6  謙遜は、私たちに卑賤を愛させること

フィロテアよ、私は、さらに進んで、あなたは絶えず、万事について、あなた自身の卑賤を愛さなければいけないことを告げます。自分の卑賎を愛するとは、なんのことかと、あるいは、あなたは質問するでしょう。ラテン語では卑賎とは謙遜、謙遜とは卑賎という意味であります。だから、聖母が讃美歌のなかにおいて、「主は、いやしいはしためを顧みられたので、いつの世の人も、私を幸いなものと言うでしょう」(ルカ1・48)と歌われたのは、主が、彼女の卑賎・謙遜を認めてくださったので、天の聖寵を溢れるまでに与えてくださったという意味です。しかし謙遜と卑賎との間には、多少の相違があります。卑賎は、もともと私たちの評価と無関係に存在する私たちの小ささ、卑しさであり、謙遜とは、真実に、かつ、快く、自分の卑賎を認めることであります。そうして、完全な謙遜とは、単に快く、自分の卑賎を認めるのみならず、されに、これを愛好することであります。これは、決して無気力、あるいは不熱心の結果ではなく、かえって天主の光栄を帰し、また、私たち自身と比べて、他人を尊敬するためであって、私があなたに勧めるのは実にこの域に至ることです。理解を助けるため例をあげると、私たちが耐える苦痛の中に、卑しいものと、名誉を伴うものがあります。後者は多くの人がこれを甘受しますが、前者のなかに適切に対処する人はほとんどいません。服がボロボロで、寒さにこごえる修道士がいます。世の人は、皆、彼の粗服を尊敬し、彼の苦痛に同情します。他方に、貧しい職人、貧しい紳士、貧しい娘も、同じく粗末な薄い衣服を身にまとっています。しかし、世の人は彼らを軽蔑し嘲笑します。これが、卑しい貧乏というものです。修道士が長上から厳しく叱責され、また子供が父に叱られて、これを敬虔な心で受け入れます。この場合には彼らは克己・従順・聡明などのよい評判を得ます。しかし、これに反して、軍人や、貴婦人が、同じく天主の愛のために、柔和な叱責を受け入れるならば、すぐに卑怯・無気力とあざけりを受けます。これも、卑しい苦痛の他の一例です。腕に腫れものとかある人と、顔にある人といます。前者は病気を耐えるばかりでありますが、後者は合わせて軽蔑と恥辱をしのがないといけません。以上の実例の後に、私が言いたいのは、私たちは忍耐の徳によって苦痛を愛好するばかりでなく、この恥辱・卑賎をも愛さないといけないことです。すなわち、これが謙遜の謙遜である理由であります。徳行にも、卑賎な徳と、名誉ある徳があります。忍耐・柔和・素朴・敬虔のようなものは、世俗の卑賎とするところであって、これに反し、深慮・勇気・寛大は高く評価されます。同一の善徳から生まれる業で、一つは賤しめられ、他は尊ばれることがあります。たとえば、施し物を分け、他人の軽蔑を許すことは、ともに愛徳の行為でありますが、前者は各人に尊敬され、後者は世間の目にさげすまされます。青年紳士や、令嬢たちは、陽気な遊び友達と共に、世間話をし、遊戯・舞踏の日を送り、ともに会食し、流行を追わないならば、他人の誹謗を受け、その慎みも、偽聖人とか、気取り屋とか呼ばれるだけでしょう。これを愛するのは、すなわち、卑賎を愛するのであります。他の実例は、私たちが病人を訪問する場合に、もし、貧乏人のところに行けと言われたならば、世俗的の意味で卑しいことであるから、私は甘んじてこれに従おう。もし、身分のある病人を訪問しなさいと命じられたならば、徳も積めず、功徳にもならず、精神的に卑しいことであるから、私はこの卑賎を愛そう。道でころべば、痛さの他に恥があります。私はこの卑賎を愛さないといけません。恥辱のほか、なんの悪い結果をもたらさない失策があります。このようなことを、わざわざするのは必要ではありませんが、失策の後に、あまり気にかけるのは謙遜に反しています。たとえばある種の不注意・無作法・失敗のようなものは、礼儀を守り、慎みを保つために、これを犯さない以前にこそ避けるように心掛けるべきでありますが、一度これを犯した後には、安んじて恥辱を受け、尊い謙虚のために、快く軽蔑を受けなければいけません。私は、さらに進んで、次のように言います。もし、私が怒りにかられ、または慎みを欠く言葉を使って、天主、ならびに、隣人に対して罪を犯したならば、私は心からこれを痛悔し、力の及ぶ限り損害を償うように努めますが、その結果である私の恥辱と受ける軽蔑を甘受して、もしも罪と恥辱とが切り離されるものならば、罪を心より憎み、侮辱には謙遜のままでいるだろう。このように、悪に伴う恥辱は、たとえこれを愛していても、その原因になった悪は、特に自他に害を及ぼす場合においては適切な正しい手段によって、これをなおさないといけません。例えば、顔面に恥ずかしい腫れ物が生じたならば、恥辱を厭うためではなく、病気として、その腫れ物をいやさなければいけません。もし、私が失策をしても、他人に害を及ぼさなければ、そのためにあえて弁解をしません。なぜならば、たとえ失策でも、何の悪結果を招かないからです。これに反して、不注意、または愚かさによって、他人に損害を与え、または、そのつまずきとなったならば、この際の悪結果は、愛徳のために拭い去る必要があるから、私は正直に弁解、及び、謝罪をして、これを償わなければいけません。また時として、私たちは、愛徳のため、すなわち、他人の利益と必要とのために、恥辱を注がねばならないことがあります。この場合には、他人のつまずきとなるのを恐れて、その目より私たちの恥辱を覗きますが、善徳の模範を示すために、私たちの心中に、いっそう、卑賎を愛する思いを深くしなければいけません。フィロテアよ、もしあなたが卑賎の中で、どのようなものが最も優れたものかと問うならば、私は明白に答えて言います。霊魂に最も有益にして 、天主の御意に最もかなう卑賎は偶然、あるいは、私たちの生活の環境より、自然に生ずるものであると。なぜならば、私たちはこれを選ばないで、天主が送ってくださったものを、 受け取るからです。天主の選択は、常に、必ず、私たちの選択に勝っています。また、もし、私たちに選択を許された場合には、最大の恥辱を、最善の恥辱として選ぶべきです。ただし、それが、私たちの境遇に適しておらねばなりません。実に、私たち自身の選択は、ほとんどあらゆる善徳の価値を低下させます。ああ誰が、私たちに、ダビデ王と共に、「 主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます」(詩編84・12)と言うことができるほどの聖寵を与えてくださるのか。愛するフィロテアよ、これを与えることができる唯一のお方は、私たちを高いところに導いてくださるために、「世にそしられ、民にいやしめられて」(詩編22・7)生き、かつ、死んでくださった主のみです。私が以上に述べたことがらの多くは、それを想像すれば、きわめて困難な、苦しいことに思えるに相違ありません。しかし、もし、あなたがこれを実行すれば、砂糖よりも、蜜よりも、甘味となるでしょう。