二七  ヘロデの前のイエス

広場や、イエスが連行された道筋には、過越し祭の巡礼の群れが押し合いながら立っていた。かれらは知り合い同志で一団となり、出身地別になっていた。全国からの怒り狂ったファリサイ人たちは、何も知らない民衆をイエスに反対するように駆り立てようと、各々同郷人の群れの前に立っていた。ピラトの館の近くにあるローマ兵の見張り台の前や、街の重要な地点には大勢のローマ兵が配置されていた。行列は一隊のローマ兵に護衛されて来た。イエスの敵たちはこうして歩き回らねばならないことを非常に憤慨し、その怒りを晴らすために主を罵倒した。総督の使いは、その間にヘロデの所へ行き、行列の来るということを知らせた。ヘロデはすでに大きな広間で王座の安楽椅子に座ってイエスを待っていた。かれの周囲には大勢の宦官や兵士たちがとりまいていた。大祭司たちは回廊を通って中に入り、両側に立った。イエスは入口に立たれた。ヘロデは非常に得意になっていた。それはピラトが大祭司たちの前で、ガリラヤ人を裁く権利をかれに与えることを公然と宣言したからである。かれは今や非常にいそがしくたちふるまい、尊大な態度で振る舞っていた。またかれの前に出ることを避けていたイエスが、こんなに情けない恰好でかれの所へ来たことをかれは喜んだ。ヘロデは、ヨハネがイエスについてとても敬意をしめして語るのを聞き、密告者や間諜たちからもナザレト人についていろいろの報告を受けていて、主に会うことを非常に望んでいた。かれは自分の宦官や、大祭司などの前でおおげさにイエスの訊問を行った。自分がいかにこの事件の内情に通じているかを、この両方の者たちにも見せてやろうと待ち構えていた。しかしかれはまたピラトがなんらの罪をもイエスに認めなかったという報告もうけていた。このことは告発人たちを用心してあしらってやった方がよいという暗示をへつらい者のヘロデに与えた。しかしそのために告発者たちをかえってますます激怒させてしまった。かれらは入ってくるやいなや、非常に激しく訴え出た。ヘロデはしかし物珍しげにイエスを眺めた。そして汚れ果てた着物に包まれて、このようにみじめに虐げられ、打ちたたかれ。血に染まった主の顔を見て、この柔弱な王は気分を悪くしながらも同情を禁じ得なかった。かれは顔をそむけて司祭たちに言った。「この男を連れ出せ、きれいにして来い。一体おまえたちはこんな汚い虐待された人間を余の面前に立たすというのか」。すると下男たちはイエスを前の広場に連れて行った。そして水とボロ切れの入った鉢を持って来て乱暴に主を洗った。かれは主の傷ついている顔を痛めようがどうしようが容赦なく洗った。ヘロデはかれらのひどい取り扱いをとがめた。それはピラトのしぐさをまねようとするかのようであった。「かれを見るがよい。 - 屠殺者の手にかかったようだ。今日おまえたちはもう時間前に過越し祭を始めてしまったではないか」。しかし大祭司たちは自分らの訴えと起訴をうるさく持ち出した。その時イエスが再び連れて来られた。ヘロデは主に親切気を見せようとした。そして主がすっかり弱り果てているだろうからと、酒の入った杯を持ってくるように命じた。しかし主は頭を振られて、その飲み物を飲まれなかった。ヘロデは何かとしゃべり散らし、主に対しお世辞がましく、自分が主について知っていることをならべ立てた。始めかれは少し質問をし、何か主が奇跡を行うことを望んだ。しかし主は一言半句も答えられず、ずっと静かに下を向いておられた。ヘロデは非常に怒った。かれは、みなの前で恥をかかされたのだ。でもそれを人に気づかれまいとした。そして、質問ときまり文句をたてつづけにぶちまけるのだった。かれは言った。「余はおまえがひどい罪を負わされているので気の毒でならない。余はおまえのことをいろいろ聞いて知っている。ところでおまえはローマ総督から余の所へ送られて来た。そして余の裁判を受けるのだ。おまえはみなの訴えに対して何というのか。何?おまえは黙っているな。みなおまえの話や教えのすぐれた知識について余に聞かせてくれたが、余はおまえから告訴人たちへの反論を聞きたい。なんとおまえは言うのか。おまえがユダヤ人の王というのは本当か。おまえは神の子か。おまえはだれだ。おまえは大きな奇跡を行ったそうだが、さあ、余の前で自分の証をたてろ。しるしを見せろ。余はおまえを放免することができるのだ。おまえは生まれながらの盲目を見えるようにしたというが、それは本当か。おまえはラザロを死からよみがえらせたって。なぜおまえは返事をせんのだ。奇跡を一つ見せてくれ。それはおまえのためになるぞ」。しかし、イエスは黙っておられた。ヘロデはますますせき込んで話した。「おまえはだれだ。だれがおまえに全権を与えたのだ。なぜ今はもう、何もできんのか。おまえの生まれにまつわって奇妙な話があるでないか。答弁せんか。おまえは一体どんな王さまか。おまえには王らしいものがちっともないではないか。最近余の聞くところによると、民衆はおまえのために神殿へ凱旋行進を行ったそうだが一体あれにはどういう意味があるのだ。それが今、こんな結果になったということは一体どうしたわけだ」。しかし、ヘロデはすべてこれらの問いにイエスから一言の返事も得られなかった。主がかれにお話にならなかったのは、洗者ヨハネをかれが虐殺し、またヘロディアスとの姦通のせいであった。アンナとカイファは救世主の沈黙に対するヘロデの不機嫌を利用してその訴えをまた改めて述べ立てた。かれらは特にイエスがヘロデを狐と呼び、すでに以前から王室の滅亡を企てていたということや、新宗教を始めようとして過越しの羊をすでに昨日食べてしまったことなどを訴えた。イエスの沈黙にヘロデは非常に憤慨していたが、ある政治的なもくろみを忘れなかった。かれは救い主を裁こうとは思っていなかった。かれは主に何か言いしれない恐怖を抱いていた。またヨハネを虐殺したことでかれは時々不安におそわれていた。また他方かれは大祭司たちを嫌っていた。それはかれらがかれの姦通を決して認めなかったためと、またそれゆえにかれを犠牲の祭から除外したためである。しかし、ピラトが主の無罪を宣告したということが、主を裁きたくなかったおもな理由であった。かれは司祭長たちの前で、ローマ人に気に入られようとしたのである。今やかれはイエスに軽蔑的な毒舌を浴びせかけ、下僕や護衛兵に命じて言った。「この馬鹿者をつまみ出せ。笑い者の王さまにふさわしい敬意を表せ。こいつは罪人と言うよりかおろか者と言った方がいい」。かれらは救い主を広い庭に連れだして言葉に尽くせないほどの虐待や侮辱を加えた。この庭は館の一画に囲まれていた。ヘロデは平屋根の上からこの虐待をしばらく見下ろしていた。しかしアンナとカイファは常にかれの後に付きまとい、イエスの判決を決定するようにといろいろ手をつくした。しかし、ヘロデはローマ人たちによく聞こえるように言った。「もし余がかれを裁けば、余は最大の罪をおかすということになる」。しかし、実際は、イエスをわざわざ自分のところに送ってよこしたピラトの判決に、反対するのがかれにとって最大の罪であるということを意味していた。司祭長や他のイエスの敵たちは、ヘロデがどうしても自分らの思うようにならないことがわかると、その仲間の二、三人の者に金を持たせ、大勢のファリサイ人がちょうど滞在しているアクラ市区に走らせた。そしてかれらはファリサイ人に、その同郷人の者といっしょにピラトの館に行くようにうながした。また司祭長らは多額の金を、ファリサイ人を通じて民衆の間にばらまかせた。それは民衆にイエスの死を騒ぎ立てて要求させるためであった。他の大祭司の使いたちは民衆の間に、 - もしかのガリラヤ人を生かして置けばきっと神の裁きが民の上に来るだろうという脅迫を言いふらして歩いた。主の敵たちは、もしイエスが許されれば、イエスはローマ人と手を組むだろう。それがかれのいつも言っていた王国だ。そうなればユダヤ人は永久に滅びてしまう、と宣伝した。また一方ヘロデは、かれに有罪の判決を与えたが、万一かれが許されると、かれの帰依者どもは祭日をめちゃめちゃにしてしまう危険があるから、民衆もまたその意思表示をしなければならないと噂を広めさせた。こうして混乱、ひどい不安にさせる噂が広まり、民衆がみな激怒し、興奮させるように手配した。同時にヘロデの兵卒たちには金を与えて、イエスを死ぬほど乱暴に虐待させた。それはピラトが主を放免することを恐れ、主の死を望んでいたからである。これら礼儀知らずの神を恐れない悪党たちのために、主はもっとも侮辱的な嘲弄と、もっとも残酷な虐待とを受けなければならなかった。かれらは主を庭に引き出すとすぐに、一人の兵卒は門番の小屋から大きな白い袋を持ち出して来た。かれらはその袋の底の一部を破り、嘲笑のうちにその袋を主の頭からかぶせた。その袋は足の方まで垂れ下がった。他の一人の兵卒は、赤い布きれを服の襟のようにして主の首のまわりにまきつけた。そして、主が自分たちの王に返事をされなかった腹いせに、その前におじぎをしたり、あっちこっちに突き飛ばしたり、罵倒したり、つばきしたり、顔を殴りつけたり、またあらゆる侮蔑をこめた敬意の礼をつくした。そして、兵卒たちはあたかも主を躍らせようとするように引っぱり回した、主は引きずるくらい長い愚弄のマントに足を取られ倒れた。さらに主は庭のまわりにある建物に沿って流れている溝の中に引きずり回された。そのために聖なる御頭は柱や隅石などに打ちつけられた。ついでかれらは主を再び引っぱり上げた。するとさらに新しい騒ぎが起こった。ファリサイ人から金をもらった者が、ひしめき合い棍棒でその頭を殴りつけた。主に新たなる虐待が加えられるごとにかれらの間には高笑いが巻き起こった。そこには主に同情を寄せる者は一人もいなかった。イエスがひどく出血し、三度までもその打撃のためにお倒れになった。天使が泣きながらそのお顔に油を塗っていた。この打撃は神のお助けがなければ、全く致命的なものであった。しかし大祭司たちは、間もなく神殿に再び行かねばならなかったので急ぎはじめた。かれらはすべての指令が達せられたという報告書を得るとすぐに、さらにもう一度ヘロデにイエスの判決を迫った。しかしかれらはひたすらピラトを気にしていたので、イエスを愚弄のマントを着せたままで総督のもとに送り返した。