3巻 57 過ちをおかしても、落胆してはならない

「子よ、不幸のときの忍耐と謙遜とは、幸運のときの慰めと信心よりも、私を喜ばせる。あなたについて言われた、あるいはされた些細なことのために、どうしてそれほど悲しむのか。それ以上のことであっても、あなたはそのために、どうしてそれほど悲しむのか。あなたはそのために心を騒がしてはならない。しかし今は、そういうことを見過ごせ。それは、はじめてのことでも珍しいことでもなく、長生きするなら最後のことでもあるまい。自分の望みに反することが起こらないと、あなたは自分では弱くないつもりになっている。そんな時には、他人に有益な進言をし、他人を力づける言葉を知っている。ところが、突然戸口に患難がおとずれると、さっきの進言と力強さとは消え失せる。小さな患難のときにもよく経験する自分の弱さを考えよ。つまり、そういうことが起きるのも、あなたの霊的な救いのためである。そんなときには、十字架上の私の苦しみを思い出せ、不幸にあっても落胆せず、長くそれに閉じ込められないように気をつけよ。喜んですることができないなら、せめて忍耐して不幸を忍べ。耳に痛いことであっても、また憤りが起こっても、自分をよく抑え、年齢も身分もあなたより下にある人々をつまずかせるような言葉を吐かないように注意せよ。あなたに起こった嵐は、すぐにおさまる。そして内部の苦しみは、神の恵みによって和らげられるだろう。主である私は、いつもあなたのそばにいる(イザヤ49・18)、私に信頼し、敬虔にこい願えば、私はいつもあなたを助け、常よりも豊かに慰めるつもりである。心を落ち着かせ、大きな試練に耐える心構えをせよ。悩みといざないを感じても、万事が終わったのではないと思え。あなたは、神ではない。人間である。天使ではなく肉である。天における天使、楽園における人祖さえできなかったことなのに、どうしてあなたが、徳にとどまれようか、人間を回復させ、悲しむ人々に喜びを与える(ヨブ記5・11)のは私である。弱さを認める者を、神性に与らせるのは私である」。「主よ、私の口に、蜜よりも甘いあなたのお言葉が祝されますように(詩編19・10)。これほどの患難と試練のなかにある私を、そのお言葉で慰めて下さらなければ、私はどうなったでしょう。救いの港にたどりつけるなら、どれほどの苦しみを忍んでも、それが何でしょう。主よ、善い最後を私にお与えください。私をこの世から安らかにゆかしてください。私の神よ、私を忘れないでください(エズラ第二 13・22)。真直な道を通って私を御国に導いて下さい。アーメン」。