わが理想 

■目次

理想 

「わたしが模範を示したのは……」。  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、あなたは、祝福された聖母を愛しています。また、聖母を愛することを喜んでいます。しかし、まだ、わたしが望んでいるような愛をもって愛しているとは言えません。あなたが聖母を愛するのは、清らかで美しいものを愛するのが人情であり、聖母が理想的な清らかさと美しさをそなえているからです。あなたが聖母を愛するのは、いつくしみ深く、恵み深い者を愛するのが人の常であり、聖母ほどいつくしみ深く、恵み深い者はいないからです。あなたが聖母を愛するのは、聖母を自分の母と見なしているからであり、子として母を愛するのは当然だからです。あなたが聖母を愛するのは、聖母の愛の効果を体験し、聖母と一致しているならば、いっそう容易に、純潔で熱心な状態を保てることを認めたからです。あなたが聖母を愛するのは、書物や説教によって、「聖母に対する信心は、あなたが希望してやまない救霊と完徳とを実現するために、もっとも容易な道である」ことを学び知ったからです。
〔二〕このような動機は、いずれも善良であるにちがいありません。しかし、もうひとつ、はるかにすぐれた愛の動機があります。今述べた動機は、聖母に対するやさしい信心の基礎となれるでしょう。けれども、わたしがあなたに実践させたいと望んでいる信心の基礎となることはできません。聖母に対する信心は、きわめて偉大なもの、有益なもの、わたしと聖母にとって、きわめて心地よいものなのです。それゆえ、これを実践するには、平凡な程度にも、優秀な程度にも満足せず、もっとも完全な程度にまで到達するよう努めなければなりません。
〔三〕それでは、聖母に対する完全な信心とは何でしょうか?あなたが、たとえ、書物を読みあさり、神学者たちに問い、聖人たちに聞き、あるいはまた、今日まで地上に現われた聖母のしもべたちのなかで、もっとも著名な者にその秘密を尋ねたとしても、わたしがこれから教えようとする信心よりも完全な信心は、どこにも見いだしえないでしょう。わたしがあなたに教えようとする信心とは、他ではありません。わたしのように聖母を愛することです。わたしの弟子となる者にとって、完徳とは、師であるわたしの似姿になることではないでしょうか。わたしが弟子たちに模範を示したのは、自分で実践したことを、かれらにも実践させたいためではなかったでしょうか。かれらにとって、何ごとにおいてもキリストを模倣し、キリストを着、キリストの心を自分の心として、もはや自分の生命に生きることなく、ひたすらキリストの生命に生きることは、使徒パウロがくりかえし、くりかえし述べたことです。聖母に対して、わたしの心情よりも完全な心情がありうるでしょうか。

信徒
ああ、イエスよ、聖母マリアに対するあなたの愛を分かち申し上げるのだと思うと、わたしの心はうっとりとなります。しかし、あわれな罪人にすぎないわたしが、どうしたら、これほど高遠な理想を実現することができるでしょうか?せめて、この理想を理解させていただくには、どうすればよいでしょうか?

わたしがマリアの子となったのは自分で望んだからです  

イエスは信徒に仰せになります。

〔一〕兄弟よ、わたしの聖母に対する愛を理解するためには、わたしがマリアの子となったのは、自分で望んだからであることを、理解しなければなりません。わたしは、何ごとを行なうにも、他から強いられたり、偶然の成り行きにまかせたり、あるいはまた、なんの計画もなく、行動したことはありません。そこなわれた御父の光栄をつぐなうと同時に、人類を救おうと決意したとき、わたしの目の前には、無数の道が開いていました。しかし、わたしは他のすべての道をさしおいて、聖母マリアの道をえらんだのです。わたしは、自由に、そして特別に、聖母を自分の母となるべき者として創造しました。もしも、わたしが、自分の母となる役目を、聖母に託すことを望まなかったら、聖母は存在しなかったでしょう。わたしは、自由に、また特別に、現在のような聖母を創造し、聖母に現在のようなわたしを造らせました。わたしは真実にマリアの子です。わたしは、自分から望んで、他の子どものように、聖母の肉体によって形づくられ、聖母の乳をもって養われ、聖母の世話を受け、聖母に育てられ、聖母に従いました。あなたがあなたの母の子である以上に、わたしは聖母マリアの子です。なぜなら、わたしは、自分の人性を、まったく聖母マリアから受けたからです。わたしは、神であるとともに人間ですが、それでもまったく聖母マリアの子です。なぜなら、聖母マリアから生まれたわたしは、ただひとつの位格しかもっていないからです。
〔二〕しかし、わたしが聖母マリアの子となりたいと望んだのは、愛によることを見逃してはなりません。わたしは、まず、御父に対して愛を示すために、聖母マリアの子となりました。わたしは、聖母の子となることによって、御父には、いっそうの光栄を帰し、人びとには、聖母をとおして、いっそうよく御父を理解させ、愛させることができたのです。つぎに、わたしは、聖母に対する愛に動かされて、その子となりました。聖母は、天使と人類が協力しても与えることができないほどの喜びを与える者だからです。最後に、わたしは人類に対する愛にかられて、愛する兄弟よ、あなたに対する愛にかられて、聖母マリアの子となったのです。 

黙想し、讃えなさい。  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、わたしが愛によって、聖母のために行なったことを、しばらく黙想しなさい。わたしは、永遠から、聖母のことを考え、聖母を愛しました。なぜなら、永遠から、聖母を自分の母と見なしていたからです。もろもろの天と、そこに集う天使とを創造したとき、地球と人類とをつくったとき、わたしはすでに、聖母のことを考えていました。人祖にむかって断罪の宣告を下したときも、族長と預言者とに自分を啓示したときも、わたしは聖母のことを考えていました。
〔二〕わたしは、聖母を愛しているために、多くの特典を聖母に考えていました。しかも、この特典のひとつひとつは、他のすべての被造物が受けた特典をあわせたものよりも、すぐれたものでした。わたしはまた、聖母に全人類に課せられている法則さえも免除しました。わたしは、聖母だけを、原罪の汚れなく宿らせ、あらゆる邪欲の支配からのがれさせ、不完全の影さえもたない者、すべての天使と聖人を超えて、恩恵に満ちあふれる者、神の母で、しかも終生乙女である者とし、世の終わりの時におこる体の復活に先立って、わたしが自分に果たしたように、その肉体に栄福を与えました。
〔三〕人類をあがなうためにこの世に降誕したとき、わたしは聖母マリアひとりに三十年間の生活をささげ、わずか三年間を他の人びとのために過ごしました。
〔四〕わたしは聖母と一緒に親しい生活を送るだけで満足せず、聖母に自分の特権を分け与え、御父から委託された使命も、聖母に分かとうと望みました。わたしは、贖い主として、聖母をともに贖う者と定め、わたしが世の贖いのために、厳正な正義の権利によって獲得したところを、聖母も,このうえもない妥当な権利によって獲得することができるように計らいました。
〔五〕そのうえ、わたしは、天においても、聖母の協力を要望し、わたしが御父のそばで弁護者であるように、聖母もわたしのそばで弁護者となって、人類のためにわたしと力をあわせて獲得した恩恵を、かれらに分配するよう依頼しました。わたしは、天においても地においても「マリアの子」であり、聖母がかつて、わたしを愛するために行なったこと、苦しんだことに対して、おしみなく、ゆたかな報いを与えるのが、このうえもなくうれしいのです。
〔六〕なおまた、わたしは、自分の神秘体であり、自分の霊によって導かれている聖なる教会のなかに生きています。教会のなすことは、わたしのなすことであり、教会が聖母に対してなすことはみな、わたし自身が聖母に対してなしているのです。教会が、聖母の特権を防衛し、高揚することにより、その栄誉のために多くの祝日を定め、信心業を起こすことにより、あるいはまた、聖母への奉仕を目的とする団体もしくは修道会を認可することによって聖母にささげた崇敬と愛とを思いなさい。聖母の愛子たちの感ずべき信心を黙想しなさい。ひとりの例外もなく聖母を深く愛した聖人たちの信心、特別な崇敬を聖母に絶えず捧げようとする熱心な霊魂の信心、聖母の光栄を熱望し、ときには学者よりも明瞭に聖母の特権を認識し、特別な愛情を聖母に示す機会を与えられるときは、大きな興奮を顔にみなぎらせる信徒の信心を黙想しなさい。これらはみな、わたしが聖母にささげる類ない愛の壮大な、しかしまだきわめて不十分な発露でなくてなんでしょう。旅する教会が聖母にささげた崇敬、世の終わりまでささげる崇敬を黙想するとともに、勝利の教会(天国)が永遠にやめることなく聖母にささげる崇敬を黙想しなさい。なぜなら、わたしはこの世の信徒のなかに生きていますが、天国の聖人のなかには、なおいっそう完全に生きているからです。天国の聖人たちが、かれらに永遠の幸福を取りなしてくれた、かれらの女王であり母である聖母に、絶え間なく表明する感謝と崇敬と愛情を黙想しなさい。これらはみな、わたしがなしていることであり、わたしは、かれらにおいて、かれらによって、いつも聖母をたたえ、愛しているのです。
〔七〕以上述べたわたしの愛の証しを、もう一度、回想しなさい。これを究明し、研究し、できるかぎり、理解するよう努めなさい。そうすれば、あなたがこの愛に関して理解できる部分は、理解できない部分にくらべて、きわめてわずかであることを、悟ることができるでしょう。それなのに、わたしは、この果てしない愛を、あなたに分け与えることを望んでいるのです。

信徒
ああ、イエスよ、わたしは以前に聖母を愛することの楽しみを体験したとき、あなたの果てしない聖母への愛を、いくらか理解することができたと思っていました。しかし、今になって、あなたの聖母への愛が、わたしの想像をはるかに越えていることを悟りました。あなたの聖母への愛を、永遠に、つきることなく観想し、讃えることは、天国における最大の喜びのひとつにちがいありません。けれども、どうすれば、このような愛を体験することができるでしょうか。 

わたしの母、あなたの母。 

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、わたしが聖母に対して行なった愛を模倣したいと思うならば、わたしにならって、真実に聖母の子とならなければなりません。あなたは、聖母がどの程度まであなたの母であるかを、理解していますか?信徒はみな、これを理解しているつもりなのでしょう。聖母を「わたしたちの御母」と呼んでいるからです。しかし、大部分の者は、この点に関して、きわめて不完全な考えしかもっていないのです。なかには、聖マリアは自分の母ではないけれども、母であるかのように愛するという態度を示している者がいます。もしも、あなたの生みの母にむかって、「わたしはあなたを自分の母であるかのように愛します」と言ったとしたら、母は何と答えるでしょうか?また、多くの信徒は、わたしが息絶えようとするとき、十字架のもとに立ちつくす聖母と、そばにいた愛弟子ヨハネをかえり見て、聖母にむかって、「婦人よ、これがあなたの子です」と言い、ヨハネにむかって、「これがあなたの母です」と言ったあの言葉だけによって、聖母は人類の母となったと考えています。言うまでもなく、わたしは、あの言葉によっても、聖母マリアに人類の母となる使命を委託し、聖母の胸に、世の母親がもつような母心を創造することができたに違いありません。しかし、あの言葉だけによって、聖母が人類の母となったとしたら、聖母は人類の養母にすぎないでしょう。ところが、超自然界において、聖母は真実にあなたの母です。あなたを生んだ者が、自然界における母であるのと、少しも違うところはありません。
〔二〕生命を与える女性を母と言います。ナザレにおいて、カルワリオにおいて、洗礼の秘跡において、聖母は生命のうちでもっともすぐれた生命をあなたに与えました。聖母は、ナザレにおいて、わたしを宿すと同時に、あなたも宿しました。聖母は、大天使ガブリエルにむかって「はい」と答えるか「いいえ」と答えるかによって、あなたに生命を与えるか、あるいはあなたを死のうちに置き去りにするのだということを、承知していました。そして、あなたに生命を与えるために、「はい」と答えました。わたしに生命を与えることを承諾し、わたしの母となると同時に、あなたの母となりました。このときから、神の計画と聖母の計画とのなかで、―聖母が神の計画をみとめ、心からこれに同意したために―あなたはわたしの神秘体の一部分になりました。わたしは頭であり、あなたはその体でした。頭と体は離れることができません。それゆえ聖母は、方法はちがっているけれども、わたしたち二人を、同時にその母胎に宿したのです。
〔三〕聖母は、カルワリオで、わたしをあなたのために犠牲としてささげたとき、あなたを生みました。あなたはゴルゴタ山上で、はじめて完全に死と罪から救われたのです。そこで、わたしは、「死の国の支配者を決定的に滅ぼし」、わたしの死によって、あなたがわたしの生命に生きる恩恵を獲得したのです。しかも、わたしは、聖母マリアと一緒に、この大事業を成し遂げたのです。聖母は、わたしを、犠牲になるべき者として宿し、燔祭の日を胸に描きながら、わたしを育てました。そして、わたしの最後のとき、あなたの霊魂の救いのために、わたしを御父にささげ、あなたのために、わたしの上に有する母親としての権利を放棄しました。終生乙女で、初子の誕生のさいは喜びしか知らなかった聖母が、あなたとあなたの兄弟たちとを生むにあたっては、戦慄すべき苦痛をしのがなければならなかったのです。
〔四〕このとき、聖母は完全にあなたの母となりました。それゆえ、わたしは、このときを利用して、聖母をヨハネに委託し、ヨハネを聖母に委託して、聖母があなたの母であることを宣言したのです。わたしは、この宣言によって聖母をあなたの母にしたのではありません。ただ、あなたに対する聖母の母性を確認し、強固にし、完成したにすぎません。そのために、わたしの一生のうちでもっともおごそかな時刻をえらんだのは、あのとき、聖母は完全にあなたの母となっており、母としての使命をもっともよく理解することができたからです。
〔五〕カルワリオにおいて、聖母は、あなたに生命を授ける権利を獲得したにすぎませんが、洗礼においては、この生命を与えました。あなたは、霊的に死産児として、この世に生まれてきました。それゆえ、あなたが生命をえるためには、洗礼において、成聖の恩恵が注がれなければなりませんでした。そして、この恩恵を取り次いだのは、聖母マリアです。どんな恩恵も、聖母マリアの手を経ないでは施されません。あなたが怒りの子から一変して神の子となることができたのは、聖母マリアがあなたを神的生命に生んだからです。
〔六〕要するに、自然界において、人間的生命をあなたに与えた者があなたの母であるように、あなたを神的生命に参与させた聖母マリアは、超自然界におけるあなたの母です。しかも、聖母は、肉親の母よりもはるかにすぐれたあなたの母です。まず、聖母は、肉親の母よりもすぐれた方法で、あなたに生命を与えました。聖母は、あなたを生むために、地上の母親が比較にならないほど、多くのものを与えました。すなわち、言語に絶する苦しみを耐え忍び、自分の生命より、無限に愛する者の生命をも犠牲にささげました。世の母親は、子どもが成人したのちは、その世話をしません。ところが、聖母は、あなたの全生涯にわたり、引きつづき、面倒を見てくれます。キリストがあなたのなかに形づくられるまでは、あなたは、聖母があらたに出産する子どもです。もしも不幸にして、あなたが超自然の生命を失うことがあるとしても、聖母は、世の母親が愛児の遺骸の上に力なく泣き伏すのとはちがい、あなたの超自然的生命が奪われるたびに、これを取り戻して与えることができるのです。あなたがどんなに不完全であり、恩知らずであるにしても、聖母は、世のすべての母親がその子どもたちに注ぐ愛をあわせたよりも、はるかに大きく、はるかに清い愛をもって、あなたをいつくしんでくれるのです。
〔七〕聖母が、肉親の母よりもはるかにすぐれた母であることは、聖母の与える生命がどんな性質のものであるかを見れば、いっそうあきらかになります。聖母があなたに与えた生命は、この世の生命のように、はかない生命ではなく、終わりなき生命です。この世の生命のように、不完全と苦悩とに満ちた生命ではなく、たぐいなく幸福な生命です。聖母は、人間的生命や天使的生命のように、造られた生命をあなたに与えたのではなく(この点をよく理解しなさい)、造られざる生命、神の生命、三位一体の生命にあなたを参与させたのです。この生命が終わることがなく、またいたって幸福なのは、神の永遠性とその福楽とに参与するからです。世のどの母親が、このような母と比較することができるでしょうか?聖母はあなたのまことの母です。また、わたしの母ですから、きわめて完全な母です。このように、わたしの父はあなたの父であり、わたしの母はあなたの母である以上、あなたはわたしの兄弟、限りなく愛する兄弟なのです。

信徒
イエスよ、わたしはこれまで聖母マリアがどの程度、わたしの母であるかを理解していませんでした。み教えに接してはじめて、聖母がいかに親しいかたであるかを悟りました。聖母は、まことにあなたの母であると同時に、わたしのまことの母であり、わたしはまことに聖母の子どもなのです。ああ、イエスよ、すべてのたまものに超えてすぐれたこのたまものを深く感謝いたします。 

わたしはあなたのうちにあって聖母を愛しています。  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、わたしの生命はあなたの生命であり、わたしの母はあなたの母である以上、あなたは容易に、聖母に対するわたしの愛を模倣することができるのです。しかし、模倣すると言っても、弟子が師をまね、この世の旅する教会の信徒が天国の聖人たちにならうような模倣に終わってはなりません。わたしは、あなたの前に据えられた単なる模型ではなく、あなたの生命の内的原動力です。
〔二〕あなたは、わたしによって生きています。わたしの心は、あなたの心となる必要があります。わたしはぶどうの木の幹で、あなたはその枝です。幹と枝には、同じ樹液が流れています。わたしは、わたしの神秘体の頭であり、あなたはその体です。頭と体には、同じ血液が流れています。あなたが純潔であるときは、わたしがあなたのうちにあって純潔なのです。あなたが忍耐するときは、わたしがあなたのうちにあって忍耐しているのです。あなたが愛徳を実行するときは、わたしがあなたのうちにあって愛徳を実行しているのです。あなたは生きているとはいえ、生きているのはあなたではなく、わたしがあなたのうちにあって生きているのです。あなたは聖母を愛しています。しかし、聖母を愛するのはあなたではなく、わたしがあなたのうちにあって聖母を愛しているのです。以上述べたことによって、聖母マリアを愛することが、なんと楽しいことかがわかったことでしょう。聖母を愛することが楽しいのは、わたしがあなたのうちにあって聖母を愛して、楽しんでいるからです。
〔三〕あなたは、わたしの生命によって生活しています。しかし、あなたのなかに、わたしの生命が完全に営まれているとは言えません。もしもわたしが、あなたのうちに完全に生きているとしたら、あなたは、すべてにおいて、わたしのように考え、わたしのように感じ、わたしのように望み、わたしのように行動するでしょう。ところが、わたしは、あなたに妨げられて、あなたの霊魂のなかで、自由に行動することができないのです。わたしは、あなたの霊魂のなかで、あたかも牢獄のなかの囚人のように生活していることが、いくたびあるか知れません。ですから、この障害を取り除かなければなりません。勇気ある努力によって、わたしの考えることを考え、わたしの望むことを望むようにならないといけません。わたしの生命があなたのうちにあって欠けているところを、補わなければなりません。あなたは、聖母に対するわたしの愛を、自分のものとして実践しています。しかし、あなたのなかに、わたしの愛が完全に実践されているとは言えません。障害を除き、勇気ある努力をかさねて、わたしの思い、わたしの感情、わたしの意志、わたしの活動をもって聖母にこたえることができるようにならなければなりません。あなたのなかに、聖母に対するわたしの愛と比べて、欠けているところを、補わなければなりません。
〔四〕以上語ったところによって、聖母マリアに対する信心に関し、わたしの示そうとすることが、わかりはじめたことと思います。要するに、わたしが聖母を愛しているように、あなたも聖母を愛さなければならないのです。しかも、わたしの愛しかたによって、わたしの愛そのものをもって、聖母を愛さなければならないのです。 

信徒
「ああ、甘美なイエス、慈悲深いイエス、おとめマリアのおん子イエス」  

第1巻 (朗読)

理想の実現に必要なもの  

イエスは、信徒に仰せになります。 

兄弟よ、わたしはこれまで、理想を示しました。これから、理想を実現するために、ぜひとも守らなければならないことを示しましょう。あなたは、これまで、喜んでわたしの教えを聞きました。今後も、喜びをもって聞かなければなりませんが、特に、愛と、惜しみない心とをもって聞きなさい。いまは、モデルを鑑賞し、称えるときではありません。モデルの輪郭の描写に取りかかるべきときです。以下、輪郭の一画一画を順を追って示しましょう。それにしても、愛すること、自己を放棄することができないならば、きわめて不完全な描写しかできないことを、心得ておかなければなりません。

わたしのように自分を、残りなく聖母に与えなさい  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、わたしは聖母マリアの子となって、自分をまったく聖母に与えました。わたしは、万物の創造者、至上の主でありながら、愛によって、聖母に属し、従ことを望みました。しかも、もっとも親密な縁、自然性にもとづく縁、何者も解消することができない縁によって、マリアに属し、従うことを望みました。わたしは、永遠から、マリアの子として属、子として従うことをえらびました。そして、聖母の胎内に宿った最初の瞬間から、かつて永遠の愛によってなしたこの決定を、人間的意志をもって確認し、この決定に対して、言うに言われない喜びをおぼえました。わたしは、おとめであるとともに母である聖母の子どもです。それゆえ、聖母とわたしのあいだにある従属関係は、いかなる母子間の従属関係よりもすぐれています。他の子どもは、いつまでも母に従属しているわけにはゆきません。しかし、わたしは、自分から望んで、永久に、まったく、聖母に従属する者となったのです。他の子どもは、自分の母を離れて、あらたに家庭をいとなみます。しかし、わたしは、聖母を離れ去ったことはありません。わたしは、公の使命を遂行すべき時機が来るまでは、聖母のそばで暮らしました。時機が来て、別れたのちも、引きつづき、十字架上の犠牲にいたるまで、意志をもって完全に聖母と一致していました。なぜなら、聖母は一瞬でさえおん父の意志から離れたことがなかったからです。そればかりでなく、わたしは、天においても、聖母の子どもであることを自覚しています。また、永久に自覚するでしょう。わたしは天国の王者であり、統治者でありながら、聖母の母としてのから発する希望を、永遠に、完全に、としてので、愛をもって聞きとどけるでしょう。
〔二〕わたしにならい、自分をまったく、残りなく、永久に、愛子として、聖母にささげなさい。肉体とその活動、霊魂とその能力を、すべて聖母に与えなさい。物質的財宝、霊的財宝、自然的財宝、超自然的財宝を残らず聖母に与えなさい。現在と未来の体、所有、行いを、ことごとく聖母に与えなさい。内にも外にも、聖母に属さないものが、なにひとつあってはなりません。
〔三〕全身を奉献して聖母の所有物となっただけで、満足してはなりません。聖母はあなたを、元気のない道具としてではなく、母を手伝う愛子として使いたいのです。なぜなら、(のちほど聖母から話があるでしょうが)聖母は、わたしから、この世において一大使命を委託されていて、その遂行のために、あなたの力を借りたいと望んでいるからです。
〔四〕報いを目的として献身してはなりません。利得があるからではなく、もっと多く受けるからではなく、与えるときに慰めを感じるからではなく、わたしにならい、ひたすら、子の心をもって献身しなさい。慰めもあるでしょう、しかしまた、試練にもあわなければならないでしょう。ですから、慰めと試練とのどちらにもこだわらないで、すべてを聖母にゆだね、あなた自身はすべてを残りなく、愛をもってささげることだけを考えなさい。
〔五〕永久に献身しなさい。一時の熱心にかられて、聖母にすべてをささげると誓った者は大勢います。しかし、すべてを与えようとしたけれど、最後の一物まで捧げなかった者も多いのです。試練のさい、完全な献身を要求する犠牲に直面すると、かれらは、「このことばは聞きづらい。このようなことばに耳をかす者があろうか」と言って、完全な献身の生涯を避けたのです。あなたも、このような人びとの例に似ているのではないでしょうか聖母にまったく従属して生活するためには、ときとして、英雄的勇気を必要とします。なぜなら、聖母と一緒に、カルワリオの頂にまで登らないといけないからです。あなたにも、このような英雄的行為ができるでしょうか
〔六〕天におられる聖母にむかって、しばしば献身をあらたにする習慣を養いなさい。朝、目が覚めるとき、その日一日が完全に聖母のものとなるよう、献身をあらたにしなさい。聖体拝領においてわたしを受けるとき、献身をあらたにしなさい。わたしと一つになっているこのとき、あらためて、一身を聖母にその愛子としてささげなさい。午後三時に、献身をあらたにし、聖母がわたしを犠牲にささげると同時に、あなたを生み、「婦人よ、これがあなたの子です」という宣言を聞いたおごそかなあの時刻を思い起こしなさい。大事な任務のまえにも献身をあらたにし、自分は自分のために働くべきではなく、聖母のために働くべきことを思い起こしなさい。とりわけ、一生のあいだ、試練に直面した場合、この献身をあらわすために、聖母にむかって次のように祈りなさい。「おん母よ、愛の熱意にかられて、全てをあなたに奉献したとき、このような犠牲に出会うとは思いませんでした。けれども、一度覚悟を決めて奉献した以上、これを取り消す考えはありません。あなたのお望みになることは、どんなにつらくとも、実行いたします」。
〔七〕聖母に対する献身の生涯を、絶えず、完全にいとなみつづけるほどに、おしみない心を持ちたいと思うならば、犠牲を見つめることなく、わたしと聖母とに目を注ぎなさい。そうすれば愛に刺激され、恩恵に支えられるでしょう。もしも、勇気がくじけるのを感じるならば、祈りなさい。聖母は、自分に対していつまでも忠誠を尽くしたいと、助けを求める子どもを、どうしてそのままにしておくことができるでしょうか。わたしは長兄として、しかも自分が指示した理想にむかって進もうとするあなたに、どうして、必要な力を与えずにいられましょうか。 

信徒  
いとも愛するおん母よ、わたしはまったくあなたのものです。また、わたしに属するものはみな、あなたに属しています。

わたしのように聖母を愛しなさい 。その理由。 

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、わたしを「マリアの子」にしたのは愛です。わたしと聖母との関係はすべて、愛の一語によってすべて説明することができます。それゆえ、聖母に対するわたしの愛を理解しようと思うならば、なによりもまず、聖母に対するわたしの愛を理解しなければなりません。ああ、わたしの胸に燃えさかる聖母への愛を、ほんの一部分だけでも、あなたと共有したいものです。わたしの愛がなるべく多くあなたの心に注がれるよう、努めて純潔、謙遜、忠実な者となるよう心がけなさい。
〔二〕潜心と祈りとのうちに、聖母に対するわたしの愛について、わずかながら、今まで聞いたことを黙想しなさい。わたしが、どのように、永遠から聖母をえらんで、多くの特権を与えたか、どのように、聖母と一緒に親しく暮らし、聖母を自分の使命に参与させたか、どのように、聖人たち、および、天上、地上の聖なる教会によって、聖母を愛しているか、また、永遠に愛しつづけるのかを黙想しなさい。
〔三〕つぎに、わたしの心の奥深く立ち入って、わたしがこれほどまでに聖母を愛した動機を黙想しなさい。わたしが聖母を愛する理由は、聖母がわたしの母であり、しかも、魂を奪うばかりの美と完全性とをそなえている母、そのわずかなことば、ささやかなまなざしによっても、聖人たちがきわめて英雄的な行為によってわたしに与えた喜びを合わせたよりも大きな喜びを与える母、諸天使、諸聖人の愛を合わせたよりもさらに大きな愛をもってわたしを愛する母、わたしのために、どんな被造物も、いまだかつてしのいだことのない痛ましい苦難を喜んでしのいでくれた母だからです。
〔四〕わたしが聖母を愛するのは、聖母はわたしを助けて、わたしがおん父から委託された使命を、円満に遂行させたからです。わたしが聖母を愛するのは、聖母から人性を受けたおかげで、人びとに福音を宣べ、かれらのために死ぬことができたからです。わたしが聖母を愛するのは、聖母は、わたしの使命にあたり、その意志、その願い、その犠牲をもって、わたしと一致し、十字架のもとにいたるまで、わたしのそばを離れなかったからです。わたしが聖母を愛するのは、聖母は、世の終わりにいたるまで、罪人を立ち返らせ、義人を聖化し、数知れない霊魂をわたしのもとに連れ戻すために、働いてくれるからです。わたしが聖母を愛するのは、聖母自身、わたしの贖罪的使命の最大の勝利であり、わたしは、聖母ひとりをきわめて完全な方法をもってあがなうために、他のすべての人びとをあがなうために果たしたことよりも、偉大なことを果たしたからです。
〔五〕わたしが聖母を愛した理由、愛する理由は、聖母のおかげで、無限の価値がある礼拝と罪贖いと栄光とをおん父にささげることができたからです。聖母から人性を受けなかったら、このような礼拝、罪贖い、栄光をささげることはできなかったでしょう。わたしが聖母を愛するのは、聖母がわたしと心を合わせて、おん父の敬愛の誠をつくし、おん父を拝み、とうとび、愛したからです。諸天使、諸聖人が協力しても、聖母がささげたほどの敬い、愛、礼拝をささげることができなかったし、また、こののちも決してできないでしょう。わたしが聖母を愛するのは、聖母によって、人びとがいっそうよくおん父を理解し、おん父に対して、いっそうの子心を抱くことができるからです。
〔六〕聖母に対するわたしの果てしない愛を絶えず黙想しなさい。この愛は、たとえ、永遠に黙想するとしても、これをきわめつくすことができないのです。あなたの生命はわたしの生命ですから、わたしの身になって、マリアの初子であるイエスの身になって、その聖母に対する愛を黙想し、その感じたところを感じるよう努めなさい。
〔七〕つぎに、聖母があなたに注ぐ格別な愛を思いなさい。聖母があなたを愛するのは、わたしがあなたを愛して、あなたのために死んだからであり、聖母はわたしの愛するものを愛しているからです。聖母があなたを愛するのは、わたしが聖母をあなたの母となしたからであり、母は愛だからです。聖母があなたを愛するのは、あなたが聖母にとって言語に絶する苦痛のたねとなったからであり、母は、苦労をかけた子どもほどよけいに愛したがるものだからです。聖母があなたを愛するのは、あなたを生むために、わたしを死の手に渡さなければならなかったからです。聖母があなたを愛するのは、あなたとわたしとが一体であり、あなたを愛することは、わたしを愛することだからです。  

信徒 
ああ、イエスよ、わたしは、聖母がわたしにとってどのようなかたであるかを、漠然としか理解していなかったにもかかわらず、聖母を愛していました。しかし、わたしに対するあなたの愛と、わたしに対する聖母の愛とを理解し始めたいま、どうして、全身全霊をあげて、聖母を愛さないでいられましょう。  

わたしのように聖母を愛しなさい 。その方法。

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、あなたは、これほど愛してくださる聖母を、真実に愛しているでしょうかあなたは、聖母と語るとき喜びをおぼえ、聖母を賛美するとき感激するから、聖母を愛していると思っています。しかし、この世の愛は、喜びと情熱とのなかにあるというよりは、むしろ、労苦と困難とのなかにあることを、忘れてはなりません。
〔二〕あなたが聖母を愛するならば、聖母のために働きたいと願うでしょう。あなたの活動、余暇、苦しみを、喜んで聖母に与えなさい。聖母の栄光のためだと思うならば、どんな労苦も重すぎることはなく、聖母のためだと考えるならば、どんな計画も不可能とは思わないでしょう。聖母のために果たすべき任務を前にして、自分にはこれを成しとげる力がないと考えるならば、そのときはすでに、聖母を愛することをやめたものと思いなさい。ところで、聖母はあなたにひとつの任務、きわめてとうとい、しかし、ときとしてきわめて困難な任務を委託しようとしているのです。
〔三〕あなたが聖母を愛するならば、聖母のために苦しみたいと願うでしょう。聖母のために苦しむべきときになって、聖母を愛するのをやめる者はまだ一度も聖母を愛していなかったと言わなければなりません。このような人は、聖母から受ける慰めを愛したのであって、自分を愛したにすぎないのです。苦しむことを拒んではなりません。苦しむことを拒むのは、愛することを拒むのと同じだからです。苦しみを受け入れるだけでなく、進んでこれを愛しなさい。苦しみに愛を表明することを喜ばないでいられるでしょうか愛を深め苦しみを喜ばないでいられるでしょうか
〔四〕日ましに愛を深めるために、つぎに述べる四つの方法を用いなさい。
1
、日常生活から生ずるきわめてささいな、しかも数知れない骨折りと犠牲とを、できるかぎリの愛をこめてささげるよう心がけなさい。小事において聖母の願いを拒まないようになるならば、大事においても拒まないようになるでしょう。
2、飽きたり気をゆるめたりすることなく聖母を研究しなさい。書物によって、聖母の栄光、その使命、その生涯、および、聖母を愛し聖母に奉仕した聖人たちの生涯を、力の及ぶかぎり研究し、研究したことを、熟考し、味わいなさい。聖母がわたしに対してなしたこと、わたしが聖母に対してなしたことは、決して理解しつくすことができません。
3、聖母とどんな時も一致して生活しなさい。聖母と親しく一致して生活するならば、日ましに御母の魅力を悟り、聖母を愛さずにはいられなくなるでしょう。どうすれば、わたしのように、絶え間なく、聖母と一致していられるかは、のちほど話します。
4、最後に、聖母を愛する恩恵、聖母に対する愛を絶えず大きくする恩恵を、わたしに願いなさい。聖母に対する愛はひとつの恩恵ですが、えり抜きの恩恵です。恩恵は祈りによって与えられます。「願いなさい。そうすれば与えられるでしょう」。ためらわず願いなさい。なぜなら、この恩恵はわたしの望みと一致するからです。ためらうことは、わたしと聖母とを侮辱することになります。なぜなら、聖母を愛させたいというわたしの望みを疑うことになるからです。聖母を愛したいという望みをあなたに導いたのは、わたしではありませんか。そのわたしが、どうして、満たしてやりたいと思わない望みを、導くわけがあるでしょう?この恩恵を毎日祈り求めなさい。特に聖体拝領のとき、わたしがあなたのうちにくだってあなたと一致するときに祈り求めなさい。このとき、わたしは、聖母の子として、聖母から受けた人性をもって、あなたのうちにくだり、また、この人性をとおして、あなたをわたしの神性に参与させるのです。「わたしを食べる者は、わたしによって生きるでしょう」。わたしが聖母を愛する愛をもってあなたが聖母を愛することは、あなたがわたしによって生きることではないでしょうか特に、聖体拝領のとき、わたしは自分の心からあなたの心に、聖母に対する愛を移し与えるのです。このときこそ、生きているのは、あなたではなく、わたしがあなたのなかに生きているのです。聖母を愛するのはあなたではなく、わたしが、あなたのなかにあって聖母を愛しているのです。あなたは、きょうまで、このような恩恵を願ったことは、ほとんどありませんでした。願いなさい、そうすれば与えられて、完全な喜びを味わうことができるでしょう。

信徒
ああ、いつくしみ深いイエスよ、あなたが聖母を愛される愛により、わたしにも、真実に、あなたの持っておられる愛、あなたの希望しておられる愛で、聖母を愛させてください。

わたしのように聖母に服従しなさい  

イエス信徒に仰せになります 

〔一〕兄弟よ、わたしのように、聖母に愛を表明したいと思うならば、わたしのように、聖母に服従しなければなりません。わたしは、赤ん坊であったころ、自分をまったく聖母のなすがままにまかせました。わたしは、聖母の意のままに、馬ぶねに休み、腕に抱かれ、乳をのみ、産着に包まれ、あるときはエルサレムに、あるときはエジプトに、また、あるときはナザレに連れて行かれました。成長して力がつくころになると、聖母の希望を、すぐに喜んで行いました。命令を待たず、推測しただけでも行いました。エルサレムの神殿で学者たちを驚嘆させたのち、わたしは聖母にともなわれてナザレに帰り、聖母に服従していました。三十歳になるまで、聖母のそばを離れず、その希望はどんなにささいなものでも、いつもかなえていました。
〔二〕聖母に服従することは、わたしにとって、言い知れない喜びでした。わたしは、この服従によって、聖母がわたしのためになしたこと、特に、後日わたしのために苦しむことに対して、ご恩返しをしたのです。
〔三〕わたしは単純に聖母に服従しました。なぜなら、わたしは、聖母にとって神であると同時にその子であり、聖母は、わたしにとって母であると同時におん父の代理者だったからです。聖母もまた、単純にわたしに命令し、わたしを指導しました。そして、わたしがごくささいなことまで果たすのを見て、言い知れない喜びをおぼえていました。あなたがもし、このような喜びを聖母に与えたいと思うならば、わたしにならって、聖母に服従しなければなりません。
〔四〕聖母は、あなたに、さまざまな命令をします。まず、義務の声をもって命令します。世には、聖母マリアに対する信心とは、聖母のご絵、ご像をとうとび、これにともし火や草花を供えることだと考えている者があります。祈り、賛美歌をささげることだと考えている者があります。こまやかな感情また熱烈な感情をおぼえることだと考えている者があります。なるべく難行苦行をかさねることだと考えている者があります。なかには、聖母について語ることを好むから、聖母のために大事業を夢見るから、絶え間なく聖母について考えようと努めるから、聖母を熱愛していると信じている者がいます。このようなことは、みな善良なことにちがいありません。けれども、根本的なことではありません。「主よ、主よ」と言う者がみな天国に入るのではなく、天におられる父の御旨を行なう者が天国に入るのです。「聖母よ、聖母よ」と言う者が聖母のまことの子どもなのではなく、聖母の希望を絶えず実行する者がまことの子どもなのです。すなわち、聖母の希望はわたしの希望であり、わたしのあなたに対する希望は、あなたが自分の義務を実行することなのです。
〔五〕それゆえ、なによりもまず、自分の義務を果たすよう、しかも、聖母に対する愛のために果たすよう、心がけなさい。義務の大小、難しいかしいか、快よいか不快、人目に立つ、立たないなどを問題にしてはなりません。聖母を喜ばせるために、長上に対して、より従順に、同輩に対してはより親切に、目下に対してはより温和に、万人に対してはより愛深くなるよう努めなさい。従順にはより正確に、任務にはより誠実に、試練にさいしては忍耐深くなるよう努めなさい。
〔六〕以上のことを、最大の愛と喜びとをもって実行しなさい。困難な任務、無趣味な仕事を命じられても、単調な義務がつづいても、微笑をもって、これをむかえなさい。むしろ、この微笑を聖母にむけなさい。聖母は、あなたが自分の義務をたのしく実行することによって、愛を表明することを要求しているからです。
〔七〕身分上の義務のほかに、聖母は、恩恵のささやきによって、その希望を告げ知らせます。恩恵はすべて聖母の手を経て与えられます。快楽を断ち、性癖をおさえ、過失や怠慢をつぐない、善徳を実行せよという恩恵の要求は、まさしく聖母マリアの要求なのです。聖母が、恩恵によって、やさしく、愛をこめて、自分の希望を告げ知らせているのです。あなたは、ときどき、妥協のない恩恵の要求を前にして、恐れに満たされています。恐れてはいけません。なぜなら、あなたの母が、あなたの幸福を熱望している母が、話しかけているのですから。聖母の声を聞きわけて、その慈愛に信頼し、何ごとを要求されても、「はい」と答えなさい。
〔八〕聖母に対する従順を実行する第三の方法は、聖母があなたに委託しようとしている特別な任務を遂行することです。その準備をおこたらないようにしなさい。

信徒 
ああ、イエスよ、聖霊はあなたについて、「かれは両親に従っていた」と語っておられます。わたしは、このみことばの教えを実践することが、一生の務めであることを、理解しはじめることができました。

わたしのように聖母を敬いなさい  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、わたしは神です。天使たちは、わたしの前に顔を伏せ、おののきながら、礼拝しています。それでも、わたしは、へりくだって聖母を敬いました。なぜなら、わたしは神であるとともに、聖母の子どもであるからです。「父母を敬いなさい」という掟を与えたのはわたしです。それゆえ、わたしは、みずから率先して、この掟をきわめて完全に守らなければならなかったのです。
〔二〕わたしが聖母を敬ったのは、聖母がわたしの母、たぐいなく清く、とうとい母であり、天の父の代理者だったからです。わたしが、幼年時代、少年時代、成年時代をとおして、どれほど深くやさしい尊敬をもって聖母にあいさつし、聖母と対座し、教えを聞き、聖母と語り、そのすべての望みを、満たしたかは想像できないほどです。聖母は、わたしの礼儀をおん父の御旨と信じ、心の中で絶えず、「主は、身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と繰り返しながら、すなおにこれを受けていましたが、そのときの様子は、まことに幸福そうでした。
〔三〕わたしが聖母を敬うため行なったわざは、これまで述べた礼儀よりも、はるかにすぐれていました。わたしが聖母に原罪の罰を免除し、邪欲を免除し、その霊魂を少しのくもりもなく純潔に保たせるために、あれほどの恩恵を与えたのは、聖母を敬い、愛するからではなかったでしょうか。聖母の肉体を、受胎と出産とによって、少しもそこなわれないように保ち、守り、そのおとめながらの肉体を墓場の腐敗からのがれさせて昇天させたのは、聖母に対するかぎりない敬愛のあらわれではないでしょうか。無原罪の宿りの当初から、ゆたかな恩恵、全被造物が受けた恩恵を合わせたよりも大きな恩恵を聖母に与え、聖母に自分の贖罪的使命を分かち、天地の女王の栄冠をさずけたのは、聖母の栄誉をいやがうえにも高めたい一念からではなかったでしょうか。また、さきに述べたように、教会がその荘重な牧者の声、あるいは熱心な信徒の叫びによる絶えず増大する聖母崇敬の表明は、聖母をほめたたえたいというわたしの希望の(部分的ではあるが)実現にすぎないのではないでしょうか。
〔四〕ある日、聖母は聖霊導かれ、「いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と叫びました。聖母の預言は成就しなければなりません。地上のいたるところで、おん父の御名はとうとばれ、聖母の名はほめたたえられなければなりません。
〔五〕わたしが敬ったように、わたしが希望しているとおりに、聖母を敬うためには、まず、聖母をよく理解しなければなりません。絶えず、聖母の栄位、特権、完徳、使命を黙想しなさい。つぎに、自分の虚無と悲惨とを思って、謙遜になりなさい。小さい者となればなるほど、容易に聖母の偉大さを理解することができるでしょう。特に、あなたの霊魂に、わたしの霊魂の思いを取り入れなさい。わたしの目をもって聖母を眺め、わたしの精神をもって聖母を賛美し、わたしの心をもってその美をたのしみなさい。
〔六〕聖母を敬うために、その栄誉を目的として催される公の祈りの集いや祝祭に、進んで参加しなさい。聖母を敬うために、一定の信心を定めて、毎日おこたらず実行し、また、聖母の栄光を高めるために、進んで犠牲をささげなさい。聖母を敬うために、周囲の人びとに聖母を知らせ、愛させなさい。聖母にえらばれた子どもたちと一致協力して、聖母に奉仕しなさい。聖母を敬うために、全てを聖母に奉献し、聖母のために、聖母の旗のもとで、戦いなさい。どのように戦わなければならないかは、のちほど聖母自身が話してくれます。特に、聖母を敬うために、行ないを正しなさい。聖人になりなさい。そうすれば、平凡な信徒でありながら、聖母に関して深遠な著述をなすよりも大きな栄誉を、聖母にささげることができるでしょう。
〔七〕わたしの名において、あなたの名において、聖母を敬いなさい。聖母を敬わない人びとにかわり、聖母を知らない人びとにかわり、聖母を冒涜する人びとにかわり、聖母に祈ることをやめた心ない信徒にかわり、聖母に献身を誓いながら、奉仕をおろそかにする霊魂にかわって、聖母を敬いなさい。
〔八〕全力をあげて聖母を敬いなさい。聖母はすべての賛美を超える者ですから、どれほど賛美しても足りません。聖母を敬いなさい。極端に走りはしないかと恐れてはなりません。なぜなら、あなたは決して、わたしが敬った程度、わたしが希望している程度に、聖母を敬うことができないからです。 

信徒
「おとめマリアの御名は祝されますように、今もいつも代々にいたるまで」  

わたしのように聖母に似た者となりなさい  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、子どもはその母に似るのが当然です。わたしは、人の子のだれよりも、聖母に酷似していました。わたしは、ただ聖母ひとりから生まれました。そのため、わたしの顔かたち、目つき、身振り、ふるまい、歩きかた、すなわちわたしの外面は、まったくおとめである聖母の生き写しでした。わたしを見る者はすぐさま、わたしが「マリアの子」であることを見分けていました。わたしの霊魂は、外面以上に、聖母に酷似していました。おん父は、聖母が、まことの母にふさわしく、自分の姿に似せてわたしをつくることができるように、あらかじめ、聖母をわたしの姿に似せて創造しました。そのうえ、聖母は、わたしの言行を絶えず観察し、黙想することによって、わたしの心情を、残らず、しかもこのうえもなく完全に、修得していました。それゆえ、わたしたちふたりのあいだには、何ごとにつけても、思い、感情、望みの一致がありました。聖母の霊魂はわたしの霊魂のなかに移っていました。
〔二〕わたしが聖母に酷似していたように、あなたも聖母に酷似するよう努めなさい。外面的には、つつしみによって聖母倣いなさい。あなたに接する人びとに、むかし聖母に接した人びとが受けたような、一種うやうやしい感じ、おごそかな感じを与えなければなりません。
〔三〕とりわけ、内面的に聖母倣いなさい。聖母の諸徳を模倣しなさい。聖母の善徳は、このうえもなく単純なものです。聖母の生活は、あなたの生活に酷似していました。それゆえ、あなたは、聖母がどのように行動したか、また、あなたの地位にあったならば、どのように行動したであろうかを、容易に理解し、推測することができるのです。聖母にならい、諸徳をまずわたしのなかにまなびなさい。つぎに、聖母を眺めて、聖母がこれらの諸徳をどのように模倣したかを研究しなさい。あなたに教訓を与えるのはわたしです。しかし、この教訓は、聖母の説明によって、いっそう深く理解されるでしょう。
〔四〕おとめのうちでもっともすぐれたおとめの子どもにふさわしく、純潔を守りなさい。「主のはしため」が自分を忘れ去ったように、あなたも自分を忘れ去り、謙遜に、質素に生活しなさい。神のうちに潜心し、聖母にならい、わたしについて啓示された真理を、ことごとく黙想しなさい。外面的にはどんなに矛盾があっても、聖母が信じたように、主のことばを信じて、信仰を堅持しなさい。神の旨には、どんなものにも服従し、どんな場合にも、「わたしは主のはしための子です。おことばどおり、この身に成りますように」と答えなさい。聖母がエリサベトの家、カナ、カルワリオでなしたように、近い者に対して、あふれるような愛を示しなさい。聖母の諸徳のなかで、特に、あなたに不足しているもの、また、もっとも必要を感じているものを、模倣するように心がけなさい。
〔五〕聖母の善徳だけではなく、聖母が、側近者に対して抱いていた思いも模倣しなさい。愛する両親ヨアキムとアンナに対し、わたしに代わって聖母に与えた愛弟子ヨハネに対し、わたしの養父であり聖母の夫である聖ヨセフに対して、聖母がとった態度をまなびなさい。聖母は、聖ヨセフがわたしたちふたりのためになしたことを思って、たぐいない愛情と尊敬と感謝とをささげていました。聖母がこれほど愛した聖ヨセフを敬い、愛するよう努めない者は、真実に聖母の子どもであるとは言えません。
〔六〕とりわけ、聖母がわたしに対して抱いていた思いを模倣しなさい。聖母は、わたしのためだけに創造され、わたしのためだけに呼吸し、労働し、苦悩しました。あなたがもし、聖母と親しく接するならば、わたしのためだけに生き、わたしの利益のために、すべてを犠牲にすることを、修得するでしょう。しかも、短期間のうちに、完全に修得するでしょう。なぜなら、あなたがわたしの身になって聖母の心情を観察するならば、あなたを引きつけ、変化させるこのうえもない力とやさしさ、知と愛、特殊な恩恵をそなえた力が、はたらくにちがいないからです。あなたがもし、親しく聖母と接するならば、母子のあいだにある一種の心の動きによって、聖母がわたしと起居をともにして感得たことを、感得るでしょう。聖母と親密に暮らすとき、容易にわたしの心情を体得することができるのをみて、おどろきあやしんではなりません。
〔七〕聖母を模倣することにより、あなたは、天におられるおん父および聖霊と親密な関係をむすぶことができるでしょう。なぜなら、おん父は聖母を、その無原罪の宿り以来、自分の愛娘としていつくしみ、聖霊は、聖母を自分の浄配にえらんで、限りなく愛しているからです。
〔八〕聖母を模倣することにより、あなたは、もうひとつの心情、すなわち、霊魂に対する果てしない愛を吹き込まれるでしょう。このことについては、聖母自身が話してくれます。

信徒
ああ、イエスよ、あなたが聖母に行ったことを、私も行うことができるようにしてください。

わたしのように聖母に信頼しなさい  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、子どもはその母に信頼します。わたしも聖母に信頼しました。わたしは、必需品に関する配慮をすべて聖母に一任しました。わたしは、空の鳥をやしない、野の百合を美しくよそおわせているにもかかわらず、ほかの子どもたちと同じように、物質的援助の必要な者となりました。わたしは聖母に信頼しました。聖母はわたしをやしない、わたしに衣服をつくって着せ、わたしに関するすべての世話を引き受けました。生命が危険にあったときも、わたしは心配しませんでした。聖母は、やすらかに眠るわたしを両腕に抱いて、他国に難を避けました。
〔二〕わたしは、自分の使命を達成するためにも、聖母の助けをかりました。受肉して間もなく、先駆者をきよめたときも、ユダヤ人、異邦人、老人シメオン、女預言者アンナに自分をあらわしたときも、わたしは聖母に抱かれていました。新しいアダムとして原罪をあがなうために、わたしは聖母に、新しいエバとして意志と祈りと犠牲とによって、わたしに協力してくれるよう求めました。すると、聖母は、完全にわたしの意向を理解して、いさぎよくこれを引き受けました。
〔三〕わたしは、罪の贖い使命に付随する幾多の苦悩におそわれたときも、聖母にたよりました。わたしの霊魂は、言い尽くされないほどの悲嘆をなめなければなりませんでした。おん父にささげられる礼拝があまりにも物質的であり、しかも、しばしば偽善的であるのを見たとき、民衆の無理解、敵たちの反抗と悪意、弟子たちのこの世的な考えと動揺してやまない心とに接したとき、ことに、限りなく愛する霊魂が滅び、霊魂のために流そうとする血が無益になるのを思ったとき、わたしの霊魂は悲しみにみたされました。わたしは、死ぬほど悲しみ、おん父にむかって、この杯を遠ざけてくださいと祈りました。そのようなとき、聖母はわたしに、果てしない慰めを与えてくれました。聖母は、わたしの気持ちを理解し、霊と真実とをもって礼拝し、わたしの苦味を分け合ってくれました。ファリサイ派の人びとが憎しみに燃えてわたしを攻撃すればするほど、弟子たちが気弱さゆえにわたしを疎んじれば疎んじるほど、聖母はますますわたしを愛してくれました。聖母は、わたしの私生活、公生活を通じて、絶えず、わたしと一緒に目ざめて祈りました。十字架のもとで、すべての人が信仰に動揺をきたしたときも、聖母だけは、不動の信念を抱いて立っていました。聖母はわたしの最高の勝利です。聖母において、救世の事業は完全に成就したのです。
〔四〕わたしにならって、聖母に信頼しなさい。信頼しなさい。聖母はあらゆる力をそなえています。わたしは聖母をすべての恩恵の分配者として定めたではありませんか。聖母は、望むところを、望む者に、望むときに与えることができるのです。信頼しなさい。聖母はやさしさに満ちあふれています。聖母を力ある者としたわたしが、これを慈愛深い者としない理由があるでしょうか。信頼しなさい。わたしは聖母の子どもです。どうして母の願いをことわることができましょう。信頼しなさい。あなたは聖母の子どもです。どんな母が、その子に、与えるものを、ことわることができましょう。信頼しなさい。あなたは全身を聖母に奉献したではありませんか。聖母がどうしてあなたより寛大でないといえるでしょうか。信頼しなさい。聖母がなにかをあなたに与えるときは、わたしに与えているのです。なぜなら、聖母は、わたしがあなたのなかに生きていること、また、もっとも小さい兄弟のひとりに対して行なうことはみな、わたしに対して行なっていることを、わきまえているからです。あなたが聖母に助けを求めるとき、聖母は、むかし、わたしをやしない、両腕に抱き、危険から遠ざけ、教え育てたときに味わった喜びを、ふたたび味わうことができるのです。信頼しなさい。聖母は、あなたが自分を愛するよりもなおいっそう深く、あなたを愛しています。それゆえ、聖母の与えたいという望みは、あなたの受けたいという望みよりも大きいのです。信頼しなさい。ためらうことは聖母を悲しませます。なぜなら、ためらうことは、あなたとわたしとに対する聖母の愛を疑うことになるからです。
〔五〕それなのに、あなたはなぜ、不動の信頼を保ちつづけることができないのですか?あなたの怠りは大きいにちがいありません。しかし、聖母の愛よりは大きくないのです。あなたが善良だから、信頼しなければならないのではなく、聖母が慈愛にみちあふれているから、信頼しなければならないのです。あなたが悪くなると同時に、聖母も慈愛を失うという道理があるでしょうか?
〔六〕あなたは、自分の願いが、神の計画に合致しているかどうかを疑い、そのためにためらっています。お聞きなさい。どんな場合でも神の計画に一致している祈りかた、少しの疑念もなく用いることのできる祈りかたを教えましょう。まず、つぎの点、すなわち、一、聖母は、あなたの要求のひとつひとつについて、愛にみちた意向を持っていること、二、聖母の意向はいつも、神の計画と合致していて、いつも、実現性を持っていること、三、聖母は、なにがあなたに必要であるかを、あなたよりもはっきりとわきまえており、あなた自身が抱いている期待よりもはるかに大きい期待をあなたにかけているから、その意向はあなたの意向よりもすぐれていることをはっきりと心得ておきなさい。つぎに、なにかの願いが起こるたびに、聖母にむかって、「この願いがあなたのご意向どおりに実現しますように」と祈りなさい。そうすれば、確実に、そのとおりに、希望したものよりもすぐれたものを与えられるでしょう。しかも、あなたのあさはかな思慮のはかりにかけてではなく、聖母の果てしない愛のはかりにかけて与えられるでしょう。

信徒
ああ、イエスよ、なんという不思議でしょう。これからは、必要あるごとに、聖母にむかって、わたしに対する聖母の希望を実現させてくださるよう祈りさえすれば、山を移すほどの信仰を持つことができ、どんなに大きな願望も実現するのです。

わたしのように聖母と一致して生活しなさい  

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、わたしの聖母に対する愛には、見落とすことのできないもうひとつの側面、しかも本質的な側面があります。それは、生涯聖母と一致して生活するということです。子どもにとって、その母と仲良く親しんでいるときほどたのしいことはないのであれば、わたしが聖母と密接に一致して生活するなかで味わった喜びは、どんなだったでしょう。九か月間聖母の胎内にあって、言うに言われない一致の生活を送ったときの喜び、聖母と一体をなし、生きた聖ひつさながらの聖母に絶えず宿されていたときの喜びを想像しなさい。わたしは、他の子どもたちとはまったくちがって、地上における生涯のその瞬間から、自分の母を認識し、絶え間なく、聖母と思いと愛とを交換していたのです。三十年の間、ベツレヘムにおいて、エジプトにおいて、ナザレにおいて、聖母とともにこのうえなく親密な生活を送ったとき、聖母の腕に抱かれていたとき、聖母のそばにすわっていたとき、ことばやまなざしによって聖母と語ったとき、わたしが味わった喜びを想像しなさい。聖母と聖ヨセフだけを伴侶として、暮らした三十年の久しい月日は、ああ、どんなにたのしかったことでしょう。残る三年間に味わった喜びも、これに劣らず切実なものでした。誤解した民衆、ものわかりのにぶい弟子、極悪な敵に取りかこまれながらも、ナザレのささやかな住居のなかにあってわたしを思い、わたしを理解し、わたしを愛し、わたしの使命達成のために、絶えず祈りと犠牲とをおん父にささげている聖母の姿を思いうかべるとき、わたしが味わった喜びはどれほどだったでしょう。
〔二〕言うまでもなく、このほかに喜びがなかったのではありません。使徒たちの熱心、多数の弟子たちの信仰と熱愛に接したとき、わたしの愛を信じ、全身をわたしにささげる純潔、単純、おおらかな無数の霊魂が、世の終わりまで絶え間なく存在することを思ったとき、わたしの心はどれほど喜んだか知れません。しかし、これらすべての喜びを合わせたとしても、わたしが聖母との一致のなかに見いだした喜び、わたしたちふたりの霊魂がひとつにとけあった境地において、味わった喜びの最小のものにも及ばないのです。
〔三〕愛する兄弟よ、わたしはあなたにも、この一致と、そこからわき出る喜びを分かち合いたいのです。あなたは、そこに、尽きない慰めを見いだすことができるとともに、またこの一致によって、わたしがさきに示した聖母に対する愛の他のことも、きわめて容易に実践することができるでしょう。聖母とともに生活するとき、あなたは本能的に聖母に対する献身をあらたにし、完全にするように努めるでしょう。聖母に対する愛が日増しに成長していくのを覚えるでしょう。聖母の意志には、どんなにささいな望みにも容易に従うことができるのを感じるでしょう。どのような敬いが、もっとも聖母を喜ばせるかを推測することができるでしょう。自発的に、聖母の諸徳とその心情を模倣するでしょう。聖母の慈愛に対して、ゆるぎない信頼を抱き、聖母とともに生活するならば、わたしが今まで説明しなかったことがらを、数多く学び知ることができるでしょう。なぜなら、あなたの心が、ひとりでに、これらの新しい事実を発見するでしょうから。
〔四〕あなたもわたしにならって、できるかぎり密接に、聖母と一致しなさい。聖母と一致して祈りなさい。毎日忠実に聖母に対する献身をあらたにし、ロザリオ(少なくとも一連)と毎日聖母にささげようと決心した特別の祈りを、欠かさずとなえなさい。日中しばしば目をあげて絶え間なくその子どもたちを見守ってくださる聖母をながめなさい。
〔五〕聖母に祈るときには、わたしの名において祈ること。またわたしがあなたの口と心とをかりて聖母をほめ、愛しつづけていることを思い起こしなさい。
〔六〕おん父、聖霊、子であるわたしと語りたいときにも、まず聖母と一致しなさい。聖母とともに祈るときにはあなたの貧しい思いに、聖母の完全な思いが加わるのですから、潜心はより深く、信仰はより堅固に、信頼はより完全に、愛はより熱烈になるでしょう。
〔七〕特に、愛の秘跡において、わたしを受けるとき、聖母に信頼しなさい。聖母にむかってその信仰、希望、信頼、愛を与えてくださるよう祈りなさい。わたしをあなたに与えて、あなたをわたしに変えてくださるよう祈りなさい。
〔八〕聖母と一致して行動しなさい。わたしは聖母のために、聖母とともに働きました。あなたも同じようにしなさい。あなたの行ないをひとつひとつ聖母に奉献しなさい。ただし、この奉献は口先ばかりに終わってはなりません。聖母の望むことを、聖母が望むゆえに、聖母が望むままに実行しなさい。わがまま、性癖、利害などにわざわいされて、最初の意向を失うことのないよう警戒しなさい。特に熱中しやすい事柄や、心をさわがすような事柄を行なうときには、決して自分を追求することなく、ひたすら、聖母の御旨どおりに行動するよう心がけなさい。行動のあいだ、一瞬でも、心の目をあげて、聖母に対する奉献をあらたにする習慣を、少しずつ養っていきなさい。
〔九〕聖母と一致して、あなたの霊魂のあらゆる心の動き対し適切に対応しなさい。わたしの心と聖母の心とは、絶えず同じ調べを奏でていました。わたしの喜びは聖母の喜び、わたしの悲しみは聖母の悲しみ、わたしの希望は聖母の希望、わたしの心配は聖母の心配、わたしの愛は聖母の愛でした。あなたの心を乱す事柄、あなたの心を動かす事柄を、すべて聖母に打ち明けなさい。聖母は、あなたの心の奥底に何があるかを見抜いているのです。あなた自身がわからないことまでも知り尽くしているのです。悲しいときには、その悲しみを聖母に訴えなさい。聖母はあなたを助けて、これを忍耐させてくださるか、あるいはこれを喜びに変えてくださるにちがいありません。しあわせなときには、そのしあわせを聖母に語りなさい。聖母はこれを、一層深いもの、清いものとしてくださるにちがいありません。落胆しているときには、あなたの心配または失敗を、聖母に語りなさい。聖母はあなたに、まことの成功を得させてくださるでしょう。仕事に成功したときには、聖母のもとに来て感謝をささげ、その効果を確保してくださるように祈りなさい。岐路に立ち、途方に暮れているときには、聖母の意見を仰ぎなさい。聖母はあなたを照らし、導いてくださるでしょう。気力も精力も尽き果てているときには、聖母のもとに走り寄って、力を回復しなさい。
〔十〕深い感動ばかりでなく、日常の務めから受けるありふれた印象や感想までも、残らず聖母に語りなさい。これが子の母に対する態度であり、またわたしが聖母のそばにあったときにとった態度でもあるのです。
〔十一〕このように、絶え間なく聖母と関係して生活するためには、多く語る必要はありません。子どもがどのように母にその感情を示し、要求を告げるかをごらんなさい。たびたび、ただひとこと「お母さん」と呼んだまま、じっと母を見つめているではありませんか。それなのに母は、不思議なほど、子どもの言おうとしていることがよくわかるのです。聖母は、わたしが「お母さん」と呼んだまま、じっと見つめているのをみて、どんな母よりも明確に、わたしの言おうとしていることを読み取っていました。ひとみとひとみが互いに問い互いに答えたとき、わたしたちの味わった喜びはどれほどであったでしょう。聖母に要求を告げ、感情を表明したいならば、ただ簡単に「お母さん」と呼びなさい。それぞれの場合に応じて、あるいは愛、あるいは務めの奉献、あるいは苦悩、あるいは感謝、あるいは喜び、あるいは悲しみをこの一語にこめて、しばらく聖母に目を注ぎなさい。聖母はあなたの気持ちを理解し、あなたの申し出に適格な返答をしてくださるでしょう。以上は、聖母マリアの子どもが、聖母と一致して生活するときに見いだす楽園の、ほんの一部分にすぎません。聖母はみずからあなたをこの楽園に導き、あなたの忠実の程度に応じて、そこに秘められている絶妙な驚異を示してくださるでしょう。  

信徒
ああ、イエスよ、あなたのお手本にならい、かたときも、聖母のそばを離れず、そのもとに生活し、絶えず聖母に目をむけて、慰めと勇気と指導とを求めることは、まことに、地上の楽園です。どうか、いつまでもこの楽園に生活する恵みをお与えください。

聖母のもとに来てその教えに耳を傾けなさい 

イエスは信徒に仰せになります。 

〔一〕兄弟よ、あなたは、わたしが聖母に対して行なったこと、またあなたがわたしの手本にならって、聖母に対して行なうべきことを、理解しはじめました。しかし、聖母がわたしのために行なったこと、あなたのために行なおうとしていることを、すべて理解したのではありません。聖母は真実の母親がその子を養育するように、わたしを養育し、またわたしの罪の贖いの使命に参与しました。聖母はまた、あなたをも養育して、その共贖者としての使命を分かちたいと望んでいるのです。その計画については、聖母ご自身が語ってくださるでしょう。わたしが限りない愛をもって聖母に聞き従ったように、あなたもすなおにその教えを聞き、愛をもって聖母に服従しなさい。

信徒
神のおん子であるとともに、マリアのおん子であり、わたしの創造者であるとともに、わたしの兄弟であるイエスよ、あなたの数かぎりないお恵みを、何によって報いることができるでしょう。あなたがよくご存知のように、わたしには何もなく、あるのは虚無と罪とにすぎません。けれども、あなたのお恵みによるならば、あなたのご期待に添うことができると信じます。わたしはあなたのご希望どおりに、聖母に対するあなたのご心情、ご行為を模倣し、あなたがわたしによって聖母を愛しつづけることができるようにしたいと思います。神のおん母であり、また、わたしの母である聖マリアよ、あなたはわたしをえらんで、あなたの愛する子としてくださいました。わたしはあなたの助けによって、今ひとりのイエスとなる覚悟です。今、あなたはわたしを教え導こうとしています。おん母よ、語ってください。あなたの子はつつしんで聞きます。お望みになることは何でもお命じください。しかし、それと同時に、それを果たすお恵みも与えてください。  

第2巻 (朗読)

イエスへの転化 

わたしの目的 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕最愛の子よ、わたしはイエスを生むと同時に、あなたを生みました。ですから、わたしは、あなたのうちにイエスを見、イエスを愛する愛をもって、あなたを愛しています。長子イエスは、わたしに対するご自身の態度を模倣するよう、あなたに教えました。ですから、わたしも、イエスに対した態度をもって、あなたに接したいと思うのです。
〔二〕あなたは、イエスにならい、全てをわたしに捧げてくれました。しかし、わたしは、あなたを独占しようとは思いません。わたしがあなたを召し出して愛する子としたのは、イエスとあなたのため、あなたと他の人びとのなかにお住みになるイエスのためなのです。これらのことは、はじめは、すべてを理解することはできないでしょう。しかし少しずつ理解できるようになるでしょう。
〔三〕まず、わたしは、わたしの子イエスの教育に従事したように、あなたの教育に従事したいと思います。あなたは、イエスと一体をなしているので、わたしの子どもです。ですから、あなたを教育するといっても、実際は、イエスを教育することになります。
〔四〕あなたを教育するとは、あなたがイエスの生命に生き、イエスのように考え、イエスのように希望し、イエスのように語り、イエスのように行動することができるようになるまで、すなわち、あなたがイエスに変化するまで、教え導くことです。また、司祭がホスチアのうちに行なう変化をあなたのうちに行なうことです。ホスチアは、五官で感じるところではどこまでも一個のパンにすぎません。けれども、信仰の目にはまさしく主イエスです。あなたも、外面的には同じあなたとして残るでしょう。しかし、内面的には、主イエスに変わらなければならないのです。
〔五〕それはあまりに高遠な理想だと思われるかも知れません。けれども恐れることはありません。なぜなら、わたしは、模倣すべきお方を熟知していますし、また、このお方に倣わせて、霊魂を育てる方法を心得ているからです。聖人たちは皆、わたしによって聖人となったのです。かれらに対して成し遂げたことを、あなたに対してもできないことがあるでしょうか?すべてをわたしにまかせて、すなおに聞き従いなさい。
〔六〕つぎに、主イエスに転化することを助ける務めを、いくつか示しましょう。これらを順次に実行し、ひとつの務めに慣れるまでは、他の務めに移らないようにしなさい。また、一度はじめた務めは、これをやめないように心がけなさい。 

信徒
ああ、聖母よ、わたしのような者でも、聖人になれるとおっしゃるのですか?わたしはあわれな罪人です。わたしの過去の生涯は、どんなに過失の多かったことでしょう。現在の生活は、どんなに冷淡なことでしょう。未来さえも、私は不安であり、恐れます。けれども、わたしは、この身をまったくあなたに従わせます。どのような奇跡も、わたしを聖人にすることさえも、あなたは可能です。どうか、あなたのお望みに決して反抗しないお恵みを与えてください。 

イエスの思いをあなたの思いとしなさい(イ)書物によって 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、イエスの命に生きることを学びたいと思うならば、まず、イエスの思いをあなたの思いとすることを学ばなければなりません。世俗の思いとイエスの思いは、まったく相反しています。あなたの思いも、イエスの思いよりは、むしろ、世俗の思いに近い場合がたびたびあります。
〔二〕イエスの思いは、福音書や、福音の精神を体得した人びとによって書かれた書物の中に記されています。イエスの思いを学ぶには、まず、これらの書物を読まなければなりません。毎日、少しの時間をさいて、けいけんな読書にあてなさい。このため、少なくとも、十五分、せめて五分間の時間を見いだせないことはないでしょう。なぜなら、必要でもないさまざまの用事のためには、暇を見いだしているのですから。毎日の霊的読書は、どんなに短くても、これをやめてはなりません。朝、昼、晩、いつでもいいので、時間をきめて、計画した時間がきたら、きちょうめんに始めなさい。
〔三〕霊的読書を始める前には、わたしにむかって、イエスからさずかろうとしている教えを、理解させていただくように祈り、読書中は、読書によって受ける感想をわたしに語りなさい。イエスが書物をとおして語っておられることを考えながら読みなさい。イエスの御言葉に敬意を表わすため、敬いながら読みなさい。好奇心を満足させるためではなく、イエスの精神を理解し、その生命に生きることを学ぶために、いそがず、ゆっくり読みなさい。読書したところは、これを自分の生活にあてはめて、自分の思いや行ないに、改めるべき点はないかを反省し、書物を閉じる前には、ひとつの決心をたてて、これをわたしに任せなさい。 

イエスの思いを自分の思いとしなさい(ロ)親しくイエスに接することによって

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、イエスの思いを自分の思いとするためには、今ひとつ、きわめて迅速で、確実で、効果の多い方法があります。それは、親しくイエスと接することです。
〔二〕イエスを観想しなさい。特に、福音書に描かれているイエスを観想しなさい。イエスの御言葉を聞き、その行為をながめなさい。外面のみをながめず、霊魂の奥深く立ちいって、主が、あの言葉を述べ、この行為をなさったとき、どのように考え、どのように感じ、どのように望まれたかを考察しなさい。とりわけ、主の一言一行すべて愛の心情より発しないものはなかったことを思いなさい。イエスは英知に満ちたことばを語る教師であるばかりでなく、なおそのうえ、愛の神であるのです。ですから、イエスの御心の、限りない愛に到達しない間は、まだその教えを理解していないのです。なぜなら、御心の愛こそは、イエスの教えの源だからです。
〔三〕イエスの観想から目を転じて、しばらく自己を反省しなさい。そうすれば、主のように考え、感じ、望み、行動するには程遠いことに気づくでしょう。イエスに転化するためには、自分は何をしなければならないか、どのような障害を取り除かなければならないか、どのような手段、方法を採用しなければならないか、どのような犠牲を捧げなければならないかを糾明しなさい。
〔四〕イエスを仰ぎ見、自分の行為をイエスの光に照らしてながめながら、主と語りなさい。いかにも、主と相対しているかのように語りなさい。主は、あなたの中に住んでおられるのです。昔ペトロの声、マグダラのマリアの声、ヨハネの声をお聞きになったように、今も、あなたの声を聞いておられるのです。弟子たちを愛したように、あなたを、ヨハネのように愛子とするために、わたしに与えたあなたを、とくに愛しておられるのです。直接に自分のことばで語りなさい。あなたの考えていること、望んでいることを、兄弟や、親友に話すときのように素直に語りなさい。
〔五〕主イエスと会話するさいには、わたしと一致することを忘れてはなりません。あなたも知っているとおり、わたしはいつも、あなたのそばに付き添っています。また、御子に至るには、母であるわたしを経なければならないのです。あなたは、わたしと一緒にいるという思いがないときには、なんとなく心が落ち着かず、親しみが薄く、愛情が不足するのをみても、今のべた事実を確認することができるでしょう。わたしは、御子について見聞きしたことを、絶え間なく黙想しながら、一生を送りました。あなたが主について行なう黙想は、すべて、昔わたしが行なった黙想の反復にすぎないのです。わたしのそばに来なさい。わたしが、イエスの奥義を黙想して悟ったこと、感じたことを、一部分でも理解させ、感じさせてあげましょう。
〔六〕思考や推理を増そうと、あせってはなりません。信じ、愛し、祈るだけで満足しなさい。信じなさい。イエスの言葉を知るならば、それですべては解決されます。ほかに議論を求めるのは無益です。主の御言葉は、真理であり、誤りのないものです。信じなさい。周囲の人は正反対のことを、少なくとも行ないによって、断定しているかもしれません。それでも、あなたは主の言葉を知ったならば、ためらうことなく信じなさい。人間は、はかなくすぎゆきます。しかし、主の真理は永遠に存続します。あなたの感情が、人の言論に味方したがるときがあるでしょう。少なくとも、主の教えに対して、冷淡なときがあるでしょう。しかし、感情は問題ではありません。信仰を保てればいいのです。主の御言葉だと分かったならば信じなさい。わたしと一致しなさい。そうすれば、純真で堅固な信仰をもって信じることができるでしょう。信仰の祈り(信徳唱)をしばしばとなえなさい。自分に言い聞かせるためだけでなく、神聖な真理を、自分の霊魂の奥深くに浸透させ、実践的結果を獲得するためにとなえなさい。
〔七〕真理を愛しなさい。イエスが真理を愛されたために、真理を愛しなさい。また、真理を教えてくださったイエスを愛しなさい。イエスに対する愛をますます深めていくことを学びなさい。イエスを深く愛すれば愛するほど、知らず知らずのうちに、イエスの御心を、ますます完全に模倣することができるでしょう。わたしのもとに来なさい。あなたの愛に、わたしの愛を加えてあげますから。そして一緒に、熱烈な愛をもって、イエスを愛しましょう。
〔八〕祈りなさい。イエスにむかって、信仰の弱さを助けてくださるよう祈りなさい。イエスの思い、感情、意志を与えてくださるよう祈りなさい。わたしにむかっても、イエスを示し、イエスの命によって生活できるよう祈りなさい。
〔九〕主の御心のなかで、特別あなたに不足しているもの、あるいは特別に魅力を感じるもの、あるいは、最近のできごとによって霊魂がさわぎ乱れたとき、もっとも必要だと気づいたものをえらんで考察しなさい。
〔十〕福音書の代わりに、他のけいけんな書物、祈祷文、聖歌などを用いてイエスとの会話に役立てることができます。その時も、すべてをイエスにむかわせ、イエスのために、すべてを信じ、愛し、実行するよう努めなさい。
〔十一〕イエスと会話する前には、その準備として、申しあげたいと思うことをあらかじめ考え、心を静かにしなさい。会話を始めるときには、必ずわたしにむかって、主のみもとに導いていただくよう祈りなさい。イエスとわたしとの御前にいるという考えを失わないようにしなさい。会話の終わりには、実行できることを決心しなさい。その方法については、のちほどお話しします。
〔十二〕主との会話中、もっとも深い印象を受けた考えを、一日中、仕事のあいまあいまに、たびたび思い起こすよう心がけ、この点に関して、しばしば信仰の祈り(信徳唱)をとなえなさい。
〔十三〕さきほど、わたしは、イエスの思いを自分の思いとすることを望む者にとって、この務めはきわめて重要なものであると言いました。以上述べたことによって、その真意がほぼわかるでしょう。この務めの重要性を理解した者は、毎日どんなことがあっても主との会話を欠いてはならないことも悟るにちがいありません。この務めをはじめる時刻、またこれにささげることのできる時間を明確に決め、どんなことがあっても、決定どおり行なうよう注意しなさい。やむをえない場合には、その時間を短縮しても差し支えありません。しかし、決してこれをやめてはなりません。朝夕の祈りをとなえる暇がないとの理由で、これをやめてはなりません。このような場合には、むしろ朝夕の祈りを半減して、しばらくでも、主と会話できる時間をつくりなさい。余暇は残らず聖体拝領のためにささげてあるとの理由で、これをやめてはなりません。もちろん、聖体拝領はしなければなりません。しかし、その準備と感謝は、イエスとの会話の形でこれを果たしなさい。霊的読書ができないとの理由で、これをやめてはなりません。霊的読書は、主との会話の準備として行ないなさい。そしていつも、イエスと直接会話できる時間を残しておくようにしなさい。雑多な仕事に忙殺されているからとの理由で、これをやめてはなりません。仕事に追われれば追われるほど、自分を統制することが必要となります。ところで、神のなかに自分を統制するより、有効な自分を統制する方法があるでしょうか?もっとも成果ある事業を成し遂げた者は、もっとも親しくイエスと一致していた者なのです。自分はひきょうもの、不忠実な者であったから、あるいは敬けんな思いや感情を持ち合わせていないからとの理由で、これをやめてはなりません。イエス以外の何者が、あなたを清め、導くことができるでしょうか?わたしといっしょに主のみもとに来なさい。
〔十四〕子よ、わたしのことばを理解してくれたでしょう。あなたが、決意と堅忍とをもって、今述べた務めを実践するならば、わたしは容易にあなたをイエスに転化することができます。これに反して、もしもこの務めにとりかかる勇気を欠くならば、あなたは、一生を平凡に送らなければならず、わたしは、せっかくあなたのために準備しておいた任務を、あなたに委託することができないで終わるのです。あなたは二者のうち、どちらをえらびますか? 

信徒
ああ、聖母よ、どのような口実がありましょうとも、あなたとおん子イエスと交わす毎日の会話は、決して怠らないことをお約束いたします。 

あなたのなかにひそむイエスの大敵 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、イエスの思いを会得しただけで、イエスの生命に生きることができるのではありません。このためには、イエスの思いを会得すると同時に、あなたのうちにおけるイエスの生命にさからっている敵と戦い、これを打ち砕かなければなりません。さて、数ある敵のなかで、もっとも危険な敵はあなた自身です。あなたは、ひたすらイエスのために生活したいと願いながら、他方においては、腐敗する自然の悪い傾向をも満足させたいと望んでいます。あやまってはなりません。「だれも二人の主につかえることはできない」のです。自然性に支配されている間は、いつまでも、イエスの統治を自分のうちに確立することができません。ですから、自然性にむかって、絶えず、その居城が完全にイエスの御手に帰するまで、戦いつづけなければなりません。
〔二〕これは確かに、困難な条件にちがいありません。しかし、避けることのできない条件です。かつては熱心、敬けんで、聖徳に達し、周囲に感化の影響を及ぼすべきであったわたしの愛子のなかで、その腐敗する本性を意識せず、あるいは、これと戦うことを受け入れなかったために、一生を平凡に送り、自分に課せられた善業の一部分さえも果たすことができなかった者が、どんなに多いことでしょう。はなはだしいのは、浅ましくも、自分の霊魂を滅ぼすと同時に、多くの霊魂を堕落させた者もあるのです。
〔三〕ですから、本性の悪化した傾向を意識するよう心がけなさい。これらの悪傾向はまさに一群をなしています。なぜなら、原罪が、先祖代々受けついだ悪癖、またはあなたからでた悪癖とともに、あなたの霊魂と肉身の諸活動を、ことごとく悪化させているからです。しかし、敵がどんなに多くても戸惑う必要はありません。これらの敵は、一首領に引率されているからです。首領さえ倒せば、その他はひとりでに倒れます。少なくとも、その抵抗力が弱まっていきます。この首領は、主欠点と呼ばれるものです。何よりもまず、これを探し出さなければなりません。さて何があなたの主欠点でしょう。
〔四〕虚栄心ではありませんか?あなたは賛辞を欲しがってはいませんか?賛辞を受けるときには、それが不当なものであっても、有頂天になってはいませんか?他人の賞賛のまととなるような、驚異的事業を夢見ていることはありませんか?
〔五〕ごうまんではありませんか?自分を高く評価して、他人を軽べつすることはありませんか?他人、特に自分の優越性を認めてくれない人を、おうへい、過酷、憎悪をもってもてなしてはいませんか?
〔六〕短気ではありませんか?他人からしっせきを受けるとき、または他人のしっせきを予想するとき、やけになることはありませんか?他人の不注意に対し、たとえそれが無意識的であっても、怒るようなことはありませんか?他人があなたに対して犯した過失を、理由もなく思いだしてはいませんか?他人の過失をゆるしてやることができますか?他人のちょう笑を受けたために、ある善業を放棄するようなことはありませんか?
〔七〕野心はありませんか?人のうえに立とうと努めてはいませんか?あなたが追求しているのは、キリストの光栄ですか?自分の光栄ではありませんか?上官として働く時は心身をうちこんで働くが、いったん一兵卒になって仕えなければならなくなると、身を引くようなことはありませんか?
〔八〕しっとはありませんか?他人が自分のように成功するのを見て、不快に思うことはありませんか?他人の失敗を見て喜ぶことはありませんか?
〔九〕移り気ではありませんか?印象にもてあそばされて、熱すれば、どんな犠牲をも辞さないと豪語するが、気が進まないときには、万事に対して、無関心となりはしませんか?種々さまざまのことに着手してみるが、ひとつとして成し遂げないで終わってはいませんか?
〔十〕軽率ではありませんか?外的事物に、たやすく心をゆだねてはいませんか?内に心をひそめること、またまじめな事物に対してそれ相応の慎重さをもって望むことに、困難を感じてはいませんか?
〔十一〕肉欲はありませんか?いつも、肉体のごきげんをとってはいませんか?飲食、休眠に関する肉体の要求をはじめ、その他、はるかに下等な要求にいたるまで、ことごとく満たそうとしてはいませんか?
〔十二〕怠惰ではありませんか?努力を恐れ、仕事を粗略にし、ささいな犠牲にあっても、たじろいではいませんか?
〔十三〕利己心ではありませんか?ただ自分のことだけを考えてはいませんか?他人も自分同様、それぞれの権利を持っていること、また必要な場合には、他人を困惑させないために、自分みずから困惑をしのがなければならないことを、心得ていますか?
〔十四〕このように自分を糾明していくうちに、邪悪な傾向の気配ともいうべきものを、数多く見いだすでしょう。疑いもなく、あなたのうちには、あらゆる悪傾向の始まりが存在するにちがいありません。しかし、すべてが主欠点なのではありません。これらの悪傾向のうち、もっとも強く、もっとも悪いと思われるもの、もっとも多くあなたの悲嘆、心配、不きげん、または喜びの原因となるものはなんですか?あなたは、ものを思うとき、何を考えていますか?虚栄を追っていますか?復しゅうの念をもやしていますか?肉欲の思いにふけっていますか?あなたがもっとも好んでおちいる考え、もっとも追い払うことがむずかしい考えは何に起因していますか?あなたの両親、教師、友人、またはあなたが怒らせた人から、どんなしっせきを受けましたか?自分がこうでなかったなら、神に対しても人に対しても、円満な関係を保っていけるのだが、と思う悪傾向はありませんか?
〔十五〕自分を糾明するには、誠実をもって行い、さらに、神の光を祈り求めなさい。なぜなら、主欠点の識別はきわめてあやまりやすく、外面にきわだって表れていながら、それほどまで根深くない欠点や、自分が犠牲にしやすい欠点を主欠点と思い、あやまることが多いからです。人間は、主欠点に留まろうとします。なぜなら、主欠点は人間の伴侶であって、人間は主欠点をもって生まれ、これとともに育てられ、これとともに生活し、これによってたえず満足を勝ち取ってきたからです。ですから、ときには、主欠点を最大の美点と考えることすらあるのです。自分を愛さない人はいないでしょう。しかし、自分を愛するよりも深く、イエスを愛する勇気がなければなりません。自分のうちにあるどれだけのものを犠牲にしなければならないか、勇気をもって、すなおに認識しなさい。恐れてはなりません。むなしい偶像を放棄するとき、まことの神を所有することができるのです。あなたを悪化させる自然性に死ぬとき、イエスの生命に生きることができるのです。 

信徒
ああ、聖母よ、わたしは、今もいつも永遠に、主を所有したいと思います。たとえ、そのため、どんなに苦しまなければならないとしても、主は栄え、わたしは衰えなければなりません。 

自分の思いをイエスの思いをもっておきかえなさい 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、自分の大敵を発見することは、至難なことですが、この敵を完全に倒すことは、至難中の至難です。あなたの力でできることではありません。わたしの近くで、寄り添って戦いなさい。そうすれば勝利をおさめることができるでしょう。
〔二〕まず、主欠点のさまざまな表現を確認し、さらに、あるときは正体が明らかになり、あるときは仮面をかぶっているその多様な形を慎重に調べ、どんな場合にもっとも多くの害悪を及ぼしているかを明らかにしなさい。
〔三〕つぎに容赦なく主欠点と戦いなさい。欠点と戦うには、二つの方法を用いることができます。ある人は、自分の欠点のさまざまな表現を注視して、これを記録し、数え、比較することによって、日々その数を減らすようにつとめます。この方法は、堅忍をもってつづけるならば、確かに好結果をもたらすにちがいありません。しかし、この方法のみでは、倦怠を感じやすく、時として、痛ましい不意打ちに遭遇しなければなりません。なぜなら、今まで注意の目をゆるめず除去しようと努力してきた欠点を、しばらくの後に他の霊的活動において反省してみますと、しばしば、以前の悪傾向の根が抜き取られておらず、形は多少変わっていても、その勢力は少しも衰えていないのに気づくことがあるからです。ちょうど、雑草が地上に生え出るのをみて刈りとるようなもので、根を掘り出して、その代わりに他の有用な植物を植え付けていないために、またもとどおり、雑草が生い茂るのです。
〔四〕これよりも容易で、これよりも有効な今ひとつの方法をここに示しましょう。この方法は、さきほど述べた方法にとって代わることができないにしても、少なくともその補いとなります。あなたの主欠点と正反対の徳を、主イエスのなかに研究しなさい。主欠点がごうまんならば、主の謙遜を黙想しなさい。主欠点が短気ならば、主の柔和を黙想しなさい。主欠点が利己心ならば、人びとのためにご自身を忘れ、みずからをいけにえとしてささげた主のご意志を賛嘆しなさい。主欠点が肉欲ならば、主のご苦難を黙想しなさい。
〔五〕主イエスととりかわす毎日の会話を利用して、自分に欠けている主の思いを考察しなさい。主が何を考え、何を感じ、何を語り、何をなされたかを思いなさい。鑑である主の思いを愛しなさい。イエスに対する熱情を自分のうちにみなぎらせなさい。つぎに、イエスの思いを自分の思いと比較しなさい。主イエスが、あなた自身に変化してくださるよう、わたしにとりなしを求めなさい。秘跡的聖体拝領、また霊的聖体拝領のさい、主があなたをご自分の生命によって生活させてくださるよう祈りなさい。
〔六〕日中しばしば、自分が模倣したいと思う、主の思いに応じて、あるいは柔和であるイエス、あるいは謙遜であるイエス、あるいは忍耐づよいイエスを思い浮かべなさい。とリわけ、悪傾向が勢力を盛り返そうとするさいに、このことを思い起こしなさい。これに抵抗しようとして苦しい努力をする代わりに、心静かに鑑であるイエスを仰ぎ見て、「主イエスよ、あなたがわたしの位置におられるならば、どのように行動なさるでしょう。来てください、わたしを、あなたの生命に生きることができるようにしてください」と祈りなさい。主は荒立つ波風を静め、深い平和をあなたの霊魂のなかに満たしてくれるにちがいありません。
〔七〕主イエスを見上げ、切願して自分のうちにお招きするならば、かたくなに執着していた悪傾向からしだいに脱却して、主の心情以外のどんな心情をも、いだかないようになるでしょう。だからといって、敵に対する警戒をおろそかにしてはなりません。大丈夫、安心だと思っているとき、突然襲撃されることがあるからです。ときどき、一瞬でいいから、敵があらたな体勢に立ち直ろうとしていないかをしらべなさい。
〔八〕わが子イエスは、あなたに、わたしを模倣するよう教えました。ですから、イエスの思いのつぎには、わたしの思いを観想しなさい。一欠点を除去し、一善徳を修めるにあたって、そのことに関し、あなたの母がどのように考え、どのように感じ、どのように行動したか、あなたの立場にあったならば、どのように行動するであろうかを自問自答することもまた、主イエスをよりよく理解し、よりよく模倣するよう努力することになるのです。 

信徒
ああ、おん母よ、わたしがひたすら主の生命によって生活することができるよう、主をわたしに示してください。 

成功の手段 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、主イエスに転化するはたらきをよりすみやかに進行させることを助けるために、きわめて適切な手段を、つぎに示しましょう。 

毎日の糾明
〔二〕まず、毎日、なるべく一日のなかほどに、少しの間、時間を見つけ、自分の霊的活動を糾明しなさい。その日の始めから、イエスの生命に生きるために、あなたの主欠点や改めたい思いに、何をしてきたか、またその日の暮れまでに、何をなすべきかを糾明しなさい。
〔三〕特に、つぎの二点に留意しなさい。第一には、すでに説明したように、過失の計算にあまりこだわらず、むしろ悪化した自然性が勢力を得たさまざまな場合を考えて、あのとき、主であればどのように考え、どのように感じ、どのように行動したかを思い、今後このような機会に出会ったならば、どういうふうに、主の思いを模倣すべきかを予想することに、重点をおくよう心がけなさい。第二には、主イエスと、またわたしと会話しながら、この糾明を行ないなさい。そうすれば、ひとりで自分の霊的活動を糾明するよりは、はるかにすぐれた効果をあげられるでしょう。主イエスとわたしにあなたの成功、不成功を物語り、たてた決心をゆだね、よりよく主の生命に生きることができるよう、助けを願いなさい。 

霊的更新
〔四〕主イエスに転化するはたらきをいちじるしく促進させる第二の方法は、霊的更新です。一日の中でいくつかの短い潜心する時間を作りなさい。たとえば午前に一、二回、午後一、二回というふうに、職務の都合をみて計画しておきなさい。潜心時間には、まず、霊的聖体拝領により、あるいは不満や歓喜の原因となった事柄について、愛と信頼に満ちたことばをささやくことによって、あるいはまた、さきほど主と取り交わした会話中のひとつの考えを思い起こすことによって、主とわたしに親しく接しなさい。つぎに、イエスを模倣するために、前回の更新から今まで何をしたかを短時間視線を向け、次回の更新まで、何をなすべきかを予測しなさい。このようにすると、あなたの霊的活動は、とぎれることなくつづけられ、主と、またわたしとの一致は、ますます緊密になっていきます。
〔五〕最後に、一定の期間をおいて、さらに多くの時間を自分の霊魂の利益のためにささげなければなりません。毎年、数日間の黙想を行なうよう、少なくとも、数日間、引き続き、余暇を利用して、平日よりは密接に、主とわたしとに一致して生活するよう努めなさい。黙想中、主とわたしが今まで述べてきた教えをあらためて念祷し、過ぎ去った年の間、なぜ進歩が少なかったか、どのような方法を用いるならば、来る年の間、より多くの進歩を期待することができるかを糾明しなさい。
〔六〕毎月、なるべく第一土曜日か第一日曜日に、時間の一部分をさいて、心静かに自分の霊的活動の状態を反省し、新しい月のために、有効適切な決心をたてなさい。
〔七〕毎週決まった日に、しばらくの時間を見いだして、過ぎ去った週の霊的努力を反省し、来る週になすべき努力を準備しなさい。
〔八〕以上の事柄を忠実に実践するのは、わずらわしいかもしれません。しかし、あなたがもし、愛をもってこの修練に励むならば、この修練は次第に親しいもの、たやすいものとなるでしょう。なぜなら、この修練は、絶え間なく、あなたの愛を増加してくれるからです。 

三つの根本的心情 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、今述べた外的手段は、ある種の内的心情が加わる程度に応じて、役立つにすぎません。同じ修練を実行していながら、ある霊魂は聖徳に達し、ある霊魂は俗域を脱することができないのは、このためです。「生かす者は霊です」。それでは霊は何をあなたに要求しているのでしょうか。
〔二〕まず、自己犠牲を要求しています。容赦なく、主欠点を打ち負かすためには、自己犠牲が必要です。あなたのうちにおられる主のはたらきを妨げないよう、すべてを放棄するためには、自己否定が必要です。主の思いを模倣しようと、必要な努力を自分と自分の身に課すためには、自己犠牲が必要です。
〔三〕わたしに対する愛が、わたしの名を呼び、わたしを賛美し、わたしのなかに喜ぶことに尽きるのであれば、自己否定を行なわなくても、わたしに愛を尽くすことができるでしょう。しかし、わたしに対する愛は、あなたを導いて、主イエスと同一の者にしなければなりません。ところで、主イエスと同一の者となることは、完全な自己放棄によらなければ、実現できないのです。同時に二人の主につかえることはできません。イエスを主とあおぐか、自分を主にまつりあげるか、二つのうちいずれかをえらばなければなりません。わたしは、あなたの自己放棄を手伝ってあげることはできますが、これを免除することはできません。
〔四〕つぎに、霊が要求するのは堅忍です。日々、自分の決心を守ろうと、平凡な努力を不断に払う霊魂を見いだすのは、熱心に燃え立っているとき水火も辞さない覚悟をもつ霊魂を百見いだすより困難です。あなたはいったい何度、わたしが教え示した務めのどれかを放棄する誘惑に遭遇することでしょう。しかし、万難を排して、これらの務めを守りとおしなさい。きょう、善良な理由のために、ひとつの務めを怠るならば、明日は好ましくない理由のもとにこれを怠り、ついには理由もなく、永久に、放棄するにいたるでしょう。やむをえない場合には、短縮しても差し支えありません。しかし、決してやめてはなりません。そうでなければ、成功は得られません。
〔五〕最後に、霊が要求するのは、惜しみない心です。これには二種類あります。まず、すべてをイエスに奉献すること、ただイエスが要求なさることだけではなく、義務ではなくても、御心を喜ばせるものは残らず、ちゅうちょすることなく奉献することを、惜しみない心と言います。わたしは、これを実行しました。聖人たちも、程度の差こそあれ、みなこれを実行しました。あなたも全力をあげて、この実行に励まなければなりません。
〔六〕つぎに、自分の過失、怠惰をひとつひとつつぐなうことも、惜しみない心のひとつです。過失を犯したのちには、その代償として、もしつぐなうべき過失がなかったならば、しなかったであろう特別な努力を捧げなさい。熱愛をこめて捧げなさい。そうすれば、つぐないのあとには、イエスを悲しませなかったときと同様、あるいはそれ以上に、イエスを愛することができるでしょう。世俗的な霊魂と聖なる霊魂との相違は、過失の有無にあるのではありません。なぜなら、両者とも過失をまぬがれることはできないからです。ただ、世俗的な霊魂は、自分の過失を認めるだけで満足するのに対し、聖なる霊魂は、愛の不足をおぎなおうと、以前に倍してイエスを愛そうと努力します。
〔七〕特に、イエスと交わす日ごとの会話、また霊的更新、毎日の糾明、黙想などの省略や怠惰をつぐないなさい。
〔八〕つぐないは、時を移さず実行しなさい。多くの場合、あとになって行なう長いつぐないよりは、短くとも即座に行なうつぐないの方がすぐれています。
〔九〕つぐないの実行方法を知りたいのですか?過失や怠惰を犯したならば、わたしに意見を求めなさい。これらの過失を、すべて、「幸いな過失」に変える道を教えましょう。あなたがもし、このような惜しみない心を、いつまでも保ちつづけるならば、わたしはきっと、あなたの罪、過失、弱さとにかかわらず、あなたを聖人、使徒とするでしょう。 

信徒
ああ、聖母よ、わたしの働き、余暇、生涯はすべてあなたのものです。わたしが冷淡になりがちなときには、どうか、あなたに捧げた身であることを思い起こさせ、聖人たちが持っていた惜しみない心をお与えください。 

成功の秘訣 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、わたしが今まで勧めた務め、あるいは心情によって主イエスと同一化するためには、ひとつの条件を満たさなければなりません。すなわち、これらすべてを、わたしの指導のもとに実行しなければなりません。主イエスもお教えになったように、わたしによらないでは、だれも、完全におん子を模倣することができません。これは、わたしをおん子の母としてえらんだお方のご意志なのです。
〔二〕あなたはときおり、熱心がひえ、霊的活動が普段より困難となり、進歩がにぶり、停止し、後退するのを感じることがあります。立ち直ろうと努力しても、その甲斐なく、ついには勇気を失ってしまうことがあります。しかも、何がそのような霊的衰弱の原因であるのか、どのような薬を使えば、これを回復することができるかさえわからないでいます。このような霊的衰弱の第一の原因は、いつでも、わたしとの一致がおろそかになっていることにあります。ですから、これをいやすためには、何よりもまず、わたしの指導に忠実に聞き従って活動するよう、心がけなければなりません。わたしなしには、失敗は必然です。わたしと一緒に活動するならば、成功は確かです。
〔三〕自分の努力のすべてに、成功をおさめたいと思うならば、何かを実行しようとするとき、いつでも、わたしのもとに来て、わたしの決定を求め、わたしの名においてのみ、行動するよう心がけなさい。特に、決心をするたびに、わたしの意見を求めなさい。わたしのあなたに対する希望を尋ね、あなたが計画していることを、わたしに打ちあけなさい。
〔四〕いうまでもなく、わたしは啓示をもって答えるようなことはしないでしょう。しかし、あなたがもし、全面的な信頼と、わたしの望みと思われることを果たしたいという誠意とをもって、わたしのもとに来るならば、たいていの場合、わたしがあなたの意志を承認するかどうかを、悟ることができるでしょう。承認されたと思うときにはその決心をわたしにゆだね、その実現を助けていただくよう祈りなさい。承認されないと思う場合には、さらに熟考し祈ってから、わたしが承認できるような、しっかりとした決心をたてて、わたしの判断を求めなさい。
〔五〕もしあなたが真実にわたしの答えを待ち、自分の自然的情熱にひきずられて行動しないように努めるならば、こうしてわたしの意見を求めていくうちに、やがて、以前には数か月をついやしてやっと成し遂げた進歩を、わずか数日で成し遂げることができるのに気づくでしょう。すべてにおいて、一瞬わたしをふり返る習慣を、忠実に継続するならば、わたしはすべてにおいて、あなたの導き手となるでしょう。あなたの生命の生命となられたイエス、唯一の目標であるイエスのみもとまで、あなたを導くでしょう。 

信徒
「ああ、よいすすめのおん母聖マリア、今ものちにもわたしを照らし、導き 助けてください。アーメン」

第3巻 (朗読) 

わたしの兵士

わたしの使命とあなたの使命 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、わたしがこれから述べることを注意して聞き、その意味をじゅうぶん会得するよう努めなさい。わたしは、ひとつの秘密、ただわたしたちふたりだけの秘密を、あなたに打ちあけようと思うのです。 
〔二〕大天使ガブリエルは、わたしに神のおん子のご托身の意志を告知すると同時に、わたしの子となられるこの神のおん子の名を、イエスすなわち救い主とお呼びすべきことをも告知しました。わたしはこの告知に接したとき、救い主が、わたしを救世の大事業に参加させようとしておられることを悟るとともに、神の申し出を承諾することはただちに、ご托身と贖罪の奥義に対する協力を約束することになることも悟りました。わたしは神の申し出をお受けいたしました。そしてそのときから、イエスが最後の息を引きとるまで、わたしはイエスとごいっしょに、人類のあがないのために尽力したのです。わたしはいけにえとなるイエスに肉体を形づくってさしあげ、燔祭の日を胸にえがきながら、イエスを養育しました。わたし自身の艱難、辛苦、意志を、イエスの艱難、辛苦、意志に合わせました。わたしのイエスを最上の供え物としておん父に奉献しました。イエスはあがないぬしであり、わたしは共贖者でした。
〔三〕しかし―この点をよく理解しなさい―神は、いったんお与えになった召命やたまものを、取り消しにはなりません。ですから、わたしはナザレにおいて、カルワリオにおいて、イエスにささげた協力を世の終わりまで継続しなければならないのです。おん子のご托身の日に、イエスを全世界にもたらしたわたしは、また、すべての時代を通じて、一人ひとりに、個別的にイエスをもたらさなければならないのです。贖罪の大事業において、イエスの協力者であったわたしは、どこまでもイエスの協力者となって、各個人の霊魂に、あがないの成果を分け与えなければならないのです。なぜなら、贖罪の大事業はまだ完成しておらず、カルワリオにおいて、全人類のために獲得された救霊の恩恵は、時を追ってこの世に生まれてくる一人ひとりに、適用されなければならないからです。これがすなわち、世の終わりまで継続するわたしの使命です。わたしはイエスとご一緒に、人びとの霊魂を、あますところなく、あがなうよう尽力しました。今またイエスとご一緒に、かれらの改心と成聖のために、尽力しなければならないのです。
〔四〕これはまた当然ではないでしょうか。わたしは、イエスの母となるとともに、またすべてのイエスの兄弟となる人の母ともなったのです。真に母である以上、どうして、自分の子どもたちの生命と救霊とを、配慮せずにおられましょう。
〔五〕だからこそ、神は、わたしを天に召しあげた日に、真に使徒的な使命を、わたしの共贖的働き、またわたしの霊的母性と同じく普遍的な使徒的使命を、わたしに委託なさったのです。 

〔六〕わたしは使徒の女王です。わたしは、慈母の愛情を傾けて使徒たちを守り、その後継者に、ゆたかなみのりを取りついで与えました。使徒たちとその後継者にわたしの助けがなかったならば、かれらは、霊魂のために、ひとつの善も行なうことができなかったでしょう。しかし、わたしが使徒の女王と呼ばれるのは、この普遍的な使徒的事業が、だれよりもまずわたしに委託されたものであり、使徒たちは、ただ限られた範囲内において、わたしの事業を助けるにすぎないからです。 
〔七〕使徒的事業はひとつの戦いです。わたしは、霊魂を一人ひとりサタンの手から奪回して、イエスとおん父のみもとに、連れ戻さなければならないのです。ちょうど、誘惑者が人祖に勝ちほこっているとき、神はその敗北を預言しました。「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼女はおまえの頭を砕く」と。わたしは無原罪の宿りのとき、すでにサタンの頭をふみ砕きました。しかしこの勝利は、あとに来る数限りない勝利の手始めにすぎませんでした。わたしは世の終わりまで、サタンの頭をふみ砕かなければならないのです。わたしはサタンにとって、いかり、恨み深い敵であり、戦線に集結する軍隊のように、恐怖の敵なのです。 
〔八〕わたしは、教会の初代において、すでに、霊魂を守って悪魔と交戦し、何度もこれを敗走させました。その後も、世界のいたるところで、あらゆる異端を撲滅し、無数の罪人を救いの道に導きました。しかし、神は時代の進展に応じて、わたしの征服的活動が、ますます明白に現われることをお望みになります。特に現代において、わたしの活動が、空前の光を、すべての人の目に放つことをお望みになるのです。
〔九〕一見、世界はサタンの手中にきしてしまったように見えます。しかし、すこしも恐れる必要はありません。サタンの勢力が増大していくからこそ、神はわたしを、公然とこれに立ちむかわせ、わたしによって、サタンの頭をふみ砕こうとなさるのです。わたしには、輝かしい大勝利が約束されています。おん子の治世を完全にもたらすためには、まずわたしの治世を、全世界いたるところに、敷かなければなりません。教会が、わたしの地獄に対する最初の勝利である、無原罪の宿りの奥義を宣言して以来、イエスは、以前に倍して認識され、愛され、奉仕されているではありませんか。そのペルソナ、聖体、み心、王権は、幾世紀の長きに渡って、見ることのできなかった熱烈、忠誠な礼拝を受けているではありませんか。大天使ガブリエルの預言にあるとおり、主の治世は、無限なものでなければなりません。しかし、今も昔と同じく、世界に王者を与えなければならないのは、わたしなのです。教会の末期は、いつの時代にもまして、わたしの時世となるでしょう。わたしによって、わたしのために、かずかずの驚異が実現するでしょう。サタンは、婦人のかかとによって、これまで見なかったほどに、ふみにじられるでしょう。教会は、かつてない生産力と征服力とを発揮するでしょう。イエスは、たえず増大していく民の上に君臨し、以前ははげしくさからっていた人びとからも賛美されるでしょう。 

〔十〕以上は、わたしがあなたに語りたかった秘密のなかの、わたしに関係した部分です。つぎに、あなたに関した部分を述べましょう。神は、その愛の大事業を遂行するにあたり、人間、特にあるえらばれた人びとを、これに参加させ、ご事業の成否を、これらのえらばれた人びとの、召命に対する忠誠、不忠誠に一任なさいました。イエスは、おん父からお受けした使命を遂行するにあたり、使徒とその相続者に協力を要求なさいました。わたしも、これと同じように、わたしに委託された使命を遂行するために、協力者と兵士とを求めているのです。わたしがさきに予告した不思議は、いつ実現するかと問うのですか?これらの不思議は、わたしの子どもたちが、わたしの使徒的役割を理解して、わたしと一緒に、わたしの指令に従って、戦うことを承諾するとき、実現するでしょう。
〔十一〕あなたは、わたしの使徒的役割を理解しました。それなら、わたしの兵士となってくれますか?わたしを助けて、わたしの子どもたちをサタンの手から奪いとり、かれらをイエスのみもとに連れもどしてくれますか?わたしに約束されている勝利を、分かち合おうと思いませんか?あなたは、聖なる模範であるイエスに従って、すべてをわたしにゆだねました。あなたの五体、あなたの霊魂、あなたの活動を、すべてをわたしにささげてくれました。それなのに、わたしが、あなたの身体と活動をもって何をしようとしているかがあきらかになった今となって、さきの奉献を取り消そうとするのですか? 

〔十二〕あなたは最初、わたしに対する愛のなかでも、母のひざの上にいだかれている子どもがとる態度を教えられました。それなのにわたしは、これから、あなたを戦場に連れてゆかなければならないのです。イエスは、ナザレの家においてのみ、わたしの子どもであったのでしょうか。この世の君主である悪魔の勢力を打ち砕いて、人類をあがなわれたときにも、わたしの子どもではなかったでしょうか。わたしの子どもとなられたのは、人類の救い手となるためではなかったでしょうか。イエスがあなたを召してわたしの愛子となされたのは、あなたをも人類の救い主とするためです。ですから、あなたは使徒となるか、そうでなければ、わたしの愛子となることを断念するか。二つのうち一つをえらばなければなりません。

信徒 
ああ、おん母よ、わたしはまったくあなたのものです。そしてわたしの所有しているものはすべてあなたに属しています。わたしはあなたのために、あなたのご指導のもとに働き、戦い、苦しみ、死ぬ覚悟です。「マリアの旗のもとに」を標語として進む覚悟です。 

聖火 

マリア は信徒に仰せになります。

〔一〕子よ、あなたは、わたしの使徒となろうと決心しました。だから、心のなかでなお、自分はどのようにしていまの地位にありながら使徒となることができるだろうか、聖職者でもないのに、説教する任務も託されていないのに、と心配しています。
〔二〕周囲をながめなさい。あなたの周囲には、破壊的思想の宣伝者が周期的に、相次いで起こり、数年もたたないうちに、何百万という仲間を獲得しているではありませんか。だれから宣伝の任務をさずけられていますか?かれらのうちの多くは、初期の目的を貫徹するために、嘲笑、迫害、獄舎、ときには火刑、断頭台さえも避けませんでした。かれらは、サタンによって企てられた虚偽の思想の熱狂的な使徒になって、しかも成功したのです。反対にあなたは、キリストとその母との使徒でありながら、どうすれば成功するかと、心配していますか?
〔三〕誤りの種をまく者の仕事は楽です。情欲をあおり立てさえすれば、拍手喝采されるのですから、などと弁解してはなりません。あなたには、もっと有力な成功手段があります。人類を救うべき真理、人類の飢え渇きをいやす幸福、人類が求めている知られざる神などに関する教義をもって、人類の深刻な欲求を満たすことができます。神の全能の御力によって、あなたは支えられています。
〔四〕キリストの最初の宣教者たちは、ユダヤ人や異邦人にむかって宣教を行ったとき、民衆の激しい感情にへつらうことをしたでしょうか。かれらは、自分の弟子たちに、厳格な離脱を要求し、迫害と投獄、剣と火刑とにそなえる義務を説きました。それにもかかわらず、無数の人を、しかも驚嘆すべき速度をもって改宗させています。これはひとえに、熱烈な使徒的聖火が、かれらの胸に燃えさかっていたからにほかなりません。ああ、この聖火が、同じ激しさをもって、かれらの後継者の胸に燃えていたならば、おん子の名は幾世紀も以前から全被造物に説かれていたでしょう。
〔五〕この聖火こそ、あなたの胸に燃えていなければなりません。どのようにして?どこで?わたしのあとについてカルワリオまで登りなさい。十字架にかけられたイエスを正面にして、わたしとならんで立ちなさい。残酷きわまる拷問に戦慄された御体をながめなさい。さらに千万倍も激しい苦悩をなめられた主のご霊魂をながめなさい。何がご霊魂をこのように限りない嘆きをもって満たしたのでしょう。主が、これほどまで嘆かれるのは、おもにおん血をしぼりつくしてまで救おうとされた人々が、自分の受けた苦悩を利用しないのを思われたためなのです。人々が主のご苦難を利用しないのは、いうまでもなく、恩恵に抵抗するからではありますが、また、あがないの事業を彼らのために継続すべき人々が、このことを少しも心にかけていないからです。
〔六〕お聞きなさい。イエスは口を開かれます。「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」。私とあなたに向かって、話されているのです。子よ、私の苦悩の深さを理解してください。私はどうして、あれほどまで苦悩しなければならなかったのでしょう。…主の御体を責めさいなむ拷問のため…わけても、みずからの霊魂の死ぬほどの苦しみゆえに…またそのとき、私が地上に産みつつあった数知れない人々が、地獄に落ちて行くありさまを父と共にまざまざと予見したために。
〔七〕「婦人よ、これが、あなたの子です。この子は、あなたを助けて、この子なくしては永遠の滅びに至るべきあなたの子どもたちを救い、助けるでしょう。迷えるあわれな子らを、あなたのもとに連れもどすでしょう。あなたの使徒的使命遂行をたすけ、そしてわたしたちふたりを慰めてくれるでしょう」。イエスのご意志がおわかりですか?ああ、どうか、カルワリオの光景が、たえず、あなたの眼の前にあらわれ、常にあなたから離れないように!死の苦しみにもだえるキリストの叫びとあなたの母の嘆きとが、夜となく昼となく、耳にひびきますように!…そして、あなたは、真に使徒として成長するのです。
〔八〕お聞きなさい。主は、まだ何かを語っています、「かわく。からだが、わけても心が―、私に代わって、母の私に仕えるはずのあの子は、私に霊魂を与えてくれるであろうか」 

信徒
ああ、聖母よ、イエスとおん身と霊魂とに対する三つの偉大な愛を、かたときも忘れさせないでください。

使徒的祈り 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、あなたは、どんな状況にも、祈りというこのうえもない有効な武器のあることを知っていますか?あなたはきっと、祈りは説教と同じ程度に霊魂の救いに役立つと信じているでしょう。また、祈りは活動の補いであって、老人、病者、その他、外的な熱意ある事業に従事することのできない者にとり、せめてもの慰めだと考えているでしょう。しかし、それだけでは、まだ祈りと使徒的効果を認識しているものとは言えません。
〔二〕祈りは、ただ直接的活動の補いであるばかりでなく、その効果においてあらゆる外的活動を最高に支える使徒的武器です。イエスは、わずか三年間宣教しました。宣教を開始する前には三十年間祈りつづけました。三年間の宣教のとき、夜を徹して祈られたばかりではなく、くちびるを開いて人びとに教えられている間も、霊魂の奥では絶え間なく御父と語られていたのです。わたしはイエスと協力して世の救済に尽力しました。わたしは説教をしませんでした。教会を支配しませんでした。奇跡を行ないませんでした。しかし、祈りかつ苦しみました。聖ヨセフも、わたしのように祈りかつ苦しみました。書物に書き残されるようなことばは一語も発しませんでしたけれど、ヨハネ、ペトロ、パウロ以上に、人びとの改心のためにはたらきました。使徒的人物の生涯を研究してみると、たくさんの霊魂を改心させた人びとはみな祈りの人であったことに気づくでしょう。
〔三〕祈らない使徒ほどあわれむべき者はありません。鳴る鐘、ひびくシンバルに似て、骨身を砕き、精力をつくし、おそらくはみずからの霊魂までも滅ぼして、しかも他人の霊魂のためには、ひとつの善業も行なうことができないのです。時折、その活動が救霊の効果を生じたように見えることがあっても、その実、この効果はまったく思いがけないある霊魂が、自分の祈りがどんな効果を生んでいるかわからないながら、熱心さを込めてささげた祈りのたまものであって、祈らない使徒にはほんの少しの報酬も与えられないでしょう。
〔四〕これは、当然の結果と言わなければなりません。霊魂を改心させ、聖化し、救うことは超自然のわざです。自然的なものをもって、どうして、超自然的なものを生ずることができましょう。超自然は恩恵の結果であり、恩恵は祈りの結果です。ですから、祈れば祈るほど超自然的なものを生むことができるのです。
〔五〕神は秘跡的恩恵を生まれさせるために、感覚的記号を用いることを望まれるように、可能なところに、外的事業を起こすことを望まれます。ですから、大海のうしおに、幼子の霊魂を洗いきよめる能力がないように、外的事業も、それ自身では、ひとつの霊魂すら、改心させ、聖化することができないのです。洗礼の秘跡において、司祭のことばが加わってはじめて、幼子の額にそそがれる水が効果を生ずるように、使徒の外的事業は、これに祈りが加わってはじめて効果を生ずるのです。水による洗礼が不可能な場合に、希望の洗礼がこれを補うことができるように、祈りは、活動が不可能な場合に完全にこれに代わることができるのです。
〔六〕神は全能です。神は、霊魂の救いの恩恵をほどこすに当り、数かぎりない方法や手段を用いることができます。神は何でもない一語に、不思議な効力を与えることができ、おりにふれて読んだことば、聞いたことば、ときとしては誤解したことばのなかにも、あるいはまた、不幸なできごと、または日常の茶飯事のなかにも教訓をたれて、光明を点じ、心を動かし、改心を生まれさせることができます。その敵を使って、慈悲あふれるご計画を実行することすらできるのです。予言者バラムは、イスラエルを呪うべく遣わされていながら、呪いのかわりに、祝福を口走ったではありませんか。使徒に欠けているものは、事業というよりは、むしろ使徒的祈りです。
〔七〕以上の教えがおわかりですか?おわかりでしたら、以後は、外的事業によるよりは、むしろ祈りによって使徒となるよう努めなさい。毎日、使徒的意図をもって祈るよう心がけなさい。あなたは霊魂を救うにあたって、どんな手段をとるべきか、どのように話を導くべきかと熟慮しています。たいへん結構なことです。しかし、それ以上に祈りに励んでいますか?自分の計画の成功を神に期待して、祈っていますか?自分の手腕、説得力に、より多くの期待をかけてはいませんか?
〔八〕祈りなさい。祈りなさい。霊魂の改心と成聖のために、祈りを倍加するよう努めなさい。あなたの祈りのひとつひとつに、あなたの聖体拝領のひとつひとつに使徒的意向を加えなさい。自分のわざ、苦しみを祈りに変え、わたしの手をへて、わたしの意向に従って特定の目的のために神にささげなさい。これらすべてに、その日、全世界においてささげられるミサ聖祭をあわせてささげなさい。
〔九〕両親のため、ならびにすべての親愛な人びとのために祈りなさい。教会、教皇、司教、司祭およびすべての宣教師、使徒のために祈りなさい。特に、あなたのように、わたしの治世がやって来ることによって、イエスのご治世の到来を早めようと、わたしのもとにやって来る人びとのために祈りなさい。あなたが善をほどこそうと努めた人びとのために、その善が永続するよう祈りなさい。あなたが善をしなければならなかった人びとのために祈りなさい。あなたの不始末がつぐなわれますように。その日に出会うであろう人びとのために祈りなさい。あなたがかれらにほどこさなければならない善を、全部ほどこすことができますように。
〔十〕ある行動をなす場合には、神がこの行動に期待される成功を、実現することができるように祈りなさい。任務が困難だと思われる場合には、神があなたの無力を補足してくださるように祈りなさい。任務が容易だと思われる場合には、自分の自然的手腕をたのんで、超自然的効果の発生を妨げることがないように祈りなさい。実践中は、神が、あなたのうちで行動しつづけるように祈りなさい。行動を終えたときにも祈りなさい。成功したならば神に感謝の祈りをささげなさい。失敗だと思われるときでも善が行なわれるよう祈りなさい。神があなたに祈るようにさせてくださるのは、あなたに成功させたいと望まれている証拠なのです。祈りなさい。絶え間なく祈りなさい。そうすれば、わたしによって、わたしのために、驚異的な事業を成就することができるでしょう。

信徒
ああ、聖母よ、あなたはご生涯のあいだ、絶え間なく、おん父の光栄、おん子の使命、子たちの救いのために祈りつづけられました。どうぞ、わたしにも、祈りの道を教えてください。

十字架による救い 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、よく聞き、よく理解しなさい。わたしはこれから、ひとつのむずかしい教理、あなたが以前から理解していると考えているだけに、いっそう捕らえにくい教理、すなわち、十字架による救いについて教示したいと思います。キリスト教の宣教に従事する人はだれでも、苦しみが救霊に重大な役割を演ずることを知っています。イエスが、ご苦難とご死去とによって世をあがなわれたことも、わたしが共贖者となるために、苦しみの母とならなければならなかったことも、偉大な使徒たちが皆、大きな苦難の道を歩まねばならなかったことも心得ています。しかし、人は一度でも自分自身が苦難に見舞われると、その意義を忘れてろうばいし、失望、落胆します。これらの人びとにとって十字架は、ユダヤ人にとってもそうであったようにつまずきの種なのです。かれらはおそらく、キリストの罪を清める苦しみを分かたなくても、その罪を清める活動を分かち得るものと考えているのでしょう。
〔二〕あなたはそうであってはなりません。あなたを待っている十字架を正面からながめなさい。あなたは苦しみを身におわなければならないのです。人びとの霊魂のために、働き、苦しみ、骨身を砕き、精根を傾け尽くさねばならないのです。ただの数時間、数日間ではなく、救うべき霊魂の存在するかぎりずっとなのです。情熱に燃えているとき、成功に恵まれているときばかりではなく、困難と嫌気のうちにあってもです。その上、みずから進んで犠牲を課し、清めようとする霊魂に代わって自己をいけにえとして捧げなければなりません。努力が報いられず、困難が増すように見えれば見えるだけ、節制と罪を清めるわざに励まなければなりません。
〔三〕あなたはおそらく、このような十字架を抱擁する覚悟をもっているかもしれません。しかし、ここに今、ひとつの十字架があります。この十字架は、自発的にになう十字架ではなく、またとりわけ張り合いがないために、いっそう耐え難いものなのです。人びとはあなたの意向を誤解し、計画を軽べつし、行動を非難するでしょう。あなたを援助している者が、かえってあなたの事業に対して冷淡な態度を示し、ときにはあなたが建設していくことを破壊しようとするでしょう。あなたを鼓舞激励しなければならない者までが、あなたを非難し、あなたの計画を停止させるでしょう。人びとは、八方手を尽くしてあなたの事業を妨害し、あなたの失敗を見て、予告したとおりではないかと言って喜ぶのです。自分でえらんだ十字架ならば、喜んでになえます。病気、貧困からくる十字架ならば、あきらめもつきます。しかし、人びとの無知、愚かさ、悪意からくる十字架に対してはうんざりする恐れがあります。しかし、この十字架こそ、最もすぐれた罪を清める力をそなえているのです。
〔四〕イエスを仰ぎみなさい。イエスが、あなたを救おうとしてしのばれた苦しみは、ご自身がえらばれたものだったでしょうか?人びと、わけてもその地位と職務からして、イエスを助けて同胞の救済をはからなければならなかった人びとの無知、愚かさ、悪意によって打ち立てられた十字架ではなかったでしょうか?
〔五〕悪魔が執念深く、あなたの事業を破滅させようと策動するのを見て、驚いてはいけません。悪魔はわたしを攻撃するために、わたしの兵士を攻撃するのです。不動の信頼、不屈の勇気を保ち続けなさい。悪魔は、わたしを攻撃すればするだけ、自己の敗北を決定的なものとしていくのです。わたしはすでに、その頭を踏み砕きました。今後も踏み砕きつづけるでしょう。
〔六〕とはいえ、苦しみはそれ自身、人を救い、清めることができません。イエスの苦しみと協働してはじめてこれができるのです。あなた自身について言えるのと同様なことが、あなたの苦しみについても言えます。あなたはもともと、一人のあわれな罪人にすぎなかったにもかかわらず、イエスと一致させていただくことによって神性にあずかることができました。同様に、苦しみそれ自身では、なんら効果も生まれませんが、イエスの苦しみと一致させるとき、神からくる力を分かち合うことができるのです 。
〔七〕使徒的活動のなかで、苦難に遭遇したならば、わたしのもとに来なさい。一緒にカルワリオまで登りましょう。そこで、イエスの十字架の前に立つとき、あなたは、自分を苦しみ疲れさせ打ちのめしている苦しみの無限の価値をさとるでしょう。人びとの愚かさ、悪意からくる苦しみでさえも、こころよくしのぐことができるでしょう。自分に苦痛を与えた人びとを憎む代わりに、あなたに救いの使命を分け与えたいと望まれるイエスとその母、ならびにこの救いの使命を遂行することによって救える霊魂に思いをよせるでしょう。
〔八〕子よ、わたしが以上に述べた教えは、きわめて厳しいものでありますが、しかしまた、信仰と愛と勝利の教えであることを忘れてはなりません。わたしは、あなたが、この教えを理解できるものと思って語りました。わたしの推測はあやまっていたでしょうか?

信徒
ああ、おん母よ、あなたは、わたしの臆病と苦しみを恐れる心とを知っておいでになります。しかしまた、わたしがあなたを愛し、あなたの使命の遂行を手助けしようと切に願っていることも、あなたの知っているところです。どうぞ、試練の日にわたしを支えてください。そうすれば、あなたが望まれることを、あなたが望まれるのだから、どんなにつらくとも、苦しみ続けることができるでしょう。 

具体的な模範による説教 

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、祈りや犠牲による間接的な宣教は、不思議なほど有効なものですが、だからといって、霊魂におよぼす直接的なはたらきを、これに付け加えることを怠ってはなりません。こう言いますと、あなたはすぐ、ことばによる宣教を思い浮かべるでしょう。ことばによる宣教も大切です。しかし、これに先行し、随伴し、継続する宣教方法があります。具体的な模範による宣教がこれです。
〔二〕きわめて雄弁なことばも、ある種の霊魂にはまったく無力であることを悟るには、長年の経験を待つまでもありません。ことばは、これを受け入れる心がまえのある霊魂にのみ有効です。道端や、石地や、いばらのなかに落ちたことばの種子が、どうして実をむすぶことができるでしょうか?しかし、具体的な模範は、霊魂にことばを受け入れる準備をさせてくれます。ほんのちょっとした行動、身ぶり、目つき、ほほえみが、長時間の説教よりも好結果をもたらす例は少なくありません。
〔三〕あなたの信じる教えを、あなたの行ないにおいて尊敬させなさい。キリスト者の偉大さを自覚し、神が自分のうちに現存されることを思って、いかなる場合にも、品位を失わないよう心がけなさい。自分に近づく者にちょうど聖所に近づくときのように、一種、神秘的な印象を感じさせなさい。乱れて秩序のない世にあって、非難されるところのないように徳をみがきなさい。私服を肥やすために、他人を傷つけて気がねしない人びとのなかにあって、清廉潔白を守りなさい。いつわりと隠し事が、ほとんど通則化している世にあって、正直と誠実とを守りなさい。義務、良心の観念も失ったように見える人びとのなかにあって、良心の声に聞き従い、義務を忠実に守りなさい。あなたと信仰を共にしない人、あるいはあなたの信仰を攻撃している人までが、あなたの行ないに、ひいてはあなたの行ないの源泉である信仰に敬意をあらわすにはいられないまでに行ないを正さなければなりません。
〔四〕世に迎合せず、俗評をかえりみず、ありのままの自分を示しなさい。何を赤面する必要があるでしょうか?他の人びとが誤りのうちにさまよっているとき、自分ひとり真理を所有しているのが恥ずかしいのですか?人びとが欲情に身を持ちくずしているとき、自分一人、自己の品位を自覚しているのが恥ずかしいのでしょうか?キリストの弟子、キリストの母の兵士となるのが恥ずかしいのでしょうか?自分と思想、行動を異にする人から、良く思われないのを心配するのですか?どれほど堕落した人でも、自分の信念を堅持し、自分の信じるところにまい進する者を、心ひそかに畏敬しているのを知らないのですか?人を恐れず、人に非難されないキリスト者となりなさい。そうすれば、あなたの行いは絶え間ない説教となるでしょう。
〔五〕あなたの身においてキリストの教えを尊敬させることは、それ自身すでに大きな功績です。しかし、さらに進んでキリストの教えを愛させなさい。隣人に同情しなさい。できるかぎり隣人を手伝いなさい。隣人のなげきに耳を傾け、その不幸を慰め、痛手をいたわり、勤労を助けなさい。あなたに近づく者に、親切と愛想をもって接しなさい。すべての人に対してすべてとなりなさい。そうすれば、すべての人をキリストのものとすることができるでしょう。かれらがもし、あなたの助けによって、以前よりも幸福を感じるようになるならば、やがて、この幸福の源であるあなたの思想を愛するようになるでしょう。あなたに近づく者に、ますますあきらかに愛を認識させなさい。愛がどのようなものかを理解した者は、神をたとえその御名は知らなくても、いっそうあきらかに認識することができるでしょう。なぜなら、神はいつわりではなく、愛そのものであり、愛にむかう心はすなわち神にむかう心だからです。
〔六〕すべての人に対してすべてとなりたいと思うならば、隣人のなかにある長所、短所、徳、不徳、善業、悪業に注目せず、かえって隣人のなかにあるキリストのおん血の値、わたしの果てしない苦痛の値をながめなさい。救い主とその母とが、人類を愛した愛をもって隣人を愛しなさい。そうすれば、かれらを愛のとりこにし、また愛によって、神に属するものとすることができるでしょう。 

信徒 
ああ、おん母よ、あなたの子どもたちのうちには、その生活によって、絶え間なく教訓を与えている人がいます。しかし、わたしはしばしば周囲の人をそこなっています。これから、わたしもあなたのように、善い行ないによって人びとにイエスを語るように努力したいと思います。どうぞわたしに接する人を、イエスに近づけてください 。

救いの言葉

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、使徒としてのことばをもって、あなたの周囲にキリストの精神を広めるよう心がけなさい。「機会がない」とは口実です。機会はあります。さがしなさい。もし、なかったならば、つくりなさい。あなたは光の子でありながら、闇の子らに教訓を求めねばならないのですか?闇の子らは、どんなところにも、談笑の間にも、街頭にも、工場にも、旅先にも、遊びの間にも、間違っている教義の種をまく機会を見いだしているではありませんか。かれらが、霊魂を亡ぼすためにできることを、霊魂を救おうとするあなたがなしえないとは、なんと残念なことでしょう。誤ってはなりません。あなたが無力なのは、機会がないからではなく、使徒的熱意が不足しているからです。
〔二〕使徒として話すとき、必ずしも説教する必要はありません。会う人ごとに、キリスト者の信念をもって語りなさい。人物、事物、事件などに関して、キリストの考えを自分の考えとして、憶せず自分の信じるところを打ち明けなさい。論争をまれにし、どのような場合にも人をはずかしめず、ただ自分の信じるところをのべるだけにとどめなさい。真理はみずから、人を魅了する力をそなえています。なぜなら、真理は人を自由にするからです。真理はみずから、征服する力をそなえています。なぜなら、真理はその輝きをもって、人をひきつけるからです。いつでも長い説教をしなければならないと考えてはなりません。手みじかな説明、慎重な忠告、簡単な意見、ときとしては、ひとつの間投詞でさえも、まじめで熱心な霊魂に、光明を点ずることがあるものです。
〔三〕忘れてならないのは、理屈よりも人格のほうがより多くの人を承服させる力をもっていることです。単純に、しかも大胆に語りなさい。あなたは、確実な真理を所有しているではありませんか。あなたのことばが、深い信念から発していることを、これを聞くすべての人に感じさせなさい。ことばと行ないが一致しているなら、容易にことばを受け入れさせることができるでしょう。あなたが語るのは、勝利を得て喜ぶためではなく、相手に善を施すためであることを、人びとに感じさせなさい。絶えずキリストの教えを研究して、ますますこれを自分の生活に生かし、そのよりよい証人となるよう努めなさい。自分の専門の分野において、他者より秀でたものとなるよう心がけなさい。職能技芸においてすぐれたものと認められるならば、宗教的方面においても信頼できるものと思われるでしょう。
〔四〕使徒的ことばになるためには、長い間の修練が必要です。談話を始める前には、わたしにむかって、語るべき事柄を示していただくように祈りなさい。談話の後には、わたしの前で、誰かをより善良に、あるいは幸福にすることに成功したか、どうすれば、よりよい成功をおさめられるかを糾明しなさい。使徒的ことばの練磨にさいして、わたしの指導に従うように努力すれば努力するほど、いっそう早く、いっそう完全に進歩することができるでしょう。なぜなら、あなたは、わたしのために、わたしによって、使徒とならなければならないからです。 

信徒
ああ、おん母よ、わたしは、これまで、おん子イエスの教えを世に広めようと努めたことはほとんどありませんでした。人とまじわるさいにも、ただ自分のことだけを考えていました。けれども、この後は、主イエスと霊魂とを念頭におきたいと思います。わたしが談話の前にあなたに祈るとき、どうぞ語るべき事柄をわたしにお示しください。 

一致は力

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、孤立のなかにとどまっていてはなりません。あなたと同じく、使徒的あこがれをもつ人びとと提携しなさい。霊魂の奥深く、使徒的熱意を秘めておこうとすると、かえってこれを消しさってしまいます。同志の友と共通な思想、共通なあこがれを語り合いなさい。そうすれば、あなたの友も、この思想、このあこがれをいっそう強烈なものとすることができるでしょう。一致は、ただ、同志の熱誠をし烈にするばかりではありません。その上たぐいない力を与えてくれます。ひとりの同志と協力するとき、二倍の力ではなく、十倍の力を獲得することができるでしょう。さらに、一群の同志と堅く結束して一小部隊を組織し、わたしの旗下に進軍するならば、むかうところ敵なしとなるでしょう。
〔二〕ではこのような同じ心の仲間を見いだすには、どうすればいいでしょうか。さがしなさい。そうすれば見いだすでしょう。おそらく、あなたの身近に、あなたを仲間にしようと、待っている者がいるかも知れません。そのような場合には、これを仲間にしなさい。数多いわたしの修道会のいずれかに、入会することができるならば、入会をためらってはなりません。これらの修道会のなかで、自分の使命の自覚、すなわち自分は純然たる信心会ではなく、へびの頭を踏み砕いた婦人の名のもとに、進軍する軍隊である、という自覚を失わなかった修道会は、過去において、輝かしい勝利を獲得しました。将来においても、わたしの使命と自分の使命に対する認識を深めてゆく程度に応じて、いっそうはなばなしい勝利を獲得するでしょう。同じ環境に、同じ志を持っている者が幾人も生活していながら、しかも、自分たちは、それぞれ異なった意見を持っているものと考え、何か月も何年も経った後、ふとした機会に取りかわした会話によって、お互いの気持ちを理解します。そこではじめて兄弟同志でありながら、他人同志と思いこんでいたことを、今さらのように驚き合うことがあります。ですから、あなたがいだいている考えを他人に打ちあけてみなさい。そうすれば、この打ちあけが、相手の心に、どのような反響を与えるかを、知ることができるでしょう。
〔三〕あなたは、最初から、自分の理想を分かつべき人を、見いだせないかも知れません。しかし、最初の共鳴者、もっと熱烈な共鳴者が必ずしも最良の協力者だとは限りません。押さえ切れない熱心さよりも冷静な判断、堅固な意志、寛容、犠牲心のほうがまさっています。「こんなところでは何もできない。どこをむいても冷淡な者ばかりではないか」とあきらめてはいけません。高貴な霊魂が、かくれひそんでいることがあり、犠牲心に富む霊魂が自分を認識することができないでいる場合もあるものです。かれらに、自分を認めさせなさい。かれらは心の奥底に眠っていた完徳に対するあこがれと、主のために尽くしたいという熱望がよみがえってくるのを感じるとき、喜びに満たされるでしょう。
〔四〕ときとしては、現在、あなたの思想と正反対の思想をいだいている人が後日、あなたの戦友となるのにもっともふさわしい人である場合があります。サウロは、迫害者から一変して、キリストの大使徒となったではありませんか。同志をさがすにあたっては、人の言動よりも、その言動によって生じる内密な心情をさぐりなさい。犠牲心のないキリスト者よりも、真摯で、犠牲心と熱意をもつ未受洗者の方が、あなたと同じ戦いを戦うに適しています。
〔五〕同志を見いだすためには、長い間さがさなければならないかも知れません。さらに見つけても、養成に辛酸をなめなければならないかも知れません。幾多の苦い失敗を経験しなければならないかも知れません。しかし落胆してはいけません。社会のどのような境涯にも、キリストがえらんだ人がいるはずです。見いだすまでさがしなさい。
〔六〕あなたがたの軍隊は、はじめのうちは小部隊にすぎないでしょう。しかし、団結さえあれば、戦士の数は問題ではありません。大勢をたのんで勝ったためしはなく、少人数であっても、勇猛果敢、組織と統制とを堅持して戦うならば、必ず勝利を得ることができます。カトリック者は、疑うこともできない不思議なほど生産力にとむ教義、たぐいまれな善徳と犠牲心、最高の理想と全能の神の助力をもっています。ですから、もしもカトリック者が団結するならば、勝利の手段に事欠くことはないはずです。ところが、この団結を欠いているために、かれらはほとんどすべての国において、敗北しているのです。イエスの敵は、あらゆる点において、主義主張を異にしているにもかかわらず、教会を攻撃するときだけは、一致団結します。カトリック者は教義のあらゆる点において一致していながら、いざ教会を防衛しなければならないというときになると、分かれ争います。サタンは、キリスト者が神への奉仕に精進するのをみるとき、これを信仰または倫理に反する誘惑におとしいれようとして、まず各自に異なった宣教方法を教えます。この手にかかった信者は、悪魔と戦う代わりに、同士討ちを演ずるのです。国と国の戦争においては、兵士も上官も、各自の私見を捨て、大きな視野から案出された作戦を…たとえこの作戦がそれ自身、もっとも完全なものでなくとも…一致協力して遂行する軍隊の方が、勝利を得ているではありませんか。教会の聖なる戦いにおいても、もっとも広範囲の成功を勝ち得たものは、従順の誓願を守って、長上の指導に、絶対服従を守らねばならない修道者の精鋭ではなかったでしょうか。
〔七〕現実の善行は、非現実の大きな善行にまさります。力は一致のなかにのみ存在し、一致は犠牲によってのみ可能です。私の勝利をあとにして、公の勝利を先にしなければなりません。この道理を銘記しなさい。以上述べた教えを黙想しなさい。これによって生活しなさい。他人にもこれを説き聞かせなさい。 

信徒
ああ、おん母よ、わたしはあなたの軍隊を増大し、結合し、強化し、熱誠なものとするために、一生をささげてはたらきたいと思います。

「わたしを宣べ伝える者は……」

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、イエスがあなたをわたしのもとに導いてくださったのは、あなたをわたしの愛子とすると同時にわたしの使徒とするためです。ですから、イエスは、あなたがわたしの指導のもとで計画する事業をことごとく祝福してくださいます。しかし、イエスはあなたがわたしの名において行動するだけではなく、さらに進んで、わたしの名を宣べ伝えることをお望みになります。そしてあなたが、このお望みにこたえるたびに格別の恩恵と力とをあなたの使徒的活動の上にくだされるのです。
〔二〕使徒となる者は、霊魂をキリストのみもとに導き、霊魂にキリストを与えなければなりません。わたしはキリストにたどりつく道です。キリストを世に与えたのはわたしです。霊魂をすみやかにキリストのみもとまで導こうと思うならばキリストにたどりつく道を明示しなさい。キリストをまったく霊魂に与えたいと思うならば、その使命を託されている婦人をさし示しなさい。あなた自身の体験を思い浮かべなさい。あなたは恵みに対して、たえず忠実ではなかったにもかかわらず、イエスの愛の奥義を啓示していただいてからは驚くべき変化を体験したではありませんか。あなたは光明を見いだしたのです。これをますの下に隠さないで人前に輝かせなさい。先に述べた内的生活の秘訣はまた外的行為にも適用することができます。すなわち、あなたがもし、あなたの外的行為に公然とわたしを参与させればさせるほどその進歩はますます素晴らしくなるでしょう。
〔三〕使徒的活動にわたしを参与させることはイエスの希望です。イエスは直接ご自分を人類に与えることがおできになるにもかかわらず、わたしの手を借りないではこれをなさいません。イエスは楽園における預言と預言者たちの預言によってご自分を啓示されるときにも、先駆者を清め、ベツレヘムの牧者と三博士、シメオンとアンナの礼拝を受けられたときにも、カナの婚宴に列席されたときにも、さらにカルワリオにおいて死去されたときにも、ご自分をあらわされたと同時に、わたしをもあらわされました。今もなお、聖霊によって導かれるその神秘体をもって、イエスはたえずわたしを宣べ伝え、人びとに母を経て子に至るもっとも自然的な道を踏んで、ご自分のもとに来るよう教えられたのです。イエスはあなたに、わたしに対するご自身の愛を模倣するよう教えました。今述べていることは、イエスの愛のなかでも特異な点です。ですから、それを模倣するよう努めなさい。
〔四〕さきに語ったように、イエスは特に新時代において、わたしの名を示し、わたしを知らせ、愛させることによって、霊魂を聖化し、救済しようと望んでおられます。わたしを人びとに宣べ伝える者は、イエスがわたしのために取っておかれた勝利を、格別な仕方をもって分かつでしょう。イエスの期待にそうことができるよう力のおよぶかぎりわたしを宣べ伝えなさい。
〔五〕これはまたわたし自身の期待でもあります。わたしには、自分の母さえ知らない子ども、また知っていてもきわめて不完全にしか知らない子どもがたくさんいます。どうぞ、かれらに母を示してあげてください。わたしはかれらを抱擁し、愛撫してやりたいのです。かれらをわたしのところに連れもどしてください。わたしはかれらを、あなたのように長子イエスに似せて育てあげたいのです。
〔六〕どのようにすれば、わたしを知らせ、愛させることができるでしょうか。確実な方法はひとつあります。それは、わたしに対し、霊魂に対して、熱心な愛を燃やすことです。この愛さえあれば、方法は容易に見いだすでしょう。まず、あなた自身が、わたしに対して特別な敬意をささげていることを人びとに認めさせなさい。人目をはばからず、ロザリオをとなえ、メダイを身につけ、わたしのほまれのために行なわれる公の祝祭に参加しなさい。それと同時に、行ないをもって、人を恐れず、人に非難されないキリスト者であることを示すならば、あなたの行ないそのものが、もはや雄弁に、わたしを宣べ伝えてくれるでしょう。
〔七〕つぎに機会をみて、わたしとの一致の生活に関する自己の確信と体験とをそれとなく話してください。親密な会話の折、文通のさいなどに、ときどきわたしの名をさしはさむことができないでしょうか。泣きぬれている霊魂に、「悩める者の慰め主なる聖母」のご絵を示すことができないでしょうか。徳を守るため、あるいはこれを回復するために戦っている霊魂に、自分によりすがるいっさいの人を純潔にする使命を託されている「いと潔きおん母」に依り頼むよう、勧めることができないでしょうか。イエスと親密に一致したいと望んでいる霊魂に、あなた自身がどのようにして、イエスと密接に一致したかを、それとなく伝えることができないでしょうか。使徒的活動に熱中している霊魂に、神がわたしに託された使命を説明し、わたしの名において、わたしの指令を仰ぎながら戦うことが、驚くようなよい結果となることを、語り聞かせることができないでしょうか。もしも、公の言論、文筆などによって、わたしを宣べ伝える機会を与えられるならば、喜んでこの特典を活用しなさい。あなたの言論は、これを聞き、または読む霊魂に…また、彼らから無数の人びとに…信頼と愛と救済をもたらすでしょう。「わたしを宣べ伝える者は、永遠の生命を得」さらにこれを周囲の人びとにも、分け与えることができるでしょう。 

信徒
ああ、祝福された乙女マリアよ、わたしを、あなたをたたえる者としてください。あなたに群がる敵にはむかう力をわたしに与えてください。 

「あなたの名によって網を打ちましょう」

マリアは信徒に仰せになります。 

〔一〕子よ、以上語ったことによって、どのような方法を使えば、使徒的活動を遂行することができるかを理解し始めたことでしょう。しかし、あなたはこの使徒的事業の遂行にあたって、あなたを活気づけてくれるはずの信頼について、まだきわめて不十分な理解しかもっていないのです。あなたは時折、自分の弱さと自分に託された任務の困難さを思って、いったい自分はこれで何ができるのだろうか、と自問自答しています。「いったい何ができるのだろうか」‥‥あなただけでは何もできません。しかし、わたしに信頼するならば、驚くべき大事業を成し遂げるでしょう。全能の神は、はしためのむなしさをかえりみられて、これに偉大なことをなされたではありませんか。聖書にも「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」と書いてあるではありませんか。
〔二〕つぎに、あなたが、自分の使命の成功に対し、動かすことのできない確信、山を移すほどの確信をいだいて活動することができるように二つの真理を示しましょう。わたしのことばに耳を傾け、そしてこれを黙想しなさい。第一に、あなたの使徒的活動はわたしの使徒的事業であり、あなたの利益はわたしの利益であることを、心にとめておかねばなりません。神から、へびの頭を踏み砕き、この世におん子の国を確立する使命をゆだねられた者は、わたしであって、あなたではありません。あなたはただ、わたしの使命を分かつにすぎません。わたしはキリストの軍隊の総司令官であり、あなたはわたしの兵士です。救いを求めている子らはわたしの子どもであって、あなたの子どもではありません。母は、その子の救霊を他人よりもはるかに深く熱望するではありませんか。司令官は部下よりも深く、勝利を熱望するではありませんか。わたしはあなたよリも無限に、密接にイエスの利害に結びつけられているではありませんか。たとえ、あなたがあなたの成功に無関心であっても、わたしは無関心ではいられません。イエスと自分の子どもたちとにかかわる重大問題であるのに、どうして無関心であり得ましょう。わたしは神の恵みを受けて恵みの分配者となりました。そして、この恵みを自分の名において活動する人びとに分け与えるのです。
〔三〕第二に、祈りのさいもっていなければならない無限の信頼についてイエスの示してくださったことを思い起こし、これをあなたの使徒的活動に適用しなさい。わたしはあなたの使徒的事業のひとつひとつの上に愛に満ちた意向を持っています。わたしの意向は、いつもあなたの意向よりは完全です。なぜなら、わたしはあなたをあなた自身よりも深く愛しており、またイエスと霊魂とをあなたよりも深く愛しているからです。わたしの意向は、いつもどんな場合にも完全に実現されるのです。わたしの意向は、あなたがわたしの名において行動しさえすれば間違いなく実現されます。ですから、どんな障害に出会っても、わたしの名において行動するならば、いつも予期以上の成功を収められるでしょう。
〔四〕このように、素晴らしい成功を収めるためには、骨身をくだいて活動するだけではたりません。わたしの名において活動しなければなりません。あるとき使徒たちは夜もすがら骨折ってすなどりましたが、何ひとつ捕ることができませんでした。しかし、ペトロが「み名によって網をおろしましょう」といって網をおろすやいなや不思議な大漁をすることができました。あなたの一生懸命の努力も、何度徒労に終わったことでしょう。これというのも、任務をはじめるとき、「み名によって」と唱えることを忘れたからにほかなりません。わたしの名において働くとは、わたしの意向どおりに、わたしの使命と恵みとに参与するという自覚をもって働くことです。
〔五〕あなたの使徒的活動にかけているわたしの期待が実現されるよう、あなたの祈りと苦痛とを、わたしの手を経てイエスにささげなさい。どんなことを計画するにも、まずわたしに祈りなさい。わたしの意向が何であるかを考えた後、わたしの手足となって働きなさい。成功を確信して事業に取りかかりなさい。わたしが、あなたによって働いているのですから。あなたが自分の意向をもって、わたしの意向に取りかえないよう警戒しなさい。始業前には聖母のために働くと誓っておきながら、次第に自分の傾向に引きずられてしまうことが、たびたびあるものです。聖母の意向に従って行動するという心がまえを失うならば、成功はおぼつかなくなってしまいます。暴風雨にもてあそばれていたぺトロは、最初、自分をみもとに招かれたイエスに信頼したため、荒波の上を歩くことができたにもかかわらず、反対に波と自分のことに心がむくと、すぐさまおぼれかかったではありませんか。あなたの事業もいくたび、最初は勢いがあっても、終わりに勢いを失って終わったことでしょう。それというのも、聖母の道具という自覚を失ったからにほかなりません。
〔六〕いうまでもなく、絶えず、わたしのことばかり考えることは不可能であるとしても、いつも、わたしの精神によって導かれることはできるはずです。だれのために働いていますか、と尋ねられた場合、いつも「聖母のために」と答える心境に到達することはできるはずです。このような心境に到達するには、なみなみならぬ努力が必要です。けれども、せめて時折、あなたの意向を更新し、もしも、自分の意向がわたしの意向にとって代わっているのに気づいたならば、そのつどこれを改めるよう心がけなさい。
〔七〕行動の終わりには、成功したならば、神に感謝しなさい。失敗したならば、自分を反省しなさい。わたしの名において行動しなかったならば、失敗は当然です。わたしの意向に自分の意向を合わせ、たえずわたしによりすがるよう心がけたら、失敗と見えても、実は失敗ではなく、ただ成功が遅延されているにすぎません。神はおぼし召しになった時期に、あなたの努力と信頼とに比例した成功を与えてくれるでしょう。キリストはたたえられ、あなたの母はあがめられ、霊魂は救われるでしょう。わたしのいないところに成功はなく、わたしのいるところに失敗はありません。 

信徒
ああ、おん母よ、わたしはあなたを信じます。主イエスがあなたに委託された使命を信じます。あなたに依頼するとき、力ある者となることができることを信じます。どうぞ、わたしが自分自身のために行動するたびに、完全な、あきらかな失敗をわたしに与え、わたしをただあなたのためにのみ行動するよう仕向けてください。そうすれば、有効な助力をあなたにささげ、多くの霊魂をイエスのみもとに導くことができるでしょう。わたしは昼間は各時間ごとに、夜はめざめるたびに、つぎの射祷を愛唱したいと思います。「無原罪のおとめマリアによって、父と子と聖霊が、いたるところであがめられますように」 

あなたの理想

マリアは信徒に仰せになります。

子よ、イエスは、あなたに、ご自分の母に対する愛の秘義を啓示してくださいました。あなたは、この啓示がどんなに偉大なたまものであるかを理解したことでしょう。イエスがあなたを召して、ご自分のお手本にならい、全身をわたしにささげるよう要求されたとき、あなたは、この要求は単にもう少し聖母に対する愛を増やすことだと考えていました。しかし、少しずつこのような誤った見方を捨てて、イエスのわたしに対する愛を模倣するとは、わたしの指導のもとに、聖人、使徒となることであり、世の救いのためにわたしの子どもとまでなられた神のおん子イエスに転化することであることを悟ったのです。

信徒
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」

付録

聖母マリアに身をささげる祈り
わたしたちの神である主よ、あなたは、すべての人を救いご自分のもとに導くために、おとめマリアから生まれ、人となられたおん子をお遣わしになりました。マリアによって、そのおん子の御姿に形作られていくわたしたちを、母マリアに対するキリストの愛にあずかる者とならせてください。あなたはマリアをおん子の秘義に参与させ、新しいエワ、生きる者すべての母とされました。わたしたちが母マリアと交わした契約を堅固なものとしてください。わたしたちの献身が、マリアの母としての愛をこの世に広め、あなたのおん子キリストの体である教会を成長させるものとなりますように。わたしたちの主、キリストによって、アーメン。(マリア会祈祷書より)

3時の祈り
主キリスト、わたしたちは今、あなたの母とあなたが愛された弟子と共に、みもとに集いました。あなたのご逝去の原因となったわたしたちの罪をお許しください。子の厳かな救いの時に、あなたはわたしたちを心にかけ、マリアを母としてお与えくださいました。心から感謝いたします。母マリア、あなたのご保護にすべてをゆだねるわたしたちを聖霊の働きに素直な者とならせてください。聖ヨハネ、わたしたちの生活の中にマリアを迎え、その使命を果たすために、惜しむことなく献身させてください。罪のけがれのないおとめマリアによって、父と子と聖霊とが至るところでたたえられますように。アーメン。(マリア会祈祷書より)

4巻 (朗読)