15 以上のことがらを立証し、説明するのに適切なある実話

以上の教訓を、一層明らかにするために、私は、ある学徳のすぐれた伝記者が書いた聖ベルナルド伝の一節をそのまま転写します。

「天主にお仕えすることに、まだ日が浅く、聖寵の往来、霊的状態の変化を学ばないものは、この快い信心の感情、および、天主の道に努力するために与えられる快い光明が消え失せると、たちまち勇気を失い、失望・落胆に陥ることは常にあります。道理に通じたものは、これを、人間は、あるいは天上、あるいは地上の、いずれかの幸福なくして、長く飢えに苦しむことができない理由であると説明すべきである。天上の幸福を味わうことができて、自己以上に上げられる時、霊魂は、見える地上の事物に背を向けることは、たいへん簡単であるが、これに反して、天主の摂理によって、霊的幸福を奪われ、同時に地上の慰めを持っていない時は、忍耐して真の太陽の帰りを待つことに、まだ慣れていないがために、彼らは、天にもなく、地にもなく、ただ永遠の闇に埋もれたように思って、まるで離乳させられた幼児が、乳房を離れて泣き悲しみ、一人で怒ることにとても似ています」。

『今述べる旅行の間に、このこと、一行のなかに、ジェオフロア・ド・ペロンヌという、新たに天主に仕え始めた人に起こりました。彼は、突然、心乾き、慰めを失い、精神の闇に閉ざされて、世俗の友人、自分の家族、さらに、捨ててきた財産などに思いを巡らしたならば、すぐに、激しい誘惑が生じるために、ついにこれを包み隠すことができなくなった。親しい友の一人はこの様子を見て、うまく甘い言葉で彼を慰めながらささやいた。「ジェオフロアよ、なにが起こったのですか。あなたが、いつもと違って、もの思いにふけり、本当に悲しそうにしているが、どうしてですか?」と。ジェオフロアは大きいため息と共に答えた、「兄弟よ、私の生涯のうちに、私は再び楽しむことはないでしょう」と。友はこの応答をたいへん哀れに思い、師父、聖ベルナルドに、すべてこれを告げたところ、聖者は、ジェオフロアに迫る危険を恐れて、ひとり、道端の聖堂に入り、彼の為に天主に祈りました。ジェオフロアはとうとう悲しみに疲れて、一塊の石を枕として、そのまま寝てしまいました。しばらくして、聖者は恩寵を得ることができて、祈りから身を起こしました。ジェオフロアは、笑い輝く顔にて眠りから覚めました。友はこの急激な大きな変化を驚いて、さきほどの言葉を、笑いながらジェオフロアを非難したところ、彼は答えました。「私は先ほど、この後、決して楽しむことはないと、あなたに告げましたが、今は、もはや悲しみに沈むことは、絶対にないだろうと断言します」と。』

この修道士の誘惑はこのようにして退けられました。しかし、愛するフィロテアよ、あなたは、この物語の、次の諸点に注意しなくてはいけません。

1・天主は、始めて献身の生活に入るものに、まずしばらく、天国の福楽を味わいさせるのが通例であります。これは彼を地上の快楽より離し、天主の愛を追わせるためで、あたかも母が幼児を乳房でなつけるために、乳首に蜜を塗ると同じであります。

2・また、天主は賢明な摂理によって、時として、私たちより慰めの蜜を奪います。これは私たちを乳房から離して困難と誘惑の試練のなかで、力強い信心の堅い乾いたパンを食べさせるためであります。

3・しばしば、激しい暴風が、乾燥・不毛の間に起こることがあります。この時には、全力を尽くして誘惑と戦わないといけません。おおよそ誘惑は天主より来るものではないからです。しかし、乾燥は天主が私たちの修徳の進歩のために、送ってくださるのであるから、これを忍従しないといけません。

4・精神の困難の中においても、落胆したり、またはジェオフロアのように「私は決して幸福なることはないだろう」などと言ってはいけません。夜の暗闇にいる時にも、光明を希望しなさい。また反対にこれ以上の幸福はないと思えるほどに慰めに満ちた日においても「私は決して悲しむことはないだろう」と言ってはいけません。まさしく、知者が「幸福な日にも不幸を思うべきです」(集会11・27)とのことばの通りです。働く間に希望して、栄華の間に恐れ、そのいずれにおいても、へりくだらねばいけません。

5・私たちを慰めることができる、霊魂上の友に、悩みを打ち明けるのは、最善の療法であります。この重要な教訓の結論として、注意したいのは、天主と悪魔とは、すべて他の場合におけるように、この場合にも、正反対の目的を有することであります。天主がこの試練を送ってくださるのは、これによって、その人の心を清め、あらゆる利己心を去らせ、完全に自分を捨てて、純粋に天主に仕えさせるためでありますが、悪魔は、これによって、その人を落胆させ、肉体的快楽に招き、清い信心の名誉を傷つけるために、私たち自身および他人に対しても耐えがたくします。しかし、上に述べた教訓を守れば、あなたは、これらの精神的困難の間に実行する善徳によって、あなたの完徳の成就の助けにできることが少なくないでしょう。

この章を終わるに当たって、なお一言したいことがあります。時として、このひどい不毛乾燥の状態は、身体の違和が原因であることがあります。すなわち、たとえば、睡眠の不足、過度の労働、または大斎により、疲労・眠気・倦怠などが生じ、これが元来、肉体の違和になるにもかかわらず、心身両者間に存在する密接な関係のために、精神に悪影響をおよぼす場合であります。このような場合でも、私たちはやはり私たちの精神の尖端、すなわち意志の上部の能力をもって、多くの善業を行うことを忘れてはいけません。なぜならば、たとえ、私たちの霊魂が、まったく睡眠し、あるいは、疲労しきっているように見えても、私たちの精神の行いは、天主のみ前に尊いからです。このような時こそ、私たちは雅歌の乙女と共に、「私は眠っていますが、心は覚めています」(雅歌5・2)と言うことができるでしょう。すでに述べたように、このような努力はたとえ興味に乏しくても、功徳と善徳の価値とにおいてすぐれているのです。しかし、このような時には、また、身体に正しい休息を与え、これを力づけて、乾燥・不毛を癒さないといけません。聖フランシスコもかつて、弟子たちに、精神の情熱を冷やさないように、ほどよく彼らの労働を緩和すべきであると戒めました。この偉大な師父自身についても、下のような物語があります。彼は、ある時、精神の激しい憂鬱に襲われて、なにをしても、それから免れることができませんでした。弟子たちと話をしようとしても、それもできず、孤独になれば、苦悩はさらに深く、大小斎も肉体の苦行も、ただ苦悩をますばかりであり、祈りも少しも楽しくなく、この状態が二年にわたり続き、その間、全く天主より見離されたようでありました。しかし、この苦しい試練を、謙遜に忍従したために、ついに救い主は、一瞬のうちに、彼に無上の幸福と平和を与えたのです。私が、この物語を書くのは、天主の最大の僕といえども、この種の変化を味わうのであるから、まして初歩のものが、時としてこのような状態に陥っても、あえて深く怪しむ必要はないことを証明するためです。