暗夜 十字架の聖ヨハネ

「暗夜」十字架の聖ヨハネを短くまとめたものです。

■目次

感覚の受動的暗夜

霊魂の歌

これは、すでに完徳の状態にある霊魂がの世において神との愛の完全な一致に達するために、霊的な道を進んでいくありさまを歌った詩である。完徳とは、神との一致であり、これを歌っている霊魂は、永遠の生命に至る狭い道の霊的修練によって、すでにきびしい試練と苦悩を体験している。その霊魂は、その狭い道を「暗夜」と呼び、この道を通って完徳に達したことを、非常に幸運とし歌っている。そして、この完徳に達した霊魂が、自らのうちに所有する特質についても述べ、それはすべて、これらの歌の中に含まれている。
1・ある暗い夜に、
愛にもだえ炎と燃えたち、
おお、すばらしい幸運!
気づかれずに私は出て行った、
我が家はすでにしずまったから…
2・暗闇の中に 安全に、
装いを変え、秘密の梯子で、
おお、すばらしい幸運!
顔を覆って闇の中に私は出て行った、
我が家はすでにしずまったから…
3・この幸いな夜に
誰にも見られず、何も見ないで、
ひそかに私は出て行った、
心に燃え立つ光の他には
何の光の導きもなしに。
4・その光は私を導いた
真昼の光よりも確かに、
私のよく知っている あの方が
私を待つあの処―
誰ひとり居ない あの処に。
5・おお、導いてくれた夜よ!
おお、黎明より愛すべき夜!
おお、愛する者と愛された人を
結んでくれた夜!
愛された人を愛する者に変容しながら…
6・あの方のためにだけ
ひたすら 守ってきた
私の花咲く胸に、あの方は眠っていた、
私は彼を愛撫した、
杉の枝は扇のように、そよかぜを送って来た。7・彼の髪を手にとっていると、
狭間からの風が吹いて来て、
その静かな手で
私のうなじを打った、
そして私の感覚をみな止めてしまった。8・みじろぎもせず 我を忘れて、
愛する方に 顔をもたせかけていた…
すべては止み、私は身をゆだねた、
思いわずらいを みな
白百合の中に置き忘れて…

第一の歌についての説明

第一の歌ある暗い夜に、
愛にもだえ炎と燃えたち、
おお、すばらしい幸運!
気づかれずに私は出て行った、
我が家はすでにしずまったから…
解説1、この第一の歌の中で霊魂は、神との味わいに満ちた甘味な愛の生命を生きるまでになるために、すべての事物と自分自身に死ぬという抑制を行った。そして、これらの事物と自分自身から離れることを、「ある暗い夜」であったと言っているが、それは、浄化の観想である。この浄化の観想が、受動的に、霊魂の中で、すべての事物と自己の否定をさせる。2、そして、この抑制は、暗黒の観想の中で、花婿の愛がその実現のために与えてくれた力によって、始めて可能であった、とここで霊魂は言っている。これによって、霊魂は、この夜を通って、世と悪魔と肉の三つの敵が決して妨害することができなかったほどの大成功をおさめながら、神のほうへ歩いてゆくことのうちに獲得した幸福を強調している。それというのも、浄化の観想のあの夜は、霊魂の中で、すべての欲情と欲求を、その反対の欲求と衝動によって眠らせ、弱らせてしまったからである。それで、次の一行を歌う。ある暗い夜に、

第一の歌の第一行目をあげ、初心者の不完全について語る

霊魂が、神に奉仕しようと固く決意して自分を改め始めると、神は普通、この霊魂を霊において育て、ちょうど愛に満ちた母親が、か弱い幼子に対するように慈しまれる。母は、その胸の熱でもって子供を温め、おいしい乳と、やわらかくて甘い食物で彼を養い、腕に抱いて喜ばせる。しかし、子供が成長するにつれて、母親は甘やかせることを止め、やさしい愛を隠し、甘い乳房に苦い汁を塗って腕から降ろし、自分の足で歩かせる。神も、ちょうどこれと同じことをする。最初に神は、霊魂に、やさしい愛の母乳を与え、霊魂に少しも苦労させずに、霊的乳が甘く味の良いものであることを見出させ、霊的修練においては、大きな喜びを持つように計らう。こうなると霊魂は、長時間、あるいは一晩中でも、祈りのうちに過ごすことに喜びを感じるようになる。彼の喜びは苦業であり、彼の満足は断食に、そして、彼の慰めは秘跡を受けることと、神的なことに与ることのうちにある。霊的な人々は、これらのことに非常に効果的に、熱心に与り、大変注意深く、慎重にこれらを行うが、大抵の場合、霊的に非常に力なく不完全な態度をとる。なぜなら、彼らは、そこに見出す慰めや喜びのために霊的修練へ赴き、また、徳において、激しい戦いの修練に熟達していないため、彼らの霊的業は多くのあやまりや不完全を伴っているからである。このことが一層よくわかるため、また、これらの初心者たちが、どれほど徳に欠けているかを明らかにするために、主だった七つの罪源によってこれを指摘し、それぞれの中に含まれている多くの不完全さのうちのいくつかを述べよう。

初心者がもっている不完全①傲慢

1、これらの初心者は、霊的なことや信心の業において、自分は非常に熱心で勤勉であると感じているので、この得意感から、彼らの不完全さ故に、たびたび隠れた傲慢の芽が出てくる。その結果、彼らは自分の行為と自分自身にいくらかの満足を覚えるようになる。ここから、時としては非常に空しいある種の欲望が生まれてくる。それは、他人の前で霊的なことを話したい、また時には、これらのことを教えられるよりも他人に教えたい、という虚栄的な欲望であって、他人が自分の望む通りの信心を身につけていないのを見ると、心の中でその人を非難する。そればかりか、時にはそれを口に出して言うのである2・彼らに対して、悪魔はしばしば、これらの業や他の業を、もっとたくさん行おうとする熱心や欲望をあおり立てる。それは、彼らの傲慢やうぬぼれを、増大させるためである。悪魔は、彼らが行うすべての業や徳は、彼らにとって何の価値のないものばかりか、かえって彼らを悪徳に引き戻すものであることをよく知っているからである。そして、彼らのうちにある者などは、自分以外の者がよく思われることを望まないほどのひどい状態になる。3、また時として、彼らの霊的指導者が彼らの精神ややり方を認めない場合、彼らは、その指導者たちは自分の精神は分からないと判断し、霊的人物でないと考える。彼らは、自分を称賛し、尊敬してくれるような人と語り合うことを望み、反対に、彼らの精神ややり方を砕く人々からは逃げ出し、彼らを憎むようにさえなる。彼らはうぬぼれているので、たいてい多くの決心をするが、ごく僅かしか実行しない。あるときには、他人が自分の精神や信心を知ってくれることを望み、そのために、しきりに外的動作や嘆息や、その他のわざとらしいことをして見せる。またときには、密かにではなく、皆の見ている前で、一種の脱魂状態に陥る。悪魔が彼らに力を貸しているのである。彼らは、人々が自分のこういう状態を知ってくれることに満足を覚え、度々、それを熱望するようになる。4、多くの者は、自分が他の誰かよりも聴罪師に重んじられ、特別扱いされることを望んでいる。ここから無数の妬みや不安が生まれてくる。彼らは自分の罪を赤裸々に告白することを恥じる。それは、聴罪師の自分たちに対する評価が減らないためであって、罪に彩色をほどこし、そんない悪く思われないようにする。これでは罪を告白しに行くよりも、弁解をしに行くようなものである。そしてときとしては、悪いことを告白するために、他の聴罪師を探す。これは前の聴罪師が、彼らには何の悪もなく、善しかないと考えるようにするためである。このように、彼らはその聴罪師には、常に良いことを言うのを喜び、ときとしては、事実以上に思われるような言葉で語ったりする。5、そうかと思うと、彼らのうちのある者は、自分の欠点を些細なことと考えている。それでいて、ときとして、自分が欠点に陥るのを見ると、やたらに悲しみ、自分はもう聖人であったはずなのにと思い、自分自身に対して不忍耐になり立腹する。これもまた、もう一つの不完全である。彼らはしばしば、彼らの不完全と欠点とを取り除いてくださるようにと神に切願するが、それは神のためではなく、むしろ、煩わしいことなしに、平安のうちにいる自分を見たいからある。もし、これらの欠点が取り除かれたなら、おそらくは今よりももっと傲慢で、うぬぼれた者になるであろう、ということには気がつかない。彼らは、他の人をほめることはひどく嫌うが、自分がほめられることは非常に好み、ときには自分から望むほどである。6、ある人たちは、これらの不完全を、数多く、しかも根強く持つようになり、そこから多くの害を受ける。しかし、これらの不完全を持つ程度は、人によって多少の差はある。また、ある者は、一時的衝動、またはそれをほんの少し越えた程度の不完全しかもっていない。とにかく、こういう熱心な時期にあって、こうした不完全のどれかに陥らないような初心者はめったにない。完徳に進む謙遜な人しかし、この時期に完徳に進歩してゆく者は、全く別の仕方で、また、非常に異なった性質の霊によって進む。なぜなら、彼らは謙遜によって進歩し、大いに徳を積むので、自分のことを無に等しいと思うばかりではなく、自分には極めてわずかしか満足していないからである。そして、自分以外のすべての人々を、自分より、はるかに優れているものと思い、彼らのように神に仕えたいとの願望から、彼らに対して、一種の羨望というべきものを持っている。というのも、彼らは謙遜のうちに歩んでいるのであるから、熱心になるにつれ、また業を行えば行うほど、またそれらに喜びを感じれば感じるほど、神がどれほど多くを受けるに値する方であるか、そして自分が神にしていることが、いかに僅かであるかが、ますますよくわかるようになるからである。それで、神のために多くのことをすればするほど、自分自身に満足しなくなる。愛とまごころによって、神のためにしたいと望んでいることは非常なものなので、自分のしていることなどは、すべてが無としか思えないのである。愛のこの気がかりは彼らをせき立て、彼らをとらえてしまうので、もう他の人が何をしているか、何をしていないかなどということには、全く留意しない。もし、気を留めるとすれば、それはただ、自分以外の人はみな、自分よりもずっと勝っているということだけである。その結果、自ら自分をつまらない者と思い、他人もまた、自分をつまらない者とみなし、無視し、自分のことなどは顧みてくれないように欲するのである。しかも、それだけではなく、人が彼らのことをほめ、尊敬を示すことがあっても、彼らは決してそれを信じることができない。そして、自分たちについて、そのようなよいことを言うことは不思議なことだと思っている。このような人たちは、深い落ち着きと謙遜のうちに、自分たちを進歩させてくれる人なら誰からでも教えてもらいたいと熱く望んでいる。

これと全く反対なのは先に述べた人々の場合で、彼らは人に教えることばかりを望み、誰かが彼らに教えようとしようものなら、そんなことはもう知っている、と言葉をさえぎってしまう。しかし、今言ったような人々は、誰かの先生になりたいなどという望みはみじんも持っていないので、もしも、命じられるならば、今歩いている道を捨てて、直ちに命じられた道に入り、それを歩んでゆく。なぜなら、自分は何事にも的外れであると思い込んでいるからである。他の人がほめられることを、彼らは大いに喜び、ただ自分たちがその人々のように神に奉仕していないことだけを悲しむ。自分のことは話ししたくない、というのも、自分のことなどは、霊的指導者にさえ話すのが恥ずかしいと思うほど、つまらないことと見なしているからであって、自分のことは、言葉を費やす価値すらないものと考えている。それに引き換え、彼らは、自分の徳よりも、自分の過失や罪について語ること、また人々がそれを知ってくれることを望む。それで、自分のことや自分の精神を高く評価してくれない人に自分の霊魂を打ち明けようとする。

これが、単純で、純潔で、真実である霊魂の特徴であって、神のみこころに非常によく適うものである。というのも、このような謙遜な霊魂の中には神の上智の霊が住まわれるので、直ちにその霊魂を動かし、自分の宝は密かに内に貯えさせ、悪は外に出すように仕向けられるからである。なぜなら、神は、この恵みを、他のさまざまな徳と共に、謙遜な霊魂に与えるからであり、傲慢な霊魂にはこれを拒まれるからである。

こういう人たちは、神に奉仕する人のためなら、自分の心臓の血まで与えるであろうし、人々が神に奉仕するためなら、できるかぎりのことをするであろう。そして、自分が陥る不完全の中にあっては、神に希望を置きながら、柔和な精神と、神に対する愛のこもった畏敬のうちに、謙遜にそれを忍んでゆく。

しかし、はじめから、このように完全に歩んでゆく霊魂は、すでに述べたとおり、稀であり、ごくごく僅かである。したがって、人々がこれと反対のほうに陥らないということだけでも、私たちは満足しなければならないだろう。それで、後で述べるように、神は、これらすべての不完全から浄化させたいと思われる霊魂を前進させるために、暗夜の中に置かれるのである。

初心者がもっている不完全②霊的貪欲

これら初心者のうち、多くの者たちは、ときとして、非常に霊的に貪欲でもある。というのは、神が与えられる霊では、ほとんど満足しないからである。彼らは霊的なことの中に、求めている慰めを見出さないので、憂鬱で不満を抱いている。多くの人たちは、勧めを聴いたり、霊的な教えを学んだり、これらのことを扱っている本をたくさん所有したり読んだりすることならば決して飽きることがなく、彼らが実行するはずの抑制や、精神の内的貧しさの徳を身につけるために励むこと以上に、このようなことにもっと時間を費やしている。なお、その上に、彼らは非常に珍奇な画像やロザリオなどをやたらと集めている。今これを捨てるかと思うと、もう他のものを取っている。交換したかと思うと、もうそれを取り返している。今、この形のものを望むかと思うと、今度はあの形のものがよくなり、もっと珍しいからといっては、あちらよりもこちらの十字架を好む、といった調子である。また、他の人々は、「アニュスディ」(祝されたロウ)や聖遺物やお守り札(聖人の名前のリスト)などで飾り立て、まるで装身具で身を飾った子供のようである。こういうことのうちで私が非難するのは、心が物にとらわれてしまうこと、また、色々なものの形や量や珍しさなどに対する愛着である。なぜなら、こういうことは精神の貧しさに大いに反することだからである。精神の貧しさは、信心の本質にのみ目を止めるものであり、信心に役立つ限りにおいてだけ、これらのものを利用するのである。そして、やたらに数量が多かったり、むやみに珍奇であったりすると、かえって疲れてしまう。というのも、真の信心は、心から出るはずのものであって、信心用具が表している真理と本質だけを目指すからである。それ以外のものはすべて、執着と不完全のしるしであって、完徳の何らかの段階に進んでゆくためには、このような欲求はなくならなければならない。2、私は同じ一つの十字架を、十年以上も使っていた人を知っている。その十字架は祝別された枝で無造作に作られてもので、ねじ曲げた留めピンで二本の枝は留められていた。その人は、それを決して手離すことをせず、私が取り上げるまで持ち続けていた。その人は決して知恵や判断力の足りない人ではなかった。また、魚の背骨で作ったロザリオで祈っていた人を見たこともある。彼らの信仰はそれだからといって、神の御前で価値がより少ないものでないということは確かである。なぜなら、これらの人々が、外形や値打ちに信心を持っていないということが明らかにわかるからである。したがって、はじめからよい道を行く人々は、目に見える用具に執着したり、それらをむやみに集めたりすることがなく、業を実行するために知る必要のあること以外は、何も知ろうとしないものである。というのも、彼らの目は、神の望みに適うことと、神をお喜ばせすることの上にのみ注がれているからであり、彼らの望みといえば、ただ、これだけなのだから。それで、彼らは、自分が持っている限りのものを非常に寛大に他人に与える。そして、神のため、また隣人への愛のために、霊的なものであろうと、この世のものであろうと、この世のものであろうと、それらのものなしでいることこそ、彼らの喜びなのである。なぜなら、彼らは真の内的完徳、すなわち、神をお喜ばせし、何ごとにおいても自分を喜ばせないことにのみ目を注いでいるからである。3、けれども、これらの不完全からに、神がこの霊魂をこれから後に話そうとしている暗夜の受動的浄化の中に入れてくださるまでは、自分を完全に浄化することはできない。しかし、自分にできる限り、自らを浄化し、完全になるように努力することは霊魂にとって有益なことである。それは、神があの神的癒しの中に置かれるのにふさわしくなるためであって、神はそこで、霊魂自身にはどうすることもできなかったすべての傷を癒される。というのも、霊魂がどんなに力を尽くしても、もし、神ご自身が今から述べるような方法で、あの暗い火の中で、霊魂を浄めてくださらないならば、霊魂は、完全な愛における神との一致に、自らの手で自分を浄化することはできないからである。

初心者がもっている不完全③邪淫

みだらな衝動についてこの邪淫という悪徳に関しては、彼らは、多くの不完全を持っている。その多くは霊的邪淫とでも呼ぶことができる。なぜなら、たびたび霊的修練の最中において、本人にはどうにも抵抗できないような仕方で、感性の中にみだらな衝動や行為が生じてくるからであり、しかも時としては、精神が深い祈りに沈んでいるときや、ゆるしの秘跡や聖体の秘跡にあずかっているときに起こるからである。これらは、本人には手の下しようのないことであって、次の三つの原因のうちのどれかから生じるのである。

  1. 第一の原因は霊的事柄の中に自然性が見出す喜びからしばしば生じてくる。なぜなら、精神と感覚が喜びを感じるので、その楽しみによって人間の各部分がその部分らしく、またその性質に応じて享楽の方へ動かされるからである。その時、よりすぐれた部分である精神は、神を味わい楽しむように動かされ、より劣った部分である感性は、感覚的な味わいと楽しみの方へと動かされる。なぜなら、より劣った部分は、それ以外のものを持つことも、得ることもできないからであり、したがって、自分に最も近いものを取るのである。すなわち、それは、みだらな官能的な喜びである。それで、霊魂が精神においては神との深い祈りに沈んでいる時、一方では、感覚によって、本人はこれを大いに嫌悪しているのであるが、乱れや衝動や官能的行為を受動的に感じるのである。
  2. 第二の原因は悪魔である。悪魔は霊魂が祈りに沈んでいる時、霊魂を不安にさせ、乱そうとして、自然性の中にこれらのみだらな衝動を起こそうと力を尽くす。もしも霊魂が少しでもそれを気にするなら、それは霊魂にひどい害を与えることになる。なぜなら、霊魂はこれを恐れ、これに対して戦いを始めようとするため、祈りに身が入らなくなるからであって、これはまさに悪魔の望むところである。しかも、そればかりでなく、ある者たちは、すっかり祈りを止めてしまう。彼らには、あのような修行をしているときには、普段よりも余計にそのようなことが起こる。なぜなら、悪魔は彼らに霊的な業を止めさせるために、他の時よりもっと、このようなことを起こすからである。そして、ただそればかりではなく、悪魔は非常に醜いみだらなことを、いかにも生々しく映し出すことすらある。そして、時々、このようなことは、その霊魂の進歩を助ける何らかの霊的な業や人などに密接に関連しているのである。このようにして、悪魔は霊魂に恐怖を与え、縮み上がらせようとする。
  3. 第三の原因は、大抵、このようなみだらな衝動や映像に対して、これらの人々がすでに抱いている恐怖である。なぜなら、彼らが見たり、扱ったり、考えたりしていることの中に、突然に記憶がよみがえってきて恐怖を生じ、その恐怖が彼らの責任ではないこのような行為に関して、彼らを苦しめるからである。

この感覚的部分が、これから述べる暗夜の浄化によって改められるならば、もう、これらの弱さはなくなる。なぜなら、もはや受け入れるのは感覚ではなく、むしろ、霊の中に感覚が受け入れられているからである。その結果、感覚的部分もすべてのことを霊がするような仕方で受け取るようになる。

ある人にもつ好意について

また、ある時には、これらの霊的な人々のうちに、霊的なことを話すにつけ、行うにつけ、自分たちが目の前にしている人々を意識して、度外れて活気づき、自身たっぷりになるようなことが起こる。そして、空しいかかわりを持つのである。これも、実は、霊的邪淫から生まれてくるもので、それは普通、意志の満足感を伴って起こってくる。

霊的な道を歩みながら、これらのうちのある人々は、他の人々に対して愛情を抱くようになるが、それも多くの場合、邪淫から起こることであって、霊からではない。それは、このような愛情を思い起こすことで、神に思いをはせることや、神への愛が大きくなるのではなく、かえって、良心の呵責が増えることによりそれと分かる。なぜなら、愛情が純粋に霊的である場合には、それが増せば増すほど、神への愛が増し、それを思えば思うほど、神を思うことも増し、ますます神を望ませるようになるからである。

霊魂が暗夜の中に入れば、これらすべての愛は正しく整えられる、暗夜は神による愛を強め浄化するとともに、他の愛を除去し、滅ぼし去るからである。しかし、これも最初のうちは、後に説くとおり、この二つの愛のいずれをも見失わせてしまうものである。

初心者がもっている不完全④憤怒

多くの初心者は、霊的喜びの中に持っている欲のため、これらの喜びを持つと共に、憤怒の悪徳に関する多くの不完全をも持っている。なぜなら、霊的なことの中に見出す味わいや喜びが取り去られると、当然、彼らは味気なく感じるからである。そして、自分が感じている味気なさのために、自分のしていることには不機嫌で、どんな小さなつまらないことにも、非常に怒りやすく、時としては、それは周りの人々にとって、耐え難いほどである。このようなことは度々、祈っていたときに、感覚にも捉えられるような、非常に快い潜心の体験をしたあとに起こる。ところが、今は、そのような快い味わいが取り去られてしまったので、自然性は当然、不愉快、不機嫌になる。それはちょうど、幼児が、その味を楽しんでいた乳房から離されたときのようである。このような自然の動きにおいては、この不愉快な気持ちに自分をまかせてしまわない限り、別に罪にはならない。それは、暗夜の無味乾燥と苦しみによって、浄められないといけない不完全である。また、これらの霊的な人々の中には、別の形で霊的憤怒に陥る人もあって、彼らは、他の人々に注意し、他の人々の罪に対して、ある種の熱情にかけられて憤怒する。また、時々は、彼らを腹立たしい気持ちでとがめたい衝動にかられる。そして、時には実際にそうするのであって、その場合、自分こそ善徳の持ち主であるかのように振る舞う。これはみな、霊的温和に反することである。また他の人々は、自分が不完全な者であることに気づくと、不遜にも不忍耐をもって自分自身に対して憤る。このことに関しては、彼らはひどくせっかちで、たった一日で、聖人になりたがっているかのようである。彼らのうちの多くの人は、たくさんの決心をし、偉大なことをもくろむ。しかし、彼らは謙遜でもないし、自分自身により頼むことを止めないため、決心をすればするほど、ますます不完全に陥り、ますます苛立つ。神が望まれる時に、それを与えてくださるのを待つだけの忍耐を持っていないのである。これもまた、前に述べた霊的温和に反することで、これらすべてからは、暗夜の浄化のよらない限り癒されることはない。もっとも、ある人々は、進歩したいという望みに関して、あまりにも気長で、神も、それほどであって欲しいとは思われないほどである。

初心者がもっている不完全⑤霊的貪食

霊的貪食とは、霊的修行に身を委ねるようになった当初、そこに見出す味わいを通じて、初心者に生じるものである。なぜなら、これらの初心者の多くは、この種の修行の中に見出す喜びや味わいに引き付けられてしまって、神が喜ばれる精神の清さや慎みよりも、その霊の味わいの方を求めるからである。それで、これらの味わいを追い求めることのうちにある不完全の他に、彼らが、もうすでに持っている甘い味わいは、徳が育ち固められるのに適した中庸の限界を越えて、極端から極端に彼らを走らせてしまう。そして、秩序もなく、他人の忠告も聞かずに、自分の弱さが耐え得る以上のことをして、ある者は苦業によって自らを殺し、他の者は断食によって衰弱してしまう。彼らは、忠告を聞くどころか、かえって、そのようなことに従わねばならない人を、極力避けようとする。さらに、ある人々に至っては、反対のことが命令されているにも関わらず、あえて、それをやってのけさえするのである。彼らは、不完全きわまりない人々であり、理性のない人間であって、服従と従順とを(これが、理性と賢明さに関する苦業であって、そのために、神にとっては他のどんな苦業よりも最もみ心にかなった快い生贄である)、肉体の苦業の後に置いている。体の苦業は、服従と従順を顧みないならば、野獣の苦業にすぎない。したがって、野獣と同様に、欲求や、そこに見出す喜びによって動かされることになる。このように、すべて極端なことは悪徳であり、このような行き方は自分の意志を行うのであって、徳において進歩するよりも、むしろ悪徳を増すばかりである。なぜなら、このような行いで、霊的貪食と傲慢とを身につけるからで、それは、彼らが従順のうちに歩んでいないからである。彼らの多くは、自分の望みに同意してくれるような霊的指導者に執拗に迫り、力ずくでそのようにさせてしまう。もし思うようにならなければ、子供のように悲しみ、不機嫌になる。そして、したいと思っていたことをさせないと、彼らは自分の好みや自分の意志に依存しているので、これが自分の神だと思っている。ところが、人々が彼らからそれを奪い取り、神の意志に従わせようとすると、彼らはたちまち憂鬱となり、力を落とし、怠りがちになる。彼らは、自分が喜んでいることと、満足していることが、神に奉仕していることであり、神を満足させることだと思っている。そうかと思うと、また他の人々は、この快い味ゆえに、自分自身の卑しさや惨めさに少しも気づかず、神の偉大さに対して払うべき愛のこもった尊敬や畏敬に全く無関心である。それで、頻繁な聖体拝領の許可を得ようと聴罪司祭に迫り、執拗にこれを願うことも辞さないのである。最も悪いことは、キリストの役者であり分配者である人の意見も聞かず、許可も受けずに、大胆にも自分の意見だけに頼って、度々聖体拝領をし、しかも、この事実を隠そうとすることである。彼らが聖体拝領するのは、神を崇め、謙遜な心で神を賛美するというよりも、むしろ聖体拝領のうちに味わいや、ある種の感情を求めているにすぎない。こういう気持ちで一杯になっているので、もし、何の味わいも、感覚的な感動も得られなかった場合には、彼らはまるで何もしなかったように感じる。これは、この至聖なる秘跡がもたらす効果のうち、感覚に触れるようなことは、最も小さいものであることを悟らず、神を非常に低く評価することである。なぜなら、神が与えられる恵みのうち、目に見えない効果の方が、はるかに大きいからである。それで、彼らが信仰の目をこの秘跡の上に向けるように、神は、度々あのような味わいや感覚的喜びを取り除かれるのである。それなのに、彼らは、まるで把握し得るもの、近づき得るものであるかのように、神を感じ、味わいたがる。しかも、それは聖体の秘跡においてだけではなく、他の霊的修業においても同様なのである。これらのことは皆、極めて重大な不完全であり、神の本性にも大いに反するものである。なぜならそれは、信仰において不純なことであるから。彼らは祈りをするときも、これと同様で、祈りの務めは、すべて、感覚的な味わいや信心を見出すことにあると考え、霊魂の諸能力や頭を疲れさせながら、いわゆる腕づくで、これを引き出そうとやっきになる。そして、そのような味わいが見出せなかったときには、自分は何もしなかったのだと考えて悲嘆にくれる。結局、彼らは小さな子供と同じで、理性によって動かされ、行動しているのではなく、楽しみや味わいによって、そうしているのである。彼らは、霊の慰めや味わいを求めているので、本をいくら読んでも読み足らず、今この黙想をしているのかと思うと、こんどはまた別の黙想に移る、という有様で、神に関することにおける楽しみや味わいを追っていく。神がこのような人々に、このような味わいを拒まれるのは、大変正しく賢明なことであり、慈愛のあらわれである。なぜなら、もしこれを拒まれないとすれば、彼らはこの霊的貪食のために、悪徳において限りなく大きくなってしまうからである。したがって、彼らにとって、暗夜に入ることは、極めて必要なのである。このように、これらの味わいや楽しみに傾いている者は、またもう一つの大変大きな不完全を持っている。それは、十字架の険しい道を行くことにおいて、きわめて怠惰で、だらしないことである。それというのも、味わいや楽しみによりかかっている霊魂は、当然のことながら、自己を否定する苦しみ、苦味がつくづく嫌になるからである。私たちの行為の完全さと価値とは、その数の多さや味わいにあるのではなく、それをするに当たって、自分自身を否定することにあると認めなけれればならない。それで、神が彼らを暗夜に入れて、浄めてくださろうとなさるまで、彼らは、自分たちの側からもできる限りを尽くして、この自己否定に努力しなくてはならない。

初心者がもっている不完全⑥霊的嫉妬

嫉妬について言うならば、彼らの多くは大抵、他人の霊的宝を悲しむ衝動に駆られ、この道で、自分よりも他の人々の方がすぐれていようものなら感覚的苦痛を感じ、その人たちが褒められているのは見たくないのである。それというのも、他の人の徳は彼らを悲しくさせるからで、時としては、この反対のことを言わずにいられず、出来る限り、その人たちに与えられた称賛をうちこわそうとする。そして、同じ称賛が自分に向けられないからといって目に角を立てる。なぜなら、何ごとにおいても、優先的に扱われることが、彼らの望むことだから。こういうことは、みな、愛徳に非常に反することである。愛徳は聖パウロが言うように、「真実を喜ぶ」(1コリント13・6)ものである。そして、もし、愛に何かの嫉妬があるとすれば、それは聖なる嫉妬であって、自分には他の人が持っているような徳がないことを悲しむが、同時に、他の人がそれを持っていることを喜ぶ。そして、神への奉仕において、自分には、こんなに足りないところがあるが、他の人がみな、ずっとずっとすぐれていることを喜ぶ。

初心者がもっている不完全⑦怠惰

霊的怠惰に関しても、彼らはより一層霊的なことにはものうさを覚えるのが常であって、それらは感覚的味わいや楽しみに反するような霊的なことなので、それから逃避する。というのも、彼らは霊的なことのうちに、あれほど舌鼓を打っていたので、それらのうちに味わいを見出せなくなると、嫌悪を覚えるからである。ひとたび、祈りのうちに欲求が求めていた満足を見出すことができなかったとすると(なぜなら、彼らを試みるために、遂には神がそれを取り上げることがあるからである)、再び祈ろうとは思わなくなるし、時には、それをすっかり止めてしまったり、いやいやしたりするようになる。こうして、この怠惰のゆえに、彼らは完徳の道(つまり、神のために、自分の意志と好みを否定する道)を、自己意志の味わいと楽しみのあとに置き、そうして、神の意志よりも、自分の意志を満足させるために歩んでゆく。彼らの多くは、自分が欲することを、神も欲するようにと望み、神が欲することを、自分も欲するようにするのは憂鬱で、自分の意志を神の意志に合わせることには嫌悪を覚える。ここから度々、彼らには、自分の望みや好みに合わないようなことは、神の意志ではないと考えたり、また、反対に、自分が満足を感じる場合には神も満足であろうと信じたりすることが起こる。彼らは自分によって神を測るが、神によって自分を測ることをしない。これは、神ご自身、福音書の中で、「神のために自分の意志を失う者はこれを得、それを得ようとする者はそれを失う」(マタイ16・25)と言って教えておられることに反対することである。これらの人々は、また、自分にとって好ましくないことが命令された時にも嫌気を感じる。彼らは、霊の歓喜と味わいの方へと歩いてゆくので、完徳につきものの剛毅や努力を要することに対しては非常にだらしなく、まるで甘やかされて育った人間のように悲し気に逃げ出す。そして、霊の歓喜の宿る十字架につまずくのである。より霊的なことになればなる程、一層嫌悪を覚える。なぜなら、自分の意志の勝手気ままと味わいのうちに、霊的なことに携わろうというのが彼らの念願であるから、キリストが言われた生命に至る「狭い道」(マタイ7・14)に入ることは、彼らにとって悲しみであり、また嫌なことなのである。

初心者がもつ不完全を浄めるため暗夜は必要である

初心者の最初の段階にある人々が持っている数多い不完全のうち、今までに触れたものについて述べるだけで十分である。これによって、神が彼らを進歩者の段階に置いてくださることが、彼らにとって、どれほど必要であるかがよくわかる。すなわち、神が、彼らを、これから述べようとする暗夜に入れられることであって、神はこの暗夜の中で、純然たる無味乾燥と、内心の闇のさなかで、このような味わいや楽しみの乳房から彼らを引き離され、気ままや児戯に類することを、彼らから取り除き、全く別の方法で、徳を修めるようしむけられる。なぜなら、初心者が、どれほど自ら抑制に励み、自分のすべての行為や欲情をとりしまっても、神が、前に述べた暗夜による浄化という方法を使って、受動的に彼らのうちにこれを行われるまでは、完全にはおろか、僅かなこともできないからである。

第一の歌の一行目を解説し、暗夜について説明しはじめる

ある暗い夜に私たちが観想と呼んでいるこの夜は、人間の感覚的部分と霊的部分とに応じて、二様の闇または浄化を引き起こす。その一つの夜は、感覚的なものであり、感覚を霊に適合させながら、感覚によって霊魂を浄める。もう一つの夜は、霊を神との愛の一致へと準備し、これに適合させながら、霊によって霊魂を浄め、赤裸にする。感覚的な夜は普通のもので、多くの人々、つまり、初心者に起こる。それで、まずこの夜について述べよう。霊的な夜は、非常に稀で、すでに修練を積んだ進歩者のものであるから、これはあとで論じる。第一の夜は、感覚にとって苛酷なものであり、恐ろしいものである。第二の夜は、何にも比べようのないほどであり、霊にとって恐ろしいもの、驚くべきものである。順序としても、感覚的な夜が始めに起こるものであるから、まずこれについて簡単に語ろう。これは普通のものであるため、これについて書かれたものは多く見つけられるであろう。しかし、あえてこれを先に説明するのは、霊的夜のことを、一層はっきりと説明したいからである。この霊的夜については、書かれたものも極めて僅かであるし、話されることもまれで、経験する人も非常に少ない。ところで、これらの初心者が、神の道を行く歩み方は低級で、自己愛や、自分の好みにしっかりと結びついている。神は、彼らを前進させ、愛のこの低い段階から、より高い神の愛の段階へと、彼らを引き上げようと望まれる。また神は、感覚や推理の業から神を探し求めている彼らの不完全を解放して、もっと豊かに神と交わることのできる霊的な業の道に、彼らを置こうと思われる。彼らはすでに、ある期間にわたって、黙想や念頭に堅忍しながら徳の道で修練を積んだ。その中で見出した味わいや楽しみによって、彼らは世間的なことは嫌いになり、神からいくらかの霊的力を得て、その力で被造物への欲求をある程度、制御するに至ったのである。これによって、彼らは、以前もっと楽であった時期に後戻りすることなく、神のために少々の重荷や無味乾燥を忍ぶことができるであろう。そして神は、最も良いと思われる時、すなわち、彼らが、こういう霊的修業のなかで、大いに甘味な味わいを楽しんでいる時、そして、神の恵みの太陽が一層明らかに彼らを照らしていると思える時に、この光をすべて闇に変え、これまで彼らが望む時はいつでも、神のうちに味わっていた甘味な霊の水の泉や門を閉じられる。神は、彼らは弱く未熟であったため、今までは、彼らに門を閉じることはなかった。しかし、今、神は、彼らを想像と推理の感覚によって、どこを通って行けばよいかわからないほどの暗闇の中に放置される。神は、彼らをあまりにもひどい無味乾燥の中に放置されるので、彼らは前に常に、楽しみや味わいを見出していた霊的なことや善業の中に、甘味さを見出さないばかりでなく、かえって、そこに苦みや不快を見出すのである。なぜなら、今、神は、彼らがいくらか成長しているのを感じられ、彼らを丈夫にし、赤児のおくるみから引き出すために、彼らを甘い乳房から引き離し、腕から降ろし、自分の足で歩くことに慣れさせようとされるからである。彼らにとって、これは全く真新しいことに感じられる。なぜなら、すべてがひっくり返してしまったように思われるからである。これは、普通、潜心の習慣を身につけている人々に、一層速く起こってくる。なぜなら、彼らは後退する機会から一層遠ざけられているし、この世のものへの欲求を、もっと速く正しく直すことができるからである。大抵の場合、霊的な道に入った後は、この感覚の夜に入るまでに、それほど時間がかからない。そして、ほとんどの人がこの夜の中に入る。この感覚の浄化は、一般的なものであるため、これについては、聖書からいくらでも引用箇所を取り出すことができる。聖書のどの箇所にも、特に、詩編と預言書の中に、多くの例を見出すことができる。それゆえ、その引用に時間を費やそうとは思わない。なぜなら、こういう聖句を見出すことのできない人は、自身の浄化の経験を知れば充分だからである。

この無味乾燥が、感覚的欲求の浄化によるものであるための三つのしるし

しかし、こうした無味乾燥は、前に述べた夜や感覚的欲求の浄化によらず、罪や不完全、または、弱さや生ぬるさ、あるいは悪い気分や肉体的不調からも度々生じる。したがって、こうした無味乾燥が、浄化によるものか、それとも悪徳や肉体的不調のどれからから生じるものであるかを知るためのしるしを記すことにする。それには、三つの主なしるしがある。

  1. 第一のしるしは、神に関することに、何の味わいも慰めも見出さないときに、同じように、どんな被造物に関しても、味わいも慰めも見出さない
  2. 第二のしるしは、日常において、「神のことに何の味わいも感じられないのは、自分は神に奉仕しているのではなく、むしろ、後退しているためだ」などと、気づかいと心配に心を痛めながら神のことを思い起こすことである。
  3. 第三のしるしは、いくら自分のほうで努力をしても、もう今までのようには、想像という感覚を使って黙想することも、推理することもできないことである。

(1について)どんな被造物にも味わいや慰めを見出せない訳は、神は霊魂から感覚的な欲求を取り去り、霊魂を浄化するためにこの暗夜の中に置かれるので、霊魂に、どんなことの中にも甘味さを味わったり、楽しみを見出したりすることが許されていないからである。これによって、この無味乾燥や苦味は、最近犯した罪や不完全の結果おこるものではないことがわかる。なぜなら、もし罪や不完全によって無味乾燥や苦味を感じるなら、神に関すること以外の何かに楽しみを探そうという傾きや望みを自然に感じるはずであるから。しかし、上のことにも下のことにも味わいを見出させないことは、ある種の軽い病気や憂鬱症によって起こることもあるので、ここに第二のしるしと条件が必要になってくる。

(2について)これによって、この無味乾燥が、弱さや生ぬるさからくるものではないことが明らかとなる。なぜなら、生ぬるさの状態なら、神のことに献身することも、神に関することにも心を使うことがないからである。したがって、無味乾燥と生ぬるさとの間には、大きな相違がある。生ぬるさには怠慢があって、神に仕える心遣いがない。それに引き換え、浄化の無味乾燥には、自分は神にお仕えしていないのではないか、という気がかりに、心配と苦悶が加わったものが常に伴う。そして、これは時として、憂鬱症または、その他の気分に助長されることがあるにしても、それだからといって、欲求の浄化という効果が失われることはない。なぜなら、すべての味わいは奪われ、注意は神にのみ注がれているからである。もしこれが、純粋に気分から来るものであれば、すべては不快と自然性の破壊とに走るもので、神に仕えたいという望みは持っていない。けれども、浄化の無味乾燥の場合、感覚的部分は、ごく僅かの味わいしか見出さないために、どんなに落ち込んで、無気力でだれきっていても、精神は敏捷で強固である。

なぜなら、この無味乾燥の原因は、神が、富と力を感覚から霊の方に移されるからである。感覚や、自然的力は、霊的なものを受け入れることができないので、霊が何かを味わい始めると、肉は不快を感じ、飢えと乾きと空虚の中に留まることになる。しかし、食物を受けつつある霊は強くなり、神に対して欠けることのないように注意する点では、前にも増して油断なく熱心になる。もし、その霊魂が、初めにあたって、霊的な甘味や喜びを感じることがなく、無味乾燥と不快に苦しむとすれば、それは、口に今まで慣れ親しんだ感覚的味わいを残し、目もまだ慣れ親しんだ感覚的なものに注がれているからであり、霊的な口の方も、その甘味を味わうために、まだよく整えられていないし、浄められてもいないからである。したがって、暗夜の初めのころは、暗夜に入る前に簡単に味わうことのできた味がないために、ただ無味乾燥と不快とが感じられるだけであって、霊的な味も宝も感じられないのである。

この状態にいる霊魂は、神が砂漠の孤独の中に導き入れられたイスラエルの子らに似ている。神は砂漠で、イスラエルの子らに、あらゆる味をそなえていて、各人の望みのままに味の変わる天からの食物を与えられはじめられた。それなのに彼らは、以前にエジプトで食べたおいしい肉や玉ねぎの味がないことを、天使のマンナが持つ微妙な甘味さよりも強く感じた。それは、エジプトの食物を味わうのに慣れ親しんだ口を持っていたからである。そこで彼らは、天上の食物を受けていながら、肉を求めて泣きわめいた(民11・4~6)。このように、私たちの欲求は、非常に低いものであり、自分の惨めさを望み、至高な天上の宝をいやがり避けさせるほどである。

しかし、無味乾燥が感覚的欲求の浄化の道から来る場合は、霊は最初のうちは、味わいを感じることがなくても、内的な食物が与える力と勇気を感じる。この食物は、感覚にとって、暗く無味乾燥な観想の始まりである。この観想は、隠された秘密のもので、通常、感覚には無味乾燥と空虚を生じさせると同時に、霊魂には孤独と静寂の中にとどまろうとする傾向と望みを与え、霊魂が何か一つのことに考えを集中させることも、そのことを考えたいという望みをもつこともできないようにする。このようなとき、もし、内的または外的などんな業にも気をとめず、何もしようとせず、平和のうちに留まるならば、すぐに、この忘却と無為のうちに、内的食物に養われていることを微妙に感じ取るであろう。この食物は、本当に微妙なものであるため、もし、これを感じ取ろうという望みを持ったり、それに注意を向けたりすれば、もう、それを感じられないのが普通である。なぜなら、この食物は、霊魂のこの上ない無為と無頓着のうちに作用するものであるから。それはちょうど、空気のようなもので、手でつかもうとすると逃げていってしまうのである。

雅歌の中で花婿が花嫁に言った「あなたの目を私からそらしてください。それが私をひきつける」(6・4)という句は、この意味に解することができる。なぜなら、このようにして神は、霊魂をこの段階に置かれ、全く別の道に導かれるからで、もし、霊魂が自分の諸能力を使って働こうとすれば、神が霊魂の中で行おうとしておられることに力をかすよりも、むしろ、これを妨害してしまうことになる。以前にはちょうどこの逆であったのであるが…。その理由は、もはやこの観想の段階においては、すなわち、霊魂が推理から出て進歩者の段階に入ったときには、霊魂の中で働かれるのは、神ご自身であるからである。そのため神は、霊魂の内的諸能力を縛り、理性には頼らせず、意志には甘味さを与えず、記憶からは推理を除かれる。なぜなら、この時期にあたっては、霊魂が自分の力ですることのできる業は、何の役にも立たず、かえって、内的平和を乱し、神があの感覚の無味乾燥の中で霊のうちに行われる御業を妨げるばかりであるから。この平和は、霊的で微妙であるため、穏やかで、繊細、孤独、理想的で平和な業を行うもので、はっきりと感覚に感じ取ることのできた最初のころの味わいとは、似ても似つかないものである。なぜなら、この平和はダビデが言っているように、「霊的なものにするために神が霊魂に語られる平和」(詩85・9)だからである。そして、ここから第三のしるしが生じる。

(3について)想像という感覚を通して神のことを黙想したり推理できない訳は、神はここで、前のように感覚を通してではなく純粋な霊を通して霊魂と交わることを始められるからである。以前は、知識を総合したり分析したりする推理を使って交らわれたのであるが、今では、次から次へと推理がおこることもなく、単純な観想という業をもって霊魂と交わられるからである。この観想は、下級部分の外的また内的諸感覚に達することはない。したがって、想像も幻想も、何かの考えに支柱を見出すことはできないし、その中には、そこから先に進むための足場を見出すことももうできないのである。

この第三のしるしに関して注意しなければならないことは、この諸能力のまひや不快感は、何らかの病的気分から来るものではないということである。なぜなら、こうした気分が原因となっている場合には、その気分がなくなれば―というのも、気分というものは、いつも同じ状態にとどまるものではないから―霊魂はすぐに、ちょっとした努力をするだけで、以前にできていたことも再びできるようになり、諸能力も自分の支えを見出すようになるはずだからである。しかし、欲求の浄化においては、このようではない。この浄化に入り始めると、諸能力を使って推理するということは、ますます不可能になるばかりである。人によっては、それほど継続的に暗夜の中に入ってゆくわけではないため、はじめのうちは、しばしば感覚的な推理や味わいをまだ持っていることがある(というのも、おそらくは、その弱さのゆえに一挙に離乳させることは適当ではないからである)。もしそれが、進歩してゆくべき場合であるならば、絶えず奥へ奥へと浄化の中に分け入り、感覚的な業を滅ぼし尽くしてゆく。なぜなら、観想の道を行かない人の場合には、これと全く様子が違うからである。こういう人においては、この無味乾燥の夜は、常に感覚の中に継続して起こるものではなく、ある場合にはあるが、他のときにはない。また時としては、推理ができないときがあるが、また、できるときもある。というのも、神が彼らをこの夜の中に入らせる目的は、ただ彼らを鍛え、謙遜にし、霊的なことの中に貪食を養わないような欲求を正し直すためであって、観想という霊の道に導くことではないからである(なぜなら、神は、霊の道で意志的に修練に励んでいる者すべてを観想も導かれるわけではなく、その数は、半分にも満たないくらいだからで、その理由は、神のみが知っておられる)。したがって、彼らは、感覚を考察や推理の乳房から完全に断ち切ってしまうことはなく、前に述べたとおり、ある時期と期間にだけ離乳するのである。

感覚的な無味乾燥の中で、とるべき態度について

この感覚的な無味乾燥の時期には、霊的な人々は大きな心配に苦しむ。それは、無味乾燥よりも、道に迷ったのではないかという疑惑である。このとき、今までの習慣通り、諸能力を、何かの推理の対象によりすがらせ、いくらかの喜びを味わおうと躍起になるなら、何も感じることができず、その結果、何もしてないと考え、疲れ果てる。この状態にあるとき行うのによいことは次の通りである。

  1. 苦慮することなく、忍耐をもって耐え忍び、心を安らかに保ち、神に信頼すること
  2. 祈るとき、神に対して愛をこめ穏やかに心を留めることだけで満足し、神を味わったり、感じたりしようと気遣いも、意志も欲望もなしにいること
  3. 諸能力の働きが失われてゆくことを気にかけず、むしろ、それが速やかに失われてゆくことを喜ぶこと

1、この感覚的な無味乾燥の時期には、霊的な人々は大きな心配に苦しむ。それは、無味乾燥よりも、道に迷ったのではないかという疑惑である(この無味乾燥のとき神は、霊魂を感覚の生活から引き出して、霊の生活へ、すなわち、黙想から引き出して観想に入れられる。そこではもう霊魂は、自分の諸能力を使って神のことを推理したり、業を行ったりすることはできない)。そして、どんな善いことにも支えも味も見出せないために、霊的な宝は無くなり、神から見捨てられたと考える。このとき彼らは、今までの習慣通り、諸能力を、何かの推理の対象によりすがらせ、いくらかの喜びを味わおうと躍起になるが、何も感じることがないため、何もしてないと考え、疲れ果てる。彼らはそれを、霊魂の内心の、ひどい嫌気と反発とをもってするのである。霊魂は今まで、躍起になることなしに、あの静けさと無為の中にいることを楽しんでいたからである。このなかにおいて、諸能力を使って神のことを推理し、業を行うならば、彼らは損害を被り進歩することはない。なぜなら、自分の霊を探し求めることによって、静けさと平和の霊を失うからである。彼らは、仕事をするために仕上げた仕事を放り出す人、あるいは、もう一度町に入るために、町から出てゆく人、あるいは、もう一度獲物を捕らえにゆくために、持っている獲物を手放す人に似ている。こういうことは、みな、無駄な努力である。なぜなら、前に述べたように、あのような初めのやり方を使ってでは、もはや何も見出せないからであろうから。

2、こういう時、もしも彼らを理解してくれる人が誰もなければ、彼らは後戻りをして、その道を捨ててしまうか、気力を失ってしまうか、少なくとも、前に進むことを妨げられたりするであろう。というのも、黙想や推理の道を通ってゆこうと、あまりにも懸命になりすぎるからである。そして、彼らの自然性を過度に苦しめ、疲れさせながら、自分の怠りあるいは罪のために、このような状態になったのだと考えている。このようなことは、彼らにとって無駄なことである。なぜなら、神は、観想という他の道によって彼らを導いておられるからである。これは、はじめの道とは全く違ったものである。なぜなら、一方は黙想と推理の道であり、他方は想像にも推理の中にも入って来ないものだからである。

3、この状態で行うよいことは、苦慮することなく、忍耐をもって耐え忍び、心を安らかに保ち、神に信頼することである。神は、単純で、まっすぐな心をもって神を探し求める者を見捨てることはないし、神のもとに彼らを導くまで、この道に必要なものを彼らに与えないようなことは決してしないからである。神は、恩恵を、霊の暗夜の仲介を通じて彼らに与えられるが、それは、彼らが、神によって、この暗夜に入れてもらうのにふさわしい者になったときのことである。

4、感覚のこの夜において、彼らが持たなければならない態度は、推理や黙想に関心を持たないことである。もう、そのようなことをすべき時ではないからである。それよりも、たとい、自分は何もしていず、時間を無駄にしているのだと、自分にははっきり思えても、あるいは、自分の怠惰の結果、何も考える気がしないのだと思えても、今は、霊魂を平和と静けさの中にとどめておかなければならないときである。何もしないでも、忍耐強く祈りのうちに堅忍していれば、それでもう、すでに大したことをしているのである。ここでなすべき唯一のことは、霊魂をすべての知識や思念から解放し、自由に休ませておくことで、その時は、何を考え、何を黙想しようかと気をもむようなことがあってはならない。ただ、神に対して愛をこめ穏やかに心を留めることだけで満足し、神を味わったり、感じたりしようと気遣いも、意志も欲望もなしにいなくてはならない。なぜなら、この懸念はみな、ここで与えられる観想の、穏やかな静けさと快い無為から霊魂を引き離し、不安に陥れるばかりだからである。

5、祈りにおいては、何をすることも、考えることもできないので、たとい、自分は時間を浪費しており、もっと他のことをするほうがよいのではないか、という大きな気のとがめに襲われても、忍耐して静かにしていなければならない。なぜなら、祈りにゆくのは、他でもない、喜悦と霊の自由の中に留まっているためなのだから。というのも、もしも自分の方から内的諸能力を使って何かをしようとするならば、それは、あの霊魂の平和と無為とを通して神が据え付け、刻みこまれる宝を、望が意志、失うばかりであるから。それはちょうど、画家が一つの顔を描いたり、色をぬったりしているようなもので、もしその顔が何かをしようと動くならば、画家には何もできなくさせてしまうし、今まで描いていたものも台無しにしてしまうであろう。同様に、霊魂が内的平和と無為の中に留まることを欲しているときに、なおも何かの業や愛情を持とうとしたり、何かに留意しようとするならば、それは霊魂を散心させ、不安に陥れ、感覚の無味乾燥と空虚とを霊魂に感じさせるであろう。なぜなら、愛情や知識に支えを見出そうとすればするほど、もはやこの道では満たすことのできない空虚を、ますます感じるであろう。

6、したがって、このような霊魂にとって適当なことは、諸能力の働きが失われてゆくことを気にかけず、むしろ、それが速やかに失われてゆくことを喜ぶことである。それは、神が与えようとしておられる注賦的観想の働きを妨げることなく、平和のうちに、より豊かにそれを受けるため、そして、このほの暗い秘密の観想がもたらして、霊魂に天火する愛が、霊の中に燃え上がり、燃えしきる余地を与えるためである。なぜなら、観想とは、神からの愛と平和に満ちた秘密の注賦に他ならないからであって、観想にその余地を与えるならば、霊魂を愛の霊のうちに燃え立たせる。それは、霊魂が詩の次の一行によって表しているとおりである。すなわち、

愛にもだえ炎と燃え立ち

霊魂の歌の三行の説明

愛にもだえ炎と燃え立ち

初めはこの愛の燃焼を感じないが、霊魂がこの夜を進めば進むほど、自分がますます神の愛に燃え、神の愛に熱中していることを感じるようになる。ところが、このような愛や愛情が、どこからどのように生まれるかは理解できない。時として、自分の内にこの炎が燃焼が非常に大きくなり、愛のもだえのうちに神を熱望するようになる。

おお、すばらしい幸運!

神が入れてくださったこの夜を通して、感覚的束縛から抜け出たことを、すばらしい幸運とみなしている。

気づかれずに、私は出て行った

この「出た」とことばにより、感覚的部分に束縛され、非常に弱々しくされた霊魂が、非常に煩わしく危険な働きによって神を探し求めていたことをわからせる。そしてこの夜を通して、霊魂は、すべてのことに関する欲求と愛情を消し去ることができたのである。

愛にもだえ炎と燃え立ち

この愛の燃焼は、自然性の不純さの故に、燃え上がるまでには至っていないため、あるいは、前に述べた通り、霊魂が自分自身を理解していない結果、自分のうちに愛の燃焼に必要な平和な場所をつくっていないため、大抵の場合、初めはそれを感じないものであるが(時としては、このようなことがあろうがなかろうが、神に対する何らかの焦燥を直ちに感じ始めることもあるが)、霊魂は進めば進むほど、自分がますます神の愛に燃え、神の愛に熱中しているのを感じ取るようになる。ところが、このような愛や感情が、いったいどこから、どのようにして生まれてくるのかは知ることも理解することもない。時として、自分のうちに、この炎と燃焼が非常に増大していくのを見、愛の焦燥のうちに神を熱望するようになる。ダビデは、この夜の中に居て、自分自身について次のような言葉をもって、このことを言っている。「私の心は燃え上がったので―すなわち、観想の愛において―私の腎臓も変わった」(詩編73・21)と。これは、感覚的な生き方から霊的な生き方に移ったことを意味し、それは無味乾燥と全ての欲求の停止ということである。ダビデは続けて言う。「そして私は無に帰せられ、滅ぼしつくされたが、私はそれを知らなかった」と。なぜなら、霊魂は自分がどこを通っているのかも知らずに、今まで味わうのを常としていた上の事すべてについても、下の事すべてについても、全く無に帰せられている自分を見出すからである。そして、それが、どのようにしてであるかわからないが、自分が愛に燃え立っていることだけに気が付くのである。そして、時として、この愛の燃焼は、霊の中であまりにも激しくなるので、すなわち、神に対する焦燥は霊魂の中で非常に大きいので、この渇きの中で骨はひからび、自然性は麻痺し、その力と熱は愛の渇きの激しさのあまり、消え衰えてしまうかと思われるほどである。というのも、霊魂は、この愛の渇きが生きているものであることを感じるからである。ダビデが「私の魂は生ける神に渇いている」(詩編42・3)と言ったとき、彼はこの渇きを持ち、感じたのであって、それは「私の魂が覚えた渇きは生ける渇きであった」というほどの意味である。この渇きは、生きている渇きであるために、私たちは、これが霊を殺す、ということができる。しかし、注目すべきことは、この渇きの激しさは、継続的ではなく、いくらかの渇きをいつも感じるとはいえ、時々起こるだけである、ということである。

ところで、はじめのうちは、普通、この愛を感じることはなく、無味乾燥や空虚を感じるということに注意したい。その時、やがて燃え上がってゆく愛の代わりに、あの無味乾燥と諸能力の空虚さの中で霊魂が持っているのは、自分は神に奉仕していないという、悲しみと危惧を伴った神に対する不断の注意と心遣いである。霊魂が、神への愛ゆえに悲嘆にくれ、心配しながら進んでゆくのを見るのは神にとって、少なからず、み心を喜ばせる生贄である(詩51・19)。あの秘密の観想が、この注意と気遣いを霊魂に置くのである。それはしばらくの間、観想が霊魂に与える無味乾燥によって、自然的な力や愛情から感覚が、すなわち、感覚的部分が、いくらか浄化されて、この神的愛が霊の中に燃え立つまでのことである。しかし、その間は、ちょうど治療を受けている病人のようで、霊魂にとっては、このほの暗く、乾燥した欲求の浄化の中では、すべては苦しみである。霊魂は、自らを、前に述べた愛にふさわしいものとするために、多くの不完全から癒され、多くの徳を身につけるのである。それは、詩の次の一行について説かれる通りである。すなわち、

おお、すばらしい幸運!

神は、下級部分の感覚を浄化し、霊に一致させるために、感覚を暗くし、推理をやめさせることによって、霊魂を感覚の夜の中に置かれる。またその上に、もっとあとでは、ついに霊を浄化し神と一致させるために、霊魂を霊的夜の中に置かれるため、霊魂は―たとえ、自分はそうとは思えなくても―この夜から多くの利益を受けるのである。そして、この夜を通して、下級部分の感覚の束縛や絆から抜け出たことを、すばらしい幸運と見なすのである。それで霊魂は、この一行、すなわち、「おお、すばらしい幸運!」と言うのである。この、すばらしい幸運に関しては、ここでは、この夜の中で霊魂が見出す数々の利益を記しておくのがよいであろう。これらの利益ゆえに、霊魂は、この夜を通り抜けることは実にありがたい幸運だと感じている。これらの利益すべてを、霊魂は次の一行の中に含ませている。すなわち、

気づかれずに、私は出て行った

この「出た」とことばにより、感覚的部分に束縛され、非常に弱々しくされた霊魂が、非常に煩わしく危険な働きによって神を探し求めていたことをわからせる。というのも、七つの罪源のところで述べた通り、一歩ごとに、無数の不完全と無知につまずいていたからである。この夜が、上よりのものであろうと、下よりのものであろうと、すべての味わいを消し去り、すべての推理を暗くし、徳を得させるために、この他の数えきれないほどの多くの善を霊魂にもたらすことによって、霊魂は、これらすべての不完全や無知から解放されるのである。霊魂には、非常に苛酷で、逆行するように思われること、そして、霊的喜悦には、まったく逆と見えることが、どうして霊魂の中に、こんなにも多くの善をもたらすのかを知るのは、この道を通って歩いている者にとって、大きな慰めに満ちたことであり、喜ばしいことである。これらの善は、この夜を通して霊魂が愛情や働きに応じて、一切の被造物から離れ、永遠のものに向かって歩いてゆくことによって獲得されるものであり、それは大きな幸福であり、幸運である。その一つは、すべてのことに関する欲求と愛情を消し去るという大きな善のためであり、他の一つは、私たちの救い主が言われたような(マタイ7・14)、生命へ導く狭い門を通り、細い道を通って入って行くことを耐え忍び、そこに堅忍する者は、ごく僅かであるからである。というのも、狭い門とは、この感覚の夜のことだからであって、そこに入るために霊魂は、感覚のすべてとは縁のない信仰に根差して感覚を脱ぎ捨てて赤裸になる。これは後に、狭い道を通って歩いて行くためであり、この細い道とは、もう一つの、霊の夜のことである。純粋な信仰のうちに、神の方に向かって歩いて行くために、霊魂は後に、ここに入る。この純粋な信仰こそ、霊魂が神と一致するに至るための手段である。この道は極めて狭く、暗く、恐ろしいので―その暗さや困難さは、感覚の夜とは比べものにならない―、この道を通って歩いて行く人は極めて少ない。しかし、その利益は、感覚の夜のとは比較しようもないほど優れて大きいのである。感覚の夜の利益について、今、いくらか話そうと思うが、それはできる限り簡潔にし、そして、もう一つの夜の方に移って行こうと思う。

この夜が霊魂にもたらす利益について

  1. 自分自身と自分の惨めさについての認識
  2. 神との交わりに際して、霊魂は、もっと慎み深くなり、もっと礼儀正しくなる
  3. 感覚的暗夜によって、神は霊魂を照らし神的英知のうちに教え導いてゆかれる
  4. この夜を通して、霊魂は謙遜になる。以前と違って、自分のほうが他の人よりも優れていると思ったり、勝っていると考えたりすることに対して、第一衝動すら起こらなくなる
  5. 隣人愛:他人を尊敬することから生まれる
  6. 霊的な道における服従と従順:自分がどんなに惨めなものであるかをよく知ることにより生じる

霊魂にとって幸運であるこの夜と欲求からの浄化は、霊魂に多くの善と利益とをもたらすものであるから(もっとも、霊魂にはかえってそれらが奪われるかのように思われるにしても)、アブラハムが、その子イザクの離乳の日に、大祝宴を催したと同じように(創21・8)、天においては、神がこの霊魂をむつきから取り出され、腕からおろして自分の足で歩かせ、父や、やわらかくて甘い幼児食の代わりに固い皮のついたパンを食べさせたこと、そして、その霊魂が頑丈な人の食物を味わい始めたことが喜ばれている。事実、この食物は、感覚のこれらの暗闇と無乾燥の中で、感覚の甘い汁から空虚となり乾いている霊に与えられ始めるのであって、これがすなわち、前に述べた、注賦的観想なのである。

これが、乾燥のこの乾ききった暗い夜がもたらす第一の、そして主要な利益である。それは、自分自身と自分の惨めさについての認識である。というのも、神が霊魂に与えられるすべての恩恵の他に(通常、神はそれらをこの認識の中に包んで与えられる)、以前に感じていた豊かさに対する諸能力の、これらの無味乾燥と空虚、そして、霊魂が善行の実行に際して見出す困難は、すべてがうまくいっていた時期には気がつかなかった自分の惨めさと、卑しさとを霊魂に認識させるからである。

これについては、出エジプト記(33・5)の中に、良い例がある。すなわち、神は、イスラエルの子らをへりくだらせ、彼らに自分をわきまえることを望まれ、彼らが今まで普通、砂漠の中で着ていた祭りの日の衣服と装飾とを取り去って脱ぎ捨てることを命じられた。神は、「今からは、祭りの日の晴着を脱ぎ、日常の仕事着を身につけよ。それは、お前たちが、自分にふさわしい待遇をわきまえ知るためである」と言われた。これは即ち、「お前たちが着ている着物は、祭りと喜びの日の着物であるから、自分たちが本来どれほど卑しいものであるかをお前たちに悟らせなさい。だから、その着物を脱いでしまえ。それは、これから先、自分が卑しい服を身につけているのを見ることによって、それ以上のものを着るのは自分にはふさわしくないこと、自分は何者であるかということがわかるためである」と言われたようなものである。これによって霊魂は、前には知らなかった自分の真実の惨めさを知るようになる。というのも、神の中に多くの味わい、慰め、支えを見出して、晴着を着て歩いていた頃は、自分はいくらかなりと、神に奉仕しているような気がして、大いに満足し、喜んでいたからである(というのも、その時は、それをはっきりと自覚しているのではないが、少なくとも味わいのうちに見出す満足感が、いくらかこういう考えを起こさせるからである)。ところが、今、無味乾燥と「よるべなき」の仕事着を着て、はじめて光が闇になると、霊魂は、自己認識というこのきわめて優れた、必要不可欠の徳のうちに、これらの光をより真実に、より豊かに持つようになる。霊魂はもはや、自分を何のものとも思わず、自分に対して決して満足感を覚えることもない。なぜならば、自分からは何もしないし、また、何もすることができないことが分かるからである。霊魂が前に持っていた当初の味わいや、行っていたすべての業、たとえ、それらがどんなにたくさんであったとしても、神は、それらよりも、霊魂が抱いている自分自身に対する不満足と、自分は神に奉仕していないのだと思う悲しみのほうを、すべてに越えて高く評価し、尊重される。あのような業や味わいにおいては、霊魂は、多くの無知と不完全に多くの機会を与えたのである。この乾燥の着物からは、すでに述べたものだけではなく多くの利益も、そして、述べ切れずにおかれるその他の多くの利益も生じてくる。それは、その泉、本源として、自己認識から湧き出てくるからである。

その第一には、神との交わりに際して、霊魂は、もっと慎み深くなり、もっと礼儀正しくなる、これは、至高の御者との交わりには、常になくてはならないものである。ところが、霊魂が味わいたいと慰めに満たされていた時には、これはなかった。なぜなら、霊魂が感じたあの快い味わいは欲求をして、神に関して必要以上に大胆にさせ、慎みも謙遜もなくさせたからである。これはちょうど、モーゼにおこったことで(出エジプト3・2~6)、神が、自分に話しかけられたことを感じたとき、彼は、あの味わいや欲求に目がくらんでいたので、もし、神が彼に、立ち止まって、靴を脱ぐように命じなかったらば、彼は何の思慮もなく、あえて神に近づいたことであろう。これによって、神との交わりには欲求を赤裸にし、敬意と慎みとをもって臨まなければならないことが示されている。モーゼは、この命令に服したとき、大変思慮分別のある者になったのである。それで、聖書によると、彼は敢えて近づこうとはしなかったばかりでなく、目を揚げることさえしなかったのである。なぜなら、それは、欲求と味わいの靴を脱ぎ捨てることによって、神の御前で自分の惨めさを深く悟ったからであって、これこそ、神のみことばを聞くのに、ふさわしいことであった。これと同様に、神はヨブにも、彼と話しをするために準備させられたが、それは、ヨブ自身が言っているような、彼が神のうちに見出すのを常としていた喜悦や光栄のうちにではなく(ヨブ1・1-8)、かえって、彼を芥の中で裸にし、捨てられた状態にし、さらには友人たちからは迫害され、苦悶と悲痛に満たされ、地は蛆だらけになっているという有様の中であった(ヨブ29、30)。「貧しい者を芥の中から上げられる」(詩13・7)至高の神は、こうしたさなかに、低く降られ、顔と顔を合わせて彼と語られ、彼にご自身の英知の測り知れない崇高さをあらわされるという仕方で、自らを示されたが、そのようなことは、彼が隆盛であった時には決してなかったことであった(ヨブ38~42)。

ここで、この夜と感覚的欲求の無味乾燥の中にある他のすぐれた益についても述べるべきであろう。それはすなわち、(「あなたの光は闇の中に輝きのぼる」(イザヤ58・10)との預言者のことばが実現するためであるが)、この感覚的欲求の暗夜において、神は霊魂を照らされるであろう、ということである。それは、単に霊魂に自分自身の惨めさ、卑しさについての認識を与えることによってである。なぜなら、感覚的な欲求や味わいや支えが消えてなくなってしまうと、理性は純潔に、また、自由になって、真理を悟るにふさわしくなるからである。感覚的な味わいや欲求は、たとえ霊的なことに関するものであっても、霊を眩ませてこれを妨げるからであり、それに引き換え、感覚の無味乾燥と動きのとれない状態は、イザヤが言っている通り(28・19)、さらに、理性を照らし活発にするからである。この困惑によって、神は次のことをわからせてくださる。すなわち、空虚で障害の除かれた霊魂の中において―神的作用には、この空虚であることと、障害の除かれた状態であることが要求される―神はどのようにして、観想のこの暗く無味乾燥の夜を通して、超自然的に、霊魂を神的英知のうちに教え導いてゆかれるか、ということをわからせてくださるのである。このようなことは、最初の頃の甘い汁や味わいによってはわからせてくださらなかった。

このことを、同じ預言者イザヤが、次のように述べながら、非常によく教えてくれる。「神は、誰にご自分の知識を教えようとしているのか?また、誰にみことばを悟らせようとしているのか?それは乳離れした子に、乳房を離れた子にである」(28・9)と。これによって、この神の働きを受けるためには、最初の頃の霊的甘味の乳もいらず、霊魂が味わうのを常としていた感覚的諸能力による甘味な推理の乳房に頼ることもいらず、かえって、前者がなくなることと、後者を断念することが必要であるということが明らかになる。それ故、神を聴くためには、霊魂は自分の足でまっすぐに立ち、感覚も愛情も離脱しきっていなければならない。それは、預言者が自分自身について言っている通りである。彼は言う、「私は、私の見張り所に立ち―これは即ち、欲求を捨て、の意である―、しっかりと足を地につけて歩こう―これは即ち、感覚を使って推理せずに、の意である―、それは、神から私に告げられることを観想する―すなわち、理解する―ことができるためである」(ハバクク2・1)と。これで、この乾ききった夜から、まず、自分自身についての知識が生じ、そこから、神についての知識が生じることが明らかになった。だからこそ、聖アウグスティヌスは神に向かって言ったのである。「主よ、私に私自身を知らせてください。そうすれば、私はあなたを知るに至るでしょう」(ソリロキア2)と。哲学者たちが言う通り、一つの極端は、他の極端によって知られるからである。

霊魂がここで、神から受け取ると私たちが言うあの光を、もっと豊かに受けるために、無味乾燥と孤独の中にこの感覚の夜が持っている効果をより完全に明らかにするために、ダビデの句を引用しよう。その句の中には、神のあの崇高な知識に触れるために、この夜が持っている大きな効果がはっきりと描かれている。彼は言う。「水のない乾いた地、道もない荒れ果てた地で、私はあなたの御前に出る。あなたの力と栄を見ることができるために」(詩63・3)と。ここで、ダビデが以前持っていた多くの霊的喜悦や味わいが、神の光栄を知るための準備であり手段であると言わずに、かえって「乾いた荒れ地」という句のうちに表している。感覚的部分の無味乾燥と支えなしの状態がそれである、と言っていることは、まことに驚嘆すべきことである。さらに、彼が盛んに用いていた神についての概念や推理が神を見、感じるための道であるとは言わず、かえって、「道なき地」という句で表している。神について考えることのできないこと、また想像力を使ってする考察の推論によって歩むことのできないことが、それである、と言っていることも、全く驚嘆に値する。このように、神を知り、自分を知るためには、このような無味乾燥と空虚とを伴う暗夜がその手段である。ただし、ここで得られる知識はもう一つの精神の夜のそれほど完全でも豊富でもない。なぜなら、ここでの知識は、もう一つの夜で得られる知識の糸口のようなものだからである。

霊魂はまた、この欲求の夜の無味乾燥と空虚の中にあって、霊的謙遜を引き出す。これは、霊的傲慢と言った第一の財源とは正反対の徳である。霊魂は、前に述べた自己認識によって獲得するこの謙遜を通して、何もかもうまくいっていた時代に、この傲慢の悪徳に関して陥っていたあの不完全のすべてかた浄められる。なぜなら、霊魂は、自分が非常に乾ききった惨めなものであることを知っているので、以前と違って、自分のほうが他の人よりも優れていると思ったり、勝っていると考えたりすることは、第一衝動すら起こらなくなるからである。それどころか、反対に、他の人々のほうが、ずっと自分より優れているということを認めるようになる。

そして、ここから隣人愛が生まれてくる。なぜなら、他の人々を尊敬するようになったからであり、自分は非常に熱心であるのに引き換え、他の人は少しもそうでないと思っていた頃にいつもしていたようには、もう、他の人々を裁くようなことはしないからである。ただ自分の惨めさのみを知り、それは目の前から離れない。それで、決してそれを忘れるようなことはなく、また他の人の上に目を注ぐだけの余裕もないくらいである。このことをダビデは、自らこの夜のさなかにあって、鮮やかに述べて言う。「私は黙し、卑しくされ、よいことのうちに沈黙を守った。私の苦しみは一変された」(詩39・3)と。彼がこう言ったのは、彼の霊魂の善いものがすっかりなくなってしまったように思えたからであり、それについて言うべき言葉もなく、またそのような言葉を見出すことも出来なかったばかりでなく、自分の惨めさを知って、あまりにも苦しんでいたため、他の人の善いことについて黙想したのである。

ここにまた、霊的な道における服従と従順が成立する。霊魂は、自分がどんなに惨めなものであるかをよく知っているので、ただ、教えられることに聴き従うばかりでなく、誰かが自分に道を示し、自分がしなければならないことを言ってくれるように望むようになる。ことが思いのままになっていた時に、時々起こしたような感情的なうぬぼれは、彼らから奪い去られたのである。そして、遂には、第一の罪源である霊的傲慢のところで述べたような、その他の不完全も全部、これと一緒に一掃されてしまう。

この夜が霊魂にもたらすその他の利益について

  1. 霊的貪欲はすっかり改めらる
  2. 霊的邪淫から解放される
  3. 霊的貪食から解放される
  4. 自分は霊的な道を後戻りしているのではないか、という怖れと憂いのうちに、思いを絶えず神に向けるようになる
  5. 忍耐や寛容の徳を修める
  6. 諸徳が修練される:剛毅の徳、対神徳をはじめ、枢要徳、倫理徳など
  7. この夜を通して、平和を楽しむこと、絶えず神を思い、神に心を寄せること、霊魂の清さ、諸徳の修練という利益を獲得する。
  8. 憤怒と嫉妬と怠惰という不完全と正反対の徳を獲得する
  9. 神は度々、霊魂が思いもかけないときに、霊的甘味や、純粋愛や、霊的知識などを霊魂に与える。
  10. 霊の自由を獲得し、霊魂は、悪魔と世間と肉と言う三つの敵の手から解放される。

霊的なことを、あれもこれもと貪り、その中に見出す欲求や味わいの欲にひかれて、この修練にも、あの修練にも決して満足を覚えることのなかった霊魂は、今は、この乾ききった暗夜の中で、霊的貪欲に関して持っていた多くの不完全について、すっかり改められてゆく。それは、霊的なことの中で、今までのような喜悦や味わいを見出すことがなく、かえって、味気無さと苦しみを見出すので、非常な節度をもって霊的なことを行うようになるからである。神は、この暗夜の中に置く人々に、通常、謙遜と敏捷さの徳を与えられる。それには味気無さが伴っているが、それは、命じられたことを、ただ神のためにのみ行うためである。そして、多くの霊的なことは、もうそこに味わいを見出せなくなったので、二度と利用としなくなる。

霊的邪淫に関しても、霊魂が霊的なことの中に見出す感覚のこの無味乾燥のために、先に述べたような多くの不純から解放される。というのも、普通、この不純は、霊から感覚の中に溢れ出た喜悦に由来するからである。

ところで、霊魂がこの暗夜の中で、第四の罪源、すなわち、霊的貪食に関して解放されるさまざまな不完全については、先に述べたところで知ることができる。ただし、そこで、そのすべてが述べられているわけではない。なにしろ、その数は数えきれないほどであるから。それで、私はここでも、それについて詳しく述べるつもりはない。なぜなら、重大なことばや教えを述べなければならない、もう一つの夜の方に移るために、もう、この夜については、打ち切りたいと思うからである。霊魂が、この夜の中で、この霊的貪食という悪徳に関して、先に言ったもの以外、数えきれないほどの利益を獲得するということを理解するためには、前に述べたような、すべての不完全から解放されるということ、そして、そこには記さなかったもっと数多くの、そして、もっと甚だしい悪や憎むべき醜いことからも解放されるということを言えば十分であろう。経験が教えるように、多くの人々がこのような不完全に陥ったのは、霊的貪食に関する欲求を改めなかったからである。というのも、神が霊魂をこの乾ききった暗夜の中に入れられると、情欲は抑えられ、欲求は制されるので、霊魂はもう、上のことにも下のことにも、どんな味も感覚的な喜びを味わえなくなってしまうからである。しかも、これはいつまでも続くので、霊魂はその情欲と欲求に関して抑制され、改善され、制御されてしまう。そうして、情念と情欲の力を失い、味わいとは縁のない不毛なものとなる。それはちょうど、誰も乳房から乳を吸わなくなると乳を出さなくなるのに似ている。このようにして、霊魂の欲求が枯渇すると、この霊的節制を通じて、他に驚くべき利益が次々に霊魂の中に現れてくる。なぜなら、欲求と情欲とが消え去ると、霊魂は霊的な平和と静けさのうちに生活するようになるからである。というのも、欲求と情欲の支配していない所には乱れがなく、ただ、神よりの平和と慰めがあるだけである。

ここからまた、もう一つの、第二の利益が生じてくる、それは、自分は霊的な道を後戻りしているのではないか、という怖れと憂いのうちに、思いを絶えず神に向けていることである。これは、欲求のこの無味乾燥と浄化における大きな利益であって、決して小さいものではない。というのも、霊魂を鈍くし、暗ませる欲求と愛好によって霊魂にこびりついた数々の不完全から、霊魂が浄められるからである。

この夜には、霊魂にとって非常に大きな他の利益も含まれている。それは、たとえば、忍耐や寛容などの徳を修めるようになることである。これらの徳は、この空虚と無味乾燥の中でよく修練される。また、神への愛にも大いに進歩する。なぜなら、業の中に見出す喜悦にひきつけられたり、味わいを覚えたりすることによって動かされるのではなく、ただ神のためにのみ行うからである。ここでまた、剛毅の徳も修練される。なぜなら、霊魂は、その業の中に見出す味気無さと困難のさなかにあって、弱さから力を引き出し、強いものとなるからである。そして最後に、霊魂は、この無味乾燥の中で、対神徳をはじめ、枢要徳、倫理徳などのあらゆる徳によって、肉体的にも霊的にも修練されるのである。

この夜を通して、霊魂は今述べた四つの利益を獲得する。すなわち、平和を楽しむこと、絶えず神を思い、神に心を寄せること、霊魂の清さ、そして、先に述べたばかりの、諸徳の修練である。ダビデは自らこの夜を経験し、次のように言っている。「私の魂は慰めを拒んだ。神の思い慰めを見出し、自らを鍛え、そうして私の霊は弱り果てた」(詩77・4)と。そして、すぐに言い添えている。「私は夜、心に思いを起こし、自らを鍛え、私の霊を掃き浄めた」(詩77・7)と。これはすなわち、すべての愛好からの浄化の意味である。

先に述べた他の三つの霊的悪徳、つまり、憤怒と嫉妬と怠惰の不完全に関しても、霊魂は、この夜の中で自らを浄め、これらの悪徳と正反対の徳を獲得する。なぜなら、この夜のさなかにおいて、神が霊魂を鍛えられるこの無味乾燥や困難や、その他の誘惑や労苦によって、柔和にされ、謙遜にされた霊魂は、神に対しても、自分自身に対しても、また隣人に対しても柔和になるからである。それで、もはや自分の欠点について自分自身に対してひどく腹をたてることもなく、他の人の欠点について隣人に怒ることもなく、神が自分を速やかに聖人にしてくださらないからといって、神に対して横柄な不平不満を抱くこともなくなる。

それで、嫉妬についても、今は、他の人々に対して愛徳を持っている。なぜなら、たとえ多少の嫉妬を持っているにしても、それは他の人が自分よりも重んじられ、自分より優れているのを見て苦しんだ頃のとは違って、邪悪なものではないからである。というのも、今では自分がどんなに惨めなものであるかをよく知っているので、喜んで他の人の優位を認めるからで、その嫉妬は―もし、それを感じるとすれば―それらの人々に倣いたいと望む聖なる嫉妬で、これは非常に大きな徳である。

霊的で感じる嫌悪や倦怠も、やはり、以前のように邪悪なものではない。なぜなら、以前のは、時として、霊魂が持っていた霊的味わいから来たものだったからである。そして、それが見出せないときには、霊魂は何とかしてそれを持とうと努めたのであった。しかし、ここで感じる倦怠は、この喜悦の不足を原因とするものではない。なぜなら、欲求のこの浄化においては、神は、これらのすべてのことに関する味わいを霊魂から奪いとってしまわれたからである。

今まで述べたいろいろの利益の他にも、この乾ききった観想を通じて、他の数えきれないほどの利益が得られる。なぜなら、この無味乾燥と試練のさなかに、神は度々、霊魂が思いもかけないときに、霊的甘味や、純粋愛や、霊的知識などを霊魂に与えるからである。時としては、非常に繊細な霊的知識を与えられる。これらの一つ一つは、以前に味わったものよりも、ずっと有益で、価値の高いものである。とはいえ、初めのうちは、霊魂はそのようには思はない。なぜならば、ここで与えられる霊的作用は繊細であるため、感覚はそれをとらえることができないからである。

最後に、霊魂はここで、感覚的欲求や愛好から浄められるので、霊の自由を獲得し、次第に聖霊の十二の果実をわがものにするようになる。さらにまたここで霊魂は、悪魔と世間と肉と言う三つの敵の手から見事に解放される。なぜなら、あらゆることに関する感覚的喜悦や味わいが消え去ると、悪魔も世間も肉も、霊を攻撃する武器も力も失うことになるからである。

したがって、この無味乾燥は、神の愛の中を霊魂が純粋に歩むようにさせる。なぜなら、今は、以前喜悦を味わっていた頃におそらくそうしていたように、その業が与える味わいや楽しみによって、その業のほうに動かされることがなく、ただ、神を喜ばせるためにだけ業を行うからである。何もかも、うまくいっていた時には、おそらくそうであったように、うぬぼれたり、自己満足に陥ったりすることなく、かえって、自分に対しては疑い深く、恐れを抱き、自分自身に満足することなどはみじんもない。ここに、聖なる畏れがあるのであって、この畏れは徳を保ち、それを増す。また、この無味乾燥は、すでに述べたとおり、情欲や自然的な活力を消し去ってしまう。なぜなら、ここでは、もしそれが、神ご自身が時として霊魂に注がれる喜悦でなりならば、霊魂が何かの霊的な業や修練の中に、自らの努力によって、感覚的喜悦や慰めを見出すことなどは、前にも言ったとおり、ほとんどあり得ないことだからである。

この乾ききった夜の中では、神に対する注意と、神に仕えたいという焦燥とが増す。なぜなら、霊魂が依存し、欲求を養い育てていた官能の乳房が、ひあがってゆくと、無味乾燥と赤裸の中に残るのは、ただ、神に仕えたいという熱望だけだからである。これは非常に神を喜ばせるものである。なぜなら、ダビデが言っているように、「悲嘆にくれる霊は、神のための生贄である」(詩51・19)から。それで、霊魂は、自分が通ってきた、この無味乾燥の浄化において、今まで述べたような大変貴重な利益を、これほどたくさん引き出し、獲得したことを知ったのであるから、私たちが解明してきている歌の中の、先に揚げた三行で、決して言いすぎているのではない。すなわち、

おお、すばらしい幸運!
気づかれずに 私は出て行った

これは、感覚的な欲求と愛好の束縛と隷属から、気づかれずに出た、つまり、前に述べた三つの敵に妨げられることなく脱け出した、ということである。前にも言った通り、これら三つの敵は、まるで綱でするかのように欲求と喜悦で霊魂を縛り上げ、神の愛の自由のほうに向かって自分自身から抜け出てゆかないように、引き止めてしまう。前に述べたとおり、これらの欲求や喜悦がなければ、三つの敵は霊魂を攻撃することはできない。

こうして、不断の抑制によって、霊魂の四つの欲情、すなわち、喜悦、悲嘆、希望、恐怖がしずめられ、絶え間ない無味乾燥が感性の自然的欲求を眠らせ、感覚と内的諸能力は完全な調和のうちに保たれ、その推理的腹ら気を停止する。これは、たとえて言うなら、霊魂の下級な部分の部屋とそこに住んでいるすべての人のようなもので、これを、霊魂は、我が家と呼んで、次のように言う、

我が家はすでにしずまったから…

第一の歌の最後の行の説明

我が家はすでにしずまったから…霊魂の下級部分の官能の家はしずめられた。すなわち、官能は抑制され、感覚の浄化というこの幸いな夜によって、情欲は消され、欲求はしずめられ眠らされたことを歌っているこの感覚の夜の期間は、各々が持っている浄められるべき不完全の多少に応じて、また、神がその霊魂を上げようと望まれる一致の愛の度合いに応じても、さまざまである神は、もう一つの道である霊の夜に入れられる人に対しては、大変な苦悩と感覚的な誘惑を長期間与えられる(もう一つの夜には、すべての人が達するわけではない)。

もはや、この官能の家はしずめられたので、すなわち、官能は抑制され、感覚の浄化というこの幸いな夜によって、情欲は消され、欲求はしずめられ眠らされたので、霊魂は、霊の道を歩きはじめるために外に出た。この道は、進歩しつつある人、また、進歩した人の道であって、照らしの道とも、注賦的観想の道とも呼ばれる。これによって、神は、霊魂自身の推理も、霊魂の側からの能動的な協力もなしに、御自ら、霊魂を養い、霊魂の力を回復させてゆかれる。これが、前にも述べたとおり、霊魂における感覚の夜であり、浄化である。この夜は、のちに、神の愛の神的一致に至るために、もう一つの、より重大な霊の夜に入いるはずの人々においては、通常、大変な苦悩と感覚的な誘惑とを伴っているもので、それは、人によって長短の差はあるにしても、とにかく長期間、継続する。(普通、そこに至りつくのは、すべての人ではなく、わずかな人だけである)なぜなら、ある人々にはサタンの使い(2コリント12・7)、すなわち、姦淫の霊が襲い掛かってくるからであり、強烈で醜い誘惑によって、彼らの感覚を打ち砕き、想像の中には一層鮮やかに映る醜悪な映像や、恐ろしい警告で霊を苦しめる。彼らにとって、これは、時として、死よりもひどい苦しみである。また、ある場合には、この夜のさなかに、冒涜の霊が彼らに加えられる。これは、その人のあらゆる概念や思念の中を、耐え難い冒涜の言葉をもって歩き回り、時としては、想像の中に非常な力をもって煽動的な冒涜を入れるので、ほとんどそれを口外せずにはいられなくさせるほどである。これは当人にとってはひどい責苦である。他の場合には、イザヤが「まよいの霊」(19・14)と呼んでいるまた別の汚らわしい霊が、彼らを苦しめる。それは、彼らを堕落させるためというよりも、彼らを鍛えるためである。この霊は、感覚を暗くするので、彼らを無数の不安と困惑とで満たし、彼らの判断力をひどく混乱させる。それで彼らは、何ごとにも決して満足できず、他の人の勧告にも意見にも頼ることができなくなる。これは、この夜の最も深刻な刺激、恐怖の一つであり、霊的夜において起こることに非常に近いものである。この夜と感覚の浄化において、神は、普通、このような嵐と苦しみを、のちにもう一つの夜に移ししれるつもりの人々に送られる。(もう一つの夜には、すべての人が達するわけではない)。それは、彼らが責めさいなまれ、叩きのめされ、このようにして、感覚や諸能力を、やがてもう一つの夜で与えられるはずの神の英知との一致のために準備し、訓練し、鍛えてゆくためである。なぜなら、もしも霊魂が、苦しみと誘惑とによって試みられることも、練り鍛えられることもないなら、霊魂はその感覚を神の英知に備えて、活気づけることができないからである。だからこそ、集会の書は、「試みを受けなかった人が何を知っているのだろう。試されたことのない者が知っていることは一体何か」(34・9~10)と言っているのである。また、エレミアも、この真理を鮮やかに証明して言っている。「主よ、あなたが私をこらしめられたので、私は教え諭されました」(31・8)と。神の英知に分け入るためのこの種のこらしめのうち、一番ふさわしいものは、ここで述べているような内心の苦しみである。これによって、今まで自然的な柔弱さ故にひきつけられていたあらゆる味わいや慰めから、感覚が一層浄められるのである。そして、のちに高められるはずの霊魂は、この高揚に備えて、真に低く卑しめられるのである。ところで、神が霊魂を、このような感覚の断食と苦行の中に置かれる期間がどの位であるかは、これを確実に言うことはできない。なぜなら、すべての人に同じ仕方で、同じ誘惑が襲ってくるとも限らないからである。というのも、これは、各々が持っている浄められるべき不完全の多少に応じて、神ご自身によって測られることだからである。さらに、また、神がその霊魂を上げようと望まれる一致の愛の度合いに応じても、この卑しめの激しさの度合いや、期間の長短は、それぞれさまざまなのである。苦しむための素質と力を持ち合わせているものには、浄化も一層激しく、一層迅速である。ごく弱い者に対しては、彼らが後に引き返すことがないように、大きな寛容と、軽い誘惑とをもって臨まれ、感覚にも通常通りの糧を与えられるが、その代わり、この夜を通して導かれる期間はずっと長くなる。したがって、彼らは、この世において完全な純潔に達するのに暇どり、そのうちある者は、決してこれに達することがない。彼らはこの夜の中にすっかり入っているわけでもなく、また、完全にその外にいるわけでもない。なぜなら、たとえ前進はしなくても、彼らが謙遜と自己認識の中に留まっているようにするために、神は、しばらくの間、または、数日間にわたって、彼らを誘惑や無味乾燥の中で鍛えられ、そして、他の場合、また、ある期間は、彼らがおじけづいて世間の慰めを探しに戻らないよう、慰めをもって助けに来られるからである。他のもっと弱い霊魂に対しては、神は、彼らをご自分の愛のうちに鍛えるために、顕れたり隠れたりするかのようにして、彼らと交わる。それは、突き放されることがなければ、彼らは決して神に近づくことを学ばないからである。しかし、愛の一致という極めて幸福で高い段階に進むはずの霊魂は、たとえ神が、どんなにすみやかに彼らを導かれたとしても、経験によって明らかな通り、通常、非常に長期間この無味乾燥と誘惑の中で過ごすものである。さて、これで、いよいよ、第二の夜について論じ始める時となった。

暗夜 第二編 霊魂の受動的暗夜について

感覚の暗夜からでて、霊の暗夜に入るのはいつからか

感覚の夜を抜け出た霊魂は、初心者のころよりも、ずっと大きな自由と満足を持ち、もっと豊かで内的な喜びをもって神のことに従事する。しかしまだ浄化は完全には終わっていない。神は、感覚の夜から抜け出した霊魂をすぐに第二の夜である霊の夜に入れられるわけではない。通常、霊の夜に入れられるまで多くの年月を経るのが普通である。それまで、神は試練や無味乾燥や試練をこれらの人々に送られる。しかし、これらは、これから訪れる霊の夜のように、長く続くものではない。なぜなら、この夜と嵐の一瞬、または数瞬、あるいは数日が経過すると、すぐにまた、いつものような晴天が戻ってくるのであるから。神は、このようにして、愛の高い度合いまでのぼることのないような人々を浄化してゆかれる。神は、それらの人をある期間にわたって間歇的に、この観想の夜と霊的浄化の中に入れられ、日暮にしたり夜明けにしたりすることを何度もくり返される。感覚の夜から出た霊魂は、すぐに霊の夜に入れられるわけではない。それどころか、それまでには、かなり長い時間や年月が経過するのが普通であって、その間霊魂は、初心者の段階をぬけ出して、進歩者の段階で修練を積んでゆく。霊魂は、ちょうど狭い牢獄から抜け出てきた者のようであり、感覚の夜に入る前の初心者のころよりも、ずっと大きな自由と満足を持ち、もっと豊かで内的な喜びを覚えながら神のことに従事する。しかし、まだ霊魂の浄化は完全には終わっていないので、ときどき何かの試練や無味乾燥や闇や危険にさらされる。そして、これらのことは時として、今までのものよりもずっと激しく、これから来る霊の夜の前兆、使者のようである。ところで、霊魂の浄化が完全に終わっていない。なぜなら霊的部分の浄化が欠けているからである。霊と感覚の二つには密接なつながりがあるため、霊的部分の浄化がなければ、感覚の浄化がどんなに激しいものであったとしても、浄化は決して完成したことにはならない。しかし、これらのことは、これから訪れようとしている夜のように、長いことは続くものではない。なぜなら、この夜と嵐の一瞬、または数瞬、あるいは数日が経過すると、すぐにまた、あのいつものような晴天が戻ってくるのであるから。神は、このようにして浄化してゆかれる。神は、ある期間にわたって間歇的に、観想の夜と霊的浄化の中に入れられ、日暮にしたり夜明けにしたりすることを何度もくり返される。これは、「神はあられを―すなわち、その観想を―一口ずつ投げられる」(詩147・17)というダビデの句が成就するためである。しかし、この闇に包まれた観想の小刻みにされたものは、これから述べようとする恐ろしい観想の夜ほどは強烈ではない、神は、神的一致にまで達せさせようとして、故意に、霊魂をその中に入れられるのである。従って、これらの進歩した人々が霊のうちで味わう内的喜悦と味は、以前よりもずっと豊かに与えられ、感覚にまでも溢れ出る。それは、感覚の浄化に先立つころよりも、ずっと豊かである。というのも、感覚は、今はより一層純潔になっているため、一層たやすく霊の喜びを味わうことができるからである。とはいえ、この霊魂の感覚的部分は、結局弱く、霊の強く激しいことがらを受け入れる力は持ち合わせていないので、これらの進歩した人々は、感覚的部分になされるこの霊的交わりが原因で、いろいろの虚弱や不調や胃病などに苦しみ、その結果として、霊においては疲労に苦しむのである。知恵者が、「朽ちる肉体は霊魂の重荷となる」(知9・15)と言っているとおりである。それで、これらの霊魂たちの交わりは、それにあずかる感覚が弱く、腐敗しているため、神との神的一致のために要求されるほどには、十分に強いものとも、十分に霊的なものともなり得ないのである。ここから、恍惚や脱魂や脱臼などが生じてくるのであって、これは、これらの交わりが純粋に霊的なものではないときにいつも起こることである。これが、霊の第二夜によって、すでに浄化されている完全な人々の場合のように、霊のみに与えられるならば、このような恍惚や肉体上の苦痛はもはやない。感覚がくもったり、脱魂したりすることもなしに、彼らは霊の自由を楽しんでいる。それで、これらの人々が、この夜に入ることがどれ程必要であるかを明らかにするために、これらの進歩した人々につきもののいくつかの不完全や危険について述べようと思う。

これら進歩した人々が陥りやすい他の不完全について続けて論じる

感覚の夜を通り過ぎた霊魂は、まだ二つの不完全をもっている。
その一つ目は、まだその霊魂には植物の根のように不完全な愛好と習性が霊の中に残っていることである。また、罪の結果、すべても人間につきものの精神のにぶさと、生来のがさつさ、ならびに霊の散漫と、常に外に出ようとする傾向を持っている。これは、霊の浄化による苦しみと束縛を通して照らされ、洗練されなければならない。このような習性的な不完全は、感覚の浄化を通りすぎた人であっても霊の浄化を通り越していない人には、誰にでもある。しかし、この状態では、愛による神との一致という完全な段階に達することはできない。もう一つの不完全は、霊的な宝を非常に浅く、また感覚に影響されやすい状態で持っているため、大きな不都合や危険に陥りやすいことである。なぜなら、彼らは、感覚の中にも霊のうちにも、あまりにもたくさん、神との交わりや霊的な知覚を見出すからである。それで、度々、想像的示現や霊的示現を見る。悪魔はよく、この知覚や感情を、非常に大きな喜びとともに霊魂に刻印し、暗示を与えるので、簡単に霊魂を恍惚とさせ、まどわせる。それにより種々の弊害が生じる。これらの進歩した人々は、二様の不完全をもっている。その一つ目は、まだその霊魂には植物の根のように不完全な愛好と習性が霊の中に残っていることである。感覚の浄化もそこまでには達し得なかった。感覚的浄化と霊的浄化の違いは例えるなら、枝を剪定することと樹木の根を掘り取ることの相違、または、新しいしみを取ることと、しみ込んだ古いしみを抜くこととの相違である。なぜなら、感覚の浄化は、霊の浄化のための観想のはじまりにすぎないからであり、この浄化は霊を神と一致させることに役立つよりは、感覚を霊に適合させることに役立つものであるからである。しかし、たとえ本人は気づかないとしても、霊にはまだ古い人のしみが残っている。これらのしみが、強力な漂白剤ともいうべき、霊の浄化によって取り去られないならば、霊は、神的一致の純潔にまで達することはできない。これらの人々は、また、罪の結果、すべても人間につきものの精神のにぶさと、生来のがさつさ、ならびに霊の散漫と、常に外に出ようとする傾向を持っている。これは、霊の浄化による苦しみと束縛を通して照らされ、洗練されなければならない。このような習性的な不完全は、感覚の浄化を通りすぎた人であっても霊の浄化を通り越していない人には、誰にでもある。しかし、この状態では、愛による神との一致という完全な段階に達することはできない。もう一つの不完全は、霊的な宝を非常に浅薄に、また感覚に影響されやすい状態で持っているため、大きな不都合や危険に陥りやすいことである。なぜなら、彼らは、感覚の中にも霊のうちにも、あまりにもたくさん、神との交わりや霊的な知覚を見出すからである。それで、度々、想像的示現や霊的示現を見る。悪魔はよく、この知覚や感情を、非常に大きな喜びとともに霊魂に刻印し、暗示を与えるので、簡単に霊魂を恍惚とさせ、まどわせる。霊魂は、信仰のうちに、これらすべての示現や感情に強く抵抗し、自己防御するだけの慎重さを備えていない。というのも、悪魔はここで多くの人々に、空虚な示現や偽りの預言を信じさせるからである。また、このような状態において、悪魔は、神や聖人方が自分と語っておられるのだと思い込ませようと努める。それで、彼らは度々自分の幻想を信じてしまう。ここで悪魔はよく、彼らをうぬぼれと傲慢で満たすので、彼らは、虚栄と思い上がりに引き付けられ、脱魂、その他の聖人と思わせるような外的な行いによって、人目を引こうとする。その結果、聖なる畏敬を失い、神に対して不敬不遜になる。そのうちのある人々は、このような虚偽や錯覚は増す一方で、彼らが再び徳と真の霊の純潔な道に戻ることは全く疑わしくなるほど、虚偽や錯覚の中に年を重ねてゆく。このような惨めな状態に陥るのは、この道を進み始めたときに、霊的な知覚や感情に余りにも安心しきって自分をまかせたからである。こういう人々につきものの不完全は、どんなに一層いやしがたいものであるかについて、余りにも言うべきことが多いのが、ここでは言わない。ただ霊的浄化がどれほど必要か、次のことだけを言っておく。つまり、感覚的浄化を通り過ぎた人々の中で、たとえ、どんなに努力し、成功したと思われた人でも、多くの自然的な愛好や不完全な習性を持たなくなった人は、一人もいないということである。したがって、神との一致に達するためには、霊的浄化が必要なのである。その上、下級部分である感覚的部分もまだ、霊的交わりにあずかっているため、その交わりは神との一致のために要求されるほどには激しくも純粋でも、強くもあり得ない。従って、この一致に達するためには、第二の霊の夜に入ってゆくことが霊魂にとって必要である。そこでは、感覚や霊を、これらすべての知覚や味わいから完全に赤裸にして、暗く純粋な信仰の中を歩ませなければならない。この信仰こそ、霊魂が神と一致するための適切、特有の媒介である。ホセアが、「私は信仰によってお前をめとろう―すなわち、信仰によってお前と一致しよう」(2・20)と言っている通りである。

これより後のことのための注

霊的浄化を通して進歩した人々は、この浄化の間、感覚的な部分が、霊から湧き出た味わいにひきつけられ、これを味わうことにより進歩してきた。このようにして同じ一つの霊的食物を、感覚と霊が結ばれ一つになり、それをとるようになった。このことは、彼らを待っているきびしく、つらい霊の浄化をともに忍ぶ用意となる。なぜなら、感覚的部分の不完全や無秩序のすべての力と根は霊の中にあるからであり、善悪のすべての習性は、この霊の中で形成されるからである。したがって、霊が浄化されるまでは、感覚の逆らいと邪悪さは徹底的に浄化されることはない。続いて訪れる霊の夜において、二つの部分は両方とも一緒に浄化される。このために、まず感覚から浄化される必要があった。なぜなら、霊の浄化は感覚の浄化に比べ非常に激しいからであり、激しい浄化のためには偉大な素質が必要だからである。つまり、前もって下級部分である感覚的な弱さが改められることがなく、また、感覚の浄化の後に楽しむようになった甘味で味わいに満ちた神との交わりによって剛毅を獲得することがないならば、自然性はこの霊的浄化に耐えるだけの力も素質も持つことはないからである。彼らは進歩したとはいえ、まだ低い段階にいるので、まだ神について子供のように考え、子供のように話し、神についての知識も感覚も子供の持つものと同じなのである。というのは、まだ、霊魂と神の一致という完徳に達していないからであって、この一致に達すれば、大人のように、その霊の中に偉大な働きをするようになる。それは、彼らの働きや諸能力が人間的なものというよりも、むしろ、神的なものとなる。それ故、神は、彼らをこの「古い人」から赤裸にし、新しい感覚のうちに、神に似せて創られた新しい人をこれに着せることを望まれ(コロサイ3・10)、彼らの諸能力も、愛好も感覚も、霊的なものも感覚的なものも、また外的なものも内的なものも、すべて赤裸にされる。続き感覚的浄化を通して進歩した人々は、この浄化の間、感覚を甘美な交わりによって養ってきた。つまり、感覚的な部分が、霊から湧き出た霊的な味わいにひきつけられ、これを味わうことにより霊と結び合わされることにより進歩してきた。こうして、同じ一つの霊的食物を同じ皿から、感覚と霊が結ばれ一つの結合体として、それをとるようになる。このことは、彼らを待っているきびしく、つらい霊の浄化をともに忍ぶ用意となる。なぜなら、この浄化において、霊魂の霊的な部分と感覚的な部分があますところなく浄化し尽くさなければならないからであって、それは、一方の浄化がなければ、もう一方の浄化も決して完全には行われないからである。というのも、感覚にとって効果ある浄化は、霊の浄化が本格的に始まるときに行われる。したがって、感覚の夜は、浄化と呼ばれるよりも、むしろ欲求の確実な刷新または制御と呼ばなくてはならない。その理由は、感覚的部分の不完全や無秩序のすべての力と根は霊の中にあるからであり、善悪のすべての習性は、この霊の中で形成されるからである。したがって、これらが浄化されるまでは、感覚の逆らいと邪悪さは徹底的に浄化されることはない。

それで、続いて訪れるこの霊の夜において、二つの部分は両方とも一緒に浄化されるわけである。このために感覚は、第一の夜の刷新と、そこから生じた静かな夙の時期を通らなければならなかったのである。それは、感覚が霊と結び合わされて、一層勇敢に苦しみを忍び、確実に浄化されるためである。なぜなら、これほど激しく、激しい浄化のためには偉大な素質が必要だからである。前もって、下級部分の弱さが改められることがなく、また、感覚の浄化の後に楽しむようになった甘味で味わいに満ちた神との交わりによって剛毅を獲得することがないならば、自然性はこの霊的浄化に耐えるだけの力も素質を持つことはないに違いないからである。

彼らは進歩したとはいえ、まだ低い段階にいるので、神との交わりも接し方も大変低く、自然的である。というのも、彼らの霊が、まだ洗練されていず、明らかに照らされていないからである。それで彼らは、聖パウロが言っているように(1コリント13・11)、まだ神について子供のように考え、子供のように話し、神についての知識も感覚も子供の持つものと同じなのである。というのは、まだ、霊魂と神の一致という完徳に達していないからであって、この一致に達すれば、大人のように、その霊の中に偉大な働きをするようになる。それは、彼らの働きや諸能力が人間的なものというよりも、むしろ、神的なものとなるからである。それ故、使徒が言っているように、神は、彼らをこの「古い人」から赤裸にし、新しい感覚のうちに、神に似せて創られた新しい人をこれに着せることを望まれ(コロサイ3・10)、彼らの諸能力も、愛好も感覚も、霊的なものも感覚的なものも、また外的なものも内的なものも、すべて赤裸にされる。そして、理性を闇の中に、意志を無味乾燥の中に打ち捨て、記憶を空にし、霊魂の愛好を極度の苦しみと苦味と身動きのできない状態の中におき、以前、霊的な宝について感じていたような味わいや感覚を霊魂から奪いとってしまわれる。なぜなら、この剥奪は、愛の一致という霊の霊的形相を霊魂内に導入し、定着させるために要求される条件の一つとなるからである。こういうことはみな、霊魂が第一の歌の中で述べているように、主が、闇に包まれた純粋の観想を通して、霊魂の中で行われることである。この歌は、第一の感覚の夜について説明されているものではあるが、霊魂はこれを主として第二の霊の夜のことと解している。というのも、これが、霊魂の浄化の主要な部分であるから。それで、この目的の故に、ここにもう一度、この歌を記して説明することにする。

歌の第一行目を霊の暗夜によって説明する

第一の歌とその解説ある暗い夜に、
愛にもだえ炎と燃えたち、
おお、すばらしい幸運!
気づかれずに私は出て行った、
我が家はすでにしずまったから…この歌を霊の浄化に関連して解説するこの歌で、私の理性は闇に包まれ、私の意志は身動きできず、私の記憶は悲しみと苦しみの中にあって純粋な信仰の闇の中に放置され、ただ意志だけが、苦痛と悲嘆、そして神の愛に対する焦燥に触れ、その結果、私の低級な理解の仕方、私の薄弱な愛し方、また、私の貧弱で乏しい神の味わい方から出た、というのである。それも、感覚にも悪魔にも妨害されることなしにそうしたと、これは私にとって、大きな幸福であり幸運であった、ということを歌っている。詳しく第一の歌とその解説

ある暗い夜に、
愛にもだえ炎と燃えたち、
おお、すばらしい幸運!
気づかれずに私は出て行った、
我が家はすでにしずまったから…

解説

1、この歌を、観想的浄化、または、霊の赤裸と貧しさに関連したものとして解するならば次のように説明することができる。すなわち、私の理性は闇に包まれ、私の意志は身動きできず、私の記憶は悲しみと苦しみの中にあって、純粋な信仰の闇の中に放置され、ただ意志だけが、苦痛と悲嘆、そして神の愛に対する焦燥に触れ、その結果、私の低級な理解の仕方、私の薄弱な愛し方、また、私の貧弱で乏しい神の味わい方から出た、というのである。それも、感覚にも悪魔にも妨害されることなしにそうしたと言っている。

2、これは私にとって、大きな幸福であり幸運であった。なぜなら、私の霊魂の諸能力、熱情、欲求そして愛好、これらを使って今まで低級な方法で神を感じ、味わっていたのだが、これらが今は完全に無に帰し、しずまったので、私は人間的な交わりや働きから出て、神の働きや交わりの方へ行ったからである。これはつまり、私の理性は自分自身から出てしまって、人間的、自然的であったものが、神的なものに変わったということである。なぜなら、理性は、この浄化を通して神と一致したので、もはや自分自身の力や自然的な光によっては理解せず、自分が一つに結び合わされた神の英知によって理解するようになったからである。また、私の意志も自分自身から出て、神的なものになった。つまり、神の愛に結ばれて、もはや自分の自然的力によって低級な愛し方をせず、聖霊の力と清さとをもって愛するようになったからである。こうして、意志は、神に関して、もはや人間的に働くことはない。記憶もまた同様に、光栄の永遠の知覚にとって変えられた、結局、この夜と、古き人の浄化によって、霊魂のすべての力と愛好が、神的な性質と喜びのうちに一新されたのである。そこで、次の一行が歌われる。

ある暗い夜に

歌の第一行目をあげ、この闇に包まれた観想が、なぜ霊魂にとって夜であるばかりでなく、苦しみ、拷問であるのかの説明

なぜ、霊魂を照らし、その無知から浄めるものである「神の火」が、霊魂にとって「暗い夜」であり、苦しみであり、拷問であるのか。第一の理由は、神の英知は霊魂の能力を超越するので霊魂にとって闇なのである。ちょうど光のように、それが明るければ明るい程、それは、ますます目を眩ませ、見えなくさせてしまう。また、太陽を見つめれば見つめるほど、ますます視力を眩ませ、その能力の弱さを越えたものであるが故に視力を奪ってしまう。同じように、この観想の神的光が、まだ完全に照らされていない霊魂に襲うと、その霊魂に霊的な闇を生じさせる。なぜなら、この光は、ただ単に霊魂を超越しているばかりでなく、更に、それを奪い取り、その自然的知性の働きを暗くしてしまうことさえするからである。それについてダビデも、「神の近くに、そしてそのまわりには闇と雲とがある」(詩97・2)と言っている。しかし、実際にそうであるのではなく、ただ、私たちの薄弱な理性にとってはそうなのである。第二の理由は、霊魂の卑しさと不純によるもので、そのために、神の英知は霊魂にとって、苦しくつらいものである。なぜなら、この神的な注賦的観想は、極めて優れた多くのすばらしいものを持っているのに引き換え、それを受ける霊魂は、まだ浄化されていないため、非常に悪い無数のみじめさを持っているからである。それで、二つの相反するものは、霊魂の主体の中に同時に存在することはできないのであるから、必然的に、霊魂を苦しめ悩ませることになる。この純粋な光は、霊魂から、その不純なものを追い払うことを目的として霊魂をおそうので、霊魂は、まるで神が自分に敵対しておられ、自分は神に敵対するものとされたように感じるほど、自分は惨めで、不純であることを痛感する。これは霊魂にとって、非常な悲しみであり、苦痛である。また、この神的な観想は、霊魂を強固にし、制御してゆこうと、かなりの力をこめて霊魂を襲うので、霊魂はその弱さ故に、ほとんど気絶するばかりに苦しむ。霊魂の弱さと不純とが、これほどであるとは、全く驚くべきことであり、憐れむべきことである。神の手は、それ自体、あれほどやさしく、軽やかであるのに、霊魂はそれを非常に重いもの、自分に逆らうもののように感じるのである。しかし、神の手は、重荷を負わせることも、押さえつけることもなさらず、ただ、憐れみ深くこれに触れられるだけなのである。なぜなら、神が、これらのことをなさるのは、すべて、霊魂に恵みを与えようとしてのことだからであって、決して、霊魂を罰しようとしてのとこではないからである。詳しく読むある暗い夜に

この暗夜によって、神は、霊魂の習性的、自然的、そして霊的無知と不完全から浄める。観想者たちは、これを、注賦的観想または神秘の体験と呼んでいる。その中で神は、密かに霊魂に教え、愛の完徳を教育なさるのであるが、霊魂は何もしないし、また、この注賦的観想がどんなものであるか解りもしない。この注賦的観想は、愛深い神の英知であるため、霊魂を浄め、照らして、神との一致に至らせる。そしてその英知は、天国の霊たちを照らして浄めているのと同じ愛深い英知である。

しかし、なぜ、霊魂を照らし、その無知から浄めるものである「神の火」を、霊魂はここで、「暗い夜」と呼んでいるのか。これには、次のように答えることができる、すなわち、この神の英知は、二つの理由から、霊魂にとって、単に夜であり闇であるばかりでなく、同時に苦しみであり、拷問であると。第一の理由は、神の英知の広大さによるもので、神の英知は霊魂の能力を超越するので、その意味で霊魂にとって闇なのである。第二の理由は、霊魂の卑しさと不純によるもので、そのために、神の英知は霊魂にとって、苦しくつらいものであると同時に、また闇なのである。

第一の理由を証明するためには、哲学者の次の教えを前提とする。すなわち「神的なことがらは、それ自体において明白であればあるほど、霊魂にとっては、ますます暗く、隠されたものとなる」と。ちょうど光のように、それが明るければ明るい程、それは、ますます目を眩ませ、見えなくさせてしまう。また、太陽を見つめれば見つめるほど、ますます視力を眩ませ、その能力の弱さを越えたものであるが故に視力を奪ってしまう。同じように、この観想の神的光が、まだ完全に照らされていない霊魂に襲うと、その霊魂に霊的な闇を生じさせる。なぜなら、この光は、ただ単に霊魂を超越しているばかりでなく、更に、それを奪い取り、その自然的知性の働きを暗くしてしまうことさえするからである。このために、この注賦的観想は「闇の光線」とも呼ばれている。これは、照らされも浄められてもいない霊魂にとってのことである。というのも、限られた、自然的知性の力は、その強烈な超自然的光に圧倒され、凌駕されるからである。これについてダビデも、「神の近くに、そしてそのまわりには闇と雲とがある」(詩97・2)と言っている。しかし、実際にそうであるのではなく、ただ、私たちの薄弱な理性にとってはそうなのである。私たちの理性は、このような高さに達することはできないので、このような強烈な光には、暗くされ、幻惑されてしまう。それでダビデは、またこれをすぐに説明して言っている。「神の現存による偉大な輝きによって、雲は貫かれた」(詩18・13)。これは、神と私たちの理性の間の雲ということである。なぜ、神は、まだ変容されていない霊魂に、ご自身から出るこの秘密の英知の輝く光を送ることによって、理性の中に、真っ暗な闇を生じさせるのか、ということの理由は、これなのである。

そして、この暗い観想は、最初のうち霊魂にとっては、苦しいものであることは明らかである。なぜなら、この神的な注賦的観想は、極めて優れた多くのすばらしいものを持っているのに引き換え、それを受ける霊魂は、まだ浄化されていないため、非常に悪い無数のみじめさを持っているからである。それで、二つの相反するものは、霊魂の主体の中に同時に存在することはできないのであるから、必然的に、霊魂を苦しめ悩ませることになる。霊魂の主体の中では、これらの相反するものは、一方は他のものに反対するというふうにして、互いに闘う。これは、この観想によって、霊魂の不完全からの浄化が行われるからである。これを、次のように、帰納的に論証することにしよう。

まず、第一のことに関して、それは、この観想の光と英知は、非常に明るく清いものであるのに反して、それがしみ込む霊魂は暗くて不純であるからである。そのために、霊魂はこの光を受けることによって大いに苦しむのである、それはちょうど、目の具合が悪く、にごって病気であるとき、明るい光に苦しむのと同じである。自分の不純さが原因で霊魂内に生じるこの苦痛は、この神的光に実際に襲われる場合には絶大なものとなる。なぜなら、この純粋な光は、霊魂から、その不純なものを追い払うことを目的として霊魂をおそうからであって、霊魂は、まるで神が自分に敵対しておられ、自分は神に敵対するものとされたように感じるほど、自分は惨めで、不純であることを痛感する。これは霊魂にとって、非常な悲しみであり、苦痛である。(なぜなら、今は、神が自分を見捨てられたように思えるからである)。神がヨブを、この試練に会わせられたとき、ヨブが感じた最大の苦しみの一つはこれであった。彼はその時、こう言っている。「なぜ、私をあなたに背かせ、私自身にとって自分をこれほどの重荷とされたのか」(7・20)と。なぜなら、霊魂はこの清い光を通して―闇の中にではあるが―今、自分の不純さをはっきりと見、自分が神にも他のどんな被造物にもふさわしいものとはなり得ないだろうと考えることであり、また、自分の宝はもう、すっかりなくなってしまったように思えることである。このことは、自分の悪と惨めさの認識と実感の中に、心が深く没入することによって生じるのである。なぜなら、この神から来るほの暗い光は、ここで、すべての悪や惨めさを明らかに示し、もはや、自分としてはこれ以上のものを持つことはどれほど不可能であるかを霊魂にはっきり悟らせるからである。ダビデのあの句は、この意味にとることができるであろう、彼は言う、「罪の罰として、あなたは人を矯め直し、それ霊魂を砕き、ひからびされる。ちょうど蜘蛛が巣を作り終えて疲れ果てるように」(詩39・12)と。

霊魂が苦しむ第二の有様は、霊魂自体の自然的、道徳的、霊的弱さが原因で引き起こされるものである。なぜなら、この神的な観想は、霊魂を強固にし、制御してゆこうと、かなりの力をこめて霊魂を襲うからであり、霊魂はその弱さ故に、ほとんど気絶するばかりに苦しむ。それが、時々、一層激しく襲う場合には特にそうである。感覚と霊は、ちょうど、無限に大きく、暗い重荷の下にあってあえいでいるかのように、ひどくもだえ苦しんでいるので、死を利益とも解放ともみなしたがるほどである。これを経験したうえで預言者ヨブは言っている。「私は主が偉大な力のうちに、私と語られるのを望まない。主が私をその偉大さの重みで圧しつぶしてしまわれないように」(23・6)と。

この圧迫と重みとの力の中で、霊魂は、自分が全く恵みから遠ざけられてしまったように感じ、今まで頼りにすることができたものまでが、他のすべてのものと共に消え失せてしまって、もう自分に同情してくれる人は一人もないように思う。そして、それは実際にその通りなのである。これについても、ヨブは言っている。「少なくとも、私の友であるあなたたちは、私を憐れんでください。憐れんでください。神の手が私に触れられたのだから」(19・21)と。霊魂の弱さと不純とが、これほどであるとは、全く驚くべきことであり、憐れむべきことである。神の手は、それ自体、あれほどやさしく、軽やかであるのに、霊魂はそれを非常に重いもの、自分に逆らうもののように感じるのである。しかし、神の手は、重荷を負わせることも、押さえつけることもなさらず、ただ、憐れみ深くこれに触れられるだけなのである。なぜなら、神が、これらのことをなさるのは、すべて、霊魂に恵みを与えようとしてのことだからであって、決して、霊魂を罰しようとしてのとこではないからである。

この夜の中で霊魂が忍ぶ苦しみの有様について

この霊の暗夜で、霊魂が忍ぶ苦しみと悩みは、神的なものと人間的なものとの二つの極端によって引き起こされる。神的なものとは、この浄化の観想であり、人間的なものとは、霊魂そのものである。神的な極端は、愛好や特性にかたく結び付けられている霊魂を赤裸にしながら、一新して神的なものにしようとして、霊魂を襲う。それによって神的な極端は、霊魂をとても深い闇の中に吸収しながら霊魂の霊的実体を破壊し、粉砕する。それで、霊魂は、残酷な霊の死によって、自分の惨めさの中に溶け去って、無に帰してゆくように感じる。この痛み苦しむ霊魂が、ここで何よりも辛く感じることは、明らかに、神が自分を見捨てて、自分を憎み、闇の中に投げ込んでしまわれたと思えることである。神が自分を見捨ててしまわれたと考えることは、霊魂にとって、この上ない苦しみである。そして、これと同様に、すべての被造物からも捨てられ、それらすべてから、特に友人から蔑まれているのを感じる。また、この闇に包まれた観想は、自分の奥底の貧しさと惨めさを痛感させる。なぜなら、霊魂は、自分の中に、自分を楽しませる三種類の善、つまり、現世的、自然的、霊的の三種類の善が、すっかりなくなり、貧しさと深い空虚さを痛感するからである。この浄化を通して、神は霊魂を浄めるのであるが、霊魂のまん中にある愛好と言う錆が浄められ、けずりとられるためには、ある程度まで、霊魂そのものが無に帰せられ、破壊されることが必要である。それというのも、霊魂は、これらの欲情や不完全に変性してしまっているからである。それで、霊魂は、ちょうど、るつぼの中の金のように、この炉の中で浄化されるので、霊魂の中に、もの凄い破壊を感じるのである。そして、自分が、極度の貧しさの中に落ち込むように感じる。彼らは煉獄におけるのと同じような仕方で、この世で浄化される。というのも、この浄化は、あの世で行われるはずのものだからである。したがって、この世で霊の暗夜を体験する霊魂は、もはや、あの場所へ行かないか、あるいは、たとえ、行ったとしても、ごく短い間だけ、そこに留まるにすぎない。なぜなら、この世での一時間の浄化は、あの世の数時間のそれよりも、ずっと効果的であるからである。詳しく

ここで、霊魂が忍ぶ苦しみと悩みの第三の有様は、二つの極端によって引き起こされるものである。それは、ここで一つに結び合わされる、神的なものと、人間的なものとである。神的なものとは、この浄化の観想であり、人間的なものとは、霊魂そのものである。神的な極端は、習性的な愛好や「古い人」の特性から霊魂を赤裸にしながら、それを一新して神的なものにしようとして、霊魂を襲う。(霊魂は、これらの愛好や特性にかたく結び付けられており、かためられており、すっかり一つの合わせられてしまっている)。それによって神的な極端は、霊魂をとても深い闇の中に吸収しながら霊魂の霊的実体を破壊し、粉砕する。それで、霊魂は、残酷な霊の死によって、自分の惨めさの中に溶け去って、無に帰してゆくように感じる。それは、ちょうど野獣に飲み込まれ、その真っ暗な腹の中で消化されているような感じであって、あの海の怪獣の腹の中にあったヨナのように、これらの苦しみを忍んでいるのである(ヨナ2・1)。なぜなら、待望の霊的復活に達するには、この、真っ暗な死の墓にとどまることが必要だからである。

この苦しみや苦痛は、実際、描写しつくせないほどに酷いものであるが、ダビデは、次のように、これを描き出している。「死のうめき声が私を囲み、地獄の苦しみが私を包んだ。私はこの苦しみの中から叫んだ」(詩18・5~7)。この痛み苦しむ霊魂が、ここで何よりも辛く感じることは、明らかに、神が自分を見捨てて、自分を憎み、闇の中に投げ込んでしまわれたと思えることである。神が自分を見捨ててしまわれたと考えることは、霊魂にとって、非常に重大なこと、また、この上ない苦しみである。このことを、ダビデも自らその状態にあって痛切に感じ、次のように言っている。「私の床は死者の中にある。刺されて墓に横たわる者のように、私はあなたの御手からたち切られた者。あなたは、もはや、私を思い出されない。彼らは私を深い穴の中に沈めた。闇の中に、死の影の中に。私の上には怒りがのしかかり、あなたの波が私の上に注がれる」(詩88・6~8)。なぜならば、この浄化の観想に締め付けられると、霊魂は、死の影や、死のうめき声や、地獄の苦しみなどを痛切に実感するものだからであって、これは、自分は神なしにいるのだ、罰せられ、捨てられ、そして自分は神にはふさわしくないものになったのだ、と感じることのうちに起こる。また、神は怒っておられるのだ、というようなことなども、みな、ここで感じる。そして、さらには、それが永遠にわたってのことのように、霊魂には思えるのである。

そして、これと同様に、すべての被造物からも捨てられ、それらすべてから、特に友人から蔑まれているのを感じる。それでダビデはすぐに続けて言い添えている。「あなたは、私の友人知人を私から遠ざけられた。彼らは私をいとうべき者と見なした」(詩88・9)と。これらのことすべてを、怪獣の腹の中で、肉体的にも精神的にも切実に体験した者としてヨナは、こう証言している。「あなたは私を淵の中、海の中に投げ捨てられ、波が私を取り巻いた。あなたの大波と潮とが私に襲いかかった。私は言った。私はあなたの目の前から追い出された。しかし、それでもまた、あなたの聖い神殿を見るであろう、と―こう言っているのは、ここで、神は霊魂を浄めて、神を見ることができるようにしてくださるからである―水は私の魂までのぼって締め付け、淵は私を囲んでいた。海は私の頭をおおい、山々の極みまで私は降って行った。地のかんぬきは、永久に私をそこに閉じ込めようとしていた」(ヨナ2・4~7)と。地の「かんぬき」とは、ここでは、霊魂の不完全を意味し、霊魂がこの甘味な観想を楽しまないようにと、霊魂の邪魔をしているのである。

この闇に包まれた観想が持つ、いま一つ優れた点、すなわち、その荘厳さと偉大さは、霊魂の中に苦しみの第四の有様をひきおこす。この偉大さは、霊魂に自分の中にあるもう一つの極端、すなわち、自分の奥底の貧しさと惨めさを痛感させる。これは、この浄化の中で、霊魂が忍ぶ主な苦しみのうちの一つである。なぜなら、霊魂は、自分の中に、自分を楽しませる三種類の善、つまり、現世的、自然的、霊的の三種類の善が、すっかりなくなり、貧しさと深い空虚さを痛感するからである。そして、霊魂は、これと全く反対の悪、すなわち、いろいろな不完全という惨めさ、無味乾燥、諸能力が何も把握し得ずにいること、霊が闇の中に打ち捨てられていること、などの中に置かれていることに気づく。神はここで、霊魂を、その感覚的実体、及び霊的実体において、また、内部の諸能力、及び外部の諸能力においても、浄化される。それ故、神が霊魂を、無味乾燥、空虚、闇の中に放置することによって、霊魂は、それらすべての部分にわたって、空虚、貧しさ、そして打ち捨てられた状態の中に置かれることが適当なのである。なぜなら、感覚的部分は、無味乾燥の中で浄められ、諸能力は、何もつかめない空虚さにおいて、また、霊は、真っ暗な闇の中で浄められるからである。

これらすべてを、神は、この暗い観想を通して行われる。この観想の中で、霊魂は、これらの自然的な支えと知覚がなくなったことを、そして、何もつかむことのできない宙ぶらりんの状態を苦しむばかりではない。実に、これは、非常に痛ましい苦しみである。しかし、実はその時、霊魂は、浄化されているのである。この観想の中で、神は、霊魂がその全生活にわたって持ち続けた愛好のすべてと、不完全な習性とを、ちょうど火が金属に出た錆や緑青を焼き尽くすように全滅し、空にし、滅ぼし尽くしながら霊魂を浄化しておられるのである。これらの習性や愛好は、霊魂の実体の中に深く根を張っているので、霊魂は、先に述べた自然的および霊的な貧しさや空虚のほかに、なお、ひどい破壊と内的苦悩にこの上なく苦しむというのはよくあることである。それはここで、「骨を束ねて火にくべよ。肉を火にかけ煮詰め、骨も溶かそう」というエゼキエルのことば(24・10)が成就されるためである。これによって霊魂の感覚的また霊的実体のうつろさと貧しさのさなかでの苦しみがどれほどのものであるかがわかる。これについてエゼキエルは更に言っている。「それから、からのなべを燃える炭火にかけよ。それが熱して銅が灼け、よごれが焼け落ち、錆がなくなるように」(24・11)。これによって、この観想の火の浄化において霊魂が忍ぶひどい苦しみをよく理解することができる。霊魂のまん中にある愛好と言う錆が浄められ、けずりとられるためには、ある程度まで、霊魂そのものが無に帰せられ、破壊されることが必要であること、この預言者はここで言っているのである。それというのも、霊魂は、これらの欲情や不完全に変性してしまっているからである。

それで、霊魂は、賢者が言うところによれば(知3・6)、ちょうど、るつぼの中の金のように、この炉の中で浄化されるのであるから、霊魂の実体そのものの中に、もの凄い破壊を感じるのである。そして、自分が、極度の貧しさの中に落ち込むように感じる。これに関しては、ダビデが、次のようなことばをもって、神に叫んでいることに見られる。「主よ、私をお救い下さい。水は私の魂にまで及びました。私は深い泥沼に沈み、足がかりになるものもありません。私は深いん水に巻き込まれ、嵐に押し流されます。叫び疲れて力は失せ、のどは涸れました。神を待ちに待ちつつ、私の目はくらみました」(詩69・2~4)。このようにして、神は、霊魂をひどく卑しめ、へりくだらせるが、それは後に、高く上げるためである。それで、こういう感情が霊魂の中で激しくなってきたとき、もしも、神がこれに命じて、すぐにしずめてしまわないなら、霊魂はわずか数日のうちに死んでしまうだろう。しかし、このような激しい感情が感じられることは間歇的においてである。時として、それは非常に鋭く感じられ、まるで眼の前に地獄と亡びが開かれたかのような心地がする。なぜなら、実際彼らは「生きながら地獄に降りてゆく」(詩55・16)人々のようだからである。彼らは煉獄におけるのと同じような仕方で、この世で浄化される。というのも、この浄化は、あの世で行われるはずのものだからである。したがって、ここでこれを通る霊魂は、もはや、あの場所へ行かないか、あるいは、たとえ、行ったとしても、ごく短い間だけ、そこに、とどまっているからである。なぜなら、この世での一時間の浄化は、あの世の数時間のそれよりも、ずっと効果的であるからである。

この夜の中で霊魂が忍ぶ意志の他の苦悩の試練について

この霊の夜において、意志の苦悩や試練もまた絶大である。時々は、霊魂に、自分が今陥っているいろいろの悪を突然思い出させ、果たして自分は救われるのかどうかという不安で、霊魂を貫くほどである。さらに、これには、過去の何もかもうまくいっていた頃の思い出が加わる。というのも、これらの人々は、大抵の場合、この夜に入るとき、神において多くの慰めを持っていたのであり、神に多くの奉仕をしてきたのだから。それで、自分が今は、あのような幸福からは、はるかに遠ざけられているのを見、もう二度とそこには達することはできないと思うと、以前のあの思い出は彼らにとって、さらに激しい苦しみのもととなる。この夜が霊魂にもたらす大きな祝福のゆえに、霊魂は非常な幸福を感じているとはいえ、今忍んでいる苦しみと自分の救いが全く不確実であることのために大いに苦しむ。なお、この上に、この暗夜が霊魂にもたらす孤独と、打ち捨ての状態が原因となって、霊魂は、どんな教えにも、どんな霊的指導者にも、慰めや支えを見出せない。霊魂は、暗い地下牢の中に手足を縛られてつながれている人のようで、何をすることもできず、動くことも、見ることもできない。また、それが、上からのものであろうと、下からのものであろうと、何らの恩恵を感じることができないということが加えられる。ただし、それは、ここで霊が浄められて、謙遜になり、素直になり、神の霊と一つになることができるほどに繊細に、単純に、デリケートになるまでのことである。それは、神の憐れみが、その霊魂に与えようと思われる愛の一致の度合いに応じてのことであって、浄化の厳しさの程度とその期間の長短も、これに比例する。しかし、もし、その浄化が本当の浄化であるならば、それがどんなに厳しいものであっても数年間は続く。とはいうものの、浄化の過程には、一息つくことのできる暇もあって、その時には、神の憐れみによって、この闇の観想は、浄化という形ややり方で霊魂を襲うことを止め、かえって、霊魂を照らすようにして、愛深く霊魂を襲う。その時霊魂は、たやすく、豊かに楽しむことのできる霊的な交わりのうちに、平和の大いなる甘美さと、神の愛深い友情を感じ、味わう。時々は、このような慰めが非常に大きいので、霊魂は、自分の試練はもう終わってしまった、と思い込むほどである。しかし、一番安全で、警戒しない時に、再び霊の夜がその霊魂を襲う。その時の苦しみの程度は、以前よりも一層悪く、もっとひどく、もっと暗く、もっと悲惨である。そして、この苦しみは、以前より長期間続く。ここで霊魂は、再び、自分にとって、すべてよいものは永久に終わりを告げてしまったのだ、と信じるようになる。煉獄にいる霊魂たちが、自分たちは、いつかはそこから出られるはずだということや、その苦しみは終わるはずだということに対して、なぜ、大きな疑惑に襲われるのか、ということの理由は、まさにこれである。煉獄の霊魂が神を愛することは非常に大きいが、自分がこんなにも惨めなのを見て、神が自分を愛しておられるなどとは信じられないし、また、愛されるだけの理由があるとも、将来そうなるとも、考えられない。かえって、神からだけではなく、すべての被造物からも、永久に憎まれる理由があると考え、自分がこんなにも愛し望んでいる方から捨てられるのにふさわしい理由が自分の中にあるのを見て、深く悲しむ。詳しく

ここでは、意志の苦悩や試練もまた絶大である。時々は、霊魂に、自分が今陥っているいろいろの悪を突然思い出させ、果たして自分は救われるのかどうかという不安で、霊魂を貫くほどである。さらに、これには、過去の何もかもうまくいっていた頃の思い出が加わる。というのも、これらの人々は、大抵の場合、この夜に入るとき、神において多くの慰めを持っていたのであり、神に多くの奉仕をしてきたのだから。それで、自分が今は、あのような幸福からは、はるかに遠ざけられているのを見、もう二度とそこには達することはできないと思うと、以前のあの思い出は彼らにとって、さらに激しい苦しみのもととなる。このことを、ヨブもまた、その経験から次のように言っている。「私は富み栄えていたが、突然、打ち砕かれ、粉々にされた。彼は私のえり首をとらえ、私を砕き、私を傷つけようと、私を的にされた。神の射手は槍をもって私をとり囲んだ。彼は容赦なく私の腎を突き出し、私の肝を地に注ぎ出された。彼は私の傷に傷を加え、巨人のように私に攻めかかった。私は皮膚の上に袋をぬってつけ、額を塵の中に埋めた。私の顔は泣いて赤くはれ、私の目はかすんだ」(16・13~17)。

この夜の苦しみは、これほど数多く、これほど激しい。これに関して引用することのできる聖書の句も非常に多いので、それら全部を書き写す時間も足りなければ、力も足りないくらいである。というのも、これについて、どれほど言ったとしても、それは疑いもなく、僅かなことにすぎないからである。すでに引用した句によっても、そのことをいくらかでも、推し測ることができるであろう。それで、この歌の第一行目の説明を終わらせるため、また、この夜が霊魂の中で行う動きを、よりよく解らせるために、これについて、エレミアが感じたことを書き記そう。彼の感じたことは、あまりにもひどいことなので、彼はこれを、次のように、多くの言葉を費やして語り、そして泣き叫んでいる。「私は彼の怒りの鞭を受けて、自分の貧しさを知った男である。彼は私を脅かし、光の中ではなく、闇の中を歩かせ、御手をもって、一日中、繰り返して私を攻めた。主は肉と皮とをすり減らし、骨を砕き、苦味と苦難で私を取り囲んだ。ずっと前に死んだ者のように、私を暗い所に住まわせた。主は私を囲いに入れて、出られないようにし、私の鎖を重くした。私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、切り石で私の出口と道とをふさぎ、私の小道を切り崩された。主は私にとって、待ち伏せする熊のように、隠れ場にいる獅子のようになられ、私の道をかき乱し、ずたずたにし、私を見るかげもないものとされた。彼はその弓を張り、私を矢の的のようにし、私の腎にえびらの矢を射し込まれた。私は万民のからかいの的となり、一日中、彼らのあざけりの歌となった。彼は私を苦味で飽き足らせ、苦よもぎで私を酔わせ、小石で私の歯を砕き、灰の中に私を打ち倒された。私の霊は平安から遠のき、私は幸せを忘れ去ってしまった。私は言った、私の目的、私の目差すところ、主から受けた希望も去った、と。私の惨めさと苦しみと、この苦よもぎと苦肝にみ心をかけてください。私の魂は絶えずそれを思い、私の中でくずれおれる」(哀3・1~20)。

エレミアは、これらの苦しみや試練に関して、これらすべての嘆きを述べているのであって、その中で彼は、この霊的夜の中にある人の苦しみを、生き生きと描き出している。そこで、神がこの恐ろしい、嵐のような夜の中に置かれた霊魂に対しては、深い同情を寄せるべきである。なぜなら、ヨブが言っているように、「神が霊魂の中に、闇から深い幸せを引き出し、死の影を光とされる」(12・22)とき、また、ダビデが言うように、「主の闇が、光のようになる」(詩139・12)とき、この夜が霊魂にもたらす大きな祝福のゆえに、霊魂は非常な幸福を感じているとはいえ、やはり、忍びつつある限りなく大きな苦しみと、自分の救いが全く不確実であることのために、大いに苦しむからである(というのも、それは、ここでこの預言者が言っているように、「自分の悪は終わることがない」と信じているからであり、また、ダビデも言っているように、「神は自分を永久に死んだ人のように、闇の中に住まわされる。それゆえ、私の霊は私のうちで衰えはて、私の心は私のうちでこわばった」(詩143・3~4)と思えるからである)。なお、この上に、この暗夜が霊魂にもたらす孤独と、打ち捨ての状態が原因となって、霊魂は、どんな教えにも、どんな霊的指導者にも、慰めや支えを見出せないということが加えられるからである。たとえ、指導者が、ありとあらゆる方法を使って、これらの苦しみの中に隠されている宝ゆえに、心を慰めるべき理由を明らかにしても、彼は、それを信じることができない。何しろ霊魂は、苦しみの感情にひたりきり、沈みこんでおり、その中で自分の惨めさをあまりにもはっきりと見ているので、霊魂には、指導者たちは、自分が見たり感じたりしていることを見ないから、自分を理解せずに、そのようなことを言うのだとしか思えない。そして、慰めを受けるどころか、かえって新たな苦しみを受けるのであって、これは、自分の悪からの救いの手段ではないと思われる。そして、これは事実、その通りである。なぜなら、主がご自分の望みに従って霊魂をすっかり浄め終えてしまわれるまでは、霊魂の苦しみを失くすのに役立つ手段も方法もないからである。それどころか、この状態にあっては、霊魂は、ちょうど、暗い地下牢の中に手足を縛られてつながれている人のようで、何をすることもできず、動くことも、見ることもできない。また、それが、上からのものであろうと、下からのものであろうと、何らの恩恵を感じることができない。ただし、それは、ここで霊が浄められて、謙遜になり、素直になり、神の霊と一つになることができるほどに繊細に、単純に、デリケートになるまでのことである。それは、神の憐れみが、その霊魂に与えようと思われる愛の一致の度合いに応じてのことであって、浄化の厳しさの程度とその期間の長短も、これに比例する。

しかし、もし、その浄化が本当の浄化であるならば、それがどんなに厳しいものであっても、数年間は続くはずである。とはいうものの、浄化の過程には、一息つくことのできる暇もあって、その時には、神の憐れみによって、この闇の観想は、浄化という形ややり方で霊魂を襲うことを止め、かえって、霊魂を照らすようにして、愛深く霊魂を襲う。その時、霊魂は、地下牢をぬけ出し、手かせ足かせを解かれて、広々とした空間と自由を楽しむことができるようになったかのようで、たやすく、豊かに楽しむことのできる霊的な交わりのうちに、平和の大いなる甘美さと、神の愛深い友情を感じ、味わうのである。霊魂にとって、これは、浄化が霊魂の中にもたらしつつある健康のしるしであり、さらに、霊魂が期待している豊かさの前味である。時々は、このような慰めが非常に大きいので、霊魂は、自分の試練はもう終わってしまった、と思い込むほどである。というのも、霊的なことは、それがより一層、純粋に霊的である場合には、霊魂の中で、次のような性質を持っているからである。すなわち、それが試練である場合には、霊魂は、自分はもう決してそこから逃れることはできないと信じ、また、先に引用した句に見られる通り、自分の善は、すべてなくなってしまったと思い込む。そして、それが霊的な祝福である場合には、霊魂は、同様に、もう自分の試練は終わりを告げ、この祝福は二度となくなることはないだろうと信じ込む。これは、祝福のさなかにある自分を見て、ダビデが次のことばで告白したことである。「私は豊かさの中にあって行った、『私は揺るがされることはない』」(詩30・7)と。

こういうことが起こるのは、霊の中にある二つの相反するもののうちの一つを、現実に所有することが、これに相反するもう一つのものを、現実に所有し、実感することを、自分から押しのけてしまうからである。しかし、霊魂の感覚的部分においては、このようには起こらない。なぜなら、感覚的の知覚は、弱く、もろいからである。とはいえ、霊は、その下級部分から感染したいろいろの愛着から、まだ完全に浄化されておらず、清くなっていないので、霊としては変わることはないが、これらの愛着に影響されたものとしては、苦しみに変わることもあり得る。これは後に、ダビデが変わったことによってもわかることであって、彼は、満ち足りていた時には、決して揺り動かされることはないであろうと思っていたし、また、口でもそう言っていたのであったが、後には、多くの悪と苦しみを感じるようになった。このように、霊魂は、自分が霊的祝福に満たされて、それによって動かされているのを見る時、自分の中にまだ残っている不完全と不純の根には気づかず、もう自分の試練は終わったと考える。

とはいえ、このような考えが霊魂に残るのは稀なことである。なぜなら、霊の浄化が完全に終わってしまうまでは、霊魂の中に残っている根を覆い隠し、霊魂がその内奥において、自分にはまだ何かが欠けていること、あるいは、もっとしなくてはならないことがあるということを感じなくなるほど、あの甘味な交わりが豊かに与えられることは、ごく稀だからである。それで、霊魂は、このような憩いの時期を完全に楽しむことはできず、自分の中には敵のようなものがいるように感じる。そして、この敵は、今は静かに眠っているようであるが、いずれまた、活発に動き出して、自分勝手なことをするようになるのではないかと心配になる。それは、その通りである。霊魂が一番安全な状態にいて、あまり警戒していないとき、敵は霊魂を再び飲み込み、自分の中にひきずり込み始め、その程度は以前よりも一層悪く、もっとひどく、もっと暗く、もっと悲惨である。そして、この苦しみは、以前より長期間続き、おそらく最初の時期よりも、はるかに長時間のものとなるであろう。ここで霊魂は、再び、自分にとって、すべてよいものは永久に終わりを告げてしまったのだ、と信じるようになる。最初の試練のあとに楽しんだ、あの過去における恵みの体験、すなわち、もはや、これからは苦しむことはないだろうと考えられたあの経験も、試練のこの第二段階においては、これらすべての恵みは取り去られてしまって、過去の時のように、再びもどってくることはないのだ、と信じることを止めさせるのには充分役に立たない。というのも、私が言うように、霊魂が確信しているこの信念は、霊の現実的な知覚から、霊魂の中に引き起こされるものであるからで、この知覚は、霊魂の中にある自分に反するすべてのものを、すべて絶滅してしまうものだからである。

煉獄にいる霊魂たちが、自分たちは、いつかはそこから出られるはずだということや、その苦しみは終わるはずだということに対して、なぜ、大きな疑惑に襲われるのか、ということの理由は、まさにこれである。なぜなら、彼らは、習性的には三つの対神徳、すなわち、信仰、希望、愛を持っているが、現在自分の苦悩や、神を失っているということについて抱いている実感が、これらの諸徳がもたらす現実の善や慰めを楽しむことを許さないからである。自分は、神に対して、大いなる愛を持っているのはわかっても、これらは、彼らにとって、何の慰めにもならない。というのも、神が自分たちを愛してくださるとは思えないし、自分たちは、神に愛されるに値するものとも思えないからである。それどころか、彼らは、自分は神を失い、自分の惨めさの中に打ち捨てられているのであるから、永久に神に憎まれ、捨てられることこそ、自分にとって最も道理にかなったことだと考える。このようにして、霊魂は、この浄化の中にあって、自分が神に対して大いなる愛を抱き、神のためなら千のいのちでも捧げようとしていることを知っているのであるが(これは、本当である。なぜなら、この試練のさなかに、このような霊魂は、真実に神を愛しているからである)、それにもかかわらず、これは、彼らの苦しみを軽減するものではなく、かえって、より大きな苦しみのもととなる。なぜなら、霊魂が神を愛することは非常なもので、神以外のことは、念頭にないくらいなのであるが、自分がこんなにも惨めなのを見て、神が自分を愛しておられるなどとは信じられないし、また、愛されるだけの理由があるとも、将来そうなるとも、考えられないからである。かえって、神からだけではなく、すべての被造物からも、永久に憎まれる理由があると考え、自分がこんなにも愛し望んでいる方から捨てられるのにふさわしい理由が自分の中にあるのを見て、深く悲しむ。

この状態において霊魂を悩ます他の苦しみについて

しかし、ここには、霊魂をひどく悲しませたり、嘆かせたりするもう一つのことがある。それは、この暗夜が、霊魂の主能力や愛好を、このように付随にしたので、霊魂はもう、心や精神を神にあげることも、祈ることもできなくなっていることである。祈ることがあるとしても、それは、力もなく、味もないもので、神が自分の祈りに心を留められ、それを聞き入れてくださるとは思えない。この時期は、霊魂にとって神と語る時ではなく、むしろ、「もしかしたら、まだ望みがあるかもしれないので、口を塵につけて」(哀3・29)、忍耐深く、浄化を忍ばなければならない時である。ここで霊魂の中に、受動的に業を行っておられるのは神である。したがって、霊魂は何一つすることができない。それで、霊魂には祈ることも、神のことに専念することもできず、まして、この世の事柄や用事にたずさわることなど出来ないのである。そればかりでなく、多くの場合、ひどい散心や、深刻な記憶の喪失に陥り、何をし、何を考えたかもわからず、あるいは、今何をしているのか、何をしようとしているのかも知らないで長時間が過ぎ去るほどである。また、自分がしていることにいくら注意を払おうとしても、そうすることができない。神との一致を目指して、その諸能力とともに、神的なものへ準備され、鍛えられるためには、霊魂は、まず諸能力とともに、観想のこの神的で、ほの暗い霊的光の中に吸い込まれる必要がある。この光は、霊魂の自然性を越えたものであるから、前に、霊魂が自然的光を通して獲得した知識や、自然的愛好をすべて奪い去り、霊魂を闇に包む。そして闇に閉ざすばかりでなく、霊的にも、自然的にも、諸能力および欲求に関しても空にする。神は、このように霊魂を、霊的な神的光で浄化し、照らすのであるが、霊魂には、自分が光を持っているようには考えられない。むしろ、霊魂は、闇の中にいる心地がする。詳しくしかし、ここには、霊魂をひどく悲しませたり、嘆かせたりするもう一つのことがある。それは、この暗夜が、霊魂の主能力や愛好を、このように付随にしたので、霊魂はもう、心や精神を神にあげることも、祈ることもできなくなっていることである。そして、エレミアにおいて、そうであったように(哀3・44)、神は、祈りが通らないように、その前に雲を置かれたように思う。というのも、これこそ、先に引用した「彼は私の道に岩を置いてふさがれた」という句が意味しているところだからである。そして、時折祈ることがあるとしても、それは、力もなく、味もないもので、神が自分の祈りに心を留められ、それを聞き入れてくださるとは思えない。これは、あの預言者が同じところで次のように言っている通りである。「私は叫んで助けを乞うたが、彼は私の祈りをきかれない」(哀3・8)と。事実、この時期は、霊魂にとって神と語る時ではなく、むしろ、エレミアが言っているように、「もしかしたら、まだ望みがあるかもしれないので、口を塵につけて」(哀3・29)、忍耐深く、浄化を忍ばなければならない時である。ここで霊魂の中に、受動的に業を行っておられるのは神である。したがって、霊魂は何一つすることができない。それで、霊魂には祈ることも、神のことに専念することもできず、まして、この世の事柄や用事にたずさわることなど出来ないのである。そればかりでなく、多くの場合、ひどい散心や、深刻な記憶の喪失に陥り、何をし、何を考えたかもわからず、あるいは、今何をしているのか、何をしようとしているのかも知らないで長時間が過ぎ去るほどである。また、自分がしていることにいくら注意を払おうとしても、そうすることができない。こういうわけで、ここでは単に理性がその光から、また、意志がその愛着から浄化されるばかりでなく、記憶もその推理や知識から浄化される。それで、ダビデがこの浄化にあたり、自分に関して言っている次の句、すなわち、「私は無に帰せられたが、私はそれを知らなかった」(詩73・22)が成就するために、霊魂は、これらすべてのものから無に帰せられることが必要なのである。この、「知らない」ということは、記憶の無知と忘却とによることであり、こういう放心状態や記憶の喪失は、この観想が、その中に、霊魂を吸い寄せてしまった内的潜心によって、引き起こされているのである。なぜなら、神の神的一致を目指して、その諸能力とともに、神的なものの方へ準備され、鍛えられるためには、霊魂はまず、これらの諸能力とともに、観想のこの神的で、ほの暗い霊的光の中に、吸い込まれてしまうことが必要だからである。こうして、被造物についてのすべての愛好や知覚が吸収されるのであるが、この状態は、普通、その浄化の強度の度合いに従って、継続の長さを異にする。それで、この神的光が霊魂を襲う際に、より単純で、より純粋であればあるほど、ますます霊魂を、上のことに関しても、下のことにかんしても、その個別的な知覚や愛好に関して暗くし、空にし、それを根絶する。また、この光が、その侵入に際して、それほど単純でも純粋でもない場合、それが引き起こす剥奪や闇は、霊魂にとって、それほどのものではない。超自然的で神的な光は、明るければ明るいほど、そして、純粋であればあるほど、ますます霊魂を闇で包むということ、また、あまり明るくもなく、純粋でもなければ、霊魂にとって、それほど暗くもない、ということは、信じられないことのように思われる。これは先に、哲学者の格言によって証明されたことを考察するならば、よく理解することができる。すなわち、超自然的なことは、それ自体において、より明らかで、より明白であればあるほど、私たちの理性にとっては、一層暗いものなのである。このことを、一層わかりやすくするために、普通の、自然界の光りからたとえをひいてみよう。窓を通して入って来る太陽の光線を見る時、それが純粋で、ほこりが入っていなければいないほど、ますます明るくないように見える。かえって、空中にほこりやゴミがあればあるほど、その光は、より輝かしく目に映る。その訳は、見られるものは光そのものではなく、光は、光が襲う他のものが見られるための媒介にすぎないからである。そしてその時、光は、また他のものの中に起こす反射によって見られるが、もしも反射を起こさなかったら、光も、他のものも、ともに見られないであろう。同様に、太陽の光線がある部屋の窓から入って、その部屋を横切り、反対側の窓から出たとする。その時、この光線が途中何物にもぶつからず、空中にも反射すべき微粒子がなかったとすれば、その部屋は前よりも多くの光に満たされる訳でもなく、また、その光線も目には映らないであろう。それどころではなく、注意深く観察してみると、光線の通り道はより一層暗くなっているのである。というのも、この光線は、他の光を圧倒し、暗くしてしまうからである。しかも、この光線自身は目に見えないからである。これは、前にも言った通り、それが反射を引き起こすような目に見える対象が、何一つないからである。

観想の神的光線は、霊魂の中で、全くこれと同じことを行う。観想は、その神的な光をもって霊魂を襲うが、それは、霊魂の自然性を越えたものであるから、前に、霊魂が自然的光を通して獲得した知識や、自然的愛好をすべて奪い去り、霊魂を闇に包む。これを単に、闇に閉ざすばかりでなく、霊的にも、自然的にも、諸能力および欲求に関しても空にする。そして、このように霊魂を、空白と闇の中に置き去りにすることによって、霊的な神的光で霊魂を浄化し、照らすのであるが、霊魂には、自分が光を持っているようには考えられない。むしろ、霊魂は、闇の中にいる心地がする。それはちょうど、先に、太陽の光線について述べたとおりであり、光は、たとえ、部屋のまん中にあっても、それが純粋で、途中ぶつかるものが何もないならば見えないのである。霊魂を襲うこの霊的光が、反射すべき何物かを持っている場合には、すなわち、たとい、どんなに小さな微粒子であっても、霊的に、完全、不完全について、理解され得る事柄が何か提示される時、あるいは、誤謬または真実についての判定が現れる時には、直ちにそれが見えるのであり、この暗い場所に入る前よりも、ずっとはっきりそれが解るようになる。同様に霊魂は、自分に示される不完全をたやすく知るために持っている霊的な光を認めるようになる。これはちょうど、先に述べた光線が、部屋の中で暗いものである時、それは目に見えないが、その通り道に、手か、あるいはその他のものを差し出すならば、すぐにその手が見え、そこに太陽の光線があることに気がつくのと同じである。

この霊的な光は、非常に単純で、純潔で、総括的であるから、自然界にも、神的にも、理解できるどんな事柄にも、影響されたり、拘束されたりしてはならない(なぜなら、こういう一切の知覚に関して、霊魂の諸能力は空であり、無に帰せられているからである)。したがって霊魂は、上からのものも、下からのものも、提示される一切のものを、非常に広範に、やすやすと了解し、洞察する。それゆえ、使徒は、「霊的な人は神の深みまですべてを見通す」(1コリント2・10)と言ったのである。というのも、この総括的で単純な英知については、聖霊が賢者を通して言っておられる次のことが、理解されるからである。すなわち、「知恵は、その純粋さのために、どんなものをも貫き、入り込む」(知7・24)と。これは、すなわち、知性や愛好の、どんな個別的な対象にも限定されていないから、の意である。これは、個別的な愛好や悟性の対象のすべてから浄められ、無に帰せられた霊の特徴であって、この、特別には何ものも味わわず、何ものも理解しないということの中に、すなわち、その空虚と闇の中に留まりながら、大きな適応性をもって、すべてをかき抱く。それは、その中に、聖パウロの、「何も持たない者のようであるが、すべてのものを持っている」(2コリント6・10)という言葉が成就するためである。なぜなら、これほどの幸福は、霊のこれほどの貧しさによるものだからである。

この夜はどれほど霊を照らし、霊に光を与えるためのものであるかについて

この幸福な夜は、霊に闇をもたらすものであるとはいえ、それはただ、すべてのことに関して、霊に光を与えるためにそうするのである。また、霊をへりくださせ、惨めな状態に置くとはいえ、それはただ、霊を高揚し、高くあげるためにのみそうするのであり、さらに、霊を貧しくし、自然的愛情や執着のすべてから空にするとはいえ、それはただ、霊が上のことも下のことも、すべてを霊的の自由さをもって味わうようになるほど、神的に拡がることができるためにそうするのである。霊は、自然的な愛好からは、純潔で、赤裸でなければならない。それでこそ、霊の広やかさをもって、自由に神的英知と交わることができるのであって、霊魂は、その清らかさゆえに、すべてのもののあらゆる甘味さを一層すぐれた方法で味わうようになる。この浄化なしには、どんなにしても、この豊かな霊的甘味の豊満を余すところなく味わうことも、感じることもできない。なぜなら、霊魂がたった一つの愛着を持っていてさえも、あるいは、霊が何か特殊なものに捉えられているならば、もう、それだけで、あらゆる味わいを含んでいる愛の霊の、繊細さや、親密な甘味さを、感じることも味わうことも、それに与ることもなくさせるのに十分だからである。霊魂は暗夜においてすべての苦しい浄化を忍ぶのであるが、それは、この神的影響によって、霊魂を霊的生命に生まれ変わらせるためである。霊魂は、この苦悶のさなかに救いの霊を生み落とす。なおこの他に、この観想の夜を通して霊魂は、内的な平和と静けさに達するために準備を整えるのであるが、この平和は、聖書に「あらゆる人知を越えるもの」(フィリピ4・7)と記されているように、非常に快いものであって、霊魂に、今までもっていた平和を残らず投げ捨てさせるほどである。実際、今まで持っていた平和は不完全だらけであったから、本当の平和ではなかった。ただその霊魂にとっては平和と見えただけである。詳しくここにまだ言い残されていることは、この幸福な夜は、霊に闇をもたらすものであるとはいえ、それはただ、すべてのことに関して、霊に光を与えるためにそうするのだ、ということである。また、霊をへりくださせ、惨めな状態に置くとはいえ、それはただ、霊を高揚し、高くあげるためにのみそうするのであり、さらに、霊を貧しくし、自然的愛情や執着のすべてから空にするとはいえ、それはただ、霊が上のことも下のことも、すべてを霊的の自由さをもって味わうようになるほど、神的に拡がることができるためにのみそうするのだ、ということである。ちょうど、自然界のあらゆる実体や合成物と関係をもつための諸能力のように、いろいろな味や香りや色に統合されるためには、自らはどんな特殊な色にも香りにも味にもそまっていてはならないのと同じように、霊も、現行的にも習性的にも、自然的な愛好からは、すっかり単純で、純潔で、赤裸でなければならない。それでこそ、霊の広やかさをもって、自由に神的英知と交わることができるのであって、そこでは霊魂は、その清らかさゆえに、すべてのもののあらゆる甘味さを一層すぐれた方法で味わうようになる。この浄化なしには、どんなにしても、この豊かな霊的甘味の豊満を余すところなく味わうことも、感じることもできない。なぜなら、霊魂がたった一つの愛着を持っていてさえも、あるいは、霊が現行的にせよ習慣的にせよ、何か特殊なものに捉えられているならば、もう、それだけで、自らのうちにひときわすばらしく、あらゆる味わいを含んでいる愛の霊の、繊細さや、親密な甘味さを、感じることも味わうことも、それに与ることもなくさせるのに十分だからである。イスラエルの子らには、ただ一つ、エジプトで味わった肉やその他の食べ物の思い出と愛着が残っていただけで(出エジプト16・3)、彼らは砂漠で天使のデリケートなパンを賞味することができなかったのである。この天使のパンはすなわマンナであり、聖書に記してあるとおり(知16・21)、あらゆる味の甘味さを含んでおり、しかも、各人の好みに従って、どんな味にも変わるものであったのである。これと同様に、霊が、現行的なものであろうと、習性的なものであろうと、まだ何かの望みにほだされていたり、具体的な知性の対象、その他の知覚に執着しているならば、霊は意志が望んでいる通りに、自由の霊の喜びを味わうところまでは至りつくことができない。この理由は、完全な霊が持っている愛好や知覚は、神的なものであるから、自然的なそれとはまったく別の秩序に属し、種類の違うすばらしいものであることにある。したがって、そのうちのあるものを現行的にも習性的にも所有するためには、必然的に他のものを駆逐し、滅ぼし尽くさなければならない。相反する二つの者は、同じ一つの主体の中に同時に存在することはできないからである。したがって、霊魂がこういう偉大なことに達しようとするならば、観想の暗夜がまず、霊魂のうちの程度の低いものを無に帰し、滅ぼし尽くしてしまい、霊魂を闇と乾きと苦悩と空虚のうちに置くことがなによりも適当不可欠なことである。というのも、霊魂に与えられる光は、自然界のあらゆる光を超越する最も高い神的な光であって、自然的には理性の中に入れないからである。

それで、理性がこの光と一致するところまで達し、完徳の段階において自らを神的なものとすることができるためには、この闇に包まれた観想を通して、実際の闇の中に置かれ、第一に、その自然的光において浄化され、無に帰せられなければならない。この闇は、長い間に、自己流に理解するようになっている霊魂自身のうちに形成された習性を追い出し、滅ぼし尽くす必要がある限り継続しなければならないのであって、その習性の代わりに、照らしと神的な光とが留まるようにならなければならない。ところで、霊魂が前に持っていた理解力は、むしろ自然的なものであるから、今、ここに苦しんでいる闇は、深く、恐ろしく、非常に骨の折れるものとなってくる。なぜなら、この闇は、霊の実体の奥底において感じられるので、これは実体的闇であると思われるからである。全くその通りで、愛の神的一致において、霊魂に与えられなくてはならない愛の愛好は、神的なもので、したがって、それはまた、非常に霊的で、微妙で、繊細で、ごく内的なもので、意志の嗜好や感情のすべてを超越し、その欲求のすべてを凌ぐものである。それで、愛の一致を通して、意志が、自然的には意志の中には入ってこないほど卓越した神的愛好と喜びとを感じ、体験することができるためには、まず第一に、意志がその愛好と感情のすべてにおいて浄められ、無にきせられなければならない。神的なことに関したものも、人間的なことに関したものも、とにかく意志が自然的愛好について持っている習性に従い、適当である限り、意志を無味乾燥と身動きのできない状態のうちに取り残しておくことである。こうして、この暗い観想の火の中で弱らせられ、乾ききり、すっかり鍛えられて、意志があらゆる種類の悪魔に対して(ちょうどトビアによって熱火の中に置かれた魚の心臓のように)(トビア6・19)、単純、純潔な下地を整えるためであり、また、浄化された健全な口を持つためである。それは稀にしか与えられない崇高な神の愛の接触を感知することができるためであるが、意志はこの接触のうちに、自分が神的に変化されたのに気づくであろう。そして、すでに述べたように、以前持っていたすべての相反するものが、現行的なものも、習性的なものも、みな追い出されることに気づくであろう。

さらに、前に述べた一致の中では、この暗夜が霊魂を準備し導いてゆくのであるが、霊魂は神との交わりにおいて、一種の光栄に満ちた壮麗さを授けられ、それに満たされていなければならない。この神との交わりは、それ自身のうちに霊魂が自然的に持つことのできるあらゆる豊かさに勝る無数の歓喜の宝を、その中に蔵している、というのは、これは、このように弱く不純な自然性の中へは受け入れることはできないものだからである。なぜなら、イザヤが言っているとおり、「神が準備なさったことは、目にもこれを見ず、耳もこれを聞かず、人の心にものぼったことのない」(66・4)からである。それで、何よりもまず第一に霊魂は空虚さと、霊的貧しさの中に置かれ、上のものも、下のものも、すべてに関して、あらゆる支えや慰めや、自然的知解から浄められることが必要である。それは、このように空になることによって、霊魂は真に心の貧しいものとなり、古い人を脱ぎ捨てて、この夜という手段によって達することのできるあの幸福な新しい生命を生きることができるためである。これがすなわち、神との一致の段階である。

ところで霊魂は、神的なことに関して、また人間的なことに関して、自分自身のありきたりの体験や自然的な知識の中には入ってくることのない非常に高尚で、甘味にみちた神的な感覚と知識とを所有するまでにならなければならないのであるから(というのも、霊魂は、以前とは非常に異なった目をもってすべてのことがらを眺めるからで、そこには、霊が感覚とは異なるほどの隔たりがあり、神的なものが人間的なものとは異なるほど隔たりがある)、ありきたりな自然的感覚に関して霊をとぎすまし、練り鍛えなければならない。それには、この浄化の観想を通して霊を大きな不幸と苦悩のうちに置き、内的な感覚と、旅人のような感覚、そして、すべてのことがらについては無関心であることによって、記憶をすべて快い穏やかな知解から遠ざけておかなければならない。そこでは、霊魂にはすべてが無関係で、今までそうであったのとは全く違った在り方のもののように思われる、なぜなら、この夜が霊を次第に、その凡庸平俗な「ものの感じ方」から、こういうところへ引き出してくるからで、これは、霊を神的な感覚のほうに近づけてゆくためである。神的な感覚はおよそ人間的な方法とはかけ離れて、苦悩の中を歩いているように感じる。また別のときには、それが眩惑や失神であるかのように思われ、見たり聞いたりすることが、すべて不思議でたまらず、実際には今まで体験し慣れてきたのと同じであるのに、全く不慣れな珍奇なことのように思われる。その原因は、霊魂がものごとについてのありきたりの感覚や知識から遠ざかったことにある。それは、このようなことにおいて、自分を無に帰したことによって、神的知識に十分に通じるためであるが、これは、すでにこの世よりもむしろ、あの世のものである。

霊魂はこれらすべての苦しい浄化を残らず忍ぶのであるが、それは、この神的影響によって、霊魂を霊的生命に生まれ変わらせるためである。霊魂は、この苦悶のさなかに救いの霊を生み落とす。なぜなら、イザヤのことばが実現されるからである。彼は言う。「主よ、あなたの御顔の前に、私たちは身ごもり、陣痛に苦しむもののようになった。そして救い主の霊を生んだ」(26・17~18)と。なおこの他に、この観想の夜を通して霊魂は、内的な平和と静けさに達するために準備を整えるのであるが、この平和は、聖書に「あらゆる人知を越えるもの」(フィリピ4・7)と記されているように、非常に快いものであって、霊魂に、今までもっていた平和を残らず投げ捨てさせるほどである。実際、今まで持っていた平和は不完全だらけであったから、本当の平和ではなかった。ただその霊魂にとっては平和と見えただけである。というのも、霊魂は自分の思うままにできたことによって、それが平和と思っていたからである。これを二重の平和というのは、霊魂は、自分が霊的な豊かさで満たされていることに気づき、すでに感覚の平和と霊の平和とを獲得したいと思ったからである。しかし、この感覚と霊の平和は、私が言うように、まだ不完全なものである。したがって、霊魂は、まず第一にこの平和において浄められ、その平和を乱され、そこから離れることが必要である。これはエレミアが感じ、嘆いたことであり、彼は過ぎ去ったこの夜の悲惨さを表現しようとして、私たちが先に引用した一節の中で次のように言っている。「私の魂から平和が去った」(哀3・17)と。

これは、霊魂が自分自身の内部にもっている多くの懸念と想像と戦いとの苦しい混乱である。この乱れの中で霊魂は、自分を包んでいる多くの惨めさを知り、実感するので、自分はもう破滅してしまった、そして、自分の宝は永久に失われてしまったと考える。これによって、霊魂は、その霊の中に非常に深い嘆きと苦痛を覚えるが、それは激しい霊的うめきと叫びとを引き起こすほどであり、時としては、それが口から声となって出ることさえある。また、そうするだけの力と勢力がある時には、涙のうちにそれを消すのであるが、このような安らぎが与えられることは、ごく稀にしかない。ダビデは、これをよく経験した者として、詩編の中で、実に適切にそのことを描写して言っている。「私はひどく苦しめられ、はずかしめられ、心のうめきに吠え叫んだ」(詩38・9)。このうめきというのは、ひどい苦しみのことである。というのも、時として、自分自身をその中に見出すこれらの惨めさの、突然の、そして鋭い自覚によって、霊魂は波立ち、霊魂の心情は苦しみと悩みのうちに包まれてしまうからであり、これと同じ試練の中にいた聖なるヨブがもらした次のことばになぞらえる以外に、私はこれをどのように説明したらよいのかわからない。すなわち、「私のうめきは水のように流れる」(3・24)ということばである。時として水は、すべてを水びたしにし、すべてに満ちるほどの洪水となることがあるが、これと同じように、霊魂のこのうめきと悩みも、時として霊魂をすっかり飲み込み、貫き通すほどひどくなり、霊魂の奥底の愛好と力のすべてを、どんなに言っても決して大げさにならないほどの霊的な苦しみと悩みとで満たすほど増大する。

これが、日の光についての希望を秘めている夜が、霊魂の内部に行う業である。なぜなら、これについてもやはり預言者ヨブは言っているからである。「夜、私の口は苦しみにうがたれ、私を貪るものらは眠ることがない」(30・17)と。ここで言う口とは意志のことで、それは霊魂を粉々にし続けて止むことも眠ることもないこれらの苦しみによって貫かれる。なぜなら、霊魂を刺し貫く疑いと不安は、決して止むことがないからである。

この闘いと争いは非常に深いものである。なぜなら、霊魂が待ち望んでいる平和は非常に深いものであるはずだから。霊的な苦しみは内奥のもので微妙なものである。なぜなら、霊魂がのちに持つべき愛もまた、非常に内奥のもので苦しいものだからである。建物が一層内的で、念入りなものとして出来上がるためには、その仕事も一層内的に、念を入れて行わなければならず、また純粋でなければならない。また建物は堅固に建てられていればいるほど一層、頑丈である。それでヨブが言っているように、「霊魂は自分のうちにしおれ、その内部は何の希望もなしに煮えたぎる」(30・16)のである。これは実に、その通りである。霊魂は、この浄化の道を通って到達する完徳の状態において、霊魂の実体においても、また、その諸能力においても、賜物と徳との数えきれないほどの善いものを所有し、これらを楽しむようになるはずだからで、第一に、これらすべてから遠ざかり、それらを奪われ、それからすっかり貧しくなり、空っぽになっている自分を見、感じることが必要である。そして、自分は決してそれらの善に達することはできないだろうと思うどころか、かえって、自分にとって、すべてよいものは、もうなくなってしまったと確信するほどに、自分はそれらの善からかけ離れていると信じ込むようでなければならない。すでに引用した一節の中でエレミアが、「私はもう、よいことを忘れた」(哀3・17)と言って明らかにしているのと同じことである。

しかし、ここで私たちは、なぜ、この観想の光は、これ以上望めないほど霊魂にとって快く、友のようなものでありながら(というのも、前に言ったとおり、この観想の光は、それによって霊魂が神と一致し、待望の完徳の段階において、すべてのよいものをその中に見出すはずのものだから)、そのはじめにあたっては、その侵襲によって、ここに述べたような、こんなにも苦しく、こんなにもそっけない結果を引き起こすのか、その理由を見てみることにしよう。

この疑問に対しては、すでに部分的に述べたように、容易に答えることができる。すなわち、このようなことの原因は、観想や神的なことの注賦などにはないのである。これらには、それ自体、苦痛のもととなるようなものは何一つない。かえって、それらは、深い甘味と喜びとを与えるのである。原因は、むしろ、霊魂がそのとき苦しんでいる自分の弱さや不完全にあり、また自分のうちに持っている心の状態にあり、また、それらを受け入れるのに相反する傾きにある。それで、そういう中に、今話している神的な光が襲ってくると、霊魂は前に述べたような仕方で、苦しまなければならないのである。

火が薪を燃やす比喩によって、この浄化を説明する。

物質的な火が、最初に薪に働きかけることは、それを乾燥させ、湿気を外に追い出し、薪が含んでいる水分をしぼり出してしまうことである。それから薪をこがし、真っ黒にし、醜くし、悪臭を放つことさえなる。そして少しずつ乾かしてゆき、薪を明るくし、火に反対するような暗く醜いものをすべて追い払う。そして遂には、外側から薪を燃やし、熱くして、薪を火に変化させ、火そのもののように非情に美しくする。この時に至っては、薪には、その重さが火より重いこと、火に密接になっていること以外に何もない、なぜなら、薪のなかに火の特性と働きを持っているからである。それで、乾いていると同時に乾かし、熱いと同時に熱くさせ、明るくて輝いていると同時に明るく輝かせる。そして以前よりもはるかに軽くなっている。これらすべての特性や効果は、火が薪の中で働いて生じさせているのである。これと同じ仕方で、観想の愛のこの神的火について考察する。この火は霊魂を変容し、自分と一致させる前に、まず、自分と反対の偶有性のものすべてから霊魂を浄める。霊魂の醜いものを外に出し、霊魂を真っ黒にし、暗くするので、霊魂は、以前よりも悪くなり、今までよりももっと醜く、嫌悪すべきものになったと思われる。この神的浄化は、すべての悪徳や、悪い性質などを除去しているのだが、今まで、それらはあまりにも霊魂の中に根深く巣食っていたので、霊魂にはそれらが見えなかった。したがって、自分のうちに、これほどの悪いものがあろうとは気がつかなかった。しかし今、そういう悪を滅ぼし尽くすために、それらは目の前に置かれ、神的観想のほの暗い光に照らされているので、それらははっきりと見えるようになる(しかし、霊魂は自分自身においても、神との関係においても、決して以前よりも悪くなっているわけではない)。今まで見えなかったものが、自分自身の中に見えるので、自分は神に見られるに値しないばかりでなく、かえって、嫌われるのが当然であると思われ、また現に憎まれているのだと考える。この比喩によって、これまでに述べてきたことや、これから述べようと思っていることに関して、次の七つのことを理解することができる。

  1. 薪の中に入りつつ薪を火に変化させたその火は、まず最初に薪を準備していた火と同じである。それと同じように、霊魂の中で霊魂と一つにされ、変化されなければならないその光と愛に満ちた英知は、はじめに霊魂を浄化し準備する光と英知と同じである
  2. 薪に火がつけられても準備が整うまでは、すぐに火に変化されないのと同じように、霊魂は、霊魂自身が持っている弱さや不完全が無くなるまでは英知と一致することがない。このため、この苦しみを英知から来るものと感じない。
  3. 煉獄の霊魂はどのように苦しむか、ということである。なぜなら、もし、彼らが苦しまなければならない不完全を持っていないならば、たとえ火が彼らに触れても、火は彼らに対して何の力も持っていないはずだからである。不完全は、煉獄の火が燃え付くための材料であり、この材料が燃え尽きてしまえば、もう燃えるべきものは何もない。同じように、不完全がなくなれば、霊魂の苦しみは終わり、そこはただ、歓びが残るばかりである。
  4. この愛の火によって浄化されるにつれて、霊魂はどのように、ますます愛に燃え立つか、ということである。それは薪が燃えるにつれて、ますます熱くなってゆくのと同じである。とはいえ、この愛の燃焼は、霊魂が常に感じるものではなく、ただ観想が、それほど激しく霊魂を襲わないときにのみ感じられる
  5. こういう中休みがあったあと、霊魂はもう一度、以前よりももっと激しく、鋭く苦しむということは真実であるということである。なぜなら、火が、より深く薪の中に入り始めると、より大きな力と激しさとをもって薪の奥深くにあるものを燃やすのと同じように、愛の火は、より内面的になるに従い、激しくその霊魂を燃やすからである。
  6. なぜ、霊魂にはそのすべての善が失われ、自分が悪で満たされているように思われるか、ということである。それは、この時期には、苦味の他は何も訪れて来ないからである。これもまた、ちょうど燃えている薪のようなもので、燃やし尽くす火以外は、どんなものも触れてないのと同じである。
  7. 霊魂は、この中休みの時期を心ゆくまで味わうのであるが、まだ残っている一本の根に気づくならば、霊魂は、完全無欠な喜びを持つことは許されない、ということを実感せずにはいられない。なぜなら、新たな襲撃に脅かされているように思われるからである。そして、もし、一本の根が残っているなら、苦しみは直ちに返ってくる。結局、もっと中の方で浄化され、照らされるはずのものは、すでに浄化されたものを霊魂に隠すことができないのである。それはちょうど、薪において、一層内部で照らされるはずのものは、すでに浄化されたものとは異なっていることが、実に明らかに感じられるのと同じようなことである。そして、この浄化が再び一層内的に霊魂を襲って来たとき、霊魂には再び自分のすべての善がなくなり、それらの善のもとへは、もう二度と帰ることはないように思えても、別に不思議ではない。なぜなら、一層内的な苦悩の中に置かれているので、霊魂には外面的な善は何であろうと目に入らないからである。

詳しく

ところで、すでに述べたことと、これから述べようとしていることとを一層はっきりさせるためには、ここで言っているこの、浄化する力を持っている愛のこもった知識、または、神的な光は、霊魂を自分と一致させるために、霊魂を浄め、整えながら、ちょうど火が薪を燃やそうとして薪に働きかけるのと同じやり方で霊魂に働きかける、と説明するのがよいであろう。物質的な火が、最初に薪に働きかけることは、それを乾燥させることであり、湿気を外に追い出し、薪が含んでいる水分をしぼり出してしまうことである。それから間もなく薪をこがし、真っ黒にし、醜くし、悪臭を放つことさえなる。そして少しずつ乾かしてゆき、薪を明るくし、火に反対するような暗く醜い偶有性のものをすべて引き出し、追い払う。そして遂には、外側からそれを燃え立たせはじめ、熱くして、それを自分に変化させ、火そのもののように非情に美しくする。この時に至っては、薪には、その重さが火より重いこと、その実態が火よりも密であること以外、何らの受動性も、主動性もない、なぜなら、自分のうちに、火自身の特性と働きを持っているからである。それで、乾いていると同時に乾かし、熱いと同時に熱くさせ、明るくて輝いていると同時に明るく輝かせる。そして以前よりもはるかに軽くなっている。これらすべての特性や効果は、火が薪の中で働いて生じさせているのである。

これと同じ仕方で、観想の愛のこの神的火について考察しなければならない。この火は霊魂を変容し、自分と一致させる前に、まず、自分と反対の偶有性のものすべてから霊魂を浄める。霊魂の醜いものを外に出し、霊魂を真っ黒にし、暗くするので、霊魂は、以前よりも悪くなり、今までよりももっと醜く、嫌悪すべきものになったと思われる。この神的浄化は、すべての悪徳や、悪い性質などを除去しつつあるのであるが、今まで、それらはあまりにも霊魂の中に根深く巣食っていたので、霊魂にはそれらが見えなかった。したがって、自分のうちに、これほどの悪いものがあろうとは気がつかなかった。しかし今、そういう悪を外に投げ出し、滅ぼし尽くすために、それらは目の前に置かれ、神的観想のほの暗い光にあかあかと照らされているので、それらははっきりと見えるようになる(しかし、霊魂は自分自身においても、神との関係においても、決して以前よりも悪くなっているわけではない)。今まで見えなかったものが、自分自身の中に見えるので、自分は神に見られるに値しないばかりでなく、かえって、嫌われるのが当然であると思われ、また現に憎まれているのだと考える。この比喩によって、これまでに述べてきたことや、これから述べようと思っていることに関して、多くのことを理解することができる。

まず第一にわかることは、霊魂の中で霊魂と一つにされ、変化されなければならないその光と愛に満ちた英知は、はじめに霊魂を浄化し準備する光と英知とどれほど同じものであるか、ということである。これはちょうど、薪の中に入りつつ薪を自分に変化させたその同じ火が、同じ目的のために、まず最初に薪を準備していた火であるのと同じようなことである。

二番目に理解されることは、霊魂は決してこれらの苦しみを、前記の英知から来るものとして感じてはいないということである。というのも、賢者も言っているように、「よいものはみな、英知と共に霊魂に与えられる」(知7・11)からである。霊魂は、この浄化なしでは英知の神的光も、甘味も、歓びも受けることができないような霊魂自身が持っている弱さや不完全から来るものとして、これらの苦しみを感じているのである(それはちょうど薪のようなもので、いくら火がつけられても準備が整うまでは、すぐには火に変化されることができないのと似ている)。そのために霊魂は、これほどひどく苦しむのである。これは集会の書の記者も大いに共鳴するところで、彼が英知と一致し、それを楽しむようになるために忍んだ苦しみを次のように言っている。「私の魂は知恵と格闘し、私のはらわたは知恵を得るためにゆりうごめいた。それで私は大いなる善を所有するようになるであろう」(集51・29)。

ついでに引き出すことのできる第三のことは、煉獄の霊魂はどのように苦しむか、ということである。なぜなら、もし、彼らが苦しまなければならない不完全を持っていないならば、たとえ火が彼らに触れても、火は彼らに対して何の力も持っていないはずだからである。不完全は、煉獄の火が燃え付くための材料であり、この材料が燃え尽きてしまえば、もう燃えるべきものは何もない。同じように、不完全がなくなれば、霊魂の苦しみは終わり、そこはただ、歓びが残るばかりである。

第四にわかることは、この愛の火によって浄化されるにつれて、霊魂はどのように、ますます愛に燃え立つか、ということである。それは薪が準備されてゆくその仕方と過程に応じて、ますます熱くなってゆくのと同じである。とはいえ、この愛の燃焼は、霊魂が常に感じるものではなく、ただ観想が、それほど激しく霊魂を襲わないときにのみ感じられるものである。というのも、このような時、霊魂はそこに行われている業を見る余裕を持つだけでなく、それを楽しむ余裕さえ持ち、それが霊魂に示されているからである。それは、行われている作業がいくら見えるように、作業の手を休め、炉から鉄を引き出すようである。それで、この時は、霊魂には、作業の進行中には見ることのできなかった善を自分自身の中に見るだけの余裕があるのである。それはちょうど、炎が薪をなめるのを止めた時、薪がどれだけ燃えたかがわかるだけの余裕を生じるのと同じことである。

この比喩から引き出すことのできる第五のことは、もうすでに述べたことであるが、こういう中休みがあったあと、霊魂はもう一度、以前よりももっと激しく、鋭く苦しむということがどれほど真実であるか、ということである。なぜなら、今述べた兆しがあったのち、つまり、霊魂の不完全を外側から浄化したのちには、愛の火は、今度は、より内面的に、焼き尽くされ浄化されなければならないものに傷をつけ始めるからである。そのような中で、愛の火が、最も内面的で、微妙で、霊的な不完全を、また、霊魂の最も奥深いところにしっかりと根を張っている不完全を、浄化すればするほど、霊魂の苦しみは一層内面的で、微妙で、霊的なものとなる。それは、薪においてと同じ仕方でおこる。すなわち、火は、より深く薪の中に分け入り始めると、薪を占領しようとして、より大きな力と激しさとをもって薪の最も奥深くにあるものを整え始めるのである。

同様にここから引き出される第六のことは、なぜ、霊魂にはそのすべての善が失われ、自分が悪で満たされているように思われるか、ということの原因である。それは、この時期には、苦味の他は何も訪れて来ないからである。これもまた、ちょうど燃えている薪のようなもので、燃やし尽くす火以外は、空気も、その他のどんなものも触れてないからである。しかし、最初のときのような作業がなし終えられてからは、霊魂は前よりも深い内的喜びを味わうであろう。なぜなら、より内的に浄化されたからである。

七番目として、次のことがわかる。霊魂は、この中休みの時期を心ゆくまで味わうのであるが(前にも述べたように、時としては、もう二度と苦しみが戻って来ようとは思えないほどである)、それでも、苦しみが即刻、戻ってくる時、もし、まだ残っている一本の根に気づくならば(時としてその根が霊魂にそのことを気づかせる)、霊魂は、完全無欠な喜びを持つことは許されない、ということを実感せずにはいられない。なぜなら、新たな襲撃に脅かされているように思われるからである。そして、もし、その通りであれば、苦しみは直ちに返ってくる。結局、もっと中の方で浄化され、照らされるはずのものは、すでに浄化されたものを霊魂に隠すことができないのである。それはちょうど、薪において、一層内部で照らされるはずのものは、すでに浄化されたものとは異なっていることが、実に明らかに感じられるのと同じようなことである。そして、この浄化が再び一層内的に霊魂を襲って来たとき、霊魂には再び自分のすべての善がなくなってしまったように思われるとしても、別に驚くことではない。そして、それらの善のもとへは、もう二度と帰ることはないように思えても、別に不思議ではない。なぜなら、一層内的な苦悩の中に置かれているので、霊魂には外面的な善は何であろうと目に入らないからである。

それでは、この暗夜と、その恐るべき特質とに関する第一の歌の一行目について、すでに述べた説明とともに、この比喩を目の前に置きながら、霊魂のこれらの悲しい事柄から離れて、今はもう、その涙の実や、幸いなその特質について語り始めるのがよいであろう。それらについては、次の第二行目から歌い始めている。すなわち、

愛のもだえ炎と燃えたち

第一の歌の第二行目を解説しはじめる。あのような辛い苦しみの実として、霊魂はどれほど激しい神の愛の熱情のもとにいるかを描写する

愛のもだえ炎と燃えたちこの一行において、前に述べた愛の火が、この苦しい観想の夜の中で霊魂をとらえ始めていることを述べている。この暗い夜の中で、霊魂は、強烈な神の愛によって、鋭く、深く傷つけられたことを感じる。とはいえ、理解することなしに、そう感じるのである。というのも、悟性は闇の中にいるからである。この夜の中で、霊は強い愛に燃え立っていることを感じる。なぜなら、この愛の燃焼は、愛の熱情を生じさせるからである。この愛は、神から注ぎ込まれる愛であるから、能動的というよりは、受動的である。こうして、霊の中に強い愛の熱情を生じさせる。この愛は、すでに神との一致の幾分かを持ち始めている。それは、霊魂自身の行為というよりは、むしろ、神の行為であって、霊魂に受動的に合わせられている。とはいえ、霊魂がここですることは、それを承諾することである。しかし、熱と力、勇気と愛の熱情は、ただ、霊魂と一致しつつある神の愛からのみ来る。そして、霊魂が、自分のすべての欲求を閉ざし、それから離脱していればいるほど、神の愛は、霊魂と一致し、霊魂を傷つけるための余地と機会を、ますます多く霊魂の中に残す。このことは、この暗い浄化の中で徹底的に起こる。といのも、神は、愛好をすっかり乳離れさせ、押さえつけてしまわれたので、愛好は、自分の望むようなことに、何の楽しみも見出すことができないからである。こういうことはみな、神がなさるのであるが、それによって、霊魂が神の愛のこの強い一致に達するために、より多くの力と能力を持つようになるためである。この浄化を通じて、神はすでにこの一致を与え始められるが、霊魂はその時、霊的また感覚的な自分の力と望みとのすべてをこめて、力いっぱい愛さなければならない。もし、霊魂が他の何かを味わい楽しむことに自分を傾けているならば、神との一致はあり得ないからである。霊の中のこの愛の燃焼において、神は、霊魂のあらゆる力、能力、欲求を、霊的なものも感覚的なものも、すべて神に集中させ、この完全な調和の中で、その力と徳とをこの愛のために使うようにさせ、こうして、第一のおきて「心をつくし、霊魂をつくし、精神をつくして、主なる神を愛せよ」を真に実行することができるようにさせる。

この愛と神的な火が霊魂に施す接触は、霊を乾かし、この神的な愛に対する渇きを癒そうとする欲求を激しく燃え立たせるので、霊魂はさまざまな方法や手段を使って神を求めるようになる。ダビデはこれを、詩編の中に、見事に描き出している。「私の魂は、あなたに渇く。私の体は、どれほどあなたを渇き求めることか」(詩63・2)と。

これが、「愛のもだえ炎と燃え立ち」と言っているかの理由である。なぜなら、霊魂は、思いめぐらしている全ての考えにおいて、また、あらゆることにおいて、いろいろな仕方で神を愛するからであり、また、望みにおいても、あらゆるときに、あらゆる場所で、さまざまな仕方で望み、苦しみ、何ごとも憩いを見出さず、燃え上がっている傷の中に、このもだえを感じるからである。ここで、霊魂は真っ暗になるほどの苦しみに満たされる。なぜなら、ある種の光や霊的善から来る確かな希望を、慰めなしに待ち望み、苦しむからである。したがって、この愛の燃焼におけるこの霊魂のもだえと悲嘆は非常に大きい。それは、次の二つのことによって倍加されるから。その一つは、霊魂が今その中にいる霊的な闇によるものであって、その疑惑と懸念とで霊魂を苦しめる。もう一つは、神の愛によるもので、霊魂を燃え立たせ刺激するが、愛の傷で霊魂を全く驚くほどふるえおののかせる。

しかし、闇に包まれ、愛のこめられたこれらの苦しみのさなかで、霊魂は、自分のうちに、ある種の力と伴侶とを感じる。それは、しっかりと霊魂に伴い、霊魂を非常に力づけるので、もしも、締め付けるような闇の、この重苦しさがなくなってしまうならば、霊魂は多くの場合、孤独と空虚とゆるみを感じる。その原因は次の通りである。すなわち、霊魂の力と効力は、霊魂を襲った愛の暗黒の火によって、受動的に霊魂に与えられ、伝えられたものであるから、この火が襲いかかることを止めると、霊魂の中では、闇も、愛の力も、愛の熱も止むことになるからである。

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愛のもだえ炎と燃えたち

この一行において、霊魂は、前に述べた愛の火が、ちょうど物質的な火が薪に燃え付くのと同じようにして、この苦しい観想の夜のさなかに、霊魂をとらえ始めることを述べている。この愛の燃焼は、ある意味では、霊魂の感覚的部分の中で起こった前に述べた燃焼と似ているが、また別の意味では、前のとは非常に異なっているのである。ちょうど、霊魂と肉体、あるいは、霊的な部分と感覚的な部分が異なっているように。なぜなら、これは霊における愛の燃焼だからである。この暗い悩みのさなかでは、霊魂は、神についてのある種の実感や予感というような、強烈な神の愛によって、鋭く、深く傷つけられたことを感じる。とはいえ、個々のことを理解することなしに、そう感じるのである。というのも、前に言った通り、悟性は闇の中にいるからである。

この時、霊は強い愛に燃え立っていることを感じる。なぜなら、この愛の燃焼は、愛の熱情を生じさせるからである。この愛は、注賦的な愛であるから、能動的というよりは、受動的である。こうして、霊の中に強い愛の熱情を生じさせる。この愛は、すでに神との一致の幾分かを持ち始めており、その特質に、ある程度参与している。この特質は、霊魂自身の行為というよりは、むしろ、神の行為であって、霊魂に受動的に合わせられている。とはいえ、霊魂がここですることは、それを承諾することである。しかし、熱と力、勇気と愛の熱情、または燃焼(ここでは霊魂は、愛の熱情をこう呼んでいる)は、ただ、霊魂と一致しつつある神の愛からのみ来る。霊魂が、地上のものではなく、天上のものを味わうことができるために、自分のすべての欲求を閉ざし、それから離脱し、それらを自分のうちに留まらせないようにしていればいるほど、この愛は、霊魂と一致し、霊魂を傷つけるための余地と機会とを、ますます多く霊魂の中に残す。

このことは、この暗い浄化の中で、徹底的に起こるのである。といのも、神は、愛好をすっかり乳離れされてしまわれ、押さえつけてしまわれたので、愛好は、自分の望むようなことに、何の楽しみも見出すことができないからである。こういうことはみな、神がなさるのであるが、それは、愛好のすべてをご自分のために取り上げ、抑えて、それによって、霊魂が神の愛のこの強い一致に達するために、より多くの力と能力を持つようになるためである。この浄化を通じて、神はすでにこの一致を与え始められるが、霊魂はその時、霊的また感覚的な自分の力と望みとのすべてをこめて、力いっぱい愛さなければならない。こういうことは、もしも、霊魂が、他の何かを味わい楽しむことに自分を傾けているならば、あり得ないことである。それでダビデは、神とのこの一致の愛の力を受け得るよう神に向かって、「私はあなたのために力を保ちます」(詩59・10)といった。これはすなわち、「神の諸能力の力と欲求と容力のすべてを、あなたのために保ち、その働きや喜びをあなた以外の他のものには向けません」との意味である。

これによって、霊の中でのこの愛の燃焼が、どれほど激しく、どれほどすごいものであり得るかを幾分か察することができるであろう。そこで神は、霊魂のあらゆる力、能力、欲求を、霊的なものも感覚的なものも、すべて内に集中させ、この完全な調和の中で、その力と徳とをこの愛のために使うようにさせ、こうして、第一のおきてを真に実行することができるようにさせる。この掟は、人間性を少しも軽んじることなしに、また、これに付随するものを、この愛から一つも除外することなしに、「心をつくし、霊魂をつくし、精神をつくして、主なる神を愛せよ」と言っている。

ここにおいて、霊魂のすべての欲求と力は、愛のこの燃焼の中に集中され、霊魂は、これらすべてによって傷つけられ、触れられ、そうして熱中させられている。激しい愛によって燃え立たされ、傷つけられ、しかも、それを所有することも、それに満たされることもなく、闇と疑惑の中にある霊魂の、これらすべての欲求と力の動揺と激動がどのようにあるかを私たちはどれだけ理解できるであろうか?疑いもなく、ダビデが述べている犬のように(詩59・7~15)、空腹に苦しみ、町の中を走りまわり、そして、この愛に満たされることがないので吠え立て、うめき続けるであろう。なぜなら、この愛と神的な火が霊魂に施す接触は、霊を乾かし、この神的な愛に対する渇きを癒そうとする欲求を激しく燃え立たせるので、霊魂は自分自身の中をぐるぐる廻り、欲求の激しい望みにまかせて、さまざまな方法や手段を使って神を求めるようになるからである。ダビデはこれを、詩編の中に、見事に描き出している。「私の魂は、あなたに渇く。私の体は、どれほどあなたを渇き求めることか」(詩63・2)と。これはつまり、渇望のうちに、の意味である。また他の翻訳によると、「私の魂はあなたに渇き、私の魂はあなたのために消え失せた、あるいは、滅びた」とある。

これが、この一行の中で、霊魂が、なぜ、「愛のもだえ炎と燃え立ち」と言っているかの理由である。なぜなら、霊魂は、自分のうちに思いめぐらしているあらゆる事柄や考えにおいて、また、霊魂に差し出されるあらゆることや出来事においても、いろいろな仕方で愛するからであり、また、望みにおいても、あらゆるときに、あらゆる場所で、さまざまな仕方で望み、苦しみ、何ごとも憩いを見出さず、燃え上がっている傷の中に、このもだえを感じるからである。預言者ヨブは、そのことを次のように言って明らかにしている。「奴隷が日陰を慕うように、日雇い人が仕事の終わるのを待つように、私に与えられたのは苦しみの月々、悩みの夜々。床につくとき私は言う、『いつ夜が明けるだろう』と。起きれば言う、『いつ夕になるだろう』と。そして、日のくれるまで、もがきにもがく」(7・2~4)。この霊魂にとっては、すべてが小さすぎ狭すぎ、霊魂は自分自身のうちにも入りきらず、天にも地にも入りきれない。ここでヨブが、霊的に、私たちの問題に関連して言っているように、霊魂は真っ暗になるほどの苦しみに満たされる。ここで霊魂が苦しんでいるのは、ある種の光や霊的善から来る確かな希望による慰めなしに待ち望み、苦しむこと、これである。したがって、この愛の燃焼におけるこの霊魂のもだえと悲嘆は非常に大きい。それは、次の二つのことによって倍加されるから。その一つは、霊魂が今その中にいる霊的な闇によるものであって、その疑惑と懸念とで霊魂を苦しめる。もう一つは、神の愛によるもので、霊魂を燃え立たせ刺激するが、愛の傷で霊魂を全く驚くほどふるえおののかせる。

苦しみの、これらの二つのありさまは、イザヤによって次のように見事に描かれている。「私の心は夜、あなたをのぞんだ」(26・9)と。これはすなわち、「惨めさのさなかで」である。これが、この暗夜における苦しみの一つのありさまである。イザヤは続けて言う、「しかし、私の霊とともに、私のはらわたの中で、朝まであなたを待ち望んで夜を徹します」と。これが、霊のはらわた、つまり、霊的愛好の中で、愛における、望みや焦燥から来る苦しみの第二のありさまである。しかし、闇に包まれ、愛のこめられたこれらの苦しみのさなかで、霊魂は、自分のうちに、ある種の力と伴侶とを感じる。それは、しっかりと霊魂に伴い、霊魂を非常に力づけるので、もしも、締め付けるような闇の、この重苦しさがなくなってしまうならば、霊魂は多くの場合、孤独と空虚とゆるみを感じる、その原因は次の通りである。すなわち、霊魂の力と効力は、霊魂を襲った愛の暗黒の火によって、受動的に霊魂に与えられ、伝えられたものであるから、この火が襲いかかることを止めると、霊魂の中では、闇も、愛の力も、愛の熱も止むことになるからである。

この恐ろしい夜は、どれほど一つの煉獄であるか、またこの夜が霊に引き起こす快い効果について

今まで述べたことから、この愛の火の暗夜は、闇の中で霊魂を浄めてゆくのと同時に、闇の中で、どれほど霊魂を燃えたせてゆくかがわかるであろう。さらにまた、あの世で霊魂は、物質的な暗黒の火をもって浄められるのと同様に、この世では、どれほど霊的な暗黒の愛の火でもって清くされ、浄化されるか、ということもわかるであろう。なぜなら、これが違う点だから。つまり、あの世では、火から浄められるのにひきかえ、この世では、ただ愛によってのみ浄められ、照らされるのである。神は愛と英知を同時に注ぎ、霊魂がこの愛に満ちた英知の火で照らされ、浄化され、霊魂を無知から浄める。そして、霊魂を浄めるその英知は、天使たちに与えられる英知と同じである。その英知は、天使たちを教え、照らし、神から出て最上位の天使から最下位の天使まで、すべての階級を通って、ついには人間にまで至るのである。一番遠くの方にいる人間にも、もし神が与えたいと望まれるならば、この愛に満ちた神の観想は届けられるのであるが、自らの人間性に従って、非常に限定された仕方で、ひどく苦しみながら、それを受けなければならない。というのも、天使を照らす神の光は、愛の中に天使を輝かせ、柔和にするが、それは天使が純霊であるため、またこういう注賦を受ける準備ができているためである。ところが人間は、不純で弱いものであるため、その光が人間を照らすと、ちょうど太陽が、目やにだらけで病んでいる目に対してするように、当然、人間を闇に沈め悩ませ、苦しませる。そして、この愛の火自身が彼を霊化し、純化するまでは、これを熱烈に、痛ましく燃え立たせる。彼がこの愛に満ちた注賦の一致の作用を、穏やかに、天使のように受けられるようになるまで、すなわち、主によって浄められるまで浄化され続ける。しかし、それまでは、人間は、愛に満ちたこの観想と知識とを、悲嘆にくれながら、愛のもだえにかられながら受けるのである。霊魂は、この愛の燃焼やもだえを常に知覚しているのではない。しかし、時が経つにつれて、この火が霊魂を熱し始めると、霊魂は大抵、この愛の燃焼と熱とを感じるようになる。ここで、悟性は、この闇によってますます浄化されてゆくので、ある場合には、この愛に満ちた神秘の体験は、意志を燃え立たせると同時に、もう一つの能力である悟性を、いくらかの神的光と知識とをもって照らしながら、同時に傷つける。それがあまりにも快く、繊細であるので、意志は悟性に助けられて驚くほど熱し、自分からは何もしなくとも、この神的火が、生ける炎となって、意志の中に燃え上がる。それで、自分に与えられる生ける知識ゆえに、霊魂には、もう自分はあたかも生ける火であるかのように思われる。ここで結び合わされる二つの能力の、すなわち、悟性と意志という二つの能力の、一致を伴ったこの愛の燃焼は、霊魂にとっては偉大な富であり喜びである。なぜなら、それは神性の、ある種の接触であり、霊魂が待望している愛の一致の完成への第一歩だからである。

今までに述べたことから、次のことが推論できよう。すなわち、神によって受動的に霊魂に注ぎ入れられる霊的善において、意志が愛することなしに悟性は理解ことができるように、意志は、悟性が理解しない時にも、十分愛することは、どれほど可能であるか、ということである。なぜなら、この観想の暗夜は、神的光と愛とから成っているので、この愛の光が与えられる時、ある場合には、より多く意志を傷つけ、これを愛によって燃え立たせ、悟性の方は、これを光で傷つけることなしに、闇の中に残しておいても決して不都合なことではないからである。また他の場合には、悟性を光で照らして知識を与えるが、意志はこれを無味乾燥の中に残しておく。これはちょうど、光を見ることなしに火の熱を受けることができ、また、熱を受けることなしに光を見ることができるのと同じである。これは、主によってなされる業であり、主はご自分が望まれるままにこれを注賦なさるのである。

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今まで述べたことから、この愛の火の暗夜は、闇の中で霊魂を浄めてゆくのと同時に、闇の中で、どれほど霊魂を燃えたせてゆくかがわかるであろう。さらにまた、あの世で霊魂は、物質的な暗黒の火をもって浄められるのと同様に、この世では、どれほど霊的な暗黒の愛の火でもって清くされ、浄化されるか、ということもわかるであろう。なぜなら、これが違う点だから。つまり、あの世では、火から浄められるのにひきかえ、この世では、ただ愛によってのみ浄められ、照らされるのである。「神よ、私に清い心をつくってください」(詩51・2)と言ってダビデが嘆願したのは、この愛であった。なぜなら、心の清さは、神の愛と恩恵以外の何ものでもないからである。というのも、心の清い人は、私たちに、「幸いな人」と呼ばれているからであり(マタイ5・8)、ちょうどこれは、「愛に燃え立つ人」と呼ばれるのと同じである。なぜなら、至福は愛によってしか与えられないからである。

霊魂が、この愛に満ちた英知の火で(なぜなら、神は決して神秘的な英知を愛なしに授けられないから。というのも、この愛そのものが、英知を注ぎ入れるのだから)照らされ、浄化されることについては、エレミアが、「神は上から火を送られ、骨の中までしみ込ませて私を教えられた」(哀1・13)と、見事に言い表している。またダビデも、「主の英知は火で鍛えられた銀」(詩12・7)と言っている。これはすなわち、浄化する愛の火で、の意味である。というのも、この真っ暗な観想は、霊魂の中に、それぞれの容力と必要に応じて、愛と英知を同時に注ぎ、霊魂を照らすとともに、賢者が自分に行われたことに従って言っているように(集51・26)、霊魂を無知から浄めるからである。

このことからさらに推し測れることは、天使たちを、その無知から浄める神のその同じ英知が、これらの霊魂を浄め、照らすということである。その英知は、天使たちを教え、彼らの知らないことにおいては、彼らを照らし、神から出て最上位の天使から最下位の天使まで、すべての階級を通って、ついには人間にまで至るのである。それで、天使たちがするすべての業と、そのすべての霊感は、神が行われ、それから天使たちが行う、と聖書の中で真実、的確に言われている。なぜなら、これらの業と霊感は、普通、神が天使たちを通して伝えられ、それはちょうど、太陽の光線が、ずらりと並んだ窓ガラスを通して伝えられるのと同じである。太陽の光線そのものが、すべての窓ガラスをよぎることは本当であるが、各々の窓ガラスは、そのガラスの性質に従って、多少とも変化された形で、また、それが太陽に一層近いか遠いかによって、加減された力と輝きをもって他のガラスにこの光線を送り、注ぎ込むのである。

それ故、上位の霊と下位の霊とは、神の近くにいればいるほど、より全般的な浄化によって一層浄められ、照らされているといえよう。そして、一番遠くの方にいるものは、この照らしを遠くからかすかに受けるだけにすぎない。したがって、一番遠くの方にいる人間にも、もし神が与えたいと望まれるならば、この愛に満ちた神の観想は届けられるのであるが、自分の人間性に従って、非常に限定された仕方で、ひどく苦しみながら、それを受けなければならない。というのも、天使を照らす神の光は、愛の中に天使を輝かせ、柔和にするが、それは天使が純霊であるため、またこういう注賦を受ける準備ができているためである。ところが人間は、不純で弱いものであるため、その光が人間を照らすと、前にも述べたように、ちょうど太陽が、目やにだらけで病んでいる目に対してするように、当然、人間を闇に沈め悩ませ、苦しませる。そして、この愛の火自身が彼を霊化し、純化するまでは、これを熱烈に、痛ましく燃え立たせる。彼がこの愛に満ちた注賦の一致の作用を、穏やかに、天使のように受けられるようになるまで、すなわち、後に述べるように、主によって浄められるまで浄化され続ける。しかし、それまでは、今ここで述べているように、人間は、愛に満ちたこの観想と知識とを、悲嘆にくれながら、愛のもだえにかられながら受けるのである。

霊魂は、この愛の燃焼やもだえを常に知覚しているのではない。なぜなら、この霊的浄化が始まった最初のうち、この神的火がすることは、霊魂という薪に熱を与えることよりも、もっぱらそれを乾かし、準備することにあるからである。しかし、時が経つにつれて、この火が霊魂を熱し始めると、霊魂は大抵、この愛の燃焼と熱とを感じるようになる。ここで、悟性は、この闇によってますます浄化されてゆくので、ある場合には、この愛に満ちた神秘の体験は、意志を燃え立たせると同時に、もう一つの能力である悟性を、いくらかの神的光と知識とをもって照らしながら、同時に傷つける。それがあまりにも快く、繊細であるので、意志は悟性に助けられて驚くほど熱し、自分からは何もしなくとも、この神的火が、生ける炎となって、意志の中に燃え上がる。それで、自分に与えられる生ける知識ゆえに、霊魂には、もう自分はあたかも生ける火であるかのように思われる。それで、こういうことから、ダビデは詩編の中で、「私の心は中で熱し、思いに思って火がついた」(39・4)と言っているのである。

ここで結び合わされる二つの能力の、すなわち、悟性と意志という二つの能力の、一致を伴ったこの愛の燃焼は、霊魂にとっては偉大な富であり喜びである。なぜなら、それは神性の、ある種の接触であり、霊魂が待望している愛の一致の完成への第一歩だからである。これほど崇高な神の感覚と神の愛の接触には、多くの試練や浄化の大部分を経たのちでなければ達することができない。これほど崇高でもなく、普通に起こるようなもののためには、これほど浄化は必要ではない。

今までに述べたことから、次のことが推論できよう。すなわち、神によって受動的に霊魂に注ぎ入れられるこういう霊的善において、意志が愛することなしに悟性は理解することができるように、意志は、悟性が理解しない時にも、十分愛することは、どれほど可能であるか、ということである。なぜなら、この観想の暗夜は、ちょうど火が光と熱とを持っているのと同じように、神的光と愛とから成っているので、この愛の光が与えられる時、ある場合には、より多く意志を傷つけ、これを愛によって燃え立たせ、悟性の方は、これを光で傷つけることなしに、闇の中に残しておいても決して不都合なことではないからである。また他の場合には、悟性を光で照らしてこれに知識を与えるが、意志はこれを無味乾燥の中に残しておく。これはちょうど、光を見ることなしに火の熱を受けることができ、また、熱を受けることなしに光を見ることができるのと同じである。これは、主によってなされる業であり、主はご自分が望まれるままにこれを注賦なさるのである。

この観想の暗夜が霊魂の中に引き起こすその他の快い効果について

この燃焼を見るならば、この観想の暗夜が、霊魂の中に引き起こすその他の快い効果について、いくつかを知ることができる。なぜならば霊魂は、この闇のさなかに照らされ、光が闇の中に輝くからである(ヨハネ1・5)。この神秘的な英知は悟性の中に流れ込み、意志は無味乾燥のままに、すなわち愛の言行的一致なしに、取り残される。そして、霊魂に非常に快い、繊細な単純さと穏やかさとをもたらしながら、色々な方法で、神の現存を感じさせる。またある場合には、意志も同時に傷つけ、そして愛は優しく、強く、崇高に燃え上がる。なぜなら、前に言ったとおり、悟性が一層浄化されるとき、時として、二つの能力、すなわち悟性と意志は結び合わされるからである。悟性が一層完全で、より繊細であればあるほど、この二つは一層かたく一致する。しかし、霊の浄化が終わるまでは、英知の接触を悟性で感じるよりも、愛の燃焼の接触を意志の中で感じることが普通である。しかし、なぜ、これら悟性と意志の二つの能力が同時に浄化されてゆくときに、はじめ、意志の中に浄化の観想と燃焼と愛を感じることが普通なのであろうか。これには、次のように答えられよう。ここでは、この浄化(=受動的愛)は、直接的には意志を傷つけない。なぜなら意志は自由だからであり、愛のこの燃焼は愛の熱情に働きかけるからである。自由行為は、自由である限りにおいて意志の行為と呼ばれる。そして自由行為は熱情と愛好の対象に向かうので、もし霊魂が、何かの愛好をもって、熱情的になっているとすれば、熱情の衝動と力が意志をひきつれてゆく。だから、自由行為は意志の自由な働きというよりも、むしろ、愛の熱情と呼ばれるのである。そして、悟性の受容性のある熱情だけが、知識を赤裸々な形で受動的に受け取ることができるのである。したがって、浄化が完成するまでは、愛の熱情の接触の方を多く感じるのである。この愛の燃焼と渇きは、ここではもう、霊についてのものであるため、前に、感覚の夜において述べた渇きとは、全く違ったものである。その苦悩のすべては、感覚の夜における苦悩とは、比べるものにならないほど大きいにもかかわらず、それを何とも思わない。なぜなら、霊の渇きは、霊魂の上級部分である霊において感じられ、理解されるため、自分が切望していることが欠如していることを知り、どんなものをもってしても、決して測ることのできないほどの、偉大な善が欠けていることを認めるからである。これらの苦悩の中で霊魂が感じる最大の苦しみは、もう自分は、神を失ったのではないか、という悩ましい考えや、自分は神から見捨てられてしまったのではないか、という恐れである。しかし、すべては失われたのでも、終わりを告げてしまったのでもなく、そこに起こっていることは、よりよいことのためであり、神は怒っておられないということが確証されるならば、霊魂は、これらのすべての苦しみを、何とも思わないばかりでなく、かえって、神がこれによって奉仕されるのを知って喜ぶ。というのも、霊魂は、神に対して抱いている尊敬をこめた愛がこの上なく大きいので(闇の中にいるため、それを感じることはないのであるが)、単に苦痛を何とも思わないばかりか、神を満足おさせするためなら、幾度でも、死ぬことを喜ぶほどである。しかし、ひとたび炎が霊魂を燃え立たせたならば、霊魂は、すでに神に対して抱いている尊敬とともに、非常な力と精力とを帯び、神に対する激しい焦燥を抱くようになるのが普通であり、愛の熱が与えられ、その結果、霊魂は、極めて大胆になって、何ものにも目をくれず、何事をも構わないようになる。

霊の浄化において、霊魂は闇の中に居るので自分は神なしにいると感じ、この霊魂が感じ始めている愛の焦燥は、神への愛に死んでしまうほどである。これが落ち着きのないイライラした愛であって、その中にあっては、当人はその望みの的を手に入れずに長く生きていることはできず、さもなければ、死んでしまうかのようである。しかし、ここで注意しなければならないことは、この浄化の闇の中で、自分はこんなに惨めで、神に対しては全くふさわしくないものと痛感している霊魂が、それにもかかわらず、どうしてまた、神との一致に向かって敢えて歩み続けるほど大胆なエネルギーを持っているか、ということである。その理由はこうである。すなわち、愛は、真に愛するならば、絶えず力を与えるからである。そして、愛の特徴は、愛の宝において自分を完成しようとして、愛の対象となっているものに一致し、結びつき、等しくなり、同化することを望むことだからである。したがって、まだ一致に達していないために、愛において完成されていないこの霊魂は、自分に欠けているもの―すなわち、一致―に対して飢え渇きを覚える。この飢え渇きと、愛が意志の中において霊魂を燃え立たせた力とが、悟性は、まだ闇の中にいて照らされてもいないので、自分は無価値なものであると感じ、惨めなものであると認めているにもかかわらず、霊魂を大胆で向こう見ずなものとならせるのである。

以上述べたことから、神が、この強力な漂白剤や苦い下剤をもって霊魂を浄め、癒すことによって、ここで神はどれほど、霊魂に恵みを施されるかが明らかになる。神は霊魂を、その霊的部分においても、感覚的部分においても、現世的なものと、自然的なものについて、感覚的にも霊的にも、自分の中に持っている不完全な習性や愛好のすべてから浄め、癒される。また、霊魂の内的諸能力を闇で閉ざし、空にし、そして、霊魂の感覚的また霊的愛好をしめつけて干からびさせ、その自然的エネルギーを弱め減らされる。このようにして、神は、霊魂を本質的に神でない一切のことに対して衰弱させる。それは、霊魂が、すっかり脱皮させられ、裸にされた時、これにもう一度、新しい服を着せてゆくためである。こうして霊魂の若さは鷲のように新しくなる(詩103・5)。使徒が言うように、神に象って創られた(エフェソ4・247)新しい人を着せられる。これは他でもなく、超自然的光をもって、理性を照らすことであり、それによって、人間的な理性から、神的なものに一致させられた神的な理性となる。これとまったく同様に、意志も、神的愛に活気づけられるので、この意思は、もはや、神的意志以外の何物でもなくなり、神の意志と愛に一致させられ一つにされて、神的にしか愛さなくなる。記憶についても同じことが言える、そしてまた、愛好も、欲求のすべても、神に象られて、すっかり神的なものに変えられ、変化される。こうして、この霊魂はもう、天上の霊魂となる、人間的なものであるよりも、むしろ、神的な、天国的なものとなる。こういうことはみな、神が、この夜を通じて、霊魂の中に行われ、実現されるのである。神は、神的に霊魂を照らし、神以外の何ものでもなく、ただ神のみに対する焦燥で燃え上がらせる。それで、霊魂は、すぐ続けて、この歌の第三行目を言い添えるのであるが、それはまことに道理にかなったことである。おお、すばらしい幸運!

詳しく

この燃焼のありさまを見れば、観想の暗夜が霊魂の中に引き起こしている快い効果のうちのいくつかを知ることができる。なぜなら、今述べたように、時として霊魂は、この闇のさなかに照らされ、光が闇の中に輝くからである(ヨハネ1・5)。この神秘的な英知は悟性の中に流れ込み、意志は無味乾燥のままに、すなわち、愛の現行的一致なしに取り残される。そして、霊魂の感覚に名状しがたいほどに非常に快い、繊細な単純さと穏やかさとをもたらしながら、ある場合にはこの方法で、また他の場合には別の方法で、神の現存を感じさせる。

またある場合には、すでに述べたように、意志も同時に傷つけ、そして愛は優しく、強く、崇高に燃え上がる。なぜなら、前に言ったとおり、悟性が一層浄化されるとき、時として、二つの能力、すなわち悟性と意志は結び合わされるからである。悟性が一層完全で、より繊細であればあるほど、この二つは一層かたく一致する。しかし、この状態に達するまでは、英知の接触を悟性の中に感じるよりも、愛の燃焼の接触を意志の中に感じることのほうが普通である。

しかし、ここに一つの疑問が生じる。すなわち、これら二つの能力が同時に浄化されてゆくのであれば、なぜ、はじめのうち、悟性の中に浄化の観想の英知を感じるよりも、意志の中に浄化の観想の燃焼と愛を感じる方が、より普通なのであろうか、ということである。これには、次のように答えられよう。ここでは、この受動的愛は、直接的には意志を傷つけない。なぜなら意志は自由であり、愛のこの燃焼は、意志の自由行為であるよりも、むしろ、愛の熱情であるからである。というのも、この愛の熱は霊魂の実体を傷つけ、そうすることによって、愛好を受動的に引き起こすからである。したがって、この愛の燃焼は、意志の自由行為というよりも、むしろ、愛の熱情と呼ばれるのである。自由行為とは、自由である限りにおいて意志の行為と呼ばれる。ところが、この熱情と愛好は、意志の領域に属するものであるため、もし霊魂が、何かの愛好をもって、熱情的になっているとすれば、それは、意志がそうなっていると言われるのであって、実際、その通りである。なぜなら、このようにして意志は捉えられ、自由を失うからである。そうして熱情の衝動と力とが意志をひきつれてゆく。それ故、この愛の燃焼は意志においてであるということができる。これは、すなわち、意志の欲求が燃え上がるのである。だから、先にも述べたように、これは意志の自由な働きというよりも、むしろ、愛の熱情と呼ばれるのである。そして、悟性の受容性のある熱情だけが、知識を赤裸々な形で受動的に受け取ることができるのであるから(これは、すでに浄化されていなければあり得ないことである)、したがって、そのようになるまでは、霊魂は知識の接触を感じることは稀で、愛の熱情の接触の方を多く感じるのである。というのも、そのためには、意志が熱情に関して、すっかり浄化されている必要はないからである。なぜなら、熱情そのものが、意志を助けて燃え立つ愛を感じさせるからである。

この愛の燃焼と渇きは、ここではもう、霊についてのものであるため、前に、感覚の夜において述べたそれとは、全く違ったものなのである。なぜなら、感覚は、霊の苦しみに与らずにはいられないのであるから。ここでも、それに与るには違いないのであるが、霊の渇きの根と髄とは、霊魂の上級部分において、すなわち、霊において、感じられるからである。このようにして、そこで感じていることを実感し、理解し、また、自分が切望していることが欠如していることを知り、感覚の苦悩のすべては、感覚の夜におけるそれとは、比べるものにならないほど大きいにもかかわらず、それを何とも思わない。なぜなら、自分の中には、どんなものをもってしても、決して測ることのできないほどの、偉大な善が欠けていることを認めるからである。

しかし、ここで注意しておかなければならないことは、この霊の夜が始まる当初には、この愛の燃焼が感じられないということである。それは、この愛の火が、まだ燃え始めていないからである。その代わりに神は、すぐその後に、霊魂に、ご自分についての非常に大きな敬虔な愛を与えられる。それで、前にも述べたとおり、霊魂が、この夜の苦しさの中で悩み苦しみ、感じる最大のことは、もう自分は、神を失ったのではないか、という悩ましい考えや、自分は神から見捨てられてしまったのではないか、という恐れである。したがって、この夜の開始以来、霊魂は愛の焦燥にかられてゆくのであるが、それは、ある時には尊敬からの焦燥であり、またある時には燃焼による焦燥である、といつも私たちは言うことができる。また、これらの苦悩の中で霊魂が感じる最大の苦しみは、この懸念であることがわかる。なぜなら、もしそのような時、すべては失われたのでも、終わりを告げてしまったのでもなく、そこに起こっていることは、よりよいことのためであり、実際その通りであって、神は怒っておられないということが確証されるならば、霊魂は、これらのすべての苦しみを、何とも思わないばかりでなく、かえって、神がこれによって奉仕されるのを知って喜ぶであろうから。というのも、霊魂は、闇の中にいるため、それを感じることはないのであるが、神に対して抱いている尊敬をこめた愛が、この上なく大きいので、単に苦痛を何とも思わないばかりか、神を満足おさせするためなら、幾度でも、死ぬことを喜ぶほどである。しかし、ひとたび炎が霊魂を燃え立たせたならば、霊魂は、すでに神に対して抱いている尊敬とともに、非常な力と精力とを帯び、神に対する激しい焦燥を抱くようになるのが普通であり、愛の熱が与えられ、その結果、霊魂は、極めて大胆になって、何ものにも目をくれず、何事をも構わないようになる。愛と望みの力に強められ、それに陶酔しながら、霊魂は自分がしていることには目もくれず、提供されるありとあらゆる手段と方法を使って、愛するお方を見出すために風変わりな、普通でないことさえするであろう。

これが、マリア・マグダレナを、あのようにさせた原因である。彼女が、あれほど尊敬される地位にありながら、宴会に集まっている有力者や一般の人々には少しも心を留めず、また、賓客の前で泣いたり、涙を流したりすることは、決してふさわしいことでも、よいこともないことをも顧みず(そうするために他の時と機会を待って、一時間でも時を伸ばすこともせず)、彼女の霊魂をすでに傷つけ、愛に燃え上がらせたお方の御前に出ることができたのは、このためである。これが愛の陶酔と大胆さである。彼女は、愛するお方が墓の中に、封印をほどこされた大きな石で閉じ込められ、弟子たちが盗み出さないようにと、それを兵士たちが見張っていることを知っていた(マタイ27・60~66)。しかし、主に香油を塗るために、未明に出かけてゆくことを止めさせるのに、眼前に横たわるこれらのことは、どれも障害とはなり得なかった(ヨハネ20・1)。

そして最後に、この愛の陶酔と焦燥は、主を墓から盗み出したのはこの園丁だと彼女が思い込んでいた人に、次のように尋ねさせた。「もし、彼を取り去ったなら、置いたところを教えてください。私が引き取りますから」(ヨハネ20・15)と。彼女は、こんな質問は、冷静な判断と道理には、愚かなことであることに気がつかなかったのである。なぜなら、もし、その人が主を盗み出したのなら、それを彼女に告げるはずはなく、まして、引き取らせるはずはなかったからである。しかし、これが、愛の力と激しさが持っている特徴であって、自分にとっては何事も可能と思え、他の人もみな、自分と同じことをするように思われるのである。なぜなら、自分が探し、愛している人以外の人を、他の人々が探し求めたり、他のことにたずさわったりすることがあろうとは考えられないからである。そのこと以外に望むべきことや、たずさわるべきことはあり得ないと思い、皆が、それを追求していると信じている。それがため、花嫁は、愛する人を求めて、大路や広場に出て行ったとき、他の人もみな自分と同じことをしているのだと考え、もし愛人を見出したなら、私は彼への愛のために苦しんでいますと告げてください、と彼らに頼んだのである(雅5・8)。マリアの愛の力は、まさにこのようなものであって、もしも園丁が主を隠した場所を彼女に告げたならば、主がどんなに厳重に守られていたとしても、そこに行って主を引き取ったであろうと思われたほどであった。

霊の浄化において、かなり進歩しているとき、この霊魂が感じ始めている愛の焦燥は、このようなものである。なぜなら、霊魂は闇の中に居るので、自分は神なしにいると感じ、神への愛に死んでしまうほどだからである。そして、これが落ち着きのないイライラした愛であって、その中にあっては、当人はその望みの的を手に入れずに長く生きていることはできず、さもなければ、死んでしまうかのようである。ラケルがヤコブに向かって、「私に子供をください。さもなければ、死んでしまいます」(創30・1)と言ったとき、彼女が子供に対して持っていたのもこれであった。しかし、ここで注意しなければならないことは、この浄化の闇の中で、自分はこんなに惨めで、神に対しては全くふさわしくないものと痛感している霊魂が、それにもかかわらず、どうしてまた、神との一致に向かって敢えて歩み続けるほど大胆なエネルギーを持っているか、ということである。その理由はこうである。すなわち、愛は、真に愛するならば、絶えず力を与えるからである。そして、愛の特徴は、愛の宝において自分を完成しようとして、愛の対象となっているものに一致し、結びつき、等しくなり、同化することを望むことだからである。したがって、まだ一致に達していないために、愛において完成されていないこの霊魂は、自分に欠けているもの―すなわち、一致―に対して飢え渇きを覚える。この飢え渇きと、愛が意志の中において霊魂を燃え立たせた力とが、悟性は、まだ闇の中にいて照らされてもいないので、自分は無価値なものであると感じ、惨めなものであると認めているにもかかわらず、霊魂を大胆で向こう見ずなものとならせるのである。

この神的光は、常に霊魂にとって、光でありながら、なぜ、この光は霊魂を襲うや否や、後にそうするように霊魂を照らさず、かえって、先に述べたような、闇や試練を起こすのか、その理由を私はここに述べずにはいられない。このことについて、すでにいくらかは述べておいたが、これについて、特に、次のように答えよう。すなわち、この神的光が襲った時、霊魂が感じる闇やその他の悪は決してこの光によって生じる闇や悪ではなく、実は、霊魂自身から生じるものであり、光は、霊魂がそれらを見るように、霊魂を照らすのである。そのために、この神的光は霊魂に、直ちに光を与えるのである。しかし、最初のうち霊魂は、この光によってただ自分のすぐそばにあるもの―というよりもむしろ、自分の中にあるもの―つまり、自分の闇、または、自分の惨めさしか見ることができない。今、これが見えるようになったのは、神の憐れみによるのであって、前にはこれらが見えなかった。なぜなら、超自然的光が霊魂を照らさなかったからである。これが、なぜ、最初のうちは、闇と悪としか感じないか、ということの理由である。しかし、こういう闇や悪を知り、実感することによって浄化された後は、霊魂は、この光が神的光の宝を示すための、眼を持つようになるであろう。そうして、霊魂のこれらすべての闇と不完全が、残らず排除されると、霊魂は、この幸福な観想の夜において、自分が受けつつある偉大な利益と善とが、だんだんと現れてくるように思う。

以上述べたことから、神が、この強力な漂白剤や苦い下剤をもって霊魂を浄め、癒すことによって、ここで神はどれほど、霊魂に恵みを施されるかが明らかになる。神は霊魂を、その霊的部分においても、感覚的部分においても、現世的なものと、自然的なものについて、感覚的にも霊的にも、自分の中に持っている不完全な習性や愛好のすべてから浄め、癒される。また、霊魂の内的諸能力を闇で閉ざし、それらをこういうすべてのことに関して空にし、そして、霊魂の感覚的また霊的愛好をしめつけて干からびさせ、その自然的エネルギーを、これらすべてのことに関して弱め減らされる(これは、すぐ後に述べるとおり、霊魂が自力では、決して成し遂げられないことである)。このようにして、神は、霊魂を本質的に神でない一切のことに対して衰弱させる。それは、霊魂が、すっかり脱皮させられ、裸にされた時、これにもう一度、新しい服を着せてゆくためである。こうして霊魂の若さは鷲のように新しくなる(詩103・5)。使徒が言うように、神に象って創られた(エフェソ4・247)新しい人を着せられる。これは他でもなく、超自然的光をもって、理性を照らすことであり、それによって、人間的な理性から、神的なものに一致させられた神的な理性となる。これとまったく同様に、意志も、神的愛に活気づけられるので、この意思は、もはや、神的意志以外の何物でもなくなり、神の意志と愛に一致させられ一つにされて、神的にしか愛さなくなる。記憶についても同じことが言える、そしてまた、愛好も、欲求のすべても、神に象られて、すっかり神的なものに変えられ、変化される。こうして、この霊魂はもう、天上の霊魂となる、人間的なものであるよりも、むしろ、神的な、天国的なものとなる。こういうことはみな、これまでに述べてきたことから次第にわかってきたように、神が、この夜を通じて、霊魂の中に行われ、実現されるのである。神は、神的に霊魂を照らし、神以外の何ものでもなく、ただ神のみに対する焦燥で燃え上がらせる。それで、霊魂は、すぐ続けて、この歌の第三行目を言い添えるのであるが、それはまことに道理にかなったことである。

おお、すばらしい幸運!

第一の歌の終わりの三行を記し、それを説明する。

おお、すばらしい幸運!
気づかれずに、私は出て行った
我が家はすでにしずまったから…霊魂はここで、比喩法を用い、自分の業をよりよく果たすため、誰にも妨げられないように、家の人たちが寝静まった夜中に、闇に乗じて家を出て行った、と言っている。その説明は次の通りである。この霊魂は、非常に英雄的な、また、非常に稀な業を行わなければならなかった。それは、すなわち、神である愛人と、外で、一致するということであった。外で、というのは、愛人は、一人で、外に、孤独のうちにいるからである。深い愛にとらえられている霊魂は、その渇望して止まない的に達するためには、やはり、それと同じようにする必要があった。すなわち、夜、家の僕たちが寝静まって、静かになっている時に、家を出ること、つまり、霊魂の家人である霊魂の下級の働きや熱情や欲求が、この夜の中に眠らされ、しずめられている時に家を出ることであった。これらは、目覚めている限り、霊魂がその宝を探すのを常に妨害し、霊魂が彼らから去って、自由になるということの敵である。しかし、神が、この夜に、霊魂のすべての家人―つまり、霊魂の感覚的または霊的領域に住み生きているすべての能力や熱情や愛好や欲求など―を、寝かしつかせてくださったことは、霊魂にとって、まことにすばらしい幸運であった。神が、このようにされたのは、霊魂が気づかれずに―これらの愛好や、その他のものに、妨害されることなしに―神との完全な愛の霊的一致にまで、到達できるためであった。ああ、霊魂がその官能の家から自己を解き放つことができるのは、何と素晴らしい幸運であろうか!それを味わったことのある霊魂でなければ、これをよく理解することはできないであろうと思う。というのも、経験ある霊魂は、自分の諸能力や欲求に左右されていた頃、自分はどんな憐れな奴隷であったか、どれほどの惨めさに縛られていたかを、はっきりと悟るからであり、また、霊による生活が、どんなに測り知れない善をもたらす真の自由と富の生活であるかを知るからである。それらの善のうちのいくつかを、これに続く歌の中で、見てゆくのであるが、その中で、霊魂が、先に述べた恐ろしい夜を通過することは、素晴らしい幸運だと歌っていることが、どれほど道理にかなっておるかが一層はっきりとわかるであろう。詳しく

おお、すばらしい幸運!
気づかれずに、私は出て行った
我が家はすでにしずまったから…

霊魂はここで、比喩法を用い、自分の業をよりよく果たすため、誰にも妨げられないように、家の人たちが寝静まった夜中に、闇に乗じて家を出て行った、と言っている。その理由は次の通りである。この霊魂は、非常に英雄的な、また、非常に稀な業を行わなければならなかった。それは、すなわち、神である愛人と、外で、一致するということであった。(外で、というのは、愛人は、一人で、外に、孤独のうちにいるからである。それで花嫁は、愛人を孤独うちにいるからである。それで花嫁は、愛人を孤独のうちに見出すことを切望し、次のように言う、「誰が私に、私の兄なるあなたを与えてくれるでしょう。私が外に孤独のうちにいるあなたをただ一人見出すことができますように。そして、私の愛があなたに伝えられますように」(雅8・1)と。深い愛にとらえられている霊魂は、その渇望して止まない的に達するためには、やはり、それと同じようにする必要があった。すなわち、夜、家の僕たちが寝静まって、静かになっている時に、家を出ること、つまり、霊魂の家人である霊魂の下級の働きや熱情や欲求が、この夜の中に眠らされ、しずめられている時に家を出ることであった。これらは、目覚めている限り、霊魂がその宝を探すのを常に妨害し、霊魂が彼らから去って、自由になるということの敵である。というのも、彼らはまさに、救い主が福音の中で、「人間の敵」と言われたもの(マタイ10・36)だからである。したがって、霊魂が、神との愛の一致という超自然的善に達するのを妨げないためには、彼らの働きは、その衝動と共に、この夜のうちに眠らされていなければならなかった。なぜなら、彼らが生き生きと働いている間は、霊魂は一致に達し得ないからである。というのも、彼らのすべての自然的働きや衝動は、霊魂が愛の一致という霊的善を受けるのに助けとなるよりも、かえって妨げとなるからである。自然的力はすべて、超自然的善に対しては無能であり、この善は、神のみが、自らの注賦によって霊魂の中に、受動的態度を持つことが必要であり、そこには自分自身の下級な行為や、卑しい傾きなどを差しはさんではならない。

しかし、神が、この夜に、霊魂のすべての家人―つまり、霊魂の感覚的または霊的領域に住み生きているすべての能力や熱情や愛好や欲求など―を、寝かしつかせてくださったことは、霊魂にとって、まことにすばらしい幸運であった。神が、このようにされたのは、霊魂が、気づかれることなしに―つまり、これらの愛好や、その他のものに、妨害されることなしに―神との完全な愛の霊的一致にまで、到達できるためであった。すなわち、その夜のうちに、それらを闇の中にとり残すことによって、つまり、それらがこの夜の中で眠らされて、制御されてしまって、自分自身の低級な、自然的なやり方に従って識別することも、感じることもできないようになり、霊魂が、自分自身と、自分の官能の家を出て行くことを妨げないためである。

ああ、霊魂がその官能の家から自己を解き放つことができるのは、何と素晴らしい幸運であろうか!私の考えるところでは、それを味わったことのある霊魂でなければ、これをよく理解することはできないであろうと思う。というのも、経験ある霊魂は、自分の諸能力や欲求に左右されていた頃、自分はどんな憐れな奴隷であったか、どれほどの惨めさに縛られていたかを、はっきりと悟るからであり、また、霊による生活が、どんなに測り知れない善をもたらす真の自由と富の生活であるかを知るからである。それらの善のうちのいくつかを、これに続く歌の中で、見てゆくのであるが、その中で、霊魂が、先に述べた恐ろしい夜を通過することは、素晴らしい幸運だと歌っていることが、どれほど道理にかなっておるかが一層はっきりとわかるであろう。

第二の歌とその説明

暗闇の中に 安全に、
装いを変え、秘密の梯子で、
おお、すばらしい幸運!
顔を覆って闇の中に私は出て行った、
我が家はすでにしずまったから…解説
霊魂は、この歌の中においても、なお、この夜の闇の特質をいくつか歌い続け、それらの特質を通して彼にもたらされた幸福を、繰り返し述べている。霊魂はこれらのことを、ある暗黙の反論に対して答えながら言っている。すなわち、この夜と闇の中で、霊魂は、前に述べたように、苦しみや疑い、また恐れや戦慄の、あまりにも多くの嵐の中を通過して来たから、自分を失ってしまう一層大きな危険を冒したのだ、と考えてはならないと言っている。なぜなら、かえって、この夜の闇の中で、自分を儲けたのであるから。霊魂は、その夜の闇の中で、いつもその行く手を遮っていた敵から自由になり、巧みに逃れ出たからである。それは、夜陰に乗じて衣を変え、これから述べるような三つの着物と、三つの色で変装したからで、家の者の誰も知らない秘密の梯子を伝って外に出たからである。この梯子は、また後に適当なところで説く通り、生きた信仰である。霊魂は、この梯子を伝って、その目的の業をよりよく果たすことができるために、全く隠れ、こっそりと外に出たので、非常に安全に行かないはずはなかった。それは、特に、この浄化においては、魂の欲求と愛好と熱情などが、すでに眠らされ、制御され、消されていたからである。これらは、目覚めて生き生きとしていた時は、霊魂が出てゆくのを承知しなかったものである。それで、次の一行が歌われる、暗闇の中に 安全に

霊魂は闇の中にあっても、どれほど安全に歩むかを説明する。

暗闇の中に 安全に
霊魂がここで言っている闇とは、感覚的、内的、そして霊的欲求や諸能力に関するものである。というのも、これらの欲求や諸能力のすべてが、この夜において、その自然的光を失うからである。それは、これらの欲求や諸能力が自然的な光から浄められて、超自然的に照らされるためである。感覚的、また霊的欲求は、神的なことも、人間的なことも、何も味わうことができずに、眠らされて、制御されている。すなわち、霊的愛好は、圧迫され、束縛されていて、霊魂の方へ動くこともできず、何も支えを見出すこともできない。想像力は、縛られていて、ふさわしい推理を一つもすることができない。意志も乾ききっていて、しめつけられている。そして、すべての能力は空になっていて、役に立たない。これらすべてに加えて、熱い重い雲が霊魂を覆っている。これが、霊魂を苦しめ、神から見捨てられたかのように思わせる。このような有様の「暗闇の中を」、霊魂は、「安全に」行ったとここで述べている。霊魂は通常、自分の欲求や味わい、推理や理解、または愛好によって誤らない限り、決して間違うことはない。しかし、概して霊魂は、誤りに陥りやすい。したがって、これらの働きや動きが、すべてさえぎられるならば、霊魂は、それらの中にあって過ちを犯すということから安全に守られることは明らかである。なぜなら、霊魂は、自分自身から解放されるばかりでなく、世間と悪魔からも解放されるからである。霊魂の愛好や働きが消されると、これらの敵は、霊魂に挑みかかることはできない。霊魂は、闇の方へ行けば行くほど、また、その自然的働きから空になればなるほど、安全になるわけである。霊魂が、このように悪から阻まれるならば、そのあとには、神との一致という善が、霊魂の欲求や諸能力の中に入って来ることになる。そして、神は、この一致において、霊魂の諸能力を、神的なもの、天上的なものとされるであろう。それで、もしも、この闇の時期に、その時の状態を注意して見るならば、霊魂は、自分の欲求と諸能力が、無用で有害なものには何とわずかしか楽しみを見出さないか、また、虚栄心や傲慢や自負心や、空しい偽りの楽しみ、その他多くのことから、どんなに安全に守られているかを、非常にはっきりと知るであろう。それに引き続いて、すぐに明らかに知られることは、霊魂は、闇の中を歩むことによって、ただ、損をしないというだけではなく、かえって、大いに儲けるのだ、ということである。なぜなら、霊魂は、そこで諸徳を獲得するからである。しかし、なぜ、神はこの夜において、神に関する善いことにも霊魂の欲求や諸能力を暗黒にし、一層わずかしか、味わうことも、交わることもできないようにされるのか。その理由は、霊魂の諸能力や欲求は、程度が低く、不純で、全く自然的であり、たとえ、超自然的で神的なことについて、これらの諸能力に、味わいや交わりが与えられていたとしても、全く自己流で、非常に低級な仕方で、また、自然的にしか、それを受け取ることができないからである。それ故、これらの能力は、こういう神的なことに関しても、闇に包まれていることがふさわしいのである。そして、霊魂の諸能力や欲求のすべてが、神的で超自然的なことを、高潔で崇高な仕方で受け取り、感じ取り、味わうことができるように、準備され、調整されなければならない。したがって、すべての霊的なことは、もしも、上から、光の父によって(ヤコブ1・17)、人間の欲求や自由意志に伝達されなければ、たとえ人間が、神に対して、人間の味わいや能力をどんなに使ったとしても、また、神に関することをどんなによく味わっているように思えても、やはり、他のことを味わう場合と同様に、決して、神的、霊的にではなく、人間的、自然的にしか味わうことができない。なぜなら、善は人間から神のほうへ向かってゆくのではなく、神から人間に来るものだからである。故に、おお、霊的な霊魂よ!あなたの欲求が闇に包まれ、愛好が乾燥し、締め付けられ、あなたの諸能力が、どんな内的な業に対しても無能力となっているのを見ても、それだからと言って悲しんではならない。むしろ、それを幸福と見なすべきである。なぜなら、神は、あなたを自己から解放してくださっているのであり、あなたの手から、あなたの資産を奪っておられるのだから。というのも、あなたの手では、たとえそれがどんなにあなたに役立つものであったとしても、決して今のように十全に、完全に、また確実に業をなすことはできないのであろうから。(それは、その手が不純で、汚れているためである)。しかし、今は、神があなたの手を取られ、ちょうど盲人に対してするように、闇の中を、あなたを導かれる。あなたは、どこへ行くのかも、どこを通って行くのかも知らない。あなたがどんなに上手に歩いてみても、あなたの目と足とでは、決してよく歩くことはできないであろう。

なぜ、霊魂は、この闇の中を安全に行ったか、ということについては他の理由もある。それは、霊魂が苦しみながら行ったことにある。というのも、苦しみの道は、楽しみの道や、自分ですることの道よりも、はるかに安全であり、さらに一層有益でもあるから。第一に、苦しみにおいては、神の力が添えられるが、自分ですることや楽しみの道においては、霊魂は、自分自身の弱さや不完全を行うにすぎないからである。第二に、苦しみの中で、数々の徳は修練され、獲得され、霊魂は清められて、霊魂を一層賢明に、また慎重にさせるからである。

しかし、なぜ、霊魂は今、闇の中を安全に歩むのか、これについて、もう一つの、はるかに重大な理由がある。それは、神が霊魂を非常に神の近くに置いているからである。そして、その夜を通して、神が霊魂を、神でない一切のものから護り、解放されるからである。今、この霊魂は、いわば健康を回復するために治療を受けているようなものである。神は霊魂に食餌療法をさせ、あらゆるものを節制させ、それらすべてに対する食欲を取り去られる。それはちょうど、家人から大事にされ、よくなるようにと注意深くみとられている病人のようなもので、人々は彼を奥の方に寝かせて保護し、風に当たらないようにし、日光を浴びて楽しむこともさせず、足音をしのばせ、家の中には物音も聞こえさせない。そして、非常に細かく心配りした食事を与え、味よりもむしろ滋養と分量に重きを置く。

これは、霊の夜が非常に暗いのかの理由である。つまり、霊魂は、一層神の近くに置かれているからである。霊魂は神に近づけば近づくほど、ますます闇の暗さを感じ、自分の弱さ故に、ますます深い闇を感じる。それはちょうど、ある人が太陽に近づけば近づくほど、その人の目の弱さと不純さの故に、太陽の偉大な輝きが、その人にますます深い闇と苦痛とを引き起こすのに似ている。

おお、この世に生きる惨めな運命!こんなに多くの危険の中に生き、こんなに多くの困難を通して真理をしるというのだから。といいうのも、最も明らかで、最も真実なものは、私たちにとっては最も暗く、最も疑わしいものだからであり、それがために、それが私たちにとって、最も必要適切なものであるのに、私たちはそれから逃げてしまう。そして、私たちは、それが私たちにとって、一層悪いものであり、一歩ごとにつまずかせるものであるのに、私たちの目に最大の光と満足とを与えるものを抱きしめ、その後を追ってゆく。人間は、なんと多くの危険と恐れの中に生きているのであろうか!彼を導くはずの、彼の目の自然的光そのものが、神の方へ行くのに、彼をまどわせ、道を迷わせる第一の光なのだから。それで、もし、自分の家の中にいる敵ども―つまり、自分の感覚と諸能力―から安全であるために、闇の中を歩むこと必要なのである。

この霊魂が、暗闇の中に歩むことが安全である、もう一つの理由がある。それは、この霊の夜の中で、霊魂に剛毅が置かれるからである。それは、霊魂は、神に対する侮辱と考えられることは何一つせず、神への奉仕になると思えることは、何一つ怠らずに行うとの真の決意と力が、自分の中にあることを認めているからである。というのも、神を喜ばせるために、なすべきことと、なすべきでないことについて、この上も何細心の注意と内的心づかいとをもって、あの暗い愛が霊魂に入りこんでくるからである。それで霊魂は、もしや自分は、神を怒らせる原因になったのではないか、と幾度となく自問し、反省する。こういうことすべては、愛の焦燥についていうところで前に述べたことよりも、一層大きな注意と心遣いをこめて行われる。なぜなら、今は、霊魂のあらゆる欲求と力と能力は、他の一切のものから離れて一つに集中されて、その努力と力とは神を喜ばせることにのみ用いられているからである。このようにして、霊魂は、自分とすべての被造物から出て、甘味で喜びに満ちた神との愛の一致へと向かってゆく。すなわち、
暗闇の中に 安全に
装いを変え、秘密の梯子で、

詳しく

暗闇の中に 安全に
霊魂がここで言っている闇とは、すでに述べたように、感覚的、内的、そして霊的欲求や諸能力に関するものである。というのも、これらの欲求や諸能力のすべてが、この夜において、その自然的光を失うからである。それは、これらの欲求や諸能力が自然的な光から浄められて、超自然的に照らされるためである。感覚的、また霊的欲求は、神的なことも、人間的なことも、何も味わうことができずに、眠らされて、制御されている。すなわち、霊的愛好は、圧迫され、束縛されていて、霊魂の方へ動くこともできず、何も支えを見出すこともできない。想像力は、縛られていて、ふさわしい推理を一つもすることができない。意志も乾ききっていて、しめつけられている。そして、すべての能力は空になっていて、役に立たない。これらすべてに加えて、熱い重い雲が霊魂を覆っている。これが、霊魂を苦しめ、神から見捨てられたかのように思わせる。このような有様の「暗闇の中を」、霊魂は、「安全に」行ったとここで述べている。

このことの理由は、はっきりと良く説明されている。なぜなら、霊魂は通常、自分の欲求や味わい、推理や理解、または愛好によってあやまらない限り、決して間違い得ないからである。というのも、概して霊魂は、これらのことにおいて、それらを多く持ちすぎるか、持たな過ぎるかであり、変化するか、放縦に流れるかであり、あるいは、また、ふさわしきないことの方へ傾き、引きずられてゆくか、であるから。したがって、これらの働きや動きが、残らずさえぎられるならば、霊魂は、それらの中にあって過ちを犯すということから安全に守られることは明らかである。なぜなら、霊魂は、自分自身から解放されるばかりでなく、他の敵、すなわち、世間と悪魔からも解放されるからである。霊魂の愛好や働きが消されると、これらの敵は、他の部分からや、他の手段によっては、霊魂に挑みかかることはできない。

それで、霊魂は、闇の方へ行けば行くほど、また、その自然的働きから空になればなるほど、安全になるわけである。なぜなら、預言者も言っている通り(ホゼア13・9)、亡びは霊魂自身から―すなわち、霊魂の感覚的または内的欲求と働きから―だけ来るからである。そして「善は私からだけ来る」と神は言われる。それ故、霊魂が、このように悪から阻まれるならば、そのあとには、神との一致という善が、霊魂の欲求や諸能力の中に入って来ることになる。そして、神は、この一致において、霊魂の諸能力を、神的なもの、天上的なものとされるであろう。それで、もしも、この闇の時期に、その時の状態を注意して見るならば、霊魂は、自分の欲求と諸能力が、無用で有害なものには何とわずかしか楽しみを見出さないか、また、虚栄心や傲慢や自負心や、空しい偽りの楽しみ、その他多くのことから、どんなに安全に守られているかを、非常にはっきりと知るであろう。それに引き続いて、すぐに明らかに知られることは、霊魂は、闇の中を歩むことによって、ただ、損をしないというだけではなく、かえって、大いに儲けるのだ、ということである。なぜなら、霊魂は、そこで諸徳を獲得するからである。

しかし、ここですぐに、一つの疑問が起こってくる。それは、すなわち、神に関することは、それ自体、霊魂にとって有益であり、霊魂をとらえ占領し、安全にするものであるのに、なぜ、神はこの夜に当たって、これらの善いことに関しても、霊魂の欲求や諸能力を暗黒にし、もはや、霊魂が、他のことと同様に、ある意味では、それよりも一層わずかしか、これらのことを味わうことも、それらと交わることもできないようにされるのか、ということである。これに対する答えは、次の通りである。すなわち、その時には、霊的なことに関して、何の働きも喜悦も残っていないことが、霊魂にとってふさわしいのである。というのも、霊魂の諸能力や欲求は、程度が低く、不純で、全く自然的であるからである。それで、たとい、超自然的で神的なことについて、これらの諸能力に、味わいや交わりが与えられていたとしても、全く自己流で、非常に低級な仕方で、また、自然的にしか、それを受け取ることができないであろう。なぜなら、哲学者が言うとおり、どんなことであっても、それを受け取るものの仕方に従って、その人に受け取られるものだからである。これらの自然的諸能力は、超自然的なことをその仕方に従って、つまり、神的な仕方で、受け取ったり、味わったりすることができるだけの、清さも力も容力も持っていない。そして、先にも言ったように、ただ、人間的で、低級な自分の仕方で受け取ったり味わったりすることしかできない。それ故、これらの能力は、こういう神的なことに関しても、闇に包まれていることがふさわしいのである。まず、これらの諸能力が、前に述べたことにおいて、乳離れさせられ、浄められ、無に帰せられることによって、あのようないやしい人間的な受け取り方や行い方を失ってしまわなければならず、霊魂の諸能力や欲求のすべてが、神的で超自然的なことを、高潔で崇高な仕方で受け取り、感じ取り、味わうことができるように、準備され、調整されなければならないのである。これは、古い人がまず死んでしまわない限り、あり得ないことである。

したがって、すべての霊的なことは、もしも、上から、光の父によって(ヤコブ1・17)、人間の欲求や自由意志に伝達されなければ、たとえ人間が、神に対して、人間の味わいや能力をどんなに使ったとしても、また、神に関することをどんなによく味わっているように思えても、やはり、他のことを味わう場合と同様に、決して、神的、霊的にではなく、人間的、自然的にしか味わうことができない。なぜなら、善は人間から神のほうへ向かってゆくのではなく、神から人間に来るものだからである。このことについては―もし、ここが、その説明のために適当なところであるならば―次のように説明することができるであろう。すなわち、神について、または霊的なことについて、多くの味わいや愛好や、諸能力の働きを持っている人は非常に多くあり、大抵、彼らはそれが、超自然的で、霊的であると考えがちである。しかし、普通、それは、最も人間的で、自然的な欲求や行為意外の何ものでもないのである。彼らはそれを、他のことについて持っているのと同様に、何かのことの方へ欲求と諸能力とを容易に、自然的に動かすことのできる同じ方法を、神や霊的な事柄に関しても用いているのである。

本書の残りの部分で、もし機会があるならば、神との交わりに関して、霊魂の内的行為や動きが、いつ自然的であるか、いつ純粋の霊的であるか、いつ自然的であると同時に霊的であるか、ということを、いくつかのしるしを述べながら扱ってみようと思う。ここでは、霊魂の内的行為や動きが、神によって神的に動かされたものとなることができるためには、まず、それらがすっかり力を失うまで、その能力と働きすべてに関して、自然的には闇に包まれ、眠らされ、しずめられなければならないことを知るだけで十分である。

故に、おお、霊的な霊魂よ!あなたの欲求が闇に包まれ、愛好が乾燥し、締め付けられ、あなたの諸能力が、どんな内的な業に対しても無能力となっているのを見ても、それだからと言って悲しんではならない。むしろ、それを幸福と見なすべきである。なぜなら、神は、あなたを自己から解放してくださっているのであり、あなたの手から、あなたの資産を奪っておられるのだから。というのも、あなたの手では、たとえそれがどんなにあなたに役立つものであったとしても、決して今のように十全に、完全に、また確実に業をなすことはできないのであろうから。(それは、その手が不純で、汚れているためである)。しかし、今は、神があなたの手を取られ、ちょうど盲人に対してするように、闇の中を、あなたを導かれる。あなたは、どこへ行くのかも、どこを通って行くのかも知らない。あなたがどんなに上手に歩いてみても、あなたの目と足とでは、決してよく歩くことはできないであろう。

また、なぜ霊魂は、このように闇の中を行くとき、ただ安全に歩むばかりでなく、より大きな利益を獲得し、進歩するのか。その理由は、普通、霊魂が新たな進歩をとげ、利益を受け進んでゆく時というのは、霊魂が最も難しい所を通ってゆくときだからであり、大抵は、むしろ自分は滅びてゆくのではないか、と考えている時に起こるからである。なぜなら、霊魂は、自分を以前の生き方から引き出し、眩惑させ、当惑させるような、あの新奇な体験をまだ一度もしたことがないのであって、霊魂は、自分は進歩し、利益を受ける代わりに、むしろ、滅びてゆくように思う。それは、霊魂は、これまで知っていたことや、味わっていたことが失われるのを見、知りもせず、味わいも見出せないところを通ってゆくのを見るからである。それはちょうど、旅人のようなもので、未知の、新しい土地に行くためには、その人は、未知の一度も通ったことのない新しい道をたどってゆく。過去の経験や、前から知っていたことに導かれてではなく、疑問を抱きながら、他人の言うことに従って進んでゆく。そして、このような人は、もしも、これまで全く知らなかった新しい道を行かず、また、今まで知っていたこと以上の道を捨ててゆくことをしないなら、決して新しい土地に着くこともできないし、今まで知っていたこと以上のことを知ることもできない、ということは明らかである。これと全く同様に、何かの仕事や技術に関して、より詳しいことを習っている者も、すでに持っている知識によらずに、闇の中を行くのである。なぜなら、もし、すでに持っている知識をあとに残してゆかないならば、そこから脱することもなく、一層進歩することもできないであろうから。同様に、霊魂が一層進歩してゆく時には、霊魂は、闇の中を、何も知らないでゆくのである。それで、前に述べたとおり、この盲目の霊魂の師であり、指導者は神であるから、ひとたびそれを知るならば、霊魂は、真に歓喜して、暗闇の中に安全にと言うことができる。

なぜ、霊魂は、この闇の中を安全に行ったか、ということについては他の理由もある。それは、霊魂が苦しみながら行ったことにある。というのも、苦しみの道は、楽しみの道や、自分ですることの道よりも、はるかに安全であり、さらに一層有益でもあるから。第一に、苦しみにおいては、神の力が添えられるが、自分ですることや楽しみの道においては、霊魂は、自分自身の弱さや不完全を行うにすぎないからである。第二に、苦しみの中で、数々の徳は修練され、獲得され、霊魂は清められて、霊魂を一層賢明に、また慎重にさせるからである。

しかし、なぜ、霊魂は今、闇の中を安全に歩むのか、これについて、もう一つの、はるかに重大な理由がある。それは、前に述べたあの暗い光、または闇の英知に基づいている。なぜなら、このようにして、この観想の暗夜は、自分のうちに霊魂を吸収し、飲み込んでしまい、そして、霊魂を非常に神の近くに置くので、神が霊魂を、神でない一切のものから護り、解放されるからである。今、この霊魂は、いわば健康を回復するために―霊魂の健康とは神ご自身のことである―治療を受けているようなものである。神は霊魂に食餌療法をさせ、あらゆるものを節制させ、それらすべてに対する食欲を取り去られる。それはちょうど、家人から大事にされ、よくなるようにと注意深くみとられている病人のようなもので、人々は彼を奥の方に寝かせて保護し、風に当たらないようにし、日光を浴びて楽しむこともさせず、足音をしのばせ、家の中には物音も聞こえさせない。そして、非常に細かく心配りした食事を与え、味よりもむしろ滋養と分量に重きを置く。

このようなすべての特質は―みな霊魂の安全と保護に関するものであるが―この暗い観想が、霊魂のうちに醸し出すのである。なぜなら、霊魂は、一層神の近くに置かれているからである。霊魂は神に近づけば近づくほど、ますます闇の暗さを感じ、自分の弱さ故に、ますます深い闇を感じる。それはちょうど、ある人が太陽に近づけば近づくほど、その人の目の弱さと不純さの故に、太陽の偉大な輝きが、その人にますます深い闇と苦痛とを引き起こすのに似ている。これと同じように、神の霊的光は、非常に壮大であり、人間の自然的理性をはるかに越えるものであるため、それに近づけば近づくほど、その人を盲目にし、暗くする。ダビデが、詩編18の中で、「神は、その隠れ場所と覆いとして闇を置き、その幕屋を自分の周囲にめぐらし、空の雲の中に暗い水を置かれた」(18・12)と言っているのは、このためである。この空の雲の中の暗い水とは、今述べているとおり、霊魂の中における暗い観想と神的英知のことである。神が霊魂をますます自分の近くに引き寄せ、自分に結びつけられる時、霊魂はそれを、神の近くにあるもの、まるで、神がその中に住まわれる幕屋のように感じている。このように、聖パウロが言っているとおり(1コリント2・14)、神において最高の光であり輝きであるものは、人間にとっては最も暗い闇なのである。それで、ダビデは同じ詩編の中で、次のように説明している。「神の前にある輝き故に、雲とおぼろとは去った」。これは、すなわち、自然的理性に対してであって、その光はイザヤが第五章で言っているように、「闇にくらんだ」(5・30)のである。

おお、この世に生きる惨めな運命!こんなに多くの危険の中に生き、こんなに多くの困難を通して真理をしるというのだから。といいうのも、最も明らかで、最も真実なものは、私たちにとっては最も暗く、最も疑わしいものだからであり、それがために、それが私たちにとって、最も必要適切なものであるのに、私たちはそれから逃げてしまう。そして、私たちは、それが私たちにとって、一層悪いものであり、一歩ごとにつまずかせるものであるのに、私たちの目に最大の光と満足とを与えるものを抱きしめ、その後を追ってゆく。人間は、なんと多くの危険と恐れの中に生きているのであろうか!彼を導くはずの、彼の目の自然的光そのものが、神の方へ行くのに、彼をまどわせ、道を迷わせる第一の光なのだから。それで、もし、自分の家の中にいる敵ども―つまり、自分の感覚と諸能力―から安全であるために、闇の中を歩むこと必要なのである。

それで、霊魂が、今、神の近くにあるものであるこの暗い水の中にすっかり隠され、よく守られていることは幸いなことである。なぜなら、それが幕屋や住家として神ご自身に役立つのと同様に、霊魂にも同じように役立ち、霊魂にとっては、それは、完全な保護、安全となるからである。それで霊魂は、闇の中に残されているにしても、前に述べたように、そこにおいて、自分自身からも、被造物からくるすべての悪からも隠され、保護されている。なぜなら、ダビデが他の詩編の中で言っていることも、このようなものと解されるからである。彼は言う、「あなたは彼らを、人のそしりから、御顔の隠れ家に隠し、舌の争いからあなたの幕屋の下におおいかくした」(詩31・21)と。このことの中に、あらゆるかたちの御保護を知ることができる。なぜなら、人のそしりから、神の御顔の隠れ場に隠されているとは、人間から来るすべてのことがらに対して、この暗い観想において強められていることだからである。したがって、そこにおいて霊魂は、そのすべての欲求と愛好を乳離れさせてしまい、諸能力は暗くされているので、霊に逆らうすべての不完全からも、自分自身の肉や、他の被造物からも、自由にされ、解放されている。それで、この霊魂はまさしく、「暗闇の中に 安全に」歩んでいると言うことができるのである。

この霊魂が、暗闇の中に歩むことを、よく理解するためには、今述べた理由に決して劣ることのない、有力な、もう一つの理由がある。それは、神の、この暗く苦しい闇の水が、直ちに霊魂の中に置く、剛毅によるものである。この水は暗いものであるが、結局、水以外の何ものでもないので、闇と苦しみの中においてではあるが、霊魂にとって、一層必要適切なことの中で、霊魂の活力を回復させ強めずにはいない。なぜなら、言うまでもなく、霊魂は、神に対する侮辱と考えられることは何一つせず、神への奉仕になると思えることは、何一つ怠らずに行うとの真の決意と力が、自分の中にあることを認めているからである。というのも、神を喜ばせるために、なすべきことと、なすべきでないことについて、この上も何細心の注意と内的心づかいとをもって、あの暗い愛が霊魂に入りこんでくるからである。それで霊魂は、もしや自分は、神を怒らせる原因になったのではないか、と幾度となく自問し、反省する。こういうことすべては、愛の焦燥についていうところで前に述べたことよりも、一層大きな注意と心遣いをこめて行われる。なぜなら、今は、霊魂のあらゆる欲求と力と能力は、他の一切のものから離れて一つに集中されて、その努力と力とは神を喜ばせることにのみ用いられているからである。このようにして、霊魂は、自分とすべての被造物から出て、甘味で喜びに満ちた神との愛の一致へと向かってゆく。すなわち、

暗闇の中に 安全に
装いを変え、秘密の梯子で、

この暗い観想がどれほど秘密なものであるかを説明する。

暗闇の中に安全に、 装いを変え、秘密の梯子で、「秘密」と「梯子」という語は観想の暗夜に属している。「変装」という語は、この夜にあたっての霊魂の有様であることから、これは霊魂に属する。はじめの二語に関して、霊魂は、愛の一致に向かって出て行くために通るこの暗い観想を、「秘密の梯子」と呼んでいる。この暗夜にある二つの特質から、そのように呼ぶのである。すなわち、それが、秘密であることと、梯子であるということからである。この二つについて、それぞれ別々に説明しよう。まず霊魂は、この暗い観想を「秘密の」と呼んでいる。それは、これが神秘の体験である限りにおいてであって、これを秘密の英知と呼ぶ。この英知は、愛によって霊魂に与えられが、悟性その他の諸能力の働きからは隠され、闇の中で秘密に行われる。霊魂はそれを知りもせず、どういうことなのか悟ることもないので「秘密の」と呼ばれるのである。そして誰もそれを知らないのであり、悪魔さえも知らない。それは、霊魂を教育する師が霊魂の中に実体的に現存されるからで、そのようなところへは悪魔も、自然的感覚も、悟性も達することができないのである。このためばかりでなく、この愛の英知が霊魂を浄めるとき、霊魂はその英知について何も言うことができないし、その後の照らしにおいても、それを言い表そうとしても、霊魂には、それを語る気を起こさせない上に、語ることもできない。なぜなら霊魂は、これほど崇高な知識や、これほどデリケートな霊的感動を描き出すことができるための手段も方法も、それに合致した比喩も見出せないからである。それで、たとえ霊魂がそれを口に出して言いたいとどんなに思っても、また、それを述べるためにどんなにいろいろの表現を用いても、それはあくまでも、秘密のまま、言い尽くされないまま残るであろう。純粋の観想は、ことばで言い表すことのできないものであるからである。それだからこそ、「秘密の」と呼ばれるのである。

また、この観想の英知は、神から霊魂に向けられる言葉、すなわち、純霊から純霊への言葉であるから、霊以下のもの、たとえば五感のようなものは、これを受けられない。したがって、霊以下のものにとって、それは、秘密なのであり、霊魂は、この英知を知らず、また、それについて語ることもできない。そして、それを見たことがないので欲望も起こらない。

またこの夜が「秘密の」と呼ばれるのは、時として、神は、霊魂を吸収し、自分の秘密の淵に沈ませるからである。そのとき、霊魂は、自分があらゆる被造物からはるかに遠く運び去られ、それらからすっかり離れ去っていることを明らかに悟るようになる。それで霊魂は、自分が、どんな被造物も近づくことができない果てしなく広がる砂漠のような、極みなく深く広い孤独の中に置かれているような気がする。それが一層深く、広く、孤独であればあるほど、それは一層楽しく、快く、愛にあふれたもので、そこにおいて霊魂は、自分がこの世のあらゆる被造物を越えて、高くあげられているということを悟るとき、自分が全く隠されていて、秘密であることを見出す。そのとき、この英知の淵は、愛の知識の鉱脈の中に霊魂を深く入れて、霊魂を大いに高め、高揚する、それで、霊魂は、この最高の知識と神的霊感に対しては、被造物のあらゆる性質は、非常に卑しいものであるということを知らされるばかりでなく、この世で神に関することがらを述べるために使われるあらゆる言葉の語句が、いかに卑しく、不足だらけであり、ある意味で不適当であるかを悟る。また、この注賦的観想の照らしによるのでなければ、たとえどんなに崇高に博識を傾けて語ったとしても、自然的な方法や手段によってでは、神に関することをあるがままに知り、感じるのはどれほど不可能なことであるかを知る。

この神的観想が、「秘密である」という特質と、自然的容力を越えているという特質を持っているのは、ただこの観想が、超自然的であるばかりでなく、それが霊魂を、神との一致という完徳にまで導き運ぶ道であるためでもある。完徳は、人間的知識をもっては知ることのできないことであるから、霊魂としては、人間的には何も知らないまま、また、神的には、無知のまま、完徳に進んでゆかなければならない。というのも、神秘的な言い方をすれば、神的なことがらや完徳は、人がそれを探しつつあるときや、実行しつつあるときに、それがどのようなものであるかを知られたり、理解されたりするものではなく、それがすでに見出され、すでに実行され終わったとき初めて知られ、理解されるものだからである

霊魂が神に行くために通るこの道は、肉体の感覚にはその通り道も、足跡も隠され、知られないのと同様に、霊魂の感覚にとって、全く秘密であり、隠されているものである。神が、ご自分の英知との一致のうちに偉大なものにして、ご自分に近づけようと望まれる霊魂の中に与えられる痕跡と足跡は、不可知のものであるという特質を持っている。

詳しく

暗闇の中に安全に、 装いを変え、秘密の梯子で、

この一行の中に含まれている三つの言葉に関しては、三つの特質を説明しなければならない。そのうち二つ、すなわち、「秘密」という語と、「梯子」という語は、いま論じている観想の暗夜に属している。三番目の「変装」という語は、この夜にあたっての霊魂の有様である、ということから、これは霊魂に属する。はじめの二語に関して、霊魂は、愛の一致に向かって出て行くために通るこの暗い観想を、今この一行において、「秘密の梯子」と呼んでいる。この暗夜にある二つの特質から、そのように呼ぶのである。すなわち、それが、秘密であることと、梯子であるということからである。この二つについて、それぞれ別々に説明しよう。

まず霊魂は、この暗い観想を「秘密の」と呼んでいる。それは、前に触れておいたとおり、これが神秘の体験である限りにおいてであって、神学者たちはこれを、秘密の英知と呼ぶ。この英知は、愛によって霊魂に与えられ、注がれるものである、と聖トマスは言っている。この注賦は、悟性、その他の諸能力の働きからは隠され、闇の中で秘密に行われる。それ故、前に記した諸能力にはそれができず、聖霊が、霊魂の中にその英知を注賦し、それを霊魂の中で整えられるのであって、雅歌の中で花嫁が言っているように(2・4)、花嫁は、それを知りもせず、それがどういうことなのか悟ることもないので「秘密の」と呼ばれるのである。そして、実際、花嫁がそれを悟らないばかりでなく、誰もそれを知らないのであり、悪魔さえも知らない。それは、霊魂を教育する師が霊魂の中に実体的に現存されるからで、そのようなところへは悪魔も、自然的感覚も、悟性も達することができないのである。

これが、秘密のものと呼ばれるのは、このためばかりでなく、それが霊魂の中に行う結果によることである。なぜなら、ただ、この浄化の闇と窮迫の中において、すなわち、この愛の英知が霊魂を浄めるとき、霊魂がその英知について何も言うことができないために秘密であるばかりではなく、この英知が一層はっきりと霊魂に伝えられるその後の照らしにおいても、それを言い表そうとして、それを語るにも、それに名を付けるにも、霊魂にとって、それは全く秘密だからである。それで、霊魂には、それを語る気を起こさせない上に、霊魂は、これほど崇高な知識や、これほどデリケートな霊的感動を描き出すことができるための手段も方法も、それに合致した比喩も見出せない。それで、たとえ霊魂がそれを口に出して言いたいとどんなに思っても、また、それを述べるためにどんなにいろいろの表現を用いても、それはあくまでも、秘密のまま、言い尽くされないまま残るであろう。この内的英知は非常に単純で、普遍的で、霊的であるので、感覚に従属した何らかの形やイメージで包まれたり覆われたりして、悟性の中に入ることはなかった。それゆえ、感覚や想像力は(英知は、これらを通って入らなかったし、これらは英知の衣服も色も感じなかったので)、霊魂が、この味わい豊かで、目新しい英知を、自分が理解し、それを味わっていることをはっきりと自覚しているにもかかわらず、それを説明することも、それについて何か語るために、それを想像することもできない。それはちょうど、今まで決して見たことのないものを見た人のようで(その人は、それに似ているものさえ決して見たことがないのである)、彼は、たとえ、それを理解し、味わったとしても、どんなに努力してもその名を言うことができなければ、それが何であるかを説明することもできない。感覚を通して知覚したものであってさえこうなのであるなら、それが感覚を通して入ってきたものでないことであるならば、どうして説明することができるであろうか。なぜなら、これは神のことばの特質であって、神のことばは霊魂にとって非常に内密であり、霊的であるため、どんな感覚をも超越しているので、内的外的の諸感覚のすべての調和と能力を、ただちに中絶させ、押し黙らせるからである。

このことについては、聖書の中にいろいろと述べられているし、また、多くの例も同時にそこに見出すことができる。人間は、これについて語ることも、述べることもできないという外的無能は、エレミアが示しているとおりである。神が彼に語りかけられたとき、エレミアは何を言ってよいのかわからず、ただ、「ああ、ああ、ああ」ということしかできなかった(1・6)。そして、内的無能―つまり、想像の内的感覚の不能―および、それに呼応した外的感覚の不能を、モーセもまた、茨の中におられる神の御前で表した(出エジプト4・10)。神が彼に語られたのち、彼は話すこともできず、何を言うべきかわからないと、神に申し上げたばかりでなく、使徒行録に記されているとおり(7・32)、内的想像を使って、あえてそれを見極める勇気もないと申しあげた。なぜなら、ただ神に関して悟り得たことのいくらかでも形にして表してみるためばかりでなく、それのいくらかを受けるためにも、彼には自分の想像力がはるか彼方に行ってしまって、すっかり麻痺してしまったかのように思えたからである。ところで、この観想の英知は、神から霊魂に向けられる言葉、すなわち、純霊から純霊への言葉であるから、霊以下のもの、たとえば五感のようなものは、これを受けられない。したがって、霊以下のものにとって、それは、秘密なのであり、それらは、この英知を知らず、また、それについて語ることもできない。そして、それを見たことがないので欲望も起こらない。

このことから、この道を歩むある人々―彼らは善良な、小心な霊魂の持ち主である―が、その指導者に自分の霊魂の状態を報告しようとしても、なぜそれが言えないのか、また、なぜそれができないのか、ということの理由を引き出すことができる。彼らは、それについて語るのに非常な嫌悪を覚えるのである。彼らの観想が、霊魂自身、ほとんどそれを感じることができないほど、単純なものである場合には、特にそういうことが起こる。このような人は、ただ自分の霊魂は満足しており、静穏で、喜びに満たされていること、あるいは、神の現存を意識していること、また、自分の考えでは、万事が順調にいっていると思えるということが言えるだけである。その人は、自分の霊魂が持っているものを言い表すことができないだろう。しかし、霊魂の体験したものが、示現とか霊感とかいうような特殊なものである場合には別である。こういうものは、感覚がそれに与る何らかの現象のもとに受け取られるのが普通であるから、その時には、霊魂は、その現象またはそれに類似した他の現象のもとに、それを表明することが可能である。しかし、この表明可能というそのことは、もうすでに、純粋の観想のことではない証拠である。なぜなら、純粋の観想は、先に述べた通り、ことばで言い表すことのできないものであるからである。それだからこそ、「秘密の」と呼ばれるのである。

ところで、ただそのためにのみ、それが「秘密だ」と呼ばれ、「秘密である」のではない。それは、この神秘的英知が霊魂を自分の中に隠す、という特質を持っているからでもある。なぜなら、時として、それは、普通以上に霊魂を吸収し、自分の秘密の淵に沈ませるからである。そのとき、霊魂は、自分があらゆる被造物からはるかに遠く運び去られ、それらからすっかり離れ去っていることを明らかに悟るようになる。それで霊魂は、自分が、どんな被造物も近づくことができない果てしなく広がる砂漠のような、極みなく深く広い孤独の中に置かれているような気がする。それが一層深く、広く、孤独であればあるほど、それは一層楽しく、快く、愛にあふれたもので、そこにおいて霊魂は、自分がこの世のあらゆる被造物を越えて、高くあげられているということを悟るとき、自分が全く隠されていて、秘密であることを見出す。そのとき、この英知の淵は、愛の知識の鉱脈の中に霊魂を深く入れて、霊魂を大いに高め、高揚する、それで、霊魂は、この最高の知識と神的霊感に対しては、被造物のあらゆる性質は、非常に卑しいものであるということを知らされるばかりでなく、この世で神に関することがらを述べるために使われるあらゆる言葉の語句が、いかに卑しく、不足だらけであり、ある意味で不適当であるかを悟る、また、この注賦的観想の照らしによるのでなければ、たとえどんなに崇高に博識を傾けて語ったとしても、自然的な方法や手段によってでは、神に関することをあるがままに知り、感じるのはどれほど不可能なことであるかを知る。こうして霊魂は、注賦的観想の照らしによって、この真理―すなわち、凡俗で人間的なことばによってでは達することも、ましてや説明することもできないという真理―を悟り、もっともなこととして、これを「秘密の」と呼ぶのである。

この神的観想が、「秘密である」という特質と、自然的容力を越えているという特質を持っているのは、ただこの観想が、超自然的であるばかりでなく、それが霊魂を、神との一致という完徳にまで導き運ぶ道であるためでもある。完徳は、人間的知識をもっては知ることのできないことであるから、霊魂としては、人間的には何も知らないまま、また、神的には、無知のまま、完徳に進んでゆかなければならない。というのも、今ここで話しているように、神秘的な言い方をすれば、神的なことがらや完徳は、人がそれを探しつつあるときや、実行しつつあるときに、それがどのようなものであるかを知られたり、理解されたりするものではなく、それがすでに見出され、すでに実行され終わったとき初めて知られ、理解されるものだからである。それゆえに、預言者バラクは、この神的英知に関して、「その道を知ることができるもの、その小道を探ることのできるものはいない」(3・31)と言っているのである。同じく、王位にあった預言者も、この霊魂の道に関して、神と語って次のように言っている。「あなたの光は地球を照らし、これを輝かせた。地はふるえ、ゆれ動いた。あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にあった。それで、あなたの足跡は見出されなかった」(詩77・19~20)と。

こういうことはみな、霊的な意味で言われるのであって、今わたしたちがここで言っていることに関連しているものと解される。なぜなら、「神の光が地球を照らす」とは、霊魂の中に引き起こされる苦しい浄化のことだからである。また、霊魂が神に至るために通っていく神の道と小道は海の中にあり、神の足跡は大水の中にあるため、知ることができないというのは、霊魂が神に行くために通るこの道は、ちょうど海の上を歩いてゆくとき、肉体の感覚にはその通り道も、足跡も隠され、知られないのと同様に、霊魂の感覚にとって、全く秘密であり、隠されているものである、ということである。神が、ご自分の英知との一致のうちに偉大なものにして、ご自分に近づけようと望まれる霊魂の中に与えられる痕跡と足跡は、不可知のものであるという特質を持っている。それゆえ、ヨブ記の中ではこのことを大いに強調して、次のように言っている。「あなたは大いなる雲の道を、あるいは、完全な知識を知ったとでも言うのか?」(37・16)と。これによって、神が霊魂を高め、自分の英知の中に完全なものとされる道と小道のことが知られ、それらはここでは「雲」という言葉で言い表されている。したがって、霊魂を神の方へと導いてゆくこの観想は「秘密の英知」であることが明らかになる。

この秘密の英知が、またどうして「梯子」でるかを説明する

この秘密の観想が梯子と呼ばれる一番目の理由は、ちょうど梯子を伝ってよじ登り、城塞の中にある宝やその他の事物を奪い取る人のように、この秘密の観想によって、霊魂は、どのようにしてかは知らないまま、天上の宝を知り、それを所有するところまで、よじ登ってゆくからである。この秘密の観想が梯子と呼ばれる二番目の理由は、梯子の段が昇るためにもあるのと同様に、霊魂に行うその交わりが、霊魂を神にまで高めると同時に、霊魂を謙遜に、低くへりくだらせるからである。というのも、真に神からくるこの交わりは、霊魂をへりくだらせると同時に、これを高めるという特質を持っているからである。この道においては、降ることが昇ることであり、昇ることが降りることである。なぜなら、「自らへりくだる者は上げられ、自ら高ぶる者は下げられる」(ルカ14・11)からである。謙遜の徳は偉大である。神は、謙遜のうちに鍛えようとして、霊魂に、この梯子を伝って降りらせるためにこれを昇らせ、また、昇らせるためにこれを降らせるのが常である。このことを知るならば、どうして豊かさを喜び味わった後に、すぐ嵐や試練に見舞われるのかを十分悟ることができるであろう。このことの原因は、次の通りである。すなわち、完徳の状態は、神に対する完全な愛と自己軽視から成り立っているものであるが、それは、神を知ることと、自分自身を知ること、という二つの要素がそろわない限り、あり得ないものであるから、霊魂は、どうしても、まず、そのどちらにおいても鍛えられていることが必要なのである。すなわち、あるときは、その一つを味合わせて霊魂を高め、あるときは、もう一方を体験させてへりくだらせ、遂には、完全な習性を身につけて、もはや、昇ることも降りることも止んでしまうまで鍛えられなければならないのである。その時、霊魂は、もう、神に到達し、神と結ばれているのであって、神は、この梯子の末端のところにおられ、梯子は神によりかかり、神に支えられている。この観想を、梯子と呼んでいるかということの最も主要な特質は、それが、愛の知識であるということである。この愛の知識は、霊魂が一段また一段と、創造主である神のもとに昇り着くまで、霊魂を照らし、同時に、愛に燃え立たせる。なぜなら、霊魂を神に結び合わせ、一致させるものは、ただ、愛だけだからである。そこで、このことがもっとはっきり解るために、ここに、この神的梯子の段階を示し、その各々の特徴と効果とを簡単に述べ、霊魂が、自分はそれらのどこにいるかを推察できるようにしようと思う。ここで私たちは、聖ベルナルドや聖トマスがしているように、各段階を、それらがもたらす効果によって識別しようと思う。なぜなら、この愛の梯子は、全く秘密なので、それを測り測量することのできる方は、神のみであるため、各段階をそれ自体において知ることは、自然的なやり方では決してできないからである。

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しかし、まだここに、第二の点を見てみる仕事が残っている。すなわち、それはこの秘密の英知が、なぜ梯子であるのか、ということである。これに関しては、さまざまな理由によって、この秘密の観想を梯子と呼ぶことができるということを知らなければならない。まず第一に、これが梯子と呼ばれるのは、ちょうど梯子を伝ってよじ登り、城塞の中にある宝や金銀やその他の事物を奪い取る人のように、この秘密の観想によって、霊魂は、どのようにしてかは知らないまま、天上の宝や金銀を知り、それを所有するところまで、よじ登ってゆくからである。このことは、預言者であるダビデ王によってよく言い表されている。彼は言う、「あなたの恵みと助けをもつものは幸いである。彼らは主が定めたところまで、涙の谷の中を、あなたのみもとに昇るきざはしを、その心の中に据えたからである。そこで掟の主は祝福を与えられ、彼らは段を上るように、徳から徳へと進み、シオンにおいて神々の中の髪を見るであろう」(詩84・6~8)と。神とは、シオンの城塞の宝であり、シオンとは、すなわち天国である。

梯子の段が昇るためにもあるのと同様に、この秘密の観想も、霊魂に行うその交わりが、霊魂を神にまで高めると同時に、霊魂を自らにおいて謙遜に、低くへりくだらせるのであるから、わたしたちはやはり、この秘密の観想を「梯子」と呼ぶことができるのである。というのも、真に神からくるこの交わりは、霊魂をへりくだらせると同時に、これを高めるという特質を持っているからである。この道においては、降ることが昇ることであり、昇ることが降りることである。なぜなら、「自らへりくだる者は上げられ、自ら高ぶる者は下げられる」(ルカ14・11)からである。謙遜の徳は偉大である。それだけでなく、神は、謙遜のうちに鍛えようとして、霊魂に、この梯子を伝って降りらせるためにこれを昇らせ、また、昇らせるためにこれを降らせるのが常である。それは、このようにして、「霊魂は高められる前にいやしめられ、いやしめられる前に高められる」(格言18・12)という賢者の言葉が成就するためである。

今このことを自然的に話すと、もし、このことをよく洞察する霊魂ならば(感じることのできない霊的な面を除いて)、霊魂は、この道において、どれほど多くの高いものと低いものとを感じ、苦しむことかを、また、豊かさを喜び味わった後には、どれほど、すぐ、嵐や試練に見舞われるかを十分悟るであろう。その苦しみはあまりにもひどいので、あのような静けさと繁栄が与えられたのは、あとから来る困苦欠乏を備えさせ、勇気を貯えさせるためであったのだと思えるほどである。そして、惨めさと嵐のあとには、また何という豊かさと静けさが続くことであろうか。それで、祝祭を迎えさせるために、まず、徹夜をさせたのだというふうに、霊魂には思われるのである。これが、静穏の状態に達するまでの観想の段階の普通の型であり、進み方である。これは、決して一つの状態に停止していることはなく、すべては昇ることであり、また降りることである。

このことの原因は、次の通りである。すなわち、完徳の状態、それは、神に対する完全な愛と自己軽視から成り立っているものであるが、それは、神を知ることと、自分自身を知ること、という二つの要素がそろわない限り、あり得ないものであるから、霊魂は、どうしても、まず、そのどちらにおいても鍛えられていることが必要なのである。すなわち、あるときは、その一つを味合わせて霊魂を高め、あるときは、もう一方を体験させてへりくだらせ、遂には、完全な習性を身につけて、もはや、昇ることも降りることも止んでしまうまで鍛えられなければならないのである。その時、霊魂は、もう、神に到達し、神と結ばれているのであって、神は、この梯子の末端のところにおられ、梯子は神によりかかり、神に支えられている。というのも、この観想の梯子は、すでに述べた通り、神から出てくるもので、ヤコブが眠っているあいだに見たあの梯子によって象られている。その梯子を伝って、天使たちは、神から人間の方へ、また、人間から神の方へ上り降りしていたのであった。神は、その梯子の端において、梯子を支えておられた(創28・12)。聖書は、これらのことすべては、夜中に、ヤコブが眠っている間に起こったと記しているが、それは、この道と神の方へ昇ることが、どれほど秘密のものであるか、そして、人間の知識とはどれほど異なったものであるかを示すためである。このことは、全く明らかなことである。なぜなら、大抵の場合、人は、自分にとって最も利益となること―すなわち、自分自身を失くして、無となること―を、何にもまして悪いことのように考え、その反対に、最も価値のないこと―すなわち、自分の慰めや味わいを見出すこと(霊魂は、そうすることによって、得をするよりも、むしろ、損をするのが常であるのに)―を、最も良いことだと思うものだからである。

しかし、今ここで、この秘密の観想の梯子について、一層本質的に、また正確に話すならば、この観想を、ここではなぜ、梯子と呼んでいるかということの、最も主要な特質は、それが、愛の知識であるということにある、と言うべきであろう。この知識は、すでに述べた通り、神についての愛のこもった注賦的知識であって、霊魂が一段また一段と、創造主である神のもとに昇り着くまで、霊魂を照らし、同時に、愛に燃え立たせる。なぜなら、霊魂を神に結び合わせ、一致させるものは、ただ、愛だけだからである。そこで、このことがもっとはっきり解るために、ここに、この神的梯子の段階を一つ一つ示し、その各々の特徴と効果とを簡単に述べ、霊魂が、自分はそれらのどこにいるかを推察できるようにしようと思う。ここで私たちは、聖ベルナルドや聖トマスがしているように、各段階を、それらがもたらす効果によって識別しようと思う。なぜなら、この愛の梯子は、前にも言ったとおり、全く秘密なので、それを測り測量することのできる方は、神のみであるため、各段階をそれ自体において知ることは、自然的なやり方では決してできないからである。

聖ベルナルドと聖トマスに従い、神的愛の神秘の梯子の十段階を説明し始める。はじめの五段階について

霊魂が愛によって神のもとに昇るこの愛の梯子の段は十段である。(愛の梯子の第一段)神が、霊魂に、上からのあり余るほどの熱を送られることによって、霊魂を病気にする。しかし、この病気は、死に至らしめるようなものではなく霊魂の利益となる。なぜなら、この病気のさなかで霊魂は、罪に対して、また、神でない一切のものに対して、神ご自身のために力を失ってしまうからである。病人がどのような食事に対しても食欲を失い、嫌気を感じ、血色が悪くなるのと同様に、愛のこの段階においては、霊魂も、すべてのことに対する味と欲求を失い、ちょうど愛している人がするように、顔色も、過去の生活のさまざまの様式も変えてしまう。すべてのことに対するこの病気と衰弱は、神に行くためのはじまりであり、第一段階であるが、霊魂がこの観想的浄化の階段を昇り始めたとき、霊魂は、味わいや支え、慰め、また、よりどころを、どこにも見出せず、無に帰せられたように感じる。(愛の梯子の第二段階)第二段階は、霊魂に絶えず神を探し求めさせる。そして、すべてのことのうちに主を探し、見出すまでは、何ものにも立ち止まることはない。霊魂は、あらゆるもののうちに、愛する方を探し求めるほど、非常な熱心さにかられて歩む。何を考えるにしても、直ちに愛する方のことを語り、彼との交わりになってしまう。食べる時も、眠る時も、徹夜する時も、どんなことをする時も、霊魂の注意は余すところなく、愛する方に向けられている。これは、愛の焦燥のうちになされるのである。さて、ここで、この第二段階の愛のうちに霊魂が新たな力を見出し、快方に向かうようになると、これから説明するように、霊魂は、夜のうちに、新しい浄化の、ある段階を通って、直ちに第三段階に昇り始める。これは、霊魂のうちに次のような結果をひきおこす。(愛の梯子の第三段階)第三段階は、霊魂に業を行わせ、熱を与えて怠ることのないようにさせる。この段階にあって霊魂は、愛する方のためにする偉大な業も、小さなものと見なし、多くのことも、僅かのことのように思う。そして、彼に仕える長い時間も短く感じられる。それは、霊魂が、愛の炎に包まれて燃え立っているからである。ここで霊魂は、神に対して抱いている大きな愛のために、自分が神のためにはほんの僅かなことしかしていないことを非常に情けなく感じ、ひどく苦しむ。そして、もしも神のために何千回でも自分を無にすることが許されるならば、非常に慰められるであろう。それゆえ、霊魂は、することすべてにおいて、自分を役に立たないものと見なし、無駄に生きているもののように考える。ここに、他の感嘆すべき効果が霊魂の中に生じる。それは、霊魂が自分を、他のすべての霊魂よりも確かに悪いものだとみなすことである。その理由の一つは、愛が絶えず霊魂に、神にふさわしいものはどうゆうものであるかを教えるからであり、他の理由は、ここで霊魂が神のために行う業は非常に多いのであるが、霊魂は、それらをみな、欠陥ある不完全なものと認め、これほど崇高な愛のために、自分はなんと低級な仕方で業を行っているかに気づき、それらすべてから、当惑と苦痛とを引き出すからである。この第三段階において霊魂は、自惚れや虚栄心や、他人を非難することなどからは非常に遠く離れている。この第三段階は、以上のような焦燥に満ちた結果を、これに似た多くの結果と共に、霊魂の中にひきおこすのである。それで、霊魂は、ここから第四段階に昇るための勇気と力を汲み取るが、この第四段階とは次の通りである。

(愛の梯子の第四段階)第四段階は、愛する方のために、疲れることなしに常に苦しむという一つの状態を作り出す。というのも、どんなに偉大なことも、重大なことも、愛にとってはほとんど何物でもないからである。霊はここで、大きな力を持つので、肉をすっかり征服してしまい、全くと言ってよいほど肉を問題としない。ここでは、霊魂は、神のうちにも、その他のどんなことのうちにも、自分の慰めや楽しみを決して求めず、また、神の恵みを切に求めることも、それを祈り求めようとすることもしない。というのも、霊魂は、自分がすでに充分なほど恵みを受けていることを、はっきりと知っているからである。そして彼の心遣いのすべては、どうすれば少しでも神のみ旨にかなうことをすることができるかということとに集中している。愛のこの段階は極めて高い。なぜなら、ここでは霊魂は神のために苦しみたいという心で、真実の愛を込めて、常に神の後を歩んでいるからである。それというのも、キリストに対する愛は、自分の愛している方の苦しみを助けずにはいられないからである。これは、霊魂が何ものにも憩いを見出すこともなしに、どこに留まることもせずに、すべての被造物に対して内的に持っている離脱を意味する。この第四段階は、このように霊魂を燃え立たせ、神に対するこれほどの熱烈な望みに燃え上がらせるので、ついに、これを第五段階にのぼらせる。それは次のようなものである。

(愛の梯子の第五段階)第五段階は、霊魂に、激しく神を熱望させ、渇望させる。この段階において、愛する人は、自分の愛する方を知りたい、愛する方と一致したい、という望みがあまりにも激しいので、遅延は、それがどんなにつかの間のものであっても、彼にとっては、恐ろしく長く、苛立たしく、重々しいものとなる。そして、絶えず、愛する方を見出すことのみを考えている。ところが、その望みがかなえられないと見てとると―これはほとんどいつものことなのであるが―、渇望のうちに息も絶え絶えになる。この段階において、愛にとらわれている者は、自分が愛している対象を見ずにはいられない。さもなければ死んでしまう。この飢えの段階においては、霊魂は愛において養われる。というのも、飢えがあればこそ、満たされることもあるのであるから。こうして霊魂は、ここから第六段階に昇る。

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ところで、霊魂がそれを伝って一段階ごとに神に向かって昇って行くこの愛の梯子の段は十段である。愛の第一段階は、霊魂を病気にするが、それは、霊魂を益するためである。愛のこの段階において花嫁は言う、「エルサレムの娘たちよ、私は切に願う。あなたたちが、もし、私の愛する方を見つけたならば、彼に言ってください。私は愛に病んでいる、と」(雅5・8)。しかし、この病気は、死に至らしめるようなものではなく、神の光栄のためのものである。なぜなら、この病気のさなかで霊魂は、罪に対して、また、神でない一切のものに対して、神ご自身のために力を失ってしまうからである。それはダビデが、「私の魂は力つきた」(詩143・7)と言って証言している通りで、これはつまり、すべての被造物に関して、力が尽き果て、神の救いを待ちわびた、との意味である。なぜなら、病人がどのような食事に対しても食欲を失い、嫌気を感じ、血色が悪くなるのと同様に、愛のこの段階においては、霊魂も、すべてのことに対する味と欲求を失い、ちょうど愛している人のように、顔色も、過去の生活のさまざまの様式も変えてしまう。もしも、霊魂に、上からのあり余るほどの熱が送られなければ、霊魂はこの病気にかかることはない。それは、ダビデの次の句によって知ることができる。「神よ、あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れ切ったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました」(詩68・10)。すべてのことに対するこの病気と衰弱は、神に行くためのはじまりであり、第一段階であるが、これについてはすでに、霊魂がこの観想的浄化の階段を昇り始めたとき、霊魂は、味わいや支え、慰め、また、よりどころを、どこにも見出せず、無に帰せられたように感じる、ということについて説いた際、十分に述べた。それで、この段階から直ちに、第二段に昇り始めることにする。

第二段階は、霊魂に絶えず神を探し求めさせる。それで、花嫁は、「私は夜、寝床の中で彼を探した」と言った時―すなわち、彼女が愛の最初の段階で衰弱していた時―彼女は彼を見出せなかったので、「さあ、私は起きよう。そして私の心の愛する方を探そう」(雅3・2)と言ったのである。それは、私たちが言うように、霊魂が絶えずしていることで、ダビデも、そうすることを勧めて、次のように言っている。「常に神の顔をたずねよ」(詩105・4)と。そして、すべてのことのうちに主を探し、見出すまでは、何ものにも立ち止まってはならない、ちょうど、あの花嫁のように。彼女は、夜廻りたちに、彼について尋ねた上は、直ちにそこを去って、彼らを後に残したのである。マリア・マグダレナは、墓にいた天使たちさえも気をとめなかったのである(ヨハネ20・14)。この段階において霊魂は、あらゆるもののうちに、愛する方を探し求めるほど、非常な熱心さにかられて歩む。何を考えるにしても、直ちに愛する方のことを語り、彼との交わりになってしまう。食べる時も、眠る時も、徹夜する時も、どんなことをする時も、霊魂の注意は余すところなく、愛する方に向けられている。先に述べた通り、これは、愛の焦燥のうちになされるのである。さて、ここで、この第二段階の愛のうちに霊魂が新たな力を見出し、快方に向かうようになると、これから説明するように、霊魂は、夜のうちに、新しい浄化の、ある段階を通って、直ちに第三段階に昇り始める。これは、霊魂のうちに次のような結果をひきおこす。

愛の梯子の第三段階は、霊魂に業を行わせ、熱を与えて怠ることのないようにさせる。これについて、王である預言者ダビデは、次のように言っている。「主を畏れる者は幸いである。彼らは主の掟の実行を熱望しているからである」(詩112・1)と。ところで、もし、愛が生み出す畏敬が、霊魂にこのような熱望の業を行わせるのであれば、愛それ自身はどれほどのことをするのであろうか?この段階にあって霊魂は、愛する方のためにする偉大な業も、小さなものと見なし、多くのことも、僅かのことのように思う。そして、彼に仕える長い時間も短く感じられる。それは、霊魂が、愛の炎に包まれて燃え立っているからである。それはちょうど、ヤコブが、七年間の奉仕ののち、さらに七年仕えなくてはならなくなったのに、大きい愛のゆえに、彼にはそれが、僅かなこととしか思えなかったのと同じである(創29・20)。では、単なる被造物の愛でありながら、ヤコブの愛が、これほどのことをなし得たとすれば、創造主の愛は、この第三段階において霊魂をとらえた時、どれほどのことができることだろう?ここで霊魂は、神に対して抱いている大きな愛のために、自分が神のためにはほんの僅かなことしかしていないことを非常に情けなく感じ、ひどく苦しむ。そして、もしも神のために何千回でも自分を無にすることが許されるならば、非常に慰められるであろう。それゆえ、霊魂は、することすべてにおいて、自分を役に立たないものと見なし、無駄に生きているもののように考える。ここに、他の感嘆すべき効果が霊魂の中に生じる。それは、霊魂が自分を、他のすべての霊魂よりも確かに悪いものだとみなすことである。その理由の一つは、愛が絶えず霊魂に、神にふさわしいものはどうゆうものであるかを教えるからであり、他の理由は、ここで霊魂が神のために行う業は非常に多いのであるが、霊魂は、それらをみな、欠陥ある不完全なものと認め、これほど崇高な愛のために、自分はなんと低級な仕方で業を行っているかに気づき、それらすべてから、当惑と苦痛とを引き出すからである。この第三段階において霊魂は、自惚れや虚栄心や、他人を非難することなどからは非常に遠く離れている。この第三段階は、以上のような焦燥に満ちた結果を、これに似た多くの結果と共に、霊魂の中にひきおこすのである。それで、霊魂は、ここから第四段階に昇るための勇気と力を汲み取るが、この第四段階とは次の通りである。

この愛の梯子の第四段階は、愛する方のために、疲れることなしに常に苦しむという一つの状態を作り出す。というのも、聖アウグスティヌスが言う通り、どんなに偉大なことも、重大なことも、愛にとってはほとんど何物でもないからである。この段階において花嫁は、自分が既に、最後の段階にいることを切望しつつ、花婿に向かって言った。「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。実に、愛は―すなわち、愛の行為と業は―死のように強く、妬みと執念は地獄のように続くから」(雅8・5)と。霊はここで、大きな力を持つので、肉をすっかり征服してしまい、ちょうど木が、自分についている多くの葉のうちの一枚に対するかのように、全くと言ってよいほど肉を問題としない。ここでは、霊魂は、神のうちにも、その他のどんなことのうちにも、自分の慰めや楽しみを決して求めず、また、神の恵みを切に求めることも、それを祈り求めようとすることもしない。というのも、霊魂は、自分がすでに充分なほど恵みを受けていることを、はっきりと知っているからである。そして彼の心遣いのすべては、ただ、どうすれば少しでも神のみ旨にかなうことをすることができるかということと、たとえ、どんなに大きな犠牲を払わねばならないとしても、神から受けたことのお返しとして、また、神が、そうされるに値するようなことをして、どうすれば少しでも神に奉仕することができるのか、ということに集中している。霊魂は、心と霊の中で言う、「ああ、私の主なる神よ、あなたのうちに、自分自身の慰めや楽しみを探し、あなたから恵みや賜物が与えられることを望む人は、何と多いことか!けれども、自分の利害は無視して、あなたをお喜ばせしようとし、自分は犠牲を払っても、あなたに何かを捧げようと望む人は、ほんとうに少ないのです。私の神よ、これは、あなたが私たちに、もう二度と、恵みを与えてくださることをあなたに強制できるほどに、いただいている恵みを、ただひたすら、あなたへのご奉仕のために使うことをしていないからなのです」と。愛のこの段階は極めて高い。なぜなら、ここでは霊魂は神のために苦しみたいという心で、真実の愛を込めて、常に神の後を歩んでいるので、神もしばしば、ほとんど常のこととして、霊魂に喜びを与え、快く、楽しい霊において、霊魂を訪れるからである。それというのも、みことばであるキリストの広大無辺の愛は、自分の愛している人の苦しみを助けることなしに耐え忍ぶことはできないからである。主は、これをエレミアの次のことばを通して確信しておられる。「私はあなたを覚えている。あなたが荒れ野の中を私に従って来た時、あなたの若い頃の愛とやさしさを私はあわれんだ」(2・2)と。霊的に述べるならば、これは、霊魂が何ものにも憩いを見出すこともなしに、どこに留まることもせずに、すべての被造物に対して内的に持っている離脱を意味する。この第四段階は、このように霊魂を燃え立たせ、神に対するこれほどの熱烈な望みに燃え上がらせるので、ついに、これを第五段階にのぼらせる。それは次のようなものである。

愛の梯子の第五段階は、霊魂に、いたたまれないほど神を熱望させ、渇望させる。この段階において、愛する人は、自分の愛する方を知りたい、愛する方と一致したい、という望みがあまりにも激しいので、遅延は、それがどんなにつかの間のものであっても、彼にとっては、恐ろしく長く、苛立たしく、重々しいものとなる。そして、絶えず、愛する方を見出すことのみを考えている。ところが、その望みがかなえられないと見てとると―これはほとんどいつものことなのであるが―、渇望のうちに息も絶え絶えになる。この段階に当てはめて、このことを詩編作者は次のように言っている。「私の魂は主の住まいを慕って絶え入るばかりです」(詩84・2)と。この段階において、愛にとらわれている者は、自分が愛している対象を見ずにはいられない。さもなければ死んでしまう。ラケルはこの段階にあって、子供を切に欲しがって、夫であるヤコブに言った、「私に子供をください。さもなければ死んでしまいます」(創30・1)と。「ここで人は犬のように飢えに苦しみ、神の町を取り囲み、その周りをぐるぐるとうろつきまわる」(詩59・7)。この飢えの段階においては、霊魂は愛において養われる。というのも、飢えがあればこそ、満たされることもあるのであるから。こうして霊魂は、ここから第六段階に昇ることができるのであって、それは、次のような結果をもたらす。

愛の他の五つの段階について述べる

(愛の梯子の第六段階)第六段階は、霊魂を速やかに神の方へ走らせ、度々、神に触れさせる。霊魂は、弱り果てることなく、希望によって走ってゆく。ここでは、愛が、霊魂を強めたのである。そして、その愛は、霊魂を速やかに飛び立たせる。霊魂が、この段階において、なぜ、これほどの、愛における敏速さを持っているかというと、それは、霊魂のうちに愛が非常に増大したからであり、ここにおいて霊魂は、ほとんど完全に浄化されているからである。(愛の梯子の第七段階)第七段階は、霊魂に、激しく、大胆にふるまうようにさせる。ここでは愛は、希望するために判断を用いることもしなければ、身を引くために忠告も必要としない。また、慎みをもって自制することもできない。なぜなら、神がすでに、ここで、霊魂に施しておられる恵みは、霊魂を非常に大胆にさせるからである。これらの人たちは、神に望みをかけて、喜びをもって願うことを、神から獲得する。しかし、もし、霊魂が、「その霊魂の方に傾けられた王の王杓の内的恩恵」(エステル4・11)を感じたのでなければ、この段階に昇ってゆくことは正当なことではない。常に、謙遜のうちに留まっているものでなければならない。(愛の梯子の第八段階)第八段階は、霊魂に、神をとらえさせ、手放すことなく、抱きしめさせる。この一致の段階において、霊魂はその渇望を満たす。しかし、これは永続的にではない。なぜなら、霊魂は、ちょっとそこに足を置くところまでゆくが、すぐにまた、それを引っ込めてしまうからである。もし、この状態が永続するものであるならば、それは、この世ながらの、ある種の光栄の状態となるであろう。それで、霊魂は、そこにごく僅かの時間しか留まらないのである。(愛の梯子の第九段階)第九段階は、霊魂を穏やかに、心地よく燃え上がらせる。これは完徳に達した人々の段階であって、彼らは神において、すでに快く燃え立っている。それは、彼らが神と共有する一致ゆえに、聖霊が彼らに、この甘美で快い熱を引き起こすからである。の段階において、霊魂が楽しみ味わう神の宝と富については、語ることができない。なぜなら、たとえ、それらについてどんなに多くの本を書いたとしても、なお、語るべき多くのことは残されてしまうであろうから。これについては、また後にも、何か語るつもりであるから、ここではただ、この段階のあとに、愛の梯子の最後の段階である第十の段階が続くことを述べるにとどめよう。この段階は、すでに、この世のものではない。

(愛の梯子の第十段階)この愛の秘密の梯子の最後の段階である第十の段階は、霊魂を全く神に似せた者とならせる。それは、霊魂が、この世で第九の段階に達した後、直ちに所有する明らかな神の直観が原因となって、肉体を抜け出るからである。というのも、これらのごく僅かな霊魂は、すでに愛によって、すっかり浄められているためである。それゆえ、主は「心の清い人は幸いである。彼らは神を見るからである」(マタイ5・8)と言ったのである。また、前にも言ったとおり、この直観こそ、霊魂が完全に神に似た者となることの原因である。それは、聖ヨハネが、「私たちは神に似た者となることを知っている」(1ヨハネ3・2)と言っているからである。しかし、それは、霊魂が神と同じように有能で、力あるものとなるからではない。そのようなことは不可能である。そうではなく、ただ霊魂のすべてのことが、神と似たものとなることであろう。それによって、霊魂は、参与によって神と呼ばれるであろうし、また、そうなるであろう。

これが、秘密の梯子である。もっとも、これらの高い段階は、霊魂にとって、それほど秘密ではない。なぜなら、霊魂の中に行われる大きな効果によって、愛は、霊魂に多くのことを顕すからである。しかし、明らかな直観の段階、それは、神が支えておられる梯子の一番端のところになるわけだが、そこにおいては、すでに述べたとおり、神との完全な同化により、霊魂には何一つ隠されていない。それゆえ、私たちの救い主は、「その日になれば、あなたたちは、もう、私に何一つ問うことはないだろう」(ヨハネ16・23)と言われるのである。だが、この日になるまで、たとえ霊魂がどんなに高く昇ろうとも、まだ、何かが隠されたままになっている。そして、その分が、神の本質に余すところなく同化するために、まだ霊魂に欠けているものである。このようにして、霊魂は、注賦的観想と秘密の愛とによって、あらゆるものと、自分自身から出て、神の方へと昇って行く。というのも、愛は、火に似ているものであって、自分の領域の中心に入りこもうとして、絶えず、上へ上へと昇って行くからである。

詳しく

第六段階は、霊魂を速やかに神の方へ走らせ、度々、神に触れさせる。霊魂は、弱り果てることなく、希望によって走ってゆく。ここでは、愛が、霊魂を強めたのである。そして、その愛は、霊魂を速やかに飛び立たせる。この段階において預言者イザヤも次のとおり言っている。「主に望みを置くものは力を新たにし、鷲のように翼をかって飛翔し、力おとろえることなく走り、疲れることもない」(40・31)と。それはちょうど、第五の段階においてなされて慕うように、私の魂は、神よ、あなたを慕う」(42・2)。なぜなら、鹿は、渇きを覚えると、非常にすみやかに、水の方へ走ってゆくものであるから。霊魂が、この段階において、なぜ、これほどの、愛における敏速さを持っているかというと、それは、霊魂のうちに愛が非常に増大したからであり、詩編に「私は咎なくして走った」(59・5)と言われているように、ここにおいて霊魂は、ほとんど完全に浄化されているからである。そして、また別の詩編の中では、「あなたが私の心を広くされた時、私は掟の道を走った」(119・32)と言われている。こうして、霊魂は、この第六段階から直ちに、第七段階に昇るが、それは次の通りである。

この梯子の第七段階は、霊魂に、激しく、大胆にふるまうようにさせる。ここでは愛は、希望するために判断を用いることもしなければ、身を引くために忠告も必要としない。また、慎みをもって自制することもできない。なぜなら、神がすでに、ここで、霊魂に施しておられる恵みは、霊魂を非常に大胆にさせるからである。この故に使徒は、「愛は、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ」(1コリント13・7)と言ったのである。モーセが神に向かって、「この民を赦してください。さもなければ、お書きになった生命の書から私を取り消してください」(出エジプト32・33)と言った時、彼は、この段階について言ったのである。これらの人たちは、神に望みをかけて、喜びをもって願うことを、神から獲得する。それ故に、ダビデは、「神において喜べ。そうすれば主はあなたの心の望みをかなえてくださる」(詩37・4)と言ったのである。この段階において花嫁は大胆になり、そして言った。「その口の接吻をもって、私のくちづけしてください」(雅1・1)と。もし、霊魂が、「その霊魂の方に傾けられた王の王杓の内的恩恵」(エステル4・11)を感じたのでなければ、この段階に昇ってゆくことは正当なことではない。このようにして昇ってゆけば、これまでにすでに昇ってきた他の段階から、すべり落ちてしまうようなことは、おそらくないであろう。それらの段階には、常に、謙遜のうちに留まっているのでなければならない。愛の熱烈さをもって、神に対して大胆に振る舞うことができるために神がこの第七段階において霊魂に与えられるこの豪胆さと親密さから、次の第八段階が続く。この段階は、霊魂を、愛する方のとりこにさせ、彼と一致させるもので、それは次のようである。

愛の第八段階は、霊魂に、彼をとらえさせ、手放すことなく、抱きしめさせる。その有様は、花嫁が、「私は、私の心と魂が愛する者を見出しました。私は彼をとらえて、もう放しません」(雅3・4)と言っている通りである。この一致の段階において、霊魂はその渇望を満たす。しかし、これは永続的にではない。なぜなら、ある霊魂は、ちょっとそこに足を置くところまでゆくが、すぐにまた、それを引っ込めてしまうからである。もし、この状態が永続するものであるならば、それは、この世ながらの、ある種の光栄の状態となるであろう。それで、霊魂は、そこにごく僅かの時間しか留まらないのである。預言者ダニエルは、望みの人であったため、神の方から彼に、この段階に留まるようにとの命令が下された。「ダニエルよ、段の上に立て。お前は望みの人なのだから」(10・11)と。この段階のあとに来るものは第九の段階であるが、それはすでに、完徳に達した人々の段階で、これから述べる通りである。

愛の第九段階は、霊魂を穏やかに、心地よく燃え上がらせる。これは完徳に達した人々の段階であって、彼らは神において、すでに快く燃え立っている。それは、彼らが神と共有する一致ゆえに、聖霊が彼らに、この甘美で快い熱を引き起こすからである。それで、聖グレゴリオは使徒たちについて、次のように言った。「聖霊が目に見える姿で降られたとき、彼らは穏やかに、愛によって内的に燃え立った」と。この段階において、霊魂が楽しみ味わう神の宝と富については、語ることができない。なぜなら、たとえ、それらについてどんなに多くの本を書いたとしても、なお、語るべき多くのことは残されてしまうであろうから。これについては、また後にも、何か語るつもりであるから、ここではただ、この段階のあとに、愛の梯子の最後の段階である第十の段階が続くことを述べるにとどめよう。この段階は、すでに、この世のものではない。

この愛の秘密の梯子の最後の段階である第十の段階は、霊魂を全く神に似せた者とならせる。それは、霊魂が、この世で第九の段階に達した後、直ちに所有する明らかな神の直観が原因となって、肉体を抜け出るからである。というのも、これらのごく僅かな霊魂は、すでに愛によって、すっかり浄められているため、煉獄には入らないからである。それゆえ、主は「心の清い人は幸いである。彼らは神を見るからである」(マタイ5・8)と言ったのである。また、前にも言ったとおり、この直観こそ、霊魂が完全に神に似た者となることの原因である。それは、聖ヨハネが、「私たちは神に似た者となることを知っている」(1ヨハネ3・2)と言っているからである。しかし、それは、霊魂が神と同じように有能で、力あるものとなるからではない。そのようなことは不可能である。そうではなく、ただ霊魂のすべてのことが、神と似たものとなることであろう。それによって、霊魂は、参与によって神と呼ばれるであろうし、また、そうなるであろう。

これが、今、霊魂が語っている秘密の梯子である。もっとも、これらの高い段階は、霊魂にとって、最早、それほど秘密ではない。なぜなら、霊魂の中に行われる大きな効果によって、愛は、霊魂に多くのことを顕すからである。しかし、明らかな直観の段階、それは、神が支えておられる梯子の一番端のところになるわけだが、そこにおいては、すでに述べたとおり、神との完全な同化により、霊魂には何一つ隠されていない。それゆえ、私たちの救い主は、「その日になれば、あなたたちは、もう、私に何一つ問うことはないだろう」(ヨハネ16・23)と言われるのである。だが、この日になるまで、たとえ霊魂がどんなに高く昇ろうとも、まだ、何かが隠されたままになっている。そして、その分が、神の本質に余すところなく同化するために、まだ霊魂に欠けているものである。このようにして、霊魂は、注賦的観想と秘密の愛とによって、あらゆるものと、自分自身から出て、神の方へと昇って行く。というのも、愛は、火に似ているものであって、自分の領域の中心に入りこもうとして、絶えず、上へ上へと昇って行くからである。

「装いを変え」という語を説明し、この夜において霊魂がする変装の色について語る

変装するとは、自分がそれまで身につけていたのとは違った恰好をすることによって、自分を包み隠してわからないようにすることである。これは、別の服装のもとに、自分の心を、外に表して、深く愛している者の恩恵と意志を勝ち取るためである。また、競争相手から身を隠して、自分のしようと思うことを、よりよく果たすことができるためである。キリストの愛に触れられた霊魂は、キリストに好まれる者になることを望んで、自分の愛情を最も生き生きと表し、敵(悪魔と世間と肉)から、最も確実に身を守ることのできるように変装するのである。ところで、霊魂が着ている衣服は、白と緑と真紅の三色から成り立っている。これらの三つの色は、三つの対神徳である信望愛を示している。これらによって、霊魂は、愛する方の恩恵と意志を勝ち得るばかりではなく、三つの敵から完全に守られて、安全に旅してゆく。最初に霊魂は白色の肌着を着る。白は信仰を表している。霊魂がこの信仰という着物を着て歩んで行くと、悪魔は霊魂を妨害しようとしても、それを見ることも、襲うこともできない。なぜなら、その白さ故に、悟性の目を完全に眩ませるからである。それゆえ、聖ペトロも自分を悪魔から救うのに、「信仰に心を固めて、これに抵抗せよ」(1ペトロ5・9)と言ったのである。霊魂は、この暗夜から出てゆく時には、信仰のこの白衣を着ていて、悟性は、霊魂に、光による援助を与えるようなことはない。なぜなら、暗夜のとき、霊魂にとって天は閉ざされ上からの光りによる援助を受けず、また彼を教えていた人々は霊魂を満足させることはなかったので下からの光を受けなかったからである。次に、霊魂は、信仰のこの白い肌着の上に、第二の色である緑の胴着を重ねる。緑は望徳を表している。霊魂は、これによって、第二の敵である世間から解放され守られる。というのも、この希望の緑色は、永遠の生命に関して、熱意と勇気を与えるので、天国で待っていることに比べれば、世間のすべてのことは、乾ききって、色あせた、生命のない、無価値のものと思えるからである。また事実、その通りなのである。そこで、霊魂は、世間的なものを脱ぎ捨て、その心を世間のどんなものの上にも置かず、世間にあるもの、または、あり得るものを何も希望せず、ただひたすら永遠の生命の希望のみを着て生きてゆく。その結果、霊魂は世間から非常に高く上げられた心を持つようになったので、世間は、その心に触れたり、これをとらえたりすることができないばかりでなく、その目にとまることさえないほどである。このようにして、霊魂は、この緑の衣服や変装のおかげで、この世間という第二の敵から、完全に守られて、安全に進んでゆく。

霊魂は、白の肌着、緑の胴着の上に、仕上げとして、第三の色である素晴らしい真紅の上着を着る。真紅は、愛徳を表している。この真紅の上着は他の二つの色を上品にするだけでなく、霊魂を非常に高く上げ、非常に美しいものとして神の近くに置く。この愛徳の衣は、愛する方に対する愛を一層強め、肉という第三の敵から護り、隠すばかりでなく、他の諸徳を力あるものとする。すなわち、信徳、望徳に活力と力を与え、愛する方を喜ばせるために、上品さと優美さとを添えるのである。なぜなら、愛徳がなければ、どんな徳も、神の御前では好ましいものではないからである。

これが、霊魂が「秘密の梯子」を伝って信仰の夜の中を行くとき身につけた変装なのである。そして、これが、その変装の三つの色なのである。これらの三つの色は、悟性と記憶と意志という、霊魂の三つの能力によって、霊魂が神と一致するための、最も適当な準備である。なぜなら、信仰は、すべての自然的な知識から悟性を空にし、暗くし、それによって、これを英知との一致に備えさせるからである。また、希望は、被造物についての所有のすべてから、記憶を空にし、引き離す。なぜなら、聖パウロが言うように、「希望は、まだ所有していないことについてのものだからである」(ロマ8・24)。それで、希望は、所有して得るものから記憶を引き離し、希望しているものの上に、これを据える。このようにして、神に対する希望のみが、神との一致のために記憶を清く整えるのである。これと全く同様に、愛徳も、神でない一切のものから、意志の愛情と欲求を空にし、これらをすっかり無くさせる。そして、これらを、ただ、神のみに置く。こうして、この愛徳は、意志という能力を整え、愛によって神と一致させる。これらの徳は、霊魂を、神以下のすべてのものから引き離すという役割を持っているので、その結果として、霊魂を神に結ばせることになるのである。

したがって、これらの三つの徳の衣を着て、真実に、熱心に歩むことなしには、愛によって神との一致の完徳に達することは不可能である。

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なぜ、霊魂は、この観想を「秘密の梯子」と呼んだのであるか、その理由を説明し終えた今は、その同じ一行の中の、第三のことばについて説明することが残っている。それは、すなわち、「装いを変えて」ということであるが、どういう理由で霊魂は、「装いを変えて」、この「秘密の梯子」を伝って出て行ったと言うのであろうか。

このことを理解するためには、次のことを知っておかなければならない。すなわち、変装するということは、自分がそれまで身につけていたのとは違った変装や恰好をすることによって、自分を包み隠してわからないようにすることに他ならない、ということである。これは、一つには、別の姿や服装のもとに、自分の心に抱いている意志や目的を、外に表して、深く愛している者の恩恵と意志とを勝ち取るためである。また一つには、競争相手から身を隠して、自分のしようと思うことを、よりよく果たすことができるためである。そして、そのとき人は、自分の心の愛情を、最もよく表し示すと思われる着物や衣服を、また、競争相手から、もっともよく自分を隠すことができるような服を身につけるのである。そこで、花婿であるキリストの愛に触れられた霊魂は、キリストに好まれる者となることと、その意志を勝ち得ることを望んで、自分の心の愛情を最も生き生きと表すことのできるような装いのもとに、また、道すがら、敵や反対者―すなわち、悪魔と世間と肉―から、最も確実に身を守ることのできるような衣装を着け、変装して出て行くのである。ところで、霊魂が着ている衣服は、三つの主色から成っている。すなわち、白と緑と真紅とである。これらによって、三つの対神徳、すなわち、信望愛が示されている。これらによって、霊魂は、ただ愛する方の恩恵と意志を勝ち得るばかりではなく、三つの敵から完全に守られて、安全に旅してゆくであろう。というのも、信仰は極めて白い、純白の下着であって、その白さ故に、悟性の目を完全に眩ませるからである。それで、霊魂がこの信仰の着物を着て歩んで行くと、悪魔は霊魂を妨害しようとしても、それを見ることも、襲うこともできない。それは、霊魂が信仰によって、最も狡猾で、最も強敵である悪魔から、大変よく(他のすべての徳を合わせるよりも、ずっとよく)守られて進んでゆくからである。それゆえ、聖ペトロも自分を悪魔から救うのに、信仰以上にすぐれた守り手を見出すことがなかったので、「信仰に心を固めて、これに抵抗せよ」(1ペトロ5・9)と言ったのである。したがって愛する方の好意と、彼との一致を勝ち得るためには、霊魂は、諸徳の他の衣の基であり、始めとして、この信仰の白い衣以上に良い下着や肌着を身につけることはできない。というのも、使徒が言っている通り、「これなしには、神のみ心にかなうことはできない」(ヘブライ11・6)からであり、また、これがあれば、み心にかなわずにはいられないからである。なぜなら、神ご自身、預言者ホセアを通して、「私は信仰のうちにあなたを娶ろう(めとろう)」(ホセア2・20)と言われているからである。これはすなわち、「霊魂よ、もし、私と一致し、私の妻となることを望むならば、内に信仰を着て来なければならない」との意味である。すでに述べたように、霊魂は、内的苦悩と闇の中を歩いて、この暗夜から出てゆく時には、信仰のこの白衣を着ているのであるが、悟性は、霊魂に、光による援助をいくらかでも与えるようなことはない。上からの光によって助けることもなく、というのは、霊魂にとって天は閉ざされ、神は隠れておられるように思えたからであり、また、下からの光によって助けることはなかった。というのは、彼を教えていた人々は、霊魂を満足させなかったからである。霊魂は、これらの試練の中を、力衰えることも、愛する方を見失うこともなく通り抜けながら、堅忍不抜の精神をもって苦しみ、耐え忍んだ。愛する方は、試練と艱難のうちに、花嫁の信仰を試みられるのである。それだから、花嫁は後に、あのダビデの句を、真に言うことができるのであろう。すなわち、「あなたのくちびるの言葉ゆえに、私は無法な者の道を避け、あなたの道を堅く守りました」(詩17・4)と。

次に、霊魂はここで、信仰のこの白い下着の上に、第二の色である緑の胴着を重ねる。前にも言ったとおり、これによって望徳が象徴的に表されている。霊魂は、これによって、第一の敵に対するのと同じように、第二の敵、すなわち、世間から解放され守られる。というのも、神において生き生きとしているこの希望の緑色は、霊魂に、永遠の生命に関することに対して、非常な熱情と、勇気と、高揚とを与えるので、そこに待ちうけていることに比べれば、世間のすべてのことは、乾ききって、色あせた、生命のない、無価値のものと思えるからであり、事実、その通りなのである。そこで、霊魂は、世間的な衣や衣装をすっかり脱いで裸となり、その心を世間のどんなものの上にも置かず、世間にあるもの、または、あり得るものを何も希望せず、ただひたすら永遠の生命の希望のみを着て生きてゆく。その結果、霊魂は世間から非常に高く上げられた心を持つようになったので、世間は、その心に触れたり、これをとらえたりすることができないばかりでなく、その目にとまることさえないほどである。

このようにして、霊魂は、この緑の衣服や変装のおかげで、この世間という第二の敵から、完全に守られて、安全に進んでゆく。というのも、聖パウロは希望を、「救いのかぶと」(1テサロニケ5・8)と呼んでいるからである。かぶとは、外を見るための瞼甲の他は、どこも露出しているところがないようにして、頭全体を保護し、覆う武具の一つである。望徳とは、これと同じようなもので、霊魂の頭のすべての感覚を覆う。それによって、それらは世間のどんなことにも深入りせず、現世の矢が、それらを傷つけることができるような隙も残らないであろう。ただ、目が、他のどこでもなく、上のほうだけを見ることができるように、そこには、たった一つの瞼甲だけが残されている。これが普通、望徳が霊魂の中で果たす務めなのである。すなわち、霊魂の目を、ただ神を見るためにのみ上の方に向けることである。ダビデも、「私の目は常に主に向けられている」(詩25・15)と言って、彼の中で、希望が行ったことを述べている。彼が別の詩編の中で言っている通り、他のところには何も期待せず、ただ、「女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は、私たちの主なる神に注がれている。主がわたしたちを憐れまれるまで、主に期待しつつ」(詩123・2)である。

このような理由で、この衣服は緑なのである。霊魂が、常に神を見つめていて、他の何ものにも目を移さず、神のみに捕らえられているので、霊魂の愛する方は非常に満足される。それゆえ、霊魂は、愛する方から希望するだけのものをすべて、勝ち得ることができるというのは本当である。だからこそ花婿は、雅歌の中で、花嫁に向かって、「あなたはただ一つの目だけで見ることによって私の心を傷つけた」と告げるのである(雅4・9)。神の実に希望を置くこの緑の服がなければ、霊魂にとって、この愛の希求に出てゆくことは適当でなかったであろう。なぜなら、何も獲得しなかったであろうから。というのも、霊魂を動かすもの、また、勝利を得るものは、ねばり強い希望だからである。

霊魂は、この望徳の衣をつけて変装し、前に述べた秘密の暗夜を通って旅してゆく。あらゆる所有と支えから、完全に空になって進んでゆくので、霊魂は、目を他のものに向けることも、注意を神でないものに向けることもしない。すでにエレミアから引用したように、「もしかしたら、まだ希望があるかもしれないと、口をちりにつけている」(哀3・29)からである。

白い下着と緑の胴着の上に、霊魂はここで、この変装や衣装の仕上げとも完成ともして、第三の色である素晴らしい真紅の上着を着る。これによって、第三の対神徳である愛徳が、象徴されている。これは、他の二つの色にみやびを添えるばかりでなく、霊魂を非常に高く上げ、非常に美しいものとして神のそば近くに置くので、霊魂は、あえてこう言ってしまうほどである。「おお、エルサレムの娘たちよ、私は黒いけれど美しい。ゆえに、王は私を愛して、王宮の中に導き入れられた」(雅1・4)と。この愛徳の衣は、もうすでに、愛の衣であり、愛する方に対する愛を一層強めるものであって、霊魂を肉という第三の敵から護り、隠すばかりでなく(なぜなら、神に対する真の愛があるところには、自分に対する、自分のものに対する愛も入ってこないから)、他の諸徳を効力あるものとする。すなわち、それらの徳に、霊魂を守るための活力と力を与え、愛する方を喜ばせるために、みやびかさと優美さとを添えるのである。なぜなら、愛徳がなければ、どんな徳も、神の御前では好ましいものではないからである。愛徳は、雅歌の中で言われている緋色の布であって(3・10)、その上に神は横たわっておられるのであり、霊魂の中を、自分自身と、すべての被造物から出て、愛にもだえ、愛に燃え立ち、観想というこの「秘密の梯子」を伝って、彼の待望の救いである神との愛の完全な一致に向かって進んでゆくとき、この真紅の衣を身に着けてゆくのである。

結局、これが、霊魂が「秘密の梯子」を伝って信仰の夜の中を行くとき身につけたという変装なのである。そして、これが、その変装の三つの色なのである。これらの三つの色は、悟性と記憶と意志という、霊魂の三つの能力によって、霊魂が神と一致するための、最も適当な準備である。なぜなら、信仰は、すべての自然的な知識から悟性を空にし、暗くし、そうすることによって、これを英知との一致に備えさせるからである。また、希望は、被造物についての所有のすべてから、記憶を空にし、引き離す。なぜなら、聖パウロが言うように、「希望は、まだ所有していないことについてのものだからである」(ロマ8・24)。それで、希望は、所有して得るものから記憶を引き離し、希望しているものの上に、これを据える。このようにして、神に対する希望のみが、神との一致のために記憶を清く整えるのである。これと全く同様に、愛徳も、神でない一切のものから、意志の愛情と欲求を空にし、これらをすっかり無くさせる。そして、これらを、ただ、神のみに置く。こうして、この愛徳は、意志という能力を整え、愛によって神と一致させる。これらの徳は、霊魂を、神以下のすべてのものから引き離すという役割を持っているので、その結果として、霊魂を神に結ばせることになるのである。

したがって、これらの三つの徳の衣を着て、真実に、熱心に歩むことなしには、愛によって神との一致の完徳に達することは不可能である。それで、霊魂が切に望んでいること。すなわち、愛する方とのこの愛に満ちた甘美な一致に達することを獲得するためには、霊魂がここで着用した衣服、変装は、非常に適切であったし、必要なものであった。そしてまた、霊魂が、望んでいたものを獲得するまで、つまり、あれほど切望していた愛の一致という目的を達成するまで、それを着るということを思いつき、それを着続けることができたことは、大きな幸運であった。それで霊魂は、直ちに次の句を言う。

おお、すばらしい幸運!

第二の歌の第三行目を説明する

おお、すばらしい幸運!霊魂の、この脱出がそうであったように、このような冒険的計画をもって出てゆくということは、霊魂にとって、すばらしい幸運であったのは、全く明らかである。の脱出において、霊魂は、悪魔と、世間と、自分自身の感性から解放されたのである。そして、すべての人が渇望している霊の貴重な自由を獲得して、低いものから高いものの方へ出て行き、地上的なものから天上的なものに変わり、人間的なものから神的なものになり、ちょうどこの完徳の状態において、霊魂に起こるように、天に国籍を持つようになった。これについては、残りの章の中で、もう少し簡単にではあるが、述べてゆくつもりである。

というのも、最も重要だったことは、もうすでに、半ば説明し終えたからである。私は、この著作の中で、そのことに主に取り組んできたのであるが、それは、緒言の中で述べた通り、この夜を通りながらも、それについて何も知らなかった多くの霊魂に、この夜について説明することであった。そして、極めて不十分にではあるが、この夜が霊魂にもたらす善益はどれほどであるか、また、その夜を通ってゆく霊魂にとって、それは、どれほど素晴らしい幸運となるかも説明した。それは、霊魂が、おびただしい試練の恐怖におびえるような時、そこで獲得する非常に多くの、非常にすばらしい神の恵みに対する確かな希望によって力づけられるためである。このことの他にも、まだ、霊魂にとって、それは「素晴らしい幸運」であったのである。それで、霊魂は、直ちに次の句を述べる。すなわち、

第四行目を説明する。この夜において霊魂が書かれる感嘆すべき隠れ家について述べる。また、どのようなわけで、悪魔は他の非常に高い所には入れても、ここには入れないか、について語る。

顔を覆って闇の中に私は出て行った。第四行目を説明する。この夜において霊魂が書かれる感嘆すべき隠れ家について述べる。また、どのようなわけで、悪魔は他の非常に高い所には入れても、ここには入れないか、について語る。

「顔を覆って」とは、隠れてとか密かに、との意である。それで、霊魂がここで言うこと、すなわち、「闇の中に、顔を覆って」行ったということは、この歌の第一行目で説明した安全さ、すなわち、霊魂が、神との愛の一致の道において、この暗い観想を通して獲得したあの大いなる安全さを、一層完全に説明するものである。それで、霊魂が、「闇の中でに、顔を覆って」と言うのは、つまり、前に述べた方法で闇の中を旅して行ったので、悪魔からも、その奸計や策略からも隠されて、密かに行った、ということである。

なぜ、霊魂は、この観想の闇の中にあって、悪魔の奸計から自由になって、隠されて進んでゆくのか、というと、それは、霊魂がここで持っている注賦的観想は、感覚的な部分の内的、外的諸能力と感覚とに知られることなく、霊魂の中に受動的に、密かに注がれるからである。それゆえ、霊魂は、その障害(これらの諸能力は、その自然的な弱さ故に、霊魂にとって障害となり得るのである)から隠され、自由になって旅してゆくばかりでなく、悪魔からも同様に解放されて歩むのである。悪魔は、感覚的な部分の諸能力を通してでなければ、霊魂の中にあることや、その中に起こっていることを獲得することもできなければ、知ることもできない。それで、その交わりが、より霊的で、内的で、感覚からより離れたものであればあるほど、ますます悪魔はそれを理解することができない。

それ故、霊魂が安全であるために、非常に大切なことは、神との内的交わりが、霊魂の下級な部分の諸感覚が闇の中に留まっていてこの交わりを知らず、それを理解することができないようなものであることである。それというのも、第一には、感覚的な部分の弱さが、霊の自由を妨げることなく、霊的交わりが、より一層豊かなものとなることができるためである。第二には、今述べている通り、悪魔がそれほど奥まで入り込むことがなければ、霊魂は一層安全に旅してゆくからである。したがって、私たちの救い主の、「右の手がしていることを左の手は知らないように」(マタイ6・3)とのみことばを、霊的な意味で、これに関連させて理解することができる。それはちょうど、右の部分で起こっていること、すなわち、霊魂の最もすぐれた霊的な部分で起こっていることを、左の部分は知ってはならない、つまり、あなたの霊魂の感覚的な部分である下級部分に、それを気づかせてはならない、ただ、霊と神との間のみの秘密のものでなければならない、と言っているようにとれる。

こういう極めて内的な、秘密の霊的交わりが霊魂の中にあって、その交わりがそこで行われている時、(悪魔は、どれがそれなのか、それがいったいどのようなものであるのかを知らないのだが)、感覚や、感覚的部分の諸能力の中に引き起こす大きな憩いや沈黙によって、こういう交わりが実際に行われていて、霊魂がそこから何かの善益を受けていることが悪魔にわかってしまう、ということは、しばしばあることで、これは、まことに真実なことである。極めて霊的交わりの時、悪魔は、霊魂の奥底に入って、それを妨げることができないのを承知しているので、自分のできる限りのことをして、自分の手の届くところにある感覚的部分を、あるときには苦しみにより、あるときには恐怖や恐れでかき乱し、騒ぎ立て、このような手段で、霊魂の上級部分である霊的部分を、その時霊魂が享受して楽しんでいる善益に関して、かき乱し、不安にさせようともくろむ。しかし、このような観想の交わりが、霊の中に純粋に浸透し、その力を霊魂に及ぼす時、霊魂をかき乱そうとする悪魔の努力は、多くの場合、少しも役に立たず、それどころか、かえって霊魂は、その時、新たな、一層すぐれた利益と、より確実な平和とを受けるのである。それは、平和を乱す敵の出現を感じ取ると―これは、本当に、驚嘆すべきことであるが―霊魂は、それがどのようなものかも知らず、また、自分のほうからは何もすることもなく、自分の奥底にますます深く分け入り、確実な避難所に置かれているということを、実にはっきりと感じ、この避難所で、自分がその敵から一層遠ざけられて、隠されていると認め知るからで、結局、そこでは、悪魔が奪い取ろうとしていた平和と喜びは、霊魂に一掃、増し加えられるのである。そして、その時、それらの恐怖のすべては、外側から霊魂にふりかかる。霊魂は、それを明らかに感じながらも、自分は、世間も悪魔も与えることもできなければ、奪い去ることもできない、隠れておられる花婿の味と、豊かな平和を、この上なく確実に味わっていることを知って喜んでいる。この状態にあって霊魂は、これについて花嫁が雅歌の中で言っていることが、どれほど真実であるかを実感するのである。「御覧なさい!六十人の勇士がサロモンの床を囲むさまを…。夜襲に備えて…」と。霊魂は、たびたび、肉と骨とに外からの拷問を感じるのであるが、それでもやはり、この力と平和を感じている。

しかし、霊的交わりが、感覚の中に混ざり込むような場合には、悪魔は一層たやすく霊をかき乱すことに成功し、感覚を通じて、これらの恐怖によって、そこに騒ぎを引き起こすことに成功する。そのとき、霊の中に生じる苦悩と苦痛は非常に大きなもので、時には、それは言語に絶するものとなる。なぜなら、霊から霊へ、赤裸々に行われるのであるから、悪魔の引き起こす騒ぎが霊に達するならば、悪霊が善霊の中に、すなわち、魂の善霊の中に、引き起こす恐怖は耐え難いものなのである。このことも、また、花嫁が雅歌の中で述べており、彼女がこれらの宝を味わおうとして、内的潜心の谷間にくだって行こうとしたとき、こういうことが自分に起こったと言い、次のように述べている。「私はクルミの木の庭にくだって行った。谷間のリンゴを見るために、ぶどうの木が花咲いたかを見るために。私は何も知ることができなかった。私の魂が四島立ての馬車で―つまり、アミナダブの戦車と喧噪で―私をかき乱した」(雅6・10)と。これは、すなわち、悪魔のことである。

また、他の場合には(これは、善天使を通して起こるのであるが)、時として、神が霊魂に与えようと思われる何らかの恵みを、悪魔が知るようなことがある。なぜなら、善天使を通して与えられるこういう恵みをその敵が知ることを、大抵、神は許されるからである。その理由の一つは、正義によって許される限り、悪魔がそういう恵みに反対することができるためであり、これによって、悪魔がヨブに対してしたように、自分には霊魂を征服する余地が与えられていない、などと言って、その権利を欲求することができないようにするためである。もしも、神が、二人の敵対者、すなわち、善天使と悪天使のあいだに、霊魂に対する同等の勝利の権利があるように、その余地を与えられなければ、その通りであろう。しかし、与えておられるので、霊魂に対するどちらの勝利も、高く評価されるであろうし、誘惑の中で勝利をおさめ、忠実であった霊魂は、一層高く評価され、褒められるであろう。

ところで、私たちが知っておかなければならないことは、神が、霊魂を導き、これと交わるのと同じ手段と方法を使って悪魔が同じような仕方で霊魂と交わるのに、なぜ神は、悪魔に許可を与えられるのか、その理由は、これだということである。もし、善天使の媒介によって、霊魂が、真正の示現を受けるとすれば(というのも、キリストご自身が啓示されようとも、示現は通常この媒介を通して来るからである。なぜなら、キリストがそのペルソナ事態において現れることは、まずないことだからである)、神は、悪天使にも、同じ種類のいつわりの示現を霊魂に示す許しを与えられる。それで、外見上は同じようなので、用心深くない霊魂は(実際、たくさんの霊魂がそうであったように)、容易に欺かれてしまう。このことについては、出エジプト記の中に一例がある。すなわち、モーゼが行ったすべての真正の印(奇跡)を、うわべではファラオの魔術師たちも、残らず行ったのである。たとえば、モーゼが蛙を引き出すと、彼らも引き出し、水を血に変えると、彼らもこれと同じことをした、というように(出エジプト7・11~22、8・7)。

そして、悪魔は、肉体的示現の類においてのみその真似をするばかりではなく、霊的な交わりにおいても、やはり、その真似をして、それに干渉する。(こういう霊的交わりが、善天使を介して来る場合は、前にも言ったとおり、悪魔はそれを知ることができるのである。なぜなら、ヨブも「彼は崇高なことすべてを見る」と言っているのであるから)。しかし、これらの霊的交わりにおいては、これらは形も像も持っていないから(なぜなら、こういうものを持っていないことが、霊の本質だからである)、悪魔は、他の何らかの外観や形象のもとに示される他の交わりのようには、それらを真似ることも、偽造することもできない。そこで、悪魔は、霊魂を攻撃するために、目下霊魂に与えられているのと同じ方法によって、霊的なもので霊的なものを襲い、これを破壊しようと、霊魂に、自分の恐ろしい霊を示す。

このようなことが起こっている時、善天使が霊魂に、霊的観想を与えようとするその瞬間、霊魂は、十分速やかに観想の、隠され、覆われたことの中に身を置いて、悪魔に気づかれないようにすること、また、悪魔が、ある種の霊的な恐怖や騒乱(これは、しばしば非常に苦しいものである)とをもって、霊魂に迫ってくることがないようにすることはできない。しかし、またその時、時として霊魂は、悪魔から来る、前に述べたような恐怖の中で、霊魂に印象を残す余地を悪魔に与えないで、速やかに悪魔から身を隠すこともできる。そして、霊魂は、そのようにするために善天使が与えてくれる効果的な霊的恵みに助けられて、自分自身の中に深く潜心する。

またある時には、悪魔が優位を占めて、混乱と恐怖とが霊魂を捉える。これは、霊魂にとって、この世のどんな拷問も到底それには及ばないほどの苦痛である。この恐るべき交わりは、物質的なすべてのものからいくらか剥奪されて、明らさまに、霊から霊へ襲うので、そのために、これは、感覚のすべてを越えるほどの苦痛なのである。そして、これは、霊の中にしばらく留まるが、それほど長い間ではない。なぜなら、そのような霊の激烈な交わりによって、肉から霊が出て行ってしまうかもしれないからである。そのあとには、これについての記憶が残るが、それは霊魂に大きな苦しみを与えるのに充分である。

以上述べたようなことはみな、霊魂の中に、受動的に起こる。霊魂は、それを行うことにも、破壊することにも関与しない。しかし、ここで知っておかなければならないことは、善天使が、悪魔に、このような恐怖の霊をもって霊魂を襲いやすいようにすることを許すのは、ある種の大きな恵みや、祝祭のために、この霊的徹夜という手段によって霊魂を浄化し、準備するためである、ということである。善天使は、霊魂に生命を与えるためでなければ、決して死なせることはせず、霊魂を高めるためでなければ、卑しめることもしないのである。そうして、これは間もなく実現する。霊魂は、忍んだ暗い恐ろしい浄化に比例して、驚くほど甘美な霊的観想を楽しむが、しばしば、これは筆舌に尽くしがたいほど崇高である。しかし、実は、これに先んじて与えられた、悪霊の恐怖が、霊魂がこの宝を受けることができるように、霊を非常に洗練したのであった。こういう霊的示現は、この世のものであるよりも、むしろ、来世に属するものだから、その一つを見た場合には、霊魂を更に他の示現に適したものとする。

今述べたことは、神が、善天使を介して、霊魂を訪れたときのことに関するものと解される。そのとき、霊魂は、すでに述べたとおり、敵が少しも捕らえることができないほどに、すっかり隠されているわけでもなく、全く闇の中にいる訳でもない。しかし、神ご自身が霊魂を訪れる場合、その時には、前に掲げた詩のあの一行が、よく立証される。なぜなら、霊魂は、全く闇に包まれ、敵から完全に隠されているときに、神からこの霊的な恵みを受けるからである。その理由は、神は、天使も悪魔も、そこに起こっていることを知るに及ばない霊魂の奥底に、実体的に住んでおられるので、そこにおいて、霊魂と神との間に交わされている親密な、密かな交わりを、彼らは知ることもできないからである。こういう交わりは神自らが行われるので、全く神的であり、至高なものである。それらはみな、霊魂と神との間における神的一致の実体的な接触だからであって、霊魂は、これらの交わりのうちの一つにおいて、他のすべての交わりにおけるよりもはるかに大きな益を受ける。これが、およそ存在し得る祈りの中で、最も程度の高いものであるからである。

なぜなら、これらの実体的接触は、花嫁が雅歌の中で、「その口の接吻をもって私に口づけしてください」(1・1)と言って、懇願しながら彼に至りついた接触だからである。これは、これほど神のそば近くで、神と共に、親しく行われることであるから、そこに至ることを霊魂は、切なる焦燥をこめて熱望し、神が与えられる他のすべての恵みにまさって、この神性による一つの接触のほうを一層尊重し、渇望する。それゆえ、前に記した雅歌の中で、神がこういう多くの恵みを霊魂に与えられたのに(霊魂はそれを、そこで歌ったほどであったのに)、いっこうに満足せず、神にこの神的接触を求めて言うのである。「だれがあなたを、私の兄弟として、私に与えてくれるでしょう。もし、そうなれば、私の母の乳房を吸いながら、あなたが外で一人でいるのを見出して、私の魂の口であなたに口づけしても、私は誰からも侮られず、誰も私を犯すことはないでしょう」(8・1)と。これによって、霊魂が言おうとしていることは、神が、自ら、おひとりで、霊魂に与えられたこの交わりは、私たちが述べているように、すべての被造物の外で、被造物から全く切り離されてのことであったということである。魂の感覚的な部分の、欲求と愛情の乳房をしぼりつくして、涸らして、の意である。(これは、霊魂が、内なる平和と甘味さのうちに、感覚的部分に邪魔されることもなく、感覚を通して悪魔に反対されることもなく、霊の自由さをもってこれらの恵みを楽しむときに行われることである)。そうなると、悪魔もあえて霊魂を襲うことはないであろう。なぜなら、悪魔は、そこに達することもできないであろうし、神の愛に満ちた実体における霊魂の実体の中でのこれらの神的接触を理解するまでには至り得ないからである。

この恵みには、奥底の浄化と、赤裸と、被造物のすべてから引き退いていることによってでなければ、誰一人として、そこに達することはできない。それは「闇の中で」のことである。これは、すでに詳しく、この歌詞の後に説明し、この一行に関して述べた通りである。「覆われて」、隠れて、であるが、今述べたように、この、隠れていることで、霊魂は、愛による神との一致において、次第に強められて進んで行く。それで、そのことを霊魂は、前に上げた一行の中で、次のように歌うのである。
「闇の中に、顔を覆って」と。

この恵みが、隠れたままに霊魂に与えられると、その恵みの中で、霊魂は、それがどういうふうにしてかは解らないながら、自分が、霊的でより高尚な部分によって、より下級で感覚的な部分からすっかり引き離され、非常に遠ざけられているのに気がつく。それで、霊魂は、自分自身の中に、互いにまったく異なった二つの部分があるのを認め、一方は他方と何の関係もないように思われ、一方は他の一方から非常に離され、隔てられているように感じられる。ある意味では、それは実際その通りである。なぜなら、その働きは、その時には全く霊的になりきっているので、感覚的部分には全然交わらないからである。このようにして霊魂は、全く霊的になり、一致の観想のこの家に隠れ家において、その霊的欲求と欲情は、至谷に、完全な程度にまで消え去る。それで、霊魂は、自分の上級部分に関して語りながら、直ちに、この最後の一行を歌う。
我が家はすでにしずまったから…

第二の歌の説明を終える

これは、大体、次のような意味である。すなわち、私の霊魂の、より優れた部分もまた、下級な部分と同じように、その欲求と諸能力においてしずまったので、神との愛による神的一致に向かって出て行った、との意である。すでに述べたような、暗夜のあの戦いを介して、二つの様式において霊魂は、攻撃され、浄化される。すなわち、感覚的部分、そして感覚と諸能力と熱情とを備えた霊的部分とにおいて、その諸能力と欲求のすべてに関して、霊魂は、平和と憩いを獲得するようになる。それゆえに、霊魂は、やはり前にもすでに言ったとおり、この一行を二度も繰り返すのである。つまり、この歌と、その前の歌の中で、霊魂の二つの部分、すなわち、霊的部分と感覚的部分のゆえに、繰り返すのである。それらの二つの部分は、愛による神との一致に向かって出てゆくことができるために、まず、感覚的なものに関して改められ、整えられ、静められることが必要で、アダムが持っていたような無罪の状態にならなければならないのである。それで、この一行は、第一の歌では、より低い感覚的部分の静けさについてのことと解されたのであるが、この第二の歌では、特に、より高い霊的部分についてのことと解される。そのために、これを、二度も繰り返したのである。

この霊的家の、落ち着きと静寂を、霊魂は、習性的に、また完全に、自分のものとするようになる。ただし、それは、この世での(人間の)状態が耐え得る限りにおいてであり、先に述べた、あの神的一致の実体的接触の行為を介してである。霊魂は、この接触を、悪魔のさわぎからも、霊魂自身の感覚や欲情からも隠されて、密かに、神から受けてきており、そうしているうちに、霊魂は次第に浄められてゆき、静寂にされ、強められてゆく。そして、霊魂と神の御子との間に交わされる神的婚約である、前に述べた、あの一致を、恒久的に受けられるように、霊魂は堅固にされてゆく。霊魂のこの二つの家が、諸能力や欲求という家人等のすべてと共に、同時にしずめられ、強められると、つまり、それらを、上のことにも、下のことにも、すべてのことに関して眠らせ、黙らせてしまうと、直ちに、この神的英知は、愛の所有という新しい絆をもって霊魂に一致する。こうして、知恵の書の中で、次の句をもって言っているように、この婚約が成立する。すなわち、「静かな沈黙があらゆるものを覆い、夜が早い足どりで真夜中に至った時、あなたの全能のみことばが王の座をとび降りた」(8・14~15)。これと同じことは、雅歌の中で花嫁が述べている。「彼女は、彼女に夜のマントを脱がせ、彼女を傷つけた人々を通り過ぎると…(5・7)、心の愛する者に出会った」(3・4)と。

霊魂は、大いなる純潔なしには、この一致に達することはできないし、この純潔は、被造物のすべてからの、大いなる赤裸と、きびしい節欲とがなければ獲得することはできない。このことは、花婿を探し求めているとき、「彼女にマントを脱がせ、夜中に彼女を傷つける」という句によって象徴されている。というのも、婚約を望んでの新しいマントは、古いマントを脱がなければ着ることができないからである。それ故、愛する方を探すために、前に述べた夜の中へ出て行くことを拒むような人、自分の意志から赤裸になることや、抑制することを拒むような人、また、この花嫁が行ったように、その床や、安楽なところにおいて彼を求めるような人は、決して愛する方を見出すことはないであろう。この霊魂は、自分は闇の中に、愛のもだえにかられて出て行ったから遂に彼を見出した、と自分について語っているからである。

第三の歌を説明する

この幸いな夜に
誰にも見られず、何も見ないで、
ひそかに私は出て行った
心に燃え立つ光の他には
何の光も導きもなしに説明
霊魂は、彼の言う霊的夜にこの世の夜というたとえと比喩をあてはめてする説明を、さらに続け、その夜の中にある優れた特質を歌い、賛美する。霊魂は、この夜を介して、これらの特質を見出したのであり、待望の目的地を速やかに、安全に、たどり着くことができるよう、それを身につけて行ったのである。これらの特質のうち、霊魂はここで、次の三つを挙げている。

第一の特質は、この幸福な観想の夜において、神は霊魂を非常に孤独で、秘密な、観想という様式によって導かれ、被造物の接触も、感覚に属するものは何ものも、愛の一致の途上で霊魂を乱し、引き留めようとして霊魂に至りつくことはできないほど、感覚から遠く離れた様式によって導かれる、ということである。

第二の特質は、この夜の霊的闇に基づくものである。その闇の中では、霊魂のより優れた部分の諸能力は、闇に包まれている。霊魂は、何も見ず、また、何も見ることができないので、神のところへ行くためでなければ、神以外のものには、何ものにも留まらない。それ故、霊魂は、形相や形象や自然的知覚などの障害物から自由になって進んでゆく。これらの障害物は、霊魂が神と永遠に一致することを常に妨げるのである。

第三の特質は、霊魂が、この険しく、崇高な道においては、理性のはっきりした内的光に頼ってゆくこともなければ、そこから満足を得ようとして、外からの導きにすがってゆくこともないのであるが(この真っ暗な闇が、そういうものすべてから、霊魂を完全に引き離しているので)、愛する方を慕い求めている心のもとに、その時に燃え上がる愛の実が霊魂を動かし、導き、孤独の道によって神の方へ飛翔させる。ということである。しかし、霊魂は、それがどのようにしてか、また、どんな方法でなされるかは知らない。そして、次の一行が続く。

この幸いな夜に