9 黙想中の心の乾燥について

フィロテアよ、たとえ、もし黙想になんらの興味も、慰めも感じないことがあっても、決して、決して、心配をしてはいけません。あるいは、声を出して聖主に嘆き、あなたのこれに値しないことを告白し、御助けを願い、もしあるならば、その御姿に接吻し、「主よ、主よ、私を祝福してくださるまでは離しません」 (創世記32・27)と、ヤコブのことばを繰り返し、あるいは、カナンの女にならって、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(マタイ15・27)と申し上げるといいでしょう。あるいは、敬虔の書を手にして、あなたの精神がさめて、平常の状態に戻るまでは、心をこめてこれを読みなさい。あるいは、もし、他人に見られない片隅にいるときには、たとえば、地にひれ伏すかとか、合掌するとか、十字架に接吻するとか、ある外面的の敬虔な態度をとって、あなたの心を刺激するといいでしょう。これらのことを試みて、なお慰めが来なくても、また、乾燥が、たとえ、どのように激しくても、このためにあなたは少しも失望せず、天主の御前に慎みのある態度を続けなければいけません。神に試されていると思いなさい。一年に百度、王の御前に出る機会があっても、王にものを申し上げる望みはなく、単にその御目に止まり、自分に義務を尽くすだけの家臣が、どのくらい大勢いるであろうか。親しきフィロテアよ、私たちにも彼らに倣って、単に義務を尽くし、忠誠を証明することを唯一の目的として、黙想をしなければいけません。もしも、天主が、あるいは尊い霊示をくださり、あるいは、内心の慰めをくださって、み言葉をかけてくださるのであれば、言うまでもなく、私たちにとって、最大の栄誉、無上の幸福です。しかし、これに反して、この恩寵をくださらず、あたかも、私たちが御前にいらっしゃることを、ご存じでないかのように思えても、御前から去ることなく、慈しみ深い天主の御前に、いつまでも、敬虔に、平静を持っていたならば、必ず、聖主は私たちの忍耐をお誉めになり、私たちの熱心と忠誠とを顧みてくださり、次回に天主の御前に出るときに、恩恵をくださって、私たちを慰めてくださり、尊い黙想の楽しさを示してくださるでしょう。しかし、たとえ、そうなさらなくても、、フィロテアよ、天主のお側近くにいて、御目のもとにいるということだけで、私たちの最大の名誉であると信じて、満足しなければいけません。