五十  十字架上の最後のお言葉

イエスはすっかり衰え果て、乾ききった口でおおせられた。「わたしは、渇く」。このうめきを聞いてイエスの友は二、三の兵卒らにぜひ水をひと口さし上げるようにと頼んだ。そして若干の金を与えた。すると一人の兵卒が海綿に酢をふくませ主に飲ませた。主の最後は迫った。死との戦が始まり、冷汗は五体から滴り落ちた。ヨハネは十字架のそばに立ち、主の足を汗拭きでぬぐった。マグダレナはまったく悲しみに打ち砕かれ、十字架のうしろに寄りかかっていた。聖母は御子とよき盗賊の間に、マリア・クレオファとサロメの腕に支えられて立っておられた。その時イエスはおおせられた。「すべては成し遂げられた」。それから主は頭を起こされ、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大きな声で叫び、頭を垂れた。それは天と地をつらぬく鋭い叫びであった。ご霊魂は肉体を離れた。主の霊魂が輝く影のごとく十字架から地中に入り、古聖所に降りて行かれた。ヨハネと聖婦人たちは地上に頭を伏せた。アベナダルは馬を十字架の丘に乗りつけ、茨の冠をかむらされたキリストの顔を、長い間深い感動と張りつめた気持ちの内に見つめていた。イエスが死去されるとすぐに、大地はふるえ、主の十字架と左の盗賊との間の岩が大きく裂けた。この神のしるしは恐怖とおののきを呼び起こす深い戒めのように、悲しんでいる自然をつらぬいた。同じような思いを持っている者の心は、苦痛の刃をもってさしつらぬかれた。その時恩恵がアベナダルに下った。かれの馬はふるえ、かれの感情も激しく動いた。かれの頑固で傲慢な性格もカルワリオ山の岩のように砕けた。かれは槍を投げ捨て、そのたくましい拳をもって強く胸を打ちながら高らかに叫んだ。それは新しく生まれ変わった人間の声であった。「全能の神は賛美されますように!この人は義人であった。確かにこの人は神の子である」。大勢の者はこの隊長の言葉に揺り動かされ、かれに倣った。今や、新たに救われた人間としてのアベナダルは、公然と神の子に敬意を表してからは、もはや主の敵に使われることに未練はなかった。騎馬のかれはロンギヌスと呼ばれた下士官カシウスの方に向けて駆け寄り、馬から下りた。そして、その槍をカシウスに手渡した。下士官が馬に乗った。そして指揮をとった。アベナダルは直ちに急ぎ去り、ヒノンの谷の洞穴に行ってそこに隠れていた弟子たちに主のご死去を知らせた。それからさらに城内のピラトの所へ走った。イエスが死の瞬間叫ばれ、大地が打ちふるい、十字架の丘が裂けた時、そこに居合わせた者は激しい恐怖におそわれた。その恐怖はあらゆる自然をゆさぶった。その時神殿の幕は裂けた。多くの死人が墓から出て来た。神殿の壁はくずれ落ちた。またもろもろの山や建物が崩壊した。そこに居合わせた群衆から多数、また最後にのぼって来たファリサイ人のうちの何人かが悔い改めた。大勢の者は胸をうち嘆き訴えつつ、あわてて山を下って行った。他の者は自分の衣服を裂き、灰を頭からかぶった。イエスが死去されたのは午後三時少し過ぎであった。地震の最初の恐怖が去るとすぐに、数人のファリサイ人たちはふたたび大胆になった。かれらはカルワリオ山の裂け目に近づき石を投げ込んでみたり、また縄を継ぎ合わせて底へ下って行ったりした。しかしかれらは底まで行き着かないうちに少し不安になって来た。また群衆の感情の変化を見てとったので馬を走らせて帰った。カシウスは五人ばかりの兵と共に十字架のそばに残っていた。イエスの友は遺骸を取り囲み、あるいは十字架に向かって、深き悲しみと嘆きに打ち沈みつつ座っていた。あたりは物さびしい静けさを加えた。あちこちの高地に弟子が二、三人立ち現れた。かれらは恥ずかしそうに、また悲しげに十字架を見つめていたが、人々が近づいて来ると、すぐふたたび引き返して行った。