二五  イエス、ピラトの前に出でたもう

一行がピラトの館の前に来たのは午前六時ごろであった。法廷の入口の両がわに座席があった。そこにアンナ、カイファおよび他の議員たちが腰を下ろした。イエスはしかし階段の所まで引いて行かれた。ピラトはかれらが到着した時テラスの上にいた。その安楽椅子のそばには小さな三脚の机があった。そしてその上にローマの主権のしるしが置いてあった。士官や兵卒らもそこにいた。大祭司、他のユダヤ人たちは異教徒の法廷に入って汚れることを恐れ、ある境以上にはいらなかった。ピラトはかれらが非常な騒ぎと叫びの中に急いで来るのを見て立ち上がり、全く軽蔑しきってかれらに応対した。「何をおまえたちはこんなに早々と持ち込んでくるのか。ずいぶんおまえたちはこの男をみじめにしてしまっている。もう皮をはいでほふり始めている」。しかしユダヤ人たちは獄吏たちに怒鳴りつけた。「こいつを連れて法廷に入れ!」。それからピラトに向かって「この罪人に対するわれわれの訴えを聞いてもらいたい。われわれは汚れるから法廷の中に入ることはできない」と言った。この言葉に続いて大きな強そうな立派な男が群衆の中から叫んだ。「そうだ。おまえたちはこの法廷に入れない。それは罪なき血によって清められているからだ」。かれは非常に興奮してこう叫ぶやいなや群衆の中に消えてしまった、かれはザドッホという裕福な男で、ベロニカの従兄であった、かれはラザロの家で一度イエスに会い、その教えを聞いたことがあったが、今、このようにみじめに引き回されている主を見て、救い主の無罪を大声で叫ばずにはいられなかった。しかしイエスの告発者たちは非常な忙しさと、ピラトの態度、自分たちの見下げられたことにすっかり憤慨していたので、この叫びには注意しなかった。イエスは獄吏に引かれてテラスのうしろの方に立たされた。そのテラスからピラトは下にいるユダヤ人たちと話をした。かれはすでにイエスのことについていろいろなうわさを聞いていた。そして今このように戦慄するほどに虐げられ見苦しくされ、しかもなお冒すことのできない威厳を具えているイエスを見て、ユダヤ人の司祭や議員たちに対する嫌悪と軽蔑の心でイラ立った。かれは、イエスを有罪の証明なく判決するようなことは決してしないという印象をかれらに与えた。それでかれは威圧的かつ軽蔑的に大祭司に言った。「一体この人間がどんな罪を犯したとおまえたちは言うのか?」。これに対してかれらは憤慨しながらくり返して叫んだ。「もしこいつが罪人でないなら、なんでここへ連れて来るものか!」。するとピラトは言った。「それならかれを連れて行っておまえたちの律法に従って裁くがよいではないか!」。それにかれらは反対して、「われわれには死刑の判決を下す権限のないことを知っているじゃないか」。イエスの敵は憤怒といらだちでいっぱいになった。かれらは律法上の祭日の時間が始まる前にイエスの問題を片づけ、それから過越しの羊をほふろうと考えて、すべてのことを疾風的な速さと激しさで運んで来たのである。本当にかれらは自分たちが異教の偶像礼拝者の法廷に引いて来たイエスこそ、真の過越しの羊であることを知らなかった。総督はかれらに訴えを陳述するように要求した。かれらはただちにおもな告訴事項を出し、各告訴に十人の証人を付け加えた。イエスを皇帝に対する反逆者であると思わせるようにすべてを仕組み、主を確実に判決するようにと企んだ。まず初めにかれらは - イエスは国民をまどわす者であり、治安攪乱者、扇動者であると訴えた。そしてこれらの主張に対し証拠を提出し、証人によってそれを支持した。 - またイエスはいろいろな所を歩いて大集会を催し、安息日を破ったと言った。 - するとピラトはかれらをさえぎって言った。「おまえたちは病気なのか?でなければ安息日に病人をいやしたことがそれほどまでにおまえたちを怒らせはしないだろう」。しかしかれらは続けて訴えた。 - かれは民衆を身の毛のよだつような教義によってまどわした。すなわち、永遠の生命を得るためには人はかれの肉を食べなければならないと教えた。ピラトは、こう訴えた者たちの性急な激怒に対し、苛立たしくなり、部下の士官たちを見てニヤリと笑いながら、鋭い軽蔑的な言葉を投げた。「まるでおまえたちこそかれの教義を信じ永遠の生命を望んでいるようだ。おまえたちはたしかにかれの肉と血を食べようと思っているのだろう!」。かれらの第二のおもな告訴は、主が皇帝に税金を払わないよう国民を扇動したということであった。ここでピラトは怒ってかれらをさえぎり、それを監視することが自分の職責であると言った。ピラトはこの問題に関する限り、完全に自信があった。「それはまっかなうそだ。そんなことは自分の方がよく知っているぞ」と言った。しかしユダヤ人たちはさらに叫びながらただちに第三の告訴を提出した。それはこうである。卑賤の出であるこの男は大勢の帰依者を集め、エルサレムに災いを呼んだ。かれはまた民衆の間に、王がその子のために婚礼の式を準備するというあいまいな意味を持ったたとえ話をまき散らした。民衆はすでにかれを王に選ぼうとしたが当時は時期がまだ早かったので、かれは逃げてしまった。しかし最近かれは段々ずうずうしくなり始めた。かれは騒々しいエルサレム入城を行い、 - 「ダビデの子にホザンナ、われらの父、ダビデの来るべき国に祝福があるように」と叫ばせ、そして王のような尊敬を受けた。そして自分はキリスト、主に油を塗られた者、メシア、約束されたユダヤ人の王であると教え、またそう自分を呼ばせた。 - この訴えは十人の証人によって強調された。ここでピラトは少し考え始めた。かれは囲いのないテラスから、すぐ隣にある裁判室に入った。すれ違うときイエスに注意深く一目見て、主を裁判室に連れて来るようにと番兵に命じた。ピラトははっきりしない迷信的無定見な異教徒であった。かれは地上に来て住んだと言われている神々の事柄について、いろいろ暗い、おぼろげな観念を持っていた。またユダヤ人の預言者がかなり以前から神に油を塗られた者、救済者であり解放者である王を預言していたことや、大勢のユダヤ人たちが本当にそれを期待していることをかれは知っていた。また東方の王たちが前代のヘロデの所へ、ユダヤの新しく生まれた王に敬意を表しに訪ねて来たことや、その後ベツレヘムの多くの子供たちがヘロデのために虐殺されたことも知っていた。確かにピラトはこの預言や評判を知ってはいたが、熱心な偶像崇拝者のかれはこれを信じなかった。またどのような王であるかを想像することもできなかった。たとえできたとしてもせいぜいそのころの啓蒙されたユダヤ人や、ヘロデ派の人々が想像していたような何者もはむかうことのできない威力ある君主としてしか考えられなかったであろう。自分の前に立つ恐ろしくみすぼらしい、哀れなまたむざんな姿をしたイエスが、神に油を塗られしもの、王と宣言したとの訴えはかれには全く滑稽なことに思えた。しかし、皇帝を侮辱したとユダヤ人が訴えたので、ピラトはイエスの訊問のために連れて来させた。総督は主を驚きの目をもって見つめながら、言った。「それではおまえはユダヤ人の王なのか?」。イエスは「それはあなた自身から言っているのか。それともあなたに他の者がわたしのことを話したのか」とお答えになった。ピラトは考えた。 - このような哀れなみじめな男が王であるか、どうか。かれ自身の思いつきで尋ねたりして、主に馬鹿だと思われたのではないかと。 - そしてかれは不機嫌になった。ピラトは投げやりな調子でこう言った。「一体、余がユダヤ人だとでも言うのか。そしてこんなつまらないことを知っていなければならない、とでも思うのか。おまえの民と司祭たちがおまえを判決のためにここへ連れて来た。一体どんなことをしたのか言え」。するとイエスは厳かに仰せられた。「私の国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであるならば、きっとわたしがユダヤ人に渡されないように、戦う部下を持っているであろう。しかしわたしの国はこの世のものではない」。ピラトはこの威厳ある言葉をはっきりしないが戦慄をもって聞いた。そして考えながら言った。「それではおまえはたしかに王か」。イエスは答えられた。「正にあなたが言う通りである。そうだ。わたしは王である。わたしは真理を証明するために生まれ、この世に来たのである。そして真理からの者はわたしの声を聞く」。するとピラトは主を見つめながら言った。「真理?真理とは何だ」。それからかれは再びテラスに出て行った。かれはイエスを理解できなかった。しかしかれは主が皇帝に対して害ある王でないことと、この世の国を要求しているのではないということだけはわかった。現世的王国以外の国は皇帝に関係したことではないので、かれは下にいる大祭司らに呼びかけた。「余はいかなる種類の罪もこの人間に見出さないぞ」。するとイエスの敵はまた新たに激怒して、気違いのように主の有罪を主張した。主はしかしそこに黙々として立ち、これらの哀れな人々のために祈っておられた。するとピラトは主の方へ振り返り、「おまえはこれらの訴えに何も反論しないのか」と尋ねたが、イエスは一言も言われなかった。ピラトは非常に驚きながら言った。「余はかれらがおまえに対して偽りを訴えていることがはっきり分かる」。しかし告発者たちはなお憤慨しながら言った。「なんだって?全く無罪だって?こいつは明らかに全国民を扇動した。こいつがガリラヤを始め、この地方に至るまで全国にその教義を広めた」。ピラトはガリラヤという言葉を聞くと、ちょっと考え、「この男がガリラヤの出身なのか。ヘロデの民か」と尋ねた。すると告発者たちはくり返した。「そうだ。こいつの両親はナザレに住んでいたが、今カファルナウムがこいつの滞在地だ」。ピラトは答えた。「そうか。ヘロデの民のガリラヤ人なら、この男をかれの所へ連れて行け!かれは今祭でここに来ている。かれが裁くだろう」。そしてピラトはイエスを再び敵に連れ戻させた。彼はまた一人の士官をヘロデの所にやり、ヘロデの民であるナザレのイエスの裁判を頼んだ。ピラトはこうしてイエスの判決から身をかわすことができたので喜んだ。この問題はかれにはどうも不気味だった。またかれはこの際自分と仲たがいしているヘロデが、いつもイエスに非常に好奇心を抱いていたので、イエスをかれの所へ送ることによって、かれに好意を示そうとする政治的なたくらみも抱いていた。イエスの敵たちは民衆の面前でピラトから拒絶され、さらにまた歩き回らねばならないので大いに怒った。かれらはそのうっぷんを晴らすため救世主を再び殴りつけたり、突き飛ばしたりしながら、急いで広場から道を通って、それほど遠くないヘロデの館に駆り立てて行った。ローマ兵たちも同行した。