5 内面的の謙遜について

フィロテアよ、あなたの希望は、なお深く謙遜の道に分け入ることであります。私が、今まで説いたことを実行するのは、謙遜よりも、むしろ聡明なわざでしょう。これから、私は、さらに一歩進めて論じます。多くの人々は、誇りと虚栄とに陥ることを恐れて、天主が特に自分に与えて下さった聖寵について思うことをあえてしません。しかし、それは間違いです。天使的博士聖トマが教えたように、天主の愛を悟る真の方法は、その賜物を思うことであります。主の賜物を深く知るほど、私たちは天主を熱く愛するようになります。そうして、特殊の個人的恩恵は、普遍的恩恵よりも、私たちの心を感動させるので、なおさら、これを思わないといけません、天主の御憐れみの前に、私たちを謙遜にさせること、その恩寵が絶え間ないことを思うのがよく、天主の正義の前に、私たちを卑下させること、私たちの罪深いことを思いめぐらせることもよいです。天主が、私たちのためにしてくださっていること、および、私たちが天主に対してしてきたことを思い起こしましょう。私たちの罪を、順番に省みるように、天主の聖寵を順番に思い出しましょう。私たちの中にある善は、私たちから来たものではありません、という真理さえ忘れなければ、天主の賜物を知ることが、私たちを高慢に導く心配はありません。王の尊い香りがする高い荷物を積んでいても、ら馬は、醜く臭い動物です。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(1コリント4・7)。本当はこれに反して、知識は感謝を生むはずですから、受けた聖寵の思い出は、私たちを謙遜にするはずです。しかし、もし天主が私たちに下さった聖寵を数えて、心に少しでも誇りの陰がさすならば、その時の最上の良薬は、私たちの忘恩・欠点・あさましさを反省することです。天主が私たちと共にいらっしゃらないとき、私たちの行うことを知れば、天主が私たちと共にいらっしゃるときに、私たちの行うところは、私たちの力でも、私たちのものでもないことが分かるでしょう。たとえ、これを持っているために、私たちは喜びを抑えることができなくても、光栄を帰すべきは、その本源である天主にのみであります。聖母も、天主が、その御身に、偉大なわざを行ってくださったことを告白しましたが、しかしそれは、まったく自分を卑下し、天主を賛美するためでした。「私の魂は、主を崇めます。なぜなら、私に偉大なことをしてくださったからです」(ルカ1・4、6から49)。私たちはしばしば、自分が虚無であり、罪人であり、世の塵であると口外します。しかし、もし、他人がそれを信用して、そのまま人々にいいふらしたならば、非常に憤るであろう、私たちが逃げ隠れるのは、実は、人々にもてはやされ、探し出されたいからです。食卓の末席につく真似をするのは、手際よく上座になおるためであります。真の謙遜は、謙遜の仮面をつけず、謙遜の言葉を発しません。謙遜な人は、他の善徳を隠すだけではなく、自分自ら隠れようと努めます。もしも、嘘を言ったり、知らぬふりをしたり、他人をつまずかせてもよいものだったら、傲慢無礼な振る舞いをして、その下に隠れ、他人に知られないようにするであろう。フィロテアよ、私の意見は次の通りであります。私たちは、謙遜の言葉を全然口外しないか、そうでないなら、口外するところに、相応する真の謙遜の感情をもって言葉を出すか、どちらかでないといけません。目を伏せる場合には、必ず、まず心を卑下しなさい。快く末席につこうと欲する場合のほか、遠慮のまねをしてはいけません。私の考えでは、以上の規則は普遍的なもので、除外例はありません。ただし、私は、下のことを付け加えます。時として、決して承諾しそうもない人に、礼儀上、上席を譲ることがあります。これは偽りの偽善ではありません。この場合における謙譲は、彼に対する尊敬の第一歩であります。この尊敬を全然、彼に与えることができないなら、せめて、その第一歩を与えるのであって、これは決して悪くありません。厳格に言えば、全然、そうであると言えない、ある種の敬語についても同じことが言えます。これを口にする人の心に、その人に敬意を表そうとする真の意志がある場合には、それでいいでしょう。たとえ、言葉は、私たちの言おうとするところを、多少誇大していても、習慣に従ってこれを用いるのは、少しも差し支えありません。そうは言うものの、絶えずどこにいても、単純質朴な心を持つために、私たちの用いる言葉が、できるだけ忠実に、私たちの感情を反映することが望ましいのであります。真に謙遜な人は、自分で言うよりも、他人に、彼はだめだ、役に立たない、と言われる方を好みます。少なくとも他人がそう言っても、弁解せず、快くそれを受け入れます。自分からそうであると信じるために、彼は他人と自己の評価との一致を喜ぶのであります。多くの人々は、念祷は高徳の人のもので、自分たちはそれをする価値がないと言い、あるいは自分たちは十分に清くないから、しばしば聖体を拝領する勇気がないと言い、あるいは、自分たちのような弱い罪人が信心の勤めに交われば信心を汚すことになると言い、あるいは、その才能を天主のため隣人のために用いるのを拒んで自分たちは弱いから、もし何かの善事の道具になろうものなら傲慢に陥る恐れがあるとか、他人の世話をして自分のことは留守になるなどと言います。これら全ては口実で、偽りの謙遜なばかりでなく、悪意のある謙遜であります。すなわちこれによって、彼は密かに、巧みに、天主の事物を誹謗し、あるいは、少なくとも謙遜の仮面をもって自己の私見・私情・怠惰を隠すのであります。預言者イザヤはアハズ王に、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」 (イザヤ7・11)と。ああ、なんという悪人であることか。彼は天主を深く尊敬するように見せ、謙遜の仮面の下に、慈しみ深い天主が与えて下さる聖寵を受けないのです。天主が私たちに恩寵をお与えになるとき、これを拒むのは、傲慢に異ならないのが分からないのか。私たちは天主の恩寵を受ける義務があります。これに服従して、できるだけみ旨に従うのが真の謙遜である理由が分からないのか。天主の思し召しは、私たちが完徳に達し、天主に一致し、できるだけ天主に倣うことであります。自分の力に信頼する傲慢者は、なにごとにもあえて企てない場合がありますが、謙遜なものは、自分の能力を知っているため、ますます、主により頼むからであります。それゆえ、私たちの指導者が私たちの進歩に有益であると判断したところは、謙遜に、敬虔に、これを行わないといけません。自分の知らないものを、知っていると思い込むより、愚かなことはありません。自分が知らないことを知りつつ学者ぶるのは、極めてみにくい虚栄であります。私は知っている事柄さえも、学者ぶりたくはありません。また、この反対に、わざと知らないふりもしたくありません。愛徳のためには、隣人に、その知らないといけない事柄のみならず、その心の慰めとなる事柄も、単純になにげなく教えなければいけません。謙遜は、諸徳を保有するために、これを隠しますが、愛徳の要求に応じて、これを養育し、完成するためには、あえてそれらを現すのであります。ティロスの島に生えるある木は、夜になるとその美しい花を閉じ、朝日とともにこれを開くので、島人たちはこの花は夜眠ると言っています。このように、謙遜も私たちの一切の諸徳、および能力を覆い隠して、愛徳のみのためにこれを示します。愛徳は、もはや人間界の徳ではなく天上の徳であり、倫理徳ではなく対神徳であり、いわば諸徳の太陽であるので、一切の徳に君臨すべきであります。だから、謙遜が愛徳を損なうときには、確実に、それは偽りの謙遜です。私は利口ぶらないと同時に、愚かな人を装うこともしません。利口ぶるのが謙遜を損なうとすれば、愚かを装うのは単純・率直を傷つけます。すなわち、虚栄が謙遜の敵とすれば、技巧・虚構は単純・率直の敵であります。天主の偉大なる僕のある人々が、世の人に卑しめられることを願って、愚かな人のまねをしたことは、ほめるべきことですが、決して模倣すべき模範ではありません。彼らがこの極端に走らせたのは、特殊の理由があったからで、誰でも彼らの行動を口実として、自分の業を律することはできません。ダビデ王が、契約の櫃の前で踊り狂って、少し普通の慎みの度を外したのは、(列王2、6)自ら愚人を装ったのではなく、心の喜びが、自然と外に溢れたのであります。だから、王妃ミコルが、彼の狂態をとがめたときも、彼は軽蔑されたことを怒らないで、その幸福の感情を、単純、正直に表現して、天主のために、いささかの恥辱を受けることを悔やみませんでした。そうであるなら、あなたも、真の素朴の信心の業のために、卑しい愚者として他人に評価されたならば、その理由はあなたにあるのではなく、そのように評価する人々であるので、安心して、謙遜のために、ダビデ王に倣って、この至福の軽蔑を喜ぶことができるでしょう。