聖母マリアへのまことの信心

「聖母マリアへのまことの信心」(愛心館)を短くまとめたものです

神は、ご托身とあがないの実現のために、マリアをお選びになる

 神は人間を救うためにマリアの協力を望まれる 

御父である神は、この世に御子を与えるために、マリアにすべての恵みをお集めになった。神は、この上なく貴い宝庫であるマリアに、美しいもの、輝かしいもの、貴いものすべて、はては、ご自身の御子までを修められた。同じように、御子である神も、ご自分の御生活とご死去によって得たすべてのもの、無限の功徳と感嘆すべき善徳とを、御母マリアに分け与えた 

御子である神は、私たちの救いのために、マリアにおいて、マリアによって人となられ、私たちに恵みを与えられた。イエスキリストは今も、私たちに恵みをお与えになるのは、マリアを通じて、行われる 

聖霊である神は、マリアの中に、イエス・キリストをお宿らせになり、言いつくし得ない賜を、忠実な花嫁であるマリアに分け与えた。マリアはこの恵みを日々ますます増加させたため、その恵みは計り知れないほどになった。そのため神はご自分の財宝の管理者として、ご自分が所有されるすべてのものの分配者として、マリアを置かれた。それゆえ、マリアは聖霊が望まれる人間に、お望みになる方法で、望まれるだけの賜と恵みとを分配することができる。聖なる乙女の御手を通らないで、人間に下る賜はない。 

マリアは、聖霊と共に、神であって人であるお方、イエス・キリストを生むという、最もすぐれた業を行った。ある霊魂の中にマリアが住んでいるのを見つけると、その花婿である聖霊は、その霊魂に入り、豊かにご自分をお与えになる。この霊魂が、聖霊の花嫁マリアに場所を譲れば譲るほど、聖霊も、ますます豊かにお下りになる。 

イエスが奇跡を始められたのは、マリアによってであった。つまり、イエスは、洗礼者ヨハネがエリザベットの胎内にあるとき、マリアの言葉を通じて、それを聖となさった。マリアが話しかけると、エリザベットの胎内にあったヨハネは聖なるものとされた。そして、マリアを通じて奇跡を始められたイエスは、今も同じように、マリアを通じて、世の終わりまで奇跡を行い続けられる。 

人となられた神は、その30年間、御母に服従された。そして今も完全な子として従順を持ち続けられている。従って神の母の祈りは、天と地のすべての天使と聖人たちの祈りと取り次ぎよりも、神の御前に聞き入れられる。注:従順であるからといって、イエス・キリストに何らかの不完全さ、何らかの卑しさがあるのではない。御子は神であるから、被造物であるマリアとは比較にならないほど高い方である。だから服従と言い、命令とはいっても、この世の母親が、子供たちに命令するのと同じように考えてはならない。それは、次のように解釈しなければならない。つまり、神は聖母に非常に大きな権力をお与えになったので、マリアはまるで神と同じほどの権力を持つように思われる。また、聖母は常に謙遜で、完全に神の思し召しと一致しておられるので、聖母の祈りと願いとは、いつも神に聞き届けられ、まるで命令と同じようであるという意味である。 

神は、マリアを、天地の女王として定め、はかり知れない恵みの管理者、恵みの分配者、不思議を行うもの、人類のつぐない者、人類の代願者、神の敵を敗走させる者、神の偉大と勝利との協力者としてお置きになった。そして、御父である神は、マリアによって、ご自分の子らをつくろうと思し召される。それで、悪魔の子の中ではなく、神の子の中に住めと仰せられた。

十字架上主は御母を私たちにお与えになったなぜなら、人間は、誰にでも、父と母があるように、超自然的な誕生においても、神である御父と、マリアという御母が必要だからである実際、神の本当の子どもたちは、父として神を、母としてマリアを仰いでいる。母としてマリアを持たない者は、父として神を持たない。聖なるマリアを憎み、あるいは軽蔑し、あるいは冷淡にあしらう悪人どもは、自分では、神は私たちの味方であるとうぬぼれていても、真実には、父として神を持っていない。母としてマリアを持っていないからである。もし、彼らが、母としてマリアを持っていたならば、よい子供たちが自分に命を与えてくれた母を愛し敬うのと同様に、きっと愛し、尊ぶはずである。 

人類のかしらであるイエス・キリストが御母から生まれたとすれば、その肢体であるよい人々も、当然マリアから生まれ出ないといけない。肢体のない頭だけのものが生まれることはないの同じように、頭のない肢体が生まれることはない。恵みの世界においても、頭と肢体とは、同じ母から生まれる。救われるキリストの肢体である人間が、マリアから生まれなければ、その人は、救われる人間ではなく、神秘体の肢体でもない。 

救われるべき人々は、神の子と一致するために、この世では聖なる御母の体内に隠れ、守られ、養われ、育てられ、そして死んで後、―これが厳密な意味での誕生である―マリアによって栄光に生み出されるのであると、聖アウグスティヌスは言っている。