35 大事にも、小事にも、忠実であるべきこと

雅歌の新郎は、乙女がただ一目みただけで、また、一本の髪の毛でもって、その心を奪われたと歌っています(雅歌4・11)。人体のあらゆる部分の中で、眼よりも、美しく、よく働くものはなく、また、一本の髪の毛よりも、わずかであり、卑しむべきものはありません。それゆえ、この言葉の意味は、霊魂の天配は、単に敬虔な人々が営む大事のみではなく、小事によっても、等しくみ心を喜ばせるとの意味であります。だから、天主に喜ばれようと願うならば、あなたは高尚なる大事においても、卑近なる小事においても、真心をこめて主に仕えなければいけません。なぜならば、仕事の大小にかかわらず、私たちは愛をもって、主のみ心を奪うことができるからであります。フィロテアよ、聖主のためには、いかなる艱難・辛苦をもしのぎ、殉教さえも恐れない覚悟をしなさい。また、思し召しとあるならば、父母・兄弟・親族に至るまで、また、あなたの持っているもの、いかなる貴重なものも主に捧げて、あなたの眼、あなたの生命さえも惜しまないで、一切の犠牲を、心の中に覚悟しないといけません。しかし、天主のみ摂理が、あなたにこのような苦痛・犠牲を求めにならないとき、すなわち、あなたの眼を求めないときには、少なくともあなたの髪の毛を捧げて、軽微なる迷惑、わずかな不便、日常生活にしばしば起こる些細な損失などを、柔和をもって忍耐しないといけません。このような小さい機会も、主を愛する思いをもって利用したならば、主のみ心を奪って、これをあなたのものとすることができます。日々のわずかな愛徳の務め、頭痛、歯の痛み、軽い発熱、夫または妻の不機嫌、大切な器物の毀損、他人の示す嘲弄・軽蔑の顔色、あなたの手袋・指輪・ハンカチの紛失、または聖堂に参詣し、聖体を拝領するために、早く寝て早く起きる等の、自ら求める不便、他人の前で、信心の行いをするときに感じる軽い羞恥心、もしも、あなたが、このような小さな苦痛を、愛をもって進んで受けるならば、一杯の冷水のために、無限の幸福を信者に約束した、慈愛深い天主のみ心を、限りなく喜ばせることができます。また、このような機会は、ほとんど常に存在するために、これを利用するのは、多くの霊的財宝を集める上の一大秘訣であります。シエナの聖女カタリナの伝記において、聖女が、無数の高尚神秘なる天主の観想に従事し、恍惚たる脱魂状態に陥り、神の知恵の言葉を語り、人々に教えられたのを読んだとき、私は、聖女が、この天主の観想の眼によって、天配のみ心を奪ったことについて、少しも疑問をはさみませんでした。しかし、また私は、聖女が、父の家の厨房で、天主に対する熱愛から生じる勇気に満ちて、火を起こし、肉をあぶり、料理をし、パン粉をこね、あらゆる日常の家事に従っていたことを読んで、非常に感動しました。私は、聖女が日常の家事の間に行った、身近な小さい黙想を、彼女がしばしば受けた脱魂状態に比べて、劣るものとは思いません。あるいは、この脱魂状態は、聖女の謙遜・忍従の酬いであったかもしれません。身近な黙想とは、次のようなものであります。たとえば、聖女は、父親のために料理をするのは、聖女マルタのように、聖主に給仕するのであると想像しました。母親は聖母であり、兄弟は使徒たちでありました。このように、聖女は、聖主、および、諸聖人に仕える心で、日常の家事を大きな愛をもって行い、これが天主の思し召しであると知っていたのです。フィロテアよ、私がこの実例を物語るのは、どのような日常の仕事をも、天主に仕える精神をもって、真心をもって果たすことの、きわめて重要であることをあなたに悟ってもらうためです。あなたは、そのために、あの偉大なソロモン王が口をきわめて褒め讃えた「強い女」にならわないといけません(箴言31)。彼女はその手を、高尚にして大きな「強きこと」のために差し出し、しかも、糸車を回し、紡錘を持つことに躊躇しません。「その手を強くし‥‥その指に紡錘をとる」と。あなたも、また、念祷し、黙想し、秘蹟を受け、人々に天主の愛を教え、人々の心によい思いを分かち、その他、あなたの地位・境遇に従って、重要な大事をしなさい。しかしあなたの紡錘と紡錘竿とを忘れてはいけません。すなわち、十字架の根元に咲く花である、小さな身近な徳行、たとえば、聖人への奉仕、病者の慰問、家事の務め、毎日の労働、怠けることのできない有益な仕事などを実行し、これら一切の仕事の間に、聖女カタリナがつくられた思想を混ぜるといいでしょう、天主に仕える重大な機会はまれでありますが、小さい機会は毎日あります。「小事に忠実な人は、大事にもまた忠実です」と、聖主は自ら仰せられました(ルカ16・10)。すべてを主のみ名のためにっしなさい、そうするならば万事がみなよくなるでしょう。あなたが、これをよく実行する方法を知るならば、飲食にも、睡眠にも、休息にも、また厨房における労働にも、天主のみ旨を行うことができて、天主のみ前に多くの功徳を積むことができます。