6 誘惑、および、快楽が罪を構成する場合

3章の比喩の中で、王妃が誘惑に対して罪を負うことがないのは、自己の意志に反してこの誘惑がきたと、仮定したためです。しかし、もし、そうではなく、王妃の方に恋慕の心があって、暗にそのきっかけを作ったならば、王妃は、慕い寄られたということに対しても、罪を負わなければならず、その態度が、どれほど隠微であったとしても、決して、罪と罰を免れることはできません。この比喩のように、私たちが誘惑の原因となれば、単純な誘惑も、私たちにとって罪であります。一例をあげれば、賭けをして遊べば、私は、しばしば、憤怒・冒涜の言葉を出し、賭けがその誘惑の機会になることを知っている。それにもかかわらず、賭けをすれば、私はその間に湧いて来る、一切の誘惑の責任を負わなければなりません、あるいはまた、ある人と話をすれば、必ず誘惑を受けて罪を犯すことを知っていながら、その人を訪ねるならば、私が受けるあらゆる誘惑は罪となります。次に、誘惑時に生じる快楽を避けることができる場合に、これを避けなければ、快感、ならびに、それに対する承諾の程度、および、継続時間の長短に応じて、必ず罪を構成します。たとえば、3章の比喩の王妃が、みだらな不義の申し出を聞くことに止まらず、その後、なおこの問題に関して、種々の空想をめぐらして、その快感を楽しむとしたならば、王妃は確かに罪を犯しています。なぜならば、たとえ、その申し出の実行を承諾する意志はなくても、彼女は、その時に覚える満足の情をもって、空想のなかで、これを承認しているからです。邪淫とは、心、もしくは体を、不義に用いることです。しかし、この際、心がこれに関与しないで、体のみを用いたのでは、罪は構成されないほど、心の態度は重大であります。したがって、もし、あなたがある罪について、誘惑を感じたならば、故意に誘惑を受ける機会を作ったかどうかを調べるといいです。もし、そうならば、あなたが自ら冒した危険について、単なる誘惑も罪であります。あなたが容易く誘惑を避けることができた場合、もしくは、あなたが誘惑の来ることを予知して、あるいは、予知すべきはずなるにかかわらず、警戒を怠った場合も、これと同様であります。これに反して、あなた自身が誘惑の原因でなかったならば、いかなる誘惑といえども罪ではありません。あなたが誘惑に付随する快感を避けることができて、しかも、あえて、これを避けることをしなかったならば、その快感を楽しんだ時間の長短、ならびに、快感を楽しんだ動機のいかんによって、必ず多少の罪を犯したのであります。たとえば、ある女が、格別その機会を作らないで、他より不義の思いをかけられ、ある快感を享楽したとします。この時、この女がこれを楽しむ唯一の理由が、甘い誘惑を聞くことにあったとしたならば、彼女は罪を犯したのであります。これに反して、もし、懸想した男が、音楽を奏でて、彼女を惑わそうとしたと仮定して、彼女が楽しんだ快感は、不義に対してではなく、音楽の面白さ、美しさにあったとすれば、この享楽は罪ではありません。しかし、これより、不義の享楽に移る恐れがあるために、長くこれを続けることは不可であります。さらに他の例をあげます。ある人が、敵に復讐するための、巧妙・奇抜な計略を私に勧めてくれたとします。この時に、私が感じる快感が、敵に対する復讐ではなく、この巧みな計略に関する知的興味にあったとすれば、私は罪を犯していません。しかし、次第に、復讐の快感の享楽に移る恐れがあるために、長時間この楽しみにふけるのは不可であります。時として、誘惑とはほとんど同時にすなわち、これに対して警戒を発しない以前に、早くも快感に襲われることがありますが、このような快感は、きわめて軽微なる小罪以上になることはありません。しかし、この状態を発見したために、怠りにより、この快感を承認すべきかいなか、躊躇しつつ、そのままでいたならば、罪はやや大きい。これを発見しても、拒否しようとする意志がなく、真の放漫により拒否する意志を捨てておけば、罪はさらに大きい。最後に、熟慮を重ねて、全く故意に、この快感を楽しもうと決心したならば、その快感の目的が悪である限り、私は大罪を犯したのです。たとえ、真実に不義を犯そうと考えていなくても、ひそかに不義の思いを抱いているのは、妻であるものにとって、大きな罪悪であります。