8 不屈の努力

第5の重要な点として、祈るときには、不屈の忍耐力を持たなといけません。願い・求め・門をたたき続ける者だけが、恵みを受けることができます。恵みをいたただくには、一か月とか、十年、いや二十年の祈りでは十分ではありません。飽くことを知らずに、息を引き取るまさに最後の瞬間まで祈り続けないといけません。また、私たちは、死についてでさえ「神は私を殺されるかもしれないが、私は神に信頼をおこう」(ヨブ13・15)と信頼をこめて祈り、神が自分に必要なものすべてを与えてくださることを信じるのです。並外れて富んでいる神は、人々の求めていることを前もって知り、必要なものを与えて、彼らがまだ何も求めていない前でさえも、その寛容さを示します。そして惜しみなく与えてくださる一方、与えたいと願っていられる恵みを、更に貴重な恵みを、また与えられるまでに、もっと時がかかって、私たちに願い求めるようにさせます。神がこうされるのは三つの理由があります。
1・こうすることで、この恵みを一層深く増すため。
2・恵みを受ける者が、その恩恵を更に深くしみじみと味わうため。
3・心を込めて、注意を込めて恵みを受ける者に、それを失うことのないようにさせること…人間というのは、苦労らしい苦労もせずに手にしたものだとほとんど感謝しないものですから。
ですから敬愛するロザリオ信心会の会員の皆さま、霊的、肉体的両面に、あなた方が必要としているすべてのものを、聖なるロザリオを通じて全能の神にお願いする時には、忍耐をもってください。

皆さまは、何にも増して限りない宝である神の賢慮を求めないといけません。「賢慮は、人間にとって無尽蔵の宝」(知恵の書7・14)であり、神の上智を求め続け、知恵を求める旅路の途中で勇気を失わない限り、遅かれ早かれ、それを受けることに何の疑いもありません。「あなたの道はいまだ遠い」と聖書にのっています。これは、あなたの旅路は長く、うまくいかない時もあり、打ち勝たないといけない多くの困難や、永遠の生命を受けるための十分な宝を貯める前に、征服しないといけない敵は多く、天国の道を得るのに十分な『天にまします』と『めでたし』を唱え、忠実な信心会会員を待っている素晴らしい冠を自分のものとしなければならないということです。

「あなたの栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」(黙示録3・11)。聖なるロザリオを、あなたよりも忠実に唱える者に、あなたの冠を取られることのないように気をつけなさい。それは「あなたの冠」、全能の神があなたのために選んでくださったものですから。不運にも、誰か他の者がレースであなたを追い越してしまい、あなたよりももっと熱心で、もっと忠実な誰かが、ロザリオを完全に唱え続けることと善い行いとで、あなたのものであるべき冠を勝ち得てしまうかもしれないからです。あなたが、実にそつなく走っている整然とした道に、じっと立ち止まったとしたら、こういうことが皆実際に起こります。「あなたは、よく走っていました。それなのに一体だれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」(ガラテア5・7)。

あなたがロザリオの冠をいただくのを妨げたのは一体誰なのですか?聖なるロザリオの敵である大変な数の悪魔の他ありません。「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」とあるように、冠を奪うのは暴力のみだという私の言葉を信じてください。これらの冠は、世間の嘲笑や、脅迫を恐れている臆病な人たちのものではありません。また、ロザリオをいい加減に、もしくは、少しでも早く終わらせてしまいたいので、たいへんな速度で唱える怠惰で、やる気のない人たちのものでもありません。気の向くままに、時にはロザリオの祈りを止めてしまう人たちについても同じことが言えます。これらの冠は、地獄がロザリオに対して何かことを起こすとすぐに、落胆して降参してしまう腰抜けのものではないのです。敬愛する信心会の皆さま、毎日ロザリオを唱えてイエスとマリアにお仕えしたいなら、誘惑に立ち向かわないといけません。

「子よ、主に仕えるつもりなら、自らを試練に向けて備えよ」(集会の書2・1)。異端者や不身持ちの人々、世間で「人格高潔」で通っている人々、偽預言者だけでなく、外面だけ敬虔な人たちは、自分の堕落した性質や地獄そのものと結託して、あなた方に、この聖なるロザリオの実践を止めさせようと、必死で恐るべき闘いを挑んでくるでしょう。彼らの猛攻撃に対してよりよく武装するのに役立たせるために、こういう人たちがいつも言ったり考えたりしていることをいくつか紹介します。これは、あなた方が彼らに対して自衛するためであって、異端者たちや純然たる不道徳な人たちには当てはまりませんが、とりわけ、世間の目に「人格高潔」に映っている人たちや、信心深くあっても(奇妙な話ですが)ロザリオを全く用いない人々の言葉や意見です。福音には「このお喋りは何を言いたいのだろうか?」「さあ、その者に圧迫を加えてやろう。私たちに反対するのだから」(使徒17・18)と記されています。彼らは「あんなにたくさんのロザリオを唱えて何になるというのだ?いつまでもロザリオを爪繰って何をブツブツ唱えているのか?何という怠け者!古いビーズを持ち歩いてブツブツ言っているなんてひどい時間の無駄ではないのか。そんな馬鹿げたことをしてないで、仕事でもした方がずっと役立つだろうに。私の言っていることは筋が通っている‥‥」と言うのです。「あなたはロザリオさえ唱えればいいのだと私は思います。そうしていれば天からの財宝があなたの膝に転がり落ちてくるでしょう!あなたは指一本動かさないでも、ロザリオがあなたの必要なものすべてを与えてくれるのです!『神は自らを助ける者を救う』という格言がなかったでしょうか。ですから、そんなに多くの種類の祈りを唱える必要はありません。『天は、短い祈りを聞き入れてくださる』のです。心を込めて唱えるなら『天にまします』『めでたし』だけで十分です」。「神は私たちにロザリオを唱えよとは、一度もおっしゃらなかった…でも、唱えることは少しも構わないのだし、時間があるなら唱えればいい。この信心はなかなか捨てたものではないのだから。ただし、ロザリオを唱える者たちが、私たちよりも天国を手にする確率が高いなどとは思わないでもらいたい。ただ一度もロザリオを唱えなかった聖人たちのことを考えてみなさい!はるかにずっと数多くの人たちが自らの目で見て分からせようとしているのだ。人間はすぐものごとを極端に考える。どこへ行っても罪を見るモラルのある人たちが、ロザリオを唱えない者は地獄に堕ちるというようなことを大々的に言っています」。「ああ、もちろん、ロザリオは読み書きできない年寄りの女にはぴったりだろう。でも、聖母のささやかな聖務日課の方が確かにロザリオより価値があるのではないだろうか?あるいは七つの贖罪の詩編とか?聖霊に注ぎ込まれた詩編ほど素晴らしいものが他にあるだろうか?あなたは毎日ロザリオを唱えることに同意しているが、これは火のついた麦わらに過ぎないのだ…言うなれば長続きしない。そんなことは御存じだろう!約束ごとはもっと少なくして、決めた約束を忠実に果たす方がいいのではないのか?」。「さあ、友よ、私の言葉を聞きなさい。朝晩の祈りを唱え、日中はしっかりと仕事に精を出し、それを捧げるがいい…神は、あなたからそれ以上のことをお求めにならない。もちろん、あなたは日々の生計をたてるために働いている。暇のある人なら私は何も言わない‥暇があれば好きなだけロザリオが唱えられるのだから。だから今は、どうしても唱える必要があるならば、時間の沢山ある日曜と聖なる祝日に唱えるがいい」。「しかも、本当にまあ、山のように一杯ついたビーズで何をやっているのか?それでは男ではなく、年老いた女のようではないか!私は、一連しかついていない小さなロザリオを見たことがある…それだって十五連のロザリオと同じだけの価値があるのだ。一体全体帯に何をぶら下げているのか。あなたは狂信家なのか?ついでにスペイン人のように、それを首にかけたらどうなのか?スペイン人たちは、片手には大きなロザリオを、もう片手には短剣を下げているものだから」。「お願いですから、そんな外面的な信心は捨ててしまいなさい。まことの信心とは心の内にあるものです…等々‥‥」。同じように大変の数の賢人や、博学な学者たちが(しかし、こういう人たちは無論、自尊心が強く、我意を通すのである)ときどき、ロザリオなど唱えないように忠告するでしょう。彼らはロザリオよりも七つの贖罪の詩編とか、その他の祈りを唱えるように勧めます。

もし、立派な聴罪司祭が償いにロザリオを命じ、半月か一か月、毎日それを唱えるように言ったのに、この償いを他の祈りや、断食や、ミサに与ることや、施しをすることに帰るとしたら、もう一度告解に行かなければなりません。この世では、祈りの生活を送ってはいても一度もロザリオを唱えようと努めたことのない人たちに霊的相談をするとしたら、その人たちは、観想生活を学ばせてくれないばかりか、それから人々を遠ざけることになります。それは、まるでロザリオの祈りと観想とは相容れないもので、ロザリオに打ちこんでいたすべての人たちは、まるで卓越した観想の高所を体験したことがないと言っているかのようなものです。

あなたに一番近いところにいる敵である悪魔たちは、あまりにも身近にいるために、一層冷酷に攻撃を加えるのです。私が話しているのは、あなたの霊魂と肉体の欲望のことです!…これらは、想いを混乱させ、悲嘆、意志の不安定さ、冷淡な心、疲労、また体の病気を引き起こします。‥こうしたことは、悪魔と結びつき「ロザリオなど唱えるのは止めるがいい。お前に頭痛を起こさせるのはそれだから!止めなさい。止めたからと言って何の罪にもなりはしなしのだから。どうしても唱えないといけないなら一部だけにするがいい。ロザリオを唱えるのが辛いと感じるのは、そもそもお前がそれを唱えるのを全能の神が望んでいられない印なのだ。明日にでも、もっと気乗りのしているときに唱え終えればいいのではないか、等々」と私たちにささやき続けるのです。敬愛する兄弟よ、結論として、毎日ロザリオを唱える会の会員であるということは、たいへんな数の敵に襲われることを意味するのであって、これを死ぬまで屈せずにやり続ける恵みは、全能の神が与えてくださる最も大きなご好意の一つです。ロザリオを、屈せずに忠実に唱え続けるなら、ついには天であなたを待ち受けている素晴らしい冠を勝ち取るでしょう。「死に至るまで忠実でいなさい。そうすれば、あなたに命の冠を授けましょう」(黙示録2・10)と福音に記されています。