よい指導霊父を有し、まじめにこの目的のために努力すれば、(これは確かに努力するだけの価値があることである)ほとんど、必ずこの賜物を獲得することができるものであります。もしも、絶対にこの賜物を持たない人があるとしても、(これはきわめてまれの例外に相違ないと思う)賢明なる指導者は、黙想のために書かれた省察を注意して読ませ、あるいは他人に読ませて聞かせて、容易に、この欠点を補うことができるはずです。

この「入門」に関する三つの重要な最後の教訓

毎月の始めに、あなたは第一編にある宣誓の詞を黙想したうえで、これを反復し、常にダビデ王とともに「わたしはあなたの命令をとこしえに忘れません。それによって命を得させてくださったのですから」(詩編118・93)と唱えて、宣誓を実行することを約束しなさい。もしも、あなたの霊魂に多少のゆるみを感じたならば、この宣誓書を手にして、へりくだって聖主の前にひれ伏し、心の底からこれを読みながら祈れば、大きな慰めを覚えるであろう。人々の前に、公然と信心を告白しなさい、自分はすでに敬虔者である、と言いなさいと勧めるのはありません。しかしながら、敬虔を願っていることを声明しなさい。そうした、天主の愛を獲得するために必要な慣用的行為を実行することを恥じとするな。あなたは黙想したことを試していると声明し、大罪を犯すよりも、むしろ死を選ぼう、しばしば、秘蹟に近づこう、あなたの指導霊父に従おうと、人々に公然と言うといいでしょう。もっとも、種々の理由によって自分の指導霊父の名を発表することは望ましくないが、自分は、天主に奉仕する意志を有し、特殊の愛をもって、愛すべき天主に身を捧げたと、すなおに告白することは、主がお喜びになることであり、これに反して、天主および十字を恥とするのは、主がお嫌いになることであります。その他この公然の告白は、世間の種々なる反対論を根本より打ち切り、自己の名誉にかけても、声明したところを実現させる拠り所となります。昔より哲学者は哲学者であることをはっきりと示します。それは、彼らが、哲学者として生活することを妨げられないためです。そのように、私たちも、他人の妨げを受けないで、敬虔に生活することができるために、信心を求めていることをはっきりと示すべきです。もし、だれかが、この書の教訓、および、勤めを実行しなくても、敬虔でいることができます、と言ったならば、それを否定する必要はありません。単に、あなたはきわめてか弱いために、他人よりも、あまり助力が必要なのであると、穏やかに答えなさい。最後に、最愛のフィロテアよ、天地のすべての聖なるものの聖名によって、あなたが受けた洗礼によって、イエス・キリストの含ませてくださった乳房によって、あなたを愛してくださった聖心の愛により、あなたの希望する憐れみの御内臓によって、私はあなたに願います。信心の生活のこの至福な計画を、忍耐しながら継続しなさい。日は流れて、臨終の時は近づきます。ナジアンズの聖グレゴリオが言うには、「ラッパはひびく、各人用意しなさい。審判は近くにあります」と。また、聖シンフォリアの母は、その子が殉教の場に引かれる時に、「私の子よ、私の子よ、永遠の生命を怠らないで。天を仰いで、そこをおさめている天主を見なさい。短いこの世の生涯は、今、終わろうとしています」と叫んだといいます。フィロテアよ、私もまたあなたにそう言います。天を仰げ、地のためにこれを失うな、地獄をながめよ、一時の楽しみのためにその中に入るな、イエス・キリストを思え、世間のために主を否定するな、信心の生活が、あなたにあまりに苦しく思えるならば、聖フランシスコと共に、「天の宝を、想い見れば、私のしたことも、喜びなります」と歌いなさい。イエスばんざい。願わくは御父と聖霊と共に、聖主に誉れと栄とあらんことを。今も、いつも、世々に至るまで。アーメン。