5 霊魂の浄化をもって始めるべきである

聖書の中で、尊い妻は、「もろもろの花は地に現れました。枝を摘む時が来ました」(雅歌2・2)とうたいます。フィロテアよ、私たちの心の花とは良い願いてなくて、そもそも、何であろう。だから、このよい願いが現れ出たならば、全て死ぬ運命にある業を私たちの良心から摘み取るために、ハサミを手にしないといけません。イスラエル人の妻に選ばれたフォレオである異邦人の娘は、まず、その囚人の衣を脱ぎ、爪を切り、髪を切らなければいけませんでした(申命記2・12)。 このように、天主の御子の妻となる光栄を得ようとする霊魂は、罪から離れ、「古い人を脱いで、新しい人を着て」(コロサイ書3・9)、自分を天主の愛から遠ざける、全ての妨げを摘み取らないといけません。病のもとになる原因を取り除くことは、健康の第一歩です。聖パウロ、ジェノアの聖カタリナ、聖マリア・マグダレナ、聖ペラジアなどは、完全な浄化によって、一瞬の間で清められたけれども、この種の浄化は、まるで自然界における死者の復活と等しく、聖寵の世界において、極めて特殊で、奇跡的な現象であるので、私たちはこれを期待してはいけません。普通、肉体の病の治癒も、霊魂の浄化も、少しづつ進歩し、労力と時間とを費やして成就するものです。ヤコブの見た階段にいる天使たちは、翼を持っていたけれども、彼らは飛ばないで、1段、1段、順序を守って上下しました。罪から信人に進む霊魂は、あけぼのに似ています。あけぼのは、その来る時、暗闇を一瞬で失くすことなく、次第に明るくなっていきます。ことわざにも、徐々に回復した健康は、一番確かだと言います。霊魂の病も、来る時には、馬に乗って駆け回りますが、帰るときは、ゆっくりと歩むのが常であります。そうであるなら、フィロテアよ、あなたは勇気と忍耐を持たなければいけません。一度、信人の生活に精進した霊魂が、自分になお不足するところの多いのを見て、全ての事を放棄し、信心生活から退くようにと誘惑に負けようとし、恐れ、憂い、失望し始めることを見るのは、とても残念なことです。しかし、また、これと反対の誘惑によって、仕事に着手したばかりで、すでに完成したと信じ、翼のない状態で飛び立とうとのぞみ、浄化に従事する1日目において、もう色々な欠点をなくしたと思い上がるのは、その霊魂にとって、さらに危険なことであります。フィロテアよ、病気の再発は、医師の手を早く離れすぎたことによるのが多い。預言者も、「朝、まだ朝日が来ないのに立ってはいけません、座ってから明るくなってから立ちなさい」(詩編126・2)と言っています。彼も、また、自らこの戒めに従い、まず洗い清められた後に、さらに一段の浄化を祈りました。霊魂の浄化の務めは、一生涯の仕事であります。だから、私たちは自分の欠点を見ても、落胆してはいけません。完徳とは、自分の欠点と戦うことでありますが、自らその欠点を知らないならば、戦うことはできません。ましてこれに勝つことはできません。私たちの勝利は、誘惑を覚えないのではなく、これに同意しないことにあります。誘惑に悩まされるのは、これに同意したことではありません。私たちの謙遜の修行のためには、この霊魂の戦いに 、時として手傷を負うのも悪くはありません。生命か、勇気を失わない限り、戦闘に敗れたとは言えません。霊魂の生命は、ただ大罪によってのみ失われるもので、小罪や、欠点によって奪われるものではありません。だから、私たちは勇気を失わなければさえすれば良いのです。「主よ、臆病と絶望とから、私たちを救ってください」とダビデは祈りました。戦おうとする意志を持っている限り、私たちが常に勝利者になることは、この戦闘にあたり、大変有利である事実であります。