3巻 56 自分を捨て、十字架を担ってキリストにならえ

「子よ、あなたは、自分を捨てれば捨てるほど、私と親しく一致する。外部に何も望まなければ心の平安を得るように、自分から離脱すれば、神との一致が得られる。自分自身の完全な放棄と、なんの不平もなく、み旨に委託することを、私は望む。私に従え(マタイ9・9)。私は道であり、真理であり、生命である(ヨハネ14・6)。道がなければ歩めず、真理がなければ知ることなく、生命がなければ生きられない。私はあなたが歩むべき道であり、信ずべき真理であり、希望すべき生命である。私は迷いのない道であり、あざむき得ない真理であり、終わりない生命である。私は、まっすぐな道であり、最高の真理であり、まことの生命、幸福の生命、永遠の生命である。私に止まるなら、あなたは真理を知り(ヨハネ8・32)、永遠の生命を得るだろう。生命に入ろうと思うなら、私の掟を守れ(マタイ19・17)。真理を知ろうと望むなら、私を信じよ。完徳に達しようと望むなら、持ち物全てを売れ(マタイ19・21)。私の弟子であろうとするなら、自分を捨てよ(ルカ9・23、14・27、マタイ16・24)。永遠の生命を得たいなら、現在の生命を無視せよ。天において高められることを望むなら、この世で小さいものとなれ、私と共に御国に入ろうと望むなら、私の十字架を負え。実に十字架の僕だけが、幸福と真の光の道を見いだすものである。「イエスよ、あなたの歩んだ道は、世間の軽蔑を受けている狭い道ですが、私もそれを歩き、世間から軽蔑され、あなたにならう者になりたいのです。実に『弟子は先生以上のものではなく、下僕は主人以外のものではない』(マタイ10・24)のです。あなたの下僕は、救いを得るために、あなたの生活にならって修行します。読むことも聞くことも、私にあなたのことを語ってくれない者は、私を慰めず、十分喜ばせないのです」。「子よ、あなたは以上に事を悟ったのだから、それを実行すれば、幸せである。『私の掟を保ってそれを守る者は、私を愛する者である。私は、私を愛する者を愛し、彼に自分をあらわすだろう』(ヨハネ14・21)。『そして彼を私と共に、父の御国に座らせるだろう』(黙示録3・21)」。「主イエスよ、仰せられた通り、お約束された通りになりますように。私はあなたから十字架を受けました。確かに御手から受けました。そしてご命令どおりに、それを最後まで荷うつもりです。よい修道者の生活は十字架ですが、同時に天国への道でもあります。私たちは、事を始めたのですから、退くことも、道を変えることも許されません。だから兄弟たちよ、ふるい立って、共に進もう。イエスは私たちと共においでになる。私たちはイエスのために、この十字架を担った、だからイエスと共に担い続けよう。案内者であり先導者であるお方は、同時に助け手でもあり。王が先頭に立ってすすみ、私たちのために戦ってくださる(エズラ24・20)。いさましくキリストに従おう、誰も恐れてはならない。戦って、勇敢に死ぬ覚悟をしよう。そして十字架を捨てて、光栄を汚すことのないようにしよう」(マカベ前9・10)。