14 キリストに倣うこと

キリスト教徒の主たる関心は、完成に向かうことです。聖パウロは「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)と述べています。この義務は、永遠の栄光に到達する私たちの運命について神に定められた唯一の手段として、永遠の神のご意志の内に含まれているのです。私たちを芸術家に例えるならば、私たちの霊魂は自分たちで絵を描き込まねばならない空白のキャンバスであります。その絵に使用する色彩とはキリスト教的美徳であり、私たちのモデルは、聖父なる神の完全さで生きたイメージであるイエス・キリストでなければなりません。立派な制作をものにしたいという願う肖像画家がモデルを前にして、一筆絵筆を動かす前に必ずモデルを見るのと同じように、キリスト信者は常に目の前にイエス・キリストのご生涯と美徳とを思い描いていなければいけません。そうなれば、モデルに調和しないようなことを口にしたり、心に思ったりすることは決してないでしょう。聖母は、私たちの救いを実現するという偉大な責任を果たす援助をしたいとお思いになったので、イエス・キリストのご生涯についての奥義を黙想することを信徒たちに教えるよう聖ドミニコにお命じになりました。聖母がそうなさった訳は、信徒たちがイエスを、ただ崇拝し、栄光を帰するだけではなく、何よりもイエスの美徳に自分たちの生き方と行いとを模倣させるためだったのです。子供というものは両親を見守り、話しかけることを通して彼らを模倣し、親が話すのを聞いて言葉を覚えます。徒弟は仕事をしている主人を見守ることで仕事を習い覚えます。それと同じことで、聖なるロザリオの信心に忠実な者は、イエス・キリストのご生涯の十五の奥義に示されているキリストの美徳を謙虚に覚えようと努め模倣するなら、神なる主に似た者となることができるのです。キリストの恩寵の助けと聖母マリアの執り成しにより、これらを行うことが可能となります。昔、モーセがユダヤの人々に、彼らの上に降り注がれている恩寵を決して忘れてはならないと命じるよう神からの啓示を受けました。それならば、神の御子にはご自分の生涯、受難と死と奥義を私たちの心に刻み込み、常に私たちの目の前に思い描くようにお命じになる更に大きな理由がおありになるはずです。なぜなら、一つ一つの奥義は特別な形で私たちに主の美徳を思い出させてくれますし、イエスが私たちのために途方もない愛と望みとを示してくださるのはこれらの奥義だからです。主は私たちに「通り過ぎて行くすべての者よ、しばらく立ち止まり、私があなたのために体験した苦しみほどの苦しみが今までにあったかどうかを考えてみるがいい。私の貧しさと、私の受けた辱めを心に留めて欲しい。激しい受難の間に、私があなたたちのために飲んだ苦味の混じったブドウ酒のことを考えて欲しい」と言われるのです。ここに出ている、またこの他にも多くのキリストの御言葉を聞けば、ロザリオを唱える間には、ただ、口頭で主と聖母を賛美するだけでは足りず、聖なる奥義について黙想すべきであるのを十分に納得する筈です。