13 霊的感覚的の慰め、および、これに処する方法

天主は、この大宇宙に、不断の変化をおつくりになりました。 昼は夜と相次ぎ、春は夏、夏は秋、冬は春と変わり、また、一日として他の日と同じものはありません。あるいは曇り、あるいは雨が降り、あるいは晴れて、あるいは風が吹く。実に、これらの変化が、この宇宙に美観を添えるのです。人間もその通りで、古人が人をさして、小宇宙と呼んだのも、いかにももっともであります。人間も、決して常に同一状態ではありません。人間の生涯は水のように地上を流れ、その変化はこの上なく、あるいは、高く希望し、あるいは、低く恐怖し、あるいは、慰めによって右曲し、あるいは、逆境によって、左折し、一日として、一時として、全く同じではありません。ですから、私たちに最も必要なものは、環境の変化にもかかわらず、心を絶えず不変不動に保つことであります。私たちの周囲において、たとえ、すべてが変化し、浮動するとしても、私たち皆は、常に天主を眺め、向上の一路をたどって、常に変わらないことが大切です。船は、何処の海に浮かんで東西南北の何処へ航路を定め、いかなる風に帆をはらませても、その羅針盤は美しい北極星を指しています。ただ単に、私たちの周囲のみならず、また私たちの内部のものさえ、上下転倒するような場合にも、すなわち、私たちの霊魂が、悲哀・歓喜・慰め・苦悩・平和・光明・暗黒・誘惑・休息・快・不快・観想・幸福の何の状態にあったとしても、すなわち、厳しい暑さの日にも、甘露でうるおす日にも、いつもいつまでも、羅針盤である私たちの心・精神、私たちの上部意志の先端は、絶えず常に、創造主・救い主、唯一至上の善である天主の愛に向かうべきであります。「私たちは生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」(ローマ14・8)。「誰がキリストの愛から私たちを離すことができようか」(ローマ8・35)。いいえ、私たちを主の愛より引き離すものは何もありません。受難も、心痛も、死も、生も、現在の困苦も、将来の悲運の怖れ、悪魔の謀略も、慰めの高さも、苦悩の深さも、甘美な幸福も、乾燥・寂しい不幸も、イエス・キリストにある神の愛より私たちを離すことができるものはありません。決して天主を捨てることなく、また、その甘美な愛を忘れることはないとの決心は、人生のきまりである様々な変化の真ん中において、私たちの霊魂を、清い平静状態に保つのに、必要なおもりであります。ミツバチは、野の面で烈風に襲われると、小さい砂を抱き、空中でバランスを取り、風に吹き飛ばされないように努めるといいます。このように、私たちの霊魂も、尊い天主の愛を決心の鉄腕を抱擁すれば、その内外たるを問わず、また、その霊的なると物的なるとを論じないで、あらゆる慰めと悩みとの変遷不定なる間に処して、完全に安定を保つことができるのです。以上の総論の他に、私たちには特殊の事項に関する注意が必要です。

㈠信心とは、私たちを涙と嘆息とに導き、または、ある種の霊的勤めにおいて 、快感を伴う満足を与える、感傷的な心の甘美感・慰め感、あるいは感覚的の幸福感のことではありません。いいえ、愛するフィロテアよ、 信心とこれらとは決して同じではありません。このような喜びと慰めを感じて 、しかも非常な悪人であり、真の信心はおろか、天主に対する単純な真の愛徳すら持たないものが世間にたくさんいます。昔、サウル王はダビデを殺そうとして、彼を追跡し、エンガッディの荒野にて、ダビデとその部下の兵士とが潜伏していた岩窟に、それと知らず、単身入り込んだことがあります。ダビデが、この時、サウル王を殺すことは、極めて簡単なものでした。しかし、彼は、王になんらの危害を加えず、恐怖も与えず、望み通りに洞窟を去らせた後、後ろから王を呼び止めて、自分の無実を訴え、王の命が、自分の手中にあったことを示しました。このとき、王は、ダビデに、自分の心が解けたことを証明するために、ありとあらゆる言葉を尽くしました。王は、ダビデを私の子と呼び、声を放って泣き、彼を称えて、その慈しみを嘆じ、彼のために祈り、彼の未来の未来を予言し、自分の子孫を彼に託しました。この際のサウル王が示した柔和は、例えのないものであったが、それにもかかわらず、彼は真実に自分の心を改めることができなくて、しばらくして、以前と少しも変わらない、残酷な迫害を、ダビデに加えたのであります。このように、天主の御慈しみ、救い主のご受難のことを思って、心砕けるように思え、ため息をつき、涙を流して、感傷的に、かつ、祈り、かつ、感謝して、いかにも、大きな敬虔の念に満たされたように、見える人がいます。しかし、いよいよ、試練を受けてみると、ちょうど、真夏の日の夕立が、地に降り注いでも 、真にその内部に染み込まず、無駄に、何の価値もないキノコ類を生えるのに過ぎないように、感傷的な涙は、邪悪なある心を潤しても、その中にしみ通らないために、全く無益であったことがわかります。なぜならば、彼らは、そのために、不正に取得したお金の一銭も手放さず、ただ一つの邪念を捨てようとも欲しないで、また、彼らが涙を流した救い主に仕えるために、少しの犠牲さえ捧げようとしないからです。彼らの良い感情は、真の信心ではなくて、かえって、しばしば悪魔の邪悪な一種の精神的なキノコに過ぎません。悪魔は、人間に無価値な慰め送り、その中に麻痺陶酔させ、このように、真の堅固なる信心、すなわち、天主の御旨と信じるところを、喜んで直ちに実行する、堅忍不抜の意志を獲得することを妨げるのです。病める母を癒すために、医師が小手術をするのを見ても、すぐ泣き叫ぶ幼児に、母が、その手にするリンゴあるいは、ボンボン菓子の袋を離すように命じても、なかなか素直に命令を守れません。私たちの感傷的な信心の多くも、このようなものであります。十字架上において、イエス・キリストの御心がやりで貫かれる御胸を思って、私たちは感傷的な涙をこぼします。フィロテアよ、私たちは父にして、救い主であるイエスのご受難・ご死去のために泣くことはよいことに相違ありません。しかし、なぜ、私たちは、主の切望している私の手中のリンゴ、すなわち、最愛の聖主が私たちに求める、唯一の愛の果実である私たちの心を、主に捧げることを拒むのか、聖主が奪おうとする小さな愛着・好み・喜びなどを拒むのは、天主の聖寵よりも、むしろこれらのボンボン菓子を愛するからではないのか。このようなものは、結局、幼児の愛にすぎません。感傷的で優しくても、か弱く、空想的にして、実益がありません。真の信心は、このような感傷に基づく行為には存在しません。感傷的の信心は、あるいは、私たちをだまして惑わすために、悪魔が、私たちの空想を興奮させる結果であることもしばしばあります。

㈡しかしながら、このような感傷的な甘美感も、時として有益なことがあります。なぜならば、これが霊的の食欲を刺激し、精神を強め、生き生きとした、抑えがたい一種の清い喜びを信人に与え、外観的にも私たちの行為を美しく、快くすることがあるからです。ダビデ王が、「御言葉は私の上あごに甘い、口に含む蜜よりも甘い」(詩篇118-103)と叫んだのもこの霊的事物に対する甘美感を言い表したのです。本当に、私たちが受ける最もかすかな信人の慰めも、世俗の無上の幸福とする心に十分に勝っています。天配の乳房の乳、すなわちその寵愛は、霊魂にとり、地上の娯楽の最上の美酒よりも、はるかに甘美であるために、一度これを味わった人は、他の一切を、耐え難い苦痛と感じざるを得なくなります。人が、もし、シティスス草の葉を口に含めば、非情な甘味を覚え 、飢えと渇きを感じません。そのように、天主より、霊魂の甘い慰め、天のマンナを賜った人は、もはや、地上の楽しみを受けることはできません。少なくとも、この楽しみの虜となって、これに愛着することはできません。これこそ、天主が永遠の歓楽の予感として、主を求める者に与えてくださる幸福です。いわば、幼児をなつけるためのボンボン菓子、人々を励ますための精神的飲料です。また、時としては、永遠の賞与の保証であります。昔の物語に、アレキサンドル大王が、かつて大洋を航海した時、吹くそよ風での香りによって、「幸福のアラビア」が近いことを知り、大王始め、一同非常な勇気を奮い起こしたと記されています。このように、私たちも、この浮世の大海のなかで、私たちの憧れ目指す天の故郷の楽しみを予覚させる幸福・甘美感を感じるのです。

㈢上述の如く、ここに、天主の賜物である良い慰めと、無益、危険、時として 邪悪なる慰めがあって、後者は私たちの肉、あるいは、悪魔に由来するとすれば、いかにして、私たちは両者を認め、その善悪を区別することができるであろうか。最愛のフィロティアよ、一般に霊魂の感情は、その結果によって本性を調べるというのが古来の通則であります。私たちの心を樹木に例えれば 、感情は枝で、所業はその果実です。良い感情を有する心は、良い心です。また、良い結果、神聖な行為を産む感情は、良い感情です。すなわち、私たちが受ける幸福感、あるいは慰めによって、私たちが、さらに一層謙遜に、忍耐深く、柔和に、隣人に対しては親切と同情に富み、私たちの邪念、及び悪い傾向と戦うことはますます熱心に、信心の勤めを尽くすことは几帳面に、私たちの長上に対しては、ますます従順になり、また、私たちの生活はますます質素になるならば、フィロティアよ、それは確実に天主よりのものであります。しかし、慰めか、ただ私たち自身の甘美感にのみで、私たちが、他人に対して、かえって興味を持ち、かつ、怒りやすく、忍耐少なく、頑固に、傲慢に、尊大に、冷酷になり、早くも自分を小聖人であるとして、指導者の命令・指導に従わないようになるならば、この慰めは、虚偽にして邪悪なことであるのは疑う余地がありません。

㈣ですから、もし私たちが、この甘美感、この慰めを受けたならば、

①まず天主のみ前に深くへりくだりなさい。この理由をもって、「私は善人であります」と言わないように気をつけなさい。フィロティアよ、すでに説明したように、敬虔とはこの快感でありません。故に、この幸福は、人間の真価を増加するものではありません。むしろ、「ああ、主は主を望み 、主を求めるものに、憐れみ深いことか」と言わなければなりません。砂糖を舐めて甘いのは、口が甘いからではなく、砂糖が甘いからです。そのように、この霊的慰めはよく、これを与えてくださる天主もよいのでありますが、直ちにこれをもって、受ける人が良いとは言えません。

②私たちは、まだ乳を飲まねばならない幼児であることを忘れてはいけません。天主が、これらのボンボン菓子をくださったのは、私たちの精神が、まだ、幼稚であって、天主の愛に答えるために、おやつを必要とする証拠であります。

③しかる後に、普通の場合には、私たちは謙遜して、主の恩恵を大切に受けないといけません。そのこと自身が尊いからではありません。天主がこれを私たちの心にくださることであります。母親が、その子を可愛がって 、ボンボン菓子を一粒ずつ、手で子供の口に入れてやるようなものです。このように、フィロティアよ、慰めは甘美であるが、それを私たちの口・心・霊魂・精神に入れてくださるのは、慈母のように愛に溢れた天主の御手であることを思うことが、すなわち、この甘味を数層倍にする理由であります。

④このように、謙遜にこれを受け、次には、与えてくださった天主のみ旨に沿うように、これを善用することに、心を用いなければいけません。天主が、私たちに、この甘味を与えてくださったのは、どうしてであろうか。それは、結局、他人に対して優しく、主に大きな愛に溢れさせるためであります。母は、幼児の接吻を求めるために、お菓子をやるのではありませんか。ですから、私たちもこのようにたくさんの甘味を与えてくださる救い主を、接吻しに行きましょう。しかし、主を接吻するとは、主に従い、主の掟を守り、み旨を行い、御勧めを聞くことであります。すなわち、従順と忠信とをもって、優しく接吻しにいくことです。故に、もし、霊的慰めを受けたならば、私たちは、その日には、一層善行を行い、謙遜になるように心がけねばなりません。

⑤その他、私たちの心をこのような甘味・幸福・慰めに執着させないために、時として、故意にこれから離れないといけません。そして、私たちは、たとえ、これらを謙遜に受け、またこれを愛するものが(これをくださるのは天主であり、また、これによって天主の愛を増やすために)、私たちが本当に求めるのはこれらでなく、天主ご自身、並びに、天主に対する愛であります。慰めではなく、慰める者であります。甘味それ自身ではなく、とても甘味な救い主であります。幸福ではなく、天地の喜びであるお方であると申し上げねばなりません。そして、また、たとえ、私たちの一生涯に、一度も慰めを味わうことがなくても、天主の聖愛に止まって、変わることのないことを覚悟し、カルワリオ山においても、ダボル山の頂におけるように、「主よ、十字架に上らせても、または、光栄の中にあっても、主と共にいることは本当にいいことです」と言うことを決心しなければなりません。

⑥なお 最後に一言するのは、このような慰め・感激・涙。幸福が特に多い時、または、これに関して異常なことが起こったならば、その時に取るべき態度、これを抑制する方法について、あなたの指導者に謹んで教えを請うべきことであります。たしかに、「 蜜を見つけたら思う存分食べなさい、だが胸をつかえるほどは食べるな、吐いてしまうだろう」(箴言25・16)と記してあるからであります。