16 完成の手段

聖人たちは、常に主のご生涯を彼らの思考の第一の目的とし、主の愛徳とご受難を黙想し、こうすることでキリスト教徒としての完成に到達しました。聖ベルナルドは、ひとたびこの黙想を始めると必ず続けて行いました。「私の改心はまさに当初に、私は救い主のお悲しみを集めたミルラ(没薬を作る原料で香気のあるカンラン科の植物)の花束を作り上げ、ご受難の時の鞭の痕や茨や釘のことを考えながら、この花束を私の心の上に置きました。そして自分自身の全精神力を振り絞り、これらの奥義を黙想したのです」とベルナルドは言いました。聖なる殉教者もまた、これと同じ実践をしたのでした。彼らがいかに見事に彼らの受けた残酷な苦しみに打ち勝ったかを、私は知っています。聖ベルナルドは、殉教者たちの驚くべき志操の堅固さは唯一の源から、つまりイエス・キリストの御傷に関する黙想という源から湧き出ていると述べています。殉教者たちは、キリストの競技者であり、選手たちです。血がほとばしり出て、彼らの体がひどい拷問で打ち砕かれている間、彼らの魂は主の御傷のなかに潜んでいました。主の御傷が彼らを不屈にしたのです。

全生涯を通じて、聖母の第一のご関心は聖子の愛徳とご受難について黙想することでした。聖子のご降誕に際して、天使たちが喜びの賛歌を歌うのを耳にされたとき、また羊飼いたちが馬屋のなかの聖子を拝むことを目にされたとき、聖母のみ心は驚きに満たされ、これらすべての驚異すべきことについて黙想されました。聖母は、托身された御言葉の偉大さを、イエスの深い謙遜さと、ご自分を低められたそのなさり方を比べ、藁(ワラ)に満たされた飼い葉桶のなかの聖子と、天国での聖子の玉座である永遠の聖父の懐におられる聖子についてお考えになりました。聖母は神の御力と赤子の弱々しさ、神の上智と単純さ、を比較されたのでした。ある日、聖母マリアは聖ブリジットに言われました。「私の聖子の美点と、謙遜と、上智に関して黙想するごとに私の心は喜びに満たされます。また残酷な釘で刺し貫かれたわが子の手足のことを思う度に身を切られるようで、私の心は悲しみと痛みとに引き裂かれました」と。主のご昇天の後、聖母は残りのご生涯を、たびたび、聖子が足跡を残されたところ・御受難によって聖とされた数多くの場所を訪れられました。それらの場所に行かれるとき、聖母は主の限りない愛と、その恐ろしいご受難を黙想されたのでした。

マグダラのマリアは、生涯の最後の三十年間をサン・ボームの祈りの隠遁所で暮らしている間、こうした信心業だけに専念しました。聖イエロニモは、これら聖なる土地の信心は、教会の初期の世代の信者たちの間で広く普及されたと述べています。彼らがキリストのご降誕と、御業と、ご受難と死とによって聖とされていた場所や物を見ることで、救い主の無限の愛と記念とを、彼らの心にさらに深く印象づけるためにキリスト教世界のあらゆる所から聖地へ巡礼しました。全キリスト教会は、唯一の信仰を奉じ、各人が天国の福楽を望みつつ、同じ神であるお方を崇めています。彼らの仲介者はイエス・キリストだけですから、神の模範であるこの方に倣わないといけません。そのためにキリストのご生涯の奥義と、美徳と、栄光とを黙想しなければならないのです。

司祭たちや聖職者、またこの世の騒がしさから身を退いている隠遁者だけが私たちの信仰の真理と、イエス・キリストのご生涯の奥義について黙想する義務があると思うのは大変な誤りです。司祭たちや聖職者たちに、彼らの召し出しのふさわしい生き方をするために、聖なる宗教についての偉大な真理を黙想する義務があるとするなら、その義務は在俗信者たちも全く同じにかかっているのです。…彼らもまた、自分たちの、自分たちの霊魂を失うかもしれない霊的な危機に毎日遭遇しているという事実がその理由です。従って、在俗信者たちは、ロザリオの十五の奥義に見事に示されている、聖なる主のご生涯、美徳、ご受難について始終黙想することで武装すべきです。