8 隣人に対する柔和について、および憤怒に対する心得

聖使徒より聖伝に基づき、天主の聖会において、堅信の秘蹟、ならびに、祝別に際して使用する聖香油は、オリーブ油とバルムとを混ぜたもので、種々の象徴のほかに、主の御身に輝いて、主がとりわけ愛しておられた、二つの大切な善徳を表しています。主は、あたかもこの二つの徳によって、私たちの心が主に捧げられ、主の模範に従うようになると考えられたように、特に私たちにこれをお勧めになりました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11・29)と。謙遜は、天主に対する完徳に私たちを導き、柔和は、隣人に対する完徳に私たちを導きます。バルムは、私がかつて述べたように、他の液体と混ぜるとき、下に沈んで謙遜を表し、オリーブ油は常に浮かんで、あらゆる行為をおおい、諸徳を飾る柔和・親切の象徴であります。この徳は、本当に愛の花と言うべく、聖ベルナルドも、完全な愛徳は、ただ忍耐のみならず、また、柔和・親切であると言いました。フィロテアよ、柔和と謙遜からなる神秘的バルムを、あなたの心に保つように努めなさい。悪魔は、ずるい策略をめぐらして人々に自分の内心を省みさせないで、単にこの二つの徳の外観・言語のみをもてあそばせるが、このような人は、自分は柔和・謙遜であると信じていても、実際は、決してそうではありません。その証拠には、このような人々は、誇張された柔和と謙遜にもかかわらず、少しでも他人に逆らわれ、または悪く言われると、激しい傲慢をもってこれに応じます。「聖パウロの神薬」と俗に言う予防薬を飲んでおけば、その薬が本物である限り、毒蛇にかまれても、傷口は腫れないそうであります。その通り、謙遜・柔和が本当のものならば、無礼を受けた時の精神の腫れと痛みとを予防します。それゆえ、もし、毒舌家、あるいは、仇敵の非難を受けて、私たちが傲慢になり、不平を起こし、怒りを感じたならば、これは私たちの謙遜、ならびに、柔和が本当ではなく、外観のみの偽物である証拠であります。かの太祖、聖ヨゼフは、兄弟たちを、エジプトから父の家に帰す時、「道で争ってはいけません」と唯一の戒めを与えました(創世45・24)。フィロテアよ、私も、あなたに同じことを告げます。この涙の世界には、至福なる生命に至る旅路です。道でお互い争わず、私たちの兄弟であり友である人々と仲良く平和に歩んで行こうではありませか。私は、あなたに例外を設けないではっきりと言います。もしできるならば、なにごとについても決して怒ってはなりません。あなたの心の扉を、怒りで開くような、いかなる口実も受け入れるな。聖ヤコブは、ただちに採決し、かつ例外を設けないで「人の怒りは、神の義をなしません」(ヤコブ1・20)と教えられました。私たちが監督する義務を有する人々の悪に逆らい、その過失を責めるには、勇気をもって行い、かつこれを怠ってはなりません。しかし、同時に、柔和と平静をもってなすべきです。怒った象を抑制するもの、子羊が最もよく、砲丸の勢いをそぐものは絨毯が最もよい。たとえ、理屈に合っていても激情から発した訓戒は、純粋に理性から出た忠言に比べて効果が少ないです。人間の霊魂は、自然に理性に服従すべきものでありますが、激情は暴力をもってこれを征服します。だから、理性と激情が混ざりあうときは、理性の正当な主権と言っても、暴力者と並存するため、こえに汚されて、憎むべきものとなります。帝王が、平和の行列を整えて、国内を巡遊すれば、国民はこれを光栄として、大きく喜びますが、これに反して、王が武装している軍隊を率いているときは、その目的が安寧・秩序にあるといえども、国民はこれを不快に感じ、かつ、損害を受けます。それは、いくら厳重に兵卒に軍規を守らせても、必ず、なんらかの騒動が起きて、良民に迷惑がおよぶからであります。そのように、理性が万事を支配し、平和のうちに、あるいは処罰、あるいは訓戒し、あるいは叱責する際にはいかにそれが厳格でも、几帳面でも、多くの人がこれを愛し、これを尊敬します。しかし、憤怒・憤満を伴う場合には(聖アウグスチノは、これを理性の率いる兵卒だと言った)理性は愛すべきではなく、むしろ恐るべき、自分の心さえも、そのために踏みにじられ、虐待されます。同じ聖アウグスチノが、かつてプロフゥロに書を贈って言うには「たとえ、正当な怒りといっても、また、その最小なるものといえども、私たちの心の中に入れてはいけません。一回入り込んだものを、追い出すには容易ではありません。しかも、小さいひこばえ(樹木の切り株や根元から生えてくる若芽)のように入って来て、それはすぐに成長して大樹となるでしょう」と。怒りのうちに日が暮れて夜になると(聖使徒もこれを禁じたが)、怒りは憎悪と変わり、ほとんどこれを除く方法はありません。だから、怒る人にとって、自己の怒りが正しくないことを信じことはなく、さらに、たくさんの誤った偏見をそこに加えるからです。ですから、適度に怒りを用いようとするよりも、全然、怒ることなく生活することを覚えなさい。私たちの悪い癖、あるいはか弱さによって、怒りの衝動を感じたならば、これをすみやかに撃退するほうが、これについてためらうよりも、はるかにすぐれています。ちょうど、ある隙間に、蛇が頭を差し込んだならば簡単に全身を通り抜けるように、怒りも、それに余裕を与えれば、たちまちその人を支配します。さて、これを撃退するために、フィロテアよ、衝動を感じた最初の瞬間にすみやかに(しかし、急激、あるいは粗暴でなく、かえって)もの静かに、あなたの全力を集めてこれに抵抗しなさい。ちょうど、議会などを傍聴しても分かる通り、「黙れ、黙れ」と叫ぶ声の方が、かえって黙らせようとするもの音よりも、議場の騒動を増すように、激しく私たちの怒りを抑えようとして、かえって、以前よりも、心の動揺を高めることがまれではありません。そうして、このように心が不安になれば、到底、自己を制していくことはできません。以上のもの静かな努力の後には、すでに白頭の聖アウグスチノが、青年司教アゥクシリオに与えた訓戒に従うといいでしょう。「あなたは当然、なすべき業をなしなさい。詩編の中に、ダビデ王が、私の眼は大きな怒りで動揺しています、といったような場合に出会ったのなら、同じく彼にならって、主よ、私を憐れんでくださいと祈り、主が右手を伸ばしてくださり、あなたの怒りを止めてもらうように祈りなさい」と。すなわち怒りに心が騒ぐときには、湖で暴風に出会った使徒たちのように、天主の御助けを乞わないといけません。主は、私たちの激情に静まれとお命じになり、そこには大きな平和が生じるでしょう。しかし、繰り返し言いますが、現在の怒りに対する祈りは、必ずしも静かに、平和を失わないで行い、決して荒々しく、激しくなってはいけません。これは、この罪悪に対する、あらゆる手段に共通の心得です。なお、これと共に、あなたが怒りをもらしたと気が付いたら、すぐに、柔和を実行して、その過失を償わないといけません。うそをついたならば、すぐにその場で取り消すのが、最上の策になるように、怒りも、即座に、これと反対の柔和の行為をもって償うのが最善の矯正法であります。諺にも、新しい傷は、癒しやすいと言っています。さらに、あなたは、なんら怒りの原因がない平和の間に、柔和と親切とを蓄えるために、他人と語ることも、また、なにごとをするにも、できるだけ柔和を用いるといいでしょう。雅歌の乙女は単に、口唇と、舌先とに蜜を有していたのではありません。舌の下、すなわち胸裏にこれを所有し、また蜜のみではなく乳をも持っていました。私たちも、隣人に対して、ただやさしい言葉を有するだけでは足りません。胸の中まで、すなわち、心の奥底から、柔和でないといけません。また芳香のかぐわしい蜜の甘さ、すなわち、未知の人に対して礼儀をつくし謙虚な態度を示す甘さのみならず、家人、および、親友に対する、乳の甘さをもっていないとなりません。だから、外にあっては天使のように、家にあっては悪魔のような人々の欠乏するところは、すなわち、これであります。