3巻45  誰でも信用して良いとは言えない、言葉の過失は犯しやすい

「主よ、患難の時にお助け下さい。人間の助けは期待できません(詩篇59・13)。私は何度、信用していた人から裏切られ、そうでないと思っていた人に、真実を見出したことでしょう。要するに、人間に頼るのはむなしいことです。正しい人の救いはあなたにあります。主なる神よ、私たちの出会うことにおいて、あなたは祝せられますように。変わりやすい私たちは、しばしば迷い、しばしば考えを変えます。欺瞞や困難に一度もおちいらないほど、よく警戒する、慎重な人があるでしょうか?しかし主よ、あなたに委託し、単純な心であなたを求めるものは、容易に迷いません。そして、たとえ患難を受け、非常な困難におちても、すぐあなたに救い出され、あなたの慰めを受けます。あなたは、より頼む者を最後まで見捨てておかれる事はありません。友達が不幸の時にも、友情を失わない忠実な友は、少ないものです。何事においても忠実そのもののあなた以外、そういうものはありません。『私の心はキリストに基づき、キリストに安堵する』といったあの聖い霊魂は、そのことをよく知っていました。私もそう言えるなら、人間への恐れにうろたえることもなく、また言葉の矢に動かされることもないでしょう。誰が、未来を予見し、将来の悪を予防できるでしょうか。前もって知っていたことにも、しばしば傷つけられるのなら、思いがけない出来事に傷つくのは当然です。それなのに、哀れな私は、なぜもっと慎重に、心を配らなかったのでしょうか?なぜ、これほど容易に他人の言葉を信じたのでしょうか?ああ、しかし、私たちは人間です、たとえ人が天使だと思っても、もろい人間です。主よ、私は誰を信じましょう?あなた以外の誰を信じましょう?あなたは誤ることなく、欺くことのない真理であります。人間は全て嘘をつき(詩篇114・16)、弱い者、変わりやすい者、言葉の過ちを犯しやすい者です。だから、真実らしい言葉でも、すぐ信じてはなりません。主よ、あなたが、『人を警戒せよ、人は自分の家の者を敵にするだろう』(マタイ10・36)、『ここにいる、あそこにいる、と言っても信じるな(マタイ24・23)と戒められたのは、当然なことでした。私は、失敗してからそれを学んだのです。将来、二度と過ちをせず、いっそう警戒するようになりたいものです。『私が今言うことを、誰にも言うな』とある人が私に言ったとします。そこで、私は誰にも言わず、誰も知らないと思っていたのに、秘密にしてくれと私に言ったその人自身が、秘密を守り切れないで、私と自分とを平気で裏切るのです。主よ、そういう無思慮な人間にならないように、私を守ってください。私が彼らの手中に落ちず、自分でもそういう過ちを起こさないようにしてください。私の口に、真実な言葉を語らせ、狡猾な言葉を知らせないでください。他人にとって耐え難い事は、自分自身も避けなければなりません。他人のことをしゃべらず、どんなことも軽々しく信じず、饒舌におちいらず、言葉の風にもてあそばれず、内部的なことも外部的なことも、全くみ旨のままに行われるように望むのは、平和を保つ上に、実に有益な良いことです。人前に出ることを避け、人の関心を引くことを望まず、ただ、生活を改め、心を善に導くことだけを、一心に探し求めるのは、天の恵みを保つ上に最も安全なことです。徳が人に知られ、あまり早く賞賛を受けたために、どれほどの人が、損失を被ったことでしょう。誘惑と戦いとに満ちた、このはかない人生において、沈黙のうちに神の恵みを守ったことによって、どれほどの人が影響受けたことでしょう」。