7 第2の浄化、すなわち、罪の傾向を去るべきこと

イスラエル人たちが、モーゼの指揮のもとに、エジプトの地を出るにあたり、全ての人が、心から、この地を去ったのではない。彼らの中には、砂漠をさまよいつつ、エジプトの美味しい肉、新鮮な野菜を恋しがるものがあった(民数記略11)。このように、痛悔者の中にも、罪を捨ててしまっても、罪に対する執着から離れないものがいます。彼らは、罪を犯すまいと決心をしても、罪のもたらす不幸な快楽を捨てるのに、多少の残り惜しさを感じています。彼らの心は、罪を離れても、まるでロトの妻が、ソドムの街を振り返って眺めたように、罪の魅惑で、その方向に振り向くのを禁じることができません(創世記19)。彼らが罪を捨てたのは、ちょうど、病人が医師に禁じられて、ごちそうを食べないのと同じです。病人には、いかにもそれが残念でなりません。まず、食物の話を聞きます。もしかしたら食べられるのではないか、せめて味だけでも試したいと思い、ご馳走が食べられる人を羨ましく思います。そのように、卑劣で、弱い痛悔者は、しばらく、罪を離れても、それが名残惜しく、罰を受けずに罪を犯したいと願い、罪の感覚を思い起こし、これを楽しみつつ、そのことを話し合い、罪を犯すことができる人は、きっと楽しいであろうと考えます。例えば、他人と争って、復讐を計画した人が、告白の時に、その意志を急に変えたとします。しかしまもなく、この争いを面白がる友人と共に、もし天主を恐れるのではなかったならば、こうして復讐するはずであった。天主の戒めの中でも、敵を許せということは実行しにくい戒めである。もし復讐してもよいということであったなら、さぞかし愉快であろうなどと、話し合う類であります。このような哀れな人は、罪から離れても、すなわち、エジプトの土地の外に逃れ出ても、なお、エジプトの地でたくさん食べた美味しい野菜を思い出しているように、欲望では、まだエジプトの地にいるのものたちと同じです。不正の愛欲を断った夫人が、姿を飾って人々に媚びられることを喜ぶのも、またこの類です。このような人々は、本当に大きな危険の淵に立っています。フィロテアよ、あなたが信人の生活を始めようと計画した以上は、ただ罪を捨てるばかりではなく、さらに一歩進めて、罪に対するすべての執着・傾向をあなたの心から全て捨てなければいけません。再び罪に陥る危険の他に、あなたの心はこの不正な傾向によって、疲れ、鈍くなり、善行を容易に、愉快に、かつしばしば行うことができなくなります。ところが、信心の本質は、まさにここにあります。罪の状態から抜け出たばかりの霊魂は、まだ罪に対する病的な傾向を持っていて、まるで病後に顔がやつれた少女のようです。彼女はもう病気ではありませんが、衰えています。食欲がなく、睡眠に休息がなく、笑っていても心は楽しまず、歩むというより、むしろ、体を引きずって動いています。このような霊魂は、過去の罪に疲れていますので、たとえ、善行を行っても、愉快を感じないで、善行も少なく、その効果も少ないのです。