24 談話と沈黙について

他人との談話を求めること、および、これを避けることは、今、私があなたに説明をしている、在俗の信心においては、非難すべき両極端であります。談話を避けるのは、他人を軽蔑する理由であり、また、これを求めるのは、怠惰、無為の表れであります。私たちは、自分を愛するように、他人を愛さねばいけません、他人を愛することを証明するために、彼を避けてはいけません。同様に、自分を愛することを証明するためには、一人で居ることを嫌がってはいけません。聖ベルナルドが言うには、「まず自分のためを思い、それから、後に、他人に及ぼしなさい」と。それゆえ、談話は一人でいて、あなた自身の心と自ら語るといいでしょう。しかし、もし、他人があなたを訪ねて来たり、あるいは正当な用事で、他人を訪問しないといけない時には、フィロテアよ、天主のみ旨に従って快く行き、親切に他人と対談しなさい。邪悪な談話とは、邪悪な目的を有するもの、あるいは、これに加わる人が、邪悪にして慎みを欠くものであります。丁度、ミツバチがアブや山バチを避けるように、あなたは、このような談話を避けなければいけません。狂犬に噛まれた人は、汗や、息や、唾液に毒を交えて、とくに少年、または、虚弱な人には危険でありますが、邪悪な不品行な人との交際は、とくに、敬虔生活においてまだ幼く、か弱き人々にとって非常に危険であります。まじめな仕事の間の気晴らしになるというだけで、精神を休ませる以外に、全く無用な雑談があります。もとよりこれにふけってはいけませんが、休憩時間は差し支えありません。また、正しい談話があります。それは、相互の訪問、または、ある人に祝意を表するための会合などです。このようなものは、これに溺れてはいけませんが、全くこれを避けるのは失礼です。だから、粗野と軽薄との両極端を嫌い、私たちの義務を果たすために、適度にこれを実行しないといけません。最後に、敬虔にして有徳な人々の間でとり交わす有益な談話があります。ああ、フィロテアよ、このような談話をしばしば聞くことは、常に大きな利益であります。かんらんの樹の間に植え込まれたブドウは、オリーブの風味を有する気高い実を結びます。しばしば、有徳な人々と交われば、その美徳を分配せざるを得ません。大きなハチは、一人では蜜を作れませんが、ミツバチと共ならば、これができます。敬虔なる人々の談話を聞くのは、私たちが信心の道に進歩するために、非常にためになります。いかなる談話に際しても、単純・素朴・柔和・謙遜は常に守らないといけません。あらゆる表情・動作に際して、極端に人工的で、相手に不快の念を抱かせる人がいます。歩くにも、ものを言うにも、きざでたまらない人がいます。このような技巧家は、談話を不愉快にし、同時に、彼ら自身のうちの傲慢心・虚栄心を暴露するにすぎないのであります。また、私たちの談話には、常に適度の喜びが混じらないとなりません。聖ロムアルド、ならびに、聖アントニオは、厳格な苦行にもかかわらず、喜び・快活・親切が、顔色にも、言葉にも溢れていたので有名でありました。私は聖パウロにならって、喜ぶものと共に喜べと言います。確かに、使徒は言いました。「主において常に喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(フィリピ4・4,5)と。主において喜ぶためには、あなたの喜びの源は、正しく、かつ、遠慮しないことを要します。(私がこういうのは、正しくても、遠慮することがらがあるからです)。また、あなたの穏やかで、素直なことが知られるためには、非難すべき傲慢・無礼を避けないといけません。他人を陥れたり、讒言をしたり、その他、他人の感情を害するいたずらや皮肉を言うのは無礼であり、悪い趣味であります。人々と談話をしている際にも、心の一隅に隠れ家を作って、そこに逃れることができるのは、前編ですでにあなたに説明した通りでありますが(第2篇12章)、それだけではなく、あなたは、本当の孤独をも愛さねばなりません。それは、決して、エジプトの聖マリア、聖パウロ、聖アントニオ、アルセニオ、その他の修道士にならって、砂漠に隠遁することではありません。ただ、ある部室の中、あるいは、庭の中などにおいて、自分の望むままに、心静かに、よい思念、または聖なる黙想にふけり、あるいは、霊的読書をして、あなたの霊魂を休ませることであります。ナジアンズの偉大なる司教、聖グレゴリオは、「私は、太陽が沈むころになると、訪客を謝して、一人で海岸に時を過ごした。私は、こうして、私の心を休め、日常の苦労を忘れるのが常でありました」と言いました。そうして、私が、かつてあなたに話した、よい思いを作ったことを書き記しておられます(第2篇13章)。あなたも、そのようにすればいいでしょう。また、聖アンブロジオも、よい模範です。聖アウグスチノの記したところによれば、この聖人が、聖アンブロジオの部屋に入ってみると(誰でも入室を許されていたので)、しばしば、聖アンブロジオは、読書をしておられたので、このような場合、しばらくの後に、聖アウグスチノは、彼を煩わせるのを恐れて、一言も発せずに辞去するのが常でありましたが、それは激務の後に、この偉大なる司教(聖アンブロジオ)が、精神を強め、かつ慰められるために有せられる、短い自由時間を奪うのに忍びないためであったと。ある日、使徒たちが、彼らの説教と労役とを告げ申された時に、聖主も、「静かなところに来てしばらく休むがよい」と仰せられました。