1 純粋な意向

全能の神を喜ばせ、その御心を動かすものは、祈る時間の長さではなく、祈りへの熱意です。ふさわしく唱えるただ一つの「めでたし」は、心を込めないで唱える150回の「めでたし」よりも値打ちがあります。大部分のカトリック信者はロザリオを唱えます。15の奥義を黙想しながらのこともあれば、その中の5つ奥義だけを考える5連だけのことがありますが、とにかく全く唱えたことのない信者はまずいないでしょう。それなのに、罪に染まった生活をやめて霊的な生活に入ろうとする者が少ないのはなぜでしょうか?それは、ロザリオを、心を込めて唱えるべきなのに、心を込めず口先だけで唱えているからに違いありません。心から神をお喜ばせしたいと願い、もっと聖なる者になりたいならば、どう祈るべきかをじっくり考えることは大切です。

利益となるようにロザリオを唱えるには、まず恩寵の状態にいないといけません、少なくとも大罪を犯さないと完全に決意していなければならないのです。どんなに立派な活動も、祈りも、それらが大罪の状態でなされたとしたら何の効力もありません。従って、そうした好意は神をお喜ばせすることもなければ、永遠の命を手に入れる助けにもなりません。コヘレトの言葉に「罪人が賛美の言葉を口にするのはふさわしくない」と記されているのはそのためです。罪を悔い改めない人が、賛美を行っても神をお喜ばせすることはありません。イザヤはこう書いています。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」。それは「私の信心会に加わって毎日ロザリオを唱えても(まあ5連が良いところでしょうが)、自分の罪を悔いようとしないものは、私をただ口先で礼拝を行っているだけで、彼らの心は私のことを思ってはいない」と述べているのと同じです。

神は、なによりもまず、恩寵の状態にある者たちの祈りしか聞き入れないというのが事実であるならば、それは、ひいては大罪をもっている者たちは祈るべきではない、ということに通じないでしょうか。いいえ、これは母なる教会に禁止されている誤った教えです。罪の状態をぬけ出し、罪を捨て去るために、罪人は祈らないといけません、いや、善人よりはるかにたくさん祈る必要があります。罪人が祈るべきではないという酷い教えが本当だとしたら、罪人たちにロザリオ一環を、いや、その一部分ですら唱えるように勧めるのは無益で徒労に終わることになるでしょう。

しかし、罪人たちが罪を捨てる気などさらさらないのに、聖母の信心会の一つに加わり、ロザリオか、その他の祈りを唱え続けようとしたら、その者たちは、偽の聖母の帰依者の地位に身を置くことになります。あつかましく、悔悛の情のないこれらの帰依者たちは、聖母のマントの下に隠れ、ロザリオを身につけたり、手にしたりして「聖なる処女よ、素晴らしい母よ、めでたしマリア!…」と声を上げます。しかし、それと同時に彼らは自分の罪によって、主イエス・キリストを十字架につけ、今一度主の肉を裂いているのです。それは大いなる悲劇であり、これをする者たちは、聖母の最も聖なる信心会の一員という地位から地獄の業火へと堕ちていくのです。私たちは、すべての人たちが、ロザリオを唱えるようになるのを願っています。正しい者は、たゆまずこれを続けることにより、神の恩寵が増すように、また罪人たちは罪から引き上げられるようにと。しかし、罪人が罪を愛するのを止めないならば、それでも聖母はご自身のマントでかばってくださる、などという考えを助長することを、神が禁じてくださいますように。そんなことをしても、そのマントはただ、罪ある者の罪を一般の人々の目から隠すだけであり、滅びのマントに変じるのに過ぎないのですから。人間のあらゆる癒しであるロザリオは、そのとき致命的な毒に変わります。ことわざにもある通り、「最も良いものが腐食したときには最悪なものになる」のと同じです。聖処女に近づくためには、天使のような汚れのない者となり、天使祝詞を唱えなければなりません。

ある日、聖母は、たいへん身持ちの悪いが毎日ロザリオを唱えることを習慣としている一人の男性に出現なさいました。聖母は彼に見事な果物の入った鉢をお見せになったのです。豪華な果物を盛った鉢は汚物にまみれていました。これを見ておじけづいた男に向かって聖母はおっしゃいました。「あなたが私を賛美している方法はこうなのですよ!見るも不潔な鉢に入れた馥郁たるバラを私に捧げているのです。こんな贈り物を受け取れると思いますか?」と。