13 私たちに対するイエス・キリストの御慈愛について

聖主イエス・キリストがこの世において、とくにゲッセマニの園、ならびに、カルワリオ山において、ご苦難を耐え忍んでくださった愛を省察しなさい。聖主の愛の御眼はあなたに注がれて、ご自身のご受難によって、御父である天主より、あなたの霊魂のために、さきの決心、および、宣誓をこい求め、また同時に、この決心を支持し、養成し、強め、成就するに必要な一切が得られたのでありました。私の決心よ、あなたは救い主のご受難を母とする尊い娘であります。あなたは、イエスに、このように大事にされているので、私の霊魂はあなたを深く愛するのです。「ああ、私の霊魂の救い主よ、あなたは私の決心を勝ち得るために死んでくださった。ですから、私の決心を失うよりは、むしろ死ぬ恵みを与えてください」。フィロテアよ、私たちが愛しているイエスの聖心は、十字架よりあなたの心をながめ、これを愛してくださり、この愛によってあなたの心のために、一切の財宝、特に、あなたの決心を勝ち取ってくださいました。愛するフィロテアよ、私たちはみなエレミアのように、「主よ、私が存在する前に、主は私をながめ、私の名を呼んでくださった」(エレミア1・5参)ということができます。なぜならば、主の神妙なる愛は、測ることの出来ない御憐れみによって、私たちの救霊に必要な一切の方法、従って私たちの決心を、あらかじめ先に準備してくださったからです。母がまだ生まない子供のために、ゆりかご・衣服・おしめの一切から乳母までも用意しておくように、聖主は愛によってあなたを懐胎し、あなたを永遠の生命に生み、自分の子としてくださるために、十字架上において、あなたのためのあらゆる必要品、ならびに、あなたの幸福のために有益な一切のもの、すなわちあなたの霊魂を導いて、完徳に至らせる手段としての一切の方法・誘引・聖寵を準備してくださったのです。私たちは下のことがらを深く記憶に止めないといけません。すなわち救い主が私を深く愛してくださるために、種々の機会に、特に私を思い、私を導いてくださったとは、ああ、果たして真実であろうか。果たして、そうであるならば、私たちは、主が準備してくださったすべてをどれほど愛し、また、どれほど苦心して、私たちのために利用しないといけないか。ああ、幸いなるかな。天主の愛すべき聖心は、フィロテアを思い、彼を愛し、彼にあらゆる救いの方法を頂いて、あたかも、他に思うべき霊魂が、世界にないかのようであった。まるで、太陽が地上の一点を照らすとすぐに、他に照らすべき所がなく、ただここのみを照らしているかのようであります。ほんとうに、聖主は、そのすべての愛子の身の上を思い、しかも、必要なるものを与えてくださった時、他のすべてを忘れてくださったように、私たちの各個を慈しまれます。「主は私を愛して、私のために御自身を渡してくださった」(ガラテア2・20参)と、聖パウロは言いました。この言葉は、「私一人を思って、ほかの人々のためには、なにもしないように見えるほどです」というように聞こえます。フィロテアよ、あなたは救い主の御心にとって、このように貴重なあなたの決心を愛育するために、以上の言葉を深く心に銘じないといけません。