36 正しく、道理あるべきこと

私たちは、理性によって、始めて人であると言えます。しかしながら、本当に道理正しい人は、むしろまれです。常に、利己心が私たちの道理に反し、知らず知らずの間に、種々の小さいけれども、危険な不正・不義に導きます。これらは、あたかも、雅歌にいう、ブドウ畑を荒らす子ギツネのようで(雅歌2・15)、小さいために注意を引かれませんが、数が多いために大きな害を及ぼすのです。たとえば、次のような事柄は、不正不義と言うべきではないだろうか。私たちは、わずかな欠点のために、他人を非難して、多くの自分自身の、過失を弁解する。高く売り、安く買いたい。他人には正義をもって対するが、自分には慈悲・同情をもって取り扱われたい。自分の言葉は善意に解されたいが、他人の話しには敏感で、すぐにいらいらする。金銭を払えば、だれでも、その所有品を売ってくれるものと考えているが、売りたくない人は、金銭を拒んで、品物を所有している方が当然である。自分の要求を聞いてくれないと、いやな顔をするが、相手のうるさい要求に、腹が立つのはしょうがない。もし、私たちがある一事を好めば、他はないがしろにして、趣味に合わないことはことごとく反対する。目下のものが気に入らないのか、または、自分の感情を害したならば、彼の一挙一動、すべて面白くなく、いつも非難のもとにする。これに反して、寵愛する人のすることは、なんでも大目に見てやる。身体・容貌が醜いために、顔を見るのも嫌だというふうに、父母に、扱われるよい子もあれば、愛らしい姿のために、甘やかされている悪い子もいる。いかなる場合にも、私たちは金持ちを好むが、貧乏人は、たとえ賢くても、徳行がすぐれていても、これを軽蔑する。時として、きれいな服装をしているというだけで、ある人を選びます。自分は、自分の権利を厳重に主張して、他人が几帳面にするのを好まない。自分は地位を自慢し、他人には謙遜・礼儀正しいことを求める。他人の言葉にはすぐにつぶやき、自分は批評されることを望まないが、他人のためにすることは大げさに考え、他人の行為は取るに足らないと思う。これらの心には、要するに、パフラゴニアに住むという、二つの心臓を持っているシヤコのように、自分自身に対する親切、寛大な心と、他人に対する厳格、頑固な心を持っています。換言するなら、自分には都合よく、できるだけ利益となり、他人にはできるだけ不利益になるような、二重の秤を持っています。このような心を持つ人を、聖書は「偽りのくちびるは、二心をもってものを言う」(詩編11・3)と表現しています。二つの心、受けるのに重く、与えるのに軽いおもりの二つの秤を持っています。共に、天主の御前に憎むべき事柄です。フィロテアよ、行為は常に公平に、正しくありなさい。他人を自分の位置に、自分を他人の位置に置けば、物事を正しく判断できます。買うときは売る人の心となり、売る時には、買う人の心となれば、売買に不正はありません。もともと、これらは、いずれも、ほんの小さな不正であろう。たとえ自分の利益をはかっても、厳密な意味での正義を傷つけなければ、そのために弁償の義務は生じません。しかし、このようなことは、理性と愛徳とに背く大きな欠点で、かつ、要するに一種の詐欺であるから、どうしてもこれを正しく直す義務があります。公平な正しい心をもって、公明正大に、美しく生活するのは、決して損ではありません。フィロテアよ、あなたは、他人にして欲しいことを、他人に施しているか、あなたの心をしばしば省みなければなりません。これが真の道理の要点であります。トラヤノ帝は、帝王の威厳を失わないとするまでに、あまりに親しみやすいと、近侍の臣にいさめられた時に、「朕は、もし、自身が臣下であったならば、このような皇帝が欲しいと思うようにしているのだが、それが悪いと申すのか」と、答えられたそうです。