28 秩序のない軽率な判断について

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」(ルカ6・37)とは、私たちの霊魂の救い主の御言葉であります。また、使徒聖パウロも、「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(1コリント4・5)と言いました。秩序のない軽率な判断が、天主の聖心に背くことは、どれほどであろうか。人は、互いに、他の裁判者ではありません。他を裁くとき、彼らは聖主の権を奪ったために、その判断は秩序なく軽率であります。罪の憎むべき理由である意志と目的は、私たちにとって隠れた秘密であるために、これにもかかわらず、あえて他を裁くとき、私たちの判断は秩序なく軽率であります。また、私たちは他を裁くよりも、むしろ自分を省みないといけないために、これにもかかわらず、あえて他を裁くとき、私たちの判断は秩序なく軽率であります。かつ、他人を裁かないことは、自己を裁くことと相まって、死後の審判を免れるための要件であります。聖主は、親しく前者を禁じ、使徒聖パウロは、「わたしたちは、自分から裁かないならば、裁かれはしません」(1コリント11・31)と、後者を命じています、ああ、天主よ、それにもかかわらず、私たちはその正反対のことを行い、禁じられたことを辞めず、自らを裁くべきとして命じられたところはかつて一度も実行しないのであります。秩序なく軽率な判断は、当然、その根本にさかのぼって、正さないといけません。たとえば、生来几帳面な人は、すべてをことごとく四角四面に見て、預言者アモスの言葉のように、正義を苦草と化し(アモス6・13)、常に厳格に他人を裁きますが、このような人は、その心の苦みが天性より出ているだけ、なおさらこれを癒すことが困難であって、特にすぐれた霊魂の指導者を得ることが必要です。このような人々の天性は、その自身において罪ではなく、むしろ欠点ですが、自分の霊魂に秩序なく軽率な判断、および誹謗の悪習慣を招き入れる危険があるので、真剣に自らを改めねばいけません。また、ある人々は、厳格な天性に基づくのではなく、傲慢心のために、秩序なく軽率な判断をくだすことがあります。すなわち他人の名誉を傷つけることを、自己の名誉をあげる理由と信じる傲慢・虚栄の人は、常に自己を賛美し、自己を誇り、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(ルカ18・11)と言った、あの愚かなファリサイ人のように、他人を、ことごとく低級卑賎のもののように見下します。さらに、ある人々は、この明白な傲慢心はありませんが、他人の欠陥を思うごとに、一種の密かな快感を抱きます。これは、自分に才能があり、またその反対の美徳を所有すると信じ、これを自ら快く味わい、他人にも味合わせようとすることに行き着きます。しかし、この快感は意識下に潜在しているためによく注意しないと自覚できません。そのために、この悪癖がある人は、他人に注意されて、初めてこれを悟るほどです。また、ある人々は、自己にへつらい、自己を弁護するために、あるいは、自分の良心の呵責を免れるために、好んで、他人も、自分と同じ、あるいは、同一程度の他の罪悪を有すると判断します。すなわち犯罪者を増やして、自分の罪悪を庇護しようと努めるのです。また、ある人々が、秩序なく軽率な判断をあえてするのは、人情の機微を通じて、人の心の表裏を察しようという、一種の心理解剖的な興味のためであります。不幸にして、彼らの判断が的中することがあれば、その興味・嗜好はますます高まって、中途にやめることがとても困難になります。また、あるものは、情欲のために、秩序ない軽率な判断をします。自分が愛する者は常に善良で、自分の嫌う人は常に悪人であります。ただし、時として、過度の愛のために、愛人を裁くときがあります。一見、不思議に思えますが、しかも真実な、この奇怪な結果は、不純不安なる病的愛欲より起こる嫉妬の現象であって、とるに足らないことから、不信呼ばわりをしたり、夫、あるいは、妻の貞操を疑ったりするものがあることは、誰にも周知なことであります。その他、恐怖・野心等、種々の精神の欠陥が、疑惑および秩序ない軽率な判断の原因となることもしばしばあります。そうならば、いかにして、これを癒すべきか。エチオピアに生えるオフィウサという草の液の毒にあたると、蛇、その他の恐ろしいものの幻影が見えます。この病を癒すには、しゆろ酒を飲むとよいそうです。そのように、傲慢・嫉妬・野心・憎悪等を飲み込んだ人は、見るもの聞くもの、ことごとく非難の材料になります。このような人は、必然的にできるだけ多く、愛徳の聖酒を飲まないといけません。そうすれば、この誤った判断の源である、あなたの邪念が癒えるでしょう。愛徳は、他人の悪を見ることすら避けます。わざわざそれを暴露するどころではありません。不幸にして、悪に会う場合には、脇を向いて知らないふりをします。悪に近づくと、よく見えないなかに目を塞ぎ、聖なる単純な心をもって、それは悪ではなく、その幻に過ぎなかったと信じます。どうしても、悪であると認めるのが仕方ないときも、すぐに顔を背けて、それを忘れるように努めます。愛徳は、一切の悪事の良い薬であるが、特にこの悪癖に対する最良の薬であります。黄疸を病んで黄色くなった人は、何を見ても黄色く見えます。この病を癒すには、足の裏にくさのそうという薬を張り付ければいいです。みだりな判断の罪は、精神的黄疸症で、これにかかった人には、全てが悪く見えます。そうして、これを癒すためには、薬を眼(すなわち理性)につけないで、霊魂の足(すなわち、感情)につければいいです。あなたの感情が柔和ならば、判断も柔和になり、それが愛徳に満ちたならば、あなたの判断も、また愛に溢れるであろう。私は、あなたに三つのすぐれた実例を示します。イザヤは、レベッカを自分の妹と称していた。ところが、アビメルクは、ある日、イザヤがレベッカと戯れ、彼女を愛撫する様子を疑って、直ちに夫婦であると認定した(創世記26)。邪悪の人が、このような光景を見たならば、必ず、両人が、恥ずべき罪を犯していると信じたであろう。しかし、アビメルクは、この事実に対して、最も好意ある解釈を下しました。フィロテアよ、私たちも、このように、他人を裁くのに、できるだけの好意をもって、事柄が百種の異なる姿を有すれば、その最も美しい姿によって、これを見ないといけません。次に、聖マリアが懐胎されたとき、聖ヨゼフは、この事実を明らかに認めたが、しかし、彼は一方に、聖童貞女の至聖・至純・至潔であることを熟知していたので、彼には、この懐胎が罪悪の結果であることを、信じることができませんでした。だから、ヨゼフは、そのままマリアを去って、天主のご審判にまかせようと決心しました。この童貞女に対して、疑いをはさむべき根拠は深かったにもかかわらず、彼は彼女を裁こうとしませんでした。なぜであるか、聖霊がいうところによれば、彼は義人であったからです(マタイ1・19)。義人は自分が信頼する人に対して、疑惑を生じて、その事実、およぼ、その意志について、弁解できない際にも、あえてこれを審判しないで、かえって天主に委ねます。最後に、十字架上における聖主は、主を磔に処した人々の罪を、広く行きわたらせざるを得なかったが、少なくともその罪過の軽減のために、彼らの無知をあげました(ルカ23・34)。私たちも、他人の罪を弁解できない時には、無知・か弱き等の、最も酌量しやすい理由を求めて、少なくても、これを憐れむようにしないといけません。そもそも、私たちは、決して、他人を裁いてはならないのであろうか。そうです、フィロテアよ、罪人を正義に従って裁くのは、独り、天主のみであります。しかし、法官は、要するに、単なる通訳、あるいは、説明者にすぎないので、天主の命じなさりところと、確信することのみを宣すべきであります。もし、そうでないならば、自分の感情に従って裁いたならば、すなわち、自分を裁判者となし、他日、天主に裁かれるもとになります。なぜならば、人間は他人を裁くことは厳禁されているからです。ある一事を見て、あるいは、認めるのは裁くのではありません。審判とは、少なくても聖書の語法では、そこに小なり、大なり、あるいは、真実なり、外面的なりの、判断の困難が存在する場合に限るのです。「信じないものは、すでに裁かれている」と聖書にあるのは、不信者の滅亡には疑問の余地がないからです。また、他人に疑惑をはさむのは必ずしも罪ではありません。禁じられていることは、裁くことで、疑うことではありません。しかしながら、正当な疑惑は、その根拠、あるいは、理由がある時に限るのであって、そうでないならば、その疑惑は、秩序ない軽率な疑惑と言わねばなりません。ヤコブがラケルを井戸の傍らで接吻したとき、(創世記29)あるいはレベッカが未知の外国人であるエリエゼルから、腕輪や耳飾りをもらったのを(創世記24)邪悪な人がうかがったならば、必ずや、なんの根拠も、理由もなく、貞操の権化と言ってもいいこの二人を疑ったであろう。それ自身において、善悪のいずれにも属しないとき、他になんらの疑うべき有力な理由が存在しないにもかかわらず、これを悪く解釈するのは、秩序ない軽率な疑惑です、また、このような行為から、直ちにその人を誹謗するのは、秩序ない軽率な判断であります。しかし、このことについては、私はもっと詳しく説明するつもりであります。なお、自分が良心を真によくはぐくむ人が、秩序ない軽率な判断の罪に陥ることは、きわめてまれであります。あたかもミツバチが、もやの深い日には、自分の巣に閉じこもって、蜜をこしらえているように、義人は、不明の事件あるいは、隣人の不可解な仕事に、好奇心の眼を見張らないで、かえって、自分の心中にこもり、自己の進歩のために必要なよい思いを練るからです。他人の生活を、かれこれと詮議して喜ぶのは、無用の怠け者のことであります。しかし、家庭なり、一国なりで、人々の監督の任に当たるものは例外であります。このような任務を有するものの義務は主として、他人の良心を監視するにあるからです。ただ、このような人々も、愛をもって、その任務に尽くすべきで、なお一層、自己を顧みて、慎まなければいけません。