7 主の祈り 説明3

注意をこめてこの神の祈りを唱える時には、祈りの言葉を声に出すたびに最も貴重なキリスト教徒の徳と言う行為を出来る限り表しているのです。天におられる私たちの父よと唱えることで信仰と、礼拝と、謙遜の行いをしています。み名が聖とされますようにと願う時には神の栄光に対して燃えるような熱意を示しており、御国が来ますようにと願う時には希望を表明しており、み心が天に行われる通り、地にも行われますようにという懇願により完全な服従の精神を示しているのです。私たちの日ごとの糧を願うことで、私たちは心の貧しさ、すなわち謙遜になることと世俗的なものからの離脱を実践します。私たちの罪をおゆるしくださいと願う時には罪に対しての後悔を表しています。私たちも人をゆるしますという願いでは、慈悲と言う徳を最高潮にまで示しています。私たちを誘惑におちいらせずという懇願で神に助けを願うことにより、 私たちは、謙遜と、思慮分別と、不屈の精神と表すのです。悪からお救いくださいと待ち望みながら、私たちは忍耐の徳を働かせます。最終的には、これらすべてのことを求めるということには、自分自身のためのみではなく、隣人や教会のため、神の真の子供としての義務を遂行し、全人類を包括する神の愛に包まれながら、神を模倣し、隣人愛の戒律を守っているということになるのです。口で言っていることと心で考えていることが合致し、私たちの意向が主の祈りの内に表現されているもろもろの願いと相違ないならば、その時こそ、この祈りを唱えることで私たちは全ての罪を憎み、神の掟を全て守っていることになります。神の存在の中に私たちの身を置き、 神の尊厳の偉大さによって私たちから無限に隔たっておられても、天におられる私たちの父よと心に思う時には、いつも圧倒的な畏敬の念に満たされるのです。 ひいては、主に対する恐れがうぬぼれをすっかり追い散らし、自分達は全くの無であることに気づいて、神の前に頭を垂れるのです。聖なる父のみ名を唱えるとき、私たちは、自分の存在は、生んでくれた両親に、また知識は、師と言う座にあり、神の生きたイメージであるために尊敬を払わないでいられません。ですから親や師に礼を失したり、苦痛を与えたりするようなことなど、考えられもしないことです。み名が聖とされますようにと祈るとき、神を冒涜するような気は微塵もありません。神のみ国を私たちの相続すべき財産だと心から考えているとしたら 、この世の物に執着するようなことはとてもできません 。私たち自身が必要としているのと同じ幸せを隣人達にも持てるようにと真心から神に願うならば、憎悪の念や、争いや、嫉妬の気持ちは消え去ってしまうことは言うまでもありません。また、日ごとの糧を神に願うとしたならば、富に囲まれた環境にはびこる暴飲暴食や、 好色を嫌うようになるのが当然でしょう。私たちは罪をおゆるしください。私たちも人をゆるしますと心を込めて神に願うなら、もはや怒りに身をまかせ、仕返ししてやろうなどと考えることがなくなり、悪に善をもって報い、敵を心から愛するようになります。誘惑に会った時、私たちを誘惑におちいらせずと神に願うことは、怠惰と戦い、心底悪い習慣を根こそぎにして、救いに至るための手段を求めていることを証明します。私たちを悪からお救いくださいと祈ることは、神の正義を畏れることであり、そうすることは真の幸福を与えてくれます。神を畏れることから分別が生まれ、神を畏れるということにより人間は罪を避けることができるからです。