3巻40 人間は、自分のものとして、何の良いものも持っていない、何一つ誇れない

「主よ、あなたが覚えていてくださる人間とは何者でしょうか、あなたが訪れてくださる人間の子とは、何者でしょうか(詩篇8・5)。恵みをお与えになるその人間は、どんな功徳を持っているのでしょうか。主よ、あなたが私をお離れになっても、私には不平を言う理由がなく、また、私の望むものを与えて下さらなくとも、当然の権利として私から要求できるものは何一つありません。私として、真実に考え、真実に言える事は、私が無であって、何もできない、自分としては一つの善も持たず、万事に弱い不足な人間であり、無のものを求めがちだ、と言う事だけです。あなたが助け、指導してくださらないと、私はすぐ冷淡になり、衰えてしまいます。かえって主よ、あなたは常に不変であり、永遠に存在し(詩篇101・28、13)、そして常に全善、正義であり、全てを正しくよく、清く行い、万事を知恵によって計られます。ところが、徳において進歩するよりも、むしろ退歩しがちな私は、常に同じ状態にとどまりません。私は、七つの期間を常に変化しつつ(ダニエル4・13、20、2)(注 ダニエルの記す七つの期間、すなわち乳児期、幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、晩年を暗示するようである。身体とともに精神も変わる)。しかし、み旨の時、援助の御手を伸ばしてくださると、すぐさま私は好転します。あなたは、人間の干渉なしに私を助けあげ、私の心を固め、ただあなただけに傾かせ、ただあなただけに休めるように、私を強めてくださいます。だから、もし私が、敬虔を得るためにせよ、‥‥人間の中で私を慰めるものがないので‥‥人間からの慰めを全く受け付けなくなれば、当然あなたの恵みに期待でき、新たな賜物に喜びいさむことができます。私の上に全ての善を与えて下さる主よ、あなたに感謝します。私は、あなたの御前にあたっては、無のもの、むなしいものにすぎず、変わりやすい、弱い人間に過ぎません。それなら私は、何に誇り、誰から尊敬を要求するのでしょう。私が無であるから誇るのでしょうか、おそるべき虚栄心!虚栄心は、悪疫の一つ、それ以上むなしいものはありません。それは、人を真の光栄から遠ざからせ、天の恵みを失わせます。自分で自分を善しとすれば、あなたのお気に入らず、他人の賞賛を望めば、真実の徳を失います。真の光栄と歓喜とは、自分ではなくあなたを誇りとし、自分の徳ではなくあなたの御名に喜び、被造物ではなくあなただけを楽しみとすることです。私自身ではなく、御名が尊まれますことを。私自身のではなく、あなたの御業が賛美せられ、その聖なる御名が祝されますことを。そして私には一切人間の賞賛が向けられないように。ああ主よ、ただあなただけが、私の光栄、私の喜びです。私はあなたを誇りとし、日々あなたにおいて喜びいさみます。私は、自分の弱さだけを誇りとしましょう(コリント後12・5)。他の人々は、便宜上、互いに授け授かる、あの光栄を求めればよろしい。私はただ、神から来る光栄だけを求めましょう。実に人間の光栄、地上の名誉、地位などは、あなたの永遠の光栄に比べれば、いずれも愚かしい、むなしいことです。ああ、私の真理、慈悲の神よ、聖なる三位一体よ、あなたに賞賛、名誉、勢力、光栄が、世々にありますように」。