3 典礼におけるキリストのわざ

栄光のキリストは‥‥

「御父の右に座し」、教会であるご自分のからだに聖霊を注がれた今、キリストは恵みを分かち与えるために制定された諸秘跡を通して行動されます。秘跡とは、人間であるわたしたちの力でもとらえられる感覚的なしるし(ことばと行い)であり、キリストの働きと聖霊の力とによって、しるしが表す恵みを効果的に与えるものです。

教会の典礼にあって、キリストはおもにご自分の過越の神秘を示し、実現されます。この世に生きておられた間、イエスはご自分の過越の神秘を教えによって予告し、行動によって先取りしておられました。ご自分の時が到来すると、イエスは「ただ一度」だけ死んで、埋葬され、死者の中から復活し、御父の右にお座りになりました(ローマ6∙10、ヘブラィ7∙27、9∙12参照)。歴史の中でこれだけが過ぎ去ることのない出来事です。これは、人類の歴史に起こった実際の出来事ですが、比類のない出来事です。歴史の他のあらゆる出来事は一一度起これば過ぎ去り、過去の中に飲み込まれてしまいます。これに反して、キリストの過越の神秘はただ過去の出来事にとどまるものではありません。ご自分の死によって死を滅ぼされたからであり、さらに、キリストの存在のすべて、またあらゆる人々のために行い苦しまれたすべてが、神の永遠にあずかり、こうして、すべての時にまたがって、そのうちに現存させられるからです。キリストの十字架上の死と復活の出来事は永続し、いっさいをいのちに引き寄せます。
…使徒たちの教会以来…

「したがって、キリストは、ご自分が御父より遣わされたと同じく、聖霊に満たされた使徒たちをお遣わしになりました。それは、彼らがすべての造られた者に福音をのべ伝えるためだけではありませんでした。すなわち、神の御子がご自身の死と復活によって、わたしたちをサタンの力と死より解放し、御父の国に移されたことを告げるためばかりでなく、彼らが告げた救いのわざが、全典礼生活の中心である犠牲と諸秘跡を通して、彼らによって行われるためでもありました」。

このように、復活したキリストは使徒たちに聖霊を与えながら、聖とするご自分の権能を彼らにゆだねられました。使徒たちは、キリストの秘跡的しるしとなったわけです。同じ聖霊の力によって、使徒たちはこの権能を後継者たちにゆだねます。この「使徒継承」が教会の典礼活動全体を支える土台であり、それは叙階の秘跡によって伝えられます。

‥‥地上の典礼のうちに現存しておられる‥‥

「このような〔キリストの救いのわざを分配し、与えるという〕偉大なわざを成就するため、キリストは、つねにご自分の教会とともにおられ、とくに典礼行為に現存しておられます。キリストはミサの犠牲のうちに現存しておられます。それは、『かつて十字架上でご自分をささげられた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として』司祭のうちに現存するとともに、またとくに、聖体の両形態のもとに現存しておられるのです。諸秘跡の一うちにキリストは、ご自身の力をもって現存しておられます。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリストご自身が洗礼をお授けになるのです。キ’リストはご自身のことばのうちに現存しておられます。それは、聖書が、教会の中で読まれるときは、キリスト自身が語られるからです。なおキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも、現存しておられます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18∙20)と約束されたからです」。

「事実、神に完全な栄光が帰せられ、人が聖化されるこのような偉大なわざにおいて∙キリストは∙ご自分の最愛の花嫁である教会をつねにご自身とともにあらしめ∙教会は自らの主を呼び、主によって永遠の御父に礼拝をささげるのです」。

‥‥地上の典礼は天上の典礼にあずかる

「地上の典礼において∙わたしたちは天上の典礼を前もって味わい、これに参加しています。この天上の典礼は、旅するわたしたちが目指す聖なる都∙エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、至聖所と真の幕屋の祭司として、神の右に座しておられます。わたしたちは、天軍のあらゆる軍勢とともに、主に栄光の賛歌を歌い、諸聖人の記念を尊敬して、彼らの交わりにあずかることを望み、われらの生命なる主が現れ、わたしたちも主とともに栄光のうちに現れるときまで、救い主、われらの主イエス・キリストが来られるのを待ち望むのです」。