2 信心の優れていること

イスラエル人が、約束の地に入ることを、妨げようとした人々は、彼らに、その国は住民を滅ぼす土地であると告げた。空気は病に満ち、そこで生活しているのは、人間をいなごのように取って食べる、奇怪な巨人であると言った(民数記略13)。愛するフィロテアよ、このように世間では、尊い信心を、できるだけ辱めようとして、敬虔な人を、嫌で、暗い、悲しそうな人として、信心は憂鬱で、他人に非常に迷惑なものと言いふらします。しかし、ヨズエとカレブの二人が、約束の地は、よく、美しく、この国を所有することは、楽しく、快いことを主張したように、聖霊は諸聖人の口を借りて、また、主の御口から、信心の生活は、楽しく、幸せで、愛すべき理由を、私たちに証明しています。世間は、信心の人が、断食し、祈り、敵を許し、病人を見舞い、貧しい者に施し、夜寝ることが少なく、怒りに耐え、欲情を抑え、官能の快楽を捨て、その他、もともと、私たちにとって辛く苦しいことを実行するのを知っています。しかし、世間は、これら全てを、愉快に、楽しく、容易なものに変える信心を知らないのです。香草に集まるミツバチは、その苦い汁を吸って蜜に変えます。これがミツバチの性質だからです。信心者は、その克己、制欲の業に、多くの苦みを覚えますが、これを実行しつつ、これらを快楽に変え、甘味とします。身を焦がす火炎も、身を砕く車輪も、身を裂く刀も、敬虔な殉教者にとっては、麗しい花とも、快い香りともなります。すなわち、信心は、苛酷な刑罰、死でさえも快楽に変えるのです。これに比べれば、有徳な生活をすすんで実践するときの苦しみは、ほんとうにわずかなことです。砂糖は、熟していない果物を甘くし、また、よく熟した果物の酸味をなくします。同じように信心は、制欲の苦痛をなくし、慰めの危険を除く精神の砂糖であります。また信心は、貧しい者の不幸、富める者のおごり、逆境のなかでの失望、順境のなかでの誇り、孤独の人のさびしさ、沢山の人と住むものの心の乱れを防ぎます。信心は、冬には火となり、夏には露となり、富をどのように用い、貧しさをどのように耐えるべきかを教えます。信心は、名誉も恥辱も、私たちの利益とし、快楽も、苦痛も、常にほとんど同じ心で受け入れさせ、私たちを不思議な歓喜で満たします。ヤコブの梯子を見なさい(創世記28)。これは信心生活の象徴です。縦の2本の木は、天主の愛を求める祈りと、天主の愛を与える秘蹟です。これに連なる階段は、徳から徳に移る愛の階級です。あるいは「観想」によって、天主と愛の結合に至るために階段をのぼります。また、階段を昇る人を見なさい。彼らは天使の心をもつ人、あるいは、体をもつ天使です。彼らは、青年ではありませんが、その内部にはたくさんの活力と、軽快さとで若々しい。彼らは飛ぶ立つための翼を持っていて、尊い祈りによって、天主のもとに昇ります。けれども、また両脚を持っていて、人々とともに歩みつつ、愛すべき尊い言葉を交わします。すべてを柔和、甘味をもって受けるために、その顔は美しく楽しい。その人の足、腕、頭の表に出ているもの、その思いも、感情も、また行為も、天主に好まれ、不純な理由も、動機もないので美しく楽しい。彼らの体は軽く美しい衣に覆われています。それは彼らが、この世と、この世に属するものを、その境遇に必要なだけしかとらないからです。そのような者が、ほんとうの信心の人々です。愛するフィロテアよ、信心は愛徳の極みであるので、甘さのなかで最も甘いものであり、もろもろの徳行の女王です。愛徳が乳ならば、信心は乳酪です。愛徳が草であれば、信心は花です。愛徳が宝石ならば、信心はその輝きです。また、愛徳が尊い香料ならば、信心は人々に力を与え、天使を喜ばせる甘い匂いです。