2巻 12 十字架の黄金の道

「自分自身を捨て、十字架をとってイエスに従え」(マタイ16・14、ルカ9・13)というみ言葉を、人は非常に難しいことだと思っている。しかし、この人々にとって、「呪われた者よ、私から離れて永遠の火に行け」(マタイ25・41)という最後の判決を聞くのは、さらにつらいことだろう。十字架を担えと言う言葉を喜んで聞き入れ実行する人は、そのときになって、永遠の滅びの宣告を聞く恐れがない。十字架の印は、主が審判に来られるとき、天に現れる。そのとき、生きていた間に、十字架のキリストの模範にならった十字架の僕たちは、審判者キリストに、大いなる信頼をもって近づくだろう。それなのに、なぜあなたは、十字架をおそれるのか、それを通って神の国に上がるのではないか。十字架こそ、救いと、生命と、敵からの防御がある。十字架は、天の喜びの賜物、知恵の威力、心の歓喜を与える、十字架には、すべての徳が含まれている。十字架には、完全な聖徳がある。十字架によらなければ、霊魂の救いはなく、永遠の生命もない。だから、あなたの十字架をとって、イエスに従え、そうすれば、永遠の生命に至る。彼は十字架を担って、あなたの先頭に立ち(ヨハネ19・17)、その十字架の上で、あなたのために亡くなられた。それはあなたをも、十字架をとって、その上で、死なせようと望まれたからである。あなたが、彼と共に死ぬなら、彼と共に生き、彼と共に苦しめば、また共に永遠の光栄を受けるのである。見よ、すべては、十字架を担って、その上で死ぬことにある。そして、生命と真の平和とに導く聖なる十字架の道と、日々の苦行以外道はない。行きたい道をどこにでも行け、ほしいままに探せ、だが聖い十字架の道よりも高く、それよりも安全な道は見いだせないだろう。何でもあなたの望み通りに導き整えよ、しかしあなたは、否応なしに、苦しみに会わないではいないだろう。こうしてあなたは、いつも十字架に出会う。身体の苦しみであれ、心の試練であれ、常に何かを忍ばねばならない。あるときは、神があなたから遠ざかり、あるときは、他人から苦しめられ、またしばしば自分自身の重荷を感じる。そして、その苦しみを逃れる薬、荷を軽くする慰めを見つけず、み旨のときまで、忍ばねばならない。あなたが、なんの慰めもなく患難を忍ぶことを学び、神に全く服従し、苦しみによってさらに謙虚になることを、神は望んでおられる。キリストの苦しみに似た苦しみを、忍ばねばならなかった以上に、キリストの受難を理解し得るものはない。だから十字架は常に備えられていて、どこでも、あなた自身を見出すからである。上にも下にも、外にも内にも、どこでも、十字架を見出すだろう。もしあなたが、心の平和をもって、永遠の冠を受けたいと思うなら、どこに行っても、忍耐しなければならない。あなたが喜んで十字架を担うなら、十字架があなたを担って、希望の地、すべての苦しみの終焉の地まで、あなたを導いてくれる。しかしそれは、この世にはない所である。あなたが、十字架をいやいやながら持つとすると、それは、あなたの重荷となり、さらにあなたを圧迫するように感じる。しかしそれでも投げ捨てるわけにはいかない。一つの十字架を捨てようとすれば、必ず他の十字架を、多分もっと重い十字架を担わなければならない。この世に生活したどんな人間でも避け得なかった十字架を、あなたが避け得ると思うのか。この世で十字架を担わず、患難を味合わなかった聖人があろうか。主イエス・キリストさえも、生きていた間は、一瞬たりとも、受難の苦しみを感じないわけにはいかなかった。キリストは苦しんで、そののち、死者からよみがえって、光栄に入るべきである、とイエスご自身仰せられている(ルカ24・26)。それなのに、なぜあなたは、尊い十字架というこの黄金の道以外の道を探そうとするのか。キリストのご生涯は、十字架と殉教だったのに、あなたは、休みと喜びだけを求めようとするのか。もしあなたが、苦しみを忍ぶこと以外の何かを探し求めているなら、心に銘記せよ、それは間違いである。この世のはかない生活は、まことに悲惨であって、十字架に取り囲まれたものである。人は、完徳の道をのぼればのぼるほど、重い十字架に会う。神への愛が深まれば深まるほど、流され人の悲しみは、深くなるのである。だが、これほど様々な苦しみに会っていても、慰めが全然ないにではない。自分の十字架を忍べば、貴い実がなると私たちは知っているのだから、進んで苦しめば、どんな重荷も、主の慰めへの信頼に変わる。身体に苦しみに砕かれれば、霊魂は神の恵みによって強められる。そればかりではなく、ある人は、患難と苦痛を望むことによって、慰めを感じ、イエスの十字架に一致したいがために、患難と苦痛なしに生きたくない、とさえ思ったほどだった。しかしそれは、人間の徳によるのではなく、キリストの恵みによることである。神の恵みは、人間のもろい肉体が、本来ならば嫌悪することを、熱心の余りに抱かせるほどの、大事をなしうるものである。十字架を担う、十字架を愛する、肉体を抑えてそれに勝つ、栄誉をさける。喜んで侮辱を忍ぶ、自分を無視して、他人にも軽蔑されることを望む、逆境と損害とに耐える、この世の幸運を望まない。これらのことは、人間の好みに合うことではない。自ら反省してみれば、以上のことが、一つとして自分の力だけではできないことがわかる。しかし主により頼めば、あなたは天の力を受け、世間も肉体も支配しえる。信仰で武装し、キリストの十字架の印をおびるなら、あなたは敵の悪魔さえも、おそれないであろう。だから、キリストの忠実な下僕として、あなたは、あなたを愛するあまり十字架にかけられた主の十字架を、雄々しく担っていけ。哀れなこの人生において、多くの悲運と不幸とを耐え忍ぶ心の備えをなせ。あなたは、どこにいても、不幸が起こり、どこに逃げても、苦しみに会うのだから。それは避け難いことである。そして苦しみと患難を避けるためには、それを快く耐え忍ぶ以外に方法はない。主の友として、将来み国に入ろうと思うなら、愛を持って、主の盃を飲め。慰めについては、神に任せよ。あなたは、患難を耐え忍ぶ備えをし、患難こそ最大の慰めだと考えよ。あなた一人で、あらゆる患難を背負って忍んだとしても「現世の苦しみは来世の光栄に及びもつかない」(ローマ8・18)。患難が甘美なものに思われ、苦しむことが好ましくなり、キリストへの愛のために、それが美味なものになれば、そのときは全て順調に行っている、と思ってよい、それは、この世の天国を見出したことである。しかし、苦しみを重荷に感じて、それを避けたいと思う間は、つまずきがちで、避けようとすればするほど苦しみがつきまとう。あなたが、あなたのなすべきこと、つまりキリストのために苦しみ、自分自身を殺そうとし始めるなら、すぐに愉快になり、平和を見出すだろう。あなたが、パウロと共に、第三天まで上げられたとしても、それは苦しみを逃れる保証にはならない。イエスは、「彼が私の名のためにどれほど苦しまねばならないかを彼に示そう」(使徒9・16)と仰せられた。だから、イエスを愛して、いつでも仕えたいと思うなら、あなたに残されたことは、苦しみ以外にない。あなたは、キリストの御名のために苦しみを耐え忍ぶ者であれ。こうすれば、あなたはどれほど光栄を確保し、また神の聖人たちはどれほどの歓喜し、他人はどれほど徳に励まされることだろう。どんな人も忍耐を賞揚するが、しかしすすんで苦しもうとする人は少ない。あなたがキリストのために、何事かを喜んで忍ぶのは当然である。人はこの世のために、それ以上の苦しみを忍んでいるではないか。忘れるな、あなたは今死ぬべき人として生きねばならない。人は、自分に死ねば神に生き始める。キリストを愛するために、喜んで苦しみを忍ぼうとしない限り、天のことを理解する値打ちはない。こころよくキリストのために苦しむこと以上に、神に喜ばれ、またこの世で、あなたの霊魂を益することはない。あなたが、いずれかを選ぶことができるなら、慰めに満たされることよりも、キリストのために不遇を忍ぶことのほうを取れ。そうすれば、あなたはキリストと似た者となり、聖人たちに一層一致するだろう。私たちの功徳と、徳への進歩は、心の幹部さや、慰めにあるのではなく、不幸と患難を忍ぶことにある。苦しむこと以外に、人間の救いに役立つ便利な道があったら、キリストは、きっと、言葉と模範とで、それを示されたに違いない。ところがイエスは、その弟子たちや、従いたいと望む人々に、十字架を担えと明らかにお命じになって、「私に従いたい人は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従え」(マタイ16・24、ルカ9・2)と仰せられた。要するに、すべてを研究してのち、結論は、「私たちは多くの患難をへて、神の国に入る」(使徒14・21)という以外にはない。