29 誹謗について

秩序のない軽薄な判断は、自分の心の中の不安・隣人の軽蔑・傲慢・自己満足、等々、無数の悪結果を生じますが、その中でも、誹謗は、交際の真の悪性の流行病であり、あらゆる悪結果の首位を占めるものであります。預言者イザヤの唇を清めたセラフィンのように(イザヤ6・6,7)、私もまた、天主の祭壇の燃える炭火をとって、人々の唇に触れて、彼らの不義を焼き尽くし、彼らの罪を拭い去る術があるといいのに。世の中の誹謗を絶やすことができたならば、その罪悪と不義との非常に大きな部分を除くことになるだろう。他人の名誉を不正に傷つけた人は、犯した悪を償うほかに、誹謗の軽重に従って、その人の傷つけられた名誉を償わないといけません。たしかに、どんな人であっても、他人の所有物を自分のもののように扱い、そのまま天国に入ることはできません。そうして、人間の外面的所有物の中、名誉は、最も貴重なものであります。また、誹謗は、一種の殺人罪であります。私たちは、もともと、三種の生命を持っています。そのうち、霊的生命は天主の聖寵に存在し、肉体的生命は霊魂に存在し、社会的生命は名誉に存在しますが、罪は第一の生命を奪い、死は第二の生命を滅ぼし、誹謗は第三の生命を殺します。さらに、誹謗者は舌を用いて、同時に、三重の殺人罪を犯すのが普通です。すなわち、聞くものと自分の霊魂を殺して、二つの霊的殺人をし、同時に、そしられる人の社会的生命を殺すからです。聖ベルナルドのことばに、「誹謗するものも、これを聞くものも、共に、悪魔につかれている。ただし、一人はこれを舌に、他は耳に宿している」と。ダビデ王は誹謗者について、「彼らは蛇のようにその舌を鋭くし」(詩編140・4)と言いました。アリストテレスによれば、蛇の舌端は、二つに別れているそうでありますが、また誹謗者の舌もその通りで、一撃で同時に聞くものの耳を害し、かつそしられる者の名誉を損なうのであります。愛するフィロテアよ、ですから、あなたは、直接にも間接にも、他人を誹謗することをしてはいけません。あるいは、隣人に無実の罪を負わせたり、その隠された罪を暴いたり、また、一般に知れわたっている罪でも、これを誇張したり、また、善行を、悪い様子に解したり、あるいは、ある人が有する美徳を否定したり、これを悪意によって隠したり、または、言葉をもってけなしたりなどしては決していけません。このようなものは、偽りの証拠をたて、他人を傷つけるために、とても大きいものがあります。誹謗するために、まず、これを褒めそやし、あるいは、皮肉や冗談のようにして他人をそしるのは、最も巧みで、かつ、毒を含んだやりかたであります。たとえば、「私は、あの人を真に敬愛します。あの人は実によい人だ。しかし、真実は言わなければいけません。彼は、このような不信の行為をあえてした」「あの娘はまじめな娘だ。しかし、ちょっと油断があった」などの類であります。あなたはこの狡知に気づかないのか。射る人は、弓に矢をつがえて引きしぼるが、これは威勢よく射出すために他なりません。最初に褒めるのは、聞くものの心を貫くために、誹謗の矢を引き絞るのであります。皮肉は、あらゆる誹謗の中、最も残酷なものであります。ちん毒は、さほど激しい毒ではなく、その作用は緩やかにして、簡単にけすことができるが、これをブドウ酒に混ぜて飲めば、もはや施す術はありません。このように、耳から耳へ軽く抜けてしますような悪口も、軽妙な風刺となれば、いつでも、聞くものの記憶に宿ってしまします。ダビデ王は「その唇にマムシの毒を含んでいます」(詩編140・4)と言いました。マムシの噛み傷は、ほとんど気が付かないほどに小さく、また、その毒素も、むしろ、快いかゆみを起こすくらいであるが、やがて心臓をはじめ、その他の器官を弛緩して、中毒すると、一切の治療がなくなります。たとえ酔漢を見ても、「あれは大酒飲みだ」と言ってはいけません。また、たとえ姦淫の罪を犯していると知っても、「彼は姦淫者だ」と言ってはいけません。一回の行為は、その人に、このような名を与えるに足りないからです。太陽は、かつて、ヨズエのために止まったことがあります。また、聖主のために暗くなりました。しかし、太陽は動かないものだとか、暗いものだとかいう人はいません。ノアも、ロトも一度酒に酔ったことがあります。ロトは、その際に、邪淫の大罪さえ犯してしまいました。しかし、二人とも酒飲みではなく、ロトも邪淫の人ではありません。聖ペトロは、一度、剣で人を傷つけ、また、天主を冒涜しましたが、そのために、彼は血を好むとか、冒涜者だとか言うことはできません。罪でもあれ、徳でもあれ、それが習慣的になって、その傾向が増していく場合に、はじめて、その名をもって言うべきであります。一度怒ったり、盗んだりするところを見た人を短気者とか、盗賊と呼ぶのは、決して正しいことではありません。さらに、たとえ、ある人が長年月間、罪悪の生活を送っていたとしても、彼を悪人であると直ちに言うことは、必ずしも正しいことではありません。らい者ラモンは、マグダレナが、罪悪の生活に沈んでいたことを知っていたため、彼女を罪深い女と呼びましたが、しかし、それは真実を誤ったもので、マグダレナは、この時はもはや、罪の女ではなく、きわめて尊い痛悔女でありました。それゆえ、聖主は、彼女を弁護されたのです。また、あの愚かなファリサイ人は、神殿で祈る徴税人を、大罪人、おそらくは、不正漢・姦淫者・盗賊でもあろうかと考えました。しかしそれは誤りで、その徴税人は、この瞬間に、すでに義とされていたのです。ああ、天主の慈しみは測りがたく、聖寵をお与えくださるためには、ただ一瞬で足りると思えば、どうして、昨日の罪人を、今日もまたそうであると、言い切れるだろうか。昨日は、今日を判断するのに足りず、今日は、また昨日を裁くに足りません。人の一生を裁くのは、その最後の日ばかりであります。そうであるなら、私たちを悪人であると言う時、偽りを語る危険が常に存在します。もし、止むを得ないならば、私たちの言うことができるところは、彼は何々の悪事をした、いつごろ、不正の生活を営んでいた、現在も悪事をしている、とだけであって、決して、昨日をもとにして今日を判断し、あるいは、今日をもって昨日を推測してはいけません。ましてや、明日を想像することは不可能です。他人を誹謗するためには、きわめて細心であることを要しますが、その反対の極端に走って、誹謗を避けるために、悪事を賞賛してはいけません。もしも、真に誹謗の悪癖を持っている人があるならば、これを庇護するために、彼は淡泊でわだかまりがないと、言ってはいけません。また、明らかに虚栄の人がいるならば、彼を、気前がよいとか、行いが清らかだとか言ってはいけません。また、危険な馴れ馴れしさを単純・無邪気と呼んではいけません。不従順を熱心と称し、傲慢に正直の名を与え、卑猥を親愛の名で覆ってはいけません。いいえ、フィロテアよ、誹謗の罪を避けようとして、他人の罪悪を奨励し、あるいはこれに媚び、これを養うのは不可であります。当然、悪は悪であると正直に言い、非難すべきことは、非難しないといけません。これが、すなわち、天主の栄光をはかることになりますが、私は、これに、次の条件を加えます。他人の罪悪を非難して差し支えないのは、それが、非難される人の利益になる場合、あるいは、非難が多くの人々の利益になる場合であります。たとえば、少女の面前で、明白に危険になる甲の馴れ馴れしさ、あるいは、明白に淫らな乙の言葉・態度を非難するような場合であります。このとき、もし私が遠慮なくこれを誹謗しないで、かえって、その弁護をするならば、これを聞く若い人々に、類似の罪に陥る機会を与えることになります、それゆえに、このことを、もっと適当な時期に、あるいは、問題の人、甲・乙の恥辱とならないほかの機会に譲ることができなければ、即座にでも、少女たちの利益のために、はばからないでこれを非難する必要があります。なお、また、正当に誹謗するためには、私が責任ある地位にあり、たとえば、その一座の長者の一人であって、私が沈黙していることが、罪悪を黙認しているのに等しいというような場合に、始めて口を開くべきで、これに反して、もしも、私が末席にいるような時は、発言するべき筋合いではありません。とくに注意すべきことは、ある人を非難するのに当たっては、きわめて正確な言葉を用い、一語たりとも、言いすぎない様にすることです。たとえば、ある青年男女があまり馴れ馴れしすぎて、謹慎を欠き、危険であると信じて、これを非難するには、私は、きわめて細心な注意を払って、公平に処理をして、ほんの少しのことでも誤ってはいけません。たとえば、単に、それがそうと見えるというだけならば、私は、黙っていよう。単に、彼らの注意が足りないというだけでも、やはり、私は黙っていよう。また、注意の不足でもなく、悪の外観でもなく、ただ、単に、悪意の人の誹謗の種になるというだけで、あったならば、私は、全然黙っているが、そうでないならば、この事実を告げるであろう。他人を非難する時の私の舌は、あたかも、肉と神経を分ける、外科医の手の中にあるメスのように、その一言一句はきわめて正確で、事実にほんの少しも加えず、少しも減じないものでなければいけません。また、最後に、罪悪を非難する時と言っても、罪人自身は、できるだけ哀れまなければなりません。教会の宣告を受けた、公の明白な大罪人については、遠慮なく話していい。ただし、それも愛とあわれみの精神とから出るべきであり、冷笑・侮辱の態度、または、他人の罪悪を見て喜ぶという風であってはなりません。天主、および、教会の公然の敵、すなわち、異端・離教の頭目のようなものは、全くの例外で、このような輩は、極力、これを落とし辱めなければいけません。羊の群れに、オオカミが入ってきたならば、いいえ、オオカミの姿を見かけるやいなや、大声で叫びこれを追うのは羊に対する愛であります。よく人は、感情のほとばしるままに、他国民を誹謗し、または、他国の王を罵るものであります。フィロテアよ、あなたは、決してこの過失に陥ってはいけません。これは、天主のみ前に罪を犯すだけではなく、多数の争いの源になるからです。誹謗を聞くとき、もし、正当にそれができるならば、それに疑問を入れなさい。それができるならば、罪人を庇護しなさい。それさえも、不可能ならば、せめて私たちが罪を犯さないのは、全く、天主の恩寵の賜物であることを、あなた自身、ならびに、そこにいる人々に想起させて、柔和慈愛をもって、その罪人をあわれみ、また、もし、その人の美点を知っているならば、これを話すがいいでしょう。