キリストにならいて

■目次

1巻

1・キリストにならって、世のはかないものに心をかたむけないこと

「私にしたがう者は闇をあるかない」」(ヨハネ8・12)と主はおおせられる。これはキリストの御言葉である。私たちが、まことの光に照らされ、心のくらやみをぬけ出したいなら、そのご生涯と行いにならわなければならない。だから、私たちの第一のつとめは、イエス・キリストのご生活を黙想することである。キリストの教えは、全人類の教えに勝る。そして、その教えの精神をくみとれば、そこにかくれたマンナを見出すだろう。ところが、人はキリストの精神から遠ざかっているので、しばしば福音のことばを聞いても敬虔の念を起こさない。キリストの御言葉を十分理解して、それを味わおうとする人は、自分の全生涯を、キリストに一致させるように努めなければならない。あなたに謙遜の心がなく、そのため、三位一体に好まれないのなら、三位一体について議論して、何の役に立つだろうか。人を清い者、正しい者とするのは、深い言葉ではなく、徳にみちた生活であり、それが神の愛を呼ぶのである。私は痛悔の定義を知るよりも、むしろその心を感じたい。もしあなたが、全聖書と全哲学とを知ったとしても、神への愛と神の恵みとを持たなければ、それが何になるだろう。神を愛し、神に奉仕する以外は、「むなしいことのむなしさ、すべてはむなしい」。世間を軽んじて、天の国に向かうことこそ、最高の知恵である。だから、はかない富を求め、それにのぞみをかけることは、むなしいことである。名誉を望み、高い地位を望むことも、むなしいことである。肉の欲に従い、将来重い罰を受けるにちがいないことを望むのも、またむなしいことである。長い寿命を望むばかりで、よく生きることを心がけないのも、またむなしいことである。今の生活だけに気をうばわれ、未来のことに備えないのも、むなしいことである。ただちに過ぎ行くものを愛し、永遠の喜びのある所に、望みを向けないのも、むなしいことである。「目は見るだけで満足せず、耳は聞くだけで満足しない」という、ことわざをしばしば思い出すがよい。あなたは、地上のものへの執着から、心をたち切り、見えないものに心を移すように努めよ。実に、肉の声に従う者は、良心を汚し、神の恵みを失うのである。

2・へりくだる

もとより、人は知ることを望んでいる。しかし、神へのおそれがなければ、学問、知識が何の役に立とうか。主に仕える素朴な農夫は、自分の救いをいいかげんにして、天体の運行をながめる高慢な学者より、たしかにすぐれている。自分自身をよく知っている人は、自分のみじめさを考え、人の賞賛を喜ばない。私がこの世にある全てのことを知っていても、愛徳をもたないなら、行いによって私を裁く神の御前に立つとき、それがどうして、私の役に立つだろう。むやみに物を知りたい望みをおさえよ。それはしばしば、あなたをぼんやりさせ、あなたをだますからである。知恵ある人は、その知識を人に知られ、知恵者と呼ばれることに満足する。知っても霊魂の役に立たない事柄は、相当多い。自分の救霊に役立つこと以外の心配する者は、非常におろかである。言葉は多くても霊魂を満足させないが、よい生活は、心をうるをし、清らかな良心は、神への信頼を起こさせる。あなたがどんなに多く、どんなに深く知っても、あなたの聖徳が、それに伴わなければ、ますます厳しく、裁かれるだろう。だから、あなたのおさめている芸術や学問で思い上がってはいけない。むしろあなたに与えられた知識の責任を思え。あなたが多くのことを知り、それを理解したと思っても、まだあなたの知らないことのほうが、さらに多いと知り、むしろあなたの無知を認めよ。あなたよりも優れている者は多いのに、なぜあなたは、他人より上であると思おうとするのか。何かを知り、何かを学んで、それを役にたてようと思うなら、人に知られないこと、無視されることを喜べ。深遠な有益な知識とは、本当に自分を知り、自分を無だと考えることに他ならない。自分を見下し、他人を尊重することが、知恵であり、徳行である。もし他人が、公然の罪とか、重大な過失をおかしているのを見ても、あなたはその人より自分の方が善良だと思ってはならない。あなたが、いつまで善に留まれるかどうかは、わからないからである。私たちは皆弱い、しかし、あなたよりも、弱い人間はないと思うがよい。

3・真理を知る

過ぎ去ることや、言葉ではなく、真理自身から、ありのままに、教えを受ける者は幸せである。私たちの理性と感覚とは、しばしば自分をあざむき、またその限られた能力をもってしては、しばしばあやまる。知らなかったといえば、自分の審判の日にさえ非難されないような、ひそかな、わかりにくいことについて、議論してもそれが何の役に立つだろう。利益になること、必要なことをおろそかにして、珍しいこと、害になることを、好んで扱うのは、狂気のさたである。それは目を持ちながら見ないに等しい(エレミア5・21)。哲学者の絶えざる論争が、私たちの何のかかわりがあろう。永遠の御言葉の声を聞くものは、人間の学説を必要としない。その唯一の御言葉からすべてが出る。そして、すべては、御言葉を私たちに語りかけている。それが私たちの内で語られる「本源」であって、それがなければ、正しく理解することも、判断することも、できないのである。すべてにおいて、ただ神だけを見、すべてを神に帰し、すべてを神において見る者は、心が定まり、安らかに神に留まることができる。「ああ、真理の神よ、絶えざる愛において私をあなたと一つにしてください。読むものも、聞くことも、私を疲れさせます。ただ私の望むこと、渇望することは、あなたのなかにあります。あなたのみ前にあっては、知恵者は沈黙せよ、どんな被造物も口を閉じよ、あなただけ私にお話しください」。自分のうちに心をひそめ、謙遜な心で生きれば生きるほど、人間は労せずして、多くのすぐれたことを理解する。天から理性の光を受けるからである。清い単純なしっかりした心の人は、山のような仕事にも、心を散らすことがない。なぜなら、すべてを神の光栄のために行い、自分を忘れ、自分の利益になることを求めないからである。あなたの心の、抑えきれない欲望ほど、あなた自身を束縛し、悩ますものはない。善良な信心深い人は、外で行うことを、まず心のなかで整える。そうすると、その行いは、悪い欲に流されず、むしろ正しい理性の導きのままに、その人の望みを動かすのである。自分に勝とうとする人ほど、おそろしい戦いに、耐えている人はないだろう。しかもそれが、私たちの第一のつとめである。つまり、自分に勝ち、日々さらに強くなり、そしていくらかでも徳にすすむことである。この世では、どんな完全なことにも、いくらか不完全なものが混じっている。探求にも、いくらかの暗さがあるのをまぬがれない。謙虚に自分自身を知ることは、学問の深い探求よりも、神に至る安全な道である。しかし、学問や知識も、おろそかにしてはならない。それらは、そのものとして、よいことであり、神の御旨によることだからである。しかし正しい良心と徳のある生活は、つねにそれより尊いことだ。多くの人はよく生きることよりも、知識を積むことに努めるので、そのため、しばしば過ちを生じ、せっかくの知識から、全くか、あるいはほとんど効果を得ない。議論するほどの熱心さで、悪を絶ち、善をつもうとするなら、これほどの社会悪、これほどの修道生活のゆるみを、見ることはなかったであろう。きっと審判の日には、私たちが何を読んだかよりも、何を行ったかを尋ねられるであろう。また、どんなうまく話したかではなく、どんな信仰を持って生きたかを問われるであろう。あなたが知っていたあの学者、あの先生たちは、生きていたときは学識をうたわれていたが、今はどこにいるだろうか。彼らの地位には、他の人がすわり、そしておそらく彼らのことを思い出すこともないだろう。生きている間には、彼らも、ひとかどの人物に思われていたが、今はもう、彼らのことを語るものさえいない。この世の栄光は、なんと早く影を消すことだろう。彼らの生活が、その学識にふさわしいものであったなら、彼らの読書も、研究も、役にたったであろう。神に奉仕することをおろそかにして、むなしい学問を追ったために、どんな多くの人々が滅びただろう。謙虚になるよりも、偉大なものになろうとして、妄想を追い、そしてふみ迷ったのだ。大きな愛を持ち、自分を小さいものだと考え、最高の名誉さえも、むなしいものだと思う人こそ、本当に偉大な人である。キリストを受けるために、地上のものをみな「土くれ」(フィリピ3・8)だと思う人こそ、本当に賢明な人である。自分の意志を捨てて、神の御旨を行う人こそ、本当の知恵者である。

4・慎重に行う

どんな言葉も、たやすく信じてはならない。また衝動に従ってはならない。むしろ慎重に、思慮深く、神の御旨を見ながら、ことを判断しなければならない。ああ、悲しいことに、私たちは実に弱いものだ、隣人についても、良いことより悪いことの方をはるかに信じるし、また話しがちである。しかし完徳を目指す人は、他人の話を容易に信じ込まない。人間がどれほど悪に傾いていて、言葉を誤りやすい弱いものであるかを、知っているからである。あわてて事を行わず、また自分の意見を頑固に押し通そうとしないのは賢明なことである。他人の言葉をなんでも信じ込まず、聞いたり、信じたりしたことを、すぐ、人の耳にもらさないことも、すぐれた知恵である。知恵もあり、良心も正しい人と、相談せよ、そして、あなた自身の意見に従うより、あなたより学問のある人に、教えてもらうように努めよ。よい生活は、神による知恵と、敬虔とを、人にさずけるものである。心から謙虚になり、神に服従すればするほど、人は万事において知恵を深め、そして落ち着いてくる。

5・聖書を読む

私たちは、聖書のなかには美しい言葉ではなく、真理を探さねばならない。聖書は、記されたその精神をもって、読まなければならない。聖書には、文章の美しさよりも、むしろ霊魂の利益を探さねばならない。飾りのない信心書も、すぐれた神秘な本を読むのと同様に、読まねばならない。作者の名前や、文学的な価値を問題にせず、ただ真理への愛に動かされて読まねばならない。誰がそれを書いたかを問題とせず、何を語っているかに心をとめよ。人間は過ぎ去る。しかし、「主の真理は、永遠に留まる」(詩編百十六の二)。神はあらゆる人を使って、あらゆる方法で、私たちに話しかける。聖書を読むにあたって、単に読み過ごしてよいところを、深く探って議論しようとするから、好奇心に妨げられる。そこから役にたつものを、受けようと思えば、単純に、へりくだり、信仰をもって読み、学者になろうと思うな。清い生活を行う人に、すすんでたずね、黙って彼らの言葉を聞き、老人たちのいましめも退けてはならない。彼らが語る言葉には、それぞれ根拠があるからである。 

6・きりのない欲望

人は、限りなく何かを望むと、すぐに心が乱される。高慢な人や、けちな人は、やすらぎを知らない。心の貧しい謙遜な人は、それに反して、平和のうちに生きている。だが自分の欲望の声を、まだ消しきれない人は、しばしば誘惑を受け、小さなことに負けてしまう。心が弱く、肉の重さに引きずられ、感覚的なことに傾きやすい人は、世俗的な執着をぬけきるのが、むずかしいものである。だから、それをぬき出ようとすると、ゆううつになり、何か反対を受けると、すぐに怒る。しかも、望んだものを手に入れると、良心の呵責にせめたてられる。その欲は、望んでいた平和を与えてくれないからである。つまり心の平和は、欲望に従うことでなく、それに抵抗することにある。肉の声に聞く人、外のことにだけ従って生きている人には、平和がなく、霊的なことに従う熱心な人にだけ、平和がある。

7・空しい自負心とうぬぼれとを避ける

この世のものに依り頼む人は、愚かである。イエス・キリストを愛するために、他人に奉仕することや、またこの世で、貧しいものだと思われることを、恥じる必要はない。自分に依り頼まず、神に依り頼もう。あなたが、できるだけのことをすれば、神はあなたの良い望みを、助けてくださる。あなたの知識も、他人の知恵も頼みにせず、むしろ、謙虚な人々を助け、うぬぼれる人々を退ける神の恵みに頼みをかけよ。財産を持ち、有力な友人を持っていても、それを誇りにするな。むしろ、すべてのものを与え、その上、ご自身を与えようと望んでおられる神だけを誇りとせよ。体格が良くても、顔が美しくても、うぬぼれてはならない。それらは、ちょっとしたわずらいのために、醜く変わってしまう。あなたに手腕があり、才能があっても、慢心してはならない。慢心すれば、あなたがもっている自然のたまものを、与えてくださった神の怒りを買うだろう。他人よりも自分の方がよいと思うな。そう思えば、人間の心の底を知る神のみ前に立つとき、誰よりも悪いものと言われるだろう。自分の善行にうぬぼれてはならない。神のさばきは、人のさばきと違うから、人のほめていることを非難されることがよくある。何かよいところを、自分がもっているなら、他人は自分よりも、すぐれたところを持っていると思おう。それはさらに謙虚になるためである。自分は誰よりも劣っていると思えば、あなたは損を受けないであろう。しかし、自分は誰かにまさっていると思うと、大いに損を受けるだろう。謙虚な人には、絶えず平和があるが、慢心する人の心は、怒りとねたみで、しばしば沸き立つものである。

8・なれ親しむな

「誰にでも心をうちあけるな」(集会8・22)、ただ、神へのおそれと、知識とを、合わせ持っている人の意見を聞くがよい。あなたよりも若い人や、かかわりのない人とつきあうことは慎め。金持ちにへつらうな。権力者の前に出たがるな。謙虚な人、単純な人、清い人、敬虔な人とつきあい、神に心をあげるために役立つことを、話し合え。どんな婦人とも、親しくするな、よい婦人のためには、差別なく神に祈れ。神とその天使たちと親しむことだけを望み、そして人に知られることを避けよ。誰にでも、愛徳をもたねばならないが、しかし慣れ親しむ必要はない。知らない人の評判を聞いて、離れている間は尊敬しているが、いざ会ってみると、不快の念をうけることがよくある。また私との付き合いが、相手にも気に入っていると思い込んでいるのに、こちらの態度がよくないので、相手の重荷になっていることもよくある。

9・従順と服従

目上に素直に従って生活し、自分の思いのままに動かないことは、非常にすぐれたことである。他人の下についていることは、自分が支配することより安全である。多くの人は、愛のためというより、やむを得ず他人に従っている。そこで、こんな人々は、服従を重荷に感じて、不平をこぼしがちである。彼らが、心から神への愛のために服従しないなら、心の自由は得られないだろう。あなたは、どこに行っても、目上への謙虚な服従のうちにしか、平和を見出せないだろう。もっともよい所を見つけようと思って、場所を変え、見事に裏切られる人が実に多い。人は自分の考えに甘えがちであり、自分と同じように考える人のほうに傾くものである。しかし神がいっしょにおられるなら、私たちは、平和を保つために、ときどき、自分の意見を捨てなければならない。すべてを完全に知りつくすほどの知恵があるものはどこにいるだろうか?だからあなたは、自分の意見にあまりこだわらず、他人の意見を喜んで聞くがよい。あなたの意見のほうがよくても、それを神のために捨てて、他人の意見に従うなら、あなたは、それだけ霊的効果を受けるであろう。他人の忠告を受けることは、他人に忠告するよりも、安全だとよく言われる。自分の意見も、他人と同じようによい場合がある。しかし道理と理由があるのに他人の意見に従わないのは、高慢と強情のしるしである。

10・無駄な言葉をさける

できるだけ、他人との騒々しい付き合いをやめよう。よい意向でしても、あまり世間の問題にたずさわるのは、心を騒がせるもとである。私たちは、すぐ、世間の虚栄に汚されて、その奴隷になりがちである。私はあれこれのとき黙っていればよかった、あの人と付き合わなければよかった、と思うことがある。良心を汚すことなしに、口を閉じることは、滅多にないのに、なぜ私たちは、こんなにも話したり交際したりするのだろうか。私たちが、こんなに喜んで話し合うのは、その付き合いによって、互いに慰めあい、日々のわずらいに疲れた心を、癒したいからである。そして私たちは、自分の好きなこと、望んでいること、またその望みにそわないことについて、好んで、話したり、考えたりするものである。しかし残念ながら、求めても無駄だった、効果がなかった、と感じることが多い。外からの慰めは、神からの内部的ななぐさめを、少なからず損なうものである。だから、時を浪費しないように、警戒して、祈らねばならなぃ。話すゆるしがでた場合や、話すほうがよい場合には、霊魂に役立つことを、話すがよい。悪い習慣と、完徳への進歩を怠ることが、私たちをおしゃべりに引き込む理由の一つである。それに引き換え、霊的なことについて、敬虔な話し合いをすることは、私たちの霊的進歩に役立つ。同じ心で、信心を行おうとする人々との付き合いに恵まれる場合は、特にそうである。 

11・平和と、完徳に進む熱心とをえる方法

私たちが、他人の言葉や行い、また自分に関わりないことに、気をつかわないなら、私たちは深い平和を知るだろう。他人の問題に関わり合い、外からの気晴らしを求め、自分のうちに心をひそめることが、ごくまれか、あるいはごく少ない人が、どうして、長く平和に生きられよう。単純な人々は、幸いである。彼らは、豊かに平和を受けるからである。どうして聖人たちは、あれほど完全になり、あれほど、観想にふけることができたのだろうか。それは、彼らが、地上的な望みを、全く抑えようと努めたからである。そうしたから、彼らは、全ての心をあげて、神に一致し、自分の内心のことに、自由にたずさわれるようになった。私たちは、自分の欲望にしばられすぎ、世俗のはかないことに、気を使いすぎる。私たちは、一つの悪にさえ、なかなか勝てない。そして、日々完徳に進もうという確たる決心がないので、いつも冷たく生ぬるい。私たちが、自分自身を全く脱ぎ捨て、内部的などんな束縛も切り捨てるなら、そのときには、神のこともいくらか理解でき、神の観想を味わうこともできるだろう。唯一の最大の妨げは、欲望と世俗的な望みから抜け切れず、聖人の完全な道に入ろうと、努力しないことである。ちょっとした障害にあうと、私たちはすぐに落胆し、人間からの慰めを求めてしまう。勇士のように戦おうと努力すれば、天から、主の助けがきっと来る。私たちの勝利を得させるために、戦いの機会を与えたお方は、その恵みに依り頼んで戦う者を、助けようと常に待ち構えておられる。私たちが、宗教上の義務を、表面だけ守って、しかもそこから利益を受けようと思うなら、その信心は長続きしないだろう。悪の根元に斧を打ちこもう、そうすれば欲望から解き放たれ、完全な心の平和を味わえよう。一年に、一つずつの悪でも断ち切れたら、すみやかに完徳の道を進むだろう。それなのに、何年もの修道生活をへた今よりも、改心した当時のほうが、まだ清くて善良だったと気づく。私たちの熱心と進歩とは、毎日増やさなければならないはずだが、かつての熱心さを、いくぶんでもまだ保っているのさえも、大したことのように思われる。自分自身に対して、始めに逆らえば、後には、どんなこともやさしく、喜ばしく行うことができる。悪い習慣を断つのは、つらいことだが、自分自身の意志に、絶えず逆らうのは、それよりさらにつらいことである。しかし、小さな困難に勝てなくて、それよりも困難なことにどうして勝てよう。あなたの欠点に、はじめから逆らい、手がつけられないようになる前に、悪い習慣を、早く除き、失くしなさい。生活で自分でよく導けば、どれほど平和があり、また人々を、どんなに喜ばせるかをあなたが知っていたら、ああ、あなたは、霊的完徳に進むために、もっともっと一心になったはずだと、私は思う。

12・患難の利益

時々、苦しみや患難にあうことは、私たちにとって良いことである。そのときになると、自分がこの世をさすらう人間であり、この世のどんなものも頼りにならないと、しみじみ反省する。時々、人から反対され、よい意向や行為が誤解され、または充分に理解されないのも、よいことである。それは、私たちを謙虚にし、虚栄心から守る役に立つからである。私たちは、人から軽蔑され、悪評を受けるとき、良心の内部的な証人として、もっと熱心に、神を求めるものだ。人は、人間から慰めを求める必要を感じないほど、強く神のうちに根を張らねばならない。善意の人は、苦しめられ、誘惑され、よこしまな考えに悩まされるとき、まず神に依り頼む必要を痛感し、神の助けなくしては、どんな善もできないのだと悟る。その時こそ、悲しみ、嘆き、いま忍びつつある不幸を思って祈る。またその時、もはや、これ以上生きながらえるのを、つらいことだと感じ(コリント後1・8)、肉体の束縛を断ち切って、キリストとともに生きるために(フィリピ1・23)死がくることを待ち望む。またその時、完全な安らぎと、充実した平和は、この世にないことを、はっきりと知るのである。 

13・誘惑に抵抗する

この世に生きている限り、私たちはいつも、患難と誘惑とに、つきまとわれるだろう。だから、ヨブ記には「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない」(7・1)と記されている。どんな人も、自分につきまとう誘惑に気をつけ、眠らずに「だれかを食い尽くそうと探し回っている」(1ペトロ5・8)悪魔の不意打ちを受けないように「祈りをもって」(1ペトロ4・7)警戒しなければならない。少しも誘惑を受けないほどの完全な清い人はいない。私たちは、誘惑を全く逃れることはできない。誘惑はわずらわしく、また厄介なものであるが、しばしば人の役に立つ。それによって、その人は、謙虚になり、清められ、教えられる。全ての聖人は、誘惑と患難とを通して完徳に達し、そして、誘惑に抵抗しなかった人々は、悪に落ちて滅びてしまった。誘惑や患難を少しも受けないほど、清い修道会もなければ、離れた場所もない。生きている限り、完全に誘惑をまぬがれることはありえない。私たちは罪のなかに生まれ、罪の源をうちに持っているからである。一つの誘惑、あるいは試練がすぎると、他のもう一つがくる。私たちは、いつも何かに苦しめられねばならない。私たちは、元の幸福を失っているからである。人々は誘惑から逃れようとするが、かえってそこに深くはまってしまう。逃げるだけで、勝てるとは限らない。勇敢に耐え忍び、心からへりくだることによって、常に敵よりも強者の位置に立つ必要がある。根元を引き抜かずに、外だけ良くなろうとすると、徳に進歩することが少なく、すぐまた、もっと強い誘惑を、前よりも激しく感じるだろう。自分の力だけに頼んで、かたくなに戦わず、神の助けにより頼み、不断の忍耐と根気とをもって、徐々に行えば、もっと容易に誘惑に勝てるだろう。誘惑にあうときは、しばしば良い人の意見を求めよ。そして、誘惑されている人につらく当たらず、むしろあなた自身がしてもらいたいような慰めを与えよ。誘惑のもとは、私たちの心の移り気なことと、神にたいする信頼の不足とにある。舵のない船が、あちこち波にもてあそばれるように、心が弱く、決心を変えやすい人は、いろいろな誘惑に悩まされる。「火は鉄を試す」(集会書・31・31)、誘惑は義人を試す。私たちは、自分の力量をよく知らないものだが、誘惑が、私たちの真価を知らせてくれる。だから、誘惑がはじまるときは、特に警戒しなければいけない。敵が心の門に入るのを許さず、敵が門をたたけば、すぐ出て行って、門の外に押し出すようにすれば、容易に敵に勝つことができる。ある詩人もこう言っている、「病気には、はじめに抵抗せよ、ぐずぐずして病気の根がはびこってしまえば、薬ではもう手遅れだ」と。禁じられていることが、頭に浮かんでから、次に想像力が働き、それから感覚が快楽を感じ、情欲となり、ついに承諾に終わる。はじめに抵抗しないと、悪い敵は、徐々にすべてを占領してしまう。抵抗を怠れば怠るほど、その人は日々弱くなり、敵はそれにつれて強くなる。ある人は、改心のはじめに、強い誘惑を感じ、またある人は、改心を成し遂げようとする間際に、誘惑に会い、またある人は、生涯にわたり、それに悩まされる。また、人間の身分と功徳をはかり、選ばれた者の救いのために、すべてを計らう神の摂理の知恵と正義とにより、なかには、ごく軽い誘惑しか感じない人々もある。だから私たちは誘惑を受けるとき、落胆してはならない。試練のときにお助けくださいと、一心に神にこい願わねばならない。聖パウロもそう教えている(1コリント10・13)。「神は誘惑と同時に、それに勝つ助力をくださる」ことは確実である。試練と誘惑のとき、心を神の御旨のまえに、へりくだらせよう。神は謙虚なものを救い、高めてくださるからである(1ペトロ5・6、詩編33・19)。完徳の道をどれほど進んだかは、誘惑と試練のときにわかる。そのとき、その人の功徳があらわれ、徳がますます光ってくる。試練にあっていないとき、熱心に信心生活をしても、それは大したことではない。しかし試練のとき、力づよく耐え忍べば、その人は大いに徳に進む望みがある。ある人は、大きな誘惑に勝ったのに、日々の小さな試練に負ける。それは、小さなことに負けるものが、大きなことに勝ったとうぬぼれないように、へりくだらせるためである。

14・邪推をさける

他人を裁かず、自分をかえりみよ。他人を裁くのは、無駄なことで、誤ることが多く、罪におちいることも多い。しかし自分自身を裁くのは、いつもためになることである。私たちは、好悪の感情によって、事を決めがちである。自愛心に目がくらんで、正しく裁く自由を失う。神が、いつも私たちの望みの唯一の対象であれば、自分の考えに他人が反対しても、それほど心を乱されることはないだろう。しかし往々、私たちを左右するものが、内に隠れていたり、外から来たりすることがある。ひそかに、意識せずに、自分のためばかりを計らって事を行っている人が多い。この人々は、事が思いのままにすすんでいる間は、平和に生きているように見える。しかし思いどおりにいかなくなると、すぐうろたえ、悲しむ。友人、同国人、修道者、信仰者の間でも、よく仲たがいが生じるのは、その感情と意見の相違のためである。長い習慣を捨てることは、なかなか難しい。まただれも、自分と違う意見を強いられることを好まない。もしあなたが、どんな人も承諾しなければならないイエス・キリストの教えよりも、あなた自身の考えと手腕とに、かたくなに重きを置くと、あなたは、ごくまれにしか、また長い年月の後しか、霊の光に照らされないだろう。神は、私たちが完全に服従し、神に対する愛のために人間的な考え方を越えることを、望んでおられる。

15・愛徳のために行う

どんなことにしろ、どんな人間的な愛のためにしろ、悪をすることは許されない。しかし、私たちの助けを待っている人のために、時には寛容な心をもって、善業を中止することもあれば、また、それ以上の善業に変えることもある。そのために、先の善業が失われるのではなく、よりすぐれた善業に変えられることになる。愛徳がなければ、外部的などんな善業も、役に立たないが、愛徳のためにすることは、どんなにとるに足らないことも、大いに効果があるものとなる。神は、行為そのものよりも、意向のいかんを重視される。多くを愛する人の行いは、豊かに実る。良く行う人は、多くを行う人である。自分のためよりも、団体に奉仕する人は、良く行う人である。また、何かをする場合、愛徳から出ているように見えても、邪欲から出ている場合がしばしばある。自分の性質、自分の意志、報酬または安楽への執着が、人間の行為に入り込んでいないことは、滅多にないものである。ところが、完全な愛徳の人は、どんな場合にも、自分自身のことを求めず、あらゆる場合に、神の光栄が現れることだけを望んでいる。その人は、だれも妬もうとしない。彼は、自分一人の楽しみを求めない。むしろ、どんな楽しみよりも、神において幸せになることを望む。その人は、どんな善も人間に帰せず、すべてを神に帰する。泉のように、すべては神から湧き出すものである。聖人たちは、目的を神に置いて、完全な平和を味わっている。まことの愛徳の炎を、一つでも持っている人は、地上のどんなことも、はかないと悟るだろう。

16・他人の欠点を忍ぶ

神の御旨があるまで、人は、自分と他人との欠点を忍ばねばならない。それは、あなたを試し、また寛容にするための、よい方法で、それがなければ、私たちの功徳は、大して価値はないと考えよ。またその場合には、神の助けによって、あなたが、それを快く忍べるよう、よく祈らねばならない。ある人に、再度注意しても、反省しないなら、口論するな。悪を善に変えることを知る神に、すべてを任せよ。それは、神のしもべのうちに、その御旨と光栄とが現されるためである。他人の欠点や短所を、忍耐強く忍ぶように努めよ。あなたにも、他人に忍ばせねばならない多くの欠点がある。自分で自分を、思いのままにすることさえできないのに、どうして、他人をあなたの思いのままにすることが出来よう。私たちは、他人に完全であってもらいたいが、自分自身の欠点を直そうとはしない。私たちは、他人が厳しくいましめられることを望むが、しかし自分がいましめられることは望まない。他人が十分自由にふるまえることは悲しむが、しかし自分の要求が拒否されることは望まない。多くの規則によって、他人が束縛されることは望むが、しかし自分の自由が束縛されることは忍べない。それは、他人を自分と同じはかりで計ることが、いかに難しいかを証明する。皆が完徳に達したら、神への愛のために、他人を耐え忍ぶことは無くなるだろう。しかし神は、「互いに重荷を担う」(ガリテヤ6・2)ことを、私たちに習わせるために、そうお定めになった。だれ一人として、欠点のない人、重荷のない人、自分に満足している人、自分の知識が十分であると感じている人はいない。私たちは、互いに忍びあい、慰めあい、助けあい、教えあい、戒めあわねばならない。従って、人の徳は、逆境のときに一層よくわかる。徳を行う機会は、人を弱気にしない。むしろそれは、その人の人となりを現す契機となる。

17・修道生活

他人と平和に仲良く生活したいなら、自分の心を抑えることを習わねばならない。修道院や、修道会のなかで、不平もなく、死ぬまで忠実に生活することは、決して小さいことではない。そこでよい生活をおくり、やすらかに、最後の目を閉じる人は幸せである。もしあなたが修道院で、しなければならないことを果たし、徳の進歩を目指したいと思うなら、自分はこのなかに亡命した旅人であると考えよ。あなたが、まことの修道生活をしたいなら、キリストへの愛のために、愚かな者にならねばならない。修道生活と剃髪とは、大して役に立たない。まことの修道者を作るのは生活を根本的に改めることと、邪欲を抑えることである。そのなかで、神と自分の救い以外の何物かを求めようとすれば、患難と苦しみ以外の何物も、見出せないだろう。また、皆の人のしんがりにつき、皆に服従しようと努めない人は、長く平和に生活することは出来ないだろう。あなたが、修道生活に入ったのは、命令するためではなく、奉仕するためである。あなたは、怠けて、おしゃべりをするためにではなく、苦しみ、そして働くために、召されたのだ。そこでは、かまの中の黄金(集会書27・6)のように、人間が試される。神への愛のために、心の底からへりくだろう、と望まない人以外は、だれ一人、そこで、生活し続けることが出来ない。

18・教父たちの模範

修道生活の完徳を輝かした教父たちの模範を考えよ。それに引き換え、私たちのすることが、どんなに小さな、無に等しい程のものであるかを思え。彼らに比較すると、私たちは何者だろう。聖人たちとキリストの友人たちは、飢えと渇き、寒さとうす着、働きと労苦、徹夜と断食、祈りと黙想、迫害と侮辱のうちで、主に仕えた。使徒、殉教者、諸聖者、童貞者、またキリストのあとをふんだ人々は、どれほどの患難を忍んだことだろう。彼らは、霊魂を永遠に保とうとして、この世において、それを憎んだ。教父たちは、砂漠において、どれほど、厳しい犠牲の生活を送っただろう。どれほど長い誘惑に耐え、悪魔に悩まされ、どれほど、熱心な不断の祈りを神に捧げたことだろう。厳しい断食を行い、霊的な完徳にたいして、どれほどの熱意をもっていたことだろう。邪欲を抑えるために、はげしく戦い、神の御前に、清く正しい意向を持っていた。昼は働き、夜は長い祈りのうちに過ごし、働いているときも、内的な祈りを決してやめなかった。彼らは、時間を有効に使った。神と過ごす時間は、どれほどあっても短いと思い、観想の甘美さを味わって、身体を養う必要さえ忘れた。彼らは、財産、地位、名誉、友人、親戚などを捨て、世間のことがらは、一切望まず、せいぜい、生活に必要なものだけをとり、必要なためとはいえ、体のことも考えねばならないことを嘆いた。彼らは、地上のものには貧しかったが、しかし神の恵みと徳に富んでいた。物質生活はいつも欠乏していたが、内部では神の慰めと恵みとで養われていた。世間からは遠い存在であったが、しかし神には近く、神の親しい友であった。自分を無価値なものと考え、自分はこの世では卑しい人間だと思っていたが、しかし神の御前には、愛された尊いものだった。彼らは、まことの謙遜によって、単純に服従の生活をし、愛と忍耐との道を歩んだ。そのため、日々徳に前進し、神の御前に大きな功徳を積むのだった。彼らは、全ての修道者の模範とされている。私たちは、数多い冷淡な人々のてつを踏んで、精神をゆるめるよりも、聖人たちの模範によって、完徳に励まされねばならない。修道会創立当時の修道者の熱心は、どれほどだったろう。祈る時はどれほど敬虔だっただろう。徳において、どれほど進歩を目指したことだろう。正しい規律を守り、創立者の指導に従い、彼を尊敬し、従順だった。今も残されている記録は、勇ましく戦って、世間を踏みにじった人々が、まことに完全な聖人だったことを物語っている。ところが今では、会憲を破らない人とか、自分ですすんで選んだ規律を忍耐する人が、偉大な人として数えられる有様である。ああ、私たちは何と生ぬるく、なまけものの人間だろうか、私たちは、こんなにも早く、当初の熱心を失ったのだろうか。心が疲れ、かつての熱がさめつつあるので、生きることさえ重荷に感じるのではないか。ああ、しばしば聖い人々の模範を見たあなたのうちに、徳に進もうとする望みが、消え失せることのないように。

19・よい修道者の修行

よい修道者の生活は、すべてに徳が及んでいなければならない。内部も、外部に見えるのと同じでなければならない。いやむしろ、内部の完徳のほうが、外部に見える以上に、優れたものでなければならない。私たちを見て、裁くのは神である。私たちは、どんなところにおいても、神を尊び、天使のように清く、神の御前を歩まねばならない。毎日、決心を新たにし、今日を改心の最初の日として、ふるい立たねばならない。そのためには、こう祈るとよい。「神なる主よ、よい決心と、あなたへの聖い奉仕において、私を助けてください。今日までは何一つできませんでしたが、今日からは、完徳に向けて、歩ませてください」。徳の進歩は、私たちの決心いかんにかかっている。真に完徳に進もうとする人は、不断に努めなければならない。固い決心を立てている者さえ怠りがちなのに、ごくまれに、しかも、弱い決心しか立てない者はどうだろう。決心を怠るには、いろいろの理由があるが、修行を、ほんの少し怠ってさえも、その損害を受けずにいられない。正しい人は、自分の好悪ではなく、神の恵みに基づいて、決心を立て、何事も始めるときにも、常に神に信頼する。人間は、さまざまなことを企てるが、計らうのは神である。また人がどんな道をたどるかは、その人の自由になることではない。ときに信心のため、または他人のためを思って、平常の修行を中止することがある。しかしその場合、後でそれを補うのは困難ではない。しかし倦怠とか、怠慢のために、修行をやめることがあるとそれは小さからぬ罪であり、遠からずその害を感じるだろう。できるだけ、そんなことがないように努めよう。しかし、私たちは、いくら努力しても、過失をおかしがちである。特に自分を完徳の道から遠ざける欠点について、いつも、何かはっきりした決心を立てよう。また自分の行いと考えとを、よく反省し、導かなければならない。この二つとも、私たちの霊的進歩にかかわりがある。絶えず潜心できないなら、せめて時々、少なくとも1日2度、朝と晩とに、それを行え。朝、決心をたて、夕方、良心を糾明し、言葉、行い、考えにおいて、どうであったかを調べよ。あなたはおそらく何度も、それらのことで、神と隣人とを侮辱したに違いない。悪魔の牙にたいして、勇士のように武装せよ。飲食を節せよ。そうすれば、他の邪欲を、もっと容易におさえることができよう。何もしないでいることのないようにせよ。読む、書く、祈る、黙想する、それとも皆のためになることを何か行え。しかし、体の苦行は慎重に行うべきで、誰でも、同じことをしてよいわけではない。共同でない修行は、外に見せびらかしてはならない。個人としての修行は、ひそかに行う方が安全である。共同の修行を嫌い、自分一人の修行に身を入れることは避けねばならない。むしろ、命じられた義務を忠実に果たしてから、まだ時間があるなら、自分一人の信心を行ってよい。同じ修行が、誰にでも適当とは言えない。この人にはあれ、あの人にはこれの修行が役に立つ。また季節季節によって、修行を変えるのもよい。ある修行は、祝日に、ある修行は平日に行うほうがよい。誘惑のときに必要な修行もあり、平和な、無事な時に、必要な修行もある。悲しい時にふさわしい考えもあり、主において喜んでいるときに、ふさわしい考えもある。1年の主な祝日の頃には、ある修行を新たにし、聖人の取り次ぎを、熱心にこい願わねばならない。祝日から祝日までの間には、よい決心を立て、この世を去って、永遠の祝日に行くように、心の準備をしよう。だから、特別な修行の季節には、一層努めて、霊的な準備を果し、一層敬虔に、生活しなければならない。また、私たちの労苦の報いを、主から受ける前日のように、会憲を、更に厳しく守らねばならない。その報いのときが伸ばされるなら、私たちは、まだ十分に準備ができず、定められたとき「私たちにあらわされる」(ローマ8・18)その光栄にふさわしくないのだと考えて、与えられた期間を利用して、より良く死の日に備えねばならない。福音史家ルカは言っている、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いだ。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(ルカ12・37、44)。

20・孤独と沈黙とを愛する

自分を反省するために、適当な時間を作り、神から受けた恩恵を、しばしば考えよ、新奇なことから心を離れさせよ。頭を疲れさせる問題ではなく、心を熱心にする問題をきわめよ。あなたが、無駄な会話や用もない付き合いを避け、珍しいことや、噂話を聞こうとしなければ、黙想にふける十分な時間があるだろう。偉大な聖人たちは、努めて、交際を避け、隠れて神に仕えることを喜びとしたものだった。ある知恵者がいった、「私は人と付き合うごとに、人間として損害を受けた」(セネカ、書簡7・3)。私たちもしばしば、長いおしゃべりをした後で、それを痛感する。全然話さないことは、度を過ごさずに話すことよりもやりやすい。家でひそかに生きることは、外で自分を安全に守るよりもやりやすい。そこで、霊的なことにおいて、進歩したいと望む人は、イエスの模範にならって、群衆から離れねばならない。喜んで、隠れた生活を送ろうとする人なら、外に出ても安全である。喜んで沈黙を守ろうとする人なら、話しても安全である。喜んで服従する人なら、人の上に立って、誰よりも安全である。服従をよく習った人なら、誰よりも安全に、人に命令が下せるものだ。心のなかで良心の声を聞く人以外、安心して喜べる人はいない。しかし、聖人たちの安心は、常に神への畏敬をあわせもっていた。彼らは、完徳と神の恵みとに輝いていても、なおそれ以上に、善行をし、謙遜を養う努力を忘れはしなかった。かえって悪人の安心は、傲慢と自負心から出ているもので、結局は、彼らの損害になる。自分で、よい修行者だ、敬虔な隠遁者だ、と思っていても、この世にいる間は、自分自身に安心しきれるものではない。すぐれた人だ、と評判されてた人が、自分自身を過信しすぎて、ほろびの危険にさらされることもある。だから、多くの人にとっては、自分は安全だ、と過信しないように、高ぶらないように、また外部の慰めに、慎みなくおぼれないようになるために、何の誘惑を感じないより、時々誘惑にあうほうがためになる。ああ、はかない喜びを求めず、世間のことに関わらない人があれば、彼はどんなに清い良心を保つだろう。役に立たない心配を断って、救いのこと、神のことだけを考え、全ての信頼を神にかける人があれば、彼は、どれほど平和と静かさを保つことだろう。心から、聖い痛悔を起こそうと、一心に努めなければ、誰も天の慰めを受ける価値はない。あなたが心から痛悔しようと思うなら、部屋に退いて、騒々しい世間を避けよ。詩編に「あなたは、静かな部屋のうちにあって痛悔する」(4・5)と記されている。部屋で神を思うとき、あなたは外でしばしば失うことを見出すであろう。好んで、長く住めば住むほど、部屋は楽しくなる、しかし部屋を留守にしがちだと、自然にそこを嫌悪するようになる。改心のはじめから、好んで部屋に住んだのなら、後に、そこはあなたのなつかしい友となり、最も快いなぐさめの場となるであろう。沈黙と静寂とのうちにあって、敬虔な霊魂は、徳をすすめ、聖書の奥義を学ぶ。彼は、自分を洗い清めるために、この部屋で、夜ごとに涙を流すだろう。騒々しい世間を離れれば離れるほど、創造主に親しく近づくことができる。知人、友人から離れる人に、神は、その天使をつれて、近づいてくださる。霊的な善をないがしろにして、奇跡を行うより、隠れた生活のうちに、自分の霊魂を守る方がよい。修道者としては、ごくまれにしか外出せず、人に見られることを避け、また人を見ることさえ避けることが望ましい。なぜ、持ってはならないものを見ようとするのか?「世も、世にある欲も、過ぎ去って行く」(1ヨハネ2・17)。官能の快楽にひかれて、人は外出に誘われる。しかし、その時が過ぎ去れば、重い良心と、散漫な心以外に何を受けるだろうか。楽しい外出は、悲しい帰りになることが多い。夜の楽しい歓談は、悲しい朝を迎える。官能の快楽は、甘く忍び込み、最後にはその人をかみ殺す。他のところで見たいことは、ここでも見えるではないか。天地とその全てのものを見よ、それによって、他の全てが、成り立っている。永久に存在するものを、この世のどこに見つけられよう。見て味わえば満足する、と恐らくあなたは思うだろうが、実はそうではない。たとえ一べつのうちに、全宇宙を見られても、それははかない幻影以外の何ものだろうか。目を上げて、高く神を仰ぎ、あなたの罪と、怠りとの赦しを祈れ。はかない事柄は、はかない人々に任せよ。そしてあなたは、神から命じられたことに、一心に努めよ。あなたの後ろの扉を閉めて、愛するイエスを、あなたのそばに招け。あなたの部屋のなかで、イエスとともに止まれ。他のどこにも、それほどの平和を見出せないだろう。あなたが外出せず、世間の声に耳を貸さないなら、更に清い平和を保つだろう。ときどき、新しいことを、聞きたいと思う。それだけ、心が乱されるのだということを忘れるな。

21・悔い改め

徳に進歩しようと思うなら、神への畏敬を守り、過度の自由を避け、五感を制し、むやみに狂気するな。悔い改めの心を起こせ、そうすれば熱心を見出す。悔い改めは多くの善をもたらすが、乱れた生活は、すぐその善を失わせる。人間が、流されの身であり、霊魂は様々の危険にさらされていることを思えば、私たちがこの世で、喜びに満ち溢れて生活できると思うのは間違いだ、と考えてよい。私たちの心は浅はかで、欠点を直そうと心がけていないから、霊魂を傷つけることに対して鈍感である。そして、泣かねばならないときに、おろかにも笑う。まことの自由と正しい喜びは、清い良心と神への畏敬にある。自分の心を乱す原因を遠ざけ、悔い改めに専心する人は幸いである。自分の良心を汚し、また自分を惑わすことを遠ざける人は幸いである。勇ましく戦え、習慣は他の習慣によって負かすことができる。あなたが、他人に係り合うのをやめるならば、他人もあなたに行うことに、係り合わないだろう。他人のいざこざを引き受けるな、また目上の問題に口を入れるな。何よりも、自分自身を警戒せよ、そして、あなたが愛する人に言うより以上に、自分自身を叱責せよ。他人の指示を得ないにしても、そのために悲しんではならない。むしろ、あなたの生活が、神の下僕として、敬虔な修道者として、善良さと慎みに欠けていることを心にとめよ。この世で、多くの慰め、特に感覚的な快楽を多く持たないことこそ、安全な有益なことだ。また、内的な慰めを持たないか、あるいは、めったに感じないとすると、それは自分の責任だ。それは、悔い改めの心を求めず、世俗の空しい慰めを捨てきれないからである。あなたは、神の慰めを受けるに足らず、むしろ、多くの患難を受けなければならない人間だと認めよ。完全に悔い改めたとき、人はこの世の全てを、重苦しく、苦々しく感じるようになるだろう。徳のある人は、泣き、また嘆くに足りる理由をいつも見つけている。自分を思い、隣人を思っても、この世では、患難のない人はいないことがわかる。自分を厳しく反省すればするほど、悲しみ嘆く理由を見出す。正しい苦しみと、悔い改めのもとになるものは、私たちの悪と罪である。私たちは、天のことを、ごくまれにしか眺められないほど、この世の物に束縛されている。どれほど長生きできるかを考えず、いつ死ぬかを考えれば、あなたは、もっと熱心に欠点を改めようと努めるだろう。またもし、未来の、地獄や煉獄の罰を、深く黙想すれば、今の苦労と患難とを、甘んじて耐え忍び、この世のどんな苦しみも、おそれなくなる、と私は思う。しかしそれらのことに関心を持たないから、今も、世俗の楽しみにひかれ、冷淡で、徳に進もうとしないのである。私たちのみじめな肉体が、一寸したことで不平をもらすのは、先にいった精神が欠けているからである。だから、悔い改めの心を与えてくださるように、へりくだって主に祈り、預言者と共にこう言おう、「主よ、涙にぬれたパンで私を養い、あふれる涙を私に飲ませて下さい」(詩編79・6)。

22・人生のみじめさを思う

神に向かない限り、どこにいても、どこへ行っても、あなたはみじめな者である。ことが望み通りに行かないといって、なぜあなたは悩むのか。全てが、自分の望み通りに行くと言い切れるのは誰か?私もあなたも、この世のどんな人も、そうは言えない。この世で何の患難も心配も持たない者は一人もない。そして幸福な人とはだれだろう?それは、神のために何事かを忍んでいる人に違いない。心の弱い人、または身体の弱い人は、「あの人の生活はどんなにいいだろう。どんなに富に恵まれ、どんなに偉く、どんなに高い権勢と地位とを持っていることだろう」とうらやむ。しかし、あなたの心を、天に向けよ、そうすれば、地上のこれらの善が、すべて空しい不確実なもので、不安とおそれとをもって、所有せねばならない厄介なものだと知るだろう。人の幸福は、地上のものを豊かに持つことにあるのではない。適当にあれば充分である。この世に生きるのは、本当にみじめなことである。精神の道に、進もうと思えば思うほど、現在の生活を重苦しいものに感じる。それは、堕落した人生の欠点を痛切に感じ、それがはっきりと見えるようになるからである。食べること、起きること、寝ること、休むこと、働くこと、身体の必要に気を遣うことは、それらから解放され、すべての罪を逃れようとする、敬虔な人にとって、どんなにつらい悲しいことだろう。実に、内的に生きる人は、この世における身体上の配慮を、わずらわしく思う。そこで、預言者は、そこから解放されたいと切に祈って「主よ、身体上の配慮から、私を解放してください」といった(詩編25・17)。しかし、自分のこの惨めさに気づかない人は、哀れである。この惨めなはかない生活に、執着している人は一層哀れである。なかには、働きながら、あるいは、施しをうけながら、かろうじて生きられるものしか持っていないのに、この世に、いつまでも生きられるなら、神の国のことなど、思っても見ないほど、現世の生活に執着している人がいる。地上の快楽にひたりきって、物質的なことだけしか味わえないとは、なんと愚かな信仰のない人々だろう。この哀れな人々は、自分たちの愛したものが、どんなにつまらないものであったかを、痛い損害を受けてから、最後に思い知るだろう。しかし、神の聖人たちや、キリストの真実な友人たちは、肉を喜ばせるものや、この世で栄えるものを求めず、そのすべての信頼と希望とを、永遠の善に置いている。見えるものを愛して、低いものに引きずられないように、彼らの望みは、高い、不朽の、見えないものに向かっていた。兄弟よ、信頼して、霊的な道にすすめ、その機会と時とは、まだある。なぜあなたは、よい決心をのばすのか。立ってすぐ実行し、そして、「行うときは今だ、闘うのは今だ、自分の生活を改めるのは今だ」と言え。あなたが悲しむとき、患難に会うとき、そのときこそ、功徳を積むときである。あなたは、慰めに達するまでに、火と水とをくぐらねばならない(詩編65・12)。自分自身を厳しく扱わないなら、どんな欠点にも、勝てるはずがない。私たちは、この弱い肉体を持っている限り、罪をまぬがれず、また倦怠と苦痛とを感じないわけにはいかない。私たちは喜んですべての惨めさを脱ぎ去りたい。しかも原罪のために、清さを失い、同時に、真の幸福を失った私たちである。だから、悪の時代が過ぎ去って、「死ぬべきものが、不滅のうちによみがえるまで」(コリント後5・4)忍耐を保ち、神の憐れみを待たねばならない。常に悪に傾きがちな人間とは、何ともろいものだろう。今日、あなたは罪を告白し、明日また同じ罪を繰り返す。今あなたは、何かを避けようと決心する。しかし暫くすると、何の決心もしなかったように行動する。実に、私たちは、これほど弱く、これほど気が変わりやすいのだから、自分をさげすみ、何一つ自分にとりえがないと思うのが当たり前である。また神の恵みによって、やっと得たものを、怠りのために、一瞬にして失ってしまうこともある。朝のうちから、もうこれほど冷淡になっているなら、生涯の日暮れになってどうだろう。良心の平和と安全さとを、もう勝ち得たように、今から、休息を取ろうとする者は、禍なことだ。私たちの行為には、まだ聖徳の印さえ現れていないのだ。実際は、よい修行者のような聖徳を身につけることについて、将来、自分の欠点を改め、霊的により高くすすもう、という希望をもって、まだまだ教えてもらうことは多い。

23・死を黙想する

間もなく、あなたは死ぬだろう。だから、自分が、死に対して、どんな備えをしているかを考えよ。人は今日生きていても、明日はもう姿を消す。人の目の前から一旦姿を消せば、すぐさま忘れられてしまう。現在のことだけに心を向け、未来のことを、考えようとしない人間の心とは何とおろかで浅はかなものだろう。あなたは、行いと思いとにおいて、今日死ぬ人のように、行動しなければならない。清い良心を持っているなら、死は、それほど恐ろしいものではない。死を逃れようとするより、罪を避けようとする方が正しい。今日、死の備えができていないなら、どうして明日できよう。明日は、確かではない。その明日が来るかどうかが、どうして判るのか?自分の欠点を、これほどわずかしか改めようとしない私たちが、長生きして何の利益になろう。長寿は、私たちをより善くするものとは限らず、しばしば罪を増やすだけである。たとえ一日でも、この世で、善く生きられたら!人は改心してからの年数を数えるが、しかし、改善の結果は、はなはだ少ない。死が恐ろしいものなら、長生きすることは、更に危険なことだろう。自分の死の瞬間を、いつも心におき、毎日死の備えをする人は幸せである。いつか、誰かが死ぬのを見たら、あなたもそれと同じ道を歩かねばならないのだと考えよ。朝が明ければ、夕べは来ないと考えよ。夕べになれば、あくる朝があると思うな。いつも備えを忘れるな。死がいつ来ても、備えができているように生活せよ。多くの人は、不意の死に会う。「人の子は思わぬ時に来る」からである(マタイ22・44、ルカ12・40)。この最後のときが来れば、あなたは過去の生活について、今までと異なる考えを持つようになり、不熱心で、なおざりであったことを悔やむだろう。死のときに、かくありたいと思うように、生きている間に努めるのは、何と幸せな賢明な人だろう。全く世俗を軽蔑すること、徳に進もうと熱心にのぞむこと、規則を愛すること、苦行すること、服従すること、自分を捨てること、そして、キリストへの愛のためにあらゆる患難を忍ぶことは、善く死ねるという確信の根拠である。健康である間は、善いことがたくさんできるが、病気になって何ができるかはわからない。病気のとき、善に進むものは意外に少ない。各地の巡礼をして聖徳に達するものが少ないのと同様に。友人や親せきを頼りにするな。またあなたの救霊に関することを後回しにするな。あなたが思うより早く、人はあなたのことを忘れてしまうからだ。死後、他人が祈ってくれるのを頼みにするよりも、間に合うあいだに、今、自分で備え、善業を、あらかじめ天に送っておくがよい。あなたが今、自分のために備えをしておかないなら、将来、だれが、あなたの救いを心がけてくれようか。大事な時は今だ。救いの日は今だ。適当なときは今だ(コリント後6・2)。しかし悲しいことに、あなたは、永遠の生命を確保する功徳を得るために、この今を、よりよく利用しようとしない。自分を改めるために、一日でも、一時でも、欲しいと思う日が来るだろう。そのときが、あるかどうか分からないのに。ああ、愛する兄弟よ、もしあなたが、いつも死を念頭において生きるなら、どれほどの危険、どれほどの恐怖を、まぬがれるだろう。恐怖ではなく、喜びを持って死を迎えるように努めよ。今から、この世に死ぬことを学べ、そうすれば死のとき、あなたはキリストと共に生きるだろう。今から全ての物を軽蔑することを学べ、そうすれば、そのとき、自由にキリストに近寄れるだろう。今から苦行して、あなたの肉体を抑えることを学べ、そうすれば、そのとき、あなたは完全な信頼を持てるだろう。愚か者よ、なぜ、長命を保てると思っているのか、一日さえも、確実ではないのに。どれほど多くの人が、この錯覚に迷わされ、思いがけないときに、この世を去って行ったことだろう。ある人は刀で刺され、ある人は溺死し、ある人は高い所から落ちて頭を割り、ある人は食事のときに息絶え、またある人は遊んでいるときに頓死した。何度もあなたは、そういう話を聞いただろう。ある人は火で、ある人は剣で、ある人はペストで、ある人は強盗の手にかかって死んだ‥‥。こうして、どんな人も、最後は死である。人の命は、影のようにすぐ消えてしまうものだ。あなたが死んだのち、誰が、あなたを思い出し、あなたのために祈ってくれるだろう?愛する兄弟よ、今のうちに善を行え、あなたは、いつ死ぬか知らず、また死んでのち、どうなるかも知らない。時のある間に、不朽の富を集めよ。あなたの救いのこと以外は、何も考えず、神についてだけ、心を配れ。神の聖人たちを尊敬し、彼らの模範にならって、天の友人を作れ、そうすれば、あなたがこの世を去る時、彼らが、あなたを永遠の幕屋に迎え入れるだろう(ルカ16・9)。この世では、自分は地上のわずらいに関わりのない旅人であり、他国人である、と考えよ。自分の心を、いつも自由にし、高きに在す神に向けよ。あなたは、まことの不滅の国をここに持っていない(ヘブライ13・14)。祈りと、日々のあこがれと涙とを神に向けよ。そうすれば、身体が死んでのちのあなたの霊魂は、めでたく主に昇るだろう。アーメン。

24・罪人の審判と罰

あなたは、最高の目的を見よ。いつの日か、あなたは、すべてを見抜くお方、贈り物でごまかせず、口実が理由にならず、ただ正義に従って裁く、厳しい審判者の前に立たねばならないと思え。ああ、惨めな愚かな罪人よ、怒っている人の前でさえ震えるあなたは、あなたの全てを見抜いている神の御前に出て、何と答えるのか?なぜ、審判の日に備えようとしないのか?その日にはだれ一人として、他人からの庇護も保護も受けられない。人は各々、十分な荷を背負っている。今こそ、あなたの苦労には功徳がある。あなたの涙は神に受け入れられ、あなたの祈願は聞き入れられ、あなたの苦しみは償いと浄めになる。侮辱を受けて、受けた侮辱よりも、相手の悪事のために悲しみ、自分に反対する人々のために快く祈り、心からその罪をゆるし、相手の赦しを乞うに、やぶさかでない人、また、怒るよりも、むしろやさしくあわれみ、しばしば自分自身をせめ、肉体を全く霊に服させようとする忍耐を持つ人は、もはやこの世において、救いを得させる煉獄を通っている。来世の償いをするよりも、今、罪を償い、悪の根絶をするがよい。しかし、肉体にたいする、よこしまな愛のために、私たちは自分をあざむきがちである。かの火が燃やすのは、あなたの罪以外の何だろう。今、あなたが、自分自身にゆるければゆるいほど、そして自分の肉に従えば従うほど、いよいよ苦しい罰を受け、いよいよ多量の燃料を積む。人は罪を犯した五感をとくに罰せられる。怠け者は燃えるこけに刺されるだろう。美食の人は、恐ろしい飢えと渇きに苦しめられるだろう。淫行の人や快楽を追った人は、燃えるチャンと、臭い硫黄とのなかに沈められるだろう。また妬んだ人は、余りの苦しみに狂犬のようにほえたけるだろう。どんな悪にも、それぞれの罰がある。そこに行けば、高慢な人々は恥辱に覆われ、貪欲な人々は惨めな赤貧に落とされる。そこに行けば、苦しみの一刻は、この世での、つらい苦行の百年よりも苦しい。そこに行けば、滅びた人々のために、一刻の休みも慰めもない。この世では、時々、楽しい時もあり、友人の慰めを受けることもあるが。だから審判の日、聖人達とともに安全にいるように、今、あなたの罪を省み、それを痛悔せよ。そのとき聖人たちは、自分たちを苦しめ迫害した人々とは反対に、平和のうちに休むだろう(知書5・1)。そのとき、この世で、人間の裁きに、謙虚に従った人が、他の人の裁きに立つだろう。そのとき、貧しい人と謙虚な人とは、大いに安堵し、高慢な人は、どちらを向いても恐怖におののくだろう。そのときキリストのために、愚か者と軽蔑された人が、知恵者であったと知るであろう。そのとき、忍耐を持って、甘受した患難は喜びのもととなるだろう。「悪を行った口は、すべて閉じられる」(詩編106・42)。そのとき、信心深かった人は喜び、宗教に背いた人は、嘆き悲しむだろう。そのとき、苦行を行った人は、楽しく暮らした人よりも、喜び勇むだろう。そのとき粗末な服は輝き、贅沢な服は黒く濁るだろう。そのとき、貧しい住居は、壮麗な邸宅よりも賛美されるだろう。そのとき、世間の全権を握ったよりも、絶えざる忍耐のほうが役立つだろう。そのとき、世間のあらゆる狡知よりも、単純な従順の方が、はるかに称賛されるだろう。そのとき深い学問よりも、清い素直な良心のほうが、はるかに喜びをもたらす。そのとき、富を軽蔑したことが、この世のすべての宝を持つよりも価値があると知るであろう。そのとき信心深い祈りの思い出が、美味しい食事の思い出より以上に、あなたを慰めるだろう。そのとき長い饒舌よりも沈黙を守ったことが、はるかに喜びをもたらすだろう。そのとき、清い行いは、多くの雄弁よりも価値があるだろう。そのとき、厳しい生活と、つらい苦行とは、地上のどんな楽しみよりも、あなたを喜ばすだろう。だから今、小さい苦しみを忍ぶことを学べ、そうすればそのとき、さらに重い苦しみが避けられるだろう。あなたが後の世で課せられる苦しみを、まずこの世で受けよ。今、こんなわずかな苦しみを忍べない身に、どうして永遠の苦罰が忍べようか。今、わずかに不愉快なことでさえ、これほど忍べないなら、地獄の火はどうだろう。ほんとうにあなたは、この世で楽しみ、後の世でもキリストと共に幸福に生きる、という二つながらの幸せは許されないことである。あなたが、今日まで絶えず、名誉と快楽とのなかに生きたとしても、今、突然死ななければならないとすると、それらが、何の役に立つだろう。神を愛して、神に仕えること以外は、すべて空しいことである。心をあげて神を愛する人は、死も、苦しみも、審判も、地獄もおそれない。完全な愛は、神への安全な道を、霊魂の前にひらくものだ。それに反して、罪をおかして悔いない人が、死と審判とを恐れるのは当然である。神への愛が、あなたを罪から遠ざけえないとしても、少なくとも地獄を恐れて、罪を避けよう。

25・生活を熱心にあらためる

神に仕えるにあたっては、警戒を怠らず、勤勉であれ。そして、なぜ自分は修道会に入ったか、なぜ世俗を捨てたかを、しばしば考えよ。それは、全く神に生きるためであり、霊的な人となるためではなかったか。だから熱心に完徳を目指して進め、そうすれば、まもなくあなたは今までの労苦の報いを受けるだろう。そこには、もうどんな恐れも苦しみもない。あなたの労苦は、もうしばらくのことだ。その後には深い休息、いや永遠の幸福がある。あなたが、忠実に熱心に善を行い続ければ、疑いもなく神は、あなたに報いるに、忠実、寛大である。あなたは、報いに達するという確かな希望を、いつも持っていなければならない。しかし、熱心を失わず、高慢に陥らないためには、それが確実だ、と思い込まないほうがよい。恐怖と希望との間をいつも動揺していたある人が、ある日、煩悶に耐えかねて聖堂内の祭壇の前にひれ伏して祈り、心の中でこう考えた、「ああ、私が、最後まで善の道を続けられると知っていたら…」。するとすぐ心のなかに、天からの答えを聞いた、「それを知ってどうするつもりなのか。それを知っていたとしたら、こうしたい、と思うことを、今行え。そうすれば、お前の幸せな行末は確実だ」と。その人はすぐ慰められ、励まされて、神の御旨に自分をゆだね、心の不安はなくなった。その人は、もう、自分の行末がどうなるかを探ろうともせず、むしろ、すべての善業を始め、そして成し遂げるのは神で、自分は神の御旨にかなうことを一心にさがすことだと知った(ローマ12・2)。「主によりたのめ。そして善をおこなえ」と、預言者はいっている。また「この世で与えられた生活を営め、そうすれば、天の喜びにあずかる」(詩編36・3)と。霊の完徳と、心からの改心から、多くの人を遠ざけるのは、困難と、戦いの労苦を厭う心である。自分にとって、一番つらい行いにくいことに、勇ましく向かおうと努める人は、誰よりも徳の進歩が早い。人は誰でも、自分自身に打ちかって、心を抑えれば抑えるほど、徳に進み、より大きな恵みを受けるのだ。しかし、自分に勝ち、自分を抑えるとしても、皆が同じ程度の欲望を持っているわけではない。ただ、熱心な人は、多くの邪欲に悩まされていても、生活が正しくて徳に進む熱の足りない人より、完徳に向けて、力づよく進む。自分を改めるについて、特に二つのことが役立つ。堕落した人性が傾こうとする点を強く押し返して、自分にとって必要な善を、熱心に求めることである。また、あなたに気に入らない短所を、他人のうちに見つけるなら、その短所を、自分のうちに見つけ、それに勝つように、努めなければならない。自分を改めるためには、どんな機会も逃すな。だから、よい模範を聞いたり、見たりすれば、それにならうように励め。また、非難すべきことを見たなら、それを行わないように心掛け、もし、したことがあるなら、すぐ改めるように努力せよ。あなたが、他人を注視しているように、他人も、あなたに注視の目を向けている。熱心な、信心深い、品行のよい、規律正しい兄弟たちを見るのは、喜ばしいことだ。それに反して、召し出された道を反れ、規律を踏みにじって、生活している兄弟を見るのは、悲しく、見苦しいことだ。自分の召し出しの義務をないがしろにして、課せられていないことをしようとするのは、実に有害なことである。自分で定めた決心を、いつも記憶し、目をキリストの十字架に向けよ。イエス・キリストの御生活を黙想すれば、あなたは大いに恥じ入るところがあるはずだ。すでに長く神の道を知っているのに、いまだに自分自身の生活を、キリストに倣わせていないからだ。信心をこめ、注意して、主の御生活と御受難をかえりみる修道者は、自分にとって有益なことを、みな、そこに豊かに見出す。ああ、十字架上のイエスが、私たちの心に来られるなら、どれほどすみやかに、そして完全に、そこから教えを汲むことだろうか。本当に熱心な修道者は、命じられたことを、すべて快く受け入れ、遂行する。それに反して、義務を怠る冷淡な修道者は、苦しみに苦しみを重ね、八方から、悩みを与えられる。霊的な慰めを持たず、また外部の慰めを受けることも、禁じられているからだ。規律を守らない修道者は、危険のふちにのぞんでいる。安易なことだけを求める人は、いつも苦しみの生活をおくるだろう。このこともあのことも、その人は気に入らないからだ。厳しい規律のもとに、修道生活を営んでいる多くの修道者は、どうしているだろうか。外出することもめったにない、世俗を離れて、潜心のうちに生きている、粗食に甘んじ、粗末な服をつけ、一心に働き、長く祈り、しばしば、読書し、すべての規律をよく守っている。カルジオ会やシトー会、その他の修道会の修道者、修道女を見よ。彼らは、主に賛美を歌うために、毎夜おきでる。それほど多くの修道者が、神に賛美の歌を捧げているときに、あなたがその聖なる務めを怠るのは、恥ずべきことではないか。ああ、心と口とをもって、主なる神をほめたたえる以外の務めが、私たちにないものならば!食べ、飲み、寝る必要がなく、いつも神をほめたたえ、霊的なことだけを考えて、日を過ごせるならば!もしそうできたら、身体のために、心を使わねばならない今よりも、はるかに幸せだろう。そういう必要がなくなって、霊的な糧だけを求めるものならば!しかし、不幸にも、私たちがそれを味わうのは、ごく稀なことである。どんな被造物にも、慰めを求めないほど完徳に達すれば、人は、そのときはじめて、完全に神を味わい、どんなことがあっても、喜びのうちにある。そうすれば、どんな多くのものを持っていても大して喜ばず、少ししか持っていなくても、悲しまない。その人は、すべてにおいてすべてである神、つまり神においては、何物も滅びることなく、朽ちることなく、そのために、すべてのものが生き、その命令に万物が従う神の御手に、自分のすべてをゆだねている。いつもあなたの目的を考えよ。そして失った時は、二度と取りもどせないと思え。熱意と努力がなければ、いつでも徳をつめないだろう。冷淡になりはじめたら、その時から不満を知るだろう。しかし熱心に励めば、平和を見出し、神の恵みと、徳への愛のために、どんな苦労もたやすいと感じるだろう。熱心な努力の人は、どんなことにも備えている。悪と邪欲とに抵抗することは、肉体労働に汗水流すよりも、つらい仕事である。小さな欠点をさけない人は、徐々に、大きな欠点にすべり落ちる。一日を効果的に利用したなら、夕方になって満足するだろう。自分を警戒せよ、自分を励ませ、自分をせめよ、そして他人のことはどうであろうとも、自分のことを、おろそかにするな。自分に対して、厳しくあればあるほど、徳に進歩するだろう。アーメン。

2巻

1・神と霊魂の交わり

神の国はあなたたちのなかにある、と主は仰せられる(ルカ17・21)。心を神にあげよ、そうして、惨めなこの世を離れよ、そうすれば、あなたの霊魂は平安を見出すだろう。外部のことを軽蔑し、霊的なことに従うことを学べ。そうすれば、神の国があなたに下るのを見るだろう。実に神の国は、「聖霊における平和と喜び」(ローマ14・17)であり、それは、悪人たちに与えられるものではない。もしあなたが、心の中に、主にふさわしい住居を準備するなら、キリストはそこに来て、すべての慰めを、あなたに味合わせるだろう。イエスの光栄と美とは、内部からのものであり、また内部において、喜ばれるものである。神は内的な人を訪れ、やさしく話しかけ、甘美ななぐさめと、深い平和を与え、おどろくべき親しさを示される。忠実な霊魂よ、この花婿に対して、あなたの心を備えよ、そうすれば、彼は、あなたのもとに来て、住むだろう。彼は「私を愛する人は私の言葉を守る、私たちはその人のもとに行き、彼に住むだろう」(ヨハネ14・23)とおおせられた。だから、キリストに心を開き、他の誰をも入れるな。キリストを共にもてば、あなたは富をもっている、それだけで十分である。彼は、あなたのためにすべてを計らい、すべてをもたらす。そうなれば、あなたは、もはや人間により頼む必要を感じない。人間の考えは変わりやすく、またすみやかに消え去るものである。しかしキリストだけは、永遠に止まり、最後の日まで、絶えず力づよく守ってくださる。弱くてもろい人間を、余り頼みにしてはならない。あなたに有益な人であっても、それをひどく頼りにしてはならない。今日あなたの味方になっている人が、明日あなたに逆らうこともあり、その逆の場合もある。人間は、風のように変わりやすいものだ。あなたの信頼を、神に置け、そうすれば神が、あなたの唯一の愛、あなたの唯一の畏敬となるだろう。彼は、それ以上は考えられないほど、あなたのために話し、あなたの身を思ってくださる。あなたの不朽の住居は、この世にはない(ヘブライ13・14)。どこにいても、あなたは他国人であり、旅人である。キリストと親しく一致していないなら、あなたはいつも安らかさを知らないだろう。ここには、あなたに休みを与える所がないのに、なぜ、あたりを見回すのか。あなたの住居は、天にある。立ち止まらずに行き過ぎていく人の目でもって、この世のすべてを見なければならない。何もかも過ぎ去って行く、あなたも同様である。あなたは、この世の奴隷となって亡びないように、この世のことに、執着しないように気をつけよ。あなたの考えを、常に高きお方に上げ、あなたの祈りを、いつも、キリストに向けよ。もしあなたが、すぐれたことや、天上のことを、観想しえないとしても、キリストのご受難に専ら心を向け、その聖なる傷の中に、喜んで住むようにせよ。あなたが、敬虔に、キリストの傷と、尊い聖痕とに身を隠すなら、患難のときに、大きな慰めを得、他人に軽んじられても、それを心にかけず、他人の悪口を、喜んで忍べるであろう。キリストも、この世にあっては、人々に軽蔑され、苦難の最中に、知人や友人から見捨てられて、ただ一人、罵りのなかに取り残された。キリストは、苦しみと侮辱を受けようと望まれた。それなのに、あなたは、些少なことで、隣人に不満を言おうとするのか。キリストにも、反対者があり、悪口する人があった。それなのに、あなたは、皆から恩恵と友情の印を受けようとするのか。何の苦しみにも会わないなら、あなたの忍耐は、どんな報いに値するのか。反対に会うことを、すべて嫌うあなたが、どうして、キリストの友人になれよう。いつか、キリストの国に入りたいと思うなら、キリストと共に、そしてキリストのために忍耐せよ。あなたが、ただ一度でも、キリストの聖心に入って、その激しい愛の一片でも味わうことができたら、あなたは、自分の好悪や苦楽を気にかけず、むしろ、侮辱されて喜ぶだろう。イエスを愛すると、人間は自分自身を軽蔑するようになるものである。イエスと真理とを愛し、すべての執着をのがれ、真に内的な生活を送っている人は、たやすく神に向かい、精神をもって高く上り、慰めのうちに休むことができる。他人の話や批評によらず、そのものの価値によって、物事を評価する人こそ、真の知恵者であり、人間よりも神によって指導されている人である。内的な生活を知り、物事を、外部だけで判断しない人は、信心の修行のために、特別な場所と時とを探す必要を感じない。内的生活を営んでいる人は、たやすく潜心することができる。彼らは、外部のことに押し流されることはない。また、日々の仕事や、一定期間のつとめも、妨げにならない。彼らは事が起こると、いつもそれに対処できる。心がよく整い、かき乱されることがない人は、他人の珍しい行いや、けしからぬ振る舞いに、気をとめない。人は、世間の事柄に、かかわればかかわるほど、妨げられて気が散るものである。ほんとうに真直な心をもち、清められた精神の所有者なら、あなたは、すべてのことから善をくみとって、自分に役立てることができる。ところが、あなたは色々なことを厭い、色々惑わされる。それは、あなたが、まだ自分に死に切っていないからだ。世俗のことがらに対する、不純な執着ほど、人間の心をけがし、また縛るものはない。あなたが、世俗の慰めをすてるなら、天に目を上げ、しばしば心のうちに、大きな喜びを感じるだろう。

2・謙遜な服従

誰があなたの味方につき、誰があなたに反対するかをあまり重視するな。むしろあなたの行うすべてのことに、神が共にあるように注意せよ。正しい良心を保て、そうすれば、神はあなたを守ってくださる。神に守られている人には、どんな悪も害を及ぼすことがない。あなたが、黙って苦しむことを学ぶなら、必ず、神の助けを受けるだろう。神は、あなたを助けるについて、適当な時期と方法とを知っておられる。だからあなたは、神により頼まねばならない。人間を助け、人間を恥辱の中から解き放つのは、神の御手である。他人が私たちの欠点を見て、それを非難するなら、それは、私たちが謙遜を保つ上に、大いに役立つことである。自分の欠点を認めてへりくだれば、容易に、他人の怒りをなだめ、他人を満足させることができる。神は、謙遜な人を保護し、解放し、愛し、慰める。謙遜な人に心をかけ、豊かに恵みを与え、その謙遜ののち、永遠の光栄に上げて下さる。神は、謙遜な人に神秘をあらわし、やさしく彼を招き、引き寄せてくださる。謙遜な人は、試練の時にも平和のなかにある。その人は、この世ではなく、神に生きているからである。あなたは、自分が誰よりも劣っていると確信しない限り、徳に進歩したと思ってはならない。

3・平和を愛する人

まず、あなた自身のうちに、平和を保て、そうすれば、他人にも平和を分けることができる。平和な人は、大学者よりも他人のためになる。感情家は、善さえも悪に変え、また悪を信じやすい。ところが、平和を愛する人は、すべてを善に変える。心を平和に保っている人は、誰をも疑わないが、不平家で憤激しやすい人は、疑いに苦しめられる。その人は、自分も平和を知らず、また他人の平和をも乱す。またその人は、時々、言ってはならないことを言い、自分のしなければならないことをおろそかにする。彼は他人のすることに気を使うが、しかし自分の務めを怠る。だから、あなたはまず、自分の霊魂について熱心であれ、そうすれば自然と、他人のことにも熱心に注意するようになる。あなたは、自分の行いを弁護することを知っているが、他人の弁護には耳を貸さない。むしろ自分を責め、兄弟を弁護するのが正しいことである。他人に忍耐してもらいたいなら、あなたも、他人の短所を忍ばねばならない。あなたは、まことの愛徳と謙遜という点で、他の誰よりも、はるかに劣っているのだと知らなければならない。平和を愛する正しい人と仲良く生活することは、大して難しいことではない。それは、自然、皆の好むことである。誰でも、平和を喜び、自分と同じ意見の人を愛するものである。しかし、頑固なふしだらな悪人、あるいは、自分に逆らう人とともに、平和のうちに生活することは、むしろ神の恵みであり、賞賛すべきことであり、雄々しい徳である。自分のうちに平和を保ち、また、他人と共に、平和を保つ人がある。ところが、自分のうちに平和を持たず、他人の平和もかき乱す人もある。この人は、他人の重荷であり、またそれ以上、自分の重荷である。また、自分のうちに平和を保つだけでなく、他人をも、平和に導こうと努める人もある。ともあれ、この惨めな人生において、私たちは、不幸を避けることよりも、謙虚に苦しむことに、平和を見出さなければならない。よく忍耐することを知っている人は、よく平和を保つだろう。それは、自分自身に勝った人であり、世間を支配できる人、キリストの友人、天の世継ぎである。

4・心の清さと意向の正しさ

人には、世俗から離れて、高くかけ上がるために、二つの翼がある。すなわち心の清さと単純さとである。意向は単純、感情は清くあらねばならない。単純さは、人を神に近づけ、清さは神を得させ、神を悟らせる。あなたの心がふしだらでなく、あらゆる執着から、解き放たれているなら、どんな善業をするのも難しくない。あなたが、神のみ旨と、他人の利益以外、何も目的を置かず、何も求めないなら、心の自由を恵まれるだろう。あなたの心が素直であれば、どんな被造物も、あなたにとって、生命の鏡となり、知識の本となる。どんなに小さな、いやしい被造物でも、すべて、神の慈悲を現しているのだから。あなたの心が、清くて善良なら、すべてをありのままに見て、理解することができる。清い心にとっては、天にも地獄にも隠されたところはない。人は、自分の心の如何によって、外部のことを判断するものである。この世に、喜びがあるとすれば、それを味わうのは清い心の人に違いない。そしてまた、患難と煩悶とがあるとすれば、それを誰よりも強く感じるのは、良心の濁った人である。鉄を火の中に入れると、さびが消えて、灼熱するように、心をあげて神に向かう人は、倦怠を脱ぎ捨て、新しい人に生まれ変わる。熱心がさめ始めると、わずかの苦労もいとい、進んで世俗の慰めを求めるようになる。しかし、真実に自分を抑えて、神の道を勇ましく歩めば、前は、重く持て余したものを、軽いとさえ思い始めるだろう。

5・自分を反省する

私たちは、自分を信頼しすぎてはならない。私たちは、能力と分別とを失いがちである。私たちの心の光はとぼしい。しかも、今までのなおざりによって、それさえも失ってしまっている。私たちは、自分の心がいかに盲目であるかにさえ、気付かないことがある。私たちは、幾度となく悪を行い、しかも更に悪いことには、それを弁解しようとさえする。欲望に支配されているのを、熱意のためだと思い込むこともある。また、他人の小さい短所をとがめるが、自分の短所は、それよりも大きくても、見逃すことが多い。他人から受ける苦しみには、非常に敏感であるが、自分のために、他人がどんなに苦しんでいるかには、気付こうとしない。自分の行いを、正しく反省すれば、他人を、厳しく裁く理由はないと悟るだろう。霊的な人は、何よりも、まず自分の霊魂を考える。自分に注意している人は、軽々しく他人のことを話さない。他人について話さず、自分を反省しない限り、人はいつまでも霊的な敬虔な人になれない。自分のことと、神のことに、深く心を配るなら、外部の出来事には、さほど動かされないものだ。自分自身にいないとき、あなたはどこにいるだろうか。あなたが、全世界を歩き回っても、自分をおろそかにするなら、何の益があろう。まことの平和を味わい、心の調和を得ようと思うなら、あなたは、他のことを全部さしおいて、まず自分自身に注意しなければならない。あなたが、世俗のことを、自分から切り離すなら、大きな霊的利益を得る。しかし、世俗のことに気を使えば、大きな損害を受ける。神からのことでない限り、あなたはどんなものも、偉大だ、高尚だ、好ましい、快いなどと思ってはならない。被造物から受ける慰めは、どんなものもむなしいと考えよ。神を愛する霊魂は、神より劣るものを、ことごとく軽視する。神だけが永遠であり、広大無辺であり、すべてを満たすものであり、霊的慰めであり、心の真の喜びである。

6・正しい良心のよろこび

善良な人の誇りは、正しい良心のあかしである。正しい良心を保て、そうすれば喜びが尽きない。正しい良心は、いろいろな出来事を、耐え忍ぶ力を与え、不幸の中にあっても、いつも喜びを生む。それに反して、不正な良心は、いつも恐れと不安に満たされている。あなたの良心が、あなた自身をとがめないなら、あなたは快く休める。善をおこなった時以外は、満足するな。悪人は、本当の喜びを味わえず、心の平和も知らない。「悪人には平和がない」(イザヤ48・22、57・21)と主が仰せられた通りである。悪人が「われわれには不幸が起こらない、誰がわれわれに損害を加えようか」と言ったとしても、その言葉を信じてはならない。突如、神の怒りが現れ、彼らの行いはすべて無となり、その計画は、煙のように消えてしまうだろうから(詩編145・4)。患難を誇りとするのは、神を愛する霊魂にとって、困難なことではない。それは、主の十字架を誇ることだからである。人間が与え、また受ける光栄は、つかの間の物である。この世の光栄には、常に悲しみが付きまとっている。善良な人のまことの光栄は、他人の判断にあるのではなく、その人自身の良心にある。正しい人の快活は、神から出たもので、そして神にある。正しい人の喜びは、真理によるものである。永遠のまことの光栄を望む人は、この世の光栄をかえりみない。この世の光栄を求め、それを軽蔑しきっていないのは、天の光栄を、十分に愛していない証拠である。世の誉れも侮りも気にしない人は、非常に静かな心を保っている。心の清い人は、なんにでも満足して安らかに生きる。人から賞賛されても、そのために聖徳にすすむわけでなく、軽蔑されても、そのために卑しくなるわけではない。あるがままのあなたが、あなたである。そしてあなたは、神の御前に、今ある以上善良なものではない。あなたの心の中を反省すれば、あなたは、人の言うことを気にかけないだろう。人はうわべだけを見るが、神は心の底を見ておられる。人は外部の行いを見るが、神は意向を見ておられる。つねに善を行いつつ、しかもへりくだるのは、謙虚な心の証拠である。この世のどんなものからも、どんな人間からも、慰めを求めようとしないのは、清さと、心の高尚さとの証拠である。他人の賛成を求めようとしない人は、神に自分を任せきっている人である。聖パウロが言うように、自分がほめるものではなく、主がほめるものこそ、神の気に入る者である(コリント後10・18)。内的に神と一致して生き、外部のものに全く束縛されないのは、真に内的な人の状態である。

7・万事にこえてイエスを愛する 

イエスを愛して、イエスのために、自分を軽蔑することの、真の意味を理解する人は幸いである。その愛は、すべての愛を越えるものではなくてはならない。なぜならイエスは、御自分一人が万事を越えて愛されることを望んでおられるからだ。被造物への愛は、あやまりやすく変わりやすい。しかしイエスへの愛は、誠実不変なものである。はかない被造物に依り頼もうとする人は、それと共に倒れる。しかしイエスの方をとる人は、いつまでもゆるがない。皆があなたを離れ去っても、あなたから離れることなく、あなたを滅びから守る方を、自分の友として愛せよ。望む望まないにもかかわらず、いつかあなたは、すべてから決別しなければならない。生きている時にも、死ぬ時にも、いつもイエスの近くにいよ。他のすべてがなくなっても、あなたを助けうる唯一の方の真実さに、あなた自身をゆだねよ。あなたの愛するお方は、他人がその愛に割り込むのを許さず、ご自分一人が、心の中の王座に座ることを望まれる。あなたが、すべての被造物を、心の中から遠ざけるなら、イエスは喜んで、あなたの心の住居にこられる。イエス以外の人間を拠り所にすれば、それはあなたにとって、なきに等しいものであると、知るに違いない。風に揺れる葦に、より頼もうとするな。「すべての身体は草であり、その光栄は草の花のように枯れる」(ペトロ前1・24)。人の外面だけに目を止めるなら、あなたはすぐ期待を裏切られるだろう。自分の慰めと利益のために、人により頼もうとすると、結局は自分が損をしただけであったと知ることがしばしばある。しかし万事においてイエスを求めるなら、そのイエスをきっと見出すだろう。自分自身を求めるなら、自分自身を、損害と共に見出す。イエスを求めない人は、この世と、この世のすべての敵よりも以上に、自分自身に損害をおわすだろう。

8・イエスとの親しい友情

イエスが、私たちと共におられるなら、万事は好調に進み、どんなことも困難には見えない。しかしイエスに見捨てられるなら、万事は苦痛となる。イエスが私たちの心に語らない時は、どんな慰めもむなしいものである。しかしイエスが一言でも語ってくださるなら、私たちの受ける慰めは大きい。マグダラのマリアは、マルタから「先生がおいでになって、あなたを呼んでいらっしゃる」(ヨハネ11・28)といわれたとき、泣いていたのに、すぐ立ち上がったではないか。イエスが私たちを、涙の中から、心の喜びに呼び寄せるときは幸せである。ああ、イエスがいない時、あなたは何とうるおいがなく、何と冷ややかなことか。イエス以外の何かを望むとき、あなたは何と愚かで、空虚なことか。それは、この世のすべてを失うよりも、大きな損害ではなかろうか。イエスがいないなら、この世はあなたに何を与えようか?イエスなしに生きることは、忍び難い地獄であり、イエスと共に生きることは、美しい天国である。イエスがあなたと共にいるなら、どんな敵も、あなたに損害をかけない。イエスを見出す人は、尊い宝を、いや、すべての宝に勝る宝を見出す。それに反して、イエスを失う人は、非常に大きなものを、この世より大きなものを失う。イエスなしに生きる者は、この上なく貧しく、イエスと共に正しく生きる者は、大きな富を持っている。イエスと共に、親しく生きることを知るのは、無比の手腕であり、イエスを保つことを知ることは無上の知恵である。謙遜な平和の人であれ、そうすれば、イエスあなたと共におられる。敬虔な柔和な人であれ、そうすればイエスは、あなたと共にとどまられる。外部のことに、興味を持とうとすると、すぐイエスを失い、神の恵みも失う。イエスを失うなら、あなたは誰のもとに逃れ、誰を友とするのか。一人の真実の友を持たないでは、あなたは生きられない。イエスがあなたの友でなければ、あなたの生活は、あまりに悲しく、あまりに味気ない。誰かほかの人を、あなたの頼りにし、あなたの喜びとするなら、あなたは実に愚かな人である。イエスに逆らうくらいなら、全世界に逆らわれる方を取れ。つまり、あなたの愛する人々のなかでも、特にイエスは、それらよりはるかに愛する者でなければならない。イエスのために、すべての人を愛せ。しかしイエスをイエスとして愛せ。イエス・キリストだけを特に愛せ。どんな友人よりも、彼は忠実な友である。彼のために、彼において、友人も敵も愛せ。そして、その人々が彼を知り、彼を愛するように祈れ。特に、ほめられよう、愛されようとしてはならない。それは、唯一、至高の神だけの、望むことである。また、人から特に愛されようと望むな、そして、あなたの心も、人への愛に占領されるな。イエスだけが、あなたの心と、すべての正しい人々とのうちにあるように、のぞまねばならない。どんな被造物にも束縛されず、清い自由な心を持て。主がいかにやさしいか(詩編33・9)を知り、その友情を味わおうと思うなら、他のあらゆるものへの愛を捨て、清い心を、神に捧げなければならない。あなたが、この世のすべてを追い出し、神とだけ一致するには、先に神の恵みを受けて導かれねばならない。神の恵みが人間に下る時には、人はどんなこともできるが、それがなくなると、貧しく弱くなり、苦しみに動揺するままに取り残される。しかしそんなときにも、人は失望落胆してはならない。むしろ、快く神のみ旨を受け、自分の身に起こることをみな、イエス・キリストの光栄のために忍ばねばならない。冬が過ぎれば夏になり、夜が過ぎれば昼となり、嵐が過ぎれば快晴を見るからである。

9・慰めを失う

神の恵みがあるとき、人間からの慰めを捨てることはやさしい。ところが、人間からも神からも慰めを受けずに生活し、神の光栄のために、喜んで心の渇きを忍び、あらゆる点について自分を求めず、自分の功徳を考えないのは、大きな、実に大きな徳である。神に恵まれているときに、快活で、敬虔な生活をしていても、それは大したことではない。そういう恵みは、誰でも望むところである。神の恵みに運ばれれば容易に前進する。全能の神に支えられ、最高の指導者に導かれる人が、重荷を感じないのは当然のことである。私たちは、いつもなにか慰めを求める。そして自分自身を脱することは難しい。殉教者聖ラウレンツィオは、この世に勝ち、教皇に対して抱いていた愛にも勝った。この世において、自分が喜びとしていたものを、すべて犠牲にし、愛していた神の大祭司シストが、キリストへの愛のために取り去られることも、耐え忍んだ。こうして彼は、創り主を愛するために、人間への愛に勝ち、人間からの慰めよりも、神の御旨のほうを取った。あなたも、神への愛のために、慕わしい友、ある意味で、なくてはならない友さえも犠牲にすることを学ばねばならない。いつか私たちは、互いに離れねばならないことを知り、友人から捨てられても、悲嘆に打ち沈んではならない。人は、自分に全く打ちかって、愛の的を神に向けるまでには、長くつらい戦いをしなければならない。自分自身を中心にしている間は、人間からの慰めを求めがちである。しかし真実にキリストを愛して、その徳に倣おうと努める人は、人間の慰めを頼まず、感覚的な楽しみを望まず、むしろキリストのためにつらい試練と労苦とを、耐え忍ぼうとする。だから、神からの霊的な慰めが与えられるときには、感謝をもってそれを受けよう。しかしそれは、あなたの功徳のむくいではなく、ただ神の賜物であると考えよ。うぬぼれるな。喜びすぎるな。そしてむなしく自分に頼むな。かえってその恵みを受けて、ますますへりくだり、行いにおいていよいよ警戒をして、それ以上の畏れを持て。その時が過ぎ去ると、まもなく誘惑のときが来るだろうから。神からの慰めが取り去られる時にも、すぐ落胆してはならない。むしろ謙遜と忍耐とをもって、天の訪れを待たねばならない。実に神は、あなたに、それ以上の慰めを与えることができる。それは、神の道の経験者にとっては、新しいことでも珍しいことでもない。大聖人たちと、昔の預言者たちの上に、そういう移り変わりがしばしばあった。彼らの一人は、恵みを受けたときこういった。「私は豊かなときに叫んだ、主よ、いつまでもこれを失わないと」(詩編29・7)。しかしそれがなくなったとき、自分のうちに体験したことを次のように表現した。「あなたはお顔をわたしからそむけ、私は不安にみたされた」(同29・8)と。しかしそのときも、彼は失望せず、更に熱心に主に祈った、「主よ、あなたに向かって声を上げ、私の神なるあなたにこいねがおう」(同29・9)と。ついに、その祈りの効果を得たので、自分の祈りが、聞き入れられたことを証明して、「主は私の祈りを聞き入れ、私をあわれんでくださった。私を助けてくださった!」(同29・11)と叫んだ 。どのようにして助けたかといえば「あなたは、私の涙を喜びに変え、私を歓喜で満たしてくださった」(同29・12)と語っている。偉大な聖人たちの場合が、以上の通りであったとすれば、ときに熱心になり、ときに冷淡になったとしても、弱い貧しい私たちが失望してはならない。神の恵みが私たちに止まり、あるいは去っていくのは、御旨のままである。だからヨブは、「あなたは朝早く人を訪れ、その直後に試練をおくだしになる」(ヨブ7・18)といっている。神の広大な慈悲と、天の恵みとにより頼む以外、私にとって何が頼りになり、何が拠り所になるだろうか。友として善良な人々、敬虔な兄弟たち、忠実な友人を持っていても、また聖なる書物や良い哲学書を読んでいても、美しい歌や讃美歌に耳を快くなでられていても、もし私が、神の恵みを持たず、貧しい状態に、ただ一人残されていれば、それらのものも大して役に立たず、さほど興味も引かないはずだ。こういうときには、忍耐と自分自身の放棄とをもって、神の御旨によりすがる以外に方法はない。神の恵みを奪われ、熱心が冷えるのを、一時も感じなかったほどの信心あつい人、信仰の人を、私はまだ見たことがない。誘惑のときを、一時も持たなかったほどの聖徳をもち、神と一致し、神に照らされた人は、一人としてなかった。実に、神への愛のために、何事か患難に鍛えられなかった人は、尊い観想にふさわしい人ではない。むしろ誘惑は、後からくださる慰めの前兆である場合が多い。天の慰めは、誘惑を受けた人々だけに約束されたものだからである。「勝利者に生命の木の実を食べさせよう」(黙示録2・7)と主は仰せられている。神の慰めが与えられるのは、患難を耐え忍ぶ力を強めるためである。そののち誘惑がくるのは、善業を誇らないためである。悪魔は眠らない、邪欲も死んでいない、だから、戦いのために備えを怠るな、右にも左にも、休みを知らぬ敵があるのだから。

10・神の恵みに感謝する

あなたは、労苦するために生まれたのに、なぜ休息をもとめるのか。慰めを喜ぶよりも、苦しむことに備えよ。楽しく生活するよりも、十字架を担うことに備えよ。いつも霊的な歓喜と慰めとを受けるなら、世俗の人々さえも、喜んでそれを受けようとするだろう。霊的な慰めは、地上の楽しみ、物質的な快楽にまさるものである。世間の楽しみは空しいか、あるいは汚らわしいものであるが、しかし霊的な楽しみは、充実していて、汚れがない。それは徳から生まれ、清い霊魂に注がれるものである。とは言え、誰一人として、思いのままに神の慰めを味わうことは出来ない。誘惑のときはいずれ近く来るからである。神が私たちの霊魂を訪れるについて、大きな妨げになるのは、誤った自由と、自分への過信である。神が、その慰めを人に与えるのは善であり、人が、それに感謝を返さないのは悪である。私たちは、その与え主にたいして忘恩であり、その源にすべてを帰そうとしない。受けた恩に感謝する人は、新しい恵みを受ける値打ちがある。それは、おごる人から奪われ、へりくだる人に与えられる。私は、心の痛悔を取り去るような、慰めを求めたくない。また、高慢をつちかうような観想を望まない。崇高なことがことごとく聖であり、喜ばしいことがことごとく善く、望むことがことごとく清く、好むものがことごとく神に喜ばれるとは限らない。私を深くへりくだらせ、深く畏敬をつちかわせ、自分を捨てさせることに備えさせる恵みこそ、喜んで私は受けたい。神の恵みに導かれ、それを取り去られたときの苦しみをしっている人は、どんな善も、自分に帰せず、ただ自分は貧しく、何も持たない人間だと告白する。神のものは神に返せ、そしてあなたのものをあなたが持て、受けた恵みについて神に感謝し、自分のものとして罪を自分に帰せよ。そして罪を犯したために、自分は罰を受けるものだと認めよ。いつも最も低い席に自分を置け、そうすれば、最高の席が受けられる。最高の席は、つねに最も低い席があればこそ存在する。神の目にとって、最もすぐれた聖人たちは、自分で最も卑しいものだと考えた。彼らの光栄が偉大であったのと反比例して、彼らは謙遜であった。彼らは真理を持ち、天の光栄を目指し、この世の空しいほまれを望まなかった。神だけにたのみ、神によって支えられた彼らは、決して高ぶらなかった。そして受けた賜物を、すべて神のものとし、人間同士の光栄を求めず、神からの光栄だけを目指し、特に神が、自分たちとすべての聖人によって、賛美せられることだけを望んだ。彼らが目的にするのは、以上のことだけだった。どんな小さなことでも、神に感謝せよ、そうすれば、より大きな恵みを受けるに足る者となる。どんな小さい賜物も、貴重なものだと考え、取るに足らないように見えるものも、小さいとか卑しいとか考えるな。いと高きお方からくださるものが、小さいものであるはずがない。神が、苦難と患難とをあなたに与えたとしても、それを感謝して受けよ。私たちのうえに起こることは、すべて、私たちの救いを計らう御旨から出ることである。神の恵みを保とうとする人は、それを賜るとき感謝し、それを持ち去られるとき忍耐し、新たに賜るように祈り、それを失わないように、へりくだって警戒する。

11・イエスの十字架を愛する人は少ない

イエスの天の国を愛する人は多いが、その十字架を担おうとする人は少ない。慰めを望む人は多いが、苦しみを望む人は少ない。イエスと共に食卓につきたい人は多いが、イエスと共に断食する人は少ない。キリストと共に楽しむことを望むが、キリストのために、何ごとかを忍ぼうとする人は少ない。パンをさくまでイエスに従う人は多いが、受難の盃を共に飲もうとする人は少ない。多くの人は奇跡に感嘆する、しかし十字架のはずかしめまで付き従う人は少ない。多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、慰めを受けている限り彼を祝する。しかしイエスが姿を隠し、しばらくの間でも、彼らから離れ去ると、不平を言い、ひどく落胆する。しかし、イエスから受ける慰めのためではなく、イエスをイエスとして愛している人は、患難や苦しみのときにも、慰めのときと同様に、彼を賛美する。そして、イエスが、いつまでも慰めを与えなくても、彼らはいつも、感謝と賛美とを怠らない。イエスへの愛が、自分だけの利益や自愛心の混じらない純粋なものであれば、それはどれほど威力を持っていることか。いつも慰めだけ求める人は、みな、雇われ人ではなかろうか。自分の安楽と利益だけしか考えないのは、キリストよりも、自分自身を愛している証拠ではなかろうか。何の報いも求めずに、神に奉仕しようとする人は、どこにいるだろう。すべてのものから脱した霊的な人は極めて少ない。真に心の貧しい人、どんな被造物からも心を離した人を、どこに見つけられよう。もしそういう人があれば、はるかな国から来る珍奇な宝物のように値打ちがある(格言31・10)。貧しい人に、自分の財産をみな与えても、大したことではない。死ぬほどの苦行を続けても、まだ些細なことである。あらゆる学問をおさめても、まだ目的から遠い。偉大な徳と熱心な信仰を持っていても、何よりも必要な一つのことがまだ足りない。それは何か?すべてを離れ、自分を捨て、自分を全く脱し、人間的なあらゆる愛情を捨てること、これである。できるだけのことをしても、いや自分は何もしなかったと考えなければならない。他人に高く買われている自分の長所も、大したことだと思わず、私は役に立たない僕だ、と心の底から思わねばならない。真理なるイエスも、「命じられたことをすべて果たしてから、私は役に立たない僕です、といえ」(ルカ17・10)と仰せられている。そうすれば、本当に心の貧しいもの、すべてを脱ぎ捨てた者となり、預言者と共に「今や私は孤独な貧しい者となった」(詩編24・16)ということができる。自分と自分のすべてを捨てて、最もいやしい席をとる人ほど、勢力ある人、自由な人、富んだ人はいない。

12・十字架の黄金の道

「自分自身を捨て、十字架をとってイエスに従え」(マタイ16・14、ルカ9・13)というみ言葉を、人は非常に難しいことだと思っている。しかし、この人々にとって、「呪われた者よ、私から離れて永遠の火に行け」(マタイ25・41)という最後の判決を聞くのは、さらにつらいことだろう。十字架を担えと言う言葉を喜んで聞き入れて実行する人は、そのときになって、永遠の滅びの宣告を聞く恐れがない。十字架の印は、主が審判に来られるとき、天に現れる。そのとき、生きていた間に、十字架のキリストの模範にならった十字架の僕たちは、審判者キリストに、大いなる信頼をもって近づくだろう。それなのに、なぜあなたは、十字架をおそれるのか、それを通って神の国に上がるのではないか。十字架こそ、救いと、生命と、敵からの防御がある。十字架は、天の喜びの賜物、知恵の威力、心の歓喜を与える、十字架には、すべての徳が含まれている。十字架には、完全な聖徳がある。十字架によらなければ、霊魂の救いはなく、永遠の生命もない。だから、あなたの十字架をとって、イエスに従え、そうすれば、永遠の生命に至る。彼は十字架を担って、あなたに先立ち(ヨハネ19・17)、その十字架の上で、あなたのために亡くなられた。それはあなたをも、十字架をとって、その上で、死なせようと望まれたからである。あなたが、彼と共に死ぬなら、彼と共に生き、彼と共に苦しめば、また共に永遠の光栄を受けるのである。見よ、すべては、十字架を担って、その上に死ぬことにある。そして、生命と真の平和とに導く聖なる十字架の道と、日々の苦行以外道はない。行きたい道をどこにでも行け、ほしいままに探せ、だが聖い十字架の道よりも高く、それよりも安全な道は見いだせないだろう。何でもあなたの望み通りに導き整えよ、しかしあなたは、否応なしに、苦しみに会わないではいないだろう。こうしてあなたは、いつも十字架に出会う。身体の苦しみであれ、心の試練であれ、常に何かを忍ばねばならない。あるときは、神があなたから遠ざかり、あるときは、他人から苦しめられ、またしばしば自分自身の重荷を感じる。そして、その苦しみを逃れる薬、荷を軽くする慰めを見つけず、み旨のときまで、忍ばねばならない。あなたが、なんの慰めもなく、患難を忍ぶことを学び、神に全く服従し、苦しみによってさらに謙虚になることを、神は望んでおられる。キリストの苦しみに似た苦しみを、忍ばねばならなかったひと以上に、キリストの受難を理解し得るものはない。だから十字架は常に備えられていて、どこでも、あなたを待っている。あなたはどこに逃げても、それからは逃げられない。あなたはどこへ行っても、自分自身といっしょであり、どこでも、あなた自身を見出すからである。上にも下にも、外にも内にも、どこでも、十字架を見出すだろう。もしあなたが、心の平和をもって、永遠の冠を受けたいと思うなら、どこに行っても、忍耐しなければならない。あなたが喜んで十字架を担うなら、十字架があなたを担って、希望の地、すべての苦しみの終焉の地まで、あなたを導いてくれる。しかしそれは、この世にはない所である。あなたが、十字架をいやいやながら持つとすると、それは、あなたの重荷となり、さらにあなたを圧迫するように感じる。しかしそれでも投げ捨てるわけにはいかない。一つの十字架を捨てようとすれば、必ず他の十字架を、多分もっと重い十字架を担わねばならない。この世に生活したどんな人間でも避け得なかった十字架を、あなたが避け得ると思うのか。この世で十字架を担わず、患難を味合わなかった聖人があろうか。主イエス・キリストさえも、生きていた間は、一瞬たりとも、受難の苦しみを感じないわけにはいかなかった。キリストは苦しんで、そののち、死者からよみがえって、光栄に入るべきである、とイエスご自身仰せられている(ルカ24・26)。それなのに、なぜあなたは、尊い十字架というこの黄金の道以外の道を探そうとするのか。キリストのご生涯は、十字架と殉教だったのに、あなたは、休みと喜びだけを求めようとするのか。もしあなたが、苦しみを忍ぶこと以外の何かを探し求めているなら、心に銘記せよ、それは間違いである。この世のはかない生活は、まことに悲惨であって、十字架に取り囲まれたものである。人は、完徳の道をのぼればのぼるほど、重い十字架に会う。神への愛が深まれば深まるほど、流され人の悲しみは、深くなるのである。だが、これほど様々な苦しみに会っていても、慰めが全然ないというのではない。自分の十字架を忍べば、貴い実がなると私たちは知っているのだから、進んで苦しめば、どんな重荷も、主の慰めへの信頼に変わる。身体が苦しみに砕かれれば、霊魂は神の恵みによって強められる。そればかりでなく、ある人は、患難と苦痛を望むことによって、慰めを感じ、イエスの十字架に一致したいがために、患難と苦痛なしに生きたくない、とさえ思ったほどだった。しかしそれは、人間の徳によるのではなく、キリストの恵みによることである。神の恵みは、人間のもろい肉体が、本来ならば嫌悪することを、熱心の余りに抱かせるほどの、大事をなしうるものである。十字架を担う、十字架を愛する、肉体を抑えてそれに勝つ、栄誉をさける。喜んで侮辱を忍ぶ、自分を無視して、他人にも軽蔑されることを望む、逆境と損害とに耐える、この世における幸運を望まない。これらのことは、人間の好みに合うことではない。自ら反省してみれば、以上のことが、一つとして自分の力だけではできないことがわかる。しかし主により頼めば、あなたは天の力を受け、世間も肉体も支配しえる。信仰で武装し、キリストの十字架の印をおびるなら、あなたは敵の悪魔さえも、おそれないだろう。だから、キリストの忠実な下僕として、あなたは、あなたを愛するあまり十字架にかけられた主の十字架を、雄々しく担っていけ。哀れなこの人生において、多くの悲運と不幸とを耐え忍ぶ心の備えをなせ。あなたは、どこにいても、不幸が起こり、どこに逃げても、苦しみに会うのだから。それは避け難いことである。そして苦しみと患難を避けるためには、それを快く耐え忍ぶ以外に方法はない。主の友として、将来み国に入ろうと思うなら、愛を持って、主の盃を飲め。慰めについては、神に任せよ。神が御旨のままにはからうようにまかせよ。あなたは、患難を耐え忍ぶ備えをし、患難こそ最大の慰めだと考えよ。あなた一人で、あらゆる患難を背負って忍んだとしても「現世の苦しみは来世の光栄に及びもつかない」(ローマ8・18)。患難が甘美なものに思われ、苦しむことが好ましくなり、キリストへの愛のために、それが美味なものになれば、そのときは全て順調に行っている、と思ってよい、それは、この世の天国を見出したことである。しかし、苦しみを重荷と感じて、それを避けたいと思う間は、つまずきがちで、避けようとすればするほど苦しみがつきまとう。あなたが、あなたのなすべきこと、つまりキリストのために苦しみ、自分自身を殺そうとし始めるなら、すぐ愉快になり、平和を見出すだろう。あなたが、パウロと共に、第三天まで上げられたとしても、それは苦しみを逃れる保証にはならない。イエスは、「彼が私の名のためにどれほど苦しまねばならないかを彼に示そう」(使徒9・16)と仰せられた。だから、イエスを愛して、いつまでも仕えたいと思うなら、あなたに残されたことは、苦しみ以外にない。あなたは、キリストの御名のために苦しみを耐え忍ぶ者であれ。こうなれば、あなたはどれほど光栄を確保し、また神の聖人たちはどれほど歓喜し、他人はどれほど徳に励まされることだろう。どんな人も忍耐を賞揚するが、しかしすすんで苦しもうとする人は少ない。あなたがキリストのために、何事かを喜んで忍ぶのは当然である。人はこの世のために、それ以上の苦しみを忍んでいるではないか。忘れるな、あなたは今死ぬべき人として生きねばならない。人は、自分に死ねば神に生き始める。キリストを愛するために、喜んで苦しみを忍ぼうとしない限り、天のことを理解する値打ちはない。こころよくキリストのために苦しむこと以上に、神に喜ばれ、またこの世で、あなたの霊魂を益することはない。あなたが、いずれかを選ぶことができるなら、慰めに満たされることよりも、キリストのために不遇を忍ぶことのほうを取れ。そうすれば、あなたはキリストに似た者となり、聖人たちに一層一致するだろう。私たちの功徳と、徳への進歩は、心の甘美さや、慰めにあるのではなく、不幸と患難を忍ぶことにある。苦しむこと以外に、人間の救いに役立つ便利な道があったら、キリストは、きっと、言葉と模範とで、それを示されたに違いない。ところがイエスは、その弟子たちや、従いたいと望む人々に、十字架を担えと明らかにお命じになって、「私に従いたい人は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従え」(マタイ16・24、ルカ9・23)と仰せられた。要するに、すべてを研究してのち、結論は、「私たちは多くの患難をへて、神の国に入る」(使徒14・21)という以外にはない。

3巻

1・忠実な霊魂に語るキリストの親しい会話

「主なる神が私の心に何を語るかを聞こう」(詩編84・9)。自分のうちに語る主の御言葉を聞き、そのお口から、慰めを聞く霊魂は幸いである。神のささやきを聞き、この世の騒音を聞こうとしない耳は、幸いである。この世の騒音ではなく、心に教える真理を聞く耳は、まことに幸いである。外部のことに閉じ、内部のことだけに注目しようとする目は幸いである。霊魂を理解しようと努め、日々の修行によって、天の奥義を悟ろうと構える人は幸いである。神だけに交わることを喜び、世間の束縛を、すべて脱ぎ捨てる人は幸いである。反省せよ、私の心よ、あなたの内で、主なる神の語ることを聞くために、五感の扉を閉じよ。愛するお方は、仰せられる。「私はあなたの救い(詩編34・3)、あなたの平和、あなたの生命である、私に一致せよ、そうすれば、平和を見出す。過ぎ去るものをすべて投げ捨て、永遠のものだけを求めよ、この世のものは皆、誘惑だけではないか。あなたが創り主から見捨てられたら、被造物が何の役にたとう。それなら、すべて世のものを捨てて、まことの幸福を得、創り主の御心にかなう忠実なものとなるように努めよ」

2・真理は、言葉なく私たちのうちに語る

「主よ、お話しください。あなたの僕は聞いています。私はあなたの僕です。私の知恵を照らし、あなたの掟を悟らせてください。私の心を、あなたの御口に傾けさせてください。あなたの御言葉が、露のように私の心にしたたるように。その昔、イスラエルの子らは、モーゼに向かって『あなたが話してください、聞いています。主が直接お話になると、私たちは死んでしまいます』と言いました。ああ、主よ、しかし私は、そう祈りたくありません。むしろ、預言者サムエルのように、謙遜と思慕の心を持って、お願いいたします。主よ、お話しください、あなたの僕は聞いています、と。モーゼやその他の預言者の言葉ではなく、すべての預言者に、霊感を与えて照らしてくださる主なる神よ、私にお話しください。あなたは、預言者によらずとも、私にすべてを教えてくださいます。しかし、預言者は、あなたなしには、何事もできないのです。預言者の言葉は、ひびき渡っても心をひきつけません。美しく語りますが、あなたが沈黙しておられるなら、人の心を燃えたたせません。彼らは文字を伝えますが、その意味を悟らせるのは、あなたです。彼らは、奥義を告げますが、あなたは、そこに秘められた真理を示してくださいます。彼らは、あなたの掟を告げますが、その掟を守るように、助けてくださるのはあなたです。彼らは、道を示しますが、それを歩み続ける力をくださるのは、あなたです。彼らは、外部に働きかけますが、あなたは、心を照らして教えてくださいます。彼らは、外に水を注ぎますが、あなたは成長させてくださいます。彼らは言葉を叫びますが、それを理解させるのは、あなたです。では、永遠の真理の主よ、私の神よ、モーゼではなく、あなたがお話しください。私は、救いの実を結ばずに、死にたくありません。私が、外部の言葉だけで教えを受け、内で燃え立たなかったら、きっとそうなるでしょう。言葉を聞いて実行せず、知っていながら愛さず、信じて守らなかったら、審判を受けるでしょう。主よ、お話しください。あなたの僕は聞いています。あなたは『永遠の生命のことば』をお語りになります。私の心を慰め、私の生涯を改めさせ、永遠にあなたを讃えさせるために、主よ、お話しください」。

3・神の御言葉は、謙虚に聞かねばならない、しかしそれを重んじる人は少ない

「子よ、私の言葉を聞け、あらゆる哲学者、知恵者にまさる、甘美な言葉である。私の言葉は霊と生命である(ヨハネ6・64)。それは、人知では計れず、空しいうぬぼれのもとにはならず、ただ沈黙のうちに、深い謙遜と大きな愛をもって、聞かねばならないものである」。私はいった、「主よ、掟について、あなたから、照らされ、教えられる者は幸せです。彼には、苦しみの日を和らげ、この世でも、慰めをお与えになるのですから」(詩編93・23)と。主は仰せられる、「私ははじめから預言者に教え、今も絶えず、すべての人に語っている。しかし、私の声に耳を閉じ、耳を貸そうとしない人が多い。人は、神よりも、むしろこの世のことに耳を貸す。神の御旨に従うよるも、肉に傾き、それに従おうとする。世間はわずかな、はかない物しか約束しないのに、人々は、営々として世間に奉仕する。私は最高の永遠の善を約束する、それなのに人間の心は動じない。この世と、そのあるじに奉仕すると同様な勤勉さで、私に奉仕し、私に服従する者があろうか。『シドンよ、恥じ入れよ、と海は言う』(イザヤ23・4)。なぜそうなるかと言えば、こうである。わずかな物をもうけるために、人は長い旅もいとわない。しかし永遠の生命のためなら、一歩さえ踏み出すのをしぶる。人は、いやしい儲けを、しきりに探し求め、ときには、たった一枚の金のために、争って恥じない。空しいことや、取るに足らない約束のために、昼も夜も、労苦に甘んじる。ああ、しかし、遺憾ながら、かけがえのない善を得るために、比類ない報いのために、最高の名誉のために、限りない光栄のためには、わずかな骨折りさえいとう。怠惰な、不平家の下僕よ、恥じよ、世の人が、滅びの道にまっしぐらに突き進むより、そう、それよりも生ぬるく、あなたが永遠の生命に向けて、歩き続けていることを、あなたが、真理を喜びとする以上に、彼らはむなしいものに歓喜する。ともあれ、世の人々の希望は、しばしば裏切られるが、私の約束は、誰もあざむかず、私に信頼する者に、慰めを与えずに帰すことはない。私は約束したものを必ず与える、言ったことを必ず実行する、もし人が最後まで私を愛し続けるなら、私は、善人すべてにむくい、敬虔な人にむくい、厳しい試練を与える。私の言葉を肝に命じよ、そして黙想せよ。試練の時になれば、それを必要とするからである。今読んで理解できないことも、私があなたを訪れる時、理解するだろう。常に私は、選んだ者を二様に訪問する。一つは試練、一つは慰めである。そして、日々、この人々に、二つの訓戒を行う。悪をとがめること、徳をすすめること、これである。私の言葉を聞いて、それを行おうとしない者は、最後の日に、厳しく裁かれる(ヨハネ12・48)」と。

敬虔の恵みを乞う祈り  「主なる神よ、あなたは私のすべてです。しかし、あなたにあえて話しかけるこの私は、何者でしょうか?私は、あなたの下僕の中でも、最も貧しいみじめな、うじ虫にすぎません。言葉でそういう以上の、みじめな卑しい者です。主よ、私は無です。何一つ持たず、わずかなものも与えられる値打ちもない者です。あなただけが、よい、聖い、正しいお方です。あなたには何事もでき、何物も拒まず、すべてを満たすことがおできになります。ただ罪人だけが、御前から退けられます。「主よ、お忘れくださるな、あなたの慈悲を」(詩編24・6)あなたは、御業の実がみのることを、望んでおられます。恵みをもって、私を満たしてください。あなたの慈悲と恵みとの慰めがなくて、この悲しい世を、どうして私が生きられましょう。主よ、御顔をそむけないでください。訪れの時を延ばさず、慰めを取り上げないでください。そうでないと私は、「荒れた土のようになる」(詩編142・6)でしょう。主よ、あなたの御旨を行い、へりくだって正しく生きる方法を教えてください。あなただけが、知恵そのものです。あなたは、この世が創造され、私が生を受けるより先に、私のことを御存知でした」。 

4・神のみ前に、謙虚に真実に生きる

「子よ、私にならって、真理の道を歩め。単純な心で、常に私を探し求めよ。私にならって真理の道を歩むものは、悪に会うときには保護され、真理の手で、誘惑と悪人の讒言から守られる。真理が、あなたを解放する時、その時こそ、あなたは真の自由を得、人間の空しい言葉を気にかけないようになるだろう」。「主よ、あなたのお言葉は真実です。仰せの通りなりますように。あなたの真理が、私を教え、守り、救いまで導くように。真理がすべてのよこしまな愛から、私を解き放つように。そうすれば私は、あなたとともに、自由に歩めるでしょう」。真理は仰せられる、「私は、何が正しく、何が私に喜ばれるかを教えよう。あなたは、悲しみと苦味とを味わいつつ、自分がおかした罪を思い出せ。そしてあなたが行った善を思って自負するな。あなたは、今も罪をおかすことができ、さまざまな邪欲にかこまれている。あなたは常に悪を望み、すぐ堕落し、たやすく敗れ、すぐ不安を感じ、落胆する人間である。あなたには、誇れるものが一つとしてない。ただ、恥辱をもっているにすぎない。自分が思う以上に、あなたは弱いものだ」。だから、何をしても、大事をやったと思ってはならない。何事も、重大な、価値あるもの、感嘆し、賞賛すべきもの、望ましいものだと思ってはならない。何よりもまず、永遠の真理を愛し、自分の低さ卑しさをいとい、何よりも悪と罪をおそれ、さげずみ、避けよ。悪と罪とは、金銭上のどんな損害よりも嫌悪すべきものだと考えよ。ある者は、私の前を、真実な心を持って歩まず、ある種の好奇の念と厚顔で私の神秘をさぐり、神の至高の計らいを知ろうとし、しかも自分の救いを、全くおろそかにしている。だが彼らは、その高慢と好奇心とのために、退けられ、しばしば誘いと罪のとりことなるのである。神の裁きをおそれ、全能者の怒りにおののけ。いと高きお方の御業をあげつらうことなく、ただ自分の罪の深さに思いをいたし、いかに多くの罪をおかし、いかに多くの善を怠ったかを省みよ。ある人はまた、書物に、あるいは絵に、あるいは外部的儀式に、信心のすべてを行おうとする。彼らは、口で私を語るが、心にはほとんど置いていない。ところが他のある人は、知恵を照らされ、愛情を清められ、常に永遠に憧れ、地上のものに耳を傾けず、しぶしぶながら人間としての必要を満たしている。彼らは、真理の霊が、内に何を語るかを悟っている。なぜなら、真理の霊は、地上のものを軽んじ、天上のことを愛し、この世を捨てて、昼夜をとわず天に憧れよ、と教えるからである」。

5・神の愛の感嘆すべき効果

「みじめな私をかえりみてくださった私の主イエス・キリストの御父、天の御父を賛美します。ああ、あわれみの父よ、慰めの神よ(コリント後1・3)、慰めを受けるのに値しない私に、ときどき慰めをくださるあなたの慈悲に感謝いたします。御独り子と、慰め主なる聖霊と共に、あなたを世々賛美し、祝います。聖なる愛をお与えになる主なる神よ、あなたが私の心に下る時、私の内なるものは、ことごとく喜び勇みます。あなたは、私の光栄、私の心の歓喜、私の希望、私の苦しみの逃れ場です(詩編3・4、118・3、58・17)。しかし私の愛は弱く、徳は不完全で、あなたに強められ、慰められる必要があります。しばしば私を訪れ、聖い教えをたれ、私から邪欲を遠ざけ、よこしまな執着を治してください。私が、健全な心をもち、清められ、あなたを愛する者となり、不幸に強く、正しい道をあくまで歩み続けるものとなるために」。「愛は偉大なことである。それはあらゆる善の中で、最も重大なものであり、これだけが、すべての重荷を軽くし、異なるものをすべて同じ心で耐え忍ばせる。愛する人にとっては、どんな重荷も軽くなり、苦いものも美味な甘美なものとなるからである。イエスへの崇高な愛は、大きな業を行わせ、ますます完全なものを望ませる。愛は高きに憧れ、低いものに縛られようとしない。心を深く省みるのを妨げるものを、すべていとい、地上的な安楽によって束縛されたり、不都合なことに屈したりすることがないように、愛は自由であり、世間の束縛から脱したものでありたい。愛よりもやさしいもの、強いもの、高いもの、拡がるものはない。また愛よりも快いもの、豊かなもの、善いものは、天にも地にもない。愛は神から出て、神に休む以外には、どんな被造物にも休みどころを持たない。愛する者は、駆け上がり、走り、勇み、自由であり、束縛されていない。愛はすべてのためにすべてを与え、すべてにおいてすべてなる神を見いだす。愛は、すべての善の泉であり、源であり、いと高きお方のなかに休むものである。愛は賜物に顧慮せず、それよりもむしろ賜物を与えるお方に目を向ける。愛は限りを知らず、限りなく燃焼する。愛は重荷を感じず、労苦を労苦とせず、自分の力以上のことを望み、不可能を知らない、自分は何でもできる、何をしても良いと思うからである。だから何でもする備えがある。愛は、どんなことに着手しても成功するが、しかし愛のない者は、その力の弱さにすぐ失望し、何事もなしえない。愛は眠ることがない。また眠っても警戒し、疲れてもぐったりせず、義務をただ義務として行わず、脅されてもうろたえず、生きる炎、燃えるたいまつのように上昇し、妨げを貫いてのぼる。愛を持つ者なら、その声が何を語るかを悟るであろう。『私の神よ、私の愛よ、あなたはすべて私のものであり、私はすべてあなたのものですと』という霊魂の熱烈な愛は、神の耳にまで立ちあがりゆく叫びである」。「あなたを愛し、あなたへの愛にとけ入り、浸りきることが、いかに喜ばしいかを、私が内なる心の口で味わうために、私の心を広げてください。私はあまりの熱と驚きのために我を忘れるほど、この愛に抱かれたい。私は愛の歌を歌います。高く高くあなたに従います。私の心は聖い愛に喜び勇みつつ、あなたを讃えて終わりたい。自分自身よりもあなたを愛し、あなたのために自分を愛するように、私をお恵みください。あなたから輝き出る愛の掟が命じる通りに、あなたが真実に愛しておられるものを、私もまた愛しうるように」。「愛は迅速であり、真実であり、敬虔であり、快活であり、歓喜に満ちており、強力で忍耐強く、賢明・寛容で勇ましく、自分の利を求めない。人が自分自身を求め始めるとき、愛は冷え始める。愛は慎重・謙遜・剛毅・率直で、軽薄なはかないことにこだわらず、節制・貞潔で、根気があり、柔和で、五感を慎む。愛はまた、従順で、目上に服従し、自分自身は、卑しく軽蔑されるべきものだと考え、神には信心と感謝を持ち、霊的な渇きの状態にあるときも、常に神に信頼し、神に希望を置く。苦しむことなく愛に生きることは不可能なことである。愛するためにすべてを忍びつつ、その御旨に服する覚悟のないものを、愛のある人とは呼べない。愛する人は、愛する相手のために、つらいことや苦しいことを喜んで受け、どんな不幸が起こっても、そのものから離れようとしない」。

6・愛する者への試練

「子よ、あなたは、まだ深く、さとく、私を愛してはいない」。「主よ、なぜですか?」。「なぜなら、あなたは、わずかな不幸のために、着手したことを投げうち、余りに安楽を求めすぎるからである。深く愛する者は、誘惑のときにも力強く立ち、敵の悪魔のたくらみを、たやすく信じようとしない。幸運のときに私を愛するのと同様に、悲運のときにも喜んで私を迎える。賢明な愛は、愛するお方の賜よりも、それを与えるお方の愛の方に目を注ぐ。賜の価値よりも、むしろ愛に注目し、愛するお方の次に賜を置く。崇高な愛を持つ人は、受けた賜に満足せず、あらゆる賜にまさって神なる私に満足する。だから、時として、私に対し、また私の聖人たちに対して、より以上の愛を持ちたいと思いつつ、しかもその愛を感じないとしても、すべてを失ってしまったと思ってはならない。あなたが時に感じる甘美な愛は、神の恵みであり、天の国の試食とも言うべきものである。それをあまり頼みにするな。それは、来り去ったりするものである。むしろ心に起こる邪念と悪魔のたくらみとを軽蔑することこそ、徳の印であり、功徳となることである。従って、様々な奇妙な想像にも驚かず、あなたの決心と、神への正しい意向とをしっかり保て、時に脱魂におちいるかと感じ、すぐそのあとで、元の平凡さに戻るとしても、それは必ずしも幻覚ではない。それは自分の意志によるのではないから、それを望ましいと思わず、むしろそのために苦しみ、それを嫌い、遠ざけようとすれば、それはあなたにとって、損ではなく功徳である。人間の古くからの敵は、あなたの徳への望みを妨げ、信心業、つまり、聖人への崇敬、受難の敬虔な記念、罪の救霊的な回想、心をよく保とうとする努力、徳に進もうとする固い決心などから、あらゆる方法をもって、あなたを遠ざけようとする。あなたに不安と恐れの念を起こさせ、祈祷や読書から遠ざけようとして、様々な邪念を起こさせる。あなたが謙遜に告白することも、敵は気に入らず、できれば聖体を拝領させまいとする。敵はまた、あなたを落とし入れようと罠をはるが、それを信じるな、その方に目を向けるな。その邪念の責任を彼に負わせ、そして言え、けがれた霊よ、私から遠ざかれ、あわれむべきものよ、恥じ入れ、そんなことを私にささやくお前は、なんと不潔だろう。罪深い誘惑者よ、私から去れ、私のうちにはお前が入るところがない。ただ勇ましい戦士として、イエスが私のうちにおいでになる。お前は恥辱を受けるだろう。私はお前に服するくらいなら、もっと苦しみを受けて死ぬ方がましだ。口を開くな、黙れ、罠を張っても、私はもはやその手にはのらない。『主こそ、私の光、私の救いである。私にはおそれるものがない』(詩編26・1)。武装した軍隊の攻撃にあっても、私はおそれない(同26・3)。主は私を助け、私を救って下さる(同18・15)と。良い兵卒として戦え、力弱く倒れることがあっても、一層気力を奮い起こし、より多くの神の恵みが与えられることを信じ、空しい自負と高慢とを極力さけよ。そうしないと、人は過失におちいり、ほとんど癒しがたいほどの盲目になる。愚かに自分を過信する高慢な者が、滅びるのを見て、あなたは、絶えず警戒し、謙遜の戒めとせねばならない」。

7・謙遜をもって神の恵みをおおう

「子よ、信心の恵みを隠し、それにうぬぼれず、それについて多く語らず、それにあまり気を使わず、むしろ自分をあなどり、自分はそれを受ける値打ちのないものだ、と考える方が、あなたにとって有益な、安全なことである。またそれに執着してはならない。その感情は、すぐ他の感情に変わるからである。神の恵みを持っている時には、それがなかったら自分はどんなに貧しく惨めであるかを思え。慰めの恵みを受けたことによって、霊的生活に進歩したと思うな。むしろ慰めが奪われることを、甘んじて受けるときにこそ、霊的進歩がある。そのときにあたって、あなたは、熱心に祈り続け、平常行っている信心業を怠るな。できる限り、信心業につとめよ。心の渇きと不安を感じたとしても、自分の義務をおろそかにするな。多くの人は、ことが思いのままに進まないと、すぐ忍耐を失い、落胆するものである。どんな道を歩むかは、人の手中にあることではない。慰めの恵みを誰に、いつ、いかにして、与えるかは、すべて神の御旨に他ならない。ある不注意な人々は、信心の恵みを慎重に用いなかったがために、滅びてしまった。自分の弱さをかえりみずに、理性の判断よりも感情に流れ、及ばぬことをしようと試みたからである。彼は、神の御旨以上のことをしようとして、すぐ恵みを失ってしまった。この人は、鷲のように天かけて、そこに巣をつくろうとしたために、まずしく見捨てられた。それは、卑しめられ、宝を奪われ、自分の翼ではなく私の翼により頼むことを、彼に学ばせるためであった。主の道の新参者、未経験者は、賢明な人の意見に従わないと、誤りやすく、滅びにおちいりやすい。人の経験ある意見を聞こうとはせず、自分の考えに固執する人は、その考えを捨てないと、あやうい最期をとげるであろう。自分が知恵者でありながら、しかも他人の意見に謙虚に従う人は少ないものだ。高慢とむなしい自負をもって、学問の宝を積むよりは、少ないことがらでも、謙虚に貧しい知恵で理解する方がよい。あなたにとって、多く持つことが高慢の種になるなら、少なく持つほうがよい。以前の貧しさを忘れ、神の恵みを失うことを常におそれるという主への清い畏敬をも忘れ、信心の恵みを授かったときに、喜びにおぼれるのは、賢明な人のすることではない。また、苦しみや不幸のときに落胆し、私に対して、持たねばならない信頼を失うのは、徳を積んだもののすることではない。心の平和のときに、安心しすぎる者は、戦いのときになると勇気を失い、おそれおののく。あなたが、常に謙遜と慎みを心に留め、自分の心をよく制し、導くなら、危険と罪におちいることはない。霊的な熱心に恵まれる時に、神の光が奪われることがあるなら、それは、ある期間、あなたの教えとなり、私の光栄となるために、神が奪われたもので、近くまた戻るだろうと知るがよい。すべてがあなたの思いのままに、順調にゆくよりも、試練のある方が、あなたにとって有益である。人間の功徳は、どれほど幻覚を見たか、どれほどの慰めをえたか、どれほど聖書に通じているか、どれほどの地位にあるかではなく、むしろどれほど謙遜に根をはっているか、神への愛を持っているか、清い意向をもって神の光栄のために働いているか、自分を空しい者と考え、真に自分を軽蔑し、尊ばれるよりも軽んじられ卑しめられることを望むかにある」

8・神の御前に自分をいやしむ

「塵と灰に過ぎない私でありますが、あえて主に語ります(創世記18・27)。もし私がそれ以上の者だと思うなら、あなたはすぐ、私に反対し、また私の罪事態もあきらかにそれを訴えて、弁解の余地はなくなります。むしろ、私が自らいやしめ、無を認め、自負心を捨て、元来そうであるように、自分を塵にしてしまえば、神の恵みが私を助け、あなたの光が私の心に注がれ、わずかな自尊心まで、私の無の淵にしずみ、永久になくなるでしょう。あなたは、私が何者であるか、何者であったか、どうなるかを示して下さるでしょう。私は無に等しい者なのに、それに気づかないからです。もし私が、自分の力の限界内に取り残されるなら、私はさながら無であり、弱い者です。しかし、あなたが私を顧みて下さるなら、すぐ私は力づき、新しい喜びに満たされます。そうして私は、自分の重みでいつも低い方へひかれるのに、これほど早く引き上げられ、これほどやさしくあなたにいだかれたことに、驚くでしょう。それをしてくださるのは、私の功徳より早く私を支え、大きな危険から私を守り、実に数えきれない悪から、私を救い出して下さるあなたです。私は不幸にも、自分を愛して道に迷いました。しかしあなただけを求め、清い心をもって、あなたを愛することによって、私は、あなたと自分を同時に見いだし、この愛のために、より深く自分の無を悟りました。ああ、やさしいイエスよ、あなたは、私の功徳より以上に、また私が望み求めうる以上に恵みを与えてくださいます。私の神よ、あなたは祝されますように。あなたは、恵みを受ける価値のない者にも、その寛容と、限りない慈悲を恵み、忘恩の徒や、あなたから離れ去った者にも恵みをくださいます。私たちを、あなたの方に向けさせてください。私たちを、感謝を知る者、謙虚な者、信仰ある者にしてください。私たちを救い、力づけ、強めるお方は、あなただからです。

9・究極目的の神に一切を帰する

「子よ、真に幸福になろうと思うなら、私を、あなたの最高の、究極の目的にしなければならない。この意向は、自分自身と被造物とに傾きがちなあなたの愛を清めるだろう。あなたが、自分だけの満足を求めるなら、すぐ枯れ切って衰退するだろう。すべてを与えたのは私だから、すべてをまず私に帰せよ。そして一切は最高の善から出るもの、すべては源である私に帰すべものだと思え。小さいものも、偉大なものも、貧しいものも、富むものも、生きる泉の私から生きる水をくむ。進んで、自由に、私に仕える者は、豊かに恵みを受ける。しかし、私以外に光栄を求め、また何か他のものに、慰めを求める者は、まことの喜びに休まず、その心は広がらず、いろいろな妨げに会い、悲しみを見いだすだけである。だからあなたは、善を自分自身に帰してはならない。徳を人間に帰してはならない。すべては神から出るものであって、神から出るものでなければ、人間は何一つ持っていない。すべてを与えた私は、すべてが私に返されることを望む。しかも、それに対して感謝することを、おごそかに要求する。それは、空しい虚栄心を遠ざける真理である。あなたの心に、天の恵みとまことの愛徳とが入るなら、妬みや狭量や自愛心の余地はない。実に、神への愛は、すべてに勝ち、人の心を大きくさせるものである。あなたに知恵があるなら、私においてだけ喜び、私だけを依り頼みにするだろう。『神ひとりの他によいものはない』(ルカ18・19)からである。神は、すべてにおいて賛美され、祝されるべきお方である」。

10・この世をすてた者にとって、主に奉仕することはたのしい

「主よ、私はまた語ります、黙っていることができないのです。私は天においでになる私の神、私の王のお耳にこう申します『ああ、主よ、あなたの畏敬の内に生きる人々のために、備えられた喜びは、何と偉大なものでしょう!」(詩編30・20)と。あなたを愛し、全心をあげて、あなたに仕える者にとって、あなたはどういうお方でしょうか。あなたを愛する者にくださる霊的な観想の喜びは、言いつくしがたいほどのものです。あなたの愛のやさしさを、特にこうしてあなたは、私にお現しになりました。あなたは、私が存在する前に私をつくり、あなたから離れて迷っていたときに、奉仕に返らせ、あなたを愛せとお命じになりました。ああ、不断の愛の泉よ、私はなんと言えばいいのでしょうか!罪にけがされて迷っていた時に、私をかえりみてくださったあなたを、どうして忘れましょう。あなたがお示しになった慈悲は、下僕の期待に、はるかにまさるものであり、あなたが与えてくださった恵みと友情とは、下僕のすべての功徳にまさるのです。これほどの恵みに対して、私は何をお返ししましょう。すべてを捨ててこの世を離れ、修道生活に入ることは、皆に与えられることではないのです。被造物は皆、あなたに仕えるべきなのですから、私があなたに仕えることは、大したことだとは言えません。いや、あなたに仕えることを、自分で大したことだと思ってはならないのです。むしろあなたが、この貧しい、ふつつかな私を、下僕として受け入れ、愛する子の一人に加えてくださったことこそ、大したこと、驚くべきことだ、と言わねばなりません。主よ、ご覧ください。私が持っているもの、あなたに奉仕するためのものは、すべてあなたのものです。しかし、実は、私が仕えるよりも、あなたが私に仕えて下さるのです。あなたが、人間のために創られた天地は、人間に仕える備えをし、毎日あなたの命のままに動いています。しかしそれも、なお小さなことです。あなたは天使にさえも、人間に仕えよとお命じになりました。その上あなた自身が、人間に奉仕し、人間にいつかご自身を与えよう、と約束なさいました。この限りない恩恵に報いるのに、私は何をすべきでしょうか。ああ、生涯に渡って、私は日々あなたにお仕えしたい。せめて一日でも、あなたにふさわしい奉仕をしたい。まことにあなたは、すべての奉仕、すべての誉れ、永遠の賛美にふさわしい方です。あなたは真実に私の主であり、私は貧しい下僕です。私は全力を尽くして、あなたに仕えるべきであり、いつまでも、倦むことなく、あなたを祝すべきです。私はそう望み、そう欲しています。あなたの恵みによって、私の不足を補って下さい。あなたに仕え、あなたのために一切のものを軽んじることは、大きなほまれ、最高の光栄です。進んであなたへの奉仕に従う人々は、神の恵みに満たされることでしょう。あなたへの愛のために、すべての感覚的な快楽を投げ捨てる人々は、聖霊の新鮮な慰めを味わうことでしょう。また、あなたのために、せまい道を選び、この世のすべての煩いを捨てた人は、霊的な自由を獲得するでしょう。ああ、楽しく喜ばしい神への奉仕よ、これによって人間は、真に自由なものとなり、聖なるものとなります。人間を天使と等しいものとし、神によみせられるもの、悪魔のおそれるもの、信者たちの模範となるべきものとするのは、実に修道生活の聖なる生活です。ああ、したわしく望ましい奉仕よ、私たちは、これによって最高の善を持ち、永遠の喜びを受けるのです」。

11・心の願望をしらべ、またそれを抑えなければならない

「子よ、あなたは、まだよく知らない多くのことを知る必要がある」。「それは何でしょうか。主よ」。「あなたは、自分の望みを、全く私の考えに一致させ、自尊心を避け、その代わり、御旨にそおうという考えだけを養わねばならない。様々の欲にかられ、それに押し流される。しかしあなたが動かされるのは、私の光栄のためか、それとも自分の安楽のためかをよく省みよ。もしあなたの行いの目的が私にあるなら、私がどう定めようと、あなたはいつも満足するだろう。しかし、もし自分自身の利益をはかる心が潜んでいるなら、丁度それが、あなたを妨げ、不安にするのである。だから、あなたは、定めた計画に執心するな。後に後悔することがないよう、また、先には気に入っていて、最善なものとして望んだことを後に嫌うことがないようにせよ。実は、善いと思う心の動きにもすぐに従ってはならず、またその反対の場合をすぐ避けるのもいけない。よい決心と望みも、しばしば抑えなければならない。無思慮のために、知恵が迷うことなく、統一のない方針が、他人のつまずきとなることなく、他人の反対を受けて不安になり、倒れてしまうことがないように。特にまた、勇気を奮い起こして、感覚的欲望に挑戦するがよい。身体が何を望むか気を配らず、むしろどうあっても身体を霊に従わせるように努めるがよい。どんなことも喜んで受け、少ないもので満足し、粗末なもので喜び、気に入らないことに不平をならさないように、身体をおさえ、服さなければならない」。

12・忍耐の実行、感覚とのたたかい

「主なる神よ、私に忍耐が必要なことは本当です。この世では一歩ごとに反対にあうからです。私が平和を得るために一心に努力しても、生活が戦いも苦しみもないものになることはありえないのです」。「子よ、その通りである。しかしあなたは、誘惑も、逆らいもない平和を、求めてはならない。私が望むのは、さまざまな患難をくぐり、逆らいに鍛えられ、なおそこに平和を見いだしたと考えさせたいことである。患難に耐えれないで、どうして煉獄の火が耐えられよう。二つの悪のうち、小さい方を選ばねばならない。だから未来の永遠の劫火を逃れるために、現在の苦しみを、神の愛のために快く忍ぼうと努めよ。世間の人間に苦しみが少ないとか、全くないとか思っているのか。安楽な生活を送っている者の中にも、そういう人間はない」。「しかし彼らは沢山の楽しみを持っていて、思いのままに生きていますから、患難をそれほど苦にしないでしょう」と、あなたは言うだろう。「万一、望むものをことごとく持っても、あなたは、それがいつまでも続くと思うのか。この世の富むものは、煙のように消えていく(詩編36・20)、過ぎ去った歓楽はあとも残さない。そればかりでなく、彼らは、生きている時にも、苦々しさ、わずらわしさ、おそれを全く感じることなく楽しんでいたわけではない。快楽そのものが、苦しみのもととなることが多いからだ。そして、そうなるのは当然である。むやみに快楽を追えば、不安と苦しさを感じることなく、快楽を味わうことは出来ない。ああ、世の快楽はなんと短く、なんと偽りにみちたもの、なんと乱れた、なんと汚らわしいものだろう。しかし人間は、それに酔い、盲目になり、事実をさとらず、物言わぬけもののように、この朽ちるべき生の、わずかな快楽のために、霊魂の滅びを招く。しかし、子よ、あなたは『邪欲に従わず、それを心から追い捨てよ』(集会18・30)、『あなたの喜びを主に求めよ、そうすれば主は、望むものを与えてくださる』(詩編36・4)。真実に喜びを持ち、私から豊かな慰めを得ようと思うなら、世間の一切のものをさげすみ、卑しい楽しみを切り離して、祝福と豊かな慰めのあるところを仰げ。この世の人や物が与える、すべての楽しみを遠ざければ遠ざけるほど、私のうちに甘く深い慰めを見いだすだろう。しかし、何らかの悲嘆と、自分に対する辛い闘いに会わないで、はじめからそれを得ることはできない。根強い習慣が、刃向かってくる。しかしそれは、新しい習慣によって敗北する。肉体は抗議する、しかし精神の熱によって、肉体は抑えられる。古い蛇はあなたをいざない、責めさいなむ。しかし祈りによってそれを追い払える。またその上、あなたが耐え忍んだ苦しみは、蛇の入る入り口を閉める役にたつだろう」。

13・イエス・キリストの模範に倣う、謙虚な下僕の従順

「子よ、従順を逃れるのは、自分で神の恵みを取り逃すものである。自分だけの善を求めるものは、あまねく与えられる恵みさえも失う。快く目上に服従しないものは、肉体がまだ全く霊に服しきっておらず、しばしば反逆している証拠である。だから肉体を支配しようと思うなら、目上に速やかに服従することを学べ。心の中が荒らされていなければ、外の敵に容易に勝つことができる。身体と精神とを調和させていないなら、あなたにとって、自分自身よりも有害な霊魂の敵はない。あなたが、肉と血とに勝とうと思うなら、絶対に自分自身を軽蔑する必要がある。あなたが、他人の意思に従うことをためらっているのは、まだ強い自愛心があるからである。高く全能なるもの、無から万物を創造した私は、あなたのためにへりくだって人間に服従した。塵と無に過ぎないあなたが、神のために人間に服従する、それがなんだろう。私は謙遜によってあなたの高慢を滅ぼそうとして、誰よりも小さいもの、最後のものとなった。塵よ、服従することを学べ。芥よ、自分をいやしめ、皆の足元に屈することを学べ。さまざまの欲望を砕き、誰にでも完全に服従することを習え。自分自身に対しては猛烈に戦え。そして自分の中に高慢の癌がはびこるのを許すな。むしろ、全ての人に路傍の土のように踏みつけられる、小さな従順なものとなれ。空しい人間よ、なぜ嘆くのか、汚らわしい罪人よ、いくたびも神を侮り、いくたびも地獄に落ちるべきものであったのに、どうして、あなたを非難するものに抗弁しようとするのか。しかしあなたの霊魂を、私は受け入れる。だからこそ私は、いつかあなたに私の愛を知らせ、感謝を持って私の恩恵にむくいさせ、誠の従順と謙遜とのうちに生きさせ、忍耐しつつ自分自身への軽蔑を学ばせようとして、慈悲によって、あなたをしばらく打ち捨てておいた」

14・善業におごらぬために、ひそかな神の道を考える

「主よ、あなたは私に対して、雷のような裁きの御声をお聞かせになりました。その時私の骨は震え、私の霊魂はおののきました。天さえもあなたの御前にあっては清からぬものであると思い至とき、私は戦慄します。あなたが、天使たちにも悪を見出し、その罪をお許しにならないのなら、私は一体どうなるのでしょうか。星が天から落ちたのに、塵の私が何を自負しましょう。賞賛に値する業を行った人が、低く落ち、天使のパンを食べていたものが、豚の餌で満足しているのを私は見ました。ですから主よ、もしあなたが手をお引きになれば、私には何の徳もありません。あなたが支配をお辞めになれば、人の知恵は役には立ちません。あなたが御手で支えてくださらないなら、人は何の力も持っていません。あなたが保証しないなら、純潔な人も安全ではありません。あなたの見張りがなければ、私たちの警戒は役に立ちません。あなたに見捨てられれば、私たちは沈んで滅びます。しかしあなたが私たちを見守ってくだされば、直ちに生命を取り戻します。私たちは変わりやすいものですが、あなたによって固められます。すぐ冷淡になるものですが、あなたによって熱を送られるのです。ああ、私は自分をどれほど見下し、いやしまねばならないことでしょう。たとえ何か良いものを持っていても、それを無視しなければならないはずです。ああ主よ、私はどれほど深く、あなたの計り知れない裁きに服従しなければならないことでしょう。その裁きの前に、私は自分が無以外の何物でもないことを悟ります。無限のお方よ、果てしない海よ、そこにおいて私は、全て無であり、私というものを何一つとし見出せません。それなら、誇りと自負心がどこに隠れましょう。一切のむなしい自負心は、私に対するあなたの裁きの深さに、飲み込まれてしまいます。主よ、あなたにとって人間が何でしょう。粘土が焼き者師に対して何を誇れましょう(イザヤ45・9)。まことに神に服従する心の人が、どうして人のむなしい賞賛に高ぶるのでしょう。全世界でさえ、真理の神に服従した人を、高慢にすることはできません。また依り頼みを神にかけた人は、人間のどんな賞賛にも動かされません。その賞賛を与える人はいずれも無であり、その声とともに消えていきますが、神の真理は永遠に朽ちることがないのです(詩篇116の2)」。

15・望むことについて、どう行い、どう語るか

「子よ、あなたはいかなる場合にも、こう言わねばならない。『主よ、あなたの御旨なら、そうしてください。主よ、このことがあなたの光栄となるなら、御名においてそうしてください。主よ、もし私に適当であり、利益があると思し召すなら、あなたの光栄のために私にそれを用いさせてください。しかしそれが私の害となり、霊魂の救いのために役立たないことなら、私からその望みさえも退けてください』と。人間の目で良いように見えても、すべての望みが聖霊から出ているとは言えない。あることを望むのが、善意からか、悪意からか、それとも単に自尊心のためかを判断するのは困難である。最初は、善意に導かれると思っていても、最後にその誤りを悟った人が多くある。従って、心に浮かぶことは全て神への畏敬と、謙虚な心とをもって、望まなければならない。時にあきらめと信頼とをもって、全てを私にゆだね、こう言うがよい。『主よ、あなたは、私にとって何がよいことかをご存知です。御旨のままにはからってください。あなたの望まれることを、望みのまま、望む時に、私に与えてください。あなたの知恵に従って、御旨の通りに、あなたの光栄のために、私を扱ってください。私を、御旨の場所に置き、自由にあしらってください。私はあなたの手の中にあります。御旨の通りに私を使ってください。私はあなたの下僕で、万事に備えています。私は自分のためではなく、あなたのために生きたいのです。なるべく完全に、またふさわしく生きたいのです』と」。

神の御旨を果たす祈り 慈悲深いイエス、あなたの恵みをお与えください。神の恵みよ、常に私と共にあり、私の日々の労苦を助け(知書9・10)、また最後まで私を導いてください。あなたが最も好まれることを、常に私に望ませ、あなたの御旨が私の望みとなるようにしてください。そして私の意志を常に御旨に従わせ、完全に一致させてください。私の望むこと、望まないことが、必ずあなたと同じで、あなたの望まれること、望まれないことを、私にも望ませ、あるいは望ませないようにお恵みください。この世の全てに死し、あなたのために、軽んじられ無視されることを好むようにしてください。どんな望みにも勝って、あなたの中にいこい、あなたにおいて平和を見いだすようにしてください。あなたは、真の平和であり、唯一の休息です。あなたがおいでにならないと、すべては辛い不安なものになります。その平和、至高、永遠の善であるあなたにおいてのみ、私が平和と休息とを見いだしますように(詩篇4・9)。アーメン。

16・まことの慰めは神だけにある

「自分の慰めとして想像し、望むことを、私は、この世ではなく、来世に期待しています。私がたとえ、この世が与えるすべての慰めを持ち、その喜びを味わえるとしても、それが永続するものでないことは確実です。私の霊魂よ、貧しい者の慰め主であり、謙遜なものを高められる神においてのみ、充分に慰められ、ありあまる幸せを得ることができる。私の霊魂よ、しばらく待て、神の約束の実現を待て、そうなれば、天においてあらゆる豊かな善が味わえる。もし今、地上の善をむさぼるなら、永遠の天の善を失うでしょう。ただ地上のものを用いるにとどめ、その望みの的に、永遠のものだけを置くがよい。あなたは、地上のはかないものには、それが何であっても満足しえないのです。私は、そのために創られた者ではないからです。この世の全てを持っていても、私は完全に幸せになれない、全てを創造した神においてのみ私の幸せがあります。その幸せは、この世に執着する愚かな者たちが、望んでいる幸せではなく、キリストの下僕が期待するもの、天にその心を置く(フィリッピ3・20)霊的な清い心の人々が、この世においても味わうその幸せです。人間からくる慰めは、いずれも、はかなくむなしい、しかし真理の神が、心に与えて下さるのは、まことの慰めであり、幸福の泉です。敬虔なものは慰め主なるイエスに、どこに行っても付き従い、『主イエスよ、いつも、どこでも、私を守ってください』と言うでしょう。人間からくる慰めを、何一つ持たないことを望む、そのことだけが、私の唯一の慰めでありたい。もし天の慰めが奪われても、あなたによって送られる、正しい試練と御旨を、私の最高の慰めとしたいのです。あなたは、下僕に、永久に怒り続けることもなければ、永久におびやかし続けることもしないお方です」(詩篇102・9)。

17・心配を神にゆだねる

「子よ、私の望むままに、あなたを扱わせよ。あなたにとって何が役立つかを、私は知っている。あなたは人間として考える、そして、ほとんどの事について、人間的な感情にまかせがちだ」。「主よ、それは本当です。私に対するあなたのご配慮は、私が自分のためにしている全ての配慮に勝るものです。自分の心配を、あなたにお任せしないものは、大きな危険に取り囲まれています。主よ、私の意思が常に正しく、強く、あなたに一致するように、私のことをはからってください。あなたが私にしてくださること全て、ただ私の善のためです。私が闇に取り残されることをお望みだとしても、あなたは祝されますように。また私を光明で照らしてくださるとしても、あなたは祝されますように。私を慰めてくださるなら、またあなたは祝されますように。私を患難におあわせになっても、同様にあなたはいつも祝されますように」。「子よ、もしあなたが、私と共に歩もうとするなら、こういうふうに生きねばならない。あなたは喜びと同様に苦しむことに備えねばならない。また貧しく乏しくあっても、豊かに富んでいると同じ覚悟を持って、快く忍べ」。「主よ、私は、あなたへの愛のために、あなたがお望みになることを喜んで耐え忍びます。御手からくださるものなら、同じ心思って、善も悪も、甘きも苦きも、喜びも悲しみも、受ける覚悟です。そして私に起こる全てのために、あなたに感謝しましょう。私を全ての罪から守ってください。そうすれば私は死も地獄も恐れません。あなたが永久に私を見捨て、私の名を永遠の生命の書から消さない限り、私はどんな患難にも苦しみにも、そこなわれないでしょう」。

18・地上の苦しみを、キリストの模範に従って平静にたえしのぶ

「子よ、私はあなたの救いのために天から下った。私があなたのみじめさを背負ったのは、その必要があったからではなく、愛したからだった。あなたが忍耐を学び、地上の辛苦を快く甘受するように、ならせるためだった。実に私は、この世に下ってから十字架上に死ぬまで、苦しまない時はなかった。私は、この世のものをほとんど持っていなかった。私は、しばしば他人の非難を耳にした。はずかしめと侮辱とに柔和に耐えた。与えた恵みの返しとして冒涜を、天からの教えの返しとして非難を受けた」。「主よ、あなたは、御父の御旨を完全に果たし、そのご生涯にわたって、忍耐されました。それなら、惨めな罪人の私が、あなたの御旨に従って、苦しみを忍び自分の救いのために、あなたの御旨の時まで、はかないこの生命の重荷を忍ぶのは、当然のことです。誠にこの世の生活は重いものですが、しかしあなたの恵みによって、それは功徳となり、あなたのご生活に倣い、聖人たちに従うことによって、弱い私たちにとっても、それは明るく、忍びやすいものとなります。また、その上、古い律法の時代には、天の門が閉ざされており、天への道は暗かったから、その頃には、神の国を得ようと努める人は、多くありませんでした。しかし今の生活には、そのころよりも、さらに多くの慰めが与えられています。救いの国に備えられていた正しい人々にさえ、あなたが受難と死去とをもってこの世を贖うまでは、天の国に入ることが許されませんでした。主よ、私とすべての信者たちに、永遠の御国に至る、まっすぐな安全な道を教えてくださったあなたに、私はどのように感謝の意を表したら良いでしょう!あなたのご生活は、私たちが歩まねばならない道です。私たちが忍耐をすれば、永遠の栄冠であるあなたに、至ることができましょう。もしあなたが、私たちに先立って教えてくださらなかったら、誰があなたに従おうと心がけたでしょう。ああ、その優れた模範を仰がなかったら、どんなに多くの人々が、背後に遠く取り残されたことでしょう。私たちは、あなたが行ったすべての奇跡と教えとを聞いたのに、まだこれほど生ぬるいのです。とすれば、あなたに従うために、光明が与えられなかったら、果たして私はどうなっていたでしょう」。

19・侮辱を忍ぶことと、まことの忍耐

「 子よ、何を言うのか、私と聖人たちの受難を考え、不平をやめよ、あなたはまだ血を流すほど抵抗したことがない(ヘブライ12-4)。多くの困難を忍び、強い誘惑を受け、ひどく苦しめられ、様々の試練で鍛えられた人々と比べれば、今のあなたの苦しみは、ものの数ではない。他人の苦しみを考えよ。そうすれば、あなたは小さい苦しみを、容易に忍べるようになる。そしてもしそれが、あなたにとって小さい苦しみだと思えないなら、それはあなたの忍耐が足りないからだ。ともあれ、あなたの苦しみが少なくても多くても、万事を忍耐せよ。苦しみを受ける覚悟を強めれば強めるほど、知恵は深まり、功徳は大きくなり、心が鍛えられて重荷は軽くなる。『あんな人間からこんな扱いを受けるのはたまらない。私はこんな侮辱を受けるいわれがない、あの人は私に大損害をかけ、思いもよらぬことで私を責めている。他の人から受けたなら、喜んで忍ぼうとし、それなら忍ぶべきことだと思うだろうが』。あなたはこういってはならない。こういう考え方は愚かなことである。あなたは、忍耐の徳とは何かを思わず、誰から報いを受けるかも考えずに、むしろ受けた侮辱、侮辱を与えた人間、どんな侮辱を受けたか、それだけを考えている。自分が考える程度の苦しみを、自分が考える人からだけ受けて忍ぶ人は、本当に忍耐のある人ではない。真に忍耐のある人は、誰から試されているか、目上からか、同僚からか、目下からか、徳のある人からか、罪深いならず者からか、そんなことを考えず、誰からくるものかを差別せず、何度、どれほど受けても、全てを喜んで、感謝しつつ、神の御手から受け、しかも、それによって、大いに利益を得たと考えるものだ。神の御前にあっては、神のために忍んだどんな小さなことも、むくいをうけるのである。勝利を得たいなら、いつも戦いの準備を整えているように心がけよ。戦いなしには、忍耐の栄冠を受けることができない。もしあなたが苦しみを避けるなら、忍耐の栄冠を拒むわけである。しかし栄冠を得ようと思うなら、勇ましく戦い、忍耐せよ。苦労を忍べないなら、休息する権利もない。戦いをいとうなら、勝利は得られない」。「主よ、あなたの恵みによって、本来なら私にできない事でも、できるようにしてください。あなたもご存知の通り、私は苦しみに弱く、少々の妨げがあると、すぐ落胆してしまいます。御名の光栄のために、試練を愛させてください。あなたのために苦しみ、迫害される事は、私の霊魂にとってためになることです」。

20・自分の弱さと、この世のみじめさを告白する

自分で自分の罪を告白しよう(詩篇31・5)。主よ、私の弱さを告白いたします。私は、小さなことで落胆し、悲しみます。雄々しく行おうと決心するのですが、わずかな誘いが来るとすぐうろたえます。私への試練は、ほんのつまらないことから生まれます。私だけは安心だと思っている時、私は、軽いひと吹きで倒されてしまいます。主よ、機会あるごとに現れる私の弱さ(詩篇24・18)、脆さをご覧ください。私が、泥に沈んでしまわないように、いつでも見捨てられる事のないように、私を哀れと思い、泥の中から引き上げてください。あなたの御前にあって、私が悲しみ、うろたえるのは、私が邪欲に弱く、敗れやすい人間だからです。私は、誘惑に引きずられる事はなくとも、そのしつこさに悩まされ、痛められ、毎日そんな戦いを繰り返していることに飽きてしまいます。私は、自分のみじめさを知っています。いまわしい想像が起こりやすく、しかもなかなかそれが去りにくいのです。忠実な霊魂を、愛で燃やしてくださる強大なイスラエルの神よ、あなたの下僕の困難と労苦とを顧み、どうぞお守りください。まだ全く霊に服従していない惨めな肉体によって、再び古い人間が頭を持ち上げることのないよう、天の力で私を力づけてください。この哀れな生命の続く限り、私は、肉体に対して戦い続けます。患難と悲惨とが後を立たず、敵と罠に取り囲まれているこの生活とは、一体なんでしょう。一つの患難や誘惑が去ると、すぐ他のがやってきます。いや、まだ戦いが続いているのに、他の敵が襲いかかります。こんな苦々しい、不幸と悲しみの漂う人生を、どうして愛せましょう。死と禍とを生むものを、どうして生命と言えましょう。それなのに、人はそれを愛し、そこに楽しみを求めます。世間は空しいと非難しながら、容易にそれを捨てようとしないのは、私たちが肉の欲に支配されているからです。世間に惹きつけるものと、それを軽蔑させるものとには、大きな差があります。肉の欲、目の欲、生活の虚栄(ヨハネ前2-16)は人の心を世間に引き付けますが、それに続く罰と苦しみとは、人の心に、世間への憎悪と嫌悪を呼び起します。残念ながら、世間の奴隷になっている人々は、よこしまな快楽に溺れています。こういう霊魂は、茨の中で生きるのを喜んでいます(ヨブ記30・7)、なぜなら、彼らは、神による喜びと徳の内的美しさを、味わったことがないからです。かえって全く世間を捨てて、聖なる規則に従って神に生きようとする人々は、本当に世を捨てた人々に約束された、神の喜びを知り、世間がどんなに誤っているか、どれほどあざむかれるものかをも、明らかに知っています」。

21・どんな善にも賜にもまさって、神のうちに平和を見いだす

「私の霊魂よ、すべてにまさって、常に、ただ主において、慰めを求めよ。神は聖人の永遠の憩いである。愛すべきイエスよ、被造物ではなく、ただあなたの中に私を休息させてください。健康と美、光栄とほまれ、勢力と地位、学問と教養、富と芸術、喜びと楽しみ、評判と賛辞、安楽と慰め、希望と約束、功徳と望み、あなたの与えて下さる賜と恵み、人の心がうけて味わう歓楽と愉快、また最後に、天使と大天使と天の万軍、見えるもの見えないものを置き、私の神よ、あなた以外のすべてにまさって、ただあなたの中に、私を休息させてください。主なる私の神よ、あなたは、万事にこえて慈悲であり、至高者、全能者であり、完全に満ち足りたもの、甘美な慰めを与えるものであり、美しく愛すべきもの、崇高な光栄あるものであります、あなたの中に、一切の善は完全に一致して存在します。かつてそうであったように、今もいつも。ですから、あなた以外の何を与えられても、私は不満で不足です。あなたを見ず、あなたを受けないなら、あなたが示され約束されることも、私にとっては不足です。実に私の心は、すべての賜と被造物をおいて、ただあなたに休まぬ限り、真実に休み、完全に満足することを知らないのです。ああ、愛する配偶者なるイエス・キリストよ、清らかな愛の的よ、万物の主よ、あなたに休もうとして飛び行くために、真に自由の翼を与えてくれるのは誰でしょう。私があなたにのみ仕え、あなたがいかに優しいお方かを完全に知るのはいつでしょう。私の神よ、私があなたへの愛のあまり、我を忘れ、ごくわずかな人が知っているところの、人間の考えと方法とを超越する方法で、全くあなたに心を捧げるのはいつでしょう。しかし今私は、しばしば嘆きながら、苦労の荷を負っています。この涙の谷では多くの不幸が起こり、心を悩ませ、悲しめ、暗くし、私を妨げ、迷わせ、あなたから遠ざからせ、私をあなたに向かわせず、至福の霊魂に絶えずお与えになるその喜ばしい一致を味わわせません。ああ、イエスよ、永遠の光輝、霊の慰めよ、私の憧れと憂悶とに、あなたのあわれみを動かしてください。主よ、御前にあって、私は、ただ沈黙し、あなたに語ります。私の主よ、あなたがおいでになるのは、いつのことでしょう。貧しい下僕の私にくだり、喜びで満たしてください。私の上に御手を差し出し、不幸な私を患難から救ってください。おいでください。主よ、おいでください。あなたがおいでにならないと、私は一日も一刻も喜びがありません。あなたこそ私の喜びです。あなたがおいでにならないと、私の食卓は淋しい。あなたがその存在をもって私を生かし、解放し、優しいお顔を見せてくださらないと、私は不幸で、囚人のように鎖に縛られ続けています。他人は、その望みに従って、あなた以外の何かを求めるかもしれません。しかし私には、希望と永遠の救いであるあなたの他に望ましいものはないし、また望まないでしょう。神の恵みを与えて、私の心に語ってくださるまでは沈黙せず、こい願い続けます」。「私を呼び求めたあなたに、私はきた。あなたの涙と望み、へりくだりと痛悔とが、私をあなたのほうに動かした」。そこで私はいった、「主よ、私はあなたを呼び、あなたのうちに楽しみを求めます。私はあなたのために、全てを捨てます。私はあなたを求めましたが、それより先にあなたが私を動かしてくださいました。無限の慈悲によって下僕を恵んでくださった主よ、あなたは祝されますように。自分の罪といやしさとを常に忘れず、あなたの御前に深く深くへりくだる以外に、この下僕は成すことを知りません。天地の不思議は数多くありますが、あなたに比べるべきものはありません。あなたの御業はよく、その裁きは正しい。そしてあなたの摂理は万物を支配します。ああ、御父の知恵よ、賞賛と光栄とがありますように。私の口、私の心、全被造物が、あなたを讃え、祝しますように」。

22・神の恵みを忘れてはならない

「主よ、掟を悟らせるように私の心を開き、あなたの道を歩むことを教えてください。御旨をお知らせください。またあなたの、特殊な、または一般の恵みを、心からの尊敬と注意深い思慮とをもって、私に記憶させてください。そうしてくだされば私は今後、適切にあなたに感謝をするようになるでしょう。私はたった一つの、どんな小さな恩恵にさえも、ふさわしい感謝をすることができないと知り、それを告白します。私は、あなたが与えて下さった一つの恵みにさえ、ふさわしくないものであり、あなたの偉大さ、寛容さを思う時、その恵みの深さにぼう然とするのみです。私たちが、霊魂と身体とに持っているすべてのもの、内部と外部に持っている自然または超自然の恵みは、全てあなたの賜です。一切のそれらの善を与えて下さる寛大と慈悲と仁慈に富むあなたを讃えます。またある人には多く、ある人には少なく恵みが与えられたとしても、全てあなたのものであり、あなたなくしては、そのかけらさえも受けることができないのです。多く受けた人は、それが自分の功徳であるかのように誇ることなく、他人に自慢することもなく、少なく受けた人を軽蔑することも、してはならないのです。何事も自分に帰することなく、謙虚に謙遜に感謝する人が、偉大な人だからです。そして、自分は誰よりも卑しく、誰よりも無価値だと思う人が、大きな恵みを受ける値打ちのある人です。一方、少なく受けた人は、そのために悲しみ恨む事なく、多く受けた人を羨まず、あなたのことを考えなければなりません。人に差別なく(ペトロ前1の17)豊かに、無償で、喜んで賜物を下さるあなたの慈悲を省みて、賛美しなければなりません。すべての賜物はあなたから授かるのですから、あなたは全てにおいて賛美されなければなりません。あなたは、各人に何を与えてよいかを知っておられます。そして、一人には少なく、一人には多く与えても、その理由を判断するのは私たちではなく、各人の功徳を知っておられるあなたです。神なる主よ、人間の目で外から見れば、賞賛とほまれを受けるようなものを多く持たないことを、私は恵みだと考えています。したがって、人は、自分の貧しさといやしさとを思い知っても、それを辛いこと悲しいことと思って、失望してはなりません。むしろ慰めと、喜びを抱かねばなりません。神よ、あなたはご自分の親しい友として、貧しい人、謙虚な人、世間で軽蔑される人をお選びになりました。それは『あなたがこの世の頭として立てた』(詩篇44・17)使徒たちが証明する通りです。彼らは、この世にあって不平を言わず、真に謙遜単純であり、悪意と偽りとを全く避け、御名のために、軽蔑されることを喜び(使徒 5-41)、世が嫌悪することを、愛を持って抱いたのでした。したがって、あなたを愛し、あなたの恵みを知るものは、自分のうちに、永遠の定めの御旨が実現されていることを思って、何にもまして喜び、そのために慰めを感じて満足し、他人が上位の者になりたいと望む同じ心を持って、自分は最後の者になることを望み、最後の席につくことを第一の席につくものと同様に満足して受け、人がこの世で尊ばれ、崇められるのを喜ぶように、自分は卑しいもの、蔑まれるもの、名声も評判もない者であることを喜ぶのです。あなたの御旨と、その光栄のために働く熱心とは、他のあらゆる誉に勝るものであり、自分の受けたあるいはいつか受けるあらゆる恵みにまさって、私たちは、それを慰めとし、喜びとしなければならないのです」。

23・心に平和を与える4つの条件

「子よ、今私は、あなたに、平和と真の自由の道を教えよう」。「主よ、そうしてください。私は喜んで聞きます」。「子よ、自分の意志よりも他人の意思に従うように努めよ。多く持つよりも少なく持つことを望め。常に卑しい地位に甘んじ、皆の下につくことを望め。神の御旨が、あなたのうちに完全に行われることを願え。こういう心がけの人間が、安らかな静かな国に入るのである」。「主よ、あなたのその簡単な言葉は、完徳に至るための、誠に尊い言葉です。言葉としては簡単でも、深遠な意味と豊富な実とがあります。私がその訓戒を忠実に守るなら、私はこれほど動揺するはずがありません。私が不安を感じ、悩みに襲われるときは、その教えから離れていることに気づきます。しかし、全能のあなたは、私の霊的な進歩を望んでおられます、どうぞ私の上に恵みを増し、あなたの戒めを守って、救霊を受けさせてください。

邪念を防ぐ祈り 「主なる私の神よ、私から遠ざからないでください。私の神よ、助けてください(詩編70・12)。邪念と恐怖とが、私の心を悩まそうとして、襲いかかります。私はどうして、そこを無事に通り抜けられましょう。どうしてそれを追い出せましょう」。主は仰せられる。「私は、あなたに先立って歩み、世の高慢なものを下げさせよう(イザヤ45・2)。私は牢の扉を開き、隠された神秘をあなたに示そう」。「主よ、そうしてください。あなたがおいでになると、邪念は消えます。私のただ一つの希望、唯一の慰めは、あらゆる患難において、あなたに依り頼み、あなたに信頼し、心からあなたの助けをこい、忍耐強く慰めをまつことです」。

知恵の光を求める祈り 「イエスよ、内的な光輝で私を照らし、私の心の片隅から、すべての闇を追い払ってください。私の放心を抑え、私に襲いかかる誘惑を断ってください。私のために強く戦い、凶悪な猛獣、邪欲をうち倒し、あなたのお力によって私に平和を戻し(詩篇121・7)、聖所、すなわち清い良心に、あなたへの賛美を響き渡らせてください。風と嵐とに命じ、海に向かって『静まれ』といい、風に向かって『吹くな』と言ってください。そうすれば、大凪となるでしょう(マタイ8・26)。あなたの光と真理とを送ってください(詩篇42・3)、それは、この世を照らすためです。私はあなたに照らされるまでは、空しい痩せた土地のようなものです。あなたの恵みを天から注ぎ、私の心を天の露で潤してください。私の土地が豊かな実を結ぶように、敬虔の水を流し入れ、罪の重さに押されている私の心を引き上げ、私のすべての望みを、天に向けさせてください。そうすれば、私は、天の幸せを味わい、地上のことを嫌うようになるでしょう。この世が与えるはかない慰めから私を遠ざけ、あなたのほうに引き上げてください。この世のものは皆、私の要求を満たさず、私を慰めません。愛という解けない絆で、私をあなたに結びつけてください。愛する心にはあなただけで足ります、あなたがおいでにならないと、この世はすべて無価値なものです」。

24・好奇心にかられて他人のことを探ってはならない

「子よ、好奇心を捨てよ、余計な詮索をするな。このことが、あなたと何の関わりがあるのか。あなたは私に従おうと努めよ(ヨハネ21-22)、あの人は、こうだ、この人はああだ、彼はあの事、この事をする、それがあなたにとって何なのか。あなたは他人のことの責任を持っていない、自分自身の責任が問われるのだ、それなのになぜ、他人のことに口を入れるのか。私だけが全ての人を知り、この世で起こる全てのことを知っている。そして皆がどうしているか、何を考えているか、何を望んでいるか、何を目的としているかを知っている。だから、それらの事は、私に任せよ。あなたは、心の平和を保つように心がけよ。騒がしい人には、思いのままに騒がせておけ。彼らがしたり言ったりする事は皆、彼らの上に、跳ね返ってくる。私をだませる人間は無い。影のような名声や、親しい人や、特別な愛顧に気にかけるな。これらのことは、人の心を迷わせ、暗くするに過ぎない。あなたが忠実に私の来るのを待ち、心の扉を開くなら、私は喜んで、あなたに私の言葉を聞かせ、神秘をあらわそう。賢明であれ。祈りつつ警戒せよ(ペトロ前4・7 )。そしてすべてを、謙遜の実行の機会となせ」。

25・心の平和と真の霊的進歩はどこにあるか

「子よ、私はこういった、『あなたたちに平和を残そう、あなたたちに、私の平和を与える、私が与える平和は、世間が与えるものではない』(ヨハネ14-27 )。誰しも平和を望むが、真の平和を得させることに、気を止めるものは少ない。私の平和は、心の謙虚な、柔和なものと共にある。あなたはこの平和を、忍耐を持って、自分のものにせよ。あなたが私の声を聞いて、それに従うなら、豊かな平和が味わえる」。「それなら主よ、私はどうしたらよいのでしょうか?」。「自分が何をし、何を言うかに常に注意せよ。そしてあなたの意向は、私の好むことだけに向けられ、それ以外の何も望まぬようであれ。他人の行いと言葉とを、軽々しく判断せず、自分の責任のないことに関わるな。そうすれば、めったに平和を失う事は無い。いつも不安を感ぜず、心と体との悩みを経験しない人は、この世にあるものではない、永遠の幸福の状態においてだけにある。また、どんな敵もないからといって、万事が好調に進んでいると思うな。万事が思いのままに行くと言って、全て完全だと思うな。信心と心の喜びとを感じても、神の愛を受けていると思うな。本当に徳を愛するものは、そういうことでわかるのではなく、人間の霊的進歩もそこにはない」。「それなら、どこにあるのですか、主よ」。「それは心から神の御旨にゆだねること、小事にも、大事にも、この世でも、来世でも、自分の利益を求めないことにある。こうすれば、好運の時も、不幸な時も、万事を同じ目で見、同じ判断で計り、常に神に感謝しつつ、生きることができる。すべての慰めを奪われても、それ以上、辛いことを忍ぼうと心を強め、希望に堅く立ち、自分はこれほどの苦しみを受ける人間ではない、と弁解することをやめ、どんな場合にも、私の正義を認め、私の御旨をほめたたえるなら、あなたは、まことの平和の道を歩んでいる証拠である。そうすれば、私の顔を見る希望が持てる。もしあなたが、自分自身を完全に軽視する境地になれば、さすらいのこの世においても、心の平和を、豊かに味わえるのだ」。

26・地上の煩いから解き放たれた霊魂の超越性、それは読書からではなく、謙遜な祈りから受ける

「 天の展望から、常に心を離さず、冷淡のためではなく、被造物への執着を捨てた、自由な心を持つ人の特権をもって、いろいろな煩わしさの中にあっても、それに束縛されない事は、すでに完徳を有する人である。ああ、慈悲深い神よ、私をこの世の煩いから、保護してください。私の心がそれに縛られないように。身体に必要なことを捨てさせ、快楽に溺れないように、また霊魂の妨げとなることに、打ちひしがれて、失望しないように、守ってください。私がそれをこい求めるのは、世間の人が望むむなしい事柄だけではありません。人類が受けた呪いの結果、あなたの下僕の心に、罰としてくだり、望む時に霊魂の完全な自由をさまたげる、そういう不幸からも、私を解放してください。ああ、私の神よ、言いつくしがたい慈悲の神よ、永遠のものから私を遠ざけ、現世の楽しみを持って私を悪に誘う肉体的な慰めを、すべて苦しみに変えてください。私の神よ、肉と血を霊に勝たせず、世間とその一時の光栄に、私が欺かれるのを許さないでください。悪魔とその罠とが、私を倒すのを許さず、むしろそれを耐え忍ぶ忍耐と根気とを、お与えください。この世のすべての慰めの代わりに、あなたの霊の無上の喜びを注ぎ、肉の愛の代わりに、御名への愛を注いでください。食べる、飲む、着る、身体を保つために必要なそういう事は、神に熱心な人にとっては重荷です。これらのことにあまり執着せず、それを節して用いることを教えてください。全てを捨て去るわけにはいかず、身体も保たねばならないからです。しかし、不必要なこと、ただ楽しみになることを求めるのは、掟によって禁じられています。そうしなければ、肉体は、すぐ霊に逆らうからです。この二つの間に、御手を伸べて、私がどちらにも走らないように支え、守ってください」。

27・人を神から遠ざけるのは自愛心である

「子よ、あなたは、全てを受けるために、全てを与える必要がある。ただの一つも自分のために残してはならない。何よりも、あなたに害を与えるのは、自愛心であることを忘れるな。あなたが持っている愛情と執心は、何でも手放しがたくするものだ。あなたの愛が、純真で、清く、節度あるものであれば、あなたは被造物の奴隷にはならない。持ってならぬものを持とうとするな。霊的な損を受け、内的な自由を失わせるものを、持とうとするな。あなたが自分自身と、持っているもの、望んでいるもの、すべてを、私に捧げようとしないのは、奇怪なことである。なぜ、空虚な悲しみに押しつぶされようとするのか、なぜ、不必要な煩いに悩むのか。私の御旨に忠実に委託せよ。そうすれば、何の損害も受けないだろう。あれこれのことを求めて、自分の安楽と我意を通すために、この所あの所に居たい、と望めば、いつまでも安住を知らず、心労から解放される事は無い。なぜなら、何にでも欠点があり、どこにでも反対者を見いだすからである。幸せを望むには、この世のものを得ること、あるいは、それを増す事は何の役にも立たない。むしろそれを捨てて、その望みの根を断ってしまった方が良い。それは、金銭や、財産についてだけ言ったのではない。名誉へのあこがれについても、空しい称賛についても、同じである。これらの事は、この世と共に過ぎ去るのである。あなたのいるところは、あなたに熱心がなければ、堅固な砦ではない。またこの世から求めた平和も、あなたの心が真の土台に基づいていなければ、言い換えれば、私を土台にしていなければ、どんなに住居を変えても、心を善に改めることはできない。住居を移る機会があって、その機会を利用したとしても、あなたが逃れようとしたのとおなじこと、いやそれ以上悪いことを、新しい住居に見いだすだろう。

心の清さと天の知恵とを求める祈り 「神よ、聖霊の恵みで、私を強めてください。あなたの徳によって、私を内的な強い人にならせ、私の心から、無益な煩雑さと不安とを、捨てさせてください。それは私が、卑しい望みにも、尊い望みにも、ひき入れられないためです。それらすべてに一顧も与えず、自分も、それらとともに過ぎ去るものであることを、私の心に固く思わせてください。この世には、一つとして長続きするものありません。すべては虚しいもの、心の悲しみのもとです(集会書1・14)、こう考えるものこそ、聡明な人と言えましょう。ああ主よ、天の知恵をお与えください。万事において、あなただけを求め、あなたを知り、あなたを愛し、この世のことも、知恵の定めに従って、判断させてください。へつらうものを賢明に避け、反対するものを耐え忍ぶように、教えてください。言葉の風に動かされず、邪悪なへつらい者の人魚に気を止めない事は、偉大な知恵です。こうすれば、すでに始めた道を、安全に歩み続けられるのです」。

28・悪口を言う人に対して

「子よ、誰かがあなたに悪意をいだき、気にかかることを言ったとしても、それに痛め付けられるな。あなたは、言われること以上に悪い人間だ、誰よりも弱い人間だと考えるがよい。もしあなたが、霊の道を歩むなら、人の話に、耳をかさないだろう。不幸の時に沈黙し、心の中で私に向かい、他人の批評に左右されないのは、浅からぬ徳である。あなたの平和を、他人の言葉の上に置くな、それによって、あなた自身が変わるわけではない。まことの平和と、まことの光栄とは、どこにあるのか。私にだけあるのではないか。人の気にいろうと努めず、また気にいられなくても恐れない人には、大きな平和がある。心の不安と五感の乱れは、よこしまな愛と根拠のない恐れから生まれるものである」。

29・患難のとき、神に願い、神を祝する

「 私が、この誘惑、この患難に会うようにとお定めになった主よ、あなたの御名は、世々に祝せられますように(トビア3-23)。私はその苦しみを退けられません。しかし、それが私の役にたつように、あなたがお助け下さい。主よ、今私は悲哀のどん底にいます。私の心には平和がなく、試練に悩まされています。愛する父よ、私はなんと言ってよいかわかりません。私は苦境に陥っています。私を救い出してください(ヨハネ12-27)。私がこうなったのは、謙遜を知るため、あなたによって救われるため、あなたに光栄を帰するためです。主よ、私をここから救いだしてください(詩篇39・14)。貧しい私には何一つできません。あなたに導かれねば、どこに行ってよいかもわかりません。主よ、今も私に忍耐しんを与え、助けてくだされば、どんなに試練が重くても、私は恐れません。この苦しみの中にあって、私はこう言いましょう、あなたの御旨がおこなわれますように(マタイ6・42)と。私が苦しめられ、責められるのは当然のことです。嵐が過ぎ、晴天が来るまで、私は忍びましょう。忍びたい、しかし、全能の御手は、この試練から私を救い出し、それを和らげてくださるでしょう。かつてしばしばそうしてくださったように。主は、私が倒れないように計らってくださいます。私の神よ、憐れんでください(詩篇58-18)。 神の右手のわざ(詩編76-11)は、私にとって非常に難しいが、神にとっては、いとたやすいことです」。

30・神の助けをこい願い、恵みが再び下ることを信じる

「子よ、私は苦しみの日に慰めをくだす主である(ナホム1・7)。悲しみのときには私に近づけ。天の慰めを妨げるのは、祈りに依り頼む、あなたの来かたが遅いからだ。私のもとに来る先にあなたは、他の慰めを求め、世俗のことで気を紛らわそうとした。より頼むものを救うのは私だけであり、私以外には力強い支えも、有益な進言もなく、永続的な施術もないことに気づくまでは、何一つ役に立たない。しかし、嵐は過ぎ去った。元気を取り戻し、私の憐れみの光によって、力づけ。私は全てを元通りに、豊かに、満ち溢れるばかりに、立て直すために、あなたのそばにいる。私にとって困難なことがあろうか?約束しただけでそれを実行しない人間と私と同じだろうか?あなたの信仰はどこに行ったのか?かたく立って、たゆまず続けよ。寛容な勇者であれ。あなたのためにも、適当な時に、慰めが来るだろう。私を待て、私は、来てあなたを治すだろう。誘惑はあなたを悩まし、むなしい恐怖があなたを脅かす。未来の出来事を心配して何の役に立とう。憂いに憂いを重ねるばかりではないか。一日の苦労は一日で足りる(マタイ6・34 )。未来を一喜一憂するのは、無駄な、虚しいことである。それは起こらないかもしれないのだから。人は想像に惑わされることがよくある。しかし敵の暗示に容易に惹きつけられるのは、心が狭い証拠である。悪霊は、虚実を取り混ぜた空しい希望を持たせ、あるいは迷いに追いやる。罪におとしいれるためには、現在への執着であれ、未来の恐怖であれ、あらゆる手段を用いる。だから、恐れてはならない。私を信じよ、私の憐れみに信頼せよ。あなたが、私から遠く離れていると思う時、私は常よりも、あなたの近くにいる。そしてあなたが、もうダメだと思うときは、その時こそ、功徳を示す時である。ことが、思惑の反対になった時も、一切を失ったのではない。今の感情だけで判断してはならない。そして抜け出る活路が、もうないかのように、試練に屈服してはならない。私がある期間の間、あなたに試練を送り、あるいは、あなたがこい願う慰めを与えないにしても、私から見捨てられたと思うな。天の国に入るためには、この道を通らねばならないのである。あなたにとっても、また他の私の下僕にとって、万事が思いのままに順調に行くよりも、不幸で鍛えられる方が、確かに有益である。私は、人の密かな考えさえも見通している。あなたの永遠の救いのためには、時々霊的な喜びを味わわない方が良いと知っている。それは、成功してうぬぼれず、持たないものを持っているかのように自負しないためである。私の与えたものを、私は適当な時に、あなたから奪い取ることができる。私が与えるものは、私のものである。もしそれを取り戻すとしても、あなたのものを奪ったのではない。あなたに与えるよいものと賜とは、私のものだからである。あらゆる苦しみと不幸とが、あなたに起こることを、私が許したとしても、そのために腹を立てたり、落胆したりしてはならない。私はすぐ、あなたを助け起こし、すべての重荷を喜びに変えることができる。あなたに対して、そう行う時も、いつも私は正しい。いかなる場合も、あなたは私に感謝しなければならない。もしあなたに理解力があり、真理に基づいて判断するなら、不幸に当たっても、惨めに気を落とすはずがない。むしろそのために喜び、神に感謝しなければならない。そればかりではなく、私があなたを容赦せずに訪れることを、無常の喜びとしなければならない。『父が私を愛したように、私はあなたたちを愛する』(ヨハネ15・9)と、私は愛する弟子たちに言った。それなのに私は、弟子たちに、この世の楽しみを与えず、むしろ戦いの中に送った。名誉ではなく侮辱を、安楽ではなく労苦を、休息ではなく忍耐を与え、偉大な実を結ばせようとした。子よ、私のこの言葉を忘れるな」。

31・創造主を見いだすために、一切の被造物を捨てる

「主よ、私の心に、どんな人間も、どんな被造物も、入り込む余地がないほどの高さに至るためには、あなたの恵みがさらに必要なことを痛感します。私が、何かに心を占められている限り、自由にあなたに向けて飛び立てないのです。高く飛んで、憩いの場所を見つけるために、私に牝鳩の翼を与えてくれるのは誰か(詩篇54・7)といったその人は、あなたに駆け上がりたい、と願っていたのでした。澄んだ目で、この世を眺める人よりも、平和な人があるでしょうか。この世に何物も望まない人よりも、自由な人があるでしょうか。だから被造物を超越すべきであり、自分自身を全く忘れ、心を高く保ち、万物の創造主であるあなたと被造物とは、比べ物にならないことを、知らねばなりません。この世のものから完全に心を離さないなら、自由に天に、かけ上がれないのです。観想生活をよく送っている人が少ないのは、この世のはかない事物から、心を離すことを知る人が少ないからです。しかし、それに達するためには、霊魂を高く上げ、自分自身を忘れさせる神の恵みがいります。人間が、この高さに達し、この世から解放され、神と全く一致するまでは、彼の持っているものは、それが何であっても、大したものではありません。無限、永遠の善以外の何事かを、偉大なもの、尊いものと考える人は、いつまでも、この世で卑しい人間であり、来世では、神の王座まで上がれないのです。神以外のものは、すべて無であり、また無であると考えねばなりません。神に照らされた敬虔な人の知恵と、博学な人の知識とは、大いに差があります。人間の知恵を持って、営々として積んだ知識よりも、神に照らされた人の知恵の方が、はるかに尊いのです。観想を望む人は多いが、そうなるために必要な手段を実行する人は、少ないのです。また節制に気を止めず、外部の行いや、形にだけ気を止めるのも、大きな妨げです。取るに足らない事のために心を使うのに、霊魂のことを、真実に、心をひそめて、考えることのほとんどない私たちが、霊的な人でありえましょうか。私たちはどんな霊に導かれているのでしょうか。いったい自分をなんだと思っているのでしょう。ああ、あわれなのは私たちです。しばしの間、神を考えても、外のことにすぐ気を奪われて、自分の所業を厳密に調べてみようともしません。私たちは、心の執着がどちらに向かっているかに、注意していません。また、自分がいかに不潔であるかを、心苦しくも思っていません。不純な欲は、すべての人間を迷わせ(創世記6・129、そのために大洪水が起こりました。心が汚れているからこそ、そこから出る行いも悪いのです。それは当然のことで、内部的な徳が衰えている証拠です。清い心から出るものこそ、良い生活の実です。人は、他人が何をしたかを尋ねたがるものです。しかし、どれほど徳を持って行ったかには、注意を向けようとしません。強いか、金持ちか、美貌か、上手か、筆が達者か、声が良いか、よく働くか、それらについては、注意深く調べます。しかし、どれほど謙遜だったか、柔和だったか、忍耐があったか、敬虔だったか、霊的な人だったかについて、調べようとする人は少ないのです。世の人は、外部に目を留め、神の恵みは人間の内部に向けられます。前者は往々、過ちをしますが、後者は過ちをしないように、神に希望おきます」。

32・自分を捨て、邪欲をたつ

「 子よ、全く自分を捨てないなら、完全な自由は味わえないだろう。財産に執着する者、自分を愛する者、欲張る者、好奇心に駆られる者、落ち着かない者、イエス・キリストの光栄ではなく、自分の安楽を追い持てる者は、完全な自由を得るために、多くの妨げを持っている。この者たちは、砂の上に楼閣を作るが、それらは、いずれも、神から生まれないもの、滅びるものである。この短い言葉をよく頭にいれよ、全てを手放せば、全てを見いだす。邪欲を捨てれば、平和を見いだす。この言葉をよく黙想し、そして実行すれば、あなたは一切を理解するだろう」。「主よ、あなたの仰せられる事は、一日でできる仕事ではなく、遊び事でもありません。その簡単な言葉には、修道生活の全ての完徳が含まれています」。「子よ、霊的な完徳に達する道を知ったからには、退いてはならず、失望してもならない。いやむしろ、崇高な頂きに登ろうと希望し、努力しなければならない。あなたが、自愛心を抑え、ただ私の命令に従い、私が、父としてあなたに与えたお方に服従するなら、その時あなたは、神に受け入れられ、あなたの生涯は、平和と歓喜に満ちるだろう。しかしあなたが、脱ぎ取らねばならないものは、まだ多い。それを、私に皆捧げないなら、望むものを受けられない。富むものとなるためには、火で試された私の黄金を買え(黙示録3・18)。この黄金は、この世のものを踏み砕く天の知恵である。地上の知識を次にし、むなしいもので満足することをやめよ。人の世で貴重だと思われているものではなく、卑しいものを買え、と私は先に言った。自負せず、この世で偉大なものとされるのを好まない天の知恵は、まことにこの世にあって、小さなもの、無価値なもの、忘れられたものである。人は、口だけで天の知恵を称えるが、実際、生活においては、それから遠く離れている。しかし、それは、ほとんどの人に隠されている貴重な宝石である」。

33・心の変わりやすいこと、最高の目的を神に置くこと

「子よ、今の心持をあてにするな、それはすぐ移り変わるものである。生きている間は、嫌でも、心持が変化する。今喜んでいても、すぐ悲嘆にくれ、今は静かであっても、すぐ不安になり、今は熱心でも、すぐ冷淡になり、今は勤勉でも、すぐ怠惰になり、今は落ち着いていても、すぐ軽薄になる。しかし心の照らされた知恵ある人は、その移り変わりの中にあって固く立ち、心に感じていることを外に現さず、動揺の風に気を止めず、ただ、自分の心が、必要な望ましいものに向いているかどうかにだけ、気を止めている。彼は、さまざまの出来事の中で、単純な正しい意向の目を、常に私に向け、いつも変わることのない心を持って、踏みとどまる。意向が清ければ清いほど、この世の嵐の中を忍耐強く突き進める。しかし、常に清くあるべきこの意向も、とかく曇りがちである、快楽の何かが目に入ると、すぐにそれに目を向ける。自愛心を脱ぎ捨てた人は滅多にない。その昔、ベタニアのマルタとマリアのところに来たユダヤ人たちは、イエスに会うためだけではなく、ラザロを見るためでもあった。したがって、意向は常に清らかに保ち、真直な単純なものとし、あらゆる妨げを取り除いて、私に向けなければならない」。

34・主を愛する心は、すべてにおいて、すべてにまさって主を味わう

「ああ、私の神、私のすべてよ、私はこれ以上何を望み、これ以上の幸福をどこに見出しましょう。味わいのある優しい御言葉よ、この世も、この世のものも愛さず、ただ御言葉を愛する人にとっては!私の神、私のすべてよ。わかる者には、そう言っただけで十分です。こう繰り返すのは、愛する心にとって、喜ばしいことです。なぜなら主よ、あなたがそばにおいでになると、一切が歓喜に満ち、おいでにならないと、一切が苦々しく思われます。あなたは心を騒がせないものに、平和と歓喜をもって来てくださいます。創造した一切のものを感嘆させ、万事においてあなたを賛美させるのは、あなたご自身です。あなたがおいでにならないとどんな喜びも永続しません。何事かを楽しみ、好むためには、天の恵みの調味がなければなりません。あなたを味わっている者には、味わいのないものはありません。しかしあなたを味わっていない者に、何の楽しみがあるのでしょうか。世間に従うこの世の知恵者、地上の快楽を味わう者は、あなたを味わえません。世の知識は一切むなしく、内には死が隠れています。しかし世間のことを軽んじて、肉を節制し、ただあなたに従おうとする者こそ、真実の知恵者です。彼らは、空虚から真理へ、朽ちるべき肉体から不滅の霊に移されます。この人々にとって、神は味わい深いお方であり、被造物の中にある善を、すべて創造主への賛美に向けることができます。創造主の与える味わいと、被造物の与える楽しみ、永遠の楽しみと時間の楽しみ、創られたことのない光と造られた光とには、相違が、天と地の相違があります。ああ、この世の光明にまさる永遠の光明よ、天上より私の心に光をお放ち下さい。私の心と、その能力とを清め、喜ばせ、照らし、生気づけ、この上もない歓喜のうちに、あなたに一致させてください。主よ、あなたの存在によって満ち足り、あなたが、私の全てにおいて全てとなる、そのありがたい幸せな日は、いつ来るのでしょうか?その日が来るまで、私には歓喜がない。不幸なことに、私の中には、まだ古い人間が生きていて、それはまだ完全に十字架にかけられず、まだ完全に死にきっていません。それはまだ、霊に反して強く逆らい、私の心に戦いを起こし、私の霊魂の平和を許そうとしません。しかし、海を支配し、その波の騒ぎをしずめる主よ(詩編88・109、立って、私を助けに来てください(同43-16)。戦いを好む者を散らし(同67-31)、彼らを打ち砕いてください(同58・12)。不思議な御業をあらわすあなたに光栄あれ。主なる神よ、あなた以外に、私の拠り所も、逃れ場もないのです」。

35・この世では常に試練がある

「子よ、この世において、あなたは、いつまでも安心する時がない。生ある限りあなたにとって、霊的な武器がいる。あなたは敵に包囲され、四方から攻撃を受けている。忍耐の盾を用いないなら、まもなく傷を負わされるだろう。全て私のために、耐えようという真実な意志を持って、しっかりと私に根をおかないなら、あなたはこの戦いに勝てず、また聖人の勝利も受けられない。だから、あなたは、すべての妨害を雄々しく踏み越え、力強く立ち上がらねばならない。報いは勝利者に与えられ(黙示録2・16)、怠惰なものには悲惨が残される。あなたが、この世に休息を求めるなら、どうして永遠の休息にいたれよう。この世で多くの休息を求めることをやめて、心を忍耐に備えよ。この世ではなく天に、人間その他の被造物ではなく、ただ神のうちに、真の平和を求めよ。あなたは神のために、労苦、苦痛、誘惑、患い、不安、欠乏、病気、侮辱、悪口、避難、辱め、狼狽、叱責、軽蔑を、快く耐え忍ばねばならない。これらは、徳を積む役に立ち、キリストの弟子を試して、天の栄冠を準備するものである。私は、短い労苦の代わりに、永遠の報いを、一時の辱めの代わりに、不朽の光栄を与えよう。あなたは思いのままにいつでも、霊的な慰めが与えられると思うのか。聖人さえも、絶えず慰めを持ってはいなかった。むしろ幾多の試練と、患難と、憂悶とを味わった。しかし彼らはあくまで忍耐し、自分自身よりも神に拠り所をおいた。それは、この世の苦しみが、来世の光栄と比べ物にならないことを、知っていたからである(ローマ8・18)。あなたは、多くの人が、涙と労苦の末に得たものを、すぐ手にしようと思うのか。主の援助を望みつつ、勇ましく戦え(詩篇26・14)。心を安らかにせよ、信頼を失うな、戦場から退くな。神の光栄のために、身体と心とを戦いのために投げ出せ。私は、無上の報いを与え、あらゆる試練の時、あなたと共にいる」。

36・人間の空しい判断

「子よ、あなたの心を手にゆだね、良心が、あなたの敬虔と無罪とを証明するなら、他人の判断を恐れるな。この状態で苦しむ事は、有益な良いことである。心の謙虚な人、自分を忘れて神に信頼する人にとって、それは、困難なことではないだろう。人は饒舌が過ぎる。彼らの言葉は、信用する価値がない。また、すべての人を満足させることも不可能である。パウロは、主のために、すべての人を喜ばせ、すべての人にすべてとなろう(コリント前9・22)と努め、他人から非難されることを意に介さなかった(コリント前4・30)。他人の模範となり、救いを得させるために、身命をかえりみなかったパウロにして、なお、他人から非難され、軽蔑されることを免れえなかった。そのために彼は、すべてを知る神に、すべてをゆだねた。そして、自分を悪口する者、根拠のないそしりをする者、それを勝手に言いふらす者に対しては、忍耐と謙遜とをもって自ら守った。それでも時々、沈黙が誤解されて、弱い人々のつまずきとなる場合には、弁解の口を開いた。あなたは滅ぶべき人間を、なぜ恐れるのか(イザヤ51・12)。人間は、今日生きていても、明日はもういない。神を恐れよ。そうすれば、人間の脅迫を恐れないだろう。人が侮辱、脅迫しても、あなたに対して、それ以上何ができよう。むしろ自分で損害をするばかりだ。どんな人間にしろ、神の裁きを逃れ得ない。あなたは不断に神を仰げ、論争するな(テモテ後2・14) 。たとえ負けて、不当な辱めを受けていても、それに憤らず、忍耐を失って栄冠を取り逃すな。むしろ、あなたを辱めと侮辱とから救いあげ、各々の業に従って報いる力ある私に向けて、天に目をあげよ」(マタイ16・27、ローマ2・60)。

37・心の自由を得るためには自分を捨てねばならない

「子よ、自分を捨てよ、そうすれば、私を見いだすだろう。何事にも執着せず、特殊な愛を持つな、そうすればいつも利益があるだろう。あなたが自分を徹底的に捨てれば、より豊かな神の恵みがくだる」。「主よ、私は幾度、自分を捨て、どんな場合に自分を忘れたらよいのですか?」。「いつも、どんな場合にも、小事にも大事にも。私は何一つ例外を設けない。私は一切のものを捨てたあなたを見たい。そうでなくて、外部的にも内部的にも、あなたの意思を捨てないなら、どうして私があなたのもの、あなたが私のものと言えようか。私のこの勧めを、早く実行すればするほど、それはあなたにとって有益である。また完全に忠実であればあるほど、ますますあなたは、私の寵を受け、利益を受けるだろう。ある人は、自分を捨てるが、まだ何かを自分のものとして保留している。それは、完全に神に委託していないから、自分で自分のことを心配しようとするのである。ある人は、最初は熱心に犠牲を捧げるが、試練に会うと、せっかく捨てたものを取り戻そうとする。こういう人は、なかなか徳の進歩を見ない。こういう人は、完全に自分を捨て、毎日犠牲を捧げないと、私との親しい一致もなく、真の自由も、清さも、私との親交の恵みも受けない。何度も言ったことであるが、もう一度繰り返そう。自分を捨てよ、自分を忘れよ、そうすれば、心の平和が味わえる。全てであるお方に、全てを与えよ。何一つ取り戻すな。清い心を持って、ためらうことなく私にゆだねよ、そうすれば、私を受ける。そしてあなたは、自由な心の人間となり、闇におされる事はなくなる。努力してそうつとめよ、そう祈れ、そう望め。全ての執着を脱ぎ去り、裸で、裸のイエスに従い、自分に死んで、永遠に私に生きよ。そうすれば、空しい空想、危険な混乱、無用な心配はなくなり、過度の恐怖と、よこしまな愛もなくなるだろう」。

38・外部には正しく行い、危険に際して主により頼む

「子よ、あなたは、どこにいても、外部的などんな用事をする時にも、心を自由にし、自分自身を支配し、物事に支配されることがないように、全力をあげて努めねばならない。あなたは、しようとする仕事の、下僕や奴隷ではなく、指導者となれ。あなたは、奴隷から解放された神の子としての、身分と自由を受けるイスラエルの真の民とならねばならない。神の子は、今の世のものを超えて、永遠を目的とし、左の目で過ぎ去るものを見、右の目で天を眺め、この世に執着することなく、神の整然たる定めの通りに、最高の技術家が定めたままに、生活を送る。もしまた、どんな場合にも、事の皮相にとどまらず、見たこと聞いたことを表面だけで判断せず、主の御旨をうかがうため、モーゼとともに幕屋に入るなら、あなたは、神の返事を聞き、現在、未来の多くの事について教えられるだろう。モーゼは、疑問や難題を解決するときに、いつも幕屋を訪れ、危険と悪意に勝つためには、祈りに頼った。それと同様にあなたも、心の隠れ場に退いて、熱心に神の助けを願わねばならない。ヨズエと、イスラエルの子らは、先に主の御言葉をたずねずに、人の甘言を信じすぎ、偽りの同情に目がくらみ、ガバオン人にだまされた、と聖書にある」。

39・人は俗事にわずらわされてはならない

「子よ、あなたの心配を、全て私にゆだねよ、私は随時、適切に扱うだろう。私の計らいを待て。そうすれば、あなたは、よいことをした、と知るだろう」。「主よ、喜んで私のことをお任せします。私の考える事は、大して、役に立たないからです。ああ、私は、将来起こることを心配せず、完全にあなたの御旨に従いたいものです」。「子よ、人はしばしば、自分の望みのために動く。しかし、それを手にするやいなや、もはや興味を失う。人の望みは、同じ物事に長く留まることなく、一つから他へと移るからだ。したがって、些少なことにおいても、自分を捨てる事は、決して小さなことでは無い。人間の本当の霊的進歩は、自分を捨てることにある。そして、そうした人は、誰よりも自由で安全である。しかしすべての善人に反抗する、あの古くからの敵は、誘惑の手をとどめることがない。むしろ警戒を怠っている者を、罠におとしいれようとして、昼夜の分かちなく、待ち構えている。主は、『警戒して祈れ、誘惑におちいらないように』(マタイ26・41)と仰せられている」。

40・人間は、自分のものとして、何のよいものも持っていない、何一つ誇れない

「主よ、あなたが覚えていてくださる人間とは何者でしょうか、あなたが訪れてくださる人間の子とは、何者でしょうか(詩篇8・5)。恵みをお与えになるその人間は、どんな功徳を持っているのでしょうか。主よ、あなたが私をお離れになっても、私には不平を言う理由がなく、また、私の望むものを与えて下さらなくとも、当然の権利として私から要求できるものは何一つありません。私として、真実に考え、真実に言える事は、私が無であって、何もできない、自分としては一つの善も持たず、万事に弱い不足な人間であり、無のものを求めがちだ、と言う事だけです。あなたが助け、指導してくださらないと、私はすぐ冷淡になり、衰えてしまいます。かえって主よ、あなたは常に不変であり、永遠に存在し(詩篇101・28、13)、そして常に善、正義であり、全てを正しくよく、清く行い、万事を知恵によって計らわれます。ところが、徳において進歩するよりも、むしろ退歩しがちな私は、常に同じ状態にとどまりません。私は、七つの期間を常に変化しつつ生きています(ダニエル4・13、20、2)(注 ダニエルの記す七つの期間、すなわち乳児期、幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、晩年を暗示するようである。身体とともに精神も変わる)。しかし、御旨の時、援助の御手を伸ばしてくださると、すぐさま私は好転します。あなたは、人間の干渉なしに私を助けあげ、私の心を固め、ただあなただけに傾かせ、ただあなただけに休めるように、私を強めてくださいます。だから、もし私が、敬虔を得るためにせよ、‥‥人間の中で私を慰めるものがないので‥‥人間からの慰めを全く受け付けなくなれば、当然あなたの恵みに期待でき、新たな賜物に喜びいさむことができます。私の上に全ての善を与えて下さる主よ、あなたに感謝します。私は、あなたの御前にあたっては、無のもの、むなしいものにすぎず、変わりやすい、弱い人間に過ぎません。それなら私は、何に誇り、誰から尊敬を要求するのでしょう。私が無であるから誇るのでしょうか、おそるべき虚栄心!虚栄心は、悪疫の一つ、それ以上むなしいものはありません。それは、人を真の光栄から遠ざからせ、天の恵みを失わせます。自分で自分を善しとすれば、あなたのお気に入らず、他人の賞賛を望めば、真実の徳を失います。真の光栄と歓喜とは、自分ではなくあなたを誇りとし、自分の徳ではなくあなたの御名に喜び、被造物ではなくあなただけを楽しみとすることです。私自身ではなく、御名が尊まれますことを。私自身のではなく、あなたの御業が賛美せられ、その聖なる御名が祝されますことを。そして私には一切人間の賞賛が向けられないように。ああ主よ、ただあなただけが、私の光栄、私の喜びです。私はあなたを誇りとし、日々あなたにおいて喜びいさみます。私は、自分の弱さだけを誇りとしましょう(コリント後12・5)。他の人々は、便宜上、互いに授け授かる、あの光栄を求めればよろしい。私はただ、神から来る光栄だけを求めましょう。実に人間の光栄、地上の名誉、地位などは、あなたの永遠の光栄に比べれば、いずれも愚かしい、むなしいことです。ああ、私の真理、慈悲の神よ、聖なる三位一体よ、あなたに賞賛、名誉、勢力、光栄が、世々にありますように」。

41・地上の名誉を軽んじる

「子よ、他人が名誉を受けて、重い地位につき、自分が人から蔑まれることがあっても落胆するな。あなたの心を、天なる私のほうにあげよ。そうすれば、この世の人間からの軽蔑を受けても落胆することはないだろう」。「主よ、私たちは盲人で、すぐ虚栄心に迷わされます。自分の内心をよく反省してみると、誰にも不当な扱いを受けなかったと言わねばならないのに。私には、あなたに向かって、不平を言う理由はないのです。いやむしろ私は、しばしばあなたに対して罪を犯したのですから、人が私に刃向かうのは、当然のことだと言わねばなりません。つまり私は、辱めと軽蔑に値する者であり、名誉と光栄とほまれとは、あなたに帰すべきものです。もし私が、人から軽蔑され、見捨てられ、無視されることを好むほどにならないなら、私は、心の平和を受けられず、霊的な光も、あなたとの一致も得られないでしょう」。

42・人間からの平和を期待してはならない

「子よ、もしあなたが、その人と、気があうから、あるいは親しく付き合っているから、その人からは平和を受けられようと期待するなら、あなたは動揺し、さまざまの心配に会うだろう。それに反して、真理の神から平和を求めるなら、友人に見捨てられても、死なれても、悲嘆に沈むことはない。友人への愛も、私の上に基づくべきものであり、この世で、徳のある人を愛する時も、その愛は、私のために愛するものでなければならない。私がいなければ、友情にも価値はなく、永続的なものはない。私に結ばれていない友情は、真実なものではなく、清いものでもない。あなたは、私に結ばれないそんな愛を持たず、人間との交際を、全て避けたいと思うほどにならねばならない。人は、神に近寄れば近寄るほど、人間からの慰めを求めなくなる。また、深くへりくだり、自分を卑しいと考えれば考えるほど、神に高く上がれるものだ。善を自分に帰するものは、神からの恵みがくだるのを妨げている。聖霊の恵みは、謙遜な心だけを探している。もしあなたが、完全に自我を脱ぎ捨て、その心から地上の物への束縛を断つなら、私は、天の恵みを持って、あなたの内に下らざるをえなくなる。しかし、あなたが被造物に心を向けるときには、もう創造主を見ることができない。神への愛のために自分に克つように、いずれの場合にも努力せよ。そうすれば、神を知ることができる。どんなに小さいものでも、それを過度に愛し求めるなら、最高の善に達するのが遅れ、霊魂をけがすようになる」。

43・空しい世俗の知識

「子よ、どんなに巧妙でも、人間の言葉に左右されるな。実に神の国は、言葉ではなく実質にある(コリント前4・20)、心を燃やし、知恵を照らし、罪の痛悔を起こし、さまざまの慰めを与える私の言葉を聞くがよい。学者だ、知恵者だ、と言われたい為に読書をしてはならない。むしろ悪の根絶に努めよ。それは、いろいろな難問を解くよりも、あなたにとって、益あることである。あなたが、研究の後に知識を得たら、次に言う原理に立ち戻れ。人間に知識を与え(詩編93・10)、どんな人間の教えもかなわないほど、子供にでも知恵を授けるのは、私である。私が話しかける人間は、すぐ知恵者になり、急速に徳の進歩を遂げるだろう。この世の新奇なことを知りたがって、神に奉仕する道を求めようとしない人は、不幸な人である。師の師、天使の主であるキリストが、すべての人間の知識を知るため、つまり各々の良心を調べるために現れる日が、いつか来るだろう。その時には、『エルサレムの隅々まで灯で探られ』(ソフォニア1・12)、闇に隠れている秘密は、すべて現れ、世の知恵者は、もはや口答えできなくなるだろう。学校で10年間勉強するよりも早く、永遠の真理の基礎を悟るように、謙遜な者の知恵を一瞬にして上げるのは私である。私は多くの言葉を用いず、学説の論争を避け、名誉を求めず、議論もせずに、人間に教える。この世を軽蔑すること、現在を軽んじ、永遠を求め、天をあらかじめ味わうこと、名誉を避けること、つまずきを忍ぶこと、一切神によりたのむこと、私以外に何一つ望まないこと、何事よりも深く私を愛すること、それを教えるのは私である。ある人は、私を深く愛することによって神を知り、驚くべき言葉を語った。この人は複雑な問題を研究することより、全てを捨てることによって、いっそう霊的に進歩した。しかし、私は、ある人には一般的なことを、ある人には特殊なことを、ある人には象徴と例えを使って、ある人には光を与えて、私の奥義を示した。書物に書かれていることは一つであっても、すべての人に一様に教えるわけではない。人の心を真理で照らすのは私であり、その心底を探り、考えを知り、行いを導き、その各々に適当な知識を分け与える」。

44・外部のことに関心を持ちすぎてはならない

「子よ、あなたは、多くのことを知らない方がよい。自分はこの世に死んだ者、この世は自分にとって、すでに十字架に釘づけられたものと思え。またこの世の俗事の間を通り抜けても、それに耳をふさぎ、あなたの平和を確保することだけを考えるがよい。議論して争うよりも、不賛成なことなら聞かないようにして、人が思いたいように思わせておくほうが、あなたにとって良いことだ。もしあなたが、神の御前に正しく生き、他人の行為を判断する時にも、神の判断に頼るなら、争いに負けた時も、平気で忍べるだろう」。「ああ、主よ、私たちはどうしてこれほど愚か者でしょう。私たちは物質的な損害に嘆き、わずかな儲けのために奔走し、労苦するのに、霊的な損失はすぐ忘れ、取り返しがつかなくなってから、思い出すのがせいぜいです。私たちは、たいして役に立たないことに気をつかうのに、非常に大切なことをなおざりにするのです。人間は、外部のことに溺れ、すぐ立ち直らなければ、たやすくそこに沈みきってしまいます」。

45・誰でも信用して良いとは言えない、言葉の過失は犯しやすい

「主よ、患難の時にお助け下さい。人間の助けは期待できません(詩篇59・13)。私は何度、信用していた人から裏切られ、そうでないと思っていた人に、真実を見出したことでしょう。要するに、人間に頼るのはむなしいことです。正しい人の救いはあなたにあります。主なる神よ、私たちの出会うことにおいて、あなたは祝せられますように。変わりやすい私たちは、しばしば迷い、しばしば考えを変えます。欺瞞や困惑に一度もおちいらないほど、よく警戒する、慎重な人があるでしょうか?しかし主よ、あなたに委託し、単純な心であなたを求めるものは、容易に迷いません。そして、たとえ患難を受け、非常な困難におちても、すぐあなたに救い出され、あなたの慰めを受けます。あなたは、より頼む者を最後まで見捨てておかれる事はありません。友達が不幸の時にも、友情を失わない忠実な友は、少ないものです。何事においても忠実そのもののあなた以外、そういうものはありません。『私の心はキリストに基づき、キリストに安堵する』といったあの聖い霊魂は、そのことをよく知っていました。私もそう言えるなら、人間への恐れにうろたえることもなく、また言葉の矢に動かされることもないでしょう。誰が、未来を予見し、将来の悪を予防できるでしょうか。前もって知っていたことにも、しばしば傷つけられるのなら、思いがけない出来事に傷つくのは当然です。それなのに、哀れな私は、なぜもっと慎重に、心を配らなかったのでしょうか?なぜ、これほど容易に他人の言葉を信じたのでしょうか?ああ、しかし、私たちは人間です、たとえ人が天使だと思っても、もろい人間です。主よ、私は誰を信じましょう?あなた以外の誰を信じましょう?あなたは誤ることなく、欺くことのない真理であります。人間は全て嘘をつき(詩篇114・16)、弱い者、変わりやすい者、言葉の過ちを犯しやすい者です。だから、真実らしい言葉でも、すぐ信じてはなりません。主よ、あなたが、『人を警戒せよ、人は自分の家の者を敵にするだろう』(マタイ10・36)、『ここにいる、あそこにいる、と言っても信じるな(マタイ24・23)と戒められたのは、当然なことでした。私は、失敗してからそれを学んだのです。将来、二度と過ちをせず、いっそう警戒するようになりたいものです。『私が今言うことを、誰にも言うな』とある人が私に言ったとします。そこで、私は誰にも言わず、誰も知らないと思っていたのに、秘密にしてくれと私に言ったその人自身が、秘密を守り切れないで、私と自分とを平気で裏切るのです。主よ、そういう無思慮な人間にならないように、私を守ってください。私が彼らの手中に落ちず、自分でもそういう過ちを犯さないようにしてください。私の口に、真実な言葉を語らせ、狡猾な言葉を知らせないでください。他人にとって耐え難い事は、自分自身も避けなければなりません。他人のことをしゃべらず、どんなことも軽々しく信じず、饒舌におちいらず、言葉の風にもてあそばれず、内部的なことも外部的なことも、全く御旨のままに行われるように望むのは、平和を保つ上に、実に有益な良いことです。人前に出ることを避け、人の関心を引くことを望まず、ただ、生活を改め、心を善に導くことだけを、一心に探し求めるのは、天の恵みを保つ上に最も安全なことです。徳が人に知られ、あまり早く賞賛を受けたために、どれほどの人が、損失を被ったことでしょう。誘惑と戦いとに満ちた、このはかない人生において、沈黙のうちに神の恵みを守ったことによって、どれほどの人が利益を受けたことでしょう」。

46・辛辣なことを言われたときには、神に依り頼む

「子よ、かたく立って、私に信頼せよ。言葉は言葉に過ぎない。それは空気の中を飛ぶけれども、岩を傷つけない。自分が悪いと知ったら、快く改めよ。自分にやましいところがなければ、神のためにそれを喜び受けるように努めよ。辛辣な言葉を忍ぶ位は、それ以上重い荷にたえないあなたにとって、大したことではあるまい。そんなささいなことが、なぜまた、それほどあなたにこたえるのか?それはあなたが、まだ肉の奴隷で、必要以上に他人を気にするからである。あなたは軽蔑されることを恐れ、過失を叱責されることを嫌がり、弁解の言葉を探している。もう少し自分を反省せよ。そうすれば、あなたの中に、まだ世間が生きていて、人の気にいろうとするむなしい望みを捨てきっていない事に気づくだろう。軽蔑され、短所を非難されるのを嫌っている間は、あなたは、まだ真に謙虚な人ではなく、まだ世間に執着があり、世間もあなたのうちに死んでいない証拠である。しかし、私の言葉を聞け。そうすれば、あなたは、何千人の言葉も気にしなくなるだろう。人間の想像しうる限りの悪口が、あなたにあびせられても、それを聞き逃して、一本のわらくずほどにも思わなかったら、あなたは、何一つ損害を受けない。あなたはそのために、一本の髪の毛さえ失う事はない。しかし、心をひそめることを知らず、神に心を傾けていない人は、侮辱の言葉に動かされやすい。それに反して私に万事を委託し、自分勝手な判断を慎む人は、少しも他人を恐れない。すべての秘密を知り、それを裁くのは私である。私はその事の次第を知り、侮辱する者とそれを忍ぶ者とを知っている。その侮辱は私の摂理によって、『多くの人の密かな考えをあらわすために』(ルカ2・35)出たものである。私は罪ある者と、罪なき者とを裁くが、その前に密かに、双方を試そうとした。人間の証言は誤りやすい。しかし、真理である私の裁きは、誰にも倒されることのない確固たるものである。ほとんどの場合、私の裁きは秘密であり、わずかな人だけがその二、三の裏の理由を推測できるに過ぎない。私の判断は謝ることがない。愚かな人がそれを不正だと言っても、決して私の判断は変わらない。だから何事も判断するにも、私に依り頼み、自分の狭い判断だけに頼ってはならない。正しい人は、神から何を与えられても、うろたえない(格言12・21)。自分が不正な判断を受けても、それを気に留めず、また、他人が正しい理由を挙げて弁護してくれても、過度に喜ばない。なぜならその人は、人間の心と霊とを、深く探る神に見られていること(黙示録2・23)、表面的な理由で神に裁かれるのではないことを、知っているからである。だから人間の判断で賞賛されることが、私には、罪であるかのように見える場合もある」。「主なる神よ、正しく、力強く、忍耐づよき審判者よ(詩篇7・12)。人間の弱さと悪を知るあなたこそ、私の力、私のよりどころです。自分の判断だけでは足りません。あなたは、私の知らない事も知っておいでになる。だから他人から非難を受けるとき、私はへりくだって柔和に忍ばねばならないのです。もしそうしないことがあれば、そのたびに私を許し、より以上の侮辱を忍ぶ力をお与えください。許しを受けるためには、自分で正しいと思うことや、心の秘密を弁護することよりも、あなたの慈悲の方が役立ちます。自分の良心にやましいところがないにしても、それだけで、あなたの御前に正しい人であるとは言えません(コリント前 4・4)。あなたの憐みがなければ、誰一人として正しい人とは言えないのです」(詩篇142・2)。

47・永遠の生命を得るために、どんな犠牲も耐え忍ぶ

「子よ、私のために背負った労苦にくじけるな。どんな試練にあっても失望するな。どんな場合にも、私の約束に力づけられ、慰めを得よ。私はあらゆる限界を超えてあなたに報いを与える。あなたが地上で労苦するのは短く、苦しみを受けるのも始終のことではない。忍耐して少し待て。そうすれば、まもなく不幸は去るだろう。すべての労苦と争いとがなくなる時も来るだろう。時とともに過ぎ去るものは、全て小さく短いことがらである。仕事は注意を込めて行え、葡萄畑でよく働け。そうすれば、私があなたの報いとなる。書け、読め、歌え、願え、沈黙せよ、祈れ、雄々しく不幸を迎えよ。永遠の生命は、そういう戦い、いやそれ以上の戦いに値するものである。主の定めた日、あなたの上にも平和が来る。その時には、今のような昼夜はなく、永遠の光明、無限の明るさ、ゆるぎない平和、安全な休息がある。その時には、「誰が私をこの死の体から解き放つか」(ローマ7・24)と嘆く必要もない。また、「不幸なことよ、私のさすらいの日は伸びた」(詩篇119・5)と訴えることもない。もはや死は滅ぼされ、救霊は完成し、何の不安もなく、完全な幸福と快い美しい交際があるばかりである。ああ、天の聖人の永遠の栄冠!かつてはこの世で軽蔑され、生きる値うちのない人間とすら言われた人が、今、どんな光栄の中に喜びいさんでいるかを見れば、必ずあなたは、地の上にひれ伏し、へりくだり、ただ一人の人の上にも立ちたくない、全ての人の下につきたい、と渇望するだろう。またこの世の楽しみをうらやまず、ただ神への愛のため苦しむことを喜び、人々に無視されることを、大いなる利益と思うだろう。もしあなたが、この真理をよく悟り、心に刻んだなら、ただ一度も不平を言うまい。永遠の生命のためには、どんな苦労も忍ぶべきではないか。神の国を得るか、失うかは、小さなことではない。目を天にあげよ。そこには、私がいる、またこの世で辛い試練を忍んだ私の聖人たちもいる。この者たちは、今こそ喜び、限りない慰めを得、何の恐れもなく休んでいる。父の御国に、彼らも私とともに、終わりなく住むだろう」。

48・永遠の日とこの世の息苦しさ

「天の都のなんと幸せな住まい!夜闇におおわれることもなく、絶えず至上の真理に照らされた、永遠に輝く日よ!いつも楽しく、いつも安らかな、いつまでも終りのない日々よ!ああ、私たちの上にも、永遠のその日が輝き、地上のはかない日が終われば良い。その日は永遠の光を聖人たちに放っている。しかし、この世を歩み続ける者にとっては、はるかに遠く、余映のようにしか映らない。天の住民は、その日がどんなに歓喜に満ちているかを既に知っている。しかし、さすらいのエワの子は、今の日が、どんなにつらく悲しいかを嘆いている。この世の日々は短く、悪く、苦しく、辛い。人間は罪に汚され、邪欲に取り囲まれ、恐怖に脅かされ、仕事に気を使い、新奇なことに気をちらし、むなしい事柄に付きまとわれ、誤謬に囲まれ、労苦におされ、誘惑に悩まされ、貧困に苦しめられています。この不幸は、いつ終わるのでしょうか?私は惨めな罪の奴隷から、いつとき放たれるのでしょうか?主よ、いつになったら私は、あなただけを考え、あなただけに満足できるのでしょうか?いつになったら、何の束縛もない真の自由と、精神と身体からの解放とを得られるのでしょうか?いつになったら揺るがぬ平和、安全な平和、心と外部との平和、いずれにおいても不動の平和を得られるのでしょうか?ああ、イエスよ、いつになったら私は、あなただけを仰ぎ見、御国の光栄を眺め、あなたが私にとって、『すべてのすべて』(コリント前15・28)となるのでしょうか?永遠から選ばれた人々のために、備えられた御国に行くのは、いつでしょうか?毎日戦いがある不幸なこの敵地に、私は貧しい追放者としてさまよっています。主よ、流され人の私を慰めてください。私の労苦を和らげてください。私の望むのは、あなたを慕うことだけです。この世が与える慰めは、私にとって重荷です。私は親しくあなたと交わりたいと思うのに、まだできません。私は天を眺めたいと思うのに、地上の俗事と、まだ抑え切れない邪欲のために、下界にひかれがちです。私は心を持ってこの世の全てを超えたいと思うのに、肉体は、不本意ながら、それらの事柄に服従させるのです。こうして不幸な私は、霊と肉とに双方からひかれ、自分が自分自身の重荷となっています(ヨブ記7・22)。すなわち、精神は上に、肉体は下に向かおうとします。天のことを黙想していて、突然、その祈る心に、様々な誘惑が襲いかかるのを知る時、私はどんなに苦しいことでしょう。私の神よ、私から遠ざからないでください(詩編70・12)。また怒ることなく、召し使いを見捨てることなく(詩篇26・9)、あなたの光を放って、誘惑を追い、あなたの矢を投げてください(詩篇143・6)。そうすれば悪魔は去るでしょう。私の思いを集中させ、世間を忘れさせ、邪念を退けてください。永遠の真理よ、私を助け、むなしい俗事に動かされないようにしてください。祈る時に私が、あなた以外のことを考えるとしても、どうぞ私を憐れみ、許してください。私は今まで、あまりに放心のまま祈ってきました。しばしば私は、自分が立っているところ、腰掛けているところにおらず、想像に運ばれて他所に行きました。私は、私の考えるところにいます。私の考えは、時々、愛するもののあるところに行きました。つまり、肉が喜ぶもの、習慣として気にいっているものが、よく私の頭に浮かびました。だから、無限の真理であるあなたは、『宝のあるところにその心もある』(マタイ6・20)と明らかに仰せられました。私が、天を何よりも愛しているなら、喜んで天のことを考えます。しかし、世間を愛しているなら、心は世間の幸せを喜び迎え、世間の不幸を悲しみます。私が物質的なことを好めば、私はしばしばそのことを想像します。しかし霊を愛しているなら、霊的なことを考えて喜びます。私は自分の愛しているものについてよく語り、よく聞き、その思いと共に生きています。しかし主よ、あなたへの愛のために、心の中から全ての被造物を去らせ、本来の欲望と戦い、熱心な心で肉の欲を十字架につける人は、澄んだ心を持って、あなたに清い祈りを捧げ、内と外からの地上的な束縛を脱ぎ捨てて、いつの日か天地の群れに加わるに足るものとされるからです」。

49・永遠の生命への憧れと、そのために戦う人に約束された報い

「子よ、天から、永遠の幸福への憧れが注がれるのを感じ、どんなかげりもない私の光明を仰ぐために、身体の牢から解放されたいと思うなら、心を広げ、望みを持って、この聖い霊感を受けよ。これほど、情け深くあなたを訪れ、強くあなたを励まし、あなたが自分の重みで地上に下らないように、力強く支えてくださる至上の善なる神に、深く深く感謝せよ。この恵みは、あなた自身の努力で受けたものではない。あなたに徳、わけても謙遜の徳を持たせ、将来の戦いに備えさせ、愛と熱心な意志でもって私に帰らせるために、天の恵みと神の愛とが与えてくださったことである。子よ、あなたは、火が燃えるのを見たことがあろう。炎が昇るときには、必ず煙が伴う。これと同様に、天への憧れに燃えていても、地上の誘惑への抵抗が鈍ることもある。だから、神にこい求めることも、全てが、ただ神の光栄の為ばかりだとは言えない。天へのあなたの思いと、あなたの憧れも、やはりそうである場合がある。自分の利益と欲に汚されていては、未だ完全な清いものとは言えない。自分にとって楽しいこと、利益になることを求めず、むしろ私の気に入ること、私の光栄となることを求めよ、あなたの判断が正しいなら、あなたは、他の願望を全て捨てて、私の命令に従うだろう。私はあなたの望みを知り、しばしば嘆くのを聞いている。あなたは神の子らの味わう光栄の自由に入りたがっている。また永遠の住居と喜びに満ちた天の国を望んでいる。しかし、その時は、まだ来ていない。まだ他の時、戦いと、労苦と、試練の時を、くぐり抜けねばならない。あなたは至上の善に満たされることを望んでいるが、今はまだその時ではない、その至上の善は私である。主は、『神の国が来るまで私を待て』と仰せられている。あなたはまだこの世で試され、いろいろ鍛えられねばならない。たびたび慰めを受けるが、しかしこの世には不足のない慰めはない。だから、本来なら好ましからぬことを、元気を出して、雄々しく行え(ヨズエ記1・7)。あなたは、新しい人を着て、別な人間になる必要がある。あなたは、望まないことを行い、望むことを捨てねばならない。他人の望む事は成功し、あなたの望む事は失敗に終わることがあろう。他人の言い分は聞き入れられ、あなたの言い分は黙殺されることもあろう。他人は求めるものを受け、あなたは求めるものを受けないこともあろう。他人は評判を上げ、あなたは取り残されることがあろう。他人には、あれこれの仕事が任され、あなたは役立たずのように思われることがあろう。本来の人間としてはそれらを悲しく思う。しかし、黙ってそれを忍ぶのは偉大なことだ。主の忠実な下僕は、このような、あるいはこれに似た方法で、どれほど自分を捨てるか、自分をどれほど抑えるかを試される。自分の意思に逆らうことを見たり、耐え忍んだり、あるいはまた、自分にとって不都合なこと、ほとんど無駄だと思えることを命じられる時ほど、自分を捨てる必要を痛感する場合はない。そしてあなたは、他人の権力の下にあって、上の者に反抗できないので、他人の指図のままに歩き、自分の意見を捨てねばならないのを、辛く思うだろう。しかし子よ、この犠牲の功徳を考えよ。それは過ぎ去り、その後には報いがあると考えよ。そうすれば、あなたはそれを重荷と思わず、忍従するに当たって強い励ましを感じるだろう。今あなたが小さな望みを進んで捨てる代わりに、天で、あなたの望みが、全て通る。実にそこには、望み通りのもの、願うままのものが見つかる。そこでは、失う恐れがなく、あらゆる善を十分に持つことができる。そこでは、あなたの意志は、私と一致し、それ以外の事や自分だけのものは、何一つ望もうとしない。そこでは、あなたに逆らう者もなく、不平を言う者もなく、邪魔する者もなく、反対する者もない。それどころか、あなたは望みのものを持ち、心は満たされ、十分に満ち足りる。そこで私は、あなたがしのんだ侮辱の代わりに、光栄を与えよう。悲しみの代わりに賞賛をまとわせ、この世で最後の席を取った者に、御国において最上の席を与えよう。そこでは、従順の実がなり、苦行の苦しみが、喜びになり、謙遜な服従が光栄の冠となる。だが、今は、誰の下にもへりくだり、言った人、命じた人が誰であろうと気にするな。あなたが特に気をつけねばならない事は、目上、同輩、目下の区別なく、あなたに何かを望み、何かを勧めるときに、それを全て善意にとって、真実の心で果たすように努力することだけである。他人が、あのこと、このことを求め、ある者はこれを誇り、他の者は、あのことを誇って、大いに賞賛されることがあっても、あなたは、何事も誇らず、自分自身を軽んじ、御旨を果たし、私の光栄のために努めることを喜びとし、誇りとせよ。あなたが望むべきは、『生きるにしろ死ぬにしろ』(フィリッピ1・20)あなたによって、神の光栄があげられること、これだけである」。

50・悲しみもだえる時、人はすべてを神の御手に任せねばならない

「主なる神、聖なる父よ、今もいつも世々にあなたは祝されんことを。あなたの御旨は常に行われ、あなたのお定めになることは常に善である。あなたの下僕は、自分をも他の人をも喜びとせず、あなたにのみ喜びを置いています。あなただけが、喜びであり、私の希望と栄冠、楽しみと誇りです。何一つ功徳のない下僕は、あなたからもらった物以外に何を持っているでしょうか?あなたが下僕に対してしてくださったこと、与えてくださったことは、全てあなたのものです。私は貧しく、幼児から貧苦のうちに生きてきました(詩編87・16)。私の心は、時に悲しみに泣き、時に、攻めてくる邪欲に悩まされ、時に深く心を騒がせます。私は平和の喜びを望んでいます。慰めの光で養われる神の子らの平和に、憧れています。私に平和を与え、聖なる喜びを注いでくださるなら、下僕の心は、敬虔な賛美のうちに、喜びいさむことでしょう。しかし、あなたが時々なさるように、私から遠ざかられると、下僕は、掟の道(詩篇118・32)を歩めず、膝を折って、胸を打つことしかできません。あなたの光が私の頭上に輝き、御保護の翼に隠れて、誘惑から守られていた昨日とおとといは、もはや過ぎ去りました。正しい御父よ、敬うべき御父よ、下僕の試練の時はきました。愛する御父よ、この時にあたって、下僕が、あなたのために何事かを忍ぶのは、当然のことです。永遠にあがむべき御父よ、あなたが永遠の昔より予見された時はきました。そして下僕は、しばしの間、外部からの打撃を受けて倒れるかもしれません。しかし内部においては、絶えずあなたのそばに生きています。しばしの間は、侮辱を受け、他人に侮られ、面目を潰され、苦しみと病気にうちくだかれるでしょう。しかしそれは、新しい光のうちに、あなたと共に復活し、天において光栄を受けるためなのです。聖なる御父よ、あなたはこう定め、こうお望みになり、そしてあなたの御命令通りに行われました。主よ、あなたを愛する者にとって、あなたへの愛のために、この世において、御旨による人と時とに苦しめられることこそ、恩恵と言わねばなりません。あなたの許可と摂理と、何か正しい理由なしには、何一つこの世に起こりません。主よ、私を卑しめてくださったのはよい事でした。それによって私は、あなたの正義の定めを悟り(詩篇118・71)、すべての高慢と自負心を脱ぎ去ることができました。恥辱に赤面した事は、私にとって有益でした。そして、私は、人間ではなく、あなたに慰めを求めることを教えられ、常に正義と公正とをもって、悪人を利用し、正しい人に試練をお与えになるあなたのはかりがたい定めを知りました。私の罪を容赦せず、苦しみで私を突き通し、外部的内部的な苦痛を与えて、厳しく鞭打ってくださったことを、感謝いたします。人を叩いて、のちに治し、「黄泉の門に連れ去ってまた連れ帰る」(トビア13・2)霊魂の医者である私の神以外、どんなものも、私を慰めえません。あなたの教えが私を導き、あなたの罰が私に教えてくださいます。愛する御父よ、私はあなたの手中にあります。あなたの懲らしめの鞭の下に、私はひれ伏します。私の背と首とを打ってください。そうすれば私は、罪に迷いやすい自分を、御旨のほうに向きを変えさせることができます。恵みによって、敬虔な謙遜をお与えください。そうすれば私は、あなたの指図に従って歩みます。私のすべてをお任せします。あなたが、私を懲らしめ導いてください。後の世ではなく、この世で罰せられる方が良いのです。あなたは、全部も部分も、全てをご存知です。人間の良心も、あなたの前には秘密がありません。あなたは、将来のことを、それが起こる前に知っておられます。この世で起こる事柄についても、知らせを受け、忠告を受ける必要がないのです。あなたは、私の霊的進歩のために、何が必要かを、また罪悪のサビを取るために患難がいかに役立つかを、知っておられます。私に対して、御旨を行ってください。そして、私の罪ある生活をご覧になっても、私から遠ざからないでください。主よ、私が、知るべきことを知り、愛すべきことを愛し、あなたの喜ばれることを讃え、あなたにとって尊いことを尊び、あなたにとって卑しいことを軽蔑させてください。この世のことを、人の目で裁くことのないように、私と同じ無知な人々の話から物事を判断することのないようにしてください(イザヤ11・3)。物質的、霊的なことを、真理に基づいて判断し、特にいつも御旨を実行させてください。人は、感情に従って判断するので、過ちを起こしやすいものです。見えるものだけを愛してこの世に従う者も、誤りやすいものです。他人から、実際以上に偉く思われても、それで実際偉くなるのでしょうか!人間が褒めるときは、嘘つきを嘘つきが、虚栄の強い者を虚栄の人が、めくらをめくらが、弱い者を弱い人が、互いにほめ合うに過ぎません。実際は、理由もなしに他人をほめるのは侮辱することに等しいのです。『人間は、主のみ前にある以上の者ではなく、それだけの価値しかない』と謙遜なフランシスコは言っています」。

51・崇高なことをしきれないときには、低い信心行につとめよ

「子よ、あなたが、常ならぬ熱心を持って、聖徳に憧れ続けることは難しく、一段と高い霊的観想を続けることも、出来にくいかもしれない。むしろ、時々は、元来の弱さのために、それより低い信心行をすることによって、とにもかくにも、この朽ちるべき身体の荷を負わねばならない。あなたがこの朽つべき身体を持っている間は、倦怠と憂鬱とを感ぜざるをえない。だから、肉体をもっている間は、しばしば肉の重さを嘆くべきだろう。あなたは、霊の修行と天の観想に不断にふけっていることが、できないに違いない。そういう時は、単純な物質的な仕事にたずさわり、善業に慰めを見つけ、天から私の恵みがくだるのを、固い信頼を持って待ち、再び私の訪れを受けて心の不安を解かれるまで、心の憂苦を忍ぶことが、時によいのである。そうするなら、私は、苦労を全て忘れさせ、心の平和を味わわせ、聖書の楽しい園を見せよう、そしてあなたは、心をくつろがせ、掟の道(詩篇118・23)を進むだろう。その時あなたは、『この世の苦しみは、来世において私たちに現れる光栄と比べ物にならない』(ローマ8・1)と言うにちがいない」。

52・自分は、慰めでなく罰に値するものだと思わねばならない

「主よ、私はあなたの慰めを受け、霊的な訪問を受ける価値のないものです。だから、私を、貧しさと寂しさの内に残して置かれるのは当然です。私が、海ほどの涙を流しても、まだあなたの慰めを受ける価値はありません。ただ、私は鞭うたれ、罰せられる値打ちしかありません。なぜなら、しばしばあなたに背き、多くの罪を犯したからです。よく反省すれば、私はどんな慰めも受けるに足りません。しかし、被造物が惨めな滅びに至るのをお望みにならない、仁慈とあわれみの神よ、あなたは、あわれみを明らかにし、仁慈の富を示そうとして、下僕に何の功徳もないことを忘れ、思いがけないほど豊かに恵んでくださいます。実にあなたの慰めは、人間のむなしい言葉の及ぶところではありません。あなたから、天の慰めを受けるほどのことを、私はしたでしょうか?私は何一つ良いことをしませんでした。いつも、悪に傾き、自分を改めるにおろそかでした。そうでないと言えば、私は御前から退けられるでしょう。私は、犯した罪のために地獄と永遠の火を受けねばならないものです。私はただ、侮辱と軽蔑だけを受けて良い人間であり、あなたを愛する人々の群には加われません。こう告白するのは辛いことです。が、真実は真実です。私は自分の罪を明らかにし、あなたの憐みを受けたいと望んでいます。罪多い恥ずべき人間の私は、ただこう言う他はありません。『私は罪を犯しました、主よ、私は罪犯しました。私も憐れみ、私を許してください。死の影に満ちた闇の地に行く前に、罪を嘆き悲しんで泣くしばしの時を、与えてください』(ヨブ記10・20~22)。哀れな罪人が痛悔し、罪のためにへりくだることを、あなたは、待っておいでです。真実な痛悔といやしめから、許しの希望が生まれ、悩む良心は静かになり、失った恵が取り戻され、こうして人間は、将来の怒りから守られ、痛悔する霊魂は、神と接吻をかわすために相逢うのです。謙虚な痛悔は、主よ、あなたに喜ばれる生贄であり、御前にあって、香よりもかぐわしい匂いを放ちます。その痛悔はまた、あなたが御足に注がれることを望まれた香油です。あなたは、悔みへりくだる心を退けられる事はないのです(詩篇50・19)。それはまた、敵なる悪魔の攻撃に対する避難所であり、霊魂についた汚れが取り去られ、清められるところです」。

53・この世のものに従う人には、神の恵みがくだらない

「子よ、私が与える恵みは貴重なものだから、世俗の楽しみと混同することを許さない。恵が注がれることを望むなら、その妨げとなるすべてを、捨てねばならない。密かに生き、独りでいることを好み、誰とも特に話をせず、潜心、そして清い良心とを保つために、熱心に神に祈れ。この世の全てを無視し、外部のどんな行いよりも、神に仕えることを重視せよ。この世のはかない事柄を楽しみつつ、同時に私に仕えることはできないのだ。あなたは知人や親戚から、離れねばならない。そして、人間からの慰めを全て犠牲にしなければならない。使徒ペトロは、『この世においては他国人、旅人のように』(ペトロ前2・11)考えよと、キリストの弟子たちに勧めている。この世にあっては何事にも縛られないものは、死の時、どんなに安らかだろう。しかし、弱いものが、このように離脱しきるのは困難である。そしてこの世に執着する者は、心の自由を悟れない。真に霊的な人間でありたいなら、他人や親戚とも付き合わず、誰よりも自分を警戒しなければならない。完全に自分に勝てた時、他のものを征服するのは容易だろう。自分に勝つことだけが、真実の勝利である。感覚を理性に、理性を万事において私に服従させるほど、自分を征服したものは、勝利者であり、支配者である。あなたが、この頂きに登ろうと思うなら、自分と、自分個人の物質的なものに対する、隠れた邪心を根絶やしするために、斧を使わなければならない。人間は自分自身に執着しすぎている。そこから、ほとんどの悪が生じている。それらに打ち勝ち、滅ぼし尽くすなら、不断の平和と安らかさとが味わえる。しかし自分に全く死にきるために自分を脱ぎ捨てようと努力する人は少ないから、自分にまといつかれ、霊を持って飛ぶことができなくなる。私と共に自由にかけ上がろうとするものは、よこしまな愛を滅ぼし、どんな被造物も望まず、どんなものにも愛情を持ってはならない」。

54・肉と神の恵みとのことなるはたらき

「子よ、あなたの肉と私の恵との働きに注意せよ。この二つは相反しているが、ほとんど意識できないほどである。霊的な人が、内的な光に導かれている時にだけ、その二つを区別できるだろう。全ての人は善を好み、その言葉と行いとに、いくらか善があると皆考えている。だから、その善に、人はだまされるのである。肉は狡猾で、人を引きつけ、おとしいれ、だます。そしてその唯一の目的は、常に自分である。ところが神の恵みは、単純に行い、悪をことごとく避け、罠をかけず、その最高の目的として、ただ神への愛を置き、そこに休みを見つける。肉は人から無視されること、抑えられること、服従させられることを好まず、進んで他人に服従し、その下につくことを望まない。ところが神の恵みは、自分を抑えようと努め、邪欲に逆らい、服従することを望み、負けることを喜び、自由に振る舞うのを避け、命令されることを好み、一人の上にも立とうとせず、常に神の下におり、生き、望み、神への愛のために、誰にも謙虚にへりくだろうとする。肉は、自分の利益のために働き、他人からどんな利益を受けるかを重視する。ところが、神の恵みは、自分だけの利益と楽しみを求めず、むしろ他人の利益を求める。肉は、名誉と尊敬とを喜ぶが、神の恵みは、名誉と尊敬とを、ただ忠実に神に帰する。肉は、辱めと軽蔑とを恐れる。しかし神の恵みは、イエスの御名のために辱められることを喜びとする(使徒5・41)。肉は、何もせずに、体を休ませることを好む。ところが神の恵みは、働かないでいることを嫌い、喜んで苦労をとる。肉は、珍しいもの美しいものを望み、安価な質素なものを嫌う。ところが神の恵みは、質素な粗末なものを喜び、荒布も古服も嫌わない。肉は、地上の富を渇望し、この世の利益を喜び、損害を嘆き、一言の侮辱さえ気にする。ところが神の恵みは、永遠のものに心を置き、地上のものに執着せず、物質的な損害に動ぜず、無礼な言葉にも憤らない。なぜなら自分の宝と喜びとを、何一つ失われることのない天に置いているからである。肉は、貪欲で、与えることより、受けることを喜び、自分だけの持物を好む。ところが神の恵みは、他人を愛し、他人に自分のものを分け、目立つことを避け、少しのもので満足し、受けるよりも与える方が幸せだと考える(使徒20・35)。肉は、被造物と自分の虚栄と遊楽とを好む。ところが神の恵みは、神と徳とに向かい、被造物を捨て、世間を離れ、肉欲をいとい、放心を抑え、人前に出るのを好まない。肉は、感覚の快楽となる世俗の慰めを探し求める。ところが神の恵みは、神にだけ慰めを求め、この世の全てを超え、最高の善を楽しみとする。肉は、万事を自分の利益のために行い、無報酬で奉仕するのをいとい、行ったことに相当する、いやそれ以上の利益や賞賛や報いを得ようとし、自分の行いや恩恵が尊重されることを望む。ところが神の恵みは、この世の事は何も求めず、神以外のどんな報いも要求しない。生活する上に必要なものであっても、永遠の報いに役立つものだけを求める。肉は、多くの友人知己を持とうとし、家門や家柄を誇り、権力にへつらい、富に追従し、自分に似たものをほめあげる。ところが神の恵みは、敵さえも愛し、多くの友人を持っていても誇らず、徳が伴わない限り、家門や家柄を重視せず、金持ちよりも貧しい人に好意を持ち、へつらうものよりも真実な人を喜び迎え、いっそう完徳にすすみ(コリント前12・31)、ますます神の子に似るようにと、常に良い人々にすすめる。肉は、不足なものや煩わしいことにすぐ不平を鳴らすが、しかし神の恵みは、忍耐強く欠乏を耐え忍ぶ。肉は、自分一個の利益に全てを帰し、自分のために戦い、自分のために議論する。ところが神の恵みは、本源である神に全てを帰し、善業を一切自分に帰せず、うぬぼれて過信せず、争わず、自分の意見が一番優れているとは思わず、自分が考え、そして理解すること全て、永遠の知恵とその判断に従わせる。肉は、秘密を探り、新しいことを聞きたがり、外に自分を見せびらかし、感覚によって多くの経験を得ようとし、自分の名声と賞賛を上げるような事に働きかける。しかし神の恵みは、新しいことや珍しいことを無視する。この世で起きる事は、過去の出来事の変形に過ぎず、真実に新しいことを永続する事は無いからである。そこで神の恵みは、感覚を抑え、虚栄心と見せびらかしをさけ、賞賛と感嘆に値することを覆い隠し、すべての知識から、神の光栄と賞賛となることだけを求めよと教える。神の恵みは、自分自身、あるいはそこから出るものが、賞賛されることを望まず、無償で全てを与える神の恵みだけが、賞賛されることを望む。神の恵みは、超自然的な光、神の特別な賜物であり、選ばれた者の印、永遠の救いの保障である。またそれは、地上から天への愛に自分をかけ上がらせ、肉のものから霊のものに変わらせる。つまり、肉に勝てば勝つほど、神の恵みは大きくなり、日々の新しい訪れによって、内的な人間が、神の型に沿って完成するのである」。

55・肉の堕落と神の恵みの結果

「主なる神よ、私をあなたにかたどってつくられた神よ、救いに必要な偉大なものだと示されたその恵みをお与えください。罪と滅びに惹きつけるこの汚れた肉に勝つためです。私の肉体の中には、精神の法に反対し、感覚に服従させようとする罪の法(ローマ7・32)があるのです。私の心に注がれる至上の恵みに保護されなければ、私は肉の欲に抵抗できません。悪に傾く肉に勝つためには、あなたの恵み、偉大な恵みが必要です。人間の本性は、人祖アダムによって堕落し、以後罪によって汚され、その汚れの罰は全人類に染み込みました。こうして、あなたが、善いもの、汚れないものとしてつくられた人の本性は、悪となり、汚れた肉となりました。肉の欲をそのままにしておくなら、人間は、悪と俗世に引きつけられます。その火は、人間の理性ですが、それは深い霧に包まれています。それは善悪を区別でき、真と偽りを見分けることができますが、しかし、善と認めることを実行しきれず、真理に満ちた光もなく、心の愛情も健全ではなくなっています。ですから、神よ、私は、霊の人(ローマ7・22)に従うとき、あなたの法を喜び、あなたの掟が善であり、義であり、聖であることを知り、全ての悪と罪とを避けねばならないことがわかります。しかし不幸にも私の肉体は、罪のほうに従い、理性よりも邪欲に引きずられます。悪よりも善を行いたいという意志はあっても、それを実行する力がないのです(ローマ7・18)。いろいろ善いことを行おうと覚悟しても、弱さを助ける恵みがないので、最初の妨げに負けて退き、失望して倒れます。同様に私は、完徳の道を知り、行うべきことも知っていますが、堕落した肉の重さに押されて、完全なものに昇れません。ああ主よ、善を行い、すすめ、それを完成させるために、私にとってどれほど、神の恵みが必要でしょう。それがなければ、私には何事も出来ません(ヨハネ15・5)。だが神の恵みによって力づけられると、私には何でもできます。実に神の恵みこそ天のものです。それがなければ、私たちの功徳はなく、それがなければ自然のどんな賜も無価値です。主よ、それがなければ、芸術も、富も、善も、強さも、才能も、雄弁も空しいものです。自然本来の賜は、人の善悪にかかわらず、与えられますが、神の恵みは、選ばれた人々に与えられる特別な賜物です。神の恵みは寵愛のしるしであり、これをもてば、人間は永遠の生命に迎え入れられます。神の恵みは、まことにすぐれたもので、それなしには、預言の特能も、奇跡も、崇高な観想も、無価値に等しいのです。そればかりではなく、信徳も、望徳も、その他のあらゆる徳も、愛徳と恵みを伴わなければ、あなたに受け入れられません。心の貧しいものを徳に富ませ、財産のあるものを心の貧しいものとする神の尊い恵みよ、私の心に下ってください。私の霊魂が疲れ、味気無さに倒れてしまわないように、あなたの慰めをもって、私を満たしてください。主よ、御前に受け入れられる者にしてください。私の肉が、他のどんな願いを拒まれられたとしても、私には神の恵みだけで十分です(コリント後12・9)。誘惑され、患難にあっても、それさえあれば、私はどんな災いも恐れません。神の恵みは私の力であり、私に忠告し、力づけるものです。どんな敵よりも強く、この世のどんな知者よりも賢いものです。神の恵みは真理の師、規律のもと、心の光、悩みの解消であり、悲しみを追い、おそれを退け、信心を養い、罪を泣かせます。それがなければ、私は投げ捨てられる無用な枯れ木、枯れ草にすぎません。主よ、神の恵みを常に私の先に立たせ、私に伴わせ、善業に従事させてください。御子イエス・キリストによって、アーメン」。

56・自分を捨て、十字架を担ってキリストにならえ

「子よ、あなたは、自分を捨てれば捨てるほど、私と親しく一致する。外部に何も望まなければ心の平和を得るように、自分から離脱すれば、神との一致が得られる。自分自身の完全な放棄と、なんの不平もなく、御旨に委託することを、私は望む。私に従え(マタイ9・9)。私は道であり、真理であり、生命である(ヨハネ14・6)。道がなければ歩めず、真理がなければ知ることなく、生命がなければ生きられない。私はあなたが歩むべき道であり、信ずべき真理であり、希望すべき生命である。私は迷いのない道であり、あざむき得ない真理であり、終わりない生命である。私は、まっすぐな道であり、最高の真理であり、まことの生命、幸福の生命、永遠の生命である。私の道に止まるなら、あなたは真理を知り、真理があなたを解放し(ヨハネ8・32)、永遠の生命を得るだろう。生命に入ろうと思うなら、私の掟を守れ(マタイ19・17)。真理を知ろうと望むなら、私を信じよ。完徳に達しようと望むなら、持ち物全てを売れ(マタイ19・21)。私の弟子であろうとするなら、自分を捨てよ(ルカ9・23、14・27、マタイ16・24)。永遠の生命を得たいなら、現在の生命を無視せよ。天において高められることを望むなら、この世で小さいものとなれ、私と共に御国に入ろうと望むなら、私の十字架を負え。実に十字架の僕だけが、幸福と真の光の道を見いだすものである。「イエスよ、あなたの歩んだ道は、世間の軽蔑を受けている狭い道ですが、私もそれを歩き、世間から軽蔑され、あなたにならう者になりたいのです。実に『弟子は先生以上のものではなく、下僕は主人以上のものではない』(マタイ10・24)のです。あなたの下僕は、救いを得るために、あなたの生活にならって修行します。読むことも聞くことも、私にあなたのことを語ってくれない者は、私を慰めず、充分喜ばせないのです」。「子よ、あなたは以上の事を悟ったのだから、それを実行すれば、幸せである。『私の掟を保ってそれを守る者は、私を愛する者である。私は、私を愛する者を愛し、彼に自分をあらわすだろう』(ヨハネ14・21)。『そして彼を私と共に、父の御国に座らせるだろう』(黙示録3・21)」。「主イエスよ、仰せられた通り、お約束された通りになりますように。私はあなたから十字架を受けました。確かに御手から受けました。そしてご命令どおりに、それを最後まで荷うつもりです。よい修道者の生活は十字架ですが、同時に天国への道でもあります。私たちは、事を始めたのですから、退くことも、道を変えることも許されません。だから兄弟たちよ、ふるい立って、共に進もう。イエスは私たちと共においでになる。私たちはイエスのために、この十字架を担った、だからイエスと共に担い続けよう。案内者であり先導者であるお方は、同時に助け手でもあり。王が先頭に立ってすすみ、私たちのために戦ってくださる(エズラ24・20)。いさましくキリストに従おう、誰も恐れてはならない。戦って、勇敢に死ぬ覚悟をしよう。そして十字架を捨てて、光栄を汚すことのないようにしよう」(マカベ前9・10)。

57・過ちをおかしても、落胆してはならない

「子よ、不幸のときの忍耐と謙遜とは、幸運のときの慰めと信心よりも、私を喜ばせる。あなたについて言われた、あるいは、された些細なことのために、どうしてそれほど悲しむのか。それ以上のことであっても、あなたはそのために、どうしてそれほど悲しむのか。あなたはそのために心を騒がしてはならない。しかし今は、そういうことを見過ごせ。それは、はじめてのことでも珍しいことでもなく、長生きするなら最後のことでもあるまい。自分の望みに反することが起こらないと、あなたは自分では弱くないつもりになっている。そんな時には、他人に有益な進言をし、他人を力づける言葉も知っている。ところが、突然戸口に患難がおとずれると、さっきの進言と力強さとは消え失せる。小さな患難のときにもよく経験する自分の弱さを考えよ。つまり、そういうことが起きるのも、あなたの霊的な救いのためである。そんなときには、十字架上の私の苦しみを思い出せ。不幸にあっても落胆せず、長くそれに閉じ込められないように気をつけよ。喜んですることができないなら、せめて忍耐して不幸を忍べ。耳に痛いことであっても、また憤りが起こっても、自分をよく抑え、年齢も身分もあなたより下にある人々をつまずかせるような言葉を吐かないように注意せよ。あなたの心に起こった嵐は、すぐおさまる。そして内部の苦しみは、神の恵みによって和らげられるだろう。しゅである私は、いつもあなたのそばにいる(イザヤ49・18)」、私に信頼し、敬虔にこい願えば、私はいつもあなたを助け、常よりも豊かに慰めるつもりである。心を落ち着かせ、大きな試練に耐える心構えをせよ。悩みといざないを感じても、万事が終わったのではないと思え。あなたは、神ではない。人間である。天使ではなく肉である。天における天使、楽園における人祖さえもできなかったことなのに、どうしてあなたが、徳にとどまれようか。人間を回復させ、悲しむ人々に喜びを与える(ヨブ5・11)のは私である。弱さを認める者を、神性に与らせるのは私である」。「主よ、私の口に、蜜よりも甘いあなたのお言葉が祝されますように(詩編19・10)。これほどの患難と試練のなかにある私を、そのお言葉で慰めて下さらなければ、私はどうなったでしょう。救いの港にたどりつけるなら、どれほどの苦しみを忍んでも、それが何でしょう。主よ、善い最後を私にお与えください。私をこの世から安らかにゆかしてください。私の神よ、私を忘れないでください(二エズラ13・22)。真直な道を通って私を御国に導いて下さい。アーメン」。

58・深遠な奥義や、計り知れない神の御旨を、みだりにさぐってはならない。

「子よ、その深遠さにおいて神の知恵に属する御旨について、議論することをさけよ。なぜこの人はこれほど神の恵みから見捨てられているのか、なぜあの人はあんなに恵まれているのか、この人はなぜこれほどの苦しみを受け、あの人はなぜあれほどに重んじられているのか、などと詮索してはならない。これらは全て、人間の理解をこえるものである。神の御旨を探るには、どんな知恵も議論も及ばない。従って、敵なる悪魔が、そういうことをあなたにほのめかし、あるいは、物好きに人から尋ねられたなら、預言者の言葉をかりてこう答えよ、『主よ、あなたは正義であり、あなたの判断は正しい』(詩編118・137)と、そしてまた、『神の裁きは真実で、人の言い訳を必要としない』(同18・10)と。私の裁きは、論ずべきものではなく、おそるべきものである。それは、人の知恵に及ばぬところだからである(ローマ10・3)。また聖人の功徳についても、どの聖人がすぐれているか、神の国においてどの聖人が一層高いかなど、探るべきもなく論ずべきでもない。こういう議論は、喧嘩や無用の論争をひきおこし、高慢と虚栄心をうながし、ここから妬みと不和が生じる。ある人が、この聖人の高さを支持すれば、ある人は他の聖人を称えるようになる。それを知ろう、探ろうとするのは何の効果もないばかりか、かえって聖人たちを不快がらせるものである。私は不和の神ではなく、平和の神である(コリント前14・11)。この平和は、自分の意見に固執することではなく、真の謙遜にある。ある人は、熱心な信心によって、あれこれの聖人を慕う。しかしこの愛慕は、神からのものではなく、むしろ人間的なものである。聖人たちをつくったのは私である。私が、彼らに恵みを与え、光栄に与らせた。私は、各人の功徳を知り、先立って私の喜ばしい祝福(詩編20・4)を与えた。私は、愛する者を永遠から知っていた。そして世間の中から彼らを、恵みを下して呼び出した。彼らの方から私を選んだのではない(ヨハネ15・16、19)。私は彼らを、恵みによって呼び出し、慈悲によってひきつけた。私は様々ないざないを通して、彼らを永遠の救いに導き、すぐれた慰めを与え、不屈の志をそそぎ、その忍耐に栄光を与えた。私は、彼らのうち、一席のものも、末席のものも知り、限りなく愛している。すべての聖人において賞賛されるべきは私だけである。私は、何物にもまさって、彼らの各々において、祝され、称えられるものである。彼らが功徳を積むまえに、私は彼らを光栄に上げ、光栄に予定した。だから、私の小さいものの一人を軽蔑すれば、大きなものも崇めていないことになる。小さい聖人も大きな聖人も私がつくった(知書6・8)。そしてある聖人に与えねばならない賞賛を与えない者は、天の国にある他の聖人をも、私をも、尊ばないものである。彼らは愛の結びによって一つのものであり、同じ感情を持ち、同じ意志をもって、互いに愛し合う。また彼らは、これが最もすぐれたことであるが、自分と自分の功徳より以上に私を愛している。彼らは自分への愛を超越して私への愛を保ち、この愛において喜びと休息とを味わっている。彼らを私から引き離すもの、この高さから彼らを引き下ろすものは何一つない。永遠の真理に満たされた彼らは、尽きることの知らない愛徳の火に燃えている。だから、自分自身の楽しみを愛する事しか知らない肉の人、官能の人は、聖人たちの状態について議論する資格がない。この人々は、永遠の真理にふさわしいことではなく、自分自身の好みによって、聖人たちをあるいは否定し、あるいは肯定する。こうした人々は、とくに天の照らしをあまり受けず、完全な霊的な愛をもって愛することを知らない人々は、無知のために語る。彼らは、本能的な愛情や、人間的な友情によって、あれこれの聖人たちを慕い、天のことが地上のことと同様に行われていると考える。しかし、不完全な人間が考えることと、天の照らしを受けた人が考えることとの間には、比較にならぬ隔たりがある。従って私の子よ、あなたの理解の及ばぬこういうことを、好奇的に探るのを止めよ。むしろ、あなたが神の国において、せめてその末席にでも運ばれるように心掛けよ。天においてどの聖人がもっともすぐれているかを知る人があったとしても、その知識のために、私の前にへりくだり、深く御名を賛美しないなら、その知識は何の役にも立たない。要するに、自分の罪の多さ、徳の少なさ、自分の徳が聖人たちとどれほど隔たっているかを反省する者は、聖人たちの誰が大きい、誰が小さい、と議論する人よりも、はるかに神に喜ばれる。無益な探求をして聖人たちの秘密を探るよりも、敬虔な祈りと涙のうちに、聖人たちの取り次ぎを願うこそ益あることである。人々が議論を避けるなら、それは聖人たちを一層喜ばせることである。聖人たちは自分の功徳を誇らず、どんな善も自分に帰せず、すべてを私に帰する。私は無限の愛をもって、それらすべてを彼らに与えた。彼らは、神への愛に満たされ、豊かな喜びに溢れ、その光栄にも、その幸福にも、何一つ不足がない。どんな聖人も、光栄の高さに至っていればいるほどへりくだり、私に近づき、私から愛される。だから聖人たちは、栄冠を神の御前に置き、子羊の御前にひれ伏し、世々に生きるお方を礼拝した(黙示録4・10)と記されているのを、あなたは読んだであろう。ある人は、神の御国において、誰が一番高いかを探ろうとするが、その自分は最も小さい者のうちの一人にさえ数えられているかどうか。天において一番末席にあることさえ、偉大なことである。なぜなら、そこではすべて偉大なものであり、すべて神の子と呼ばれ(マタイ5・9)、事実、そうだからである。罪人として百歳まで生きても永遠の死を受け、幼く死んでも天において千人の聖人の上に上げられる者もある。そこで、弟子たちが、天の国で誰が一番偉大かと尋ねた時、『あなたたちが、子供の状態に立ち返らないなら天の国には入れないだろう。誰でも、この子供のようにへりくだる人が、天の国で偉大な人である』(マタイ18・3-4)と答えた。自ら進んで、幼児のようにへりくだることを好まない者は、禍である。天の国の門は低く、彼らは入れない。また、この世において、すべての楽しみをもった金持ちも禍である。貧しい者は神の国に入っても、彼らは外に残って嘆き悲しまねばならない。謙遜な者よ、喜べ、貧しい者よ、喜べ、神の国はあなたたちのものである。あなたたちが真理の道を歩み続けるならば」。

59・希望と信頼とを神におく

「主よ、この世での信頼をどこに置きましょうか。この世にあるもののうちで、私の慰めとなるものは、どこにあるのでしょう?無限の慈悲である主なる神以外の、どこにあるのでしょう。あなたなしに、私はどんな良いことを行ったでしょう。またあなたと共にあって、ないものがあったでしょうか?私は、あなたなしに富むよりも、あなたと共に貧しくあることを望みます。私はあなたなしに天を持つよりも、あなたと共に、この世を歩み続けることを望みます。あなたのおいでになるところに、天があり、あなたのおいでにならないところに死と地獄とがあります。あなたは私の切に望むものです。だから、あなたを呼び求めて、嘆き叫びつつ、従って行かねばなりません。私の必要な時、神であるあなた以外の誰に、信頼をもって助力を願うことができましょう?あなたは私の希望(詩編141・6)、私の信頼、万事において私の慰めです。人はみな自分の利益を求めます(フィリピ2・21)。しかしあなただけは、私の救いと霊的進歩だけをのぞみ、私の利益のために、万事を計らってくださいます。あなたは常に、愛する者に試みをお与えになります。その試練の時も、天の慰めで私を満たして下さるときと同様に、あなたは愛され、賞賛されますように。愛する主なる神よ、あなたに拠り所と信頼とをおかせ、あなたに、私の不幸と患難とを捧げさせてください。あなた以外の者は、いずれも弱くはかない物であることを私は知っています。主よ、あなたが私を保護し、助け、慰め、強め、導いてくださらないと、友人が数多くあっても、なんの役にもたたず、有力な後援者も助けにならず、賢明な忠告者のすすめも効果なく、学者の著書も慰めにならず、どんな貴重なものも救われず、どんな避難所も安全ではないのです。平安と幸福をもたらすように思われるものも、あなたがおいでにならないと無に等しく、私を幸福にしてくれません。あなたは、すべての善の目的であり、生命の尊さであり、教えの深遠です。何よりも、あなたをより頼みとすることこそ、下僕の深い慰めです。私はあなたを仰ぎます(詩編140・8)。私の神よ、慈悲の父よ(コリント後1・3)、私はあなたにより頼みます(詩編24・2)。天の祝福をもって私の霊魂を祝し、聖としてください。私があなたの住居か、永遠の光栄の座となりますように。神聖のこの住居に、みいつをけがすものが何一つないように、偉大な慈悲と、限りない憐れみをもって、私をかえりみてください。死の影の地を遠くさすらう哀れな下僕の祈りを聞き入れ、このはかない世の、数多い危険の中で、あなたの小さい下僕の霊魂を守り、保護してください。こうして、あなたの恵みをもって、永遠の光明の国にいたる平和の道に、導いてください。アーメン。

4巻

1・どれほどうやうやしくキリストを拝領せねばならないか。

「これらは同じ時に語られたものではなく、また同じところで言われたものでもありませんが、いずれも、永遠の真理なるキリストの御言葉です。それはあなたの真実の御言葉ですから、私はそれを、忠実な真実な心をもって受けねばなりません。それは、私の救いのために仰せられた御言葉ですから、また私の言葉でもあります。私は、喜んでそれをあなたから受け、ふかく私の心に刻みつけましょう。仁慈と喜びと愛とに満ちた御言葉は、私をはげましてくれます。しかし、私の罪は私をおそれさせ、けがれた良心はこの尊い玄義の理解をさまたげます。御言葉の甘美さは私をひきつけますが、しかし私はおびただしい悪に押さえつけられています。あなたと共に遺産を受けるために、信頼をもって近づけと、あなたはお命じになります。永遠の生命と光栄を得ようと望めば、、不滅の糧を受けよと、あなたは私におすすめになります。「労苦をする者、重荷をおう者は、すべて私のもとに来るがよい、私はあなたたちを休ませよう」(マテオ11・28)と仰せになります。主なる神よ、乏しい者、貧しい者に、聖なるお体を拝領せよと招いてくださるその御言葉は、罪人の身に実にありがたいことです。しかも、あえてあなたに近づこうとするこの私は何者でしょうか?天の広大さもあなたを入れるに足りないのに、あなたは「私に近寄れ」と仰せられるのですか!慈悲深い寛容と、愛にみちた招きはどんな意味でしょうか?私は何一つ善をした覚えはないのに、どうしてあなたに近づけましょう。御前にあってしばしば罪をおかしたのに、どうしてあなたを私の住まいにいれられましょう!天使と大天使とが、御前にあっておそれかしこみ、聖人も御前にあって畏れおののくのに、そのあなたが私に向かって、「近寄れ」と仰せられるのですか?あなたが仰せられた御言葉でなければ、誰がそれを信じましょう。あなたのご命令でなければ、誰があえて近づけましょう。義人ノアは、少数の人々と共に救われるために、百年もかかって箱舟を造りました。それなのに私は、一時間で、適当にうやうやしく全宇宙のつくり主をうけようとするのです。偉大な下僕であり、あなたが特に愛された友人のモーゼは、律法の板をおさめるために、貴い木を使って聖櫃をつくり、それを純金で覆いました。それなのに、みじめな人間にすぎない私は、最高の立法者であり生命の本源であるあなたを、これほど容易に受けようとするのでしょうか。イスラエルの諸王のなかで、知恵に富んだソロモンは、み名をあがめるために、壮麗な神殿を七年かかってつくり、八日間奉献を祝い、平和の生贄を一千頭捧げ、らっぱのひびきと歓呼のうちに、契約の櫃を定めの場所に荘厳に安置したのでした。それなのに、たった半時間さえも敬虔に準備できない私が、―ああ、半時間でなくとも、せめて何分かでも適切な準備をしたいものだ。人間のなかでも最も貧しく哀れな私が、どうしてあなたをこの住居にむかえられましょう。私の神よ、これらの人々は、あなたに喜ばれるために、どれほど努めたことでしょう。それなのに、私のするのは、どんなに少ないことでしょう!あなたを受ける準備をするのに、どんなに短い時間ですませることでしょう!私には、完全にあなたを思うときは少なく、気をちらさないときは殆どないといってよいのです。それにしても、救いをもたらすあなたの神性がくだるときは、不適当な考えをすべて捨て、どんな被造物のことも忘れていなければならないはずです。そのとき私が受けるのは、一人の天使ではなく、天使たちの主を、住まいに迎えるからなのです。実に、契約の櫃とそのなかの尊いものと、至聖のお体とその限りない聖性との間には、大きなへだたりがあります。未来の前表であったその生贄と、昔の生贄の実現であるあなたのお体の生贄との間には、何というへだたりがあることでしょう。それなのに、なぜ私は、礼拝すべきあなたの御前にあって、これ以上燃え立たないのでしょう?昔の太祖と預言者、諸王、諸君主、全人民は、深い敬虔をもって神を礼拝したのに、なぜ私は、聖なる秘跡を、深い熱心をもって準備しようとしないのでしょう?敬虔なダビデ王は、その昔、先祖たちに与えられた恩恵を思い、聖櫃の前で一心に舞い、楽器をつくらせ、詩編を記し、それを歌わせ、自分でもしばしば聖霊にうながされて、喜びのうちに竪琴をとって歌い、全身をあげて神を賛美し、日々声を合わせて、神を祝し讃えよとイスラエルの人々に教えました。昔、それほどの敬虔があらわれ、契約の櫃の前に、神への賛美がのぼっていたのなら、キリストの聖体の秘跡を拝領するとき、私に、そしてすべてのキリスト信者の心に、心からの、敬虔と熱心とがなければならないのです。人は、聖人の遺物を見るために各地を訪れ、その功績を聞いて感嘆し、荘厳な大聖堂に目をみはり、絹と黄金とにつつまれている遺骨に接吻します。しかし、ここ、私のかたわら、祭壇の上に、いと聖なるあなた、人類の創り主であり、天使たちの主なる神がおいでになります。巡礼の場合は、しばしば人間的な好奇心と、新しいものを見たい望みにかられがちであって、そのために、特に軽薄な行動に流れやすく、まことの痛悔もなく、生活を改める効果も生じないのです。しかし、ここ、祭壇の秘跡では、あなたがそのまま、神としてそして人間キリスト・イエスとして(テモテ前2・5)完全においでになります。ここで、適切な敬虔をもって聖体を拝領すれば、そのたびに、永遠の救いへの、豊かな実が結ばれます。人は、軽薄、好奇心、官能の快さのためにこの秘跡にひかれることはありません。そこにひきつけるものは、固い信仰、熱い希望、真実な愛徳にほかなりません。全宇宙の創り主よ、かくれた神よ、私たちに対する御業はなんとおどろくべきことでしょう!秘跡において御自身をお与えになる選ばれた者たちに対して、どれほどのやさしさと憐みとをお示しになることでしょう!実にそれは、私たちの理解の及ばぬところで、あなたを愛する者たちの心をひきつけ、その愛を燃え立たせます。生涯にわたって悔い改めに努める誠の信者は、この至聖の秘跡から、信心の偉大な恵みと、徳への愛とをくみとるのです。ああ、秘跡の感嘆すべくひそかな恵み!それは、キリストの忠実な弟子のみの知ることであり、無信仰のもの、罪の奴隷である者に経験できません。この秘跡によって恵みが与えられ、失われた徳と、罪によって汚された美とが霊魂にもどります。その恵みは偉大なものですから、うけた敬虔がみちあふれ、心だけではなく、弱い体さえも力づくのを感じます。しかし、私たちは自分の生ぬるさと怠慢とを悲しみ、嘆かねばなりません。私たちには、救われる人々の依り頼みであり、功徳であるキリストを、拝領しようという熱望が欠けているのです。主はまことに、私たちのあがないと成聖(コリント前1・30)であり、旅人である私たちの慰めであり、聖人の永遠の喜びです。天を喜ばせ、全世界を救うこの救いの奥義を、多くの人が無視するのは、悲しいことです。この偉大な賜を尊ばず、日々それを受けていながら殆どそれに注意しないのは、人間の心の盲目さと頑なさをあらわしています。この秘跡が、全世界でただ一か所、ただ一人の司祭によって捧げられるなら、神の秘跡を見ようとして、人々は、そのところの神の司祭のもとに集い寄るでしょう。しかし今、多くの司祭があり、多くのところでキリストが捧げられているのは、聖体が全世界に多く捧げられれば捧げられるほど、人間への神の愛と恵みとがあらわれるからなのです。聖体とおん血をもって、貧しいさすらい人の私たちを養い、「労苦する者、重荷を負う者はみな来るがよい、私はあなたたちを休ませよう」(マタイ11・28)との御言葉によって、この秘跡を受けよと招く永遠の牧者イエス、あなたに感謝いたします」。

2・聖体の秘跡において、神の仁慈と愛とが人にあらわされる

「主よ、私はあなたの仁慈と慈悲とに信頼し、病人としては医者、飢え乾くものとしては生命の泉、乞食としては天の王、下僕としては主人、被造物としてはつくり主、慰めなきものとしては、慰め主であるあなたに近寄ります。しかしあなた御自身、私のもとを訪れてくださるのですか?(ルカ1・3)。私が何者だから、あなたはご自身を私にお与えくださるのですか?私のような罪人が、どうして御前に出、あなたがどうして罪人のもとにおくだりになるのですか?あなたは、下僕が、その賜を受ける価値のないことを知っておられます。私は、自分のみじめさを告白し、あなたの慈しみを認め、憐れみをたたえ、その愛に感謝します。主よ、あなたのなさることは、私の功徳によるのではなく、ただあなたの慈悲によります。それはあなたの慈しみを、より一層私に知らせ、私の心に一層愛を強め、私の謙遜を一層深めるためです。したがって、それは御心を喜ばせることです。私は、そうせよとご命令になったあなたの恵みを喜び、自分の罪がその妨げとならないように、ひたすら願っています。ああ、慈しみに満ちたイエスよ、私たちはどれほどのうやうやしさ、どれほどの感謝、どれほどの賞賛を捧げなければならないことでしょう!あなたは、人間の想像をゆるさぬ至高の威厳をそなえたお体を、私たちに受けさせてくださいます。私としては、充分な尊敬をあなたに捧げることができません。しかし敬虔に主に近づくとき、その聖体拝領のとき、何を考えるべきでしょうか?御前にへりくだり、あなたの無限の愛をほめたたえる以上の、有益なよい思いがあるでしょうか?神よ、私はあなたを賞賛し、永遠に賛美します。深くへりくだって、自分のみじめさを思い知り、全くあなたに服従します。主よ、あなたは至聖なるお方であり、私はみじめな罪人です。私はあなたに目を上げる価値もないのに、あなたは私のほうにかがんでくださいます。あなたは私に近づいて、私と共にいることを望み、あなたの宴に私を招いてくださいます。あなたは、天の糧、天使のパンを私に食べさせてくださいます。そのパンとは、あなた御自身であり、天からくだって、世に生命を与えるいきているパンなのです(ヨハネ6・33、51)。ああ、神の愛の泉、あなたの寛容の広さ深さ!そのあなたをどう讃え、どう感謝してよいでしょう!私の神よ、この秘跡を定めたのは、ほんとうに私の救いのためでした!ご自身を糧として与えてくださるこの宴の、なんという喜ばしさ!主よ、あなたの御業は、輝かしくあなたの力は強く、あなたの真理は深い!あなたが仰せられれば、すべては行われ、すべてはご命令の通りになります!神なる主よ、まことの神、まことの人であるあなたが、パンとぶどう酒との小さい形の下においでになり、あなたを拝領してもつきないとは、これこそ不思議なこと、信ずべきこと、人のさとりえないことです。何人をも必要とされぬあなたが、その秘跡によって、私たちとともに住もうと望まれるのです(マカベ後14・35)。宇宙の主よ、私が清く喜ばしい心をもって、あなたの秘跡をおこない、あなたが主として、その光栄の不滅の記念として設定された秘跡を、私の永遠の救いのためにふさわしく受けるよう、私の心と体とを汚れなく保ってください。ああ、私の魂よ、涙の谷にあって、あなたの受けるこの尊い賜、ありがたい慰めによって喜び、神に感謝せよ。あなたがこの奥義を繰り返し、キリストのお体を、拝領するたびに、あなたは自分の救いのわざを行い、キリストの徳にあずかるのである。実にキリストの愛は減ずることなく、無限のあがないはつきることがない。だから、常に心を新たにし、この秘跡を受ける準備をし、この救霊の奥義を深く瞑想しなければならない。ミサを立て、ミサを拝聴するごとに、丁度この日、キリストがはじめて乙女の胎にくだって、人間となられたのだ。また、丁度この日、十字架にかかって、人間を救うために苦しまれたのだ、と考え、この奥義の偉大さ、新しさ、喜ばしさを思い返さねばならない」。

3・しばしば聖体を拝領するがよい

「主よ、あなたの恵みを受けるため、また、深い慈悲によって貧しい者のためにそなえた(詩編67・11)聖なるうたげを楽しむために、私はあなたに近づきます。私の望むもの、望むべきものは、すべてあなたのうちにあります。あなたは、私の救い、私の贖い、私の依り頼み、私の力、私のほまれ、私の光栄です。今日、あなたの下僕の心を喜ばせてください。主イエスよ、私は、あなたに心を捧げます(詩編85・4)。今私はあなたを、信心と尊敬とをもって拝領したいと望みます。ザケオのように、あなたに祝福され、アブラハムの子の一人に数えられるために、あなたを、私の住まいに迎えたいのです。私の霊魂は、あなたのお体を待ち、私の心は、あなたとの一致にあこがれています。主よ、あなたご自身をお与えください。そうすれば私は、満ち足ります。あなた以外に真実の慰めはありません。私は、あなたなしにいられず、あなたの訪れなしには生きられません。ですから、私は、しばしばあなたに近づいて、永遠の救いに必要な助けを受けるために、あなたを拝領せねばなりません。この天の糧がなければ、私は、途中で、倒れてしまいます。慈悲深いイエスよ、あなたは群衆に話し、さまざまの病気を治しておられたとき、こう仰せられました。「私は彼らを飢えたまま帰らせたくない、恐らく途中で疲れはてるだろう」(マタイ15・32)と。信者への慰めのために、秘跡においてご自身を残されたように、今、私に対してもそうしてください。あなたは霊魂の糧です。あなたをふさわしく拝領する者は、永遠の光栄にあずかり、その世継となるのです。罪に倒れ、すぐ失望し、力を落とす私には、しばしば祈りと告解と、そして聖体の拝領とをもって、自分を新たにし、浄め、燃え立たせる必要があります。長くあなたを受けずにいると、やがて聖なる決心を忘れてしまうでしょう。人は感覚によって、小さい時から悪にいざなわれやすいものです(創世記8・21)。神の薬の助けがなければ、人間は、悪に傾いてしまいます。しかし、聖体拝領は、人をその悪から遠ざけ、よい道を続けるために励ましてくれます。聖体拝領を行い、ミサをたてる今も、私はまだ義務を怠り、冷淡なのですから、その聖い薬を飲まず、その偉大な助けを求めなかったら、私はどうなることでしょう。私は、日々ふさわしくあなたを拝領する準備がなく、ミサをたてる準備も足りません。がしかし適当な時に、この聖なる奥義にあずかり、この恵みを受ける心構えをするように、努力するつもりです。死すべきこの体をもち、あなたから離れてこの世を旅しつつある間の、忠実な霊魂のただ一つの慰めは、しばしば神を考えて、愛するお方を敬虔に拝領すること以外にないのです。私たちに対するあなたの愛を、何に例えましょう。主であり、神であり、すべての霊のつくり主で、生かすお方であるあなたが、貧しい霊魂にまでくだり、その神性と人性とをもって、霊魂の飢えを満たしてくださるとは!神を敬虔に拝領し、拝領することによって、霊的な喜びに満たされる霊魂と心とは、何と幸福なことでしょう。その霊魂は、偉大な主を受け、貴い客を宿します。喜ばしい仲間、忠実な友、あらゆる愛する者にまさって愛すべきもの、あらゆる慕わしいものにまさって慕わしいお方を抱くのです。甘美な愛よ、御前にあっては、天のものも沈黙せよ、天にある賞むべきもの、賛うべきものは、あなたの仁慈のたまものであり、限りない知恵の、その御名の輝きに、はるかに及ばないものなのです」。

4・敬虔に聖体を拝領する者は、豊かに恵まれる。

「主なる私の神よ、先にあなたの恵み(詩編10・4)を下さり、あなたの尊い秘跡に、ふさわしく近づかせてください。私の心を燃え立たせ、私のものうさを捨てさせ、救いの恵みをもって私を訪れてください(詩編105・4)。そうすれば私は、この聖なる秘跡の、泉のような喜びを、霊魂で味わうでしょう。それを信じ得るように、信仰を強めてください。それは人間の力によることではなく、あなたのなさることです。天使の知恵さえも、及ばないこの事実を、人は自分の知恵だけで理解することも会得することもできません。まして、みじめな罪人であり、塵と灰にすぎない私が、この深い神秘を、理解できるものでしょうか。主よ、私は、心の単純さと、純粋な信仰と、あなたの命令に従う希望と尊敬とをもってあなたに近づき、神として、人間として、あなたがこの秘跡においでになることを、確かに信じます。私があなたを受け、愛によって一致することを、あなたは望んでおられます。ですから私は、あなたの慈悲をこい、特別な恵みをお与えくださるように祈ります。あなたの中に全くとけこみ、あなたへの愛にみちあふれ、他のどんな慰めにも目を向けないようにしてください。この至高至尊の秘跡は、霊魂と身体との救い、霊的な病の薬であって、これによって私の悪は直され、邪欲は抑えられ、いざないは敗け、または亡ぼされ、恵みは豊かになり、徳はますます高まり、信仰は強められ、希望は力づき、愛徳は熱し、そして広がるのです。私の霊魂の慰め、人間の弱さの支持、内的な慰めの与え主である神よ、あなたは、敬虔にお体を拝領する弟子たちに、この秘跡において、多くの善い物を与えつづけてくださいます。あなたは患難のときに慰めを与え、落胆の底からご保護への信頼に引き上げ、新たな恵みをもって心を励まし、照らしてくださいます。こうして、聖体拝領の前に、愛を知らなかった不安な人々は、天の食物と飲み物に力づけられ、自分たちが善くなったと感じます。あなたが、選ばれた者たちにこうしてくださるのは、かれら自身がどれほど弱い者か、あなたからどれほどの恵みを受けるかを、心底から認めさせ、明らかに体験させるためです。彼だけでは、冷たく、固く、不信心なものですが、あなたの助力によって、熱心になり、活発になり、敬虔になります。謙虚な心をもって甘い泉に近寄り、その甘さを受けずに去るものはないでしょう。燃える火のかたわらにあって、その熱を受けない者はないでしょう。そして、あなたは、常に満ち溢れる泉であり、つきることなく燃えさかる火であります。私は、この泉から充分にくめず、あきるほど飲めない人間です。しかし、いくらかでも渇きを癒し、全く渇ききることのないように、その泉の一滴を受けようとして、天の器に近寄ります。私はケルビムやセフィラムのように天まであげられず、神の火に燃え立っていません。しかし、信心を強めようと努力し、謙遜に子の生命の秘跡を拝領することによって、神の愛の焔からいくばかりかの熱を受けようと努め続けます。イエスよ、救い主よ、私の足らないところを、あなたの慈悲と恵みによって補ってください。あなたは「労苦する者、重荷を負う者は、すべて私に来なさい。私はあなたを休ませよう」(マタイ11・28)と仰せられて、すべての人をお召しになりました。私は額に汗して苦労し、心は苦しみもだえ、罪の重荷におさえられ、いざないに悩まされ、邪欲にとりまかれています。私の主なる神、私の救い主よ(詩編24・5)、あなた以外に、私を助ける者はなく(同21・12)、私を解放する者もなく、私を救う者もありません。それゆえ、あなたに、私と私のものすべてを委ねます。私を救い、永遠の生命に導いてください。食物と飲物としてあなたのお体とおん血とを賜うた主よ、御名の誉れと光栄とのために、私を受け入れてください。私の救い主、主なる神よ(詩編26・9)、あなたの秘跡を受けるにしたがって、私の心に敬虔の熱を燃やしてください」。

5・秘跡の尊さと司祭職

「私がもし天使のように清く、洗者ヨハネのように聖徳をもっていても、この秘跡を受け、あるいは扱うにたる者ではありません。キリストの秘跡を扱い、天使のパンを食すること、これは、人の功徳によることではありません。秘跡の偉大さよ、天使にもゆるされない任務を与えられた司祭の威厳の偉大さよ。公教会において、正当に敍品された司祭だけに、ミサをたて、キリストのお体を聖別する権利が与えられました。かくて司祭は、神の役者であり、神の命令と設定とによって、神の御言葉を用います。つまりそこにおいて、神は、主な作者であり、目に見えない行為者であります。神が望む者は、すべて神に従い、命令されたものは、すべて神に奉仕します。だから、この至聖の秘跡においては、自分の五感とその他の見えるしるしよりも、全能の神を信じなければなりません。おそれと尊敬とをもって、この秘跡に近づかねばなりません。司祭の按手によって、あなたにどれほどの聖職がゆだねられたかをよく反省し、理解するがよい(テモテ前4・16、14)。かえりみよ、あなたは司祭に敍品され、ミサを立てるために聖別されました。それなら、聖なる生贄を忠実と敬虔とをもって神に捧げ、万事において咎なき者となるように心掛けるがよい。あなたは司祭職を受けることによって、荷が軽くなったのではなく、一層きびしい規律の束縛を受け、聖徳を更に完全にする義務を担ったのです。司祭は、すべての徳で飾られ、他人によい生活の模範を与えねばなりません。司祭は一般の人が歩む道に従わず、天の天使か、あるいはこの世の完全な人々としたしまねばなりません(注:キリストは、『医者がいるのは健康な者ではなく病人である』と仰せられている。したがってここは、司祭が相手にするのが善人だけという意味ではない。司祭と選ばれた霊魂との親しみはよいが、使徒職としての罪人とのまじわりも、彼らの救いのために、時として義務である)。祭服をつけるとき、司祭はキリストの代理ですから、自分自身とすべての人々のために、謙遜に切に神に祈らねばなりません。また絶えずキリストの受難を思い出すために、祭服の前と後に、主の十字架をつけています。前には、カズラに十字架をつけていますが、それは忠実にキリストの模範をみつめて、熱心にそれをまねるためです。後ろに十字架をつけているのは、他人からの迫害を、神のために忍耐することを学ぶためです。前に十字架をつけているのは、自分の罪に泣くためであり、後ろに十字架をつけているのは、他人の罪をあわれんで泣き、自分が神と罪人との間の仲介者として立っていることを忘れないためであり、神の恵みとあわれみをこい求めて祈り続け、聖い生贄を捧げることを知るためです。司祭がミサをたてるときには、神に光栄を帰し、天使を喜ばせ、教会の徳をたて、生者を助け、死者に休みを与え、自分を天の善にあずからせます」

6・聖体拝領の準備のための祈り

「主よ、私はあなたの偉大さと自分のみじめさを思いくらべて、全身ふるえおののき、恥じ入らざるをえません。聖体に近寄らねば私は生命から逃げるのであり、またふさわしい準備なしに拝領すれば、あなたを侮辱するのです。私の唯一の助けよ(イザヤ50・7)、私の困難のときの指導者なる神よ。主よ、ふさわしい道を教え、聖体拝領に適当な効果的な短い信心をさせてください。あなたのこの秘跡を、救いに効果あるものとするために、どのようにして受ければいいか、この偉大な神の生贄を行うに当たり、自分の心を敬虔にうやうやしく備えるには、どうすればいいかを、知るのは、私にとって役にたつことです」。

7・良心の究明とよくなろうとする決心

「司祭は、この秘跡を行い、取り扱い、拝領するにあたって、何よりも深い謙遜と、最上の尊敬と、信仰と、神のご栄光を乞い願う敬虔な意向をもたねばならない。良心を一心に糾明し、真の痛悔と謙虚な告解によって良心を清めよ、それは一切の大罪の意識と呵責を持たずに、自由な心をもって聖体に近づくためである。あなたの罪を、すべて、全般にわたって痛悔し、特に毎日の過失を嘆き悲しめ。またもし時間がゆるせば、心の中で、ひそかに邪欲の罪を神に告白せよ。嘆き悲しめ、あなたがまだ物質にとらわれ、世間に従っていることを。邪欲がまだ抑えきれず、欲に傾き、五感をつつしまず、しばしば無駄な空想に悩まされていることを。外部の事柄に興味を持ち、内的な事柄をないがしろにしていることを。笑いと娯楽を喜び迎え、涙と痛恨とを好まないことを。安楽と安逸とに傾きやすく、厳しい生活と熱心とを求めるにものういことを。新しいことを聞き、美しいものを見ることを好み、卑しいこと、質素なことを受けるのを嫌がることを。たくさんのものを持ちたがり、与えることを惜しみ、持っているものを握って離さないことを。話すときに軽薄で、沈黙を知らないことを。態度は不謹慎で、過度な行動をとることを。食をむさぼり、神の御言葉に対しては耳が遠いことを。休むのは早く、働くのは遅いことを。無駄話は好んで聞き、祈りのうちに夜をすごす時は眠たがり、早く祈りを終わろうとし、気を散らすことを。聖務日課を唱えるのに怠惰、ミサには冷淡、聖体拝領には無感動であることを。すぐ放心し、ほとんど神を思うことを知らず、怒りやすく、すぐ他人を不愉快にさせ、他人を裁きやすく、きびしく他人を非難することを。幸運のときには狂喜し、不幸のときはすぐ弱りこむことを。しばしばよい決心をたてるが、ほとんどそれを実行しないことを。あなたは嘆き、そして改めなければならない。自分の弱さを思って、切に悲しみ、痛悔し、以上のべたことや、その他の短所を告解して、その後、生活を絶えず向上させ、一層徳に進む固い決心をたてよ。聖なるあきらめを持ち、強い意志をたてて、あなたの霊魂の祭壇の上に、私の光栄のためにたえざる生贄としてあなたを捧げ、あなたの霊魂と心とを全く私にゆだねよ。こうすればあなたは、ミサの生贄をふさわしく捧げ、救いのために私の聖体の秘跡を受けられるようになるだろう。罪を清めるために、ミサと、聖体拝領のときに、キリストのお体と共に自分自身を清い心で捧げるほど、私にふさわしい生贄も、つぐないもないと思え。もし人間が、自分でできるだけの努力をして、心からの痛悔をするなら、恵みとゆるしを受けようとして私を拝領するたびに、『罪人の死をのぞまず、その改心と更生をのぞむ』(エゼキエル33・12)、『私に近寄れば(と主は仰せられる)私はもはやその罪を思いださず」(ヘブライ10・17)、かえってそのすべてを許すと約束する」。

8・十字架の生贄と、キリストへの自己の奉献

「十字架上に腕を広げ、裸の身でもって私は、自ら進んであなたの罪のために、自分を御父に捧げた。神のお怒りをなだめるために、私は、何物も残さず神にささげた。それと同時にあなたも、日々ミサにおいて、清い生贄として、心の愛と力とをもって、すすんであなた自身を捧げねばならない。私は、あなたが私のために、自分を捧げようと努める以外の、何物も要求しない。あなた自身以外のものは、何一つとして私を喜ばせない。私が望むのは、あなたの捧げものではなく、あなた自身である。あらゆる物を所有していても、私を所有しなければ、あなたは不満足だが、あなたが自分自身を捧げなければ、私としては何を捧げられても喜ばない。自分自身を私に与えよ、神への愛のために、自分のすべてを捧げよ。そうすればあなたの捧げものは受け入れられるだろう。私はあなたのために、父にすべてを捧げた。私は全くあなたのものとなり、あなたの愛となるために、この体をあなたに与えた。もしあなたが、自分を保留し、御旨に自分を捧げようとしないなら、あなたの捧げものは完全ではなく、私とあなたとの一致も完全ではない。だから、あなたが、心の自由と神の恵みとを得たいと思うなら、すすんで自分を神の御手の中に捧げることこそ、何よりも先に行わねばならないことである。神の光に照らされた自由な人が少ないのは、自分を完全に捧げることを知る人が少ないからである。私の言葉は不変である。『持っているすべての物を捨てないなら、その人は私の弟子ではない』(ルカ14・33)と私は言った。あなたが私の弟子になろうと思うなら、あなた自身とあなたのすべての愛を私に捧げよ」。

9・自分と自分のすべてを神に捧げ、すべての人のために祈る

「主よ、天にあるもの、地にあるもの、すべてはあなたのものです。自ら、すすんで自分を捧げ、永久にあなたのものとなることを私は望みます。主よ、純真な心で、今日、永久の下僕として、生贄として、永遠の光栄の捧げものとして、私自身をあなたに捧げます。目に見えずとも、ここにあずかる天使たちの前で、聖体の生贄と一致して、私が今日捧げる生贄をお受けください。この生贄が、私と全ての人々とのために、救いとなりますように。主よ、あなたの贖いの祭壇の上で、私がかつて罪を犯し始めた日より今に至るまで、あなたと聖い天使たちの前でおかしたすべての罪と過失とを捧げます。あなたは愛の火でそのすべてを焼き尽くし、私の汚れを清め、赦免を与え、平和の接吻で、あわれみ深く私を迎え、罪によって失われた神の恵みを再びお与えください。罪を謙虚に告白し、ゆるしをこい願いつつ泣き悲しむ以外に、私に何ができましょう。慈悲をもって私の願いを聞いてください。私は御前にひれ伏してお願いいたします。ああ、神よ!私はおかした罪を切に痛悔し、もはや二度と犯さないと決心します。この罪を生涯悔やみ続け、できる限りつぐないをする覚悟です。ゆるしてください、私の神よ。御名のために、私の罪をゆるしてください。尊い御血によって贖われた私の霊魂を救ってください。私はあなたに依り頼みます。私の悪意と罪とによってではなく、憐れみをもってお扱いください。まことに少なく不完全なものではありますが、私の持つすべての善を捧げます。あなたがこれを清め、聖化し、あなたのお気に召すもの、一層完全なものとし、更にまた、怠惰無用の小さな私を、あなたの誉れと永遠の救いを確保する、かの終点まで導いてください。また、あなたを信じる人々の敬虔な望み、両親・友人・兄弟・姉妹、すべて愛する人々、あなたへの愛のために、私や他の人々に善をしてくれたすべての恩人の必要とするものを捧げます。自分と、自分の愛する人々のために、私の祈りとミサとを願った人々が―まだ生きている人々も、もうこの世にいない人々も、神の恵みの助力と慰安、危険のときの保護、苦痛の解放を味わい、不幸をぬけ出て、喜び勇んであなたに、真心からの感謝を捧げますように。また私の祈りとなだめの生贄を、ときに私を傷つけ、悲しめ、侮辱し、損害か煩いを与えた人々のために、あなたに捧げます。さらに、私がいつか、悲しめ、不安にし、故意か偶然か、言葉と行いとによってつまずかせた人々のためにも捧げます。私たちの罪と相互の過失を、皆に等しくゆるしてくださるように願います。主よ、私たちの心から、猜疑と不快と憤怒と不和とを、そして、愛徳をそこない、兄弟愛を減じる一切のことを遠ざけてください。主よ、あなたの憐みを乞う者をあわれんでください。必要とする者に恵みを与え、私たちをあなたの恵みを受けるに足る者とし、永遠の生命に歩ませてください。アーメン」。

10・聖体拝領を平気で怠ってはならない

「邪欲と悪業を癒され、悪魔のいざないと罠とに対して、よく警戒し、一層強くなろうと思うなら、しばしば、神のあわれみの泉、いつくしみと清さの泉に近づかねばならない。敵は、聖体にどれほどの効果があるかを知っているので、あらゆる方法と機会をとらえて、敬虔な信仰者を、できるだけ聖体から遠ざけよう、妨げようと努めている。そこで、信仰者は、聖体拝領の準備をしようとする丁度そのとき、サタンの悪い誘いに悩まされることがある。ヨブ記(1・6、2・1)に記されているように、悪霊は、例の通りの悪意をもって、神の子たちを動揺させ、恐れさせ、ためらわせる。聖体拝領を全くやめさせるか、少なくとも冷淡にならせようとして人の心にもぐりこみ、神への愛をうばい、突然襲撃して信仰を奪い取る。しかしその悪だくみや、みだらな暗示が、汚らわしく恐ろしくても、それを重視せず、むしろその考えを相手に投げ返さねばならない。浅ましいその霊は、軽蔑と虫と嘲弄を受けるべきものである。私たちを攻撃し動揺させようとしても、そのために聖体拝領をやめてはならない。時にはまた、十分な敬虔を持ちたいと思って心配しすぎたり、告解に不安を抱いたりして、聖体拝領をためらうこともある。このときは、知識のある人々の意見に従い、神の恵みを妨げ、霊魂の信心を壊し去る不安と小心とを、取り去らねばならない。一寸した不安やわずらいがあっても、聖体拝領をやめることなく、できるだけ早く告解しよう。他人から受けた過失を心からゆるし、もしあなたが誰かほかの人に過失を犯したなら、謙遜な心をもって、ゆるしを願え、そうすれば神は、すぐゆるしてくださる。告解や、聖体拝領を後に延期して何の役にたつだろう。できるだけ早く自分の心を清めよ、すぐさま毒を吐き出せ。薬を早く飲め、そうすれば、ずっと爽快になるだろう。もし今日何か理由があって、拝領をやめるなら、明日はもっと重大な理由が起こるかもしれない。こうしてあなたは、長く聖体を拝領しないことになり、聖体拝領のために、一層ふさわしくなくなる。できるだけ早く、心を重苦しくしているものを下し、不熱心をぬぐい去れ。長く不安のうちにおり、心配な生活をし、日々のあれこれの妨げのために聖体拝領を怠ることは、何の役にも立たない。むしろ聖体拝領を長くしないでいると、大きな損害を受け、危険な冷淡さを必ず生むに違いない。残念なことであるが、信心の生ぬるい、心の散漫な人は、機会を見つけては告解をのばし、聖体拝領を怠り、自分を警戒する義務を逃れようとする。ああ、聖体拝領を平気で怠る人々は、何と乏しい信仰と弱い愛しか持ち合わせていないことだろう。ゆるされるなら、毎日でも聖体拝領できるほど、清く良心を守って生活する人は、何と幸せで、神に喜ばれることだろう。時として謙遜のために、また何か正当な理由があって、聖体をひかえることがあれば、その聖体への尊敬の念はほめられてよい。しかしひかえる場合にも、そこにいくらかでも冷淡があるなら、できるだけ熱心を振るいおこすようにしなければならない。そうすれば主は、そのよい望みを見て(主が一番御目にとめられるのはこれだ)、助けてくださるだろう。正当な理由がある場合にも、せめて聖体を受けたいという熱心な望みと、敬虔な意向を、もたねばならない。そうすれば、秘跡の効果を失うことはない。どんな信者でも、毎日、いつでも、なんの困難もなく霊的に聖体を拝領して、多くの利益を得ることができる。定めの日には、愛と尊敬とをもって、秘跡にこもる救い主のお体を受けるがよい、そのときには、自分個人の慰めよりも、神のほまれと光栄とのためにせねばならない。信者は、キリストご自身の神秘を、敬虔に黙想し、キリストに対する愛を奮い起こすたびに、神秘的なこの宴にあずかり、目に見えない糧を受ける。しかし祝日だけに、あるいは習慣のためだけに、聖体に近寄る人には、適当な準備のない場合がよくある。ミサをたて、あるいは聖体を拝領するたびに、自分を生贄として主に捧げる者は、幸せである。聖なる生贄を捧げる時は、余り早くしてはならないが、長たらしくしてもいけない。これについてはよい人々の習慣にならえ。あなたは他人をわずらわせたり、退屈させたりしてはならない。先人の定めにしたがって、普通どおり行い、自分だけの信心と慰めを目的にせず、他人の利益をかえりみなければならない」。

11・敬虔な霊魂には、キリストのお体と聖書とが必要である

「主イエスよ、あなたと共に、あなたの宴に集まる敬虔な霊魂の楽しみはいかばかりでしょう。そこでは、霊魂にとって望ましいが上にも望ましく慕わしいあなたご自身を、糧としてお与えになります。涙であなたの足をぬらした敬虔なマグダラのマリアのように、あなたの御前で、にごりない涙を流したら、それは私にとって何と喜ばしいことでしょう。しかし、そんな敬虔を、私はどこに持っているのでしょう?どこにそれほど豊かな涙を持っているのでしょう?あなたの天使たちの前にあって、私の心は、愛に燃え、余りの喜ばしさに泣くばかりになりたいものです。この秘跡においてあなたは、形の下に真実においでになるのですから。主よ、もし私が、神としてのあなたの限りない光輝を仰げば、私はその光輝にたえず、そして全世界も、御稜威の輝きを耐え忍べないのです。あなたがこの秘跡の形のもとにおいでになるのは、私の弱さをご存じだからです。私は、天使たちが天において礼拝するお方を、真実に受け、礼拝しています。ただ私は信仰によってあなたの光輝をながめ、天使たちはありのままにそれを眺めます。私の上に永遠の光明の日が訪れ、形の影が消え失せるまで(雅歌2・17、4・6)私は、まことの信仰の光で満足せねばなりません。しかし『完全なものが来るとき』(コリント前13・10)秘跡の必要はもうなくなるでしょう。天の光栄のうちにある聖人には、もう秘跡の必要はないでしょう。天の光栄のうちにある聖人は、もう秘跡という薬を必要としません。彼らは神の現存を限りなく味わい、顔と顔とを合わせてその光輝を眺め、絶妙な神性の反映を受けて、光栄から光栄にと進み、元あったままに、肉体となられた神の御言葉を永遠に味わいます。こうした神秘を考えるとき、どんな霊的な慰めも、私には重苦しい退屈なものに見えてきます。主をありのままに、そのご光栄のうちに眺めるまでは、この世で見ること聞くことは、すべて何の価値もないことばかりです。私が永遠に眺めたいあなた以外のどんなものも、私の慰めにはならず、どんな被造物も私を満足させないことは、あなたがご存じです。しかし、私が朽ちるべきこの体をもっている間は、それは望み得ないことです。故に私は、忍耐をもって固く武装し、私の望みをあなたに従わせなければなりません。今あなたと共に、天で喜びおどる聖人たちも、この世にいた間は、信仰と忍耐とをもって、あなたを待っていました。私も彼らの信じたことを信じ、彼らが期待したことを希望します。彼らが達したところに、あなたの恵みによって、私も達したいと思います。それまでは聖人たちの模範に励まされ、信仰をもって進みます。聖書を、私の慰めとし(マカベ前12・9)、生活のかがみとし、特にあなたの聖体を私の妙薬とし、避難所としましょう。私は、特にこの世で二つの必要なものがあることを痛感します。それがなければこの悲惨な世を、私はしのびきれないでしょう。この肉体の牢獄にいる私は、糧と光りの二つを求めています。そこであなたは、弱い私の体と霊魂の糧として、聖体を与え、私のゆく道を照らす光りとしての御言葉(詩編128・105)を与えてくださいました。この二つがなければ、私は生きることができません。神の御言葉は私の霊の光明であり、秘跡は生命のパンだからです。以上の二つはまた、聖なる教会の宝庫にある二つの食卓です。一つは祭壇の食卓であり、聖パン、すなわちキリストのお体をのせてあります。他の一つは、神の律法の食卓であって、聖なる教えをのせ、正しい信仰を教え、墓をとおして至聖所まで(ヘブライ6・19、9・3)確実に私たちを導いてくれます。あなたの下僕である預言者、使徒、博士たちによって、私たちのために整えてくださった、教えの食卓を思い、永遠の光明の光明なる主イエスに、感謝いたします。全世界にあなたの愛をあらわすために、前表にすぎない子羊ではなく、ご自身のお体と御血とを食べさせる盛んな食卓を準備し、聖なる宴をもって信者すべてを喜ばせ、救いの盃に酔わせてくださる創り主、救い主に感謝します。そこには、天国の歓楽があり、一層うれしいことには、天使たちもここに共に集うのです。聖変化の言葉をもって、御稜威高き主を呼び、自分の口で祝福し、自分の手で受け、自ら拝領し、他人にも分配する司祭たちの聖職は、何と名誉あるものでしょう。その手は清く、その口は汚れなく、その体は神聖、日々清浄の創り主が入るその心は純潔でなければなりません。しばしばキリストの聖体を受ける司祭の口からは、神聖な、真実な、有益な言葉以外は出してはならないのです。キリストのお体を常にながめる司祭の目は、単純潔白でなければなりません。天地の創り主に常に触れる司祭の手は、いつも清らかに天にさしのべていなければなりません。だから、律法には、特に司祭たちにむけて、『清くあれ、主なる神は聖なるお方である』(レヴィ記19・2)といわれています。全能の神よ、お恵みによって私たちを助けてください。司祭職を受けた私たちは、清浄な身で、正しい良心を持ち、敬虔にふさわしくあなたに仕えねばなりません。私たちが、命じられたように清く生活できないなら、せめて自分の犯した罪を泣く恵みと、一層謙遜にあなたに仕える決心を、お与えください」。

12・聖体拝領する人は、特に準備をせねばならない

「私は純潔を愛する者、聖徳を与える者である。私は清い心を求め、そこに休息する。美しく飾られた大きな高間(マルコ14・15、ルカ22・12)を私に準備せよ。私はそこで、弟子と共に過越しを祝おう。私があなたの霊魂に止まることを望むなら、古いパンだねを捨て(コリント前5・7)、心の住居を清めよ。あなたの心から、世俗のにおいのあるものと、悪の乱れを吐き出し、屋根の上の孤独な雀(詩編101・8)のように止まり、自分の過失を反省せよ。愛する者は、愛する相手のために、最も美しい部屋を準備する。それによって、愛する相手をもてなす愛情のほどがわかるのである。他の何にも気を散らさず、一年かかって準備しても、あなた自身の手段だけでは、充分に準備できないことを知らねばならない。あなたが私の食卓に近寄れるのは、ただ私の慈悲と恵みによる。ちょうど、乞食が金持ちの宴会に招かれ、その恩を返そうとしても、ただへりくだって感謝する以外に方法がないのと同様である。あなたは、自分でできる限りのことをせよ、習慣で、いやいやながらするのではなく、一心に準備し、あなたの所までへりくだる愛する主を、畏敬と尊敬と愛情とをもって拝領せよ。あなたを招いたのは私である(マタイ18・33)。この宴を開けと命じたのは私である。私が、あなたの不足を補おう。来て私を受けよ。私があなたに敬虔の恵みを与える時には、神に感謝せよ。その賜が与えられたのは、あなたがそれにふさわしいからではなく、私があなたをあわれんだからである。もし敬虔の念を感ぜず、心が乾いていると感じる時には、祈り続け、嘆きつつ門を叩け。救いの恵みの一片一滴でも受けるまでは、叩き続けよ。私があなたを必要とするのではなく、あなたが私を必要とするのだ。あなたが私を聖とするために来るのではなく、私があなたを聖とし、よりよくする為に下るのだ。あなたが来るのは、私によって聖とされ、私と一致するためであり、生活を清めるために新しい恵みを受けるためである。この恵みをおろそかにするな(テモテ前4・10)。充分熱心に心を準備し、愛するお方を迎え入れよ。しかし、聖体拝領の前に信心行を行うだけでなく、聖体拝領の後にも、信心を続けなければならない。拝領前に敬虔な準備がいるなら、拝領後の敬虔もそれに劣らぬほど必要である。聖体拝領後に神の恵みを保とうとして慎むことは、より豊かに恵みを受けるための適切な準備となる。聖体を拝領してのち、外部のことに心を散らす者は、次の聖体拝領の準備が不充分になる。饒舌をさけよ。心を深く反省して、神を味わうがよい。全世界も奪いえないお方をあなたは持っている。あなたがすべてを与えねばならないのは、この私である。そうすれば、あなたは今後他の心配を忘れ、自分のためではなく、ただ私のために生きるだろう」。

13・敬虔な人は、聖体の秘跡によってキリストと一致することを望まねばならない

「主よ、私はあなたを見、あなたに私の心を打ち明け、人に無視されても私の霊魂の望むままに、あなたを味わい、どんな被造物にも動かされず、興味を起こしません。愛する者同士が話し、友人同士が団欒するように、私に話しかけてくださるのは誰でしょう?私が切にこい願い、望むことは、あなたと一致し、被造物から心を離し、聖体拝領と、しばしばミサを立てることによって、ますます天のこと、永遠のことを味わいたいのです。主なる神よ、いつ私は、全くあなたに一致し、あなたのうちに完全に没し、自分のことを忘れることになるでしょうか?あなたは私において、私はあなたにおいて、この一致がいつまでも失われないように、お恵みください。主よ、あなたは、私が『最も愛する者、万人の中から選んだ者』(雅歌5・10)です。私の心は、生涯日々あなたのうちに休むことを望んでいます。あなたは、平和を与えてくださる私の王であり、最高の平安と真の休息を持っておられます。それ以外の所には、労苦と悲惨があるだけです。あなたは実に、『かくれた神』(イザヤ45・15)であり、悪人と交わらず、謙虚な単純な人にだけお話になります。主よ、あなたの御心はなんと慈悲深くあられることでしょう(知書12・1)。あなたは、子どもにその慈悲を示すために、天からの糧をもって、養ってくださいます(ヨハネ6・50)。どんなに偉大な民でも、あなたが弟子たちに対してなさるほど、これほど近くある神をもっている民はありません(申命記4・7)。実にあなたは、人の心を天に向かわせ、日々慰めを与えようとして、ご自身を天の糧として弟子たちにお配りになります。この世にキリスト教の民ほど偉大な民があるでしょうか!神からの光栄の肉体をもってやしなわれるほどの、ああ、この恵み!おどろくべきへりくだり、人間に与えられた無限の愛!これほどの恵み、これほどの愛のために、私は何を主にお返しできるでしょうか?私の心すべてを主に与え、親しく一致する以外に、神に喜ばれる供え物はないのです。私の霊魂が全く神と一致すれば、私の心は喜びに喜ぶでしょう。そのとき主は、『あなたが私と共にいたいと望むなら、私もあなたと共にいよう』と仰せられるでしょう、その時私は答えましょう、『主よ、私と共にいてください、私はそれを切に望みます。私の心があなたと一致すること、これが私の望みのすべてです』と」。

14・聖体に対して、敬虔な人々の熱烈な望み

「主よ、神を畏敬する者のためにそなえられたその深い慈悲!(詩編30・20)。心からの熱意と愛とをもって、聖体の秘跡に近寄る人があるのを知って、主よ、私は恥じ入り、顔を赤らめます。私は、こんな冷淡な心で、あなたの祭壇と聖体に近づいているのです。また、聖体を拝領しても、心に愛を感ぜず、乾いた心のまま受け、敬虔な人々が感じる熱烈さを知らず、あなたに動かされようともしません。ところが敬虔な人々は、聖体拝領をしたいという切なる望みと、愛のために、涙を流し、体の口だけではなく、心の口をもって、活きた泉であるあなたを慕い、霊的な貪欲と喜びをもって、あなたの助けを求めなければ、飢え渇きをみたせなかったほどでした!それが真に熱烈な信仰といえましょう。この信仰こそは、あなたが実際に聖体においでになることの、もう一つの有力な証拠です。彼らは、パンがさかれる時、キリストの現存を身近に感じ、自分と共に歩むイエスを悟り、心の中で愛に燃え立ったのです(ルカ24・35)。不幸にも、これほどの信仰、これほどの愛と熱心さは、私のうちにほとんどないのです。仁慈なるイエス、慈愛に富むイエス、私を憐れんでください。貧しい乞食である私に、せめて、ときどき聖体拝領において、あなたの憐みにより、愛の炎を感じさせてください。そうすれば、私の信仰は、一層強まり、あなたの仁慈への希望は高まり、一旦もやされ天のマンナに養われた愛徳の火は、いつまでも消えないでしょう。あなたの慈悲は、私ののぞむ恵みを与え、御旨の日が来れば、私の心を熱心に燃え立たせる訪れも、してくださるに違いありません。私は、あつい信心をもっていた人々と同じ希望に、まだ燃えていないにしても、あなたの恵みによって、それを味わいたいと望み、あなたを熱烈に愛していたすぐれた人々に加わり、その仲間の一人になりたいと願っています」。

15・敬虔の恵みは、謙遜と自己放棄とによって得られる

「あなたは、敬虔の恵みを、たゆまずこいねがい、渇望し、忍耐と信頼とをもって待ちうけ、感謝の念をもって受け、謙遜に保ち、勤勉に働かせねばならない。そして、あなたが渇望する天からの訪れのときと方法については、それが実現するまで、神の御旨にまかせねばならない。あなたが、心の中で、敬虔の不足を痛感するときには、まずへりくだらねばならないが、ただ失望したり、悲しんだりしてはならない。神は、長い間拒絶しながら、一瞬でお与えになることもある。時には、祈りはじめに拒みながら、その祈りの最後に与えてくださることもある。神の恵みが、いつもすぐ与えられ、望みのときにくだされるものなら、弱い人間は、その利益を、充分受けることができないだろう。だから、かたい希望と、謙遜と、忍耐をもって、恵みの時を待たねばならない。また、それが与えられなかったり、ひそかに奪われることがあるなら、それは自分の責任と罪のためであると思え。時には、神の恵みをさまたげ、あるいは、隠すものが、ほんの些細なことである場合もある。もしも、これほどの善をさまたげるものを、些細なことだというならば。しかしあなたが、大小にかかわらず、そのさまたげを取り除いて、それに打ち勝つなら、あなたは望みのものを受けるだろう。全心をあげて、自分自身を神に捧げ、自分の好みやわがままによって、あのことこのことを求めず、自分のすべてを神にゆだねれば、心の平和を見出すだろう。あなたはもう、神の御旨以外の何物も喜びとしないようになったからだ。だから、単純な心で、自分の意向を神に向け、不謹慎な愛情や、世俗的な煩いを脱ぎ捨てれば、恵みをうけるにふさわしい準備を終え、敬虔の恵みを受けるに足る者となるだろう。主は、世俗のものを脱ぎ捨てた心に、祝福をくださる。人はこの世のことを完全に捨てれば捨てるほど、また、自分自身を軽蔑し自分を殺せば殺すほど、速やかに豊かに恵みを受け、高く自由に上がるようになる。そのとき、彼は、永遠をながめるに足る者となり、霊のたまものを豊かにいただき、心は広がり、驚嘆に満たされる(イザヤ60・5)。主の御手は彼と共にあり(エゼキエル3・14、ルカ1・66)、世々に彼は主の御手にゆだねられる。心をつくして神を求め(詩編118・2)、霊魂の賜をむだにしなかったもの(詩編23・4)は、こうして神の祝福を受けるだろう(詩編127・2)。こういう人は、聖体を拝領して、神と一致する偉大な恵みに価する者である。かれは、自分の信心と慰安よりも、あらゆる信心と慰安をこえて、愛する神の光栄を求める人である」。

16・必要なものをキリストに打ち明け、その恵みを願う

「私が今、うやうやしく拝領しようとする主よ、あなたは、私の弱さ、私に必要なもの、また、私の悪と罪、私の重荷、誘惑、不安、汚れを、すべてご存じです。ですから、私は、援助を願うために、あなたに近寄り、慰めとやわらぎとを乞い求めます。私の一切をご存じで、私の秘密を見抜き、完全に私を慰め、助けてくださる唯一人のお方に話します。あなたは、私が、どんな恵みを必要とし、どんなに徳に乏しいかを知っておられます。私は、貧しい裸の姿で御前にたち、恵みを乞い、あわれみを願います。飢えた乞食に恵み、私の冷たさをあなたの火で燃やしてください。あなたの光明をもって、私の盲目を照らし、すべて世間的なことを苦いものに変え、つらいこと煩わしいことを忍耐させ、この世の一切を、軽蔑させてください。主よ、私の心を天の方にあげ、この世でさすらうことのないようにしてください。今後、あなただけが、私の慰めとなり、私の食物と飲み物、愛と喜び、完全なただ一つの善となってください。私にくだって、私を燃やし、焼き尽くし、あなたに同化させてください。内的一致の恵みにより、燃える愛にとかれて、私があなたと一つになるためです。空腹のまま、心が枯れ切ったまま、あなたから、遠ざかりたくありません。しばしば聖人たちに対してなさったように、そのあわれみを、私にもお与えください。つねに燃え尽きることのない火、心を清め、知恵を照らすあなたに一致して、燃え立ち、私が、私というものの姿を失ったとしても、何の不思議がありましょう!」

17・キリストを拝領したいという深い愛とはげしい望み

「清い生活のために、あなたに喜ばれ、熱烈な信仰生活を営んだ聖人たちは、あなたと一致しようと望んで聖体を拝領しました。私は、その聖人たちと同じ最上の信心と熱愛、心からの愛情と熱烈さとをもって、あなたを拝領したいと思います。私の神、永遠の愛、私の全、不滅の幸福、どんな聖人も感じなかった熱烈な愛と深い尊敬とをもって、あなたを拝領させてください。私には、それほどの敬虔がなくとも、せめて聖人たちのもっていた燃える希望を模範として、私の心の愛を捧げます。また、敬虔な者が望む限りのものを、うやうやしく真心から捧げます。自分のために何一つ残そうとは思わず、むしろ進んで、自分と自分のすべてを捧げます。神なる主、つくり主、救い主よ、ご托身の神秘を告げた天使に向かって、聖母マリアが、へりくだって敬虔に、『私は主のはしためです。あなたのお言葉の通りになりますように』(ルカ1・38)と答えて、あなたを望み、あなたを受けたときの、その愛と尊敬と称賛とほまれ、その感謝と威厳、その信仰と希望と愛徳とをもって、私は今日、あなたを拝領したいと思います。そして、あなたの先駆者、洗者ヨハネが、まだ母の胎内にいたとき、御前にあって、聖霊によって喜びおどり、後に人々の中からイエスを見付けて、へりくだり『花婿の友人は、そこに立ち、花婿の声を聞いて喜ぶ』(ヨハネ3・29)と、敬虔な愛をもっていったように、私は、尊い望みに燃え、真心から自分のすべてをあなたに捧げたいと思います。ですから私は、私のためと、私に祈りを頼んだ人々のために、敬虔なすべての霊魂の歓喜、熱愛、超自然的光明、脱魂、天の幻視を、主の光栄のためにすべての被造物が天地において捧げ続ける徳と賞賛と共に、あなたに捧げます。それは、あなたがふさわしく賞賛され、あなたに世々光栄を捧げるためです。主なる神よ、限りなく賞賛され祝せられよと願うこの私の望みを、受け入れてください。それは、言語に絶する無限の御稜威のために、当然あなたがお受けになるはずのものです。私は、これだけしかあなたに捧げられないのですが、日々刻々、これだけをあなたに捧げたいと思います。真心と熱望をもって、天のあらゆる霊とあなたの信仰者が、私と共に、あなたに感謝し、ほめたたえるように乞い願います。すべての民、国、言葉よ(ダニエル7・14)、神を賞賛し、歓呼と熱烈な信心とをもって、甘美な御名を賛美するように。尊敬と敬虔とをもって、至聖なる秘跡をたたえ、みちみちる信仰をもって、それを拝領する人々が、あなたから恵みと慈悲を受け、罪人である私のためにも、切に祈ってくれるように。彼らが、敬虔の賜と、あなたとの一致を味わってのち、あなたの慰めに充たされ、天の食卓から立ち上がるとき、貧しい私のこともかえりみてくれますように」。

18・人間はこの秘跡をみだりに探ってはならない。むしろへりくだってイエスに従い、自分の理性を信仰に服従させねばならない

「もしあなたが疑いのふちに陥ることを避けたいなら、この深い神秘をみだりに探ることは止めなければならない。神の御稜威を探る者は、その光栄に眩惑される(格言25・27)。神は、人間が理解する以上のことを行われる。聖なる教えに服従し、教父たちの健全な教義にしたがって歩もうとする敬虔な、謙遜な、真理探究だけが許される。理論のけわしい道を行かず、神の掟の平坦な安全な道を辿ろうとする単純な心の者は幸せである。あまりにも高遠なことを探ろうとして、敬虔の念を失った人は多い。あなたに必要なのは、知恵の聡さでも、神の玄義の会得でもなく、信仰と善意の生活である。あなたは自分が住んでいるこの世の事さえ理解できないのに、あなたを超越することをどうして悟れよう。神に服従せよ、理性を信仰の次におけ、そうすれば、あなたに有益で必要なだけ、知識の光が与えられるだろう。ある人は、信仰と秘跡について重大ないざないを受ける。しかしそれは、彼らの責任ではなく、悪魔の仕業である。そんないざないに気をとめるな。自分の思いと議論してはならない。また悪魔が注ぎ入れる疑問に答えるな。むしろ、神の御言葉を信じ、聖人たちと預言者たちとを信じよ。そうすれば、悪霊はあなたから逃げ去るだろう。しばしばそうしたことを耐え忍ぶのは、神の下僕にとってためになることだ。悪魔は、自分が完全に征服している不信仰者や罪人をいざなわず、かえって信仰ある人を悩ませ、わずらわせるものである。単純な固い信仰をもって進み、謙遜と尊敬とをもって、この秘跡に近づけ。そうしてあなたの理解できないことを、安らかに全能の神にゆだねよ。神はあざむくことはない。むしろ自分の理性に過信する者が誤る。神は、単純な人々と共に歩み、謙虚な人々にご自分を示してくださる。子供たちに知らせ(詩編118・30)、清い心を照らし、好奇心の者と高慢な者に、恵みを隠される。人間の理性は弱く、誤りやすいが、まことの信仰は、あざむかれることも、誤ることもない。人間の思想や探求は、信仰に先んじたり反したりすることなく、信仰に従うべきものである。信仰と愛とは、この最も尊い、すべてにまさる秘跡において特にあらわれ、ひそかに行動する。永遠、遍在、全能の神は、天において地において、偉大なことを行い、その不思議な御業は人知で探り得ない。神の御業が、人知で容易にさとりうるものなら、不思議とも言語を絶するとも言えないのである。