■目次
マニュアル案②
2020/10/8 作成
改善すべきこと
自分の霊の器は、今まであまりにも、汚されていて、なかなか愛着から抜けだせない状態である。
「ぜんぶ、あなたのもの」と祈るとき、自分の中にある愛着を未練がましく見ていたり、全力で捨てようという固い意志がない。
自分は、祈っているときも、愛着を持ちながら祈っている。
「全部捨てる、全部ささげる」と強い気持ちを起こしながら、「ぜんぶ、あなたのもの」と祈るべきである。
せめて、祈るときは、完全に、愛着を捨て去る。この世を軽蔑しながら、「ぜんぶ、あなたのもの」と祈る。そしてこれを強めてくださいと祈る。
「ぜんぶ、あなたのものでなければ、死んだ方がまし」という強い気持ちで祈るなら、たとえ、そのときだけであっても、次第に、強い気持ちで、常に、ささげることができるようになる。
なぜなら、自分の力よりも、御母の取り次ぎのほうが、はるかに強いからである。
御母は、この強い気持ちを、イエズスに取り次ぐので、次第に、その強い気持ちが、常に、そうなるようになる。やはり、御母には、強い気持ちをささげるべきである。
強い気持ちで、常に祈れれば、祈れるほど、そうなるのは、早い速度で、捧げることができるようになるだろう。
私は、ぜんぶ、あなたのもの
聖グリニョンの次の祈りを参考にする。
最愛のイエズスよ、あなたの最も聖なるおん母を、あなたの威光のみ前に、私の弁護者とし、私のこの上もない貧しさを補うものとしてくださったことを心から感謝いたします。私をマリアの奴隷(しもべ)にするために、マリアに対する信心の恵みを感謝いたします。
ああ主よ、これほどみじめな私に、これほどよい母がなかったら、必ず亡びてしまったでしょう。そうです、マリアは、すべてのことのために、あなたのみ前で私に必要です。
私がこれほどあなたを侮辱し、毎日侮辱し続けているから、あなたの正しいおん憤りを和らげるために、マリアは必要です。
あなたの正義による永遠の罰を避けるために、マリアは必要です。あなたをながめて、あなたと話し合い、あなたに祈りを捧げて、あなたに近づいて、あなたの気にいるものとなるために、マリアは必要です。
一言で言えば、いつもみ旨を果たし、すべてにおいて、あなたの最大の光栄を探すために、マリアは必要です。
ああ、あなたが私に示してくださったこのおん憐れみを、私が全世界に知らせることができましたら!マリアのおん助けがなかったら、私はすでに亡びたに違いないことを、すべての人に知らせることができましたら!
この大きな恵みのためにふさわしい感謝を示すことができましたら!
マリアは私のうちにおいでになります。おお、何という宝!何という大きな慰め!
これから私は、全部マリアのものにならないなら、何と大きな忘恩でしょう!
私の最愛の救い主よ、そんなことになるより、むしろ私は死んだ方がましです。
全部マリアのものにならないよりも、私は死を選びます。
十字架のもとに福音史家聖ヨハネのように、私はマリアを、幾度となく、私の宝としました。私は、幾度となくわが身をマリアに捧げたいのです。
しかし、もし、あなたが望む前に、私がこの奉献をしなかったら、ああ、私のイエズスよ、この奉献を、お望みのままにします。
もし、私の魂と体の中に、この尊い姫君にふさわしくないところがあったら、これを私から取り去って、遠く投げ捨ててください。なぜなら、マリアのものでなければ、あなたにも、ふさわしくないからです。
おお、聖霊よ、すべての恵みを私にお与えください。まことの生命の木である愛すべきマリアを、私の心に植え、養い、水を注いで、世話してください。
この木が成長し、花咲き、豊かに実りますように。おお、聖霊よ、マリアに対する深い信心と、熱烈な愛を注いでください。
私が、マリアの母としてのふところに抱きしめられて、そのおんあわれみに常によりすがりますように。それはあなたが、マリアを通じて私の内にイエズス・キリストを育て、”みちみちたキリストの背丈にまでいたる完全な人間をつくるためです”(エフェソ4・13)。アーメン。
聖母マリアへのまことの信心、聖グリニョンの祈り
この祈りを参考にする。イエズスにささげられた祈りを、マリアに対して祈る。
「ぜんぶあなたのものにならないよりも、死を選ぶ」。
これは、全部、あなたのものでなければ、自殺します、という意味ではない。
それほど、あなたのものになるようにすべてをかけます、強い気持ちを持ちます、という意味である。
ぜんぶ、あなたのものでないと気づいたとき、すべてを尽くしてあやまり、またすべてを尽くして、あなたのものになることに努める。
「祈る時は
- 全集中
- 強い気持ち
- 全身全霊
で祈る」
もし、あなた(マリア)のものでないときがあったとしても、そのときは、
- すべてを尽くして改心し、あやまり
- 再び、すぎに起き上がり、再び、すべてを尽くして、再びささげることを続ける。
ここにあげられた祈りを短い言葉で祈る、特に
- 私は、今まで、どんなひどいことをしてきたか、どんなに苦しみをあなたに与えたか
- あなたがいなければ、私は、滅んでいたに違いない
- あなたは、私のうちにおられます。なんという宝、なんというなぐさめ
- これから、ぜんぶ、あなたのものにならなければ、おそろしいほどの忘恩である
- これから、すべて、あなたのものにならなければ、死んだほうがまし。あなたのものにならなければ死を選ぶ(強い気持ちで)
- すべてマリアのものとなることができるように、助けてくださいと祈る。
「ぜんぶ、あなたのもの」この奉献の祈りを、マリアに、どれほど、強い気持ちで祈れるかに、すべてがかかっている。
「御母よ、私は、あなたと共に、あなたのように(十字架上の)イエズスを愛します。霊魂を救ってください」
この祈りも、どれだけ、愛の気持ちを強く起こしながら祈れるかにかかる。
他に、愛を、少しも残さない。
「無益な考え、無益な関心、無益な言葉」。
「主イエズスよ、私は、マリアと共に、マリアのように、(十字架上の)あなたを、愛します。霊魂を救ってください。」
この祈りも、どれだけ強い気持ちで、愛の心を起こしながら祈れるかにかかる。
せめて祈るときぐらいは、他に愛着を全く残さない心で祈るべきである。
そして絶えず祈ることで、その愛着も消えるであろう。
マニュアル案①
2020年9月18日作成
「コンソラータの最も小さい愛の道」を行った上での自分用のマニュアル。
「イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください」で、「あなたを愛する」ことが、自分があまりにも悪いため、十分にできないため、愛することを、常に御母と共に行う。
順番は、御母への奉献によって、御母との一致を願う。次に、御母と共に、イエズスを愛し、煉獄の霊魂の救いと、すべての人の救いを祈る。
この方法は、コンソラータの方法に準じて行う。つまり、短い祈りを、愛を起こしながら祈り、常に神を愛すること、救霊を望むことを目指す。
それと同時に、神への愛を妨げる「無益な思い、無益な話、無益な興味」を退ける。
常に愛することを目指す。その他の徳や、自分の欠点などは、主への愛が大きくなれば改善される。
「愛こそすべて」なのだから、イエズスに愛をささげるならば、すべてをささげることになる。愛は使徒職の最上位でもあるので、愛すれば、愛するほど、多くの霊魂を救うことができる。
主を愛することを、必ず、御母と共に、御母の模範に従いながら行い、主に愛を捧げるときには、主に清い愛を捧げるため、御母を通して捧げる。
「私は、すべて、あなたのものです。」
最初にする祈りである。自分を、道具として、御母に奉献し、御母との一致を願う。
「無制限に、すべてにおいて、自分に何一つ残すことがなく、完全に」捧げることを願う。
次に、御母が特別に自分に願われていることがあったら、そのことを願う(御母のみ旨を祈る)。そして御母の御意志に、自分の意志を一致させる。
あらゆる失敗は、御母との一致がおろそかなことが原因である。したがって、ここでの奉献は成功するために、極めて大事なことである。
すべては、無原罪の聖母への、無制限な奉献にかかっている。
「御母マリア、私は、あなたと共に、あなたのように、十字架上のイエズスを愛します。霊魂を救ってください。」
イエズスを愛することを、御母マリアと共に、御母マリアの模範に従って愛する。このことを御母に祈る。
御母と共に、カルワリオ山の主の前に立ち、御母の模範、主の模範を、考えながら祈る。
御母と共に、この国のすべての人(約1億3000万)の代わりにイエズスを愛する。その愛を御母を通して、主に捧げる。
この国のすべての人の救いを願い、また大切な隣人であるすべての煉獄の霊魂の救いを、御母に願う。
「主イエズス、私は、御母と共に、御母のように、十字架上のあなたを愛します。霊魂を救ってください。」
御母と共に、御母の模範に従いながら、主イエズスに祈る。「御母と、十字架上のイエズスは、一つの愛、一つの苦しみ、一つの十字架であった。」
御母に祈っていた同じことを、主イエズスに願う。
このとき、御母の心に合わせながら、また御母の目に、自分の目を合わせ、主の御苦しみを見ながら、また主の愛を御母と見ながら、主に祈る。その他、思いつく御母の模範に従いながら祈る。
「無益な考え、関心、言葉」を退けるために、御母に祈る
御母の望みを妨げるもの、イエズス、マリアを愛することを妨げになる「無益な考え、関心、言葉」を退けるために、御母に祈る。
御母に、退けるための必要な恩恵を願う。また実際に退けられるように助けを求める。御母と共に退ける。
御母の模範に従い、御母だったらどう退けるかを考えながら退ける。
祈っている時、祈りを妨げた興味、考えなどを考察し、それを退ける恩恵を御母に祈る。