神の都市 聖母マリアのご生涯

■目次

1・神はなぜ、マリアの御生涯をこの我々の時代に啓示されたのか

マリアの聖なる全生涯を簡明にするため、三期に分けます。第一期は、マリアの最初の十五年間で、その最も純粋な受胎から、永遠の御言葉がマリアの乙女なる御胎内で受肉する瞬間までで、いと高き御方がマリアに対してこの時期に何をされたかという歴史です。第二期は、受肉の神秘、我らの主イズスキリストの全生涯、御受難、御死去と御昇天までの期間であり、我らの元后が御子との一致の生活と、御子の御生涯中になされたその全ての歴史です。第三期は、恩寵の御母が御一人で我らの救い主キリストなしに生活された時期であり、御母の移行の幸せな時、つまり、被昇天と天の女王として冠を受ける時までの歴史で、天国に於て永遠に御父の御娘、御子の御母、そして聖霊の浄配として生きておられます。この三期を八書に分けたのは、私にとって便利ですし、絶えず私の思考の対象となり、私の意志と日夜の黙想に拍車をかけるためです。私がこの天の歴史を書いた時期に関して、私の父母、後年のフランシスココロネル修道士と、後のカタリナアラナ修道女が、神の御命令と御意志に従って「原罪の汚れなき御宿りの裸足の修道女会」を自分の家に創立したことを述べましょう。神の御命令は、特別な幻視と啓示により、私の母に宣言されました。修道会は1619113日、御公現の八日目に創立されました。母と二人の娘は修道服を着衣しました。私の父は我らのセラフィムのような師父、聖フランシスコの修道会に会しました。そこには二人の息子たちが既に修道士となっていました。父は着衣し、修道生活を送り、模範的に生き、聖なる死を遂げました。母と私は天の元后の御潔めの祝日、162022日、ベールを頂きました。修院創立後八年目、私が二五歳の時、西暦1627年、聖なる従順により、私は修道女院長となり、今日まで値しないまま院長を務めておりますが、院長になって最初の十年間、私はいと高き御方と天の后より、元后の聖なる生涯について書くようにという命令を何回も受けました。怖れと疑いの中で私は終始この天の御命令を拒み続けましたが、1637年、初めて書き始めました。書き終えてから怖れと困難に圧倒され、私の常任聴罪師の不在時に代理になった聴罪師に相談し、この歴史だけではなく、他のたくさんの重大で神秘的な事柄について書いたもの全てを焼き棄てました。聴罪師が、女性は教会内で書き物をすべきではないと私に話したからです。私はこの代理の聴罪師の命令に直ちに従ったのですが、私の人生についてよく知っている総長や常任聴罪師から、非常に厳しいお叱りを受けました。私が再び書き記すため、譴責を受けることになりました。いと高き御方と天の元后も、私が従順になるようにという命令を繰り返し出されました。神の恩恵のお陰で私が再び執筆を始めたのは、1655128日、原罪の汚れなき御孕りの祝日でした。私は神に告白します(マテ11・25)。神、いと高き王を崇めます。高揚された荘厳さにより、これらの深遠な神秘を智者や教師には隠し、謙遜により、教会の中で最低で無用の婢である私に啓示して下さいました。私には偉大で神秘なしるしが天に見えました。一人の女性、最も美しい貴婦人である后が、星々をちりばめた冠をかむり、太陽の衣を着て月の上に立っておられました(黙示12.・1)。聖なる天使たちは言いました、「この御方は聖ヨハネが黙示録に書いた至福の女性です。救世の素晴らしい神秘がこの御方の中に収められ、保存され、封印されています。至高、最強の神がこの被造物にこれほどまで恵み給うので、我々天使たちは驚嘆しております。この方の特権について黙想し、崇め、書き記しなさい。あなたの立場にふさわしいやり方で、はっきりと啓示されることになっています そのような素晴らしい光景を見て、ものを言うこともできず、崇めること以外に何もできませんでした。私がこれから書くようなことは、この世に生活している人々が理解するのは無理でしょう。ある時には、たくさんの段のついたとてもきれいな梯子が見えました。その周囲には大勢の天使たちがおり、梯子を昇ったり降りたりしていました。主は仰せになりました、「これはヤコボの神秘な梯子であり、神の家であり、天の門である(創世28・17)。もしも、汝が私の眼の前で罪のない生活を真面目に送ろうと努力するなら、私の所に昇りつくであろう。」  この約束は私に希望を起こし、私の意志を燃やし、私の霊魂を魅きつけます。罪の故に私自身の重荷となったことを、涙ながらに悲しみました(ヨブ7・20。私は自分の捕囚生活の終わることを嘆き望み、私の愛を妨害する何物も無い所へ到着するよう待ち望みました。この不安の中で何日かを過ごしながら、自分の生活を改めようとしました。再び総告解をし、私自身の幾つかの不完全さを改めました。俤子の幻視は休みなく続きましたが、説明はありませんでした。主に対し、たくさん約束をし、この世の全てから自分自身を解放し、主の愛のためにのみ自分の自由意志を使うことを申し上げました。自分の意志のどのように小さな部分も、どのような被造物に対しても関わりを持たせないと主に申し上げました。見えるものや五官に感じられるもの全てを棄てました。このような感情や感傷の内に数日が過ぎた後、いと高き御方は、俤子は至聖なる乙女の生涯と諸徳と秘蹟を意味すると説明して下さいました。主は仰せられました、「私の浄配よ、汝はヤコボの階段を昇り、天国の扉を通り、私の属性を知り、私の神性についての思考で心を満たしなさい。立ち上がり、歩き、階段を昇り、私の所に来なさい。階段やその脇にいる天使たちは、聖母マリアの守護者として、シオンの城の防衛者、歩哨として私が任命したのである。聖母を注意深く眺め、その諸徳について考え、模倣しなさい。」私は階段を昇り、主の偉大な言語を絶する驚異を見たように思いました。主は人間の形をとり、最大の聖性を備え、全能者の御手により完徳を達成されました。階段の最上段には、万軍の主と全被造物の后がおられました。これらの偉大な秘儀を創造された主に栄光頌を唱え、賞讃と讃美を尽くすよう、そして、これらの秘儀を書き記し、私自身理解するようにと主は望まれました。高揚された、いと高き主は、モーゼ(出エジプト30・18)に与えられたような、主の全能の御手で板の上に書かれた法律を私に下さいました。それをよく理解し、尊重するためです(詩篇1・2)。聖母のおそばで自分の反抗心を抑え、その御助けにより、聖母の御生涯について書くことを約束するよう、神は私を導いて下さいました。それは次の三点にしぼられます。第一は、被造物は神に対し当然の深い尊敬を表し、主が遜られたのに相応して自分自身を蔑むべきこと、そして、より大きい恩恵の効果は、より大きな畏怖、畏敬、注目と謙遜でなければならないことを、いつも想い出すことです。第二は、自分たちの救いを忘れてしまう我々全員の義務を想い出すこと、救世の御業に於ける信心深い聖母にどれくらいお世話になっているかを学び、考えること。聖母が神に対して示された愛と敬意と、我々が偉大な聖母に捧げる名誉についてよく考えることです。第三は、私の霊的指導者と、必要なら世の中全体に私の小ささ、悪さや、恩知らずさを見つけてもらうことです。この三点に関し、至聖なる童貞は答えられました、「世の中はこの教義を必要とします。人々は全能の主に対する畏敬を知ろうとしないし、怠っているのです。この無知に対する主の正義は人々を懲らしめ、遜らさせることになるでしょう。人々は不注意で暗黒の中にいますから。、安心と光明をどのように探すべきかを知りません。人々はなすべき畏敬と畏怖に欠ける以上、当然の運命に会います。」 本書に関する主と聖母の御意向を明瞭にするため、いと高き主と聖母はその他の様々な指示を下さいました。聖母の至聖なる御生涯についての執筆上の指示を拒めば、自分自身に対する愚行となり、愛徳の欠如となります。執筆を延期することも同様に不当です。いと高き御方が時期の熟したことを次のように説明されたからです、「私の娘よ、御独り子を世に遣わした時、少数の奉仕者を除き、世の中は創造以来、最悪の状態であった。人間の本性は不完全なので、暗黒と無数の悲惨のどん底へ、強情な罪に達するまで落ちて行くであろう。それを予防するためには、道・真理生命である私(ヨハネ14・6)に従い、自分自身の判断を棄て、私との友情を失わないように、私の戒めを注意深く守ることによって、私の光に照らされた内的指導と私の僕である司牧者たちの指導に身を任せる以外には方法が無い。創造と人祖の罪の時からモーゼの律法の時まで、人々は自分の好みに従い、数々の誤謬と罪の中に落ち込んだ(ロマ5・13)。律法を与えられた後も人々は従わず、罪に罪を重ねた(ヨハネ7・19。このような生き方を続け、真理と光から益々遠ざかり、完全な忘却の地に到達してしまった。父性愛の故に、私は人々に永遠の救いと人性の治し難い弱さの治療をもたらし、私の業の完成をはかった。私の慈悲のより偉大な発現のための好機として、私は現代を選び、もう一度大いなる恩恵を人々に示そう。今がその時である。人々に私の怒りの正当な原因を教え、人々を裁判にかけ、有罪と判決すべき好機である。今や私は怒りを表し、私の正義と公平を実施しよう。早く実現するため、そして、私の慈悲が明らかになり、私の愛が活発になる現在、人々に解決策を与え、人々がこの恩恵に応じるようにと望む。今や、世の中があまりにも不幸な道に来ている。御言葉が受肉されたにも関わらず、死すべき人々は幸福を気にも留めず、ないがしろにしている。仮の生命が時間の終りに向かって早く進んでいる。悪人たちにとっては永遠の夜が身近に迫り、善人にとっては夜 のない昼間が来ようとしている。死すべき人々の大多数は、無知と罪の闇の中に深く深く沈で行き、義人を迫害し、神の子供たちを嘲り笑っている。私の聖なる神法は、国家の不法政治上、嫌われている。政治は摂理に反対するばかりか、摂理を憎む。悪人には私の慈悲を受ける価値がほとんど無い。この運命的な時、義人たちに私の慈悲に到着するための門を開こう。心の眼を覆う闇を追い払う光を義人たちに与えよう。私の恩寵に再びあずかれるように解決策を与えよう。幸いなるかな、解決を見出す者よ。幸いなるかな、その価値を珀る者よ。幸いなるかな、この宝を得る者よ。幸いにして賢きかな、解決の素晴らしさと秘められた神秘を探し、納得する者よ。死すべき生命を不死の神に与えることによって生命を回復された聖母が、お取次されることがどれほど偉大であるかを、私は死すべき有限の人々に知らせたい。自分たちの忘恩をまざまざと見るための鏡を見るように、私がこの純粋な被造物に全能の手によって作り出した不思議の数々を人々が見るようにしよう。私の高遠な決断 により、御言葉の御母についてまだ知られていない事柄の多くを示したい。」 

2・神の不可知なる御本性。創造への神慮

ああ、王よ、いと高き、いと賢き主よ、御身の判断は測り知れず、御身の方法は知るべくもない(ロマ11・24)。無敵の神は永遠に存続し、神の起源は判らない(コヘレト18・I)。御身の偉大さを誰が理解できようか? 御身の最も壮大な御業に値する者は誰か? 御身がなぜ創造されたかを語れる者がいようか(ロマ9・20)。壮大な王よ、御身は祝福されますように。と言うのは、御身の婢であり、地の塵にすぎない私に、偉大な諸秘蹟と崇高な神秘を教えて下さったからです。私は明晰な知力を頂き、神の無限の本性と属性、すなわち、永遠・至高の三位一体なる神を正しく認識できます。御父、御子と聖霊の永遠なる一致です。御父は造られたものではなく、始まったものでもありません。御子は御父と共に永遠に存在します。聖霊は御父と御子の間の愛です。不可分の三位一体には、順番も大小の差もなく、永遠に同等です。光栄、偉大さ、御力、永遠、不変、智慧、聖性のような属性の全てに於て同じです。聖三位にはそれぞれ同じ知識があり、相互の愛に於ては無限・永遠です。知識、愛と行為は、単一、不可分、そして同等です。
神は御自分の自由と慈愛を行使するに当たり、知性の中に貯えられた無限の宝を被造物に与えて下さいます。神が賜物や恩寵を下さることとは、煙が高く上がっていくよりも、石が落下するよりも、太陽が地上を照らすよりも、もっともっと自然なことです。賜物を被造物に与えることにより、被造物を聖とし、義とし、感化させます。我々人一人に下さる賜物は、セラフィムを初め、あらゆる天使に下さった賜物よりも多いのです。 

神が被造物に賜物を下さることは、被造物と関わり合いになることです。この関わり合いは神の偉大さに、より大きな光栄を帰すことになります。
三・関わり合い、又は「交流」には順序、設定や方式があります。順序の第一番が「神の御言葉」 が受肉し、人間の眼に見えるようになったことです。第二番は、その他全ての人間の理想が第一番を模倣することです。我々の人性は肉体と生かす霊魂から成立し、創造主を知り、愛し、善悪を区別する能力、同じ主を愛する自由意志を与えられています。
賜物と恩寵は、神性を有する我らの主キリストの人性に与えられています。最も豊富に与えられています。「この川の流れは神の国を喜ばす」(詩篇46・5)と言ったダビデの預言通りになりました。賜物は、神人である御方の人性に向かって流れました。この御方は全被造物の頭でもあります。この御方の御母が神の御計画の二番目で、その他の全被造物よりも前になります。至聖なる御子の人性の威厳、優秀さと賜物を備えなければなりません。御母に向かって、直ちに神性の川は勢いよく流れました。この至聖にして至純なる御母が、時の初めから、そして時の始まる前に、神の聖心の中に生まれたのを知って、全能なる神を私は心から崇めます。御母があらゆる被造物により尊敬され、誉め讃えられるべきことは、アレパキタの人のディオニシウスの言う通りです、「神が御母を創造し、賢い神性の姿に創造できたのは神であるという信仰がなければ、乙女なる御母が神御自身であるかも知れないと私は思い始めるかも知れない」と。御母の創造は、天地全体の創造よりももっ尊いこと、天地全体よりももっと大きな宝物であることを十二分に知らされた私は、この事実が一般の人々に知らされていないことを悲しみます。神の御計画は、聖母マリアに聖性、完全、賜物と恩寵が御子により与えられることです。
五・神は天使を九階級に創造しました。天使の使命は神の光栄を現すこと、神の命令を伝え、神を知り、愛することですそして、神聖な人間となられた永遠の御言葉に仕え、御言葉を人間の頭として認め、諸天使の元后である至聖なる聖マリアを通して誉め奉ることです。善天使の将来や悪天使の反対も神は見抜いています。天使には自由意志が与えられていますから、 神に従うか、自己愛の高慢と不従順を示して神に反抗するかを選べます。神は御自身の光栄と善天使に対する報酬のために天国を造りました。地球や他の天体は他の被造物のために、そして地獄を悪天使の処罰のため、地球の奥深い中心に造りました。 

キリストのために人間が御計画通り創造されました。人となられた御言葉が人間を兄弟姉妹にするように、その人たちの頭となるように神がお考えになったのです。人類は一人の男と一人の女から始まり、増えました。救世主キリストのお陰による恩寵と賜物と、またアダムとエワの罪は予見されておりましたが、元后なる聖母は別でした。人々はキリストにより許されることも予見されています我々の自由意思を尊重して神は決定されました。これらの神秘を感知して、なぜ神が御自身を現したか、創造主に対して罪者の偉大さを人間に誉め讃えさせようとしたかは、私にはとても明らかに見えました。人々がこの義務を怠ったり、恩恵に対し感謝しない様子がありありと見えました。人々の忘れっぽさについて、いと高き御方が怒っておられることも私はわかります。主は、私が人々の忘恩について罪を負わず、その代わり、主を讃美し、全被造物を代表して主を崇めるように勧告されました。謙遜の徳の偉大さについて無知でした。今でも謙遜ではありませんが、謙遜に通じる道を教えて頂きました。ああ、いと高き主よ、御身の光は我を照らし、御身の燈は道を示す(詩篇118・105)。 

3・天使の創造とルシフェルの墜落

万物の創造主なる神は、あらゆる原因です。創造の御業の初めと継続性はモーゼの書いた創世記の通りです。御言葉の受肉と我らの救いの神秘的な初めをよく理解するために、私は創世記を引用しましょう。
「初めに神は天と地を創られた。」
 天の創造は天使と人間のためで、地は死すべき人間の巡礼の場所です。天地は、いかにもそれぞれの目的に適しているので、ダビデは言いました、「天は主の光栄を現し、天空と地は御手の業の栄光を宣言する(詩篇19・2)天使は天において創られ、恩寵を頂いており、光栄の報いを第一番に受けるはずであったが、神に従順になるまでは、神の御顔をあからさまに見ることを許されなかった。善天使にも悪天使にも、とても短い試験があったのです。この試験は、美しい被造物として創られた後に、創造主の御意志が伝えられ、主を天使の創り主、そして最高の主と認め、義務を遂行するように命令された時に来まし た。この時、聖ミカエルと部下の天使たちは、龍とその追従者たちと大戦争をしたのです。聖ヨハネの黙示録に書かれています。
第一に、天使たちは神の実体、つまり三位一体について明瞭な知識を頂き、主を造り主、そして至高の主として認めるように命令されました。全ての天使はこの命令に服従したのですが、善天使は愛、善意、尊敬と喜びにより従ったのに、ルシフェルは嫌々ながら、やむを得ず従ったのです。ルシフェルには主の御命令に反対する我意がありました。ルシフェルの従順は傲慢ゆえに行なわれなかったのです。この時点で恩寵はルシフェルから除かれていませんでしたが、怠慢と延期はルシフェルの悪い状態の始まりとなりました。徳行の弱さと弛みがルシフェルの中に残ったからです。自分の本性の完成は起きませんでした。怠慢は、故意の小罪に似ているように私には思われます。しかし、大罪 も小罪も犯したとは言えません。と言うのは、ルシフェルは神の命令に従っていたからです。従い方が怠慢であり、不完全でした。従順を愛する代わりに、無理矢理に引きずられてやるという気持ちからそうなったのです。自分で墜落の危険に我が身をさらすことになりました。
第二に、天使たちは、神が天使たちよりは低い人性と理性の被造物を、神を愛し、畏れ、敬うために創ると教えられました。人間に大いなる好意が与えられること、聖三位の第二位が受肉し、人性を持ち、人性を神性との一致にまで引き上げること、人間も主を自分たちの頭として、神としてだけではなく神人として認めること、讃美し、尊敬することが天使たちに伝えられました。この神人について予見された功徳を受入れることは、天使たちがその時所有していた恩寵の源であり、将来受けるはずの光栄の源になることが示されたのです。天使たち自身が主の光栄のために創られたこと、他の全被造物もその通りであることはよく判っていました。神を知り、喜べる被造物は、神の御子の民であ るべきこと、主を頭として知り、敬うこと、これが天使たちへの命令となりました。従順で聖なる天使たちは完全に同意し、認め、謙遜に愛をもって自分たちの意志を捧げました。ところが、ルシフェルは嫉妬と誇りのかたまりで、自分の部下たちを反抗するように仕向けました。部下たちはルシフェルに従い、神の御命令に背き、キリストから独立して分離し、ルシフェルを頭にすることになりました。こうして、聖ヨハネが記した(黙示12・7)大戦争が天において始まりました。ここにおいて特筆すべきことは、天使たちが受肉した御言葉に従うべしという命令だけではなく、御父の御独り子が宿った「女」を御子と共に上司として認め、「女」は全被造物の元后であり、女主人であることを承諾すべしという命令です。善天使たちは謙遜に自由に従い、いと高き御方の力と神秘を賞賛したのですが、ルシフェルとその叛乱軍は誇りと傲慢の頂点に達し、激怒にかられたルシフェルは、全人類と全天使の首長になろうと欲しました。神が人間のレベルに降り、人間と一致する代わりに神は自分の中に降るべしと要求しました。彼を受肉された御母より低い地位に置くという御命令に猛反対し、叫びました。「このような命令は不正である。私の偉大さは傷ついた。主から愛され、えこひいきしてもらう人間たちを迫害し、滅亡させることに全力を尽くそう。御言葉の母であるこの『女』を主が定めた地位から放り投げ、御身が定めた計画をぶち壊そう。」 主はルシフェルに語られた、「お前が軽蔑するこの『女』はお前の頭を踏み砕き、お前は消え去るであろう」(創世3・15)。お前の嫉妬により死がこの世に侵入したように(智恵2・24)、この『女』の謙遜により、死ぬべき者の生と救いがもたらされるであろう。この『人』(イエズスキリスト)とこの『女』(聖母マリア)の人格とイメージに基づく人たちは、お前と部下たちがなくした賜物と冠を頂くであろう。」 この神の説明に対し、龍はますます激怒にかられ、全人類を滅ぼすと脅迫しました。全能者はもう一つの素晴らしい啓示をお与えになりました。主の御降誕の神秘について充分に明瞭な知識を全ての天使に与えられた後で、至聖なる童貞についての幻視をお見せになったのです。最も完全な「女」に於ける人性の完成が示されたのです。いと高き御方の御手が、他のいかなる被造物よりももっと素晴らしく創造されました。これを見て善天使たちは誉め讃え、受肉された神と御母の名誉を守り、この幻視を無敵の盾として武装しました。悪天使たちは、執念深い憎悪と激怒をキリストと至聖なる御母に対してぶつけました。黙示録第十二章に書かれた通りのことが起こりました。大事なことですから第十二章一から一八を引用します。それから壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠を戴いていた。この婦人は身ごもって、陣痛の悩みと苦しみの叫びをあげていた。また天に他のしるしが現れた。七つの頭と十の角を持ち、頭に七つの冠のある赤い龍がいるのが見えた。それは天の星の三分の一を尾で掃き寄せて地上に投げた。龍は出産しようとする婦人の前に立ち、産むのを待ってその子を食おうと構えた。婦人は男の子を生んだ。この子はすべての異邦人を鉄の杖で牧するはずの者であって、神とその玉座のもとに上げられた。婦人は荒れ野に逃れたが、そこには千二百六十日の間、婦人を養うために神が備えられた避難所があった。そうして天に戦いが始まった。ミカエルとその使いたちは龍と戦い、龍とその使いたちも戦ったが、しかし龍は負けて天に彼らのいる所がなくなった。大きな龍、すなわち、悪魔またはサタンと呼ばれ、全世界を迷わすあの昔の蛇は地上に倒され、その使いたちも共に倒された。そのとき、私は天にとどろく声を聞いた、「神の救いと力と国とそのキリストの権威はすでにきた。私たちの兄弟を訴え、昼も夜も神の御前に彼らを訴えていた者は倒された兄弟たちが勝ったのは、小羊の御血と自分たちの殉教の証明によってである。彼らは死に至るまで自分の命を惜しまなかったからである。だから、天とそこに住む者たちは喜べ。しかし、地と海は呪われた。悪魔が自分の時の短さを知り、大いに怒てお前たちに向けて下たからである。」地上に落とされたのを知つた龍は、男の子を産んだ婦人を追たが、婦人には荒れ野の自分の避難所に飛ぶために大鷲の二つの翼が与えられたので、蛇を離れて一時、二時、また半時の間養われた。蛇はその口から川のような水を婦人の後ろに吐いて水に溺れさせようとしたが、地は婦人を助けようとその口を開き、龍がその口から吐いた川を飲み込んだ。龍は婦人に怒り、その子らの残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イズスの証明を持つ者に挑戦しようとして出ていき、砂浜に立た。

4・人間の創造と堕落

第六日目に、神はアダムを創造しました。年齢は三十三歳で、キリストの享年と同じです。アダムの体はキリストそっくりでした。アダムの霊魂もキリストに似ていました。アダムからエワが創られましたエワは容姿において聖なる童貞に似ていました。神はこの二人にたくさんの祝福を与えました。サタンは人祖の創造をいらいらしながら待っていました。悪魔は、人祖の創造の過程については何も知らされませんでしたが、創造された人祖が他のいかなる被造物よりもはるかに完全な人性を眼の前にしたのです。アダムとエワの霊魂と身体の美しさ、主がかけた愛情、永遠の生命の希望を見て、龍は怒り狂いました。嫉妬もすさまじく、二人を殺そうとしたのですが、神の力に守られている二人に手を出せず、いと高き御方の恩寵を二人から失わせようと陰謀をめぐらしたのです。ルシフェルが誤解していたことを説明しましょう。アダムとエワのことを、キリストと聖母マリアであろうと勘ぐったのです。アダムとエワの創造について無知であったように、受肉の神秘と時については何も知らなかったからです。キリストと聖母マリアに対する怒りは明らかでした。そして御二人に征服されるであろうことは知っていても、納得できませんでした。天の元后は神ではなく単なる被造物でしかないのに、自分を征服するであろうことに我慢ができなくなり、御人を自分の罠にかけ、神の御計画をぶち壊すことに全力をかけました。アダムとエバをキリストと聖母マリアだと見間違えしていたルシフェルは、まずエワに近づきました。女性は男よりももっともろく、もっと弱いし、男であるキリストではないことをよく知っていたからです。女については天のしるしがあり、女が神により自分に反対するという脅迫的予告があったので、女、エワに対しては、男のアダムに対するよりももっと怒り狂っていました。ルシフェルにはエワの前に姿を現す前に、エワの心の中に様々な混乱した思いや空想を起こさせ、興奮や執念で自己のコントロールを失わせました。そして、蛇の姿で現われたのです(創世21)。エワは禁じられた会話に引き込まれ、蛇に受け答えしている間に、蛇の言うことがもっともだと考えました。そして神の掟を破り、夫にも神の命令に背かせました。こうして人祖たちは滅亡に向かい、人類全体も同様に幸福な立場を失いました。人祖たちが罪を犯し、醜い姿となった時、ルシフェルは小躍りして喜びましたが、神は人祖たちに慈愛を示し、罪を赦し、罰の償いの機会を与えたのを見て驚きました。人祖たちは悲しみ、痛悔したので、罪が赦され、恩寵が戻ってきました。「『女』は汝の頭を踏み砕かん」(創3・15)という神の御言葉を繰り返し聞かされて、ルシフェルはもっと悩むことになりました。楽園追放の後、エワの子孫は増え、善人と悪人は両方とも増加し、キリストに従うかサタンに従うかに分かれました。義者はキリストを指導者として仰ぎ、忠実、謙遜、愛徳、その他の諸徳をもって仕え、救世主の功徳により、神の恩寵を受け、助けられ、美しくなりました。それに反し、罪人は偽の指導者から何の恩寵も受けず、混乱と永遠の苦しみしか期待できず、誇り、間違った思い込み、淫らなことや不正を心の中に抱きしめて、嘘つきの父の後をついて行きました。このような罪人たちの最初は不正なカインで、エワから生まれることを神は許しました。他の子供、アベルは我らの主キリストに似た者として最初の義人となりました。他の全ての義人たちはアベルに従い、正義のため苦しみを受けました(マテオ10・22)。神に見棄てられた悪人たちの勝利と神を畏敬する義人たちの苦悩は現在も続いています。神は、人祖アダムが御独り子の到来を準備するように望まれ、人類の繁栄を許し、人々が人類の王である御独り子にいつも従うように計画しました。そのため、選ばれた高貴な民が御言葉の祖先となりました。その系譜は福音史家が書き記した通りです。神の民に示された愛はずば抜けています。信仰の玄義や聖なる秘蹟は聖なる教会に委託されました。イスラエルを見守る神は片時も眠りません(詩編21・4)。神は立派な預言者や王を育て上げ、預言を送りました。色々な啓示により、神の不変な真髄を選民に教えました。聖なる書物に記された広大な神秘は、受肉された御言葉により完成されたのです。キリストにより教えられた信仰の確かな道や霊魂の糧は、預言者たちや選民が永く待ち望んでいたものです。

5・ 人類の繁殖。救世主の待望。聖ヨアキムと聖アンナ

アダムの子孫はたくさん増え、その中には義人も罪人もいます。いと高き御方の民は、主が人性を得て勝利する計画に参加し、救世主の御来臨を待ち望む最終段階に入りました。悪者たちの罪の世の中も今や広がり、その極みに達し、罪の修復の好機も到来したのです。その時とは、蛇が毒気により全地を汚染し、理性の光が見えなくなってしまった人間たちを完全にコントロールした時です(ロマ1・20)。人々は昔の成文法が見えなくなり、真の神を求めず、多くの偽りの法律をでっち上げ、自分の好みに従って神を作り上げました。これらの多数の神には、善、秩序と平和に反対し、真の神を忘れさせ、悪意と無知をはびこらせました。誇りが幅をきかせ、愚か者ばかりの世となりました(コヘレト9・15)。神に対する反逆はますます酷くなり、全被造物が全滅すべしという神の審判が下ってもしょうがない時が来たのです。神は、計り知れない正義に対し、慈悲の法を秤にかけて均衡を作りました。義人たちや預言者たちの忠実を、他の者たちの罪に対し天秤にかけました。神は恩寵の約束を実行することに決め、我らの主キリスト、正義の太陽の現われる前に、ヨアキムとアンナを地球に送りました。ヨアキムはガリラヤの町ナザレトの出身で、正義と聖性の士であり、特別な恩寵に照らされ、聖書や預言に通じていました。神の御約束の成就を心から願っていました。一方、アンナはベトレヘム出身の、純潔で謙遜な美しい乙女でした。幼少の時から諸徳を積み、黙想に終始し、聖書を充分に知り、救世主の御来臨を絶えず祈願していました。「あなたば、ただ一目で、その耳飾りの一粒の真珠で私の心を奪った」(雅歌4・9)と神が仰せられたほどに、アンナは旧約の聖人の中で抜きん出ていました。古来の律法を守り助けてくれる夫を探して下さるよう、アンナは神に懇願しました。ヨアキムも同様な祈りを同時にしました。聖三位一体なる神は両者の祈りを聞き届け、人となられる神の御母の両親となることを定めました。主の命令を受けた大天使ガブリルは、アンナの前に姿を現しました。光り輝く天使を見てアンナは驚き、喜び、平伏しました。聖ガブリルは、他の天使たちの知らない啓示、すなわち、アンナが御言葉の御母マリアの母になるという啓示を告げたのです、「至聖なる神が召し使いになるあなたを祝福します。あなたの懇願を聞き届け、救世主の御来臨を待ち望む叫びに耳を傾けて下さいます。あなたがヨアキムと結婚するよう望んでおられます。二人は心を合わせ、主に仕え、律法の成就を祈願し、正義の道を歩み、天国に心を開き、救世主の御来臨を待ち望みなさい」と。言い終わると聖ガブリルは見えなくなりました。ヨアキムに対して大天使は夢の中で告げました、「ヨアキムよ、あなたがいと高き神の御手により祝福されますように! 神はあなたがアンナと結婚するよう望まれます。彼女の面倒を見、いと高き神に誓約して彼女を敬いなさい。神に感謝しなさい」と。直ちにヨアキムはアンナに求婚し、結婚しましたが、二人とも長い間、天使の御告げを隠していました。ナザレトで主の正義の道を歩みました。二人の収入は三等分され、三分の一ずつ、エルサレムの神殿への寄付、貧者への分配と二人の生活費となりました。二人の寛大な慈善業をお喜びになった神は、二人の生計を助けました。二人は平和と一致の内に暮らし、喧嘩も不平もありませんでした。同じことを願わないことがありませんでした(マテオ27・20)。しかし、子供が生まれずに二十年間が過ぎました。この期間、近所の人たちは子供の授からないこの夫婦を非難し、軽蔑しました。救世主の恵みを受けるに値しない者と決めつけたのです。神は、この夫婦が忍耐して、将来の光栄ある子供の出産を準備するよう望まれました。この夫婦は、子供を恵まれるならば、エルサレムの神殿に奉献するという誓願を立てました。一年間の熱願の後で、ヨアキムは町の人々と一緒に神殿に行き、救世主の御来臨と赤ちやんの出産のための祈りと献げ物を捧げることになりました。神殿で、下位聖職者であるイザカー師にさんざん叱られました、「ヨアキム、お前は子無しだから神に喜ばれないのに、なぜ献げ物をするのか? 団体から離れ、立ち去りなさい。神に迷惑をかけるな。どうせお前の供え物は、はねつけられるに決まっている」と。この聖者は恥と混乱で頭が一杯になり、謙遜に主に話しました、「至聖なる主よ、御命令の通り神殿に参りました。あなたの代理者は私を嫌っています。私が罪人だからです。私はあなたの御意志に従いますから、見棄てないで下さい」(詩篇275・10)。ヨアキムは、自分の所有している倉庫のような所に引きこもり、何日間か祈りに明け暮れました。「いと高き永遠なる神よ、人類の生存と救済はあなた次第です。私の霊魂の苦悩を御覧下さい。私の祈りとあなたの婢アンナの祈りを聞いて入れてください。私たちの希望をあなたはよくご存じです(詩篇3810)。私は無価値でも、私の謙遜な妻を嫌わないで下さい。アブラハム、イザクとヤコブ、私たちの最初の祖先たちの主なる神、子無しの私が非難され捨てられる者たちの仲間入りにさせないで下さい。ああ、主よ、私の祖先であるあなたの召し使いや預言者の犠牲や献げ物を思い出して下さい。信頼して祈るようにあなたはお命じになりました。あなたの御意志に従えますように。私の罪があなたの慈愛を遠ざけるならば、私の罪を取り去って下さい。私は貧しく、取るに足りなくても、あなたは最も卑しい者に対しても慈悲を下さいます。あなたは何世代にも渡って恩恵を下さいました。もしも、御旨に適うならば、私に子供を恵んで下さい。私は子供を捧げます。子供を神殿で常に奉献します。私はあなたに眼を向け、この世の過ぎ行く事柄から眼を背けてきました。あなたの玉座から、この汚い塵を御覧になり、拾い上げて下さい。この塵があなたを讃え、敬い、御旨の成就を願いますように。」 ヨアキムが人々から離れて祈っている時、聖なる天使がアンナに現われ、子供を授かりたいという彼女の熱願が全能者の御旨に適ったことを告げました。御旨と夫の祈りを知り、アンナは謙遜と信頼の内に祈りました、「いと高き神、私の主、宇宙の創造者にして管理者、私の霊魂はあなたを無限、聖、永遠なる神として崇めます! 私はただの塵にすぎませんが、あなたの実在の前に平伏し、申しあげます(エステル13・9)。創り主である主なる神よ、私の胎内に子供を授けてください。そして、神殿であなたに仕えるため子どもを献げることができますように(創世18・27)。ああ、主よ、あなたの召し使いサムエルの母は産まず女でしたが、御慈愛により本望を得ましたことを思い出して下さい。同じ御慈愛をお願いします。私の祖先の犠牲、献げ物と奉仕、そして恩恵の報酬を思い出して下さい。私の最大の献げ物は私の霊魂、私の能力と私の全存在です。私に子供をくださるならば、私はたった今、子供を聖別し、神殿の奉仕に供えます。イスラエルの主なる神、この卑しい被造物を眺め、あなたの召し使いヨアキムを慰めて下さい。そして、全てにおいて御旨が行なわれますように。」 聖三位なる神は天使たちに仰せられました、「御言葉は人体をまとい、あらゆる人々に救いをもたらすであろう。このことを世の中に宣言するように、私たちの召し使いである預言者たちに既に伝えた通りである。生きる者たちの罪と悪意は処罰されるべきであるが、人間に対する愛は消されない。私たちの姿に似せて創造した人間を、私たちの相続者、参加者にさせるつもりである(1ペトロ3・22)。私たちを誉め、愛する大勢の者たちを認める。全ての人々の上に、選ばれるべき『女』がいる。御言葉を胎内に抱き、人体を与えるからである。この事業の初めより、神のこの宝はこの世に示された。時機到来にあたって受入れられるべきである。ヨアキムとアンナは私たちの恩寵を得た。二人は試練において、単純さと正しさにおいて、常に忠実である。このことをガブリルを通して両人と世の中に知らせよう」と主はガブリルに仰せになった、「ヨアキムとアンナにはっきりと伝えなさい。『二人の願いは受人れられた。二人は恩恵の子供を授かるであろう。子供をマリアと名付けよ』」と。命令を受けたガブリルは最高天の頂きから降り、ヨアキムの前に立ち、祈っている聖人に声をかけました。「正義の人よ、天の玉座におられる全能者はあなたの希望を知り、あなたの嘆きと祈りに耳を傾けられ、あなたを地上の幸せ者にして下さった。あなたの妻アンナは身ごもり、『娘』を産むであろう。『娘』は女性の中で一番祝福された御方であり(ルカ1・42)、諸国民に知れ渡るであろう。永遠の神であり、自ら存在し、万物を創造された御方は、最も正しく強力であられる。あなたの仕事ぶりと貧者への施しを喜ばれ、あなたの家庭を『娘』の出産によりお祝いになる。名前をマリアとしなさい。あなたが約束したように、幼少の時から神殿の中で神に捧げなさい。神は産まず女のアンナに子宝を授けるという奇跡を行なわれる。神に感謝するためにエルサレムの神殿に行きなさい。黄金の門の所で感謝の参詣をしに来るあなたの妻アンナに会うであろう。この子の受胎は天と地を喜ばすのである」と。一方、三回も祝福されたアンナは、御言葉の受肉の黙想に没頭していました。最も酷く自己を卑下し、生き生きした信仰を持ち、人類の救世主の御来臨を次のようにお願いしました。「いと高き王にして唯一の創造主よ、私は最も邪悪な嫌悪すべき被造物ですが、私に与えられた命を賭けて、私たちの救いの時が早く来るようあなたに切願いたします。人類の改革者にして救世主に御目に掛かれますように! 主よ、あなたの御独り子を私たちに遣わすとあなたの選民におっしやいました。たった今、御出でになりますように! 御独り子が天より降り、この地上に母を持つことは可能でしょうか? どのような御方が御母になるのでしょうか? 誰に御母の召し使いになる価値があるのでしょうか? 御母を見る眼と御母の御声を聞く耳はどんなに祝福されるでしょうか?」 この時、聖ガブリエルが現われ、アンナに話しました、「あなたとヨアキムの謙遜、信仰と貧者への施しはいと高き御方の玉座に報告された。神は私に伝令の役をお命じになりました。神は、あなたが御独り子を産む御方の母になることを望まれます。あなたは娘を産み、マリアと名付けなさい。マリアは女性の中で一番祝福された御方で、聖霊に満ちておられます。そして、人間を元気にするため、天の露を垂らす雲のような御方です(三列王18・44)。祖先の預言が成就するのです。この御方はアダムの子孫のため、生命の門であり、救いであります。私はヨアキムに『娘』の誕生が近づいたことを知らせましたが、『娘』が救世主の御母になることを打ち明けていません。この秘密を守り、神殿に行き、いと高き御方に感謝しなさい。黄金の門の前でヨアキムに会い、知らせを伝えなさい。あなたの胎は、人体をまとう不滅者を産む御方を産むのです」と。アンナの謙遜な心が聖天使の知らせにより、讃美と喜びのショツクに参ってしまわないように、聖霊から守られました。すぐさま立ち上がり、エルサレムの神殿に向かいました。そこでヨアキムに会い、共に全能者に感謝し、特別な献げ物と(動物の)いけにえを供えました。聖霊の恩寵に満たされ、帰宅しました。聖ガブリエルのメッセージをお互いに打ち明けました。同時にお互いの結婚を承諾せよという最初の御旨のメッセージも初めて分かち合いました。結婚のメッセージは二十年間もお互いに隠していたのです。改めて娘を神殿に奉献することを誓い、毎年同を神の讃美、感謝と多くの施しをすることにしました。この誓いは二人の死まで実行されました。賢明なアンナは『娘』が救世主の母になるべきことを夫にも他の誰にも知らせませんでした。ヨアキムが死の直前、全能者からこの秘密を教えて頂いたことは後で述べましょう。 

6・原罪の汚れなき受胎

神の御意志が全被造物の不可欠な源です。万物の存在の条件も状況も神の御命令通りになっています。何事も神意から外れません。万物は、神(父)と人となられた御言葉の光栄のために造られました。神が人間のレベルに降下し、人間と共に住むようになることは最初から神の計画されていたことです。その計画は、人間が神の方に引き上げられ、神を知り、畏怖し、求め、仕え、愛し、讃え、神のおそばにいることを永遠に喜ぶべきことを設定しています。その時機が到来したことは三位なる神の次のような御言葉からはっきり判ります。「今こそ我々の秘儀を始める時である。純粋な被造物を造り、他のいかなる被造物よりももっと高い位を与えよう。恩寵の偉大な宝を与えよう。その他のあらゆる人間は、恩を忘れ、反逆し、人祖と同様に我々の計画を邪魔しようとしているから、全く聖にして完全な女を造ろう。原罪の汚れが全くない女である。我々の全能の仕事を完成し、創造の最後に冠を飾ろう。人祖の自由な意志と決定のため、あらゆる人間が罪人となった(ロマ5・12)が、彼女は人間が失ったものを取り戻す。天使や人間に与えられた元々のあらゆる特権と恩寵は彼女のものである。この第一の命令は違反されることなく、我々の選んだただ独りの人間が実行することになる(雅歌6・8)。死ぬ運命にある人間が服すべき法律によって彼女を縛らない。蛇は彼女に手出しすることができない。私が天より降り彼女の体内に入り、彼女から人性をもらうからである。」 「我々が最も適切で完全で聖なる者を見損ない、劣悪な者を選ぶことはない。何事も我々を妨害できない(エステル13・9)。人となり、人を救い、教える御言葉は、恩寵の最も完全な法律を築き、その法律を教える。法律は人間の第二次的原因としての父母を敬うべきことを教える。御言葉はこの律法を成就する。御母を敬い、高座に招き、あらゆる恩寵の内で最も感嘆すべき物をプレゼントする。その恩寵の中でも抜き出ているものは、彼女が我々の敵や敵意に負けることがなく、罪の結果である死からも解放されることである。」 「御言葉には地上において母がおり、天においては父がいる。神を父と呼び、この女を母と呼ぶために、被造物と神との間に最高の交流が存在しなければならない。龍がこの女よりも上位にあることは断じてない。全ての聖性と完全さは、神の御母に備わっている。神の御母から罪のない人体を頂く神は、自分の人性ではなく、罪に堕ちた人性を救う。我々聖三位一体は、人性を持つ御言葉を聖櫃の中でも、人間の住居の中でも、永遠に讃美する。」「受肉された御言葉が謙遜と聖性の先生となり、そのために苦労し、死を免れ得ない人間のごまかしや虚栄を打ち砕く。同じ労苦と難儀を御母が忍ぶであろう。御独り子と一致して犠牲を捧げる。このことは神にとって悲しいことであると同時に、御母のより偉大な光栄となる。」 「今や時機が到来した。我々の眼に叶う被造物は、原罪の汚れがなく、龍の頭を砕き、永遠の御言葉に人体を着せる女である。神聖な御言葉により、人間が恩寵と永遠の光栄の宝庫を受けられるようにしよう。」 「人類にとり、修繕者、教師、兄、友である御方が死すべき者の命になり、病人の薬になり、悲しむべき者の慰めになり、負傷者の軟膏となり、困難にあえぐ者の案内役と道連れとなるように。救世主が神から派遣され、人類を救うという預言が成就されるであろう。どのように成就されるかは天地創造以来、神秘に隠されていたが、マリアを通して成就されることを宣言する。被造物の世界は今後も自然な成り行きをたどるが、これからはもっと大きな恩寵を神から頂くことになる。」 「昔の蛇は、この壮大な女の印を見て以来、あらゆる女性の邪魔をし続けてきた。立派に活躍する女性全員を迫害し、その女性たちの中に自分の頭を砕くことになっている方(創世3・15)を見つけようとしている。この一点の汚れなき清き御方を見つけるやいなや、全力を尽くして襲いかかるであろう。しかも、龍の傲慢さは実力以上である(イザヤ16・6)。神は我々の聖なる国であり、受肉された御言葉の櫃であるマリアを敵から守る。人類も御母を熱心に敬い、助力し、慰めるように。」 いと高き御方の御希望を聞いて全天使は平伏し、従順を熱心に誓いました。各天使は奉仕の役を希望し、全員が全能者を誉め、新しい歌を歌いました。天使たちが長い間、渇望していたことの成就の時が迫ったからです。天使たちの祈りは、龍と龍の軍勢を暗黒の中に放り込んで以来、忍耐強く続けられてきたのです。新しい啓示を聞いて天使たちは大喜びして主に申し上げました、「至高にして知りつくし得ぬ神なる主よ、あなたは、あらゆる畏敬、賞賛と永遠の光栄を受けるべき御方です。私たちは被造物です。あなたが喜ばれるように、あなたの御業を遂行させて下さい。」 天使たちは聖マリアの守りと召し使いになるため、純潔と完全さを高めたいと思いました。この大役を神は、九階級のそれぞれから天使を選びました。総数は九百位になりました。その他に十二位の天使たちが人間の姿となり、聖マリアに特別な奉仕をすることになりました。彼らは救世の紋章をつけた盾を運びます。この十二名または十二位が都市の門番であることは黙示録21章に記されています。その章を説明する時に、この十二位について触れましょう。神は最高の天使十八位に、ヤコボの神の梯子を昇り降りさせ、元后のメッセージを王なる主に届け、主のメッセージを元后に届けさせることにしました。これらの聖天使たちに加え、神は最高階級から七十位のセラフィムに、自分たちのコミュニケーションと同じように、主や下級天使たちとコミュニケーション(交流)するように任命しました。天軍の総指揮官である聖ミカエルは、無敵の軍隊を統轄することになりました。聖ミカエルはほとんど常に元后のそばにおり、しばしば元后に姿を現しました。聖ガブリエルは我らの主キリストの特派大使となり、至聖なる御母の守護者となり、天において聖母のための弁護士・管理人のような役を務めました。山々が築かれ、その上に神の神秘的な国が建てられることになりました(詩篇86・2)。神の右手は御母のために神聖な宝を既に用意しておきました。千位の天使たちは、自分たちの后のため、最も忠実な侍者となりました。御母の祖先は高貴な王家ですし、御母の御両親は最も聖で最も完全な方たちです。 御母の人体形成にあたっても全能者は自然の諸要因を良い配分に混ぜ合わせたので、その霊魂の活動を助けました。この素晴らしく構成された気質は、天の元后が終生統治した静けさと安らかさの源となりました。至聖なるマリアの御体は腐ったり衰えたりしませんでした。多過ぎたり、不足したりするものもありませんでした。生き続けるために必要以上の熱さもなく、適当な体温と体液維持のため、必要以上の冷たさもありませんでした。次の土曜日、全能者は御母の霊魂を造り、御体の中に吹き込みました。このように、永遠に最も聖、完全である純粋な被造物が世に現われました。創世記には、人間を土曜日(第六日目)に創造した後に神は休息したという表現がありますが、全被造物の中で最も完全な御方を創造したあと休息したというのが本当の意味です。神の御言葉の御業の初めであり、人類の救いの初めです。神にとり、全被造物にとり、この日こそ過ぎ越しの祭日となりました。神が、最も聖なるマリアの御体の中に最も祝された霊魂を吹き込まれた時、同時に天使たちの最高位にあるセラフィムの頂いた恩寵以上のもので御母を満たしました。創造主の光、友情と愛は片時も御母から離れません。原罪の汚点ではなく、人祖が元々頂いた以上の最も完全な正義を身につけました。恩寵にふさわしい理性の光を頂き、一時も休まず、創造主の御喜びになる仕事に精を出しました。諸徳の内、御母が発揮された三徳は、信、望、愛でした。神についての上智により御母の信徳は曇らされず、望徳は神以外のものに一瞬たりとも注意を惹かれず、愛徳はセラフィムも顔負けの愛情を神に対して持ち続けたのです。他の超自然的諸徳は、御母の理性的な部分を飾り、完全にします。御母の道徳的・自然的諸徳は奇跡的・超自然的でしたが、それ以上のものは聖霊の賜物の結実です。御母は自然や超自然の秩序をわきまえ、神を理解することにおいて誰よりももっと賢明であり、もっと聡明です。御母の素晴らしい知識にふさわしく、御母は神への畏敬と罪に対する悲しみのための諸徳を英雄的に実行しました。悪い天使や人間が主を知ろうとせず、愛そうともしないことを感知したが故に、至聖者への犠牲となりました。熱烈に主を祝し、愛し、誉めました。御母は聖アンナの胎内におられた時、既に人類の堕落を知っており、いと高き善なる神に対する反抗の重大さを思い、悲しみの涙を流したのです。御母は生まれるやいなや、この悲しみと共に人類の救いを求め、仲介と回復の仕事を始めました。神に対し、祖先や義人の叫びを神に捧げました。自分の同朋と見なした死を免れない人々の救いを、神の慈悲が遅れないように願いました。人々に会う前に、熱心な愛徳により人々を愛しました。生まれた時に人々の恩恵者となり、神への愛と同朋への愛を心の中に燃やしました。御母の嘆願は、全聖人と全天使の嘆願を合わせたものよりももっと神の心を動かしました。神の愛と希望は、神が天より降り、人々を救うことを御母は知っていましたが、どのように救済が行なわれるかについては判りませんでした。神は御母の願いを叶えたいと思い、御母を愛したからこそ人体をまとったのです。 

元后の御言葉  「被造物が理性を使うにあたり、神に最初に向かうのは永遠なる主の御旨に叶います。知ることにより、創造主にして唯の真の主として主を愛し、畏敬し、誉め始めます。両親は子供たちの幼少の時から神の知識を与え、知識を育み、自分たちの究極の目的を知り、知能と意志を最初に使う時、知識を求めるように育てる義務があります。幼稚さや幼稚ないたずらから子供たちを遠ざけるようによく見張り、方向なしに放り出されたら、腐敗した性格になってしまうことをよく用心すべきです。父母がこれらの空虚なことや偏狭な習慣を注意してやめさせ、神と創造主の知識を幼少の時から教えるならば、子供たちはたやすく神を知り、崇めるようになるでしょう。私の聖なる母は私の知恵や状況をらずに熱心でした。私を受胎した時、私の名前を使って創造主を崇め、私の創造を感謝し、私を守って、出産の日の光に私をあてられるように祈願しました。両親は神に熱心に祈り、子供たちの霊魂が御摂理により洗礼を受け、原罪の鎖から解放されるように願うべきです。もしも人間が、物心がついても創造主を知らず崇めないなら、信仰の光により不可欠な神を知らなければなりません。その瞬間から霊魂は神を決して見失わず、絶えず畏れ、愛し、敬うべく努力しなければなりません。」

7・原罪の汚れなきマリアの聖き御誕生とその御名

聖母の至聖なる御心における神への愛は、創造の瞬間に母胎の中で始まり、決して中断されず、光栄の永遠にわたり続けられております。今、聖母は御子の右に座し、その光栄にあずかっております。最も幸いなる母、聖アンナは、聖霊の御加護に満たされた妊娠の日々を送りましたが、御摂理は困難の重荷をも与えました。この重荷なしには恩寵は獲得されません。これを理解するために、サタンとその一族が天から地獄の拷問の中に投げ落とされた後も、古い律法の間、地上を徘徊し、優れた聖性の女性全員を密かに覗き見していました「女」の印を満たし、「女」の腫が自分の頭を傷つけ、砕くことになっている(創世3・15)のを知っていたからです。ルシフェルは人間に対し怒り狂っていたので、この探索を自分自身でし、徳を積み恩寵を頂く点で傑出した女性全員の身辺を一生懸命、見回りました。悪意とずるさで一杯になったルシフェルは、優秀な聖アンナの非常な聖性と生涯の全てに眼をつけました。聖アンナの胎内の「宝」の素晴らしさに気づきませんでしたが(他の多くの神の秘密も見ることができなかったのですが)、聖アンナから発せられる強大な影響力を感じたのです。この力の源が判らなかったので、ますます怒り狂いました。この妊娠も普通の妊娠に違いないと自分に言い聞かせて気を静める時もあったのですが、心配はなくなりませんでした。大勢の天使たちが聖アンナの周りで仕えているのを見て、何とかして探り出したいと焦ったのに阻止され、これは聖アンナの力だけではないと感づいたのです。聖アンナの命を奪いたいが、できなければ妊娠中に問題を起こしてやりたいと決心したルシフェルは、受肉された御言葉の御母や、世界の救世主の命を狙う身の程知らずでした。彼の傲慢さは、天使として人間よりも高い地位と能力があることから由来しています。そして、天使としての自分が神のお陰で存在したことに気づかないのです。そこで彼は、様々な疑いを聖アンナの心に起こさせようとしました。年を取り過ぎているから、実は妊娠していないのだと思い込ませようとしました。しかし、この不屈の女性は、謙遜な堅忍不抜の精神で主に祈り続けました。この信仰のお陰で彼女はより一層の恩寵を頂きました。大天使たちが彼女を襲ってくる悪魔たちを追い払いました。自力を過信している悪魔は聖ヨアキムと聖アンナの家を壊そうとしましたが、聖天使たちにより敗退しました。今度は、一人の女にさんざんの悪口を聖アンナに言わせましたが、聖アンナは優しく応対できるほど確固たる謙遜を保ち続けたのです。彼女がもっと大きな恩寵を頂けば頂くほど敵たちはもっと激怒し、彼女の女性としての弱さにつけ込もうとしましたが、全く手出しできませんでした。次の攻撃目標は彼女と夫の家に仕えていた召し使いになりました。この召し使い女は強情で危険なことこの上もなく、この一家を混乱させましたが、またもや聖アンナの勝利となりました。イスラエルの守衛は眠らないで警護したのです(詩篇21・4)。聖アンナー家の歩哨に立った天使たちは最も強力な天使たちの中から選抜されたので、ルシフェルと部下たちに恥をかかせ、追い払いました。これ以上の妨害をルシフェルたちはできませんでした。天の至聖なる王女の誕生が近づいていたからです。この世にとって最も幸せな日となった誕生日は九月八日でした。聖アンナは出産の時間を前もって主より聞かされ、主の御前に平伏し、御助けと御保護を願いました。至聖なる赤子マリアは大きな喜びに包まれ、お産の時、通常は感じるべき感覚を一切感じないでこの世に産まれました。聖マリアは産まれた時から純粋で汚点がなく、美しく、恩寵に満ち、律法と罪とから全く離れていました。同夜十二時に神の光が照らし、昔の律法とその暗さを、夜明けに近づいた恩寵の新しい日から分離しました。聖マリアは他の赤ちゃんと同じように産着を着せられ、世話してもらいましたが、彼女の霊魂は神の中に住んでいました。新生児として面倒を見てもらいましたが、あらゆる人間やあらゆる天使たちよりももっと知恵がありました。聖アンナは自分一人で聖マリアの面倒を見ました。他の家事をする必要がありませんでした。全宇宙の中で最も美しい宝物、あらゆる被造物よりも高位にある娘を腕に抱き、娘を主に捧げ、心の中で祈りました、「無限の知恵と力のある主よ、万物の創造主よ、御身の富の中から産まれた私の子をあなたに捧げ、無限の感謝をいたします。私の功徳なしにこの子を私に下さいました。母と子をあなたの御旨に委ねます。私たちの低さを玉座からあなたは眺めて下さいました。この子を永遠なる御言葉の住居と聖櫃として下さいました。あなたが救いの誓いを私の聖なる祖先や聖なる預言者たちに、そして彼らを通して全人類に与えられたことを感謝いたします。あなたは契約の櫃である娘を私に与えて下さいましたが、私は娘の召し使いになる資格もありません。どうぞ宜しくお願い申し上げます。」主は、この聖なる婦人に、天からの授かりものである娘を普通の娘のように育て、愛情と気遣いを示し、それと同時に娘に対する畏敬の念を心の中に持つように教えました。 私たちの王女マリアの生誕に当たって、いと高き御方は大天使聖ガブリエルを古聖所にいる聖なる祖父たちに伝達者として送りました。天の大使が降って行き、深い穴を照らし、そこにいる義人たちにこの喜ばしい知らせを告げました。聖なる王たちが待ち望み、預言者たちが予告した人類の救いが始まったこと、すなわち、救世主の御母となるべき方が産まれたこと、人々が救いと神の光栄を近いうちに見ることを教えたのです。この偉大な元后の誕生後八日目に、祝福された母アンナの前に現われた天使たちは、アンナの娘はマリアと名付けられること、この名前が天から運ばれてアンナと夫のヨアキムに与えられることを神がお望みになったことを話しました。アンナは夫を呼びにやり、夫と話し合いました。夫ヨアキムは大喜びしてこの名前を拝領しました。夫婦は親戚や祭司を招いて厳かに命名式を執り行いました。 

元后の御言葉  「あなたの弱さと貧しさにも関わらず、私の弟子と伴侶として私が採用したのは、あなたが全力を尽くして聖務を行なうにあたり、私を模倣すべきだからです。私は誕生の瞬間から全生涯を一日でも怠ることなく堅忍不抜に聖務を実行しました。毎日明け方、いと高き御方の御前に平伏し、主の不変、無限の完全さと、私を無から創造したことに感謝しました。自分自身を御手がお造りになったものとして認めながら主を祝福し、崇めました。崇高な主として、私と全ての創造主として讃えました。謙遜と自己放棄の意志をもって私自身を捧げ、今日も死ぬまでの毎日も私を御旨のままに使って下さるように、御旨を教えて下さるようにお願いしました。この祈りを声に表し、心の中で話し、何度も繰り返しました。神に相談し、助言、許可と祝福を私の全ての行為のためにお願いしました。私の最も甘美なる名前に対し献身しなさい。全能者が私の名前に大いなる特権を与えました。私の名前が呼ばれるたびに私は深く動かされ、ふさわしい応答をすることになりました。まず神に感謝し、主に仕える決心を新たにします。あなた、アグレダのマリアは私と同じ名前です。この名前があなたの心の中に同じ効果を現し、この章で学んだことを毎日怠らないように。もし弱さのために失敗するなら、主と私の前で非を認め、悲しみ、告白するように。心を尽くしてこの聖務を何回も繰り返しなさい。不完全さは許され、御旨に適う完徳に邁進するようになるでしょう。主の下さる光に従い、あらゆることにおいて主の御言葉を拝聴するようになるでしょう。」  

8・マリアの幼年期

この王女である子供は同年の子供たらと同様に育てられました。違った点は、食事の量が少量で、睡眠時間も短く、両親を困らせることなく、決して自分のことで泣きませんでした。最も可愛らしい子供でした。世の罪のため、救い主の御降臨のため、しばしば泣き、嘆息しました。普段は快活で、荘厳さがあり、決して子供っぽくありませんでした。賢慮なる母アンナは誰とも比較できない心配りと愛情深さを示しました。ヨアキムも同じでした。子供も神から大変愛されている父を愛しました。父は他の人たちよりももっと娘を愛撫しましたが、尊敬、謙遜、控え目の気持ちを決して忘れませんでした。幼子の元后は恩寵に充ち満ちていました。自然の理と恩寵とはお互いに協力しました。眠っている時、愛徳も他の徳も感覚に頼らずに行なわれました。この特権は神の御母で全被造物の女王にとり特別ですが、他の人々にもある程度、与えられているようです。普通の子供が生後一年間話せないのは、知能が発達せず、会話に必要な他の能力もないからです。幼子である元后は御身籠りの時以来、諸能力が完備しており、口を開け、舌を動かして話すことができたのに話さなかったのは、人々を驚かさないという聖マリアの知恵と英雄的な謙遜のためです。子供のマリアは両親の手に恭しく接吻しました。この接吻は両親が生きている限り続きました。両親に対する尊敬は従順によって示されました。両親の考えは、言葉に出さなくとも、マリアにはすぐ判りましたので、お考えに添うよう努力しました。二歳になった時、貧者に対する特別の同情と愛徳の行ないを始めました。母アンナから施し物をねだり、心の優しい母から何でも頂きました。貧者のため、そして至聖なる娘のためでした。慈悲と愛徳の女主人であるマリアが貧乏人を愛し、敬うためでした。頂いた物だけではなく、自分自身の食物 も貧者に分配しました。ヨブの評判と同じです。幼い頃から同情の心が育ちました。(ヨブ34・19)。施しの時には、貧者のため取り次ぎ、身体と霊魂から重荷を取り除くというもっと大きな恩恵を与えたのです。もっと崇むべきことは、同年輩の子供たちと一緒に読み書きを習うという謙遜と従順です。読書などは両親から教わりましたが、聖なる母アンナは、この天の王女に見とれていました。同時に、王女を通していと高き御方を祝福しました。全能者が定めた三年の終わりが近づくことの恐れと、自分の誓願が時間通りに守られるという自覚が強くなってきました。アンナと夫が頂いた恩恵の数々を思い出しました。娘マリアが神殿への奉献を自分から言い出した時、アンナは御旨の通り娘を主に捧げることに決めた反面、掌中の宝物を失いたくない強い感情に悩まされました。この大きな悲しみでアンナは死んだかもしれないほどでした。マリアは自分の命以上に大切でした、「私の愛する娘よ、長年お前の誕生を願いました。三年間しか一緒に住めませんでした。しかし、御旨が行なわれますように。お前を神殿に送るという約束を違えたくありません。行く日が来るまでどうぞ辛抱して下さい」とアンナは娘に言いました。至聖なるマリアが満三歳になる二、三日前、神殿への出発の時が来たこと、神の奉仕に奉献されることを教えられました。マリアの至純なる霊魂は、喜びと感謝の内に神に申しあげました、「アブラハム、イサクとヤコブの最高なる神、私の永遠にして最高なる神、私はあなたを讃美する価値がありませんので、私の代りを天使たちにしてもらいます。あなたは何も必要とされないのに、地をはいずる卑しい小さな婢である私に尽きることのない慈悲を下さいました。私は地上の最も卑しい所にさえも住む価値があませんが、私をあなたの家の中に召し使いとして招いて下さいました。私が実家を離れることを悲しむ両親に、あなたの御意志に従うよう鼓舞して下さい。」 同時に、聖アンナは娘が満三歳になる時の奉献の様子を幻視しました。アブラハムが息子のイサクをいけにえに捧げようとする時よりも、アンナには悲しいことであったに違いありません。主はアンナを慰め、娘がいなくなる後アンナを助けると約束しました。聖ヨアキムも同じ幻視を頂きました。お互いに話し合い、主の意志に従うこと、謙遜に実行することを決心しました。ヨアキムにとっても悲しいことでした。

元后の御言葉 私の愛すべき娘よ、生きている者全員が死ぬべき運命にあること、いつ死ぬか判らないこと、生きている間の短いこと、死後の永遠には終わりがないこと、永遠の生か死かはこの世において決定されることをいつも思いなさい。この世の危なっかしい巡礼において、神の愛を頂くか、神の怒りを招くか、誰も判断できません。この不確実さのために理性を正しく用いるならば、主と友情を得ようと最大の努力を払うでしょう。考える力がつくほど育った子供は、神から徳に向かう道案内をして頂き、罪から離れさせてもらいます。善を選び、悪を棄てるよう教えて頂きます。更に神は絶えず、秘蹟、教義や戒律を与えます。天使たち、説教師、司祭や教師を通して特別な苦難や恩恵、他人の例、審判、死や御摂理による出来事により、人間を前進するよう励まします。生活の出来事は人々を神に近づけるため、救われるためなのです。恩恵の助力は、人間が自由にもらえます。これに反対するのは、罪の助長にかぶれた劣悪の傾向です。五官に傾き、卑しいことを喜び、理性を混乱させ、コントロルの利かない欲望の偽の自由へと意志を魅惑します。悪魔も魅惑やごまかしで人間の内なる光を暗くし、きれいな外側の下に毒を隠します。いと高き御方は人間を見棄てず何度も呼び戻します。人間としての器に応じ、もっとお与えになります。霊魂が自己をコントロールして得た勝利の報酬として、情熱や性欲の力は弱まり、霊魂は自由に高く舞い上がり、自分自身の価値や悪魔たちよりも高く昇ります。しかし、人間が自分の低い望みや忘れっぽさよりも高く昇るのを怠るならば、神や人の敵に負けます。神の善から離れ、いと高き御方の呼びかけに応じなくなり、神に助けを頼まなくなります。悪魔たちや人間の欲情が人間の理性を誘惑し、全能者の恩恵を受けつけなくさせます。主の訪問を歓迎するか拒否するかが、救いか亡びかを決めます。この教義を忘れないように。敵には激しく抵抗し、主をいつも求め、神の光に照らされた戒律を守るように。私は両親を深く愛しましたが、両親を離れることが肆旨であることを知り、実家を出て神殿に入りました。 

9・聖母の神殿にける奉献

三年の月日が満ち、ヨアキム、アンナに抱かれた契約の真の生ける聖櫃なる至聖マリアと二、三人の親戚がエルサレムに旅立ちました。この質素な一行は人々に注目されませんでしたが、目に見えない天使たちが付き添っていました。天使たちはいと高き御方の栄光と讃美を歌いました。天の王女は天使たちを見聞きし、アンナの腕から降り、早足で歩きました。エルサレムに到着し、両親は大喜びでした。神殿に着くと聖アンナは娘の手を取って歩きました。ヨアキムも付き添いました。この三人は熱心に祈り、娘を主に捧げ、この至聖なる子供も恭しく自分を主に捧げました。マリアだけがいと高き御方の御声を聞きました、「愛する者よ、私の配偶者よ、私の神殿によくぞ来ました。私を讃え、拝みなさい」 三人は祈り終え、立ち上がり、祭司の所へ行きました。両親は子供を祭司に引き渡すと、祭司は三人を祝福しました。皆は一緒に神殿の特別な場所に行きました。そこで大勢の少女たちが隠遁と徳行に励みながら成長し、結婚できる年齢まで暮らすのです。ユダ族の王家やレビ族の聖職者階級の長女たちのための特別に設けられた隠遁の場所です。この住まいに通じる十五の階段を他の祭司たちが降りてきてマリアを歓迎しました。マリアを迎える役を仰せつかったのは下級の祭司ですが、この祭司はマリアを一番下の段に立たせます。マリアは祭司の許しを得てくるりと向きを変え、父母の前に脆き、祝福を願い、両親の手に接吻し、神への仲介の祈りを唱えて下さるように頼みました。聖なる両親が涙ながらに祝福を与えると、マリアは十五階段を助けなしに昇りました。比べられない熱心さと喜びで、後を振り返らず、涙を流さず、両親との別れを悲しまず、急ぎ足で昇ったのです。幼い少女が不思議な威厳としっかりした気持ちを示したのを見て、見守る人たちは感嘆するばかりでした。祭司たちはマリアを少女たちに仲間入りさせ、聖シメオンは女預言者アンナや他の先生たちのクラスに入れました。聖なる預言者は主の特別な恩寵と教示により、マリアを受け持つ準備ができていました。神の母、そして全被造物の女主人となるべきマリアを、教え子にする任務を特別な恩恵であると痛感したのです。マリアの両親は、マリアという家宝を失い、悲しみながらナザレトヘ帰ることになりました。しかし、神に慰められました。当時、聖祭司シメオンはマリアの秘密を知りませんでしたが、マリアの聖性と主に選ばれたことを神から教わりました。他の祭司たちもマリアを心から敬いました。マリアは十五階段を昇ってヤコボの夢を実現しました。この階段でも天使たちは昇り降りしており、一団の天使たちはマリアに付き添い、他の天使たちは上で出迎えました。最上段で神は娘として配偶者としてのマリアを待っておられました。マリアは満ち溢れる愛を感じ、ここが神の家であり、天の門であると判りました。子供マリアはアンナ先生の前に脆き、恭しく祝福を願い、先生のクラスに入れて下さるよう、また困難な時、寛容に取り扱って下さるように頼みました。預言者は喜び、言いました、「私の娘よ、母の代わりにお前の面倒を見たり、教えてあげましょう。」 聖なるこの子供は同じような謙遜で、 席の少女たちに挨拶しました。自分を召し使いとして扱い、自分に教えたり用を言いつけたりするように頼み、クラスに入れて下さった親切を感謝しました。シメオン先生は、アルコーブ(壁に設けたくぼみ)を一つづつ学生一人一人の小部屋にしました。天の王女は石の床の上に平伏して接吻し、主が神殿の一部を与えて下さったこと、この聖なる場所を大地が提供してくれたこと、自分がこの場所にいる価値がないことを主に話し、感謝しました。天使たちに言いました、「天の王子たち、全能者の伝言、私の親友たちよ、この聖なる神殿で私から一時も離れず、私に義務を思い出させて下さい。私の先生とも、道案内ともなり、私がいと高き御方の御旨を果たし、祭司、先生やクラスメートたちに従順であるように見守って下さい。」 黙示録の十二位の天使たちにマリアは言いました、「私の天使たちよ、もしも全能者が許可して下さるなら、悲嘆にくれている私の両親の所に行き、慰めて下さい。」十二位の天使たちがこの命令に従っている間、マリアは強い力と甘美を感じ始めました。霊化され恍惚状態に入りました。直ちにいと高き御方はセラフィムに命じ、マリアの至聖なる霊魂を照らさせました。マリアの身体と霊魂が聖三位一体にお会いするための準備でした。この接見はマリアの三年間の生涯にとって二度目です。御父は御子の御母に将来なられる方に言われました、「私の愛する者よ、あなたが私の不変性と無限の完全さを見て、私の光栄の後継者として選ばれた者たちや小羊の生ける血により救われた者たちが、頂くことになっている隠された宝を見て欲しい。遜る者を敬い、貧者に施し、踏みにじられた者を助け起こし、人間として私の名の下に行ない、苦しむ全ての者たちのため私が蓄えて置く宝物の数々を、私に選ばれたあなたがよく見て、その証人になって欲しい。」その他多くの秘密がこの聖なる子供に見せられました至聖なるマリアは答えました、「至聖崇高永遠なる神よ、あなたは壮大さにおいて測り知れず富に溢れ、秘密については言語を越え、約束を厳守し、真実を語り、御業は完璧です。あなたこそ精髄と完全さにおいて無限永遠なる主でおられます。至高なる主よ、いと小さき者の私があなたの壮大さを見て何をすべきでしょうか?私はあなたの偉大さを見せて頂く資格がありません。あなたの御前には全被造物は無です。私はあなたの召し使いで塵に過ぎません。あなたの御望みで私を満たして下さい。人間が忍耐すべき困難や迫害、謙遜や柔和が御旨に叶うならば、そのような大きい宝物や御身の約束を私から取り除かないで下さい。ああ、私の愛する御方。しかし、艱難の報酬はあなたの召使いたちや友だちに与えて下さい。私は何もしていませんので、その方たちの方が頂く資格が私よりもあります。」喜びになったいと高き御方は、この天の子供は神を愛するため生涯苦しみ、働かなければならず、いつどのように苦しむかを教えてもらえないであろうと言われました。天の王女は、神の光栄のため働き苦しむため選ばれたことの祝福と恩恵を感謝しました。貞潔、清貧、従順、一生涯神殿に隠れ住む誓願をする許可を主に願いました。主は答えました、「私の配偶者よ、あなたは一生の間に何に出会うかを知らず、あなたの現在の希望をそのまま全部成就できないことも理解できない。地上の富から離れることと貞潔を喜んで許可しよう。他の乙女たちもあなたを見習うべきであり、あなたは彼女たちの母となるのである。」の至聖なる子供は誓願し、他の誰よりも熱心に忠実に実行することになりました。ここで主の幻視が終わり、主に最も近いセラフィムの幻視が始まりました。セラフィムたちはマリアのそばに来て彼女を飾り、着物を着せました。まずマリアの全感覚が輝かしい光に照らされました。この上もなく壮麗なマントがお肩に掛けられ、色々な色の透明な宝石の帯がつけられ、うっとりとする美しい首飾りが掛けられ、つながった三つの大きな宝石が御胸の所に来ており、信望愛の三大徳を象徴しています。御手には見かけたことのない美しい指輪が七つ飾られ、聖霊の最も傑出した賜物を意昧しています。御頭には世には知られていない材料で作られ、最も貴い宝石がちりばめられた王冠が載せられ、神の配偶者、天の女王を表します。白い輝く着物に、金色の文字できれいに書かれている言葉は「マリア、永遠なる御父の御娘、聖霊の浄配、そして真の光の御母」です。最後の称号はマリアには理解できませんでしたが、天使たちはよく判り、主の方を向きました。聖三位一体の玉座から御声がマリアにかかりました、「あなたたちの浄配である、永遠に全被造物の中より愛され選ばれである天使たちはあなたに仕え、全世界と全人類はあなたを祝福されし者と呼ぶべである」(ルカ1・48)。神に一番近いセラフィムもケルビムも全く考えつかないことでした。いと高き御方が神の唯一人の浄配としてマリアを迎え、神なる御言葉がマリアに宿られるからです。マリアは申し上げました。「あなたは至高の王、人智を越える神であられます。あなたの慈悲に値しない私を御覧になって下さるとは、私は何者でしょうか?私は自分の卑しさと汚さを間違いなく見、あなたの無限を崇めると共に、自分の無を軽蔑します。あなたを見る時、全被造物の中で忘れられ、蔑まれるべき塵の私の側に、無限の王が屈み込んで下さったことに驚きのあまり私は消えてなくなります。塵である私を高め、天使の群れに加えて下さるというあなたの慈悲、無限の富と壮大さを理解できるのは天使です。ああ、私の王、私の主よ、あなたは私の配偶者であり私はあなたの婢です。私の最高善であり、私の唯一人の愛しき方であるあなた以外のいかなるものを理解したり、記憶したり、楽しんだりいたしません。あなただけがあなたの浄配である私のためであり、私はあなただけの者です。」 天の王女の同意を喜ばれたいと高き御方は、御自分の配偶者である全被造物の女主人に、恩寵の全てを与えられ、更に彼女の希望するものは何でもプレゼントしたいと考えられました。最も謙遜な鳩は直ちに御前に進み出て、人間の救いのため御独り子を世に送って下さるよう懇願しました。全人類が神を正しく知るように、自分の父母が御手からもっとたくさんの贈物を頂くように、貧しく困っている人々が慰められるようにお願いしました。その他の切もなされた後、全ての天使たちはいと高き御方を誉め讃える新しい歌を歌い始めました。この合唱の最中、多くの天使たちは最高天からマリアを元の預けられた神殿へ連れて行きました。マリアは主に約束したことに取りかかりました。二、三の書物と着ている着物以外の全てを聖アンナ先生に渡し、貧乏人に与えるようにお願いしました。神意を感じ取った先生は、マリアを一文無しの貧乏人にしてしまい、特別に面倒を見ることになりました。他の少女たちは、着物や必要な物を買うお金を持っていました。この聖なる先生は、主任祭司に相談してからマリアに生活指針を与えました。マリアは神を熱心にすることと自分自身を卑下することだけに専念しました。 

元后の御言葉 私の娘よ、全能者が私に下さつた大いなる筆舌に尽くせない恩恵の中には、あなたが今書き記したことが含まれています。神をはっきりと見、隠された神秘を知り、神の最も甘美なる御働きを私の中に感じました。私の清貧、従順、貞潔と隠遁の誓願は、神のお喜びとなり、教会の中で恩寵を受け、神を畏れる人たちもこれらの誓願を立てるようになり、現在の修道生活の初めとなりました。「彼女の後をついて、乙女たちは王の許に行た」とダビデが詩篇45に歌た通りです。私は自分が主に提案したことを全て完全に果たし、どのような被造物にも心を惹かれず、私の夫ヨゼフや天使たちにも注意を集中せず、神に直接に、または私が自由に自分を捧げた従順を通して間接に、私の全てを任せました。注意し、恐ろしい危険を知りなさい。恩寵により自分自身を越え、どのような混乱した感情にも意しないように。全く霊化され、自分の情熱を殺し、地上のあらゆるものに対する関心を棄てなさい。キリストの浄配という名前のために、人間の限界を超え、神の住居まで昇りなさい。あなたは土ですが、祝せられた土であり、主のためにだけ実を結びなさい。あなたが崇高最大の主の配偶者でありながら、人間という被造物なる奴隷に目を向けるならば、どのような傲慢であるかを考えなさい。考えられないほどの恐ろしい罰を受けるか。それを私があなたに見せたら、あなたは驚きに堪えられず死ぬでしょう。私の弟子として私を見倣い、あなたの修道女たちにこのことを諭し、守るように説明しなさい。この世において私に下った最大の幸せは、全能者が御自分に奉献された神殿に私を招いて下さったことです。危険な奴隷の境遇や世の苦役から私を救って下さいました。世の中には本当の自由がなく、食べるためにあくせく働かなければならず、ずるい悪魔や偏狭な人間たちの作った嫌悪すべき最もたちの悪い法律や習慣に縛られてしまうとは、何と危ないことではありませんか? 最善のことは修道生活と隠遁です。修道生活には安全があり、その外では拷問や荒れ狂う海があり、悲しみと不幸に満 ちています。心の頑なになった人々は自分自身を忘れ、この真理を知らず、この祝福を望みません。あなたの霊魂よ、いと高き御方に耳を傾け、御命令を実行しなさい。主の呼びかけを邪魔することは、悪 魔の最大の罠の一つです。修道服を着て修道生活に入る時、熱心に純粋な気持ちがなくても、地獄の龍や部下たちは激怒するのです。彼らは、誓願式が主の光栄と聖天使たちの喜びとなり、誓願者を聖 性と完徳に導くことを、よく知っているからです。この世の人間的動機で着衣したものでも後で恩寵を頂き、完徳に向かうことがしばしば起きます。恩寵を受け、誠実に熱心に神を求め、仕え、愛する修道生活の戒律を守ることは、もっともっと偉大です。 

10・修道誓願に関して元后から与えられた教え。聖母の神殿での初期の日々

私の愛すべき娘よ、私の説明を熱心に聞きなさい。賢人は言います、「私の息子よ、友だちと約束するならば、あなたはその人につながり、自分の言葉の捕らわれの身となる」 (蔵言6・12)。神に誓う者は、自分の自由意志を縛り、自分を捧げた御方の意志と命令に従うことしかできない。自分自身の誓いの鎖に繋がれる。霊魂の亡びまたは救いは、自由意志の使い方にかかっています。大抵の人々は自由意志を悪用し、自分自身を堕落させたので、いと高き御方は誓願による修道生活を設けました。お陰で人間は自由を完全な賢明な選択に用いることにより、主にお返しすることができます。誓願により悪を行なう自由は消え、善行の自由が保証されます。くつわのように危険を避け、平で確かな道へ導きます。情欲の奴隷や従属という境遇から解放され、情欲を支配する力も獲得し、自分の霊魂を治める女主人・女王としての地位に戻り、聖霊の恩寵と鼓吹の法にだけ従い続けます。聖霊が修道女の全機能に命令します。こうして人間は、奴隷の地位からいと高き御方の子供の立場へ、この世的生命から天使的生命へと移ります。全力全心を尽くして聖職の誓いを完うしようとする霊魂は、どのような祝福や宝を頂くかをあなたは理解できないでしょう。聖務を時間正しく厳守する者たちは、殉教者と同じまたは、より以上の功徳を積みます。聖務の第一は、義務の時間を厳守することです。第二は、特権と呼ばれる自由な信心業を行なうことです。自由奉仕は普通あまり恩恵につながりませんが、修道女たちは熱心さと完全さにおいて飛び抜けようと密かに望むのです。これは悪魔の企みによることで、結果は完徳の初めよりもはるかに手前の段階にしか過ぎません。第一の課された義務を遂行した上で、第二のそれ以外の徳行を積めば、あなたの魂を美しくし、完全にするでしょう。従順の誓願は、自分の意志を放棄することです。自分自身を上長の手にまかせます。自負心と自己主張を棄て、信仰と同じように上長の命令を批判せず、敬い、実行することです。自分の意見、生命、発言権は存在しないと考え、自分から動かず、上長の望みを行なう時だけ動かなければなりません。上長の命令を吟味したり、不賛成の言動を取ったりすることなく直ちに従いなさい。上長は神の代理であり、上長に従う者は神に従います。神は上長の理性を照らし、命令が修道者たちの救いのためになるようにします。上長に耳を傾ける者は神に耳を傾け、上長を拒む者は神を拒みます(ルカ10・16)。聞き従う人の言葉は勝利を話します。(蔵言21・28)。神は従順な者の過ちを審判の日に赦し、従順の犠牲を見て他の罪も赦します。私の至聖なる御子は、従順な者を特別に愛し、苦しみを受け、死にました。従順な者全員の成功と完徳のため特別な恩寵と特権を獲得しました。へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった(フィリッピ2・8)。主は永遠の御父にそのことを再び申し上げ、御父は従順な者たちの欠点を大目に見ておられます。清貧の徳は、この世の物を諦め、その重荷から解放されることです。霊魂を軽くし、人間の弱さから解放し、永遠な霊的祝福に向かって励む高貴な心の自由です。自主的清貧には他の諸徳がありますが、この世の人たちは地上の富を愛し、聖なる富める清貧に反対するので、諸徳を全く知りません。大地に自分たちを縛りつけ、金銀を採掘するため、自分たちを地中に陥れる富の重さに気づいていません。金銀を入手するために不安、不眠、労働、汗に苦しみ、何をしているのか知らないようです。富を入手するのにこれほど打ちのめされる一方、入手した後もっとたくさん苦しむのです。富の重荷と共に地獄に堕ちた人たちは数知れません。富の所有が霊魂を窒息させ、神と永遠の財貨を追う最も貴い特権を失わせる一方、自主的清貧は人間の貴さを回復し、邪悪な奴隷状態から解放し、貴い自由を再び与えます。富を所有したくないとき富への欲望はなくなり、神の宝を蓄えることができます。世の中の物はいと高き御方により、私たちの生命維持のために造られました。例えば、食物を入手して食べれば私たちは生きていかれ、それ以上の食物を必要としません。食物や富を必要以上に欲しがるのは、しょっちゅうのことで、中止することがなくなる傾向にあります。手段と目的が混ぜこぜになる傾向もあります。しかも、私たちの大事な生命もどれくらい続くか、いつ終わるか誰も知りません。貞潔の誓願は、身体と霊魂の純粋さをも誓願します。貞潔は簡単に失われます。ときには貞潔を失うまいとするのは難しく、失った後、回復するのは不可能です。この大きな徳は城に置かれ、城にはたくさんの門や穴があります。よく護らなければこの宝は失われます。失わないためには、五官を用いないという確固たる契約が必要です。理由のあるときや創造主の光栄のためには、例外はあります。五官を殺すとあなたの敵は手出しできなくなります。キリストの花嫁である者たち(修道女たち)には、いかなる徳も欠如すべきではありませんが、最も大事な徳は貞潔の徳です。この徳は修道女を霊化し、この世の腐敗から遠ざけ、天使的生命に近づけ、神御自身に似るようにします。この徳は他のあらゆる徳の飾りになります。私の御子が十字架の上で勝ち取った救世の特別な果実ですから、乙女たちが小羊に付き添い、お供した黙示14・4と聖書に書かれている通りです。隠遁の誓いは、愛徳や諸徳の囲壁になります。キリストの配偶者たちに天より与えられた特権です。世の中の危険な誉め言葉から遠ざけ、安全な港を与えてくれます。狭い場所に詰め込まれるのではなく、神の知識の広大な徳の野原にいるのです。修道女はこの野原で楽しみ喜ぶのです。神の知識と愛の頂上に向かって昇りなさい。そこにはあなたを押し込める所はなく、無限の自由があります。そこから被造物を眺めれば、どんなに小さく汚らしいかが判ります。

いと高き御方は私に説明なさいました、「神人の母となられるべき御方の業は完全そのもので、全人類、全天使たちがいくら考えても理解できないものである。彼女の内的徳行は大変貴く、セラフィムができる全てに勝る。あなたは理解できても言葉で言い表せない。この世の巡礼において至聖なるマリアをあなたの喜びの第一番としなさい。人間的なもの、見えるもの全てを諦め棄てる荒れ野の旅の間、マリアについて行きなさい。あなたの力と才能 の限りを尽くしてマリアを模倣しなさい。マリアを導きの星、監督にしなさい。マリアはあなた私の意思を伝え、御手によってマリアの心に書かれた聖なる律法を見つけなさい。マリアが取り次によりキリストの人性という巌を打つ(民数2011)と、恩寵と光の水がほとばしり出てきて、あなたの乾きを癒し、理解を深め、意志を燃え立たせるであろう。マリアはあなたの行く手を照らす火の柱(出エジプト13・21であり、情欲の熱さや敵の猛攻に打ち勝つ陰と憩いを与える雲である。 あなたはマリアを通して、あなたを護り、導き、バビロンやソドムの危険から救い出す一位の天使を受け取るであろう。マリアはあなたを愛する母、相談相手、女主人、保護者、そして女王である。御独り子の母が神殿で修業した功徳の中に、最高で完全な生活の要約を見るであろう。すなわち、マリアの本当の姿、童貞の美、謙遜の愛らしさ、即座の献身と従順、堅固な信仰、確信ある希望、愛の火と御手の御業の表現を見るであろう。この規則に従い、あなたの生活を整えなさい。この模範の鑑により、生活を飾りなさい。あなたの配偶者である主の部屋に入る花嫁の美と優雅さに付け加えられるべきである。」 「先生の崇高性が生徒たちに拍車をかけ、教義を受入れ易くするとしたら、あなたの配偶者の御母に勝る先生は他にいない。この崇高な女主人の言うことを聞きなさい。マリアをよく模倣しなさい。マリアの崇むべき諸徳を絶え間なく黙想しなさい。マリアの隠遁生活の言動は、マリアの後で修道院入った者たち全員の模範である。」 マリアの生活の具体的事柄を述べることにします。マリアを指導する祭司と先生は、上からの特別の啓示を得て、たった三歳になる子供を呼び出しました。天の王女は二人の前に平伏し続けました。立つように言われても平伏す許可を願いました。最高者の祭司と先生の義務と威厳の前に敬意を表したかったのです。祭司は語りかけました、「私の娘よ、とても幼い子供として主はあなたを神の家に招きました。この恩恵を感謝し、真に、そして正しい心で一生懸命仕えなさい。諸徳を積み、この世の困難と危険に対して打ち勝てるよう準備して、この世に戻るように。アンナ先生の言うことをよく聞き、徳の甘美なを我慢し、この世でこれほど易しいはないと判るように。」 天の王女は答えました、「神の祭司として神殿を護る私の主人、そして私の女主人、どうぞ間違いをしないように私が何をすべきかを命令し、教えて下さい。全てにおいてあなた方の言いつけを護ります。」 この天の王女に特別な世話をせよという、神からの啓示を祭司とアンナ先生は受けました。マリアの神秘については知らず、マリアの心中の動きと霊感について予想さえもできませんでした。祭司はマリアに仕事の規則を与えました、「私の娘よ、心からの尊敬と献身で主の名誉のための歌を歌いなさい。この神殿や神の民の生計のため、救世主の御来臨のため、いと高き御方にいつも祈りなさい。八時に就寝し、明け方に起き、第三時(午前九時)まで主を讃えなさい。九時から夕方まで手仕事、そして色々な仕事を覚えるように。日課の後で頂く食事を多く摂り過ぎないように。その後で先生の訓話を聞きなさい。残りの時間は聖書を読みなさい。全てにおいて謙遜で愛想よく、先生の言いつけを護りなさい。」 祭司の言葉を聞きながら、至聖なるこの子供は脆いていました。祭司の祝福を願い、叶えられた後、祭司の手と先生の手に接吻し、神殿において自分に与えられた義務を果たすことを胸に刻みました。聖性の女主人であるマリアは、謙遜に自分の立場を保ちました。彼女の希望と熱愛は自身を多くの外的な行動に駆り立てました。これらは上長から命令されたものではありません主の代理者の命令に心から従順でした完徳の女主人である彼女は、神の御旨が他の諸徳の鼓吹よりも、謙遜な黙従の遂行であることを知っていました。従順において神の希望や喜びを知りますし、上長の言葉は神の言葉です。自分の興奮や気まぐれを追求すると、誘惑、盲目の情欲やだまかしに乗ぜられます。自分に課されていない仕事でも、私たちの女王は他の少女たちよりも抜きん出ていました。全員に仕え、部屋を掃除したり、雑巾掛けをしたり、皿を洗ったりするのを先生に申し出ました。最も賎しい仕事をしたり、他の人たちの仕事までしたりしました。神殿の秘密や儀式については神から知らされていましたが、それを勉強したり、実行したりするのに熱心でした。儀式にあずかる時、どんな小さなことでも失敗しませんでした。人から軽蔑されることにも、自分で自身を批判することにも、大変熱心でした。毎朝毎晩、そして仕事を言いつけられるたびに、先生の祝福を願い、先生の手に接吻しました。恭しく先生の足にも接吻しました。他の少女たちに対しても尊敬と親切を尽くし、自分の女主人に接するかのように、自分自身を忘れました。自分の同僚である少女たちに尽くすため、賎しい仕事をするため、神意に添うため、どのような好機も失いませんでした。下の者が上の者に仕えるのは大きな徳であり、同じ地位の者に従うのは大きな謙遜であると、普通私たちは考えます。天地の元后が、女の中でも小さい人たちに全心を捧げるならば、困惑しない人はいるでしょうか? 従順の誓願をした者でも、神から任命された上長から我意を棄てよと言われるとどれほど困るでしょうか? 何回か従順であったら、自分は従順なのだという思い込みを棄てなさい。全ての人よりも偉大なマリアは、自分の同僚よりも劣っていると考えたのです。私たちの元后の美しさ、上品、優雅、礼儀は他の人たちとは比べものになりません。自然と超自然の賜物が組み合わされています。マリアと話しをする人たちが感じた愛情は、神により、ほどほどに表現するように抑えられています。元后は寝食を過度に摂らないようにしたばかりでなく、減らそうとしました。しかも、上長に従い、定刻に就寝し、質素な長椅子でセラフィムや守護の天使に囲まれて、もっと高い黙想やもっと強い愛の恍惚を楽しみました。元后は時間割を作り、賢明に仕事の割り振りをしました。昔の聖なる書物を読み、天から教えられ、深遠な秘儀をよく知っていました聖天使たちと談議し、比べものにならない知能と鋭さで天使たちに質問しました。元后が勉強したことを書いたならば、聖書はもっと大部になったでしょう。私たちは聖書を完全に理解できたでしょう。

元后の御言葉   私の娘よ、人性は不完全で、注意深くなく、徳行を怠ります。人間はいつも休もうとし、仕事をしないようにします。霊魂が肉体の言うことを聞くと、肉体に支配され、肉体の奴隷になるでしょう。この秩序の欠損は嫌悪すべきことであり、神の最も嫌われることです。人間は霊戦において不注意で、しばしば負けると身動きできなくなり(脳卒中患者のように)、偽の保証を勝手に作り上げ、易しい徳行をするだけで過信するのです。悪魔たちは他の誘惑もしてきます。自信過剰にさせ、真の徳を見失わせます。この過ちに陥らないように私は切望します。一つの不完全さに不注意であると、他の諸欠点も出てきます。小罪を犯すようになり、小罪は大罪へとあなたを導くことになります。奈落の底に落ち込みます。この不幸に遭わないために、聖務や秘蹟(祭式)に参加しなさい。どんな小さな聖務でも、悪魔を寄せつけない要塞となります。要塞がないと悪魔は内部に侵入し、霊魂を滅ぼそうとします。聖寵の力なしには、霊魂は悪行や悪習慣で弱くなり、堅忍を失い、悪魔に抵抗できなくなります。

11・信徳について至聖なるマリアがどのように実行されたか

徳行の美しさと均衡について聖マリアは啓示を受け、いと高き善に捧げられていたので、徳をいつも忘れることなく、喜びながらすぐに行ないました。このことは私たちの理解を越えるのですが、一つ判ることは、聖マリアは全被造物よりももっと素晴らしい美であり、神御自身の次に位置することです。聖マリアの完全さには欠けることがありません。神より頂いた諸徳の他、聖マリアは実践により諸徳を獲得しました。私たち人間は、何回も良い行為をした後、一つの徳を得るのですが、聖マリアの一つ一つの行為は完璧で、私たち全員の諸徳よりも優れています。聖マリアの行為の目的は神御自身です。主なる神の御光栄を少しでも増やせるかどうか、はっきりしない行為は何一つしませんでした。神から頂く諸徳には二種類あります。第一は、神を直接の目的とし、対神徳と呼ばれる信徳、望徳と愛徳です。第二は、その他の全ての徳で、神に向かうための手段を与える徳です。道徳的諸徳と呼ばれる四つの枢要徳である賢慮、正義、堅忍と節制に集約されます。これら全ての徳は、聖マリアにおいて完全で、聖霊の賜物により強化されています。聖マリアの御身籠りの時から、神は御与えになったのですが、それに加えて、聖マリアは御自身の功徳ある行為により、諸徳を更に育て上げました。聖エリザベトは聖マリアの信仰の偉大さを歌いあげました、「幸いなるかな、御身の信仰よ、主の御言葉と御約束は御身において成就せり」(ルカ1・45)。聖マリアの信仰は神の御力の姿です。私たちの信仰の不足を補います。諸国民が信仰の祝福を失った歴史も思い出しましょう。自分たちが資格がないのに、頂いた信仰をないがしろにしたので、この嘆くべき損失を回復するため、少なくとも一人の人間が信仰の徳を完成し、全人類の模範となることが必要でした。聖マリアは信徳の本来の姿を完全に修得したので、全人類が各自の信徳を測る物差しとなりました。聖マリアは祭司長、預言者、使徒、殉教者や世の終わりまでキリストの教義を信じる者たちを初めとし、全人類の先生です。聖マリアは信じたこと全てを知っていましたし、っていたこと全てを信じました。信仰の神秘が信頼されるべきことを神から教えられ、この信頼を完全に理解していました。聖マリアの知識はいつも現実でした。一度覚えたことを決して忘れませんでした。理解の賜物は深い信仰の絶えざる実践につながりました。聖マリアの信仰と愛は、全天使たちや諸聖人のそれよりも優っていました。聖マリアが神により、神の直視と認識を与えられたことは天使たちにも理解できないのですから、地上の人間は、完全な信徳を得た天上の聖マリアから信徳の価値について教わりたくなるでしょう。不信者、異端者、異教者や偶像崇拝者が聖マリアの所に来て、自分たちの間違いに気づき、人生の目的に達する道を発見しますように。カトリック教徒も、使徒たちと共に信仰を深めますように(ルカ7・5)。聖マリアの信仰に到達できませんが、聖マリアを見習う望みを起こしますように。 太祖アブラハムは全信者の父です。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ「あなたの子孫はこのようになる」。と約束されていた通りに多くの民の父となりました(ロマ4・17‐18)アブラハムの妻は、医学上、妊娠できない体でしたし、高齢に達していたにも関わらず、主は御約束通り独り息子イサクをお与えになりました。この大事な独り息子をいけにえに捧げよと言う神の命令にアブラハムは従う信仰がありました。この信仰により、アブラハムは全信者の父となり、信仰のしるしである割礼を受けたのです。アブラハムの称号よりももっと偉大な称号である『信仰の御母』と「全信者の御母」が聖マリアに与えられています。聖マリアの信仰と威厳は、アブラハム以上です。処女懐妊と出産は、高齢・不妊者による出産よりも、もっと理解しにくいです。アブラハムはイサクをいけにえにすることに確信はありませんでしたが、聖マリアは至聖なる御子が必ずいけにえになることを確信していました。聖マリアは全教会がいと高き御方を信じ、救いの御業を信ずべきことを示します。私たちの救い主にして先生であるキリストは、聖マリアを御自分の教会の信仰の共同創立者、教会の母の模範に任命しました。最後の審判において、御母がキリストを信じなかった人たちを審判する副裁判官になることを決められました。

元后の御言葉 私の娘よ、世の中が偉人、権力者、賢者として誉めそやす人たちの中で、どれほど多くの人々が信仰の光を持たず、不信の暗闇から最も憎むべき罪の中に、そして地獄の永遠の暗黒の中に落ちて行ったでしょうか? どんなに多くの国々が盲目であり、盲目の指導者の後について永遠の苦しみの地獄 の底に落ち込んだことでしょう。信仰の恩寵と祝福を受け取ったのに、なくしてしまった悪いキリスト信者は、これら不信心者のお供をしているのです。私の親愛なる友よ、主の聖なる教会の花嫁の部屋に入り、後に主の永遠の祝福を頂くため、あなたに下さった持参金と結婚の賜物としてのこの宝石について感謝しなさい。信仰の徳をいつも積みなさい。信徳はあなたが目指している最終目的にあなたを近づけるでしょう。信仰は永遠の救いに至る確かな道を教えます。この巡礼中の闇を照らす光です。不信と罪によって光が消えることがないように。信仰はあらゆることを可能にします。信仰は、人間の知力では全く判らないことを、誤ることのない確実さで私たちに理解させます。自分の限りある知力だけを頼みとする者の狭い了見から解放します。自分の感覚を使つて獲得した知識に閉じ込められることから解放します。私の娘よ、神が与えて下さったカトリック信仰の測り知れない宝を大切にしなさい。

12・望徳について乙女なる我らの貴婦人はどのように実践されたか

主が、地位の貴賤や年齢の高低を問わず、あらゆる人たちに、神と神の神秘と約束を教えるなら、各人は神が自分の最終目的であることを知り、その目的に達したいという熱望にかられることでしょう。これが希望です。洗礼の時にこの希望をもらって以来、この永遠の喜びに達すべく努力し、それを得るための困難に打ち勝たせて頂く恩寵を願っています。まだ目的を獲得していないので、人間は、キリストの功徳と自分の努力の両方で追求することになります。望徳は、信徳と主の間違いのない約束に賢明に頼ることにより進歩します。思考力に基づく望みは、絶望と推測の間に宙ぶらりんとなっており、自分一人の力に頼ることを許しません。御旨を邪魔する怖れや諦めも許可しません。絶望は神の約束を信じないことから、また信じるが、約束したものをもらえないと思い込むことから起こります。この絶望に対抗し、希望は、神が御約束を破棄しないこと、私たちは功徳を積む能力を与えられており、実際に功徳を積むことによってのみ約束が成就されることを教えてくれます。神から与えられた諸能力を乱用することによって、喜ばしい約束が叶えられるなどと考えないで下さい。諸能力は人生の目的に到達するため、徳を積むため、この世において神を求めるため善用されるはずのものなのです。神に直接お会いするという人間の最終目的のため、聖マリアは誰よりももっと頑張りました。そのための妨げになるようなものは棄てました。私が以前述べたように、聖マリアはこの世に住んでいた時、天に挙げられ、神に拝謁できたこともありましたが、その時以外は、日常生活の連続で、神との面接を思い出し、もっと熱心に神を求めました。聖マリアは、将来、神の許に行くという自分が頂く御褒美は諸天使、諸聖人の受ける報酬よりももっと大きいということを知っていました。この知識は聖マリアの望徳を他の誰よりも強いものとしました。自分の目的を達成するため、崇高な信仰、賜物、そして聖霊の特別な御助けをお願いしたに違いありません。聖マリアの素晴らしい信徳と望徳に相応した素晴らしい賜物の数々を頂きました。望徳は、聖マリアのために神が創造しました。その後で全人類に分配して下さいました。このため聖霊は、聖マリアを美しい愛と聖なる希望の母と呼びます(シラ2524)。キリストの御母となったように、希望の御母となりました。教会のメンバーたちに希望をもたらしました。聖マリアの御身籠りの時に既にキリストの死により確実となった神のお約束について、恵みの分配者とされておりました。自由意志でキリストを懐妊し、出産した時、頂いたお約束を私たち全員に手渡し、私たちに希望を下さったのです。聖霊が聖マリアに言われたことは成就しました、「汝の木は楽園である」 (雅歌4・13)恩寵の母である聖マリアから由来するもの全ては、私たちの幸福、私たちの楽園と私たちの希望であるからです。御父の御旨に従った御子の苦しみにより建てられた教会は、聖マリアによって養われます。母は優しく愛撫して、母性的愛情をもって小さな子供たちに乳房を吸わせる(1コリ3・12)。教会が建てられた時から聖マリアは慈愛の母として、神から頂いた教えという甘い乳を私たちに下さっています。世の終わりまでキリストに取り次ぎ、私たち主キリストは慈悲の御母のお願いを聞き入れて下さいます。聖マリアは私たちの甘美なる御母、私たちの生命、そして私たちの希望です。私たちが頂く祝福の根源です。聖マリアは私の模範です。御自分の御子の功徳により与えられる私たちの永遠の幸福のための保証です。私たちがその幸福に辿り着くよう助けて下さいます。

元后の御言葉   私の親愛なる娘よ、あなたは望徳について偉大なる啓示を受けました。私が望徳を実践したように、あなたも神の恩寵に助けられ、絶えず実践しなさい。いと高き御方の約束をいつも思い出しなさい。お約束の真実について、揺るぎない確信を持ち、あなたの心を熱望に向けなさい。天の祖国に住み、いと高き御方の御顔を拝する将来は、キリストの功徳により保証されています。私の霊魂には、信仰により理解し、経験により味わったものだけが持てる熱望がありました。この熱望の激しさは、言葉では表現できません。神の御姿に象られ、神の光栄にあずかるべき人たちが、自分の欠点により、その真の幸福を得ないという不幸を、心から悲しみながらよく考えましょう。聖なる教会の子供たちが悪業をやめ、暗黒から自分たちを引き離し、盲目の不信者たちから区別して下さる間違いのない信・望の祝福を重んじるならば、忘恩を恥じ入るでしょう。キリストが流された御血を嫌い、神と諸聖人の前で最も汚い姿に成り果て、最も恐ろしい審判にかけられるであろうことに気がつきますように。この真実が単なる空想 であると考えている多数の人々が、自分たちの危険な状態を少しでも考えるように祈りなさい。その ためのあなたの努力は、王なる主により報いられます。 

13・私たちの貴婦人、至聖なるマリアにける神愛の徳について

愛徳は全ての徳の女王、母、命と美です。愛徳は他の諸徳を支配し、動かし、最終目的の完成に向かわせます。愛徳は諸徳を啓蒙し、美しくし、生命と効果を与えます。愛徳は完全であり、他の諸徳を完全にします。愛徳なしには、諸徳は生気がなく、効果もなく、少しの価値しかないのです。愛は怒らず、利を求めず、全てを与え、あらゆる善を産み、悪に同意しない(一コリ13・4)。愛徳だけが天国の鍵を持っています! 愛徳は永遠の光の夜明け、永遠の昼間の太陽、浄めの火、新しい喜びで酔わす葡萄酒、嬉しさをもたらす甘露、いつも満たしてくれる甘美、霊魂の憩い、神に我々を結びつけてくれるものです。この結合は御父と御子の一致、御父・御子・聖霊の一致と同じです(ヨハネ17・21)。神御自身が愛です(1ヨハネ4・16)。カトリック教会は、御父の全能、御子の知恵、聖霊の愛を教える理由を持っています。聖ヨハネが書いた通りです。神の内なる働きは聖三位一体の相互の一致と愛ですが、神の外なる働きは被造物で、被造物は神の愛により造られ、愛を神に返します。神を私たちの希望、忍耐と知恵と呼ぶ時は、それらを神から私は頂きます。神が愛であると私たちが言う時は、愛を神から頂くだけではなく、神御自身が愛であり、溢れ流れ出る愛であるからです。神の他に完全な愛は至聖なるマリアにあります。愛の最高の働きは、我らの主キリストがなさったこと、そして永遠になさること、愛がキリストにいつも存在することです。愛の次の場所は至聖なるマリアです。この選ばれた人、聖マリアは、罪により汚れた人間たちの欠点や欠損はなく、人類の欠点を補い、人類のために可能な限り大きな愛を神に返します。聖マリアだけが愛にける正義の太陽を模倣するために、全人類の中から選ばれました(雅歌4・9)。聖マリアだけがっています。全人類よりももっと熱烈にもっと完全に愛することを、神を神自身のため純粋に激しく欠ける所なく愛することを、そして全人類を神のため、神が愛するように愛することをっています。聖マリアだけが愛の衝動に従い、最高なる神を最高なる神として愛しました。聖マリアの愛は、全人類と全天使の愛の総合よりも重いのです。聖マリアだけが愛なる神の精髄を知っていますから、充分な完全さで、理性的である人類の全能力を越えて神を模倣します。聖マリアの愛は、神の御子の御母としての聖マリアに与えられた素晴らしさと同じく偉大です。聖マリアの愛に応じて、永遠の御父なる神は聖マリアのため、そして全世界の救いのため、至聖なる御子をいけにえにしました。聖霊が聖マリアを希望の母と呼ように、美しい愛の母と呼びます。この意味は、聖マリアが私たちの愛する主、救い主であるキリストの御母であることです。主は人間の中で最も美しく、人間とし て欠点も汚点もなく、神と交流する恩寵の美が不足していません(1ペトロ2・22。聖マリアは愛の御母として地上の私たちに愛をもたらし、私たちのために愛を育て、私たちに愛を教えました。全ての聖人は聖マリアの愛を知れば知るほど愛を実行します。全ての聖人は、聖マリアの愛をもっと正確に模倣しようとします。 聖マリアの愛の源は、聖マリアの深遠な知識と知恵です。それは頂いた信仰と希望、聖霊の賜物である知力と知恵、そして神の幻視に由来しています。このようにして聖マリアは神を神のために愛し、人間を神のために愛し、最も激しい熱望を持って愛徳を実践することを学びました。神は、元后の意志には何の妨げや不注意、無知、不完全、遅滞もないことを御存知でした。神の御力が聖マリアの中で充分に働きました。「あなたの神を全心、全霊、全力で愛せよ」という偉大な掟は聖マリアだけが実行できました。この掟は聖マリアに与えられました。他の人間はこの世にいる間、そして神にお会いするまでこの掟を完うすることはできません。聖マリアが私たちに代わってこの掟を頂き、実行したのです。ああ、最も甘美にして最も美しき愛の御母! 創造されたことのない愛があなたを造り、太陽のように輝くように選びました。あなたは最も美しく、最も完全な愛をお持ちです(雅歌6・9)エワの惨めな子供たちである私たちは、この太陽に照らされ、燃え、愛により再生し、愛、愛情、愛徳について教えて頂くように願いましょう。聖マリアは教えて下さいます。愛は愛される者により喜び、満足することです。愛情は愛される者を同類の他者より選び分けることです。そして愛徳はこれら二者に加え、愛される者の善良さに敬服することです。聖マリアから私たちは、神のために愛し、全心で神に満足し、神ではない全てから神のための場所を分離すること、他のこととごちや混ぜにすると神ヘの愛が減ることを学びます。神に比べたら、金も貴金属・宝石類は汚らしく見えます。至聖なるマリアの愛は天地の隅々に及んでいます。

元后の御言葉  私の娘よ、あなたが私の後を追って、あらゆる徳行において私を見習うよう母として希望します。愛徳はあらゆる徳の終極目標で冠です。信仰と理性の燈を灯し、無限の価値のあるこの貨幣(ドラクマ)を見つけなさい(ルカ15・8)。見つけた後は、この世のものであり、朽ちるもの全てを忘れ、嫌いなさい。この限りない価値のある思考と目的は、何ものにもまして神のお喜びになるものです。神を完全に愛するため、次のような自己反省をしなさい。自分はいつも神を考えているか、神の御旨と御勧告を疎かにしていないか、神の言いつけに背くことを恐れているか、背いたあと直ちにお詫びしたか、神が除け者にされているのを悲しむか、神が皆に尊まれているのを喜ぶか、神の愛についていつも話すのを望み、喜ぶか、神のお側にいることを喜ぶか、神を忘れ、神のお側にいないことを嘆くか、神が愛することを愛するか、神がお嫌いなことを嫌うか、神の恩寵にあらゆる人たちを引き寄せたいか、確信を持って祈るか、神の恩恵を感謝するか、神の恩恵を粗末にせず神の名誉と光栄のために善用しているか、自分のあらゆる情欲の火を消そうとしているか、情欲は自分の徳行への鼓吹を遅らせることをよく考えなさい。

この掟の順序は、第一番目に、あらゆる人間を越えて神を愛すること、第二番目に自分自身を愛すること、第三番目に自分の隣人を愛することです。よく理解し、ごまかさず、手を抜かず、忘れず、けちることなく、怠らず、心から神を愛しなさい。神を愛する者は神の善を愛します。その次に隣人を愛し、敵味方の区別をしなくなります。神の顕れを他の人々に見るようになります。その人たちが親しかろうとなかろうと、恩恵者であろうと迫害者であろうと、その人たちの中に神の善があることを見けるようになります。

14・神殿にける元后の試練と御両親の逝去

年齢においては小さな子供なのに、知恵においては大人である聖マリアは成長し、神と人からますます愛されました。聖マリアの熱情は自然の制限を越え、恩寵は神の企画と目的に対応しました。神の恩寵の流れは激流になって聖マリアの中に流れ込み、神の働きの全部が聖マリアのためだけであったかのように思えます。聖マリアの威厳も相応して増大し、主の聖心を完全に充分に満たし、天の全天使を讃嘆させました。聖マリアは地を祝福し、御言葉の芽を出させ、百倍の実、つまり聖人たちを次々に稔らせました。聖マリアは聖書を読んで神について勉強しました。特にイザヤ書やエレミア書と詩篇を読み、救世主と恩寵についてよく判りました。何回も御言葉の人性の秘儀について、天使たちととても優しく話しました。御言葉が乙女なる母から産まれ、大人となり、アダムの子孫たち、つまり人類のために苦しみ、死ぬことを愛情深く話したのです。聖マリアと話した聖天使たちやセラフィムは、聖マリアの至高なる威厳について聖マリアには決して打ち明けませんでした。聖マリアは、主と幸せな御母の婢になりたいと何度も申し出ました。いと高き神は幻視の中に現れ、聖マリアに話されました、「私の配偶者、私の鳩よ、私はあなたを限りなく愛し、私の眼に最も叶い、私の希望する全てをあなたに与えたい。艱難辛苦の中に隠れた宝をあなたは気づいています。私の独り子が人間性をまとい、十字架の道を言葉と行ないにより教え、選ばれた人たちへ遺産として残し、苦しみにける謙遜と忍耐を十字架の法の土台とすることをあなたは知っています。人性が非常に多くの罪により悪に傾き退廃してしまった現在、十字架の道は必要です。私の御独り子が人間となり、困難と十字架により光栄の冠を獲得したように、人間も自ら努力すべきです。私の配偶者よ、私はあなたを選び、あなたに賜物を与えましたが、その賜物をあなたが活用し、その実を稔らせ、私の選民の頂く遺産を受けるべきです。従って、あなたが私への愛のために率先して困難に当たるよう、私は望みます。」 神のこの提案に、誰にも負けない王女マリアは世の中のあらゆる聖人たちや殉教者たちよりももっと勇敢に答えました、「主なる神、私のいと高き王、私の能力の全てと私という人間、それ自身はあなたの無限の恩恵の一つですが、あなたを喜ばせたい心でいけにえになる用意ができています。あなたの限りない知恵と善のため、私の犠牲が捧げられますように。あなた私に選択の自由を下さいますなら、あなたの愛のため、苦しみ続けて死ぬことを選ばせて下さい。私の唯一なる神、あなたのこの婢をいけにえとして苦しみのはん祭に使って下さいますように。最も寛大な主よ、どんな人よりももっと多くの負債を負っている私の苦しみを受け取って下さるなら、死のあらゆる悲しみと苦しみを私に与えて下さい。あなたの御前に平伏し、私を保護し、見棄てないようにお願いします。ああ、私の主よ、あなたが私たちの祖先や預言者に約束したことを思い出して下さい。あなたは義人を恵み、苦しむ者たちのそばに立ち、慰め、保護と守護になることをあなたは真実を語り、約束を違えません。人間の悪意はあなたの慈悲に頼る人々へのあなたの愛を妨げられません。あなたの聖にして完全な意志を私の上に実行されますように。」いと高き御方は聖なる子供マリアの捧げ物を受け取り、言われました、「王の娘、私の鳩、愛され選ばれた者よ、よくぞ言いました。あなたの願いの第一は、あなたの父ヨアキムの近い将来の死として叶えられます。彼は平和な死を遂げ、リンボ(古聖所)に降り、諸聖人の仲間入りをし、人類の救い主を待ちます。」 父に対する子供の愛情は自然の負債ですから、この至聖な子供の心も父の死を悲しみました。父、聖ヨアキムのために熱心に祈り、祝された死の瞬間、父を悪魔から護り、義人たちの群れに加えて下さるよう熱願し、自分の苦難をそのために捧げました。主は天の子の願いを聞き入れ、父上は神を愛し仕えたことの報いを得、アブラハム、イサク、ヤコブと一緒になると伝えました。ヨアキムの死の八日前、神は彼の死の日時を聖マリアに教えました。彼の死は聖マリアの神殿での生活が始まって六か月後でした。この予告を聞き、聖マリアは十二位の天使たちに、父ヨアキムを助けるように頼みました。彼の枕元に立った天使たちは神に願い、姿を現し、彼を慰めました。偉大な首長であるヨアキムは、何千もの天使たちが聖マリアを護っているのを見ました。全能者の命令を受けて、天使たちはヨアキムに言いました、「神の僕よ、最も高く最も強い主があなたの永遠の救いとなり、主があなたの霊魂を救い給わんことを。あなたの娘マリアが私たちを寄こし、死の負い目をあなたの創造主に返すこの時に、あなたを助けるように頼みました。聖マリアは全能者へ最も信仰があり、最も強い取り次ぎ手であります。主はあなたを聖マリアの父にし給うた故、あなたはこの世より平安に旅立つであろう。理解を越える主は、今まで秘密を隠してきましたが、今、あなたが主を讃え、死の苦しみ、悲しみを乗り越えるよう、この秘密を明かします。あなたの娘マリアから神の御言葉が人性をとります。聖マリアは救世主の母となり、あらゆる被造物の中で祝された者となるのです。聖マリアは神の次になります。原罪により人類が失ったものを取り戻します。主が太祖シメオンよりあなたを祝し給わんことを」(詩篇28・5)。聖天使たちが聖ヨアキムに話している時、聖アンナは彼の枕元に立って聞きました。話しが終わると聖なる首長は、話しの喜びと死の痛みの闘いに入り、愛、信、讃嘆、感謝、謙遜などの英雄的諸徳の祈りをして、聖人の貴い死を遂げました。彼の聖なる霊魂は天使たちにより古聖所に運ばれ、主の最後の使節としてそこにいる義人たちに、永遠なる日の夜明けが近いことを告げました。ヨアキムとアンナの娘、至聖なるマリアにより、朝日が世の中の上に昇ったこと、聖マリアが全人類の救い主御独り子キリストを産むという大ニュースを聞いて、義人たちは感激していと高き御方に感謝の歌をたくさん歌いました。私たちの王女の最初の苦労は、主が絶えず与えた幻視の中止でした。聖天使たちも姿を消しました。聖天使は見えなくても聖マリアの周囲で守護していましたが、聖マリアは見棄てられ、暗夜に独りぼっちになったような気になりました。これが聖マリアにとって苦痛の一つになると知らされていませんでした。謙遜と比べ物のない愛で、このことを考えました。自分が忘恩のため、主の幻視を失ったと考える一方、燃える愛をもって祈りました、「いと高き神、全被造物の主、悪い被造物である私は、忘恩と友情喪失の責任を取ります。私を生き生きさせた太陽のかげりは、私が感謝の仕方を知らず、御旨を遂行する方法を知らなかったため起こりました。御身の御手が私を造りました(ヨブ10・8)。御身は私のことをよく御存知です(詩篇03・14)。私の霊魂は苦しみのため、だめになります(詩篇31・11)。御身以外誰もこの衰えていく生命を回復できません。生命が消える時、誰が私を死から護るでしょうか?」 天使たちにも嘆き続けました、「天の王子たちよ、いと高き王の天使たちよ、私の親友よ、どうして私を置いてきぼりにしたのですか? あなたたちに感謝しなかったので、あなたたちと私の創造主に恥をかかせたことを疑いません。どうぞ私の欠点を直し、私の主から御許しを得て下さい。私の愛する御方がどこにおられるか、どうぞ教えて下さい。どこに隠れておられるのか、どうぞ教えて下さい。」 他の被造物全員にも聖マリアは言いました、「恩知らず者の私のことを怒っていますね。汚い私があなた方の中に留まることを主は許して下さいました。天よ、あなたは大変美しく広い。惑星も他の星も美しく輝いています。元素(空気、水、土、金)は強く、地球は香ぐわしい植物で飾られ、水中の魚は無数であり、鳥は速く、鉱物は隠れ、動物はとても強いのです。これらは調和の内に私の愛する御子への道を教えます。しかし、廻り道を教えるのです。被造物の上を速く動き回っても、どこにも主を見つけず、悲しみも苦しみも、喘ぎも減りませんし、私の望みはますます強くなり、私の愛はもっと燃えます。」 悪魔なる龍は、聖マリアの勇気と誠実を知り、神の御助けを感じながらも、私たちの至上の隠れた知恵や賢慮について何も知りませんでした。それにも関わらず、誇り高い龍は神の国を攻撃しました。それはダイヤモンドの城壁を蜂の針が突くようなものでした。私たちの王女はあの強い女でした(蔵言31・11)。彼女の飾りは堅忍でした(蔵言31・25)。置き物は純潔と愛徳でした。汚い高慢な蛇はこの御方に対し、怒り狂い、殺そうとして大軍を率いて死力を尽くして攻めましたが、失敗しました。地獄の攻撃は、他のどんな人間に対するよりも酷いものでした。神は地獄の力やずるさを減らしました。ルシフェルの傲慢さは実力以上です!(イザヤ16・6)。ずるい蛇は、聖マリアの同僚たちの心の中に嫉妬と対抗意識を密かに燃やしました。聖マリアの時間厳守の徳が抜き出ているため、同僚たちは先生から注目されないこと、自分たちの怠慢ぶりがもっと目立つこと、聖マリアがえこひいきされ、自分たちが叱られることを思わせたのです。同僚たちは霊的なことに無頓着でしたので、悪魔の言うままになりました。至純なマリアを毛嫌いし、憎みました。同僚の少女たちは、悪魔に唆されているなど露知らず、悪巧みを立てました。この世の知られざる王女を迫害し、神殿から追い出そうという考えです。彼女たちは聖マリアを取り囲み、ののしりました。聖マリアを偽善者と決めつけ、祭司たちや先生に取り入り、他の少女たちの悪口を告げ口し、一番役立たずだと言って責め立てました。聖マリアは言いました、「私の友だちと女主人であるあなた方のおっしやる通りです。私は皆さんの中で最低で、一番駄目な人間です。私の姉妹である皆さん、私の欠点を許し、色々と教えて下さい。私がもう少し、ましになるように指導して下さい。あなたたちの助けが必要です。私はあまりにも駄目な人間ですが、良くなりたいて心です。何事においても従います。どうぞ言いつけて下さい。」 聖マリアの謙遜で甘美な言葉は、同僚たちの頑固な心を和らげるどころか、少女たちをもっともっと怒らせました。迫害は長いこと続きました。天の貴婦人は謙遜、忍耐、寛容を続けました。悪魔たちは勇気を奮い起こし、少女たちに向こう見ずな考えを起こさせ、この最も謙遜な小羊に暴力を振るい、殺すようにけしかけました。しかし、主はこの涜聖を許しませんでした。少女たちがののしることはお許しになりました。この騒ぎは祭司たちや先生に聞こえませんでしたので、聖マリアは神と人間に対して比べることのできない諸徳を積みました。聖マリアは、悪に対し善を与え、ののしりに対し祝福を返し、涜聖に対し祈り、愛徳と謙遜の英雄的行為をしました(二コリ4・13)。神の律法の最もすぐれたことを遂行したのです。聖マリアは迫害する少女たちのために祈りました。自分がこのような待遇を受けるべき極悪人の立場にまで遜ったことは、天使たちを感嘆させました。全てにおいて、人間の考えやセラフィムの最高の功績を聖マリアは越えたのです。悪魔の唆しに動かされた少女たちは、聖マリアを離れ部屋に連れ込みました。そこでは気兼ねなくいじめることができました。ものすごい侮辱を浴びせ、聖マリアを弱らせ、怒らせ、乱暴しようとしましたが、一時も聖マリアは悪に負けず、不動のまま、偉大な親切と甘美で少女たちに答えました。思い通り行かず、我慢し切れなくなった少女たちは、目茶苦茶に騒ぎ立てたので、神殿中に響き渡りました。祭司たちや先生が駆けつけ、何事か問い質すと、聖マリアは無言でした。少女たちは腹立たしげに言いました、「ナザレトのマリアが騒ぎを起こし、嫌らしい振る舞いで私たちに喧嘩を売ったのです。祭司方のおられない時、私たちをイライラさせ、怒らせたので、彼女がこの神殿にいる限り、おちおち生活できません。優しくすればつけあがるし、注意すれば私たちの足下に平伏して見せかけの謙遜を示して私たちをからかうのです。そして喧嘩を仕掛け、皆をめちゃめちやにするのです。」 祭司方と先生は、地上の女主人を他の部屋に連れて行き、厳しく叱りつけました。他の少女たちの訴えを本気にし、神殿に住む者として行ないを改めるよう勧め、もし改めないなら神殿から迫い出すと脅しました。この脅迫は一番手厳しい罰です。何の責任もないのですから、もっとひどいです。私たちの女王は、最も甘美なる無邪気と謙遜の気持ちで従いました。先生と祭司たちから放免されるやいなや、聖マリアは少女たちの所に戻り、平伏し、許しを願いました。聖マリアが涙を流すのを見て、祭司たちや先生に叱られたのだと考え、少女たちは親切にしてあげました。この騒ぎを企んだ龍は、不注意な少女たちをもっと思い上がらせたのです。少女たちは祭司たちを丸めこんだので、至純なる乙女の御名を辱めようともっと頑張りました。新しい告訴や嘘を少女たちにでっち上げさせました。いと高き御方は、御独り子の至聖なる御母に対して大変失礼になることを許可しませんでしたから、少女たちはとても小さな欠点を空想し、誇張し、告げ口をしました。しかも、ねちねちやりました。このようなことで、私たちの最も謙遜な貴婦人マリアは徳を積みました。この息を止めるような火煙の迫害の中で、聖マリアは謙遜の灰の中から何度も自身を更新しました。悪魔の罠にはまった少女たちの盲目的嫉妬が止みそうになった時、主は眠っている祭司に話しました、「私の婢、聖マリアは私の眼に叶う、完全な選ばれた者である。告訴された全てにおいて全く無罪である。」 同じ啓示がアンナ先生にも与えられました。翌朝、祭司と先生はお互いが受けた啓示について相談し合い、確信し、騙されたことを後悔し、王女マリアを呼び、間違った報告を信用したことへの許しを乞い、迫害と苦痛から聖マリアを護るため、改善をはかると申し出ました。聖マリアは答えました、「先生方、私は叱責に値します。叱責は私にとり一番必要ですから、取り止めないようお願いします。少女たちとの関わり合いは、私にとり一番高い賞品です。感謝のため、私はあの人たちにもっと忠実に仕えたいと思います。しかし、あなたの意志に従います。」 祭司と先生は喜び、聖マリアの遜った願いを聞き入れ、新しい敬畏と愛情をもって聖マリアを注目するようになりました。習慣により祭司と先生の手に接吻したあと、引き下がる許しを頂きました。祭司と先生がよく見張るようになると、聖マリアは少女たちからいじめられなくなり、困難という宝を失うことになると心配でした。しかし、違う困難がありました主は聖マリアから約十年間隠れました。この間、二、三回、主が御顔を見せましたが、また以前のような恩恵は少なくなりました。聖マリアがいと高き御方の威厳に値するまで修業しなければなりませんでした。この本の第十四章に述べるように、聖マリアが主の幻視をいつも見せて頂いたならば、人間としての苦労はなくなったでしょう。この期間、主と天使が見えず、聞かれず、恩寵が以前よりも減ったようでしたが、この恩寵は全聖人が受けた恩寵よりも多く、聖マリアの霊魂を幸せにしました。十二歳になった時、天使の声が聞こえてきました、「聖マリア、汝の聖なる母アンナの生涯が今終わろうとしています。王なる神は聖アンナを朽ちるべき体から引き離し、今までの労苦を完成するでしょう。」 この思いがけない知らせを聞いて、聖マリアは平伏し、熱心に祈りました、「あらゆる時代の王、見えない永遠の主、不死・全能なる宇宙の創造主、塵と灰に過ぎない私は、有り余る御恵みを受けておりますが、またもや私のお願いをお聞き届けて下さいますように。ああ、主よ、御身の尊き御名を絶えず口にした御身の婢を平和に逝かせて下さい。私の母が敵の攻撃に勝ち、御身の選民のための門を通れますように。この世において母を護って下さった御手が、母を御身の恩寵の平和の中に迎え入れて下さい。」 その晩、主は守護の天使たちに命じ、聖マリアを御母の病床に運ばせました。聖マリアは御母の手に接吻して言いました、「私の母上、いと高き御方により母上が元気づけられ、照らされますように。母上が私に最後の祝福をして下さるので、私は大変幸せです。」聖アンナは聖マリアを祝福し、娘である至聖なるマリアの腕に抱かれ、帰天しました。聖マリアは天使たちに運ばれ、神殿に戻り、悲しみと淋しさの中で神を誉め讃えました。神の幻視の日が近づいてくるように聖マリアは思いました。見えない火に焼かれましたが、ただ照らされているだけでした。天使たちに尋ねました、「私の友だち、教えて下さい。今、夜の何時ですか? 全てを照らし、生かす正義の太陽はいつ上りますか?」 天使は答えました、「いと高き御方の浄配、汝の望む光と真理は近くに来ています。」 この時、天使たちの姿が見えました。以前のように視覚に頼らず見えます。天使たちは聖マリアに光を当てました。光は以前、仕事や不安で興奮していた聖マリアの心を鎮めるためでした。新しい恩恵により、この天の元后の能力は更に高められました。その時、神は御姿を現しました。このイメージは直感的ではなく抽象的で鮮明でした。聖マリアは愛すべき御方の腕に抱かれ(雅歌8・5)、高みを目指す鷲が元気を得たように、神の侵すべからざる神の領域に飛び立ち、全人類の到達し得ない高見に達しました。この幻視により、聖マリアは神の奥義を知り、神に告白し、神を礼拝しました。神を知れば知るほど、聖マリアはもっと謙遜になりました。 

15・聖ヨゼフとの素晴らしい婚約

神が聖マリアに現れ、聖ヨゼフと結婚するように言われた時、終生乙女の誓願を何回も繰り返していた聖マリアにとって意外中の意外でしたが、自分の判断を棄てました。望みのない時に望み(ロマ4・18)、主に答えました、「永遠の神、理解を越える王、天地の創造主、風も海も全ての被造物を支配する主よ、あなたの卑しい婢をお使い下さい。私にはあなたに従う義務しかありません。御旨ならば、結婚という苦境から解放して下さい。」この答えには少しの気がかりがうかがえますが、聖アブラハムが神により、息子イサクをいけにえにするようにと言われた時、聖アブラハムが示したためらいよりはずっとましです。聖マリアは悲しみましたが、もっとも英雄的従順を発揮しました。自己を放棄し、主に委せました。王なる主は答えられました、「マリアよ、心配するな。自己放棄したあなたを引き受けよう。私の力は律法に縛られない。あなたにとり最善のことを私は行なう。」聖マリアは神の命令に従う気持ちで一杯でした。愛、確信、信仰、謙遜、従順、純潔、その他数え切れない諸徳はますます増えました。そうしているうちに神は、祭司長聖シメオンの夢の中に現れ。ナザレトのヨアキムとアンナの娘、聖マリアの婚姻を準備するように言いました。聖なる祭司は、どなたが聖マリアの夫になりますかと尋ねました。主は、他の祭司たちや学者たちに説明するようにと答えました。つまり、この乙女は今、孤児になっており、今まで結婚しないつもりでいたが、長女は結婚するまで神殿にいるのが習慣であるから、この乙女も適当な人と結婚すべきであると。最も思慮深く謙遜な聖マリアは祭司に申し上げました、「私の気持ちだけ申し上げるなら、神に御恩を返すため、生涯この神殿で私を捧げたいと思いました。結婚のことは夢にも考えませんでした。私の御主人様、あなたは神の代理者でいらっしやいます。どうぞ神の御旨をお聞かせ下さい。」 祭司は答えました、「私の娘よ、あなたの聖なる願いは主のお喜びになるところである。しかし、救世主来臨の預言がある以上、イスラエルのあらゆる娘たちは結婚しなければならない。私の国民の中で子供を産む全ての者たちは幸せであり祝福されている。婚姻においあなたは神に本当に仕えるのである。あなたの希望を叶える将来の夫は、神のお喜びになる人であり、ダビデ家の血統を引かなければならないあなたも我々も、あなたの夫が見つかるように祈ろう。」その後九日間、聖マリアは泣きどうし、祈りどうしで、主の御旨が成就されることだけしか頭にありませんでした。主は聖マリアに現れ言われました、「私の浄配、私の鳩よ、あなた心を騒がせないように。私はあなたの心からの望みの面倒を見よう。祭司にも知らせよう。あなたの聖なる希望に添い、あなたが繁栄すべき夫を私の僕たちの中から選ぼう。我々はあなたをいつもどこでも保護しよう。」至聖なるマリアは答えました、「私の霊魂の最高善と愛の御方、あなたは私の誕生の時から私の胸に与えた希望を御存知です。私があなたのためあなたにより願います。私の主、私の神よ、私は役立たずの小さな婢です。弱くて嫌悪すべき者です。もしも私が婚姻にける徳からはずれると、あなたと私自身をがっかりさせることになります。私を護り、私の不徳を大目に見て下さい。私は無用の塵です(創世18・27)があなたの偉大さに頼り、あなたの限りない慈悲を信頼します。」私たちの王女マリアが十五歳になった時、ユダ族でダビデ家の血統にあたる男たちでエルサレムにいた者たちは神殿に集合しました。女王もダビデ家の子孫でした。ナザレト出身のヨゼフも神殿に集まった男たちの一人でした。三十三歳で男前も良く、快活で謙遜、重厚さがありました。考えも行動も大変貞潔であり、あらゆる点で聖人でした。十二歳の時から純潔の誓願を始めました。神殿に集まった独身者全員は、祭司たちと共に聖霊の御導きを祈願しました。いと高き御方の御声に従い、祭司長は一人一人の手に乾いた杖を置き、聖マリアの配偶者に選ばれるよう、王なる神に願うよう申し渡しました。聖マリアの聖徳と高貴の香り、美しさ、謙遜などは全員に知れ渡っており全員心から憧れました。ただ一人、謙遜実直なヨゼフはそのような祝福を受けるに値しないと考え、自分の純潔の誓願を思い出し、全てを神の御旨に委せ、同時に、最も高貴なマリアを崇めることにおいて誰にも負けませんでした。皆が祈りに耽っていると、ヨゼフの手中にある棒から芽が出て、真っ白で輝く鳩が降りてきて聖ヨゼフの頭にとまりました。神が彼の心の中に語りました、「ヨゼフ、私の僕よ、マリアをあなたの妻とすべし、マリアを尊敬して受人れ、何事もマリアの言う通りにしなさい。」天のこの印を見て、祭司たちは聖ヨゼフが乙女マリアの夫として神から選ばれたと宣言しました。呼び出され、聖マリアは皆の前に現れました。天使たちよりも美しく、高貴と優雅に溢れていました。祭司たちは婚姻の式を執り行いました。天の王女は天空の星よりも清く、涙を流し、悲しそうでしたが、女王としての威厳があり、最も謙遜でした。祭司たち、先生や少女たちの祝福を受け、赦しを乞いました。神殿生活の間に親切にして下さったことを感謝しました。短い重みのある言葉でした。こうして神殿を立ち去ることは聖マリアにとって悲しいことでした。神殿奉仕者の代表たちと一緒に、夫の聖ヨゼフに付き添い、ナザレトに行くことになりました ナザレトに着き、天の王女は両親の残した財産や不動産を相続し、両人の友だちや親戚から歓迎されました。この聖なる二人は人々から解放され、二人きりになり、しきたりに従い、二、三日の間、お互いをよく知り、お互いを助けるよう相談しました。聖ヨゼフは聖マリアに言いました、「私の妻、貴婦人よ、私はあなたのそばにいるに値しませんが、主が私にあなたの夫とする恩恵を下さいました。主の恩恵に報いるため、私を助けて下さい。あなたの僕として私を側に置いて下さい。私の本当の愛情によりお願いします。私の欠点を補い、私が身の周りの世話をしてあなたを喜ばせられますように。」 天の妻は傾聴し、すがすがしい面持ちで答えました、「私の御主人様、いと高き御方があなたを私の夫に選び、私があなたに仕えるべしという御旨を知らせて下さったので幸せです。」けだかいマリアの言葉を聞き、聖ヨゼフは神の愛をますます燃やして言いました、「何でもおっしやって下さい。あなたの僕はお言葉を待っています。」 この時、千位の天使たちが聖マリアを守護していました。しかし、聖マリアにしか見えませんでした。男の人と二人きりでいるというのは、祭司長と偶然に一緒だった以外、今までなかったので、聖マリアには恥じらいと怖さが当然ありました。天使たちに取り囲まれ、聖マリアは言いました、「私の御主人様、神なる創造主を誉め奉ることは正しいことです。神の善は無限で、神の審判は悟り得ません。哀れな私たちに対し、神は偉大さと慈悲をお示しになり、私たちを召し使いとして選んで下さいました。全被造物の中で一番、全被造物 の頂いたもの全部よりももっと私に下さいました。私には受ける資格がありませんから、私の贈り物は全被造物への贈り物よりも多いのです。幼い時、このことやこの世の物のごまかしを神から教えて頂き、私の霊魂と身体の童貞の終生誓願をたて、私自身を神に捧げました。私は神のもの、神は私の浄配で主です。御主人様、私は生きている限りあなたの召し使いです。どうぞ私の誓願を全うできるようお願い申し上げます。私の決心を認め、あなたも同じ決心をされ、お互いを私たちの永遠なる神にいけにえとして捧げましょう。」  最も貞潔な夫、聖ヨゼフは心から喜び、聖マリアに答えました、「私の女主人様、あなたのお言葉で私は深く感動しました。私の考えを初めて打ち明けます。私も他の男たちよりもっと主の御恩を頂きました。主は、私が実直な心で主を愛するよう啓示されました。十二歳の時、私は終生童貞でいと高き御方に仕えるという約束をしました。あなたの誓願を助けるために、私の誓いを新たにします。あなたが心から主に仕え、主を愛するのをお手伝いいたします。主の恩寵により、私はあなたの最も忠実な召し使いになります。あなたが私の童貞としての愛を受人れ、私をあなたの兄と思うようにお願いします。神が第一で、その次が私です。」神は聖ヨゼフの純潔の徳を更新しました。聖マリアは自分の賢慮に従い、聖ヨゼフの心を更に豊かにしました。至聖・至純なるこの夫婦の喜びは何も比べるものがありません。聖ヨゼフの心には肉欲的欲望の一かけらもなく、妻の聖マリアに仕えることだけしかありませんでした。二人は聖マリアの両親から相続した遺産を三分し、神殿と貧者に寄付した後、残ったものを生活にあて、聖ヨゼフが管理しました。私たちの女王は聖ヨゼフに仕え、家事に従事しました。聖ヨゼフは大工で貧乏でした。同じ職業を続けて生計を立て、貧乏な人たちに施しをしてもよいかどうか聖マリアに尋ねたところ、承諾してもらいました。二人はお互いを主人にする競争を始めましたが、聖マリアが勝ちました。男が一家の主(あるじ)ですから、聖マリアは全てにおいて聖ヨゼフに伺いを立てました。貧者に施し物をするのも、まず聖ヨゼフに許可を請いました。聖ヨゼフは喜んで承知しました。聖ヨゼフは、聖マリアの賢盧、謙遜、清純、その他の諸徳が自分の予想以上に素晴らしいことを知り、いつも感嘆し、聖マリアのそばにいる光栄を神に感謝しました。聖マリアは神と密接に交流していますから、お顔の輝きはシナイ山で神に会ったモーゼの顔の輝き(出エジプト24・30)よりももっと素晴らしく、もっと威厳に満ちています。

元后の御言葉 私の娘よ、神に信仰と希望を持つものは不可能がありません。私は夫の家に住みながら、神殿にいるのと同じように完徳を実行しました。夫の世話をしても、神への奉仕を怠らないよう神に頼みました。神は私の願いを聞き届けられました。結婚している人全員に神は恩寵を下さいます。虚栄心や不要な心配をし、主の甘美さを忘れ、我意を通そうとする気持ちが完徳に進むのを妨げます。 

16・御託身前のノベナ

隣近所の人たちには聖ヨゼフが会っていましたから、聖マリアを知る人は少なく、その中でも少数の人たちが聖マリアと話しました。聖マリアと話せた幸せな人々は、聖マリアの神々しさに満たされ、聖マリアから来る光が自分たちを照らすことを表現しようとしました。聖マリアはそのことに気づいており、そのような光を照らさないように主に願いました。人々から忘れられ、蔑まれることを願いました。結婚してから御言葉の御受肉までの六か月間と十七日の間、聖マリアの愛徳、謙遜と信心や施しの忙しい生活は、いと高き御方の御目に叶ったのです。人間の言葉で表現すると、神は大喜びで、聖マリアに駆け寄り、両手を差し出し、世界開びゃく以来の最大の奇蹟を行なうことになります。すなわち、御父の御独り子がこの婦人の汚れなき胎の中で受肉されるという奇蹟です。そのため、その前九日間、神は聖マリアに準備させました。神の川が激流となってこの神の国の中に流れ込みました。私はこの奇蹟を目のあたりにして、人間には到底書き表せないと考えます。この聖なる第一日目、天の王女マリアは少し休んだあと真夜中に起き、いと高き御方の御前に平伏し、定められた祈りを唱えました。この幻視で王女マリアは神の秘密、特に創造の秘密を習いました。天地が神の善と寛大さの御陰で造られたが、神を補足しないこと、神は天地創造の前、永遠から永遠に栄えていることを知りました。たくさんの秘密が私たちの女王に明かされましたが、我々は知り得ないことです。女王はあらゆる自然(空気、水、土、金属)がその中心に引きつけられるという衝撃を感じていました。神の愛の中に引き込まれながら、御独り子をこの世に送り、人類を救って下さるように熱願しました。この熱願は神と聖マリアを結ぶ真紅のレースとなりました。御独り子が宿る神殿を準備するため、全能者の全ての御業について、この選ばれた御母に教えました第一日目は、創世記に記された第一日目の創造について教えました。目撃以上に明瞭に聖マリアは理解したのです。主が天空と地球を最初に造られ、どれだけ離れているか、どれだけの空間があるか、奈落の表面を暗黒がどのように覆っているか、主が水の上へ来られたり、光が造られ、暗黒が分けられ、夜と呼ばれ、第一日目が終わった様子が聖マリアに示されました。聖マリアは地球の大きさ、経度、緯度、深度、穴、地獄、リンボ(古聖所)、煉獄、それぞれの場所の住人たち、諸国、気候、世界の分割、諸国の住民たちを知ったのです。同じ明瞭さで聖マリアは、下の天、高い天、天使たちが第一日目に造られたこと、天使たちの性質、状態、多様性、階級、義務、能力や徳も知りました。悪天使たち、彼らの墜落、その状況と原因について聖マリアは知りましたが、自分のことは何も知らされませんでした。第一日目の最後に主は、聖マリアも地球の土から造られ、土に戻る人たちと同じ性質があることを教えましたが、聖マリアが土に戻るとは言いませんでした。この深遠な知識を与えられ、無の深い底にまで聖マリアは自分を低め、あらゆる惨めさを背負うアダムの子孫たちよりももっと自分を低めました。聖マリアの心の中に深い溝ができ、この溝が建物の基礎になるのです。この建物は神性が人性に降臨する所になります。神の母の威厳が限りないので、聖マリアの謙遜も相応して限りないことになります。徳の頂上に達しながらも、聖マリアは自分をそれほど遜らせたので、主はお喜びになり、おっしやいました、「我が浄配なる鳩よ、人類を罪より救うという我が希望は強い。我が救済の降臨の時は待ち遠しい。この希望の成就のため、絶えず我に祈れ平伏し、汝の熱願を中止するな。御父の御独り子の御受肉を我に願え。」天の王女は答えました、「主、永遠の神、御身の力と知恵に適う者は誰もいません(エステル13・9)。ああ、私の愛する御方、御身の測るべからざる恩恵が全人類に下ることを、もしも私が邪魔するようであれば、私を亡ぼして下さい。御身の祝福は人間の功徳のためではありません。人類の罪は増え、人類は御身にますます反抗しています。私たちは恵みを頂く資格がありません。御身の無限の慈悲だけが恵みのもとになります。預言者、祖先たちや諸聖人が嘆き、罪人たち全員が叫びます。私は塵で恩知らずですが、御身に心の底からお願いします。速く御身の救世がなされ、御身の光栄になりますように。」 この祈りの後、天の王女は自然の状態に戻り、一日中、同じ嘆願を続けました。地に平伏し、十字架の形をとる日課を繰り返しました。この姿勢は聖霊から教わったのです。第二日目、真夜中、聖マリアは神に会いました。幻視により神は御自身を示し、創造第二日目の様子を見せました。どのようにして水が分かれ、大空ができ、その上に天の水と呼ばれる水晶ができたかを聖マリアは見ました。たちまち神の最も透き通った光が聖マリアを満たし、神の善と力を讃嘆するように心を燃やしました。神のような素晴らしさに変容し、諸徳を英雄的に実行したので、神は聖マリアを全能の業に参加させ、天、惑星や自然を従わせる力を聖マリアに与えました第三日目、聖マリアは創造第三日目の様子を勉強しました。天の下に水があり、一か所に流れ集まり、乾いた土地が出てきました。地が新鮮な薬草や果物の木を種子から産み出しました。海の広さ、深さや流れも聖マリアは理解しました。どのようにしてこれら全てが人間の役に立つかも判りました。聖マリアの理解はアダムやソロモンの理解よりももっと明瞭です。医学の最高専門家も、聖マリアと比べると無知に等しいのです。至聖なるマリアは、見えないもの全てを知ったからです(智恵7・21)。第三日目に聖マリアは、神が人類を助けて悲惨な状態から救い出すために来たいということを知りました。その目的のため、神は神自身の属性の、ある種のものを聖マリアに与えました。この属性により、将来聖マリアが御母として罪人の弁護者として神に取り次ぐことになります。神の愛に参加することは、聖マリアの希望でありますが、この希望があまりにも強力なので、聖マリアには神の御助けなくしては耐えきれなかったでしょう。この愛のため、聖マリアは自分自身を焼き殺されたり、切り殺されたり、拷問のために殺されたり、何回も何回も苦しみ殺されたいと思いました。このような恐ろしい殺され方は、聖マリアが罪人の身代わりになるためでした。そのような死は、人類が始まって以来の苦しみに比べれば、取るに足りないと聖マリアは考えたのです。この日から聖マリアは、親切と慈悲の御母になりました。人類に御自分の恩寵を分け与え、御独り子の御母に将来なるため、聖マリアは全身全霊で慈悲、親切、敬虔と寛容になったことを特筆しておきます。類は類を呼ぶというように、この御母にしてこの御子ありと言えます。御母の人性は御子に受け継がれました。この日の幻視により、いと高き御方は救世主が設立する恩寵の法律、恩寵の秘蹟、そのための新しい教会、人類への賜物と全ての人間が救われて欲しいという希望を聖マリアに伝えました。このことは聖マリアの深遠広大な勉強となり、詳述すれば何冊かの本になるでしょう。聖マリアはいと高き御方が全人類に恩寵の宝を与え、全人類が永遠に恩寵にあずかるように望んでおられることを知りました。反面、人々が盲目になり、神性にあずかるのをやめ、地獄に落ちるのを見ました。誰も地獄に落ちないように、聖マリアは祈願、犠牲、謙遜、愛徳を英雄的に実行しました。第四日目、天の王女は、太陽と月が昼と夜を分け、季節、月日、年数を示すことを知りました。第八天の星は夜を照らし、昼夜に影響を及ぼすことを見ました。輝く天体の実体、形、大きさ、性状、運行や惑星の類似と相違、星の数、星が地上の生物や無生物に与える影響も全部知りました。第五日目、以前と同様、神の神秘のべルは次々と落ち、聖マリアは新しい秘密を発見しました。聖寵のもっと強い光が聖マリアの霊魂に入り、この天の聖マリアを、もっともっと神の似姿らしくしました。この日、罪人たちが永遠の御言葉の御来臨を遅らせていることを知り、王なる主に言いました、「私の主、無限の神、人間の悪業は測り知れないことを私に教えて下さいましたこの人たちは御身の宝と愛を棄てることができますか? いいえ、人間の悪意は御身の慈悲をコントロールできません。天地は消えても御身の御言葉は存続します(イザヤ51・6)。預言者を通して御身は救世主を送るという約束を何回もされました。御身の約束が成就するように、私も誰も何もできません。御身だけが約束を実行できます御身が人となられるのも御身次第です。人類創造の理由も御身だけが知っています。私たちには罪の贖いをする資格も功徳も全くありません。」 いと高き御方は答えられました、「その通りである。私が人となり、人と共に住むという約束は私の善意から出た。どの人間の功徳によるものでもない。しかし、人々の忘恩はあまりにも酷いので、約束は反古になってしまった。」 聖マリアは、全人類の過去、現在、未来にわたる所業と各人の最後を神から見せて頂きました。とても堪えられない幻視でしたが、神の永遠の愛に参加し、取り次ぎを続けました。「主、永遠なる神、私は御身の正義を宣言し、御業を讃えます。私が御身の人々への賜物と、人々の御身に対する忘恩を見る時、私の胸がつぶれそうになります。御身は全員が永遠の生命を得ることを望むのに、少数の者たちしか、推定できないほどの恩恵に感謝せず、大勢が悪意により亡びます。御身は人々の罪や悪意を予見したように、御独り子が無限の価値の業をなすことを最初から御存知です。御子の御業は罪よりもはるかに強力です。」神は聖マリアの謙遜な愛すべき熱願に感動し、答えられました、「私の最も愛すべき浄配、選ばれた鳩よ、汝の願うことは大きい。汝へ与えられた祝福がこれらの不適格者たちに与えられるべきか?私の友よ、悪者たちが当然の報いを受けることは私に委せなさい。」 私たちの強力で親切な弁護者は返答しました、「いいえ、私の主、私は引き下がりません。御身は慈悲深く、力強く、約束を違えません。私の祖先ダビデは御身について言いました、『主は誓った、そして後悔しない。御身はメルキゼデクのような永遠の祭司です』(詩篇10・4)。その祭司が来ますように、そして私たちを助けるため犠牲となりますように。御身は約束を後悔しません、約束する時、全てを御存知ですから。」この討論の時、私たちの女王は何という名前かと尋ねられました。聖マリアは言いました、「私はアダムの娘です。そこらの塵から御手により造られました。」 いと高き御方は答えられました、「これより汝は『御独り子の御母に選ばれた』と呼ばれるであろう。」 しかし、『選ばれた』というところしか聖マリアの耳に入りませんでした。神が人となる永遠の御言葉を送るという明瞭な約束は、聖マリアに伝えました。この約束を聞き、大喜びした聖マリアは、いと高き御方の祝福を願い頂きました。ヤコブが神と討論して勝った時よりも、もっと大きな勝利を聖マリアは獲得しました。神は聖マリアを愛するため、御胎内に入り、人間の弱さを身につけることになるのです。御自分の死により私たちに生命を与えるため、神性を変装で隠されたのです。人間が救われたのは、第一は聖マリアの御子のお陰、第二は聖マリアのお陰です。この幻視の時、私たちの偉大なる女王は創造の第五日目を見ました。天の下に水が造られ、地上には不完全な戻虫類が這いずり、翼のついた動物が飛び、ひれのある動物が水中をすいすいと泳いでいるのを見ました。あらゆる動物の起源、格好、生活状態、習性なども見て、諸動物がどのような目的を持ち、生を終えるかも判りました。王なる神は、聖マリアに全動物を支配する権力を与えました。この幻視の後すぐに創造の第六日目を聖マリアは見ました。地から動物が産まれ出てきました。魚や鳥よりももっと完全な動物で、重要な特性に従って名前がつきました。ある動物たちは家畜となり、他は野生のままでした。全ての動物に対する支配権を聖マリアは頂きました。理性のない被造物の創造を見た後、聖マリアは、「我々の姿に似せて人間を造ろう」(創世I・26)と神がおっしやって、土から私たちの最初の親を造った様子を知りました。人間の身体と霊魂や諸機能の調和、霊魂の創造と人体内への注入と両者の密接な結合が判りました。人体の諸部分、例えば 骨、静脈、動脈、神経や関節の数、食物の機能、成長や動作も理解し、調和の崩れが病気を起こすことと病気の治し方も習いました。全てこれらを少しの誤りもなく理解したのは、世界の諸専門家より以上で、天使たちさえも及ばないほどです。主は最初の両親アダムとエワの最初の正義にける幸福な状態を聖マリアに示しました。二人がずるい蛇によってどのように誘惑されたか創世3・1も判りました。二人の罪の結果がどうであったか、人類に対する悪魔の憎悪はどれほど激しいかも知りました。恩知らずの人祖アダムとエワの娘として自分が産まれたことも判りました。原罪を自分の責任と考え、泣きました。この涙は主の御目に大変貴重ですし、私たちの救いを確かなものにしましたから、原罪は幸せな過失といえるかもしれません。聖マリアの準備の第七日目、天の王女は天使たちにより最高天に運ばれました。そこで玉座から声がかかりました、「我らの浄配、選ばれた鳩、何千人もの人たちの間から選ばれた我らの花嫁として汝を新たに迎えたい。我らの計画にふさわしい者として汝を飾り、美しくしたい。」謙遜な者たちの中で最も謙遜な者である聖マリアは、いと高き御方の御前で人間にはとても考えられないほど自分を無にしました、「ああ、主よ、御身の足下に、塵であり、御身の卑しい婢は御身に捧げられました。ああ、永遠なる善よ、御身のこの取るに足りない器を御旨のままにお使い下さい。」 いと高き御方に命ぜられるままに、二位のセラフィムがこの天の乙女にはべっています。他の天使たちと一緒に見える姿となっています。聖マリアは天使たちよりももっと神の愛に燃えています。聖マリアの優しい愛と望みに感動した神は、聖マリアの純潔な胎に入り、五千年間以上も延期された救いを成就すると宣言しそうになりましたが、御告げはもう少しの準備がなされた後に執り行われます。その準備は、天の王女が受肉される御言葉の御母であると同時に、御言葉の御来臨のための最も強い仲介者となり、エステルがイスラエルの救い手であった(エステル7・8)以上に人間の救い手となるための準備です。いと高き御方は御自身の傑作である聖マリアを見て有頂天になったかのようにおっしやいます。「私の浄配、私の最も完全で最も愛らしい鳩、我らの所に来なさい。汝は人間から産まれたから私は人間を創造したことを喜びとする。汝を我が浄配、全被造物の女王として選んだ理由が天使たちも良く判るであろう。我が独り子の光栄の母体となる我が花嫁が私の喜びであることを良く判るであろう。地球の最初の女王エワを不従順の理由で私が罰したのと反対に、至純な謙遜と自己卑下の聖マリアに最高の威厳を与えることも良く判るであろう。」 至聖なるマリアの準備の最終段階は、新しい性質、習慣と品格に於て、神の生ける姿に近くし、永遠なる御父と本質的に同じ永遠なる御言葉が入る鋳型となるためです。従って、至聖なるマリアという神殿はソロモンの神殿よりももっと美しく、純金で覆われ、神からのものに輝いています。御子の御母は可能な限り御父に似ています。私が全く驚嘆するのは、この天の御方の謙遜であり、この謙遜と神の御力の間の競争です。聖マリアは、神によりますます高く揚げられ、神の次の高みに達すると、自分をますます卑下し、最も下級の被造物の下に自分を置きます。全能者が聖マリアの謙遜に注目し(ルカ1・48)、全人類が「めでたし聖マリア」を唱えるべきです。

元后の御言葉  私の娘よ、わがままで奴隷根性の愛しかない人たちは、いと高き御方の浄配になる価値がありません。給料のために働くものではありません。汝の浄配なる神はどんなに気前よいかを考えなさい。神に仕える人々の役に立つため、神は色々なものを創造しました。神の偉大なる甘美さのために、たくさんの宝物を用意していることを考えなさい。神の全ての宝を一人一人に用意してあるのです(詩篇31・20)。人々が神の愛に注目しないのは弁解できませんし、人々の忘恩も許されません。私の親愛なる者よ、汝は主の所帯の一員であり、キリストの浄配です。汝の花婿の全ての財宝は汝のものです。主が全ての恩恵を汝だけのため、取っておいたのです。汝自身のため、汝の隣人のために主を愛し、敬いなさい。全能者が私に下さった驚くべき恩恵を思い、主を誉め奉って下さい。

17・神の御子の受肉

聖マリアの準備が整い、救いの時が来たことを王なる主が全天使に宣言した時、全天使は新しい讃美歌、シオンの聖歌を繰り返し歌いました、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神(イザヤ6・3)。いと高き所に在します我らの神なる主、御身は正しく、力あり(詩篇13・5)。地上の卑しき者たちを顧み給えり。御身の御業は誉むべきかな。御身の御旨は高遠なり。」 最高位天使ガブリルは神命を拝し、見える姿になった最も美しい何千もの天使たちと共に最高天より舞い降りました。天使たちは最もハンサムな若人たちでした。聖ガブリルは輝き、重厚で威厳があり、動作が優雅で力のこもった話し方をし、他の天使たちよりももっと神々しく見えます。彼は輝く王冠をかぶり、色とりどりに輝く着物を着て胸にはきれいな十字架があります。この十字架は御受肉の神秘を示します。天使たちはガリラヤの町ナザレトにある至聖なるマリアの家に向かって飛びます。この粗末な小屋には聖マリアの小さな部屋があり、家具が見えません天の王女はこの時十四歳でした。九月八日の誕生日から六ヶ月と十七日が過ぎていました。天の元后の御体は均整がよくとれており、同年の少女より背が高く、極めて優雅で全身完全です。御顔は少し面長で痩せてもいず、粗野もなく、きれいな肌で少し褐色がかっており、広い対照的な額があり、眉毛は完全な弓なりで、御目は大きく真剣で、筆舌を絶する美しさと鳩のような甘美さがあり、御鼻は真っ直ぐで上品であり、御口は小さく、薄くもなく厚くもありません。どのような人よりも美しいです。聖マリアに会うと、喜び、真剣さ、愛、畏敬を感じます。聖マリアの着物は粗末で貧弱ですが、清潔で灰色がかっています。天の使いたちが近づきつつある時、聖マリアは九日間の啓示について深く黙想していました。主は、御独り子がもうじき天より降り、人間となることを聖マリアに請け合いました。その成就を心から願うこの偉大なる元后は、謙遜な愛を持って独り言を言いました、「永遠なる御父の御言葉が産まれ、人間と話すその時が本当に来たのでしょうか? 世の中にその御方がいて、御姿が見られるのでしょうか?(イザヤ40・5)。暗黒に住む者たちを照らすのでしょうか?(イザヤ9・I)。ああ、誰がその御方に会う価値があるでしょうか! 御足が踏まれた地面を誰が接吻することを許されるでしょうか」 「喜べ、諸天よ。慰めよ、地よ(詩篇9611)。その御方を崇めよ。その御方の幸福は近い。ああ、罪に汚れたアダムの子孫よ、汝らは我が愛する者の被造物なり。頭を上げ、昔の奴隷の軌を投げ棄よ!(イザヤ14・125)。古聖所に抑留され、アブラハムの胸の中で待っている祖先、預言者や義人よ、汝らは慰められるであろう(シラ2・8)待ちに待った救世主は、もはやぐずぐずしておられないであろう!皆で主を讃え歌おう!この御方が自分の御母と指さす女の方の奴隷に誰がなるであろうか?(イザヤ7・4)。ああ、エマニュエル、真の神にして真の人! ああ、閉められた天の扉を開けるダビデの鍵!(イザヤ22・22)。ああ、永遠の智恵、新たなる教会の律法者! ああ、主よ、来たり給え。御身の民の捕囚を終わらせ給え。全人類に御身の救いを示し給わんことを!」(イザヤ40・5)。黙想に耽る聖マリアの部屋に人の姿をした天使たちが入りました。木曜日の夕方でした。謙遜な王女は、聖ガブリエルの見分けがつきましたが、伏し目にしました。聖なる天使は自分の女王に対し、深く御辞儀をしました。アブラハムが天使にお辞儀したように、人間が天使に礼を尽くすという昔からの習慣がこの日から変わったのです。御言葉の人性により、人性が神の威厳にまで引き上げられたので、人間は養子の地位をもらい、天使たちの兄弟となりました。天使が福音史家聖ヨハネにより崇められるのを拒否したのです(黙示19・10)。聖なる大天使は挨拶しました、「めでたし聖寵充ち満てるマリア、主は御身と共に在します。身は女の内にて祝せられ給う」(ルカ1・28)。この挨拶を聞いて聖マリアは当惑しましたが、混乱していませんでした(ルカ1・29)。当惑は、自分が最も卑しい者と思っていたのでこのような礼辞を考えていなかったことと、どのように応対してよいか考え始めたからです。その時、神が神の御母として聖マリアを選んだことを聖マリアの心の中に話されたので、ますます驚いたのです。天使は主の宣言を説明します、「恵まれた方、恐れるな。御身は主の恩寵を得た(ルカ1・30)。見よ、御独り子を懐胎し、出産し、イエズスと名付くべし。御子は偉大にして、いと高き御方の御子と呼ばれるべし。」 この新しい未聞の秘儀の真の価値を理解できる方は、私たちの思慮深く謙遜な女王以外にはいません。聖マリアがこの秘儀の偉大さを実感すればするほど、もっと讃嘆の気持ちが起きました。聖マリアは自分の謙遜な心を主に挙げ、教えと助けを願いました。いつもの恩恵や内的高揚は中止されたので、普通の人間と同じように、信望愛をもってあたるしかありませんでした。聖マリアは聖ガブリエルに答えて言いました、「私はどのようにして妊娠するのでしょうか? 私は男を知りませんし、知ることができません。」 この時、聖マリアは乙女の誓願を結婚前にも結婚後にも主に対して行ない、主に祝福されたことを無言で主に話しました。聖ガブリエルは答えました(ルカ1・35)。「私の女主人様、男の協力なしに御身を妊娠させることは、神にとって容易なことです。聖霊が御身の上に留まり、いと高き御方の力が御身を覆います。聖者中最も聖なる方が御身より産まれ、神の御子と呼ばれます。御覧なさい、従姉妹エリザベトも長年の不妊の後で男児を懐妊して、今は六か月目です。神にとり不可能なことはありません。産まず女を妊娠させる御方は、御身を御自身の御母とし、しかも御身の乙女を保存し、純潔を増大されます。」 聖マリアは御旨に従って答えるよう考えを巡らしました。聖三位一体の約束、預言、最も効果的な犠牲、天の門の開通、地獄に対する勝利、全人類、神の正義の充実、人間の光栄、天使たちの喜び、そして御父の御独り子が自分の胎内で僕の姿をとることに関係する全ては、聖マリアの承諾(フィアト)にかかっていることを黙想しました。これら全てを全能者が謙遜な少女に委せたのです。この勇気ある乙女の賢く強い決定に委せたのです(蔵言3111)。御自分に関することは被造物の協力に依存しませんが、外的な御業は被造物の関与を必要とします。つまり、御子の受肉は聖マリアの自由意志による承諾なしには行なわれません。この偉大な婦人は、神の御母の威光(蔵言21・16)について深く考えました。聖マリアの霊魂は神の愛の畏敬に没頭しました。この時の激しさにより、聖マリアの至純な心臓が強く収縮し、圧迫されたので、三滴の御自身の血液が絞り出され、胎に向かって移動し、聖霊の御力により、我らの主キリストの御血になりました。御言葉の人性を形成する基の実質が聖マリアの心臓により造られた瞬間、謙遜に頭を少し傾け、両手を組み合わせ、聖マリアは「仰せの如くなれかし」(ルカ1・38)と宣言しました。「フィアト」の宣言により、四つの事態が同時に起きました。第一、我らの主キリストの至聖なる御体が、前述の三滴の血により造られました。第二、キリスト御自身の至聖なる霊魂が、他の人間の霊魂と同様に創造されました。第三この霊魂とこの身体が結合し、御子の完全な人性となりました。第四、神は御自分を人性と一致させ、御降臨による一致となりました。かくして、真の神人なるキリスト、我らの主なる救世主が形成されました。三月二十五日のことです。世界史の5199年目にあたります。アダムの創造されたのも三月でした。こうしていと高き御方の御業は完成しました(申命32・4)。神の御子は聖マリアの御胎内で聖母の血により栄養をもらい、自然に成育していきました。聖母は原罪の汚れなく、諸徳の実践に励みましたので、御体の血と他の体液が御子の成育に必要なものとなり、最も清いものとなりました。我らの主キリストの至聖なる霊魂は、神性が人性に結合しているのを見、神性を愛し、人性の劣りを知りました。謙遜の内に霊魂を創造し、神性に一致させることにより、神にまで引き上げて下さった神に感謝しました。自分の至聖なる人性が苦しむこと、救世の獲得のため適応することを知りました。人類のための犠牲となり救世主として自分を捧げました(詩篇40・8)。自分と人類の名において永遠なる御父に感謝しました。諸徳の完成により、自分の人性の実質を形成した御母を永遠の御父が創造したことを感謝しました。キリストは至聖なる御母と聖ヨゼフの救いのため祈りました。神人としての祈りの一つ一つは無限の価値があります。従順の行為一つだけでも私たちの救いに充分です。人間に対するキリストの愛は無限で、愛そのもの以外の何物によっても満足できません。愛がキリス卜の命の目的であり、愛の印として自分の命を使い尽くすのです。このことは人間にも天使にも理解できません。キリストが世の中に来られたという瞬間が、世の中を測り知れないほど豊かにしたので、三十三年間の労働の後、御受難と御死去により、私たちに遺した功徳はどれほど偉大でしょうか? ああ、無限の愛! ああ、最も寛容で親切! ああ、測り知れない慈悲 それに比べ、人間 の忘恩! 主の御苦労を私たちは粗末にします。 我らの主キリストの妊娠の一瞬の次の一瞬、聖母は明瞭に神性の降臨による人性との致の神秘の幻視を見ました。至聖三位一体は、真理のあらゆる確実性において、神の御母の称号と権利を確認しました。御子は確かに人間であり、確かに神ですから、御母は御子の実母であり、神の御母です。御母は御子となるべき実体を提供し、男の助けなしに母となるにあたって神の関与がありました。神の関与は普通の妊娠による生命の開始にも必要であることを考えましょう。御母は、御父の御独り子の御母としての役目を遂行するため、全能者の指示を一生懸命お願いしました。全能者は答えられました、「私の鳩よ、恐れるな。私が助け導こう。」 この約束を聞き、御母は恍惚の境地に入りました。我に返るやいなや、御母は平伏し、至聖にして神人なる御子を崇めました。その時以来、新しい神の影響が御母の上に起こり、御母は一層神々しくなりました。 

元后の御言葉  私の親愛なる娘よ、私の胸の中に燃える愛を何度も汝に打ち明けました。幸いなるかな、いと高き御方の御旨を聞く者よ。更に幸いなるかな、御旨を遂行する者よ。人間に対し神は、福音書、聖書、秘蹟、聖なる教会の律法、諸聖人の書き物や模倣や司祭の案内を通して、永遠の幸福に至る道を教えました。「司祭の話しを聞く者は私に聞く。司祭に従う者は主に従う」と、王なる主は言われました。謙遜と従順の翼をつけ、空中を飛ぶように早く、命令を実行しなさい。この他の指示は、いと高き御方が直接に霊魂に教えます。これには諸々の程度があります。主は秤りにかけて光を分配します智恵11・21)。主は心の中に命令を下したり、説明、訂正、助言したり、心を動かして主に質問させたり、望みを打ち明けたり、神秘を鏡に映し出したりします。この偉大で無限の善なる主は優しい命令を出し、従順な者を力強く助け、実行に必要な情勢を設定して下さいます。この超自然の示しを受けるため、汝は注意深くなり、義務遂行を早く勤勉にしなければなりません。汝の霊魂がこの世の汚れから清められ、主の御旨のままに生きなければなりません。神の秘密に注目しなさい(イザヤ34・16)。耳を傾け、見える物事から心を離しなさい(詩篇45・11)。愛を育てなさい。汝の心が準備すれば、愛の効果が出てきます。霊魂が小羊の血の無限の価によって買い戻され、永遠の救いを得たことを記憶しましょう。汝自身の卑しさ、恥、無用さなど心配しないで下さい。いと高き御方は富んだ者、強力偉大で何でもおできになります。 

18・至聖なるマリアのエリザト訪問

聖マリアは立ち上がり、山村に急ぎ行き、ユダの市へ向かいました(ルカ1・39)。「立ち上がる」という叙述は、聖マリアの眼に見える行動だけではなく、聖マリアの霊魂の動きと神の命令を意味しています。ダビデの言葉(詩篇23・2)のように、女主人の動きを注視し、命令を待つ婢として聖マリアは、いと高き御方の足許から立ち上がりました。聖エリザベトの胎に宿っている御言葉の先駆者(洗者聖ヨハネ)を聖別することがこの旅の目的でした。山岳地帯にあるユダの聖ザカリアと聖エリザベトの家に向け、聖マリアと聖ヨゼフは旅立ちました。ナザレトから約百二十五キロの行程で、道の大部分はゴツゴツしており、所々で道がなくなっていて、きゃしゃで力が弱い王女には無理でした。この険しい道で助けてくれるものは一頭のロバだけでした。王女はロバに乗って進みました。このロバは王女だけのためでしたが、王女は何回も降り、聖ヨゼフに代わるように勧めました。分別のある夫は決して王女の提供を受けつけませんでしたが、時々この天の王女を歩かせ、決して疲労困憊しないように注意しました。歩いて少しすると、夫は王女に対し心から尊敬の気持ちを表し、ロバに乗るように勧め、王女は従いました。二人は人間と道連れになりませんでしたが、千位もの天使たちが至聖なるマリアの護衛についていました。天使たちの姿は聖マリアにしか見えませんでした。聖マリアは野原や山々に御自分の甘い芳香や、絶えず心に思っている神の讃美を充満させました。天使たちと話したり、交互に、神、創造、受肉の玄義についての讃美歌を歌いました。原罪の汚れなき御心は神の愛の熱烈さで燃えました。聖ヨゼフは沈黙を守り、愛すべき妻の霊魂の活動を見守りました。深く黙想しながら、妻の霊魂の思いを知ることができました。ある時は、二人は霊魂の救い、主の慈悲、救世主の来臨、主についての預言やいと高き御方の秘儀について語り合いました。聖ヨゼフは、純潔で聖なる愛により妻を愛しました。聖ヨゼフは最も高貴で礼儀正しい性格で、魅力のある振る舞いをしました。熱心に聖マリアのことを気遣い、疲れていないかどうか度々問いました。天の女王が胎内に御言葉を宿していたことを知らずに、聖ヨゼフは愛すべき女王の言葉から出る何かを経験していました。神の愛に燃え、会話により秘儀を知り、全身全霊がこの内的光により刷新霊化されました。話を進めれば進めるほど、聖ヨゼフの愛は強くなり、神の熱烈さにより自分の意志を燃やし、心を愛で満たすものは妻の言葉であることに気がつきました。四日旅を続け、二人はユダの町に着きました。福音史家聖ヨハネはユダと書きましたが、批評家たちは、それは町の名ではなく、郡の名であると考えます。エルサレムの南にある連山をユデアというのと同じ理由からです。実はキリストの死後何年かたってユダ町は亡び、学者たちはユダ町を見つけられなかったのです。私はユダの町が正しいと聖マリアから教わりました。聖ザカリアの家の前につくと、聖ヨゼフは先に行き、声を掛けました、「主があなた方のそばにおられ、あなた方を恵みで満たされますうに。」 聖エリザベトは、ナザレトの聖マリアが自分の所に来るために旅に出たという幻視を既に見ていました。この天の貴婦人がいと高き御方の御目にとって一番喜ばしい方であることも知らされていました。聖マリアが神の御母であることは、二人だけになった時、聖エリザベトは知りました。「主はあなたと共におられます、私の親愛なる従姉妹よ」と挨拶する聖マリアに聖エリザベトは答えました、「私に会うために来て下さったことで、主があなたに報われますように。」挨拶の後、家に入り二人きりになった時、聖マリアは言いました、「神があなたを救い、恩寵と長命を賜いますように、私の親愛なる従姉妹よ」(ルカ1・40)。これを聞いて聖エリザベトは聖霊に満たされ、最も高揚された神秘が判りました。聖エリザベトだけでなく、胎内の聖ヨハネも感動したのは、実は聖マリアの御胎内の御言葉の存在のためでした。受肉した御言葉は聖マリアの声を道具として使い、救世主としての御言葉は、霊魂の救いと義化のため、永遠なる御父から与えられた力を胎内から発揮し始めました。御言葉は人間として活動しますが、受胎後、まだ八日しか経っていない人間として御父に祈願しました。将来の先駆者の義化の願いは聖三位一体から聞き入れられました。この祈願は聖マリアの挨拶よりも前に主に捧げられました。神は聖エリザベトの胎内の赤ちゃんを見、理性の活動を与え、神聖な光により、赤ちんがじきに受けることになっている祝福についての予告を与えました。この準備と共に、赤ちゃんは原罪から清められ、聖霊の最も豊富な恩寵と充分な賜物で満たされ、諸能力は聖化され、理性に従い、大天使ガブリエルがザカリアに、息子は母の胎内で聖霊に満たされるであろう(ルカ1・17)と語ったことを真実にしました。同時にこの幸せな赤ちゃんは母胎の壁を透き通して見、受肉した御言葉がはっきり見え、脆いて自分の救世主・創造主を崇めました。赤ちゃんは大喜びで飛び跳ねました。聖エリザベトは胎動を感じました(ルカ144。二人の母たちが話している間、この赤ちゃんは信・望・愛、礼拝、感謝、謙遜やその他の諸徳の務めを達成しました。この瞬間から赤ちゃんであるヨハネは功徳を積み始め、聖性を成長させ始め、決して聖性を失わず、恩寵の生き生きした力のお陰で聖性の行為を決して中止しませんでした。聖エリザベトは受肉の神秘、我が子の聖化、この新しい奇蹟の神秘的目的を教えられ、至聖なるマリアの乙女としての清純さと威厳に気がつきました。この天の女王は、神と御子の行なわれる神秘の幻視に没頭し、全く神々しくなり、神の賜物の透明な光に包まれました。女王としての威厳に満ちた聖マリアが、聖エリザベトの目の前におられたのです。神の神秘を見聞きして聖エリザベトは感嘆し、聖霊の喜びに浸りました。世界の女王と御胎内の赤ちやんを見て、彼女は讃美の言葉を叫びました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょうあなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 至聖なるマリアの貴い特権を預言した聖エリザベトは、主の御力が聖マリアに何をなさったか、これから何をなさるかを神の光により判ったのです。聖エリザベトの声は胎内の聖ヨハネにも聞こえました。二人は智恵と謙遜の御母がマグニフィカトを美しく優しく言い表すのを聞きました(ルカ1・46‐55
わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。 

この讃美の歌を聞いた最初の人として聖エリザベトは、それを理解した最初の人でした。聖マリアは、神によって見、各人が栄え、喜ぶのは、神のみが全人類の完全な幸福と救いであること(2コリ10・17)を語りました。いと高き御方が遜る者を優遇し、神の光を惜し気もなくたくさん送って下さる(詩編138・6)ことを明らかにしました。聖マリアの頂いた賜物を知り、理解することは、人間にとってどれほど価値があるかを聖マリアは納得しました。全ての謙遜な者が一人一人の器を満たす同じ幸せを頂くのです。聖マリアの頂いた慈悲、恩恵と祝福は「大いなる事」です。決して小さくありません。天の門である聖マリアを通して、私たち人類はいと高き御方の慈悲を受け取り、神の国に入ります。高ぶる者を引きずり降ろし、遜る者を代わりに高座に引き上げる主の正義は、高慢なルシフェルと部下の天使たちを天から蹴落としたことで発揮されました。空虚な誇りは求めるべきではないし、求めても得られないのです(イザヤ14・13)。聖マリアと聖エリザベトが二人だけの会話をした後、二人は皆の居間に出てきました。聖エリザベ卜は自分自身、所帯全員と家全部を聖マリアに提供し、静かな奥まった部屋を聖マリアに見せました。ここで聖マリアは謙遜に感謝して、自分の部屋として使うことになりました。お返しとして自分の訪問は、聖エリザベトの召し使いとして働くためであることを述べました。その時はもう夜になっていました。聖マリアは、自分の前にいる聖ザカリアに祝福を願いました。彼が神により唖になっていることを知り、それを治そうとはしませんでした。聖ヨゼフは、聖エリザベトの歓待を受け、三日間滞在した後、聖マリアをそこに残し、ナザレトヘ戻ることになりました。聖エリザベトがたくさんの贈り物を下さったのですが、ほんの一部だけ受け取り、感謝しました。ロバも一緒に連れて帰りました。ナザレトの家では、近所に住む自分の従姉妹から世話してもらい、自分の仕事に精を出しました。聖マリアはいと高き御方の命令に従い、以前の習慣の通り真夜中に起き上がり、神の神秘を何時間も黙想しました。眠る時間もとり、自分の体調に合わせました。仕事と休息を続けながら、新しい恩恵、啓示、高揚や愛を主から受けました。この三か月間、神の幻視を何回も見ました。降臨により人性と一致した御言葉の幻視が一番多くありました。聖マリアの乙女である胎が、絶えない祭壇、至聖所となりました神の力の涯しない野原の中で、聖マリアに示された秘儀により、この高揚された貴婦人の霊魂は広大にふくらみました。主の御力によって強くならなければ、愛の激しさのため、何回も聖マリアは燃え尽き果てたかもしれません。手仕事の間も心の中で主にお願いし続けました。偉大なる女王は、先駆者聖ヨハネの産着や布団を縫いました。母である聖エリザベトは、この幸運を我が子のために謙遜に頼んだのです。聖マリアは驚くべき愛と謙遜で従姉妹の聖エリザベトに従いました。謙遜さにおいて聖マリアは誰にも負けませんでした。永遠の御言葉の教えを実践したのです。御子は真の神でありながら僕になり(フィリッピ2・6)、聖マリアは神の御母、全被造物の女王でありながら、最も低い人間の召し使いになり、生涯、召し使いで居続けました。この天の物語は、我々の誇りに対する戒めです。私たちは世間の評判を気遣い、理性をほとんど全部なくします。世間から名誉を受けなくなると、理性を完全に失います。御母マリアが極みまで遜り、蔑まされるのを心から喜んでいるのを見ておられる主は、御母が全被造物の前で名誉を受け、尊敬されるように取り測ろうと思えばできたのです。御母が賎しい仕事につき、何も命令できない立場にいることは不公平でしょう。しかし、これは普通の人の考えであり、諸聖人には通用しません。正義の太陽の前に現れ、恩寵の律法の待ちこがれた日を宣言する暁の星の時がやって来ました(ヨハネ5・35)。預言者よりも偉大であると称され、小羊を指さす(ヨハネ1・29)洗者聖ヨハネは、世の救いのため準備します。聖エリザベトの胎内にいる間に、この赤ちゃんには完全な知性があり、受肉された御言葉のそばにいて、神の知識を頂きました。聖エリザベトから頼まれて、天の女王は産まれたばかりの聖ヨハネを腕に抱き、永遠の御父に捧げました、「いと高き主なる御父、御子の御業を稔らす赤ちゃんを捧げます。この赤ちやんは御子により、原罪の結果と昔からの敵(悪魔)から救われました。この赤ちやんが聖霊により満たされ、御身と御独り子の忠実な僕となりますように。」 聖霊に満たされた至福の赤ちゃんは、自分の女王に対し、心の中の尊敬をお辞儀をして表しました。女王の胎内の御言葉をもう一度崇めました。この赤ちゃんの割礼の日が近づくと、親戚の人が集まり、名前を決めることになりました。聖エリザベトの奇跡的出産は、神の偉大な御業であると皆は感じていましたし、神秘の勉強や天の女王との交流により、その霊魂は刷新聖化されて顔が輝き、魅力があり、神々しくなっているのを皆は気づきました。人々はザカリアに合図すると、唖の彼は筆をもらい、板の上に書きました、「子供の名前はヨハネ。」 この瞬間、至聖なるマリアは彼が唖から解かれるように心の中で命令しました。ザカリアが話し始め、集まった人々を驚かせました。聖霊と預言の賜物に満たされ、聖ザカリアは言葉をほとばしらせます(ルカ1・68‐79)。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。   約三ヶ月間の聖マリアの滞在が終わる頃、聖エリザベトは聖ヨゼフを呼び出しました。聖ヨゼフが到着したとき、聖エリザベトと聖ザカリアは、聖ヨゼフをイズスキリストの守護者として心からの尊敬を示しましたが、聖ヨゼフはそのことをまだ知りませんでした。聖マリアは聖ヨゼフの前に脆き、夫を疎かにしたことを詫びました。これは謙遜の礼儀正しい愛すべき行為です。二、三日後、お別れにあたり、聖ザカリアは神の御母に言いました、「私の女主人よ、御身の創造主を永遠に誉め称えなさい。主は御身を全ての被造物の中から神の御母として、主の偉大なる祝福と秘蹟の全ての保管者として選びました。神が、御身の僕である私にこの世の流浪を平和の内に導き、永遠の平和に到達させて下さるよう、神の御前で思い出して下さい。私が神に会えますように。私の家族、とりわけ息子のヨネのことを思い出し、また御身の家族のため神に祈って下さい。」 聖マリアと胎内の御言葉の滞在のお陰で、ザカリアの家の全員の品性が高められました。出発にあたり、聖マリアは聖ヨゼフの前に脆き、祝福を願いました。そうするのが聖マリアの習慣であったからです。

元后の御言葉  聖ザカリアが預言したのは祭司として当然でした。祭司職の威厳と名誉が重んぜられるべきことは、いと高き御方の御旨です。世間は、司祭が選ばれた者、香油を塗られた者として尊敬すべきです。主の神秘は司祭に対し、もっとよく打ち明けられました。司祭が威厳ある生活をするならば、司祭の仕事はセラフィムや他の天使たちの仕事のようになります。司祭の顔は主と話したモーゼのように光り輝くべきです。司祭は地上にけるキリストの代理者です。今日の話しの締めくくりとして、主の愛は誠実、聖、純で持続性があり、私たちを遜らせ、平和にし、照らすことを述べます。これに反し、世間のお世辞は虚無で、一時的、ごまかしで嘘です。嘘つきの口から出てきます。ごまかしは全て私たちの敵のすることです。 

19・聖ヨゼフの婚約者との離別の決意 

妊娠五か月目になって、聖ヨゼフは聖マリアの体の変化に気づきました。ある日、聖マリアが祈り部屋から出てきた時、聖ヨゼフは、もっと特別にこの変化を知り、聖マリアの妊娠を見て自分の聖マリアに対する愛と純潔が傷つきました。自分が聖マリアの妊娠の原因ではないことは確かでした。この事実が世間に知れたら、不名誉なことです。姦淫の事実を聖ヨゼフは祭司たちに報告する義務があります。報告すると姦淫者は、投石の死刑になりますから、聖ヨゼフは報告をしたくありませんでした。一方、聖ヨゼフの「嫉妬はとても強かった」(雅歌8・6)のですから、どれほど苦しんだことでしょう。神に一生懸命祈りました。「今まで聖マリアの謙遜と諸徳を疑ったことはありません。今や、彼女の妊娠を疑えません。彼女が私に不貞を働き、御身の掟に背いたと考えるのは、彼女の純潔と聖性を知る私には無理です。私が目撃することを否定することもできません。私の理性は、彼女が批難さるべきでないと言いますが、私の目は彼女の罪を見ます。彼女は妊娠について何も言いません。私は悲しくて死にそうです。この悲しみを犠牲として御身に捧げます。私の心を御身の光で照らして下さい。」 自分の知らない神秘があると聖ヨゼフは思いましたが、聖マリアが救世主の御母であるかもしれないとは夢にも思いませんでした。聖マリアは、そのことを聖ヨゼフに告げよという天の命令を受けていませんでした。真相を知らさずとも聖ヨゼフをなだめ、安心させることはできました が、賢慮と謙遜により、ただただ、前よりも一層の愛を込めて聖ヨゼフを主人として仕えました。聖ヨゼフは、彼女が食卓で食物を置いたり、彼の身の回りの世話をしてくれるのを身近に見て、彼女が妊娠している事実をますます明瞭に見せつけられ、心から動揺し、彼女に対する畏敬の念と愛を決て失わなかったものの、心の悲しみと辛さは彼の言葉のはしはしに出てきました。彼がついに密かに離別を決心した時、聖マリアは悲嘆の涙にくれ、天使に訴えました、「いと高き王の召使いたち、私の守護者として神の命令に従う聖なる天使たちよ、私の夫、聖ヨゼフの苦しみを慈しみ深い神に訴えて下さい。主が彼を慰めて下さいますように。無限なる神に対し、私の胎内で人性を得る神に向かい、私の最も忠誠なる夫を苦しみからたった今救い、私を見棄てるという決心を止めるように、御身に心からお願い申し上げます。」 このメッセージを受けた選ばれた天使たちは、直ちに聖ヨゼフに教えました。聖ヨゼフが彼女の過ちを信じられないこと、神の御業は理解できないし、神の判断は隠されていること、神は神を信頼する者たちに対し、いつも忠実であること、決して困っている忠義者たちを見棄てないことを言い聞かせたのです(詩編34・18)。これを知り、聖ヨゼフは少し安心しましたが、自分の悲しみの原因が目前にある限り、何の保証も見出せないし、霊魂を鎮めるものもないし、妻から離別するしかなくなりました。聖マリアは、このことに気づき、この危険を何とかして回 避しなければならないと大決心をしました。胎内の御子に訴えました、「我が霊魂の主なる神、私は塵と灰ですが、御身の目から隠せない私の嘆きを申しあげます。御身がめあわせた私の夫を助けるのは私の義務です。御身が送られた困難は、私の夫を打ちのめしています。私は黙っていられません。人類の救いのため、召し使いの私の胎に宿った御身が、御身の僕、聖ヨゼフを慰め、御業の成就のため、私を助けるような立場に聖ヨゼフを置いて下さい。私の守護者である夫が、私を一人ぼっちにしないように心よりお願い申し上げます。」 いと高き御方は答えられました、「私の僕、聖ヨゼフを慰め、この秘儀を天使たちにより伝えさせよう。その後であなたは彼に打ち明けなさい。聖ヨゼフは自分の立場を理解し、あなたに協力するであろう。」 聖マリアは心から感謝し、聖ヨゼフが神を信頼することの試練を受けたことがよく判りました。その頃、聖ヨゼフはニケ月間にも渡る混乱と苦難と闘っていました。その苦しみにうちひしがれ、彼には一つの逃げ道しかありませんでした。「聖なる妻の評判を傷つけ、妻を犯罪人にすることはできない、一方、私は妻とは暮らせない」と思い切り、真夜中に夜逃げすることに腹をくくり、主に報告しました、「我らの祖先アブラハム、イサク、ヤコブのいと高き永遠なる神、御身は悲しみ苦しむ者にとって、本当のただ一人の保護者です。私は潔白の身でありながら、悲しんでいることは御存知の通りです。私の妻が姦通者であるとは思いもよらないことです。彼女は完徳に達しています。しかし、妊娠しています。私は誰が、どのようにして、妻を妊娠させたか判らず、私の気持ちが休まる時がありません。妻の身の危険を避け、私も何とか悩まなくて済むように、私は砂漠に行き、一生涯隠 れたいと思います。御身の御摂理に私を委せます。どうぞ私を見棄てないで下さい。」 聖ヨゼフは床に平伏し、聖マリアを神が人々から守って下さるよう、エルサレムの神殿に少しばかりの献金をすることを誓いました。神の御旨は正しく、聖であり、完全です。御旨について三つの説明を私は述べましょう。第一、聖ヨゼフは賢明で天の光に照らされていたので、聖マリアの胎内に御言葉が宿ったことを証拠立てる必要はなかったと思われます。第二、聖ヨゼフは自分の視覚に頼ったので、天使的視覚を持たず、疑うようになりました。第三は、第二によって引き起こされた苦しみです。ここにおいて、聖ヨゼフが視覚を正しく使い、聖霊の御働きを受入れるよう、浄められるように、天使が主の御旨を聖ヨゼフに伝言しました。聖ヨゼフは目が覚めると、妻が神の真の母であると判りました。自分が授かった恵みに感謝の祈りを捧げました。平静を取り戻した聖ヨゼフにとり、二、三ヶ月間の疑いと不安の体験は、謙遜を教え、生涯の教訓となりました。聖ヨゼフは祈りました、「ああ、私の天の妻よ、いと高き御方の御母として選ばれた御方、御身の価値なき僕が御身の忠実をどのようにして疑ったのでしょうか? 塵であり灰である私が、御身の奉仕を頂くことがどのようにして可能になったのでしょうか? 御身は天の女王で、宇宙の女主人です。御身の御足が踏んだ土に接吻し、跪いて御身に奉仕すべきでした。ああ、私の主なる神、聖マリアに赦してくださるようお願いする恩寵を与えてください。痛悔の悲しみにあるこの僕を、聖マリアが嫌いになりませんように。」 至聖なるマリアは、聖ヨゼフが主の秘儀を信頼したことを喜びました。それと同時に、困ったことになったと思いました。聖ヨゼフの召し使いとして、従順に遜る機会がなくなりそうになったからです。謙遜の徳は一番大事にしていたものです。「私の主人なる夫よ、私こそ御身に赦しを請わなければなりません。私は御身を悲しませ苦労をかけさせました。私を赦して下さい。いと高き御方が私の祈りを聞いて下さったので、もう心配しないで下さい。私は御身に私の秘密を打ち明けることができませんでした。私の胎内にいる主の御名において、私への態度を変えないように心からお願いします。人々から仕えられるためではなく、人々の召し使いになるため、私は主の御母となりました。」 聖ヨゼフは恩寵の特別な啓示を頂き、言いました。「幸いなるかな、御身は女の内にて選ばれたり。諸国民に先立ちて選ばれ、末永く幸いなるかな。天地の創造主は永遠に誉めまつらるべし。高き玉座にまします主は御身を見出し、御身を主の御住まいと選び給いしが故なり。昔の王や預言者との約束を守りしは主のみなり。全世代は主を誉むべし。聖マリア御身の謙遜においてのみ、主の御名は高められたり。屑人間なる我を御身の僕に抜擢し給えり。」 これを聞いて聖マリアは、聖エリザベトの祝辞に答えたようなマグニフィカト(主の讃美)を歌いました。聖マリアは恍惚の中で燃え、この光景を見て聖ヨゼフは讃嘆と喜びの気持ちでいっぱいになりました。このような光栄にある聖マリアを見たのは、後にも先にもこの時しかありませんでした。天の王女の完全さと清純さと、幼子である神の人性が聖マリアの胎内に宿っていることが、聖ヨゼフに明らかになりました。聖ヨゼフは主を自分の救世主として崇め、主から主の養父という称号を頂きました。智恵と天の賜物の数々も頂きました。

元后の御言葉  私の娘よ、私の言葉の一部を書き記しました。私の言葉全部をあなたの鑑として使いなさい。私の良い生徒として実行しなさい。私の夫、聖ヨゼフの謙遜な奉仕や御旨への従順を見習いなさい。今回、いと高き御方が人間に対して怒っておられることを知らせましょう。批難の原因は、人間がお互いに謙遜ではなく、愛し合わないという非人間的邪悪です。第一、人々は天にまします同じ御父の子供たちであり、御手により造られ、同じ人間性を与えられ、御摂理により生存し続け、主の御体と御血により養われているのに、これを忘れ、地上のつまらないことにうつつを抜かし、理由もなく興奮し、怒り狂い、喧嘩し、最も劣悪な仕返しをお互いに繰り返します。第二、人間の弱さと自己放 棄のないことから、悪魔の誘惑に負け、過失を犯し、お互いを赦そうとはしません。お互いの仕返しよりももっと早く主の審判が下るでしょう。第三、他の人たちが和解を求めてやってくるのに、はねつけます。王なる神の満足することで満足しません。このような人たちが、傷ついた神に対し謙遜になり後悔し、罪の赦しを得るように願いなさい。お互いの罪を赦し合わないほど大きな罪はありません。そのような人たちは、首に粉ひきの石臼をかけられ、海に投げ込まれた方が良いでしょう。私の至聖なる御子は助言しました。両目がえぐり取られ、両腕を切り落とされる方が、小さき者たちに対する罪を犯すよりも良いと。

20・マリアの配偶者に対する優しい謙遜 

御言葉の受肉の秘儀を告知されて以来、最も忠実な聖ヨゼフは新しい人間になりました。聖マリアに家の掃除や皿洗いなどをさせようとしませんでした。謙遜な者たちの中で一番謙遜な聖マリアは、このような事態を何とか切り抜け、いつも謙遜の競争に勝ちました。聖ヨゼフが跪くのは御胎内の主に対してでしたが、外から見ると聖マリアに対して跪くようにも見えるので、聖マリアは跪かないように聖ヨゼフに願いました。聖ヨゼフは仕方なく、聖マリアに気付かれないように跪きました。主を拝むだけではなく、主の御母を崇めるためでした。この聖なる夫婦は、お互いに奉仕するチャンスを取り合いました。聖マリアが黙想している間に、聖ヨゼフが聖マリアの家事を横取りしたので、聖マリアは神に、聖ヨゼフが彼女の仕事にまで手を出さないように懇願しました。神は謙遜な聖マリアの願いを聞き入れ、天使を遣わしました。天使は聖ヨゼフに伝えました、「天地の被造物の全てよりも崇高である聖マリアの謙遜な望みを邪魔しないように外面的には、普段は彼女に仕えないように。そして、内面的には、いつもどこでも聖マリアに一番の尊敬を払いなさい」 聖ヨゼフの貧しい祝福された家には、三部屋ありました。一つの部屋に聖ヨゼフが寝泊まりし、もう一つの部屋は聖ヨゼフの大工部屋で、三番目は天の女王の居間兼寝室でした。自分の妻が天の御母であることを知る以前は、聖ヨゼフは滅多に聖マリアの所に行きませんでしたが、秘儀を知らされてからは、聖マリアの世話をもっとしたがるようになりました。この所帯には召し使いも誰もいなかったので、両人の素晴らしい生活ぶりは外部に洩れませんでした。聖マリアは必要な時は、隣家の女性に助けを請いました。この女性は、聖マリアが聖エリザベトの家に滞在していた間、聖ヨゼフの世話をしました。自分が病気の時、聖マリアに見舞ってもらいました。この女性の家族全員が天の祝福を受けました。聖ヨゼフは、聖マリアが寝ているのを見たことがありません。聖マリアの睡眠は短い時間でした。聖ヨゼフの作った長椅子が寝台で、長椅子に掛けてある布が布団代わりになりました。聖マリアは、神殿での生活の時と同じ下着をいつも着ていました上着や頭巾は時々取り替えました。聖マリアは汗を流さず、汚しもしませんでしたが、時々着替えて人々に好奇心を起こさせないようにしました。聖マリアの着物はすり減ることもありませんでした。肉の料理を聖ヨゼフに出しましたが、自分は決して肉を口にせず、果物、魚、普通のパンや料理した野菜を食べて健康を保ちました。

元后の御言葉  私の娘よ、謙遜の学校で一生懸命勉強しなさい。威張る者たちには見えない光の宝を与えられるでしょう。世の中の智恵の思い上がりや誇りが修道者たちの心を掴みます。世の称讃を得るために必死です。飽きたることなく頑張り、偽の宝を得ます。しかし、このごまかしはとても強力に堕落する人々を動かします。選ばれた人々を動かす真理よりも強力です。全ての人が招かれますが、選ばれる者は少数です(マテオ20・16)。 

21・ベツレヘムヘの旅 

不変の御摂理は、御父の御独り子はベツレヘムの町に生れると決められました(ミカ5・1)。諸聖人や諸預言者も予告しました(エレミア10・9)、神の絶対なる意志は誤りませんし、何ものも妨げられません(エステル13・9)から、天地が消失しても、神の御命令は成就します(マテオ24・35)。古代ローマ全帝国のアウグスツス皇帝が、人民登録、又は国勢調査を発令した(ルカ2・I)ことで成就したのです。当時、世界の大部分を占領したローマ帝国は、人々に税を納めさせるため、出身地に行き登録するように命じました。このことを外出先で聞いた聖ヨゼフは、悲しそうな顔で家に戻り、聖マリアに報告しました。聖マリアは答えました、「どうぞ心配しないで下さい。私たちに起こる全ては天地の王なる主により命令されています。全てにおいて御摂理が私たちを助け、導いて下さいます」(シラ22・28)。御父の御独り子がベツレヘムで生れることになっているという預言を聖マリアは知っていましたが、聖ヨゼフに話しませんでした。話すなと命令されていることを話さず、聖ヨゼフの指導に身を任せました。月は進み産期は近づいていました。聖ヨゼフは言いました、「天地の女王なる私の女主人、全能者から反対の命令がなければ私だけで行きます。ローマ皇帝の命令は、所帯主だけ行くように言っています。でも私は御身を私の助けなしにしておけませんし、御身なしには私はあまりにも不安ですし、御身のそばでやっと安心できます。」 二人は出発の日を決めました。聖ヨゼフは世界の女主人を乗せるロバを探しにナザレトの町に出かけましたが、他の人たちもロバが必要なので、なかなかロバが見つかりませんでした。やっと見つけたロバはありきたりのロバでしたが、御母と御子を運ぶという大任と幸福を頂いたロバです。二人は旅の必要品を五日分準備しました。聖マリアは、御子の出産のための布や産着を持っていくことにしました。二人の旅姿は貧しく見すぼらしいものでしたが、永遠なる御父の無限の愛に価する御子と二人は、天使たちから崇められました。自然は新約の生ける真の聖櫃(ヨシュア3・16)を認識しました。ヨルダン川は水を左右に分け、二人とその後に続く天使たちに道を開けました。天使たちは総数一万位で、聖マリアには見えました。多数の太陽よりももっと輝いていました。その他に御父と御母の間を行き来している天使たちも参加しました。しかし、皇帝の命令で旅してきた人たちが旅館に集合している様子は、聖マリアと聖ヨゼフにとり、大変不快で困らせました。二人が貧しお姿だったので、他の人たち、特に富者よりも冷遇されました。どの旅館からも次から次に叱りつけられました。旅で疲れ切った二人はそっけなく断られるか、廊下の片隅か、もっとひどい所をあてがわれました。そんな所に天地の女主人が留まると、天使たちは最高の王と女王の周りを固め、警護にあたりました。聖ヨゼフはそのことを知り安心し、聖マリアに休むよう勧められ、その間、聖マリアは天使たちと話をしましたこのように苦労しながら、二人がベツレヘムに着いたのは第五日目、土曜日の四時でした。冬至の時で、太陽は沈みかかり、夜のとばりが落ちてきました。二人は街に入り、一夜の宿を探しながら、たくさんの道を通りました。知人や親戚の家に行き、断られ、ののしられました。最も謙遜な女王は、人混みの中を家から家へ、戸口から戸ロヘ、夫の後についてまわりました。人々の心も家も二人を締め出していると知っており、身重の自分を衆目にさらすのはもっと辛いことでしたが、夫に従 い、この恥を忍ぶことを望みました。街をさすらいながら、人民登録の役所の所に出てきました。名前を登録し、献金しました。その後も家々を訪ねました。五十軒以上もまわったのに、全て無駄足に終わりました。聖マリアの忍耐と温和、それにひきかえ、人々の頑なな心に天使たちはあきれ返ってしまいました。追い払われ、心臓が破れそうになった悲しい聖ヨゼフが妻の所に来たのは夜の九時でした。「私の最も甘美なる貴婦人、私の心は悲しく、裂けそうです。御身を泊める所を探せず、厳しい天候から御身を守れません。疑いもなく、天は秘密を隠しています。ところで、市の城壁の外に洞穴があるのを思い出しました。羊飼いたちや羊たちのための避難所です。そこへ行ってみましょう。天は地が与えてくれなかった助けを与えるかもしれません。」 最も思慮深い聖マリアは答えました、「私の御主人様、このような事態になったことを私の胎内にいる神に感謝して下さい。御身のおっしやる所は私にとり最善と思われます。御身の悲しみの涙は喜びの涙に変わるでしょう。貧しさは私の至聖なる御子の計り知れない貴重な宝です。貧しさを抱きしめましょう。喜んで主の御導きになる所へ参りましょう。」 聖なる天使たちは、道を明るく照らしました。城壁の外の洞穴は空になっていました。二人は主に感謝しました。

元后の御言葉  私の親愛なる娘よ、今日より、世の軽蔑と無視を新たな尊敬で抱きしめなさい。その代わりに、神は最も甘美なる眼差しであなたを見て下さいます。神の愛、私の愛と天使たちの愛をあなたは受けます。私の至聖なる御子は、現世の虚栄と誇りを軽蔑し、謙遜を愛するための先生として私を任命しました。窮乏と貧しさは神に至る最も確かな近道です。御子の言葉を引用しましょう、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マテオ5・48)、この完徳にあなたを招待します。どんなに難しくても、困惑しないように。自分の救いだけでなく、他人の救いと私の御子のために。

22・我らの救い主キリストが乙女マリアからユダヤのベツレヘムで生まれたこと 

王の中で最高の王、主の主が永遠の御子の生れるために選んだ所は、最も貧しい洞穴でした。どんな旅人でも考えつかなかった宿泊所ですが、謙遜と貧しさの先生である我らの救い主と御母にとって望まれた場所です。何もなく荒れ果て見すぼらしい所が光の最初の神殿となり(詩編12・4)、輝く聖リアの心から出る正義の太陽の家となりました。二人は喜びの涙を流し、跪き、主を讃え、感謝しました。聖マリアは、街の人々に無視されることで謙遜の恩恵を受けたので、街の住民全員に神の祝福をお願いしました。天使たちは、王宮の衛兵のように自分たちの女王を守りました。天使たちの姿は聖ヨゼフにも見え、彼を元気づけました。聖マリアは洞穴をきれいにして、まもなく玉座となるように準備しました。聖ヨゼフもさっそく手伝いました。天使たちも二人の手伝いをしました。洞穴はまたたくうちに清められ、芳香に満ちました。聖ヨゼフは火を起こしました。その夜はとても寒かったからです。二人はこれから起こる出産のことに夢中になっていたので、食事をしようとしなかったのですが、聖ヨゼフにしつこく勧められたので従順に食事をしました。食後、感謝の祈りをし、聖マリアは最も祝されたお産が近づくのを感じ、聖ヨゼフに就寝するように勧めました。聖ヨゼフは聖マリアにも就寝を勧め、羊飼いたちが置いた飼い葉桶に自分の着物を敷き、生れてくる赤ちゃんのベッドにしました。聖ヨゼフは聖マリアから離れ、入口の隅に行き、祈り始めると直ちに聖霊に満たされ、恍惚となり、楽園にアダムが住んでいた時よりももっと素晴らしい眠りにつきました全被造物の女王にいと高き御方は大声で呼びかけました。たちまち聖マリアは新しい啓示と神の御力で満たされ、神の御姿をくっきりと見ました。自分の至聖なる御子の神性と人性についてのあらゆる知識が更新され、神の御旨について書かれた広大な巻物が聖マリアに示されました。神の秘儀はあまりにもたくさんあるので、人間の言葉では言い尽くせません。いと高き御方は御降臨の時が来たこと、どのように御降臨が起きるかを宣言しました。素晴らしい神秘の説明は、主御自身についてであり、そして恩恵を被る人間についてです。マリアは玉座の御前に平伏し、神に自分と全人類のため、感謝と讃美を捧げました。同時に、将来自分の腕に抱き、乙女の乳を飲ます人となられる御言葉に仕え、拝み、育てることができるよう、新しい光と恩寵を神にお願いしました。最高のセラフィムさえもできない、神の母としての役目に値しないことを理解し、心からへりくだりました。塵にまでなり下がり、自分の無であることを認めた乙女は、この謙遜の故に王なる神により引き上げられ、改めて神の御母となります。この恍惚の状態が一時間以上も続いた後、マリアは意識(五官)を回復しました。幼児なる神が乙女の胎内で動き始め、乙女なる母体から出る準備を始めました。陣痛は全くないばかりか、マリアは喜びに満ち、それほどまでに高揚された神の御力が起きてきました。マリアの身体は天の美により霊化され、御顔は光線を発し、まるで太陽の化身のようになり、言い表せない熱心さと威厳に輝き、熱烈な愛を燃やしました。マリアは飼い葉桶に跪き、天を見つめ、手を組み、胸に当て、神に包まれ、全身、全く神々しくなりました。この姿勢で御父の御独り子、御自身の御子、私たちの救い主イエズス、真の神人を出産しました。時は真夜中、日曜日、創世の時から5199年にあたりました。この出産において、聖マリアは処女の完全さと清純を傷つけず、もっと神に近くなりました。神は乙女の胎を破ることなく、太陽光線が水晶を貫くように突き抜けたのです。幼子の神は、出産以前に自分の身とした身体がありました。至聖なる神の霊魂は、御生誕において身体全体から溢れ出し、神々しい変容を示したことは、タボル山で使徒たちの面前で変容された(マテオ17・2)のと同じです。御生誕の時の光り輝く御変容は、乙女に真の神人なる御子に対して心からの畏敬を改めて起こさせましたし、御子への愛のため、世の事物から背けたマリアの至純なる御目を喜ばせたのです。マリアは御子を産着に包み、桶の中に横たえました。二位の大天使、聖ミカエルと聖ガブリエルはその手伝いをしていたのです。二位の天使たちは人間の姿をしてそばに立っていました。受肉された御言葉が乙女なる母の胎を貫き出て光り輝いた時、天使たちは心からうやうやしく御言葉を受け取りました。司祭がホスチアを高く挙げ、信者たちに拝ませるように、天使たちは御言葉を御母の眼前にお運びしました御言葉は光り輝く太陽でした。神の御子の目と合った時、御母は甘美なる幼子をしっかりと見つめ、幼子の輝きで包まれました。天の王子は天の王女に抱かれ、御母に言われました、「御母よ、私のようになりなさい。御身が私に人性を与えて下さったので、今日より私は神人としての私に似た姿を御身のものにしましょう。」最も賢い御母は答えました、「主よ、私を起こし、持ち上げて下さい。私は御身の芳香の後を追いかけます」(雅歌1・3)。親子の話しはもっと続きます、「私の愛する御方より私へ、そして私より私の御方へ、私の御方は私に近づきたいのです(雅歌2・16)。「見よ、私の母なる友よ、御身は美しい、御身の目は鳩のよう。」 聖マリアは御子を見習うことにより、御子のようになれると理解しました。どのようにして模倣するかも教わりました永遠の御父の御声も聞こえました、「これぞ、心より愛せる我が子なり」(マテオ17・5)。とても多くの秘儀を受け、神々しくなった最も賢い御母は答えました、「永遠の御父、高められた神、主、宇宙の創造主、諸国民の渇望せる御方を私の腕に抱くための許しを私に下さい (ハガイ2・8)。御身の価値なき母、賎しい婢なる私に御旨をお聞かせ下さい。」 直ちに御父の御声が響きました、「あなたの独り子を大切にし、見習い、育てなさい。私が命令する時、御子を犠牲にしなければならないことを覚えておきなさい。」 御母は答えました、「御手の中の被造物を御覧下さい。御身の恩寵により私を飾って下されば、御身の御子なる私の神は、私を使って下さるでしょう。御身の全能により私を助けて下されば、私は御子に忠実に仕えられるでしょう。この何でもない人間が御子を腕に抱き、哺乳することを無礼と思わないで下さい。」 この会話の後、神の御子は光り輝く御変容を中止し、苦しみを受けられる普通の人間となりました。その有様を見て、まだ脆きながら、御母はうやうやしく御子を天使たちから受け取りました。御母は腕の中の御子に言いました、「私の最も甘美なる愛すべき御方、私の目の光、私の霊魂の全て、御身は正義の太陽としてこの世に時機が熟していらっしやいました。罪と死の闇を追い払われます。真の神よ、御身の僕たちを救い給え、全人類が救い主の御身を見ますように(イザヤ9・1、私が御身にお仕えできるように、御身の婢である私の不足を補って下さい。」御母は永遠なる御父に向かって言いました、「全宇宙の崇められる創造主よ、御身の御目に叶ういけにえと祭壇がここにあります(マラキ3・4)。今より、人類に慈悲をお与え下さい。人類が御身の御怒りを受けることになっているのと同様、御身は御子と私によりなだめられます。御身の審判が中止され、御身の慈悲が私たち人類に与えられますように。御言葉が罪に染まった肉体をまとい(ロマ8・3人間や罪人の兄弟になったので、私は主の兄弟たちのために心より仲介致します。主よ、御身は無価値の私を御身の御独り子の母にして下さいました。私が母となったのは人類のためですから、人類に対し、私は愛することをやめませんし、人類の救いのため世話をし、見張りをすることをやめません。永遠の神よ、私の懇願を受入れて下さい。」 慈悲の御母は人類に向かって言いました、「悲しむ人たちは慰められます。堕落した人たちは引き上げられ、不安な人たちは安息を得ます。義人や聖人に喜んでもらいましょう。古聖所にいる預言者や王は新しい希望をもらい、全人類が主を崇めましょう。生命に近づき、救いをいち早く受け取りましょう。私は全ての人たちのため、救いを預かっています。」そして、至福の御母は、御自分の最も貞潔な唇を御子の唇に合わせました。御子もそれを願っていたのです。一部始終を見聞きした天使たちは歌いました、「天には栄光、神にあれ、地には平和、善意の人々にあれ」(ルカ2・14)。聖ヨゼフを起こす時間になりました。恍惚の眠りの中で御子の誕生を知らされていましたが、実際に自分の目で見ることを他の誰よりも先に許されたのです。聖ヨゼフは聖マリアの腕に抱かれた御子を恭しく拝み、御足に接吻しました。聖ヨゼフから産着や掛ける布を受け取り、聖マリアは御子に着せ、くるみ、桶の中に横にしました。聖マリアはこの桶に前もって藁や干し草を置いておきました。近くの野原からやって来た牛は、既にそこにいたロバと一緒になって主の両側に平伏し、自分たちの息で主を暖めました。「牛はその飼い主を知り、ロバは主人の飼い葉を知るのに、イスラエルは知らず、私の民は悟らない」 (イザヤ1・3)と預言された通りです。 

元后の御言葉  自分たちの神が貧困により蔑まれ、誰にも知られずこの世に生れ、飼い葉桶の中に横たわり、動物たちに囲まれ、極貧の御母しか頼りにならず、威張りくさった世の人々から追い払われているのを見て、それでも無視できる人がいるでしょうか? 天地の創造主が嫌悪し、批難する虚栄や誇りを誰が好きになれるでしょうか? 謙遜、貧しさは、永遠の生命に至る道として主が愛します。この真理と模範を考慮する人は少数ですし、これらの偉大な秘儀の実を稔らす人は少数です。私の模範を見習い、主を畏敬し、畏れなさい。私が御子を抱いたように、御聖体をあなたの心に受け取りなさい。聖体拝領において、主を本当に頂き、所有するのです。神があなたの心の中に入られると、私に勧めたように、「のようになりなさい」とおっしやるのです。主は天より降り、謙遜と貧窮の中に生れ、その中で生き、死に、この世とそのごまかしを軽蔑するというまれな模範を示されました。 

23・羊飼いたちの礼拝。御割礼 

ベツレヘムの門の近くで天使たちが人となられた神の誕生を祝った後、何位かの天使たちはこのニュースを、聞く耳を持つ人たちに知らせに出かけました。大天使聖ミカエルは古聖所(リンボ)に行き、聖なる首長たちに知らせました。そこに留まっている聖母の御両親には特別の挨拶をしました。人々は永遠の救いをもたらす神人に対し、新しい讃歌を作曲して歌いました。一位の天使は聖エリザベトと息子の聖ヨハネに知らせに行きました。二人とも平伏し、人となられた神に向かい、遠くから拝みました。神の先駆者となる聖ヨハネは、エリアよりももっと燃え上がり、内的更新を遂げたので、天使たちは感嘆しました。ベツレヘム地方にいた羊飼いたちは、キリストの誕生の時、特別な祝福を受けました。大変な仕事を甘受し、貧しく、へりくだり、世間から嫌われ、救世主を待ち望むイスラエルの民に属していました。良き羊飼いである主と同じく、羊を知り、羊から知られていました。従って、世間一般よりも早く主の誕生のニュースを聞いたのです。この知らせを届けたのは大天使ガブリエルで、人間の姿をして羊飼いたちの前に現れました。この天使の光に突然包まれ、羊飼いたちは恐れました。大天使は彼らに優しく言いました、「正義の民よ、恐れないように。大きな喜びの知らせがあります。今日、ダビデの町に救い主キリスト、我らの主が生れました。この真実の印として、幼児が産着に包まれ、飼い葉桶の中に横になっているのを見るでしょう」 (ルカ2・1012)。大天使が言い終わると、天の大軍がたちまち甘美なハーモニーでいと高き御方に向かって歌いました、「天には光栄、神にあれ、地には平和、善意の人々にあれ。」 王様が飼い葉桶の中にいるというのはおかしいと普通の人は思うでしょうが、羊飼いたちはこの神秘を理解し、すぐにベツレヘムヘと急ぎました。天使の言ったように、赤ちゃんが桶の中にいるのを見ると、「赤ちゃんである御言葉」も羊飼いたちを見、御顔から輝く光を発し、羊飼いたちの誠実な心に愛を刻み、恩寵の新しい状態を与え、受肉と人類の救いについての教えを授けました。羊飼いたちは地面に平伏し、真の神・人である神、人類の救い主を拝みました。御母はこれを見て昔の預言と照らし合わせ、思い巡らしました。聖霊の器として幼児の代理者として、御母は羊飼いたちに神を愛し、神に仕えるにあたり、一歩も退かないよう教えました。羊飼いたちは同意し、いろいろな神秘が判ったと答えました。食物を御母から頂き、昼まで留まっていました。羊飼いたちが帰った後、御母は御子を聖ヨゼフの腕の中に渡しました。渡す方も受け取る方も脆いたままでした。御母は言いました、「私の夫、私の助け手、天地の創造主を受け取り、私の主なる神と共に喜んで下さい。人類の祝福に参加して下さい。」 御母は心の中で御子に言いました、「私の愛すべき御方、私の友なる夫、聖ヨゼフの腕に抱かれ、話して下さい。私が頂いた善いものを、準備できている全ての人に分配したいのです」 (智恵7・13)。御母の最も忠実な夫は言いました、「私の妻よ、神の御前には天の柱も震えます。無価値の私がどのようにして神御自身を抱けるのでしょうか? 私は塵で灰です。貴婦人よ、私をましな者にする恩寵を神に頼んで下さい。」聖ヨゼフの目からうれし涙がぼろぼろ流れました御子は聖ヨゼフを見つめ、彼の霊魂を更新しました。聖ヨゼフは新しい讃歌を大声で歌いました。跪いたまま、跪いている御母に御子を返しました。二人が御子に近づく時は跪き、地面に接吻しました。御母に選ばれたことを知った時から、御母は御子にどんな苦労が待ち受けているかを考えました。御子の将来の苦しみについて、一切を予知したので、神の犠牲の小羊の御母にとり、長年月の殉教生活を送ることになったのです。御誕生の後で行なわれる割礼については、永遠なる御父より命令が来なかった間、御子が自分の律法に従うこと、人間として苦しむことを決心してこの世に来た以上、割礼の苦痛を喜んで受けることを知っていました。その反面、苦しみから我が子を免除したいという親心も強く、また、原罪から新生児を浄める割礼は、御子には不必要であることも良く知っていました。このような色々な思いで胸が一杯になりながら、御母はへりくだり、待ち受けました。神にも天使にも質問しませんでした。御母も御養父も、割礼中止という神の指示を得なかったので、律法に表されている神の御意志に添うべしと考えました。一番完全な先生である救い主が、他の人々と一緒に律法に従いたいと思っているに決まっています。御母は、普通の割礼が御子になされるべきこと、しかし、御母がその間、御子を抱いていることを聖ヨゼフに伝えました。普通の赤ちゃんたちにもつけられる鎮痛の軟膏が御子にもつけられること、主から切り落とされる包皮(聖遺物)を収めるガラスの入れ物を用意することを聖ヨゼフに頼みました。出血の時、御子の御血を受ける布を御母は用意しました。我らの救いのための御血の一滴も地面に落ちないようにするためです。用意万端整った後、聖ヨゼフに祭司を呼んでくるように頼みました。割礼の時、何という名前を御子につけるか、聖ヨゼフに尋ねました。聖なる夫は言いました、「私の貴婦人よ、いと高き御方の天使が御割礼について知らせた時、御名はイエズスとすべしと言いました。」 御母も言いました、「御子が私の胎内に宿った時、同じ名前が神から私に告げられました。イエズスと言う名前を祭司に提案しましょう。」この時、無数の天使たちが人間の姿になって天から降りて来ました。輝く白い着物を着、美しい赤の剌繍が施されています手に椋欄の葉を持ち、頭に冠をかむり、多数の太陽よりもまぶしく輝きました。しかし、一番輝いているのは胸につけた盾で、イエズスの御名が刻まれています。この盾からの光は、全天使から出る光よりももっと輝きます。天使たちは洞穴の中で二列に並びます。天使たちの首長は二位の天使、聖ミカエルと聖ガブリエルで、他の天使たちよりも一段と光り、イエズスと書いた板のような物を手に持ち、この字が他の天使たちの字よりも一段と大きく、際立って見えます。二位の天使は全員の前に進み出て言いました、「貴婦人よ、これが御子の名前です(マテオ1・21)。永遠の昔から神の御心の中に書かれています。全人類の救いの印になります。御子は同時にダビデの玉座に座り、治め、敵を打ち負かし、御自分の足台とし、審判する一方、友だちを御自分の右手に座らせます。全ては御自身の苦難と流血により可能となります。今、御血を流されるのは、救世主として永遠なる御父に従うためです。私たちは主にいつも仕え、天国に凱旋の帰還をされる時、お供致します。」 御母と御養父は喜び、主を崇め、讃歌を歌います。やがて祭司が生誕の洞穴にやって来ました。二人の役人も助手としてついて来ました。洞穴のあまりにも見すぼらしさに驚きましたが、御母の高貴な威厳を感嘆し、何も判らないまま御母と御子の眼差しに感動しました。祭司は御子に割礼をしました。御父に対し、御子は罪人の立場をとり、この割礼を受けたこと、第二に、割礼の苦痛を喜んで受けたこと、第三人類のために御血を流したこと、この三つを献げ、人間になったからこそ、この苦痛に遭えたことを感謝しました。御父の御喜びとなりました。御母はこの神秘がよく判りました。御子の苦痛は一番ひどいものでした。割礼のナイフは火打ち石に使う石で、人間の頑固さよりももっと鈍かったのです。御母は泣きながら御子を抱きしめ、聖遺物と御血を受け取りました。祭司は御両親に向かい、御子の名前を何とするか尋ねました。御母は聖ヨゼフに礼を尽し、名前を発表するように頼みました。聖ヨゼフは恭しく御母に向かい、御母が御子の甘美なる名前を最初に口にすべしと説明しました。神の御導きにより、御両親は同時に、「この子の名前は『イズス』です」と言いました。祭司は答えました。「両親が同意しています。お子様の名前は偉大です。」 祭司は他の子供たちの名前の登録簿に御子の名前を書き記しながら、心の奥底から感動し、涙があふれ出ました。訳がのみ込めないながら祭司は言いました、「お子様は主の偉大な預言者であると私は確信しています。よく注意して育てなさい。私にできることがあれば申し出てください。」 聖マリアと聖ヨゼフは祭司に感謝し、ロウソクを何本かと他の品物を贈り、祭司は帰って行きました。聖マリアと聖ヨゼフは割礼の神秘を祝い、イズスの御名を誉め、甘美なる歌を歌い、喜びの涙を流しました。御母は御子の割礼の傷に薬をつけ、痛みのある間、昼も夜も御子を抱き続けました。 

元后の御言葉  私の娘よ、御子に尽した私を見習いなさい。あなたは弱い身ながらも、熱心に、早く遅れることなく主を愛し、主に感謝し、全力を出して仕えなさい。あなたが私から教わった神秘について感謝し、忘れないように。天国にいる聖人たちは生前、このような事柄にあまり注意しなかったことに驚いています。もし、聖人たちが苦痛を感じることができたら、救世の大業に注意深くなかったことを深く悲しむでしょう。まして普通の人々は、主の苦しみについて同情していません。この無関心について気がつくときどれほど悲しみ、苦しむことでしょうか? 

24・王たちの礼拝

三人の王たちが神の子を探しに来ました。パレスチナの東の国々、ペルシャ、アラビアとサバ(詩編72・10)の王たちです。このことはダビデと、その前にバラムによって預言されています。バラムはモアブ人の王、バラクに雇われ、イスラエル人を呪うことになっていましたが、その代わりに祝福しました(民数2311)。バラムの何世紀か後の子孫たちがこの三人の王たちです。バラムは、ヤコブの家から起き上がる星はキリストであり、ヤコブの家を洽める(ルカ1・33)と言いました。この三人の王たちは、天使から神の子についての啓示を聞きました。天使が作った良く見える星を見ました。この星は昼間でも見えました。それぞれの国から見える星に導かれて旅してくると、ある場所で三人は落ち合いました。お互いに話し合ってみると、お互いが聞いた啓示は全く同じで、神の子を拝むという熱烈な信心に燃えました。天の御母は信心深い熱心な王たちを待っていました。王たちが洞穴の中に入り、光り輝く御子と御母にお会いし、地面に平伏し、御子を真の神である人間、人類の救い主として崇め、拝みました。御子から新しい啓示を頂きました。王の王に仕える大勢の天使たちがいるのに気付きました。上半身を起こし、脆きの姿勢で全人類の女王を、永遠の御父の御子の御母として誉め称えました。膝で歩み寄り、御母の御手に接吻しようとしましたが、御母は御手を引っ込め、その代わり、世界の救世主の御手を差し出し、言いました、「私の霊魂は主を喜び、崇めます。諸国民から、あなたたちを主は選び、あなたたちを招いて下さったからです。大勢の王たちや預言者たちには、人となられた永遠の御言葉である主に会うという望みが叶えられなかったのです。神の神秘を成し遂げられた主の御名を誉め讃え、主のおられるこの地を接吻しましょう。」 この御言葉を聞き、王たちは御子を伏し拝み、正義の太陽なる御子が闇を照らすために来られた(マラキ42)時に生きていることを感謝しました。聖ヨゼフに向かい、神の御母の夫に選ばれた幸運を祝いました。その後、エルサレムの宿舎に行 き、自分たちの見聞きしたことを話し合いました。「神の全能の偉大さが世間に知られず、清貧の中に隠されている! この謙遜は人間には想像もできない! これを見る幸運を掴むため、あらゆる人たちが来るであろう!」 王たちは聖家族の貧しさを思い出し、贈り物を召使いたちに送らせました。これは自分たちの国から用意してきた物の他に、旅で買った物です。聖マリアと聖ヨゼフは贈り物をていねいに受け取り、王たちのために多くの霊的贈り物をしました。王たちからの贈り物は、貧乏人や訪問者たちに、聖マリアによって分配されることになりました。王たちはその晩は眠り、天使たちから別の道を通って帰国するように教えられました。翌朝、明け方、王たちは生誕の洞穴に戻り、平伏し、黄金、乳香と没薬を主に捧げました(マテオ2・11)。王たちは、神秘、信心、両親や善政の問題について御母に質問しました。御母は心の中で御子に相談し、上智の先生として王たちに教えました。教えの美しさに魅惑され、王たちはお側から離れたくありませんでしたが、天使が現れ、自国に戻る義務を諭しました。帰る前に、王たちは御母に宝石を差し上げようとしましたが、御母は。黄金、乳香と没薬だけを受け取ると言われ、王たちに、御子の産着を一枚づつ送りました。王たちは恭しく頂き、金と宝石の箱の中に収めました。産着から芳香が溢れ、約三マイル(約五キロ)四方に広がりましたが、不信心の人たちは嗅げませんでした。産着はそれぞれの国で大奇跡を起こすことになります。なお、王たちは出発に先立ち、御母がお受け取りにならなかった贈り物の代わりに、家を建てたいと申し出ました。御母は聖なる王たちの厚意を感謝し、受け取りませんでした。出立において、王たちは御母に、自分たちのことを覚えてくださるようにお願いし、御母の御約束を頂きました。聖ヨゼフの御約束も頂きました。御子、御母と御養父の祝福を受け、王たちの心は全く溶け出し、洞穴の中に定着してしまったようでした。王たちは泣き、悲しみながら、聖家族を後にし、天使たちに教えられたように、他の道をとり、へロデ王に会わなくて済みました。 

后の御言葉 私の娘よ、王たちの贈り物は素晴らしく、贈り物と一緒に捧げた愛情はもっと素晴らしいです。あなたも同様の贈り物をするように。一番の贈り物は清貧です。この世の金持ちは、自分の兄弟である貧しい人にも、神にも、自分の持ち物を上げようとせず、独り占めしています。あなたは、自分の生計に必要なものの一部を貧乏人に与えることができます。あなたの絶え間ない献金は、愛であり黄金です。続けて祈ることは乳香です。労働と本当の自己放棄は没薬です。主に対する献げ物は、熱心に即座に捧げなさい。そのために、神の信仰と光がいつもあなたの心を燃やし続けるように。

25・幼児キリストの神殿にける奉献 

永遠の御父は、御子が神殿において御父に奉献されるよう命令されました。これは律法に神秘的に従うためです私たちの主キリストは律法の目的です(ロマ10・4)。一家の長男を旧約の義人たちがいつも主に捧げたのは、長男が神の御子、そして、待望の救世主の御母の御子であるかもしれないという希望のためです(出エジプト13・2)。永遠の御父の御旨は、神なる御子の御旨と一致しており、御言葉の御母にもよく知られていました。御奉献の前夜、御母は御父に申しあげました、「私の主なるいと高き神、私の主の御父、天地の祝日において、私は御身の神殿において御身に、生けるいけにえ、神聖な宝を捧げます。この献げ物を受け取られ、御身は人類に御身の慈善を撒くことができます。正道から外れた罪人を赦し、苦しむ者を慰め、困っている人を助け、貧しいものを豊かにし、弱い人に手を差し伸べ、目の見えない人の目を開き、迷っている人たちを導くことがおできになります。御独り子を御身に献げ、このお願いを申しあげます。御身が神なる御子を私に与えて下さったので、神にして人であられる御子を御身に御返し致します。御子の徳は無限です。私の祈願は全く僅かです。御子という宝物を御身の神殿に御返しし、私は無一文で家に帰ります。私の霊魂は御身を永遠に讃美致します。御身の御子が私に寛大で強力な御業をなさったからです。」 翌朝、明け方、御母は御子を産着にくるみ、家鳩の雛二羽と二本のロウソクを聖ヨゼフに渡し、三人で工ルサレムの神殿に出かけました。ナザレトから一緒に同行し、ベトレヘムに滞在した一万位の天使たちも人間の姿になり、行列を作り、幼児の神を讃える甘美な歌を歌い続けました。天から無数の天使たちが舞い降り、その中の多くの天使たちは、イエズスの御名を記した盾を持ち、人となられた御言葉の護衛隊を作りました。天から参加した天使たちは、御母にしか見えませんでした。神殿に着いて御母は、奉献の更新された気持ちに満たされ、他の女性たちの仲間入りをしました。お辞儀をし、跪き、両手の中の神の御子と御自身を高き主なる神に捧げました。御母はたちまち聖三位一体を幻視し、永遠の御父が、これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。(マテオ17・5)と言われるのを聞きました。同 時に聖ヨゼフは聖霊の新しい甘美さを感じ、聖霊により喜びと光に満たされました。このとき、聖霊に導かれ、聖なる祭司シメオンが神殿に入り(ルカ2・27)御母と御子が光り輝いているのを見ました同時に女預言者アンナもやって来て、御母と御子が素晴らしい光に囲まれているのを見ました祭司は御子を御母から受け取り、天に向かい宣言しました、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」 (ルカ2・29)。シメオン祭司は幼児イズスの御母に向かって言いました、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです 」 (ルカ2・34‐35)。聖シメオンが御両親を祝福した後、女預言者アンナは、人となられた御言葉を認め、イスラエルの救いを待ち望む多くの人々に救世主のことを伝えました。シメオン祭司が、主が反対の印のために立てられたと言ったとき、主の御受難と御死去を預言していましたが、この時、幼児イズスは頭を下げ、その預言を承知しました。御母はそれが判りました。その時、御母の心は剣により剌し貫かれました。鏡に見るように御母は、預言が見えました。御子が人をつまずかせる石となり、不信心者から迫害され、信じる者を救う礼拝堂が破壊され、異教者たちの間に教会が建てられ、悪魔と死に対する勝利は御子の恐るべき苦痛と十字架上の死のお陰である(ヨハネ15・20)と。救われるべき人々の光栄も見えました。主イズスが個人的に、そして教会内で受ける限りない反対も見えました。これらすべての予見は、御母の御心に深く刻まれました。聖ヨゼフは、救いの秘密と御子の苦労について多くのことを学びました。御母はシメオン祭司の手に接吻し、次に聖アンナの手に接吻しました。その後、九日間エルサレムに滞在し、聖ヨゼフと一緒に信心業を行なうことになり、二、三度、シメオン祭司に会いました。この九日間の祈りは、御懐妊前の九日間の準備と御懐妊の九ヶ月間の記憶を、幼児イズスと一緒にたどためでした。朝暗いうちから夜まで毎日、神殿の目立たない片隅でこのノベナが行なわれました。このノベナの嘆願に対し、神は、新しい特権を御母に授けられましたが、その中には次の諸特権が含まれています。一、世の中が続く限り、御母は、御母に寄りすがる全ての人たちのために仲介し、神から全て聞き入れて頂く。二、御仲介を望むなら、大悪人も救われる。三、新しい教会(ローマーカトリック教会)と福音の律法において、御母は御子キリストによる共先生である。御母が被昇天の後、宇宙の元后になられ、地における神の代弁者になられてから、これらの諸特権がもっと発揮されるようになったのです。その他全ての特権について私は限られた紙のスペースに要約することはできません。ノベナ第五日目に神が御母に告げられたことは次の通りです、「我が浄配、我が鳩よ、あなたは九間のノベナを全部やれない。他の愛徳の業をあなたはすべきであるあなたの御子の命を救い、育てるために、あなたは自分の家も母国も棄てなければならない。あなたの夫ヨゼフと共にエジプトに急いで行け。そこで我が命令を待て。ヘロデ王が御子の命を狙っているからである。この逃避の旅は長く、最も骨が折れ、最も疲れる旅である。私に対する愛のために全てを忍びなさい。私はあなたのそばにいつもいる。」 強い神が哀れな地上の人間を恐れて命からがら逃げ出すとは、普通の信者には納得いかないかもしれません。しかし、御母は申し上げました、「私の主よ、御身の召し使いを御旨のまま取り扱って下さい。御身が御子なる主の御苦難を許さず、全ての苦痛を受くるべき私に移してくださるよう、お願い致します。御身の限りない善に訴える私の不徳と忘恩を大目に見て下さいますように。」 主は御母に、聖ヨゼフに従うように諭しました。幼児なる神に降りかかる苦労の数々を幻視し、御母は泣きながら宿舎へ帰って来ました。御母は聖ヨゼフに打ち明けませんでしたが、同夜、天使が聖ヨゼフの夢の中に現れ、言いました、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」  聖ヨゼフは直ちに起床し、御母の部屋に行き、言いました。 「私の貴婦人よ、天使が全能者の命令を伝えました。ヘロデ王が御子の命を狙っているから、起き、エジプトに急ぎ逃げるようにということです。この旅の苦労を耐えられるように、御身のために私のできることを何でも言って下さい。私は御子と御身のために生きております。」 御母は答えました、「いと高き御方がそのような恩寵を下さるなら、この世の苦労を喜んでお受けしましょう(ヨブ2・10)。私たちには天地の創造主がおられます。どこでも私たちと一緒に、私たちの全ての善、天の最高の宝、私たちの主、私たちの案内人である真の光がおられます。御旨を果たしましょう。」飼い葉桶の中で眠っているイエズスの所に来ると、御母は御子イエズスに対し脆き、御子を抱き上げました。僅かな身の回りの物を箱に詰め、ロバの背に乗せ、真夜中を少し過ぎてから聖家族はエジプトヘ急ぎました。

元后の御言葉 私の娘よ、ダビデの言葉を繰り返しましょう、「主が私にして下さった全てのことに対し、私は何をお返しできるでしょうか」 (詩編16・12)。私は、自分が塵であることを自覚し、あらゆる人間の中で全く役立たずであると信じます御父の御独り子を生けるいけにえとして永遠なる御父に捧げることを、現在のあなたはできます。聖体拝領により御独り子を頂き、自分のものにすることにより、御父に捧げることができます。御子が受肉した瞬間から、この世において苦労し続けました。御子や私を見習い、苦労を忍びなさい。そうすれば、主の御血により救われる人々の数を増やせます。労働、困難、辛さや悲しみを抱きしめ、主を見習いなさい。

26・エジプトヘの御逃亡 

暗い静かな夜、聖マリアと聖ヨゼフは信仰と希望に強められ、旅をしました。しかし、御子に対する愛情のため、色々なことが心配になりました。この長旅に何が起こるか、いつまでかかるか、エジプトでの生活はどうなるか、見ず知らずの人たちとどうやって付き合うか、御子を育てるのに助けてもらえるか、それにしてもこの旅を御子がどうやって乗り切るかなど、見当もつかなかったのです。しかし、一万位の天使たちが人間の姿になって現れ、聖家族を元気づけました。ガザの町に着いて二間休みました。御母と御子を乗せたロバも聖ヨゼフも疲労困懲の極みに達したからです。そこで会った聖エリザベトの僕に、聖エリザベトに伝言する以外、誰にも自分たちの居所を口外しないように言い含めました。聖エリザベトが送ってきた布地で、聖マリアは御子と聖ヨゼフのマントを作りました。この都市に留まった二日間、聖マリアは多くの祝福を与え、瀕死の病人二人を癒し、不具の女を治し、人々に話して神について教え、生活を一新させました。人々は創造主を讃えました。聖マリアも聖ヨゼフも、自分たちの故郷や旅の目的について一言も話しませんでした。もしも、一般の人たちに知られたら、へロデ王のスパイたちに注目されるかもしれなかったのです。ガザについて三日、この聖なる巡礼者たちはエジプトに向け出発しました。まもなく、パレスチナの人の住める地帯を過ぎ、ベルサベの砂漠に入りました。ヘリオポリス、つまり現在のエジプトのカイロまで約270キロあります。砂漠を何日間も歩くのは辛いことですが、何も避難できる所がないのはもっと辛いです。色々なことが砂漠の旅の途中で起こりました。聖マリアも聖ヨゼフも不平不満を言いませんでしたが、聖マリアは自分のことよりももっと、御子と聖ヨゼフのことが気がかりになり、聖ヨゼフは御子と聖マリアの苦難に対し何もできないことが悲しくなりました。この270キロの砂漠の行程の間、大空と涯しない空間があるだけで、避難できるような所はありませんでした。この旅は二月、御潔めの日から第六日目に始まりました。砂漠の砂の上に座り、御母は御子を抱きかかえ、聖ヨゼフと一緒にガザから持って来た備蓄食料をいただき、御子に哺乳しました。夜中、一万位の天使たちが人間の姿となって聖家族を守りました。御子は御自身の苦労を御母と聖ヨゼフの苦労に合わせ、永遠の御父に捧げました。御母にはそのことが判りました。御子の就寝中、御母は目覚めており、天使たちと話しました。聖ヨゼフは箱を枕にして砂の上に寝ました。翌日、旅している間に残っていた少しばかりの果物とパンはじきに食べつくし、聖家族は空腹になり、とても困りました。夜の九時までは何とかなりましたが、食物なしにはもうこらえ切れなくなりまた。食物を得るあては全くありませんでしたので、御母はお願いしました、「永遠、偉大にして強力なる神、素晴らしく富める御身を祝し、感謝します。何の価値もない私、塵であり役立たずの私に生命を下さり、私を生き永らえさせて下さることを感謝致します。何もお返しできないのに、お願いしたいことがあります。御身の御独り子のことをお考え下さい。御独り子を助けるため、私と夫の命を保つために必要な物をお与え下さい。」 このお願いがもっと切実になるように、いと高き御方は自然が今まで以上に、過酷に聖家族をいじめることをお許しになりました。暴風と豪雨が聖家族を覆いましたが、御子は風雨に打たれ、泣き、寒くて震えました。心配な御母は、やっと被造物の女王としての力を発揮し、創造主なる御子に害を加えず、避難所と食物を与えるように命令し、自分だけにはどんなに辛く当たってもよいと申し渡しました。直ちに暴風雨は弱まりました。幼児イエズスは、天使たちに最愛の御母を守るよう命じました。天使たちは、人となった神、御母と御母の夫を包む輝く美しい球を作りました。同じようなことが旅行中、四、五回起こったのです。聖家族は食物その他にも窮乏していましたので、御母は祈願しました。主は天使たちに命じ、おいしいパン、昧つけの良い果物や飲物を持ってこさせました。天使たちは、時を移さず貧者に食物を施す主を賛美しました。この三人の流浪者たちが助かったこの砂漠は、カザベルから逃げたエリアが天使が持って来たパンで助けられ、ホレブ山に辿り着くまで歩いたベルサベ砂漠です。こうして幼児イエズスは、御母と聖ヨゼフと共にエジプトの人々の住む地域に到着しました。町に入る時、御母に抱かれたイエズスは、御目と両腕を御父の方に挙げ、悪魔の捕虜となっている住民たちの救いを願いました。王としての神の御力は、偶像の中から悪魔たちを迫い出し、地獄の底に投げ込みました。雲からでる稲妻のようにピカッと光って、地獄の闇の一番下の穴の中に落ちて行ったのです(ルカ10・18)。同時に多数の偶像は地面に崩れ落ち、祭壇は粉々に砕け、寺院は廃墟に変わりました。この素晴らしい事態の原因を御母は良くご存知でした。というのは、御母自身、御子の共者として御子と共にお祈りになったからです。聖ヨゼフも、これが人となられた御言葉のなさったことであると知っており、主を讃美しました。しかし、悪魔たちは神の力を感じたものの、どこから来たのか見当がつきませんでした。エジプト人たちは、説明のしようがないこれらの出来事に驚きました。もっと物知りの人たちは、エレミヤがエジプトに滞在した時から、ユダヤの王がやって来て偶像の祭られてある寺院を壊すであろうということを知っていましたが、どのようにして起こるかは知りませんでした。人々全員が恐怖と混乱に陥ったことは、イザヤが預言した通りです(イザヤ9・I)。何人かの人々は、私たちの偉大なる貴婦人と聖ヨゼフのもとにやって来て、寺院と偶像の壊滅について話しました。これを良い機会に、智恵の御母は人々の誤解を訂正したのです。つまり、真の神は天地の唯一の創造者であり、この神だけしか崇めるべきではないことを教えました。その他の神々全ては偽で嘘の神々で、木、粘土か金属でできており、目も耳も力もないこと、こしらえた芸術家でも誰でも簡単に壊せること、人間の方がもっと高貴でもっと力があること、こしらえられた偶像が答える託宣は、中にいる嘘つきでごまかし屋の悪魔たちが言っていること、偶像その物は何の力もないこと、たった一人の真の神だけがおられることを説明しました。 天の貴婦人は、とても優しく、大変生き生きしており、とても魅力的であるので、貴婦人の一行の到着はたちまち町々に知れ渡り、大勢の人たちが押し寄せました。人となられた御言葉の力強い祈りは、人々を改心させました。偶像が崩れ落ちたので大騒ぎとなり、人々は真の神を珀り、罪を犯したことを悲しみました。イズス、聖マリアと聖ヨゼフは町々を通りながら、人々を改心させ、偶像や憑依された人々の体から悪魔を追い出し、大勢の重病人を治し、真理と永遠の生命について教えました。昔の記録は聖家族がメンフィス、バビロン、マタリなどエジプトの町々に住んだことを示しています。私は聖家族がヘリオポリス(太陽の都市、現在のカイロ)に住んだことを書きましょう。守護の天使たちが御母と聖ヨゼフに、そこに定住するように指示したのです。ここでも寺院や偶像が壊れました。幸いなことに、名前のように、この都市の住民たちは正義と恩寵の太陽を仰ぎ見ることになりました。聖ヨゼフは都市から少し離れた所に、貧相ですが何とか住める家を見つけ、御母に喜んでもらいました。三つの部屋の内、一つを幼子イズスの部屋にして、揺りかごと長椅子を置きました。長椅子は御母の寝台になります。次の部屋は聖ヨゼフの寝室兼礼拝室です。三番目の部屋は聖ヨゼフの仕事部屋です。もともと貧窮している上、大工の仕事が見つからなかったので、御母は手仕事をして生計を立てることになりました。御母の針仕事が素晴らしいので、すぐに評判になりました。真の神人である御子の細々とした生計の助けになりました。大事な保存食品や着物、家具を慎しく揃えるため、その他の支出を賄うため、御母は日中働き通しで、夜は霊的精進に励みました。普通の人たちと同じように働き、神の御子が食べていけるだけ働けるよう、永遠の御父にお願いしました。エジプトの酷暑と大勢の病人がいることが理由で、疫病が蔓延しました。ヘリオポリスや他の町々が、その当時、荒廃しました。幼子イズスと御母による奇跡的治療が知れ渡り、国中あらゆる所から大勢の人々がやって来て、霊魂と身体の病気を治してもらい、故郷に帰って行きました。主の恩寵がもっと豊かに流れ、最も親切な御母が慈悲の業を助けてもらうため、神は聖ヨゼフを御母の助手に任命しました。聖ヨゼフは啓示の光と治療の力を頂きました。エジプトに来てから三年目のことです。聖ヨゼフは男性の癒しに当たり、祝された貴婦人は女性の手当てを受け持ちました。この二人の医療により、人々の霊魂に与えた影響は驚異的です。御母の絶え間ない恩恵と優雅な言葉は人々を惹きつけ、御母の謙遜と聖性は人々の心を献身的愛で満たしました。人々はたくさんの贈り物を持ってきました。御母と聖ヨゼフの稼ぎの足りない部分を補う他、貧者に施すため、贈り物を受け取りました。御母は御自分の手作りの品をお返しに人々にあげました。エジプトに滞在中の七年間、聖家族の行なわれた奇跡の全てを語ることは私にはできません。御母 が全能者を最も敬愛するようになたのは、全能者が大勢の幼児の殉教の様子を見せて下さったからです。幼子イエズスを取り逃がすまいとして、ヘロデ王は生後八日の赤ちやんから二歳までの幼児を虐殺しました。幼児たち全員は、神について高遠な知識、完全な愛、信仰と希望を頂き、神の信仰、崇拝と愛、自分たちの両親の尊敬と同情の英雄的な行為をしました。幼児たちは両親たちのために祈り、霊的生活を進展させるための光と恩寵が両親に下るように願いました。そして、喜んで殉教し、天使たちによりアブラハムの懐に運ばれました。幼児たちは聖なる先祖に会って喜び、古聖所からの解放が近いことを知らせました幼児たちの幸せは、神の御子と御母の祈りのお陰です。御母は感極まって叫びました、「子供たちよ、主を讃えなさい。」 

元后の御言葉 私の娘よ、人間は高貴な被造物です。主の御姿に似せて造られ、神々しい性質を与えられ、神を知り、愛し、仕え、そして、永遠に神と共にいる幸福にあずかるべきです。それなのに、誰にも危険を加えない赤ちゃんたちを切り殺すという残酷で嫌悪すべき情欲により、品位を落とし、汚れてしまいました。あなたは大勢の霊魂の滅びを思い、泣くべきです。あなたの生活しているこの時代に、ヘロデ王を剌激したのと同じ野心が教会の子供たちの心の中に憎悪を起こさせ、無数の霊魂の滅びを引き起こし、私の至聖なる御子の御血を流させることになりました。御血が流れたことを心から悲しむべきです。

27・イズスとのマリアの甘い交わりエジプトからの帰国。

ズスは一歳になった時、沈黙を破り、養父として忠実に務めを果たしている聖ヨゼフに話すことにしました。御母との会話が御誕生の時に始まったことは、私が前に述べた通りです。御母と聖ヨゼフが御独り子を人々の救いのために世に送り、人となり、人々と話し、堕落した人性の罰を受けるように取り計らった神の無限性、善と有り余る愛について話し合っていた時です。その時イズスは御母の胸に抱かれながら聖ヨゼフに話しかけました、「私のお父さん、私が天から地に降りて来たのは、この世の光となり、世を罪の暗黒から救うためです。良い羊飼いとして私の羊を探し、知るためです。羊たちに永遠の生命を与え、天国への道を教え、羊たちの罪により閉ざされていた天国の門を開くためです。御母もお父さんも光の子供たちになって下さい。」 この御言葉は家長である聖ヨゼフの心を新たな愛、尊敬と喜びで満たしました。聖ヨゼフは脆き、お父さんと呼んで下さったことを感謝し、涙を流し、自分が御旨を果たせるよう導き、何物にも優る御子からの恩恵を感謝するよう教えて下さることをお願いしました。聖ヨゼフは肉親の父親ではなく養父ですが、御子に対する愛情は、普通の両親二人分の愛情よりももっと深いのです。イズスが一歳の時、御母は普通の赤ちゃんが着るような着物を着せました。イズスは他の赤ちゃんたちと違わないように、本当の人性を取るように、人間への愛を示すように、人間の不便さを耐えるように望みました。イズスの人に対する無限の愛は、御母を主に対する感謝で一杯にし、英雄的諸徳を行なうきっかけとなりました。御子が履物を必要としないで一枚の着物だけで十分と言ったのですが、抗議して言いました、「何か履く物が必要です。布地の荒い着物は御身の肌を傷つけるのに、御身は下着の亜麻布(リンネル)も不要だとおっしやいます。」御子は答えられました、「御母よ、私の足には何かの覆いをしましょう。公生活が始まれば裸足になります。今リンネルは不要です。それは肉欲を助長しますし、人々の諸悪徳を引き起こします。私の模範により、私を愛し、模倣するように大勢の人たちに教えたいのです。」 御母は直ちに御子の要望に応じました。自然のままで着色されていない羊毛を人手し、細い毛糸を紡ぎ、一枚の縫い目のない布を織りました。小さな織櫃を使い、横糸を通し、剌繍するように織ったので、綾織りのように少しデコボコした感じにでき上がりました。それは、しわもなく平で均等であったことと、御母の要望により茶色と銀灰色の混ざった色が着いたことが二つの不思議なことです。御母は麻のような強い糸で靴を織り、幼児の神に履かせました。御母は下着も織りました。御子イズスは歩けるようになってから、昼間の何時間か御母の祈祷室で過ごしました。御母の無言の問いかけに御子は答えられました、「私の御母、私といつも一緒にいて私の仕事を模倣して下さい。御母が皆の模範となり、人々の霊魂も御母の完徳を積むように。もしも人々が私の意図に反抗しなかったら、人々は私の最も豊かな賜物を得たことでしょう。人類が私を排斥したので、私は御母を全ての完徳と私の宝の器として選びました。私を見習うため、私のあらゆる行動をよく見なさい。」 こうして天の貴婦人は、新しく御子の弟子になりました。御子が永遠の御父に向かって人間の救いのため祈る時、地面に平伏すか、十字架の形をとって起き上がりました。この全てを御母は真似ました。御子の外的行動だけでなく、心の中の動きも御母にはよく判りました。御母は御子の至聖なる人性と霊魂の動きを見ていつも喜びました。御子の人性が神性を敬い、愛し、讃えるという心の中の行為を感知したのは御母だけの特権です。例えば、御母の目の前で御子イズスは泣き、血の汗を流しました。ゲッセマニの園でそのように苦しまれる前、何回も苦しみました。御母はその苦しみの原因がよく判りました。つまり、人々が滅びたこと、創造主と救世主の恩恵を感謝せず、主の無限の力と善の御業をその人たちが棄ててしまったことです。また御母は、御子が天の光で輝き、賛美歌を歌う天使たちに囲まれているのを見た時もあります。このような不思議なことは、御母だけが目撃したのです。ヘリオポリスの大勢の子供たちが御子イズスのもとに集まって来ました。無邪気な子供たちは御子が人間以上かどうかを問わず、天の光を自由に受けたので、真理の先生である御子から歓迎されました。御子は子供たちに神や徳について教え、永遠の生命の道を大人たちよりもっとたくさん諭しました。御子の御言葉は生命と力があるので、子供たちの心を掴みました。イズスと遊ぶという幸運を得た全ての子供たちは大きくなって偉大な聖人になりました。エジプトにおいて御子イズスが七歳から八歳になろうとした時、ナザレトに帰ることになりました。預言の通りです。御子と御母が一緒に祈っていたある日のこと、御二人は主の御旨を知りました。同じ日の夜、主の御使いが睡眠中の聖ヨゼフに話しかけ(マテオ2・20)、御子と御母をイスラエルの地に連れ戻すこと、ヘロデ王や御子の命を狙った人々は既に死んだことを告げました。いと高き御方は、家長である聖ヨゼフに旅の準備を任せました。聖家族は、より高い地位にある御子と御母に従う天使たちと一緒に、パレスチナに向かって出発しました。偉大な女王はロバに乗り、膝の上に神の御子を抱え、聖ヨゼフはそのすぐ後を歩きました。エジプトの友だちや知人たちは、偉大な恩恵者たちが立ち去ることを悲しみました。激しく泣き、嘆息をつき、恩恵者たちなしには何もできなくなることを大声で抗議しました。闇を追い散らした太陽が沈み(ヨハネ1・9)、惨めな夜が迫って来たからです。聖家族は神の助けにより、別離の辛さを乗り越えました。エジプトの色々な町を通りながら、聖家族は恩寵と祝福を撒きました。一行の近づくのを前もって知って、病気や悲しみに喘ぐ人々は沿道に集まり、身体と霊魂の治療を聖家族から頂きました。病人は治り、悪霊たちは病人から追い出されました。ナザレトヘ帰って見ると、聖家族の家は、聖ヨゼフの従姉妹がよく留守番をしていました。ここに長く住みましたから、御子はナザレト人と呼ばれます。ここで御子は年齢、恩寵と徳を重ね成長しました。御母は、御子と聖ヨゼフと一緒に家の中に入ると直ちに御子の前に平伏し、主を崇め、ヘロデの迫害から御子を救い、苦しい長旅の間、三人を助けて下さったことを感謝し、いつもの祈祷生活を始めることにしました。御子の救いの御業に御自身をいつも一致させることです。一方、聖ヨゼフは、神の御子と神の御母を扶養するという大事な役目を果たしました。額に汗して労働することはアダムの他の子孫たちにとっては罰でしたが、聖ヨゼフにとっては幸福でした。御母は聖ヨゼフの食事や身の回りの世話を心からの愛情で行ない、聖ヨゼフの言うことに従い、聖ヨゼフの召し使いの立場をとりました。親切にして下さる人たち、除け者にする人たち、自分を嫌々ながらも我慢してくれる人たち全員に感謝しました。 

元后の御言葉 私の娘よ、繁栄か窮乏は、この世について回ります。一事を嫌い、他事を喜ぶのではなく、全能者の御旨だけを考えなさい。人間の心は限られており、狭いので、好き嫌いのどちらかの極端に走りがちです。一人の人間により頼み、失望すると、もう一人の人間に自分の活路を見出そうとします。そうすると混乱と情熱の中に自分を失うことは目に見えています。主の御意志だけが、あなたの喜びとなるように。あなたの望みとか恐れが聖務を怠らせることのないように。いつも主を見つめるように、私を見倣いなさい。

28・マリアの内的試練。イエズスは神殿に留まられる。

聖家族がナザレトに落ち着かれてから御子が十二歳になられるまでと、その後、公生活に至るまでの御様子について、私が見聞きした事柄は莫大な内容があり、私は二、三の出来事しか書くことができません。ナザレト帰還後まもなく主は、御母に少女時代と同じ修練をお望みになりました。聖なる福音史家たちは、イズスが十二歳の時、エルサレムで迷子になった時のことを記録した他、御母については触れていません。ナザレト滞在二十三年間、御母は、御子イズスキリストのたった一人の使徒でした。この至純なる乙女が、神以外の全てを越えた高みに至るまで聖性を養うために、主から愛徳その他諸徳を試されました。そのため、主は聖なる乙女から遠ざかりました。主の輝かしい臨在も恩寵もあるのですが、内的に姿を消し、最も素晴らしい愛情の印も示さなくなりました。御子も内的になり、しょっちゅう一人きりでいることが多くなり、口数もとても少なくなりました。この予期せぬ説明もない変化は、私たちの女王の愛の純金を更に純化するための溶鉱炉となりました。女王は、自分が主の幻視を見せて頂く価値のない者であり、慈愛の御父に感謝しなかったと考えました。愛を失ったことよりも、主に十分仕えなかったり、落胆させたことを怖れました。自分の落ち度を嘆く御母の愛情を見て、御子は胸が痛くなりながらも、外面的にはよそよそしい態度をとりました。このような逆境にめげず、御母の心はますます愛に燃えました。深くへりくだり、御子を心から崇め、御父を祝し、御業の素晴らしさに感謝し、御旨に自分を献げ、信、望、愛と燃える愛の祈りを絶え間なく更新しました。御母のあらゆる行為から、かぐわしい芳香が御父に昇って行きました。また、涙ながらに自分の苦難について主に申し上げました。御母の願いに応じ、聖ヨゼフは長椅子をこしらえました。御母は毛布を一枚かけました。これが工ジプト滞在の時から御子の寝台となりました。御母は毛糸で枕を作りました。しかし、この寝台に御子は滅多に寝ませんでした。御子は、自分のベッドは体を四方に延ばしてあおむけに寝られる十字架だけであると言われました。地上の人々が愛する物事によって、誰も永遠の休息を得られないこと、苦しむことはこの世の本当の休息であることを教えられました。御母は御子に倣い、御子のされるような休息の取り方をしました。御母の苦難は三十日間続きました。愛と神なしには一瞬間も生きられないと思う御母にとっては、何年間もの苦難に匹敵しました。また、この期間は、御子イエズスにとっても、御母に対する愛を見せないという苦しみの時でした。ある日、謙遜なる女王は御子の足許に平伏し、泣き、訴えました。「私の最愛なるいと高き善なる神、私は塵と灰にしか過ぎません。私が御身に対する奉仕に熱心でないなら、叱り、そしてお許し下さい。しかしながら、私の救いである御顔の喜びをお見せ下さい。それを拝見できるまで私は平伏し続けます。」 この熱烈な嘆願以上に、御子はそれを望んでおられました。大変優しく仰せになりました、「私の母上、お立ち下さい。」 御子は永遠なる御父の御言葉です。この御挨拶はたちまち御母を最も高揚された恍惚の中に引き上げました。この神の幻視の中で、御子は御母を優しく迎え、御母の涙を喜びに変え、新しい福音の掟の偉大な秘密を御母に授けました。至聖なる三位一体は、御母を人となられた御言葉の最初の使徒に任命し、あらゆる人々の模範にしました。あらゆる聖なる使徒たち、殉教者たち、教会博士たち、聴罪師たち、修道女たち、その他、御子が人類の救いのために建てる新しい教会の義人たちの模範となったのです。聖家族がナザレトに落ち着いてしばらくしてから、ユダヤ人がエルサレムの神殿に行き、主に御挨拶する時が来ました。出エジプト記や民数記に書かれてあるように、この義務は年三回あります。男性だけに義務があり、女性には義務が課されていません(出エジプト23・17)。女性は行っても行かなくてもよいのです。天の貴婦人は聖ヨゼフに相談し、人となられた御言葉にも助言を求めました。そして、三人は、年二回は聖ヨゼフだけが一人でエルサレムに行き、三度目は三人が一緒に行くことに決めました。イスラエル人が神殿に行くのは、幕屋祭、ペンテコステ(聖霊降臨)の祝日と、種無しパン、つまり準備の過ぎ越しの祝日でした。聖家族が一緒に行くのは、過ぎ越しの祝日になりました。何回も家族は行きましたが、神の御子が十二歳になった時、家族は神殿に出かけました。この過越祭は七日間続き、最初の日と最後の日が一番盛大でした。聖家族は他のユダヤ人たちと同様、七日間、礼拝と信心業を行ないました。御母と聖ヨゼフは、人には考えられないほどの恩寵と祝福を頂きました。祭りが終わり帰郷する時、御子は黙って両親から離れました。団体は男女別々に旅をして、ある地点で合流することになっていました。御子は一緒ではなかったので、御子は聖ヨゼフと一緒であると御母は考え、他方、聖ヨゼフは御子は御母と一緒に違いないと思い、二人ともそう思い込んでいました。御二人が合流し、御子がいないと判った時、驚きの余り、しばらく茫然としていました。やっと気を取り直した時、御子を見失ったことで呵責の念にかられました。愛すべき御母は聖ヨゼフに申しました、「私の夫、私の主人、心配でしようがありません。急いでエルサレムに取って返し、私の至聖なる御子を見つけましょう。」御二人はエルサレムに戻り、親戚や友人を訪ね回りましたが、誰一人として御子の所在を知る人はいませんでした。至聖なる御母は涙と嘆きに明け暮れ、三日間寝食を忘れました。三日目に砂漠に行き、そこで洗礼者聖ヨハネに尋ねてみようと思いましたが天使たちに止められました。ベツレヘムの生誕の洞穴に行きたいと思いましたが、またもや天使たちに引き留められたので、御母は天使たちが主から口止めさせられていると気付きました。この時の御母は女王にふさわしく誠に偉大でした。御母の悲しみは、あらゆる殉教者たちの苦痛を全部合わせたものよりも、もっと深刻でした。天使たちと話す以外は何らの恩恵も与えられず、御母は御子の謎の失踪に苦しみ続けました。御母は、聖性、堅忍不抜と完徳、平安を保ち、怒りとか混乱、困惑など普通の 人々が陥る苦しみには落ち込みませんでした。御母は天の秩序と調和を保ち、主に対する畏敬と讃美を忘れず、熱心に三日間ずっとエルサレムの街を歩き回ったのです。何人かの婦人たちに御子の特徴を質問されるど御母は答えました、「私の子は色白で血色がよく、何千人もの中から選ばれた人です。」 一人の婦人は言いました、「その子だったら私の家に施しを乞いにやって来ましたよ。私は少し分けてあげましたの。気品が高く、ハンサムで、私はうっとり見とれました。その子があまりにも貧乏な様子なので、すっかり気の毒になったのですよ。」 この最初の知らせで御母は少し元気になりました。他の人たちからも同様の知らせを聞き、清貧の開祖である主は病院に行かれたであろうと察し、病院に行て見ると、案の定、施しをし、慰めてあげたと判りました。御子のことを聞いて、御母は懐かしさが込みあげてきました。御母は御子が貧しいもの所にいないなら神殿にいるであろうと考えすぐに向かいました。天使たちも御母に神殿に急いでいくように勧めました。その頃、聖ヨゼフは、御母と離れ、他の地域を捜し回ていました。神の御子を心配するあまり、飲食を忘れ、行き倒れるかもしれないほどでした。御母が天使たちから勧められるとすぐに聖ヨゼフに会たのですさて、神の御子が旅の一団から離れ、エルサレムの街の中に戻たのは、街の門のすぐそばでした。御自身の失踪により起こる全てを予見し、人々の恩恵のため、全てを永遠なる御父に捧げました。御子がその三日間、施しを乞いながら人々の家々を訪問したのは、清貧の長男として乞食生活をするためでした。貧者のための病院に行て、もらった施し物を与え、慰め、密かに身体の病気を治したり、大勢の病人の霊魂の健康を回復してあげました。御子が施し物をした何人かの人たちには恩寵と光をたくさん与えました。このようなことをし終えた後で御子は神殿に行きました。その日、学問を積んだ先生たちが集まり、救世主の来臨について討論していました。洗礼者聖ヨハネの誕生や東の王たちの来訪以来、不思議なことが起こったため、救世主の来臨が噂されていたからです。著名な学者たちの前に、神の御子は諸王の王として、無限の智恵なる神として現れました。威厳と恩寵をふんだんに与える御子に、学者たちは耳を傾けました。御子の説明に学者たち一同は驚嘆し、この子供はいったい何者かと口々に言い合いました御子が説明を終了する前に、御母と聖ヨゼフが到着し、御子の話しに聞き入りました。御子を見つけて大喜びの御母は、御子に近寄り言いました、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(ルカ2・48)。主は答えられました、「どうして私を探しましたか? 私が御父の御業に携わっていることをご存知ではなかったのですか?」 ルカはご両親が御子の言葉を理解しなかったと言います(2・50)。御両親には御子の行動は隠されていましたし、その時は喜びでいっぱいで十分に納得するひまはなかったからです。学者たちは素晴らしい教えを聞いてすっかり驚いて去って行きました。三人きりになると、御母は御子を優しく抱いて言いました、「私の子よ、私の心の悲しみと苦しみを言い表したことを赦して下さい。行方不明にならないで下さい。御身の手元に召し使いとして私を置いて下さい。私の怠慢のため、御身が立ち去られるなら、どうぞ私を赦し、ましな人間にして下さい。」 神の御子は御母を受入れ、三人はナザレトに出発しましたナザレトでは御子イズスは御母と聖ヨゼフに対して従順でした。神が両親に対して従順なことは天使たちの驚嘆の的でした。御母は聖ヨゼフの助けを得て、御子を自分の子供として取り扱いました。御母は、御子が戻て来られたことに心から感謝しました。それに値しないことを御母は十分に承知しており、御子への奉仕についてもっと愛情深く、もっと注意深くなりました。御子の世話をする時、御母はいつも素早く、いつも世話をする機会をうかがいました。御子のそばではいつも跪きました。御子は心から感動し、最も強い愛情で御母と結ばれました。御子の恩寵は御母の心の中に洪水のように流れ込みましたが、御母の心から溢れ出ませんでした。御母の心は大海のように大きいからです。 

后の御言葉 私の娘よ、主が私から姿を消されたのは、私が悲嘆の涙にくれながら主を追い求め、ついに主を発見し、再び喜び、豊富な実を得るためでした。あなたも同じように、主をしっかりと抱きしめ、決して見失わないように熱心に主を探しなさい。無限の智恵なる主は、私たちを永遠の幸福に至る道に導きましたが、そこまで行き着くかどうか私たちが疑うこともご存知です。疑っても最終の目的地に達したいという希望と、達しないのではないかという怖れがあります。しかしそれがある限り、最大の邪魔者である罪を一生嫌悪することになります。この怖れ、不安、嫌悪は信望愛や自然な理解力に加えて必要です。主を忘れないように。主のおられない時にはそのことに気付くように。主を忘れると、たくさんのこの世の宝物やごまかしの楽しみを自分の物とし、それを自分の最終目的にします。この危ない愚行に注意しなさい。この世のあらゆる楽しみは気違いであり、この世が笑うことは悲しみであり、官能的快楽は自己欺隔であり、心を酔わし、本当の智恵を壊す愚であることをわきまえなさい。主を完全に抱くと主以外の何物にも喜べないのです。

29・イズスは母に恩寵の法則を教えられる 

聖母は、御子の最初の特別な使徒です。諸聖人の聖性と光栄は、主イズスキリストの愛と功徳のお陰ですが、そのすべてを合わせても聖母の聖性と光栄には及びません。御独り子の似姿である聖母には不完全さがありません。キリストの無限の愛が聖母に与えられました。聖母が主キリストから受けなかった恩寵を戴いている人は誰もいませんし、人々が戴けなかった恩寵も全て聖母は戴いております。聖母は諸聖人が各自の目的達成に向かう原動力となりました聖母の優秀さを知るためには、主キリストが聖母にどうなさったかを、全教会建設のために払われた御努力と比較する必要があります。主は使徒たちを選び、導くために三年間努力されましたが、御母に御自身の聖性を刻み込むため三十年間を費やされました。神の愛の力は、片時も休むことなく働き続け、恩寵に恩寵を加え、賜物の上に賜物を重ね、祝福の後に祝福を与え、聖性に聖性を加えました。このようにして達成した聖母の偉大さは、太陽のように輝いています。主イエズスは、エジプトから帰国した後、聖母に、御自身が先生になることを明かしました。エルサレムから帰宅した後、聖母は神を見ました。この幻視はそれまでの直感的幻視ではなく、知的イメージであり、神性について新しいイメージで、神の秘密をたくさん示し恩寵の法則と御力について神の御旨を啓示しました。同時に聖母は、永遠の御父が封印された七巻の書(黙示5・I)を御子に委託したことを見ました。小羊なる主が、御自身の受難と死により、教義と功徳により、封印を破ったことも見ました。この本の秘密は福音と教会についての新しい律法であることを神は示されたのです。至聖なる三位一体は、聖母がこの本を読み、理解する最初の人になることを望まれました。御独り子が本を御母のために開き、その内容を全部御母に見せ、御母がその内容の通りに行動する最初の人になると判りました。この新しい契約は、御子の本当の御母に委託されたのです。永遠の御父と御子がこの御旨をどれほど喜び、御子の人性が聖母のために大喜びで従われたかを聖母は見通しました。聖母は、この恍惚となる幻視から目が覚めると御子の許に行き平伏し、申し上げました、「私の主、私の光、私の先生、御身の御旨を成就するため、御身の価値のない母を準備されました。私を改めて御身の弟子として、召し使いとして任命して下さい。御身の智恵と力を発揮する道具として私を用いて下さい。御身の御旨と御身の永遠の御父の御旨を私により行って下さい。」 御子は、人類の救い、教会の設立と新しい福音の掟の制定に関して、永遠の御父が御子に申し渡された事業の深遠な意義について聖母に説明しました。聖母が御子の伴侶であり、共者であること、至聖なる貴婦人は御子の十字架上の死まで苦労をともにし、全く不退転でたじろがない気持ちを持ち続けることです。福音の掟の理解と実行についても御子は教えました。聖母は謙遜、従順、敬服、感謝と熱烈な愛で御子の教え全部を受人れました。

元后の御言 いと高き神は、光をあらゆる人々に与えます。人々が自由意志を濫用し、この光を罪により遮らない限り、光は神を知り、天国に入るよう私たちを導きます。主の教会に入る者は、神をもっと良く知ります。洗礼の恩寵は必然的諸徳や自分の努力によって達成できない諸徳だけでなく、この世的な諸徳や修練により獲得できる諸も与えます。これらの諸徳は、神の聖なる律法を熱心に私たちが守るためです。信仰の光の他に、福音の神秘をより良く理解し、善業に励むための知識と徳も、主は他の人々に与えます。あなたは他の多くの人よりももっと恵まれていますから、主に対する愛と、塵にまで自分をへりくだらすことにおいて、人一倍の努力をしなさい。私は、主の御業を破壊しようとする悪魔のずる賢さについて警告します。子供が物心つくようになるとすぐに、悪魔たちにつけ狙われます。私たちが神を知り、徳を積むようになると、悪魔たちは怒り狂い、神が蒔いた種を地中から取り除こうと躍起なります。または成長するのを抑え、実を結ばせまいとし、悪徳や無用の事柄、その他、徳やキリスト者としての自覚、神の知識、救いや永遠の生命を忘れさせようとします。悪魔は、親たちに子供たちに対する卑しい怠慢の気持ちや肉感的愛情を吹き込みます。学校の先生たちを不注意になるように扇動します。従って、子供たちは悪に対抗するための指示がもらえず、多くの悪い習慣により腐敗し、諸徳を見失い、堕落していきます。しかし、最も親切な主は、この危険にいる人々を忘れません。主の司牧者を通して、教会の聖なる教えを授けます。主は秘蹟やその他多くの助力を提供します。救いの道を歩く者が少ないのは、子供の時に培われた悪徳や悪い習慣のためです。「子供の時のような日々を老人が暮らすことになる」と言われています。そのため、悪魔たちは子供の霊魂を捕まえ、子供に小さな取るに足りないような過失を起こさせれば起こさすほど、大人になってから、もっと大きな罪をもっと頻繁に犯すようになると企んでいます。罪を一つ犯す毎に、悪魔に支配されるようになります。悪の惨めな軛(くびき)が人間の首をもっと固く締めつけます。人間の霊魂は、自分自身の悪に踏みつけられ、断崖から落とされ、また次の崖から落とされ、奈落の底の方へどんどん落ちて行きますルシフェルは大勢の人を地獄に投げ込みました。毎日、大勢の人を投げ込み続け、全能なる神に対して鼻高々に威張っています。ルシフェルはこの世の暴君となり、人々に死、審判、天国と地獄を忘れさせ、異教や異端の暗黒の底へと諸国民を突き落としています。私の娘よ、神の律法と命令、カトリック教会の真理や福音の教義を忘れてはいけません。毎日、神の教えを黙想し、他の人たちに黙想するように勧めなさい。毎日実行する信仰、信頼を起こす希望と熱烈な愛は、全て痛悔と謙遜の心から始まるのです(詩編51・19)。

30・イエズスとマリアが人類のために祈り続けられる 

本書が我らの救い主イズスキリストと御母の御業を明らかにしようとすればするほど、言葉は不完全であることがはっきりしてきます。私たちには理解できません。資格もありません。最高位の天使、セラフィムさえも、イズスと御母の地上における生活中の秘密の核心に触れることはできません。私が今書き記すことは、恩寵の法がこの世の第六期に成し遂げられるかについてです。この第六期とは、今までの1657年間と、世の終わりまでの未知の未来を含む期間です。御母は、御子から教会の存続中の期間、諸国諸地方に起こる出来事一つ一つについて教わりました。これら全ての隠された秘儀は、聖母の貧しい祈祷部屋で教えられました。ここであらゆる神秘中の神秘である御言葉の受肉が聖母の処女なる胎の中で行なわれました。剥き出しの粗末な壁に囲まれただけの部屋が、新約の大祭司である主イズス・キリストの至聖所であり、祈りの部屋であり、御母に教える教室にもなりました。救いの御業や恩寵の宝庫について主は説明し、罪や忘恩の人々も救いを得られるように、永遠の御父に祈願しました。主は人類の罪や、感謝しない人々が大勢、地獄に堕ちることも予知していたので、その人たちのために自分が死ぬことを考え、血の汗を何回も流したのです。聖木曜日の晩、御受難の直前の時だけ血の汗を流されたのではありません。祈られる時、主は跪いたり、十字架の形をして床に伏したりして祈られました、「ああ、至福の十字架よ!お前の横木の上に私の両腕が置かれ、釘付けにされ、あらゆる罪人たちを歓迎するのはいつであろうか盲人たちよ、光である私の許に来なさい。貧しい人たちよ、恩寵の宝庫である私の所に来なさい。小さい者たちよ、本当の御父である私の胸に飛び込みなさい。苦労し疲れきった者たちよ、私はあなたたちを元気にしてあげようマテオ11・28)。義人たちよ、私の遺産を受け継ぐため来なさい。アダムの子供たち全員よ、来なさい。私は全員に呼びかけます。私は道、真理、生命です(ヨハネ14・6)。あなたたちが望むものは何でもあげよう。私の永遠なる御父よ、御身の被造物なる人々を見棄てないで下さい。私が十字架上の犠牲として私自身を捧げますから、人々に正義と自由を回復させて下さい。人々が少しでも協力することを望むならば、私は人々を御身の胸に連れ戻せます。」 主の祈りの間中、御母はおそばで同じ姿勢で主の御旨に心を合わせました。主が口に出されたこと、胸の内に抱くこと全ては御母の祈りとなりました。御子の血の汗を見て御母は悲しみで一杯となり、人々の罪と忘恩がどれほど御子を苦しませるかを嘆き、叫びました。「ああ、人の子らよ、主があなた方をどれほど大切にされておられ、あなた方のために血をお流しになることを軽んじています。主を愛し、仕えなさい。感謝する人たちや義人たちは幸いです。人々が光と恩寵に満たされ、救い主を受入れますように。私はアダムの子らの奴隷の中でも下っ端の奴隷となりたいと思います。人々が罪を棄て、地獄に堕ちないように少しでもお手伝いしたいと思います!主よ、私の霊魂の命と光よ、御身の祝福を感じないほどの頑固者はいるでしょうか? 御身の燃える愛を無視するほど忘恩の者はいるでしょうか? ああ、アダムの子らよ、あなた方の人でなしの残酷さを私に向けて下さい。気のすむまで私を軽蔑して下さい主だけを愛して下さい。私の御子である主よ、御身は光の光です。永遠の御父の御子、御父と全く同じ御子、永遠、不滅、広大無辺であられます。」 御母は、御子の御顔から血と汗を拭いました。他の時には、御子は光栄に輝き、タボル山の御変容のようでした。大群の天使たちが御子の周囲で讃美と感謝の歌を美しく歌いました。御母もコーラスに参加しました。ありったけの力を振り絞って歌ったので、倒れそうになりましたが、天使たちに支えられました。主の御受難にも御光栄にも、御母は全身全霊で参加し、全能の御父の計り知れない審判には、御自身を塵にまで引き下げ、尊敬を表しました。全てにおいて全能の御父の御旨に叶いました。

元后の御言葉  私の娘よ、あなたの言行が主の言行に一致するかどうか、あなたが主を崇め、隣人のためにする意志を持っているかどうかをよく見極めなさい。それが確かになったら直ちに主と一致して、主を見倣って行動に移りなさい。私自身、主なる先生をいつも見倣い、全くためらわず、完全に主を模倣することだけを望みました。今日から私を先生にしなさい。何事もする前に、母であり先生である私に相談し、許可を願いなさい。私の返事を聞いたらすぐに主感謝しなさい。私があなたの度重なる質問に答えない時は、主が御旨について教えて下さいます。全てにおいてあなたの霊的指導者に導きを請いなさい。このことをしっかり覚えておきなさい。 

31・聖ヨゼフの幸いなる死 

八年間聖ヨゼフは病気にかかり、毎日、苦しみと神に対する愛の溶鉱炉の中でますます清められました。体が衰弱していく日々、聖母の手厚い看護を受けました。聖ヨゼフの命が長くないことを知り聖母は御子にお願いしました、「いと高き主なる神、永遠の御父の御子、世の救い主、御身の光により、御身の召し使い聖ヨゼフの死が迫っていることが判ります。御身の慈悲により、聖ヨゼフが死に直面するのを助けて下さい。聖ヨゼフが平和と、御身が天の門を開く日に永遠の報酬を受けるという希望を持って旅立ちますように。御身の僕、聖ヨゼフが忠実に熱心に御身と私を扶養したことを考えて下さい。」 主は答えられました、「私の御母、あなたの要望も聖ヨゼフの功徳も素晴らしい。今私は聖ヨゼフを助け、私の民の王たちの仲間入りをさせましょう。他の人々にはしないことを、あなたの夫にしてあげましょう。」御母は御子に感謝しました。九日間、毎日毎晩、聖ヨゼフの枕元に御母か御子が付き添いました。主の命令により、天使たちは一日三回、九日間、天の音楽を主の讃美と聖ヨゼフの祝福のため奏でました。聖家族の家は芳香に満たされ、近くを通る人たち全員をとても生き生きとさせました。逝去前のまる一日の間、聖ヨゼフは神の愛に燃え、恍惚の中に包まれました。恍惚の中で聖ヨゼフは神の真髄を明瞭に見、その中に信仰箇条の全てを見ました。理解できない神性、受肉と救いの神秘と、全秘蹟を遂行する戦闘の教会を見ました。聖三位一体は聖ヨゼフに、古聖所にいる聖なる王たちや預言者たちに伝言することを命じました。そのメッセージは、アブラハムの胸から起き上がり、永遠の休息と幸福に向かう準備をするようにということです。この恍惚から我に返ると、聖ヨゼフの顔は輝いており、霊魂は全く変わっていました。聖ヨゼフは妻である聖母に祝福を願いましたが、聖母は御子に祝福を頼みました。御子の祝福の後、御母は聖ヨゼフの祝福を請い、受け、祝福してくれた手に接吻しました。御母自身の名前により、リンボにいる諸聖人に挨拶するよう頼みました。それを承知してから聖ヨゼフは、御子と御母の奉仕を十分にできなかったことを詫びました。御子に、自分の生涯、特に臨終において頂いた祝福全てを感謝しました。御母に向かい、申しました、「御身は女と義人の内にて祝せられています。天使も全人類も、御身の威厳を知り、誉め、敬い、讃えるべきです。御身を通していと高き神の御名は世々に至るまで知られ、崇められ、高揚されるべきです。神と天使の宝である御身を創造した神は、永遠に讃美されますように。天国における再会を、私は望みます。」 聖ヨゼフは主イエズスに向かい、跪こうとしましたが、主がそばに来て腕に抱きました。聖ヨゼフは挨拶しました、「いと高き主なる神、永遠の御父の御子、世の創造主にして救世主よ、御身への奉仕にける私の失策をお赦しください。御身の真の御母の夫として私を選んでくださったことを、心から感謝いたします。御身の栄光を永遠に感謝いたします」主は仰せられました、「我が父よ、平和と我が永遠なる御父の恩寵の内にお住みになってください。迫れる救いの知らせをリンボの義人たちにお伝えください。」 主の御言葉を聞き、いと幸いなる聖ヨゼフは息絶えました。主は聖ヨゼフの目を閉じました。天使たちは高らかに歌い、聖ヨゼフをリンボに連れて行きました。聖ヨゼフは救い主の養父として崇められ、救いの近いことを知らせ、皆から大歓迎されました。長期間の病気が聖ヨゼフの死の原因ではなかったことを私は書かなければなりません。聖ヨゼフの神に対する愛により、死はずっと前に可能でしたが、この愛に対して主は時を延ばされました。この延期により、聖ヨゼフの死はより以上に愛の勝利となりました。時期がやっと到来し、聖ヨゼフの神に対する愛は開花し、自然死をすることになりました。死は身体の眠りであり、真の生命の始まりですから、聖ヨゼフの病床生活の最も輝かしい時であり、愛勝利の時でした。その時聖ヨゼフは六十歳と二、三日の年齢でした。三十三で至福の乙女と結婚し、二十七年あまりの結婚生活を送りました。聖ヨゼフの死の時、聖母は四一歳と六ヶ月の年齢でした。その時、三十三歳の身体の若さがありました。御母には老衰の影は全くなく、女性として最も完全な状態を保っていました。聖ヨゼフは完徳と聖性において傑出していましたし、御母の保護者、恩恵者ですから、御母は当然聖ヨゼフの死を悼みました。聖ヨゼフと他の聖人たちとの違いを私は知りました。聖人たちが恩寵を自分の功徳なしに頂いたのは、自分の聖性を高めるためではなく、他の人たちを助けるいと高き神により良く仕えるためでした。一方、聖ヨゼフは自分の完徳達成のため恩寵を頂き、至聖なるマリアの夫としてふさわしくなりました。この奇跡的聖性は、聖ヨゼフが母の胎内にいる時、神が作り始めました。精巧な霊魂と調和された心の住居としての身体が作られました。母が妊娠七ヶ月の時、聖ヨゼフは聖別され、罪の芽は生涯中取り除かれ、不純な思いは全く起こりませんでした。聖ヨゼフが聖別された時、本人は気付きませんでしたが、母は聖霊の喜びを感じ、実情を判らなかったものの、自分の胎内の子、聖ヨゼフが素晴らしい人になるであろうと信じました。聖ヨゼフが生れた時、大変美しい赤ちゃんで、両親や親戚一同とても喜びました。洗礼者聖ヨハネの誕生と同様、人々を幸せな気持ちしましたが、その訳ははっきり判りませんでした。主は聖ヨゼフの知能の発育を早め、三歳の時には完全なものとしました。その時以来、この子供は神を信仰と常識と科学により万物の創造主として認めました。先生の教えをよく聞き、深く理解しました。幼い時に既に最高度の祈祷と黙想、諸徳実践に励みました。七歳の時、既に知能と聖性において完璧でした。聖ヨゼフは可愛らしく、雄弁で誠実、天使的で完徳に進み、何らの罪科のない生活により、至聖なるマリアとの婚姻に向かって前進しました。聖母は、聖ヨゼフに嫁ぐと主から告知されるとすぐに、御自身の最も貞潔な思いと希望に叶うよう聖ヨゼフを聖別し、鼓舞して下さるように主にお願いしました。主は、聖ヨゼフの霊魂の中に諸徳の最も完全な習慣や賜物を注入しました。貞潔の徳の完成はセラフィム以上に高めれました。動物的感覚的不純は、一瞬間たりとも聖ヨゼフの霊・身のどこにも存在しませんでした。他の諸徳、特に愛徳においても聖ヨゼフは抜き出ていました。神に対する愛のため、聖ヨゼフは病気になり逝去しました。御子と御母に強く結びつけた愛により焼かれたのです。御二人の愛にふさわしく応じた聖ヨゼフは、人間の中で最も幸せです。主が他の誰にも示したことのない愛を聖ヨゼフに与えたので、万民が世々に至るまで聖ヨゼフを崇めるべきです。聖ヨゼフは御子と御母の間柄を知り、主の養父として、御母の真の夫として生きたことが聖ヨゼフの真面目ですが、聖ヨゼフが私たちの祈りを取り次ぐことについて次の七点を私は示したいと思います。第一、純潔の徳を得、肉体の感覚的傾向に打ち勝つため。第二、罪から逃れ、神との友情に必ず戻るため。第三、至聖なるマリアに対する愛と信心を高めるため。第四、幸せな死と、臨終において悪魔に対する守護を得るため。第五、聖ヨゼフの名前を唱えるだけで悪魔を怖がらすため。第六、身体の健康とあらゆる種類の困難にける助けを得るため。第七、子宝に恵まれるためです。もちろん、その他色々の取次を聖ヨゼフにお願いし、神から叶えてもらうことができます。

元后の御言葉 私の娘よ、聖ヨゼフはあなたの記したように、天国において諸聖人の中で一番高貴な方ですが、天国に来るまでは、誰も聖ヨゼフの傑出した聖性を十分に理解できません。人類は私の夫の特権をあまりにも低く評価しています。聖ヨゼフが神に何を頼めるかを判っていません。聖ヨゼフは神から大変愛された方で、神の罰を止めるように力を発揮します。あなたは大勢の人たちに聖ヨゼフヘの信心を勧め、あなたの修道女たちが聖ヨゼフヘの信心に邁進するのを見届けるべきです。聖ヨゼフに依頼する人たちにその資格がなくても、主は聖ヨゼフの仲介を聞き入れて下さいます。

 32・聖母が御子を永遠なる御父に犠牲として捧げる。イエズスはナザレトを離れる。 

私たちの偉大な女王である聖母の神の御子に対する愛は、聖母の感情や行動を計る標準の尺度ですこの標準は、人間も天使も測れません。聖母はイエズスを永遠なる御父の御子、つまり神として愛しました。また、自分の息子として愛しました。また、イエズスを聖人中の一番偉大な聖人として愛しました。御子は御母の孝行息子であり、最も壮大な恩恵者でもありました。御子は御母をあらゆる被造物よりももっと高め、神の宝を贈り、被造物を支配する権利もお与えになりました。他のどの被造物にも与えられないこの御恵みについては、御母だけが理解できます。御母の御心は至純、謙遜、信心深く、注意深く、最も熱心、絶えず主の愛を思い、主の愛の学校で先生である主を見習いました。御母は、正義の太陽である主の光を受け、輝く満月のようです。御母は、あらゆる被造物に対する執着心をなくし、太陽の光により全く変容しました。神から受けた愛のお返しとして、御母の全ての愛と希望を神に差し出すことになります。永遠の御父がアブラハムに独り息子イサクをいけにえとして捧げるように命令された(創世22・2)ように、御子を犠牲として捧げることです。その犠牲の時が近づいてくるのを御母は御承知でした。その時、御子は三十歳になっておられましたので、御子が人類の贖いをする時は迫っていました。御母は幻視の中に包まれ、聖三位一体の御前に呼ばれたように思えました。次のような御言葉がありました、「マリア、我が娘にして浄配よ、我にあなたの独り子を犠牲として献げなさい。」 全能の神の御旨が伝わり、至聖なる御子の御受難と御死去による人類の救いの御命令と、救い主の説教と公生活の間に起こるであろう全ての事柄が見てとれました。この知識が御母の霊魂の中で更新・完結すると、従順、謙遜、神と人に対する愛、御子が 苦しまれることの同情と、優しい悲しみに満たされました。しかし、決してうろたえない高潔な心で御母はいと高き神に返事をしました、「永遠の王、無限の智恵と善の全能の神、全ては御身の慈悲と善のお陰で存在しています。御身は全ての不滅なる主です。御子を犠牲として引き渡すよう命令されるのはどういうことでしょうか? 永遠の御父よ、御子は御身のものです。永遠に御子を産み、永遠に所有されておられます。私の胎内で私の血により、人間としての御子を形作り、私が御子に哺乳し、母としての役目を果たしたとしても、御子の聖なる人間性も御身のものです。私の存在の全てと私が御子に与えたものは御身より頂きました。御身のものでないものを私が御身に捧げられるでしょうか? いと高き王よ、壮大にして慈悲なる御身は被造物に無限の宝を山ほど下さいましたので、御身御自身の御独り子を御身に贈ることを御身はお望みになります。御子は私の徳の中の徳、私の霊魂の命、私の喜びの全てです。御子の真価を知るただ一人の御身に御子をお渡しすることは甘美なる犠牲となりますが、御子を残酷な敵の手に渡し、被造物よりも貴重な御命を失わせることは、母親の私に取り大きな犠牲で す。しかしながら、私の意志ではなく、御身の御旨が行なわれますように。人類に神の子の自由が戻されますように。御身の御名が全被造物に知られ、尊まれますように。私の胎内より生れた御子を献げ、御身の不変の御命令に従います。御子がアダムの子らの過失による罰を正しますように。御身の聖なる預言者が書き、予告したことが、御子の死により成就されますように。」 この犠牲は天地創造以来、世の終わりに至るまで唯一最大、最も効果のある犠牲です。御母の犠牲は御子の犠牲に関連しています。御母にとり、御子の命の方が自分の命よりも大事でした。御母の御子に対する愛の深さは、永遠の御父の御子への愛を尺度として測ることができます。我らの主イエズスキリストがニコデモに、神は人々を愛するが故に御独り子を人々に引き渡し、神を信じる者は誰も滅びないようになさったと言われました(ヨハネ3・16)。私たちの救いは、同様に御母のお陰です。御母が私たちを大変愛して下さったので、私たちの救いのため、御子を私たちに与えて下さったのです。御母の御意志は永遠の御父の御意志と一致したのです。御母の犠牲に報いるため、聖三位一体は悲しみの御母を慰め、永遠の御父の御意志について説明しました。そのため、御母は神の幻視の中に包まれ、神を直感的に幻視しました。人となられた御言葉の御業を理解し、御業が神となることを見て歓喜し、自分の御子を御父に捧げる御約束を更新しました。誰にも負けない堅忍を持って、御子の共者と助手となるよう、神から助けて頂きました。この幻視により、御母は御子と別れる準備ができました。御子は洗礼を受け、そして砂漠に行き断食することになりました。御子は御母に申し上げました、「母上、私はあなたから生れ、人間となりました。あなたの胎内で人間という僕になりました。あなたは私に授乳し、私を育て、苦労しました。ですから、私は普通の意昧での息子以上に母上の息子です。私が永遠の御父の御旨に従うことに同意して下さい。母上の許を離れ、救世の業を始める時が来ました。休息の時は終わり、アダムの子らを助けるため、苦しむ時が来たのです。母上のお助けを得て、御父の御業を成就したいのです。受難と十字架上の死を準備する時、母上は私の伴侶・助手になることになっております。私が今別れても、私の祝福と保護は母上に残ります。後に帰って来た時、母上の助けと同伴をお願いします。」この時、御二人は大泣きしました。主なる御子は御腕を御母のうなじに回し、御二人とも苦しみを耐え忍ぶ大家としての威厳と気風を備えていました。御母は御子の足許に跪き、答えました、「私の主なる永遠の神、御身は正真正銘の我が子です。御身は愛に充ち満ち、私はそれを授かっております。御身の命を私が助けられるならば、または、私が御身のために何回も何回も死ぬことができるなら、私の命はどうなっても構いません。私の意志ではなく、永遠の御父の御旨が成就されますように。そのために私の意志を犠牲にいたします。私の犠牲をどうぞ受け取て下さい。御身の受難と十字架の死に私が参加できないことほど私にとつて辛いことはありません。」御母は御子に、旅の食料を渡したかったのですが、御子は同意しませんでした。聖家族の見すぼらしい家の出口で御母はもう一度 跪き、御子の祝福を頂き、御足に接吻しました。御子はヨルダンに向かって歩き始めました。迷た羊を探し、肩に乗せ、永遠の生命に向かって連れて行くためです。その時、我らの救い主は三十歳と一ヶ月になったばかりでした。洗礼者聖ヨハネからヨルダン川で 洗礼を受けました。私たちの先生である神は、救世の目標に向かい、歩みを早めて苦しみの時間を短くしようとしませんでした。救い主が受けるべき受難と十字架により、私たちに幸福を獲得して下さったのは、主の計り知れない愛と善により、私たちの幸福を重んじて下さったからに他なりません。 

元后の御言葉  私の娘よ、御子の御受難と十字架には大変な価値があり、十字架の道行きに参加する人々にもその価値があることを私は理解しました。従って、私自身も御子に付き添い、御子の悲しみと苦しみ全てを共に受ける許可を御子に願い、頂きました。その苦しみの期間、神がいつも下さる喜びを抹消して下さることもお願いし、そうして頂きました。御子は私を心から愛しておられるので、私のこの願いは御子の希望でもあったのです。喜びが消えると御子はよそよそしくなり、私をカナの婚宴や十字架刑の時、私を母と呼ばず、婦人と呼ばれたのです。十字架は御子自身の苦しみと私の苦しみを一致同化するための印です。私たちの内、ほとんど全員は、自己犠牲と十字架への本当の道を嫌がり、怖がります。そして、この世の真の最高の祝福を失います。受難は、罪からの回復のための唯一の手段ですから、苦しみを避ける限り、回復は不可能となります。苦しみと悲しみにより、罪の湯気は減り、情欲は押し潰され、誇りと高慢は引き下ろされ、感覚はコントロールされ、悪への傾向はなくなります。自由意志は理性による枠の中に入れられ、情欲に我が身を任すことはなくなるでしょう。神の慈愛は、苦しみ悲しむ人々の上に注がれます。この苦しみの意昧を知らない人や、苦しみから逃れる人は、愚かか気違いです。

 33・キリストの受洗と断食。聖母も断食する。

べタニア、またはベタラバと呼ばれる街近く、ヨルダン川が流れています。街と反対側の岸で、御子の先駆者聖ヨハネが説教したり洗礼を授けていました。そこに向かうイエズスキリストは、それまでいつも一緒だった御母も、その他誰のお供もなく、全くひとりぼっちでした。御子は行く道の途中たくさんの所で、大勢の人たちの身体と霊魂の苦しみを和げました。しかも、こっそりとしてあげたのです。ヨルダン川に近づく前、御子は洗者聖ヨハネの心を新しい光と喜びで満たしました。これを感じ、洗者聖ヨハネは言いました、「これは何の神秘か? 私が母の胎内で我が主を感知した時より、このような喜びを感じたことはなかった。救世主が私のそばに来ておられるのか」そして、知的な幻視を見て、御言葉が降臨し、人となられたことなどの神秘が明瞭になりました。福音史家聖ヨハネは、御子が砂漠におられたこと、ヨルダン川に来られた時のことを書き記しています。先駆者聖ヨハネは叫びました、「見よ、神の小羊」(ヨハネ1・36)。主は群衆のなかに入り、その内の一人として先駆者聖ヨハネによる洗礼を願ったのです。洗者は主の足許に平伏し、言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 救い主は答えられました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マテオ3・14)。洗者聖ヨハネが主の洗礼を終えた時、天が開き、聖霊が鳩の御姿で主の頭上に降り、御父の声が響きました、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マテオ3・17)。そばにいた人たちの多くは御声を聞き、聖霊が主の上に降りてくるのを見ました。このような恩恵に値しない人たちの見聞きしたことは、救い主の神性、御父の神性、証言の性質について確固たる証拠になります。また、御子は過ちも罪もないのに、罪の赦しのための洗礼を受け、へりくだったのですから、この御子の名誉の証拠になります御子が洗礼を受けたことは、御母は察知していましたが、天使たちの報告も受けました。天使たちは、救い主の御受難の盾を抱えています。御子の洗礼と神性の公表の神秘を祝うため、御母はいと高き神と、人となられた御言葉に対する讃美と感謝の新しい歌を歌いました。人々が洗礼の秘蹟により御恵みを受け、洗礼が全世界で行なわれるように祈りました。被造物の手から洗礼を受けてへりくだった御子を、自分と一緒に天使たちが崇めるように願いました洗礼の後、直ちに主イズスキリストは砂漠に入りました。天使たちがお供をして、主が人類を救おうとしておられることを讃えました。草木に被われていない突き出た岩壁の間に、格好の洞穴のある所に来たイズスは、そこを自分の隠れ家となさいました。地面に伏し、永遠の御父を讃美し、御父の御業と、この洞穴を与えて下さったことを感謝しました。御自分にこの隠遁の場所を与えてくれた砂漠にも感謝しました。十字架の形をして主は、人々の救いのため、永遠の御父に祈り続けました。ここで四十日間完全な絶食を耐え忍びました。世で一般的に見られる貪食・大食の罪に対する償いとして、御自身の断食を永遠の御父に捧げました。主は他の全ての悪徳も克服しました。人間の諸悪による破壊に対する償いを永遠の裁判官なるいと高き立法者にしました。我らの救い主は、最初は御父に対する仲介者となり、後に説教者・教育家となったのです。神の子供である人間が諸々の大罪を犯したので、最も恐るべき罰を受けなければならなくなったので、人々をそのような将来の過酷さから救うため、神は所有しておられる全てを犠牲にしました。つまり、御子イズスキリストがその犠牲になりました。御子は我々の貪欲に対して貧しくなり、我々の卑しい色欲に対する罰として厳しい戒律の生活を送り、我々の復讐心や怒りに対して柔和と愛徳を実行し、我々の怠慢に対して絶えざる労働を続け、我々のごまかしや嫉妬に対して公正な誠実、真実、優しさで応じました。このようにして主は、公正な裁判官である神の聖心をなだめ、不従順な私たちの赦しを乞い、更に新しい恩寵を私たちに得て下さいました。お陰で私たちは主の友だちになれ、主の御父の御顔を拝見し、永遠に主と共に神の子供となる資格を頂きました。私たちにこのような恩寵全てを下さるために、御子はほんの少しして下さるだけで十分でしたが、御子は有り余る愛情を私たちに注いで下さいました。それなのにどうして私たちは恩知らずを通し、頑固に心を閉ざすのでしょうか?御子が断食されていることは、啓示と幻視により御母によく判っていましたが、天使たちはいつも御母に報告しました。天使たちは御両人のメッセージを相互に伝えました。従って御二人はいつも同じ祈りを同じ時に唱えました御子が断食を始めるのと同時に御母は祈り部屋に四十日間引きこもり、一切食べませんでしたので、隣人は、御母は御子と共に旅に出たと思い込みました。御子が砂漠で祈った時、御母も祈り部屋跪きました。御子のなさった全てを御母は真似して行いました。御母は御子の助手となり、私たちの仲介者となりました救い主イエズスは、イエズスも聖なる義人に過ぎないというルシフェルの思い込みを、思い込むままに放って置かれたので、ルシフェルはこの義人に挑戦しようと執念を燃やし、誘惑して負かそうとします。この砂漠の戦いで、イエズスの手強さがすぐに判り、地獄の全軍団を叱咤激励し、イエズスに総攻撃をかけました。イエズスはルシフェルに対し、神の智恵、善、正義、公平を武器にしました。人間として闘う以上、イエズスは永遠の御父にお願いせざるをえませんでした、「私の御父にして永遠なる神、私は敵と開戦し、相手の攻撃力を砕き、高慢な鼻を潰し、私の愛る民たちに対する悪意を止めさせようと思います。ルシフェルの思い上がりに対戦し、彼の頭を打ち砕きたいと望みます。そうすれば、過失のない人々が彼に攻撃されても、彼は既に負けたのだと見てとれるのです。御父よ、私たちの敵に人々が勝つため、人々を強めて下さい。私の勝利を見て励まされ、勝つ方法を知りますように。」 この闘いは、天使たちや御母が目撃するところとなりました。御断食の三十五日目に始まり、四十日目まで続きました。ルシフェルは人間の姿で赤の他人として現れました天使のように光に包まれていました。長い断食の後、主が空腹で困っていると考え、言いました、「あなたが神の御子なら、石がパンになれと言いなさい」(マテオ43)。この質問は、主の関心は何かを知ろうとするためでしたが、主は言葉少なに答えられました、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 この御言葉ではね飛ばされそうになったルシフェルは決して弱みを見せず、戦いをあきらめませんでした。主はルシフェルの挑戦を受け、神殿のてっぺんまで運ばれることも許しました。ルシフェルは、この高い所から主が身投げしたいような衝動にかられるようにしました。聖書の言葉を引用してルシフェルは言いました、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マテオ4・6)。この時、無数の悪魔たちが主の周りに集まったので、地獄はからっぽでした。主は御答えになりました、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」」。この柔和、謙遜、威厳に満ちた言葉はルシフェルを打ちのめし、勝敗を決したかのようでした。それでも、もう一つの方法でルシフェルは主を攻めました。主を高い山の頂上に連れて行き、方々の国々を見せ、言いました、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マテオ4・9)。ルシフェルは何も持っていません。地球、星、王国、主権、富も宝も全て主の物です。ルシフェルの約束はでたらめです。王なる主は威厳をもって答えました、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」 この御言葉と共に、主はルシフェルと部下の軍団を地獄の最も深い底に投げ込みました。彼らは深い洞穴に叩きつけられ、埋め込まれ、三日間、身動きできませんでした。やっと起き上がれた時、自分たちを圧倒した御方が人となられた神の御子かもしれないと思いましたが、救い主の御死去まではっきり判らないままでいました。ルシフェルは激怒して体中を震わせました。勝利の我らの主は、永遠の御父に讃美と感謝の歌を歌いました。大勢の天使たちも参加し、主を砂漠に連れ戻しました。ナザレトでは御母が御子の戦いの様を全部目撃しておりました。天使たちも絶え間なく御子と御母の間を行き来してお互いのメッセージを御二人に伝えたので、御母は御子の祈りを繰り返しました。御子も同時に御母の祈りを唱えました。御母もルシフェルと部下たちを叱りつけました。悪魔たちが御子をあちこちに運んだ時、御母は、はらはらと涙をこぼしました。御子が勝った時、御母は神と御子の至聖なる人性を讃える歌を作詞し、天使たちがそれを作曲しました。御子は喜びを御母に天使たちを通して伝えました。私たちの主はヨルダン川に向かいました。そこでは洗者聖ヨハネが説教と洗礼を続け、主を待ち焦がれていました。主が来られるのをもう一度見て彼は叫びました、「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。私はこの方をよく知らなかったが、イスラエル中に知れ渡るであろう。この方の先払いとして私は水で洗礼を捧げる。」 この場所に居合わせた者二人が主の最初の弟子となりました。この二人は、聖ぺトロの兄弟である聖アンドレアと聖ヨハネです。聖アンドレアは直ちに兄弟の聖ペトロ(当時の名前はシモン)を呼び出しました。主は聖ぺ卜口に言われました、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする。」 この時、ユダ地方にいましたが、翌日、主の一行はガリラヤの地に入りました。そこで主はフィリッポを召されました。フィリッポはナタナエルに、ナザレトのイエズスは救い主であると伝えたので、ナタナエルは第五番目の弟子となりました。この五人の心の中に主は神の新しい火を燃やし、たとえようもない賜物と祝福を与えました。粗野で卑しい状態の五人が、神聖な高い地位に到達できたのは、主の忍耐、柔和と愛徳の素晴らしい見本を見たからです。御母は、弟子たちの召命や御子の説教の様子を天使たちから知らされ、弟子たちを神に捧げ、讃美と喜びの歌を歌いました。弟子たちは御母に会いたいと切望したので、主はナザレトに向かうことにしました。行く先々で説教し、自分が真理と永遠の生命の主であることを宣言し、人々を魅了しました。貧しい人や困窮者に手を差し伸べ、病人や悲しむ人を慰め、病院や牢獄を訪れ、人々の霊魂と身体に慈悲の奇跡を行いました。主の一行が近づいているのを御母は知り、歓迎の準備をしました。御母が主に対し心からの謙遜と崇拝を示したのを弟子たちは見て、主に対する献身と畏敬の念を新たにしたのです自分たちの女王の前に弟子たちは跪き、御母の子供・僕として下さるように願いました。第一に口火を切ったのはヨハネで、その時から御母を崇め、尊ぶことにおいて一番でした。御母も聖ヨハネを特別に愛しました。聖ヨハネは純潔の徳において優れ、柔和と謙遜の性格でした。御母は弟子たちに食物をごちそうし、御子のそばでは跪いて給仕しました。同時に弟子たちに、先生である救い主の威厳とキリスト教の偉大なる教義について話しました。同じ夜、使徒たちが就寝した後、救い主は御母の祈り部屋に来られました。長年なさったように、御母は主の足許にき、自分は地上の塵のような不用物であると告白しました。主は御母を床から引き起こし、生命と永遠の救いについて静かに落ち着いて話されたのです。この時王は御母に今まで以上の尊敬を示され、御母に相応の功徳を与えようとされました。 

元后の御言葉 私の娘よ、御子の弟子たちが大喜びで頑張り合う様を見て嬉しく思います。特に聖ヨハネは私の大好きな僕です。聖ヨハネは鳩のように純潔・率直で、私を愛するので、主の御目に叶う者となりました。聖ヨハネを見習い、どんな小さなことにも失敗せず、自己愛を棄て、この世の興昧、つまり原罪の結果を消し、鳩のような誠実さと単純さを獲得するように。主はあなたに天使の光と知恵を下さり、助けて下さるでしょう。

34・マリアはイズスの公生活にお供する 

聖ヨハネは、イズスがなさった他の多くの事柄を書き切れないと言ています(ヨハネ2125)四人の福音史家の記述は、教会の成立と生存にとって十分ですから、私が繰り返す必要はありません。聖母の偉大な事跡の数々は公表されておりませんから、その幾つかを私はお伝えしなければなりません。聖母はナザレトの家を留守にして、イズスの伝道旅行のお供をし、十字架の御死去の時まで御一緒でした。聖母が居合わせなかったのは、タボル山で主が御変容になった時、主が井戸のそばでサマリアの婦人と話した時(ヨハネ4・7)、聖母がある人たちに聖い教えを教えておられた時ぐらいで、短い時間でした。旅は主にとり辛いものでしたから、一緒に徒歩でついて行かれた聖母は、もと疲れたことでしょう。天気は変わりましたし、聖母の御身体は大変繊細であたからです。聖母があまりにもか弱で苦しみましたので、主は奇跡的に聖母を強め、時には二、三日、聖母を休ませました。又、他の時には、主は聖母を軽くさせ、翼により持ち上げられて歩けるようにして差し上げました。聖母は全ての福音の掟を胸に刻み込んでいましたが、御子の説教は毎回熱心に聞きました。主の聖心の動きは全て判っていましたので。主のおられる時、いつも心を合わせました。主の説教を聞く人々の心の状態も良く判りました。救いの実を人々が失わないように聖母は祈りました。神の恩寵を拒む人たちのことを思い、言うに言われない悲しみにかられていました。聖母の苦しみは、世界中の全ての殉教者たちの苦痛を合わせたものを越えています。主に従う人々を誰でも、聖母は比類ない賢さで待遇しました。特にキリストの使徒たちを大変尊敬しました。聖母は全員の世話をし、食物などを準備しました。時々、食物がなく、天使たちに食物を供給するように頼みました。人々を霊的に助けるに当たって、人間が理解できる以上に働きました。絶えざる熱心な祈り、御自身の貴重な模範や相談により、人々を強い者にしました。使徒たちが疑いや密かな誘惑に襲われるとすぐに説明し、強くしてあげました。ガリラヤの婦人たちや、悪魔祓いをしてもらった婦人の何人かも主について参りました。聖母は、これらの婦人たちに特別な気配りをし、聖い教えを教え、御子の説教を聞く準備をさせてあげました。救い主が御自分の神の学校に入学させた全ての人々は、御母に親しく接しました。御子は人々に、御母に対する尊敬と献身の気持ちを起こさせました。御母は全員に話しかけ、全員を愛し、慰め、教え、困っている人々を助け、喜ばせました。各人がどれだけの実を結ぶかは、その人の心の持ち方次第なのです。人々は御母の賢盧、智恵、聖性、威厳、謙遜、親切、優しさにすっかり感心しました。主が御母を口で称賛しようとして、されなかったように、使徒たちも沈黙の内に御母を愛し、御母の造り主を讃美しました。御母は一人一人の使徒の本来の性格、恩寵の状態、現状と将来の役割をよく見抜き、この知識に基づいて使徒たちのために神に祈願し、それぞれ適切な指示を与え、各々の役目を助けるための恩恵を願いました。御母の熱心さは主の喜ばれるところとなり、天使たちの尽きることのない称賛の的となりました。御母の取次により与えられた恩恵に使徒たちが応じることは、全能なる神の御摂理であり、人間には隠され、天使たちには知らされ、大いに讃美されたのです。これらの恩恵を特別に受けたのは聖ペトロと聖ヨハネです。聖ペトロはキリストの代理者、戦闘の教会の頭になることになっていましたし、聖ヨハネは主の御受難の後、主の代わりに御母の世話をすることになっていました。使徒たち全員が御母に対して献身することは、私たちの理解力を越えます。福音史家聖ヨハネは、神の都市である御母の神秘にもっと深く立ち入り、御母を通して神の啓示を他の使徒たち以上に受けました。受けたままに聖書に書いたのです。聖ヨハネは純潔の他に、鳩のような単純さ、優しさ、謙遜と柔和の諸徳も備えていました。柔和で謙遜な者は御子を一番良く見習う者ですから、聖ヨハネは御母から一番愛される使徒となりました。聖ヨハネも御母に一層の愛情を持って仕えました。主に召し出されて以来、一貫して聖ヨハネは他の使徒たちよりももっと良く御母に仕え、時々、奉仕の競争を天使たちと共にしました。一方、御母は謙遜に励み、諸聖人・諸天使以上に謙遜でした。次に悪い使徒ユダについて少し述べましょう。頑固者や、御母をあまり信心しない者にとって警告となります。ユダは私たちの先生であるキリストの強い教えに惹かれ、他の人たちと同じように善意で一杯でした。救い主キリストにお願いし、仲間に入れてもらいました。初め、ユダは功徳を積み、特別な恩恵を頂き、弟子たちの何人かを追い抜き、十二使徒の一人となりました。救い主は分け隔てなく、ユダの恩寵の状態と善業をお喜びになりました。御母もユダを認めました。予知の賜物により御母は、ユダの不忠実と背信に気付いていましたが、取次や母性愛を惜しむどころか、不忠実で不幸なこの人間が御子により救われ、ユダの悪さが人々を影響しないように、ますます気を配りました。厳しく接するともっと自分の考えを譲らないというユダの性格を良く判っている御母は、ユダの面倒をよく見て、他の人たちに対する時よりももっと優しくしてあげました他の使徒たち以上に御母の愛情を頂き、ユダは感謝したのです。しかし弟子たちが徳を積まず恩寵にも欠き、幾つかの失敗のために罪があるのを見て、ユダは自分の徳を鼻にかけ、他人の欠点ばかり探すようになります。自分の目の中の大きなゴミを気にかけず、人の目の中の小さなゴミが気になってしょうがないのです(ルカ6・41)。使徒たちの中で聖ヨハネを目の敵にして、おせっかい者で、主と御母に取り入ろうとしていると言いますこの時点まではユダの罪は小罪です。しかし、自分の悪い性癖をますます増長させ、嫉妬したり、他人をひどく責め、もっと大きな罪に進み、信心は減り、愛徳は冷たくなり、内的焔は消えます。そして使徒たちや御母のことが嫌いになります。御母はユダの欠点が増大して行くのを察知し、大変優しく、筋道正しく話してあげます。お陰でユダの心の中の嵐は静まるのですが、一時的に静まるだけで、またもや吹き荒れます。悪魔の侵入を許した以上、最も柔和な鳩である御母に対する激怒も暴れるままにさせておきます。ずるい偽善を装い、自分を正当化する理由を見つけ、自分の罪を否定したり、過小評価します。イエズスや御母を騙せると思い、慈悲の御母を軽蔑し、御母の勧めを嫌がり、御母を批難することさえしでかします。ユダは恩寵を失い、自分自身の悪い考えに取りつかれます。御母の親切をはねつけると、主を嫌悪するようになるのは目に見えます。主の御教えに満足できず、使徒たちとの付き合いも面倒くさくなります。それでも神はユダに内的援助を続けます。御母も優しく、主にお詫するように勧めます。お詫びするなら、御母が償いをするとまで言って下さいます。地獄に堕ちることよりも、堕ちまいと努めないことと、罪に浸りきることの方がもっと重大な悪であると御母は教えます。高慢なユダは御母の勧めを拒み、自分は主や他の人たち皆を愛していると嘘をつきます。ユダの堕落のもう一つの原因について書くことにします。イエズスの周囲に大勢の人が集まってきた時、施し物の管理者が必要になるとイエズスは考えました。人々に応じるように言いましたが、皆は尻込みしました。ユダは直ちに管理者になろうとして、聖ヨハネに、御母に口を聞いてもらいました。しかし、御母は、ユダの野心や貪欲が判っていたので御子に申し上げませんでした。ユダは聖ぺ卜口に頼みましたが断られました。しょうがなくて御母に直接ぶつけたのです。御母は非常に優しくユダに答えました、「私の大事な子よ、あなたが何を頼んでいるのかよく考えなさい。あなたの意図が正しいかどうか、あなたの兄弟たちが恐れて拒んだことを求めるのは良いかどうかを考えなさい。主は、あなたが自分自身を愛する以上にあなたを愛しています。何があなたのためになるかをよく御存知です。主の聖旨に自分自身を任せなさい。人生の目的を再考え、謙遜と清貧の徳を積みなさい。」 ユダの荒々しくて頑固な心は、御母の御言葉がしゃくにさわりました。際限のない野心と貪欲の心にとって、御母の御言葉は侮辱でした。ユダは主に直接かけ合うことにしたのです。偽善になりきって言いました、「主よ、私は御身のご希望に添い、会計係を務めたいと思います。頂く施し物を分配する者として、貧しい人のことをよく考え、他人にしてもらいたいことを他人にするという御身の御教えを実行し、施しがもっと利益を上げ、もっと規則正しく行われるようにします。」この言葉は第一に、自分の本心を隠しています。第二に、他の人たちを批難して自分がうまくやれるという野心を示しています。第三に、神なる主を騙せると思っていますから、信仰心は零になっています。主はユダに警告しました、「ユダよ、あなたは自分が何を求め、何を願っているか知っているか?自分を殺すかもしれない毒や武器を求めるほど、自分を痛めつけない方が良い。」 ユダは答えました、「主よ、御身の忠実な弟子たちに奉仕するため、全力を尽くします。その他のこと以上に上手にできます。会計係の仕事を間違いなくやり通す所存です。」主はユダの言い分を認めました。

元后の御言葉 私の娘よ、最後の晩餐において聖ヨハネに示された秘密の一つとして、彼が私に対する愛のため、主の愛弟子になったこと、ユダは私の慈悲と親切を嫌ったため堕落したことを、もう一度思い出して下さい。聖ヨハネは、私が主の御受難に参加することと、私の世話を自分に任せられたことを理解しました。聖ヨハネとユダのことは、励ましと戒めになります。私の愛を求め、あなたの功徳なしに与えられる私の愛を謹んで受けなさい。

35・主の変容とエルサレムヘの凱旋的人城 

救い主イズスは、説教と奇跡に既に二年半以上を費やし、御受難と御死去により世を救い、永遠の御父へ戻られる時に近づいておられました。御受難により御体がむごたらしく傷つけられるのを見て弟子たちが落胆するのを見通し、あまり落胆しないように、同じ御体が光栄の内に御変容するのを見せようと望まれました。主はガリラヤの中心の高い山、ナザレトの西約七キロにある夕ボル山に三人の使徒たち、聖ペトロ、聖ヤコボと聖ヨハネを連れて出かけました。二人の預言者、モーゼとエリアが現れ、主と御受難について話しました。主が御変容になった時、声が聞こえました、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け聖福音史家たちは、聖母がそこにおられたかどうかについて触れていませんが、実は聖母は天使たちに運ばれて御子の御変容を目撃されたのです。御母は信仰を再確認する必要がなかったので、聖福音史家たちは御母についての記述を省いたのでしょう。御母は御子の光栄を見聞きし、心からの感謝と最も深い洞察を示し、天使たちと共に新しい歌を作りました。御変容の後、聖母はナザレトの実家に運ばれました。御子もそこへ帰った後、エルサレムに向かいました。御母、弟子たちや使徒たちも同行し、ガリラヤやサマリアを通ってユダに入り、エルサレムに着くことになります。主はエルサレムに向かうにあたり、人類のために自分を犠牲にしたいという熱烈、寛大な希望を抱いておられました。次のように御子は祈られました、「私の永遠の御父、聖旨に添い、死に至るまでの苦しみにより、御身の正義を完うすることを喜んで行います。アダムの子らの借金を返し、閉ざされていた天の門を開らき、御身と仲直りさせましょう。道から外れ、迷子になった人々を捜し求めブの家の子らで行方不明になった者たちを見つけ、堕落した者たちを高め、貧しい者に富を与え、喉の乾く者に水を飲ませ、高慢な者を引きずり下ろし、謙遜な者を高めましょう。地獄を克服し、ルシフェルと彼の蒔いた悪徳に対する勝利をもっと栄えさせます。旗に守られて人々が戦うために、十字架の旗を高く掲げましょう。侮辱や恥辱で満たされる私の心が御身から讃えられますように。敵の手で殺されるまで私がへりくだることにより、選ばれた人々が苦難を耐え忍び、私と同じ迫害に遭う時はいつでも貴い報いが与えられますように。ああ、愛すべき十字架あなたが私を抱えるのはいつであろうか?ああ、甘美なる恥辱十字架の恥辱を通して私が死を克服するのはいつであろうか?痛み、恥辱、鞭打ち、刺、拷問、死よ、あなたちは私のところに来なさい私は、あなたを抱擁し、歓迎します。私はあなたの価値を知っているからです。世があなたを嫌う時、私はあなたに憧れます。世はあなたを知らず憎むけれど、真理と智恵であるあなたを愛し、抱き寄せます。人間としてあなたを招き、神としてあなたを高め、あなたあなたを愛する者から罪を消します。苦痛よ、私のところに来なさいあなた私の人性を痛め尽すのを許します。真の神、創造主である御父が、恥辱、十字架の拷問と惨めさの限りに苦しめる姿をアダムの子たちが見るならば、これまでの思い違いに気付き、十字架に掛けられ神に従うことを名誉とするでしょう。」 御母は、御子を恐るべき苦痛から免れさせたいという母の愛と、永遠の御父と御子の聖旨に自分の意志を一致させることの間の葛藤のため、聖シメオンの預言(ルカ2・35)のように悲しみの剣により心臓が剌し貫かれました。最も深い賢慮と智恵と、最も優しい悲しみの言葉で、御母は御子に、御子の苦しみを妨げられず、御子と共に死ぬこともできないことを訴えました。神の御母の悲しみは、既に死んだり、将来死ぬであろう、世の終わりまでの全ての殉教者の苦痛を越えたのです。このような気持ちで御子と御母はナザレトからガリラヤに、そしてエルサレムに向かいました。御子の救世の御業が完成に近づくにつれ、御子の奇跡の回数が増えました。ガリラヤからエルサレムまでの最後の月は特に奇跡がとても多かったのです。ユダ地方にける奇跡の一つとして、べタニアのラザロの復活があります。ラザロの家はエルサレムのそばにありますが、奇跡の噂はエルサレム市中にすぐに広がりました。祭司たちやファリサイ人たちは、この奇跡に苛立ち、会議を開き(ヨハ11・47)、救世主を殺すことを決め、救世主の滞在場所を知っている者全員に報告するよう命令しました。ラザロの復活の後、イエズスはエフライムの町に退き、過ぎ越しの祭りが近づくまでそこに滞在されました。その間、イエズスは十二使徒たちとよく会い、エルサレムヘ行くための心の準備をさせました。エルサレムでは、イエズスはファリサイ人や長官たちに引き渡され、囚人として縄をかけられ、鞭打たれ、虐待を受け、十字架上で死ぬことを使徒たちに語ったのです。過ぎ越しの六日前、イエズスは皆と一緒にべタニアに行き、ラザロの二人の姉妹、マリアとマルタのもてなしを受けました。救世主の御受難と御死去の前日、木曜日が巡てきました。その日の明け方、主は御母をお呼びになりました。御母は急いで駆けつけ、主の足許に平れ伏し、言いました、「私の主、どうぞおっしやって下さい。御言葉をお持ちしております。」 主は御母を起こし、最も優しい声で話されました、「私の母上、人類の救いのため、私の御父永遠の智恵により定められ、御父の至聖なる聖旨により私に命じられた時が来たのです。今まで私たちが何回も聖旨に従たように、今当然従います。御父に従い、私自身を敵の手に渡すことを、私の母として同意して下さい。御母が私の受肉を御身の自由意志により承諾されたように、私の受難と十字架上の死に同意して下さい。御父が私をこの世に送ったのは、私の身体の苦難により、御父の家から迷子になった羊、アダムの子たちを連れ戻すためです」(マテオ18・12)。御母は御子の足許に平れ伏し、答えます、「いと高き神、創造主、御身は私より生れた御子ですが、私は御身の婢です。御身が御降りになったことで、私は塵から御身の母に高めて頂きました。私は御身の寛大さに感謝し、永遠の御父と御身の御意志に従います。御父の永遠にして崇められるべき聖旨が成就しますように。私にとって一番大きな犠牲は、御身と共に死ねないこと、御身の代わりに死ねないことです。御身を見倣い、御身のおそばで苦しこと、せめてもの慰めです。御身と共に受ける拷問は困難ではありません。御身が人類の救いのための拷問を耐えることは、私の苦痛にとり、唯一の助けです。ああ、私の神よ、御身と共に死ねないというこの犠牲を受入れてください。人類の邪悪を見る私の悲しみも受入れてください。ああ、天よ、自然よ、全被造物よ、天使たちよ、王たちよ、預言者たちよ、あなたたちを造った御子の死を嘆く私を助けて下さい。御子の死の原因である人々、この偉大な救いを失ってしまう人々の悲惨を私と共に嘆いて下さい。破滅すると予知されている人々は何という不幸でしょうか?小羊の血で洗い清められることになっている人々は何と幸せでしょうか? ああ、私の御子、私の霊魂の限りない喜びよ、私が御身の御受難と十字架に参加できますように、そして御身の母としての私の犠牲を御身の犠牲と共に永遠の御父が受け取って下さいますよう、心よりお願い申し上げます。」その他、言葉で言いつくせない表現で御母は御子に申し上げ、御受難にける伴侶および共者になることを志願されました。御母はもう一つのお願いを御子にしておられます。御子なる主が御自身の御体と御血の秘蹟の制定を、御子の光栄のために決心されたこと、聖別されたパンと葡萄酒の形の中で、聖なる教会の中に御子が留まることを決断されたことを、御母は改めて申しあげました。御母は、その秘蹟を頂く価値のない人間であると謙遜しながら、御子なる主の無限の功徳のおすそ分けにあずかり、秘蹟を頂きたい旨を切々と申されました。御子の御体・御血は元来、御母から由来します。御体と御血を拝領することは正しく御子との一致であると共に、御受胎の時と御懐妊の期間中の御二人の一致の再現でもあります。再び結ばれ、御母の心の中に御子を再びお迎えし、将来決して離れ離れにならない喜びを御母は述べておられるのです。このようにお互いの挨拶を交わされ、イエズスは最愛の御母を残し、使徒たち全員と共にべタニアからエルサレムヘ、最後の晩餐の日、木曜日の正午少し前に出発しました。その出発の際、イエズスはお祈りしました、「永遠の御父なる私の神よ、私の兄弟たちである御身の被造物を、罪から救うための苦しみと死に向かいます。」 

元后の御言葉  私の娘よ、人々が聖体拝領を度々頂くのを嫌がり、怠り、準備も、熱い信心もなく御聖体に近づくことは、主にとり、私にとり、諸聖人にとり、何という恐ろしい犯罪であるかを考えなさい。聖なる秘蹟にこもられる御子を頂くために、何年間も私は準備しました。私はそれを妨害する罪は全くなく、恩寵に満ちているにも関わらず、愛、謙遜と感謝の徳を熱心に積み、聖体拝領にあずかれる身にしようとしました。御子の神性と人性のまします御聖体を頂くため、ふさわしくなれるように毎日、いつも自分の罪を憎みなさい 

36・最後の晩餐 

私たちが現在、自宅で使用するコーヒーテーブルよりももっと低いテーブルの周りに座り、体を後ろにもたれて食事をするのがユダヤ人の習慣でした。主は使徒たちの足を洗た後、現在の食卓のような高いテーブルを持てくるように言いつけました。このことで、主は下級の形式的律法に終止符を打ち、恩寵の律法である新しい晩餐を設立することになりました。このテーブル、つまりカトリック教会の祭壇で聖なる秘蹟が行われることを主は希望されたのです。このテーブルは大変高価な布で覆われ、その上には皿と大きな盃ふうのコップが置かれました。その家の主人は、エメラルドのような宝石でできた皿と盃を提供したのです。全員が着席してから、主は種なしパンと葡萄酒を持って来させました。主は心からの愛の言葉を使徒たちに話しました。御言葉は彼らの心の奥深くに達し、心を燃え上がらせました。御自身の神性と人性、救い、今祝おうとしている神秘の誓いについて申し渡しました。人々が相互に愛すれば、御子を愛する御父により愛されること、新しい律法と新しい教会の建設のため使徒たちを選んだこと、御母の崇高さと特権について、使徒たちの理解を更新させたのです。主キリストは、皿の上のパンを両手で取り上げ永遠なる御父に心の中でお願いしました。「今、私が述べ、今後、教会で繰り返される言葉により、私が実際に真にこのパンの中に存在すること、私がこの約束を守ることを助け、許して下さい」この願いをしながら御目を天に上げている荘厳な様子は使徒たち、天使たちと御母に新しい深い畏敬の念を起こさせました。主は聖変化の御言葉を宣言し、パンの実質を御自身の真の体に変えられました。直ちに葡萄酒に対する聖変化の言葉を宣言し、御自身の真の血に変えられました。そして、永遠の御父の御声が聞こえました、「これこそ私のする子。私の喜び、世々に至るまで私の喜び。私の子は人類の追放の間中、絶えずあなた共にいるだろう。」 同様の御言葉が聖霊により宣言されました。御言葉のペルソナの中のキリストの至聖なる人性は、御自身の体と血の秘蹟にこもる神性を恭しく拝みました。御母は一歩退き、聖なる秘蹟の中の御子を崇めました。御母の守護の天使たちや天の全天使たちと一緒に、エノクとエリアの霊魂も旧約の王たちや預言者たちを代表し、秘蹟の中の主の前に平伏しました。裏切り者を除く使徒たちと弟子たち全員はこの秘蹟を信じ、各人各様に謙遜と威厳を込めて崇めました。最高の司祭である主は、聖変化された御体と御血を両手で高く挙げました。この時、御母、聖ヨハネ、エノクとエリアは特別な理解を神から頂きました。どのように御体がパンの中に、御血が葡萄酒の中に存在するか、御体と御血が御霊魂と結ばれている故に生きている真の御子が現存すること、御子のペルソナが御父と聖霊のペルソナとどのように結合しているか、聖三位一体の一致の故に、御聖体は主の人性と共に聖三位一体であることを理解したのです。主のなさったことを司祭一人一人が再現すること、天地が崩れてもこの秘蹟は決して崩れないことも御母を初めとする四人の深く理解するところとなりました。御母の理解は更に深遠でした。この秘蹟により、パンや葡萄酒の形色は変わらず、御体と御血も元のままであることがよく判りました。御子の聖祭は続きます。御子は御聖体を割り、一つを頂きます。御自身を人間として認め、御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、私たちに聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせます。主の聖体拝領により、タボル山での御変容の時のように主の御体は短時間、輝きました。御母にはよく見え、他の三人には少し見えました。主は御聖体と聖血を拝領し、永遠の御父を讃え、人間の救いのための犠牲として秘蹟にこもる御自身を捧げました。残っているパンの切れ端を大天使ガブリエルに渡し、御母の所に持って行かせました。大天使に大勢の天使が随行しました。御母は涙を流し、御聖体を恭しく拝領しました。その後で主はパンを使徒たちに手渡し、分け、配るように命じました。使徒たちも涙ながらに御聖体を拝領しました。使徒たちは司祭の権限を与えられ、聖なる教会の創立者となり、他の誰にもまして優先権を与えられたのです。主イズスキリストの御命令により、聖ペトロは御聖体をエノクとエリアに授けました。二人は大喜びして、将来、天国に入り、主なる神に御目にかかることを世の終わりまで待つよう改めて決心しました。心からいと高き御方に感謝した後、天使たちにより二人の住居である古聖所に連れ戻されました。この奇跡により主は、昔からの自然法と成文法を御受肉、救世と人々との復活の中に組み入れることを示されたのです。これら全ての秘儀は、至聖なる聖餐の中に存在するからです。 

元后の御言葉 ああ、私の娘よ、カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、聖体拝領の真の意昧を掴むように心から希望します。御聖体の中に力と健康があります。悪魔に誘惑され、迫害されても問題ではありません。御聖体を頻繁に拝領することにより、信者は悪魔を克服できます。ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、無関心にさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。この目に見えない敵に対して、聖体拝領という武器を持って聖なる教会のためにあなたが戦うべきであるということは主の聖旨であり、私の意志あります。罪を犯すカトリック信者たちを救うためには、敬虔に聖体拝領すること、次に私に取次を願うことが大変大事であることを肝に銘じなさい。又、御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。信心深く聖体拝領する人たちは、主の御体や御血を頂かずに殺された殉教者たちよりももっと大きな光栄を頂くのです私はただの一回も御聖体を頂く価値はありません。私は原罪の汚れなく、セラフィム以上に愛徳を積み、全ての徳行において諸聖人以上の英雄的功徳を行い、私の全行為の意図は至高であり、私の習性も賜物も比較にならないほど高貴であり、御子に見習って苦労し、恩寵の功徳を受けない時は一時もありませんでしたが、これら全てを越えるのは「聖体拝領」です。聖体拝領するあなたは、いと高き御方を崇め、讃え、いつも主を受ける準備と何回でも殉教する覚悟をしなさい。

37・ゲッセマニにける祈り。どのようにマリアはそれに与ったか 

主イエズスキリストが御聖体の秘蹟を制定され、最後の晩餐も終わった頃、晩餐の高間から出てゲッセマニの園にお出かけになられます。同じ時、聖母は控えの間から出て来られ、御子にお会いになります。お二人は見つめ合ったまま、悲しみので心臓を突き通されます。この悲しみの激痛は、人間にも天使にも到底理解できません。御母は御子の足許に身をかがめ、神なる主を崇めます。主は神の威厳と溢れるばかりの愛情をもって話されます、「母上、一緒に苦しみましょう。二人で永遠の御父の聖旨と人間の救いを成就しましょう。」御母は御自身を犠牲として捧げ、主の祝福を願います。祝福を頂いた後、御母は控えの間に戻り、主の御受難の一部始終を神の特別なお計らいにより見ることになります。このようにして御母は、御子のそばにつきっきりで協力することができました。御母のそばには、御母にしか見えない天使たちが千位ほど付き添い、信心深い婦人たちも一緒でした。主は使徒たちと共に高間を離れ、エルサレムの東壁のすぐ外のオリーブ山に向かわれます。ユダは主を裏切る機会を狙いながら、主がいつものように祈りで徹夜するであろうと考えます。これこそ、主を律法学者やファリサイ人に手渡す絶好の機会のように見えます。ユダは自分自身の滅亡に突進し、律法学者のもとに向かいます。彼の心に突然、恐れ、不安と良心の呵責が襲います。ユダが主の死を急ぐ様を感知したルシフェルは、主は本当の救世主かもしれないから救世の御業を邪魔しなければならないと必死になります。ユダの裏切りで知り合った極悪人になりすまし、ユダに話しかけます「主の悪行のため主を売り渡すのはもっともと思えるが、考え直すと違ってくる、主はお前が思うほど悪人でもないし、もしも奇跡的に祭司長たちやファリサイ人から逃げ出せたら、お前がとても困るだろう」と言ってユダの変心を迫ります。一方、主は十一人の使徒たちと共に、私たちの救い主を殺そうとしている人々の救いのために祈っておられますアダムの時に始まった善と悪の激戦は、主の死において最終決戦となります。主の一行がケドロンの早瀬を渡り、オリブ山を登り、ゲッセマニの園に着いた所で、主は使徒たちに申し渡しました、「ここで待ちなさい。少し離れた所で私が祈る間、あなたたちも祈りなさい」(マテオ26・36)、「誘惑に負けないようによく祈りなさい」(ルカ22・40)。この誘惑とは、最後の晩餐で説明があったように、主の御受難のため、使徒たち全員が悪者扱いされ、悪魔に色々と唆されることです。預言にあるように、牧者が虐待され、負傷すると、羊はばらばらに逃げます(ザカリア13・7)。主は八人の使徒たちをそこに残し、聖ペトロ、聖ヨハネと聖ヤコボを他の場所に連れて行きました。主は永遠の御父の方を見ていつものように御父を讃美し、ザカリアの預言の成就をお願いし、人類の救いのため、御父の正義、即ち主の犠牲が行われるのを改めて祈りました。この時から、あらゆる慰めも助けも主から取り除かれたので、御受難はもっとも過酷なものとなったのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(マテオ26・38)、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マテオ26・39)。主の御苦しみは、主の愛の大きさと、人々が主の御受難と御死去の効果を気にしないことに比例しています。主の御苦しみは、血の汗となって表されています。主の御苦しみにより獲得された恩恵は、拒まない人たちに与えられ、聖人や義人にはより多く与えられました拒む人たちに与えられなかった恩恵は、選ばれた人たちにまわされました。このようにして主イエズスキリストを頭とする聖なる教会が建てられました。 さて、高間では、御母のそばに聖なる婦人たちが一緒でした。御母は神の啓示により、御子がゲセマニの園で祈っておられる様が大変よく見えました。誘惑に負けないためによく祈るよう婦人たちに勧めてから、マグダラの聖マリアともう二人の聖マリアを連れ、他の部屋に行きました。聖母は永遠なる御父に、あらゆる感覚的・霊的慰めを断ち切るようにお願いし、願いが叶えられましたので、御子の受ける苦痛をそっくりそのまま受けることができました。あまりの拷問のため、何回でも死ぬはずでしたが、それだけは永遠の御父が御許しになりませんでした。御子と共に死ねないことは聖母の一番の苦しみでした。三人の婦人たちに申した通りです、「私の霊魂は悲しいです。私の愛しい御子が苦しみ、今死のうとしているからです。御子の拷問による死にあずかることが私に許されていないからです。」 そして、少し離れた所に移り、御子に心を合わせて祈りました。悪魔が聖母たちに対し、怒り狂っていること、ある人々の堕落、永遠の救いか滅亡の神秘を熟知し、血の汗を流しながら祈り続けました。主が大天使聖ミカエルの訪問を受けたように、大天使ガブリルに会いました。両天使が伝えた永遠の御父の聖旨も、お祈りも悲しみも全く同じです。主が三度目に三人の使徒たちの所に戻って見ると、三人は眠りこけていました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」(マルコ14・41)。これを聞いて使徒たちは起き上がり、主について八人の使徒たちの所に行きました。八人も悲しみにうちひしがれ、眠っていましたが、起き上がり、全員団結して自分たちの敵に向かうべきことを主から教わりました。敵、つまり悪魔は、一本一本の縄を簡単に引きちぎれます。二本か三本によった縄には勝てません。主はこれから起こることを使徒たちに前もって警告しました。兵士たちや加勢の者たちがこちらに向かって進んでくる物々しい音がもう聞こえてきます。主は彼らに会うため前進し、心からの愛を示しておられます。心の中で優しく信心深く祈っておられます、「ああ、心の底より待苦痛、傷、侮辱、労働、困難と恥ずべき死よ、私のところに来なさい、早く来なさい。人の救いのためにる愛の火は、全被造物の内最も潔白である私があなたたちに会うことを望みます。私は、あなたたちの真価値知っているのであなたたちを最高の威厳にまで高めたいのです。死よ私のところに来なさい、死に値しない私が死を甘んじるは、私が死に打ち勝ためであり、罪の故に死刑となっている人々に生命を回復させるためです私のたちが私を棄てることを許す一人この戦いに臨み、友たちのために勝利を得るを望」(イザヤ53・3)。祈っておられる生命の創造主に向かい、ユダは歩み寄ります。貪欲と主に対する憎しみの他に怖れがあります。もし、主が殺されず自分に会う時のことを思うと怖くて仕方がありませんが、今、裏切りを早くすませてしまうだけです。主に走りより、主の御顔に空々しい平和の接吻をして言います。「主よ、神があなたお救いになりますように」。この挨拶は、主を馳せるというユダの悪意と大胆さをよく表します。この大逆罪は到底考えつくせない恐るべき罪の数々全部になります。裏切り、殺人、涜聖、忘恩、非人間的、不従順、偽証、不信心、比べることのできない偽善などであり、人となった神の人性に対して犯されたのです。御母は幻視により、主の捕縛の様子をそこに居合わせた人々よりももっと明らかに見ました。祭司長の館で兵士たちや召使いたちが、自分たちの創造主である救い主を侮辱する様もよく見えました。御母は天使たちや婦人たちに、主を御自分と一緒に崇め、侮辱を少しでも償うように頼みました。御母は、主が囚人となり、最も残酷な仕打ちを受けることになると婦人たちに伝えます。婦人たちは御母を見倣い、跪いたり平伏したりして、創造主の無限の神性と至聖なる人性を心の底から讃美します。聖母は主を讃美・崇拝し、悪意の人々の不敬や暴力の償いをします。不忠実で頑固なユダが聖体拝領のすぐ後に主を裏切ったことに対し、聖母は主に恩寵を願いました。御子なる主は、強力な恩寵をユダに与えましたが、不幸にもユダはそれを無視したのです。主が縄や鎖で縛られ、殴られている時、聖母も同じ痛い目に遭いました。聖母が同じ苦痛を喜んで堪え忍んだことで、主の苦痛がある程度軽くなりました。

元后の御言葉 私の娘よ、これらの神秘を授かり、書いても、主の御受難と御死去について日夜黙想することによって、あなたの臆病、忘恩と卑しさを克服するようにしないなら、大罰を受けることになるでしょう。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 」(ヨハネ14・6)とおっしやった主に従い、侮辱され、鞭打たれ、苦しみ、十字架上で死ななければなりません。この世の楽しみを追い、苦労を嫌がるならば、永遠の生命は得られませんし、御父の子供でもないし、主なる御子の弟子でもありません。主イエズスキリストに従う者よりも、ユダに従う者の方がずっと数が多いのです。これらの多くは不忠実な者たちであり、悪いカトリック信者であり、ユダのような偽善者なのです。私と共にこれらの悪を嘆き悲しんで下さい。 

38・イエズスは、アンナとカヤフアの許に引き出される 

イエズスは厳重に縛られ、ゲッセマニの園から祭司長アンナの官邸に引き回されます。ユダは、自分の先生は魔法使いで、簡単に縄からくぐり抜けられると兵隊や召使いたちに入れ知恵をします。ルシフェルと仲間たちは、密かに主に対して無礼の限りを尽くすよう人々にけしかけます人々はルシフェルの悪意に喜んで加担します。全能者のお許しになるぎりぎりまで、自分たちの創造主の人性に怒りをぶつけます。人々は主の首に重い鉄の鎖をかけ、腰にまわします。鎖の両端を大きな鉄輪に繋ぎ、この輪を手錠にして創造主の御手にかけます。従て、御手はしっかりと後ろにくくられます。この鎖は、祭司長アンナの官邸の土牢の穴の蓋を開ける時に使われていた物です御手を縛り上げたのにまだ飽きたらない人々は、一本の丈夫な綱を主の御首にかけ、胸の所で交差し、後ろで大きな結び目を作り、二つの端を前方に持って来て、人々が主をあっちこつち好き勝手に張れるようにします。もう一本のがっしりした綱を主の御腕に巻き、御腰を縛りつけ、両端を後ろに持て来て、後方へ主を強く引けるようにします。救い主は、敵を全滅できる御力を隠し、救いがもっと実るように、ルシフェルや地獄の軍勢が助長した不信心な激怒がぶつけられるままになりました。人々は主をアンナの前に引き出した時、死刑囚 として引き渡したのです。死刑囚はこのように縛るのが当時の習慣でしたから、主の死刑は既に決定したかのようです。涜聖祭司アンナは、大広間の執政官の椅子にふんぞり返り、威張ていました。アンナのそばにはルシフェルと大勢の悪魔たちが来ています。傲慢な態度でこの祭司長は主に、主の弟子たちや教えについて聞きました。主の御答えを曲解し、主をごまかし屋として決めつけるためでした。主は謙遜にはっきりと御答えになります、「私は世の人々に公然と話し、会堂や神殿で教え、何も秘密にしてはいない。私の話しを聞いた人々に尋ねなさい。人々は私の話しを知っています。」主の教えは永遠の御父に由来し、主は話され、教えの名誉を守りました。祭司長の僕の一人が手を挙げながら走りより、主の崇むべき御顔をひっぱたき、叫びます、「祭司長に何という口のきき方をするか」、主はその僕のために祈り、他の頬もひっぱたかれる心構えができていました。それ以上の悪口を言わせないため、主は申されました、「私が悪い教えを述べたなら、その証拠を出しなさい。良い教えを述べたなら、どうして私をひっぱたくのか。」主の御声は天を震えさせました。その時、聖ペトロと聖ヨハネはアンナの官邸に到着し、顔見知りの聖ヨハネだけ中に入れてもらいました。しばらくして聖ぺトロも入れました。邸の裁判の間につながる柱廊で二人は立ちました。寒かったので、聖ペトロは、たき火のそばに来ると、女召し使いペトロの悲しげな様子に目を留め、そばによって来て、聖ペトロが主の弟子であると判り言いました、「あんたは、あの囚人の弟子じやないか」、聖ペトロは弱気で慌て、恥ずかしくなり、怖くなって「私は弟子じやない」と言って、こそこそ逃げ出しました。主がカヤファの官邸に連行された時、聖ペトロもついて行きましたが、そこでは二度も主を否認することになります。聖ぺ卜口の否認は、主にとり、殴られることよりもっと辛かったのです。主は聖ペトロのために永遠の御父に祈り、三度目の否認の後でも聖ペトロを赦して下さるよう御母の御仲介もお願いします一部始終を目撃しておられる御母は、愛、感謝、崇敬と礼拝に没頭しておられ、聖ペトロの不始末に泣き悲しみ、主が聖ペトロを過失から起き上がらせて下さることを確かめるまで祈り続けます。アンナ官邸からカヤファ邸へ主を引きずり回しながら、地獄の霊たちと無慈悲な人間たちは、主にあらゆる残酷な仕打ちをします。祭司長たちや僕たちが喚声の中に主の入場されるのを見るや、どっと笑い転げます。主は彼らの手の中にあり、逃げ隠れできません。祭司長カヤファは、生命の創造主を嫉妬と憎悪により、殺してやりたい気持ちで一杯です。高い壇の上の玉座にふんぞり返る祭司長の周りには、アンナ邸からついて来たルシフェルと部下の悪魔たちが全員そろっています。律法学者たちやファリサイ人たちが血に飢えた狼のように、優しい神の小羊を取り囲み、興奮しています。彼らは買収した証人を呼び出し、主に対する偽証を言わせます(マテオ26・59)。偽証人たちは告訴や証言を申し立てますが、お互いに食い違ったり、主とは関係がないことを主張します。救い主イエズス・キリストは、これらのざん言やそしりに対し、何らの反論もされません。主の沈黙に我慢できなくなったカヤファは言います、「お前のことを訴える大勢の人たちに対し、なぜ答えないのか?」主はカヤファにもお答えになりません。カヤフも他の連中も主を信じないどころか、主の御笞えを悪用し、主を罠にかけ、この裁判をもっともらしく見せかけ、主の死刑を正当化しようと企んでいます。主の謙遜な沈黙はカヤフをかんかんに怒らせます。祭司長たちを扇動するルシフェルは、主の様子を一心に見つめます。ルシフェルは、主を苛立たせ、しゃべらせ、主が本当の神であるかどうかを確かめたいのです。そのため、ルシフェルはカヤフを激怒の極みに追い込み、威張りくさって質問させます、「生ける神によりお前に命じる。お前がキリス卜、聖別された者、神の子であるかどうかを言え。」この質問は最も深い愚行であり、恐るべき涜聖です。主に対する疑いは、正しい理屈と正義に基づき、全く異なるやり方で解決されるべきです。神という言葉が涜聖者の口から発せられたにも関わらず、主は心の中で神を崇拝し、神の御名に対する尊敬の故に御答えになります、「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」(マテオ26・64)。この御答えが自分の疑問の解決であると祭司長は考えず、怒り狂い、もう一度立ち上がり、神の名誉を守る熱心さを示す仕草として自分の法衣を破り、大声で叫びます、「こいつは涜聖した。この他の証人が必要であろうか。見なさい、今あなた方は冒涜の言葉を聞いたばかりである。どう思うか」(マテオ26・65)。祭司長は、キリストが神の御子であるという確かな事実を否定しました。自分の職権により、この偉大な真理の認知と宣言をしなかった祭司長こそ涜聖の罪を犯しました。政府高官たちや高位聖職者たちの言動により一般人は扇動され、大声で叫びます、「こいつを死刑にしろ(マテオ26・66)、殺せ、殺せ。」 悪魔の怒りに動かされ、人々は自分たちの最も柔和な主に襲いかかります。御顔をひっぱたき、蹴りつけ、御髪をむしり取り、御首に平手打ちをくわせます。これら全ての侮辱、批難と軽蔑は聖母が目撃し、体験するところとなりました。同じ時に、御体の同じところに同じ苦痛と傷が起きたのは、全能なる神の特別なお計らいによるのです。人間の生理学の原則によれば、聖母のひどい悲しみと心配は致命的ですが、神の御力により助けられ、御子と共に苦しみ続けることができました。救い主なる御子の聖心を十分に理解できたのも聖母だけです。神なる主が御自分の人性において受難されたので、主に従う人々に深く同情されています。以前に山上の垂訓で約束された通りです、「幸いなるかな、困難・苦労に堪える者、その人は、を見倣い喜び、人々の心と善意の国を所有するだろう幸いなるかな、悲しんで涙を流す者、その人は、理解と生命のパンを頂き、永遠の喜びと幸福の実を収穫するだろう。」「幸いなるかな、義と真に飢え乾く者、その人は、恩寵と光栄の国において、その人が求めているのにはるかに越える満足をは与えだろう。幸いなるかな、赦しと愛のを見倣い、迫害する人々に慈悲深き者よ、私はその人のため、御父の御慈悲を心より乞い願おう。幸いなるかな、心の清者、その人は肉欲を十字架に架けるため、私は、その人に平和と私の神性を示し、に似る者となり、私の生命にあずかことを約束する。幸いなるかな、平和なる者、その人は自分の権利を他人に譲り、悪意ある人々に逆らわず、誠実と静寂の心を有するため、私はその人私の養子とする。義のため迫害を受る者は、私の天国を相続する幸せ者であると共に永遠に生きるであろう。喜びなさい、貧しい者、その人は慰められるであろう。小さい者たち、世の中の嫌われ者よ、その人は光栄を受けるであろう。偽にしてごまかせるバビロンの高慢と壮観を嫌い、虚栄を捨てなさい。苦難の火と水の中をくぐり抜けて私のところに来なさいは光と真理であり、永遠の休息と回復へあなた導きます。」 主がひどい仕打ちを受けたことで、この祭司長たちと聖職者全員の怒りはだいぶ静まりました。真夜中を過ぎていたので、この悪人たちは、救世主が夜中に逃げ出さないようにしっかり見張ることになりました。縄で縛られたままの主を、光も入らず、不潔と悪臭に満ちている最もひどい犯罪人のための地下牢に閉じ込め、鍵をかけました。

元后の御言葉 私の娘よ、よく聞きなさい。永遠の御父は、世の中を破壊しようと思われるほど怒っておられます。聖旨を知りながら従わない教会の子供たちを厳しく罰する御考えです。御父を慰め、罰を遅らすのは、私の取次と、私が御父に捧げる御子の功徳、この二つしかありません。ダビデの言うように(詩編69・21)、御悲しみになる主を慰める者は少数です。頑固な者たちは、審判の日に自分たちが主に対し、私に対し、自分自身に対し、非人間的であり、残酷であったことを悲しむでしょう。人類を永遠の御父に和解させ、御父の恩寵を再び頂かせるため、主がどれほど苦労されたかを良く考えなさい。神の御血により買い戻された者、そして私が母の胎内に宿り始めた時から今まで、人々の救霊のために求めた全てを忘れぶち壊し、台無しにしてしまう大勢の人たちのために泣き、苦しみなさい。主の聖なる教会の中に、信心深そうに見せかけ、主を批難する偽善と涜聖の司祭たちに従う数多くの信者たちがいることを悲しみなさい。高慢と贅沢が尊敬され、貪欲と虚栄が盛んになっています。聖なる信仰は阻止され、大勢のカトリック信者にとって、信仰は不活発となり、死んでいます。これらの罪を考え、御受難の時と、全生涯において私がしたことをあなたにもしてもらいたいと私は願います。人々の涜聖を贖うため、私は主を祝いました。人々のそしりに対し、私は主を讃えました。不信仰に対し私は信徳を実行しました。もし、あなたが自分の弱さのために倒れるなら、自分の過失を嘆き、直ちに私の取次を願いなさい。普通の過失の代償として苦難を堪え忍び、どんな苦しみも喜んで受け入れなさい。苦しみは、病気、他人からのいじめ、肉欲とか、見えるか見えない敵からの攻撃かもしれません。これらの苦しみ全てを信仰、希望と高潔な感情により我慢しなさい。我慢すれば光明を見出し、真実を理解し、見える物事から心を解脱させ、主に向けます。主は苦しむ人たちの所に来られ、一緒に御苦しみになります。 

39・イズスはピラトの前に引き出され、笞打たれ、茨を冠される。 

福音史家たちが書き記すように(マテオ27・1。マルコ15・1。ルカ22・66。ヨハネ18・28)、金曜日の明け方、長老たち、祭司長たちや律法学者らが集まり、キストの処刑を衆議一決しようとしました。人々に対して正義の見せかけをするため、カヤフの官邸において会議を行うことになりました。主は地下牢から会議場に引き出されました。彼らは再び、主がキリスト、つまり聖別された者であるかどうか質問しました。主に対する告訴をでっちあげるため以外の何物でもありません。「お前たちの言うところの者だと私が言っても、お前たちは信じないであろうし、私がお前たちに取り入り、頼んでも、お前たちは答えようともせず、私を釈放しようともしないであろう。私は言う、今より後、人の子は神の御力の右に座すであろう」(ルカ22・69)。祭司たちは言います、「では、おまえ神の御子だな。主は御答えになります、「お前たちがそうだと言う。」 この御答えにより、主は次のように言われているようです、「お前たちは全く正しい考えに到達した、私が神の御子であると。私の事業、私の教義、お前たち自身の聖書、並びにお前たちが今私に対してしていることは、私がキリスト、律法により約束された御者であることを証明する。」 しかしながら、悪人たちの会議は、自分たちの結論を真理に対する同意と信仰ではなく、死に値する涜聖であると解釈したのです。主の御言葉の再確認を聞いて彼らは叫びます、「これ以上の証言が必要であろうか。自分で涜聖の言葉を吐いているではないか。」 すぐに全員一致して主を死刑囚として、ローマ皇帝から任命されたユダヤ地方の総督ポンシオピラトの役所に連行することにしました。その時、既に陽は上り、遠くから事の次第をご覧になっていた聖母は、ピラトの役所に行くことを決心しました。ちょうど、そこへ聖ヨハネが戻って来ます。ゲッセマニの園で群衆を恐れ、逃げ出し、アンナ邸でも聖ペトロの裏切りの後で、自分も人目を避けていたことを聖母に報告し、御許しを願います。その後で主の悲惨な様子を知らせます、「ああ、聖母よ、我らの主なる神は何という苦しみにおられることでしょう。二目と見られません。御顔は平手打ちを食らい、殴られ、唾を吐きかけられ、いびつに曲がり、汚らしくなっていますから、誰だか見分けがつかないほどです。」 聖母は御顔には出しませんが、心臓が引き裂かれるようです。そばにいる聖なる婦人たちも悲しみと怖れでいっぱいです。聖母はおっしやいます、「永遠の御父の御子の許に急ぎ行きましょう。人類に対する愛が、私の主なる神をどこまで駆り立てたか、人類を罪と死から救い、天国に入れるため、神は何をなさったか、あなたたちはしっかりと見るでしょう。」 聖母に最後まで付き添ったのは聖ヨハネ、三人の聖マリアたちと他の信心深い婦人たちです。守護の天使たちは、群衆のごった返す中を聖母の一行のために道を開けます。聖母は人々の話しを聞くと、ナザレトのイエズスが可哀想だという人々は少数です。主の敵たちが主を十字架刑にするつもりだという人たちや、主が今どの道を通っていると報告する人たちもいます。主がどんな悪事を働いたかと尋ねたり、いや、偽りの奇跡をしたからこんなことになったと叫んだりしています。押し寄せる群衆の中を天使たちは聖母の一行を通し、ある街角で曲がると、聖母は御子にお会いになります。御子を見つめ、お互いに無言で優しく悲しい心を通じ合わされます。聖母は御子の御跡に従います。主がピラトの官邸に到着します。ぞろぞろついてきた会議所議員たちや群衆はユダヤ人なので、過越祭の前に異邦人の家に入ると身を汚すことになります。異教者であるピラト総督は、ユダヤ人たちの宗教習慣に敬意を表し、出て来て質問します、「この男に対し何を告訴するのか?」 ユダヤ人たちは答えます、「この男が犯罪人でなければ連れて来ません。」 ピラトは詰問します、「どのような犯罪をしたのか?」 彼らは答えます、「この男は王国を騒がし、自分を国王と名乗り、ローマ皇帝へ納税するのを禁じます(ルカ23・2)。神の御子であると自称し、新しい教えをガリラヤからユダヤ全地、エルサレムまでばらまきます。」 ピラトは言います、「お前たちの問題だ。勝手に裁くが良い。」彼らは答えます、「死刑を宣告することも、処刑することも、私たちは許可されていません。」天使たちのお陰で、聖母、聖ヨハネと婦人たちはこの尋問の良く見える所に陣取ることができました。心臓を悲しみにより突き通された聖母は永遠の御父に、主を最後まで見届け、主と同じ苦しみをわせて頂くようお願いし、聞き入れられました。ガリラヤで主が騒ぎを起こしたと聞いたピラトは、主がガリラヤ人であることを確かめた後、ガリラヤ分国の王ヘロデに主の裁判を頼むことにしました。主が祭司たちや律法学者たちの嫉妬と悪意により、犯罪人に仕立てられたことがはっきりしているので、へロデが自分の代わりに主を許してくれるであろうと期待したのです。このヘロデは、主の御降誕後、大勢の赤ちゃんを殺したヘロデの息子です。殺人者ヘロデはユダヤ人の女性と結婚し、ユダヤ教に転宗しました。息子の現国王ヘロデもモーゼの律法を守り、過ぎ越しのためエルサレムに来ていたのです。父が殺した洗者聖ヨハネの親友である主が説教したことを前から聞いていたので、主に対する好奇心がありました。主が入ってこられると、へロデは大声で笑いこけました。魔法使いや祈祷師として取扱い、何か奇跡を見せてもらおうとしました。ユダヤの高官たちや祭司らが前と同じ告訴をしゃべり続ける間、主は沈黙を続けました。ヘロデはすっかり面白くなくなり、主を嘲笑させた後、兵隊全員と共にピラトの所へ送り帰らせました。ピラトは再び無実の主と対面し、何とかしてユダヤ人たちを宥めすかそうとします。まず、祭司長らの役人たちと面談し、悪人バラバの代わりに主を放免するよう説得に努めます。へロデの所に送る前にも同じ説得を試みたので、これで二度目になります。三度目は、前庭にいるピラトと群衆の対決です。群衆は異口同音に叫びます、「キリストではなく、バラバを釈放しろ!」この時、ピラトの妻プロクラは事態を聞き知り、伝言をピラトに送ります、「あなたはこの男とどんな関わりがありましょうか?この男について幻視を見たばかりなのです。」 プロクラの警告は、主の救世の御業を妨害しようとするルシフェルと部下たちから来たものです。主があらゆる負傷を耐え抜き通している有様を見て、悪魔たちは混乱と激怒の極みに達したのです。プロクラの夢の中に現れ、この男が無実であり、夫のピラトが死刑宣告すれば、ピラトは総督の地位から下ろされ、婦人共々大変困った目に遭うであろうと言い、ピラトがイエズスを赦し、バラバを処刑した方が身のためであると勧めたのです。妻のメッセージを聞くまでもなく、ピラトは悪魔たちから同じ警告を感じ取っていたので、ますます怖くなっていました。それでもピラトは、現世の政策に従わなければなりません。この三度目の説得に大反対のユダヤ人群衆は、キリストを十字架に架けろと連呼します。仕方なく群集の前で手を洗い、言します、「この正しい男は自分に関係がない。私は自分の手を洗い、この無実の男の血に染まらない。」 この手洗いの儀式により、責任はユダヤ人たちに転嫁されたとピラトは考えます。怒りにより盲目になっているユダヤ人たちは、責任は全て自分たちと子孫にあると請け合うのです、「この男の血は我らと子孫が浴びよう」と(マテオ27・25)。天使たちの世話により、聖母はユダヤ人たちの悪意ある言葉は、両刃の剱のように悲しむ御心を貫きます。聖母の声とならない悲しみは、子供たちをなくした美しいラケルの嘆き声よりももっと大事な犠牲です。悪魔の手下たちは、主をピラトの官邸の中庭に連れて行きます。この中庭の周囲には柱が並び、幾つかの柱の上には屋根がかかっています。主の白衣を取り去り、この大理石でできている柱に主をしっかりと縛りつけ、逃げられないようにします。主が魔術師で、逃げるかもしれないと怖れているからです。大勢の見守る中、六人の刑吏が立っています。二人づつ同時に、非人間的残酷さで鞭打ちます。ルシフェルが乗り移っているみたいです。最初の二人は硬い太い結び目がたくさんある縄を使います。最初の二人は、主の御体に大きなミミズばれや青黒い腫れを起こします。皮下出血のため御体全体が変形します。最初の二人の刑吏たちが打ち終わると、次の二人が鞭打ちを競い合います。硬くなった革の鞭が変色して腫れ上がった皮膚を引き裂き、御血が飛び散ります。御血は刑吏の着物を赤く染め、敷石の上に滴り落ちます。最後の二人が取って代わり、柳の枝のように硬い生皮で主を打ちます。御体全体が傷ついたので、傷つかない所はありません。絶え間ない鞭打ちは御体から御肉を引きちぎり、敷石の上にはね飛ばします。肩の骨の大部分が露出し、流血のために赤くなります。他の所も手のひらぐらいの大きさに骨が見えています。御顔、御手と御足も刑吏たちは打ちます。御顔は腫れ上がり、御は血が覆います。この刑吏たちの鞭打ちは5155回に及びました。主は人間の弱さを体験し、悲しみの人となり、人間の中でも落ちぶれた人となりました。群衆はピラト邸の中庭や外の通りを埋めつくし、事の成り行きを待ち、お互いに討論し合っています。この騒々しさの中で、聖母は聖ヨハネとマリアたちと一緒に中庭の一隅におられました。聖母は御子の極刑の様子を神から見せて頂きました。聖母の苦しみと悲しみは、人間の理解の及ぶ所ではなく、死後の世界で明らかにされるでしょう。私が前に述べたように、聖母は御子の御苦しみと御悲しみを全く同じようにお感じになりました。聖母の御体全体が同じ痛みを感じました。御母の深い悲しみは、母としての愛や御子を神として愛することからだけではなく、主の無実を誰よりも熟知しておられたからです。主が不信のユダヤ人たちやアダムの子孫たちを永遠の死から救おうとしておられるのに、主に侮辱の限りを尽くしているからです。人々は主を偽の王として、引き裂かれた汚らしい紫色のマントをかけ、御頭に茨の冠を被せます。この冠は刺のある枝を輪にしたもので、硬い鋭い刺は頭蓋骨、耳や目にも突き刺さっています。杖の代わりに葦の茎の束を御手に持たせ、主を偽の王としてからかいます。祭司長たちやファリサイ人らの面前で兵士たちは涜聖の侮辱の言葉を浴びせます。何人かの兵士たちは主の前に跪き言います。「神がユダヤ人の王なるお前を救うように。」 ある者は主の御顔を平手で打ち、他の者は葦の茎の束を御手からもぎ取り、御顔をぶちます。唾をひっかける者もいます。兵士たちは怒り狂っている悪魔たちに唆されているのです。ピラトは、哀れな様になり果てた主を群衆に見せ、人々の同情を買おうと考えたようです。バルコニーに主を立たせ、鞭打たれ、茨の冠を被らされ、偽の王のマントを着せられた主を皆に見せて言います、「見よ、この人を」(ヨハネ19・5)。十分に罰してやったか ら、この人を怖がる必要はないという意味です。

元后の御言葉  私の親愛なる娘よ、あなたの救い主なる配偶者が拷問を受け、茨の冠をかむらされ、侮辱されるのを見たいならば、肉欲に耽ることはふさわしくありません。あなたも迫害され、十字架を担ぎ、侮辱され、苦しまなければなりません。主の御受難と御死去に私があずかったように、あなたもあずかりなさい。見えるものが偉大であり、この世の富が幸福であると誤解してはいけません。 

40・十字架の道行き 

ピラトは大声で私たちの救世主の死刑宣告を群衆に申し渡しました。刑吏たちは重い十字架を主の傷ついた肩にかけました。主が十字架を支えられるように、両手の縄を弛めました。御体を締めつけている綱はそのままにしておき、綱の両端を刑吏たちは握り、主を引きずることができます。御首に綱の輪を二つもつけ、御首を二方向に引っ張れるようにしました。十字架は十五フィート(四メートル五十センチ)の長さで、太く重い材木です。先触れの者たちが主の処刑を宣言し、処刑人たちや兵士たちが渦を巻くように右往左往しながら、やかましく喚声を上げながらピラト邸を出て、カルワリオ山へ向かってエルサレムの市中を通って行きます。主イエズスキリストは、運ばれて来る十字架をご覧になり、大変お喜びになり、自分の花嫁を迎えるように次のように挨拶します、「ああ、私の愛するもの、私の渇望を満たすもの、私のところに来なさいあなたを両手で抱きしめよう。祭壇の上に置かれるように、私の両手があなたの上につけられる時、人類との永遠和解の犠牲として永遠の御父に受人れて頂きますあなたの上で死ぬため、私は天より降り、死ぬ運命にある肉体を私のものとしましたあなた私の敵全員を負かす牧杖であり、選ばれた人々を天国に入れるため、門を開ける鍵であり、アダムの罪ある息子たちが慈悲を見出す聖所であり、貧しい彼らに与える財産を納める宝庫で。私の友が人々の与える不名誉と非難を喜んで受け取り、先に行く私の跡をついて来て欲しい。御父なる永遠の神を天地の主として崇め、聖旨に私自身を任せ、この十字架の材木を私の無実・有限の人性の犠牲のため、肩に掛け、人々の救いのために喜んで受け取ります。今日より、人々はもはや召し使いではなく、私と共に御身の王国の息子や娘となり、相続人となりますように」(ロマ8・17)。啓示と知力により、聖母は主をはっきりと見ることができ、主の心の中の御祈りを全部聞き取りました。十字架が私たちの救い主に掛けられたとたん、無限の価値を与えられたことも判りました。御子に倣って聖母も十字架を喜んで受け取り、救い主の共者としての祈りを捧げました。主の死刑宣告をふれ回る者たちの声が街に聞こえると、聖母は抗議し、聖なる御子を讃美する歌を歌いました。イエズスに倣い、苦労を甘受し、身体の休息、栄養、睡眠を全部放棄し、霊魂の安らぎさえ求めませんでした。神が休息をもたらして下さった時だけ感謝してお受けし、悲しみと苦しみをもっと受けるため、回復することになりました。ユダヤ人の悪意に満ちた行動、人類の窮乏と将来の滅亡の脅威や人々の忘恩について、他の人たちよりももっと深く感じていたからです。神が聖母を通してルシフェルと手下たちに対してなさった奇跡をお知らせしましょう。龍(悪魔)と部下たちは、主の御謙遜を理解できず、主の御受難を注意深く見守っていましたが、主が十字架を受け取られると、不思議にがくがく震え始め、驚きと混乱のショツクに見舞われます。地獄の統治は主の御受難と御死去により徹底的に崩れると、暗黒の王である悪魔は感知し、地獄の穴に向かって飛び、逃げようとします。そこへ事態を見守っておられた聖母が神の指図に従い、神の御力をもって地獄の軍勢の行く手を遮ります。主の御受難の最後まで、カルワリオ山まで見届けるように命令します。悪魔たちは神の御力を感じ、聖母の命令に従い、永遠の智恵なる神の勝利を見せつけられるため、極刑を受ける囚人のように落胆と怖れで、とぼとぼと行列の中に入ります。刑吏たちは、人間らしい同情の一かけらもなく、荒々しく救い主を引きずります。ある者は前方、他の者は後方へ主を引っ張るのです。引っ張られ、重い十字架にうちひしがれた主はよろめき、何度も倒れます。石の敷かれた道に御膝が打ち当たるたびに傷が大きく広がります。重い十字架も御肩に深く食い込みます。倒れる時、十字架が御頭にぶつかり、茨の冠の刺が深く突き刺さります。悪を行う者たちは嘲り、呪い、唾を吐きかけ、歩道の土砂を主の御頭に投げつけ、御目を覆います。主を早く殺そうと、人々は主に息つく暇を与えません。既に二、三時間拷問を受けた主の至聖なる御体は弱り、傷だらけで、苦しみと悲しみのあまり、いつ御死去になっても不思議ではありません。聖母は、聖ヨハネと信心深い婦人たちと共に群衆の真っ只中を進んでおられましたが、怒涛のような群衆の中では主の近くにはとうてい行けません。聖母は永遠の御父に、十字架の下で御子の御死去を見守ることができるようにお願いし、聞き届けて頂きます。天使たちは脇道に聖母の一行をお連れし、主に面会できるようにします。主と御母は話すことはあるません顔を合わせ、お互いの心の悲しみを分かち合います。刑吏たちが先を急がせます。聖母は心の中で主にお願いします、「御自身が十字架を持ち上げられませんし、天使たちに助けを願うわけにもいきませんから、主が誰かの助けを得るよう、残酷な刑吏たちに考えさせるように」。この願いは聞き入れられ、レネ人のシモンが主と共に十字架を担がせられます(マテオ27・32)。ファリサイ人と処刑人たちの中には主に同情する者たちもいたでしょうし、十字架に張りつける前に主が死んでは困ると心配した人たちもいたのでしょう。聖母の悲しみは人智を越えます。主の本当の価値を知っておられたからです神に支えられなければ聖母は生き永らえることはできなかったでしょう。心の中で主にお話しになります、「私の御子なる永遠の神、私の目の光、私の霊魂の命よ、アダムの娘である私が、十字架を持ち上げたり、担いだりすることができないという苦しみを私の犠牲として受け取って下さい。御身が人類を熱愛するがゆえに、十字架の上で御逝去されるように、私は御身を愛するが故に死ぬべきです。ああ、罪と義の仲介者よ!さんざん痛めつけられ、恐るべき無礼を受けても、私たち慈悲を願う方よ! ああ、御身の愛徳限りありませんれほどの拷問と侮辱を赦し、より多くの恩恵もたらします生贄におなりになる御身に従い、人々を亡びからうために、人々の心に訴え者は誰でしょうか!」

元后の御言葉 御受難と御死去の秘密とは真の人の道は十字架であることを、招かれた者全員が選ばれていないことを、あなたは納得したと思います。主に従いたい者は多いが、主を真似る者は少ない。多くは、十字架の苦しみを感じるやいなや、十字架を棄てます。永遠の真理を忘れ、肉欲を求め、肉の喜びに耽る者は多いのです。人々は名誉を熱心に求め、不名誉から遠ざかります。富を求め、貧しさを批難します。このような人たちは主の十字架の敵です(フィリッピ3・18)。また、他のごまかしが世に広まっています。それは大勢の人たちが主に従っていると想像していますが、苦しまないし、労働もしていないことです。罪を犯さないことで満足し、自己犠牲や苦行を避けるという自己愛を完徳と考えます。もしも、御子が救い主だけではなく、先生でもあることを考えるなら、この人たちは間違いに気づくでしょう。主は愛を誰よりも良く理解しておられ、誰よりも完璧に愛を実行されました。肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれました。主は、悪魔、肉欲と我欲をどのように克服するかを教えて下さいました。つまり、十字架、労働、償い、苦行と侮辱の甘受により、勝利を得るのです。

41・十字架につけられる 

首長アブラハムが一人息子イサクを連れて行ったのと同じ山の頂に、永遠の御父の御子は到着しました。イサクは犠牲になることを免れましたが、罪のない御子は犠牲になりました。このカルワリオ山は汚され、蔑められています。犯罪人たちがここで処刑され、屍は放置され、悪臭を放っていますイエズスが山頂に着かれた時は、疲労困懲し、傷だらけ、引き裂かれ、腫れ上がり、見る影もない有様でした。今や救いの神秘が完うされることを感知した聖母は、永遠の御父に祈られます、「私の主なる永遠の神よ、御身は御独り子の御父であられます。御子は永遠に生れ、真の神、御身御自身でおられます。私の胎内より人となられ、その人性の故、今、御苦しみになられます。私は御子に乳を含ませ、育て、母として愛しますが、今、母としての権利を御身に御返しし、御子を人間の救いのための犠牲として捧げます。」私たちの祖先アブラムは、独り息子イサクを犠牲にせずに済みましたが。聖母は御子を失わなければなりませんでした。アブラハムの妻サラは、イサクが犠牲になることすら知りませんでしたが、聖母は、御子を犠牲にすることで神に一致しなければなりませんでした。時は六時、今の時間で正午。処刑人たちは御子から縫い目のない上着と着物を剥ぎ取るのですが、上着は御頭の上の方に引っ張り、茨の冠も一緒に引き上げます。乱暴に引っ張るので冠は壊れ、幾つかの刺は引き抜かれ、他の刺は突き剌さったままになっています。着物を御体から引き剥す時、着物にこびりついていた御体中の傷が開き、すごい痛みを起こします。着物をはいだり着せたりするのは四回も行われます。第一回目は柱の所で鞭打ちする時、二度目は紫色の着物を着せる時、三度目はそれを上着と着替える時、四度目は主を裸にする時です。カルワリオの山頂では冷たい風が吹きつけるので、開いた傷を通して寒さがしみてきます。主は祈られます、「永遠の御父にして私の主なる神よ、御身の無限の善と正義に対して、私の全人性と聖旨に従い人々の救いのため成し遂げた全てを捧げます。私と共に私の最愛の御母も捧げま御母の愛、完徳、悲しみ、苦しみ、私に対する奉仕、私を見倣い、私の死まで付き添う御母を捧げます。私の使徒たち、聖なる教会と信者全体を御身に捧げます。アダムの子孫全員も捧げます。私の希望することは、私が全人類のため苦しみ、死ぬことです。皆が私に従い、私の救いを得るという条件が満たされることを希望します。人間が悪魔の奴隷ではなくなり、御身の子供たち、私の兄弟姉妹となり、私の功徳により獲得する恩寵を相続できますように。貧しい者、困っている者、世の中の嫌われ者や正義の人たちが御身の永遠の光栄に属することだけではなく、御身により罰せられるかもしれない人々も、御身の審判から免除されることを願います。御身は私の御父であり、皆の御父になられました。私を迫害する人々も私の死についての真理を御身から教わりますように。何にもまして御身の御名が崇められますよう、心から御祈ります。」聖母も御子に心を合わせ、同じ言葉で祈りました。御子が幼児の時の御言葉、「母上、私のようになってください」を決して忘れません。処刑者たちは、主に十字架の横木の上に両腕を延ばすように乱暴に命令します。御手のひらにあたる所に印をつけますが、実際はそれより少し外側に印をつけ、釘の穴を開けることにします。穴を開ける前に、主は上半身を起こさせられます。そこへ聖母が来られ、片手を取り、恭しくその平に接吻されます。処刑者たちは悲しむ母親に会わせて、主をもっと悲しませようと思ったのですが、反対に主は、御自身の似姿であり、御受難と御死去の豊かな実である御母を御覧になり、幸せに思われたのです。主が再び十字架上に仰向けになられると、一人の処刑者は御手のひらに釘を打ち通します。静脈血管や腱は裂かれ、中手骨は釘の両側に押し離されますもう一人の処刑者はもう一方の御手を釘穴にあてようとしますが、もともと、わざと御手の当たる所よりも外側に穴を開けましたから、御手首に鎖を掛け、外側にぐいと引っ張ると、御子の上腕骨の骨頭が肩関節から外されます。その上で御手に釘が打ち込まれます。次に処刑者たちは、御両足を重ね、同じ鎖を御足首にかけ、引っ張りながら、御両足に大きな長い釘を打ち込みます。主は御体が縦横に引き延ばされたまま身動きなさいません。処刑者たちは、十字架の下端を土に掘った穴に引ぎずります。二、三の者たちが十字架の上部の下に入り、十字架を持ちあげます。他の者たちは槍で十字架の上部を押し上げます。こうして十字架を主と共に建てます。主を十字架と共に持ちあげる時、ある者たちは槍をわきの下当たりに剌し、十字架の真ん中に御体を動かします。見ている群衆は喚声を挙げます。ユダヤ人たちは涜聖の言葉を吐き、親切な者たちは嘆き、異邦人たちは驚き、質問したり、恐ろしさと哀れさで頭を振り、他の人たちは我が身の危険を感じたり、又、他の者たちは主を義人であると宣言したりしています。人々の感情は聖母の心に矢のように刺さります。御子の御体の釘の傷は、御体の重みのため大きく開き、血が溢れ出てきます(イザヤ12・3)イザヤが述べたように、御血は私たちの喉の渇きを止め、私たちの罪の汚れを洗い、清めます。処刑者たちは二人の盗賊を十字架につけ、救い主の両側に立てます。ファリサイ人たちや祭司たちは頭を振りながら嘲笑し、石や土を救い主に投げつけて言います、「おい、神殿を壊し、三日以内に建て直す者よ、自分を救え。他人を治したのに自分を救えない。神の子だったら、十字架から降りてこい。そうしたら信じよう」(マテオ27・42)。二人の盗賊たちも調子を合わせ、言います、「お前が神の子なら、お前自身と俺たちを救ってくれ。」 この二人の悪人が臨終に際し、正当な罰を受け、その効果を受けることに気付いていないので、主はお悲しみになります。十字架の木は御子の玉座です。この玉座の上で主は御自分の教えを確認されて仰せになります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23.、34)。敵を赦し、愛されるばかりでなく、知らないで自分たちの神を迫害し、涜聖し、十字架に掛ける人たちのためにも弁解しておられます。ああ、理解を越える愛! ああ、考えの及びもつかない忍耐、天使たちは讃え、悪魔たちは恐れます! 二人の盗賊の内の一人、ヂスマスという名の盗賊は、主の神秘に気付き始めます。聖母のお取次も加わり、主の十字架上での最初の御言葉の意味を神より教えて頂き、自分の罪を悲しみ、悔やみ、自分の仲間に向かい、言います、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして、イエズス顔を向けお願いします。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 (ルカ23・42)。盗賊どもの中で最も幸せなヂスマスや百夫長、その他、十字架上のイズスキリストに信仰告白した者たちの間に救いの結果が現れ始めます。最初の幸せ者はヂスマスですイエスから御返事があったからです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。次に、十字架のそばに直立しておられる聖母と聖ヨハネに主は語りかけます、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です、「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19・26)。「婦人」という言葉は、あらゆる女の中で祝されたる女、アダムの娘たちの中で最も思盧深い娘、主に対する奉仕に欠けることなく、主に対する愛において最も忠実な女を指します。「私が御父の所に戻る時、あなたは私の愛弟子の世話になる、愛弟子はあなたの息子となる」と主は意味され、聖母にはそれがはっきりしています。聖ヨハネも理解し、主の次に最も大切な御方の面倒を見ることになり、聖母は謙遜に新しい息子を養子にします。時は第九時近くとなり、天地は暗くなり、荒れ狂う様子を見せます。主は大声で叫ばれます、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マテオ27・46)。この御言葉はヘブライ語でおっしやるので、理解できない人たちもいます。「エリ、エリ」で始まるので、預言者エリアを呼び出しているのかと思います。主の御悲しみは、全人類を救いたいのに、主を非難する者たち幸福を与えられないということにあります。主の聖心の御苦しみは御体の御苦しみとなります。「渇く!」アダムの子孫たちが、主の功徳によりもたらされた赦しと自由を受け取るよう渇望しておられますが、大勢の者たちがこの恩寵軽ろんじています。聖母は御子に御心を合わせ、貧しい者、困窮者、下賤の者、忌み嫌われた人たち全員が救世主のところに集まり、主の渇きを少しでも癒して欲しいと呼びかけます。しかし、不信なユダヤ人たちや処刑役人たちは頑固です。肝を酢に漬けたものに海綿を浸し、葦の枝の先にその海綿をさし、嘲りながら主の口許に持っていきます。「私の渇きのため、酢を飲ませようとした」(ヨハネ19・29.詩編69・22)がダビデの預言の成就を物語ります。主は第六番目の言葉、「成し遂げられた」は、主の御降誕、御受難と御死去という救世の御業の完成を表します。旧約の預言の実現と主の人性のこの世に於ける結末です。教義、秘蹟と罪の癒しも設けられました。主の聖なる教会は人々の罪を赦すことができます。勝利の教会の基礎が戦闘の教会の中に据えられています。主の最後の御言葉、「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」(ルカ2346)をおっしやった後、死を通して永遠の御父の不死の生命の中に入られますこの御言葉が大きく響いた時、ルシフェルと手下たちは地獄の一番深い穴に投げ込まれ、身動きできませんでした。全てを主と共にされた聖母は主の死の御苦しみも体験しました。聖母が御死去されなかったのは、神の特別な御計らいによるものです。聖母の体験された死の苦しみは、全殉教者や処刑された者たち全員の苦しみを寄せ集めたものよりももっと酷いものです。

元后の御言葉 私の娘よ、私の教えた神秘を片時も忘れず、主と共に十字架に張りつけになって生活し、この世に対して死んだ者となりなさい。

42・マリアはキリストの功徳の相続人 

十字架の上から主が仰せになった七つの御言葉の前に、主は永遠の神に対して祈っておられます。この祈りは実質的には遺言であり、契約です。霊的宝を人類に残されたのです。永遠の神、最高の主、至正の裁判官は主と共に、諸聖人の救いと悪人たちの罰についての神秘を決定されました。このことを理解したのは聖母だけです。聖母は主の御業について教えを受けただけでなく、全人類の中で相続人に選ばれています。聖母は救いの共者であり、相続執行人です。永遠の御父が御子なる主に全被造物を任せられたように、御子は御母の御手に全てをお渡しになりました。神なる御子の功徳を分配されるのです。聖母は最も甘美なる優しさと寛大さを表し、より頼んで来る罪人たちに宝をお分けになります。七つの御言葉の前に、主が永遠の御父に、十字架の上から祈られた御言葉は次の通りです、「私の永遠の御父なる神よ、この十字架の上から御身を崇め、私の受難と死を御身に捧げます。私の降臨により、私の人性を、神人であるキリストの威厳にまで高めて下さいました。永遠より御身は、恩寵と全宇宙の統治を私に委託されていました。天、自然、地、海その中の生物、無生物の王に私を任命して下さいました。季節も昼も夜も私の支配下にあり、全天使たちと全人類を治め、人々の善悪を審判し、最高天から最も低い地獄の底まで私の力が行き渡ります。御身は私を審判者、救い主、授賞者、人類の主、生死を支配する者、聖なる教会の頭、恩寵の所有者として下さいましたので私は御名を崇め奉ります。」 「私の主なる永遠の御父よ、今や十字架上の死により、救いの業を完成し、御許に参ります。この十字架が私たちの審判と慈悲の標準になることを私は望みます。私が自分の命を与える人たちの審判になりたいのです。人々の善業、悪業に応じ、私の功徳を人々に分配したいのです。私は全人類を罪から救い、私の友情と恩寵にあずかるように招いています。私の受胎以来、休むことなく働き続け、不便、疲労、軽蔑、侮辱、叱責、鞭打ち、茨の冠、そして十字架上の死に甘んじます。祈りながら人々を見守り、断食し、諸地方を説教して回ってきました。あらゆる人々の永遠の幸福を願い、あらゆる人々のためにその功徳を得、一人も見逃してはいません。全人類が救われるための教会も確立しています。」 「私の神なる御父よ、しかしながら、悪意があって反抗的な頑固者たちは永遠の救いを望まず、私たちの慈悲と救いの道にそっぼを向くことを私たちは気付いています。多くの人々は罪から堕落へと向かうことを選んでいます。御身は私を生者と死者、善人と悪人を裁き、賞罰を与える裁判官に任命されましたので、私は人間として最後の遺言を致します。第一に、私に人性を与えて下さった至聖なる御母です。御母を私の所有物全て、自然、恩寵と光栄の賜物全てのただ一人の相続人と定めます御母が天使たちと人類の女王であり、統治者であることを宣言します。悪魔たちも御母に従います。理性のない被造物全部、天、星、惑星、自然、生物、鳥、魚と動物は御母を女王と崇め、御母と私を共に讃えるのです。御母は天地の宝の管理者、分配者となります。御母が人類のため、今、後ほど、また、いつもお願いになることは何でも私たちはいつも認めます。」 「御父の聖旨に従う聖なる天使たちに、私は天の住居と、神である私たちを見る喜びとを与える。私たちの友情を永遠に所有することにする。天使たちが私の御母を元后と認め、仕え、随行し、何処へでもいつでもお連れし、御母の命令全てに従うべきことを命令する。私の、完全な聖なる意志に反抗する悪魔たちを私は追放し、罰し、私の御母、諸聖人、義人を見させない。悪魔たちの住居を下の穴、即ち、光の通らない暗黒の恐怖に満ちた地球の中心と定める。高慢と頑固により選んだ結果であり、暗黒の中で永遠の消えることのない火により焼かれることになる。」 「大勢の人々の中より、私は私の恩寵を、私を見倣い、私に従い、私の意志通りに行動した全ての正義にして選ばれた者たちに分ける。私の至純なる御母の隣に選民たちを置き、私の全ての神秘、祝福、秘蹟の宝、聖書の神秘の相続者とする。私の謙遜、柔和、信望愛の徳、賢盧、堅忍、剛毅、私の恩寵、私の十字架、労働、侮辱、貧困と恥ずべき裸の相続人とする。選民たちは私の試練と同様の試練に遭い、私の守護、鼓舞、恩恵、助力、祝福、正義を受けることになる。選民たちは私の愛子であり、私の全功徳の相続人となる。選民たちが教会の秘蹟にあずかり、もしも私との友情を失っても、私の血により恩寵を回復することを私は望む。私の御母と諸聖人は選民たちの仲介者となる。御母は人々の母として保護する。天使たちは、人々がつまずかないように支え、倒れるなら抱え起こす」(詩編91・11)。「正しい選ばれた者たちは、罰せられるべき者たちや悪魔たちの上に立ち、私の敵たちを怖がらせ、従わせる。理性的、非理性的被造物の主人となる。天、惑星や星、また地、地上の自然や動物は選民たちを大切に扱い、生命を与える。私の所有物であり、私に仕える被造物全部は彼らのものであり、彼らを私の子供たちとして大切にする(一コリ3・22、智恵16・24)。彼らの祝福は天の露となり、地の果物となる(創世27・28)。彼らは私の喜びである。私は彼らに私の秘密を教え、話し合う。戦闘の教会においては、パンと葡萄酒の形の中で彼らと共に生きる。永遠の幸福の相続者として認め、天国において私と共に喜ぶようにする。」「罰を予知された者たちは、体と目の色欲を相続することになろう」 (1ヨハネ2・16)。地球の塵、つまり富で満足する。肉の臭気と腐敗や、世の中の虚栄と厚顔とを喜ぶ。このような物を得るめ働き、心身をすり減らす。私たちの与えた賜物や祝福を濫用する。自分たちの自由意志により、ごまかしを選び、私の教えた律法の真理を嫌う(ロマ28)。私が彼らの心の中に与えた良心を排斥し、私の教えも祝福も嫌になり、私と彼らの共通の敵の言うことを聞き、敵のごまかしや虚栄を愛する。不正を働き、自分の野心に従い、復讐を楽しみ、貧しいを困らせ、義人を軽蔑し、無実の者を嘲り、自分たちは威張り、不法行為においてレバノンの杉よりも高くなろうとする(詩編37・35・)。「これらの者たちは私に敵対し、悪意に凝り固まり、私の与える養子権を破棄したので、私は彼らに私の光栄を相続させない。彼らを私の御母、天使たちや諸聖人から分け離し、彼らが自由意志で仕えたルシフェルや手下たちのいる永遠の地獄の火の中に落とす。彼らが地獄から這い上がれるチャンスを決して与えない。ああ、御父よ、人間と天使の頭、裁判官としてこの宣言を誓い、私の臨終にける契約とします。各人は、各人の行為に従い、御身の審判に従い、報いを受けます」。この祈りは聖母の御心の中にしっかり伝わりました。聖母の御取次や御自分から率先されるお世話を通して、この契約が施行されることは、その時、そして過去、未来全てに及んでいます。

43・キリストの地獄への勝利 

主イエズスキリストが十字架上で死を遂げなるその時まで、ルシフェルと手下たちは、主が神であるかどうかはっきり判りませんでした。従って聖母の威厳についても確かではありませんでした。が人間となり、救いの御業を行うことをルシフェルは知ていました。主の奇跡にも感服しましたが、主が貧しく、蔑みを受け、疲労困態するのを見ると、主が神であるとはどうしても思えません。ルシフェルの高慢のため、見すぼらしく見える主を神と認める気持ちはさらさらなかったのです。しかし、状況を判断すると、主は神に違いないと考えられ、混乱します。主が十字架を背負い、救いの御業の完成に向かわれるやいなや、ルシフェルと部下たちはすっかり驚愕し、地獄に飛んで帰ろうとします。神の御力により、物事が明確になったからです。自分たちが殺そうとしていた無実の男は単なる人間ではなく、その人の死は自分たちを滅ぼすことが明白になった以上、いても立ってもいられません。地獄に逃げ帰ろうとするところを聖母に捕らえられ、鎖に繋がれた恐ろしい龍たちのように、カルワリオまで主のお供をすることになります。この神秘的な鎖の端は聖母がしっかりと握り、御子なる主の御力により、悪魔たちを従わせます。悪魔たちは何度も鎖から逃げ出そうとし、怒りに荒れ狂いますが、聖母に勝てません。聖母は、悪魔たちをカルワリオ山頂まで連れて来ると、十字架の周囲に立たせ、身動きしないで神秘を見守り、人類の救いと悪魔たちの滅びを目撃させます。ルシフェルと地獄の霊たちは、主と御母のそばにいるという苦痛に打ちのめされ、自分たちに襲いかかる滅亡を恐れ、地獄に飛び降りたくてしようがありませんが、許可してもらえません。悪魔たちは倒れ、お互いの上に重なり合い、もがき合い、暗い避難所を目茶苦茶に探し回ります。悪魔たちの怒り狂う様は動物同士の殺し合いとか、龍同士の死闘よりももっと残酷です。十字架の上から主が七つの御言葉を発せられると、悪魔たちも傾聴し、意味が良く判ります。主は悪魔たちに勝ち、罪と死を克服し、悪魔たちの手から人間を取り戻しました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という第一の御言葉を聞いて、ルシフェルは、主が真の神の御子であることを確信しました。主なる神が人性において御死去になり、全人類を救い、アダムの子孫全員の罪を赦し、御自身の処刑者たちのことも除外しないことが判ったのです。激怒と絶望で荒れ狂う悪魔たちは、聖母の御手から何とか逃れようと全力で暴れます。主の第二の御言葉、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」は、罪人の赦しは義者の光栄に結果するという意味であると悪魔たちは悟ります。主の功徳により、原罪の結果、閉ざされていた天国の門が開かれ、人々が入り、予知された天国の席を各人が占めることになると判ります。主の謙遜、忍耐、柔和とその他の諸徳により、主が罪人たちを招き、清め、美しく天国に入れること知ります。ルシフェルは混乱し、苦しみ、聖母に逃して下さるよう願いますが許されません。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です!」という第三の御言葉で、自分たちを捕まえて放さない婦人が主なる神の御母であり、天空に現れ、自分たちの頭を踏み砕くと預言されている女と同じ御方であると発見します。今までそれが判らなかったことほど、何でも知っていると思う高慢をぶち壊すことはありません血に飢えたライオンのようになり、聖母に対する憎しみを千倍に増やします。聖ヨハネが聖母の守護者に任命され、しかも司祭の権能を与えられていることに気付き、聖ヨハネの司祭としての力と司祭全員の力が、私たちの救い主に由来するということ、司祭たちは主により守られ、自分たちより強いということで、悪魔たちは手出しできなくなります。第四の御言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を聞いた悪魔たちは、主の人類に対する愛が永遠無限であると判ります。神は人類の救いのため、主が極度に苦しまれることを許されます。主は人類の一部が救われないことを予知し、残念に思います。もしも、その反抗的な人々さえも救われるならば、主はもっともっと苦しみたいのです。主の人間に対する愛の故に、ルシフェルたちは嫉妬で気が狂い、神の愛に対して無力であると感じます。第五の御言葉、「渇く」は悪魔たちに対する主の勝利を確認します。主は人間に対する御自分の愛情に満足できません。この渇き、この不満は、人間の救いのために永遠に続きます。苦痛の激流は決して絶えません(雅歌8・7)。悪魔たちの暴虐や支配から人々を救い、悪魔の悪意と高慢に対して戦うのを助けられるなら、主はもっともっと苦しみたいのです。第六の御言葉、「成し遂げられたにより、御受胎と御救世は今や完成したことを悪魔たちは嫌というほど思い知らされます。我らの救世主は、永遠なる御父にどれほど忠実であったか、昔の太祖らにより教えられてきた契約と預言を主が成就したこと、主の謙遜と従順が悪魔たちの高慢と反逆に打ち勝ったことを悪魔たちは教えられます。主が天使たちと人類の裁判官であることは、永遠の御父の聖旨の通りです。主がルシフェルと手下たちを地獄の最奥部にある永遠の火の中に投げ込むという審判は、第七の御言葉父よ、私の霊をみ手にゆだねます」を発せられた時に施行されたのです。同時に聖母も同じ審判を下されたのです。悪魔たちの落下は雲を貫く雷光よりももっと速く、あっという間の出来事でした。以前に天より追放された時以上の大惨事を悪魔たちは経験したのです。聖ヨブが言うように(ヨブ10・21)、地獄は暗く、死の陰に覆われ、陰気な無秩序、悲惨、拷問と混乱に満ちていますが、今度は混乱と無秩序はいつもの千倍にもなっています。怒り狂う獰猛な悪魔たちが突然やって来たので、地獄に堕ちた人間たちは新しい恐れともっと多くの罰を与えられるからです。地獄の罪人たちは、各人の罪の大きさに従い、神により罰が決定されるので、悪魔たちが勝手に罰の大小による場所の違いを決めることはできません。ルシフェルは驚愕からやっと気を取り戻すと、地獄の運営を取りしきるに当たり、悪魔たちに自分の高慢な新計画を発表するため、全員を呼び集め、自分は高座に座り言います、「俺の復讐の命令に長い間従ってきている者どもは、この神人に俺がしてやられたことを知っている。三十三年間、俺をかし、自分の神性を隠し、計画を見せず、今や俺たちが神人を殺したことにより、俺たちは負かされたのだ。神人が人間となる前、俺は憎み、俺より偉い者として認めなかった。この反逆により、俺はお前たちと共に天から追放され、俺の偉大さと美にふさわしくないこの恐るべき状態に落とされ、神人と御母に屈服されている自分を見てもっと苦しんでいる。人祖が創造された日から、俺はこの二人を探し、滅ぼそうと休むことがなかった。もし、この二人を探せなかったら、せめても、全人類を滅亡させ、神を崇めさせず、神の恩恵をもらえなくさせようと望んだのである。この意図のため、俺は全力投球した。しかし、この神人は謙遜と貧困により俺を屈服させ、忍耐により俺を潰し、最後に御受難と御死去により、この世の統治権を俺から奪い取った。俺が神人を御父の右の座から突き落とせても、全人類をこの地獄に落としても、この無念は決して晴らせない。」 「俺よりもはるかに低級な人性が、あらゆる被造物の上に高められることは可能か? 人性が愛され、恩恵を受け、永遠の御言葉のペルソナである創造主に一致するとは! この御業の前に、神は俺と戦い、後に俺を混乱させる! 神は俺の天敵で、嫌いで嫌いでしょうがない。ああ、神から恩恵を受け、賜物を頂く人間たちよ! お前たちの幸運をどのように邪魔しようか? 俺の不運をどうやってくれてやろうか? ああ、俺の部下たちよ、何から始めようか? どうやって人間たちを支配できるか? もう一度俺たちが屈服させるにはどうしたら良いか? 人間たちが馬鹿になり、恩知らずにならなければ、そして救い主を軽んじないなら、救い主に従うだろうし、俺たちの嘘に耳を貸さないだろう。俺たちがこっそりと提供する名誉を嫌い、軽蔑を愛し、肉の苦行を求め、肉の楽しみや安逸の危険を見つけ、富や宝を嫌い、やつらの先生がとても誉める貧困を愛し、やつらの貪欲をそそりそうなもの全てを、救い主が忌み嫌うのを真似するだろう。そうすると俺たちの王国は駄目になる。ここには誰も来なくなる。俺たちがなくした幸せを手に入れる。自分たちを塵芥と同じように卑下し、忍耐強く苦しむに違いない。俺の怒りも自惚れも役立たずだ。」「何という禍 神人を砂漠で試みた時、神人はどのようにして俺を克服するかの良い模範を示した。ユダに神人を裏切らせ、ユダヤ人に神人を十字架上で殺させたことが、俺の滅亡と人聞の救いになった。俺が消してしまおうとした教義がもっとしっかり根づいてしまった。神たる者が自分をそこまで謙らせられるのか? 悪人どもからそれほどの仕打ちを堪えられるのか? 俺が神人を助けるはめになったのはどういうことなのか? この女、神の御母はどのようにして強いのか? 人体を神の御言葉に与えた御母は、神から力をもらったのだ。この女により、神は俺をしょっちゅう責めて来る。子分たち、どうしたら良いのか意見を言ってくれ。」 悪魔たちは、主キリストを傷つけられないこと、主の功徳を減らせないこと、秘蹟の効果をなくせないこと、教義を変えられないことを全員認めた上で、もっと大きなごまかしと誘惑を試みることにしました。抜け目のない悪魔たちは、以上の他に、この女の強力な取次や弁護も認めた上で、人間の肉の性も情も以前と同じであると主張します。新しい娯楽を教え、欲情をそそらせ、その他のことを忘れさせるよう熱心に人間たちを口説こうというのです。悪魔たちは、幾つかの部隊を編成し、各部隊は異なる悪徳一つ一つを専門とすることにしました偶像崇拝を世界中に広めるか、分派や異端を作ることにします。例えば、アリウス、ペラジウス、ネストリウスの派とか、他の諸宗教です。神に対する信仰を破壊することでルシフェルは満足し、この不信仰運動を熱心にやりたいという悪魔たちを高い位につけました。他の悪魔たちは子供たちを妊娠の時、または誕生の時に邪悪にすることにしました。親たちに子供たちの養育・教育を疎かにさせたり、子供たちに親を憎ませたりさせる仕事を言いつかりました。夫婦仲を悪くさせたり、不倫させたり、貞節を軽んじさせたりする役の悪魔もいます。全員一致したことは、不和、憎悪、復讐、高慢、肉欲、富の所有欲、名誉欲の種を撒くこと、キリストの教えた諸徳に反するもっともらしい理由をほのめかすことです。とりわけ、人々に御受難、御死去、救いの手段や地獄の永遠の苦痛を忘れさせることを計りました。このような手段で、人間の知力や能力を、この世のことや感覚的喜びで疲れさせ、霊的思考や自己の救いのための時間を少しにしようとするのです。以上の提案は全てルシフェルが賛成します。そして、救い主に従わない者たちを誘惑するのは容易であるが、救い主の掟に従う者たちを徹底的に迫害しなければならないと言います。教会の中に野心、貪欲、官能、憎悪の種を撒き、これらの悪徳を盛んにし、それに伴う悪意と忘恩により、神を怒らせ、救い主の功徳による恩寵を失わせようと言います、「やつらが救いの手段を失うと、俺たちは勝てる。信心を弱めてやると、やつらは秘蹟の力を実感せず、大罪の状態になるか、不熱心に秘蹟にあずかる。そして、霊の健康が弱まり、俺たちの誘惑に抵抗し切れなくなる。俺たちのごまかしを見通せなくなる。救い主や御母を忘れ、恩寵に値しなくなる救い主を怒らせ、助けてもらえなくなるだろう。俺は、皆に俺の命令を全力でやってもらいたいのだ。」 悪魔たちの会合は、主の御死去後まる一年も続いたのです。聖ヨハネは言います、「地は禍なるかな、悪魔は激怒し、地に来れり。」 悲しいことに、この真理ほど人々に嫌われ、人々から忘れられたものはありません。我々がぼんやり、いい加減で不注意である一方、悪魔たちは抜け目なく、残酷で、我々の隙をうかがっています。大勢の人々がルシフェルに聞き入り、ごまかしを真に受け、少数の人しか反対しないのです。人々が永遠の死を全く忘れてしまうのです。世の中全体の悪と個人の悪による危険を知らせなければなりません。

元后の御言葉 悪魔たちは、教会全体の破壊を企んでいます。大勢の人々を教会から離れさせ、教会内に留まる人々に教会を軽蔑させ、救い主の御血と御死去の実を結ばせまいとしています最大の不幸は、多数のカトリック教徒がこの大きな破損に気づかないか、主イエズスがエルサレムの婦人たちにエルサレムの滅亡を警戒された時が今来たことが判っていても、解決について真剣ではないことです。

44・復活 

主イエズス・キリストの埋葬の後、聖母は最後の晩餐をした高間に戻りました。聖ヨハネ、他のマリアたちとガリラヤの婦人たちも一緒です。この人たちに聖母は心から感謝し、涙を流しながら、主の御受難の間中、耐え忍んだことと、御生前も主に献身したことの報いを約束します。同時に聖母は、皆の召し使いとして、友として仕えたいと申し出ます。皆はこの大きな恩恵を感謝し、聖母の御手に接吻し、聖母の祝福を願います。皆が、聖母に何か召し上がり、少し休まれるように願うと聖母は言われます、「私の休みと慰めは、私の御子なる主が死者の内から復活するのを見る時です。あなた方は早く食物を摂るなり、休むなりして下さい。私は御子と二人きりになります。」 自分の個室で聖母は、御子の霊魂が何をされているかを思い巡らします。聖母が最初から知っていたことは、御子の霊魂が神性と一致結合し、古聖所に行き、その地下牢から聖なる祖先全員を解放することでした。主が訪れると、この暗い洞穴は天国に変り、素晴らしい輝きで満たされ、そこに保留されている聖人たちは神を見ます。長い間の希望が実現します。神に感謝し、神を誉め、歌います、「犠牲となった小羊に権力、神性、智恵、名誉、光栄と祝福がありますように。主よ、御身の御血により、あらゆる部族、あらゆる言語を話す人たちや諸国民の中から私たちを救って下さいました。私たちを国王や司祭に任命し、地を統治させます。ああ、主よ、権力、統治と光栄は、ことごとく御身のものです」。次に主は天使たちに命じ、煉獄にいる霊魂全員を連れて来させます。人類の救いの保証のように、彼らの罪は赦され、残っている刑罰も免除され、彼らは義人たちと共に神を見て輝きます。救い主イエズスキリストは、金曜日午後三時半から日曜日の朝まで古聖所におられます。その間、御墓では大勢の天使たちが警護にあたっています。聖母は何名かの天使たちに命じ、御子の流された御血、飛び散った御肉の破片、引き抜かれた頭髪など全てを集めさせます。天使たちは大喜びで聖遺物を胸に抱きしめます。聖なる祖先たちは、主が御亡くなりになった時の、そのままのむごたらしい御体を拝見し、主を崇め、我々の弱さや悲しみを引き受けられた人間としての「御言葉」を改めて宣言します。主の救いにより、自分たちが光栄に浴することを強く認識し、聖人たちは全能なる神、そして聖人中の聖人をもう一度讃美します。全聖人の前で、あらゆる聖遺物が天使たちにより主の御体に結びつけられ、主の以前の御体が再現します。その瞬間、主の霊魂が主の御体に結合し、不死の生命と光栄を与えます。御体は光栄の賜物、即ち、明瞭、物体通過、敏捷と微妙の着物を着ています。これらの賜物は、主の霊魂の無限の光栄から溢れ流れ、御体の隅々にまで行き渡ります。これらの賜物は、御受肉の瞬間から、自然な相続と結合から御体に与えられるべきでした。御霊魂と御体の一致と神性との一致の故、御子の人性は光栄を受けたのですが、私たちに光栄を与える功徳を積むまでの間、これらの賜物は保留されたのです。御復活により、主の霊魂の光栄と神性との一致の結果、賜物の効果が現れることになりました。私たちの救い主の霊魂の光栄を書き表すことが人間にとって無理であるように、賜物の記述も不完全になります。その美しさ(明燎、純粋)は、たくさんの太陽のようですそれに比べると被造物の美しさは一個の星の光くらいです。この美しさは、御変容の光栄を遥かに越えます。御変容の光栄は、一時的で特別の目的のためでしたが、この賜物の光栄は永遠です。物体通過という賜物により、どんな力も主を動かせません。微妙という賜物により、主の自然な御体は純化され、何物の中も、純粋な霊魂のように通り抜けられます。墓の岩も突き抜けられたのは、御誕生の時、御母の御胎を通り抜けたのと同じことです。敏捷という賜物により、物質ではない天使たちよりももっと早く、主の御体は動けますので、使徒たちの所にも素早く出現されたのです。御体を変形した聖痕は、御両手足と御脇から輝き、うっとりとさせる美しさと魅惑があります。この光栄と天の飾り全てを身につけて、救い主は墓から起き上がり、諸聖人と全首長に、人類全員の霊肉にける復活と栄光を約束されます。これら全ての神秘に、高間の家に引きこもっておられる聖母は参加しておられました。主の霊魂が御体に入り、生命を与えたその瞬間に、喜びが聖母の御体の中に流れ込みました。聖母の御悲しみは御喜びに変わりました。ちょうどその時、聖母をお慰めしようとして、聖ヨハネが聖母の個室に一歩入ると、光り輝く聖母が目の前におられたのです。自分の聖なる御母が喜びと共に変容されたので、主が御復活になったと知りました。主がもうじき訪問されるので、聖母は歓迎の準備に取りかかります。賛嘆の歌と祈りの内に新しい歓喜が湧き上がり、最初の喜びよりももっと高く聖母の御心を揚げます。更に第三の違う嬉しさが込み上げてきます。そこへ私たちの救い主イエズスキリストが御出でになります。諸聖人、首長たちもお供しています。謙遜な聖母は主の御足許に平伏します。主は御母を起こし、御自分の方へ引き寄せられます。御子の光栄ある御体が至純なる御母の御体ととても親密に結合したので、主の御体が御母の中に入り、御母が主の中に入りました。水晶球が太陽の光で満たされるというふうに表現できるかもしれません。御母は、主の至聖なる霊魂と御体の光栄について良く知っておられましたが、より高次の賜物を頂き、最も秘められた秘蹟をより良く知ることになります。この秘蹟において、聖母は御声を聞きます、「私の愛する者、より高く昇れ!」。この御言葉の力により聖母は全く変容し、神を明らかに直感し、あらゆる悲しみに対する報いを頂きます。神の幻視から降りて来て、神の右腕に抱かれているのに気がつきます。主の御受難と御光栄について最も甘美なる会話をされます。至純にして原罪の汚れなき被造物である聖母が、主と同じように御苦しみになり、今や主と共に喜びに満ちておられます。

元后の御言葉  藁を取り除くとか、一杯のコップの水をあげるとか、最も功績の低いことをする時、神に対する愛により賜物は増えます。最も無意味の仕事の一つ一つが、これらの賜物を増やすのです。太陽の光の何倍以上もある明瞭の賜物が増え、恩寵の状態に加えられます。人間的、現世的腐敗を通させないための普通の人間以上の力である物体通過の賜物が増えます。普通の抵抗力を越え、穿通の新しい力を獲得するための微妙の賜物が増えます。鳥、風、火など活発なものよりももっと能動的な敏捷の賜物も増えます。体の賜物の増加が判れば、霊魂の賜物の増加も理解できるでしょう。第一の至福幻視は、神の属性や完全さを教会博士よりももっと大きな洞察と明瞭さを与えます。第二の理解の賜物は、思考無限善なる神を所有することで、心の静けさをもたらします。第三の賜物である結実は、最小の行為に伴う愛の故に、愛の度を増します。

45・キリストの昇天 

御昇天の二、三日前、永遠の御父と聖霊が高間に御出でになり、玉座に腰かけられました。諸階級の天使たちや諸聖人が周囲におります。人となられた御言葉は玉座に上がり、神のペルソナ御二方の隣に座ります。神の御母は部屋の片隅に平伏し、聖三位一体を恭しく崇めます。永遠の御父は、御母を呼び寄せるよう、最高位の天使二位に命じます。御母は慎しく起き上がり、天使たちに付き添われ、玉座の足許に近づきます。永遠の御父はおっしやいます、「我が愛する者、高く昇れ!」御母は起こされ、三位の神と共に玉座に腰かけます。単なる被造物に過ぎない者が、そのような威厳に高められたのを見て、諸聖人は感嘆に堪えません。いと高き御方の御業の聖性と公正を理解し、聖人たちは神の無限、正義、聖を誉め称えます。御父は御母に話されます、「我が娘よ、我は御独り子の教会、恩寵の新法と救済された人々、その全てをあなたに任せます」。聖霊は申されます、「全被造物より選ばれた我が浄配、我は、我が智恵と恩寵をあなたに与える。人となられた御言葉の神秘、御業と教義はあなたの心の中に保存されます」。御子はおっしやいます、「我が最愛の御母よ、我は御父の御許に帰り、御身を地に残すにあたり、我が教会を御身に委託します。御父が教会の子ら、我が兄弟姉妹を我に託されたように、我は御身に託します」。聖三位一体は諸天使、諸聖人に向かって宣言されます、「この御方こそ天地万物の女王です。教会の保護者、被造物の女主人、信心の御母、信者の仲介者、罪人の弁護人、美しき愛と聖なる希望の御母にして、我らの慈悲と寛容を人々に施します。我らが恩寵の宝を御母の中に納め、御母の最も信仰深き心を、我らが聖法を書き記す板とします。人類の救いのための我らの全能の神秘は、御母の中に包まれます。御母は我らの完全な作品である。我らの希望は、御母を通して円滑に達成されます。心より御母に依頼する者は滅びることがなく、御母の取次を願う者は永遠の生命を得る者となる。御母が我らに願うことの全ては与えられる」。 その日より御母は、この福音の教会の世話をすることになり、全教会の愛すべき御母となられました。これまでの嘆願を更新し、全生涯を熱烈に絶え間なく嘆願を神になさいました。同じ日、主は十一人の使徒たちと共に食卓の周りにおられ、他の弟子たちや信心深い婦人たちも高間に集まり、総勢百二十名となりました。神なる主は、これらの人々が御昇天に居合わせるようにと望まれたのです。最後の晩餐が行われた同じ高間で、主は愛すべき父として皆にお話しになります。「私の最も可愛い子供たちよ、私は御父の許へ帰ろうとしています。私の代わりとして御母を残します。御母は、あなた方の守護者、慰める人、弁護人であり、あなた方の御母です。御母の言うことを聞きなさい。私を見る者は御父を見、私を知る者は御父を知ると私が言ったように、私の御母を知る者は私を知り、御母に耳を傾ける者は私の言うことを聞き、御母を讃える者は私を讃えると、私はあなた方にはっきり言っておきます。あなた方皆にとり、御母は上司であり、頭であります。あなた方の子孫にとっても同じです。御母はあなた方の疑いに答え、困難な問題を解決して下さいます。私を探す者は御母の中に私を見出します。私は世の終わりまで御母の中に居続けます。今でも御母の中にいます。どのようにしてそうできるのか、あなた方には判りません」。「私は世の終わりまであなた方と一緒にいる」。(マテオ28・20)主は続けられます、「聖ペトロは教会の最高指導者、教皇になります、あなた方は主司祭長の聖ペトロに従いなさい。聖ヨハネが私の御母の息子になることは、私が十字架の上で任命した通りです」。主は、御母が神の御母の威厳にふさわしい崇敬を受けることを望み、それを教会法の中に残したかったのですが、最も謙遜な御母は、これまで受けた以上の名誉を望まれず、教会が主だけを崇拝し、主の御名のため福音を宣教するようにお望みになりました。主は御母に譲歩しました。主と御母のお話を聞いた会衆一同は感動しました。神に対する愛に燃える反面、主とお別れになることを悲しむのです。「誰が私たちの父になり、保護者になるのか?私たちは孤立無援になり、孤児になると思います」。一人が叫びます、「ああ、最も愛すべき主なる父!ああ、私たちの霊魂の喜びと生命よ!御身を救い主と認めた今、御身は私たちから立ち去られる!私たちを連れて行って下さい。ああ、主よ、私たちを追放しないで下さい。御身なしに私たちに何ができましょう?御身以外の誰の所に行きましょう?どこへ行けばよいのでしょう?」。主は、皆がエルサレムに留まり、祈り続け、慰め主である聖霊を待つように答えられます。御父が約束され、御子が最後の晩餐で予告された通りです。高間に集まった百二十名が、主イエズスキリストの御昇天の目撃者になります。御母と共に、主はこの小さな群れを率いてエルサレムの街の通りを歩かれます。人々はべタニアを目指します。べタニアからオリベト山まで二キロ弱あります天使の群れと古聖所から来た聖人たちも参加し、新しい賛美歌を歌いますが、御母にしか見えません。主の御復活は、エルサレムやパレスチナー体に既に知られています。不信、悪意の首長たちや祭司長らは、主の御体が弟子たちにより墓から盗み出されたという嘘をばらまきますが、多くの人々から信用されていません。エルサレムの住人や不信の者たちが主の一行を黙認し、妨害しなかったのは、神の御配盧によるのです。主は、人々には見えなかったのです。オリベト山頂に着くと、人々は三つの輪を作ります。内側が天使たち、真ん中が聖人たち、外側は使徒たちと信者らです。御母は御子の御足許に平伏し、恭しく礼拝し、真の神である救世主として崇拝し、最後の祝福をお願いします。人々も同様にします。泣き、嘆きながら、主がイスラエルの王国を再建されるのかどうか質問します。主は、永遠の御父のみ知っておられると答えられます。人々が聖霊を戴き、エルサレム、サマリアや全世界に救世の神秘を説教することは必要で、時機にかなっているとおっしやいます。主の御顔から平和と威厳の光が輝き出て、人々から別れます。両手を組み、地面から上昇して行きます。地面には主の御足跡が残っています。空にゆっくりと昇って行かれる主を人々は見つめ、嘆息をつき、泣きます。主の後に天使の群れが上がって行き、聖なる首長たちと光栄に満ちた聖人らが続きます。いと高き神の御業は、御母も主と共に被昇天させておられます。この御業は人々に気付かれません。その訳は、御母は二か所に同時に存在するという奇跡にあずかっているからです。教会の子らと共に留まり、信者たちを慰めると同時に、主と共に被昇天し、玉座に三日間滞在されます。天においては、御母は御力を最大限に駆使されますが、高間においては御母の御能力は少し制限されています。喜びの中に主の一行は最高天に到達します。諸天使と諸聖人の間を主と御母が通ります。全員こぞって、御二人別々に、そして一緒に最高の名誉の言葉を申し上げ、恩寵と生命の造り主なる神に対する賛美歌を歌います。永遠の御父は右側の玉座に人となられた御言葉を招きます。御言葉なる御子において、神性と至聖なる人性が結合し、一致している様子は美と栄光に満ち、人間の目がこれまで見たこともなく、耳がきいたこともなく、全く想像したこともありません(1コリ2・9)。この時、御母の謙遜と智恵は最高潮に達します。御母は玉座の足台に平伏し、御父を崇め、御子に下さった光栄と御子の人性に偉大と輝きを与えて下さったことを感謝する歌を歌います。天使たちと諸聖人は、御母を崇敬する気持ちで一杯になります。そして、御父はおっしやいます、「我が娘よ、高きに昇れ!」。御子は御母に申されます、「我が御母、起き上がり、この席に着いて下さい。御母が私に従い、見習いましたので、この席を差し上げます」。 聖霊も招きます、「我が愛すべき浄配、御出で下さい、永遠に抱きしめましょう」。聖三位一体の宣言がなされます、即ち、御母が御子の受肉に際し、御自身の生命と血を捧げ、御子を保育し、御子に仕え、模倣し、従い、人間として可能な限りを尽くされたので、御子の右側に永遠の座を与えられるという宣言です。他の人間は決してこのような高さに到達できません。この座は御母のため予約され、御母の地上での御生涯の後、御母の所有となります。諸聖人のとうてい及びもつかないことです。御母が聖三位一体の玉座に、御子の右に高められるにあたって、御母がそのまま留まり、地上に戻らないことにするか、または、一旦戻るか、御母御自身が決定することになりました。そのため、御母は地上の戦闘の教会の様子を御覧になります。信者たちが孤児になっていることを見て、主が地上で人々のために尽したことを思い浮かべ、玉座から降り、聖三位の御足許に平伏し申しあげます、「永遠全能なる神にして我が主よ、御親切に私に下さる報いを今受け取りますことは、私の安息の保証になりますが、地上に戻り、アダムの子らや教会の信者たちに働きますことは御身の聖旨に叶い、地上に追放され、旅している私の子供たちのためになると思います。私は労働し、人類に対する御身の愛のために苦しみたいと思います。私の主よ、この犠牲を受入れ、私を助けて下さい。御身への信仰が広められ、御名が崇められ、御身の教会が大きくなりますように。御独り子と私の血により教会は建てられました。御身の光栄と霊魂の獲得のため、もう一度働きたいと思います」。主は御喜びになり、御母に浄化と啓示を下さいました。至福の幻視と天の賜物は、人間には想像できません。オリベト山頂では、信者たちが主の昇られて行った天の方向を見つめ、泣き、途方に暮れています。主と共に被昇天されつつある御母は山頂の信者たちを御覧になり、御子に信者たちを慰めるようにお願いします。そこで救世主は、二位の天使を派遣します。天使両人は白い輝く着物を着て、弟子たちや信者たちに現れて言います、「ガリラヤの人々よ、驚いて天を見上げないで下さい。あなた方から別れ、天に昇られた主イズスキリストは、今あなた方が見たような光栄と威厳を備えて帰って来られます」(使111)。

元后の御言葉 私の娘よ、主は人々を苦しめないで喜ばせ、悲しませる代わりに慰め、叱らずに誉めます。ところが人々は、主の御本心が判らず、この世の危ない慰め、喜びや報いを望みます。人間は考えが鈍く、粗野で無学ですから、教育を受け、柔和となり、実を結ぶように、困難の金槌に叩かれ、苦難の溶鉱炉で精練されなければなりません。私の苦労は主が下さる報酬に比べたら、全く取るに値しません。ですから、天を去り、地に戻り、再び苦労し、教会を助けたいと思いました。あなたが一生懸命働き、祈り、苦しみ、心の底から全能者に泣き叫ぶことを望みます。もし、あなたの生命のすべてを捧げることになったら、御子と私の意志に叶うことです。

46・聖霊御降臨。聖母マリアは聖霊を直観視する 

聖母がそばにおられ、励まして下さるので使徒たち、弟子たちや信者たちは、慰め主なる聖霊を送って下さるという救世主の御約束を喜んで待ち望みます。人々は愛により一致団結しているので、違う考え、愛情や傾向が全くありません。思考と行動において一心同体です。聖マチアを使徒に選出する時も、教会の最初のメンバーたちの間で不一致の印は全くなかったのです。祈り、断食や聖霊待望において一致していました。悪い霊を追い散らすことにも一致していました。救い主の御死去以来、地獄に弱り果てて寝ころがっていた悪魔たちは、新しい迫害と恐怖が高間に集合している者たちの徳から起こって来ると感じました。キリストの教義と模範が弟子たちに影響を及ぼすと感じた時、自分たちの支配がくつがえされそうだと思えたのです。聖母は、聖霊御降臨の予定された時間を知っていました。主の御復活後五十日目に聖霊御降臨となりますが、その日が近づくと、聖母には御言葉の人性が永遠の御父と相談しておられるのを幻視しました。御言葉は、聖霊が恩寵や不可視の賜物をもたらす以外に、目に見える形で聖霊が御降臨になるよう御父に願います。聖霊を見ることにより、世の中が福音の律法を称賛するようになり、神の真理を広める使徒たちや信者たちを励まし、主を迫害し、十字架の死まで主を嫌った人たちを怖がらせることになります。私たちの救い主の願いは地上の聖母に支持されます。十字架の形に地面にうつぶせになりながら、御母は聖三位の会議において、救い主の御要求が通り、聖霊が地への降臨を承諾される様を幻視します。ペンテコステ(聖霊御降臨)の朝、聖母は使徒たち、弟子たちや敬虔な婦人たち、総数約百二十人にもっと熱心に祈り、自分たちの希望を更新するように勧めました。第三時(午前九時)、全員が聖母の周りに集まり、熱心に祈っていると、大きな雷や大風の激しく吹く音が、火または雷の明るさと混じり合って聞こえてきます。全ては高間の家に集中します。光が家を包み、神の火がその家にいる全員の上に注がれます。百二十人、一人一人の頭の上に同じ火の舌が現れますが、この火の舌の中に聖霊が来られ、神の影響力と天の賜物で各人を満たします。その時、高間の人たちやエルサレム全体の人々が受けた効果は、一人一人違い様々です。聖母は聖霊をお受けし、変容し、神により高められます。聖霊を直感的に御覧になります。聖母の受けた賜物は、その他の聖人全員が受けた賜物よりももっと多いのです。聖母の栄光は、天使たちや諸聖人の栄光よりも偉大です。聖霊が教会のため降臨され、教会を世の終わりまで導かれるように計り、計らって下さった主を讃美し、感謝することにおいて聖母は、世界中の人たち以上になさったのです。聖母が比類のない素晴らしい被造物でありますから、神は世界を創造したかいがあったと考え、しかも、聖母に恩義を感じられるようです。なぜなら、御父は聖母を御父の娘とお呼びになり、御子にとっては御母であり、聖霊にとっては浄配であります。聖霊御降臨にあたっても、神は聖母に高い威厳を与えておられますし、聖霊のあらゆる賜物と恩寵が聖母の中において更新され、新しい効果と働きを起こしています。使徒たちは聖霊に満たされ、義化する恩寵と聖化する恩寵を頂いております。全員、各人の状況に応じ、上智、聡明、賢慮、知識、剛毅、孝愛、敬畏の七つの賜物を頂きました。この壮大な祝福のお陰で、使徒たちは新約の牧者となり、全世界に祝福を宣教する教会の創立者となり、仕事に励み、最も困難で骨の折れることも喜び勇んで全うすることになります。高間において聖霊を受けた弟子たちや信者も各自の教会内の役割に応じて異なる程度の賜物を頂きました。同様な違いは使徒たちの間にもあります。聖ペトロは教会を司牧するため、聖ヨハネは天地の女王である聖母に仕えるため、特別の御恵みを頂いております。聖ルカの聖福音には、高間の家全体が聖霊により満たされたと書いてあります。中に集合した幸せな人々だけでなく、家自体が素晴らしい光と輝きに満たされたのです。不思議と驚異は有り余り、家の外に溢れ出て、エルサレムと近郊の住民たちに種々の効果を起こしました。何らかの信心があり、主キリストの御受難と御死去に同情し、主の拷問を批難し、主の聖性を敬った者たちは、内的に新しい光と恩寵を頂き、後に使徒たちの教義を受入れることになります。聖ペトロの最初の説教で改宗した者たちは、主の御死去を悲しみ、そのような祝福を受ける功徳を積みました。エルサレムの他の義人たちは、心の中で大いなる慰めを受けました。以上の事実に負けない大きな効果は隠されています。恐ろしい落雷、稲妻と嵐が聖霊降臨と共に起きた時、市内の主の敵たちを震え上がらせました。主の死刑を主張した人たちや主に激怒をぶつけた者らの罰は特に明らかでした。これらの人々全員は地にうつぶせになり、三時間身動きできませんで した。主を鞭打ち、主の血を流した者たちは、自分たちの静脈から血が突然流れ出し、気道を塞ぎ、息ができなくなりました。主の御顔を平手打ちにした厚かましい召し使いは、突如死んだばかりか、体も霊魂も共に地獄へ投げ落とされました。他のユダヤ人たちは死を免れたものの、激痛と重病に見舞われました。これらの病気は主の御流血のためであり、子孫にも伝わり、現在においても恐るべき病気として子孫を苦しめています。これらの事態はあまり重要ではないので、使徒たちも福音史家たちも記録を残していませんし、市の大多数の住民たちもすぐ忘れてしまいます。 

元后の御言葉 私の娘よ、愛そのものである聖霊の御降臨は、主の愛によるものであり、当時、使徒たちと周囲の人々に御降臨になったことは、同じ恩恵が教会内の他の子供たちにも、望む限り与えられることを誓約しています。私たちの時代には聖霊は目に見えませんが、大勢の義人たちに来て下さいます。心の中における効果は、各人の心の状態によって違います。 

47・使徒たちの説教。マリアの改宗者たちへの世話 

見える印で聖霊が御降臨になったことは、エルサレム全市を沸き立たせました。高間の家に起きた驚くべき出来事は大きなニュースとして伝えられ、大勢の群衆が押しかけてきました。当日はユダヤ人の祭日にあたり、市内には世界中の外国人でひどく混雑していました。聖なる使徒たちは、この人たちに説教する許可を聖母に願いました。大きな恩寵が直ちに人々に与えられ、創造主なる神の新しい光栄になるためです。使徒たちはすぐさま高間の家を出て、大群衆に向かい、信仰と永遠の生命の神秘について説教します。その時まではとても恥ずかしがり屋で人々から遠ざかっていたのに、今や勇敢に燃えるような言葉を吐き、聞く人々の胸を打ちます。人々は諸外国から来ており、外国語しか知らないのですが、使徒たちの言葉を自国語として聞きました。使徒たちは全員パレスチナ語だけを話したのです。聖ペトロも他の使徒たちもパレスチナ語で話したことを、他の七、八か国語で繰り返す必要がなかったのです。外国人たちは、自分たちの国の言葉を聞けたのでとても感心しました。高間の家に来た外国人たちも自国語の説教を聞きました。敬虔に聞いた人々は、神と人類の救いを深く理解しました。真理を求めた人々は自分たちの罪を悔やみ、悲しみ、神の御慈悲と御赦しを願います。目に涙を浮かべ、使徒たちに叫び、永遠の生命を得るには何をすべきかと尋ねます。一方、頑固な者たちは、神の真理に対して何も感じないで、使徒たちに怒り、革新家で向こう見ずの輩だと決めつけます。多くのユダヤ人たちは不信で嫉み深く、使徒たちが酒に酔っ払っているとか、気が狂っているとか言います。聖霊御降臨の時の落雷を恐れ、地面に倒れた後、意識を回復した者たちの何人かも使徒たちの悪口を言います。聖ペトロの最初の説教で改宗した三千人は、諸国から来た人たちで、どの諸外国も例外なく、これから救いの実を頂き、教会に集まり、聖霊の恩寵を経験することになります。聖なる教会は、全世界の民により構成されることになっているのです。ユダヤ人たちについて言うなら、教会員の多くは主に従い、主の御受難と御死去に同情した人たちです。主の御受難に賛成していた人々の少数は、後で改宗しました。説教を終え、使徒たちは高間に戻ってきて聖母に報告します。大群衆も聖母に挨拶するために入ってきます。聖母は御自分の個室にこもりながら使徒たちの説明を聞いていましたし、聴衆一人一人の心の奥底の秘密も判っていました。その間中、うつぶせに地面に平伏し、人々の改宗のため、涙の祈りを唱えておられました。使徒たちが説教をうまく始めるように、そして聴衆がよく聞くように、聖母は大勢の天使たちを派遣しました。使徒たちが説教と聖霊の豊かな実りを携えて帰宅した時、聖母は大喜びで出迎えました。聖ペトロは改宗者に聖母を紹介します、「私の兄弟であり、いと高き御方に仕える人たちよ、ここにおられる御方が救い主イエズス・キリストの御母です。あなた方はイエズスを真の神と人として認めました。御母はイエズスに人体を与え、胎内に宿し、産みました。お産の前、間と後、いつでも童貞でおられます。御母をあなた方の御母、避難所として受入れなさい。御母を通して光、方向および罪や惨めさからの救いが頂けます」。使徒の言葉を聞き、聖母に会い、新しい信者たちは光と慰めで満たされ、心の中で祝福を受け、聖母の御足許に平伏し、涙ながらに御祝福と御助カをお願いします。聖母は、祝福は司祭である使徒たちの与えるものと考えますが、聖ペトロは聖母に申します、「御母よ、この信者たちの願いを拒まないで下さい」。聖母は教会の司牧者に従い、新改宗者に祝福を与えます。彼らは聖母の御言葉も御聞きしたいのですが、謙遜と畏敬の気持ちのため、直接聖母に言えないので聖ペトロにお願いします。聖ペトロは彼らの願いをもっともだと思い、聖母に再びお願いします。聖母は聖ぺトロの言うことを聞き、皆に話します、「主において私の最愛の兄弟姉妹 たちよ、あなた方の全心をもって全能の神に感謝と讃美を捧げなさい。神は多くの人々の中からあなた方を呼びだし、あなた方の受入れた信仰の知識に示された永遠の生命への確かな道にあなた方を引き寄せて下さるからです。その道を心からの確信を持って告白しなさい。先生であるイエズス、私の御子、あなた方の救い主が教えて下さった恩寵の律法全てを確固として信じなさい。あなた方を教える使徒たちに熱心に傾聴しなさい。いと高き神の子供として洗礼の印を受けなさい。私はあなた方の婢として、あなた方を元気づけるため、どんなことでもして助けましょう。私は神にあなた方の優しい御父になって下さるように、御顔の喜びをあなた方に示して下さるように、そして、恩寵を与えて下さいますようにお願い致しましょう」。この優しい御言葉を聞いて新信者たちは喜び、もう一度祝福を頂き、聖母にお別れします。使徒たちや弟子たちは、その日より休まずに説教と奇跡を続けます。最初の日の三千人だけではなく、日々帰依する大勢の人たちに教えます。人々は世界各地から来ますから、それぞれの国の言葉を使徒たちは話します。外国語を話すというこの賜物は、弟子たち、婦人たち、聖霊を頂いた百二十人のメンバーも使徒たちより少し不完全ですが頂いています。使徒たちの話を聞いた後、多くの人たちはマグダラのマリアと仲間の所に行き、聖い教えを聞き、改宗します。この女性たちの行う奇跡を見て改宗する人たちもいます。女性たちは両手で触れることにより、あらゆる病気を治し、盲人を見えるようにし、唖の人を話せるようにし、びっこの人を普通に歩けるようにし、大勢の死者を甦らせます。使徒たちの奇跡とあいまって、エルサレム中を驚嘆させます。使徒らを始め、信奉者たちのことは大変な評判となります。これらが福音の教会の幸せな始まりであり、黄金時代です。教会は神の都市とも呼ばれ、新しい楽園でもあります。この楽園の真ん中にある生命の木が聖母です。当時、信仰は生き生きしており、希望は堅く、愛は熱く、誠実は純粋で、謙遜は真で、正義はもっとも公正であります。信者たちは貪欲も虚栄もなく、所有欲、誇り、野心もありません。初代教会における聖母の偉大な業績は少しばかりをお知らせしましょう。全教会とある教会員たちに恩恵を与えることで、一時も休まれませんでした。御子への嘆願に没頭し、決して断られませんでした。祈りの他に人々に勧告、説明、相談したり、恩寵の管理者と分配者にもなりました。聖母の御在世の当時、地獄に堕落した者の数は大変多かったのですが、地獄に落ちるべき者の中で救われた者の数はその後の時代よりももっと多数です。当時の人々は聖母に会い、お話を聞けるという幸福を享受しましたが、聖母は天から頂いた知識と愛により、あらゆる時代の人々を全員ご存知です。聖母は、初代教会の人々のために祈り、取り次いで下さったように、現代の我々に取り次いで下さいます。いつも同じ御母として、天においても同様に取り次いで下さいます。しかし、悲しいかな! 私たちの信仰、熱心と献身が全く実行されなくなってしまいました。私たちが聖母に対する熱心さを取り戻せば、教会は初代教会と同様に聖母の御加護を体験するに違いありません。多数の信者は聖母の御話を聞き、偉大さに打たれ、宝石とか高価な賜物を持ってきました。特に婦人たちは自分の持ち物を聖母の足許に置きました。聖母は何もお受け取りになろうとしませんでした。全部断っては良くない場合、その人たちの心に話しかけ、使徒たちの所に持って行かせました。使徒たちが公正に、もっとも貧しい信者たちに分け与えられるからです。その時も聖母御自身、贈り物を頂いたかのように感謝されました。貧者や病人に対し、聖母はとても親切で、大勢の病人の難病、慢性病を治されました。聖ヨハネの手を通して聖母は、公言されていない必要品を配るようにしました。使徒たち、弟子たちが説教に熱中している間、聖母は人々のために食物を用意したり、もてなすために大変忙しい思いをされました。使徒たちや他の司祭たちに食物を給仕する時は、跪き、手に接吻したいと申されました。特に使徒たちは恩寵が確保され、聖霊の御働きにより、司祭長、そして教会設立者の威厳を与えられているからです。聖母は時々、使徒たちが素晴らしく輝く着物を着ているのを御覧になり、ますます崇め、敬っておられます。 

元后の御言葉  私の娘よ、この章で、人々の霊魂の運命の神秘についてよく学びなさい。主の救いは大層豊かで、全人類を救うのに十分であることを確信しなさい(ロマ5・20)。神の真理は、説教を聞くか神人の御業を見た人たち全員が知っています。感覚が見聞きしただけではなく、全員が心の中で真理に達するための御助けを頂きました。大群衆の中で僅か三千人しか使徒たちの最初の説教により改宗しなかったことは驚くべきことです。現代において、ほんの少数しか永遠の生命の道に改宗しないことはもっと大きな驚異です。現代に於て、福音はもっと広められ、説教は頻繁であり、司祭たちは多く、教会の光はもっと明るく、神の神秘についての知識はもっと確立しているからです。それにも関わらず、人々はもっと盲目になり、心をもっと頑固にし、誇りがもっと高くなり、貪欲はもっと厚かましく、あらゆる悪徳は神を畏れずに行われています。主はあらゆる人々に御父としての慈悲を与え、生命の道と死の道を教えておられますから、主に対して不平不満を言えないはずです。神に見棄てられた人たちは、時間のある時に実感できたことや実感すべきであったことを悔やみ、自分自身を責めるしかできません。短い仮の生涯に於て、真理や光に対して目や耳を閉じ、悪魔に耳を傾け、悪意の誘いに身を委ね、主の善意と寛容を濫用するならば、弁解できるでしょうか? 僅かな問題を起こす他人を許さず、お金儲けに腐心し、一時的な楽しみにうつつを抜かし、警告を受けつけないなら、後になって神を逆恨みする権利がどこにあるでしょうか? 自分をごまかさずに痛悔すれば恩寵を得られます。

48・改宗者たちの洗礼。最初のミサ。聖母マリアの中に聖体が永存し給う

使徒行録にあるように、七日間の説教や奇跡により、信者数は五千人に達しました。洗礼の準備のための教えは、おもに弟子たちの仕事です。使徒たちは説教したり、ファリサイ人たちやサドカイ人たちと論争したりします。聖母は天使たちや婦人たちと一緒に、御子が最後の晩餐をした広間をきれいにしたり飾ったりされます。翌日行われる聖変化により、主が帰って来られるからです。家の主人に家具を持って来させたり、種なしパン、葡萄酒や主の御使いになった同じ皿や盃を準備されます。洗礼のためのきれいな水や、たらいも持って来られます。個室に引き下がると、夜中、熱心に平伏して祈られます。翌日、つまり聖霊御降臨後一週間目、朝早く、信者たちや洗礼志願者たちが使徒たちや弟子たちと共に高間の家に集まります。聖ペトロが集合者たちに洗礼の本質と素晴らしさ、必要性と神の御助け、洗礼により人々が教会の神秘体の成員となること、罪の赦しと聖化の恩寵により神の子となり、神の光栄の相続者になることを説教します。聖ペトロは、自由意志により承諾した神の律法を守り、いと高き御方から受けた恩恵を感謝するように勧告します。イエズス・キリストの真の御体と御血に聖変化することを祝うミサの神秘的な聖なる真理を人々に説明します。この説教は全改宗者に熱心を沸き立たせます。使徒たちは洗礼を始めます。志願者たちは一方のドアーから入り、洗礼を受け、他方のドアーから出ます。弟子たちや他の信者たちが人々を先導します。聖母は高間の片方のそばに留まり、洗礼式に参列します。授洗者全員のために祈り、讃美の歌を歌います。各人の徳にふさわしく聖霊の効果も違うことが聖母には判ります。小羊の血で洗われ、更新し、神の純粋さと染みが全くない清潔さを頂いたことが聖母には見えます。これらの効果の証拠として、大変透明な光が洗礼を受けた者の一人一人の上に降ったことが皆に見えたのです。この奇跡により、神は聖なる教会の秘蹟の最初を実証されたのです。洗礼式は、当日、参会者全員が受洗するまで続けられました。受洗者の総数は約五千人でした。受洗者が感謝の祈りをする間、使徒たち、弟子たちや信者たちは祈りました。全員が床に平伏し、無限不変の神を崇め、祭壇の尊い秘蹟における主を受ける資格がないことを告白し、聖体拝領の準備をします。主が聖変化の前に御唱えになった詩編と祈りを唱え、主のなさった通りのことをします。聖ぺトロは種なしパンを手に取り、目を天に上げ、キリストの至聖なる御体への聖変化の言葉を宣言します。直ちに高間は無数の天使たちの目に見える輝きで満たされます。光が全部、聖母に集まります。皆によく見えます。そして聖ペトロは御盃の聖血を奉献します。聖母が前もって指図されたように、聖ぺトロが一番先に拝領し、十一人の使徒たちに御聖体を拝領させ、その後で聖母の番になります。聖母は祭壇に向かう途中で三回も平伏し、御顔を床につけます。聖体拝領後、聖母は全く変容され、至聖なる御子の愛の火の中に包まれます。恍惚の状態となり、床の上に浮いています。天使たちは聖母を部分的に隠し、皆の注意を惹かないようにします。弟子たちは御聖体を配りますが、五千人の内、千人が拝領したにすぎません。主を御迎えする準備ができていないか、聖体拝領の意味が判らない人たちが多かったのです。聖母があらゆる人々の上に立てられていること、聖母を愛されるが故に神は天地を創造され、御言葉は人となられ、救世の苦しみを受けられたことは前に書き記しました。私たちは聖母の故に、そして聖母を通して神を祝福します。私たちの希望の全てと運命は、聖母の御手の中に任されています。御子は有り余るほどの愛の全てを聖母に向けておられます。 聖母は三十三年間を御子なる真の神と共にお過ごしになりました。御受胎の時から御死去の時まで主と御一緒でした。聖母は主を保育し、主に仕え、従い、倣い、そして御母として、娘として、浄配として、最も忠実な召し使い並びに友として行動しました。主の御姿、御話や御教えを喜び、御自分の功徳により勝ち得た恩恵を大切にされました。主が御昇天される時、主の最も愛しておられる御母を一緒に御連れし、そのまま天国に留まって欲しいと思われましたが、御二人とも人々に対する熱烈な愛情があり、御母が地上の教会を確固たるものとするために地上に戻られることに主は同意されました。しかし、御母と別れていることはとうてい考えられないことでしたから、御聖体の中に現存することにより、聖体拝領される御母の中に居続けられることになりました。御母に対する主の愛は、その他の人類全員に対する愛よりも強いのです。もしも福音の中の羊飼いが九十九頭の羊を放置して、迷子になった一頭を探すのであれば、主の最も誠実な一頭のために他の羊たちから別れても不思議ではありません。御母の御目を御覧になると直ちに天より飛んで来られるでしょう(雅歌6・4)。 

元后の御言葉 人々が編され、傷つくことの最大の原因は、感覚で感知したことに動かされ、直ちに決意し、理性による思考と判断をないがしろにすることです。感覚的に私たちを動かすものは、動物的な情欲や傾向です。傷つけられ、痛いと感じればすぐに復讐しに出かけます。他人の所有物が欲しくなると、不正な手段を取ります。目の色欲、体の情欲や名誉欲にかられて行動する人々が多いのですが、これらの欲は、世の中と悪魔の提供できる全てです。人々が盲目になり、騙されると、暗黒を光と思い、辛さを甘さと感じ、死に至らせる毒を霊魂の薬として服用し、悪魔的現世的無知そのものを智恵として尊びます。このような性質の悪い過誤に対して自分を守り、感覚により支配されないように。神から頂く内的知識と光にまず相談しなさい。神はいつも案内して下さいます。上司や先生に忠告を求めなさい。目上の人が居合わせなければ、目下の人に相談しなさい。情欲により盲目になっている自分の決意に従うよりももっと安全です。内緒で事を運ぶとか、状況や同僚に対する愛徳に動かされて公にものを決める時の規則です。人々との付き合いで危ない海を渡る時、内なる光の北極星を見失うことのないように。

49・使徒たちや使徒らに対するマリアの配盧

恩寵の新しい律法がエルサレムに広められ、教会の信者が日々、数を増して来ると、聖母の気配りも気遣いも増えていきます。教会の礎石としての使徒たちに聖母は特別な世話をします。ルシフェルの激怒が、主の信仰者、特に永遠の救いの牧者である使徒たちに対抗してますます酷くなるにつれ、聖母の気配りも増えます。聖母が使徒たちのために多くの不思議なことをなさらなかった日はありません。これは聖母の愛と熱心を良く表しています。聖母は使徒たちの偉大な聖性や、司祭、牧者、説教者および福音の創立者としての威厳を心から敬愛しておられ、使徒たちに奉仕し、相談に乗り、教え導きました。教勢がエルサレムの外に進展しても、使徒たちはエルサレムに戻り、なるべくエルサレムに長居するようにして聖母にお会いしました。聖ペトロがリダやヤッフアに行き、死んだタビタを甦らせたり、他の奇跡を行った後エルサレムに戻りました。パレスチナー帯で説教し、信仰を確立した使徒たちも絶えずエルサレムに戻り、聖母に報告しました。使徒たちの伝道旅行中、地獄の龍は未信者たちに反対させたり、論争を起こさせたりして御言葉の宣布を妨害しようとしました。聖母の直接の保護から離れている使徒たちは、悪魔の攻撃に対して弱かったからです。悪魔から見ると、孤立した使徒は武装解除され、悪魔に屈服し、誘惑され易くなっています。ヨブが言っているように(ヨブ41・18)、悪魔は最も丈夫な鉄鋼を弱い藁と考え、最も硬い青銅を腐った木の杖と見なすほど誇りが高いのです。悪魔は投げ槍も投石機も怖くはないのですが、聖母の御加護だけは恐ろしくてしようがありません。聖母は、天により高められた知識の歩哨塔から、あらゆる方向を見渡せます。いつも見張っている歩哨として、ルシフェルの攻撃を発見し、すぐに助けに駆けつけます。または天使たちを派遣して応援させます。天使たちは使徒たちの心を密かに鼓舞しますが、最も美しい光り輝く人間の形で現れ、何をすべきか、聖母の御意向は何であるかを教えます。使徒たちの潔白な心の故に、また彼らが慰めと励ましを必要とするために天使たちが来ます。聖母はこのように使徒たちを助ける以外に、彼らのためにいつも祈り、主に感謝します。聖母は他の信者たちも同様の御世話をなさいます。エルサレムやパレスチナに多くの改宗者がいましたが、聖母は各人の必要としていることや苦難を全てご存知でした。霊魂のことばかりでなく、身体もご心配になり、大勢の人たちの重病を治しました。奇跡的に治さないことになっている人々を聖母は訪問し、個人的にお助けになりました。貧乏な病人には病床で食物を口の中に入れたり、ベッドの敷布を洗っておあげになりました。聖母は、謙遜、愛、気配りにおいて誰にも負けませんから、どんな奉仕も、最も下級な司牧も、最も卑しいつまらないことも喜んでなさいます。同様な奉仕を天使たちに頼まなければならない時もあります。聖母の母性的なご親切は、死の苦悩にある人々にも示されます。人々が永遠の救いを確保するまで聖母はそばを離れません。煉獄の霊魂のためにも最も熱心な祈りと償いを捧げます。その後で天使たちを煉獄に派遣し、償われた霊魂たちを煉獄から引き上げさせ、天に連れて行かせ、御子に会わさせます。この恩恵は現世において聖母にまともな態度をとった人たちには現代でも与えられます。ここでは聖母が一人の少女を地獄の龍からお救いになったことだけを書きましょう。最初に改宗し、エルサレムで受洗した者たちの中に一人の貧しい卑しい出身の少女がいます。家事に精を出し、病気になり、何日間も良くなりません。他の人たちの例のように、熱心な信仰は冷め、幾つかの罪を犯し、受洗の御恵みを失う危険に近づきます。人々を滅ぼすため絶えず止めないルシフェルは、少女のそばに女の姿になって現れます。甘い声で、十字架に釘付けになった者について説教する人たちから離れるように、その人たちの言う嘘を信じないように勧めます。この勧めに従わないと、この対立新宗教の創始者を釘付けにした祭司たちや裁判官たちから罰せられると説明します。少女は答えます、「あなたの言う通りにするわ。でも、あの人たちと一緒に会った貴婦人にはどうしたら良いかしら。あの方は優しそうで落ち着いていらっしやる」。悪魔は答えます、「この女は他の誰よりも悪い人です。一番先に避けるべき人です。この女の罠にはまってはいけません」。古代の蛇の致死毒を受け、この単純な鳩の霊魂は永遠の死に近づき、体はもっと病気になり、臨終になりそうです。七十二人の弟子たちの一人が少女の大病を聞き知り、訪ねますが無視されます。いくら熱心に勧告しても少女は弟子に背を向け、聞こうとしません。報告を受けた聖ヨハネも少女の霊魂が滅びに向かっていることを知り、すぐさま少女の所に駆けつけ、永遠の生命について話しかけますが、少女は頑固に抵抗します。聖ヨハネは少女の周りを大群の悪魔たちが取り囲んでいるのが見えます。聖ヨハネが近づくと後退しますが、悪魔たちはこの少女を取り逃がすまいとします。少女の頑固さが良く判り、聖ヨハネは聖母の所に急ぎ行き、御助けをお願いします。即座に聖母は病気の少女を幻視し、敵たちが少女の霊魂を引きずっているのをご覧になります。血に飢えた地獄の狼に騙されたこの単純な羊のことを嘆き、床に平伏し、少女の救助のために祈られます。しばらく祈り続けても主から何の御返事もありません。預言者エリゼオが少年を生き返らせるため、自分の杖を僕のギェジに持たせてやったのに効果なく、預言者自身が出かけ、少年を触り、少年の体の上に自分の両腕を延ばさなければならなかったこと(列王下4・34)を聖母は思い出されます。この少女を罪と悪魔による眠りから目覚めさせるために、天使も使徒も十分な力がなかったのです。従って聖母は御自身でお出かけになり、少女を治されることにします。聖ヨハネと共に少女の家に向かいます。天使たちが現し、輝く雲の玉座に聖母をお乗せし、少女の病室にお連れします。臨終の少女は惨めで、黙りこくりし全ての人たちに見棄てられ、彼女の霊魂を掴み取ろうとする悪魔たちに取り囲まれています。しかし、聖母が姿を現されると、悪魔たちは稲光の早さで逃げ、落胆してお互いの上に折り重なったかのようです。聖母は悪魔たちに地獄に戻り、聖母がお許しになるまでじっとしているように命令します。悪魔たちは従うしか方法がありません。聖母は少女の手を取り、名前を呼び、生命の甘美なる言葉をお語りになると、瞬間的に変り、もっと楽に息ができるようになり、聖母に申しあげます、「私の貴婦人、一人の女がやって来て、イエズスの弟子たちが私を欺いたから早く弟子たちとあなた様から身を引くようにと言いました。もしも、あなた方の道をとるなら、私は大いなる不幸に見舞われるというのです」。聖母はお答えになります、「私の娘よ、女のように見えた者は、あなたの敵である悪魔です。私はいと高き御方なる神の御名により、あなたに永遠の命を与えるために参りました。神の本当の信仰に戻りなさい。あなたの救いと全世界の救いのために、十字架の上で御死去になられた神である救世主に心より告白しなさい。神を崇め、罪の赦しを願いなさい」。病人の少女は答えます、「このこと全てを以前は信じていましたが、それはとても悪いことであるし、私が告白したら、罰せられるとあの人たちは言いました」。聖母は説明されます、「私の友よ、この嘘を恐れてはいけません。真に恐れるべき罰は地獄の罰で、悪魔たちはあなたをそこへ引っ張って行きたいのです。あなたは今臨終を迎えています。私があなたに勧める治療を受け、地獄の火から免れることができます」。少女は涙を流し、悔いて聖母の助けを願い、聖母の言いつけ全てに従うと宣言します。聖母の助けにより、少女はイエズス・キリストの信仰を告白し、告白のための痛悔の祈りを唱えます。聖ヨハネが来ると少女はもう一度痛悔の祈りをし、罪を赦され、イエズスと聖母の御名を唱えて聖母の両腕の中で幸せに息絶えます。 

元后の御言葉  私の娘よ、もしも罰せられるべき人を誰でも救えるならば、拷問も死も私は拒みません。隣人に罪を犯させないために、あなたが祈り苦労することはあなたの義務です。目的が連成されなくても、または主があなたの祈りを聞き届けられたかどうか判らなくても、確信を持ち続け、忍耐し続けなさい。この祈りは全ての人の救いを望む主を決して怒らせないからです。この時、賢盧と愛徳に叶う手段を用い、祈り続けなさい。いと高き御方なる神は、人々が自由意志で破滅を追求しない限り、あらゆる人々の救いを求めます。あなた自身の霊魂に神は無限の価格をつけています。悪魔の誘惑やあなたの情欲が、あなたにいかに小さい罪でも起こさせようとする時、私がどれほど悲しみ、どれほど涙を流すか覚えておいて下さい。

50・聖ステファノの殉教。信経。使徒たちの出発。

聖母のより偉大な愛を受けた幸せ者の中に聖ステファノがいます。七十二人の弟子たちの一人で、最初から聖母は目をかけておられ、第一番目のグループの中の者と評価されておられます。聖ステファノが主の名誉と御名を守るため、主によって選ばれ、主のために命を棄てる者であることも知っておられます。この勇ましい聖人は、甘美、平和、優しさ、従順、柔和ですから、御子に似ていると聖母はお考えになり、彼の出生、召し出しと最初の殉教の故に主に感謝されます。人一倍の恩恵を受けたこの聖人は、とても謙遜な方です。聖ルカが書き記したように、賢明で聖霊に満ち、聖母からたくさんのことを教えて頂きます。聖母は警告されます、「ステファノよ、あなたは最初の殉教者となるで しょう。主の足跡をたどり、殉教者の軍隊の先頭に立ち、十字架の旗を立てるでしょう。信仰の盾の後に堅忍という武器を持ち、戦いにおいていと高き御方の助勢を頂きます」。この御言葉を聞き、聖ステファノは殉教の熱望で燃えました。使徒行録にあるようにエルサレムで大活躍しました。ユダヤ人とあえて論争したのは聖ペトロと聖ヨハネの他には聖ステファノだけでした。大胆に説教し、ユダヤ人たちを論破し、他の弟子たちよりももっと頻繁に、もっと勇気を出して相手を批難しました(使徒68・9)。望む殉教の機会に恵まれなかったので、彼はラビやモーゼの律法の先生たちと論争大会をすることにしました。地獄の龍は聖ステファノの野心に気付き、悪意ある注目を向け、キリストの信仰の証言として公に殉教するのを妨げようとします。秘密の内に彼を殺そうとするのです。ユダヤ人たちは秘密の内に彼を殺せず、公開論争にも勝てず、憎悪を燃やし、彼に対する偽証を作ろうとします。神やモーゼに対して冒涜したとか、聖なる神殿と律法を激しく批難したとか、イエズスは一方が他方を滅ぼそうとしているとか言ったという訴えをします。証人たちは悪口を言い、人々は嘘の告訴に動かされ、広間に彼を連れてきます。そこで祭司たちが裁判官として待ち構えています。主裁判官は聖ステファノの宣誓証書をとります。聖人は、キリストこそ聖書に約束された真の救世主であることを最高の智恵で証明します。結論として人々の不信と頑固を叱ります。彼らは何も答えられず、歯をきしらせて悔しがり、耳をふさぎます。聖母は聖ステファノの逮捕を知り、元気づけるために一位の天使を論争の場に送り込みます。この天使の助けで彼は主の信仰を告白し、望みどおり主のために自分の生命を捧げます。同じ天使を通して聖母の御助けを願います。聖母は個室に引きこもりながら祝福を送ります。聖母は駆けつけたいと思いましたが、混乱した町中を通り、公衆の面前で聖ステファノに声をかける困難を思い、祈ることだけをされました。平伏して聖ステファノの最後を助けて下さるように懇願されました。いと高き御方は天から大群の天使を送られます。聖母の警護にあたる諸天使と合流し、聖母を光り輝く雲にお乗せし、裁判場にお連れします。他の誰にも見えない聖母を面前に見て、聖ステファノは神の名誉を守るチャンピオンの熱心を新たにします。聖母の輝きは彼の顔の輝きとなります。救世主は御父の右側に立っている御自分を彼にお現しになります。彼は言います、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒7・56)。しかし、頑固で不信なユダヤ人たちはそれを涜聖と見なし、耳をふさぎ、石打刑を宣告します。人々は狼のように取り囲み、彼を市から大急ぎで騒ぎ立てながら引き立てて行きます。聖母は彼に祝福を与え、天使たちに彼に付き添い、天国に送り届けるように命令なさいます。天から降り、聖母をお連れした天使群と共に、聖母の守護の天使たちの内の一位だけが高間まで聖母に従います。個室から聖母は聖ステファノの殉教を見届けます。死刑にすべしと叫ぶ涜聖者の人々の中にサウロがいます。サウロは誰よりも熱心で、投石者たちの脱いだ着物をあずかります。石の雨が聖人に当たり、幾つかの石は頭の中に食い込みます。死の直前に聖人は祈ります、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください!」跪きながら叫びます、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください!」(使徒7・60)。主の最後にそっくりになった忠実な弟子をご覧になった聖母は、大きな喜びに満たされました。聖ステファノが息絶えると、聖母の天使たちは彼の忠実な霊魂を神の御前にお連れし、永遠の名誉と光栄の冠を受けさせることになります。聖ルカが書いているように、この日エルサレムでは大迫害が起こります。特にサウロが教会を荒らします。市中のキリスト信者を探し回り、捕らえ、政府高官の前で告訴します。大勢の信者が捕まり、痛めつけられ、処刑されました。国王や祭司たちのキリスト信者に対する憎しみ、モーゼの律法を熱心に守るサウロの迫害の他にもう一つの効果が迫害を酷くしましたが、それはどこから由来するのか人々には判りませんでした。聖母は、弟子たちが救世主キリストの御名と信仰を伝道するにあたり、信条とか信経など誤りなく自分たちを導くものがないし、信者たちも唯一で同じ真理を信じるための信経がないことに気がついていました。もうじき使徒たちが全世界に宣教し、教会を設立することになっていて、キリスト教的生恬を設立するための教義に一致すべきことが明らかでした。使徒たちが教え、信者たちが信ずべき諸神秘を集約した短い信経が必要でした。聖母はこのことを主に相談されました。四十日間以上も祈り、断食、平伏しなどをしました。もともとこのことは神から聖母に内的に伝えられたことです。神は、代理者である聖ペトロを始め他の指導者たちに、教会の普遍的信仰の最も大切なところを書き記すように奮い起こしました。使徒たちは聖母と相談し、十日続けて断食し祈り、聖霊の息吹を頂くことにしました。十日後、聖ペトロは皆に語ります、「私の親愛なる兄弟よ、慈悲の神は私たちの救世主イエズス・キリストの功徳により、教会を短期間に発展させて下さいました。私たちを御業を行う器として選び、私たちの司牧を通して奇跡や不思議なことをたくさん行って下さいました。これらの恩恵と共に、私たちに悪魔やこの世の苦難や迫害も送られ、私たちが救世主である船長を見習い、教会という船が永遠の幸福の港に確実に着けるように希望しておられます。私たちは祭司長の怒りを避け、近くの都市に私たちの救世主キリストの信仰を説教してきました。今や世界中に宣教する時期に来ています。主が御昇天される前に私たちに命令された通りです(マテオ28・19)。人々がこの信仰を受けるための洗礼が一つであるように、教義も一つでなければなりません。ここに私たちが今回集まり、全世界に明らかに提案すべき真理と神秘を書くべきです。意見の相違なしに同じ教義を私たちは信じるべきです。二、三人が主の御名により集まる時、主が真ん中におられるという主の確かな御約束を信頼し、世の終わりまで存続する主の教会の中に確立さるべき信条を不変の信経として、主の御名により定義できるように聖霊が助けて下さることを心から望みます」。一同賛成し、聖ペトロの立てるミサにあずかり、平伏して聖霊に祈りました。しばらく祈り続けた後、一同は雷鳴を聞きました。第一回目の聖霊御降臨の時と同じようです。同時に高間は光と輝きで満たされ、人々は聖霊の啓示を受けます。聖母は一人一人に各自の受けた啓示を発表するようにお願いします。
一、聖ペトローー我は、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、
二、聖アンドレアーーまた、その御独り子、我らの主イエズス・キリスト、
三と四、聖大ヤコボーー即ち、聖霊によりて宿り、童貞マリアより生れ、
五、聖ヨハネーーポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、
と七・聖トマスーー古聖所に降りて三日目に死者の内よりよみがえり、
八、聖小ヤコボーー天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、
九、聖フィリッポーーかしこより、生ける人と死せる人とを裁かんために来たり給う主を信じ奉る。
十、聖バルトロメオーー我は、聖霊、
十一、聖マテオーー聖なる公教会、諸聖人の通功、
十二、聖シモンーー罪の赦し、
十三、聖タデオーー肉身のよみがえり、
十四、聖マティアーー終わりなき命を信じ奉る。アーメン。
この使徒信経は、聖ステファノの殉教後で、救世主の御死去後、一年以内に確立しました。現在、ミサで唱えられるニケア信経は、アリウス派ぞの他の異端を論破するために設立され、使徒信経の神秘をもっと十分に説明しています。両信経とも十四箇条からなり、未来の公教要理の基礎となっています。使徒信経が使徒たちによって全部宣言し終えられた時、「良い決定です」の御声が聞こえました。聖母と全使徒たちはいと高き御方に感謝しました。聖母は使徒たちに聖霊の御助けを得る功績を積んだことに感謝されました。聖母は聖ペトロの足許に平伏し、使徒たちの宣言したカトリック教義を信じることを声高く申されました、「私の主人よ、私の御子の代理者よ、汚い塵である私は、私の名により、教会の信者全員の名により、あなたがカトリック教会の神の決して誤りのない真理を設立したことを宣言します。そのため、私は真理の源であるいと高き御方を崇めます」。聖母はキリストの代理者に接吻し、残りの使徒たちの手に接吻します。救世主の御逝去後、満一年がたち、使徒たちは神の力を受け、世界中への宣教を思い立ちます。どの王国、どの地域に派遣されるかについて、使徒たちは聖母のお勧めに従い、十日間連続して断食と祈りをします。この慣行は、御昇天から聖霊御降臨までの十日間に始まったのです。十日の後、キリストの代理者によるミサ、聖体拝領と聖霊への祈りが終わると御声が響きます、「私の代理者ペトロが各人の任地を指示します。私は、私の光と霊によりペトロを導きます」。この御言葉は、聖ペトロを教会の頭、普遍的司牧者として確認し、教会は世界中に聖ペトロと後継者たちの指導下に設立されることを使徒たちに理解させます。いと高き御方は使徒たちに労働に耐える堅忍、距離を克服する敏捷と神の愛の火を与えました。敏捷は天使たちにより度々実現しました。これら全ての出来事に聖母は出席され、他の人たち全員よりももっと多くの賜物を頂きました。キリストの教えが伝えられる所での、各人についての私的個人的なことまで知らされて頂いています。世界全体と住民たち のことは、聖母の祈祷部屋に入って来る人たちと同じように聖母はご存知です。いと高き御方は聖母の御手の中に教会を置かれましたから、聖母は教会の御母、支配者と君主となられております。聖母は、高い聖人から低い聖人まで、エワの子孫である罪人も含め、全員のお世話をなさいます。御子から祝福や恩恵を頂く者は御母の手を通して頂くのです。聖母は最も忠実な分配者であり、御自分の家族の全員を良くご存知で、全員を御守りになります。使徒たち、弟子たちが布教する時、御母も御一緒です。聖母は御自身の助力を送られるか、天使たちに頼まれるか、または御自身その場にお出かけになります。聖母は人々を幻視によりご覧になられただけではなく、絶えざる神の幻視を生涯中お喜びになられました。幻視の間中、聖母は全能力を保有しておられ、自由に駆使することができました。布教地域の割り振りの後、パレスチナに任命された者は、最初にエルサレムを出る人たちに属しました。他の者たちはエルサレムにもっと長い間留まりました。主はエルサレムにおいて信仰が確立され、ユダヤ人たちの間に信仰が広まるのを望まれました。婚礼の宴のたとえのように、あらゆる人々が招かれましたが、断る人々は異邦人たちの間よりもユダヤ人の中に多かったのです。出発する十二使徒一人一人に、我らの主のチュニックに似た上着を聖母はプレゼントされました。御自身で織りましたが、天使たちに手伝ってもらいました。色は褐色と灰色の中間の色でした。聖母は、各人の身長と同じ大きさの十字架を入手し、各使徒に贈りました。全員この十字架を担いで布教に出かけ、死ぬまで手放しませんでした。ある暴君は使徒をその十字架で拷問し、幸福な死を遂げさせました。聖母はもう一つの贈り物を用意しました。小さな金属の箱に、御子の茨の冠から取った剌を三つ、幼児イエズスを包んだ産着の一部と、割礼の時と御受難の時に主の御血を拭った木綿の切れ端を入れ、一箱づつ使徒たちに贈りました。これらの聖遺物は聖母が崇敬して大事に保存しておいたものです。聖母の所有物でこれ以上の宝物はありません。使徒たちは慰めと喜びの涙を流して押し頂きました。彼らは聖母に感謝し、聖遺物の前に平伏した後、お互いに抱き合い、別れました。 

元后の御言葉 私の娘よ、本章で教えたいことは、信心深い初代教会と現代の汚れた教会を比較し、悲しみ、嘆き、ため息をつき、できれば血の汗を流すことです。現代において教会の聖性の純金は隠され、昔の使徒時代の美しさは失われています。神の善の川の流れを止めるのは人間の自由意志です。人が神の愛を自由意志によって妨げないならば、人間の霊魂は神の本質と属性により充満されます。

51・聖パウロの改宗

聖パウロはユダヤ教において傑出しています。第一の理由は、彼自身の性格で、第二の理由は、彼の自然的に良い優秀さを悪魔が勤勉に利用したことです。聖パウロは寛大、高潔、高貴、親切、活発、勇気と恒常の性質の持ち主でした。道徳的諸徳も獲得しました。モーゼの律法を信奉する教授として、その学問を積み重ねた人として栄誉を受けました。しかしながら、ティモテオに述懐したように、その精髄については無知であったのです。というのは、聖パウロの学問は人間的、現世的であったからです。多くのユダヤ人のように、彼は律法を外側から知っていただけで、その精神を知らず、神から洞察力を頂かず、正しく知ることができませんでしたし、その神秘の中を探れませんでした。キリストの律法を理屈と公式裁判により滅ぼせるように思えましたが、迫害という犯罪に身を落とし、暗殺の片棒を担ぐことは、自分の威厳と名誉にふさわしくないように感じられました。聖母を殺そうと考えると、もっと大きな恐怖を感じました。聖母が女であるからであり、聖母が落ち着いておられ、苦労やキリストの御受難をいつも良く忍耐されたことを目の当たりにしたからです。聖母が高潔な女性で、崇敬に値すると聖パウロは思えたし、公衆の面前で聖母がどれほど悲しまれ、苦しまれたかを知っていて、少しは同情したからです。聖母を殺せという悪魔の非人間的暗示をはねつけました。その反面、改宗しようという気も起こりませんでした。ルシフェルの勧めにも関わらず、使徒たちの暗殺にも気が進みませんでした。悪魔の邪悪な考えを排斥しながらも教会を迫害し、キリストの御名も地上から消すように全ユダヤ人に呼びかけました。龍と手下たちはサウロをそこまで決心させたことで満足しました。この男の命をどのようにして保つかについてお互いに相談し合いました。サウロの保護者、そして生命と健康のための医者になったのですが、人間の生死は神の御手にあるという事実を無視しています。サウロがキリストの信仰を受入れ、自分たちの拷問と滅びのために戻って来るとは悪魔たちは想像もつきませんでした。サウロの改宗がもっと素晴らしく光栄あるように神はお望みになり、サウロを祭司長たちの所に行かせます。サウロはエルサレムを離れたキリストの弟子たちを追いかけ、捕まえ、エルサレムヘ囚人として連れ戻す許可を願います。このためサウロは自分の地位、財産と生命までも提供します。自分の祖先の律法が十字架に付けられた者の新律法を打ち破ることがサウロの希望です。サウロの申し出は祭司長と顧問団に喜ばれます。サウロの意図は、エルサレムを離れてダマスコに引きこもった何人かの弟子たちを捕まえることです。自分の所持金から裁判所の官吏たちや兵隊たちに給料を支払い、旅の準備をします。旅に付き添う大団体は、地獄からやって来た大群の悪魔たちです。教会を火と血で全滅させる意気込みでサウロと同じ考えです。この動きは聖母には明らかに見えます。人々や悪魔たちの心の中を見せる幻視や知識の他に、使徒たちから来る報告もあります。迫害はますます激しくなり、サウロの改心は起こりそうもないので、聖母は教会のため、サウロの改心のために新しい勇気と信頼を奮い起こして祈られます。主は聖母の御希望を受人れ、ある感覚的苦痛や一種の失神さえも聖母の御身に降りかかることになります。見るに見かねた主は申されます、「御母、御身の御意志は即座に行われましょう。御身の願い通りにサウロを変えます。この時からサウロは自分が今まで迫害してきた教会の守護者となり、私の御名と光栄の説教者となります」。そのすぐ後、ダマスコ近くの道でサウロに主は現れます。主は偉大な栄光の内にあり、光り輝く雲の上の御自身をサウロにお見せになります。同時にサウロは神の光に満たされ、心臓も感覚も圧倒されます。突然、馬から地面に落ちるやいなや、声が聞こえます「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか?」。サウロは驚き恐れながら言います、「主よ、あなたはどなたですか?」声は答えます、「私はお前が迫害しているイエズスである。さあ、立って町に入れ。お前のなすべきことが告げられるであろう」 恐れおののきながらサウロは言います、「主よ、私に何をお命じになりますか?」。サウロの仲間たちは質問と返答のやりとりを聞きましたが、救い主を見ることができませんでした。サウロを囲む光輝を見て恐れ、驚きのあまり、しばらく口がきけませんでした。この新しい不思議な事件は、それまで世にあったことより重大で、感覚的に知られることよりもっと遠くに達します。サウロは打ちのめされ、無力となり、神に支えられなかったら死んだでしょう。サウロの体の中では、母の妊娠の時の無から有への転換よりも以上の苦しみがありました。過去のサウロからの転換は、闇の中の光の出現、天地の分割よりももっと大きいのです。なぜなら、サウロは悪魔の顔形から、最高位の最も熱烈なセラフイムに転身したからです。この転身の時間は極めて短時間で、ルシフェルが自分の誇りにより、偉大なる美しい状態から大変に醜い姿になり、天国から地獄へ落下したのと同じくらいあっという間の出来事でした。聖パウロの転身は、神がルシフェルと手下たちに勝ったことです。恩寵の回復です。それと共に聖パウロヘ光栄も与えられました。神を見るという光栄で、ルシフェルは頂いたこともなく、頂くための功徳も積んだことがありません。聖パウロの場合は一瞬の内に自分を清め、聖とし、恩寵を頂き、更に神の光栄に参加し、神を見せて頂くことになったのです。全ては救い主のお陰です。主の恩寵が罪より強く、聖パウロを本来の恩寵状態に戻しただけでなく、神の栄光に参加させたことは、天地創造よりも、盲目の人に視力を、病者に健康 を、死者に生命を取り戻させることよりも偉大です。聖パウロになさったのと同じことを神は私たちにもして下さることができます。聖パウロは地面に平伏している間、聖化する恩寵により全身が更新され、内的能力の全てが回復し、最高天に昇りました。聖パウロは第三天と呼び、そこへ身体ごと昇ったのか、霊魂だけであったのか判らないと告白しています(二コリ12・2)。僅かな時間でしたが、神を明瞭に直感的に見ます。神の本性と無限の完全性の属性、受肉と救世の神秘、恩寵の律法と教会の状況を聖パウロは認識します。自分の義化という誰にも及ばない祝福、聖ステファノの自分のための祈りと聖母の祈りが判ります。自分の改心は聖母のお陰で早くなったこと、自分が神に迎えられたのは、主の次に聖母の功徳によることが明瞭になります。その時から聖パウロは、聖母への感謝と献身の気持ちで一杯になります。同時に、自分が使徒職に召し出されていることも認識します。聖パウロは神の聖旨に自分を捧げます。至聖三位一体の神は聖パウロを受人れ、異邦人への説教者として、世界中に主の御名を伝えるために選ばれた器として任命します。サウロの改心と視力損失の後、三日目に主はダマスコに住む弟子アナニアに出現され、市の中のユ ダという家に行き、タルソのサウロに会うように話されます。同時にサウロは、アナニアが来て自分に視力を回復してくれるという幻視を見ます。アナニアは主の御命令に答えます、「主よ、サウロはエルサレムの聖人たちを迫害し、大勢の人を処刑に追いやりました。それでも飽きたらず、サウロは祭司長からの逮捕状を持ってやってきました。御身の御名を唱える者を捕まえるためです。私の如き羊を、食い殺そうとする狼の所へ行かせたいのですか?」主はお答えになります、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。 アナニアはサウロの改心のことも教えてもらい、聖パウロに会いに出かけます。祈りに耽っている聖パウロに挨拶します、「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 聖パウロは御聖体を拝領し、元気になり、主に感謝 します。三日間の断食の後の初めての食事をします。ダマスコにしばらく滞在し、弟子たちと相談します。弟子たちの足許に平伏し、赦しを願い、最も価値のない僕として、兄弟として扱ってくれるように乞うのです。弟子たちの承認を得て聖パウロは、キリストが世界の救い主であることを熱心に、智恵により説教して回ります。ダマスコの多くの集会堂にいるユダヤ人は混乱し、言います、「この人はエルサレムでキリストの名を口にする者たちを火と剣で迫害した男ではないか? そのような者どもを捕まえにここへ来たのではないのか? 一体どうしたのだ?」聖パウロは毎日強くなり、ユダヤ人や異邦人にますます強力な説教を続けます。従ってユダヤ人たちは彼の命を狙います。聖パウロの改心は一月二五日に起こりました。聖ステファノの殉教後、一年と一か月たってからです。聖ステファノは三十四歳と一日でした。改心した時、聖パウロは三十五歳と一月でした。そして、その年は私たちの主の御生誕三十六年目にあたります。聖母は聖パウロの迫害からダマスコでの活躍までの様子を誰よりも良くご存知でした。

元后の御言葉   私の娘よ、改心の時、聖パウロが叫んだ言葉を味わいましよう。「主よ、私に何をお望みですか?御身のために何を致しましょうか?」 この時、自分中心の生活から神中心に聖パウロは切り替えました。その時、本気であっただけでなく、生涯、主の聖旨に従い続けました。主は大勢の霊魂をこのように劇的にではなくとも目覚めさせます。目覚めた者の内、堅忍を通しおおせる者は少ししかいません。霊的な生活を始めても気が弛み、肉的な生活に終わります。ある人々は最初から中途半端な気持ちで始めます。自己愛を常に持ち続け、名誉欲、所有欲、肉欲や罪を愛する気持ちがある限り、こういう人々はすぐにつまづき倒れます。自己を無き者とし、聖旨に身を捧げる聖パウロの言葉、「主よ、私に何をお望みですか」に聖パウロ自身の救いがかかっています。主に選ばれた器が自己主張することなど一体全体考えられるでしょうか? 

52・ヘロデの迫害。神はマリアがエフェソに滞在することを知らそうとされる 

西暦40年1月5日、聖ヨハネは聖母にエフェソヘの出発の準備ができたことを告げます。聖母は直ちに跪き、高間とエルサレムを去る許可を主に願います。家の持ち主や住人たちに別れを告げると人々は心から悲しみ、全員お供したがるのですが、そういう訳にもいかず、聖母が早くお帰りになることを望みます。聖母は、私たちの救いのための聖所を訪れる許可を聖ヨハネに願います。主がおられ、御血を流された場所の数々へ二人で行き、主を崇拝します。聖母を守護する天使たちも同伴していますので、聖母は天使たちに、これらの聖なる地点をルシフェルたちやユダヤ人たちの手から守るように頼みます。出発にあたり、聖母は聖ヨハネに祝福を願います。このように謙ることは続けられます。主の愛すべき弟子であり主の代理者である聖ヨハネに対し、従順と謙遜を示すことは聖母にとって当然のことのようです。多くの信者たちがお金、宝石、乗り物などを寄付しましたが、聖母は全部断り、海岸までは荷物運搬用のロバに乗られます。以前、御子や聖ヨゼフと共にした旅を思い出されます。港に着くとすぐに他の乗客たちと共に乗船されます。この船旅は聖母にとって初めての船旅です。聖母は、地中海の大きさ、深さ、中の洞穴や隠れたくぼみ、海の砂、潮の満ち干、海の中に棲息している鯨、大小の魚、不思議な生物を明瞭に見ることができます。この偉大なパノラマを見て、創造主の偉大さ、全智全能を表現しているとお思いになった聖母は、いと高き御方に賞賛と感謝の祈りを捧げます。海が荒れて来た時、海の怒りに身を任せざるをえない船客や乗組員のことを同情して、聖母は全能者に保護を願いました。聖母の御名を呼び取次を願う者、聖母のメダイか絵などを所持する者、海の星なる聖母に救いを願う者、全てに主は恩寵を与えられます。もしもカトリック信者が航海中、危険に遭い、死ぬならば、天使たちの女王である聖母から恩恵が得られることを無視したり、荒れ狂う嵐の中で聖母を思い出さなかったり、または信仰や信心を持って祈らなかったためです。主の御約束や聖母の愛が、海で遭難している人を見殺しにはなさらないからです。上陸された時、聖母は病人や悪魔憑きの者たちを癒しました。エフェソには、エルサレムから来たキリスト教信者が少数いました。聖母の到着の知らせを聞いて集まって来て、自分たちの住居や持ち物を提供しました。聖母は、隠居している貧しい女性が二、三人住んでいる家を選びました。女性たちは天使の助けにより、家を聖母のために立派にしました。とても奥まった部屋が聖母の部屋になり、聖ヨハネも一室借りることになります。聖母は家の所有者たちに感謝し、自分の部屋に行き、平伏し、いつものように祈ります、「全能の神なる主よ、無限の御身は天地を充満しておられます(エレミヤ23・24)。御身の卑しい召し使いである私は、御身の聖なる聖旨をいつどこでも、どのような場合でも実行したいと思います。御身は私の善なる神であり、私の存在と生命であられ、聖旨の方に私の考え、言葉、行いの全てが向かいます」。聖母は教会のために祈り、全信者を助けるための御計画を作ります。聖母は天使たちを呼び、悪魔たちや不信心者により起こされた迫害に苦しむ使徒たちや弟子たちに天使たちを送られました。当時、聖パウロはユダヤ人たちから攻撃される前に、かごに乗り、ダマスコの城壁に沿って城壁の下に降ろされました。エルサレムヘ向かう途中でも聖パウロは天使たちに守護されました。聖パウロに対する地獄の怒り方は、他の使徒たちに対するよりも桁違いに酷かったのです。聖パウロの記述によると(ガラ1・18)、エルサレムに行ったのは三年後であるとなっていますが、「改心後四年」が正しいと私は考えます。と言うのは、聖パウロはエルサレムで聖母や聖ヨハネに会っていないからです。エルサレムで会えたのは聖ペトロ、聖ヤコボや他の弟子たちです。聖パウロを信用できない彼らに取り入ってくれたのは聖バルナバです。聖パウロはキリストの代理者の足許に平伏し、接吻し、自分の過ちと罪を詫び、仲間として主の信奉者として入れてくれるように乞います。使徒たちは聖パウロの気持ちが長続きするかどうか危ぶみますが、やっとのことで受入れます。全員、謙って神に感謝の祈りを捧げます。聖パウロがエルサレムで説教を始めます。火の矢のように人々の心を突き剌すと、人々は以前のサウロを知っていたので、驚き、恐ろしくなります。二日間で、聖パウロはエルサレム市全体に知れ渡ります。ルシフェルと手下たちは聖パウロの到来により最も苦しみ、もっと無力になり、動けません。しかし、彼らの誇りと悪意は永遠に消えないようです。彼らが聖パウロに神の徳があると認めるやいなや、ルシフェルはかんかんに怒り、悪魔の大軍を召喚し、聖パウロを完全に滅ぼすように、そしてエルサレムと世界中の建物を破壊するように勧告します。悪魔たちはへロデやユダヤ人たちを扇動し、聖パウロを敵と考えさせ、彼の熱烈な説教に警戒させます。聖母はエフェソに引きこもられながら、神の御知恵のお陰で、また天使たちの報告により、聖パウロの身の上に起こっていることが判りました。エルサレムから離れているため、直接に使徒たちを助 けられないことを残念に思い、祈りと願いをもっと増やし、絶え間なく涙を流し、嘆息をつき、天使たちに使徒たちを援助するようにお願いします。主は聖母の祈祷中に御出現になり、聖母の祈願を受け入れ、聖パウロの命を守ることを確言なさいました。また主は、神殿で祈っている聖パウロを恍惚状態に高め、直ちにエルサレムから逃げるように命令されました。エルサレムについて15日のうちにエルサレムを出ることになります。幻視のことを聖パウロは聖ペトロに告げ、承諾を受け、カイザリアとタルソに密かに行きます。聖パウロの脱出について知らされた後、聖母は聖ヤコボの命乞いをされます。聖ヤコボは聖母の従兄弟にあたり、とても親しくされました。サラゴサにいた聖ヤコボは、派遣されてきた天使たちによって、聖母がエフェソにおられることを知りました。スペインのサラゴサの教会がだいたい建設されてから、司牧を弟子たちに任せ、サラゴサを発ち、諸地方を巡回説教しながらカタロニアに着き、イタリアを通ってアジアに向かい、エフェソに来ます。聖母の足許に平伏し、涙を流し、主の大いなる御恵みを感謝します。聖母は彼を床から起こし、申されます、「私の主よ、御身は主により聖別された方で、主の牧者であること。私は卑しい塵であることを思い出して下さい」。すぐに跪き、聖ヤコボの祝福を願います。聖ヤコボは自分の兄弟である聖ヨハネにも会い、三人で高潔な会話をします。その後、聖ヤコボは、エルサレムでヒレトスとヘルモゲネを改宗させ、ユダヤ人たちの怒りを買います。そのため、ユダヤ人たちはローマ軍百夫長二人、デモクリトスとリジアスを買収し、聖ヤコボを逮捕させることにします。その年の大祭司アビアトルと同心の祭司長ヨジアスが計画を練ります。聖ヤコボが救世の神秘について昔の書物から引用して素晴らしい説明をして聴衆を感動させ、悔い改めの涙にむせさせた時、祭司たちは怒り心頭に発し、大騒ぎを引き起こします。時を移さずヨジアスは聖ヤコボに投げ縄を投げ、首に絡ませ、聖ヤコボが騒ぎを起こした張本人であり、ローマ帝国に新宗教を勝手に作ったと宣言します。二人の隊長は兵士たちと共に駆け寄り、聖ヤコボを縛り上げ、ヘロデ王の所へ引き立てます。ヘロデはアルケラスの息子で、ルシフェルによって憎しみを抱き、悪意と憎悪のユダヤ人たちにより動かされていました。自分の兵士たちを送り、聖ヤコボを苦しませ、牢に入れさせます。聖ヤコボは主のように捕らえられ、縛られて、聖母の予告通り、殉教によって現世から永遠の生命に移る所へ引き立てられることを予見し、嬉しくて仕方がありません。主への感謝と信仰を会衆に公表します。聖母が自分の死の時に付き添って下さるという御約束を思い出し、聖母に心から呼びかけます。エフェソの家の祈祷室におられる聖母は、愛すべき使徒である従兄弟の祈りを聞きます。聖ヤコボの身の上に起こっていることすべてを知っておられましたし、彼のための嘆願もなさってこられました。お祈りしておられると、天から全階級の天使の大軍が降りてきて、一部の天使たちは刑場に向かう聖ヤコボの周囲に集まり、残りはエフェソの聖母の所へ来るのが聖母には見えます。一位の天使が聖母に挨拶します、「天の元后、私たちの貴婦人よ、いと高き主なる神が御身にエルサレムに駆けつけ、聖ヤコボを勇気づけ、死に直面するのを助け、聖なる希望を叶えさせるように望まれます。聖母は感謝し、いと高き御方の御慈悲を信頼し、御手に命を任せる者を保護して下さることを讃美します。聖ヤコボが刑場に向かう途中、集まってきた病人や悪魔憑きを治します。この人たちは聖ヤコボの最後の司牧を心から希望したのです。その間、天使たちは最も輝く玉座に聖母をお乗せし、聖ヤコボの刑場にお連れします。聖ヤコボは跪き、いと高き御方に自分の命を献げ、目を天に挙げると心の中で祈り、訴えていた聖母がそばの空中におられるのが見えます。歓喜に満ち、神の御母である全創造の女主人に対する崇敬宣言を言おうとしますと、大天使に控えるように言われます、「ヤコボ、われらの創造主の僕よ、この尊い気持ちを心の中に抑え、私たちの女王の御臨在と御助けをユダヤ人に知らせないで下さい。ユダヤ人たちは女王を知る価値も能力もなく、女王を尊敬する代わりに憎しみの心を固めるだけでしょう」。聖ヤコボは天の女王に心の中で話しかけます、「私の主イエズス・キリストの御母、私の女主人である保護者よ、御身は困る者を慰められ、苦しむ者の避難所となられ、今私に祝福を与えて下さいます。御身の御子なる救世主に私の命を捧げて下さい。主の御名と御光栄のため、はん祭の犠牲となりたいのです。御身の御手が私のいけにえの祭壇になり、私のために十字架上で御死去になった主への献げ物としてふさわしくなりますように。御身の御手に、そして御手を通して創造主の御手に私の魂をお任せします」。言い終わり、聖母を見つめながら、聖ヤコボは斬首されました。聖母は処刑された使徒の霊魂を受け取り、即座に御自分の隣に置かれ、最高天に昇り、御子に捧げます。いと高き神は聖ヤコボの霊魂を受け取り、主の民の王たちの仲間人りをさせます。璧母は全能者の玉座の御前に平伏し、使徒たちの中で最初の殉教者のため、讃美と感謝の歌を歌います。聖三位一体の神は、聖母と聖母が一生懸命準備なさった教会に祝福を賜ります。全聖人も同様に聖母を祝福した後、天使たちは聖母をエフェソの聖母の祈祷室にお送りします。聖ヤコボの弟子たちは次の夜、遺体を確保し、密かにヤッフアに運び、スペインのガリシアに行きます。聖母はそのため、天使を案内役として送ります。スペインは、聖ヤコボと彼を助けて下さった聖母のお陰で信仰を得たのです。聖母のお陰で聖ヤコボの遺体を持ち帰れました。聖ヤコボの御逝去の日付は西暦41年3月25日で、彼のスペイン宣教開始後、5年7ヶ月になります。聖ヤコボの殉教は、ユダヤ人たちの最も不敬な残虐行為をますます盛んにするきっかけとなりました。ルシフェルと手下たちは、ユダヤ人たちに聖ペトロを捕まえるように唆します。聖ペトロはたくさんの鎖に巻かれ、地下牢に入れられ、過ぎ越し祭の後に処刑されることを待ちます。エルサレムに起きていることをよくご存知の聖母は、聖ペトロの釈放を主にお願いされます。熱心にお願いし、嘆息をつき、平伏し、血の汗をお流しになります。主は聖母の所に出現され、御顔が土にまみれている聖母を引き起こされ、申されます、「私の御母、御身の悲しみを和げて下さい。お望みになることは何でもおっしやって下さい。私は何でも叶えましょう。お望みの通り御身がなさいますように。私が御身に差し上げた力をお使い下さい。私の教会のために必要なことは何でもなさって下さい。悪魔たちの怒りがすべて御身に向けられることは確かです」。母は感謝して申しあげます、「いと高き主よ、私の霊魂の希望と生命よ、御身の血と生命により買い戻された霊魂のため、働くように、御身の召し使いの心と魂は準備してあります。私は役立たずの塵埃に過ぎませんが、御身は無限の力と智恵を備えておられます。御身の御助けにより、私は地獄の龍を怖れません。御身は教会のために私が行うことを御望みになりますので、私は今、教会を悩ますルシフェルと悪の執行者たちが地獄に行くこと、御身が許可されるまで地上に帰って来ないことを命令します」。エフェソにおられる世界の女王のこの命令は、大変強力でしたから、この瞬間、エルサレムにいる悪魔全員は地獄に落ちました。ルシフェルと仲間たちは、この罰が聖母により命ぜられることがわかりましたが、混乱し、落胆し、次の機会を狙います。聖母は主にお願い申し上げます、「私の御子なる主よ、もし聖旨ならば、御身の天使たちの内の一位を聖ペトロのいる牢屋に遣わし、聖ペトロを釈放して下さい」。命を奉じる天使は急いで穴牢に行くと、入口には大勢の兵士たちがいて、牢の中では聖ペトロが二本の鎖に巻かれ、二人の兵士に見張られています。過ぎ越しの祭りは既に終わり、翌朝は処刑と決まっているその前夜でした。聖ペトロは何の心配もなく眠っています。天使は彼を揺さぶり、目を覚まさせて話しかけます、「早く起きなさい。帯を締め、靴を履き、外套をかけ、私の後をついてきなさい」。 聖ペトロは鎖が外されているのに気付き、何が何だかわからないまま天使について行きます。天使は町の通りを案内してから、全能者が聖母の御取次に答えてあなたを牢から救い出したことを伝えます。やっと我に帰った聖ペトロは主に感謝します。聖ペトロは逃げる前に、聖小ヤコボや信者たちの所に行き、自分の救助について報告することにします。ヨハネ、別名マルコの母マリアの家に急ぎます。その家は高間の家で、大勢の弟子たちが滞在しています。聖ペトロは通りから呼びます。ロデと言う女召し使いが降りて行き、誰が外にいるのか見に行きます。聖ぺ卜口の声だとわかると、戸を明けもしないで弟子たちの所へ飛んで行きます。弟子たちは信用しません。ロデがしつこく言い張るので、聖ペトロの守護の天使に違いないと考えます。弟子たちがあれこれ考え、話し合っている間、聖ぺ卜口は外に立ち通しです。やっと戸を開けて弟子たちは聖ペトロに会い、大喜びします。聖ペトロは、天使が助け出してくれたことを皆に報告し、聖ヤコボや他の兄弟たちに密かに知らせるように言います。へロデが厳しく探索していることを考え、聖ペトロは夜中にエルサレムを抜け出すことを全員一致で決めます。聖ペトロは無事に逃げ、ヘロデの探索は無駄に終わります。ヘロデは番兵たちを罰し、弟子たちをますます憎みます。聖母は祈りと涙にくれ、守護の天使たちの中で最高位の天使に言います、「いと高き御方に仕える者よ、いと高き御方の玉座の所に昇り、私の困難を伝えて下さい。私が主の忠実な僕たちの代わりに苦しむ許可を得て下さい。ヘロデが教会を破壊する企みを実行することをお許しにならないよう、私の名により主に頼んで下さい」。すぐさま天使は天に昇り、聖母の願いを伝えます。聖母が祈り続けておられると、天使は戻ってきて報告します、「天の女王様、万軍の主は御身が教会の御母、女主人、そして女監督であること、そして御身は地上において主の御力を所有することを宣言され、天の女王としての御名がへロデに刑の宣告を下すことをお望みになります」。最も謙遜な御母はこの報告に戸惑い、愛徳により質問をされます、「主の御姿に像られて造られた人間に対し、私は死刑を宣告すべきでしょうか? 私としましては可能な限り、人々の救いを願い、罰を急いでお願いしたことはありません。天使よ、主の許に戻り、私の法廷も権力も主よりも低級で、主に依存しますから、私の主に相談せず、死刑宣告できません。もし、ヘロデを救いの道に連れて来られるならば、ヘロデの霊魂が滅びないため、御摂理に従い、私はこの世のあらゆる苦労を忍びたいと思います」。天使は直ちに天に昇り、聖母の第二のメッセージを伝えます。聖母の所に戻り、主の御答えを申します、私たちの女主人なる女王様、いと高き御方は仰せになりました、「ヘロデは悪意に凝り固まっているので、警告も教訓もはねつけるでしょうし、どんな助力者とも協力せず、救いの効果を得ようともせず、諸聖人の取次も御身の努力さえも受けつけないでしょう」。聖母は三度目の伝言を天使に託します、「もし、教会を迫害するのを止めるのはヘロデが死ぬことであるなら、ああ、天使よ、全能者が私に取次を願う者は誰でも人類の避難所、弁護人、そして仲介者になる権利を与えて下さいました。あらゆる人々が私の御子の御名により、赦しの保証を得るようにとの御配盧からでございます。もし、私が人々の愛すべき御母であるべきならば、主の御手による被造物となり、主の御命と御血に値する者とは誰でしょうか? その内の一人に対してどのようにして私は厳しい裁判官になれるのでしょうか? 私は審判を任されたことはなく、いつも慈悲を行うように命令されて参りました。愛と厳しい審判に対する従順の対立によって私は混乱しております。ああ、天使よ、私の混乱と心配を主にお伝えし、ヘロデが私の審判なしに死ぬことが聖旨に叶うかどうかよく質問して下さい」。天使は三度目に天に昇り、聖三位にお伝えします。聖母の慈悲を喜ばれる聖三位のお返事を天使は聖母に伝えます、「私たちの女王、私たちの創造主の御母、私の貴婦人、全能なる神は申されます。『御身の慈悲は、御身の力づよい取次を願う者たちに与えられるべきであって、へロデのように御身の取次を嫌悪する者にはふさわしくない。御身は神の御力全部を備えた教会の女王であり、その力を適宜に使うべきです。ヘロデは死ぬべきです。ヘロデの死を御身が宣告し、命令しなければなりません』」。聖母は答えられます、「主は正義にして公平であられます。もしもヘロデが自分の自由意志により慈悲に値しない者とならず、身の破滅を選ばないならば、私は彼の霊魂を救うために何度でも死の苦しみを受けたいと思います。ヘロデは、主の御姿に似せて造られたいと高き御方の作品であり、世の罪を除く小羊の血によって救われました。しかし、私はこのこと全てを除外します。ヘロデが神に対する頑固な敵となり、神の永遠の友情に値しないことだけを考え、神の最も公平な正義により、彼がこれ以上教会を苦しめないように、死を宣告します」。神の御母の光栄のため、御母を御子と同じ君主として最高権力を全被造物に対して行使する女主人として任命したことの証拠として、主はこの不思議をなさったのです。この神秘は聖ヨハネの第5章によく書かれています、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」。そして直ちに付け加えます。御父は御子に審判権を御与えになりました。御子が人の子であられ、聖母を通して人の子となられました。御子が御母に似ておられるので、審判権に関して、御子と御母の関係は御子と御父の関係と同じです。御母は御自身により頼むアダムの子孫全員に対して慈悲と寛大の御母です。それと同時に、御母があらゆる人々を審判する全権を保有し、人々が御子なる真の神を讃えるように御母を讃えるべきことを人々が知るように望まれました。主は聖母が主の御母として、単なる被造物として、御母にふさわしい程度と割合に於おいて、主と同じ権力を御母に御与えになりました。この権力を行使し、聖母は、天使を神の刑の執行者としてカイザリアに行かせ、そこにいるへロデを殺すことを命じました。福音史家聖ルカが述べたように、主の使いはへロデを打ち、ヘロデの体は虫に食い尽くされ、この不幸な男は現世と永遠の死を遂げます。この打撃は内的なものであり、この内面的打撃から腐敗と虫がヘロデの体に湧き出て、惨めな死に成り果てたのです。ヘロデのそれまでの行動を説明しましょう。聖ヤコボを斬首し、聖ペトロには逃げられた後、へロデはカイザリアに行きました。自分とシドンとティロの住民たちの食い違いを是正するためです。二、三日してへロデは王として紫の着物を着て玉座に座り、威張って話しました。人々はお世辞たらたらに彼を勝利者として神として讃えます。虚栄心のかたまりであるヘロデは、人々のへつらいに満足します。神に光栄を帰する代わりに自分を神としたため、主の天使が彼を打ったのです。これが最後の犯罪でしたが、その他数多くの犯罪を過去に犯してきました。使徒たちを迫害したり、私たちの救世主をあざけったり、洗者聖ヨハネを斬首したり、自分の義妹に当たるヘロデアと姦通したりしました。天使はエフェソに戻り、聖母に刑の執行について報告しました。聖母はへロデの滅亡を泣き、悲しまれた後、主の裁定を讃え、教会がこの処罰により得た恩恵のために感謝しました。聖ルカの記すように(使徒12・24)、教会は御言葉により成長し、増大しました。迫害者がいなくなった後のガリラヤやユデアだけではなく、聖ヨハネと聖母によりエフェソの教会も根付きました。祝されたこの使徒の智恵はケルビムの智恵のように完全で、使徒の愛はセラフィムのように燃えていましたし、使徒は智恵と恩寵の女主人である彼の御母兼、先生と一緒だったのです。お陰で恩寵の律法の基礎作りという大事業は、エフェソやアジアの近隣地域や西洋の境界地帯まで進展しました。エフェソで活動し始めたころ、当地の異邦人たちの間に多数のギリシヤ哲学者が輩出していましたが、所詮、人間の学問で、多くの間違いの混合物でした。聖ヨハネは人々に本当の智恵を教え、キリスト教の確実性を説き、奇跡も示しました。彼は聖い教えの宣教者を聖母に送りました。聖母は人々の心中を察し、心に呼びかけ、天の光で満たしてあげたのです。不幸な人たちのために奇跡を行い、悪魔憑きや病人を治し、困窮者を助け、病院にいる病者を見舞い、看護しました。臨終に当たって大勢を助け、最後のあがきにある霊魂を救い、悪魔の攻撃から守り、創造主の所に安全に連れて行きました。非常に多数の霊魂を真理と永遠の生命への道に連れて行き、大変多くの不思議を行ったので、何冊の書物を書こうとも書き尽くせません。

元后の御言葉  全ての人々は天にまします永遠の御父の子供たちであり、兄弟姉妹たちを世話する義務があります。この義務は教会の子供たちに課せられています。キリストの信仰により養われ、全能者の御手から恩恵を頂く者たちに、もっと直接に課せられています。キリストの律法により現世的特権にあずかり、肉への奉仕と喜びのため、特権を濫用する者たちは、強い者であるがゆえ、もっと強力に苦しめられることになっています。司牧者や、主の家の監督者が安楽な生活を求め、真面目な労働をしないならば、キリストの群れが殺されたり、地獄の狼共に食い荒らされたりすることになり、その責任を問われることになります。悪い司牧者のため、信者たちはどれほど苦労するでしょうか?司牧者はカトリックの真理を知っていたし、良心の警告を聞いていたのですから、正義の裁判官の前で弁解することができません。教会が御子により建てられ、御子の御血により栄養を受けた後、不幸な時代が訪れています。主御自身が預言者たちを通して語っておられます、「ガザムが残したものは、いなごが食った。いなごが食い残したものは、エレクが食った。エレクが食い残したものは、ハジルが食った」(ヨエル1・4)。葡萄の収穫の後、主は葡萄園を歩き回られ、少しでも葡萄を集められます。まだ干からびておらず、悪魔たちに持って行かれなかった残りの葡萄を主は探しておられます(イザヤ、24・13)。私の娘よ、あなたが御子と私に対して本当の愛を持っているなら、御子が御血によってお救いになり、私が血の涙で求めた霊魂が失われるのを黙って見ていることができますか?

53・使徒たちの会議 

不幸なへロデの死後、エルサレムの初代教会はかなりの間、無事平穏でした。その頃、聖バルナバと聖パウロは小アジア、アンティオキア、リストラ、ペルゲなどの諸都市で説教し、大成功を収めました。聖ペトロは牢獄から解放された後、エルサレムから脱出し、へロデの洽めていないアジアの一地方に引きこもりました。アジアやパレスチナの成長しつつある教会は、聖ペトロをイエズス・キリストの代理者、教会の頭として認めました。信者たちは聖ぺ卜口にいろいろなことを質問しました。質問の中には、聖パウロと聖バルナバがエルサレムやアンティオキアで割礼やモーゼの律法に反対していることも挙げられています。エルサレムにいる使徒たちや弟子たちは、聖ペトロの帰国と教義問題の解決をお願いします。彼らは聖母のご帰国もお願いします。全信者は聖母にお会いしたいし、聖母を通して主の励ましを受けたいし、聖母のご滞在により教会が繁栄することを望んでいます。聖ペトロは帰国を決意し、聖母に手紙を書きます。「童貞にして神の御母なる聖マリアヘ。イエズス・キリストの使徒、御身の僕、神の僕たちの僕なるペトロより。貴婦人よ、信者たちは、御身の御子なる我らの救世主の教えと共に、モーゼの昔の律法も信じるベきかどうかについて質問しています。答えを先生である神から聞きたいのです。私の兄弟なる使徒たちと協議するため、私はエルサレムに参ります。全信者の希望と御身の教会に対する愛のため、御身のご参加をお願い申し上げます。エルサレムはヘロデの死後、信者にとり安全になっています。御身のお助けにより、信仰と恩寵の律法に貢献するものは何かを見分けたいと思います」。聖母からこの手紙を見せてもらった聖ヨハネは、聖母がキリストの代理者に対して何を書かれるかを尋ねます。聖母は答えられます、「私の息子である主よ、あなたが適当と考えることを取り計らって下さい。私はあなたの召し使いとして従います」。聖ヨハネは申しあげます、「教会の頭に従うことは正当なことです」。 聖母は答えます、「出発の準備を始めましよう」。聖ヨハネに言われた通り、聖母は婦人たちを集め、信仰のために忍ばなければならない事項を教えます。出発の日、聖母は聖ヨハネの祝福を願います。二年半滞在したエフェソを後にするにあたり、聖母の護衛天使千位が人間の形をして現れ、武装して隊列を整えているのが聖母に見えます。大龍と同盟軍の攻撃に対し、準備するようにという印です。海辺に着く前に、地獄の大軍が待ち構えていて、その真ん中に龍がいるのが見えます。龍は七つの頭があり、恐ろしい形相を示し、大きな船よりも大きいのです。これらの恐るべき敵に対し、聖母は堅い信仰と熱烈な愛により、御自身を強固にし、御子の御言葉や詩編を繰り返します。聖母は天使たちに守備を命令します。聖ヨハネは御二人は乗船し、船に帆が立ちます。船が港から少し離れると、地獄の龍たちは海に暴風を起こします。その物凄さは今まで見たことも聞いたこともありません。波は恐ろしいうなり声と共に高まり、風に乗り、雲の上に達するようで、水と泡の山を作り、海を大きく広げるみたいです。船は波に、あちらこちらに、叩かれ続けます。一回叩かれただけでも船はばらばらになるほどの強さで叩かれるのです。船は雲の中に投げ込まれたかと思うと、海底に落とされたり、帆も帆柱も泡の中に埋もれます。言語を絶する暴風の最初、船は天使たちの手により空中に保たれました。お陰で海底に押し落とそうとする大波から船を救いました。乗組員も船客もこの助けに気がつきましたが、気違いになって迫って来る死を嘆き悲しみました。悪魔たちは人間の形となってそばの船の上にいるように見せかけ、人々が船を棄て、悪魔たちの船に避難して来るよう呼びかけます。他の船も暴風に痛めつけられましたが、悪魔たちの怒りと暴力は、聖母の乗っておられる船に集中したのです。聖母は全て御存知でした。船乗りたちは声に騙され、自分たちの船を守ろうとはせず、海の怒涛に任せ、他の船に救ってもらおうと思ったのです。しかし、天使たちは乗組員の代わりに舵を取り、船を守りました。この混乱と危機の間、聖母は威厳と徳により心の静寂を保ち、英雄的諸徳を実行しました。前回の船旅の時と同様、航海の危険を再び実感し、航海者全員への同情を更新し、前からの祈りや嘆願を全てもう一度申し上げました。海の不敵な力を嘆願し、この無生物である被造物により表現された正義の神の怒りに思い至りました。神の怒りは人間の罪のせいであることが明瞭ですから、世の中の救いと教会の成長のために熱心に祈りました。聖母はこの航海の難儀を主に捧げました。御自身のため、この迫害と苦難を受けている乗船者たちのことを思い、御心が大変痛みました。聖ヨハネは、自分の本当の御母である世界の女主人のご苦労を思い、とても心配になりました。二、三度、聖母をお慰めしようとしました。普通はエフェソからパレスチナまで約六十日かかるのに、今回は十五日だけで、そのうち十四日は暴風雨でしたから、聖ヨハネは度を越えた困難の毎日に落胆し、聖母にある日質問します、「これはどういうことですか。私たちは海に沈むのですか。どうぞ御子に御憐れみの御眼を私たちに向けて下さるようにお願いして下さい」。聖母はお答えになります、「私の息子よ、心を騒がせないように。私は主のために戦い、堅忍により主の敵を打ち破らなければなりません。私たちといる人たちを一人として海に沈まないように、イスラエルを見守られる神が眠られないように懇願します。天軍の中で強力な天使たちが私たちを守護します。全人類の救いのために十字架にかかられた主のために苦しみましょう」。これを聞いて聖ヨハネに元気が出てきます。ルシフェルと悪魔たちは、聖母が海に沈み、決して助からないと脅迫し続けます。しかしながら、恐ろしい脅しは的を外れた矢のようなものです。聖母はルシフェルたちを避け、聞くことも見ることも話しかけることもしません。彼らは、聖母のお顔からいと高き御方の徳が輝いているのを一瞥すらできません。この徳を打ち負かそうとすればするほど、彼らはもっと弱くなり、徳という武器により苦しめられます。聖パウロと聖バルナバはエルサレムに入ると、聖母のご帰還を知り、直ちに聖母のもとに参り、平伏し、喜びの涙をぼろぼろ流します。聖母も神の御名を高め、信仰を広めるため全力を尽くす使徒・人に特別な愛を持っておられます。聖母も二人の足許に平伏し、二人の手に接吻し、祝福を願います。この時、聖パウロは素晴らしい知的幻視を頂き、この神秘的な「神の都市」つまり、聖母マリアの偉大な神秘と特権について啓示を受け、聖母が神性により完全に包まれているのを見ます。教会の頭である聖ペトロは、エルサレムの中や近隣にいる使徒たちを集め、聖母の臨席の下に会議をすることにしました。全員に向かって挨拶します、「救世主キリストにおける兄弟たちと子供たちよ、私たちが集まり、困難を解決し、兄弟であるパウロとバルナバが知らせてくれた事態について決定し、その他、信仰を増大させるための他の事柄を決めることは必要であります。そのために聖霊のお助けを願い、今までの習慣のように十日間の祈りと断食を続けることは適当であると考えます。最初と最後の日、神の光を受入れるようにミサ聖祭を行います」。全員、このやり方を認めました。翌日のミサのため、聖母は高間を掃除し、装飾を付け、用意万端整えます。聖ペトロがミサを立て、他の使徒たちや弟子たちはペトロから御聖体を拝領します。聖母が一番最後でした。大勢の天使たちが高間に降って来たのが全員に見えました。聖変化の時、高間は素晴らしい光と芳香に満たされ、その中で主は人々の霊魂の中に素晴らしい効果をもたらしました。最初のミサの後、全員は何時間か祈り続けました。聖母は一つの所に引き下がり、十日間飲食を断ち、誰とも話さず、一人きりで身動きもしませんでした。その間、主は天使たちに命令し、最高天にお連れしました。体も霊魂も共に天に行かれたので、天使が高間で聖母の代わりになりました。聖母が地上よりはるかに高い空に来られた時、全能の主はルシファと部下全員を女王の前に召喚しました。全員がそろうやいなや聖母はご覧になり、ありのままに彼らを知り、どんな状態にいるのかもわかりました。悪霊たちは嫌悪すべき姿をさらけ出したので、見るに耐えませんでした。聖母は神の徳により武装されていたので、恐るべき、呪うべき様子をご覧になっても傷つきませんでした。主は彼らに、敵として迫害しているこの「女」の偉大さと優越さを理解させます。聖母に対抗しようとする馬鹿さ加減を認知することになります。もっと恐ろしいことは、聖母が御胸の中に秘蹟にこもられたキリストを抱いておられることです。神が聖母を抱き、悪魔たちを辱め、投げ飛ばし、滅ぼす、神の全能の中に聖母を包んでおられることでした。悪魔たちに神の御声が聞こえます、「不敵で強力な私の腕が支えるこの盾により、私は私の教会を絶えず守る。この『女』、古代の蛇の頭を踏み砕き、蛇の厚かましい誇りに打ち勝ち、私の御名に誉れを返します」。絶望と痛みに耐えかね、悪魔たちは叫びます。「全能者の力よ、俺たちを地獄に投げてくれ。この『女』の前に俺たちを留め、火よりもつらい目に遭わせないでくれ。ああ、無敵、強力な『女』、立ち退け。全能者の鎖に繋がれ、御前から飛び離れられないのだ。俺たちの終わりが来る前、どうして俺たちを苦しめるのか(マテオ8・29)。全人類の内でお前だけが俺たちに対抗する全能者の器だ。お前のお陰で俺たちがなくした永遠の至福を人類はもうけやがった。神を永遠に見えないと絶望した者共は、お前のせいで救世主の確かな善業の報いをもらった。お前は俺たちにとって苦痛と罪だ。俺たちを放してくれ、全能の主なる神よ。天からの墜落という罰の繰り返しを中止してくれ。この強力な武器で俺たちは罰せられる」。この嘆きと脱出の試みは長い間続きます。主は聖母が彼らを釈放する権威を行使されるように望まれます。女王として釈放をお許しになると、彼らは天から地獄の穴へまっしぐらに飛び込みます。彼らは恐ろしいうなり声を上げ、地獄に落とされている人々を震え上がらせます。負けを否定できないという落胆と苦痛で、人々の前で、全能者と御母の御力を宣言します。御母はこの勝利を獲得した後、最高天を目指されます。最高天では、新しい敬うべき歓待を受け、二十四時間滞在しました。聖母は主の御前に平伏し、聖三位一体を崇め、教会のため、使徒たちが福音の律法を樹立し、モーゼの律法を終了させるため何が適当であるかを理解し、決定するように祈ります。聖三位の別々の御声が次々に響き、使徒たちや弟子たちを助けることを御約束になります。御父は全能により教会の体制を指導され、御子は教会の頭として御智恵により教会を助けられ、聖霊は教会の浄配として愛と啓示により援助されることを聖母に保証されます。次に御子の人性が、聖母が教会のために捧げた祈願を御父に御知らせになり、御認めになり、祈願が成就されるべきことをお勧めになります。福音の信仰と主の全律法が世界中に神の御意志により確立されるべしとお勧めになるのです。直ちに私たちの救世主キリストの提案を実行するにあたり、神の不変の真髄により、ダイヤモンドが輝く水晶で建立され、エメラルドやレリーフで飾られた教会が出て参ります。諸天使と諸聖人は叫びます、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、強力なるかな、主の御業よ」(黙示4・8)。聖三位一体はこの教会をキリストの人性の御手にお渡しになり、キリストは聖母にお渡しになります。すると同時に聖母は新しい輝きで満たされます。長時間この喜びの中に留まられた後、聖母は天使たちにより高間にお帰りになりますが、御手には御子より頂いた神秘的教会を持っていらっしやいます。その後九日間、聖母は身動きされずに祈り続けられます。聖母がなさった神秘的なことの中には、救いの宝を教会の子供たちに分け与えたこともあります。御子は全教会の統治と全恩寵の分配を聖母に任せられたのです。さて十日目が来ると、聖ペトロはミサを立て、全員が聖体拝領しました。全員、聖霊に祈り、教会の諸問題の解決について相談を始めました。頭としての聖ペトロが最初に話し、聖パウロ、聖バルナバ、聖小ヤコボの順で話しました。この会議の第一の決定は、割礼の律法とモーゼの律法は受洗者に強制されないということでした。永遠の救いは、洗礼とキリストの信仰により与えられるからです。他の決議は、例えばある信者の不適当な信心業を中止するために教会の祭儀の規定を作ることなどです。信経を決定した会議では、使徒だけが出席しましたが、今回の会議には弟子たちも参加しました。また、今回は決定の仕方も公式決定でした。会議の決定事項は手紙としてアンティオキア、シリアやキリキアの教会に、聖パウロ、聖バルナバや他の弟子たちにより送られました。アンティオキアでこの手紙が信者に発表された時、聖霊が目に見える火となって降りて来られたので、全信者は勇気づけられ、カトリックの真理を確信しました。聖母は主に感謝し、聖パウロなど遠方に行く者たちに、主キリストの着物の一部などまだ残っていた物を贈り、聖母の守護と祈りを約束して彼らを勇気づけました。

元后の御言葉 私の娘よ、人性と天使のペルソナの違いについて説明しましょう。人性は弱く、疲れ易く、仕事の途中で諦めます。徳の業が難しいとわかると落胆します。ある日は喜んで徳に進みますが、次の日には徳を批難します。今日は熱烈でも明日はぬるま湯のようになります。ところが天使も堕天使も霊であり疲れません。悪霊はいつも霊魂を誘惑する時、決して疲れません。神は悪霊たちの行動を制限し、人間を支持して下さいます。恩寵と力を私たちに与えてくださるので、私たちは悪霊たちに抵抗し、打ち勝つことができます。誘惑に対抗して同じでいられないこと、善行と悪霊に対する戦いの苦労を耐えられないことは弁解できません。欲望にかられると感覚的な楽しみに引かれ、悪霊の側につき、禁欲の辛苦や嫌悪を誇張するようになり、禁欲が健康や生命に危険であると見なすのは悪魔的なずるさから来るのです。このように悪魔は無数の霊魂に自分自身を地獄の低い穴の方にどんどん落として行くように騙します。人々は悪魔に仕えるため、徳を積むよう神の律法が命令するよりも、もっと困難で骨の折れる罪の業を行うのに忍耐強く、いつも準備しています。自分の霊魂を救う行為をする時はぐすぐずし、自分に永遠の罰を科する時は熱心です。私の娘よ、悪霊たちは私の胸の中にこもっておられる御聖体を感知して、大変な恐怖に襲われたことをあなたは書き記しました。あらゆる秘蹟は、悪霊たちを怖がらせるための最強の手段です。特に御聖体の秘蹟がそうです。信心と敬虔をもって秘蹟に度々あずかる者は悪霊たちを支配します。秘蹟の中の神の火は純粋な霊魂の中で霊魂と同化します。私の中で神の火は、単なる被造物としての可能性の極限までとても活発です。

54・福音書 

いつも書きますように、私は聖母のなさったあまりにもたくさんのことを全部書き記すことはできません。福音書の成立にあたり、聖母が取り計らって下さったこと、福音書に記されるべきあらゆる神秘について聖母は良く知つておられたことは特筆に値します。この知識を聖母は何度も頂きましたが、特に御子の御昇天の時に頂きました。その日以来、聖母は何度も主の御前に平伏し、使徒たちや福音史家たちに神の光を与え、時期が熟した時、書くことを命令して下さるようにお願いしました。前章で述べたように、聖母は天に挙げられ、主より教会を委託された後、高間に戻り、割礼などに関する討議、決定すべき会議の前に祈りに入られました。その時、主は聖福音を書く時が来たので、教会の女主人としてそれを取り計ることを聖母にお命じになりました。聖母は深い謙遜から、主の代理者兼教会の頭である聖ペトロがそれをすべきことで、そのように重要なことに関して神の啓示を頂くべきことを主から同意していただきました。会議が割礼の問題を解決した後、聖ペトロは私たちの救世主にして師なるキリストの御生涯の神秘を書き記す必要性について参会者たちに提案しました。書物ができれば、使徒たち、弟子たちは、信者たちに相違しない同じことを説教し、古い律法を廃止し、新しい律法を樹立できます。このことは、聖ペトロが聖母に前もって相談してあり、全参会者の賛成を得ました。一同は聖霊に祈り、誰が書くべきかを聖霊に指示していただくことにしました。すぐに光が聖ペトロの上に降り、御声が聞こえました、「司祭長なる教会の頭が、世の救い主の御業と御言葉を記録する者、四人を任命すべきです」。聖ぺ卜口と全員は平伏して主に感謝します。全員起き上がると聖ペトロは話します。「私たちの愛すべき兄弟マテオが自分の福音書を御父、御子と聖霊の御名により書き始めなさい。マルコが二番目で、同様に福音を御父、御子と聖霊の御名により書きなさい。ルカが三番目の福音を御父、御子と聖霊の御名により書きなさい。私たちの最も愛すべき兄弟ヨハネは、御父、御子と聖霊の御名により、私たちの救世主なる師の神秘を記す第四番目、最後になります」。この決定が主により承認されたことは、聖ぺ卜口の宣言がもう一度繰り返され、任命された者たちにより承諾されるまで天の光が聖ペトロに留まっていたことにより確かめられました。聖マテオは二、三日後に最初の福音を書き始める前に、高間の奥の部屋で祈り、主の歴史の初めについて啓示を願っていると、偉大な威厳と光輝の玉座に腰かけられた聖母が、ドアが閉められているのに入って来られます。聖母は彼に立ち上がるようにおっしやいます。彼は立ち上がり、聖母に祝福を願います。聖母は申されます、「私の僕なるマテオよ、あなたが福音を書くという幸運を頂き、神の祝福により福音を書き始めるようにいと高き御方が私をお遣わしになりました。あなたは聖霊の御助けを頂きます。私の全心からそれを請い願います。しかし、人となられた御言葉の受肉と他の神秘を現すため、そして、主の教会の基礎として世界に主の信仰を確立するために絶対必要なこと以外は書かないで下さい。この信仰が樹立された後で、主の強力な御手が私になさった神秘と祝福を信者たちに示す他の人々を、後ほど主は見つけられるでしょう」。聖マテオは聖母の指示に従う意志を明らかにし、福音を作成することを聖母と話していると、聖霊が目に見える形で降りて来られます。聖母のそばで聖マテオは書き始めます。聖母が去られた後、書き続け、ユダヤで書き終えます。ヘブライ語で書き、完成したのが私たちの主の42年目です。福音史家マルコは、主の生誕後46年目に自分の福音をヘブライ語でパレスチナで書きました。書き始める前に自分の書き始める意図を聖母に知らせ、神の啓示を得て下さるように聖母に願うことを守護の天使に頼みました。聖母はお聞きになり、主は直ちに天使たちに、最も美しい光輝く玉座に聖母をお乗せし、聖マルコの許にお連れするように命じました。聖母の前に平伏し、聖マルコは言いました、「救世主の御母なる全被造物の女主人様、私は御子と御身の僕であり、御身の御来訪の価値がない者です」。聖母はお答えになります、「あなたが仕え、愛するいと高き御方は、あなたの祈りが聞き届けられ、聖霊があなたの福音を書くにあたってお助けになることを保証するため私をお遣わしになったのです」。聖母は聖マテオにおっしやったように、聖母御自身のことは書かないようにおっしやいました。即座に聖霊が目に見える輝く姿となり、聖マルコの上に御降りになり、お包みになり、内的啓示により満たされました。聖母のおられる間に聖マルコは書き始めました。その時、聖母は61歳でした。後に、聖マルコはローマの信者たちのためにもラテン語で書きました。聖母が63歳になられた年、聖ルカはギリシャ語で福音を書きました。聖ルカが書き始めようとした時、聖母が出現されました。人となられた御言葉の受肉やキリストの自然な母としての威厳について書くことになりました。聖霊が聖ルカの上に御下りになり、聖母のそばで聖母から直接事実を教わりました。聖母の御要求されたので、聖母が玉座に腰かけておられる姿を書きませんでした。その時、聖ルカはアカイアに住み、長い間、聖母と一緒でした。最後で四番目の福音史家、聖ヨハネは主の暦で58年の時、聖母の被昇天の後、ギリシャ語で、異端や誤謬に対し書きました。聖母の被昇天の後、ルシフェルたちは御言葉の受肉の信仰を弱めるため異端の種を撒いたのです。この信仰は過去において彼らを征服したからです。このため聖ヨハネは私たちの救世主キリストの真で疑うことのできない神性を論証したのです。聖ヨハネが書き始めようとした時、聖母は天から降って来られました。全階級の何千もの天使たちがお供しました。聖母はお話しになります、「ヨハネ、私の息子、いと高き御方の僕よ、全人類が御子を永遠の御父の御子として、真の神として、そして真の人間として認めるようにあなたが書く時が来ました。私の神秘や秘密を書く時はまだ来ていません。世の中は、私を偶像崇拝するかもしれませんし、ルシフェルは救い主や聖三位の信仰を頂く人々を混乱させるかもしれません。そうならないように、聖霊があなたを助けるでしょう」。聖母は聖ヨハネを祝福し、聖ヨハネを生涯守ることを約束し、天にお昇りになりました。聖母が神の知識と神の知的幻視により高められるにつれ、教会に対する世話と気配りも多くなりました。日々、信仰は地上に広がりました。真の御母なる先生として、使徒たちのことを心から気遣いました。聖ヨハネと聖小ヤコボ以外は全員、会議後エルサレムを離れました。聖母は使徒たちが外国で苦労することを心配しました。司祭として、御子の使徒として、教会の創立者として、教義の説教者として、いと高き御方の光栄に仕える者として選ばれた者としての使徒たちに最高の崇敬の気持ちを持っていました。聖母は天使たちに、使徒たちや弟子たち全員の世話をし、苦労している時は慰め、困難に当たっては助けるように指名しました。使徒たち、弟子たちが今何をしているか、着物が不足していないか、天使たちに報告してもらいます。聖母は、彼らがエルサレムを出る時、着ていた物と同じ着物をいつも着れるように手配されました。これは御子の着ておられた物と同じ形と色の着物です。天使たちの手を借り、御自身の手で上着を織り、天使たちに、旅に出ている使徒たちに届けてもらいました。使徒たちは主と同じような格好で、主の御教えや御生涯について説教しました。食物に関しては、彼ら自身で托鉢するか、自給するか、施し物をもらうか自分たちで決めさせました。異邦人、ユダヤ人や、悪人たちをいつも唆す悪霊たちによる迫害から、使徒たちは天使たちにより助けられます。聖母の御名により、天使たちは人の姿になって彼らに現れ、慰めます。時には心の内部に働きかけます。牢獄から救い出したり、危険や罠について警告したり、旅に付き添い、場所や人に応じて何をすべきか教えたりします。天使たちは全てを聖母に報告します。聖母は、大変な労働をされ、使徒たちの全労働よりももっとされます。聖母が使徒たちや教会のために奇跡を行わない日も夜もありません。これら全ての他に聖母は使徒たちに手紙を何回も書きます。天からの勧告や教義、慰めや力づけのための手紙です。

元后の御言葉 私の親愛なる娘よ、いと高き御方の司祭を畏敬、尊敬しないベリアルの娘たちから離れなさい。司祭、主により聖別された者、キリストを代表する者、キリストの御体と御血を聖別する者が、悪徳、不純、現世的女たちに仕えることは何ということでしょうか? 貧乏人の司祭は金持ちの司祭よりも威厳がもっと少ないですか?私の御子が司祭や司牧者に与えるものよりも、金持ちはもっと多くの威厳、権力、優秀さを与えるでしょうか?天使たちは司祭の高められた威厳を尊敬します。司祭が自分の威厳を忘れ、他の人たち、特に女たちに奴隷奉公するなら、司祭は大変罪深く、批難されるべきです。司祭が貧乏人であるので、金持ちが司祭を僕として奉仕させることは、私にとり大変不快なことです。神の母として私の威厳は偉大ですが、私は司祭たちの足許に平伏し、司祭たちの歩いた所を接吻したことを大いなる幸福と考えます。天国の玉座から、私は司祭に同じ崇敬を捧げます。司祭が祭壇に面しているか、又は手に最も祝された御聖体を手に取っている司祭のことを考え、敬うのです。

55・キリストの受難と御聖体に対する聖母の信心、聖母が汚れなき御宿りと他の祝日をどのように祝われたか 

教会の実際の運営に注意を怠らない一方、聖母は密かに苦業、善業に励み、いと高き御方より無数の賜物と祝福、及び全信者の恩恵や大勢の霊魂の救いを頂きました。天の偉大なる女王として多くの特権を頂いているにも関わらず、聖母は御子の生涯の行動や神秘をいつも記憶しました。晩年、神やあらゆることを見せる知的幻視の他に、主は聖母の御宿り以来、何事も忘れないという特権を聖母にお与えになっています。前述したように、聖母は救い主イエズスの御受難のあらゆる苦痛を心身共にお感じになりました。主の御受難の傷跡は聖母の内部に刻み込まれています。御心の中に御受難により傷つけられ変形した御子の御姿をいつも保存しました。主があらゆる状況、時と場所で受けた傷、暴行、侮辱や涜聖を聞きましたし、御受難をありありと見ました。一日中この悲しい幻視は聖母に徳行を積むきっかけとなり、悲しみと同情を引き起こし、更に別の苦行を天使たちと共に行われることになります。私たちの主キリストが受ける傷や苦痛の一つ一つのため、聖母は特別な祈りと挨拶を唱えます。特別な讃美と礼拝の祈りです。ユダヤ人や他の敵たちの侮辱の言葉の一つ一つのため、涜聖の言葉の一つ一つのため、聖母は特別な讃美歌を作曲します。軽蔑の仕草、あざけりや個人的中傷のため、聖母は最も深い謙遜、跪きや平伏しを実行し、それらの侮辱を償おうとなさいます。こうして聖母は御子の神性、人性、聖性、奇跡と教義を告白します。全てのため、聖母は光栄と荘厳さを御子に帰します。聖母の善業に参加する天使たちは、単なる被造物におけるこのような智恵、忠実さと愛の一致を崇めます。聖母が御生涯にこれだけの善業しかなさらなかったとしても、諸聖人が神のために耐え忍んだことの全てよりももっと成し遂げられ、もっと大きな功績になります。愛の力による聖母の御悲しみは、殉教を何回も繰り返したことと同じです。もしも、主が生き永らえさせて下さらなかったなら、聖母は何回も御死去になったことでしょう。これら全ての徳行を実際に教会のために捧げて下さったので、信者たちはこの献げ物を不幸な人たちのために自由に使えます。この救いの宝に信者たちは感謝しなければなりません。聖母の黙想の効果も驚くべきほどです。聖母は血の汗を何度も流されました。血は御顔を覆いました。苦しみの時、血の汗を全身に浴びました。血は床に落ちました。時々、心臓は極度の御悲しみのためにねじれました。このような時、御子は天から下りて来られ、新しい生命力を御与えになり、御悲しみを和げ、傷を癒して下さったので、聖母は同情の業を続けることができました。主は御復活節に聖母が悲しみを除くよう望まれました。しかし、喜びや主に対する感謝の時でも、主の御苦痛を決して見失わず、同情の他の効果も感じておられました。主の恩恵の甘美さの中に、主の御受難は苦みを混合させました。聖ヨハネの承諾の許に、毎週金曜日、御子の御死去と御埋葬を記念するため、祈祷部屋に引きこもられました。その日の訪問客を聖ヨハネが応対しました。聖ヨハネの都合が悪い時は、他の弟子が代わりました。聖母はこの徳行のために木曜日午後五時、自室にこもられ、日曜日の昼まで外に出て来られませんでした。教会の運営が疎かにならないように、聖母は天使に聖母の姿になってもらい、急ぎの件は早くしてもらい、教会員に対する愛徳業や家事も十分に果たしてもらいました。聖母のこの苦業の全貌は主のみ御存知で、いつか私たちに理解させてくださるかもしれません。主がなさったこと全て、足を洗うことから苦痛の数々を受け、御復活までの全てを記念し、体験されることを毎週毎週、聖母の御在世中続いたのです。この業により聖母は大きな恩恵と祝福を頂いたので、私たち全員に御受難の宝に参加するように御勧めになります。聖母は教会がこの記念を続け、保つように希望されたので、教会の大勢の信者が見習うように主は命じられました。聖母はこの徳業において、御聖体の秘蹟を特に祝うように強く望まれました。主を崇め奉る聖母に、守護の天使たちや最高天の天使たちが参加するようにお望みになりました。いと高き御方は天使の大軍をお遣わしになり、キリストが聖母の中に秘蹟的に留まり給う不思議をお見せになります。聖母の中にキリストがおられるため、聖母はどの天使よりも、セラフィムよりももっと純粋でもっと聖であることがわかり、天使たちは光栄と讃美を神に唱えます。聖櫃に御聖体を安置するように、聖母が御自身の中に保有するに値すること以上に素晴らしいことは、聖母が聖体拝領の準備を毎日なさったことです。拝領の前日の夕方から祈祷部屋に入り、神の不変の真髄を拝み、御自身が卑しい身であるにも関わらず聖なる秘蹟における御子を頂くことを許してくださるように祈られます。秘蹟の内に教会内にお留まりなさるために、教会を愛する主に訴えられます。主に対し、御自身の御受難と御死去、主の人性と神性の一致、主の御生涯中の功徳、天使の徳と過去、現在、未来の義人の徳を捧げます。次に最も厳しい謙遜の業を行われます。神の無限に比べれば、塵と灰に過ぎない自分であることを公言されます。主を秘蹟の内に拝領することを黙想し、心から感動し、天に昇り、セラフィムやケルビムを越えて高く上り、御自身は全被造物中最下等であると判断され、守護の天使たちおよび他の全天使たちに、御自身を聖体拝領を受けるに値するように準備できるよう、主に嘆願することをお願いします。天使たちは聖母の言いつけに喜んで従い、聖母の嘆願にお供します。ミサの終わり近く、聖体拝領台に近づくにあたり、三度も恭しく跪き、愛に燃え、秘蹟の中の御子を拝領し、心から歓迎されます。拝領後、引きこもり、大事な用事のない限り、三時間一人きりでおられます。この時間、聖ヨハネは聖母から光が太陽光線のように照射しているのを見ることがしばしばありました。聖母は、ミサの無血犠牲を祝うため、使徒たちや司祭たちが普段とは違う飾られた神秘的着物を着るようにしました。御自身の手で飾りや秘蹟用衣類を作り、教会の伝統を始めました。ローマ・カトリック教会で使われてきた物とだいたい同じで、材料はもっと良く似ていて、リンネルや絹で、聖母に与えられた施し物や贈り物で買われました。これらの衣料を縫ったり、大きさを合わせたりしている時は、いつでも跪いたり立ったりしていました。これらを天使以外の聖具係には助けを頼みませんでした。これらの飾りや祭壇に使用される物を大変良く整頓し、きれいにしておきました。御手から天の芳香が出てきて、司祭たちの魂を燃やしました。使徒たちが説教していた諸国、諸地方から、大勢の改宗者がエルサレムに来て、世の救い主の御母に会い、話しました。訪問者の中には地域の監督である首長が多くの高価な贈り物を持参し、聖母や使徒たち、弟子たちに贈りました。聖母は御自身が御子のように貧乏であり、使徒たちも主を倣い、貧乏であり、これら高級品は自分たちの生活に不適当であることを答えました。訪問者たちは贈り物を貧者のため、そして、礼拝のために受け取って下さるように乞いました。繰り返して頼まれたので、聖母は贈り物の一部を受け取り、高価な絹を使って祭壇の飾りを作りました。残りは貧者、病者に分配しました。聖母はそのような所を訪れる習慣になっていて、世話をしたり、両手で貧者の体を洗ってあげたり、脆いて施し物を分配しました。可能な限り困窮者たちを慰め、病人の最後の苦しみを和げました。実際に愛徳を実行するか、自室で人々のために懇願するかして聖母は愛徳業を休んだことはありません。晩年になって聖母は寝食を極端に減らしました。聖ヨハネが少しでも眠るようにと頼んだので、少しは眠りました。しかし、この眠りは少しうとうととするくらいで、30分以上は続かず、その間も神の幻視を失いませんでした。聖母の食べ物は普通のパンを二口、三口、口にされるのと、小さな魚一匹です。聖ヨハネが口やかましく言われるため、そして、聖ヨハネの食事の時、同席するためでした。聖ヨハネは聖母と共にいるだけではなく、聖母の料理された物を聖母が一人息子にするように給仕され、聖母から司祭として、キリストの代理者としての尊敬を受けたのは全く嬉しいことでした。聖母にとって、わずかばかりの寝食は生命の維持に必要ではなかったのですが、人間性を尊重するため、従順と謙遜を実施するために行われたのです。聖母が教会の中で保っておられる全ての義務と称号、すなわち、元后、女主人、御母、女監督、先生(教会博士)は、全能者より与えられたもので、意味もなく実もない名前ではなく、恩寵の山を意味し、全能者がその一つ一つの恩寵を名指しされるのです。この豊富さは次のようになります。元后としての聖母は、統治権とその領域を全て御存知です。女主人として権力の大きさを知っておられます。御母として、教会の終わりまでの全時代における教会員全員、一人の例外もなくよく覚えておられます。女監督として、聖母に従う者全員をお知りになっています。先生として、聖母の御取次ぎにより、聖霊の御導きにより、聖なる教会を教え、案内すべき智恵と知識を備えておられます。聖母以前と以後の全聖人の生涯、業績、死と天国における報いばかりではなく、教会のあらゆる儀式、決定や祝日が、教会が発足して以来、何の理由、動機、必要性、機会のため、聖霊の御助けにより設定されたことを明瞭に知っておられます。聖母の全知識とそれに釣合う聖性により、地上の戦闘の教会に、勝利の天の教会の礼拝、崇敬や祭礼を紹介されました。天使たちがいつも見聞きしていて、聖母御自身、天国においていと高き御方の讃美と光栄のための礼拝に何回も参加されました。このようなセラフィム的精神により、聖母は多くの儀式、祝典や徳業を実践し始めました。これらは後に教会に紹介されました。これらについて使徒たちに教え込まれました。前述した御受難の信心業は聖母がお考えになったものです。その他も全ては後ほど、教会、信者や修道院に導入されました。主の礼拝と徳を積むことに関して知っておられることは何でも実行されました。知るべきことは全て知っておられました。主と御自分の祝日や、人類に関する一般的な恩恵のため、感謝と崇敬のお祈りをお忘れになりません。御自身の汚れなき御宿りと御子の御誕生をどのようにお祝いになったか、私は説明しましょう。両祝日を、御言葉の受肉の時から、特に被昇天の時から祝い始めました。十二月八日の汚れなき御宿りの祝日は、その前の晩から準備します。一晩中平伏し、主を讃美し、御自分がアダムと同じ土から作られ、自然の法則に従ってアダムの子孫になったことを深く黙想しました。御自身は同じ罪で圧迫されず、多くの恩恵を与えられて受胎されたのは、全能者により他の人たちから選り分けられたゆえであることに思いを致しました。御自身、守護の天使たちに一緒に感謝の歌と讃美の歌を交互に歌うように頼みました。夜中、歌い通した後、キリストが天より降りて来られ、天使たちが聖母をキリストと御一緒に天に御連れしました。天のエルサレムでは、主の宮廷全体の新しい光栄と喜びと共にお祝いが続けられました。聖母は平伏し、聖三位を崇め、御自分を原罪から離し、汚れなき御宿りをして下さったことを改めて感謝しました。聖母は御子なる主御自身の右に坐しました。聖三位は聖母の特権を今一度確かめられ、承認され、喜ばれたのです。次のような繰り返しの証言がありました、「ああ、王女よ、御身の足跡は美しい、罪なくして宿られました」。御子の御声は申されました、「私に人を救うため、人体をくださった御母は全く純であり罪の汚れがありません」。聖霊の御声が聞こえました、「私の浄配は美しい、御身は美しく、宇宙の罪の汚点はありません」。御声と御声の間に全天使、諸聖人の合唱がありました、「至聖なるマリア、原罪なくして宿られました」。最も賢い聖母は、感謝、礼拝と讃美を最も謙遜にいと高き御方に捧げられました。聖母は聖三位の直感的至福の幻視にあずかりました。何時間か神の光栄をお喜びになった後、天使たちに連れられて高間に戻られました。

元后の御言葉 私の娘よ、一生を通じて私は御子の御受難と御死去を感謝しながら思い出しました。御受難を記憶しているだけでなく、苦しみました。人々は救いが理解できないほどの恩恵を忘れています。恩を忘れ、感謝しないことは、軽蔑することです。御子を犠牲にしてまで御父は私たちを愛してくださり、御子も私たちのために死を受入れてくださるのに、この愛を人々は嫌います。この状態をルシフェルと手下たちは次のように言います、「この霊魂は神の救いを覚えないし、敬わないから、我らの側に引き入れられる。そのような祝福を記憶しないほど馬鹿なら、我らの企みに気付くまい。一番強力な防衛をなくしているから、誘惑して滅ぼしてやろう」。この考えは間違っていないことを経験上知っているので、悪魔たちは熱心にキリストの御受難と御死去の記憶を消そうとし、説教や講演を軽蔑させようとします。これまで霊魂に恐るべき害を与えることに大成功しています。他方、キリストの御苦痛を黙想したり、思い出す者たちに対して油断せず、恐れています。キリストの御苦痛から勢力と影響力が出て来るのを悪魔たちは感じるのです。私が主の御母でありながら、主の御体を拝領する価値のない人間であると考え、非常に多くの手段で何とか自分を浄めようとしていますから、とても貧弱で色々な悲惨や不完全さを抱えているあなたも、自分の内部をきれいにすべきです。神の光により内部をよく調べ、大きな徳により内部を飾りなさい。諸天使、諸聖人の取り次ぎを願いなさい。とりわけ、私の助けを呼ぶことを勧めます。私は聖体拝領のために浄めたいと思う者の特別な弁護者であり、守護者です。

56・大天使聖ガブリェルが聖母に死を告知する 

聖母は67歳になられましたが、御活動にぐずぐずしておられませんし、神に近づくことをやめませんし、愛の炎を消しませんし、功徳を積むことを減らしません。聖母の御生涯の一瞬間ごとにその御活動の全ては成長し続けたので、それに応じて主の賜物や恩恵も増え、聖母は完全に神々しく霊的になりました。聖母の最も純潔なる御心の愛情深い熱心と希望は、愛の中心の外における休息を許しませんでした。聖母は肉体の限界に留められることを嫌悪されました。聖母と永遠の一致を願う神の御希望は最高潮に達しました。地も人々の罪により、天の宝である聖母を主から引き離し、地にお引き止めする価値を失いました。永遠の御父は真の御娘の来られることをお望みになりました。御子は最も愛すべき御母のお出でを待ち望まれ、聖霊は最も美しい浄配の一致を願われます。天使たちは自分たちの元后を、諸聖人は偉大なる貴婦人を待ち焦がれ、全天は皇后の御臨席を待ちます。聖母が世の中や教会に留まるべしという弁解は、アダムの惨めな子孫たちがそのような御母、女主人を必要としていることです。神は御母に光栄を与えるため、天にお迎えになる時を決定されました。聖三位は、大天使聖ガブリエルにその日時を聖母に伝えさせます。大天使は他の天使たちと共に、エルサレムの高間に降りて来た時、聖母は床の上に十字架の形をして平伏し、罪人たちのために祈っておられました。天使たちの音楽が聞こえ、天使たちがそばにいるのを感じ、跪きの姿勢で起き上がり、天の大使と随員たちに敬意を表しました。天使たちは白い輝く着物を着て、喜びと畏敬の気持ちを示しながら聖母の周囲に集まっています。全員が冠と棕櫚(しゅろ)の枝を持っていますが、違う冠や棕櫚で、計り知れない美しさと価値の種々の賞与と報酬で、全て天使たちの元后である貴婦人に差し上げるものです。聖ガブリエルは、アベ・マリアと言って挨拶します、「私たちの皇后なる貴婦人様、全能なる最も聖なる御方が、御自身の御名前により、あなた様の地上における巡礼と追放の生活に最も幸せな終わりが来ることをお知らせするため、私たちをお遣わしになりました。ああ、貴婦人様、自然な死により、永遠な不死の生命をあなた様がお望み通り獲得されるその日その時が近づいています。光栄ある私たちの神なる御子の隣における生活が、御身のために準備されています。今日から丁度三年目、御身は天に挙げられ、主の永遠の御喜びの中に迎えられます。天国では全員が御身のお出でになるのを御待ち申しております」。このメッセージを聖母は言葉に尽くせない喜びと共に御聞きになり、地面に平伏し、御言葉の受肉の時と同じ言葉を申しあげます、「私はしゅのはしためです。お言葉のとおりこの身になりますように」(ルカ1・38)。聖母はセラフィムや他の天使たちと交互に歌のやりとりを2時間にわたりなさいました。天使たちは霊として、本性も超自然の賜物において大変微妙、賢く、優秀ですが、聖母の方がもっと上です。両者を比較すると、侍従と国王の違い、又は生徒と先生の差があります。歌い終え、御自身を改めて謙らせ、天使たちに御自分の現世の命から永遠の命への移転を助けるように願い、そして、天にいる全天使や諸聖人に同じ願いをなさいます。天使たちは約束し、聖ガブリエルと随員たちは暇乞いをし、最高天に戻ります。全宇宙の偉大な女王は、祈り部屋で一人きりになり、謙遜な喜びの涙を流しながら地面に平伏し、母として地面を抱くようにしておっしやいます、「地よ、私はあなたに当然の感謝をします。67年間、功徳のない私を生き永らえさせてくれました。あなたはいと高き御方の被造物で、いと高き御方の御旨により今まで、私の生命を保ってくれました。あなたの上に住む残りの時間、私を助けてくれるように頼みます。私はあなたを通してあなたの上に造られ、あなたの所から私の造り主に御目にかかる所へ挙げられます」。聖母は他の被造物にも声をおかけになります、「あなたたち、諸天よ、惑星たちよ、諸恒星よ、自然よ、私の愛する御方の強い御手により造られた物よ、神の偉大と美の忠実な証人であり、公言者よ、私はあなたたちにも私の生命の借金があります。今日から後も私を助けて下さい。神の御助けにより、私の命の残された間、私の命の完成を開始し、私とあなたたちの創造主に私が感謝できるようにして下さい」。聖ヨハネや千位の守護の天使たちと一緒に、聖なる史跡を巡礼することになりました。被昇天前のこの旅のため、聖母はこの世の様々な用事を延期されました。我らの救いの記念すべき場所全てを訪れ、甘美なる涙を滝のように流され、御子の御苦難を悲しく思い出され、愛の熱烈な行為と、全信者が将来信心深く敬虔に聖地を訪れるようにという嘆願をなされ、御苦難の効果を更新なさいました。カルワリオの丘ではもっと長い間、立ち留まられ、御子の御死去が、大勢の霊魂の破滅から救いのために完全な効果を発揮するよう、御子にお願いされました。聖母のお祈りが最高潮に達した時、その激しさのため、聖母のお命は神の御助けなしには無くなったと思われます。聖地を守る天使たちや聖ヨハネに、この最後の巡礼において御自分を祝福するようにお願いした後、祈り部屋に戻られ、最も優しい愛の涙を流されます。地面に平伏し、教会のための長い祈りをされます。辛抱強く続けられると、主の知的幻視において主が出現され、聖母の御祈りが聞き届けられたことを保証されます。聖母は主に地上の教会を離れる許可を願い、与えられます。そして、教会に向かい挨拶します。「聖なるカトリック教会よ、将来、ローマという名前がつくでしょう。私の母、女主人、私の霊魂の真の宝よ、御身は私の追放の間、唯一の慰めでした。避難所、私の労働を容易にして下さる御方、私の楽しみ、喜びと望み、御身は私の人生の旅路において私を支えて下さいました。御身の中で祖国へ帰る巡礼として生活しました。御身の頭、イエズス・キリスト、私の御子である主による恩寵のお陰で、御身の中で私の存在を受けた後、御身は私を養って下さいました。主の無限の功徳の宝と富が御身の中にしまってあります。主の忠実な子供たちが約束の地へ向かう確かな道が御身です。危険で難しい巡礼において子供たちを守って下さいます。私たち全員が尊敬すべき諸国民の女主人は、御身でございます。御身の財産は、不安、労働、侮辱、困難、苦痛、十字架と死の富める計り知れない宝石です。これらは全て私の主、御身の先祖、御身の主人により聖別され、主のより優れた僕たちに予約されています。御身はこのような宝石で私を飾り、お金持ちにして下さいました。御身は私を繁栄させ、幸せにして下さいました。御身の至聖なる秘蹟の中に御身の造り主がおられます。私の幸せな母なる戦闘の教会よ、御身はおびただしい財宝を所有しておられます。御身のことを私はいつも心にかけてきましたが、今、御身から離れ、御身の甘美なるおつき合いからお別れする時が参りました。私の愛すべき教会、私の名誉と光栄よ、私のこの世における御身からお別れするところです。永遠の生命からあらゆる善を含む存在の中に喜ぶ御身が見えるでしょう。かしこより、愛を持って御身を見つめ、御身の増大、繁栄と進歩をお祈りしましょう」。次に、聖母が遺書を発表されるにあたり、聖三位が御降りになり、励まされました。次のような遺言となりました、「いと高き主なる永遠の神よ、地の塵である私は、御父、御子と聖霊、不離一体、永遠の精髄における明確な聖三位を心より宣言し、崇めます。王としての御臨席の下に、私は最後の遺言を申し上げます。地上の生活の何物も私は所有しておりません。御身以外の何物も所有しませんでした。御身は私の全財産でございます。諸天、諸惑星、恒星、自然とその他全ての被造物に私は感謝致します。御旨のままに被造物は功徳の無い私を養ってくれました。被造物は、御身に仕え、御身を崇め奉るようにお願いします。被造物が私の同朋を養い、恩恵を与えるようにお願いします。理性のない被造物の所有と統治は、主が私に下さいましたが、私は人類に譲ります。これら被造物が人類によく仕えるように希望します。二枚の上着と一枚の外套は、私の息子である聖ヨハネに残します。私の体は地に渡します。地は共通の母親であり、御身に仕える被造物ですから、私の体を御身のために使うでしょう。体や全ての見えるものから引き離された私の霊魂を御身の御手に委ねます。私の霊魂が御身を永遠に愛し、崇めますように。御身の恩寵により私の働きが得た功徳や宝は、聖なる教会、私の母である女主人に相続してもらいます。この相続はもちろん御身の許可を得た上でのことです。この宝がより一層増えるように希望します。この宝のお陰で、将来御身の御名を高め、御旨が天に行われるように地にも行われるようにし、全世界の人たちが御身を真の神と知り、愛し、崇めるようになりますように」。  「第二番目に、これらの功徳や宝を現在と未来の使徒たちや司祭たちに捧げます。御身の素晴らしい寛大さが、彼らを適切な司牧者にならせ、義務や立場に値するものにし、智恵、徳と聖性に満たされ、御身の御血により贖われた霊魂たちを教化、聖化できますように。第三番目に、私はこれらの功徳を私の名を呼ぶ私の僕たちが、御身の保護と恩寵を、最終的に永遠の生命を得るために捧げます。第四番目に、私の奉仕や労働により、罪を犯すアダムの子孫たちが罪から遠ざかるよう、御身の御慈悲に訴えます。この時より、この世が続く限り、御身の御前で人々のために祈り続けるっもりでございます。主なる我が神よ、これが私の最後の意志で、いつも御身の御旨に従わせます」。聖三位は聖母の意志を確認されました。救い主なるキリストは御母の心に「御身が望まれ、命ぜられるように、なりますように」とお書きになりました。私たちアダムの子孫が、聖母の広大な功徳を頂くという恩義をこうむるならば、この借金は私たちが最も勇気ある殉教者や聖人のように、生命を献げ、苦痛を忍んだとしても、決して私たちは払い切れません。

元后の御言葉  死の時やその後の審判について忘れることほど大きくて悪い誤謬はありません。この誤謬の門を通って、罪が世の中に入ったことを考えなさい。最初の女エワに蛇が言ったことは、「あなたは死なないであろうし、そのことを考える必要がない」(創3・4)ということでした。こうしていつも騙され、死について考えずに生き、不幸な運命を忘れて死ぬ人たちの数は非常に多いのです。このような結末を避けるため、あなたの死は取り返しがつかないことを確信し始めなさい。多くを頂き、少ししか返さなかったこと、御恵みが多ければ多いほど審判はもっと厳しくなること、主の御恵みがいつでもどこでもどんな状況でも、忘れず不注意にならず働いていることをよく考えなさい。

57・乙女マリアの光栄ある移行 

聖母の至高なる御死去の三日前、使徒たちや弟子たちはエルサレムの高間に集まりました。聖ペトロが一番最初で、天使によってローマから連れて来られたのです。高間におられた聖母は、神に対する愛の力により、御体が少し衰弱しておられました。御死去が大変間近であったからです。御自分の祈り部屋の入口の所まで出て来られ、救い主キリストの代理者を迎え、彼の足許に跪き、彼の祝福を請い、申されました、私はいと高き御方に感謝と讃美を捧げます。神が臨終の私を助けるため、聖なる父(教皇)を送って下さいました。次に聖パウロが到着しました。聖母は同じ出迎えの態度を示されました。使徒たちは聖母を神の御母、彼らの女王と呼んで挨拶しました。この尊敬と同じくらいの悲しみがありました。聖母の臨終に立ち会うために高間に集まったからです。他の人たちも集合しました。三日後、一堂に会した人々全員に聖母は深い謙遜、畏敬と愛をもって接し、一人一人の祝福を願われました。一人一人、聖母の御要望に応じ、感嘆すべき畏敬の挨拶をしました。聖母から色々受けた御指示に聖ヨハネは従い、聖小ヤコボの助力で人々は歓迎と宿泊のもてなしを受けました。天使たちにより運ばれ、会合の意味を知らされた使徒たちの中のある者は、自分たちの唯一の保護と慰めを失うことを考え、大変悲しくなり、涙を流し続けました。他の人たち、例えば弟子たちは、天使たちから告知されず、内的鼓舞と神の強力な勧めを感じただけでやって来たのですが、すぐに聖ペトロの次のような説明を聞きました、「私の最も親愛なる子供たちと兄弟たちよ、主が遠方にいる私たちをエルサレムにお呼びになったのは他でもありません。主の至福の御母、私たちの女主人、慰め人である保護者が、永遠の光栄ある玉座に今昇られることをいと高きお方が望んでおられます。そのため主は私たちをお呼びになりました。私たちの主人である救い主が御父の右に昇られた時、主の御母なる私たちの光を地上に残されました。今、御母が私たちを孤児にされるにあたり、私たちに何ができますか?私たちの巡礼を励ます希望はあるでしょうか? 私は時が来次第、御母の後を追うこと以外に何の希望もありません」。涙にむせて聖ぺ卜口は話しを続けられませんでした。長い間、参会者たちも心の奥底でうめきました。やっと気を取り戻した聖ペトロは続けます、「私の子供たちよ、私たちの御母である貴婦人にお会いしましょう。御母に残された時開、私たちのそばにいていただき、私たちを祝福していただきましょう」。人々が御母の祈り部屋に行くと、御母は長椅子の上に跪き、美しく、天の光に満ち溢れ、千位の天使たちに取り囲まれていました。聖にして童貞なる御体は、33歳の時と同じで、年をとっても変わらず、御顔にしわもなく、衰弱とか変色などありません。成人した時の元気に溢れる姿から加齢と共に段々しなび、弱々しくなる私たちアダムの子孫とは全く違います。聖母の不変性は聖母にだけ与えられた特権で、聖母の至純なる霊魂の安定性と一致し、アダムの罪に汚染されていないためです。室内では、使徒たち以下全員が秩序を保っています。聖ペトロと聖ヨハネが長椅子の頭の所にいます。聖母は皆に敬意を表し、申されます、「私の最も親愛なる子供たちよ、あなた方の召し使いである私に一言話させて下さい」、聖ペトロは、聖母に皆が傾聴すること、何でもおっしやるように答え、跪くのをやめ、長椅子に腰かけるようにお勧めしました。聖ペトロは、聖母が長時間跪きながら主にお祈りされて、お疲れになられたであろうと思ったのです。この時、聖母は死に至るまで謙遜と従順の師としてこの二つの徳を実行されました。聖ぺ卜口の許可を得た後、長椅子を離れ、聖ペトロの前に跪き、申されました、「私の主人、全宇宙の司牧者である聖なる教会の頭に、私は私的公的祝福を下さるようにお願いします。私は生涯にわずかな奉仕しかしませんでしたので、この婢をお許し下さい。聖ヨハネが私の着物や二着の上着を、私の世話をして下さった二人の婢に与える許可を下さい。」 平伏し、キリストの代理者としての聖ペトロの足に接吻し、たくさん涙を流し、使徒たちやそばにいる人たちに涙以上の感嘆を起こさせました。次に聖ヨハネのもとに行き、跪き、申されました、「私の息子、私の主人よ、主が十字架からあなたを私の息子として、私をあなたの母として任命されたのに、私は母としての義務を遂行できなかったことを許して下さい。あなたが息子として示して下さった御親切を心より感謝申し上げます。私をお造りになった神のおそばにいるため、あなたの祝福をお願いします」。一人一人の使徒たちと何人かの弟子たちにお別れの挨拶をした後で、立ち上がられ、参集者全員に話されました、「最も親愛なる子供たちである御主人様、私は絶えずあなた方のことを思い、私の心の中に書き記しました。あなたは御子の選ばれた友だちであり、あなた方の中に御子を見ます。御子が私に下さった優しい愛情と愛徳をもってあなた方を愛しています。御子の聖なる永遠の御意志に従い、永遠の住いに参ります。その住いにおいて、神の最も透き通った光により、あなた方を母として見守りましょう。あなた方に私の母なる教会、いと高き御方の御名の讃美、福音の律法の公布、御子の御言葉の名誉と崇敬、御子の御受難と御死去の記憶、御子の教義の実施をお任せします。私の子供たち、教会を愛し、愛徳の結びによりお互いを愛しなさい。あなた方の主がいつも教えられた通りです。聖なる教皇のペトロよ、あなたに私の息子ヨハネと他の全ての人々を宜しくお願い申し上げます」。聖母の御言葉は神の火の矢のように全員の心を貫きました。聖母が話し終えられた時、全員はらはらと涙を流し、慰め切れない悲しみにうち沈み、地面に倒れ、嘆き、うめき、大地を震わせました。全員が泣き、聖母も泣かれました。しばらくして聖母はもう一度話され、黙祷するようにおっしゃいます。全員の黙祷中、輝く王座におられる御子が諸聖人や無数の天使たちに付き添われてお出でになりました。高間の家は光栄で満たされました。御母は主を崇め、主の御足に接吻しました。平伏して地上最後の最も深い信仰と謙遜の態度を示されました。全人類が自分たちの全ての罪のために謙るよりももっと深く御自身を低くされました。主は仰せになりました、「私の最も親愛なる御母、この死に至る生命から、御父と私の光栄の中に、御身がお移りになる時が参りました。私の力により、私の御母として、御身を罪の汚れなくこの世に来ていただきましたから、御身がこの世を出られる時、死は御身に触れる権利も許可も持っていません。もしも、御身がこの世の出口を通過されたくないならば、私と共に来られ、御身の功徳が獲得した私の光栄に参加して下さい」。聖母は御子の足許に平伏し、喜ばしい御顔でお答えになります、「私の御子にして私の主よ、私もアダムの他の子供たちと同様に、自然の死の共通の門を通って永遠の命に入らせていただきたいと思います。私の真の神である御身は、何の恩義も負っておられないのに死の苦しみをお受けになりました。私が生きることにおいて御身に従ったように、死においても御身に従うことは当然と思われます」。救世主キリストは御母の決意、犠牲を承認され、その成就に賛成されました。そして、全天使たちはソロモンの雅歌や新しい歌を合唱しました。救い主キリストの御出現について啓示されたのは、聖ペトロと聖ヨハネだけでした。他の人々は神からの強力な効果を内心に感じました。天使たちの歌声は全員が聞くことができました。神の芳香は広がり、外の通りにも達しました。高間の家は素晴らしい光に満たされ。誰にも見えました。主は街路に集まったエルサレムの住民たちがこの光景の証人となるように望まれました。天使たちが合唱を始めた時、聖母は長椅子の上に横になられ、上着は御体のそばにたたんでおかれ、両手をお組みになり、御目は御子を見つめられ、神の愛の火に全身が燃えました。天使たちが雅歌の第二章の何節か、「立って急ぎなさい、私の愛せる者、私の鳩、私の美しき者よ、来なさい、冬は去りました」などを歌った時、聖母は十字架上の御子の御言葉、「ああ主よ、私の霊魂を御手にゆだねます」を宣言されました。御目を閉じられ、息が絶えられました。聖母の命を奪った病気は愛です。他の弱さとか、偶発的な干渉は何もありません。神に対する燃える愛をその時まで制御していた助力を神がお止めになった瞬間、聖母は逝去されました。この制御がなくなるやいなや、聖母の愛の火は、心臓の生命の液を蒸発しつくし、この世における御生命に終止符を打ちました。天使たちの歌声が天に上がっていきます。諸天使、諸聖人の行列が王と女王に従い、最高天に昇ります。聖母の御体は素晴らしい光で輝き続け、今まで聞いたこともない芳香を発し、そばにいる人たち全員の内部、外部を満たします。聖母の守護に当たっていた千位の天使たちは留まります。使徒たち弟子たちは、見聞きした不思議で涙と喜びに我を忘れ、しばらくの間、感嘆し続けます。それから、たくさんの賛美歌や詩編を聖母の光栄のために歌います。聖母が御逝去されたのは、8月13日、金曜日、午後3時で、聖母の享年は70歳でした。救い主キリストの御死去の後、21年間生活されました。聖母の御死去の時、日食が起こり、何時間か継続しました。色々な種類の鳥がたくさん高間の周囲に集まり、悲しげに鳴きました。エルサレム全市が騒ぎました。驚いた群衆が集まり、神の力を声高く告白しました。他の人たちは驚愕のあまり放心状態になりました。使徒たち、弟子たち、信者たちは涙を流し、ため息をつきました。煉獄の霊魂たちは釈放されました。最大の奇跡は、高間のすぐ近くに住んでいた二人の女とエルサレム市内の一人の男に起こりました。三人は罪を犯し、悔い改めないで死んだので、地獄に堕ちるはずでしたが、キリストの法廷で彼らが審議された時、主の御母が取り成したので、彼らは生き返りました。彼らは自分たちの行状を改め、その後、恩寵の内に死亡し、救われました。この特権はエルサレムで聖母と同じ時刻に死んだこの三人だけに与えられたのです。

元后の御言葉 私の娘よ、私が御子の人間としての死を見習い、自然死を遂げたことを御子なる主は御喜びになり、一つの恩恵を教会の子供たちに与えて下さいました。私に信心する者たちが死に際して私を呼び、私の幸せな死と主を模倣したいという希望を思い出し、私の弁護を望むならぱ、私の特別な保護を受け、悪霊たちに対して私によって守られ、主の慈悲の法廷に共に出廷し、私の取り成しを受けることになります。従って主は、私に新しい権力と任務を御与えになり、私の貴い死の神秘を崇め、私の助けを願う全ての人たちに良き死と、より純粋な生活のために恩寵を下さることを約束して下さいました。それゆえ、私はあなたが今日よりこの神秘を心の奥底で信心し、愛すること、私と三人の罪人の奇跡をなさった全能者を祝い、讃え、崇めることを希望します。死は命の延長であり、命の状態と一致しますから、良き死の最も確かな保証は、良き生活です。つまり、この世の愛から心を離して重い鎖から解き放されて生きることです。原罪の影響から自由になり、生きることです。情欲の重荷や足枷を棄てて生きることです。

58・乙女の埋葬と被昇天 

使徒たち、弟子たち、信者たちが聖母の御死去をあまりにも深く悲しまないようにするために、また誰かが悲しみのために死なないために、神の慰めが必要になりました。聖母に御会いできなくては呼吸もできないほどに悲しんでいることをよく理解された主は、密かに人々を勇気づけて下さったので、人々は聖母の貴い御体の埋葬の準備をすることになりました。この任務を担った使徒たちは相談し、新しい墓を選びました。この墓は御子の御旨により神秘的に建造されてあったのです。ユダヤ人の慣習により、主キリストの尊い御体が貴重な油や香料で塗られ、聖なる埋葬の布に包まれたことを思い出し、聖母の童貞なる御体に全く同じことをしようと考えました。生涯中、聖母に付き添い、聖母の上着二枚を形見としていただくことになった二人の婢を呼びだし、心からの畏敬と謙遜により、神の御母の御体を塗り、布で包むように指示しました。非常に恐れながら、二人が聖母の部屋に入ると、御体から発散する光で目がくらみ、何も見えませんでした。恐れおののき、二人は部屋を出て使徒たちに事の次第を伝えました。使徒たちは神の息吹を感じ、契約の聖なる櫃は触るべきではないと結論しました。聖ペトロと聖ヨハネは祈祷室に入り、光輝を見ると共に、天使の歌が聞こえました、「めでたし聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします」、「御子の御誕生の前、御誕生の時と御誕生の後、童貞なる御方」。この讃美の言葉はその時から信者たちの祈りとなり、聖なる教会に認められ、私たちに受け継がれています。これを最初に見聞きした二人の聖なる使徒たちは、賛嘆のあまり、しばらく我を忘れました。跪き、何をすべきか主にお聞きしました。主の御言葉が聞こえました、「聖なる御体は脱衣も塗油も必要ありません」。御旨の通り、御体を着衣のまま恭しく上着の上下両端の所で持ち上げ、棺台にお乗せしたので、長椅子の上におられた時と全く同じ姿勢でした。二人が御体を持ち上げた時、上着の重さ以上の重さを感じませんでした。棺台上の御体は芳香を発し、童貞の御顔や御手は周囲の人々によく見え、生前親しく御顔や御手を見た人々のこの上もない慰めとなりました。主は御自身の御体についてあまり注意を払わず、御受難、御死去において脱衣の御体を衆目にさらしましたが、聖母は女性ですから、同様の経験をなさることを主は御許しになりませんでした。聖母の御埋葬は、エルサレム中の全信者に知れ渡り、人々はたくさんのローソクを持って来て棺台に立て、火を灯しました。ローソクの火は三日間続き、どのローソクも少しも減少せず変形もしませんでした。この奇跡以外にも多くの奇跡が起こり、信者だけでなく、大勢のユダヤ人たちを引きつけました。使徒たちは棺台を肩に担ぎ、聖なる御体、神の聖櫃、神の託宣と祝福の仲介者を市の高間からヨザファトの谷まで行列しながらお運びしました。天使たちも人目に触れず行列に参加しました。沿道で種々の病人たち全ては完治し、大勢の悪魔つきも悪魔を追い出してもらいました。ユダヤ人や異邦人たち多数が改宗し、私たちの救い主キリストを真の神として公言し、洗礼の要求を公に叫びました。この日改宗した人たちに聖い教えを教え、洗礼を授けるために、使徒たち、弟子たちは何日も忙しい思いをしました。沿道の人たちは皆、芳香、甘美なる音楽、その他の不思議に感嘆しました。人々はこの被造物なる聖母において力を示された偉大な神を公言し、胸を打ち、悲しみと悔やみの態度を示しました。ヨザファトの谷の聖なる墓に、聖ペトロと聖ヨハネは天の宝である御体を安置し、リンネルの布をかけました。実際には両使徒よりも天使たちが主になってこの埋葬を遂行したのです。墓の前に大きな岩を置き、入口を封じました。天の宮廷に仕える天使たちは天に戻り、女王のおつきの千位の天使たちは御体を警護し、音楽を奏で続けました。人々は家に帰り、使徒たちは泣き崩れた後、高間に戻りました。芳香はその後一年間、家に存在し、祈祷部屋では何年間も匂いました。この聖所は労働や困難にうちひしがれている人々の避難所になり、病人も奇跡的に助けを頂きました。何年間かこれらの奇跡が続いた後、エルサレムの住民たちの罪が罰を招き、この計り知れない御恵みも途絶えました。話を埋葬後の時に戻しましょう。使徒たちはお墓を天の音楽が聞こえる限り守ることにし、いつまで音楽が続くのかわかりませんでした。何人かはすぐにお墓に引き返し、他の全員は次の三日間何回もお墓をお参りしました。聖ペトロと聖ヨハネは最も熱心で、高間をしょっちゅう留守にしたのです。我らの救い主イエズスが御母の霊魂を御自分の右の玉座にお連れした時、人類が出席しなければならない裁判から免除されました。御母が女王に選ばれた時、アダムの子供たちの律法を越える特権を受けたのです。裁かれる代わりに、主と共に全人類を裁くため、主の右に着座しておられます。御身籠りの最初の瞬間に、セラフィムの明るさよりももっと明るい神の光と共に輝くオーロラでしたから、後に御言葉を胎内にお受けした時、更に輝きました。御母が永遠に主の伴侶となり、主の似姿をとり、神人なるイエズスと被造物なる御母の間に誰も介入しないことは理解できます。主は御父に御報告されます、「永遠の御父よ、私の最愛の御母、御身の愛しき娘である聖霊の憧れた浄配が、この王冠と光栄を今ここでお受けします。御母の御功徳のため、我々はこの報酬を準備しました。御母は刺の中のバラとして生れ、汚されず、純粋で美しく、我々に抱擁され、他の人間の到達できない玉座に付けられるに値します。御母こそ我々の選んだ唯一の御方、何物よりも卓越し、我々の恩寵や完全と交わります。我々の計り知れない神性と賜物を御母に預けました。御母は最も忠実にこの宝を保管し、この宝を更に増やします。御母は我々の意志から決して離れませんし、いつも我々の恩寵を保ちます。私の御父よ、我々の慈悲と正義の法廷は公平であり、我らの友人たちは奉仕に対し過剰の恵みを払っていたただきました。私の御母が御母の報酬を頂くのは正しいことです。御生涯に被造物として可能な限り、私に似た者となられたので、私に似た者として光栄と玉座を頂くことになります」。御父と聖霊は御賛成になりました。即座に御母は、御子なる真の神の右横に挙げられ、聖三位の玉座をお占めになります。人間も天使もセラフィムでさえもこの最も高い特権を得られません。御母は聖三位一体の神と玉座を共有され、皇后としての地位を保ちます。御母は聖人、天使の誰よりももっと深く永遠の神と神の属性を理解され、神秘や最奥の秘密をもっとお喜びになります。御戴冠後三日目に主は、御母が地上に戻り、御体を蘇らせ、御自身を御体に結合し、御体、御霊魂一体となり、主の右に昇るという御意図を諸聖人にお知らせになりました。この復活も死者一般の復活の前に行われます。諸聖人は御母の復活の正確な日時を明瞭に知りました。時至って、我らの主キリストは御母を伴われ、大軍の天使たち、先祖たちや預言者たちを従えて地に御降りになりました。ヨザファトの谷の墓に来られて、主は諸聖人に仰せになります、「私の御母が罪の汚れなく御身籠りになったのは、御母の童貞の御体から私が人体を頂き、人間となり、この世を罪から救うためでした。私の体は御母の体です。私の救世の御業に御母は協力して下さいました。私が死者より復活したように、同じ時刻に御母を復活させます。あらゆることにおいて御母に、私に似た者となられるように望みます」。昔の預言者たち全員はこの新しい恩恵のため、主に対する讃美と光栄を歌って感謝しました。感謝の気持ちを他者より抜きん出て表した人たちは、私たちの人祖アダムとエワ、聖アンナ、聖ヨアキムと聖ヨゼフで、主の全能のこの奇跡に他者よりももっと近く参加していました。主の御命令により、女王の至純なる霊魂は童貞の御体に入り、活動を開始させ、起き上がり、不死と光栄の新しい生命を与え、明瞭、物体通過、敏捷と微妙の四つの賜物を追加しました。これらの賜物は霊魂の賜物と一致し、霊魂から体内に流入したのです。これらの賜物を身につけ、聖母は御体と霊魂一体で墓から出て来られます。岩の戸も御体を覆っていた上着も外套も動かされません。御母の美しさは、御体を頂いた主が美しい御体をお返しになったからです。墓から最も厳かな行列が天の音楽と共に空中を最高天に向かいます。これは主の御復活と同時刻、真夜中を過ぎたばかりに起こり、墓番をしていた幾人かの使徒たちが目撃しました。天国で我らの救い主キリストの右に着座された聖母は、種々の金でできた着物を着ておられ、大変美しく、天の宮廷全員の賞賛の的になりました。全員が聖母を見つめ、喜び、賛歌を歌いました。ソロモンの賛歌も歌われました、「来なさい、シオンの娘たちよ、明けの明星が讃え、いと高き御方の子息らの歌うお前たちの女王に会いなさい。芳香の柱のように、砂漠から来られる御方は誰でしょうか。オーロラのように昇り、月よりも美しく、太陽よりも正義であり、密集する軍隊よりも強い御方は誰でしょうか。砂漠より来られる御方は誰でしょうか」(雅歌3・6‐9、8・5)。神があらゆる被造物以上に御喜びになり、天の全ての上に挙げられた御方とは一体どなたでしょうか。聖三位は次のように聖母に挨拶しておられます。永遠の御父はおっしやいます、「高く昇れ、私の娘、私の鳩よ」。人となられた御言葉は話されます、「私の御母、御身から私は人体をとり、御身の完全な模倣と共に私の仕事を終えました。私の御手より、御身の功徳による報いを今受けて下さい」。聖霊は言われます、「私の最も親愛なる浄配、御身の最も忠実な愛に一致する永遠の喜びの中にお入り下さい。御身の愛を心配せずにお喜び下さい。苦しみの冬は過ぎ、御身は我々の永遠の抱擁にお着きになりました」。聖母は神性の涯しない大海と深みの申に入ったかのようです。

元后の御言葉 私の娘よ、人々が永遠の光栄を無視し、忘れてしまうのは嘆かわしく言い訳できないのです。人々の悪性の忘却をあなたが嘆き悲しむように私は望みます。永遠の光栄や幸福をわざと忘れる人は、誰でもそれを失う明らかな危険にさらされています。人々はこの幸福の記憶を求め、保つために労働も努力もしないだけでなく、人々の創造の目的を忘れさせるようなことに血道を上げていますから、決してこの罪がないとは言えません。疑いもなく、この忘却は生活の誇りとか、目の貪欲や肉欲に自分たちを絡ませることから来るのです。永遠の幸福について考える暇も気遣いも全くないのです。人々は盲目の情熱に駆られ、名誉、物欲や一時的な楽しみを追い求めますが、このようなものはこの世の生命と共に終わりますし、多くの人々はどんなに苦労しても入手できません。これほど悲しいことはありません。比較になるものがないくらいの不幸で、この不幸から救えません。私の御子の御血により償われた多くの霊魂が滅びることについて、何の慰めも得られず、苦しみ、嘆き、悲しみなさい。私は世界中にメッセージを送りたいと思います、「死ぬべき騙された人々よ、何をしていますか。何のために生きていますか。私たちの人生の目的は神に面と向かって会うこと、神の永遠の光栄および神との交わりであることを実感していますか。何を考えていますか。誰があなたの判断を邪魔したり励ましたりしていますか。もし、あなたがこの本当の祝福と幸福を逃すなら、何を求めますか。この世の苦しみは短く、その報いは無限の栄光です。罰は永遠です」。

59・神の母の戴冠 

天国において救世主イエズス・キリストは王、主、最高裁判官であられます。聖人たちはあらゆる人間の推測を越える栄光を頂きますが、近寄り難い王の僕であり、家来です。聖母は、神、人であるキリストに非常に近い一介の被造物にふさわしく、そして人間の言葉を越える程度にキリストの次の下の位置におられます。御子の右隣で女王、貴婦人、全被造物の女主人として永遠に王を助けておられます。聖母の統治領域は御子のそれと同じです。統治の仕方は両者は違います。主は天の宮廷人全員に対し、聖母が主の王権に参与すべき全特権を宣言されました。永遠の御父は諸天使、諸聖人に仰せになりました、「我々の娘聖マリアは、全被造物の中から選ばれた者であり、我々の御旨に叶う第一の者、真の娘の称号と地位から落ちない者である。合法的比類のない貴婦人かつ君主として戴冠することにより、我々は、彼女が我々の統治に関与することを認める」。人となられた御言葉はおっしやいます、「私の真の自然の御母に、私が創造し、救った全人類が所属します。私が王として治める全てを、御母も合法的最高の女王として治めます」。聖霊は宣言します、「彼女が私の愛すべき選ばれた浄配である以上、永遠にわたる女王として冠を受けるに値します」。このように語り終えた後、聖三位は聖母の御頭の上に新しい光輝と価値の冠を載せます。玉座から御声が聞こえてきます、「被造物の中より選ばれた愛すべき者よ、我々の王国は御身のものなり。御身はセラフィム、奉仕の霊たち、天使たちと被造物の全宇宙の貴婦人であり、君主である。被造物を世話し、運営し、被造物が繁栄するように統治してほしい。我らの最高法院で我らは御身に権力、王権と主権を与えよう。他の全ての者たちを越えて恩寵に満たされ、御身は最低の地位に謙った。今や御身に値する最高の威厳を受け、我らの神性への参与として、我らの全能による全被造物の統治を引き受けなさい。御身の玉座から地の中心に至るまで御身は支配する。我らが今、御身に与える力によって、御身は地獄、悪魔たちとその他の住民を支配します。我らの敵の生息地や穴の皇后兼女主人として彼らを恐怖に陥れることができる。御身の御手に我らは天の支配力や影響力、雲の湿土や地上の生物を任せる。御身の御旨のままにそれら全てを動かしなさい。我ら自身の意志は、御身の御旨に従う。御身は戦闘の教会の皇后にして女主人、保護者、弁護者、御母にして師である。御身はカトリック教国の保護者となり、その国民の心から御身に願うこと全てを聞き届けなさい。御身は全ての義人並びに我らの友の友、防衛者とあるじである。彼ら全員を慰め、祝福しよう。この全てを総覧し、我らは御身を我らの富の保管者、我らの財産の会計係、我らの恩寵の分配者に任命する。我らが世に与えたいもの全ては、御身の手を通して与えられる。御身の与えたいものを我らは決して反対しない。天地における恩寵の拡散は御身の御口の命令による。どこにおいても天使と人間は御身に従わなければならない。我々の所有するるもの全ては御身のものである。御身は常に我らに属するように、御身は永遠に我らと共に統治しなさい」。この戴冠式は、諸天使、諸聖人に歓喜を与えました。とりわけ大喜びされたのは聖母の最も幸せな夫、聖ヨゼフ、御両親の聖ヨアキムと聖アンナ、女王の他の親戚、そして女王の護衛であった千位の天使たちでした。聖母の栄えある御体の中、心臓の上に美しい小さな球または聖体顕示台があります。これを見る聖人たちは心から賛嘆しました。秘蹟の中におられる御言葉は聖母の中に住んでおられます。

元后の御言葉 私の娘よ、もし何かが私の至高の幸福を減らすとしたら、それは現在の教会の状況です。人々は私を御母として知りながら、私に呼びかけず、私を怠け者にしています。そのため多くの霊魂が滅びに向かっています。私は全ての人々を救う能力があることを何千回もの奇跡で示しました。私に助けを願った者には十分すぎるほどの助力を与えましたし、主も私のために大変寛大であられました。いと高き御方は神へ私の取り次ぎを願う者全てに主の無限の宝を与え、恩恵を与えることを望んでおられます。これこそ教会を発展させ、カトリックの統治を改良し、信仰を広め、家族や国家の福祉を進展し、霊魂を恩寵と神の交わりにもたらすための確かな道、強力な手段です。