4 典礼におけるキリストのわざ

典礼の中で、聖霊は神の民の信仰の教導者、新約の諸秘跡という「神の傑作」の作者です。教会における聖霊の望みとわざは、わたしたちが復活したキリストのいのちを生きることにほかなりません。聖霊が自ら呼び起こした信仰の応答をわたしたちのうちに見いだされるとき、真の協力が実現されます。この協力によって、典礼は聖霊と教会との共同のわざとなります。

キリストの神秘の秘跡による分配の中で、聖霊は救いの営みの他のときと同じようなしかたで働かれます。すなわち、教会をキリストとの出会いに備え、信じる会衆にキリストを思い起こさせ、ご自分の変化させる力によってキリストの神秘を現在化させ、最後には、交わりの霊として、教会をキリストのいのちと使命とに結びつけます。

聖霊は教会を迎える準備をする

聖霊は、秘跡による救いの営みの中で、旧約の予型を成就します。キリストの教会は「イスラエルの民の歴史と旧約を通してくしくも準備され」ましたので、教会の典礼は、以下のような旧約の礼拝形式を、かけがえのない一つの構成要素として維持しています。
――とくに、旧約聖書の朗読。
――詩編の祈り。
――もっとも大切にしているのが、キリストの神秘のうちに実現した救いの出来事と象徴的なことがら(約束と契約、エジプト脱出と過越、王国と神殿、バビロニア捕囚と帰国)の記念。

以上のように、旧約と新約とを結び合わせながら、キリストご自身のカテケージス、そして使徒たちや教父たちのカテケージスが行われています。旧約聖書の文字に隠されていたキリストの神秘を明るみに出す形式のこうしたカテケージスは、「予型論的カテケージス」と呼ばれています。それは、旧約の出来事、ことばと象徴の中でキリストを告げていた「前表(予型)」に基づいて、キリストの新しさを示すからです。このように、キリストを基にして、真理の霊によって読みなおすとき、前表(予型)の意味が明らかにされます。たとえば、ノアの洪水は洗礼による救いの前表であり、雲と紅海の横断もまた、同様です。岩からわき出る水はキリストの霊的たまものの前表でしたし、砂漠のマナは「天からのまことのパン」(ヨハネ6∙32)である聖体の前表でした。

以上の理由で、教会は、とくに待降節と四旬節、わけても復活徹夜祭で、救いの歴史のすべての重大な出来事を典礼の「今日」という場に立って読み直し、追体験します。しかし、それが実際に効果あるものとなるためには、教会の典礼が表現し体験させている救いの営みを「霊的に」理解できるように、カテケージスを通して信者を助けることが必要です。

ユダヤ教典礼とキリスト教典礼。今日でもなおユダヤ教徒が大切にしている彼らの信仰と宗教生活とをよく知ることは、キリスト教典礼のある部分のよりよい理解に役立ちます。ユダヤ教徒にとってもキリスト教徒にとっても、聖書はそれぞれの典礼の本質的部分です。神のことばを宣言し、このことばに応答し、賛美の祈りと生者、死者のための取り次ぎの祈りとをささげ、神のあわれみに訴えるため、聖書が用いられます。ことばの典礼は、その本来の構造としてはユダヤ教の祈りを起源としています。時課の祈り(聖務日課)や他の典礼文、さらに、「主の祈り」をはじめとするわたしたちのもっとも大切な祈りの形体もが、ユダヤ教の祈りと類似しています。感謝の祭儀の奉献文もまた、ユダヤ教伝承の形式に着想を得ています。ユダヤ教典礼とキリスト教典礼との関係、また両者の内容の相違は、とくに過越祭のような典礼暦上の大祝日に顕著に表れます。キリスト教徒とユダヤ教徒は過越祭を祝いますが、ユダヤ教徒は将来に向かう歴史的出来事としての過越を祝い、キリスト教徒はキリストの死と復活とによって成就された過越を、その決定的完成を将来に向けて待望しながら祝うのです。

新約の典礼では、すべての典礼行為、とくに感謝の祭儀や諸秘跡の挙行が、キリストと教会との出会いの場となっています。典礼集会は、神の子らをキリストの唯一のからだを集める「聖霊の交わり」によって一つに結ばれます。この交わりは人間的、人種的、文化的および社会的近縁関係を超越するものです。

集会はキリストとの出会いに自らを準備し、準備のできた民とならなければなりません。この心の準備は聖霊と会衆、とくに奉仕者たちとの共同のわざです。聖霊の恵みが目覚めさせようとしているものは、信仰、回心、御父のみ旨への従順です。これらの心構えは、典礼の中で与えられるその他の恵みを受ける前提であり、典礼から生じるはずの新しいいのちの実の前提でもあり、典礼から生じるはずの新しいいのちの実の前提でもあります。

聖霊はキリストの聖霊はキリストの神秘を想起させる

聖霊と教会とは協力して、典礼の中にキリストとその救いのわざとを表します。第一義的にはエウカリスチアでの、類比的にはその他の諸秘跡での典礼は、救いの神秘の記念祭です。聖霊は教会の生きた記念(過越の出来事を生き生きと想起させてくださるかた)です。

神のことば。聖霊はまず典礼集会において神のことばにいのちを与えて、救いの出来事の意味を想起させてくださいます。神のことばが告知されるのは、それを受け入れて生きるためです。
「典礼行事にとって、聖書はもっとも重要なものです。聖書から朗読が行われ、これが説教によって説明されます。聖書から詩編が歌われ、聖書の息吹と感動から典礼の祈りや祈願や聖歌がわき出たのであり、また聖書から行為のしるしはその意義を受けるのです」。

聖霊は朗読者と会衆に、それぞれの心のあり方に従って神のことばを霊的に理解させます。聖霊は典礼を形づくることばと行為と象徴とを通して、信者と役務者たちを御父のことばであり姿であるキリストとの生きた交わりに導き入れ、こうして一同は、典礼の中で聞き、観想し、行っていることの意味を、それぞれの生活のうちに具現することができるようになります。

「救いのことばによって……信者の心に信仰を養うのです。そしてこの信仰によって信者の集まりが始まり、また育つのです」。神のことばの告知は教えることにとどまらず、神とその民との契約を目指す同意と誓約としての信仰の応答を求めます。また、聖霊こそ信仰の恵みを与え、これを強め、共同体の中で成長させます。典礼集会は何よりも、信仰の交わりなのです。

アナムネシス(Άνάμνησις 記念)。典礼祭儀は人類の歴史の中に介入された神の救いのわざをいつも反映します。「啓示の経給は互いに関連したわざとことばをもってなされ、……ことばはわざを表示し、その中に含まれている神秘を明らかにします」。ことばの典礼で、聖霊は会衆に、キリストがわたしたちのために行われたすべてのことを「想起させます」。諸教会のそれぞれの典礼行為とさまざまな伝統的祭儀に応じて、典礼は、程度の差こそあれ、アナムネシスの中で神の偉大なわざを「思い出させます」。こうして、教会の記憶を目覚めさせる聖霊は、そこで感謝と賛美(ドクソロギアー△oξoλoγία)を行うようにも仕向けてくれるのです。

聖霊はキリストの神秘を現在化する

キリスト教典礼は、わたしたちの救いの出来事を単に思い出させるだけではなく、これを現在化します。キリストの過越の神秘は祝われますが、繰り返されるのではありません。繰り返されるのは祭儀です。祭儀が繰り返されるたびに、そこに聖霊が注がれ、聖霊が一回限りの神秘を現在化してくれるのです。

エピクレシス(Επίκλησις「その上に呼び求めること」)といわれる祈りは、供え物がキリストのからだと血になり、それを拝領する信者が神への生きた供え物となるために、聖とする霊を遣わしてくださるように御父に願う司祭の祈りです。

エピクレシスは、アナムネシスと同様に、各秘跡の祭儀、とくにエウカリスチア(感謝の祭儀)の核心を成すものです。
「あなたは、どうしてパンがキリストのからだ、また……ぶどう酒がキリストの血となるのかと質問するのですか。わたしがあなたに答えます。聖霊がくだり、すべてのことば、すべての考えを超えることを成し遂げられるのです。……あなたはそれが聖霊によって行われると聞いただけで満足しなさい。それは、聖霊によって、おとめマリアを通して主自らご自分のうちに肉体をとられたのと同じことなのです」。

典礼において変化を行う聖霊の力は、み国の到来と救いの神秘の完成を早めます。聖霊はわたしたちに、待望と希望のうちに聖三位との完全な交わりを実際に先取りさせてくださいます。教会のエピクレシスを聞き入れられる御父から遣わされた聖霊は、ご自分を受け入れる者たちにいのちを与え、すでに今から、彼らにとってみ国を受け継ぐ「保証」となられます。

聖霊の交わり

すべての典礼行為における聖霊の使命は、わたしたちをキリストとの交わりに導き、そのからだを形づくることです。聖霊は、枝に実を結ぶ御父のぶどうの木の樹液のようなものです。典礼の中では、聖霊と教会との間にもっとも緊密な協力が実現されます。交わりの霊としての聖霊が教会のうちにいつまでもとどまっておられるので、教会は四散した神の子らを集める神的交わりの大いなる秘跡なのです。典礼における霊の働きの成果は、聖三位ならびに兄弟たちとの交わりと切り離せないものです。

エピクレシスはまた、会衆が実際にキリストの神秘に完全にあずかることを求める祈りでもあります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」(ニコリント13∙13)はつねにわたしたちとともにあって、感謝の祭儀が終わった後も実をもたらすものでなければなりません。したがって、教会は聖霊を派遣してくださるように御父に祈ります。それは、聖霊が信者をキリストの姿に霊的に変容させることによって、信者の生活を神への生きた供え物とし、信者を教会の一致に心掛けさせ、またあかしと愛の奉仕とによってキリストの使命にあずからせてくださるためです。