15 記念

私たちの魂の神聖な伴侶であり、ご自分の完全性とすべての賜物を私たちが覚えていることを望んでおられる親しい友人、イエス・キリストは、その賜物を大切にすることを私たちに求めておられます。信心深く愛をもって、ロザリオの奥義を黙想する時にはいつも、主は思いもかけないほど喜んでくださるのです。聖マリアと天国の聖人たちもまた同じように喜んでくださいます。これらの奥義は、私たちに対する主の愛の最も顕著な成果であり、ひょっとすると主が私たちにお与えになれる最も素晴らしい賜物かもしれません。という訳は、そうした賜物の美点によって、聖母ご自身も諸聖人たちも天国の栄光に浸っていられるからです。

ある日、ある聖人が主に、一番主を崇めることのできる宗教的実践は何か教えてくださいとお願いしました。すると主は、十字架にかかったお姿で現れ「私の娘よ、私の傷を見なさい」とおっしゃったのです。聖人は、その時、主の御苦しみについて黙想することが何よりも主をお喜ばせするということを悟りました。主は、さらにご自分の傷を、またその他の苦しみをお示しになって、「私は、あなた達をすくうために、こうした苦しみすべてを忍んだ。この私の愛に、どう報いることができるのか?」とお尋ねになりました。

ミサ聖祭の生贄はイエス・キリストの受難を表し、これによって父なる神に主の服従と受難と聖なる御血の功徳とを捧げられたように、いとも聖なる三位一体に限りない崇敬を捧げることです。天の全宮廷もミサ聖祭からこの上もない喜びを受けます。そして天国にいる祝せられた全ての者は、信徒たちの聖体拝領による一致に歓喜します。なぜなら聖体の秘蹟はイエス・キリストのご受難と死の記念であり、この手段によって人類はその成果に与り、救いを達成するからです。

ですから、聖なる奥義について黙想をしながら唱えるロザリオは、人類の救いという素晴らしい恩寵に対して神に感謝するために、賛美の捧げ物となります。ロザリオは、またイエス・キリストの受難と、死と栄光とを思い出させるものです。それゆえ、ロザリオが主と、聖母と、すべて祝された者に栄光を帰し、大きい喜びをお捧げすることになるのに間違いはありません。なぜなら、主と聖母と聖人たちにとっては、私たちが、主には大いなる賛美となり、私たちは大変な益となるロザリオという信心業に携わることほど私たちの永遠の幸せに役立つものを他には望み得ないからです。

福音は、改心し痛悔する罪人は天使たちをすべて喜ばせると教えています。ただ一人の人間の悔い改めと改心とが、天使をそれほどまでに歓喜させるのに足りるとするなら、この地上にいる人類がこぞって深い信心を持ち、主の謙虚さと苦悩、また主の残酷で不名誉な死について黙想するのをご覧になる天の全宮廷の喜びはどれほどであり、聖なる主に対するどんなに素晴らしい賛美となることでしょう!ロザリオほど私たちの心を感動させ、心から誠実な痛悔へと導くように造られたものが他に存在するでしょうか?

ロザリオの奥義について黙想することのないキリスト信者は、主への恩義を少しも感じておらず、この世を救うために神なる主が耐えてくださったすべてのお苦しみを気にもかけていないのです。こういう態度の者は、イエス・キリストのご生涯についてほとんど、いや、なに一つ知らないのを示しており、主のことを深く知ろうという努力…人類を救うために主が何をしてくださり、どんなことを経験されたのか…を全くしていないように思われます。このタイプのキリスト信者は、イエス・キリストについて無知であること、もしくは主のことを頭と心から締め出していることに不安を感じてしかるべきです。主は、最後の審判の日にその者を否認され、難色をあらわにされて「はっきり言っておく。わたしはお前を知らない」(マタイ25・12)と言われるでしょうから。ですから、そうならないように、聖なるロザリオという手段を使い私たちの主のご生涯と、受難について黙想しましょう。最後の審判の日に、主が私たちをご自分の子たちや友として扱ってくださるように、主をよく知り、主のすべてのお恵みに感謝するようにいたしましょう。