7 ふさわしい意向

前もって神から予定された人々である神の民の皆さまは、神を敬わない生活や、怠惰、また信心の欠如によって自らを破滅させる人たちとの関係を絶ってください。そして、信仰と、謙遜と、信頼と忍耐とをもって、いつもロザリオを唱えてください。主イエス・キリストは、ご自身の模範に従い、絶えず祈りなさいとおっしゃいました。私たちの心の闇、無知と弱さのために、また敵の力とその数のために、絶えず祈る必要がある理由は、そこにあります。主のこの掟に心から耳を貸すものは、一年に一度とか、週に一度ロザリオを唱えるだけでは絶対に満足しないで、毎日それを唱え、決しておろそかにすることがありません。

1・「気を落とさずに絶えず祈らないといけない」(ルカ18・1)。これは聖なる主自らの永遠のみ言葉です。ですから、地獄に堕ちたくないならば、私たちはこの御言葉を信じ、従わないといけません。このみ言葉を、世間が解釈するように解釈し、世俗的なやり方で守るのではない限り、どのようにでも自分の好みのままに解釈して構いません。主は、み言葉のまことの説明を私たちに与えてくださったのです。「わたしがあなた方にした通りに、あなた方もするようにと模範を示したのである」(ヨハネ13・15)と福音には記されています。また「その頃イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカ6・12)とあるのを見れば分かりますが、日中の時間では足りないかのように、主は夜も祈りに過ごされました。「誘惑に陥らないよ目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い」(マタイ26・41)の節で分かることは、肉体は弱く、誘惑は、至る所に・いつもあなた達を取り囲んでいることです。祈り続けていないなら堕落するでしょう。‥‥ある人たちにとって、主のこれらのみ言葉は明らかに勧告です。ただその狙いをすっかり見過ごしているのです。イエス・キリストを知りつつも誘惑や罪に陥る理由はここにあります。敬愛する皆さま、あなたが流行を追う生活を送り、この世に属しているとしたら(ここで言っているのは、時々大罪を犯しても告解にいけばいいと気軽に思っており、また世間では不道徳だとされている度を越えた罪を避けようと願いつつも、少なからぬ罪を犯すこと)、こういう場合には数多くのロザリオを唱えるのには及びません。ほんの少しばかり「人格高潔」になる必要があるだけです。言いかえれば、夜、短い祈りを捧げ、朝、償いに捧げられた二、三連の「めでたし」を気の向いた時に唱えることです。これだけで十分です。これより、祈りの数が少ないとしたら、宗教上の自由思想家とかだらしない人間と刻印が押されることでしょう。しかし、まことのキリスト教的生き方を送り、純粋な心で自分の魂を救い、聖人たちの足跡をたどり、どんなことがあっても絶対に大罪に陥るまいと願うなら、またサタンの罠を破り、サタンの火炎を発する投げ矢をそらしたいなら、主自らがお教えになり、皆にもするように命令なさったように、常に祈らないといけません。心にこの願いが本当にあるなら、少なくとも毎日ロザリオを唱えるか、それと同等のことを実践しなければいけません。私が「少なくとも」と言った訳は、あなたがロザリオを通して成し遂げるのは、おそらく大罪を避け、誘惑に打ち勝つことだからです。多数の強い者たちがいなくなると、あなたたちは世間の強い悪の流れにさらされます。あなたたちは、最も強くなった者たちでさえ、しばしば惑わされる闇のまん中に身を置いているのです。今に至るまで、もっと老練で、誘惑することにかけては、更に狡猾で有能な悪霊に囲まれているのです。この世の支配力と悪魔と肉を遠ざけ、大罪を避け、天国を得ることができるとしたら、それこそ実に聖なるロザリオがもたらした恵みの驚異です!私が申し上げることを信じられないなら、少なくともご自分の体験から修得してください。あなたが、世の通常の人たちのように数少ない祈りを、その人たちと同じような唱え方をしていた時、あなたの無知な目には大きな過ちとも、また重大なことだとも映らなかった大罪を避けることができたでしょうか?それをお尋ねしたいのです。さあ、今こそ目覚めなければなりません。そして世にある時も、死に至る時も罪を持たないでいたいのならば、絶えず祈ってください。ロザリオ信心会が発足した初期のころ、会員たちが常に実践したように、毎日あなたのロザリオを唱えてください。聖母が、聖ドミニコにロザリオをお与えになった時、毎日それを唱えること、他の人たちにもそうさせることをお命じになりました。聖ドミニコは、毎日かかさずロザリオを唱えることを心から決意していない者には、決して会員の資格を与えませんでした。こんにちでは、週にただ一度だけのロザリオを唱えれば通常会員になることが許されます。熱意と愛徳が冷めているからです。祈ることに冷淡な者から熱意を引き出すように努力してください。「はじめはこんな風ではなかったのです」。ここで三つのことが強調されなければなりません。第一は、毎日ロザリオを唱えている会員たちの祈りと真価とに参加したなら、通常会員に名を連ね、毎日祈るだけでは足らないということです。祈りを実践するのはもとよりのこと、信心会にあなたを迎え入れる力のある人たちにあなたの名を告げないといけません。また、とくにこの意向のために告解と聖体拝領を受けることは素晴らしいことです。その訳は、通常のロザリオ会員資格には毎日ロザリオを唱えることは含められていませんが、この二つの秘蹟を受けることでそれを実践したのと同じだけの功徳を得られます。第二にはっきりしたい点は、毎日、もしくは週に一度、いや、たとえ一年に一回のロザリオを唱えることに決めていたとして、それを実践するのを怠ったからといって小罪にもならないことは確かです。第三の点は、病気の時とか、上長に決められた服従からとか、やむを得ない用事のため、もしくは心ならずも忘れてしまし、ロザリオを唱えなかった時、受けられる功徳や、信心会の他の会員たちが唱えるロザリオの祈りに参加する権利を失うといったことはありません。ですから、自分の過ちのせいではなく唱え損なったロザリオは、翌日埋め合わせるには及ばないと私は心得ています。とは言っても、病気のときに、ロザリオを一部でも唱えられる症状であるならば、少しでも唱えるようにしないといけません。「常にあなたの前にいる者は幸いなるかな」(列王記)。「あなたの家に住む者は幸いなるかな!彼らはあなたを賛美し続けるからであります」(詩編)。「主イエスよ、毎日、あなたの御前にロザリオを唱える信心会の兄弟、姉妹たちの幸せなるかな、彼らは、ナザレのあなたのささやかな家で、カルワリオで、あなたの十字架の下で、また天国のあなたの玉座にいるので、あなたの喜び、悲しみ、栄光の奥義を黙想し、また観想できるからです。あなたがこの人たちにお与えになった、その素晴らしい恵みのために、彼らは地上でもこの上なく幸せであり、実に特別な形で、永遠にあなたを賛美する天においても限りなく幸せであります!」

2・ロザリオの祈りは信仰をもって祈るべきであります。なぜなら主が「だから言っておく。祈り求める者は、すべて既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる(マルコ11・24)」と言っておられるからです。あなたが願うものは、全能の神の御手から受けることを信じるならば、神はあなたの嘆願を聞いてくださるであろう。神は、あなたに「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように」(マタイ8・13)。あなたたちの中で、知恵に欠けている者がいれば、誰にでも惜しみなく、とがめ立てることのなくお与えになる神に願いなさい。「そうすれば与えられます。少しも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」(ヤコブ1・5、6)と神はおっしゃるでしょう。知恵を必要としている者がいるなら、信仰を持ち、ためらわず、ロザリオを通じて神に願うようにしなさい。そうすれば、その者の願うものは与えられるでしょう。

3・第三に、収税士のようにへりくだり祈らないといけません。高ぶった世俗の人のように、片膝をついて、あるいは片膝をベンチの上にのせてというのではなく、彼は両膝をついて、地面にひざまずいて祈りました。ファリサイ人のように教会の内陣ではなく、収税士は教会の後方にいて、天を見上げようとはしないで目を伏せていました。ファリサイ人のように得意気に顔を上げてあたりを見回すようなことはなかったのです。収税士は、胸を打ち、自分の罪を告白して赦しを求めました、「神さま、わたしを憐れんでください」(ルカ18・13)と祈る彼は、自分の善行を自慢し、他人を軽蔑するファリサイ人とは正反対でした。心を無慈悲にし、罪を増すだけの祈りを唱えるファリサイ人の自惚れをまねてはなりません。自分を低くして罪の赦しを乞うた収税士が祈ったときの謙遜を模倣してください。全能の神が、ロザリオを唱える聖人たちのごく少数のものに、ほんのまれにお与えになる、尋常でないもの、ヴィジョンとか、啓示とか、その他の超自然的な恵みについての知識を、自分にも欲しいと当たり前のことをお願いしたり、いや、そんな願いは心に抱くことさえもしないようにするように気をつけるべきであります。「信仰のみで十分です」という言葉があるように、私たちには信仰さえあれば全く十分です。たとえ、魂の渇き、倦怠感、また内的な落胆に苦しむとしても、ロザリオの祈りをほんのわずかでも疎かにしないでください。これは自尊と忠実さの確かな印なのですから。それどころか、イエスとマリアの闘士として何も目にしないで、何も耳にせず、なんの慰めを感じることがなくても、奥義に心の底から集中し、まったく無味乾燥であっても「天にまします」と「めでたし」を唱え続けるべきです。まるで子供のように、甘いものとか、日々食するパンに塗るジャムを求めてはなりません。でも、ときとして、ロザリオを唱えることが特につらく思えるときには、もっと速度を落として唱えるべきです。ゲッセマニの園で主のお苦しみをもっと完全に模倣するために、このように祈ってください。「イエスの苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(ルカ22・44)。そうです、苦しいとき主はなお一層祈られたのです。あなたもこうすれば、苦しいときに、主はますます祈られたことを、あなたは模倣することができます。

4・神の限りない寛容さとイエス・キリストのお約束に大きく信頼して祈ってください。神は祈る者たちの心に絶え間なく流れ入る生きた水の泉です。永遠の聖なる父は、ご自分の恵みと憐みという命の水を私たちに与えてくださることを何よりも強く望まれました。主は、私たちに「渇いている者は皆、生ける命の水の源に来なさい」と望んでおられます。これは、「来て、祈りを通じ、私の泉の水を飲みなさい」という意味です。また私たちが、神に祈ろうとしない時には、私たちが神を見捨てようとしているかのように「生ける水の源である私を捨てた」(エレミア2・13)と悲しげにおっしゃるのです。私たちは神に恵みを願うことで神をお喜ばせすることができますが、願おうとしないなら「今までは、あなたは私の名によって何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたたちは喜びで満たされる」(ヨハネ16・24)。「求めなさい、そうすれば与えられる。捜しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる」(マタイ7・7)と、主は慈愛に溢れた苦情を漏らされるのです。その上、主に祈ることに更に大きな自信を与えてくださいます。主は、お約束でご自身をしっかりと縛っておられるのです。言いかえれば、私たちが、主の聖名によって願うことはすべて、永遠の聖父が私たちにお与えくださるということです。