二六  ピラトの妻

ピラトの妻クラウディア・プロクレは事件審議中、夫の所へ召使いをやってぜひ話したいことがあるからと言い伝えた。イエスがヘロデの所へ引き立てられていった時、かの女はひそかに高い回廊からその行列を深い憂いと悲しみをもって見送った。わたしはピラトがその妻の所へ行くのを見た。二人は館の裏手のテラスの上にある東屋の中でいっしょになった。クラウディアは大きな不安を深く感じていた。かの女は大きな青白い女で前に垂れ下がったベールをかけていた。髪と首とには少しばかりの飾りをつけていた。そしてブローチで長いひだのある衣服を胸の所でしっかりととめていた。かの女は夫と長い間話しをした。いかなることがあろうともまた何にかけても、預言者にしてかついとも聖なる者たるイエスをそこなわないようにと切願した。かの女は昨夜主について見た幻影をいちいち物語った。お告げとキリストの聖誕、牧者と博士たちの訪れ、シメオンとアンナの預言、エジプトへの避難、幼児の虐殺、荒野の試練、また主の聖なる宣教の旅の中からいくつかの幻をかの女が見たのをわたしは覚えている。かの女はまた聖母の清さとその苦しみ、主の大いなる苦しみ、ならびに愛、その忍耐をも理解した。かの女は名状し難い憂いと悲しみに悩んでいた。これらの幻影はかの女には初めて見るものであり、その生々しさは身にしみて感ぜられた。朝になって民衆の騒ぎに驚かされ、広場の方を見ると、昨夜幻のうちに見た主がおられる。主は虐待されながら、敵に駆り立てられて来るのだった。身の毛のよだつような不安のうちにかの女はただちに夫の所へ使いをやったのである。今やその女は語り得る限り幻について夫に説明し、懇願し、かつかれに心からよりすがった。ピラトはこれらの事柄を聞いて非常に驚き、うろたえてしまった。かれはユダヤ人の憤怒、主の沈黙、驚くべき答えなどイエスについて知っていることを思いめぐらした。かれは迷いかつ不安になった。しかし間もなくかれは妻の幻に心を引かれ、 - 自分は実際すでにイエスには何の罪もないと宣告した。またそれはすべてユダヤ人の悪意であることを知っている。だからかれを裁くようなことはしない - と言った。かれはなおイエスの容貌を語り聞かせ、またそれのみならず、かれに決して有罪の判決をしないことのしるしとしてある品物を証拠に与え、かの女を安心させた。そしてかれは別れた。ピラトははっきりしない性格で、貪欲、傲慢、無定見、低級な考えの男であった。高尚な敬虔さは少しもなく、もし自分の利益になることなら卑劣な行為もあえてなした。しかし同時に当惑した場合には、臆病な、もっとも低級な方法で迷信的偶像礼拝や占いをもする男でもあった。それで今度もその館の秘密の一室で香をたき神々に懇願した。かれは神々にそのしるしを願った。かれは鶏がどういうふうに餌を食べるかを懸命に観察した。悪魔はかれにあれこれとささやいていた。かれはキリストの無罪放免を一応考える。しかしもしイエスを生かしたとするとイエスは自分の神々をひどく迫害するに違いない。すると神々はきっと自分に復讐するだろうと恐れたりした。かれは考えた。「結局かれはユダヤ人の神の一種であるかも知れない。そして自分の神々やセザルを眼下に見下すに違いない。もしかれが死ななければ自分は大きな責任を問われることになる。多分かれの死はわが神々の勝利となるだろう」と。しかし、すぐまた今まで一度もイエスを見たことのない妻の夢のことが気になって来た。それを考えるとかれの良心の天秤皿は、ガリラヤ人を放免する方にかたむいた。かれは公平に行動しようと思った。しかしそうする間がなくなってしまった。ちょうど「真理とは何であるか」という質問に返事を待つ余裕がなかったと同様に。