3 忍耐について

「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(ヘブライ10・36)と使徒は教え、また、主も自ら「忍耐をもってその魂を保ちなさい」と仰せられました。フィロテアよ、自分の魂を保つことができるのは大きな幸福です。私たちの忍耐が完全となればなるほど、私たちはさらに完全に魂を保つことができます。主も、ご受難によって、私たちを救ってくださいました。ですから、私たちも、不正・困難・不快を、最大の柔和をもって忍耐し、このようにして、苦痛と悲哀とによって、自分の救霊を成就すべきことを忘れてはいけません。あなたは、忍耐を、一定の苦痛・不義に限らないで、天主があなたに送ってくださる、一切のことに及ぼさないといけません。名誉なる苦痛(例えば、戦場の負傷、戦争にて捕虜となること、信仰のために迫害をうけること、争論して自分を曲げないため貧困に陥ること、など)に限って、甘受する人がいますが、しかし、これは苦痛を甘受するのではなく、その実は、名誉を愛するのであります。本当に忍耐深い僕は、名誉・不名誉に関係なく、あらゆる苦痛を甘受します。悪人にののしられ、責められ、苦しめられるのは、勇気ある人にとってはむしろ愉快であります。しかし、善人に責められ、朋友・親族に迫害されることをしのぐこそ、真の徳行ではないのか。かつて、きわめて厳格な修道会に属するある大説教者が、説教祭壇から、公衆の前で、聖カロロ・ボロネオを激しく非難したことがあります。私は、この攻撃を、長時間忍耐してしのいだ聖カロロの柔和こそ、他のあらゆる攻撃を耐えたにも勝って尊いと思います。ミツバチの刺し傷は、アブの刺し傷より痛い。善人から受ける非難・攻撃は、他より受けるものに比べて耐えがたい。しかし、双方とも、善を尽くす意見の相違から、激しく相互に非難しあうことは少しもまれではないのです。あなたは、また、主要な苦痛のみならず、これに付随する小さな困難も甘受しないといけません。不便がなければ、不幸にあってもよいという人がいます。たとえば、「たとえ貧乏でも、友だちに義理を欠かないで、子供を教育し、あまり世間の目を損なわないで暮らせれば、貧乏してもいい」という人がいます。他人に誹謗されるときにも、世の人が誹謗者を信じない限り、これを忍耐してしのぐ人がいます。あるいは、不幸の全体を耐え忍ばないで、その苦痛の一部分だけを甘受する人がいます。たとえば、病気の苦痛は我慢するが、医者にかかる金がないのが耐えきれない、あるいは、病気はいいが、他人に迷惑させるのがいやだ、という類であります。しかし、フィロテアよ、本当は病気をしのぐばかりではなく、天主が送ってくださった病気を思し召しの場所で、思し召しの人々の間で、また思し召しになった不便と共に、しのぐのが、真の忍耐であります。他の不幸についても、同じであります。不幸に陥ったならば、天主が許してくださるあらゆる手段を講じて、これを退けるように努めなさい。そうしないならば、これは天主を試みることであります。しかし、最善の手段を尽くした後は、完全な忍耐をもって、天主の遣わしてくださる結果を待ちなさい。もし、これによって不幸が除かれたのならば、当然、謙遜な心をもって天主に感謝しなさい。しかし、不幸の方が大きいのが、主のみ旨ならば、また、忍耐して天主を賛美しなさい。私は聖グレゴリオと言います。あなたが真実に犯した過失のために、人に非難されるならば、へりくだって、あなたがこの非難に値することを告白しなさい。もし、誤っている非難ならば、これを否認し、静かに弁明しなさい。これは、真理のため、および、他人によい模範を与えるための義務です。しかし、あなたの正当な正直な弁解の後に、なお引き続き非難される時は、これをつぶやかず、また、あえて弁明しようとしないで、真理に対する義務を尽くした後は、謙遜に対する義務を尽くしなさい。これが、自分の名誉を保護し、同時に平和・柔和・謙遜を守る道であります。たとえ、他人より迷惑を受けても、できる限り、つぶやいてはいけません。一般に、私たちは、自分の自愛心によって、迷惑を誇張して感じるものであります。愚痴を言う人は、罪を犯すのが常であります。とくに怒りやすい人、あるいは、物事をすぐに悪意に解釈する習性のある第三者に向かって愚痴をこぼすな。もし、受けた損害を償うために、あるいは、自分の精神を慰めるために、第三者に自分の苦痛を訴えようと思うならば、温和にして天主を愛する人にしなさい。そうでないならば、あなたは精神を静めることなく、かえって、その動揺を激しくするばかりであろう。刺されたいばらを抜く代わりに、ますます深く、それを足の裏に差し込むようなものであります。病気にかかったり、困難に出会ったり、他人から損害を受けたりしても、つぶやかないで、辛抱している人の中で、近くの人より卑怯未練に見られることを恐れて、(実際は、その通りであるが)忍耐する人も少なくありません。このような人々は、心の中では、他人が彼らに同情し、彼らのために嘆き、苦痛の中における忍耐・勇気をほめることを切望し、時として、あれこれ小さい策略を用いて、これを求めることさえあります。これは、確かに忍耐です。しかし、誤った忍耐です。そうして、その真実は、巧妙な野心、あるいは虚栄心にすぎません。「彼らの光栄は神に対してではありません」と使徒が言う通りです。真に忍耐する者は苦痛をつぶやかず、また、他人の同情を求めず、これを人に語る時は、誠実・単純・素朴な言葉をもって行い、無駄に嘆き悲しむことなく、また、これを誇張することもありません。他人が彼らのためにつぶやくころを聞くときも、きわめて平静に、また、もしそのつぶやくところが事実に適合していないときには、謙遜にそうでないことを告げて、このようにして、事実を訴えても、無駄につぶやき嘆かないで、真理と忍耐を守って、平和を失わないのであります。信心の勤めを行う時に受ける迫害については、(この迫害は必ず来ます)主の御言葉を念頭におくといいです。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハネ16・21)と。あなたが霊魂に懐胎したのは、この世の最もすぐれた子供、イエス・キリストにほかならないのであります。イエスをお生みになるまでは、あなたは、陣痛の苦痛を味合わないといけません。しかし、この苦悩が過ぎ去るならば、世にこのような子供を生んだ喜びが、永遠に残るの、今、勇気を奮い起こしなさい。イエスの生涯の模倣によって、あなたの心・あなたの行いの中に完成されるのは、イエスご自身であります。病気の時には、病苦・疼痛・煩悶を、ことごとく、主に捧げ、これを、主があなたのために堪え忍ばれた、ご苦難に合わせてもらうことを願いなさい。医者の命令を聞き、天主の愛の為に、薬と栄養を摂取し、主が、あなたの愛のために、胆汁を味わったことを思いだしなさい。天主に仕えるために、回復を希望しなさい。しかし、み旨に服従するために、病苦を嫌うな。もし、み旨ならば、天主を賛美し、天国の栄光を受けるために、死ぬことさえあえて辞退するな。ミツバチが蜜を作る間は、非常に苦いものを、食べているということであります。私たちも、悲しみのパンを食し、苦悩の日を送る間に、大きな柔和・忍耐の業を行い、すぐれた善徳の蜜を蓄えるのです。「たちじゃこう草」という、小さな苦い草の花からとった蜜が一番甘いように、最も卑しく、恥ずかしい苦痛の悩みの中で、行われる善徳が最もすぐれたものなのであります。裸で十字架につけられ、ののしられ、あざけりを受け、人々に捨てられ、ありとあらゆる恥辱・悲嘆・苦痛を身に受けられたイエス・キリストを、精神の眼にて仰ぎ、あなたの苦しみは、その程度においても、分量においても、主のご苦難と比較にならないことを思い、あなたが主のために苦しむのは、主があなたのために苦しみ、主があなたのために耐え忍ばれたご苦難と比べるなら、全く小さいことを知りなさい。そして、かつて、殉教者が耐えた苦痛、および、現在、多数の人が、あなたと比べるならば、比べることができないほど、激しい患難を耐えている事実を思って、「救う人もなく、助ける人もなく、苦しみを軽くする手段もなく、激しい苦痛のなかで、絶え間ない死を味わっているその人々に比べれば、私の苦しみは慰め、私の患難はバラの花に過ぎないのだ」と悟らないといけません。