キリストに倣いて 2巻 テキスト+音読

神と霊魂の交わり

神の国はあなたたちのなかにある、と主は仰せられる(ルカ17・21)。心を神にあげよ、そうして、惨めなこの世を離れよ、そうすれば、あなたの霊魂は平安を見出すだろう。外部のことを軽蔑し、霊的なことに従うことを学べ。そうすれば、神の国があなたに下るのを見るだろう。実に神の国は、「聖霊における平和と喜び」(ローマ14・17)であり、それは、悪人たちに与えられるものではない。もしあなたが、心の中に、主にふさわしい住居を準備するなら、キリストはそこに来て、すべての慰めを、あなたに味合わせるだろう。イエスの光栄と美とは、内部からのものであり、また内部において、喜ばれるものである。神は内的な人を訪れ、やさしく話しかけ、甘美ななぐさめと、深い平和を与え、おどろくべき親しさを示される。忠実な霊魂よ、この花婿に対して、あなたの心を備えよ、そうすれば、彼は、あなたのもとに来て、住むだろう。彼は「私を愛する人は私の言葉を守る、私たちはその人のもとに行き、彼に住むだろう」(ヨハネ14・23)とおおせられた。だから、キリストに心を開き、他の誰をも入れるな。キリストを共にもてば、あなたは富をもっている、それだけで十分である。彼は、あなたのためにすべてを計らい、すべてをもたらす。そうなれば、あなたは、もはや人間により頼む必要を感じない。人間の考えは変わりやすく、またすみやかに消え去るものである。しかしキリストだけは、永遠に止まり、最後の日まで、絶えず力づよく守ってくださる。弱くてもろい人間を、余り頼みにしてはならない。あなたに有益な人であっても、それをひどく頼りにしてはならない。今日あなたの味方になっている人が、明日あなたに逆らうこともあり、その逆の場合もある。人間は、風のように変わりやすいものだ。あなたの信頼を、神に置け、そうすれば神が、あなたの唯一の愛、あなたの唯一の畏敬となるだろう。彼は、それ以上は考えられないほど、あなたのために話し、あなたの身を思ってくださる。あなたの不朽の住居は、この世にはない(ヘブライ13・14)。どこにいても、あなたは他国人であり、旅人である。キリストと親しく一致していないなら、あなたはいつも安らかさを知らないだろう。ここには、あなたに休みを与える所がないのに、なぜ、あたりを見回すのか。あなたの住居は、天にある。立ち止まらずに行き過ぎていく人の目でもって、この世のすべてを見なければならない。何もかも過ぎ去って行く、あなたも同様である。あなたは、この世の奴隷となって亡びないように、この世のことに、執着しないように気をつけよ。あなたの考えを、常に高きお方に上げ、あなたの祈りを、いつも、キリストに向けよ。もしあなたが、すぐれたことや、天上のことを、観想しえないとしても、キリストのご受難に専ら心を向け、その聖なる傷の中に、喜んで住むようにせよ。あなたが、敬虔に、キリストの傷と、尊い聖痕とに身を隠すなら、患難のときに、大きな慰めを得、他人に軽んじられても、それを心にかけず、他人の悪口を、喜んで忍べるであろう。キリストも、この世にあっては、人々に軽蔑され、苦難の最中に、知人や友人から見捨てられて、ただ一人、罵りのなかに取り残された。キリストは、苦しみと侮辱を受けようと望まれた。それなのに、あなたは、些少なことで、隣人に不満を言おうとするのか。キリストにも、反対者があり、悪口する人があった。それなのに、あなたは、皆から恩恵と友情の印を受けようとするのか。何の苦しみにも会わないなら、あなたの忍耐は、どんな報いに値するのか。反対に会うことを、すべて嫌うあなたが、どうして、キリストの友人になれよう。いつか、キリストの国に入りたいと思うなら、キリストと共に、そしてキリストのために忍耐せよ。あなたが、ただ一度でも、キリストの聖心に入って、その激しい愛の一片でも味わうことができたら、あなたは、自分の好悪や苦楽を気にかけず、むしろ、侮辱されて喜ぶだろう。イエスを愛すると、人間は自分自身を軽蔑するようになるものである。イエスと真理とを愛し、すべての執着をのがれ、真に内的な生活を送っている人は、たやすく神に向かい、精神をもって高く上り、慰めのうちに休むことができる。他人の話や批評によらず、そのものの価値によって、物事を評価する人こそ、真の知恵者であり、人間よりも神によって指導されている人である。内的な生活を知り、物事を、外部だけで判断しない人は、信心の修行のために、特別な場所と時とを探す必要を感じない。内的生活を営んでいる人は、たやすく潜心することができる。彼らは、外部のことに押し流されることはない。また、日々の仕事や、一定期間のつとめも、妨げにならない。彼らは事が起こると、いつもそれに対処できる。心がよく整い、かき乱されることがない人は、他人の珍しい行いや、けしからぬ振る舞いに、気をとめない。人は、世間の事柄に、かかわればかかわるほど、妨げられて気が散るものである。ほんとうに真直な心をもち、清められた精神の所有者なら、あなたは、すべてのことから善をくみとって、自分に役立てることができる。ところが、あなたは色々なことを厭い、色々惑わされる。それは、あなたが、まだ自分に死に切っていないからだ。世俗のことがらに対する、不純な執着ほど、人間の心をけがし、また縛るものはない。あなたが、世俗の慰めをすてるなら、天に目を上げ、しばしば心のうちに、大きな喜びを感じるだろう。

謙遜な服従

誰があなたの味方につき、誰があなたに反対するかをあまり重視するな。むしろあなたの行うすべてのことに、神が共にあるように注意せよ。正しい良心を保て、そうすれば、神はあなたを守ってくださる。神に守られている人には、どんな悪も害を及ぼすことがない。あなたが、黙って苦しむことを学ぶなら、必ず、神の助けを受けるだろう。神は、あなたを助けるについて、適当な時期と方法とを知っておられる。だからあなたは、神により頼まねばならない。人間を助け、人間を恥辱の中から解き放つのは、神の御手である。他人が私たちの欠点を見て、それを非難するなら、それは、私たちが謙遜を保つ上に、大いに役立つことである。自分の欠点を認めてへりくだれば、容易に、他人の怒りをなだめ、他人を満足させることができる。神は、謙遜な人を保護し、解放し、愛し、慰める。謙遜な人に心をかけ、豊かに恵みを与え、その謙遜ののち、永遠の光栄に上げて下さる。神は、謙遜な人に神秘をあらわし、やさしく彼を招き、引き寄せてくださる。謙遜な人は、試練の時にも平和のなかにある。その人は、この世ではなく、神に生きているからである。あなたは、自分が誰よりも劣っていると確信しない限り、徳に進歩したと思ってはならない。

平和を愛する人

まず、あなた自身のうちに、平和を保て、そうすれば、他人にも平和を分けることができる。平和な人は、大学者よりも他人のためになる。感情家は、善さえも悪に変え、また悪を信じやすい。ところが、平和を愛する人は、すべてを善に変える。心を平和に保っている人は、誰をも疑わないが、不平家で憤激しやすい人は、疑いに苦しめられる。その人は、自分も平和を知らず、また他人の平和をも乱す。またその人は、時々、言ってはならないことを言い、自分のしなければならないことをおろそかにする。彼は他人のすることに気を使うが、しかし自分の務めを怠る。だから、あなたはまず、自分の霊魂について熱心であれ、そうすれば自然と、他人のことにも熱心に注意するようになる。あなたは、自分の行いを弁護することを知っているが、他人の弁護には耳を貸さない。むしろ自分を責め、兄弟を弁護するのが正しいことである。他人に忍耐してもらいたいなら、あなたも、他人の短所を忍ばねばならない。あなたは、まことの愛徳と謙遜という点で、他の誰よりも、はるかに劣っているのだと知らなければならない。平和を愛する正しい人と仲良く生活することは、大して難しいことではない。それは、自然、皆の好むことである。誰でも、平和を喜び、自分と同じ意見の人を愛するものである。しかし、頑固なふしだらな悪人、あるいは、自分に逆らう人とともに、平和のうちに生活することは、むしろ神の恵みであり、賞賛すべきことであり、雄々しい徳である。自分のうちに平和を保ち、また、他人と共に、平和を保つ人がある。ところが、自分のうちに平和を持たず、他人の平和もかき乱す人もある。この人は、他人の重荷であり、またそれ以上、自分の重荷である。また、自分のうちに平和を保つだけでなく、他人をも、平和に導こうと努める人もある。ともあれ、この惨めな人生において、私たちは、不幸を避けることよりも、謙虚に苦しむことに、平和を見出さなければならない。よく忍耐することを知っている人は、よく平和を保つだろう。それは、自分自身に勝った人であり、世間を支配できる人、キリストの友人、天の世継ぎである。

心の清さと意向の正しさ

人には、世俗から離れて、高くかけ上がるために、二つの翼がある。すなわち心の清さと単純さとである。意向は単純、感情は清くあらねばならない。単純さは、人を神に近づけ、清さは神を得させ、神を悟らせる。あなたの心がふしだらでなく、あらゆる執着から、解き放たれているなら、どんな善業をするのも難しくない。あなたが、神のみ旨と、他人の利益以外、何も目的を置かず、何も求めないなら、心の自由を恵まれるだろう。あなたの心が素直であれば、どんな被造物も、あなたにとって、生命の鏡となり、知識の本となる。どんなに小さな、いやしい被造物でも、すべて、神の慈悲を現しているのだから。あなたの心が、清くて善良なら、すべてをありのままに見て、理解することができる。清い心にとっては、天にも地獄にも隠されたところはない。人は、自分の心の如何によって、外部のことを判断するものである。この世に、喜びがあるとすれば、それを味わうのは清い心の人に違いない。そしてまた、患難と煩悶とがあるとすれば、それを誰よりも強く感じるのは、良心の濁った人である。鉄を火の中に入れると、さびが消えて、灼熱するように、心をあげて神に向かう人は、倦怠を脱ぎ捨て、新しい人に生まれ変わる。熱心がさめ始めると、わずかの苦労もいとい、進んで世俗の慰めを求めるようになる。しかし、真実に自分を抑えて、神の道を勇ましく歩めば、前は、重く持て余したものを、軽いとさえ思い始めるだろう。

自分を反省する

私たちは、自分を信頼しすぎてはならない。私たちは、能力と分別とを失いがちである。私たちの心の光はとぼしい。しかも、今までのなおざりによって、それさえも失ってしまっている。私たちは、自分の心がいかに盲目であるかにさえ、気付かないことがある。私たちは、幾度となく悪を行い、しかも更に悪いことには、それを弁解しようとさえする。欲望に支配されているのを、熱意のためだと思い込むこともある。また、他人の小さい短所をとがめるが、自分の短所は、それよりも大きくても、見逃すことが多い。他人から受ける苦しみには、非常に敏感であるが、自分のために、他人がどんなに苦しんでいるかには、気付こうとしない。自分の行いを、正しく反省すれば、他人を、厳しく裁く理由はないと悟るだろう。霊的な人は、何よりも、まず自分の霊魂を考える。自分に注意している人は、軽々しく他人のことを話さない。他人について話さず、自分を反省しない限り、人はいつまでも霊的な敬虔な人になれない。自分のことと、神のことに、深く心を配るなら、外部の出来事には、さほど動かされないものだ。自分自身にいないとき、あなたはどこにいるだろうか。あなたが、全世界を歩き回っても、自分をおろそかにするなら、何の益があろう。まことの平和を味わい、心の調和を得ようと思うなら、あなたは、他のことを全部さしおいて、まず自分自身に注意しなければならない。あなたが、世俗のことを、自分から切り離すなら、大きな霊的利益を得る。しかし、世俗のことに気を使えば、大きな損害を受ける。神からのことでない限り、あなたはどんなものも、偉大だ、高尚だ、好ましい、快いなどと思ってはならない。被造物から受ける慰めは、どんなものもむなしいと考えよ。神を愛する霊魂は、神より劣るものを、ことごとく軽視する。神だけが永遠であり、広大無辺であり、すべてを満たすものであり、霊的慰めであり、心の真の喜びである。

正しい良心のよろこび

善良な人の誇りは、正しい良心のあかしである。正しい良心を保て、そうすれば喜びが尽きない。正しい良心は、いろいろな出来事を、耐え忍ぶ力を与え、不幸の中にあっても、いつも喜びを生む。それに反して、不正な良心は、いつも恐れと不安に満たされている。あなたの良心が、あなた自身をとがめないなら、あなたは快く休める。善をおこなった時以外は、満足するな。悪人は、本当の喜びを味わえず、心の平和も知らない。「悪人には平和がない」(イザヤ48・22、57・21)と主が仰せられた通りである。悪人が「われわれには不幸が起こらない、誰がわれわれに損害を加えようか」と言ったとしても、その言葉を信じてはならない。突如、神の怒りが現れ、彼らの行いはすべて無となり、その計画は、煙のように消えてしまうだろうから(詩編145・4)。患難を誇りとするのは、神を愛する霊魂にとって、困難なことではない。それは、主の十字架を誇ることだからである。人間が与え、また受ける光栄は、つかの間の物である。この世の光栄には、常に悲しみが付きまとっている。善良な人のまことの光栄は、他人の判断にあるのではなく、その人自身の良心にある。正しい人の快活は、神から出たもので、そして神にある。正しい人の喜びは、真理によるものである。永遠のまことの光栄を望む人は、この世の光栄をかえりみない。この世の光栄を求め、それを軽蔑しきっていないのは、天の光栄を、十分に愛していない証拠である。世の誉れも侮りも気にしない人は、非常に静かな心を保っている。心の清い人は、なんにでも満足して安らかに生きる。人から賞賛されても、そのために聖徳にすすむわけでなく、軽蔑されても、そのために卑しくなるわけではない。あるがままのあなたが、あなたである。そしてあなたは、神の御前に、今ある以上善良なものではない。あなたの心の中を反省すれば、あなたは、人の言うことを気にかけないだろう。人はうわべだけを見るが、神は心の底を見ておられる。人は外部の行いを見るが、神は意向を見ておられる。つねに善を行いつつ、しかもへりくだるのは、謙虚な心の証拠である。この世のどんなものからも、どんな人間からも、慰めを求めようとしないのは、清さと、心の高尚さとの証拠である。他人の賛成を求めようとしない人は、神に自分を任せきっている人である。聖パウロが言うように、自分がほめるものではなく、主がほめるものこそ、神の気に入る者である(コリント後10・18)。内的に神と一致して生き、外部のものに全く束縛されないのは、真に内的な人の状態である。

万事にこえてイエスを愛する 

イエスを愛して、イエスのために、自分を軽蔑することの、真の意味を理解する人は幸いである。その愛は、すべての愛を越えるものではなくてはならない。なぜならイエスは、御自分一人が万事を越えて愛されることを望んでおられるからだ。被造物への愛は、あやまりやすく変わりやすい。しかしイエスへの愛は、誠実不変なものである。はかない被造物に依り頼もうとする人は、それと共に倒れる。しかしイエスの方をとる人は、いつまでもゆるがない。皆があなたを離れ去っても、あなたから離れることなく、あなたを滅びから守る方を、自分の友として愛せよ。望む望まないにもかかわらず、いつかあなたは、すべてから決別しなければならない。生きている時にも、死ぬ時にも、いつもイエスの近くにいよ。他のすべてがなくなっても、あなたを助けうる唯一の方の真実さに、あなた自身をゆだねよ。あなたの愛するお方は、他人がその愛に割り込むのを許さず、ご自分一人が、心の中の王座に座ることを望まれる。あなたが、すべての被造物を、心の中から遠ざけるなら、イエスは喜んで、あなたの心の住居にこられる。イエス以外の人間を拠り所にすれば、それはあなたにとって、なきに等しいものであると、知るに違いない。風に揺れる葦に、より頼もうとするな。「すべての身体は草であり、その光栄は草の花のように枯れる」(ペトロ前1・24)。人の外面だけに目を止めるなら、あなたはすぐ期待を裏切られるだろう。自分の慰めと利益のために、人により頼もうとすると、結局は自分が損をしただけであったと知ることがしばしばある。しかし万事においてイエスを求めるなら、そのイエスをきっと見出すだろう。自分自身を求めるなら、自分自身を、損害と共に見出す。イエスを求めない人は、この世と、この世のすべての敵よりも以上に、自分自身に損害をおわすだろう。

イエスとの親しい友情

イエスが、私たちと共におられるなら、万事は好調に進み、どんなことも困難には見えない。しかしイエスに見捨てられるなら、万事は苦痛となる。イエスが私たちの心に語らない時は、どんな慰めもむなしいものである。しかしイエスが一言でも語ってくださるなら、私たちの受ける慰めは大きい。マグダラのマリアは、マルタから「先生がおいでになって、あなたを呼んでいらっしゃる」(ヨハネ11・28)といわれたとき、泣いていたのに、すぐ立ち上がったではないか。イエスが私たちを、涙の中から、心の喜びに呼び寄せるときは幸せである。ああ、イエスがいない時、あなたは何とうるおいがなく、何と冷ややかなことか。イエス以外の何かを望むとき、あなたは何と愚かで、空虚なことか。それは、この世のすべてを失うよりも、大きな損害ではなかろうか。イエスがいないなら、この世はあなたに何を与えようか?イエスなしに生きることは、忍び難い地獄であり、イエスと共に生きることは、美しい天国である。イエスがあなたと共にいるなら、どんな敵も、あなたに損害をかけない。イエスを見出す人は、尊い宝を、いや、すべての宝に勝る宝を見出す。それに反して、イエスを失う人は、非常に大きなものを、この世より大きなものを失う。イエスなしに生きる者は、この上なく貧しく、イエスと共に正しく生きる者は、大きな富を持っている。イエスと共に、親しく生きることを知るのは、無比の手腕であり、イエスを保つことを知ることは無上の知恵である。謙遜な平和の人であれ、そうすれば、イエスあなたと共におられる。敬虔な柔和な人であれ、そうすればイエスは、あなたと共にとどまられる。外部のことに、興味を持とうとすると、すぐイエスを失い、神の恵みも失う。イエスを失うなら、あなたは誰のもとに逃れ、誰を友とするのか。一人の真実の友を持たないでは、あなたは生きられない。イエスがあなたの友でなければ、あなたの生活は、あまりに悲しく、あまりに味気ない。誰かほかの人を、あなたの頼りにし、あなたの喜びとするなら、あなたは実に愚かな人である。イエスに逆らうくらいなら、全世界に逆らわれる方を取れ。つまり、あなたの愛する人々のなかでも、特にイエスは、それらよりはるかに愛する者でなければならない。イエスのために、すべての人を愛せ。しかしイエスをイエスとして愛せ。イエス・キリストだけを特に愛せ。どんな友人よりも、彼は忠実な友である。彼のために、彼において、友人も敵も愛せ。そして、その人々が彼を知り、彼を愛するように祈れ。特に、ほめられよう、愛されようとしてはならない。それは、唯一、至高の神だけの、望むことである。また、人から特に愛されようと望むな、そして、あなたの心も、人への愛に占領されるな。イエスだけが、あなたの心と、すべての正しい人々とのうちにあるように、のぞまねばならない。どんな被造物にも束縛されず、清い自由な心を持て。主がいかにやさしいか(詩編33・9)を知り、その友情を味わおうと思うなら、他のあらゆるものへの愛を捨て、清い心を、神に捧げなければならない。あなたが、この世のすべてを追い出し、神とだけ一致するには、先に神の恵みを受けて導かれねばならない。神の恵みが人間に下る時には、人はどんなこともできるが、それがなくなると、貧しく弱くなり、苦しみに動揺するままに取り残される。しかしそんなときにも、人は失望落胆してはならない。むしろ、快く神のみ旨を受け、自分の身に起こることをみな、イエス・キリストの光栄のために忍ばねばならない。冬が過ぎれば夏になり、夜が過ぎれば昼となり、嵐が過ぎれば快晴を見るからである。

慰めを失う

神の恵みがあるとき、人間からの慰めを捨てることはやさしい。ところが、人間からも神からも慰めを受けずに生活し、神の光栄のために、喜んで心の渇きを忍び、あらゆる点について自分を求めず、自分の功徳を考えないのは、大きな、実に大きな徳である。神に恵まれているときに、快活で、敬虔な生活をしていても、それは大したことではない。そういう恵みは、誰でも望むところである。神の恵みに運ばれれば容易に前進する。全能の神に支えられ、最高の指導者に導かれる人が、重荷を感じないのは当然のことである。私たちは、いつもなにか慰めを求める。そして自分自身を脱することは難しい。殉教者聖ラウレンツィオは、この世に勝ち、教皇に対して抱いていた愛にも勝った。この世において、自分が喜びとしていたものを、すべて犠牲にし、愛していた神の大祭司シストが、キリストへの愛のために取り去られることも、耐え忍んだ。こうして彼は、創り主を愛するために、人間への愛に勝ち、人間からの慰めよりも、神の御旨のほうを取った。あなたも、神への愛のために、慕わしい友、ある意味で、なくてはならない友さえも犠牲にすることを学ばねばならない。いつか私たちは、互いに離れねばならないことを知り、友人から捨てられても、悲嘆に打ち沈んではならない。人は、自分に全く打ちかって、愛の的を神に向けるまでには、長くつらい戦いをしなければならない。自分自身を中心にしている間は、人間からの慰めを求めがちである。しかし真実にキリストを愛して、その徳に倣おうと努める人は、人間の慰めを頼まず、感覚的な楽しみを望まず、むしろキリストのためにつらい試練と労苦とを、耐え忍ぼうとする。だから、神からの霊的な慰めが与えられるときには、感謝をもってそれを受けよう。しかしそれは、あなたの功徳のむくいではなく、ただ神の賜物であると考えよ。うぬぼれるな。喜びすぎるな。そしてむなしく自分に頼むな。かえってその恵みを受けて、ますますへりくだり、行いにおいていよいよ警戒をして、それ以上の畏れを持て。その時が過ぎ去ると、まもなく誘惑のときが来るだろうから。神からの慰めが取り去られる時にも、すぐ落胆してはならない。むしろ謙遜と忍耐とをもって、天の訪れを待たねばならない。実に神は、あなたに、それ以上の慰めを与えることができる。それは、神の道の経験者にとっては、新しいことでも珍しいことでもない。大聖人たちと、昔の預言者たちの上に、そういう移り変わりがしばしばあった。彼らの一人は、恵みを受けたときこういった。「私は豊かなときに叫んだ、主よ、いつまでもこれを失わないと」(詩編29・7)。しかしそれがなくなったとき、自分のうちに体験したことを次のように表現した。「あなたはお顔をわたしからそむけ、私は不安にみたされた」(同29・8)と。しかしそのときも、彼は失望せず、更に熱心に主に祈った、「主よ、あなたに向かって声を上げ、私の神なるあなたにこいねがおう」(同29・9)と。ついに、その祈りの効果を得たので、自分の祈りが、聞き入れられたことを証明して、「主は私の祈りを聞き入れ、私をあわれんでくださった。私を助けてくださった!」(同29・11)と叫んだ 。どのようにして助けたかといえば「あなたは、私の涙を喜びに変え、私を歓喜で満たしてくださった」(同29・12)と語っている。偉大な聖人たちの場合が、以上の通りであったとすれば、ときに熱心になり、ときに冷淡になったとしても、弱い貧しい私たちが失望してはならない。神の恵みが私たちに止まり、あるいは去っていくのは、御旨のままである。だからヨブは、「あなたは朝早く人を訪れ、その直後に試練をおくだしになる」(ヨブ7・18)といっている。神の広大な慈悲と、天の恵みとにより頼む以外、私にとって何が頼りになり、何が拠り所になるだろうか。友として善良な人々、敬虔な兄弟たち、忠実な友人を持っていても、また聖なる書物や良い哲学書を読んでいても、美しい歌や讃美歌に耳を快くなでられていても、もし私が、神の恵みを持たず、貧しい状態に、ただ一人残されていれば、それらのものも大して役に立たず、さほど興味も引かないはずだ。こういうときには、忍耐と自分自身の放棄とをもって、神の御旨によりすがる以外に方法はない。神の恵みを奪われ、熱心が冷えるのを、一時も感じなかったほどの信心あつい人、信仰の人を、私はまだ見たことがない。誘惑のときを、一時も持たなかったほどの聖徳をもち、神と一致し、神に照らされた人は、一人としてなかった。実に、神への愛のために、何事か患難に鍛えられなかった人は、尊い観想にふさわしい人ではない。むしろ誘惑は、後からくださる慰めの前兆である場合が多い。天の慰めは、誘惑を受けた人々だけに約束されたものだからである。「勝利者に生命の木の実を食べさせよう」(黙示録2・7)と主は仰せられている。神の慰めが与えられるのは、患難を耐え忍ぶ力を強めるためである。そののち誘惑がくるのは、善業を誇らないためである。悪魔は眠らない、邪欲も死んでいない、だから、戦いのために備えを怠るな、右にも左にも、休みを知らぬ敵があるのだから。

神の恵みに感謝する

あなたは、労苦するために生まれたのに、なぜ休息をもとめるのか。慰めを喜ぶよりも、苦しむことに備えよ。楽しく生活するよりも、十字架を担うことに備えよ。いつも霊的な歓喜と慰めとを受けるなら、世俗の人々さえも、喜んでそれを受けようとするだろう。霊的な慰めは、地上の楽しみ、物質的な快楽にまさるものである。世間の楽しみは空しいか、あるいは汚らわしいものであるが、しかし霊的な楽しみは、充実していて、汚れがない。それは徳から生まれ、清い霊魂に注がれるものである。とは言え、誰一人として、思いのままに神の慰めを味わうことは出来ない。誘惑のときはいずれ近く来るからである。神が私たちの霊魂を訪れるについて、大きな妨げになるのは、誤った自由と、自分への過信である。神が、その慰めを人に与えるのは善であり、人が、それに感謝を返さないのは悪である。私たちは、その与え主にたいして忘恩であり、その源にすべてを帰そうとしない。受けた恩に感謝する人は、新しい恵みを受ける値打ちがある。それは、おごる人から奪われ、へりくだる人に与えられる。私は、心の痛悔を取り去るような、慰めを求めたくない。また、高慢をつちかうような観想を望まない。崇高なことがことごとく聖であり、喜ばしいことがことごとく善く、望むことがことごとく清く、好むものがことごとく神に喜ばれるとは限らない。私を深くへりくだらせ、深く畏敬をつちかわせ、自分を捨てさせることに備えさせる恵みこそ、喜んで私は受けたい。神の恵みに導かれ、それを取り去られたときの苦しみをしっている人は、どんな善も、自分に帰せず、ただ自分は貧しく、何も持たない人間だと告白する。神のものは神に返せ、そしてあなたのものをあなたが持て、受けた恵みについて神に感謝し、自分のものとして罪を自分に帰せよ。そして罪を犯したために、自分は罰を受けるものだと認めよ。いつも最も低い席に自分を置け、そうすれば、最高の席が受けられる。最高の席は、つねに最も低い席があればこそ存在する。神の目にとって、最もすぐれた聖人たちは、自分で最も卑しいものだと考えた。彼らの光栄が偉大であったのと反比例して、彼らは謙遜であった。彼らは真理を持ち、天の光栄を目指し、この世の空しいほまれを望まなかった。神だけにたのみ、神によって支えられた彼らは、決して高ぶらなかった。そして受けた賜物を、すべて神のものとし、人間同士の光栄を求めず、神からの光栄だけを目指し、特に神が、自分たちとすべての聖人によって、賛美せられることだけを望んだ。彼らが目的にするのは、以上のことだけだった。どんな小さなことでも、神に感謝せよ、そうすれば、より大きな恵みを受けるに足る者となる。どんな小さい賜物も、貴重なものだと考え、取るに足らないように見えるものも、小さいとか卑しいとか考えるな。いと高きお方からくださるものが、小さいものであるはずがない。神が、苦難と患難とをあなたに与えたとしても、それを感謝して受けよ。私たちのうえに起こることは、すべて、私たちの救いを計らう御旨から出ることである。神の恵みを保とうとする人は、それを賜るとき感謝し、それを持ち去られるとき忍耐し、新たに賜るように祈り、それを失わないように、へりくだって警戒する。

イエスの十字架を愛する人は少ない

イエスの天の国を愛する人は多いが、その十字架を担おうとする人は少ない。慰めを望む人は多いが、苦しみを望む人は少ない。イエスと共に食卓につきたい人は多いが、イエスと共に断食する人は少ない。キリストと共に楽しむことを望むが、キリストのために、何ごとかを忍ぼうとする人は少ない。パンをさくまでイエスに従う人は多いが、受難の盃を共に飲もうとする人は少ない。多くの人は奇跡に感嘆する、しかし十字架のはずかしめまで付き従う人は少ない。多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、慰めを受けている限り彼を祝する。しかしイエスが姿を隠し、しばらくの間でも、彼らから離れ去ると、不平を言い、ひどく落胆する。しかし、イエスから受ける慰めのためではなく、イエスをイエスとして愛している人は、患難や苦しみのときにも、慰めのときと同様に、彼を賛美する。そして、イエスが、いつまでも慰めを与えなくても、彼らはいつも、感謝と賛美とを怠らない。イエスへの愛が、自分だけの利益や自愛心の混じらない純粋なものであれば、それはどれほど威力を持っていることか。いつも慰めだけ求める人は、みな、雇われ人ではなかろうか。自分の安楽と利益だけしか考えないのは、キリストよりも、自分自身を愛している証拠ではなかろうか。何の報いも求めずに、神に奉仕しようとする人は、どこにいるだろう。すべてのものから脱した霊的な人は極めて少ない。真に心の貧しい人、どんな被造物からも心を離した人を、どこに見つけられよう。もしそういう人があれば、はるかな国から来る珍奇な宝物のように値打ちがある(格言31・10)。貧しい人に、自分の財産をみな与えても、大したことではない。死ぬほどの苦行を続けても、まだ些細なことである。あらゆる学問をおさめても、まだ目的から遠い。偉大な徳と熱心な信仰を持っていても、何よりも必要な一つのことがまだ足りない。それは何か?すべてを離れ、自分を捨て、自分を全く脱し、人間的なあらゆる愛情を捨てること、これである。できるだけのことをしても、いや自分は何もしなかったと考えなければならない。他人に高く買われている自分の長所も、大したことだと思わず、私は役に立たない僕だ、と心の底から思わねばならない。真理なるイエスも、「命じられたことをすべて果たしてから、私は役に立たない僕です、といえ」(ルカ17・10)と仰せられている。そうすれば、本当に心の貧しいもの、すべてを脱ぎ捨てた者となり、預言者と共に「今や私は孤独な貧しい者となった」(詩編24・16)ということができる。自分と自分のすべてを捨てて、最もいやしい席をとる人ほど、勢力ある人、自由な人、富んだ人はいない。

十字架の黄金の道

「自分自身を捨て、十字架をとってイエスに従え」(マタイ16・14、ルカ9・13)というみ言葉を、人は非常に難しいことだと思っている。しかし、この人々にとって、「呪われた者よ、私から離れて永遠の火に行け」(マタイ25・41)という最後の判決を聞くのは、さらにつらいことだろう。十字架を担えと言う言葉を喜んで聞き入れて実行する人は、そのときになって、永遠の滅びの宣告を聞く恐れがない。十字架の印は、主が審判に来られるとき、天に現れる。そのとき、生きていた間に、十字架のキリストの模範にならった十字架の僕たちは、審判者キリストに、大いなる信頼をもって近づくだろう。それなのに、なぜあなたは、十字架をおそれるのか、それを通って神の国に上がるのではないか。十字架こそ、救いと、生命と、敵からの防御がある。十字架は、天の喜びの賜物、知恵の威力、心の歓喜を与える、十字架には、すべての徳が含まれている。十字架には、完全な聖徳がある。十字架によらなければ、霊魂の救いはなく、永遠の生命もない。だから、あなたの十字架をとって、イエスに従え、そうすれば、永遠の生命に至る。彼は十字架を担って、あなたに先立ち(ヨハネ19・17)、その十字架の上で、あなたのために亡くなられた。それはあなたをも、十字架をとって、その上で、死なせようと望まれたからである。あなたが、彼と共に死ぬなら、彼と共に生き、彼と共に苦しめば、また共に永遠の光栄を受けるのである。見よ、すべては、十字架を担って、その上に死ぬことにある。そして、生命と真の平和とに導く聖なる十字架の道と、日々の苦行以外道はない。行きたい道をどこにでも行け、ほしいままに探せ、だが聖い十字架の道よりも高く、それよりも安全な道は見いだせないだろう。何でもあなたの望み通りに導き整えよ、しかしあなたは、否応なしに、苦しみに会わないではいないだろう。こうしてあなたは、いつも十字架に出会う。身体の苦しみであれ、心の試練であれ、常に何かを忍ばねばならない。あるときは、神があなたから遠ざかり、あるときは、他人から苦しめられ、またしばしば自分自身の重荷を感じる。そして、その苦しみを逃れる薬、荷を軽くする慰めを見つけず、み旨のときまで、忍ばねばならない。あなたが、なんの慰めもなく、患難を忍ぶことを学び、神に全く服従し、苦しみによってさらに謙虚になることを、神は望んでおられる。キリストの苦しみに似た苦しみを、忍ばねばならなかったひと以上に、キリストの受難を理解し得るものはない。だから十字架は常に備えられていて、どこでも、あなたを待っている。あなたはどこに逃げても、それからは逃げられない。あなたはどこへ行っても、自分自身といっしょであり、どこでも、あなた自身を見出すからである。上にも下にも、外にも内にも、どこでも、十字架を見出すだろう。もしあなたが、心の平和をもって、永遠の冠を受けたいと思うなら、どこに行っても、忍耐しなければならない。あなたが喜んで十字架を担うなら、十字架があなたを担って、希望の地、すべての苦しみの終焉の地まで、あなたを導いてくれる。しかしそれは、この世にはない所である。あなたが、十字架をいやいやながら持つとすると、それは、あなたの重荷となり、さらにあなたを圧迫するように感じる。しかしそれでも投げ捨てるわけにはいかない。一つの十字架を捨てようとすれば、必ず他の十字架を、多分もっと重い十字架を担わねばならない。この世に生活したどんな人間でも避け得なかった十字架を、あなたが避け得ると思うのか。この世で十字架を担わず、患難を味合わなかった聖人があろうか。主イエス・キリストさえも、生きていた間は、一瞬たりとも、受難の苦しみを感じないわけにはいかなかった。キリストは苦しんで、そののち、死者からよみがえって、光栄に入るべきである、とイエスご自身仰せられている(ルカ24・26)。それなのに、なぜあなたは、尊い十字架というこの黄金の道以外の道を探そうとするのか。キリストのご生涯は、十字架と殉教だったのに、あなたは、休みと喜びだけを求めようとするのか。もしあなたが、苦しみを忍ぶこと以外の何かを探し求めているなら、心に銘記せよ、それは間違いである。この世のはかない生活は、まことに悲惨であって、十字架に取り囲まれたものである。人は、完徳の道をのぼればのぼるほど、重い十字架に会う。神への愛が深まれば深まるほど、流され人の悲しみは、深くなるのである。だが、これほど様々な苦しみに会っていても、慰めが全然ないというのではない。自分の十字架を忍べば、貴い実がなると私たちは知っているのだから、進んで苦しめば、どんな重荷も、主の慰めへの信頼に変わる。身体が苦しみに砕かれれば、霊魂は神の恵みによって強められる。そればかりでなく、ある人は、患難と苦痛を望むことによって、慰めを感じ、イエスの十字架に一致したいがために、患難と苦痛なしに生きたくない、とさえ思ったほどだった。しかしそれは、人間の徳によるのではなく、キリストの恵みによることである。神の恵みは、人間のもろい肉体が、本来ならば嫌悪することを、熱心の余りに抱かせるほどの、大事をなしうるものである。十字架を担う、十字架を愛する、肉体を抑えてそれに勝つ、栄誉をさける。喜んで侮辱を忍ぶ、自分を無視して、他人にも軽蔑されることを望む、逆境と損害とに耐える、この世における幸運を望まない。これらのことは、人間の好みに合うことではない。自ら反省してみれば、以上のことが、一つとして自分の力だけではできないことがわかる。しかし主により頼めば、あなたは天の力を受け、世間も肉体も支配しえる。信仰で武装し、キリストの十字架の印をおびるなら、あなたは敵の悪魔さえも、おそれないだろう。だから、キリストの忠実な下僕として、あなたは、あなたを愛するあまり十字架にかけられた主の十字架を、雄々しく担っていけ。哀れなこの人生において、多くの悲運と不幸とを耐え忍ぶ心の備えをなせ。あなたは、どこにいても、不幸が起こり、どこに逃げても、苦しみに会うのだから。それは避け難いことである。そして苦しみと患難を避けるためには、それを快く耐え忍ぶ以外に方法はない。主の友として、将来み国に入ろうと思うなら、愛を持って、主の盃を飲め。慰めについては、神に任せよ。神が御旨のままにはからうようにまかせよ。あなたは、患難を耐え忍ぶ備えをし、患難こそ最大の慰めだと考えよ。あなた一人で、あらゆる患難を背負って忍んだとしても「現世の苦しみは来世の光栄に及びもつかない」(ローマ8・18)。患難が甘美なものに思われ、苦しむことが好ましくなり、キリストへの愛のために、それが美味なものになれば、そのときは全て順調に行っている、と思ってよい、それは、この世の天国を見出したことである。しかし、苦しみを重荷と感じて、それを避けたいと思う間は、つまずきがちで、避けようとすればするほど苦しみがつきまとう。あなたが、あなたのなすべきこと、つまりキリストのために苦しみ、自分自身を殺そうとし始めるなら、すぐ愉快になり、平和を見出すだろう。あなたが、パウロと共に、第三天まで上げられたとしても、それは苦しみを逃れる保証にはならない。イエスは、「彼が私の名のためにどれほど苦しまねばならないかを彼に示そう」(使徒9・16)と仰せられた。だから、イエスを愛して、いつまでも仕えたいと思うなら、あなたに残されたことは、苦しみ以外にない。あなたは、キリストの御名のために苦しみを耐え忍ぶ者であれ。こうなれば、あなたはどれほど光栄を確保し、また神の聖人たちはどれほど歓喜し、他人はどれほど徳に励まされることだろう。どんな人も忍耐を賞揚するが、しかしすすんで苦しもうとする人は少ない。あなたがキリストのために、何事かを喜んで忍ぶのは当然である。人はこの世のために、それ以上の苦しみを忍んでいるではないか。忘れるな、あなたは今死ぬべき人として生きねばならない。人は、自分に死ねば神に生き始める。キリストを愛するために、喜んで苦しみを忍ぼうとしない限り、天のことを理解する値打ちはない。こころよくキリストのために苦しむこと以上に、神に喜ばれ、またこの世で、あなたの霊魂を益することはない。あなたが、いずれかを選ぶことができるなら、慰めに満たされることよりも、キリストのために不遇を忍ぶことのほうを取れ。そうすれば、あなたはキリストに似た者となり、聖人たちに一層一致するだろう。私たちの功徳と、徳への進歩は、心の甘美さや、慰めにあるのではなく、不幸と患難を忍ぶことにある。苦しむこと以外に、人間の救いに役立つ便利な道があったら、キリストは、きっと、言葉と模範とで、それを示されたに違いない。ところがイエスは、その弟子たちや、従いたいと望む人々に、十字架を担えと明らかにお命じになって、「私に従いたい人は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従え」(マタイ16・24、ルカ9・23)と仰せられた。要するに、すべてを研究してのち、結論は、「私たちは多くの患難をへて、神の国に入る」(使徒14・21)という以外にはない。