30 談話に関するその他の注意

あなたの談話は、温和・率直・真率・明快・単純・正直にして、決して、曖昧・策略・偽りがあってはいけません。必ずしも、常に、一切の真を話すことは善ではありませんが、しかし、いかなる場合にも、真実に背くことは不可です。知りつつ他人を欺くことは、たとえ、それが弁解のためでも、また、そのほか、いかなる理由のためでも、これをしないように、習慣をつける必要があります。天主は、真理の天主でいらっしゃることを忘れてはいけません。心にもなく偽りを言った場合に、もし即座に、弁解、または、釈明をして、取り消すことができるならば、これをしないといけません。真実を語ることは、釈明するに当たって、虚言よりも、より美しく、より有力であります。ときとして、ある真実を、言葉の綾で隠し覆うことが、賢いほうもあります。しかし、これは、大事に関して、かつ、天主の光栄のために、または、天主に仕えるために、明白に必要な場合に限らなければいけません。それ以外では、巧みであることは危険であります。聖書に記されているように、天主の聖霊は、狡猾、偽りの精神に御宿りにならないため、いかにすぐれた愛すべき巧みと言っても、率直に勝るものはありません。世間的な賢明、肉的の計略は、この世の子たちのものでありますが、天主の子たちは、歩くのに曲がることのなく、真っすぐな心を持ちます。知者は言います。「真っすぐに歩く人は、心安らかに歩くものです」と。偽り・二心・仮装は、すべてか弱い賤しむべき精神の証拠であります。聖アウグスチノは、その「懺悔録」の第四編に、ある友人に関して、自分と彼とは唯一の霊魂であったため、友の死後は霊魂の半分を失ったように感じ、この世の生命は、寂しく・悲惨の極みであり、またもし自分が死ねば、友の生命をここに全く消滅するだろうと信じて、自分の死もはなはだしく恐れた、と書き記しました。しかし、後になって、彼は、これらの言葉がいかにも誇張であり、真実性に乏しいことを感じて、これをその「訂正書」の一巻のなかで戯れ言と呼んでいます。愛するフィロテアよ、ああ、聖にして美しいこの霊魂は、用語の誇張・虚飾に対して、どれほど敏感であったことであろう。本当に言葉の真実・明快・単純であることは、キリスト教的生活の大きな輝きでないといけません。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。・‥主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」(詩編39・2、141・3)とはダビデ王の祈りであります。「罪悪、もしくは、重大な害を黙認するようになる場合を除き、決して人と争ってはいけません」とは、あらゆる喧嘩・口論をさけるために聖ルイ王が与えられた教えの一つであります。どうしても、ひとに逆らいひとの意見を反駁しないといけない場合にも、相手の感情を損なわないように、大きな柔和とすぐれた知恵を用いることは大切であります。ことを荒立てるのは、なんの利益もないからです。昔の賢人たちが大いに推奨した「だいたいの言葉は少ないほうがよい」との教えは言葉数の少なさを命じるだけでなく、ひとえに、無用の話しを禁じたのです。言葉は、その量ではなく、その質を顧みないといけません。私の考えでは、そこに避けるべき両極端があります。堅苦しく厳格ばかりで、親しく受け答えしないのは、相手を信用していないか、あるいは、軽蔑しているかのように見えます。いつも一人で調子に乗って喋って、相手に、言いたいことを言う隙を与えないのは、考えが軽はずみで、浮ついているからであります。聖ルイ王は、他人の前で私語をし、とくに、食卓の列にしてヒソヒソと語るのは、陰口を言っているようでよくないと言いました。王の言葉に、「人々と共に食卓についている時に、なにか面白い話を持っている者は、衆人に聞こえるように話さないといけません。大切な用談は、話さずに黙っていなければなりません」と。