2巻 6 正しい良心のよろこび

善良な人の誇りは、正しい良心のあかしである。正しい良心を保て、そうすれば喜びが尽きない。正しい良心は、いろいろな出来事を、耐え忍ぶ力を与え、不幸の中にあっても、いつも喜びを生む。それに反して、不正な良心は、いつも怖れと不安に満たされている。あなたの良心が、あなた自身をとがめないなら、あなたは快く休める。善をおこなった時以外は、満足するな。悪人は、本当の喜びを味わえず、心の平和も知らない。「悪人には平和がない」(イザヤ48・22、57・21)と主が仰せられた通りである。悪に委が「われわれには不幸が起こらない、誰がわれわれに損害を加えようか」と言ったとしても、その言葉を信じてはならない。突如、神の怒りが現れ、彼らの行いはすべて無となり、その計画は、煙のように消えてしまうだろうから(詩編145・4)。患難を誇りとするのは、神を愛する霊魂にとって、困難なことではない。それは、主の十字架を誇ることだからである。人間が与え、また受ける光栄は、つかの間の物である。この世の光栄には、常に悲しみが付きまとっている。善良な人のまことの光栄は、他人の判断にあるのではなく、その人自身の良心にある。正しい人の快活は、神から出たもので、そして神にある。正しい人の喜びは、真理によるものである。永遠のまことの光栄を望む人は、この世の光栄をかえりみない。この世の光栄を求め、それを軽蔑しきってないのは、天の光栄を、十分に愛していない証拠である。世の誉れも侮りも気にしない人は、非常に静かな心を保っている。心の清い人は、なんにでも満足して安らかに生きる。人から賞賛されても、そのために聖徳にすすむわけでなく、軽蔑されても、そのために卑しくなるわけではない。あるがままのあなたが、あなたである。そしてあなたは、神の御前に、今ある以上善良なものではない。あなたの心を反省すれば、あなたは、人の言うことを気にかけないだろう。人はうわべだけを見るが、神は心の底を見ておられる。人は外部の行いを見るが、神は意向を見ておられる。つねに善を行いつつ、しかもへりくだるのは、謙虚な心の証拠である。この世のどんなものからも、どんな人間からも、慰めを求めようとしないのは、清さと、心の高尚さとの証拠である。他人の賛成を求めようとしない人は、神に自分を任せきっている人である。聖パウロが言うように、自分がほめるものではなく、主がほめるものこそ、神の気に入る者である(コリント後10・18)。内的に神と一致して生き、外部のものに全く束縛されないのは、真に内的な人の状態である。