聖コルベ神父のことば

聖コルベ神父の言葉1

無原罪、それは被造物として最高の完全さであり、神の母であり、被造物のうちで最も神に似たものであります。無原罪の聖母だけがその誕生の瞬間からどんな小さい罪さえも知りません。だから私たちが見習うべきお方、私たちがそばに近づくべきお方は無原罪の聖母です。
もし無原罪の聖母に対して、その子供が遠慮したり、言いたいことを言わないようであれば、自分の子供のこうした態度に対して聖母は母親として言語に絶した不愉快と不当な待遇を感じられるでしょう、というのは、子供のそのような態度には無原罪の聖母にもちょっとした汚れの影がないわけでないという疑いが含まれていることになるからです。
聖母も、神でありながら人でもあられるイエスの全体の母であります。ですから聖母は神の母なのであります。聖母が神から頂いた最初のお恵みは「無原罪の御宿りです」つまり、聖母はその存在の初めから全ての汚れを免除され、原罪さえも免れているということです。
無原罪の聖母は私たちの母であり、そして神の母でもあります。それでは聖母はどのような立場におられるのでしょうか。また聖母のものであり、聖母の財産である私たちはどのような立場にいるのでしょうか。聖母は私たちの霊魂を見抜き、私たちの能力を全面的に支配されます。私たちは実際に聖母のものであります。ですから、私たちはいつどこにいても聖母と共にいるようにしましょう。ところで、私たちは自分自身についてどのように考えたらいいでしょうか。聖母の中に私たちの姿を隠してしまいましょう。私たちは聖母の中に入り、聖母の一部分となり、聖母だけを残しましょう。
ルルドにおいて聖母はご自分の名をベルナデッタに告げられた時、「私は罪なしに宿った」とは言われないで、「私は無原罪の御宿りです」と述べておられます。「白色」と「白さ」には違いがあります。
神に立ち返る被造物の愛の極みは無原罪の聖母であります。聖母は罪の汚れのない完全に美しい存在であり、全く神のものであります。聖母の意志は一瞬たりとも神の意志から離れたことはありません。
無原罪の聖母は神のあわれみの化身(象徴)です。ですから聖母に敵意を示すものはこのあわれみを自分から離れさせ、その結果、自分自身の上に神の正義(処罰)を招くことになります。
もし私たちが自分の霊魂の内部を調べてみるならば、私たちは自分の霊魂の中に、とてもたくさんの聖母の働きがあること、また私たちの誕生の時から現在に至るまで聖母の働きがとてもたくさんあったこと、そして将来のためには聖母の恩典の保証がとてもたくさんあることがわかるでしょう。こういうことは大部分はそれぞれの個々の霊魂の秘密であります。私たちが自分の人生の毎瞬間に、毎時間に、そして毎日受けているすべての恵みみは、私たちを愛しておられる聖母の母としての心から流れでている恵みであることを言及するだけで充分であります
聖母の心でイエスを愛し、聖母を通してイエスに似た者になりましょう。

 

聖コルベ神父の言葉2

聖母マリアなしにイエスに近寄ることは困難なことであるばかりでなく、信じられないことであります。それはどうしてでしょうか、聖母マリアが私たちのためにイエスを生み、育てられたという事実を除外したとしても、イエスに近寄ることは、それ自体が疑いもなく一種の恵みであります。しかし、イエスご自身がそうであられたように、全ての恵みは聖母マリアを通して私たちに下ってきます。
汚れなき聖母を通して私を強めたもう御者において、私のなしえないことは一つもありません。なぜ、汚れなき聖母を通してなのでしょうか?無限の全善であられる神は、私たちの過ちのために私たちを罰することは望まれないので、聖母を取りなし手として立ててくださいました。教父たちは、神がご自分の王国を二つの部分に分けてくださったと言っています。ご自分に正義を残して、御あわれみを聖母マリアにお与えになりました。私たちは汚れなき聖母を通して、という言葉をつけ加えることに、実は権利を持っております。なぜなら改心と聖化に関するどんなことでも神の恩恵のみ業です。そしてその恩恵の仲介者は聖母であられます。イエスは神なる御父に行く唯一の仲介者であられますように、聖母マリアはイエスの唯一の仲介者となっておられます。このように、聖母を通して改心と聖化は得られます。
聖母に近づけば近づくほど私たちは聖なる者となります。神の母である聖母マリアはすべての恵みの仲介者であり、神の働き手であります。悪魔は私たちが聖母に近づけば近づくほど彼女の御手から多くの恵みをいただくことを知っています。それで悪魔は、どんな犠牲を払ってでも私たちを聖母から引き離そうと躍起になっています。それゆえ何かにかこつけて誘惑をしかけてきます。悪魔は、神が聖母を通して恵みを与えるという方法を設けられたことを知っていて、また悪魔は霊魂がもしこの方法を用いなければそんなに多くの恵みを受けないということを知っています。ですから私たちは、嫌気を感じても、あるいは暗やみの中にいても、あるいは光の中にいても、常に聖母を経由して前進しましょう。大切なことは、私たちの生活がいつも、聖母によって、聖母と共に、聖母のうちにあるようにということです。
キリスト教的完徳は、私たちの意志を神のみ旨と一致させることにあります。聖母のみ旨は神のみ旨と完全に一致しています。それゆえに、私たちは神のみ旨を行うことについて話す時に、全く遠慮することなく、私たちは聖母のみ旨を行っていると言うことができます。私たちはこのように言うことによって神の栄誉を減じているのではなく、むしろそれを増加させているのです。そして、そのうえに、私たちは聖母の完全性を表明しているのです。つまり、聖母はご自分のみ旨を神のみ旨と全く一致させておられる程に、最も完全な神の被造物であることを表明しているのです。ですから、親愛な子供たちよ、「それは聖母の思し召しです」というのを恐れないでください。なぜなら、それは神の思し召しと同じことですから。
「それは聖母の思し召しです」という言葉を使うことによって、私たちは神のみ旨を認めているばかりではなく、聖母を尊敬しているのです。というのは、私たちは聖母のみ旨が神のみ旨と完全に一致していることを認めているからです。

聖コルベ神父の言葉3

無原罪の聖母、これが私たちの理想です。私たちが聖母に近づき、聖母に似た者になり、全く無制限に聖母の所有物になること、また聖母が私たちの心と全存在を支配し、私たちにおいて、私たちを通して生き、かつ働き、私たちの心を持って神を愛されること、これが私たちの理想です。周囲の人々のため、汚れなき聖母の輝きとなり、聖母のため人々の魂を得、汚れなき聖母によって隣人の心も開かれ、人種、国、言語の区別なく、現在存在し、また世の終わりまで存在するであろう世のすべての人の心において、汚れなき聖母が女王たりたもうようにつとめることは、私たちの理想であります。聖母の生命が私たちにおいて、毎日、毎時間、毎瞬間、そして限りなく深まっていくこと、これが私たちの理想です。
決して自己に信頼してはなりません。限りなく聖母を信頼しましょう。いかなる困難や誘惑に出会っても聖母に寄り頼むならば、私たちはきっと聖母が望んでおられることを達成することができるでしょう。
聖母のために全世界を征服し、聖母の御手を通して、現在生きている人、またこれから存在するであろうすべての人たちの霊魂を集団的にも個別的にも勝ち取ること、これが私たちの理想です。「聖母の御手を通して」と言うとき、私たちはうわべだけの意味を考えないで、深い内的な意味を考えなければなりません。私たちのすることが何であろうとも、私たちはそれを聖母のものとして聖母に捧げます。私たちは自分自身と自分の所有物を聖母の所有物として聖母に捧げます。すると今度は聖母がそれをご自分のものとしてイエスに捧げられます。こういうことはとても意味深い事柄ですから、私たちは謙遜な祈りによってこのことを悟ることができます。
私たちは聖母に全てを奉献しました。それゆえ私のものは聖母の所有物であり、聖母のすべての事柄と、恩徳、御手柄も、私たちのものであります。全ては私たちが、どんなに望んでいるかということによるのです。途方もない祈りとか苦行が必要なわけではありません。私たちはただ聖母の御導きに任せればよいのです。
無原罪の聖母に対する奉献の本質は、聖母について絶え間ない記憶によるものではなく、意志にのみ基づくものであります。このようにして霊魂が自分の努めをよく果たすことに従事している時、その奉献に考えなくても、聖母の所有物をやめないのです。完全にその考え、言葉、行いも聖母のものであることをやめないのです。

 

聖コルベ神父の言葉4

私たちは、汚れなき聖母に無制限に私たちを捧げました。ですから、私たちの考え、行い、言葉に対して、もはやどのような権利も持っていません。聖母ご自身の望みのままに私たちを支配させましょう。聖母にすすんで私たちの意志を無視していただきましょう。
誰でも、自分の心を汚れなき聖母が無制限に、最大限に捕らえてしまわれることを望まなければなりません。汚れなき聖母への奉献は当然限度がなく、取り消され得ないもの、無制限なものでなければなりません。それは一つ二つのことにおいてばかりではなく、すべてにおいてそうでなければならないのです。私たちの側でこの無制限の奉献を深めなければなりません。なぜなら、私たち自身の自我の領域には誰も立ち入ることができないからです。汚れなき聖母の御手に自分自身を完全に委ねれば、それだけ完全に御手の道具となるでしょう。
汚れなき聖母の愛は、被造物が神に対して持つことが出来るもっとも完全な愛です。ですから、聖母のみ心に合わせて、イエスのみ心をもっと愛するように努力しましょう。これを、私たちを駆り立てる最も大きな刺激にしましょう。
汚れなき聖母の考え、行い、苦しみは全て、神に対する愛、イエスに対する愛の最も完全な行為でした。
できる限りたくさんの霊魂を聖母のために勝ち取ることが、私たちの命であり、おのおのの心臓の鼓動です。無条件に、一貫して、ますます自分を聖母に委ね、この委託を全世界の全ての人々に植え付けるように。

 

聖コルベ神父の言葉5

私たちの目的は、神の御意志と聖母の御意志とを果たすことです。他の目的は時間の無駄です。
聖母の騎士は自分のことだけに心を奪われてはいません。また、家族、親類、友人、近い人たちのためだけを考えません。むしろ全世界を、一人ひとりを、そして全ての霊魂のことを考えます。なぜなら全ての人は例外なしにイエスの御血であがなわれており、皆が私たちの兄弟だからです。騎士は皆のために、本当の幸福を望んでおり、信仰の光で照らしたいのです。
あるはっきりした限界内で聖母のものになるのは充分ではありません。今あり、また将来ある、そしてまたあったかもしれない他の全ての霊魂を無制限に、聖母のもとに引き付けるために、私たちはあらゆる点において聖母を輝かせたいと望まなければなりません。要するに騎士といえども、私たちはもっとも聖母のものとなり、そして特にM・Iにおいて、全世界の、全ての霊魂の征服のために、血の最後の一滴まで、聖母のために、全く自分を犠牲にする用意がなければなりません。できるだけ早く、できるだけ早く、できるだけ早く。
聖母を知った者は彼女を愛し、彼女に自分の全てを捧げ、自分のためのものを何もとっておかず、そして何も制限せず、あらゆる点において、ますます彼女のものになろうと努力します。聖母の御国の霊魂に心を配りながら、他のものが聖母に自分たちを捧げることを切望します。そして自分としてはできる限りの目標に向かって進み、どんな手段も辞しません。たとえそれが大変な犠牲を要するとしても。血をもってこの理想に証印を押すことになるとしても。このような人こそ完全な聖母の騎士です。彼は聖母のために、あらゆる霊魂を征服するために、自分の生命をまったく犠牲として捧げることを最高の幸せ、夢の極致と考えるのです。これは彼がどこにいても、どの国民、どの民族であっても、またいつ生きるとしても、今であれ将来であれ、全ての人に言えることです。