2 注意を払って

よく祈るためには、あらゆる祈りの中で最も優れたロザリオという手段を用いて、私たちの嘆願に表現を与えるだけでは十分ではなく、心から集中して祈らないといけません。神は口先よりも心の声の方に耳を傾けておられるからです。祈りの間、勝手に気が散るままにまかせて罪を犯すことは、賛美と畏敬の念がひどく不足していることの表われであり、ロザリオの祈りを実りのないものとし、こういう祈り方をする者を罪ある者とします。私たち自身が自分の言っていることに注意を払わないなら、どうして神がその言葉に耳を傾けてくださることを期待できましょう?神の途方もないご威光の前に身を置きながら、そうしている間に、まるで蝶々を追いかけている子供のように気を散らしているのでは、どうして神に気に入っていただけるのを期待できるでしょう?こういう者は、全能の神の祝福を失うばかりか、「主の捧げ物を偽って行うものは災いなるかな」とエレミア書にあるように、不敬な祈りを捧げることで祝福は呪いに変わります。

もちろん、無意識に気の散ることが全くなしにロザリオを唱えるわけにはいかないでしょうし(悲しいことに私たちの想像力は、ほんのわずかな間も、おとなしくしていないのですから)「めでたし」一つまともに唱えることは難しいのです。しかし、故意に気を散らすことに屈服せずロザリオを唱えることは可能です。無意識に気が散る回数を減らし、自分の想像力を抑制するためのあらゆる予防策を講じることもまたできましょう。

このことを頭に入れて、自分を神のみ前に置き、全能の神と聖母が見守ってくださり、守護の天使が右手に立っていて、「めでたし」を満足に唱えられたなら、バラの花の形をしたその祈りを受け取って、イエスとマリアのための花冠を編み上げていくのを想像するようにします。しかし、左手には悪魔が隠れており、自分の方に向かって来る「めでたし」の一つ一つに飛びかかって奪おうとしており、成功すると、それを破滅的な地獄の記録帳に書き込もうとしていることを忘れないでください。

信心と畏敬の念を込めないで、いい加減に唱える「めでたし」を、悪魔がすべてひったくって行くのを避けることはできません。ですから、奥義の記念として各連を捧げることを覚えてください。また、それを唱えている間、それぞれの奥義に関連したイエスとマリアを心に描いてください。

福者ヘルマンの伝記には、彼がロザリオに集中して奥義を黙想しながら、敬虔にロザリオを唱えているときには、聖母が息を呑むばかりの威厳と美しさにまばゆく光輝いて出現されたと書かれています。しかし、時がたつにつれ彼の熱意が冷え、ロザリオを大急ぎで、しかも十分な注意を払わずに唱えるという風になったある日、聖母が再び彼の前に現れましたが、その時に限り聖母は美しいとはとても言い難く、そのお顔にはしわが刻まれ、しかも悲しみに顔をしかめられていました。福者ヘルマンが、聖母の御顔の変化に肝をつぶしていると、聖母は次のようにその訳をお話になったのでした。「この顔が語っているように、これがあなたに対して抱いている私の気持ちなのですよ、ヘルマン。今では、あなたは霊魂の中で私をさげすむべき女、何の価値のない女という風に扱っていますね。どうして以前のように、私の奥義を黙想し、私の受けている特別の恵みを賛美しながら、敬いの念と注意とを払って私に挨拶をしようとしないのですか?」と。