二十  カイファの法廷におけるマリア

聖母は御子に起こった事柄をすべて知っておられ、また感じておられた。そしてそれらに絶えず内的にあずかっていた。また御子と同じように下手人たちのために絶えず祈っておられた。しかし母親として心はこれらの罪悪が行われるのをお許しにならぬように、またもっとも聖なる御子から苦しみが遠ざけられるようにと神に訴え叫んで居られた。聖母はじっとしてはおられないほどイエスのそば近くにいることを望んでおられた。そこへカイファの裁判所からヨハネが戻って来た。聖母はすでに心の中で御子のあらゆる苦しみとその大きさをご存じであったが、ヨハネはそれを目撃者として聖母に確かめた。すると聖母は苦しんでおられる御子の近くにぜひ連れて行くようにと熱望された。ヨハネはただ聖母をお慰めしようとして主のみもとを離れたのであった。聖母はヨハネにとってほんとうにイエスに次ぐお方なのである。かれは喜んで聖母を案内して家を出たが。他の二、三の婦人たちもついて来た。街の騒ぎは大変なものだった。一行はしばしば法廷帰りの人々に出会った。この嘆き悲しみながら急ぐ婦人らに何人かは気が付いた。そして投げかける厳しい侮辱にみちた言葉の数々は、一層聖婦人らの苦しみを増した。ある門の下で、かの女たちはカイファの館から帰ってくる何人かの善意の人たちに出会った。かれらはイエスの身に起こったことについて憤慨していた。かれらは聖婦人らに近づき、その中に救い主の御母のいることに気が付くと、心からの同情をもってお苦しみに満ちている方に挨拶した。「おお、何とお気の毒な御母!イスラエルのもっとも聖なるお方の御母、苦しみに溢れている御母!」。聖マリアは心の中でかれらに感謝しつつ、他の婦人らとともに足早に悲しい歩みを続けられた。婦人たちはカイファの館近くで城壁に沿った道を通ったが、ここで新たな鋭い苦しみが聖母とその連れをおそった。それは数人の奴隷たちがテントの下でたいまつの光を頼りに主をかける十字架を作っている所を通らねばならなかったからである。主の敵たちはユダの裏切りの時すでに、翌日手抜かりのないように十字架を作るよう指図しておいた。二人の盗賊のための十字架は、ローマ人たちが既に用意してあった。この時、聖母は奴隷たちの言葉を耳にしなければならなかった。夜にまで働かねばならないのは御子のためなので、かれらは御子を呪っていた。手斧一打ちごとに、聖母の心はひどく傷つけられた。しかし御子の殉教の道具であり、またかれらの救済のしるしでもある十字架を呪いながら作っている盲目な人間のために聖母は祈られた。一行が館を回って外庭に出ると、聖母は婦人たちに取り囲まれつつヨハネと共に次の庭の門の角まで行かれた。聖母はただこの門だけが御子と自分とを隔てていることをお感じになった。イエスは夜明けが近づいたため、共に円形の広間からその建物の下にある牢獄に引かれていかれた。聖婦人たちが門の前で立っていると、その門が開かれた。そこからペトロが頭をおおい激しく涙にむせびながら、ころぶようにして出て来た。ペトロはたいまつの光に、すぐに聖母とヨハネを認めた。かれは今しがた中で主から御まなざしでとがめられ、良心はすっかり呵責の念に打ちのめされていたが、ここで一層それは激しくなった。聖母はかれに「おお、シモン、わが子イエスは今どうなっていますか」とお尋ねになった。そのお言葉は哀れなシモンの心の底深く、どのように響いたことだろう。かれは聖母の御まなざしに堪えられず、手をもがきながら、顔をそむけ一言も口をきくことができなかった。しかし聖マリアはかれを離さず、さらに近く寄られ、非常に悲しげに、「シモン、おまえはわたしに答えてはくれないのですか?」と言われた。ペトロは非常に苦しそうに叫んだ。「おお、お母さま、わたしに話しかけないでください。あなたの御子は非常にむごたらしい苦しみを受けています。どうか話しかけないでください。わたしは主に死刑の宣告をしてしまったのです。わたしは、主を卑怯にも三度までも否定してしまったのです」。その時ヨハネがペトロに話をしようと近寄ると、ペトロは悲しみのために狂気のようになり、外に飛び出して街の方へ逃げ去った。そして最後に主が血の汗を流されたオリーブ山の洞穴の中に隠れてしまった。証人たちはほとんど家に帰り、カイファの館の中庭はほとんど空になった。門は開け放たれたままであった。それで聖母はさらに御子のそば近く行くことができた。ヨハネは聖母を婦人たちと共に主の監禁されている牢獄の前までお連れした。イエスとマリアはおたがいに近くにいることを感じられたが、愛情深い聖母はその上直接御子のことを耳にされようと、監視人の嘲笑や御子の溜息の聞こえる所まで牢獄の近く歩み寄られた。しかし、マグダレナは激しい悲しみで、あまりにも動揺していたため、極度の苦しみのうちにも外には節度あるご容姿を保たれていた聖母も、すぐに気づかれてしまった。人々はすぐに鋭い言葉をかの女に浴びせかけた。「おい、そこにいるのはガリラヤ人のお袋じゃあないか。おまえの息子は、今度はきっと磔刑だぜ。だがなあ、祭日の前ということは関係ないな。実際あいつときたらまったく恥知らずの悪党だからなあ」。聖母マリアはそこを避けて、内的すすめを感じて中庭の火の方に歩み行かれたが、そこには僅かの賤民がいるばかりであった。婦人たちは悲しみのなか黙って聖母の後に従った。主が神の御子であることを宣言され、また悪人たちが死刑を宣告した恐ろしい場所で、聖母はあたかも死につつあるもののように非常に悲しまれ、その聖心は恐るべき苦しみに深くとざされた。ヨハネと聖婦人たちは、再び聖母を外におつれしたが、悪人たちは黙って唖然と立ちつくしていた。それはあたかも清らかな霊魂が地獄の中を通り抜けて歩み行くようであった。一同は後の塀に沿って歩み、再び十字架を準備している所を通った。彼等は裁判と同じように十字架も完成することが出来ずにいた。木の寸法を間違えたり、割ってしまったりして、神がお望みになる様式になるまでには、何度も他の木を引きずって来なければならなかった。それは、彼等が神のご意志を全うするまで、天使がその仕事を妨げているかのようであった。