26 談話について、いかに天主のことを語るべきか

医者は舌を見て、その人の健康の良否を知るが、私たちの談話も、また、私たちの霊魂の有様を示す良い指針であります。救い主も、「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ12・37)と仰せられました。疼痛の場所には、自然と手を送り、愛好することは自ら言葉に出るものであります。フィロテアよ、もし、あなたが真に天主を愛するならば、あなたは、家族や友人との話の間にも、しばしば天主について話すであろう。なぜならば、「義人の口に知恵を思い、その舌は正義を語る」(詩編36・30)からです。ミツバチが、その小さい口ばしで、蜜以外のものに触れないように、あなたの舌も絶えず天主のみ名を呼び、かつ、あなたの唇から、天主のみ名の賛美と、祝福とが流れ出ることを最大の幸福と感じるに至るであろう。聖フランシスコは、救い主の御名を唱えるごとに、世の中で最も甘味のものを味わうように、心がときめいたそうです。しかしながら、天主のことを語るには、天主をふさわしく語らなければなりません。すなわち、尊敬と信心を失わず、また、高慢にならず、説教口調を用いないで、かえって、柔和と、愛徳の念をもって(雅歌の乙女のように)天主の御事、および敬虔の言葉のかぐわしい蜜を、一滴ずつ、聞くものの耳に注ぎ、同時に、あなたに、霊魂のうちで、天主に、この天国の甘露を、彼の心の奥までに染み通らせてくださいと祈らねばなりません。天使にふさわしいこの務めは、柔和・慈しみをもって行うべきで、決して聞くものを叱責しないで、かえって、彼を導くようにするのが肝要です。よいことを、静かに、穏やかに、話すのが、人々の心を、これにひきつけるために、いかに有力であるか、驚くべきことを引き起こすことがあります。天主に関し、信心に関して、話をする時には、形式的、あるいは、ふまじめであってはいけません。必ず、熱心に、かつまじめに話をしなさい。また、敬虔をもって自負している人々のなかに、つねに、きまり文句のように、少しも注意せず、神聖な信心の言葉を口にし、かつ、言うだけで、(実際はそうでなくても)、もはや自分はその通りの人間だと自惚れている人がいますが、このようなとても愚かなことを倣わないように、私はあらかじめ注意をしておきます。